ボルネオ(6)

9月29日(月)

シムと共にホテルを出た。海岸近くのレストランに秦と黄が待っており、ヌードルスープの朝食をとって会場に向かった。会場入口のテナントは朝から盛況である。ランを始めとする植物だけでなく、ボルネオの民芸品も多種多様に販売されていた。民芸品よりも工芸品に近い品質の商品もあった。私はネペンシスの苗と籐で作られた小物入れを土産に買った。小物入れは十分な強度があるだけでなく実に精巧に作られている。庶民の市場で売られている商品とは出来が異なるようだ。国際展示会にはそれなりの商品が出品されている。陶器も気に入ったデザインであったが持ち帰るには大きすぎた。

セールスブースを物色する黄

私はシムの入館証で展示会場を見て回った。金曜日の内覧会で見落としたコーナーを丁寧に見た。サボテンは数品種を組み合わせた盆栽の妙技が如実に表れている。写真は蘭の展示会と言うより写真コンクールである。蘭の品種でなく光の妙を競う芸術作品だ。フラワーアレンジメントは地元の材料をふんだんに使った力感のある作品であった。

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サボテンの寄せ植え

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写真部門のNo1

会場を一回りして帰ってくるとシムがテナントから声を掛けてきた。秦が会場内のレストハウスいるからと誘った。黄も何やら土産を持ってテーブルに肘をついていた。僕らはコーラと焼きそばに似た軽食で腹を満たした。

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シムの販売ブース

私は秦に言った。

「作品は十分に見たので市内の博物館に行きたいのだがホテルの近くに戻る人はいないかい」と尋ねた。シムが「OK」と言ってすぐに手配をしてくれた。

私がシムの友人と共に立ち上がると秦が言った。

「夜は先輩の部屋でパーティです。夕食を持っていきます。6時に行きます」

「OK.後で会おう」

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サバ州立博物館前のモニュメント

サバ州立博物館はしっかりした建物である。夏休み期間あろうか1階の大ホールでは子供向けのお化け屋敷に類するイベントが開催されていた。子供の甲高い声が館内に響いて賑やかである。私が吹き抜けとなった2階の展示会場から覗いてみると森林風の装飾がなされており、日本のお化け屋敷と趣が異なっていた。

博物館の展示物はボルネオの歴史が写真パネルで分かりやすく紹介されていた。この地区は華僑の影響を古くから受けていたようだ。国の統治は英国や日本の支配下にあったようだが、住民の生活は華僑が実質的に支配していたようである。シムの話によると今でも中華系の私立学校の教育レベルが高いという。秦の口癖の原住民は公立学校に通っているとのことだ。それにしても秦はどこで「原住民」いう日本語を覚えたのだろうか。私にとって響きの良い言葉では無いのだが、さりとてたしなめる程の悪意をもって使っているわけでもない。

首狩りシャツ

シムが土産にくれたTシャツ、前後にこのプリントがあり、未だに着用する勇気はない。

首狩り族の風習についての記述によると、テノムでは二次大戦の前までその風習が残っていたらしい。そこはボルネオ島の内陸部で外部との接触が乏しい地域である。現在ではテノムコーヒーが有名である。博物館には民具や武具、動物の標本などが展示されていて興味深い。博物館のショップを尋ねるのも楽しみの一つだ。そこには上質の土産があるのだ。クアラルンプルでは、硬質の木で制作された鳥の彫刻を手に入れた。オーストラリア・ケアンズの植物園では針葉樹の硬い実で作られた宝石入れを手に入れた。ここでは既に貴重品となりつつあったスズ製のペーパーナイフを3本買った。マレーシアは錫の産地であったが次第に産出量が少なくなっているらしい。スズ製品ではビールジョッキが一番だ。スズは熱伝導度が早く、ビールの冷たさを存分に楽しめる。他にはラフレシアの写真の絵葉書を1枚買って、会社で留守を預かっている上間女史あてにホテルで投函した。

土産ペーパーナイフと小物入れ。ペーパーナイフは錫の純度が高く自重で湾曲する。籐製の小物入れは強度も機能も抜群である。

丘の上にある博物館から歩いて公道に出た。タクシーを難なく捕まえてホテルに戻った。私はホテルのロビーにある旅行案内所をすぐに尋ねた。

受付の女性にテノムに行きたいのだがタクシーを利用できるかと尋ねた。ホテルの外にはいつでもタクシーが止まっており融通が利くだろうと思ったのだ。彼女の答えは「ノー」であった。その代り車とドライバーを手配することが出来る。私が午後4時の便で台北に帰るので午後2時半までの戻れるかと尋ねると。午前8時に出発して2時間のドライブで公園に着くので、2時間の見学そして再び2時間のドライブで戻ってくるスケジュールだと笑って言った。そしてテノムの農業公園を見るには2時間では不十分であるとも言った。

私は書類にサインしてクレジットカードで清算した。車と運転手の代金を含んでいることを確認して礼を言った。

「明日の朝7時30分までにロビーで待ってください。ハンというドライバーが迎えに来ます」

6時になると秦がいつものメンバーで騒々しくやってきた。皆口々に素晴らしい部屋だと言った。しかしすぐにソファーを片付け車座になり、持ち込んだ料理を開いた。部屋にあるすべてのグラスとコーヒーカップを集めて酒を注いだ。私を含めて部屋のグレードに興味を持つ者はいないのである。

僕らは旅の最後の夜に何度もグラスを空けた。そして相変わらずバカな話で盛り上がった。ジュディのTバックの可愛い尻に蛾が着いて大騒ぎになったことや原住民の女の見分け方は、両乳首の間隔が広いほうが原住民だという秦の持論に「それはお前の彼女だろう」とルイスが小指を立てて言った。

ルイスが私に尋ねた。

「初めてのボルネオはどうだ」

「ラフレシアを見たかったが秦が谷間に降りるのが難儀だと言って行けなかった」

「秦は怠け者だからな」

「そう言うなよ、先輩の会社のUさんは帰りの坂道で心臓が止まると泣いていたぜ」と身振りで笑いを誘った。

「秦と山に入るから駄目だよ。この次は俺がネペンシスを踏みながら歩く場所を紹介するよ。ウサギが溺れぐらい大きな袋のネペンシスもあるぜ」

「ところで、明日はひとっ走りテノムの農業公園まで行ってくるよ。車とドライバーを手配した。午後2時半までにホテルに戻るので出発の時間に間に合うだろう」と私が言った。するとルイスの顔色が変わった。

「オー・ノー、それならジョーの車で行きなよ」

「でも、料金を既に払ったぜ。皆忙しい毎日だから」

「解った、これを出発前にドライバーに渡したくれ。俺に電話させるのだ」ルイスがテーブルの上からメモ用紙をちぎって自分の携帯電話の番号を書いて渡した。

「オーケー、解った」

シムが何か言いたそうであったが何も言わずに話題を変えた。私は少し気になったがそれ以上は言葉を繋がなかった。

少しだけ座が白けかけたが再びバカな話で盛り上がった。シムの生まれて来る子供が女か男か、本当にシムの子か。ジョーは毎晩奥さんに苛められて過ぎて腰が悪くなった。本当は腰が治っているのにワイフが怖くて痛いふりをしている。マザコンの劉はお袋さんが心配するので2泊で台北に戻った等、言いたい放題で酒を飲みつくして帰って行った。

9月30日(火)

朝のシャワーを浴びてフロントでチェックアウトを済ますせた。ロビーの案内所の近くに外国人の旅行者が数名ほど人待ち顔で立っていた。皆トレッキングの装備である。キナバル山に行くのだろう。午前7時30分に車が来た。案内所の女性が男を紹介した。ハンと名乗った。小柄の若い男だ。案内嬢の「良い旅を」の声を背にロビーを出た。

シムのアウディより小さな車だ。それでも男二人を載せて走るには十分な馬力が出るだろう。私はルイスのメモを渡して電話を掛けさせた。ハンはニコニコして何かを話していた。僕らは直ぐにホテルを出て3号線に乗った。最初の日にシムが案内した道路を登って尾根の裏側に降りた。クロッカーレンジ保護区の東の端の峠を越えて西の端のテノムに向かった。キナバル山系の保護区とは異なる地域である。標高は低いが面積は広い保護区だ。保護区の南側の盆地を車は走り続けた。3号線の途中にどこまでも続く直線道路があり予定の時間でテノムには行き着くのかと不安になった。民家が続く地域に入った時に雑貨店の前でハンに車を停めさせた。私は朝食代わりの菓子パンとペットボトルの飲料水を買って車に戻った。

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3号線の直線道路

2時間もせずにテノムの農業公園の案内板が見えた。パンフレットにはテノムまで160kmとあったが、それ程の距離は無いようである。案内板に従って左折した。しばらくして赤く濁った川を横切った。この川はブルネイ湾に流れているらしい。道路脇の農場にはカカオの果樹園が広がっていた。近くにコーヒー園を見ることは無かった。

公園の駐車場でハンに12時までに戻るからと告げて公園内に入った。チケット売り場で数名の西洋人を見かけたが公園内で出会うことはなかった。この公園はとても広いのであろう。

公園のエンテランスは見事な遠近法で演出されている。模様煉瓦の歩道の両脇がシンメトリー植栽されている。背の低い斑入りの植物はアダン(タコノキ科)の一種だ。その外側を斑入りのカンナが列植されている。ヒメショウジョウヤシが5m間隔で続き、その後ろに間を埋めるようないゴールドクレストに似たコニファーが等間隔で続いていた。この先に王宮があるような導入部である。

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テノムの農業公園のエンテランス。

公園内は樹種別、有用植物、庭園、野生ランの収集保護施設物、研究施設に区分されているようだ。公園内で働く人々の住居もあり、洗濯物を干している女性の姿を見かけた。

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花は良い香りがしてレイなどに使われる。沖縄県の屋外でも栽培できるが、これだけ多くのの花はつかない

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キャノンボールの花

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花を咲かせたことはあるが、着果は難しい

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有用植物エリアのマンゴスチン

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ヤシのコレクション

菓子パンを食べながら園内を早足で歩き写真を撮りまくった。植物好きにはたまらないエリアだ。しかし、よく歩くと腹が空くものだ。果樹園の中でマンゴスチンを見かけるもシーズンオフだ。ザボンに似た柑橘を見たが手が届かない。ランブータンを見かけてラッキーと思った。それでも立ち止まってあたりに人影が無いことを確認してから赤く色づいた実をもぎ取った。この中にはレイシに似た甘い果肉があるはずだ。

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ランブータンの樹形

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オオアリのついた果実

私は指の付け根にひどい痛みを感じてランブータンの果実を離した。よく見ると手足の長い大きな蟻が噛みついているのだ。老眼の始まった視力では蟻がいることに気付かなかったのである。食べ物を得る先着順位を破るとペナルティがあるのは当然だろうとあきらめて園内の散策を続けた。

公園内の植物で驚いたことがあった。樹木に着生したコチョウランの改良種が開花しているのだ。低温反応で花芽を誘導する植物が赤道直下の植物群と同じ条件下で開花しているのだ。今日は9月30日である。このステムは8月頃から咲いているのだろう。思うに、この地区は昼夜の気温差が大きく、コチョウランの花芽分化を促す要因となっているのだろう。植物の多様性には驚くことばかりだ。

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開花中のコチョウラン。

ブーゲンビリアの庭園、竹をうまく使った中国庭園も飽きない修景である。どのエリアも知恵と労力が十分に投入された見事な管理である。1級造園施工管理技士の資格を持つ私の能力ごときでは真似のできないレベルだ。植物好きならサバ州に来てテノムの農業公園を見逃してはいけない。

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ブーゲンビリアの庭園

竹庭

竹と奇岩を配した中国式庭園

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東屋とネペンテスを模したくずかご

12時に公園を発ってコタキナバルに向かった。2時半には余裕があったので、先日シムと立ち寄ったドライブインで遅い昼食をとった。フライドチキンとチャーハンの定食を二つ注文してハンと食べた。ハンは近い将来日本に留学したいと話した。年齢は20歳で私の印象よりずいぶん若い。只、言われてみると20歳に見える。

ハンはホテルではなくシムの家に車を停めた。そしてトランクから私の荷物を降ろしてくれた。シムが笑いながらハンと握手をして何やら話した。知り合いらしい。私はポケットから200RMを出し「ありがとう受け取ってくれ。助かった。良いドライブだった」と言って握手を求めた。ハンは満面の笑みで手を握り返してきた。

秦が戻ってくるまでシムの家で待った。何やら注文していた土産を取りに行ったらしい。テーブルに置かれた新聞の一面に写真入りで事件のことが載っていた。不法入国のフィリピンギャングと警察が銃撃戦になってギャングの一人が射殺された。警察は逃げたギャングの消息を調べているらしい。昨夜のルイスの心配はこの事件であったようだ。

秦がアイスクリームの表示のある発泡スチロールの箱を2個持ってルイスの車で戻ってきた。僕らは急いで空港に向かった。黄がウオンと共に待っていた。シムとルイスとウオンにお礼を言って別れ、僕らは荷物を預けイミグレーションを通過した。

「先輩アイスクリームが重たいので1箱お願いします」と言った。

「OK.サバのアイスクリームは特別なのか」

「イエス」と真顔で答えた。

夕暮れの闇が迫る中、僕らは中世国際空港に到着した。段の運転する車で空港に近い秦の農場に向かった。秦はアイスクリームの箱を開けて中からビニールの袋を取り出した。アイスクリームの代わりに熱帯魚が1匹ずつ入っていた。

秦は急いでバケツに移して写真を撮った。現在の状態を記録するのだそうだ。

「マジックでアイスクリームが熱帯魚に変身」と私が笑うと秦が言った。

「これは持ち出し禁止の魚、1匹3万NT$で買った。もし空港で見つかると先輩もこれね」と両手を突き出して手錠をかけられた真似をして笑った。大きな水槽の中の熱帯魚を指差して「これは40万円」と自慢げに言った。

秦の農園の近くの食堂で夕食をとった。そして黄を桃園の高速バス乗り場に送り、台南行きのバスに乗り込むのを確認してから台北の私の宿泊先であるゴールデンチャイナホテルに送ってくれた。ロビーで陳先生が待っていた。

「先輩、明日の朝11時に迎えに来ます」と言って帰って行った。

私はホテルのフロントでチェックイン手続きをした。1週間も英語だけで話しているとフロントの女性が日本語で話し、私が英語で答えるという奇妙な会話となってしまい、それに気づいて思わず苦笑した。明日の朝、ホテルで先生と朝食をとる約束をして部屋に向かった。

10月1日(水)

ゴールデンチャイナホテルの朝食レストランは様々な国の言葉が飛び交っている。先生と朝食をとってからチェックアウトを済ませ、荷物をフロントに預けて市内の観光に出た。土・日であれば建国花市場で植物観察を楽しめるのであるが、この日はタクシーで中世記念堂へ向かった。台湾の初代大統領蒋介石を記念して造られた施設だ。庭園と蒋介石の遺品を収めた施設、記念広場で構成されている。中国式庭園を回り、記念館の中で蒋介石の遺品を見た。権力者を象徴する遺品が展示されていた。愛用のキャデラック車が当時のナンバープレートのままでレッドカーペットの上に鎮座している。古い車種であるがよく磨きこまれている。広場では建国記念式典のリハーサルが行われていた。部外者の見学を規制することもなく自由な空気が流れていた。私の好きな台湾の国民性がそこにあった。

中世公園の私

陳先生と別れて秦の運転する車で桃園に向かった。農場の犬に餌をやるために立ち寄った。昨日の熱帯魚は大きな水槽の中で悠々と泳いでいた。私は観賞魚の趣味は無いのでその価値は解らないが、秦の話では一年後に50万円の価値が付くと言う。熱帯魚に興味は無いが、彼の広い温室は空調設備付きで様々な蘭の原種が取集されていて興味深い。P.giganteaはヘゴ板着生で100株以上がぶら下がっている。只、彼の性分からして商売は難しいとも思っている。

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秦の温室、パット・エンド・ファンの空調を装備

近くの食堂で遅めの昼食を取って空港に送ってもらい、16時のCI-122便で那覇空港に向かって飛び立った。カバンの中には食堂で作ってもらったイカの口だけを炒めたビールの摘みがお土産として入っていた。1パックだがイカ100匹分はあるだろう。私の奇妙なボルネオの旅は終了した。そして旅の付録ともいえるコタキナバルのホテルで投函したハガキは、出社後1週間を過ぎてから届いた。 (完了)

2015年8月28日 | カテゴリー : 旅日誌 | 投稿者 : nakamura

ボルネオ(5)

9月27日(土)

午前9時30分、ホテルのチェックアウトを済ませてロビーで秦を待った。ロビーでは観光案内相談コーナーの設置作業が始まっていた。会議用テーブルにクロスが掛けられパンフレットが並べられている。キナバル登山、サンダカンの動物探索等のパンフレットだ。秋の観光シーズンが始まるのであろうか。地元の英字新聞を拾い読みしていると秦と黄が迎えに来た。ルイスの兄のジョーがトヨタのランドクルーザーで待っていた。屋外電気配線の会社に勤めているとのことだが、腰痛が悪化してハードな現場作業から退いているらしい。それでも時折、この4輪駆動車で田舎の集落を回って電気配線の改修工事が必要な地域の調査を担っているとのことだ。キナバル山の南側を下った集落の調査を兼ねて1泊2日の案内をしてくれるのである。ジョーは建築と不動産業を行っている色白で外交的なルイスと異なり、色黒で体格も大きく外線工事業の親方の風体だ。口数が少なく強面であるが優しい目をしている。ランクルの後部ドアを開けて荷物を積み込んでくれた。半袖シャツに半ズボン、スニーカーのスタイルだ。それでもトランクには安全ブーツとヘルメットが載っていた。

海岸線をしばらく走ると小さなフィリピン人の水上集落があった。そこは陸からの侵入橋が無く、船で往来する漁民の集落のようである。円筒型のメタリックカラーの奇妙な建築物を左側に見て、州議会の白い建物を過ぎ、ゆっくりと山道を登り始めた。道路脇には山採りの植物を販売する露店や軽食店が4、5軒連なって点在した。その中の一つにジョーが車を停めた。僕らは朝食のサンドイッチとコピアを手にして露店の中を覗いた。デンドロビューム、バルボフィルム、グラマトフィルム、シンビジューム、デモルフォルキスもある。私は輸入サイテスが不要な植物であるビカクシダを一株買った。新聞紙に包んでもらいリュックに突っ込んだ。

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グラマトフィルムの花

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バルボフィルム

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蟻の巣に生えるビカクシダ

道路は軽いアップダウンを繰り返しながらゆっくりと登っている。1,000m程登っただろうか少し耳鳴りがしたころから雨が降ってきた。キナバル山の岩山が雨霧の中に見え隠れする。ランクルの窓からは容易に写真が取れない。

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雨中キナバル4号線

キナバル山の稜線を超えると雨が上がった。車はサバ州の南東の地区に下って行った。ジョーは時々車を停めて送電線を見ては手持ちの地図に何かを記入していた。この辺りはコタキナバルよりも乾いた土地の風景に見えた。マンゴー、ドリアン、パラミツの大木が民家の周りに植えられていた。道路を我が物顔でジャージー種に似た赤毛の牛が数頭で歩いている。ジョーはクラクションを鳴らすこともなく車を路肩に寄せて牛様のお通りを妨げずにすり抜けた。

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牛様の散歩

ブルランの町で車を停めて軽食店に入った。2時過ぎの店の中は閑散としていた。コピアとヌードルで腹を満たして雑貨店に入った。秦に言われるままに頭痛薬、湿布薬、ビスケット、缶ビール1ダースを買って金を払った。この町の植栽ではゴールデンシャワーが多く使われており、鮮やかな黄色の花が垂れ下がって風に揺れていた。この4号線をさらに進み左折して22号線の終点にサンダカンの町があると道路標識が示していた。

ジョーは4号線を引き返しながら支線の集落を2か所ばかり点検した後でキナバル山の管理事務所前に車を停めた。今夜の宿の代金を払って鍵を貰ってきた。代金は秦が払った。

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ジョーのランクルと管理事務所

キナバル公園の中には大小幾つかのコテージがあり、僕らは一番奥の建物を借りた。床が少し高くなった造りである。途中のコテージの2か所だけ車が止まっており、この時期は未だシーズンの最盛期ではないようだ。施設の入口の左が娯楽室で、7つの寝室の他に大きな厨房と食堂があった。寝室にはシャワー室があったがお湯は出ず、水温20度の凛とした天然水であった。

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コテージは十分に離れて設置されている

時刻は午後4時、山の日暮れは早いとはいえ日没までは間があった。黄と共に30分ほどあたりを散策した。キナバル公園には幾つもの散策路があり、その中の一つは山頂へ向かうと表示されていた。木製の表示板には「写真以外は何も取るな」。「足跡以外は何も残すな」と書かれていた。

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写真以外は何も取るな(施設案内)

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メディニラと異なるノボタンの一種、ナリヤラン、ヘメロカリス。タンポポに似たキク科の植物を見つけた。私は表示板に従って採取をやめることにした。

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花の大きなナリアラン

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見事な株立ちのナリアラン

コテージに戻ると秦が娯楽室でビールを飲んでいた。

「先輩、この時期はレストランが早く閉まります。今日の夕食はビスケットとビールだけです」と秦が笑って言った。

「オーマイガッド。シャワーを浴びて早寝するか。TVも無し、バーも無しでは何もすることが無い」

「先輩、冷たいシャワー大丈夫?心臓危ない」と言って再び笑った。

秦は既に冷たいシャワーを体験したらしい。私が自分の部屋に向かうと秦が後ろから声をかけた。

「先輩、明日はポーリン・ホット・スプリングです」

私はキナバル山の近くに温泉保養地があることを思い出した。

私がシャワーを浴びて娯楽室に戻ると秦が嬉しそうに言った。

「シムが夕食を持って近くまで来ています。ゲストと共に」

「そいつはラッキーだ。あいつの車でよく此処まで登れたな」

「イエス、ベリー・ラッキー」と私の後ろから黄が手を叩いた。

ビールを一口飲む間もなく、シムの車のクラクションが鳴った。黄が立ち上がって玄関のドアを開けた。

「ハロー、グッド・イブニング、ナイス・ミーチュユー」とシムと一緒に騒々しく入ってきたのは昨夜のバーのホステス4名であった。秦が手を叩いて大笑いした。シムによるとこの時期の繁華街は閑古鳥が鳴いているそうだ。それにフィリピン系のホステスは信心深くて日曜礼拝を欠かさないので土曜の夜は遅くまで働かかないのだそうだ。キナバル山荘のパーティだと誘うと皆喜んで応じた。

「ただし、俺の車に乗れる体重の軽い女を選んだのさ。なにしろ古いアウディでの山登りだろ。デブはカットしたのさ」手を広げてアクションを交えながら話すとホステス共が大笑いした。何とも陽気な性格である。

ホステス相手の遊びは決まっている。男女がペアになって2個のサイコロを転がすのだ。2個のサイコロの数字の合計が少ないほうが負けである。ゾロ目も負けだ。負けた者がグラスの酒を飲み干す罰ゲームだ。ビールでは酔いが回らないので、私が持参した泡盛を水で割って飲むことにした。このゲームは単純で言葉のハンディが無くどの国でも遊べるゲームだ。サイコロ又はトランプがあればよいのだから。実際僕らは、マレーシア本国、タイ、中国、台湾でも同じように遊んでいる。

ホステスの中には酒に弱い娘もいて、代わりに誰かが飲んでも構わない。その中の一人ジュディは最も元気であって、美人ではないが陽気な女の子だ。真っ先に出来上がってしまいテーブルの上に立って踊りだした。他の女子はジュディの癖を心得ていてタガログ語で囃し立てた。僕らも手拍子で囃し立てた。ジュディは腰を振り、ジーンズをずり下ろして赤いTバックの下着の尻を見せて踊った。原生林の一角でのショウタイムの始まりだ。各コテージの間は十分に離れており、辺りの闇に騒音をまき散らしながら僕らは大いに盛り上がった。無口なジョーでさえ痛む腰をさすりながら笑いこけた。

その絶好調の時に何かが飛んできてジュディ尻に着地した。驚いたジュディはそれを払落し、ズボンを引き上げて仲間のホステスの間に飛び込んだ。ジュディに弾き飛ばされた生き物は私が買ったビカクシダの上に止まった。よく見ると蛾の一種である。シムとゲストを招き入れた際に特別ゲストとして同行したらしい。シムは毒蛾ではないからと腕に移動させて外に逃がしてやった。ホステスが安堵の溜息をついた。

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本日の特別ゲスト

シムは私のシダを見て言った。

「このシダは栽培できませんよ。蟻の巣の上に生えるシダだから。ほら、この穴は蟻の巣の跡です」と説明した。

確かにシダが着生した木質の部分に白蟻の巣のような穴が無数に開いている。蟻と共生関係にあるシダ植物の様だ。

突然の来客にパーティが白けてしまった。

「オーケー、蟻の話をしょう。ボルネオの昔話です」とシムが語り始めた。

≪蟻と蛙が河原でお喋りをしていた。近くで洗濯をしている女性を見て蟻が言った。先日の事だがとても怖い目に遭った。河原で餌を探して歩いていると小雨が降ってきた。俺は急いで女の人の腰巻の下に隠れたのさ。雨がひどくなったので女は立ち上がって移動していった。俺は振り落とされないように必死に上に登って行った。すると黒い針山にたどり着いた。俺はもう登るのに疲れ果ててあたりを見回した。すると近くに洞穴があった。少し湿っていたが中に潜り込んで休むことにした。どのくらい寝たのか知らないが洞窟の入り口が騒がしいので外を覗いてみた。すると恐るべきものがこちらを見ているのだ。なんだと思うかい。

それは龍だよ。2個の銅鑼をぶら下げてこちらにやってくるのだ。俺は急いで穴の奥に引き返した。すると龍は口を開けて俺を飲み込もうと穴の中まで追いかけて来たんだ。俺がさっとよけると銅鑼をゴーンと大きく鳴らして戻っていくのだが、再び追いかけて来るんだ。そのたびに銅鑼がゴーンと大きく鳴るんだぜ。その度に洞穴も大きく揺れ、俺はもう必死だったね。さすがの俺も今度だけは生きて帰れないと思ったとき、突然龍が口からネバネバした白い液体を吐きつけてから出ていった。しばらくして俺が洞穴の外を覗くと龍の奴が小さくなって寝ているではないか。龍の奴が目を覚まさぬように足音を忍ばせて逃げてきたのさ。

そうか、それは災難だったな。俺なんか蛇ですら怖いのに、龍だとそれは恐ろしいのだろうなと蛙が納得顔で言ったそうだ。おしまい≫

「どうだい、ボルネオには怖い話があるんだぜ」とシムがホステス共に言った。

「あら、あたしはその龍に会ってみたいわ」とジュディが少し酔った眼差しで言い返した。他の女子も口々に「あたしも、あたしも」と言って笑った。

「シャラップ、アイ・ノゥー、ア・イノゥー、イエス、ゴーバック、レディ、トゥモーロー、ウワーシップ」シムがそう言うとホステス共は立ち上がった。ジュディはチャッカリと飲み残しの泡盛のパックを手にシムの後に続いた。口々に黄色い声で「グッド・ナイト」手を振ってキナバル山の闇の中に消えていった。

2,000mの山荘は既に20度を下回っているのだろう。冷たい夜風が吹き込んできた。僕らも急いで部屋に戻って毛布にくるまった。

 

9月28日(日)

キナバル公園の中にレストランがあり、朝食をとること出来る。その施設はキナバル登山の案内所も兼ねており、公園管理の現状を写真パネルで紹介している。そこで登山手続きをして弁当を持って次の山小屋で一泊して山頂に登るとのことだ。キナバル登山は1泊2日の行程である。

僕らは朝食の後でキナバル山周辺に見られる植物を収集した植物園を見学した。

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キナバル公園の蘭収集施設

そしてのんびりとポーリン・ホット・スプリングに向かった。温泉でリラックスして帰るだけだ。しかし思惑は外れてしまった。今日は日曜日である。山奥の道路は地元の行楽客で混雑しているのだ。僕らは温泉保養をあきらめて近くの動植物園見学に切り換えた。

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植物園入口

動植物園の開園時間は午前9時から午後4時30分で入館締め切りは午後3時30分だ。動物園ではオラウータンとシカを見ることが出来た。ラン管理センターと表示された植物園ではカランセ、バルボフィルム、P.gigantea等多くの品種が収集されていた。

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カランセの収集

 

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Dimorphorchis rossii 上段の花が黄色で 下段の花は白

 

Vanilla kinabluensisは通常のVanilla planifoliaよりもはるかに大きい果実を着ける。

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本種は花も実も大きい

かなり数のバニラの株が丸太に着生栽培されていた。秦にそそのかされて蔓に手を伸ばした途端、後ろに物音がして振り返ると管理人が立っていた。すかさず「ハロー、グッド、ボタニカルガーデン」と言って伸ばした手を上げて挨拶を送った。相手も心得たもので「サンキュー、サー」と笑顔で答えた。秦が笑いを堪えるように口元を手で押さえて歩き出した。雑木林の落ち葉の中から大コンニャクが芽を出していた

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芽を出した大コンニャク

。金網フェンスにはヒハツモドキが絡みついていた。私の実家のコンクリート壁に着生している品種よりも実が長いようである。品種が異なるのか環境の違いかは定かでない。

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ボルネオのヒハツモドキ、実が下垂する

自宅ヒハツ

私の実家のブロック塀に着生したヒハツモドキ。実を乾燥させて挽くと香ばしい。コショウ科の香辛料(苗を近日中に販売予定)

僕らは近くの集落に車を停めて果物を売る屋台を物色するなど寄道をしながらゆっくりと下山した。途中で小ぶりのドリアンを買って食べた。タイの品種改良された大きな果実よりも濃厚で美味い。少し果肉の残った果実を店の横で寝そべった赤毛の犬に投げると旨そうに食べた。ドリアンを食べる犬がいることを初めて知った。貧相な顔に似合わぬ美食犬である。

僕らは退屈しのぎに奇妙な形をした金属調のメナラ・ツゥン・ムスタファビルやサバ州モスクを遠目に見て、サバ州鉄道のタンジュンアル駅に寄った。線路はテノムまで続いているとのことだ。列車が出てしまった駅は閑散としており活気が失せて、さながら廃墟のようであった。ホテルは一昨日と同じベバレイ・ホテルである。前回と異なるのは寝室の他に応接間のあるハイクラスの部屋であった。ジョホールバルのリーさんが手配してくれたらしい。料金はごく普通のツインルーム並である。ホテルの株式をマレー航空が保有しており、リーはマレー航空の株主の一人で株主特権があったようだ。秦が素っ頓狂な声で言った。

「先輩、明日は皆ここに集まってパーティをしましょう」

この日の晩はシムから貰ったチケットで公式レセプションパーティーに参加した。ルイスにジェリーウォン、その妻アリスと同じテーブルであった。レセプションの内容はサバ州が自然保護に取り組んでいることの紹介と次回の展示会がフィリピンで開催されることなどが話題であった。只、私の英語力では学術的な報告内容を理解するには至らなかった。国と州政府の役人も参加したお堅いパーティである。食事もローカル色の少ない上品でごく普通の料理であった。パーティが終わるとシムの家に送ってもらい少し飲み直してホテルに戻った。ベットに横になり、白い天井板をぼんやりと眺めていると旅の終わりが近づいていることに気付いた。私は未だにテノムの農業公園を探索していないのだ。もはや秦の案内では退屈なだけだ。明日の朝、ホテルのフロントで国内旅行のガイドプランを探してみようと考えながら眠りについた。

2015年8月19日 | カテゴリー : 旅日誌 | 投稿者 : nakamura

ボルネオ(4)

9月26日(金)
この日の秦の迎えは午前10時である。私は空調の効いたホテルのレストランで、コピアでない普通の美味いコーヒーを楽しむよりも、朝の涼しい時間帯に市内の緑化事情探索に出ることにした。
ホテルの前庭にはタビビトノキ(オオギバショウ)が見事に半円に近い葉の展開を見せている。この辺りは台風の影響が無いのであろう。私が植物管理工事を受注している国営公園では、台風のたびに葉柄が折れてしまい、せいぜい90度の展開に止まっている。熱帯植物の管理を本業とする私にはうらやましい限りだ。

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ホテル前のオオギバショウ

少し歩くと水路に出た。海抜の低い湿地を開発して都市を形成したのであろう。ステラハーバーホテルから見たフィリピン人の水上集落は、都市開発から見放された一角なのだろうか。水路の土手や街路樹として利用されている高木類はビルマネム、ホウオウボク、マストツリー、アカシアの仲間、フイリデイゴ、インドシタン、マホガニ、オオバナサルスベリ等だ。高木の中で私の興味を引いたのは、クスノキ科のイヌニッケイ(Cinnamommum iners)だ。香辛料のシナモンとしての品質はセイロンニッケイに及ばないが、緑化樹としての品質は格別である。成長が早く刈り込みに耐え、刈り込んだ後に発生する新芽はピンク色をしており本当に美しい。もちろん緑葉に変わった後も日を浴びて照葉となり美しい樹冠を形成する。

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イヌニッケイ

ベンジャミナをパラソル状に仕立て、その下に下草をあしらった休憩場所を作ったのは熱帯地方ならではの修景だ。細やかで確かな造園技術が存在していた。

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ベンジャミナの日傘

ヤシ類ではココヤシ、マニラヤシ、フォックルテールが主流だ。ホテルやショッピングモールなどの入り口にはショウジョウヤシが植栽されている。美しい赤い葉柄を持ち、株立ちする性質がある。熱帯地方の上質な庭園の修景に利用される椰子だ。15年ほど前に台湾の緑化植物の主要生産地である員林から実生苗を取り寄せて育成したことがある。高温多湿を要求するヤシであり、尺鉢サイズに育てるまでの随分と枯損させた苦い思い出がある。栽培のポイントは水分だった。鉢の下の受け皿に常に水を蓄えると冬季の10度程度の気温でも枯損することは無い。沖縄県では池の修景樹木として水際に植栽したい椰子である。

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ショウジョウヤシ

潅木類ではサンダンカ、斑入りサンユウカ、キバノタイワンレンギョウ、ブーゲンビレアの刈り込み、ポリシャス、ヒメノウゼンカズラ、ルリマツリなどが利用されていた。クロッサンドラとポリシャスの組み合わせも良い仕立て方だ。

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ポリシャスとクロッサンドラの植え込み

草本類ではムラサキオモト、ポリポディウム、スパイダーリリー、ヘリコニア、タマスダレ、ヘミグラフィス、ヒオウギ等多種だ。
グランドカバー植物としてマメ科の通称グーバー(学名Arachis pintoi)が使われていた。ピーナッツの仲間でブラジル原産のようである。

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グランドカバー(グーバー)

シンガポールやマレーシアの公園、道路緑化として利用されている。以前に訪れたハワイの果樹園では下草として栽培されていた。私も沖縄県北部国道事務所に提案して国道の植栽枡のグランドカバーとして実験したことがある。国道58号世冨慶の中央分離帯、大宮中学校前。国道329号宜野座村、金武町の4箇所であった。本種は夏場の生育は良好であったが、冬季に成長が止まって葉が黄変した。枯れることはないが、他の雑草に凌駕されて次第に衰退した結果となってしまった。南北回帰線の内側の熱帯地域で成果を出す植物のようだ。
リーカス・スポーツ・コンプレックスは展示会の準備が整っていた。入り口のエンテランスの両サイドには販売ブースが並んでいた。その中のひとつにシムのブースがあった。シムと奥さんとパートの女性が立っていた。ラン類、観葉植物、キーホルダーなどの小物、壷などの大小の焼き物、様々なローカルの商品を扱うブースである。
秦が知合いに土産を配っている間に私は展示品をゆっくりと見て回った。ゴルフのスケジュールは午後である。展示会の主力はディスプレイ作品である。マレーシア、インドネシア、ブルネイ、フィリピンの蘭協会や企業が出展している。

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グランプリ作品(テノムの農業公園)

私が一昨日泊まったステラハーバーホテル・アンド・リゾートも切り花と観葉植物を組み合わせたディスプレイ作品を出品していた。

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ステラハーバーリゾートの作品

鉢物審査ではアランダ・モカラ類、デンファレ、コチョラン、パフィオペディルムが多い。日本や台湾の様にカトレアはあまり見られない。ただカトレアのBc.Maikai ‘Mayumi’がメダルを取っていた。この品種は屋外の樹木の陽当たりの良い場所に着生させても良く育つことから、この地方でも栽培が盛んなようである。

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入賞作品・パフィオペディルムの原種

Paph.rothschildianumやP.violaceaはこの地方の原産であり数多く出品されていた。切り花はこの地方の主力切り花品種であるアランダ、モカラ、デンファレが殆どであった。竹筒に生けられておりローカル色が出ている。ランを使った生け花もある。素材はデンファレとバンダ類だ。変わった展示ではサボテンのコーナーがあった。国際洋蘭博覧会の出品として中々奇抜である。

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サボテンの出品作品

昼食後にシェリーが車で迎えに来た。連れていかれたのはステラハーバーゴルフ・アンド・カントリークラブである。初日に泊まったホテルの隣にあるホテルの系列ゴルフ場だ。ホテル、ヨットハーバー、ゴルフ場が一体となったリゾート施設を構成している。ゴルフ場の駐車場でシェリーの友人の2人の女性ゴルファーが待っていた。そのうちの一人は頭に白い頭巾をまとったイスラム教徒と思しき女性である。2人乗りのカートにゴルフバックを積んでコースに出た。私はシェリーとペアである。コースのレイアウトは池をハザードとして配してある。フラットなコースであるが砲台グリーンをバンカーでガードしてある。フェアウエイはバミューダ芝でラフは深くはないがボールが沈むので少し打ち難い。それでもリゾートのコースであり難易度は低く設計してある。池でハザードを作っているにも関わらずOBでボールをロストすることもなかった。それでも使い慣れないルイスの柔らかいシャフトのクラブでプレーすると90を切ることは出来なかった。シューズも歩きやすいトレッキングシューズを履いていたのでグリーン上では芝を痛めぬように気を使った。シェリーは87で回った。毎週3回程度ラウンドしている。彼女の友人のイスラムの女王はパワフルに飛ばし、「フォアー」と可憐な発声と同時に右に左にクラブを手に走り回った。実に賑やかなパーティである。日本の商社マンと思しきパーティが呆れた顔で僕らを見ていた。まともなゴルフスタイルでない男が騒々しい女性を伴ってゴルフをしているのだから。おまけにイスラムスタイルの女性が一番に騒々しいので、否応なしに目立ってしまうのだ。このようなプレーではコースのレイアウトはあまり覚えていない。パー4でスタートして池越えのパー5でホールアウトしたことだけだ。海が近いので風があって暑さを感じないコースである。以前にクアラルンプール空港の近くでプレーした時には、午前7時30分にスタートして11時にホールアウトしたのであるが、暑さでグロッキーになった覚えがある。内陸のゴルフ場と異なるリゾートのゴルフコースである。

D11

≪2015’2月。ジェリー・ウォンが持参した観光ガイドブックより抜粋した写真≫
ちなみに私の所属するベルビーチゴルフクラブは、海に面した斜面地を折り返しながらワンウエイでプレーするアップダウンの強い戦略性の高いコースだ。夏は海風が心地よく、冬は嵐が丘に変化する風の影響をもろに受けるコースだ。1,2,5,13,16番ホールは左が崖で、6,7,8,10,11,12,14,15,17,18番ホールは右側が崖である。スライスボールでOBとなりやすいレイアウトだ。ビギナーには辛いレイアウトだが、すべてのホールから東シナ海の美しいエメラルドグリーンの海が望めるので沖縄県で最も美しいゴルフコースだと自負している。毎月2,3回プレーしてハンディキャップ14に止まっている。一時期シングルプレイヤーを目指して鍛錬したのは若気の至りであり、現在は楽しいゴルフをモットーにしている。
クラブハウスで軽食を取りながら雑談していると、時折シェリーに挨拶するゴルフ場のスタッフがいた。彼女は気軽に声をかけており、レッスンプロやコースの管理者だと答えた。このコースをホームコースにしているらしい。
ホテルに戻ってシャワーを浴びてロビーに降りるとシムが迎えに来た。蘭展示会の表彰式を兼ねた歓迎パーティに参加するのだ。
会場はリーカス・スポーツ・コンプレックスの施設内であった。僕らはいつものメンバーでテーブルを囲んだ。出品作品の表彰式の前に幾つかの挨拶があり、その中でAPOC台湾の紹介があった。秦と黄がステージに上がり、黄が英語で台湾蘭協会の案内文書を読み上げた。そして最後に「WELCOM TO APOC IN TAIWAN」と締めくくった。その言葉を待って秦がAPOC IN TAIWANのポスターをぱっと広げた。そしてステージから降りてきた。僕らは秦の動作に一瞬あっけにとられ、その後に大声で笑った。皆は口々に「あいつの役割は只ポスターを広げるだけかよ」と秦の動作を真似して笑った。それでも秦がテーブルに着くと「great action」とはやしたてた。
食事をしながら作品の表彰気が始まった。地元のシム、ルイス、ウォンが幾つかの賞をもらった。秦が台湾から持ち込んだ蘭もその中に入っていた。
シムは壇上に上がって賞状と副賞の封筒を持ってテーブルに戻ってきた。そして賞状には目もくれず副賞の封筒を開いて中身を取り出して皆に見せた。赤い紙袋の中身は現金であった。ルイスやウォンの封筒の中身も現金である。
「先輩、この金で飲みに行こう」笑いながら秦が言った。
僕らは市内のバーにくり出し、氷の入った大きなピッチャーにバドワイザーを注ぎ、回し飲みしながらはしゃいだ。滋味の抜けたビールも気持ちで飲めば酔いが回る気がした。

2015年8月12日 | カテゴリー : 旅日誌 | 投稿者 : nakamura

ボルネオ(3)

9月25日(木)

9:00、シムがモスグリーンのアウディで迎えに来た。

「高級車だね」と言うと、「20年前の車だぜ、いつ止まるか心配だよ」と笑った。確かに今時流行らないデザインの型式だ。高速走行は無理だろう思った。

秦と黄を拾って市内の食堂で軽食を取りコーヒーを飲んだ。コピァという砂糖の多く入った奇妙な味のコーヒーである。テノムで生産されるコーヒーだ。シムが私に届ける土産の定番となったコーヒーである。

10gティバック12袋入り

朝食後に植物散策のために山へ向かった。シムのアウディはゆっくりと市内を抜けてクロッカーレンジ国立公園の山道を登った。私は半袖シャツにベストを着用、靴はトレッキングシューズだ。秦とシムと黄は半袖に半ズボンそしてサンダルである。このあたりは2,000mクラスの山が続く。山を越えて160㎞ほど行った盆地にテノムがある。

しばらく登るとナリヤランが道路脇に見られるようになった。このArundina graminifoliaは沖縄県の西表島の草地でも見られるランである。東南アジアに広く分布するランである。沖縄県では70㎝前後の草丈であるが、道路脇に生えているナリヤランは150㎝もある。まるでススキの様に葉が大きくて花も明らかに大きい。新しい葉は少し紫色の色素を帯びている。とても同一種とは思えず亜種のような気がする。

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ナリヤラン

ノボタン科のメディニラに似た植物が見られた。Medinilla magnificaはフィリピンからこの辺りに分布しているようだ。園芸店で見られる60㎝程の鉢物サイズでなく2m以上もあるのだ。この地域の熱量の豊かさが育ててくれるのだろう。

路肩が少し広くなった場所に車を停めた。僕らはシムの後について道路脇の小さな排水溝を飛び越え、大木が繁るでもない雑木林の中に入った。シムはビーチサンダルで落ち葉を踏みしめて藪の中に入った。足元にはショウガ科のバービジア、ノボタン科のメディニラの幼木、種名の解らない地生ランが無数に生えている。

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藪の中の樹木は幹回りが10㎝から40㎝程度の広葉樹がほとんどである。沖縄の広葉樹の雑木林と何ら変わらない植物相に見える。私は学生のころにテントを担いで八重山諸島の西表島を2泊3日の行程で横断したことがある。その原生林の雰囲気と同じだ。ただ異なるのは湿度が高く、落ち葉は湿っており、樹木に苔が多く付着していることだ。よく見ると蘭が苔に混ざって着生している。高さが50㎝から4mの範囲で無造作に着生しているのだ。ラン類は大木の高い場所に着生しているものと考えがちであるが、ボルネオでの生育環境はそうでもないようだ。デンドロビューム、バルボフィルムその他多種の蘭類が着生している。

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少し太めの幹にエスキナンサスが着生しており枝の先端に赤い花をつけている。落ち葉の中からバービッチアが花をつけている。薄い黄色の花で先端が三裂しているのが特徴だ。以前に社員が採取してきたBurbidgea schizocheila(英名Golden Brush Ginger)とは異なる品種である。ボルネオには5種類のBurbideaがあり、その中のstenanthaかlongifloraではないだろうか。

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Burbigea. sp

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Burbidgea schizocheila(golden brush ginger)

沖縄県での開花時期は冬から春、秋以降に販売予定です。

僕らは藪を出てさらに山道を登った。途中に露店がありバナナを人房買って食べた。あまり美味いものではなかった。さらに登ると焼けて廃屋となった露店があり、シムが営業していたと秦が指差して言った。何かいわくがありそうだがシムに尋ねることはしなかった。

やがて森林伐採の現場で車を停めた。直径80㎝以上もある大木が伐倒された跡が広がっている。シムは外資系の会社が自然を破壊していると言って不快感を露わにした。シムが指差した大木の中ほどの太い枝の上にグラマトフィルムが着生していた。バルブの長さが1mほどで10本近くが展開している。以前に栽培したことがあるが、気まぐれなランで容易に咲いてくれない。友人とタイの生産者を尋ねたおり、50㎝の4本立ちバルブで咲いているのを見たことがある。株の大きさと関係なく環境が開花に作用しているのだろう。素焼きの尺鉢にヤシ殻のコンポスト植えで水田跡地の作った蘭園であった。随分前であるが、名古屋の「蘭の館」が開園する際に高さ1.5m、10本立ちの株をフィリピンから2株輸入して納入したことがある。その時は秦の斡旋であった。

グラマトフィルムを見ているうちに雨がポツリ、ポツリと落ちてきた。

「雨が降る時間だ」とシムが言った。

僕らは急いで車に戻り元の道を引き返して下山した。雨が強くなる前に途中のドライブイン・レストランに飛び込んだ。雨は霧を呼び、50m先の視界を遮るようになった。道路わきの排水溝から洪水のように雨水が流れた。レストランの温度計を秦が指差すのを見て驚いた。僅か15分ほど前に蒸し暑くて30度以上だと感じた気温が一気に20度まで下がっているのである。

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雨霧

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摂氏20度

「すごい雨だね」と私が言うと

「1時間もすると止むよ。山では毎日のことだ」とシムが言った。

この雨は山間での現象であり、平地のコタキナバル市街地は全く降っていないらしい。

僕らはコピアとケーキで雨宿りをすることになった。そしてシムが退屈しのぎにボルネオの昔話を始めた。

≪この原生林には巨大な龍が住んでいるとのうわさがあり、村人の恐怖の対象となっていた。ある日、一人の猟師が山中で龍に出くわした。口から牙を出した巨大な龍である。猟師は恐怖のあまりろくに狙いも定めずに鉄砲をズドント打ち村へ逃げ帰った。そして村人に伝えた。今しがた龍を仕留めたので皆で担ぎ出しに行こう。村人は山鉈を手にして猟師の跡を山に入った。村人がその場所に着くと、巨大な蛇がシカを飲み込もうとしているが、鹿の角が口元に引っかかって呑み込めずにのたうち回っているのだ。その様はまるで巨大な龍が暴れているようであった。臆病な猟師の弾は蛇にあたっておらず、村人は急いで手にした大ナタで蛇を叩き切ったそうだ。おしまい。≫

ボルネオの自然林にはニシキヘビ、小型のシカ、オラウータン等特徴のある野生動物が生息しているらしい。

シムのほら話を聞いているうちに雨も霧も上がったのでレストランを出て下山した。コタキナバルの市街地には雨の痕跡は無かった。市街地の一角に市場があり、その前に車を停めて中を覗いた。私の旅先での楽しみの一つは、ローカル市場を見て回ることだ。台北のゴールデンチャイナホテルの裏通りにも市場があり、宿泊時の退屈しのぎに時々覗いている。

この市場には海産物以外の大抵の生活用品が売られている。マンゴスチン、マンゴー、柑橘類の苗木。果物はレンブ、グァバ、ミカン、バナナ、ドリアン、パパイヤ。珍しいスネークフルーツというサラカヤシの実が売られていた。松毬状の果皮の内側に甘酸っぱい白い果肉を持っている。ただし、私の好みではない。

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レンブ、ミカン、グァバ、パパイヤ

果菜類ではヘチマ、白ニガウリ、シカク豆、葉野菜は数種類のサツマイモ属の新芽、ツルムラサキ、ウリ科の新芽等の多年草である。暑さに強い植物だ。レタス、小松菜、大根、キュウリ、モヤシ等の日本の八百屋の定番野菜は全く見られない。香辛料の売り場で薬用植物類のヤエヤマアオキの果実(ノニ)が売られていた。ニッケイの根の曳割(シナモン)の他にも何だか解らない民間療法の商品が並んでいた。その隣の店では民族衣装に似合いそうなブレスレットやネックレスも売られていた。

秦は夕顔の果実ほどの大きさのコパラミツを1個買って戻ってきた。僕らは市場の中の食堂で軽い食事をとってシムの家に引き返した。デザートにコパラミツを食べた。ナイフを使わずに、手で引き裂いて中から種を包んだ果肉を抓みだして食べるのだ。見た目は小型のパラミツだが、臭みが無く柔らく甘い果肉だ。沖縄でも栽培したい果樹であるが、ドリアン、マンゴスチン等と同じく豊かな熱量が必要だ。私が実家の裏に25年前にタイから持ち込んだパラミツは10kg近い実が着果するが食べる者はいない。奇妙な臭みのあるこの果実は、温帯地方の淡白で上品な風味の果実に慣れた日本人に敬遠されるのだ。

シムは出店準備があると言って秦と黄と共に出かけた。私は勧められるままにシムの家で2時間ほど昼寝をして時を潰した。ゲストの旅は万事がこのようなものである。

4時過ぎにホテルにチェックインした。この日の宿はベバレイ・ホテルである。2泊の予約が取れていた。昨日のステラハーバーホテル程大きさではないが十分満足できるレベルだ。フロントで3万円を両替した。1リンギット(RM)34円のレートだ。市中の両替所より割高であるがシムに頼むわけにもいかないし、両替所を探すのも面倒でもある。

シャワーを浴びてフロントに電話した。洗濯の依頼である。ランドリー係りの者を呼び出して洗濯物を備え付け袋に入れて直接渡すのである。衣類の数をその場で確認してチップと共に渡すのだ。そうすればトラブルなく早く仕上がるのである。それに東南アジアのクリーニング代は安くて上手だ。下着や靴下も出している。下着類の手洗いも旅の都合に応じてやるのだが、洗濯機のようには汚れが落ちない。快適な旅をしたいなら2度に一度はクリーニングに出したほうがよい。私の愚かな旅の方針であるが、富める自国からそうでない発展途上国に出かけた場合は、ささやかな浪費はすべきである。

「自分の豊かさを実感できる国へ行ったら、ケチらずにその土地の人にも豊かさの御裾分けをしろ」

私の所属する沖縄県造園業協会界の大御所とミクロネシア連邦のポンペイに行った時に言われた言葉だ。私は、ハワイ、韓国、台湾以外ではそうしているつもりだ。もっとも不遜と言われるほどの浪費をする気力は無いのである。

冷蔵庫からビールを出して飲みながら、日誌を付けていると秦から電話があった。午後5時過ぎである。

IMBP国際蘭会議の会場は、郊外のリーカス・スポーツ・コンプレックスであった。陸上競技場、体育館、会議室備えた総合文化施設だ。会場内では審査が終了して仮の表彰順位のプレートが着けられていた。ほとんどの国際蘭展示会の日程そうであるように、木曜日に審査、翌日の金曜日に関係者だけの内覧会、土曜日から一般客の鑑賞となっている。

ディスプレイ作品の中でも人目を引いたのがグランプリをとったテノムの農業公園であった。ボルネオの自然を豊かに表現したデザインであり、ボルネオの固有種の蘭と観葉植物がふんだんに使われていた。ボルネオの野生植物の収集と保護に努めている組織の力量が発揮された作品であった。

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展示会場入口

審査が終了したばかりで未だ整然と配置されていない会場内を歩いていると、秦とルイスがやってきてルイスが言った。

「退屈していないかい」

「そうでもないさ」

「どうだい、明日はゴルフでもやりなよ。ゴルフは出来るのだろう」

「ああ、地元のゴルフコースのメンバーだ。それは良いけど、誰とだい」

「俺は忙しいから、こいつが付き合うよ」

近くにいた女性を紹介した。ルイスの妹である。中肉中背で身長は160㎝足らずで白の落ち着いたデザインのワンピース姿であった。年の頃は28歳位か美人ではないが明るい感じの女性である。少しはにかんだ顔で「シェリー」名乗った。ルイスよりきれいな発音の英語である。

「オーケー、明日は楽しんでくれ」

ルイスは楽しそうに笑って言った。

私は以前にマレーシアのクワラルンプルとオーストラリアのケアンズでゴルフをしたことがあった。退屈しのぎに良い機会だと思うと同時に、ここまで来て女連れゴルフでもないだろうとも思ったが、成り行き任せの旅のついでだと割り切った。

この日の夕食は市場近くのレストランであった。初日の昼飯のメンバーにウォンの奥さんのアリサが加わった。審査が終了して安堵したのか皆饒舌であった。私も時々英語で尋ねて会話に加わった。私は壁の陳列棚の上に置かれた水槽の中に無数の蛙が居ることに気付いた。あまり大きくもなく玩具と思ったのだが、よく見ると喉元が呼吸の度に微かに動いており本物である。蛙は一様に外を向いて行儀よく座っている。

「ルイス、あのカエルは生きているね。置物かと思ったよ」

「オーケー、刺身にして食おうぜ」陽気に笑って言った。

皆が「刺身、刺身」と言って騒いだ。

暫くして蛙の料理が出てきた。ただし刺身では無かった。皮を剥ぎ取り内臓を取ってぶつ切りにして香りの強いネギと空芯菜と共に炒めていた。きめの細かい肉質で淡白な味だ。小骨を指でつまみだしてテーブルに放り出した。テーブルは料理の食べカスで散乱しているが誰も気にしない。中国南部から東南アジアにかけての華僑文化の一つだ。中華系の人々の概念の一つに「美味いものを食べるために人は生きるのだ」という諺があると陳先生が教えてくれた。

香料が効いてビールによく合う料理だ。私はビールを飲んでいるが、皆は透明なブルーの炭酸飲料を飲んでいる。メーカーはコカコーラ社のようである。少し飲んでみるとコーラよりもサイダーに近い奇妙な味がした。

午前0時の少し前に散会した。リー夫妻はルイスから車を借りて帰って行った。明日の朝テノムに向かうとのことである。私は予定外のゴルフに向かう羽目になった。

2015年8月3日 | カテゴリー : 旅日誌 | 投稿者 : nakamura

ボルネオ(2)

 

9月24日(水)

午前5時、秦が友人の段と共に迎えに来た。ボルボのワゴン車の後ろに大きな段ボールが3箱積まれている。コタキナバルで開催されるIMBP蘭展示会で使うラン類である。出発時刻は午前8時であるが輸出手続きに手間取るので早めに出たのだ。段の運転するボルボは街灯で明るい台北の市街地を抜けて中山高速道路を南下した。段は秦の兵役時代の友人であり少し粗暴な運転をする。体が大きく無精ひげを生やした酒好きの男だ。「秦にお前のボディガードか」と訊くと笑って答えた。「あいつは確かに酒も喧嘩も強いがフランス語が話せるのだぜ」と言った。見かけによらずインテリな部分もあるようだ。40分ほどで空港に着くと段は荷物を運搬ワゴンに積み替えて直ぐに引き返した。「交通整理の警察官に酒の匂いを嗅ぎ付けられないように急いで引き上げたのだ」と笑いながら秦が言った。

空港のロビーで黄さんと劉さんが待っていた。黄さんはユニバーサル・オーキッドのマネージャーで180㎝近い長身である。劉さんは160㎝程度の小柄な男だ。黄は来年3月に台南市で開催されるAPOC(第8回アジア太平洋蘭会議)開催機関のスタッフであり、その宣伝を目的にコタキナバルに出向くのである。劉はラン栽培の趣味家である。本業は台北市内で内科医をしている。二人とも沖縄国際洋蘭博覧会で2度ばかり会っており、プライベートで食事や観光に付き合っている。劉の傍らには70歳過ぎの女性が付き添っている。秦の話では40過ぎの独身の息子の見送りに来ているのだそうだ。幼児の旅立ちを見送る母の眼差しにも似て何とも奇妙で微笑ましい光景である。黄とは台北に戻るまで行動を共にすることになる。

中世国際空港のチェックインカウンターは何度来ても混雑している。この国の活力が凝縮されている。秦の大きな荷物は私の荷物として分散したが重量オーバーの超過料金を取られた。出国手続きに手間取ることもなく通過して出発ゲートへ向かった。途中の軽食店に立ち寄ってモーニングサービスをとって出発ロビーに着いた。

マレーシア航空の中型機は満席であった。コタキナバルまで3時間半の旅である。一眠りして目を覚ますと乗務員が入国カードを配っていた。英語とマレー語のカードがあり、英語のカードをもらった。添乗員同行の団体旅行では旅行社が必要事項を記入しているので、せいぜい自筆のサインをするだけである。個人旅行では自分ですべてを記入する必要があり、旅行用の手帳に基本情報をメモしておく必要がある。それでもトラブルは発生するのだ。国によって記入事項が多少は異なるのだ。日本の海外旅行ガイドブックのマニュアル通りには行かない。DATE OF EXPIRY との記入欄がある。さて、何のことであろうか。秦に尋ねようとしても席が離れている。おまけに飛行機はランディング体制に入っていてシートベルト着用のサインで席を立てない。パスポートの記述を何度も見比べてみるとパスポートの有効期限と小さく書かれている。老眼の始まった視力では仕方がない。 滞在ホテルはハイヤット・ホテルにした。入国審査官が宿泊予約の確認をすることはないのだから現地あるホテル名を適当に記入すればよいのだ。ただし記入しないと入国審査でもめてしまう。

飛行機は雲の絨毯に潜り込んで降下していった。雲を抜けると美しい海岸線と小島が見えた。開発の跡が見えない緑の山並みが美しい。那覇空港の大きさと変わりない小さな海岸沿いの滑走路に飛行機は降りた。

イミグレーションに向かう途中で黄が私に尋ねた。

「仲村さん、ホテル名はどうしましたか」

「ハイヤット・ホテルと適当に書いたよ」

「ちょっと見せてください」

黄は私の入国カードを見て同じホテル名を記入した。秦も劉もそれに習った。黄は3名の中で日本語が一番上手である。

簡単な入国審査で到着ロビーに出た。IMBP蘭会議のメンバーが立ち会っているので特別の配慮がなされたようだ。黄と劉の持ち込んだ蘭を含めて5箱の段ボールがトラックに積み込まれた。ルイスが懐かしそうに握手を求めてきた。3年前の沖縄国際洋蘭博覧会でボルネオの自然植生とネペンテスについての講演をした男である。その折、ルイスが持参したボルネオのネペンテスの本を20冊ほど引き取ったのだが、英文の本は売れずに会社の書庫に積まれたままである。ルイスの他にゴメス・シムとジェリー・ウォンが我々を迎えてくれた。トラックは劉の荷物をルイスの家に降し、黄の荷物をウォンの家に降し、秦の荷物をシムの家に降した。蘭の梱包された荷物を解いてから僕らは市内のレストランへ出かけた。

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シムのコレクション(山採りのバルボフィルム)

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ルイスのコレクション(パフィオペディラムとファレノプシスの原種)

集まって来たのは、ルイスと弟のジョー、シム、ウォン、マレーシア・ジョホールバルのリー夫妻、サラワク州から来た植物ハンターのア・ウー・ヤンと台湾から来た我々だ。リー夫妻は2年前に沖縄国際洋蘭博覧会で会っている。マレーシアのチャーワンと共に桜祭りの案内や夕食会を共にした。ヤンは植物ハンターとしてヨーロッパの蘭収集家の間で名が知れているらしい。私以外の参加者はすべて中華系であり、広東語が共通語となっているようだ。私にはさっぱり解らないが、時折英語で話してくれる。マレーシアでは英語教育が熱心で英語を話せる人が多い。私の半端な英語力でも何とかコミュニケーションがとれるので助かる。

昼食が終わると私の宿さがしである。劉はルイスの家に泊まり、黄はウォンの家、秦はシムの家に泊まる。ホテルに泊まるのは私だけだ。彼らが入国カードに宿泊ホテルを書けなかったのはそのせいだ。シムが幾つかのホテルに電話してたどり着いたのがステラハーバーホテルだ。それも1泊だけである。明日の晩は別のホテルを探さねばいけない。秦には予約という概念が欠けている。私自身はホテルのグレードに拘ることはない。寝る場所があればどこでもよいと思っているので気にならない。

しかし、ステラハーバーホテルは高級ホテルである。料金も高くはない。客の入りが少ない時期なのだろうか。シムが上手に交渉してくれたようだ。

シムの車で秦と共にホテルに向かった。途中のスーパーマーケットの駐車場で小柄な若い女を拾った。白いショートパンツにストライプのノースリブシャツ姿で小さな化粧ケースを手にしたマッサージ嬢である。ホテルでチェックインを済ませると秦が女と共に部屋まで付いてきた。

「先輩、僕らは蘭のディスプレイをします。2時間マッサージです。6時に迎えに来ます。スペシャルサービス、OK! 後でチップを10ドル渡してください」そう言って出ていった。

女の年の頃は25歳位だろうか、強いフィリピン訛りの英語を話した。よく喋る女でマッサージ中も携帯電話でずっと何処かに電話をしていた。私は直ぐに心地よい微睡の中に落ちていった。

1時間半が過ぎたころであろうか、うつぶせの状態の私は息苦しさを覚えて目が覚めた。女は私の背中に立って踊りだしている。背筋のマッサージなのであろう。私は手を叩いて女にマッサージの終了を伝えた。スペシャルサービス無しで10ドルを渡すと女は嬉しそうに出ていった。私は立ち上がって窓から外の景色を眺めた。ステラハーバーホテルの名の通りホテルの横はヨットハーバーとなっていた。中庭は回遊式庭園の作りであるが日本庭園の趣には程遠い作庭である。

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ヨットハーバー

 

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回遊式庭園?

シャワーを浴びてしばらくすると秦から電話があった。夕食への誘いである。部屋を出てエレベーターホールの小窓から外の景色を眺めるとフィリピン人の住む水上集落が見えた。このホテルの背の方向である。サバ州の東の岬から小舟で往来が可能な距離にフィリピン領のバラワン島があり、以前から不法入国者が水上集落を形成しているのだ。掃き溜めと化した湿地の中に形成された集落は、サバ州政府にとって統治できない不法地帯となっている。ここに住む人々が治安上のトラブルを起こすことも少なくない。しかし、人間の往来や生活は、権力者による国境線の確定よりも早いのが歴史の常である。また、観光地に生活の糧を求めて集まる人々の生活にも陰と陽の部分が生じるは人間社会の常である。

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フィリピン人の水上集落

シムが奥さんと3歳の息子を伴ってロビーで待っていた。奥さんの腹の中にはもう一人いるようだ。夕食は郊外の郷土料理レストランであった。リー夫妻が少し遅れてやってきた。ヤシの葉を重ねた屋根の木造の建物は、中央に舞台があり先住民の音楽と踊りを楽しむことが出来た。来客者が参加できる吹き矢による風船割りゲームやバンブーダンスなどもあって、十分に楽しめるステージであった。私も吹き矢で風船を3個ほど割って喝采を浴びた。

食事は地元の食材がふんだんに使われていた。マメ科の植物の新芽、サツマイモの新芽、エンサイ、ハヤトウリ等である。海が近いせいか魚介類と良くマッチした料理となっている。中華料理がベースとなった味である。野菜の風味も食感も十分に楽しめる料理である。

リーさんが明後日から一泊でテノムに行くので同行しないかと誘ってくれた。私はテノムの農業公園探索が目的の一つであり良い機会だと思った。しかし、「先輩は私のゲストだから行けません」と秦が勝手に断ってしまった。少し残念であったが秦のメンツを立てることにした。4年後の2,007年にリーの地元のジョホールバルで東南アジア蘭協会が関わる国際蘭展示会が開催されるので、その時に会う約束をして別れた。

2015年8月1日 | カテゴリー : 旅日誌 | 投稿者 : nakamura