9月29日(月)
シムと共にホテルを出た。海岸近くのレストランに秦と黄が待っており、ヌードルスープの朝食をとって会場に向かった。会場入口のテナントは朝から盛況である。ランを始めとする植物だけでなく、ボルネオの民芸品も多種多様に販売されていた。民芸品よりも工芸品に近い品質の商品もあった。私はネペンシスの苗と籐で作られた小物入れを土産に買った。小物入れは十分な強度があるだけでなく実に精巧に作られている。庶民の市場で売られている商品とは出来が異なるようだ。国際展示会にはそれなりの商品が出品されている。陶器も気に入ったデザインであったが持ち帰るには大きすぎた。
私はシムの入館証で展示会場を見て回った。金曜日の内覧会で見落としたコーナーを丁寧に見た。サボテンは数品種を組み合わせた盆栽の妙技が如実に表れている。写真は蘭の展示会と言うより写真コンクールである。蘭の品種でなく光の妙を競う芸術作品だ。フラワーアレンジメントは地元の材料をふんだんに使った力感のある作品であった。
会場を一回りして帰ってくるとシムがテナントから声を掛けてきた。秦が会場内のレストハウスいるからと誘った。黄も何やら土産を持ってテーブルに肘をついていた。僕らはコーラと焼きそばに似た軽食で腹を満たした。
私は秦に言った。
「作品は十分に見たので市内の博物館に行きたいのだがホテルの近くに戻る人はいないかい」と尋ねた。シムが「OK」と言ってすぐに手配をしてくれた。
私がシムの友人と共に立ち上がると秦が言った。
「夜は先輩の部屋でパーティです。夕食を持っていきます。6時に行きます」
「OK.後で会おう」
サバ州立博物館はしっかりした建物である。夏休み期間あろうか1階の大ホールでは子供向けのお化け屋敷に類するイベントが開催されていた。子供の甲高い声が館内に響いて賑やかである。私が吹き抜けとなった2階の展示会場から覗いてみると森林風の装飾がなされており、日本のお化け屋敷と趣が異なっていた。
博物館の展示物はボルネオの歴史が写真パネルで分かりやすく紹介されていた。この地区は華僑の影響を古くから受けていたようだ。国の統治は英国や日本の支配下にあったようだが、住民の生活は華僑が実質的に支配していたようである。シムの話によると今でも中華系の私立学校の教育レベルが高いという。秦の口癖の原住民は公立学校に通っているとのことだ。それにしても秦はどこで「原住民」いう日本語を覚えたのだろうか。私にとって響きの良い言葉では無いのだが、さりとてたしなめる程の悪意をもって使っているわけでもない。
シムが土産にくれたTシャツ、前後にこのプリントがあり、未だに着用する勇気はない。
首狩り族の風習についての記述によると、テノムでは二次大戦の前までその風習が残っていたらしい。そこはボルネオ島の内陸部で外部との接触が乏しい地域である。現在ではテノムコーヒーが有名である。博物館には民具や武具、動物の標本などが展示されていて興味深い。博物館のショップを尋ねるのも楽しみの一つだ。そこには上質の土産があるのだ。クアラルンプルでは、硬質の木で制作された鳥の彫刻を手に入れた。オーストラリア・ケアンズの植物園では針葉樹の硬い実で作られた宝石入れを手に入れた。ここでは既に貴重品となりつつあったスズ製のペーパーナイフを3本買った。マレーシアは錫の産地であったが次第に産出量が少なくなっているらしい。スズ製品ではビールジョッキが一番だ。スズは熱伝導度が早く、ビールの冷たさを存分に楽しめる。他にはラフレシアの写真の絵葉書を1枚買って、会社で留守を預かっている上間女史あてにホテルで投函した。
ペーパーナイフと小物入れ。ペーパーナイフは錫の純度が高く自重で湾曲する。籐製の小物入れは強度も機能も抜群である。
丘の上にある博物館から歩いて公道に出た。タクシーを難なく捕まえてホテルに戻った。私はホテルのロビーにある旅行案内所をすぐに尋ねた。
受付の女性にテノムに行きたいのだがタクシーを利用できるかと尋ねた。ホテルの外にはいつでもタクシーが止まっており融通が利くだろうと思ったのだ。彼女の答えは「ノー」であった。その代り車とドライバーを手配することが出来る。私が午後4時の便で台北に帰るので午後2時半までの戻れるかと尋ねると。午前8時に出発して2時間のドライブで公園に着くので、2時間の見学そして再び2時間のドライブで戻ってくるスケジュールだと笑って言った。そしてテノムの農業公園を見るには2時間では不十分であるとも言った。
私は書類にサインしてクレジットカードで清算した。車と運転手の代金を含んでいることを確認して礼を言った。
「明日の朝7時30分までにロビーで待ってください。ハンというドライバーが迎えに来ます」
6時になると秦がいつものメンバーで騒々しくやってきた。皆口々に素晴らしい部屋だと言った。しかしすぐにソファーを片付け車座になり、持ち込んだ料理を開いた。部屋にあるすべてのグラスとコーヒーカップを集めて酒を注いだ。私を含めて部屋のグレードに興味を持つ者はいないのである。
僕らは旅の最後の夜に何度もグラスを空けた。そして相変わらずバカな話で盛り上がった。ジュディのTバックの可愛い尻に蛾が着いて大騒ぎになったことや原住民の女の見分け方は、両乳首の間隔が広いほうが原住民だという秦の持論に「それはお前の彼女だろう」とルイスが小指を立てて言った。
ルイスが私に尋ねた。
「初めてのボルネオはどうだ」
「ラフレシアを見たかったが秦が谷間に降りるのが難儀だと言って行けなかった」
「秦は怠け者だからな」
「そう言うなよ、先輩の会社のUさんは帰りの坂道で心臓が止まると泣いていたぜ」と身振りで笑いを誘った。
「秦と山に入るから駄目だよ。この次は俺がネペンシスを踏みながら歩く場所を紹介するよ。ウサギが溺れぐらい大きな袋のネペンシスもあるぜ」
「ところで、明日はひとっ走りテノムの農業公園まで行ってくるよ。車とドライバーを手配した。午後2時半までにホテルに戻るので出発の時間に間に合うだろう」と私が言った。するとルイスの顔色が変わった。
「オー・ノー、それならジョーの車で行きなよ」
「でも、料金を既に払ったぜ。皆忙しい毎日だから」
「解った、これを出発前にドライバーに渡したくれ。俺に電話させるのだ」ルイスがテーブルの上からメモ用紙をちぎって自分の携帯電話の番号を書いて渡した。
「オーケー、解った」
シムが何か言いたそうであったが何も言わずに話題を変えた。私は少し気になったがそれ以上は言葉を繋がなかった。
少しだけ座が白けかけたが再びバカな話で盛り上がった。シムの生まれて来る子供が女か男か、本当にシムの子か。ジョーは毎晩奥さんに苛められて過ぎて腰が悪くなった。本当は腰が治っているのにワイフが怖くて痛いふりをしている。マザコンの劉はお袋さんが心配するので2泊で台北に戻った等、言いたい放題で酒を飲みつくして帰って行った。
9月30日(火)
朝のシャワーを浴びてフロントでチェックアウトを済ますせた。ロビーの案内所の近くに外国人の旅行者が数名ほど人待ち顔で立っていた。皆トレッキングの装備である。キナバル山に行くのだろう。午前7時30分に車が来た。案内所の女性が男を紹介した。ハンと名乗った。小柄の若い男だ。案内嬢の「良い旅を」の声を背にロビーを出た。
シムのアウディより小さな車だ。それでも男二人を載せて走るには十分な馬力が出るだろう。私はルイスのメモを渡して電話を掛けさせた。ハンはニコニコして何かを話していた。僕らは直ぐにホテルを出て3号線に乗った。最初の日にシムが案内した道路を登って尾根の裏側に降りた。クロッカーレンジ保護区の東の端の峠を越えて西の端のテノムに向かった。キナバル山系の保護区とは異なる地域である。標高は低いが面積は広い保護区だ。保護区の南側の盆地を車は走り続けた。3号線の途中にどこまでも続く直線道路があり予定の時間でテノムには行き着くのかと不安になった。民家が続く地域に入った時に雑貨店の前でハンに車を停めさせた。私は朝食代わりの菓子パンとペットボトルの飲料水を買って車に戻った。
2時間もせずにテノムの農業公園の案内板が見えた。パンフレットにはテノムまで160kmとあったが、それ程の距離は無いようである。案内板に従って左折した。しばらくして赤く濁った川を横切った。この川はブルネイ湾に流れているらしい。道路脇の農場にはカカオの果樹園が広がっていた。近くにコーヒー園を見ることは無かった。
公園の駐車場でハンに12時までに戻るからと告げて公園内に入った。チケット売り場で数名の西洋人を見かけたが公園内で出会うことはなかった。この公園はとても広いのであろう。
公園のエンテランスは見事な遠近法で演出されている。模様煉瓦の歩道の両脇がシンメトリー植栽されている。背の低い斑入りの植物はアダン(タコノキ科)の一種だ。その外側を斑入りのカンナが列植されている。ヒメショウジョウヤシが5m間隔で続き、その後ろに間を埋めるようないゴールドクレストに似たコニファーが等間隔で続いていた。この先に王宮があるような導入部である。
公園内は樹種別、有用植物、庭園、野生ランの収集保護施設物、研究施設に区分されているようだ。公園内で働く人々の住居もあり、洗濯物を干している女性の姿を見かけた。
私は指の付け根にひどい痛みを感じてランブータンの果実を離した。よく見ると手足の長い大きな蟻が噛みついているのだ。老眼の始まった視力では蟻がいることに気付かなかったのである。食べ物を得る先着順位を破るとペナルティがあるのは当然だろうとあきらめて園内の散策を続けた。
公園内の植物で驚いたことがあった。樹木に着生したコチョウランの改良種が開花しているのだ。低温反応で花芽を誘導する植物が赤道直下の植物群と同じ条件下で開花しているのだ。今日は9月30日である。このステムは8月頃から咲いているのだろう。思うに、この地区は昼夜の気温差が大きく、コチョウランの花芽分化を促す要因となっているのだろう。植物の多様性には驚くことばかりだ。
ブーゲンビリアの庭園、竹をうまく使った中国庭園も飽きない修景である。どのエリアも知恵と労力が十分に投入された見事な管理である。1級造園施工管理技士の資格を持つ私の能力ごときでは真似のできないレベルだ。植物好きならサバ州に来てテノムの農業公園を見逃してはいけない。
竹と奇岩を配した中国式庭園
12時に公園を発ってコタキナバルに向かった。2時半には余裕があったので、先日シムと立ち寄ったドライブインで遅い昼食をとった。フライドチキンとチャーハンの定食を二つ注文してハンと食べた。ハンは近い将来日本に留学したいと話した。年齢は20歳で私の印象よりずいぶん若い。只、言われてみると20歳に見える。
ハンはホテルではなくシムの家に車を停めた。そしてトランクから私の荷物を降ろしてくれた。シムが笑いながらハンと握手をして何やら話した。知り合いらしい。私はポケットから200RMを出し「ありがとう受け取ってくれ。助かった。良いドライブだった」と言って握手を求めた。ハンは満面の笑みで手を握り返してきた。
秦が戻ってくるまでシムの家で待った。何やら注文していた土産を取りに行ったらしい。テーブルに置かれた新聞の一面に写真入りで事件のことが載っていた。不法入国のフィリピンギャングと警察が銃撃戦になってギャングの一人が射殺された。警察は逃げたギャングの消息を調べているらしい。昨夜のルイスの心配はこの事件であったようだ。
秦がアイスクリームの表示のある発泡スチロールの箱を2個持ってルイスの車で戻ってきた。僕らは急いで空港に向かった。黄がウオンと共に待っていた。シムとルイスとウオンにお礼を言って別れ、僕らは荷物を預けイミグレーションを通過した。
「先輩アイスクリームが重たいので1箱お願いします」と言った。
「OK.サバのアイスクリームは特別なのか」
「イエス」と真顔で答えた。
夕暮れの闇が迫る中、僕らは中世国際空港に到着した。段の運転する車で空港に近い秦の農場に向かった。秦はアイスクリームの箱を開けて中からビニールの袋を取り出した。アイスクリームの代わりに熱帯魚が1匹ずつ入っていた。
秦は急いでバケツに移して写真を撮った。現在の状態を記録するのだそうだ。
「マジックでアイスクリームが熱帯魚に変身」と私が笑うと秦が言った。
「これは持ち出し禁止の魚、1匹3万NT$で買った。もし空港で見つかると先輩もこれね」と両手を突き出して手錠をかけられた真似をして笑った。大きな水槽の中の熱帯魚を指差して「これは40万円」と自慢げに言った。
秦の農園の近くの食堂で夕食をとった。そして黄を桃園の高速バス乗り場に送り、台南行きのバスに乗り込むのを確認してから台北の私の宿泊先であるゴールデンチャイナホテルに送ってくれた。ロビーで陳先生が待っていた。
「先輩、明日の朝11時に迎えに来ます」と言って帰って行った。
私はホテルのフロントでチェックイン手続きをした。1週間も英語だけで話しているとフロントの女性が日本語で話し、私が英語で答えるという奇妙な会話となってしまい、それに気づいて思わず苦笑した。明日の朝、ホテルで先生と朝食をとる約束をして部屋に向かった。
10月1日(水)
ゴールデンチャイナホテルの朝食レストランは様々な国の言葉が飛び交っている。先生と朝食をとってからチェックアウトを済ませ、荷物をフロントに預けて市内の観光に出た。土・日であれば建国花市場で植物観察を楽しめるのであるが、この日はタクシーで中世記念堂へ向かった。台湾の初代大統領蒋介石を記念して造られた施設だ。庭園と蒋介石の遺品を収めた施設、記念広場で構成されている。中国式庭園を回り、記念館の中で蒋介石の遺品を見た。権力者を象徴する遺品が展示されていた。愛用のキャデラック車が当時のナンバープレートのままでレッドカーペットの上に鎮座している。古い車種であるがよく磨きこまれている。広場では建国記念式典のリハーサルが行われていた。部外者の見学を規制することもなく自由な空気が流れていた。私の好きな台湾の国民性がそこにあった。
陳先生と別れて秦の運転する車で桃園に向かった。農場の犬に餌をやるために立ち寄った。昨日の熱帯魚は大きな水槽の中で悠々と泳いでいた。私は観賞魚の趣味は無いのでその価値は解らないが、秦の話では一年後に50万円の価値が付くと言う。熱帯魚に興味は無いが、彼の広い温室は空調設備付きで様々な蘭の原種が取集されていて興味深い。P.giganteaはヘゴ板着生で100株以上がぶら下がっている。只、彼の性分からして商売は難しいとも思っている。
近くの食堂で遅めの昼食を取って空港に送ってもらい、16時のCI-122便で那覇空港に向かって飛び立った。カバンの中には食堂で作ってもらったイカの口だけを炒めたビールの摘みがお土産として入っていた。1パックだがイカ100匹分はあるだろう。私の奇妙なボルネオの旅は終了した。そして旅の付録ともいえるコタキナバルのホテルで投函したハガキは、出社後1週間を過ぎてから届いた。 (完了)