「マレーシア・蘭と食の探索」
マレーシアの行政区にある王宮。イスラムの伝統的建築様式を取り入れた近代建築
プロローグ
マレーシアに謝華生:Cheah Wah Sang(チャー・ワー・サン)をという友人がいる。謝華生胡姫園:Cheah Wah Sang Orchid Farmのオーナーである。小太りで明るい人好きのする顔立ちの男だ。我々沖縄の友人はチャーワンさんと敬愛を込めて呼んでいる。4月上旬に彼の農場から1,000株のランを輸入していた。我社は那覇空港ターミナルビルの植物展示業務を受注しており、常時2,000株のランを展示している。バンダ類は自社生産、コチョウランは自社生産で足りない分を台湾のミンタイ・エンタープライズより輸入している。デンファレはタイのS・オーキッドから輸入していたが、今年に入ってチャーワンから2度ばかり輸入していた。チャーワンのランは品質が良くて展示期間が長いことに起因していた。
チャーワンは2月に開催される沖縄国際洋蘭博覧会に毎年参加しており、彼と同行する友人達や台湾の取引先の仲間を接待するのが私の例年の仕事だ。台湾や東南アジアの友人達は酒好きが少ないのが特徴だ。社員の運転する18名乗りの自社の送迎バスで名護市内の居酒屋まで案内し、目いっぱい騒いでも5、6万円程度で収まるのだ。店のおススメメニューと刺身の盛り合わせ等を取って宴席に適当に配膳して、後は写真付きの豊富なメニューから彼らの好きな物を自ら注文させればよい。社員を運転手兼世話役で伴うと手際よくゲストの接待が出来るのだ。社長の歓迎の挨拶を私のいい加減な英語の通訳でごまかして宴会が始まる。東南アジアの友人達は日本式の高級定食スタイルの会席を好まないようだ。そもそも定食の食味が彼らの口に合うか否かは我々日本人には分からないだろう。その点居酒屋のメニューは、揚げ物、焼き物、炒め物、煮物など多様である。そっくり同じ品を彼らの国で食べることは出来ないが、メニューの写真から自分の好みかどうかの想像は出来るのだ。社員はゲストの注文を取る係である。メニューの写真を指差すだけで英会話を必要としないのだ。時折、料理について質問があるも、私が簡単に英語で説明するだけで事足りるのだ。居酒屋の料理は量が少なくスピーディーにオーダーに応えるのでゲストの食味を大いに満足させてくれるのだ。気に入った料理であれば追加注文すれば良いのである。彼らも久しぶりに会うラン生産仲間との会食で盛り上がる。招待者である我々に気を使うことなく懇親を深めているようだ。この関係は日本人の接待宴会の接待者とゲストの間に必ず生じる奇妙な力関係のバランスに配慮した雰囲気は全く無いのだ。最初に代表者が歓迎の乾杯を擦ればゲスト同士で盛り上がるので僕らの気遣いは無用である。只、気を使うのは畳座席を出来るだけ避けて掘り炬燵の席が良い。テーブルに慣れた彼らの膝の負担が無く、日本風の雰囲気も味わえるからだ。ミンタイの陳先生と会食した際に、中華系の人々は美味い物を食うために稼いでいると話していた。台湾、中国、タイ、マレーシアの中華系の友人達と会食していると良く分かることだ。台湾の親友秦とは何度も旅行して悪遊びを繰り返していた。東南アジアへの出張は、トランジットの都合で台湾に一泊する事が多く、その度に夜遊びとなるのだ。沖縄で再会して宴席でその夜遊びを話題に酒を飲むことになる。チャーワンはその話題に参加できないことが不満らしく会うたびにマレーシアに来てくれと言われていた。4月上旬にチャーワンからデンファレを輸入したことがきっかけで彼の誘いに乗ることになった。マレーシアには東京ガスの子会社でグリーンテック・トウキョウというランの取引農園があったが、本社の意向で現地法人に経営を渡してしまった。東京ガスは本業のガスの取引の代償として現地補助事業を行っていた。補助事業の完了と共に東京ガスから出向していた渡辺氏が本社に引き上げてしまい、我社との取引システムが停止してしまっていた。そのこともあって、以前からの知り合いであったチャーワンとの取引が始まったのである。
1年前のことであるが市立図書館の案内掲示板で英会話教室の案内を見つけた。カースティン・儀間という南アフリカ共和国出身の女性が講師である。儀間という姓から沖縄嫁だろうと思った。それに自宅での英会話教室というのも実践的であろうと思って参加することにしたのである。毎週1回で自宅から15分の距離であり、成人を対象にした90分のレクチャーは負担にならなかった。ログハウスの自宅の居間で5名の生徒であったが、1カ月ほどして今帰仁村のログハウスから名護市内の福祉センターの市民講座教室に移動した。カースティン夫妻の引っ越しによるものであった。カースティンに最初の指摘されたのは、
「ナカムラさんは何処で英語を覚えたのですか?」
「一応中学、高校、大学まで英語の授業はありました。英会話のCDも少し聞きました」
「文法が全く駄目です」
「英語の成績はダメでした。数学が得意でした」
「私たち英国系の人間は間違った文法で話されると、とても気になります」
「教えて下さい。頑張ります」と答えた。「東南アジアの友人とは何とかコミュニケーションが取れています」とは言えなかった。女性への反論で良いことが無いのは万国共通であるのだから。
英会話塾では日本語はほとんど使わずに英国のテキストを利用して授業が行われた。週1回の授業でもネイティブの英語を聞くと自信がつくものである。実力は別としてのことだが。英語が第2公用語のマレーシアでもなんとかなるだろうと思ってチャーワンの誘いに乗ることにした。私は旅の道連れとして部下の玉城政隆次長を頼んだ。自社は国営沖縄記念公園が保有する75,000株のラン管理業務を受注しており、彼はその管理部門の責任者である。ラン園の調査には申し分なく、唯一の上司である専務も了解してくれた。彼は私より一歳若いが、入社は3年程早い。カトレアの育種で有名な東京の青木蘭園で2年の研修をうけ、その後15年以上のラン管理の責任者を務めている。沖縄県におけるラン栽培の最高のエキスパートであると私は評価している。実際、彼は定年後に沖縄国際洋蘭博覧会において、最高賞の内閣総理大臣賞の受賞実績を残すことになる人物だ。私が入社して間もない頃、関東一円の蘭業者の調査と挨拶周りに同行してもらったこともある。無口で仕事に妥協しない性格は、私よりも社員から一目置かれた存在であっただろう。しかし私にとって心強いのは、彼が酒をほとんど口にしないことである。酒好きの私にとっての安全装置の役割を果たしてくれるに違いないのだ。マレーシアには何度か訪問していた。ジョホールバルの国際蘭展示会、クアラルンプルの国際蘭展示会、タイ・マレーシアのラン生産者訪問、ボルネオ島サバ州での国際蘭展示会などである。東洋一広大なクアラルンプル国際空港を利用するのは今度で4回目である。ゴールデンウイークが明けて、台湾・沖縄間の観光客による混雑が終わった頃に旅のスケジュールを設定した。私は出発の2日前に土曜日から次の週の金曜日まで出張でマレーシアに出かけると妻に伝えた。妻は特段の返事をしなかった。いつもの事である。
平成21年5月16日(土)
午後3時30分、那覇空港ビル内植物展示業務のスタッフの一人、玉城豊君が玉城次長を伴って自宅に私を迎えに来た。予定より30分ほど早いが準備は既に整っていたので車に乗り込んだ。近くの佐川急便名護営業所に立ち寄り、アマゾンで注文していた旅行記録のロディア革手帳と小型の予備のボールペンを受け取って空港に向った。玉城と申し合わせて荷物は機内持ち込みが可能なサイズのバッグにした。トランジットを伴う個人旅行では手荷物受取の手間が省けてスピーディーに行動できるからである。
国道58号許田インターより自動車道に入り、西原ジャンクションを抜ける時に500円の表示が出ていた。政府の景気対策処置で土・日・祝祭日はETC利用料金が半額設定になっているようだ。この時間は未だ夕方の交通混雑が始まっておらず、国際線ターミナルビルには午後4時50分に着いた。私は早速ビル内のレンタルショップで海外使用の携帯電話のレンタル手続きをした。私の携帯電話は台湾、タイ、シンガポールでは海外通話が出来るが、マレーシアは圏外であった。1日650円で通話料金は返却時に別途に請求するとの契約である。契約書にサインして電話と充電器の入ったケースを受け取って戻ってくると、植物展示班の親川君が待っていた。
「気をつけて行ってください。今日は豊君が泊まりです。私は常務の車レガシーで会社に引き上げます」と言って豊君と二人で去っていった。
僕らは直ぐにチケットカウンターに向った。荷物のX線検査のコンベアーに乗せようとすると、係員が手荷物は必要ないと言った。その検査機械の脇を通り抜けてチケットカウンターに向った。チケットは沖縄―台北、台北―クアラルンプルの二枚を渡してくれた。チェックインはまだ始まっておらず、空港内のレストランにて少し早めの夕食をとることにした。親川君が夕食を取るなら国内線1階にある「琉球村」が安くて美味いですよと紹介してくれた場所だ。私は注文カウンターのボードに手書きされた「本日のお薦めメニュー」を注文した。本日最後の一品であった。玉城はカツ丼である。「本日のお薦めメニュー」はどんぶり飯の上にキャベツと牛肉の炒め物を被せ、さらにその上に目玉焼きがのっていた。味噌汁にサラダ付きである。600円では安いセットメニューだろう。そしてこの食事がこれから1週間続く旅の最後の沖縄料理だと思った。
午後6時10分、X線による手荷物検査を受けるためにチェックインの列に並んだ。アメリカの航空機テロ事件の影響から機内持ち込みが厳しく制限されるようになった。100CC以上の液体は全て廃棄される。シャンプー、化粧水、幼児のミルクにいたる全てだ。X線検査も感度が高くなりパソコンや電子辞書に影響が出るようだ。この手の検査は日本が最も丁寧で、靴やズボンのベルトを脱がされることもあって全く不愉快千万である。特段のトラブルも無く通過して、出入国検査官が先月更新したばかりのパスポートに初めての出国スタンプを押した。3名の出入管理官に義兄の姿は無かった。この日は休みか或いは事務所内にて勤務しているのかも知れない。この先からは法律上の外国扱いである。もっとも免税店は日本人のスタッフであり外国の感覚は全くない。しばらくすると場内アナウンスが流れ、CI-122の到着が遅れており、我々の乗る予定の台湾・沖縄折り返し便CI-123が1時間ほど遅れることを伝えた。私は会社の事務所に出発前の連絡を取っていないことを思い出して電話をした。事務主任の上間さんが電話に出たので状況を話し、マレーシアで通信可能なレンタル携帯電話の電話番号を教えた。そして、旅のルーチンとして4名の娘に「5月22日までマレーシアへ行く」とメールを送った。「行ってらっしゃい、気を付けて」の返事を確認して旅の準備を完了した。
8時10分、機内への案内バス2台が到着した。身体的弱者、ビジネスクラスに続いてエコノミークラスの順に待合室を後にした。飛行機が待機する場所までは約150mであるが、バスに乗ってゆくのである。ボーディングデッキが無く、なんとも寂れた空港のイメージは拭えない。新ビルの建築計画はどこまで進んでいるのであろうかと思った。
8時20分、機内放送で携帯電話の電源オフにした。緊急時の説明等を終えるとCI-123は那覇空港を離陸した。機内では夜食のつもりであろうか、軽食が配られた。チーズとサラダを挟んだサンドイッチ、オレンジジュースのパック、チョコレートビスケット(キットカットと呼ばれる商品)、それに熱いウーロン茶又はホットコーヒーである。国際線にしては物足りない食事であるが、1時間半のフライトでディナーを期待するのは無理である。
8時40分(日本より1時間遅れの現地時間)、1時間20分のフライトで桃園国際空港に着陸した。いつもより速度を上げてフライトしたようだ。飛行機は第二ターミナルのボーディングブリッジに接続されて旅客を空港ビルへと誘導した。私は衣類の入ったカバンとお土産の入った小さめのショルダーバッグを、頭上の格納トランクから降ろしてボーディングデッキを渡った。周囲の雑音から日本語は全く聞こえない。完全な外国語圏内に移動したのである。
ボーディングデッキを出て人の流れは右折した。私はその交差点に立ってトランジット案内のプラカードを持った男子係員に
「Excuse me. Where is transfer counter」(すみません。乗り継ぎカウンタは何処ですか)と尋ねた。
「Go straight and left side」(真直ぐ行って左だ)と左手で指差してくれた。
「Thank you」と言って玉城と共にムービング・ウォークの上を少し早足で歩いた。
二つ目のムービング・ウォークを過ぎると左手にトランスファー・カウンターがあった。近くに休憩イスや軽食コーナーも備えていた。既に9時前のせいであろうか、カウンター内は二人の職員だけで対応をしていた。手続き中の旅客は大柄な欧米系の外国人が7名であった。私はこの日のトランジット用の宿を紹介してもらうため、オーストラリアのパスポートを持った金髪の女性の後ろに並んだ。一人の職員が12歳前後の女の子の3名組にてこずったおかげで随分と時間がかかった。その間に携帯電話の位置情報を台湾モードに切り替えた。私はエアー沖縄からの紹介状を渡してスタンプを押してもらい宿泊予定のホテルのバッジを胸に付けた。出迎えのロビー右端にホテル案内所があるのでそこを訪ねるように指示された。バッジは普通のステッカーと同じ裏糊で出来ており、アロハシャツの胸のポケットから落ちないよう念のためにボールペンのクリップで挟んでおいた。
広い入国検査用の広場に行くと入国審査待ちの旅客は少なくなっていた。それでも外人専用のボックスには2人の係員しかおらず、やはり時間がかかりそうであった。
審査官は私の胸ステッカーを見て、
「City suites hotel ?」(シティ・スィート・ホテルか?)
「Yes, beside the airport」(ハイ、空港の隣の)
「Very near」(とても近いよ)
そう言ってパスポートを返してくれた。
「Thank you」(ありがとう)
「Your welcome」(どういたしまして)
人の好さそうな入国検査官に出会ってホッとした。
玉城の入国審査が済むとバゲッジ・エリアに降りていった。那覇空港からの荷物受け取りのバゲッジレーンは既に停止しており、旅客の人影は無かった。このエリアから外に出るときに再び手荷物のX線の検査を受けた。既に出迎えの人々が少なくなったロビーの中を、トランスファー・カウンターの係員の説明したとおりに広いロビーの右側に向かって進んだ。しかし右の突き当りまで探したがそれらしき案内所を見つけることは出来なかった。再びロビーの中央部まで戻って両替所の女性係員にホテル案内所を尋ねた。すると今度は左方向の総合案内所に行くように言われた。到着ロビーの左端まで歩いていくとホテルの案内所があった。そこの係員に声を掛けるとすぐ隣を指差した。その隣のカウンターに顔を出すと男性の係員が出てきて私の胸のバッジを見て「Follow me」(ついて来て)と言って歩き出した。歩きながら携帯電話で何処かに連絡を取っていた。外のタクシー乗り場で車を待つ間、私はトランスファー・カウンターの係員の説明を思い出していた。彼の説明は彼の側からの右で私の側からは左の意味であったと理解した。
大きなベンツのリムジンが私たちの前に止まった。私は誰かVIPが来るのかと思い後ろを振り返ると、案内所の係員の男性がどうぞと手で誘導した。運転手が降りてきて私たちのカバンをリムジンの大きなトランクに運んだ。リムジンのトランクに収納するには余りに小さい手荷物である。運転手と案内所の係員が車の後部ドアを開けてくれたので、僕らはVIPになったような気分で革張りのシートに腰を沈めた。リムジンは空港の雑音を遮断してゆっくりとホテルに向った。
空港を出るとすぐに屋上に『CITY SUITES HOTEL』 という電飾あるホテルが見えた。英字の表示に続いて『城市商旅―航空館』の台湾名が表示されていた。リムジンの快適な移動は10分足らずで終了した。ホテルの入り口には空港往復のリムジンバスが2台止まっており、我々が他の旅行者より多少遅れたせいで、バスの代わりにリムジン乗用車をよこしたのであろうと推測した。どう考えても僕らが特別待遇を受ける訳は無いのだから。
ホテルのフロントでチェックインの手続きをした。係りの男性は「二人一部屋でよいか」といって一枚のチェックインシート差し出してサインを求めたが、私がエアー沖縄の宿泊クーポンを指差して「シングルルーム2部屋」言うと、しぶしぶさらに一枚のシート出してサインをそれぞれに求めた。部屋は私が8階で玉城が9階であった。男二人の数時間の乗り継ぎに2部屋はもったいないと考えたのかもしれない。
部屋の入り口に立ってドアノブ辺りにカードキーの差込穴を探すも見当たらない。どこにも穴が開いていないのだ。私は困ってしまった。エレベータの近くまで引き返して、その近くの電話からフロントを呼び出した。
「部屋の鍵穴を探せないのだが」と言うと、フロントの女性係員は笑いながら「カードをドアノブの上部にタッチしてください」と告げた。私も笑いながら「OK,試してみましょう」と受話器をおいた。少し恥ずかしくなって一人で赤面して顔が火照ってしまった。彼女の言うとおりカードをノブの上部のプラスチックの部分にタッチするとドアの鍵が外れる音がした。ノブを回すとドアが開いた。素直にホッとした。午後10時20分を過ぎていた。
私は見知らぬ部屋の中に入る時に常にある種の緊張感を伴う。長年、空手古武道の道場に通って身に着いた警戒心からだろう。それが国内のホテルであれ、公園の公衆トイレであれ同じである。シャワールームを覗き、カバンを荷物置き専用の台の上において部屋を観察するのが常である。この部屋は入り口の右側にシャワールーム兼洗面台、その次にWベッドの部屋、さらに左側の部屋に1対のソファーセットとテレビがある。二つ目の部屋の入り口に湯沸かしポットがあるのも面白い間取りである。8時間ほどのトランジットの部屋としては出来過ぎた部屋である。ベンツのリムジンに乗った旅客への特別待遇ではなく、単純にこの部屋しか空いていなかったのだろう。僕らをツインの部屋に泊めようとしたフロント係の思惑が理解できた気がした。私は湯沸しポットに備え付けのペットボトルから水を注いでスイッチを入れた。電圧が高いのか直ぐに沸騰した。備え付けのコーヒーを入れてお湯を注ぎ、普段は入れないステック砂糖を半袋加えてからシャワールームに入った。熱いコーヒーが苦手でシャワーが終わった頃に飲み頃となると思った。
シャワールームはバスタブが無くガラス張りのシャワー室と洗面台、洋式トイレのセッティングである。シャワー室のシャワーはビーチのシャワー仕様に似た大きなヒマワリ状のシャワー口からお湯が頭上に降ってくる。洗面台は私にとっては高すぎて西洋人のサイズである。身長172cmの私にとって洗顔は不都合であったが下着と靴下を洗うには好都合である。洋式トイレは私にとっても低い便器が取り付けられており、西洋人にとっては膝を抱えて座るほど低いだろう。全くチグハグな造りのシャワールームであった。
少しぬるくなったコーヒーを一口飲んで、この日の行動を今朝受け取ったばかりの新しいメモ帳に記した。洗い物はいつもの旅の心得で、よく絞って隣の部屋の行灯の傘に掛けて乾きを促す工夫をした。マレーシアで使うレンタル携帯電話の充電をした。持参の携帯電話のアラームを寝過ごしに備えて午前4時半と5時の2段階にセットしてベッドにもぐった。玉城とは5時50分にロビーで会う約束である。明日の行動をもう一度シュミレーションしているうちに眠りに落ちた。
5月17日(日)
午前5時、ホテルから見た桃園市の夜明け
午前4時30分、飛行機の爆音で目が覚める。このホテルは飛行場に極めて近い場所である。乗り継ぎの利便性の代わりに爆音が伴うことに気づいた。それでもしばらくベッドの中でまどろんでいたが携帯電話のアラームが5時を告げたのをきっかけにベッドから起きだしてアラームの2段回セットを解除した。湯沸しポットの電源を入れてから歯磨き始めた。歯ブラシを咥えたままで備え付けの2本目のネスカフェをコーヒーカップに入れて湯を注いだ。シャワールームには上等な髭剃りが備え付けてあった。髭を剃り、ヘアオイルで髪型を整えた。備え付けの歯ブラシ、髭剃り、櫛を洗面用の自分の袋に詰めて朝の一連の行動を完結した。この先のマレーシアのホテルに使い捨ての歯ブラシ、髭剃りがあるとは限らず、予備として確保したのだ。コーヒーは適度の温度に冷めていた。猫舌の私に十分な温度である。昨夜洗濯した下着と靴下は幾らか湿り気を含んでいたが、ビニール袋に入れてバックの2番目の仕切りに押し込み他の衣類に湿り気が移らぬようにした。窓の外は少しだけ明るくなり始めており、旅の慣わしに従ってこの部屋から見える屋外の風景を撮影した。そして部屋の中をゆっくりと点検した。忘れ物が無いことを確認してから部屋を出てエレベータに向った。
1階のロビーでは既に玉城君が待っていた。「おはようございます」言って私を迎えた。我々はチェックアウトのためにフロントのカウンターに向った。フロントではインド系と思われる中年男性が、フロント係りの男性に何やら甲高い声で怒鳴っていた。フロントの係りの男性は苦りきった顔をしていた。インド人は訛りの強い英語でまくし立てていたが、為替レートのことについて抗議しているようであった。インド訛りの英語は凄まじい発音であり、私の初級英語では全く理解出来なかった。少し長引きそうであったので、私はそばから割り込んでチェックアウトをしたいと告げた。係りの男性はインド人を無視して直ぐに私に対応してくれた。チェックアウトのペーパーにサインしながら「クアラルンプル行きのターミナル1まで送ってくれるね」と確認した。係員は運転手らしき男性に声を掛け「クアラルンプル、ターミナル1」と告げた。運転手は私のバッグを受け取って車へと案内した。今朝の車はベンツのリムジンではなく台湾のイエローキャブであった。私はシンデレラの銀馬車が夜明けと共に黄色いカボチャのタクシーに変わったことを理解して苦笑した。玉城に「今日はベンツではないね」と言うと「そうですね」と笑った。
6時10分にターミナル1の出発ロビーに着いた。私はチャイナエアラインのチェックインカウンターで搭乗券を見せて言った。「私は何かチェックすることがありますか。空港税を払う必要ありますか」質問した。係員はチケットのボーディングデッキ欄にD7と記入して、中央のエスカレータを登るようにと指差した。エスカレータを登るとガラスの仕切りがあり、その向うにイミグレーションがあった。数箇所の入り口があったがこの時間帯は左側の1箇所が開いていて係員にパスポートと搭乗チケットを見せてゲートをくぐってイミグレーションに向った。出国の手続きはいたって簡単であった。左側にD7の表示板を見つけてその方向に歩いていった。少し歩くと搭乗のためのX線チェックがあった。X線の精度を上げていないのかスムーズに通過できた。この検査所を過ぎて50mほどいくとT字路に出た。右方向にD5、D6、D7と表示が続いていた。D7の搭乗ロビー前の表示には、未だに香港行きの表示が示されており、クアラルンプル行きCI-721の表示に30分ほど早い午前6時30分であった。飛行場はかなり明るくなっており日の出が近くなっていた。
我々は引き返して朝食をとることにした。振り返るとちょうどT字路の近くにナイフとフォークの絵柄のレストランの看板が見えたので其処に向かった。その店は軽食専門の喫茶店風であった。通路とは腰の高さの壁で仕切られているだけである。私の旅行用財布には米ドル、台湾元はいつでも入っている。150元(435円)のサンドイッチと90元(261円)のホッとコーヒーを2人分注文した。サラダ、ハム、卵焼き、チーズが挟まれており悪くない味である。コーヒーもインスタントではない。
30分ほど時間を潰してレストランを後にした。T字路の正面付近のカウンターに15名ほどの人が列をなしている。それぞれペーパーを手にして並んでいるのだ。カウンターの上部の表示にDFS-SHOPとある。台北市内にDFSの店があり、空港のこの場所で商品を受け取っているのである。この手の商売は世界各国の国際空港にて行われているようである。ボーディングエリアに引き返す途中で免税店を覗いてみたが、あまり安いとも思えない価格のような気がした。もっとも、私は免税店で販売されているような高価なウイスキーを購入することはめったに無く、価格についての判断は出来ない。
午前七時、階段を降りて登機待合室のイスに腰掛けて搭乗時間を待った。トラブルが無ければ午前7時50分にCI-721に乗り込めるはずである。しばらくすると中華系の旅客がぞろぞろとやって来た。彼らは声が大きく誠に騒々しい。活発・陽気な国民性と言えるが私は好まない。私は耳障りな雑音から逃れるため最前列の席に移動したが、其処でも中華系の男性が欧米系の男性相手に休むことなしに英語で話し続けている。欧米人の男性は表情も変えずに時々うなずいているだけだ。話好きな人種であることは確かなようだ。何気なく左側の壁に目をやると赤色の警告表示が目に入った。中国語と英語で『警告:薬物を持ち運ぶものは死刑に処する』とある。日本と異なりダイレクトな表現である。欧米人の旅行客の一人がものめずらしいげにカメラに収めていた。私も気になる表現であったので一枚撮っておいた。CI-721は定刻どおりの搭乗案内があった。私は「これからマレーシアに発つ」妻に電話をして携帯電話の電源を切った。この電話は週末まで使うこともない。4時間半後のマレーシアではレンタルの携帯電話を使うことになる。既に完全に日本語圏外であり、唯一玉城のみが日本語と沖縄方言の話し相手である。私は外国において日本人と見られることに少しばかり抵抗感があり、お互いの会話は努めて沖縄方言を使うことにしている。8時20分、台湾の朝日を浴びながら桃園国際空港を離陸した。
桃園空港搭乗待合ロビーの警告表示
午前9時、朝食とも昼食とも言えぬ時間に機内食が出た。チキンと魚のいずれかの料理を選ぶことが出来た。私はチキンを選んだ。小さな弁当箱にカレー煮の鶏肉、ご飯、塩茹でのインゲンマメとニンジンが3等分で詰められていた。丸いパンが1個、バター、デザートにスイカ、パパイヤ、オレンジが一切れ、スポンジケーキ、プリンである。私は飲み物に白ワインを取った。二口で飲み干す程度の少量である。昨今の経費削減策によるものか国際線の食事も質の低下が年々進んでいる。旅の楽しみが少しづつ減っていくのは残念である。
食事の後に入国カードが配られた。個人旅行の場合は自分で記入する必要があるのだ。Embarkationという見慣れぬ単語が出てきた。バックから電子手帳を出して引いてみると搭乗という意味である。Where from と書かれている入国カードが一般的である。Taipeiと書く。以前の一人旅でexpiryの単語が分からずに悩んだことがあり、電子辞書は身近に置くことにしている。国によって入国カードの表示が少し異なることもあるのだ。マレーシアは空路だけでなく陸路でも外国と繋がっているのだ。スチュワーデスがウーロン茶お代わりを注いで回っているがとてもまずくて飲む気になれない。
機内には様々な人々が載り合わせている。私の右前でいびきを掻く男性は無呼吸症候群のように「ズズズー・・」と来てしばらく息を止めて「フッ・・ツ」と急に吸い込む。耳障りないびきだ。その横で何気なく雑誌をめくっているのが妻らしい。縮れ毛に大きな蝶の形の髪飾りをしている。彼女はその耳障りな音にも免疫力を得ているらしい。トイレの周りはいつも人だかりで、使用中ランプが点灯している。乱気流と着陸態勢に入ると使用禁止である。その着陸態勢に入ったときにトラブルが起きた。からだの大きい赤毛に西洋人の女性がトイレを利用しようとしたが、客室乗務員に止められすごすごと席についた。機長がランディングの説明を始めた。乗務員は客席を見渡してから彼女ら専用の席についてシートベルトを着用した。その隙に先ほどの女性がダッシュしてトイレに駆け込んでロックした。女性乗務員はトイレの外から何やらヒステリックに話しかけた。一人が電話で何かを話し始めた。男性のチーフパーサーがやってきて彼女らと話している。慌てた様子はない。男性はゆっくりとトイレをノックしてなりやら話しかけた。飛行機が車輪格納庫からタイヤを出す音がガクン、ガクン響いた。機首が次第に傾いて降下しているのが分かった。エンジン音が高くなった。私はトラブル発生かと少し緊張した。するとトイレから女性が何事もない様子で出てきた。前屈した通路を女性が足早にもとの席に向っていった。左腕に帯状の刺青が見えた。乗客には様々なタイプがいるようだがテロリストでなくて良かったと本気で安堵した。女性乗務員の苦笑の中には安堵感が漂っていた。既に窓からは油ヤシの広大な畑が見えた。
機体はがくんと大きく揺れてランディングした。エンジンが逆噴射で大きな音を立てた。そして次第に減速していった。英語とマレー語の機内アナウンスが始まると乗客がざわめき始めた。私の感性は台湾の記憶を払拭してマレーシア圏内に到着したことをはっきりと認識した。この先は蒸し暑いマレーシアである。友人のCheah War Sang (チャー・ワー・サン)が待っているはずだった。時計は午後1時を指していた。
飛行機を降りて乗客の流れに乗って歩いていくと無人電車のエアロトレインが待っていた。KL(クアラルンプル)国際空港は日本語による動線案内があり、日本人旅行者への配慮があって嬉しい。但し空港ビルの国際線だけの話である。2階の国内線でジョホールバルやコタキナバルに向かうには英語とマレー語だけだ。入国審査を受けて出迎えの広場に出る前に両替コーナーに立ち寄った。1万円を370MYR(リンギット)に替えるためにだ。両替は空港が最も適正レートである。パスポートと1万円札を差し出すとスカーフをしたイスラム衣装の女がクスっと笑って「No need PASSPORT」言った。両替所の中で腰に銃をぶら下げた警備員に女は何かを話して再び小さく笑って作業を続けた。警備員はこちらを見たが無表情であった。私はその田舎娘の妙な優越的な態度に少しだけムカついた。玉城も同じく1万円を両替した。出迎えの広場は柵が張り巡らされており旅客との直接の接触が出来ないようになっている。客引きやスリ対策であろうか。出迎えの人々が旅客の名前を書いたプラカードを手にして旅客の品定めをしている。私はチャーワンの姿を見つけることが出来なかったので自動ドアから外に出た。タクシーが待機する通路と旅客がプライベートで乗り降りできる通路が2列並行に走っている。那覇空港の到着通路に似ている構造である。ただ異なるのは猛烈な暑さである。
KL空港の到着出口で迎えを待つ人々
クーラーの効いた建物から出た私は目眩がするほどの暑さを感じた。素早くチャーワンを探すもどこにも見当たらない。カバンからレンタルの携帯電話を取り出して連絡を取ることにした。しかし、今日が日曜日であることに一抹の不安を感じつつ農場の電話番号を押した。《英語表記を中止》
「ハロー、仲村です。ミスター・チャーワンをお願いします」
「オー、ハロー、ミスター仲村、ハワユー」
「今着いた。ナンバー5のゲートの外に待っている」
「OK、すぐ来る、とても近いから」
チャーワンは15分ほどでやってきた。
「ハワユー、ナイスミーツユー」
互いに挨拶を交わした。
「玉城を知っているだろ。うちのスタッフだ。沖縄オーキッドショーで会っているだろ」
「オー、イエス、ハワユー、ミスター玉城」
「こんにちは、チャーワンさん」
チャーワンは素早く車を出した。この場所は車の往来が多く空港ポリスから注意されるようである。
「昼飯はどうだ」
「機内食を食べたが、少し腹が減っているな」
「それでは、其処のドライブインでマレー料理でも少し食べるか」
屋台風のレストランが並んだ一角に車を停めた。
セルフサービスのレストランである。チャーワンが食べ物を取ってきた。
①イカのぶつ切りカレー煮2皿、
②魚のぶつ切りフライ1皿、
③インド風ナン1皿(甘みをつけていた)、
④大きなポテトチップス1皿:カレールーにつけて食べた。
⑤飲み物はアイスコーヒーである。
空調温室内の開花コチョウラン
シリンジによる気温調整機能
食事が済むと空港に近い彼の農場に向った。彼の自宅はクアラルンプルの郊外で農場から75kmほど離れているという。「毎日75kmの通勤だぜ」と笑った。農場は原野と湿地の入り混じった場所で周辺に人家のない場所だた。農場は100m四方の広さで高さ2m余りのフェンスで囲っていた。マレーシアやタイ国のラン園の特徴は、支柱を立ててワイヤーを引っ張り、ネットをフラットに張った構造である。コチョウランのベンチの上だけは屋根に雨よけのビニールが張られていた。さらに冷房設備を供えた50坪の温室が3棟あった。バンダ、カトレア、デンファレ、オンシジュウムなどはネットのみのベンチである。コチョウランのベンチには扇風機、その他のベンチはシリンジで温度を下げる工夫がなされていた。農場は周辺に遮蔽物が無いので風通しがとても良かった。飛行場に近いので人工の遮蔽物が建築出来ないのであろう。その為に自宅から75kmも離れたこの場所に農場を構えているのだろう。我々は暑い盛りの2時半ごろ農場を巡回した。彼がシリンジの効果を見せてくれた。数分の散布で気温の低下を肌で感じることが出来た。昼下がりにシリンジを10分間作動させて湿度の保持と気温を低下させていると説明した。コチョウランはベンチの上で葉の向きが整然と並んでおり、とても良い生育状況であった。気温が幾分高目であるが扇風機で空気を攪拌していた。冷房温室は彼独自の工夫が施されていた。ハウスは6m×25m、高さ3mのかまぼこ型である。厚手のビニールが二重に張られていて断熱効果を図っていた。高さ2mの位置に備え付けられた送風機からの風は25m先の壁に当たってハウスの側面を送風機のところに戻って室内を循環するシステムである。チャーワンの意見では送風機の風の届く距離がハウス構造を決定するという。
冷房システムも特徴がある。我社の空調設備はダイキン工業社製で、日本で一般的な空冷システムであるあるが、彼の場合は水冷システムである。はじめに水を冷やしてタンクに溜め、それを送風機の後ろのラジエターに巡回させるのである。ラジエターから戻った水は再び冷やしてからタンクに戻すのである。彼は「水を暖めると暖房としても利用できるはずだから沖縄でも試してみろ」と言った。「こんなラジエター空調設備を作る会社があるのかい」と問うと
「ラジエターは大型車の部品の改造だ。タイの自動車修理業者から取り寄せたのだ。その他は自分で改造して作ったのさ。グッドアイデアだろ」と自慢げに笑ってこめかみを指差した。開花株をクアラルンプルの市場に出荷しているらしい。コチョウランの苗や水苔は台湾からの輸入品である。玉城は農場で働く作業員を指差して言った。
「マスクもせずにタオルで口元を覆って農薬を散布していますと」
「以前に渡辺の農場にいた作業員はスリランカ人と言っていた。彼らも同じだろう」と返事した。
チャーワンに作業員のことを問うと、「マレー人は農作業に従事しないので海外のスリランカ人を雇っている」と言って、農場内の宿舎を指差した。農場の警備を兼ねているので助かるそうだ。只、2年後の沖縄国際洋蘭博覧会にチャーワンが来沖しないことがあった。その年に特別講演で参加したマレーシアのプラト大学の植物学助教授のルイスさんによると、就労ビザでやって来たスリランカ人が都会に逃げ出してしまい、チャーワンは苦労していると話した。日本国内でも同様な現象が起きているのは確かだ。最近のチャーワンの農場は点滴灌水システムに切り換えて労力の省力化を図っているようだ。
1時間ほどチャーワンのラン園を見学した後、クアラルプル郊外のセレンバン・オーキッドに出かけた。オーナーのリチャードはランの原種の収集家で、痩身で色白の中華系の男だ。彼とは対照的にチャーワンは浅黒い肌をしたマレーと中華の混血タイプで腹が十分に出た愛嬌のある男だ。リチャードの50坪ほどの空調温室はパットエンドファン方式である。台湾に多く見られる冷房方式だ。コチョウランの原種の収集が多い。マレーシアの野生種の収集家である。空調以外の施設の屋根は平張りのビニールで5mピッチの階段状になっている。階段状の隙間から熱気を外に流すような構造である40分ほど見学して引き上げた。チャーワンはリチャードから原種をいくらか買って車に積み込んだ。
近くの食堂で休憩しているとリチャードがやってきて名刺を交換した。コーヒーを飲みながら雑談した。店の前ではトラックから小玉のパインを降ろしていた。ポリスが退屈そうにそれを眺めていた。駐車禁止地区かもしれなかった。町の景観はタイの田舎と似ていたが、生活の為の活動がタイ程活発でなく、極めて穏やかである。タイより南に位置しており、南方系特有の穏やかさが濃くなっているのだろう。
時計を見ると午後5時を過ぎていた。
チャーワンは立ち上がって言った。
「ホテルに送ろう。私の自宅の近くだ」
「7時にロビーに迎えに来る。夕食をSimonの家族と共にしよう」
「オーケー」
我々はリチャードと分かれてクワラルンプルの郊外の新興住宅街にあるホテルに向った。ゴルフ場を備えたリゾートホテルのHOLIDAY INN KUALA LUMPURである。
「明日はキャメロン・ハイランド、その次はイポーに泊まり、そしてクアラルンプルのこのホテルに戻ってくる。OK」と説明した。
私が「オーケー」というとフロントの女性に18日、19日の予約を取り消して20日は再び戻って宿泊するとマレー語で話した。
私は412号室のカードキーを貰ってチャーワンと分かれた。今度の部屋は差し込み式カードキーであった。カードを差し込むと難なくドアが開いた。私は一人で苦笑した。部屋はワンルームでダブルベッド、広いベランダを備えていた。ベランダの向こう側にゴルフ場が広がっていた。
私はシャワーを浴び、下着と靴下と今日着けていた化繊のかアロハシャツ洗った。予備のバスタオルに包んで絞った。こうすると洗濯物の水分を随分と吸い取ることが出来て朝までに乾き易いのである。上着はロッカーに、下着と靴下は行灯の傘に掛けた。そしてクーラーは最大の吐き出しにして洗濯物の乾きを促すのである。財布とパスポートをポケットに入れて花柄のアロハシャツに着替えてロビーに降りた。玉城君がお土産の袋を持って待っていた。チャーワンが長男を伴って7時丁度にやって来た。「ハワユー」と長男に声を掛けると、同じく挨拶を返してきた。彼とは2月の沖縄国際洋蘭博覧会で会っている。陽は既に落ちているが未だ明るい市街地を走った。
15分ほど走ると海鮮レストランに着いた。辺りは既に薄暗くなっていた。サイモンが待っていた。私は「ハロー、ナイスミーツユー、アゲイン」といって握手した。そして玉城君を紹介してお土産を渡した。沖縄の伝統菓子だと言うと喜んだ。店は混んでいてチャーワンは車を片付けに去っていった。私はサイモンに案内されて彼の家族の待つテーブルに向った。彼の自慢の色白の奥さんが笑顔で私を迎えた。サイモンと彼女には2月のラン展示会で会っているのだ。サイモンはチャーワンと似た体格で同じタイプの臭いがする人物である。あごの痣から白い毛が5cmほど生えている。中華系の人々に見られる縁起物であろうか。サイモンの子供は長女が高校を卒業して社会人として働いている、その下の長男がメガネの高校2年生、高校1年生の次女、やんちゃなメガネの小学生の三女である。一方、チャーワンの子供は長男、次男、次女がいた。長女と妻は参加していなかった。理由は知らない。赤ワインの乾杯、さらにウイスキーを別のグラスに注いで宴が始まった。サイモンは私のために特別な海産物の食材を準備していた。彼は海産物の輸出業者である。マレーシアの漁民から買い取った鮮魚を、冷凍コンテナ車でタイ、シンガポールにむけて国際道路を利用した陸上輸送を生業としているのだ。国営沖縄記念公園の水族館を案内した時のことを思い出した。大型水槽の中を泳ぐ大型魚のマグロ、ハタ、タイ、そしてナポレオンフィッシュを見た時である。僕らはいつもの様にあの魚は美味いとか、あれは食えない等と話していた。突然、サイモンがナポレオンフィッシュを指差して言った。
「あれは美味いぞ。今度クアラルンプに来たらご馳走するぜ」
「ほんとかい、滅多に手に入らんぞ。俺は未だ食ったことは無い」
「サイモンは魚の輸出業者だ。彼が手に入らない魚は無いぜ」とチャーワンが言った。
「そうかい。今度クアラルンプル行った時には頼むよ」と笑って応えた。それ以来の再会である。
料理が運ばれてきた。
① 魚のスープ:大きな優勝カップに似た鍋で作られた魚のスープはショウガと椎茸が入っており、体に良い味と香りがした。
② シダの新芽の御浸し:シダの新芽を茹で上げ、ピーナツのあら挽きを振りかけてレモン汁と醤油で味付けした山菜料理だ。
③ マレー風ラフテー:豚肉を醤油と香辛料でたっぷり煮込んだ沖縄のラフテー風味、
④ 川エビのトマトソース煮:(ブラックタイガーサイズ)
⑤ ナポレオンフィシュの皮と胃袋の煮込み:サイモンが持ち込んだ食材でめったに入手できない素材だ。沖縄の水族館で話題にした魚料理だ。
⑥ 細い麺の中華炒め
⑦ キュウリと魚の煮込み:小さなカボチャをくりぬいて魚のすり身ときゅうりを煮込んである、
⑧ デザート:スイカ
我々は何度も「チェース」と言ってグラスを上げた。末娘は私が料理のメモを取るボールペンが珍しいのであろうか、しきりと私の席に回ってきた。私は自分の末娘の幼かった頃を思い出し、昨日入手したばかりの金色の特殊ボールペンをサイモンの末娘にプレゼントした。ペンを手にして皆に見せびらかして得意顔で席に着いた。サイモンがニコニコして私を見て「サンキュー」と言ってグラスを掲げた。私も応えてグラスを掲げた。店の客がまばらになったころオーナーシェフが我々のテーブルにやって来た。サイモンが中国語で私を紹介した。私はこの店の料理は沖縄料理に似たところがあるが、料理の質はより繊細で奥が深くグレードが高いと褒めた。シェフは納得して私と握手をくり返した。事実、この店のシェフは料理のコンテストで州知事から表彰されていて、その表彰式の写真が壁に貼られていた。私も久しぶりに良い気分で少し酔ってしまった。玉城は酒を口にしないのでいたって冷静である。私にとって酒を口にしない同僚との旅は、ある種の安全保障を手にしている気がして心強かった。
再会のディナーが終了してホテルに戻ったのが午後10時半であった。チャーワンは「明朝午前9時30分に迎えに来る」と言ってホテルの玄関で僕らを降ろした。私は「オーケー、サンキュウー、グッドナイト」と言って別れた。ホテルのロビーの一角にあるバーでは女性がピアノを演奏していた。夫婦と思しき欧米人の数組のカップルがそれぞれにグラスを傾けて南国の夜を楽しんでいた。私の感覚は既にマレーシアモード切り替わっており、日本と台湾の記憶が完全に消し飛んでいた。チャーワンは体に似合わず心優しき男である。私の長旅の疲れを癒すため、明朝9時30分という少し遅めの出発時間を設定していた。久しぶりに心地よい疲れの中で眠りに落ちた。いつの間にかマレーシア表示となった私の体内時計が時を刻んでいた。
5月18日(月)
午前5時に目覚めた。しばらくベッドの中でまどろんでいたが次第に意識がはっきりとしてきた。五時半にベッドを出て髭剃りとシャワーで意識を鮮明にした。コーヒーを入れて旅行メモを整理している間に外から芝刈り機の音が聞こえてきた。広いベランダに出て外の様子を眺めると、ゴルフ場のスタッフが朝の管理作業をしていた。私が会員登録している沖縄県本部町のベルビーチゴルフクラブの管理作業と変わらぬ朝の風景である。乗用式芝刈り機の芝刈り跡をこげ茶色の小鳥が何やらついばみながら追いかけている。羽を広げて飛び立つときひし形の白い斑点が際立った。沖縄のヒヨドリに似た甲高い鳴き声で芝刈り機の周りを飛び交った。私は朝の目覚めにはもう少し穏やかな鳥のさえずりが欲しいと思った。
ホテルのゴルフ場。各ホールに向かう競技者
ベランダの木製の丸テーブルでメモを取っていると次第にプレーヤーらしき人々が集まってきた。相当の人数である。どうやらコンペがあるらしい。二人一組のカートでコースに散っていった。各ホール同時にプレーを始めるショットガン方式の競技であろう。このカートは二人乗りで後部のキャディバッグ置き場とステップがあり、キャディはそのステップに立ち、プレーヤーがカートを運転して移動するのだ。ベランダから見えるコースのレイアウトは、高低差の少ないなだらかな丘陵地にマニラヤシが立ち木のブラインドを作り、細長い池のウォーターハザードが続いていた。フェアウエイは余り波打っておらず比較的にやさしいコースに思えた。リゾート地特有のトーナメントを意識しない楽しいコース設計である。遠く500mほど先のマニラヤシの並木の隙間から車が通過するのが見えた。人々の朝の活動が始まっているようである。午前8時15分サイレンが鳴った。スタートホールで写真撮影やらをしていたプレーヤーがティショットを打ち始めた。早朝のゴルフコースは刈り取ったばかりのフェアウエーの芝目がくっきり目立っており特別美しいものである。私は10年前にグリーンテック・トウキョウの渡辺さんに誘われて、KL空港の近くのゴルフコースでプレーしたことを思い出した。早朝の快適なスタートであったがホールアウトする頃の昼前には暑さでバテそうになった。私は心底ゴルフがしたくなり、ゴルフコースでスタート前にするようなストレッチで体をほぐした。
8時30分、玉城君のドアをノックする音を合図に一階のレストランに向った。
ホリデー・イン・ホテルは世界中にチェーンホテルをもっている。朝食は西洋人好みのオーソドックスなバイキングスタイルである。
① オムレツ、
② マメのトマト煮、
③ ハム1枚、
④ クロワッサンと小さな丸いパン、
⑤ 自ら取り分けたチーズ、
⑥ 味噌汁、
⑦ オレンジジュース、
⑧ デザートにパパイヤ、スイカ、パイン
果物容器の前には小さな地元産のレモンの一片があり、指で挟んで絞り汁をパパイヤかけるのである。レモンの香りと酸味はパパイヤの特有の臭いを消して風味を引き立てる。
コーヒーは給仕係が小振りの水筒のようなポットで注いでくれた。ポットをそのまま置いていったので客専用のお代わり用ポットの意味らしい。朝食をとる客の前には同じようにポットがある。コーヒーはやや濃い目だ。私はブラックのアメリカンコーヒーが好きだが、旅行中はミルクと砂糖を常用している。糖分を補給することで疲れが取れる感じがするのだ。
9時15分にチェックアウトのためにロビーに降りた。チェックインの時にチャーワンの会社での予約と彼のクレジットで保障を取っていた。フロント係りの女性が少しいぶかしげに質問したが、私個人のクレジットカードでの支払いで問題ないと告げてチェックアウトを済ませた。ルームチャージ255RM、その他のサービスチャージが38.25RM、合計293.25RM(7,950円)[1MR=¥27.11]だ。円高のせいで2千円ほど安くなっている。
しばらくするとチャーワンがやって来た。助手席にいる男をリーだといって紹介した。
「よく眠れたかい」
「ああ、良いホテルだ。暇があればゴルフがしたいくらいだ」
「今日はKL空港トレーディング・グループのゴルフコンペティションが開催されているね」
車はホテルの構内を出て表通りを進んだ。この辺りはクアラルンプルのベッドタウンで美しい建物が並んでいる。2階建ての建物を指差して100万RM(2,900万円)だという。チャーワンの自宅もこの近くにあるという。トヨタの自動車工場が近くにあり、日系企業の職員や公務員も多く住んでいるらしい。この辺りの一般的な住宅価格は50万RMらしい。ショッピングモール等も増えて住宅都市として拡大しているようである。
車は高速道路へ入った。この高速道路はインターナショナル・ハイウェイである。シンガポールからタイ、カンボジア、ベトナム、中国までと続いている。人や物の輸送が盛んである。昨日、ある乗用車を指差して中国からだと言ったのを思い出した。車は北へ向かって走っている。スピードメーターを覗くと時速120kmを指している。チャーワンの車は、トヨタの最高級ワゴン車アルファードの旧型3ℓ:250PSエンジン搭載車である。どのような経緯かは知らぬが日本仕様車である。いわゆる逆輸入車だ。当然だが標準装備のカーナビが日本使用であり当地では使えない。もちろんモニター表示も日本語である。専らカーステレオ専用となっている。最新の3.5ℓ:280PSには及ばぬが心地よい走りである。この国の長距離ドライブに適している。日本での価格は380万円程度であろう。この国では逆輸入車は外国車扱いでとても高価だという。トヨタ、日産、三菱系列の現地生産車が国産車として売られている。エンジン等の主要な部分は日本で製造されており、装備は日本車レベルのグレードを省いて廉価に仕上げているようだ。
さて、チャーワンが伴ってきたリーさんは彼と同期ぐらいの男で、職業人としての感触が無くいわゆる遊び人風の匂いがした。左目が潰れかけている。先天的か事故によるものかは定かでない。よく喋り乾いた笑いをする人好きのする男である。時々チャーワンが小遣い銭を渡して食べ物の支払いを促していた。台湾の秦にもダンという兵隊崩れで、大酒飲みで気の荒い友人がいたのを思い出した。その男と2日ほど旅をしたが、飲むたびに地元衆に睨みを利かすのには閉口した。沖縄でも二日ほど飲み歩いたがそのときはおとなしくしていた。それに較べればリーはすごく気楽な好人物に見えた。
40分ほど走ってから高速を降りて何処やらの田舎町で軽食をとった。「朝食は十分だったか」と聞くも、私が答える間もなく何やら注文した。
① シュウマイ入り野菜スープ2杯、
② コーヒー各自に、
③ 5個入りの小さな饅頭1袋、
④特性スープ1杯:ステンレスカップに入った特性スープは、屋外の蒸し器の中から取り出してきた1品である。
野菜スープはあっさりした味だったが、特性スープはアヒルの腿肉を多くの香辛料や薬草と共に煮込んであり、とても滋養がつくような味であった。4名で取り分けて飲んだ。
チャーワンは先ほど食した饅頭はこの地域の特産だといって追加で買ってきて、4袋を土産にしろと渡した。街角の果物屋を覗いて回った。数種類のマンゴー、マンゴスチン、バナナ、種無しグァバ、レンブ、ザボン、パンノキの実、ビルマネムノキの実などである。若い娘がネムノキの実の品定めをしていた。チャーワンに訪ねると、その実を炒めて食べると腰痛に良いがとても臭いという。うらぶれた老人がしきりにその剥き身を売りに来たが、チャーワンは取り合わなかった。よほど不味いのであろう。チャーワンはマンゴーやらマンゴスチンを買い込んで車に積んだ。この町にもカメラショップがあり、玉城君のデジタルカメラのメモリーチップを買った。街はイポーに続く旧道沿いにあり、日本の宿場町に似た生活臭のする佇まいであった。道路標識にイポーと矢印がついていた。
車は高速に戻って北へ向った。油椰子のプランテーションが続いた。この農場は外国資本とマレーシア政府のジョイントで構成されているらしい。プランテーションが途切れると高速道路は原生林に似た山林を登り始めた。チャーワンは高い山を指差して3,000m級の山だ。この辺りの標高は1,500mだろう。国内で一番高い山はボルネオのキナバル山で4,000mを越えているといった。沖縄の最高峰は400mだと私が言うと大笑いになった。
午前11時45分、高速道路を降りて狭い幅員の道路に入った。やがて山の斜面に沿って曲がりくねった山道を登っていった。40分ほど上ると耳鳴りがした。気圧の変化を自覚できるほどの高度である。チャーワンはほんの少しでも見通しがあると前の車を追い抜いた。山の右斜面を登っているので追い越す場合は右側に断崖を見下ろすことになるので危険この上ないドライブである。野生のドリアンが握りこぶし大でぶら下がっていた。30mもある高木である。道端脇の小屋でトーチジンジャヤーの株、野生ラン、取れたてのトウモロコシ等が売られていた。2,000mを登りきったところで小さな平地に民家がポツポツと現れた。二つ目の集落で車を停めた。高速道路を出てから1時間20分、キャメロン・ハイランドの街角に降り立った。
キャメロンの街角
少し遅い昼食をとるためにレストランに入った。昼時を過ぎているので客はまばらであった。ミスター・ローが待っていた。菊の大規模生産者だと紹介された。「野菜料理でよいか、肉料理も欲しいか」と聞かれたが、「ベジタブルでオーケーだ」と答えた。この辺りは野菜の産地という。日本の長野県の夏場の高原野菜の産地の類である。只、長野県と異なるのは、一年中安定した気候の高原野菜の産地であることだ。
① 煮込みうどん:もち米で作られた長さ7cmに太さ5mm程の麺である。両端がぶつ切りでなく細く絞られている。細切り野菜、茸と炒められており、ぬるぬるとした中華風うどんを噛むとそのモチモチ食感がたまらない。
② 極細麺の焼きそば:白菜の細切りを加えてさらっと炒めてある。
③ 太め目の新鮮アスパラガス、小型の玉ねぎ、にんじん、刻みネギのピリ辛炒め、
④ クレソンとカマボコ風のスープ、
⑤ キャベツのピリ辛炒め
体に良い新鮮食材の昼食である。この席から英語塾のカーステンに電話をして明日の英語塾を休む旨を伝えた。彼女は「インターナショナルテレホンね」と言った。一瞬だけ沖縄の時間帯に戻った。なんだか知らぬがホッとした。
2時10分、ランチタイムを終えてローの農場を訪ねた。15エーカー(18,400坪)の菊畑を管理しており70名の労働者を抱えている。彼の邸宅の前に車を停め4輪駆動車に乗り込んで農場見学に出かけた。彼の豪邸の庭には斑入りのコバノコバテイシが3本植えられていた。この樹木はマダガスカル原産である。2001年のマダガスカル探索で開花株を見たことがあるも他の国では開花しない。コバテイシの実生苗に接ぎ木で繁殖しているのだ。沖縄県の都市モノレールの空港駅付近で見ることが出来る。但し斑入り種ではない。チャーワンはとても高価であると感心していた。いわゆる菊成金の類かと思った。ガレージにはヨーロッパの外車が2台停められていた。先ほどのレストランで挨拶を交わした老人の息子が栽培するラン生産農場に向った。この辺りは斜面地に多種類の野菜類、菊、ラン類、観葉植物が栽培されている。雨よけのための屋根だけのビニールハウスが続いている。強風が無いので細身の骨材で作られている。沖縄ではとても考えられない簡易な構造である。栽培されている作物はいずれも一級品である。花崗岩が風化した排水良好な土壌、2,000mの高地の冷涼で安定した気候、ダムから供給される十分な水資源、作物にとって最高の適地であろうと推察された。そして山を下ってインターナショナル・ハイウェイを利用すれば、クアラルンプル、シンガポール、バンコックの大量消費地まで陸上輸送で商品を供給できるのだ。平坦で利便性のある広大な農地は確保できないが、技術と資本を投下したことで一大産地が形成されたのである。特にシンガポールという高級市場に商品を供給することで技術力の向上に拍車がかかったのであろう。ローの農場で働く労働者の表情を見ると英語や中国語に反応しない。おそらくスリランカからの出稼ぎ労働者であろう。ローの話では日本のJAからの視察グループもあるらしい。私たちはさらに2か所の観葉植物出荷場とラン園を廻ってローと別れた。
午後5時、小雨のなかを次の集落に向った。峠の頂上付近から左手に山一面の広大な茶畑が見えた。これが有名なキャメロン・ハイランドの茶畑である。尾根の頂上に旅行ガイドブックの写真でよく見る峠の茶屋があった。チャーワンの車は停めてくれと声を掛ける間もなく一気に通過した。山頂近くの雨霧に煙る茶畑の尾根を越えるて10分程下ると道路に面した8階建てのホテルがあった。2週間前にオープンした新築のホテルである。1泊200US$のところをオープンセールの半額であった。部屋の中は未だ新品の家具の匂いがした。最初の部屋がツインのベッド、その裏側がダブルベッドの部屋、そして比較的に広いバスルームという間取りだ。私と玉城、チャーワンとリーで泊まった。私は玉城君がシャワーを浴びる間にチャーワンの部屋でしばらく雑談して備え付けの緑茶を飲んでいた。キャメロン・ハイランドの香りの強い緑茶である。
午後7時にホテル前の坂を車で10分ほど下って街のレストランに向った。太めの女将が親しそうにチャーワンを迎えた。よく利用しているのだろうと思った。そういえば、彼は毎週のように誰かを案内してこの町に来ていると言っていた。話半分でも頻繁に通っているのは間違いないだろう。トヨタの高級ワゴン車を持っている理由のひとつだろう。店は奥に縦長の特別大きい店ではない。10人掛けの丸テーブル4台がカウンターと並行して置かれ、その奥に2台の丸テーブルがある。その2台は少し小さい。カウンターの奥の小さめのテーブルを使った。4台の大きなテーブルには食材が準備されており、30分ほどすると中国系の旅行客らしき一団が食事会を始めた。繁盛した店のようである。客足の多い店ほど美味いのは万国共通の事実だ。
レストランには既にローがいて、その隣のメガネを掛けた色白で背の高い男性を紹介した。ポーという男でケミカルの商売をしているらしい。私は化学工場にでも勤めているのかと思ったが詳しくは尋ねなかった。しばらくして洋酒のヘネシーを抱えた老人が加わった。77歳のリューさんだ。元気な方でトマトの生産者らしい。がっちりした体格の色白で血色の良い顔つきである。カールした髪を後ろに撫で上げたいわゆるオールバックスタイルの髪型だ。農家の親父というより不動産業か社交業界のドンといった感じだ。私がチャーワンに言った。
「grand father look like so young」(親父さんは、随分と若く見えるね)
すると、リーが傍から笑いながら
「no! no! he is young young men. Not young men」といった。
そのときから彼のことを「ヤング・ヤング・メン」と呼ぶことになった。私が帰国するときまで彼の話題が出るとヤング・ヤング・メンと呼んだ。我々は7名でテーブルを囲んだ。酒はヘネシーの他にチャーワンが持参した金粉入りの高粱酒である。この日のディナーパーティは高粱酒のチェース(乾杯)で始まった。食材としてサイモンがプレゼントした食材の冷凍魚、イカ、エビを発泡スチロールの箱に入れてこのレストランに持ち込んであった。ローの農場を去るときにチャーワンが彼に渡してあり、今日のパーティに使うといっていた食材である。この店で既に調理されているのだろう。
①土鍋に入った魚のスープ:昨夜のスープより少し魚くさい。同じく香草が入っていた。リーが取り分けて皆に配った。一人当たり2~3杯の量である。
ハンディ・ガスコンロが持ち込まれた。その上に直径40cmほどの金属製の鍋が載せられており、だし汁が入っていた。だし汁は定期的に女将が継ぎ足してくれた。鍋は真ん中で二つに仕切られており、左右で別々の食材を調理することが出来た。
②魚の切り身:サイモンが渡したものでかなりぬめりがあった。肉質によるものか、コックの下ごしらえに拠るものかは分からなかった。シャブシャブや海鮮鍋と同じ要領で軽く煮立てて食べるのである。小皿にチリソース、醤油、青唐辛子の酢漬けのスライスがあり、それを薬味として使うと味が引き立った。
③エビ:ブラックタイガーと同じだが川エビである。臭みが無くて美味い。チリソースの酸味とピリ辛がマッチする。
④イカ:半透明の薄茶色で3角形に切ってある。イカの触感ではなくコリコリとした歯ごたえがある。味はイカに違いなかったが少し淡白である。
エビとイカを鍋から全てすくい取ってから次の食材を入れた。異なる食材が影響しあって食材本来の味が変化しない工夫である。
⑤油でカリカリに揚げた魚の胃袋:3角形で湯にほぐれると変わった食感となった。
⑥小さな袋上の揚げ物:日本の鍋物に入ってくる高野豆腐の揚げ物とも異なる。中にはシュウマイのような具が入っている。
鍋の中身を取り出してだし汁を追加した。
⑥ 豆腐:三角形の絹ごし豆腐で3cm幅、15mmの厚みだ。
⑦シイタケ:マッシュルームサイズであるが、小さい丸い傘のシイタケだと思った。
⑨平茸:一口大にきってある。
⑨ エノキダケ:鍋物によく使われているものである。
キノコ類は大皿にそれぞれ盛られている。
⑪丸いカマボコ:親指大のこんにゃく風カマボコである。少しだけ弱った臭いがした。こんにゃく特有の臭いであったかもしれない。
⑫春菊:軽く湯を潜らしただけであるが、エグミの無い新鮮で柔らかい新芽の部分である。
⑬クレソン:軽く煮てから食べる。
⑭マメの新芽:大根のモヤシに似て少し辛味がある。だし汁にさっと潜らせてから食べる。さっぱりとした食感だ。
⑮大根:ポーが外に停めた自分の車から大根を持ってきて女将に渡して短冊に切ってもらった。緻密な大根で甘味と歯ごたえがある。
⑯ゆで卵:殻ごとだし汁の中で茹でる。しかし誰もが満腹となっており、ポーが持ち帰った。魚やその他の料理もビニール袋に入れて持ち帰った。汁も加えていた。ローがあれこれと袋に詰めるのをリーが手伝った。
リューさんは余り食事を取らずしきりに酒を勧めた。チェース、チェースの連続である。結局のところヘネシーを全て空にして満足な表情をしていた。笑うと穏やかな好々爺という感じである。食卓のメンバーが一目を置いているのをはっきりと読み取れる程のステイタスを感じた。チャーワンは25年来の友人であると真面目な顔で言った。老人には裏の顔があるのかもしれない。旅行客は既に引き上げて、店のスタッフが奥のテーブルで夜食の鍋を囲んでいた。午後10時になっていた。リーは3分の1ほどになったコーリャン酒を持ち帰った。今日のディナーはポーの支払いであった。それ故、彼が残り物を持ち帰ったのであろう。私はポーに今日の夕食は最高に美味しかったと礼を言って握手した。
外に出ると雨は上がっていた。雨上がりとはいえ高地の夜は沖縄の冬並みの肌寒さを覚えた。ホテルにもどったのは10時20分であった。私はわずかに疲れを覚えており、衣類を脱ぎ捨てるとベッドに入った。シャワーは明日だと思いながら眠りに落ちていった。
5月19日(火)
2時間ごとに目が覚める。昨年秋の人間ドックで指摘された前立腺が旅先で少し悪化しているのかもしれない。午前4時45分ベッドから這い出して外を眺める。5階からの視界に幾つものホテルの明かりが見えるが未だ夜明けに間がある。先ほど電源を切った携帯電話のアラームが鳴った。5時である。携帯のアラームは電源を切っても鳴るものであろうか。それとも眠気眼のせいで電源を上手く切らなかったせいであろうか。シャワーを浴びて荷造りをすませ、昨日の出来事を記録するためにメモを取った。何処からかコーランの音が聞こえた。このような山中の避暑地でもイスラムの信者は存在するのだと少しばかり違和感を覚えて寒気がした。午前七時、玉城は未だ寝ている。彼は言葉の通じない世界に多少のストレスを感じてはいないかと気になった。私はつたない英語であるがコミュニケイション上のストレスは全く無い。カーステン英語塾の効果があるのか、それとも単なる楽天家気質の旅人気質によるものかもしれない。昨日の夕方、妻に電話するも連絡が取れなかったことが少しばかり気になった。名古屋で暮らす長女とは連絡が取れたのでいくらか安心している。旅先で自宅のことを心配すのがナンセンスであることを私は十分に知っているつもりであったのだが。老いが始まりつつあるのかもしれない。
朝霧の立ち込めたキャメロンのアパート群
山の端が少し明るくなってきたので写真を撮るためにベランダのガラス戸を開けた。足元のジュウタンが結露で濡れていた。夜間の気温はかなり下がるのであろう。確かにクアラルンプルのホテルのように25度に自動温度調節したエアコンの送風音が聞こえない。
7時25分、ベランダの左方向の山から朝日が射してきた。谷合の集落は白いアパートが林立している。アパートか賃貸別荘であるかはわからない。昨日下山の途中でゴルフ場を見かけた。日本人らしきグループがプレーしている姿があった。右側の道路では車の往来が激しくなった。タイヤが水を含んだ路面をジャキ、ジャキと噛む特有の湿った音を響かせて行き交っている。山中のホテルらしく小鳥の声が活発になった。ホリデー・イン・ホテルで見た羽に菱形の白い斑の鳥である。私はこの景色にはウグイスに似た鳴き声がふさわしいと思うのであるが、この国の華僑のように騒々しい鳥が繁盛しているようだ。自然生態も国民性に付随するのであろうかと思った。
玉城が起きだした。
「おはようございます」
「8時に食事に行こう。8時30分の出発だ」伝えた。
しばらくしてチャーワンがドアをノックしたので1階のレストランに向った。
バイキング用の鍋が並んだこじんまりしたレストランである。ルームナンバーを告げて鍋の蓋を開けると空である。給仕がテーブルに案内して、チャーワンに広東語で何やら話していた。チャーワンは「朝食のメニューは、焼きそばかマレーフードだ」と言った。
「ここはマレーだ。マレーフードをくれ」と答えた。
リーは相変わらず焼きそばを注文した。
ぎこちなくコーヒーを注ぐ給仕の仕草に新品ホテルだということを改めて感じた。マレー風ランチが出てきた。
皿の中央に丸く盛ったタイ米があり、左に普通のカレールー、右に辛口のカレールー、右上にキビナゴの甘佃煮、ご飯の向こう側に1枚のサラダ菜と薄切りトマト。オレンジジュースが付いている。極めてシンプルである。リーの食事は変哲も無い醤油色した焼きそばである。朝から焼きそばもありかと思った。
8時30分、チェックアウトしてホテルを出た。10分程下ると昨夜の町に着いて給油をした。35ℓの給油で63RMである。日本円の1リットル60円で日本の半額である。車を出してすぐ近くの農業資材店の前に車を停めた。中からポーが出てきた。ケミカルの仕事とは農薬、肥料、その他潅水設備にいたる全ての農業資材を扱う商売のことであった。彼の店から昨夜のレストランは50mの距離である。農業に必要な全ての資材がポーの店で手に入った。大規模生産者はポーの名前でジョイントを組んでオランダ等の海外の園芸先進地からコンテナ単位で農業資材を輸入しているという。ローの栽培する菊の品種はもとより肥料、灌水装置の部品の殆どがオランダからの輸入品である。単なる自然環境の良さと低コストの労働者ではこれだけの高品質の園芸産品は生産できない。オランダから世界最先端の技術が導入されているのだ。店にはマレー人らしい気の利かない店員が商品を並べていた。雇用主と従業員が同じ営業感覚を養う日本の経営スタイルに至っていないのも現実であった。
キャメロンの中心市街地の朝
10分ほど雑談して彼と別れた。車はゆっくりとキャメロン街道を下っていく。通り沿いにやたらとイチゴの看板が目立つ、イチゴ狩り、イチゴの鉢物、イチゴの苗販売などの看板がある大小のガーデンセンター、果てはイチゴの形をした枕やマグカップ等のイチゴグッズを売るお土産品店まである。
YKガーデンセンター
YGガーデンセンターに着いた。キャメロンで最も大きな園芸植物の生産販売業者である。ビニールハウス関連の資材も製作販売している。ここで生産する鉢物は高速道路を通してクアラルンプル、シンガポール、バンコックまで出荷するという。オーナーは50代の中華系である。英語を話せないので直接のコミュニケイションは図れなかったが、代わりに八重歯の可愛い小柄なお嬢さんが英語で丁寧に説明してくれた。この企業の園芸商品の品質は、日本の愛知県知多半島の園芸産地にも劣らないものばかりであった。30分ほど説明を受けてこの店舗を後にした。キャメロンでナンバーワンの生産者を訪ねたことでこの地の調査を終了した。そして、午後の予定であるペナンのラン生産者に会うためにキャメロンを後にした。
国立自然保護林、手前は野生のナリアラン
10時20分、再び峠を登った。今度はワインディングロードではなく比較的に新しい道路である。昨日からの行程は高速道路を右折し、キャメロンハイランドを横断して、さらに高速道路の北側に抜けるルートを走っているようだ。眼下にキャメロンのハウス群が朝日を浴びて光っていた。30分ほど走るとキャメロン特有の園芸団地の光景は姿を消した。道路は切り立った岩盤の斜面を削り取って作られていた。道路わきにナリヤランが群生して花を付けていた。ボルネオのナリヤランより草丈が低い。気温が低いのであろう。壁面にはデンドロビューム、グラマトフィルム等の原種が無造作に着生していた。野生ランの宝庫である。道路が下りにさしかかると右手の遠くに国立公園に指定された原生林が広がっていた。チャーワンはあの地区は全く人手の入らない自然であると説明した。交通量の少ない道路を軽快に下っていった。
マーブルの採石場
下り坂が緩やかになった頃、前方にがけ崩れに似た岩肌が見えた。さらに近づくと採石場であることが分った。マーブル(大理石)の採石場である。石の節理は立ての目をしており奇妙な景観であった。チャーワンの兄弟がその中の採石場のひとつを経営していると話した。必要ならコンテナひと箱分送っても良いと冗談めかして言った。私の庭の園路は沖縄産の大理石を敷いてあるから要らないと断った。実際は大理石では無く、安価なビーチコーラルの石灰岩を門の壁面と園路に張り詰めてあるのだ。ここの大理石はイタリア産と材質が異なるとのことであった。イポーの街に入って右折した。そして高速道路に乗ってさらに北上した。セメント工場が2箇所にあった。大理石はセメントの原料にもなるようだ。
マーブルを原料にしたセメント工場
11時40分、ペラ川を横切った。この川では美味い魚が捕れるとチャーワンが言った。確かに川の水は養分の多い半透明の土色をしており、開口健の旅行記『オーパ!』の写真で見アマゾンの川に似て魚が豊富かもしれないと思った。車は120kmスピードで油椰子のプランテーションの間を走り続けた。チャーワンの長男が今年2月の洋蘭博覧会に訪れた際に買ったというCDを掛けた。車内に沖縄の島唄で喜納昌吉の歌う『花』のメロディーが流れた。ヤシ林の続く異国で聞く沖縄のメロディーに不思議な思いがした。しばらくして日本のポップスにかわった。ヤシ畑が途切れると集落が現れて、再びヤシ畑に変わるという景色の繰り返しである。
油ヤシのプランテーション
高速道路の料金所支払いシステムは、右端の黄色い看板のゲートがETCシステムの[smart TGA]、青い看板のゲートが専用クレジットカードをボックスの読み取り機にタッチする[touch and go]、その左は一般的な現金の直接払い料金所だ。チャーワンは肘掛のコンソールボックスからETC機器を取り出し、ゲートセンサー向かってスイッチを入れてゲートバー上げた。日本では車載であるが、此処でたちまち盗難に遭うそうだ。
12時30分、高速道路を左に折れて古い町並みのタイピンの市街地に入った。旧街道はアンサーナの並木が続く穏やかな町でマングローブの湿地帯が続いていた。昼食のために目的の海鮮レストランの前に車を停めるも閉店であった。別のレストランを求めて古い市街地を走る。高速道路と平行して走る道路は混雑していており、先ほどまでのスピード走行との落差がある。道路わきにマレーの墓が続く道をゆっくりと進む。墓の形状は沖縄の亀甲墓に似た小型タイプが多い。リーがあの店はどうだと指差すがチャーワンはうんと言わない。大型のコンテナトレーラーが行き交い、貿易港が近いことを示している。
マレーシア墓地の亀甲墓
マレー墓の倍以上もある沖縄の亀甲墓
再び高速道路に乗って走り出し、午後1時30分に商業ビルの多い街に降りた。本格的な中華レストランの前に車を停めた。タイピンの街角でレストランを探し始めて1時間が経過していた。
赤塗りの玄関の中華レストランは冷房が効いて気持ちが良かった。ランチタイムの終わった店内は客の入りはまばらであった。丸テーブルに着くと品の良い黒いパンタロンスーツの女性が注文を取りにきた。本格的な中華レストランである。飲茶で始まった。
①海老入りのシュウマイ:海老のぷりぷり感が絶品
②潰しポテトの揚げ物
④ 緑色の袋のシュウマイ
⑤ カリカリ焼きそば:中央にパクチョイ風の野菜炒めがのっている。野菜とその汁と焼きそばとを混ぜて椀に取り分ける。麺は直ぐに汁が浸みて麺全体に旨味が絡みつく。
⑥ 細いインゲンマメの炒め物:マメ臭さが全く無くて美味である。
⑦ アジに似た魚の餡かけ:白身の淡白な味
⑧ 茹でた海老:川エビではない。
⑨ ココナッツの果肉のようで餅に似た炒め物:餅とも異なるねちねちとした食感だ。
⑨海老のカレー煮:スパイスが効いて美味い
⑩アヒルのロースト:中華の定番料理。
⑪ご飯:タイ米を必要なだけ皿に取り分ける。
⑫ウーロン茶は随時注いでくれた。久々に飲む美味い本物のウーロン茶である。
⑬ぜんざい:ぜんざい風味で小豆、ココナッツミルク、グリーンのメロンの細切りが入っていて消化を促すらしい。さっぱりとしている。人気メニューらしく我々以外にも食べている人がいる。
チャーワンにしては珍しい本格的な中華料理であった。
広大なマングローブ
2時20分、レストランの外に出ると乾いた熱気に包まれた。再び高速道路で北に向った。海が近いのであろう川べりにニッパヤシが群生している。水田と所々にマングローブが広がる湿原地帯である。20分ほど走って高速道路降りた。チャーワンがトイレに行ってしばらく待つと友人がやって来た。昨日のセレンバン・オーキッドのリチャードともう一人は見覚えのある男である。「コンニチワ、ヒサシブリデス」日本語で話しかけてきた。少しだけ日本語を話す台湾のJIA-HO ORCHIDウオン(黄)である。3年ほど前に夫婦で沖縄国際洋蘭博覧会に参加したので多くのゲスト共に夕食会に誘ったことがある。彼の農場は台南にあり、コチョウランを始め自作の交配品種を幾つも発表している。とりわけTolmuniaはらん展示会で入賞する人気の品種である。
目的地が同じらしく、2台の車が連なって走った。支線に入ってマングローブの広がる湿地帯の中を走った。片田舎の道路でもアスファルト舗装で快適なドライブである。この国の道路事情は中々優れたものである。やがてマングローブの脇の小さな水路に3m程の幅の私設のコンクリート製の橋を掛けた農場に着いた。前を走るリチャードの車が橋を渡り、その次にチャーワンの車が渡ろうとすると対向車が近づいて来た。チャーワンは急いで左にハンドルを切った。車がガクンと揺れた。30cmの高さしかなく、車の死角となった欄干の角が車の左サイドに接触したようだ。農場の倉庫の前に車を停めて調べてみると、ステップの下のバンパーがずれて落ちかけている。チャーワンとリーはバンパーを剝ぎ取ってトランクに収めた。チャーワンは拳で自分の頭をコツンと叩いて笑いながら言った。「OK!セーフティドライブ」リーがむき出しのシャーシを指差してケラケラと乾いた声で笑った。
チャーワンの傷ついたアルファード
その汽水域の一角の農場がNT オーキッド・ナーセリーである。オーナーは陳さん、(ローレンス・タン)若い男である。原種の収集と販売を手がけている。主な出荷先はヨーロッパだと言った。マレーシアは低地の湿原から2,000mの高地まで様々な野生ランが生育している。NTオーキッドでもデンドロビュームからファレノまで多種類が収集されていた。ファレノの原種は暑さに弱いので扇風機を3台稼動させていた。黄がリチャードと二人で陳と交渉して買い付けている。交渉が終わると陳ははペットボトルの水を僕らに配った。午後3時半の太陽は未だ衰えることを知らず灼熱の日差しを送ってくる。農場の一角にコパラミツの大木があり、果実を椰子の葉で編んだ籠で包んでいる。鳥除けらしかった。コパラミツは根元近くに集中して実っており、熟しても直径15cm長さ30cm程度であるが、パラミツの中では甘くて果汁が多く高値で売られている。ボルネオで食べたことがあるが確かに美味い。包丁を使わずに指で簡単に果肉を掘り出した食べることが出来る。パラミツは沖縄の私の実家にも3本が生えており、毎年5kg程の果実が実る。しかしコパラミツは高温多湿でなければ育たない。タイの市場でも見かけない果物だ。果実は一果ごとに鳥除けを施すだけの価値があるのだろう。それに籠は巧くできている。野鳥が食べる前の小さな幼果に細長い大き目の籠を取り付けておき、果実が成長するにつれて籠の網が伸びて果実にフィットしていくのである。それ故、可変性のヤシの葉で編まれた籠は誠に合理的である。地元住民の優れた知恵だ。
山採りの野生ラン
山採りのコチョウラン
コチョウランの原種。貴重な色彩だ
ナーセリーを後にしてペナンに向った。ペナンにもランの収集家がいるらしい。タイピンから再び高速道路に乗ってパタワースで降りた。大きな貿易港で栄えている町である。高速道路を150kmも北上すれば隣国のタイである。4kmのペナンブ・リッジを渡ってペナン島へ入った。
周囲15kmの島である。ローカルの飛行場が島の中央にあり、クワラルンプル国際空港の2階からローカル線でアクセスで来るのだ。マレーシアの独立前は大英帝国がリゾートとして開発した島であり、多くの外国人観光客の姿を目にする。人種も多様でイスラム、インド、中国、キリストの礼拝所を目にすることが出来る。島の中腹にあるラン収集家ワン・キン・ホーの自宅を訪ねるも不在である。タイから未だ帰ってきていないようだ。来月の第1週に国際ラン展があり、その調整に出かけていると対応した息子が話していた。引き返す途中で小腹が空いたのでチャーワンは車をとめて、露天商の店先にぶら下がった沢山のバナナの中からを1房選んで持って来た。小振りなマレー産のモンキーバナナである。皮が薄く果肉がフィリピン産よりも黄色で、ねっとりとしていた。いつの間にか空いてきた腹に美味いと思った。しかし残りを翌朝食べてみるとそうでもなかった。日本人の味覚と多少のずれがあるようだ。マンゴスチンやドリアンも売られていたがチャーワンはドリアンを食べると車の中に臭いが残ると言って手を出さなかった。チャーワンにとってこのワゴン車は来賓専用の営業車両である。この周辺ではランブータンは未だ流通が少ないようだ。時折、民家の庭先に緑色で未熟のままでぶら下がっているのを見かけた。
この街は古くから開発されおり、道路わきのインドシタン、ビルマネム、マホガニーの巨木が緑のトンネルを作った場所が多く、オリエンタルの風情のある町だ。未だ日没までの時間があるのでペナン植物園に立ち寄った。1884年に造られた30haの敷地である。仕事を終えたビジネスマンや初老の夫婦が暑さを避け、夕方のウオーキングやジョギングを楽しむ姿が目立った。ホウガンボクの巨木に果実がたくさん実っており歴史を感じる植物園だ。島の雑踏から隔離された素敵な空間である。20分ほど園内を散策してホテルに向った。午後6時であった。
植物園を探索する相棒
ペナンの植物園とカジュアルな服装のチャーワン。夕方の散歩楽しむ地元の人々
砲丸木の蕾と実、花は夜咲き
「Many hotels. You can choice. OK」(ホテルがたくさんあるぜ。選び放題だ)
「NO need booking this area」(この辺りのホテルは予約の必要がない)
チャーワンはそう言って海岸線に車を走らせた。海はマングローブの発達した河川が近いのであろうか汽水域特有の濁った色をしていた。沖縄のエメラルドグリーンの浜辺とは較べようもない。海を右に見ながら随分と走ってからUターンした。自身なさそうに「ゴールデン・チャイナ」にしようと言った構内に車を停めた。ホテルの表示には「ゴールデン・コースト」と書かれていた。チャーワンは英語を話すも読み書きは得意ではない。私へのメールは大学卒の息子が対応しているのだ。中級ホテルである。しばらくすると宿泊費が高すぎて話にならないと言って出てきた。リーに何やらこぼしている。リーも仕方が無いという顔をして相槌を打って聞いている。本当に高いのか、ホテルの格式に合わぬ客と敬遠されたのか分からない。Tシャツの上にボタンも掛けずに上品とは言えない柄物のシャツをはおり、半ズボンとゴム草履の風体ではフロントが宿泊を敬遠してもおかしくないだろう。いずれにせよ、マレー語で話す二人の会話は私にとって未知の言語である。しばらく走って「ホリディ・イン・リゾート・ペナン」の構内に車を停めた。クアラルンプル郊外の初日のホテルと同系列だ。今度は交渉成立である。荷物を降ろそうとすると向かいのホテルだと言う。道向かいの別館である。道路を挟んで陸橋で繋がっている。ホテルの部屋は2034号室、20階のツインルームである。7時50分に夕食に出ようといって分かれた。部屋に帰って手足を洗う間もなく呼び出しの電話が鳴った。夕食の誘いである。
表通りは既に街灯が燈り始め、人の往来が多くなっていた。ホテルの右方向に歩いていくと、屋台のお土産品店、レストランが並んでいる。小奇麗なレストランを幾つか通り過ぎた。帆船のマストを屋根に掲げたステーキハウスがあった。「キャプテン・・・」と店の名がネオンに輝いている。沖縄にもキャプテンズ・インという店名のステーキハウスがあったのを思い出した。どこの国の船長もステーキが好きなのであろうかと思って苦笑した。レストランはどこも客の姿が無くウエイターが気のない声で「ハロー」声をかけてきた。チャーワンはそれを無視して歩き続けた。200mほど歩くと人のざわめきが聞こえた。其処は道路に面した屋台村である。一方が海岸に面しているようで潮騒に似た音が風上からわずかに聞こえた。テント張りの広場の両サイドに4mピッチで異なる料理店が並んでいる。魚介類、インドカレー、肉類、汁物、様々なタイプの店がひしめき合っている。ローマ字で鉄板焼きと書かれた店もある。確かに鉄板の上で肉を焼いている。店の前で食材を注文してテーブル番号を言うとその屋台村共通のシャツを着たウエイトレスが調理した料理を持ってくる。テーブルで料理を受け取ってから金を払うシステムだ。ウエイトレスに「ハロー」と呼びかけてビールを注文する。マレーシアのタイガービールだ。あまり美味いビールではないが、ビール無しではこの手の食事は美味くない。玉城君はサイダーやココナッツの生ジュースを注文した。小玉のタイ産ココナッツの青果である。二人の男が柱を押している。よく見ると柱に連結した天井が開いて夜空が現れた。手動の開閉式天井である。空気が通り抜けて涼しくなった。マレーシアはタイと異なり、夜にスコールがやって来ることが珍しくないのだ。夜店のテントは必需品である。食い物店以外の夜店の土産品店でもテントは常備されている。
① 串焼き:牛肉10本、鳥肉10本
②イカの輪切りピリ辛炒め:イカげそは使わないのか見かけない。
③大根の千切り入り春巻き2皿:径4cmで3cmにカットしてある5個だ。美味いので1皿を追加した。
④ホッケ風の魚の炭焼き1皿:開いた魚を炭火で焼いてある。淡白な白身魚だ。醤油ダレで食べる。チリソースを加えると風味が出る。
⑤海老のピリ辛炒め1皿:ハーブと共に炒めてある。ブラックタイガーサイズだ。
⑥マングローブガサミのカレー煮1皿:この料理はどこも同じだ。カレーにはマングローブガサミの泥臭さを取り除く効果あるようだ。
⑦チャーワンが肉団子入りスープ1杯:とるも不味いといって私に回さなかった。
⑦ ビール5本
屋台村は盛況である。欧米人、チャイナ、インド系と多彩だ。日本語は聞こえない。一般的なレストランに客がいないのは、旅人の嗜好が変わったのか不況のせいであるのかは不明だが、この形式のレストランがこの街の風物として似合っているのは確かである。あまり高級ともいえない海浜リゾートに白いテーブルのレストランは似合わないだろう。もっともガラス越しに中が見えた1箇所だけは高級感のするバー風レストランに数組の西洋人がそれらしく談笑していた。午後9時に食事を終えて其処を立った。チャーワンはホテルの本館のビーチサイドにバーがあるので、ルームナンバーを言えば飲めるからと言って互いの部屋に分かれた。彼らは21階である。
部屋に帰って用を足して玉城と再び通りに出た。酒を飲まぬ玉城をホテルのバーに誘うことはできないし、通りの夜店を覗くほうが楽しいと思った。ホテルの前の通りを左に向って歩いた。通りの出店は日本の夏祭りの夜店に似ている。マレーシアの民芸品、偽ブランドのロレックスの時計やモンブランの万年筆、イブサンローランの財布、有名ブランドのポロシャツ等である。玉城がポロシャツを品定めした。中華系の太目の女主人が28RMという。
私は「NO! Expensive」(高い)
「OK,40RM two」と2枚を見せた。
「no need, only one 20RM ,OK」(ひとつでよい、20RMでよいか)
「OK」と言って一枚を袋に入れた。
玉城君20RMを払ってそこを離れた。
水彩画を売る老人がいた。私は妻が水彩画を習っていると彼に話しかけた。彼は日本人かと問い直してきた。中華系の細身の老人である。売れない絵描きのフィーリングがぴったりの初老の人だ。まことに夜店にぴったりの風景である。画用紙は日本製だと表紙を見せてくれた。確かにMARUMANと書かれていた。シンガポールの紀伊国屋で買ったらしい。絵の具は英国製だ。油絵は画かないのかいと聞くと、油絵は重ね塗りが出来るが水彩画はそれが出来ない。水彩画が難しいと屁理屈を言った。私は貴方の推薦する1枚を買おうと言った。6枚ほどだして見せた。3枚の画風が異なるので「少しフィーリングが変わっているね、貴方のか」と聞くと息子のだといった。明るい感じでグリーンをバックに黒い水牛が映えていた。これが良いと勧めたが、私は彼の描いた『ペナンの街角の食堂』を買った。58RMである。50RMでよいかと訊ねると53RMと言った。未だに芸術家の末席にいるのか安売りはしなかった。私も執拗に交渉することも無く53RMを支払った。ただ簡易額縁を施したこの絵のサイズがバックに収まるかが不安であった。もし大きすぎるなら額縁を取り除くつもりで買ったがその必要はなかった。しかしこの絵には新たな顛末が待っていた。帰宅後にDIYセンターで安物の額を買って取り付ける際、少し気になって唾を着けて擦るとコピーであることが解った。老人の勧めた水牛の絵が本物であったようだ。コピーではあるがペナンの特徴が現れた秀作である。
私たちは引き返して反対方向に少し歩くと「スリランカ」という看板の店が目に付いた。夜店ではなく通り3軒ほど入ったところである。革製品を扱っていた。小柄な男性店員はマレー系で、奥のレジの前に座っているのは大柄な欧米人の女性であった。けだるそうな顔をしてこちらをチラッと見た。客に興味がなさそうな気配である。皮製の肩掛けカバンが上等であったが、280RMも出して買う代物ではなかった。
「日本人か?観光か?」
「いや、仕事だ。ランの買い付けだ」
「日本の何処だ?」
「南の方だ。ペナンに似て暑いところだ」
ひとしきり世間話をして店を出た。
インド人の洋裁店があった。8時間仕立て、スーツ100RM、ズボン50RM、ドレス150RMとの立て看板があった。店に人影は無かった。少し前を歩く初老の夫婦が日本語を話していた。日本人も確かにいるのである。セブンイレブンのコンビニでドイツ製のハイネケン・ビールとサイダーを買ってホテルに戻った。チャーワンの車が無かった。二人は繁華街にでも行ったのであろう。
部屋に戻って旅や仕事の話等をしながらビールを飲んだ。タイガービールよりもかなり美味いと思った。私はチャーワンが近くにいるときには、日本語による玉城と二人だけの共通の込み入った会話を全くしない。日本語も英語もチャーワンと共通の話題を話した。3本目の缶ビールを飲み干して午後11時に床についた。わずかではあるが疲れを覚えた。しかし沖縄での生活を思い出すこともなく眠りに落ちていった。何十回も過ごしてきた旅先では当たり前の習慣になっていた。
5月20日(水)
午前6時30分、ホテルのベランダのガラス窓を開けるといつもの騒々しい鳥の声がする。20階まで届く鳴き声である。マレーシアの早起き鳥は威勢が好い。外は凪である。トタン屋根の続く民家の一角から煙が漂っている。朝の食事の準備をしているのであろうか。ゆっくりと広がって朝もやの中に溶けてゆく。少し離れた山すそに新興住宅地の赤瓦屋根の集団が見える。山腹から頂にかけては構築物が無く緑が豊かであり、開発が規制されているのであろうか。
このホテルはガウンと髭剃りがあった。マレーシアでは珍しいことである。7時50分、電話が鳴りチャーワンから朝食の誘いがあった。本館の海岸に面したレストランである。陸橋を渡ってレストランに着いた。彼らは未だ来ていなかった。
ペナンリゾートの朝の家並み
陸橋から見た街路
僕らは2人掛けのテーブルに席を取った。クアラルンプルのホリディ・イン・ホテルと同じバイキングスタイルである。しばらくして二人がやって来て隣のテーブルに着いた。
① クロワッサン、干しぶどう入りパンを自らトーストで焼く。
②スクランブルエッグ
③マメのトマト煮
④ハム2枚
⑤チーズ1切れ(自ら取分け)、ジャム(パック)
⑥レッド・グレープジュース
⑧ パパイヤ(レモン汁をかける)、パイン、メロン
⑨ カレー風味の肉入りポテトのパイ包み揚げ。チャーワンが試してみろと取り分けた一品だ。
チャーワンはマレー粥でリーは飽きもせず今日も焼きそばだ。
少し離れたテーブルにイスラムのアベックが朝食を取っている。細身の男性は半そで半ズボン。女性は黒ずくめのロングドレスにのど元まで垂れ下がるニカーブと呼ばれるベールを着用しており目だけが見える。色白の女性だ。ちらりと見るとパンをマスクの下に持って言って食べていた。あの格好ではスプーンを使うのは困難であろうと思った。食事を終えて引き上げるときに別の席ではおしゃれなヒジャブを着用しただけのイスラム女性がいて、フォークとナイフを使って食事をしていた。イスラム女性の慣習は私には分からない。
9時5分にチェックアウト。ガソリンを補給してから海岸通りを走る。東海岸のショッピングエリアとホテル街が続いた。モクマオのトンネルが続き、その下に屋外レストランが並んでいた。食事中の場所もあったがやはり賑わうのは夜であろう。フェリーポートの横を走った。10人乗り程度の小型ボートで近くの島にレジャー客を運ぶらしい。この辺りの海は透明度が悪く海洋レジャーにはふさわしくないので近隣の小さな島に出かけるようである。港の近くにはフェリー・パーキングという駐車場が多く見られた。
朝の街角の屋台で朝食を取る人々
ホテル街から庶民の街に入った。古い建物が続く街である。街角では朝食を賄う屋台が出ていて、焼きそばやら、雑炊やらをせっせと作っている。地元の住人が朝食を取っていた。街が活動を再開している。アンサーナの大木の下には、にわかレストランが100mほども続いていて、その中の朝食専門の屋台レストランが湯気を立てて何やら調理している。昼、夜の専門店に分かれているのか、人影のないテーブルがほとんどである。車はやがてペナン・ブリッジの上を大陸に向って進んだ。この時間帯はペナン島に向う車が多い。橋を降りて細いモクマオの並木を進んだ。モクマオは3mの高さで3本に分枝しており、ふっくらとしかも細長い樹冠をした糸杉のような樹形に仕立ててあった。
我々は高速道路を昨日の逆コースで南下した。10時45分、途中のインターチェンジで小用を片付けたついでに、収穫が始まったばかりンランブータンの果実、マンゴーのピクルス、蒸したハスの実を買った。マンゴーのピクルスの酸味が蓮の実ととても合う。ランブータンは種の周りの薄皮が果肉についてくるので、口の中で触感が損なわれてしまいレイシほどは美味くない。昨日のバナナも未だ残っていたが食べる気がせず紙袋に入ったままだ。車は120kmのスピードでひたすらイポーの町に向っていた。日本の運送会社のロゴマークを付けたクロネコヤマト、日本通運のトラックを次々と追越していった。やがて小さな峠を下るとイポーの特徴であるマーブルカラーの大理石の岩山が見えてきた。高速道路を下りてキンタ川を渡りイポーの町に入った。この街は4年ほど前にグリーンテック・トウキョウの渡辺に案内されて1泊した町だ。アランダ、モカラの生産者を訪ねたのである。夜のバーで渡辺が地元の生産者に少し絡まれて早々に引き上げた記憶が蘇った。
イポーの園芸資材店
様々な陶器
鉢植えの植木
この街の道路沿いでバンダ類と陶器を専門に扱っているAH CHAT オーキッド・ナーセリー園芸店を覗いた。店主に暑いマレーシアで上手にバンダを育てているねと褒めると、タイからの輸入品だと答えた。夜温の下がらないマレーシアではバンダの栽培は難しいようだ。只、近縁種のアスコセンダは良く育っているのを見かけた。イポーは花鉢をはじめとする陶器類の生産地でもある。磁器の生産は無いようだ。町を離れてイポーの平地を進んだ。いたるところに大小の湿地帯が広がっていた。その中の水草に混じってシンガポールで有名なバンダ・ミス・ジョアキムの交配親であるVanda hookerianaの野生種が咲いていた。スコールの多いシンガポールで交配種のミス・ジョアキムが良く育つ理由が分かった。
Vannda hookerianaの生える湿地
12時40分、小さな町に車を停めて魚市場を覗いた。セリ市は既に終わっていて広い市場の建物の中の洗い場で初老の女性が魚を捌いていた。鯉に似た川魚である。直径3cmで体長が25cmもある淡水産の手長エビがザルの中に横たわっていた。腕の長さは40cm以上もある。ナマズに似た魚が生簀で泳いでいた。セリにはどんな魚が売られているのか見たいものである。
競り市の魚介類
手長エビの一種
市場の向かいのレストランに向った。店に備え付けの水槽には川エビと2種類の魚が飼われていた。チャーワンはエビ6匹とコチに似た顎のせり出した魚、髭の長いナマズの1種を注文した。オーナーは網ですくって調理場に持って行った。
① コチ似た魚の餡かけ風煮付け:白身の魚である。チャーワンは頬骨の周りが美味いと言って私に取り分けてくれた。確かに川魚特有の泥臭さが無くて美味い。
② エビの酒蒸し:皮を剥くと身がプリプリとしてなんともいえない食感である。チリソース入りの醤油だれにつけて頬張るのであるが3口で食べるのがやっとである。未だかってこれだけの味のエビを食べたことが無い。さらに残った汁を中華さじですくって口にすると素晴しい香りと味である。チャーワンは私のびっくりした顔をニヤニヤして見ている。私の喜ぶ姿に満足しているようだ。どうやら私は彼のプライドを満足させたようである。
③野菜炒め:エンサイに似ていて、粗ら引きピーナッツが振りかけてある。生だとエグイが熱を加えると旨みが増す野菜らしい。
④平麺のヌードルスープ:幅1cmに長さ15cmのもち米で出来たヌードルだ。カマボコに似た切り身が入っていた。汁が少なくぬるぬるした淡白な味である。
⑤ナマズの煮付け:チリトマトソースの煮込みである。辛味は少なくトマト風味である。
全部で230RM(6,200円)の食事代だ。海老は70RM/Kg(調理して1,890円/kg)である。このサイズの川海老はここでしか育たないという。養分がたっぷりのこの自然の恵みで育つようである。満足な昼食であった。午後2時にイポーの田舎町を発って高速道路をひたすら南下した。クアラルンプルまで200kmの距離である。
ファンの農場、通路は砂利
点滴灌水装置、後年スリランカ人労働者に逃げられたチャーワンも後導入した
午後3時30分、ファンの農場に着いた。観葉植物をメリクロン苗から育てる農場である。ファンは3年前に洋蘭博覧会に来ていた。彼からメリクロン苗を買ったこともある。農場の中をファンの案内で歩いたが日差しがきつい。彼の農場は点滴潅水設備でポット栽培をしていた。これまで見た他の農場と異なるところである。施設設備が優れているが、自己資金であるか助成金があるのかは不明であった。私の英語力では其処まで質問する能力が無い。果実の赤いパインに面白いものがあった。アグラオネマのフラスコ苗を注文するも在庫が無いとの返事であった。
アランダの路地植え
チャーワンは先を急いだ。ランドスケープの材料に適したナーセリーがあるというのである。UNAITED ORCHID MALAYSIA に着いた。デンファレやアランダ、モカラを中心に多くの品種が栽培されていた。私は様々な品種を撮影した。この農園のラン類で修景してあるレイクランドのオーキッドガーデンまで足を運ぶことが出来なかったのが少しばかり残念であったが、今回の旅ではこの程度の調査が限界であろうと思った。本日の調査を終了してホテルへ向った。
午後5時40分、マレーシア初日の宿泊ホテルHOLIDAY INN についた。チェクインの手続きをして7時にロビーで会おうと言ってチャーワンと分かれた。
私は556号室へ急いだ。前立腺がゴー・ファーストと言っている。急いでカードキーを差し込んで部屋に入った。其処には脱ぎ捨てられた靴と開いた状態のスーツケースがあった。人の気配はなかった。フロントの手違いだと思ったがそのことは後回しである。バストイレに飛び込んで小便をした。無防備な状態の時にこの部屋の主が来ないことをだけを祈った。私は尿を放出して目的を達成した安堵感で「フー」大きく息をついた。急いで部屋を出てフロントへ行った。フロントで部屋のことを説明しているが中々拉致があかない。「どうしましたか」とネクタイ姿でスーツとアタッシュケースを手にした日本人の商社マンらしき男性が声を掛けて来た。私はトラブルの事情を話した。流暢な英語で交渉して新しい部屋のカードキーを渡してくれた。私が礼を言うと、「この国ではよくあることです」と笑ってロビーに向かって歩いて行った。私は安堵すると共に海外でビジネスをするには彼のレベルで英語を使えるべきだろうと思った。今度の部屋は441号室で、無人の部屋であった。シャワーを浴びて着替えて7時にロビーで待った。
チャーワンは市内の交通に詳しいようである。馴れたタイミングで走路を変更しながら混雑を避けて地下道を通過した。クアラルンプルにこのような距離の長い地下道があるとはガイドブックにも記されていなかった。クアラルンプルの中心地に短時間で着いた。頭上に何かの気配を感じて見上げると、都市モノレールが通過した。ゆっくりと音も無くである。間近にKLタワーとツインタワーが見える。ツインタワーは電飾が素晴しくクアラルンプルの夜のランドマーク的な存在である。
ライトアップされたKLのツインタワー
KELANA JAYA SEAFOOD RESTAURANT に着いた。3兄弟で経営している繁盛した店だ。サイモンが既に待っていた。そして長兄と次兄が私たちを待っていた。長兄の彼女、チャーワン、リー、私と玉城、少し遅れてファンがウイスキーを抱えてやってきた。チャーワンが私を紹介して宴会が始まった。店のオーナーは明らかに私を観察している様子であったが、次第に会話が弾んで打ち解けていった。サイモンがこの店に魚を納めているらしい。イポーでの最高に美味いエビのことやマレーシア料理と沖縄の郷土料理を比較して具体的にその味の違いと美味しさの質を褒めて、毎日が驚きの連続だと話すと笑顔に変わって「チェース」「チェース」と何度もグラスを重ねた。私が遠慮せずににこやかにグラスを何度も彼らの求めに応えることに彼らも満足しているようであった。この日の料理は明らかにゲスト用であった。
① 魚のすり身のレタス包み:ツナフレークとも異なる魚の蒸し肉とネギを炒めて絡めてある。それをスプーンで適量をすくってレタスに包んで醤油タレにつけて食べるのである。実に美味い。韓国の焼肉にも似た手法があるも比較にならぬ旨さだ。チャーワンは私たちのために取り分けてくれた。彼らはゲストにそうすることを誇らしい態度で示す。とても好ましいもてなしの文化である。
②空心菜の炒め物:トロフィに似た器に熱い状態持ってくる。(沖縄のウンチェーに似ていると思い、帰国後にネットで調べるとそうであった。ただし、若干の品種の違いや栽培方法の違いはあるかもしれない)
「美味いね、何という野菜だ」と尋ねると、チーフ・ウエイトレスがポケットからメモ用紙を取り出して書いてくれた。空心菜、一翁才、Kang Kong等と呼ばれていると言った。空心菜とは日本語でも呼ばれているだろうとも言った。
③テレピアのから揚げ:炭火で焼いて肉を引き締めてから味をつけてから油で揚げている。揚げるときにあらかじめ胴の部分の皮を剥いである。そして背びれを上にして座った形で皿に乗っている。ピンクのテレピアである。私の国ではこの魚は一般的に泥臭くてとても料理に向かないのであるが、この店の調理は特別だ。私のテレピアのイメージが変わったと話した。オーナーは満足げな顔でグラスを掲げて「チェース」乾杯を促した。私は喜んでグラスを空けた。
④マレー風ラフテー・サンド:この店のラフテーは香辛料が効いた醤油色をしている。沖縄のラフテーよりもしっかりと油分が抜かれている。皮付きである。1cmの厚みで縦横7×5cm程度だ。これをやや小さめの蒸しパンでサンドイッチにして挟んで食べるのである。蒸しパンは肉饅頭と同じ素材である。台湾でも同じものを食べたがこちらのほうがより洗練されている。私がこのことを話すとオーナーはニヤリとした。満足げな表情である。
⑤エビの刺身:生の車エビの殻を剥き、カキ氷を被せて盛りつけてある。ワサビ醤油につけて食べるのである。プリプリとして美味い。生のエビは腹痛の原因にならぬかと少し不安になって1尾に止めた。しかし平気な顔をして美味そうに食べた。翌日、玉城君に聞くと彼は食べたふりをして残したそうである。
⑥マングローブガサミのカレー煮:ガサミの調理法はどこも似ている。ただしカレーの味が異なる。この店はカレー味を抑えて蟹の美味さを強調してある。このこともオーナーに話すと、彼は私を料理評論家のように感心した表情に変わった。
⑦アヒルの照り焼き:店によって香辛料の使い方が少しずつ異なる。ショウガタレをつけて食べる。この料理の評価をせずに専ら会話を楽しんだ。
⑧コーン:チャーワンがキャメロンで入手したコーンである。茹でて輪切りにして食べた。甘味が格段に優れている。やはりキャメロンの野菜は特別である。
話が弾んだ最後にワサビのサンプルを1箱持ってきた。チューブ入りの錬りワサビが20個ほど入っている。醤油皿にひねり出して私に試食してくれと頼んだ。箸で摘んで味を見るとすごく辛い。日本製よりもはるかにスパイシーで天然ワサビと味が随分と異なる。人口製品の傾向が強くワサビ本来の味ではないと正直に話した。上質なワサビの辛みは舌や喉ではなく鼻にツンとくる風味の辛さだ。少し日本語が少し話せる女性チーフにその風味を基準に判断することだと伝えた。彼女が私の意見をオーナーに話すと、オーナーは何度も頷きながら中国製ワサビの品質が未だ信用できないと判断したようだ。ワサビのサンプルを夕食に参加したメンバーに分け与えた。
私はレストランのオーナーと握手して料理の素晴しさを改めて褒めて夕食会を去った。マレーシアの最後の夜である。チャーワンはマレーシアで最高の6星レベルのエジプトホテルを見てから帰ろうと車を出した。この国では酒気運転はさほどの罪では無いようである。チャーワンは酔うほどではないが酒気運転に間違いないのだ。エジプトホテルの玄関は銅製の大きなライオン、ゾウ、ヤシ、バナナ等の造形物が黄金色に輝いており、黄金伝説の光り輝く宮殿の入り口である。ホテルの前の通りは野外バーとなっており、200m以上も続くネオンサインが特殊な雰囲気を醸し出していた。ホテルの地下部分は表参道とおなじグラドレベルとなっており、ショッピングモールが連続していた。ショッピングモールの入り口はスフインクス、ピラミッドの縮小モデルが電飾でデコレーションされていた。この地で何ゆえエジプト伝説なのかは知らないが、マレーシアの国民の購買意欲を掻き立てるものがあるのであろう。チャーワンは「奥さんを連れて遊びに来いよ。このホテルのマネージャーは俺の友人だから安く泊まることが出来るよ」と言ったが黄金伝説は家内の趣味に合わぬと思った。私は夕食を取りすぎたのでリーと共にエクササイズのつもりで少しばかり体を動かしてから車に乗り込んだ。
ホテルに着いたのが午前0時20分である。まぶたがかなり重くなっているのを感じたが、いつものように靴下と下着の乾き具合を確認してからベッドにもぐった。マレーシアでの最後の夜がしだいに深くなっていった。
5月21日(木)
2時半と4時半に目覚めてトイレに立った。5時40分にシャワーを浴びて目を覚ました。ベランダに出るとゴルフコースは静かに朝を迎えていた。今日はマレーシアを発つ日である。チャーワンとの仕事上の交渉事項をメモ帳に書き記した。4日間の成果を集約して組織間の結束を高める必要がある。輸入契約、植物検査の課題等を整理した。
午前8時、ロビーで玉城が待っていた。1階のレストランは4日前の朝よりも混雑していた。団体旅行客がいるのかもしれない。朝食はバイキングスタイルである。オレンジジュース、パン、チーズ、ウインナー、マメのトマトソース煮、ポテトのクラッシュ揚げ、デザートにパパイヤ、パイン、メロン、コーヒーはウエイターが注いでくれた。
9時にチェックアウトを済ませてチャーワンの車で出発した。リーは来なかった。チャーワンは行政区のランドスケープを見て、農場に寄ってから空港に送ると説明した。
行政区の丘に向かう緑のトンネル
コブラヘッドのコンベンションセンター
臨戦態勢で軍用ジェット機の滑走路に変わる行政区の中央道路
官庁職員の住宅地域
池に掛かるつり橋
建築ラッシュの都心
行政区は新しい都市開発区域である。中心部に議会棟、王府、大統領府、コンベンションセンター、航空関連、法律関連、貿易関連等各種の行政センタービルが立ち並んでいる。都市の周辺部に公務員宿舎であるアパートが林立していた。チャーワンが公務員のことをpublic servant と発音するのを聞いて私は苦笑した。日本では既にgovernment officer殿に変わっており、国家権力の権化と化しているのである。懐かしい言葉を聴いた。
全ての建築物がイスラムの影響を受けた特徴のあるデザインを何処かに取り入れており、一見してマレーシアの近代建築だと理解出来た。広大な行政区は大きな人口の池を配置した公園都市としてのランドスケープがなされている。チャーワンは2兆円の国家予算を投じていると話した。ランドスケープについては友人がマネージメントをしているので詳細を知りたいなら紹介すると言った。この池は石組みの堰と植物による堰がフィルターとなって水の浄化を図るシステムとなっている。広場から直線で2km先にコンベンションセンターが見えた。まるでコブラの顔のようであるとチャーワンが教えた。この道路はフラットになっており非常時には軍用ジェット機の滑走路に転用することが可能な造りとなっているようだ。広場の後ろの丘が王宮であり、コンベンションセンターと対面している。この丘はとぐろを巻いたコブラの尻尾であるとも彼は言った。道路は大きな人造湖を横切る巨大な石橋のような造りである。日本では考えられないゆったりした都市構成である。国土の広さが歴然としている行政都市だ。この国の国家予算はどこから捻出しているのであろうかと気になった。
10時45分、チャーワンの農場へ向った。農場の周りは広い原野であり時折草を食むやせた茶色の牛が群がっていた。途中に山羊小屋を見たが地上2mの高床式の小屋である。山羊は風通しのよい場所を好むようである。沖縄でも最近は高床式が流行っている。チャーワンの農場には一昨日会った黄とセルバンオーキッドのリチャードがいた。黄はリチャードの案内でマレーシアを回っていたようだ。同じ便で台湾に向うと言った。私はチャーワンと植物の取引について話し合った。そして植物検査の厳しさとその被害について資料を示してチャーワンに説明した。しかし彼は専ら彼の空調ハウスについての説明を丁寧にした。私は話に食い違いがあるかも知れぬと思ったが全ての資料を彼に渡した。そして来月の第2週から毎月デンファレの輸入を始めようと伝えた。彼も了解した。MIN-TAI ORCHIDから輸入しているデンファレの単価を那覇着で530円だと隠さずに教えた。しかし彼の輸出価格については問わなかった。
11時45分、農場を発った。リチャード、ウォンが一緒である。途中でマレー式ドライブインに立ち寄った。マレーシア到着の日に来た場所である。ひと棟の長屋風の建物に数軒の店が並んでいる。先日とは別の店に入り、5名で昼食を取った。やはりバイキングスタイルである。
①それぞれにライスの皿、
②白ゴーヤーの炒め物1皿:溶き卵が入っている。
② パイン入り酢の物サラダ1皿:キュウリ。キャベツ、大根
③ チキンのから揚げ2皿:ケンタッキーフライドチキン風味
⑤魚のから揚げ2皿:カレー粉をまぶしてあげてある。
⑥カレールー2皿:普通味と辛味でライスに少し混ぜて食べる
残ったものはプラスチックパックでチャーワンが持ち帰った。
12時30分、KL国際空港の4階出発ロビーの前で車を降りた。長時間の駐車が困難な場所であり、この場でチャーワンと別れた。
「Thank you. I will call you again, get back office. OK」(ありがとう。事務所に戻ったら電話するよ)
「Oh! Yes」(ああ、頼む)
私は明日にも会える友人のような気がして簡単な分かれの挨拶を交わしてターミナルビルに向った。リチャードは何処からか荷物カートを探してきて、黄が買い付けたランをパッキングした段ボール箱を積んだ。そしてカート押して黄と共にチェックインカウンターまで運んだ。荷物がベルトコンベヤーに載せられて輸送荷物として送られたのを確認した後、笑顔で黄と握手してから引きあげた。値の張るラン類の取引であったのだろう。チケットカウンターで搭乗手続きを済ますと、それ以後黄と話すこともなくそれぞれの歩みでエアロトレイン乗り場へと向った。チケットはクアラルンプル-台北及び台北-那覇の2枚を貰っていた。この時点で私は旅の工程のほとんどを終了した気がした。台湾でSandy Wu女史と陳先生に会う予定であったが本来の目的ではなくトランジットの為の余分な日程である。
出国審査官に入国カードの半券を渡すのを忘れて何やら文句を言われたが、私にとってマレー語は宇宙人の言葉と変らぬ意味不明の雑音である。急いでパスポートカバーの中に潜んでいた半券を渡すとぶっきらぼうに行けという仕草をした。丁寧にサンキューと言ってゲートを通過した。マレーシアからの出国では、毎回のように何らかの軽いトラブルを引き起こしている。帰国のせいで気持ちが緩んでいるのかも知れない。空港内では時間つぶしにコーヒーショップに入った。チョコレートケーキを一個注文したのであるが、すごく大きな1片が現れてびっくりした。店員はちびのマレー女性である。彼女たちの胃袋が要求する一切れとはこのように大きいのであろうかと不思議に思った。
2時20分、CI-722は離陸した。ヤシ林が眼下に見えたが直ぐに消えて行った。しばらくして機内食が出た。来たときの便と異なる魚料理を選択した。
①メインの弁当は揚げた白身魚のピリ辛トマト煮、ご飯、茹でたインゲンマメが3等分に入っている。
②サラダ:りんご、きゅうり、トマトの角切りマヨネーズ和え
③もち米プリン風:ココナッツミルクで味付け
④パン、バター
⑩ デザート:パパイヤ、スイカ
午後7時、桃園国際空港にランディングした。入国審査を受けて到着ロビーに出るとSandy Wu 女史が待っていた。久しぶりの出会いである。背の低い女性で独身である。ピンク色の爽やかな感じのスーツを着用していた。陳先生の三男のリチャードは不在であった。彼女は車を回しましょうか言ったが、共に歩いて駐車場まで行った。車中で日本や台湾の景気状況や沖縄の観光客の推移について話した。彼女は台北大学の英文科卒業だけあって流暢でしかも綺麗な発音で話した。チャーワンのぶっきらぼうな英語とは雲泥の差である。いわゆる正統派の英語である。私もマレー英語の訛りが自然と影を潜めて丁寧に話した。
彼女は桃園市の日本食レストランに招待した。客はほとんどいなかった。以前、この辺りは桃の産地であり、それ故に桃園の地域名が付いたと説明した。彼女は食べきれないくらいの料理を出した。
①刺身:ガーラ、マグロ
②オオタニワタリの新芽の炒め物
③イモの新芽炒め
④キンメダイ蒸物
⑤竹の子のマヨネーズかけ
⑥豆腐の角煮
⑦客家料理風のスープ:この地域の原住民の薬膳スープ
⑧ご飯
なんだか知らぬがたくさんの料理が出てきた。どのように注文したか分からないが恐縮した。
午後9時45分、レストランを後にした。途中で尿意を感じたので給油所で用を足した。女性の運転する車で小用を依頼するのはとても気が引けた。この旅で前立腺のトラブルが心配になった。
午後10時30分、ゴールデン・チャイナ・ホテルにチェックインした。英語での会話に慣れてしまい。フロントで日本語を話せるかと確認した後にも受付嬢に英語で話している自分に苦笑した。ひどく疲れを感じていた。Sandy Wuへのお礼の挨拶を済ますとベルボーイに引率されて部屋に向った。彼女への土産を持参しなかったことを少し後悔した。気配りの足りないところである。この1年間旅をしなかったことに起因するかもしれないと思った。部屋に入ると直ぐにドアロックを確認してベッドにもぐった。旅の疲れがどっと噴出して一瞬で眠りに落ちた。
5月22日(金)
午前1時、2時、4時と目覚めて台湾モードにした自分の携帯電話の時計を見る。携帯電話がX検査で故障したのだろうかと思った。結局、午前6時に起きてシャワーを浴びる。窓の外を見ると台北市特有の町並みが階下に広がっていた。
朝の台北の街並み
ふと上司の内原専務へのお土産を何にしようかと考えた。先日、出張みやげとして金飾りのついた手相占い師が使いそうな虫眼鏡を貰った手前、何か気の効いたものを求めねばなるまいと考えた。社員、家族へのお土産はいつもチョコレートのセットで済ませることにしている。唯一、妻への水彩画のお土産のみである。旅の終わりはお土産で悩むのが常である。
午前7時45分、陳先生から電話があり、9時に迎えに来るとのことである。玉城を誘って2階のレストランへ朝食をとりに行った。バイキングスタイルである。
①平パン、クロワッサン
②ハム、ソーセージ
③スクランブルエッグ
④パクチョイ
⑤魚フライ(小片)
⑪ 揚げ豆腐の煮込み
⑫ デザートのミカン、グァバ、メロン、スイカ
⑧ジュース、コーヒー
日本人、中国人、欧米人の客である。さすがにマレー系は見当たらない。
午前9時、チェックアウトをしていると陳先生がやって来た。いつものようにお茶をお土産に貰った。3男のリチャードが車を運転していた。陳先生の前ではいつも無口な男である。英語を話すのを見たことがないが、EPOCのアジア蘭会議で世話役を引き受けていたので話せるだろう。花市場と果物市場を見学した。先生は台南から昨夜帰ってきたと話した。私と同じ大学の花城先輩の奥さんの妹を案内したとのことだ。北海道でランを取り扱う仕事をしているおり、ミンタイを通してコチョウランを輸入しているようだ。先生もお疲れ気味であるようだ。台北の卸売業者の市場を覗いてみた。台北市民に供給する花と野菜果物を扱う市場が道を隔てて建っていた。市場の活気はどの国も一緒で気持ちがいい。陳先生が果物市場で初物のレイシを買ってきた。4人で道路わきの木陰のベンチに腰掛けて食べた。玉華宝という品種で種が小さく甘味が強い品種である。台南辺りから運ばれてきているらしい。台北周辺では未だ熟に至っておらず高値である。二十日もすれば暴落するだろうと先生は笑った。先生の笑いには品がある。マレーシアのリーとは両極端にある。果物のエリアには台湾国内を初め、南のニュージーランド産のキューイーフルーツ、北の日本の静岡メロン、東の米国産チェリーまで並んでいる。市場を出て昼食に向った。
市場の花卉コーナー
青果市場
高速道路から見た丸山大飯店
高速道路から見える朱塗りのホテルが古くて由緒ある台北丸山大飯店である。このホテルの建設には台湾の初代大統領夫人将美麗が尽力したようである。それ故、彼女の有名な外交手腕の中でこのホテルが何度となく利用されている。先生はゲストをこのホテルのレストランに招待することが常である。未だ午前11時15分であった。上海料理で有名なレストランである。他に客は見当たらず我々がこの日の最初の客のようである。
①キュウリの塩もみ:5cm程の長さに縦割りに切ったキュウリを塩もみしてニンニクの香りを付けた上品な味だ。
②ショウロンポー:汁の入ったシュウマイで汁が熱い。中華さじですくって食べる。
③蒸しシュウマイ:上品な味の海老が美味い。マレーシアと異なる調理である。
④春巻き:
⑤餅と竹の子とシイタケの炒め物:直径2cmの円筒のもちを斜め輪切りにしてシイタケと竹の子を加えて中華炒めにしてある。
⑥ゴマ入りお汁粉:もちは入っていない。ゴマ風味が変わっている。
⑩ 甘菓子:蒋介石の奥さん将美麗が好きであったという有名なカルカン風味の菓子だ。小豆入り菓子の中にあんこが入っている。この店だけの定番メニューだ。以前にもこのレストランで陳先生から御馳走になった。
12時20分、ホテルのレストランを立って空港に向った。45分程でターミナル1に着いた。チェックインの2時まで時間があるので中2階のバーガーキングでコーヒーを飲んで雑談した。先生は「来週の水曜日の便でアメリカに住む弟夫婦と従姉夫婦の6名で来沖する計画です」と言った。「迎えの車を出しますので旅行の詳細をFAXでお知らせください」80歳を超えた先生の足取りは少しばかり勢いを失いつつあるが元気な方である。残ったレイシをカバンの隙間に詰めた。違法と知りつつ国内に持ち込む作業をレストランのテーブルの上で行った。
午後2時チェックインカウンターの案内係に搭乗券を見せてボーディングデッキと座席ナンバーを記入してもらった。手荷物検査場入り口で先生に別れを告げた。
台北市の遠景、右端は台北101タワー
手荷物検査でホテルから持ってきた飲用水のペットボトルを捨てた。出国検査もスムーズに抜けて登機場へと歩いた。途中の免税店で内原専務への金粉入り高粱酒のグラスつきセットを買った。何やら祝いようの箱であり彼の72歳のお祝いの意味を込めて買ったのである。二人の事務員には七宝焼きの宝石入れを買った。自宅と社員向けにチョコレートのパックを5箱買った。これにて全ての帰り支度が整った。登機場にて搭乗時間を待っていると思いがけぬ人に会った。名護市内で園芸店を営む普天間夫妻である。タイの植物市場を見ての帰りといった。台北まで来ると知り合いに会うことも珍しくない。帰りの足があるかを問うと車を那覇空港の駐車場に置いてあると言った。もしなければ帰りの足を提供しようと思ったがその必要はなかった。このところ彼の店は事業が低迷しており、我社との取引は途絶えていた。組織が大きくなると小規模の園芸店との取引が少なくなるのは致し方ないことであり、ビジネスとしての弾む会話も失いつつあった。
午後4時10分、予定通りに離陸した。この後那覇空港を出るまで普天間夫妻と顔を合わすこともなかった。
午後6時15分(日本時間)、那覇空港国際線ターミナルにランディングした。新型インフルエンザの影響で入国審査が随分と遅れた。税関検査で仕事ですかと係員に訊かれた。いつも同じように訊かれる。私の旅姿は観光客には見えないようである。一人旅の雰囲気が身に付いているのかも知れない。
出迎えロビーで那覇空港ビル展示業務班の仲地茂君と比嘉伸也君が待っていた。私は土産袋からチョコレートの箱を取り出して「空港班への土産だ」と言って仲地君に渡した。伸也君が自宅まで送ってくれるようである。私はレンタルの携帯電話の返却処理をして車に乗り込んだ。全ての日程が終了した。伸也君に「旅は何事もなく安全であった。君が僕たちを自宅まで安全に運んでくれるなら完璧に旅を終了する事ができる。よろしく頼む」と冗談で言うと笑いながら「ハイ」と返事した。車がゆっくりとターミナルビルを離れた。乗り馴れた私の業務車両の排気音を聞きながら旅が終了したことを感じた。
エピローグ
旅は多少の後遺症を残すのが常である。東南アジアの旅は、4日以上滞在すると帰宅してから下痢気味の症状が起こる。私の内臓は強いと自負しているが今回も少しばかり下腹部に違和感があり排便が緩んでいる。現地では快便であったが帰国後に生じるのはどうしてだろうと思う。沖縄の食事に慣れないせいだろうか。玉城は何事も無いようである。病院に行くほどのことでもないが不快感が消えるまで3日ほどを要する。妻は私の汚れた衣類が、出張前と違ったいやな体臭が染みついていると言った。海外出張の度毎に言われる言葉だ。確かに日本では使わない香辛料を使った料理を食べ続けたのだから。私の電子辞書は単語の音声表示が止まってしまった。X線検査の影響かもしれない。さらに旅から帰ると仕事のペースが極端に低下するのも確かである。いわゆる旅ボケというものであろうか。そして、2週間もすると次のたびを夢見ることが始まるのである。次はチャーワンが誘ったインドネシアのスラバヤを訪ねてみたいとか、もう一度マラッカの古い町並みを歩いてみたい等とである。そしてもっと英語力を身につけねばと反省するのが常だ。一ヶ月はそうして旅の思いに浸ることが出来るのである。良い旅をした者には、幸せな記憶をリピートする特権が与えられても良いだろう。それだから旅は止められない。尤も、人生そのものが旅路であると言えなくもない。
陳先生は予定通りに2泊3日で来沖した。1泊目を私が名護市内のホテルに予約を取り、2泊目は先生自ら那覇市内のホテルに予約と取ってあった。初日は自社の農場や海洋博公園、水族館を案内した。2日目は首里城の見学を専務が案内した。陳先生と弟は首里城には行かずに那覇市内のパチンコ店に居座ったとのことだ。80代のパチンコ好きな兄弟である。先生はパチンコの為の馴染みのホテルがあるのだ。真意は知らないが、先生によると台湾のパチンコ店はヤクザが絡んでおり十分に楽しめないらしい。私はギャンブルを好まないのでパチンコ好きな社員を先生のお供に付けることにしている。
1週間後に台北の秦から電話があった。マレーシアのジョホール蘭展示会への誘いである。私がマレーシアの旅のトランジットで台北に立ち寄ったことを知ったらしい。彼に電話しなかったことを詰られた。8月4日のジョホール蘭展示会の後でボルネオのサラワク州クチンに行く計画である。私はつい弾みで「OK、スケジュールを教えてくれ」と返事してしまった。今度の旅の思い出が記憶の揺篭に乗せられる前に次の旅を夢見ることになった。
「完」