一族の由来を訪ねて(南部編)

一族の由来を訪ねて(南部巡り)
1、(プロローグ)
10月初旬の午後3時、事務員の入れてくれたコーヒーを飲みながらゴルフ雑誌「アルバ」のページを退屈まぎれにめくっていた。2日前に品質管理システムISO9001の審査が終わって一息ついていた。従業員45名の造園工事を主な事業とする会社における工事部門の品質管理システムISO 9001の取得は実質的な経営上のメリットなどほとんどないのが現状である。現場職員に煩わしい数値目標やデータの収集を押し付けているが、仕事上の出来高が上がるわけでは無い。安全管理に多少のメリットがあるだけだ。品質管理マネージャーの私は、各工事の現場責任者に審査のポイントを説明して審査官からの質問に対応できるようにするのだ。品質管理上の不具合が発生する案件については私から審査員へ改善計画を提出して審査合格となるのである。毎年A4-100枚前後のファイルが追加されていくのである。水族館案内業務、植物リース業、フラワーショップ部門についてもISO 9001の対象に入れてはどうかと審査員は提案するが、これ以上の煩雑な事務処理はごめんである。工事部門だけはプロポーザル方式の入札に対応しており、ISO9001の取得は僅かに評価ポイントが上がる程度だ。落札の成否は入札価格が絶対的な要素である。総事業費が年間3億円に満たない会社にとってのメリットは少なく、名刺にISO9001の認証マークを刷り込むことで営業上のスティタスが得られるだけだろう。
ゴルフ雑誌には相変わらず様々なクラブのメリットが載っている。ゴルフはクラブの価格でなく練習量だけがハンディを減らす絶対条件である。2週間後の月例会で80を切るスコアを目標にしており、所属コースのレイアウトをシュミレーションしていた。ISO審査の準備で4日前の開催された造園業者会の定例ゴルフコンペをキャンセルしたせいでストレスがいくらか溜まっていた。
事務所のスライドドアがガラガラと開いので顔を上げると、フラワーショップの女子店員が顔をのぞかせた。事務所の横にフラワーショップを併設してあるのだ。
「失礼します。常務を訪ねてお客様がお見えです」
「どなたですか」
「年配の方でナカムラとおっしゃっています」
私は店員の後からショップに入った。色とりどりにラッピングされたコチョランの贈答用商品に囲まれた休憩スペースに初老の男性が腰かけていた。テーブルには買い求めたばかりのオンシジュウムの小鉢が置かれていた。
「こんちわ、叔父さんご無沙汰しています」
「カズ君元気そうだね。勤め先の病院のロビーに君の会社の花屋がリニューアルオープンとのポスターが張られていてね、それでこの場所を知ったのだよ」
「花を買っていただきありがとうございます」
町内の病院、公民館、食堂等、人の出入りのある場所にポスターを掲示してあったのだ。ハサマと呼ばれる本家の宏春叔父は近くのノーブル・クリニックに非常勤で勤めている。長い間那覇市内で産婦人科を開業していたが、施設の老朽化と一人息子が外科医になったことで閉業したのだ。80歳を超えたことも主な原因の一つである。クリニックでは婦人科と内科を診ているらしい。先の大戦中は義父の旧制中学の同窓生である。
「お義母さんの具合はどうかね」
「中頭病院の集中治療室から屋宜原病院に移っています。容態は安定しているようですが、意識もなく機械任せの生活を送っています」
「充君も大変だな。彼の体調はどうかね。以前に大動脈瘤の手術をしたはずだが」
「血圧は相変わらず高めですが体調に問題もなく、毎日母の面会に通っているようです」
「食事の世話や家の掃除等は嫁がしているのかい」
「いえ、私の妻が月曜から金曜日まで住み込みで面倒をみています」
「そうか。君も大変だね」
「子供たちも成人して家を出ていますし、単身赴任みたいにのんびりと暮らしていますよ」と笑った。
「ところで、2週間後の第三日曜日だがナ。7年巡りを予定しているのだよ。参加できるかな」
私はポケットから手帳を取り出した日程を調べた。所属するゴルフクラブのメンバー月例会が入っている。少し残念な気もしたが
「大丈夫です。何とか都合を付けます」
「そうか、良かった。その日は午前8時に宮里公民館前を出発だ。これが訪問先の道順だ」そう言ってカバンから茶封筒を取り出して中の紙を広げた。
「名護を出て最初に読谷を訪ね、それから越来、中城、佐敷、玉城、首里城と巡るのですね」
「そうだ、6年前と同じだ。25名ぐらい乗れるバスを手配したので奥さんが在宅なら一緒にどうぞ」そう言って立ち上がった。
「わざわざありがとうございます」私はオンシジュウムの小鉢を手に持って駐車場まで叔父を見送った。7年巡りと称するが、旧暦の歳勘定と同じで6年毎の一族の由来を訪ねる旅である。いつの頃から始まったか定かでないが、大戦以前の明治の頃から続いており、自動車交通の無い時代には米を持参して徒歩で幾日もかけて巡ったと言われている。沖縄本島北部の名護間切りの裕福な本家であり、馬車ぐらいは使ったかもしれない。分家筋の私には7年巡りの意義は理解できないが、50年余の人生で3度ばかり参加した記憶がある。大抵は我々分家の当主がその役を引き受けていたのだろうと思う。遥かに遠い日々の小学校高学年頃に、本家の爺様に連れられて一度だけバスで越来を訪問した微かな記憶が残っている。宏春おじは足腰の衰えた父の代わりとして私に参加してほしいと考えたのだろう
「完」

一族の由来を訪ねて(南部巡り)
2、(平田家)
10月の第三日曜日の午前7時30分、宮里公民館のガジュマルの老木の近くにプリウスを駐車した。このガジュマルの大木は私が幼稚園児として見上げた頃と全く変わらぬ大きさだ。否、幼稚園児の私が大木と感じた樹形と大人の私が大木と感じる感覚は同じでない。ガジュマルは50年の時を経て大きく成長しているのだろう。この場所は井戸があるも湿度が低いのであろうか

ガジュマル特有の気根の発生が見られない。 3宮里のガジュマル

公民館の南、100m程離れてこんもりと緑の繁る「前の宮」拝所が見える。樹高20以上のハスノハギリが数十本も繁る拝所は周辺の2階建ての民家よりはるか上に突き出ている。丸く大きな葉で覆われた樹冠は夏の日の海から立ち上がる入道雲にも似ている。私が幼稚園児の頃は公民館が公立幼稚園であり、拝所は夏の日差しを避けて幼児を遊ばせる最適な場所であった。幹回り5m以上で巨大な樹冠を作る巨木の間は20m以上も離れており、鬼ごっこや遊戯に興じる格好の広場であった。広場の端は海辺となっており、水遊びや砂遊びで子供たちがはしゃぎまわっていた。遠浅の海は奇跡的なエメラルドグリーンの美しさで広がり、名護湾の対岸の恩納岳の低い山並みが水平線の切れ目まで連なっていた。その風景は三十数年前までのことで、今では埋め立てられて運動公園に変わり、拝所の前を新たな国道58号が走っている。そして観光客のレンタカーが朝夕の交通混雑を引き起こしている。

公民館の2軒隣りに根神屋と呼ばれるノロの家がある。現在はノロのなり手がおらず木造建築の拝殿は公民館の女性事務員が管理をしている。男子の立ち入りが禁じられているのだ。ハスノハギリが繁る「前の宮」の一角には女人禁制の藁縄を張り巡らした結界の拝所がある。その拝所の手入れは区長さんの仕事である。
1ハスノハギリ

古い時代の名護間切りは東から東(アガリ)、城(グシク)、大兼久(ポーガニク)、宮里(ミャーザトゥ)の4集落で形成されていたようだ。集落の歴史家によると宮里は名護間切りの西の端を流れる屋部川の中流域の湊と称する場所を起源としており、湊(ミナト)ナントゥ、ナーザトゥと訛ってミャーザトゥの呼び名に落ち着いたとのことだ。台風の影響を受けやすい砂の原野に村人が落ち着くまでは随分と時が経ったことであろう。人々の棲家は水の利用が便利な川辺から始まったと理解するのが正しいと思う。私が中学の頃まで耕作していた田畑はヒルギ原、ナザキ原と称する地名である。ヒルギとはマングローブ林の樹木の一種であり、ナザキとは雑草のチガヤのことである。要するにマングローブの生い茂る湿地帯が水田に変わり、陸地化した原野が畑地になったのだ。農耕が盛んになるにつれて農地に適さないが、湿度が低く居住地に適した砂地に集落が移動したのであろう。古くからある屋敷は海浜植物のオオハマボウが防風林として屋敷の周りに植栽されており、僅かに塩分の混ざった井戸を備えていた。私の実家にも水量が豊富な井戸があり、広葉樹であるオオハマボウの新梢は田んぼの緑肥として利用していた。村はずれに歌碑があって「名護の大兼久、馬走らちいしょしゃ、船はらちいしょしゃ、わ浦泊」と方言の琉歌が刻まれていた。日本語訳にすると「名護の大兼久、馬走らせて楽しいことよ、船走らせて楽しいことよ」の意味だ。この地での草競馬は消えたがサバニと呼ぶ小型船の手漕ぎボートレース(ハーリー)は現在でも盛んだ。名護市長杯の全島選手権があるくらいだ。ちなみに旧暦の5月4日に県内の漁師町で開催されるハーリーの銅鑼が鳴ると梅雨が上がると言われている。大兼久(ウフガニク)とは広い砂地の意味である。海岸近くの砂交じり土地を兼久地(カニクジー)と名護市周辺の方言で称する。歌碑の記録では幅8間(15m)、長さ120間(220m)の馬場であったようだ。父に歌碑と馬場の話をしたことがある。母が気管支炎で入院中であり、父と二人だけで夕食を取っているときのことだ。箸を止めて遠くを見るような目で話し始めた。
確かあったようだ。ワシが子供の頃にもその痕跡が残っていた。「前の宮」のさらに東側で大兼久集落との境だったと覚えている。当時の小中学校が大兼久集落と城集落の間にあったので馬場の跡地に出来た砂交じりの道を通って通学していた。学校の帰りに本家の前を通ると本家の爺様に呼び止められ家の縁側でふかし芋とひとかけらの黒糖を食べさせてくれた。「美味いか、チュウバー(猛者)になれよ」と言った。そして納屋に連れて行って壁に吊るした馬の鞍を見せて言った。「ワシが青年の頃は馬場で馬を走らせる競争をしたものだ」言った。爺様は明治の少し前の生まれで。紐で結ばれた丸い眼鏡をかけて新聞を読んではワシの知らない世間の話をしてくれた。ワシの子供の頃は新聞などというものは何処にも無かった。ワシにとって学校の先生よりも位の高い雲の上の存在であった。爺様は明治の断髪令に反抗して未だにカンプゥ(髷)を結っていた。村の人は爺様に合うと誰もが頭を下げて挨拶していた。父は汁椀を手に取って味噌汁を一口飲んでから少し顔をほころばして話を続けた。爺様の話には続きがあってナ。親戚の叔父さんからこんな話を聞いた事がある。爺様の若い頃は家で書物を読んでばかりいて、畑の見回りに積極的に行かなかったそうだ。たまに親父に叱られて見回りに出ても、一刻もしないうちに帰宅したそうだ。婆さまが問いただすと「暑いし、脚は痛いし一里も先の小作人の田畑まで回る気がしない。近くの小作人が頑張っているから遠くの小作人も同じく真面目に働いているだろう。ワシは学問が好きだ。田畑の管理は親父殿に任せとけば良いでしょう」と口答えしたそうだ。母親を早くに亡くした爺様は祖母に育てられたらしい。そこで婆様は馬を何処からか探してきて、これに乗って田畑を回っておくれと言ったそうだ。爺様は馬に鞍を着けて昼飯のイモを持って朝から小作人の田畑を回って夕方に帰宅したそうだ。日に焼けて帰宅する爺様は次第に体つきもがっしりしてきたので婆様はひどく喜んだそうだ。父は言った。幾ら遠い田畑でも馬で行けば1日中かかることは無いだろう。ほれ、今の為又集落の奥地でも大した距離ではないのだから。爺様は確かに小作人の田畑を回ったのではあるが、昼食後は馬場に行って馬を走らせて遊び、夕方に馬を水浴びさせてから帰宅したそうだ。確かに体は頑丈になっただろうさ。いつの時代でも婆様は孫に甘いのさ。ワシも子供の頃に弟と二人は祖母に育てられて小中学校を卒業したのだ。その頃は国の政策で南洋群島開拓団が流行っており、両親や多くの親戚が南洋群島のテニアン島、ポナペ島に出稼ぎに出ていたのだ。沖縄県民は貧乏人が多かったから沖縄より暮らし易い南洋群島に生活の糧を求めたのだ。そのことを知っている本家の爺様はワシらの生活を気にしていたのだろう。父は少し寂し気に笑って食事を続けた。
2馬場

1970年名護町、屋部村、羽地村、屋我地村、久志村が合併して名護市となった。

ハサマ一族の本家の現在の当主である宏春叔父は一族が集う祭事の度に我一族がこの地に住み着いたのは1500年代であると家系図をみせて説明した。我が一族は湊と称する時代からこの地に住んでいた土着民ではなく、外来転入者の一族ということになるのだ。家系図なるものを持つ外来者故に一族の由来を訪ねる礼拝地所お参りの旅を定期的に行っているのであろう。宗教的ない色合いを持たず、琉球列島伝統の祖先崇拝として一族の繁栄と自らの心の安寧を求めて、一族を繋ぐ礼拝地所を巡る旅をするのである。
公民館の広場には沖縄県農業協同組合北部地区本部と書かれたマイクロバスが停まっていた。三菱自動車の27名乗りである。フロントガラスの上部に「ハサマ一門様」と書かれた紙が貼られていた。このバスで拝所地巡りのツアーにでるようだ。バスの周りには既にバスツアーに参加する親族が集まっていた。本家のヨシ叔母さんの顔が見えたので声を掛けた。
「今日の参加費はどうすればよいでしょうか。参加は私一人ですが6名家族です」
「ハサマの一族の者一人に付き500円です。貴方の奥さんの分は要りませんよ。血縁者ではないから」
私は父と娘4名と自分の分を含めて3000円を納めた。叔父の嫁が会計役をしていた。参加費は訪問先のお布施として使われるのである。次々と参加者が会費を納めてバスに乗り込んだ。私は皆が席を取ってから最後に乗り込むためバスの外で待った。叔母に参加者の人数を尋ねると総勢29名ということである。但し名護市から参加するのは20名で那覇市在住の者9名は最初の訪問地である読谷村で合流するとのことである。バスは補助席を使わずとも乗れるようだ。一族の構成はハサマ本家が8名、私のマガイハサマ小(グワー)から8名、スージンハサマ小(グワー)から5名、コーブンハサマ小(グワー)5名、宏春叔父の従弟家族が3名である。分家筋には小(グワー)の敬称が付いている。本家が大(ウフヤー)で分家が小(グワー)らしい。沖縄県では良く見られる家の呼び名だ。私の実家はコーブンハサマ小の家の角を曲がったその先の家という意味らしい。曲がり角の先の家、曲りを方言でマガイと言うのだ。私の実家が一族の中では集落の最も西はずれに位置している。それでも本家との距離は400mも離れていないのだ。
午前8時、運転手がやってきて叔父に声を掛けた。
「皆さんおそろいですか」
見覚えのある男だ、私の顔を見てほほ笑んだ。高校の同窓生上間君である。高校の2年次に腎臓を悪くして1年遅れで卒業した男だ。その後、私と同じ大学の経済学部に進学して卒業後に沖縄県農業協同組合名護支店の経理部門で働いていたはずである。
「久しぶりだね。今は何処の農協に勤めているのかい」
「北部地区本部だ。資材センターの運営に関わる部署だ」
「今日はどうしたの」
「休みの日にボランティアで運転手をしているのさ。老人会の視察旅行などで県内をくまなくドライブしているよ。今回は職場の知人を介して宏春さんからの依頼を引き受けたのさ」
「そいつはありがたいな」
「おかげさまで大学にいた頃より中南部の道路事情に詳しくなったよ」
「俺は今でも大学のあった首里城の周りぐらいしか知らないよ」
「門中御願の拝所巡りは初めてだ。ハサマ一門は首里からやって来た由緒ある一族だってね」
「由緒あるかどうか知らないが、一族の絆を深める行事には違いないな。今日一日よろしくお願いします」そう言ってバスに乗り込んで後方の席に座った。バスの中は家族同士が対になって座っていた。6年前には兄と父の弟の三男叔父が私と並んで座っていたのを思い出した。今回は叔父も兄も不参加で叔父の次男夫婦が参加していた。奥さんは他府県から嫁いでおり妊婦であった。マガイハサマ小からは昨年亡くなった四男叔父の奥さんと長男次女、そして父の妹の二人の叔母が参加していた。門中御願の拝所巡りは老人会の慰安旅行とは随分と趣が異なる旅である。
8時20分:宮里公民館を後にして国道58号を南下した。許田から高速道路に入った。家族連れの年配の叔母さんたちは菓子類をカバンから取り出して皆に分け合っていた。まるでピクニックのようである。私も喉飴を1個貰った。バスの車窓から見る風景はいつもの乗用車からの視界と少し異なり、普段気付かぬものが見えて面白いものだ。しかしすぐに慣れてしまい眠気を誘った。気がつくと高速道路を降りて国道58号読谷村多幸山の長い上り坂に差しかかっていた。バスのエンジン音が高くなったので目が覚めたのである。目的地の伊良皆集落の手前の喜名交差点を右折して旧読谷米軍飛行場の跡地の荒涼としたススキが原の中を進んだ。右手の小高い松林の中に護佐丸の最初の居城座喜味城址ある。さらに進むと右前方の真新しい赤瓦の読谷村役場あり、そこに続く交差点を左折した。ススキの原野の中にアスファルト舗装の滑走路跡が長く伸びていた。その中を緩やかに左に旋回して進むと伊良皆集落の民家が見えて来た。目的の拝所付近が一方通行の為に大きく迂回して集落に向かったのである。大戦前の豊かな農耕地と集落は米軍に接収され軍事施設に変わり、日本復帰まで利用されてきた。返還後も土地利用が中々進まないでいる。一度アスファルトで固められた土地は以前の豊かな耕作地に容易には戻らない。数百年の時代を積み重ねて耕作に適した土地に作り上げた農地をブルトーザーで剥ぎ取り、コーラル砂利を敷きつめてアスファルトで被覆してしまったのだ。先祖伝来の農地は農作物の生産能力を失ってしまった。その代り軍用地料という新たな換金収入源を発生させた。大戦後の半世紀の間に住民と土地との関りを一変させてしまった。人工的な荒廃地が出現した今日、住民は土地本来の能力を再現するエネルギーを見いだせないでいるのかもしれない。集落の消滅は村人を散逸させてしまい、農村としての土地利用に関する世代間の継承が途絶えてしまっているのだろう。それでも米軍が去った後には新たな文化が芽生え始めている。座喜味城址の周辺に「やちむんの里」が形成されている。読谷村の政策の成果である。琉球王朝時代に城下町の壺屋に島内の陶工が集められて壺屋焼きという琉球独特の陶芸が発達してきた。しかし大戦後の那覇市の爆発的な人口の集中は焼き物工場の存在を圧迫してしまった。大量の薪を燃やし、住宅街に煙を吐き出す壺屋焼き独特の登り窯は都会の空気に馴染むわけにはいかなかったのである。私の友人で沖縄県立芸術大学元教授のSさんも30数年前まで壺屋でガス窯を使って焼き物をしていたが読谷村の募集に応じて「やちむんの里」に移って来た。現在ガラス工芸などを含む60余の工房があり、一つの文化村を形成している。緑の中に点在する工房と作品の展示即売所は観光客の往来が絶えない。壺屋焼き独特の伝統的な技法から斬新な若手陶芸家の作品まで多彩な焼き物を鑑賞できる地域である。ガラス工芸の体験工房も幾つかあって土産品の購入以外でも楽しめる地域である。
私は15年前に友人のSさんの紹介で宮城敏徳氏のシーサー1対を求めたことがある。自宅を立て替えた際に門柱に据える為である。50㎝程の高さであるが伝統的な表情をしたシーサーで威風堂々としている。今年に入って愛知県でマンションを買った長女に頼まれて玄関に据えるシーサー1体を探しにやちむんの里を訪れた。宮城氏の工房は代が変わり既に以前の面影のある作品は消えていた。最近の観光客に威風堂々は好まれぬようだ。私はSさんの穏やかな性格が滲み出た優しい表情の逸品を求めた。屋外に置くシーサーは威風堂々でも良いが玄関の内側に置くシーサーは穏やかな表情で帰宅した家族を迎える方が良いとも考えた。ちなみに壺屋焼きの伝統的な食器は最近の西洋料理は相性が良いとは言えない。米国式の食生活が他府県より早くに普及した沖縄県では、洋風と地元料理の混合料理が普及していて、伝統的な器は料理とのマッチングがあまりよろしくない。私は大学の先輩が復元した名護市羽地の古我知焼の工房を時折訪ねて湯飲みなどの小品を求めるのであるが、実用品としては長く使用できないでいる。観賞用としての存在になってしまうのは残念である。
最初の訪問地である平田家の前でバスを降りた。既に那覇からの一族が待っていた。平田家は尚巴志の祭壇を祭っているのだ。祭壇は本宅と別棟で10畳程の広さのコンクリート造りの平屋である。宏春叔父が本宅へ挨拶に行くも不在らしく戻って来た。祭壇のある建物は鍵が掛かっておらず勝手にガラス戸を開けて中に入った。祭壇の中央にはお布施を投入するポストにも似た穴が開いており、お布施口と紙が貼られていた。部屋の左隅に水道付きの流し台があり、「水道の閉め忘れと火の元にご注意ください。ウチカビはご遠慮ください」と張り紙があった。現在の平田家の管理者は頻繁に訪れる拝観者に対応出来ないのであろう。1400年代の初頭、三山を統一して琉球国の初代王に付いた尚巴志という琉球のスーパースターは、今日でも平田家に関わっているのである。国道58号を隔てて約600mの場所に尚巴志の墓があるようだ。尚巴志は沖縄の歴史上の偉人であり今でも名前だけが独り歩きをしている。この祭壇に線香をあげるのは、ハサマ一族だけでなく立身出世を願う財界人、政治家が頻繁に参るそうだ。とりわけ政治家にその傾向が強いと言われている。尚巴志に我が身を投影して世の中を治めたいとの自負心があるのだろう。
平田家が守っている祭壇には右端に火の神(ヒヌカン)の香炉、中央に尚巴志、平田之子、屋比久之子と並んでいる。平田氏、屋比久氏は第一尚氏に代わって第二尚氏が台頭した折、第二尚氏の手を逃れて尚巴志親子の遺骨をこの地に移動したとの伝承がある。第二尚氏の始祖金丸は自ら尚円王と名乗るも血族ではない。内乱の隙に乗じて王になったのである。当時の琉球国は中国の認可の元に交易を行っており、首里城近くにある尚巴志親子の墓の存在は目障りであったのだろう。何しろ中国の冊封子と呼ばれる紫禁城からの官僚が定期的に首里城を訪問して文化交流をしていたのだから。平田氏と屋比久氏は第二尚氏が采配を振るう前に骨壺を移したのである。平田氏は座喜味城址の北20kmにある伊波城址の出と言われている。宏春叔父より前の党首は伊波城址も御願の対象としていたらしい。叔父は実家と遠く離れた那覇市内の産婦人科病院の経営に追われて実家の祭りごとは先代に任せきりであったと口にしたことがあった。ハサマ一族は尚巴志の五男である尚泰久王を始祖としており、その親を奉る意味での参拝である。火の神、尚巴志、平田氏、屋比久氏の順に参拝するのだ。
お祈りの口上をスージンハサマ小の英明さんの奥さんの幸子さんが説明した。
「私は名護間切りのハサマ一門の誰それです。どうぞ私の家族の子々孫々まで繁栄させてください」と心で唱えて祈るのである。何度も線香を立て、水酒を取り換えての祈りは手間がかかるものである。さらに線香が燃え尽きるまではこの場所から離れられないのである。一連の御願は宏春叔父の長男の宏樹とその奥さんが行い、年長者の幸子さんがアドバイスをして儀式を進めた。10畳程の部屋が忽ち線香の煙で充満し、衣服が沖縄独特の平線香の香に染まった気がした。
35分ほどで儀式が終わり、バスに向かう途中で幸子さんが言った。
4平田家

「この先の米軍基地の近くに尚巴志のお墓があるのよ。どうして其処にお参りしに行かないのかしら」
「この近くに尚巴志の墓があるのですか。幸子姉さん詳しいですね」
「私は読谷高校の出身ですよ」と笑って答えた。
「そうですか、宮里の方だと思っていました」
「お墓は本通りからあまり遠くなく、今では楽に歩ける道があるのよ。その近くを比謝川の支流が流れていて佐敷川と呼ばれているの。私が思うに佐敷出身の屋比久氏を偲んで地元の村人が名付けたのでしょうね」
この地に屋比久氏の祭壇があるということは、故郷の佐敷に戻ることなく骨を埋めたのであろう。屋比久姓は中・北部に少なく佐敷町に多い一門である。
僕らは上間君の誘導でファミリーマートの駐車場に止めてあるバス向かって歩き出した。嘉手納基地からやって来たと思しき3機の戦闘機が爆音を響かせて頭上を飛び去った。閑静な北部の田舎町で暮らし爆音に慣れていないハサマ一族が一斉に空を見上げた。
「完」

一族の由来を訪ねて(南部巡り)
3、(嘉手納基地)
10時10分、平田家の近くのファミリーマートの駐車場からバスは次の礼拝場所に向かった。国道58号を喜名交差点でUターンして南下した。ゆっくりと下って比謝橋を渡った。17世紀の琉球王朝の女流歌人吉屋チルーの歌碑が橋の近くのポケットパークにあるはずだ。読谷村山田の貧しい農家の生まれで、8歳で花街に売られていく途中の比謝橋を渡る際に歌った歌がある。
「恨む比謝橋や、情け無い人の、我身渡さと思て、架けて置きやら」
美女薄明で身分の違う恋に破れて18歳で命を絶ったと言われている。悲恋の女流歌人である。レンタカーナンバーの車が行き交う現在の比謝橋を眺めて、吉屋チルーはどう歌うだろか。比謝橋を過ぎるとゆっくりと上り坂となっていて嘉手納ロータリーに入る。正面は嘉手納飛行場で国道58号はその横を南下して那覇市まで続く。バスは左折して県道74号に入り米軍基地のフェンス沿いを沖縄市に向かって進んだ。米軍戦闘機ファントムの発着は見られず、格納庫の前で日向ぼっこをしている。遠くに黒い機体のB-52大型爆撃機が羽を広げている。格納庫に収まらず、駐機場に停まっているのだろう。台風の後に飛来するグンカンドリ似て異様な黒褐色の機体を駐機場に晒している。これだけ大きな機体が空を飛ぶのか、この大きさの機体はどれ程多くの爆弾を投下出来るのだろうか、そしてどれだけ多くの人民を殺傷するのだろうか思うと不快になった。父を除く兄弟姉妹は南陽群島のテニアン島で戦争に巻き込まれ、皆で難儀して育てたサトウキビ畑を無造作に均して作られた飛行場からB-29爆撃機が連日飛び立つのを見ていた。そして本土の都市を爆撃して広島、長崎には新型大量破壊兵器の原爆を投下したことを大人の噂話から知った。父は長崎大村の海軍基地で潜水艦乗りとして終戦を迎えた。むろん長崎の原爆被災地の状況を知っていただろうが、僕らにその惨状を話すことは無かった。
5-1嘉手納基地2

あまり高さの無い建物には星条旗と日の丸が初秋の西風を受けて翻っていた。沖縄が日本復帰した頃から自衛隊の交流があるのだろう。嘉手納ロータリーにはいつの間にか防衛局の沖縄事務所の建物が居座っている。戦争に負けて米国の支配下に安住することへの羞恥心を失い、武士道を忘れた日本人の哀しい姿である。もっとも武士道は日本帝国軍が天皇を狡賢く利用した時点で死語となっていたのだろう。正義の無い侵略戦争を隣国や東南アジアに広げて自国を崩壊させてしまったのだ。日の丸の旗は沖縄県民の歴史観が日の丸に対する憧れと悲哀が重なって複雑な思いとなって風に翻っているのだ。まして星条旗と並んで秋風に翻っていると尚更である。私には広大な米軍基地の中にはためく日章旗は虎の威を借りる狐が虎に化けるための呪い用の木の葉にも思えるのだ。農耕民族が狩猟民族に迎合していつまでも続いてくれる平和の白昼夢を見ているように思える。
農耕民族である日本人は本物の戦(イクサ)を身近に体験してこなかった。長い武家社会の歴史の中の戦は国民の6%に過ぎない武家の戦いであり、国民の意思で戦いに参加することは無かった。日露戦争の戦勝に沸きたった余韻で二次大戦へと突入していった。天皇を頂点とする神の国の選ばれし国民という訳のわからぬ理屈は、西欧列強への劣等感の裏返しであったのだろう。過去の愚かな戦争の歴史を反省する者は多いが、今日のお愚かな国防行動を反省する者は少ない。今日の日米同盟によって自らの平和な暮らしを守ってもらっているとの錯覚に気づかずにいるのだ。日米安保条約は米軍人の治外法権を容認して彼らの良心に基づく行動を期待してきた。米国軍人による犯罪行為を見ないふりしてきた日本の知識人すら多いのだ。米国軍人を羊の皮を被った狼とも知らずに平和の使者と歓迎する愚かな思想から抜け出せずにいる日本国民に悲壮感を覚えるのは私だけではあるまい。日本人は武家社会と変わらぬ発想のままであり、武士が庶民を守ってくれるとの歴史認識のままで戦後の70年を過ごしてきた。自衛という観念が育たぬ中で自衛隊なる集団を作り、多くの思いやり予算で米国軍を雇ったつもりになっている。自衛隊は所詮的撃ちの公務員に過ぎず、米国軍人のような殺戮の戦場を這いずり回る殺人集団には育っていない。農耕民族は狩猟民族の歴史を好まない。今日ある農作物は明日もそこに実っているだろうが、今日撃ち取った獲物が明日もそこに現れると思う狩猟者は皆無だろう。自らの命の危険と引き換えに今日の糧を得るのが狩猟民だ。米国は膨大な農産物を生産する国であるが農耕民族ではなく狩猟民が作った国であり、いまだにその狩猟民族としての思想が国民の基礎になっているのだ。農耕民族で形成された自衛隊が狩猟民族の米国軍と対等な能力を持つことは出来ない。幸か不幸か日本は幕末の開国で西洋列強に侵略されず、英米に比べて国民が異国の人種と混在することが無かった。それを国粋主義者は神が与えた純潔国民と自負するが遺伝学的には南北海洋民族の混血種である。ユーラシア大陸の極東の小国が300年の眠りに就いていただけだ。西欧諸国に産業革命と略奪紛争の吹き荒れる中で揺り篭に安眠をむさぼっていただけだ。明治の開国依頼100年の騒乱の時代を経て日本は本来の農耕民族の形態に戻ってしまった。自力で防衛する能力を育てる術を米国の虚言によって放棄したのだ。国家の自己防衛とは個人の生死の間にあるであって政治家の机上にあるのではない。
私は遠く青年期の終り頃、果樹園管理の仕事を兼ねて射撃と狩猟に明け暮れた日々があった。その時に射撃と狩猟が同じ火器を扱うも似て異なることを知った。
例えば的撃ちのライフル射撃では、照星の先でクルクル回る黒い標的が止まるのを待ってゆっくりと引き金に圧力をかければ良い。引き金は絞るのではなく押すのだ。その方が無意識の行動に入りやすい。心臓の鼓動さえもがと止まる気配の中に身を置けば良い。禅の世界に近い空間に身を置くのだ。一方、スキーと射撃では、プールから飛び出したクレービジョンを照星に乗せて引き金を引き、銃身を反転してマークから飛んできたクレービジョンを追い抜きざまに引き金を絞ればよい。何も考えずにただ素早く正確なレミントンM1,100の銃床の頬付けと機敏で正しい軌道での銃身の切り返しだけだ。
ところが狩りは的撃ちとは全く異なる。肉体と精神を融合させる行動である。例えば12月の夕暮れ時、稲刈りの終わった名護市の北の羽地集落の水田地帯の片隅のキビ畑の陰に隠れ、近くの農業用ダムから飛来するカモを待つ。やがて山影から十数羽のカモが編隊を組んでやってくる。ゆっくりと旋回しながら上空を舞い、次第に高度を下げて降り場所を確認している。レミントンM-870の30インチ銃身に込めた4号弾の射程に入るのを待って先頭の一羽目を撃つ、そして荒れた隊列の次の一羽を打つ、それが外れると3発目のマグナム3号弾を発射する。回収犬を使わずカモの落下地点を目で追っての狩猟では2羽が限界だ。ルアーフィッシングで2キロのガーラ(ロウニンアジ)を釣り上げるほどの興奮もなくゲームが終了する。そして銃を肩に担いで田んぼの稲の刈り株の間に落ちたカモを回収して肥料の空き袋に入れる。今しがたまで羽ばたいていたカモは未だ生暖かく生命の名残を残している。狩人の心に生き物の命を取り去ったことへの奇妙な寂寥感にも似た感傷が僅かに芽生えるのだ。
5-2羽地水田羽地米として人気の銘柄の春の田植え直後

大型獣の猪撃ちの場合はもっと明確だ。4月の早朝。果樹園の防風林イスノキの下に茂るススキの陰に隠れてリュウキュウバライチゴの茂みに意識を集中する。前日に果樹園のフェンスの金網が腐食して破れた部分からイノシシの出入りしている跡を見つけておいたのだ。足跡が新しく近くのイチゴの実を毎朝食べに来ているのだろう。イノシシは熟した果実しか食べない。イチゴに限らず温州ミカンやタンカンもそうである。特にうまい果実の実る木を知っているようだ。グルメな動物である。野イチゴ狩りを山鳥と競って早朝にやってくるのだ。私はレミントンM870の銃身に照星と照門を取り付けて猪撃ち用に改造してあった。1発目にライフルスラグ弾、その次に9粒弾を3発込めてあった。煙草をじっと我慢して1時間ほど待った。朝日が昇る直前になっても気配が無く、米軍野戦ジャケットのポケットの煙草に手を伸ばそうとしたとたんに30m先のフェンスが揺れた。ススキとチガヤとシャリンバイの幼木が入り混じって生えた場所がカサカサと揺れた。ゆっくりとこちらに向かっている。姿は見えないがイノシシ以外にあのように草木を大きく揺らす動物はいない。膝撃ちの姿勢をとってススキの間からイチゴの茂みに体を向けて待った。銃を担ぐ革のスリングを左腕の前腕に巻き付け銃身のブレを抑える工夫をして息を殺してイチゴの茂みの動きを見つめた。イノシシは低い枝のイチゴを食べているらしく中々姿を見せない。しかしイチゴの樹冠は1m近くあり、下枝の実を食べつくすと上の部分の実を食べるだろう。その時に顔を出して私に正確な体形の位置を示すだろう。フェンスに沿って15m程の長さで広がるイチゴの茂みの一か所だけが揺れている。そこにいるのは分かっている早く顔を出して高い位置のイチゴを食え。私の心臓は初夏の爬龍船競争の銅鑼鐘の様に高速に打ち鳴らされている。血流が全身を駆け巡った。そしてついにイノシシの鼻先が見えた。人差し指で引き金の手前にある安全ボタンをはずした。パチンと音を立てて安全ボタンが赤色に変わった。いつもは意識しない安全ボタンの開錠音がひどく大きく聞こえた。イノシシがこの音に反応することは無かった。喉が無性に乾いた。唾を飲み込むと銃身が僅かに動いた。イノシシはしきりにイチゴをむしっていた。時折イチゴの葉の間から鼻をのぞかせた。小さな舌先が鼻を舐めた。やがて前足を上げて後ろ足立ちで体を持ち上げた。イノシシの横顔がほんの少しイチゴの葉の間から覗いた。可愛い目をした若いイノシシである。照星を胴体と思しき位置に向けた。イノシシは無防備な状態で私のレミントン照星の先にいる。私は一瞬引き金に圧を加えるのを躊躇った。イノシシの顔がイチゴの葉の中に消えた。私はフーと息を吐いた。イチゴの茂みが僅かに揺れている。その上にイチゴの実が多数残っている。もう一度立ち上がってそれを取るはずだ。私は銃床から頬を離し手のひらを開いて指を屈伸して握りなおした。そして再び茂みの一点に焦点を合わせた。イノシシが背伸びをするように後ろ足で大きく立ち上がった。私はイノシシの腹の辺りに照星を少し降ろして引き金を絞った。文字通り右手を握りしめるように絞った。右肩と頬にライフルスラグ弾特有の強い衝撃が走った。キジバト撃ちの7号半やカモ撃ちの4号弾と比較にならない衝撃である。イチゴの茂みの中でピーとイノシシが甲高い悲鳴にも似た鳴き声を上げて野イチゴの枝葉を激しく揺さぶった。私はすぐさまススキの陰を飛び出して揺れる茂みの5m前からM870のスライドレバーを操作して3発の9粒弾をその中に連射した。イノシシの鳴き声はすぐに止んだ。イノシシのもがきで茂みが割れてイノシシの姿が見えた。その頭部に向けて止めの引き金を引いた。カチンという撃鉄の乾いた音がした。レミントンの弾倉は空になっており弾を撃ち尽くしていた。既にイノシシはピクリとも動かなかった。背骨の部分が大きくえぐり取られた若いイノシシが横たわっていた。一発目のライフルスラグ弾がタンブリングして背骨と背筋を直径10㎝程弾き飛ばしイノシシの動きを無能にしたようだ。私は銃を肩から降ろして脇に抱えたまま茫然とイノシシの死体を眺めていた。時の流れを見失っていた。ふと首筋に日の光の温かさを感じて振り返ると普久川の谷間にある安波集落の向かいの林から朝日が顔を出していた。散弾銃の引き金の後ろの安全ボタンを押すと、パチンと音がして赤い目印が消えた。銃を肩にかけ煙草を取り出して火をつけた。朝凪の森に煙草の煙がゆっくりと広がった。イノシシを果樹園の管理道路まで引きずりだしてから100mほど先の防風林のイスノキの脇に止めてあるダットサンピックアップに向かって歩き出した。2本目の煙草に火をつけてからトラックのエンジンをかけた。爬龍船競争の終わった心臓は心拍数をいつもの調子で叩いていた。30㎏程のイノシシを荷台に積み込み果樹園の管理棟に向かった。猪撃ちの興奮は消えて若イノシシの優しい瞳とぼろ毛布の如く草むらに横たわる姿が私の脳裏に繰り返し交錯した。高揚感の代わりに疲れを伴った寂寞した感情が残ってしまった。大きな躯体と感性を備えた表情を持つ生き物の命を奪う行為の報いのような気がした。的撃ちと狩猟の違いがそこにあった。その後も何頭かのイノシシを撃った。狩猟を止めて二十数年も経つがスラグ弾を撃つ衝撃と硝煙の臭いは未だに忘れることが出来ない。それは私が小心者故か、誰もが抱える人間の本性であるかの区別は解らない。
5-3やんばるの森国頭村の原生林、猟師が消えてイノシシが増えている。

ベトナム戦争、中東戦争と容易に大義名分を掲げて人間を狩っては覇権を争う米国軍と何かを御旗にして狂気に陥らねば人間狩りをできない日本国軍の違いは確かにある。そしてそれを認識できない現代の日本人の民族としての哀しさが嘉手納基地に翻る日章旗に存在している気がした。

「完」

一族の由来を訪ねて(南部巡り)
4、(川端家)
バスは嘉手納基地のフェンス沿いを走り、松本交差点で左折して沖縄市美里(南)交差点近くで停まった。バスを降りると越来3丁目の2の表示板が電柱に固定されていた。我々はファミリーマート越来店の横の路地をぞろぞろと下って行った。人通りもなく閑散とした古ぼけた住宅がひしめき合っていた。20年ばかり前にタイムスリップした感があった。300mほど下ったくぼ地に川端家があった。谷間の始まりに似た場所で川端家からさらにゆっくりと谷間が西の方角に続いていた。おそらくこの谷間は比謝川の支流の起点となっているのであろう。敷地の一角にトタン屋根の倉庫に似た建物とその横に古い鉄製の大きな煙突か立っていた。煙突には錆が浮いており長い間使われた形跡がない。この施設は風呂屋であったのだろう。
川端家も平田家と同様に母屋と拝所が別棟となっていた。只、平田家ほどの来訪者は無い様だ。川端家の90歳近い女主人が母屋の仏間に我々を招き入れてくれた。全員で仏壇に手を合わせてその次に隣の棟の配所を全員で祈願した。6川端家

川端家の始祖は第一尚氏の6代国王となる尚泰久王子とノロの世利久の間に生まれた子供である。ハサマ一族は川端家の6代目の次男を始祖としている。宏春叔父は正月の初祈願に系図を開いて分家の我々に説明するのが常である。首里王府勤めの役人が何故に王府から遠く離れた本島北部の田舎やんばる地の名護間切に移り住んだか定かでないが、系図では読み取れない何らかの事情があったのであろう。庭の一角には尚泰久王子が我子の誕生を記念して植えた白椿がある。越来白玉という一重咲きの品種である。現在の株は高さ1.5m程で、実生で続いた何代目かの株であろう。私の小学生の頃に訪れた記憶では幹回り30㎝で3m余りの老木であった。半世紀の間に代替わりしたのであろう。越来白玉は純白で貴婦人のような気品のある花である。成長が遅く育てにくい品種でもある。私も6年前に訪れた際に種子を採取して育成しているが未だ開花に至っていない。ツバキの盆栽マニアの間でも幻の名花と呼ばれているらしい。家主の老女は気さくな方で我々に炭酸飲料のオロナミンCを配ってくれた。宏春叔父が訪問のアポイントを取るために訪れた際に十分な謝金を渡したのであろうと推察した。叔父は一族の当主として幾日か前に必要個所を事前訪問しているのである。離れの配所は世利久を祭ってあり、川端家の直系の縁者以外の来訪もあるらしく、平田家の離れの配所と同じ造りである。7白椿3

川端家の向かいは石ガーと呼ばれる湧水地がある。分水嶺の谷の始まりである。白椿の他に水の利権を与えたのである。川端家はその水を利用して風呂屋を営んでいたようだ。尚泰久王は越来王子の頃、首里と沖縄北部との交通の要であるこの地を治めている。そのころに第二尚氏の初代王となる金丸を側近として登用している。尚巴志、尚泰久、金丸(尚圓王)は琉球王国の誕生初期の頃に最も大きな変革をもたらした人物達である
8井戸

我々はこの石ガーを拝んだ。井戸には手漕ぎポンプが設置されており、ハンドルを上下させると勢いよく水が出てきた。井戸の周りは100坪程のポケットパークとなっており、多くの椿が植栽されていた。ただ品種は園芸種らしく樹形や樹勢が越来白玉と全く異なっていた。越来白玉は貴婦人らしく庶民の園芸品種に混ざって育つことは出来ないようだ。僕らは緩やかな坂道を登ってバスに向かった。あまり立派とは言えない民家の表札には吉田、田端、山本、中村、石原など沖縄には少ない姓が目立った。那覇から参加した秀栄さんにそのことを話すと、「戦後、大和風に改名したのだろう」と吐き捨てるように言った。
私は少しだけ可笑しくなった。僕らだって戦後、仲村渠から仲村に改名したのだから。秀栄さんはそのことも含めて不快に感じているのかもしれない。私より一世代前の先輩は祖先への尊敬の念が強いのだろう。
世利久の墓はコザ中央霊園の中にあった。石灰岩をくり抜いて作られた墓は戦火にも耐えて石壁は苔むしていた。この周りは霊験が高いのだろう。樹木は手入れがなされず自然に生えていた。アカギ、ガジュマル、ホルトノキ、クロツグ、トウズルモドキが無造作に自然の摂理に任せて存在している。尚泰久が覇権を示したの頃から悠久の時を経て存在しているのである。墓の庭は岩をくり抜いて作られており、周りより窪んでやたらと湿度が高くなっている。藪蚊がたちまち集まってきて僕らの血で栄養補給をするために活動を始めた。宏春叔父が蚊取りスプレーを噴射するも蚊の数には及ばない。僕らは手早く線香あげて手を合わせて立ち上がった。隣に大戦後に造られたコンクリート製の墓があり、川端家と表示されたていた。
宏春叔父が立ち上がって言った。
「この先にもう一か所お参りすべき墓があったはずだが、地形が変わってよく分からない」
指さす方向の崖の上にはブロックが積まれており、「中の町建材資材置き場、立ち入り禁止」の表示板があった。
「名護墓と呼ばれていて、名護から来る人達だけが拝んでいたそうだ」
ブロック塀の左端の崖下に小さな古い墓が3基並んでいた。そこに続く小道はブロック壁の手前で崩落していた。
「私たちの直接のご先祖も知れないのでお通しだけでもしておこう」宏春叔父の合図で手を合わせた。
参拝者はそれぞれにパチン、パチンと手をたたいて藪蚊を追い払いながらバスに戻った。私は近くに誰かがいる場合は不思議と蚊が寄り付かない。一人で藪に入ると蚊も不本意ながら私の血を求めるようだ。私の血は蚊の好みに合わないようだ。小道を下りながら気づいたのは誰か小道の周りのクワズイモやススキ葉を刈り払って通り易くしていた。宏春叔父の一人息子の宏樹に「叔父さんは下見に来たのかい」と尋ねた。
「先週の日曜日に川端家に挨拶に行ったようだ」返事した。
「そうかい、ここの小道も手が入っているね」と言って笑った。
「オヤジはマメな人ですから」そう言ってはにかんだ。
9世利久墓

コザ中央霊園を出て、コザ十字路横切り国道329号を南下した。中城村渡久地の公民館前でバスを降りて、公民館の向かいにある配所で手を合わせた。宏春叔父は何らの説明もしなかった。中城城址が近くにある場所だ。尚泰久王の義父護佐丸と勝連城主安麻和利の戦いに由来する場所かもしれない。昼時の空腹のためか誰もこの地の配所に関する質問をするものはいなかった。一行の直接のご先祖にかかわる場所とも思われなかった。皆は拝み疲れと空腹感で会話の余裕もなかった。
12:35、昼食を大西ゴルフクラブのレストランでバイキングスタイルの食事を取った。年寄、子供交じりの30名近い人間が食事をとれる場所は少ない。一人1,000円を払って好きなものを好きな量取れば短時間で昼食が済むのである。上間君と並んで30分ほどで昼食を済ませて外に出た。テラスの向こうには中城湾が秋の澄み切った空気の中で青く広がっていた。左手のはるか彼方に勝連半島が続いていた。半島の小高い丘に安麻和利の居城であった勝連城址があるはずだ。この地で戦国武将の護佐丸が安麻和利に滅ぼされ、安麻和利は逆賊として首里王府に滅ぼされた。戦国時代の実力者を排斥する為の尚泰久王と側近金丸の策略であろうが、側近として金丸を迎え入れたことで尚泰久没後に第一尚氏が10年を待たずに側近の金丸(尚円)を始祖とする第二尚氏変わるのも皮肉な歴史の変化である。日本の戦国時代の織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康の時代になって武家社会の安定期を迎えたのに似ている。いつの時代でも人間の個の力は集合して大きなエネルギーを生じ、それが終息するには攻防によるエネルギーの放出が必要なのであろう。中国、中東諸国、西洋とて同じだ。国土の大きさによってエネルギーの規模が異なるだけである。
10大西ゴルフ2

私はゴルフを始めた頃、この大西ゴルフ場で何度かナイターゴルフをしたことがある。ここから見るゴルフ場のロケーションは素敵だが、夜のゴルフ場は少し異なっている。ゴルフ場内には幾つもの古い墓があり。沖縄の亀甲墓は広い庭を備えている。ティショットを曲げてボールを墓の庭に入れると必然的にロスとボールだ。墓の庭からチップショットをするには墓の主に申し訳が立たない。一打罰で近くから打つことになる。スコアが100を切る頃からは大西ゴルフクラブでのナイターコンペは遠慮した。ちなみに沖縄出身の有名な世界的女子ゴルファーの父君も初心者の頃はこのゴルフ場のナイタープレーで腕を磨いたらしい。
「完」

一族の由来を訪ねて(南部巡り)
5、(月代の宮から首里城まで)
午後1時10分、上間君の運転するマイクロバスが駐車場にやってきた。午後の巡礼の始まりである。県道146号を下り、添石の交差点で右折して国道329号を南下した。
「添石の拝所には行かないのですか」幸子さんが宏春叔父に尋ねた。
「そこには行かない」素っ気なく答えて車窓に目をやった。中城は護佐丸、安麻和利、そしてその戦の仕掛人である尚泰久王の覇権が交錯した場所である。琉球の歴史の要のひとつではあるも仲村渠一族との関りは希薄だ。560年も前のことであり宏春叔父が気に留める要素は無いのであろう。宏春叔父にとって直近の血族である川端家が家系図の原点であり、その先の尚泰久王の活動の足跡は御威光を拝むだけの実像の乏しい礼拝でしかないのであろう。拝所としては奈良の大仏や伊勢神宮のレベルであるのかもしれない。
与那原町の交差点を左折して国道331号に入った。しばらく行くと佐敷小学校の横の通りに大きな鳥居がありその下を潜って山手に少し上ると月代の宮の拝所に着いた。馬天港を望む丘陵地である。佐敷城のあった場所で、尚巴志の父尚思紹が父の鮫川大主と共に伊平屋島から流れ着き地勢を固めた最初の拠点である。一介の流れ者の子に過ぎなかった尚巴志が地域の豪族の婿となり、琉球国の三山の統一の祖となったからには人並み外れた才覚の持ち主であったのだろう。歴史の分岐点に忽然と登場する英傑の一人である。
僕らは50段ほど階段を上って最上段の小さな祠と敷地内の一角を礼拝した。5度目の礼拝である。何度も礼拝すると集中力も薄れてしまいただ手を合わせて「ウートートゥ」と唱えてしまった。三山を統一した王の御威光を示すものは無く小さな祠が侘しく存在しているだけである。
11月代2

礼拝が終わって帰るときに祠の手前の鳥居型の拝殿の中の記名版を指さして宏春叔父が言った。「大戦後にこの月代の宮を再興したとき僕らの叔父も寄進したのだよ。私も叔父とともに落成式に参列したが、中々名誉なことであった」。叔父の指さす方角には厚板の上に献上者の名前が記載されており、金00ドルと記載されていた。かなり劣化しており仲村渠宏までは読み取れるがその次の一字は読み取れなかった。この姓名は他にはなく、確かに僕らの一族の一人だろうと推察した。その方は県内随一の日曜大工センターの創業者の祖父である。
僕らはゆっくりと階段を下りた。このあたりのホウオウボクは地際が板根状に立ち上がっていた。地下水位が高く根が土壌の表面を走っているのであろうか、まるでサキシマスオウノキの変異種かと思しき景観である。眼下に馬天港とその先の太平洋の青い海の上に久高島がポツリと浮かんでいた。この高台は琉球の神々の島に最も近い屋代に違いないと思った。
12板根

バスは県道137号を南下して琉球ゴルフクラブの横から脇道を抜けて富里の集落に入った。尚泰久王の墓参りである。墓は国道331号の改修工事で敷地の一部が削り取られた急な斜面の上部に位置していた。墓地の入り口の石碑には第一尚氏王統、第6代尚泰久王陵墓と刻まれていた。石碑の裏側には1985年1月建立、月代の宮奉賛会と刻まれていた。道路拡張工事に伴い月代の宮に関わる一族が整備に普請したのであろう。墓は尚泰久とその長男安次富氏が並んで配置してあった。石灰岩をくり抜き正面は石灰岩をブロック状に積み上げた現代の石組み工法である。
13-1

13-2尚泰久墓2

儀式通りの祈りをささげた後で、墓地の入り口横の太平洋が見える場所に移動した。青い海原の先に浮かぶ久高島に向かって礼拝するのである。久高島は琉球の王府に関わる神々の原点である。穏やかな秋の日差しの中で僕らは素直な心で血族の家内安全を無心に祈った。僕らはゆっくりと歩いて安次富家の離れにある拝殿に向かった。崖下から墓地に上り、今度は周回するようにキビ畑の細い道の歩いた。宏文ハサマ小(グワー)の喜美子が話しかけてきた。私より一つ年上の気の強い女である。浅黒い顔は変わらぬが血色が優れない気がする。内臓に不安があるのかもしれない。

「奥さんは元気。喘息気味で退職したでしょう」
「宜野座村の漢那タラソ通って、蒸気サウナで治ったみたいだ」
「そう、良かったわね」
「市民講座の太極拳教室に通い、名護市の婦人コーラスグループ茜雲にも所属しているみたいだ。派手なドレスで発表会に出かけているよ」
「貴方が働かせすぎたのよ。お嬢様育ちだから」
「書道塾は今でもやっている」
「忙しくて止めたわ、旦那の病気もあったし」
喜美子は小学校の事務職である。そろそろ定年だろう。妻が教職中は同じ小学校で同僚であった。3年前に夫を亡くしている。成人した息子と孫を同伴している。私は妻の言葉を思い出して苦笑した。
「貴方の従姉に喜美子さんという方がいるでしょう」
「ああ、宏文屋の三女で僕より一つ年上だ」
「先日、小学校の学習発表会の準備をしているときに校長先生が彼女に仕事を頼んだのよ」
「何を」
「舞台の上に掲げる平成00年度学習発表会の表示を書いてほしいとお願いしたのよ」
「確か喜美子は書道教室を開いていたはずだ」
「そうしたら彼女が校長先生にピシャリと言ったのよ『私の書はそんなものを書くためのものではありません』とね。校長先生はポカンとしていたが、そのまま事務の仕事を続けていたわ。書家としてのプライドが表に現れていたわ」
「そうかもしれないな、俺も子供の頃から彼女は苦手だった」
喜美子の顔に以前の覇気は見当たらない。苦労が彼女からある種のエネルギーを奪い穏やかな暮らしに埋没することを望んでいるのだろう。
私の前をとぼとぼと歩く女性は私より2歳上だが、10歳以上も年長に見える。父の末弟の嫁で昨年夫を亡くしている。二人の子供と一緒だ。亡くなった宏光叔父は大戦中にミクロネシア連邦のテニアン島で生まれた。戦火がひどくなって極端な食糧難の中で赤子が生き延びたのが不思議だと叔母たちが葬儀の時に話していた。体力に恵まれなかったのは赤ん坊の頃の栄養失調が影響したのだろう。幼稚園、小学校と私の母が育てたこともあり実家によく顔を出した。何とも言えない優しい笑顔の叔父であった。アルミサッシ工場を経営していて、私の最初の家のアルミ建具一式は叔父が作ったものであった。玄関には叔父から送られた畳大の姿見があり、贈・名護アルミと金文字で書かれていた。この姿見は2度目の自宅を建築した時に、古い家から取り外してウォークインクローゼット内に取り付けてある。厚みのある丈夫な逸品で叔父の形見になってしまった。この巡礼の旅は本家への義理で参加しているのではなく、心に何かを抱えている者達が参加しているのだ。はるか昔のご先祖の墓参りで心の重石を軽くする。あるいは光の届かぬ井戸の闇に蓋をかぶせたいのかも知れない。550年以上も前のご先祖の英傑を訪ね、自分の家族の繁栄を祈ることに現実的なご利益は無いだろうが。しかし、誰もが何かにすがって今の不安を解消したいのだ。宗教上の神のような高尚な存在でなくとも心の闇に僅かな明かりを灯す術が欲しいのである。自分の存在を明日へ導く何かが欲しくてその対象をご先祖の霊力に託すのは、沖縄に生まれた者の根底に流れる土着の宗教的な心の拠り所である。
安次富家の祭壇は平田家や川端家と同様に本宅の隣に建っている。尋ね人が気兼ねなく礼拝できるようにとの配慮である。尚泰久とその息子の安次富氏の位牌があり、香炉には三つ巴の紋が入っている。尚泰久の遺骨は明治になってから石川市の墓地からこの地に移されたらしい。第2尚氏の影響が亡くなってから血族の許に戻ったようである。月代の宮奉参会が尽力したのであろうか。仏壇には尚泰久の香炉の他に安次富家と関わる小さな香炉が並んでいた。宏春叔父は尚泰久の香炉に3本の線香を立て、他の香炉には1本ずつ立てて祈願した。はハサマ一族は安次富家との直接の繋がりは薄いようである。拝所には瞬天王統から尚圓王統までの系図が書家によって表示されて額に飾られていた。そして系図の余白の下部に走り書きの様に記された文字が私の心を捉えた。琉歌調で「祖先崇拝」祖先(モトヂ)タズネラン 道マユラ故(ユイ)カ 祖先道アキテ 栄テイカナ」 と書かれている。書体からして、この系統図を描いた書家が詠んだ歌であろうと推察した。自分は何処からきて何処へ行こうとしているのかは2千年前の孔子の時代からの人間の哲学的命題である。孔子ですら論語の最後の章に「命を知らざれば、以て君子たることなし」と証している。我々の日常は些細な不安の連続である。せめて偉大なご先祖にすがって不安を軽減してもらうは庶民のささやかな願いであろうし、先達の偉大な「気」を心に取り込みたいと願うは本人の心次第だから。
14安次富家

15王代記2

4時半を回ると日差しが少し傾いて来た。バスは国場十字路を右折して首里城に向かった。首里城での拝所は守礼の門近くの園比屋武御嶽である。この御嶽は城主が旅に出る際の安全祈願所であったと言われている。観光客の行列の先には朱塗りの首里城が建っていた。第二次世界大戦で日本軍の駐屯地であった首里城は米軍の艦砲射撃で完璧に破壊され、戦後は琉球大学が立てられて多くのリーダーを輩出して沖縄復興に貢献した。しかし今は四十数年前に私が学んだ学舎の影は無く、本土復帰直後の学生運動で賑わったセクトの隊列の旗頭の代わりに観光ガイドの誘導旗だけが幾つも観光客の列を先導していた。琉球大学が西原町に移転して首里城が再び沖縄の歴史の縮図である那覇の町を見下ろしている。琉球王国の象徴的場所である首里城は、中国王朝、薩摩、明治以降の日本政府、米国政府、そして戦後の日本政府と歴史の変遷に翻弄された沖縄の庶民の暮らしを静かに鎮座して眺めている。歴史に善悪の基準は無く、ただ結果としての記録が存在するだけである。首里城は幾度か焼失しては再建されてきた。この地を拝所として訪れる者たちにとって、城の威風堂々とした城郭は視覚的な感動を促すも心の拠り所ではない。幾世代か前の祖先が関わった場所としての城址その物が祖先との魂の交差を誘うのである。私はハサマ一族の旅が一族の歴史の中で途絶えることなく続いてきたのは、庶民の暮らしの中に存在する心の拠り所としての祖先への回帰思想が人間の根源的ものであるからだと思うのだ。
16園比屋

この場所での礼拝は、世界文化遺産であるがゆえに線香に火を付けずに水と酒と倶物を備えて祈願した。首里城の警備員の監視付きである。無作法な観光客の一人が僕らの一行の間に割って入ってカメラを構えた。私は威嚇するように睨みつけて手で制した。私は疲れが体の表に出てきて、無礼な者への嫌悪感から不覚にも強い殺気を放ったのかもしれない。カメラを向けた観光客は顔を背けて退いた。警備員がそれを察して手を広げて観光客の一群を制してくれた。御嶽での礼拝を終えると門の裏手のアカギ林の中に入った。ここから沖縄本島北部の西の海に浮かぶ伊平屋島に向かってお通しのお祈りをした。南部巡りの巡礼の旅の終わりの報告である。第一尚氏は伊平屋島から始まったのである。
17アカギ林

18守礼門2

僕らはアカギ林を抜け、守礼の門を潜り、バスの待つ首里城公園管理事務所前に向かって坂道を下った。午後5時半を回っていた。バスに乗り込む前に宏春叔父が言った。「再来週の日曜日に今帰仁巡りをします。その時は各自の車で行きます。宮里公民館からの出発時間は午前9時です。今日はお疲れさまでした」
僕らはバスに乗り込んだ。宏春叔父は息子夫婦の車で那覇市内の自宅へと引き上げていった。上間君の運転するバスは鳥堀の交差点へ向かって首里の坂道を下って行った。一族の南部めぐりの小さな旅が終わった。二週間後の一族の旅の後編については考えないことした。終日漂った線香の香りは私をひどく疲れさせたようでバスのエンジン音に誘われるままに眠りに落ちていった。
「完」

2022年9月 川畑家より種子を採取して育てた越来白玉を自宅に植栽。10年目ににして蕾が付いているのを確認した。開花は年明け早々だろうか。尚泰久の声を聴きたいと思う。

2020年3月17日 | カテゴリー : 旅日誌2 | 投稿者 : nakamura