WOC旅日誌

WOC旅日記

プロローグ
2011年11月12日~20日までシンガポールにおいて国際蘭会議(WOC : World Orchid Conference)が開催された。ランに関する国際レベルの技術者会議であるがランの展示会も同時に開催される。概ね環太平洋諸国での国際レベルの展示会と併用して開催される場合が多い。東京国際蘭展示会や台湾国際蘭展示会、タイ、マレーシア等の主要ラン生産国が持ち回りで開催しているようだ。最近は中国も名乗りを上げている。国際蘭会議は展示会を伴うので観光需要も喚起されるのだ。私のもとには台湾の友人秦からWOCではなく、同時期に開催される中国福建省の三並国際蘭展示会への誘いがあった。ところが我社と交流がある近隣の造園会社の暇を持て余した社長共が、WOCのことを聞きつけて見学に行きたいと言い出したのだ。造園建設業協会主催の海外都市緑化事情調査が前年に終了したことで、海外に出る機会が減ったことにも起因していた。国際蘭会議の視察であることからラン管理を生業にしている我社に世話役の依頼が来たのである。専務と社員一人が世話役として参加する予定であったが、直前になって常務の私も参加する事になった。専務と常務の役員2名が会社に不在のことは前例が無いのであるが、私のゴルフ仲間でもある社長連中のからの依頼があったらしい。彼らは我社の株主でもあるのだ。結局のところ台湾の遊び仲間との予定をキャンセルしてこのツアーの中に組み込まれてしまった。
さて、シンガポールであるが、これまで3度の訪問があった。1982年、シンガポールを見ずして亜熱帯沖縄の都市緑化は語れないと言う造園仲間15名で、香港島、シンガポール、バンコク、パタヤと旅行したのが初めだった。その翌年は、沖縄県が企画した中小企業間の異業種交流事業の一環として海外視察研修に参加した。「青年の翼」称する総勢36名のメンバーであった。フィリピン、シンガポール、タイに駐在するジェトロ(日本貿易振興機構)の現地所長の案内で日本と現地の合弁企業を訪ねた。その次が2001年にマダガスカルの都市緑化事情調査の帰りに立ち寄ったのだ。丁度アメリカ貿易センタービル破壊テロ事件の1か月後であった。飛行機のフライトスケジュールが世界的に不穏な状態になった頃だ。マダガスカルからの帰国便の予定が大きく狂ってしまい、2日遅れでマダガスカルを発ちモーリシャス、クアラルンプル、シンガポール、関西空港を経由して沖縄の那覇空港に戻った旅であった。シンガポールから関西空港に向かうまでに6時間の乗り継ぎ待ち時間があったので、植物園や開発中のウォターフロントを見学して夜の便で関西空港に向かったのである。シンガポールは小さな国土である。3度も訪れると感動する体験は無理であろうと考えていた。まして4度目の団体旅行である。私は台湾の親友秦の誘いを断ったことで、いささか落胆していた。成り行きで旅の世話役を任された心配性の専務が、海外旅行に慣れた私をトラブル解消役として引き込んだのである。
20名の参加者に旅行社の女性添乗員が1名付いた男性15名女性6名の大名行列である。メンバーは夫婦者が4組、造園関係者が10名、ホテル関係者が3名で、4名ほど面識の無い人々が加わっていた。旅の日程は11月17日(木)の午前11時55分に那覇を発って20日(日)の午後6時半に帰ってくる3泊4日の旅だ。移動に2日を要するので僅か2日間のシンガポール見学である。
元来、私は団体旅行が好きではない。知り合いとはいえ、必ずしも感性の波長が合うとは言えない人々と、窮屈な旅をすることが嫌いなのだ。それに日本の団体旅行の定番となっている2人相部屋が耐え難く嫌いだ。大人の男性同士の相部屋は日本人だけの特有の旅行形態である。終戦直後の出張ではあるまいし、宿代を倹約した貧乏臭い旅をしなければならぬ理由はない。欧米人から見るとホモの気があると邪推されるのがおちである。私はマイペースが保てない相部屋がどうしても嫌で、わがままを通して1人だけシングルの部屋にしてもらった。1泊5千円ほど割高でも快適な旅行には欠かせぬ条件である。結局のところ私一人がシングルで添乗員はホテル関係者の女性役員との相部屋となった。
私は4日間の不在に備えて現在手がけている国の雇用促進事業として受注したグリーンコミュニティ支援事業の管理を仲地君に依頼した。この旅は仲地君が同行する予定であったが、奥方の体調不良を理由に農場担当の上間君が行くことになったのである。仲地君は出張をキャンセルした責任を感じたのか快く引き受けてくれた。これにより不在中の仕事の手配が整い、10年ぶりのシンガポールへの旅が始まることになった。妻には出発の2日前に「シンガポールの国際蘭展示会の視察に出る。全くツマラナイ20名の添乗員付きの団体旅行だ。俺が行く理由がないのだが」と落胆した口調で話した。
「あら、今度は珍しく一人旅ではないのね」と愉快そうに言った。
「ああ、爺共と4組の夫婦者が一緒だ。全くガイドツアーじゃあるまいし」
「世話役の務めがあるのでしょう。誰かの役に立つ仕事も大切よ。遊びの旅行はお預けネ」と笑った。
「シンガポールなんて4度目だぜ。名古屋よりもよく知っているよ」
「そう、行ってらっしゃい」妻は珍しく私に楽しそうに答えた。私が海外での夜遊びが出来ないことに溜飲を下げているのであろう。

11月17日(木曜日)
午前8時10分、予定より10分早く上間君が私を迎えに来た。沖縄記念公園管理の同業者である本部造園の仲井間君を伴っていた。社長の仲宗根さんが所用で旅に参加出来ないので社員の仲井間君を寄こしたのである。上間君の車を私の家の駐車場に停めて私のプリウスで空港に向かった。沖縄自動車道を通って那覇空港国際線旅客ターミナルに着いたのが午前9時30分であった。集合時間は10時であるが既に数名のメンバーが到着していた。今回の旅行を取り仕切っているエアー沖縄のツアーガイド崎浜女史が会釈して近づいてきた。
「おはようございます。よろしくお願いします。10時になりましたらチケットをお配りしますのでしばらくお待ち下さい」
私は自分の荷物を上間に預けてオープンカウンターの空港レストランで300円のコーヒーを貰った。直ぐに旅行メンバーで普段からのゴルフ仲間の新垣、仲本さんがやって来て雑談となった。新垣さんは「4日間の旅で18万円の旅費は高い」と不平を漏らした。それを年下の仲本さんが「添乗員付きだから仕方ないでしょう」と慰めた。相部屋で同業者の仲良しコンビである。
集合時間の午前10時までにホテル関係者の3名を除く全員が集まったところで、崎浜さんが日程の説明をした。その間に彼女に同行したスタッフが搭乗チケットの予約用紙を配った。一通りの説明を受けた後に崎浜さんに先導されてチケットカウンターに向かった。彼女の右手にはヒマワリツアーの旗が掲げられており、私は生まれて初めて御のぼり旅行に参加することになった。国内の行楽地でよく見る風景であるが、自らが参加すると何だか気恥ずかしくなってしまった。
台湾までとシンガポールまでの二枚のチケットを受け取って磁気検査の列に並んだ。いつものように手荷物を預けずに検査を受けて出国手続きを済ませた。混雑した搭乗待合室から4名の娘達に旅に出る旨のメールを送った。毎度の旅のパターンだ。立ち上がって背伸びをして振り返ると、ホテル関係者の3名も到着していた。
定刻の11時55分より10分遅れてCI-121は飛び立った。機内で旨くもないサンドイッチを食べて仮眠する間に桃園国際空港に到着した。1時間20分のフライトであった。
崎浜女史に引率されてトランジットゲートに入ると再び磁気検査を受けることになった。これまでの体験から台湾出国時の磁気検査はとても簡便であると思ってポケットに財布を入れたまま検査を受けると検査ゲートのブザーが鳴った。検査員は「ベルト、ベルト」と指さしてズボンのベルトを取るようにと指示した。ベルトを外してチェーン付きの財布と共に籠に入れて再びゲートを潜った。今度は無事にパスした。ベルトを締め直し、財布をポケットに納め、携帯電話ケースをベルトに挿して第1ターミナルへと続くエスカレータに乗って3階へ上がった。桃園国際空港ではターミナル間を移動する際に磁気検査をするシステムがあるようだ。私は古い記憶の中に同じ光景があったことを思い出せなかった。
シンガポールへ向かう便の出発時刻は午後4時である。未だ出発まで3時間もあるのだ。旅行仲間は暇つぶしに小グループに分かれて土産品店やスナックへ向かって散っていった。私は空港内の植物展示が気になって少し散策してみた。台湾は世界最大の胡蝶蘭の生産国であるが、空港内での展示は殆ど見られない。土産品店の室内装飾に僅かに見られる程度だ。私の会社が管理する那覇空港ビルの室内装飾では、台湾から輸入した胡蝶蘭を数多く使用しているのだ。桃園国際空港は観葉植物配置がベースである。前回訪れた時は窓辺と通路の仕切ボックスに配置してあったが、通路の植栽枡を無くしてムービングウォークと並行した通路を広くしてあった。そして窓辺と壁面に緑化を施してあった。施設内の歩行空間が広がると共に植物による空間の被覆面積が拡大することである種の癒し効果が現れている。プラグ方式の壁面緑化自体は以前から屋外で実施されていた技術である。工事現場の安全フェンスの代用やイベント広場のモニュメントに使われており園芸資材店で入手できる製品である。しかしながら空港内の上質な壁面に少し気取ったデザインで設置することで、屋外とは異なる趣があり空港利用者を楽しくさせてくれる。この空港は訪れるたびごとに少しずつ変化している。最近の傾向が経費節減を目的に室内園芸植物を排除した無味乾燥な空間への変化に転じていただけに今回の変化に心が和んだ。

少しだけ空腹感を覚えてスナックの前に戻って来た。店の向かいの椅子に平地夫妻が座っていた。
「何か摘まんでビールでも飲みませんか」と誘うと笑顔で立ち上がって同行した。
私は120元の生ビールと180元のビーフシチューを注文して手持ちの台湾元で支払った。海外旅行用の財布には、釣具店で買った磯釣りで使うためのタックル紛失防止用の細いスプリングワイヤーを取り付けてある。パスポートも同じだ。一方をベルトに取り付けて置けばスリ取られることはない。財布には海外専用のキャッシュカード、日本円、米ドル、台湾元を入れてある。平地夫人はビールとサンドイッチを頼んで日本円で支払って台湾元の小銭を貰った。夫妻は八重山から参加である。名刺を見ると八重山蘭趣味の会と記載されていた。私は次女婿が八重山出身であることを話すと、婿の実家の池田家のことを良く知っており、先月、池田夫人が大動脈乖離で緊急入院したことまで知っていた。さらに私の大学の同窓である唐真盛光君と中学、高校の同期であると話した。私は平地夫妻に親近感を覚えた。私と同年の平地氏がNTTを定年退職して趣味のラン栽培に意欲を燃やしていることや、奥さんが夫の趣味に共感していることを羨ましく思った。スナックの客が次々と入れ替わる中で僕らはビールを二杯飲んで一時間ほど過ごした。
スナックの外に出ると旅のメンバーが次々と戻って来た。添乗員の崎浜女史が人数を確認して搭乗待合室のA-8 ゲートへの移動を促した。私は搭乗前に何度かトイレに立って先ほど飲んだビールを放出することに努めた。このところ前立腺の機能が弱くなった気がしているのだ。午後四時、CI-751はほぼ満席の乗客を乗せて桃園国際空港を飛び立った。4時間45分の退屈な旅が始まった。いつもの様につまらない機内食を口にして、ワインを二杯飲んでトイレに立ち、英語圏への会話対策として持参した英文のマークトゥエインの小説を読みながら眠りに落ちて行った。
ランディングのショックと逆噴射の騒音で目的のシンガポールのチャンギ国際空港に着いたことが分った。未だ覚めやらぬ頭を何度も左右前後に振って、あくびをくり返しながらふらつく足取りでバゲッジクレームに辿り着いた。通路の横に四角形の大きな花鉢が4鉢並んで配置されており、その中に濃紫色のデンファレが寄せ植えされていた。太いバルブは赤道直下の熱帯地域に育つ特有の品種であり、沖縄の清楚なデンファレとは異なる野生の力強さを鼓舞していた。私はこのデンファレを見た途端マレー半島の先端に位置するシンガポールに到着したことを理解した。那覇空港の2倍もある長い荷物送り出しレールの続くバゲッジクレームの中央カウンターには、見馴れたアグラオネマと熱帯のデンファレが混色してアレンジされていた。我社の受注する那覇空港ビル内の植物展示技術とあまり変わらぬレベルである。只、ボリューム的にはこのシンガポール・チャンギ国際空港ビルが勝っているのは否めない。

僕らは崎浜女史の先導旗に従って空港の外に出た。タクシー乗り場は10年前と変わらずに南国特有のある種の重たい空気の混濁した匂いがした。何故だか私はその記憶に安堵感を覚えた。その横をすり抜けて大型バスの待機所に向かう途中、右手の植え込みの中に見事なタビビトノキがあった。270度の円形で葉を展開する姿に圧倒され慌ててデジタルカメラを取り出してシャッターを切るも、この土地の高湿度にレンズが曇って撮影不能となってしまった。諦めてバスに向かう途中でレンズを拭いて何度かシャッターを切った。そしてインドシタンの下垂した枝葉がセピア色の街灯の中で、夜のビル風になびく様をかろうじてデジカメの記憶媒体に収納した。インドシタンのカサカサと風に舞う音を耳にしたときから熱帯の空気の重さが私の五感に沁みて来た。

機内で煙草を我慢していた国吉と仲井間が駐車場の隅にある喫煙所でニコチンを補充して満足な顔で車内に戻って来た。現地添乗員のミス・ペン女史が「全員そろいましたのでホテルに向かいます」と車載マイクで呼びかけた。42歳の独身で小太りのペン女史は美人ではないが、それを補うだけの笑顔と日本語の話術に長けていた。日本の大学を卒業した彼女はシンガポールの公用語である英語とチャイナ系の人々が常用語とする北京語、それに東南アジアの中華系が方言として話す広東語と日本語が話せると言う。彼女の最近のシンガポール事情の説明が終わる頃にホテルに着いた。フラマ・シティ・センターである。チャイナタウンを横切るユウ・ラン・ロードから50m程路地に入った中規模の4つ星評価のホテルである。
2階のロビーで部屋割をしてカード式のルームキーを受け取ると相部屋の仲間同士が連れだって部屋に向かった。私は少しだけビールが欲しくなってホテルの入り口に向かって歩き出した。
「仲村さん何処へですか」聞きなれた声に振り向くと仲本さんである。
「うん、外へ出てコンビニでビールを買ってから部屋に行こうかと思いましてね。ガイドの話では近くにコンビニがあると言っていましたから」
「では、一緒に行きましょう」
相部屋の新垣さんと私の社員とその相棒の仲井間君が付いて来た。
私は階下の手荷物カウンターでルームキーを見せルームナンバーを告げて5名分の荷物を預けた。ボーイはコンピュータが荷物に入っていないかと心配そうに尋ねた。私が「ノー」と答えると手荷物と引き換えにチケットを渡した。「サンキュー」と言ってコンビニを探して表通りに出た。5名で辺りを見渡してコンビニのネオンサインを探すも見つからない。私は歩行者の女性にコンビニの所在を尋ねると「アイアムソーリー、アイアム・ビジター」と返事が返って来た。此の街の歩行者は地元の人とは限らないようである。ホテルに引き返してドアボーイに尋ねると僕らの歩いてきた方向の反対側を指示した。「サンキュウー」と言ってその方向に少し歩くとセブン・イレブンの特徴ある赤と緑の横縞の表示が現われた。中に入ると10坪もない店内のスペースに飲み物の冷蔵庫と菓子類の棚があった。僕らはバスの中でペンさんが用意した1万円ごとに両替した袋からシンガポールドルを出して、1缶2ドル20セントのタイガービールを好きなだけ買った。私はツマミとして小さなピスターチョを1袋加えた。僕らがホテル前の歩道を横切っているとホテルから仲間が10名程ぞろぞろと出て来た。私は彼らに向かって「ディスウェィ、ユウ・キャンシー・セブンイレブン・コンビニエンスストア、レフトハンド」とコンビニの方向を指差して言った。キョトンとしている仲間をしり目に手荷物預かり所に向かった。交換札を見せると係りが5個のバッグを次々と持って来た。私がチップの米ドル2枚を渡すとボーイは嬉しそうに「サンキュー、ハブ・ア・グッドナイト」と笑顔で応えた。私がチップをあげた動作を連れの仲間は誰も見ていなかったようで、何も言わずにフロントの前を横切って其々の部屋に向かった。このホテルのエレベータはルームキーを挿しこまないとスイッチが押せない仕組みとなっている。不法侵入の防犯対策と売春婦の勝手な客引きを抑制しているのである。
私の部屋は1022号室でメンバーの中で最も高い階にある。2枚貰ったカードの一枚を財布に入れてもう一枚で部屋を開けた。相部屋のつもりで2枚を渡したようだ。広いダブルベットの部屋である。予想していたシングルの部屋ではない。この旅が快適に始まる予感がして嬉しくなった。只、日本や台湾のホテルのベットに比べてマットの位置がすこぶる高いことだけが気がかりであった。欧米人客好みのベッドであろうかと思った。シャワーを浴びるついでに薄手のシャツと肌着を洗った。幸いにもバスタブの上にバネ付きのロープがありシャワーの後にそれを張って先ほど洗った肌着とシャツを干した。備え付けのバスローブを着け、ピスターチョを摘まみながらビールを飲み、何故か放送されていたNHKのテレビニュースを見て、ベットに潜ったのが午前0時30分(日本時間の午前1時30分)であった。一人部屋の気楽さと室内の静寂が団体旅行であることを忘れさせてくれた。それでも久しぶりの旅行による緊張感が多少は残っていたのか2時間毎に眼が覚めては腕時計の時間を確認していた。

11月18日(金曜日)
午前6時に目覚めてベットを降りた。日本との時差は1時間だ。隣のマレーシアも1時間だ。地球の経度かからすればタイ、ベトナムの2時間が妥当だと思うのだが、それぞれの国の事情だろう。バスローブの紐を締めなおして備え付けのポットで湯を沸かした。ポットの電源スイッチが上手く入らず何度か手の平で軽く叩くとランプが点灯して電源が入った。旅先では上級ホテルといえどもよくあることだ。200ボルト電源はたちまちお湯を沸騰させてくれた。備え付けのインスタントコーヒーをカップに入れ沸騰したばかりのお湯を注いだ。いつもは砂糖無しのいわゆるブラックコーヒーを飲むのであるが、旅先では砂糖とクリームを入れるのが常である。コーヒーに手をつけずに洗面台で髭をそって濡らした髪にヘヤーリキッドを少量撫で付けて髪を整えた。シャワールームから戻るとコーヒーは適度に冷めていて飲みやすくなっていた。コーヒーのほろ苦さと砂糖の甘さが私の脳細胞をゆっくりと目覚めさせてくれる。コーヒーカップを手にしたまま窓の外を眺めると曇り空である。夜間に雨の多い国であるが、短時間の通り雨が日常でさして気にもならない。むしろ雨の無い灼熱の日が旅行者にとって疲れる天気だ。この時期は大陸のタイでは乾季であるが赤道直下のこの国はそうでも無いようだ。私はいつもの旅の習慣で朝の町並みをホテルの窓から写した。ガラス窓に埃がへばりついており曇り空の中の風景が一層薄暗く写った。カップの中の最後の一滴を飲み干すとコーヒーのカスがざらついて舌の上に残った。私は備え付けのペットボトルのミネラルウォーターで口を漱いでそれを飲み込んだ。未だ十分に目覚めてはいなかったようだ。ガウンを脱いで剛柔流空手の予備体操でストレッチをして体を完全に目覚めさせた。新しいズボンとアロハシャツに着替えて二階のロビーにあるレストランに降りていった。ロビーのソファーに上間と仲井間君が待っていた。レストランの受付に部屋番号と三名だと告げるとウエイトレスが奥の席に案内した。その席に向かう途中で旅行仲間と挨拶を交わした。僕らよりも早く朝食を取った者が多いようである。朝食のテーブルに着いた者の顔ぶれで旅の仲間同士が明らかになっていくようだ。
私は大皿にオムレツ、野菜の煮物、ジャガイモの揚げ物、ベーコン、ハムをひと摘みずつ取り、パン、オレンジジュース、デザートの果物としてパパイア、パイン、スイカを一切れずつ取った。朝は出来るだけ消化の良いものを少量ずつ取るようにしている。上間と仲井間は大盛で朝食を取っている。
「朝から元気が出るね」と言うと
「折角の外国旅行だから旅費の分だけ食べなきゃ損ですよ」上間が笑いながら答えた。仲井間君は恥ずかしそうに肩をすくめて私をチラリと視た。
「良い心がけだ」私は笑いながら相槌を打った。
私はオレンジジュースをお代わりして朝食を済ませた。午前8時を少しだけ過ぎていた。

8時30分、ホテルを発ってシンガポール植物園に向かった。この国は一方通行や乗車規制などの市街地への通行規制がなされており、この時間帯にしては交通混雑が起きていなかった。ペンさんよると時と場所によっては著しく混雑する場合があるらしい。バスの車窓から見る都市景観は緑が多くて気持ちが良い。近代ビルと緑地が調和した都市計画の見本である。かってジェトロのシンガポール所長にシンガポールの造園技術は素晴らしいと話したことがある。すると彼は「この国に造園技術なんてものは無いですよ。太い枝を無造作に切ってもすぐに再生しますから。自然の豊かさですよ。日本の街路樹の高度な剪定技術などと較べようも無いですよ」と笑ったのを思い出した。確かに最近植栽されたばかりの樹木を見ると日本では発注者が許可しないお粗末な支柱である。ホテルを出て20分ほどでシンガポール植物園に着いた。この植物園には幾つものゲートがあり、特定施設以外は入場無料である。バスはジンジャーガーデン入り口のゲートに車を停めて僕らを下ろして去っていった。石張りの園路の脇にはショウガ科のヘリコニア類と葉柄の赤いショウジョウヤシが植栽されていた。池には南米産のオオオニハスやアフリカ産のチホノドルムが植栽されていた。植物園のほぼすべての植物が海外からの収集品である。この国の国民すらも原住民はおらず、中華系を中心にした移入者たちである。特に珍しい植物ではないが下草や枯れ葉が丁寧に取り除かれており、高いレベルの植物維持管理がなされていた。5mほどの高さの水量が豊富な人口滝の前に橋が掛っており、その横の小さな小道は滝の裏側を通り抜ける通路となっていて来園者を楽しませる構造となっていた。この植物園は3ヵ所に大きな池を配しており小川や滝は池の水を利用して循環しているとのことである。私が最初に訪れた1982年には植物園としての機能が明確で、世界有数の植物収集が評価されていたのでるが、今日ではアミューズメント・ボタニカル・パークとしての機能を優先してあるようだ。24時間稼働するチャンギ国際空港は世界一のハブ空港であり、トランジットの観光客への憩いの空間を提供する事がこの国の国策だろう。外国人の移動はトランジット客だけでなく、コーズウェイの橋を通過して毎日数万人の労働者がマレーシアのジョホールバルから出入りするし、スリランカ人の低賃金労働者も期間雇用で滞在しているのが現実だ。一方では中国の富裕層が高級マンションを買い漁っている現状もある。流動化の最も激しいアジアの1等国である。ジンジャーガーデンを過ぎるとナショナル・オーキッド・ガーデンの広場に出た。オーキッド・ガーデンの入り口広場の中央には直径5m程のロックガーデンが造られており、石組みの頂上にグラマトフィルム・スペシオキムが植栽されていた。頂上から四方に流れ落ちる清水が適度な清涼感を醸し出していた。広場の緑陰樹の周りにはベンチが設えてあり地元の公園利用者の適度な休憩場所としての機能を有していた。事実、クロのラブラドール犬を連れて散歩する初老の婦人やトレーニングウェアの女性がベンチに腰掛けて休憩していた。広場の回りは15m以上の熱帯樹木が茂っており植物園の外に広がる高層ビル群を目にすることは出来ない。此の植物園は緑化植物の機能性を最大に発揮する都市公園でもあるのだ。オーキッド・ガーデンは2001年に訪れた時には工事中で、確か日本人の造園家が設計したと聞いた記憶があったが定かでない。

ペンさんから入園チケットを貰って園内に入った。入園料は大人5ドル(325円)で午前8時半開園、午後6時入館締め切りの7時閉園となっている。入り口と出口が同じで小さな施設はお土産品店を兼ねている。私は今日が妻の誕生日であることを思い出してシンガポールの国花である蘭のバンダの金細工のネックレスを90ドルで求めた。散水されたばかりの園路は爽やかな朝風が流れて、時折蘭の花の香りを運んで来た。園内のラン類はアランダ・モカラ類を中心に植栽されている。コンポストはカンナ屑を使い、開花株を鉢ごと植え込んであるようだ。デンファレ、オンシジュームも数多く使われている。マレーシアからの移入品であろう。開花株のみを植えこんで次々と植え替えているようだ。すぐ隣にマレーシアの広大なランの生産地を控えている所以である。公園管理の作業員がヘゴ板を繋ぎ合わせたアーチにカトレア類の着生作業を行っていた。プルメリアの枝にはカトレアのマイカイ・マユミが数多く着生されており、幾つかの株には花が咲いていた。この品種は赤道直下でも沖縄県と同じ時期に開花するようだ。開花生理は良く理解できないが多数の根が密生して着生していた。観葉植物で特に珍しい新品種は無かったが、沖縄県で見られる品種と微妙に異なる改良品種である。10年前にこの植物園を訪れた頃には気がつかなかった園芸品種が植栽されていた。シンガポール植物園は時代を経て様々に変化する機能性がある。此の植物園の魅力を堪能するには植物に関する豊富な知識と十分な観察時間を必要とするのだろうと思った。私はこの旅行の目的が明確でないままやって来たことを残念に思うと共に、はたして私と同じ思いをする者がこの旅行メンバーにいるだろうかとも思った。花に囲まれたオーキッド・ガーデンをひと廻りして、1時間半の森林浴を楽しんでから再びバスに乗った。

バスは交通混雑が始まったシンガポールの繁華街オーチャード通りを経て東岸のウォーターフロントの一角にあるシンガポール・フライヤーに向かった。通りは次週から始まるイベントに向けて電飾が始まっていた。この国は様々なイベントで海外の観光客を勧誘しているようである。日立電気や高島屋等日本でも馴染みの企業の電飾文字が目に付いた。オーチャード通りを抜けると交通量が少なくなり、海岸通りに大観覧車が見えてきた。直系160mの観覧車の真下の広場にバスが止まった。ロータリーの植え込みにウエルカム・トウ・シンガポール・フライヤーと表示されていた。
この広場は単に観覧車に乗って市内の風景を見るだけの施設では無く。スーパーカーによるF1グランプリコースのドライブ体験(228ドル/15分)、市内観光用の二階バス乗り場、ショッピングセンター、レストラン、足の老化皮膚を熱帯魚に食べさせるセラピー、三輪車の観光等の娯楽案内所を兼ねていた。私がドライビングショップの店頭のポスターを眺めていると、店員が出て来てパンフレットをくれた。私は退屈紛れに店員に英語で話しかけた。
「F1グランプリのコースを走るのかい」
「そうだ」
「車種なんだい」
「フェラーリとランボルギーニだ」
「私のドライバーライセンスでもオケーか。日本人だが」
「もちろんだよ、インターネットで申し込んでくれ、手配するから」とパンフレットのホームページアドレスを指差した。
「サンキュー」と言ってその場を離れた。
店の看板を見るとアルテメット・ドライブとある。究極の走りという意味か。その下にスーパーカーを提供とある。面白い商売もあるものだが15分で14,000円とは少し高いと思った。たかだか車を運転するだけである。しかもシンガポールの交通事情では時速100㎞の速度は絶対に無理である。

ペンさんが観覧車の搭乗券を配った。ボーディング・パスとある。まるで飛行機の搭乗券だ。確かにフライヤーに載るのだから正解である。座席指定の無い29ドル50セントのチケットである。僕らはペンさんに誘導されて二階の乗り場からゆっくりと回転するフライヤーのバケットに早足で飛び乗った。筒状の大きな容器に全員が楽に乗り込むことが出来た。観覧車は退屈なぐらいゆっくりと空中に舞い上がっていった。遠く川向うにゴルフ場、高層マンション、来年の秋に開園予定のフラワードームの工事現場が見えた。その横にマリナ・ベイ・シティホテルの空中庭園がホテルの上部に載っていた。ホテルの上部に載った鯨を模した庭園の高さは200mらしくこの観覧車からは見下ろすことが出来なかった。その横のベイシティ・コンプレックスが国際ラン博覧会の展示会場である。ハスの花を模した巨大なモニュメントが一際目に付いた。観覧車はボートレース場の見える方向に次第に降りていった。この水域は淡水とのことだ。堤で海と仕切られているそうだ。浄化設備を備えており飲料水としても利用可能であるが、現在は工業用水として使われている。飲料水はマレーシアのジョホールバルから送水管で送られてきており、シンガポール政府は水の使用料金を支払っているとのことだ。マレーシアから水の使用料金の値上げ交渉が繰り返されてきているが、今後の成り行き次第では送水を中断しても構わないとのシンガポール政府の方針らしい。私はふと、対岸のジョホールバルの蘭展示会で同行した台湾の陳先生の言葉を思い出した。第二次世界大戦で日本軍が英国軍をタイ、マレーシアからシンガポールに追い詰めた折、日本軍の山下将軍は英国軍に通達した。「即時降伏すべし、さもなくばマレーシア・ジョホールバルからの送水を停止する」この通達によって不要な銃火が避けられたとのことだ。戦時中に台北で日本式の中等教育を受けた陳先生が愉快そうに笑ったのを思い出した。大戦後65年の時を経た今日、日本の水質浄化技術の導入によって山下将軍が用いた水利権を消滅させたのである。あらためて湖面を見ると、あちこちに抜気の渦が見えた。この国の強かな英知が見え隠れしていた。

ペンさんの説明やパンフレットによるとこの観覧車のベストな楽しみ方は、パートナーと共に食事をしながらシンガポールの夜景を観賞することらしい。この施設の屋上緑化に面白い植物を見つけた。ウエデリアとグンバイヒルガオである。ウエデリアは沖縄県の道路植栽や屋上緑化で一時期に利用されるも既に排除された植物である。熱帯ドリームセンターの屋上緑化ではチガヤ、ススキ等に淘汰されてしまった。シンガポールでは未だにいたるところでグランドカバー植物として利用されている。沖縄県のそれよりも葉が少しだけ小さいようであるが同一品種である。混入雑草の除去作業や定期的な刈り込みで過繁茂を抑える作業を行っているのであろうと推察された。安価な外国人労働者による維持管理で成り立っているのではなかろうかと邪推してみたくなる美しい緑の景観であった。僕らは観覧車を降りてから昼食を取るため港に近いレストランに向かった。少し早目の昼食である。

途中の海岸線は、埋め立てが進んでおり50基以上ものクレーンが数キロ先まで続いていた。この国は海岸を飽くことなく埋めて国土を次第に拡大しているようである。私が10年前の2001年10月に訪れたときよりも海岸のモニュメントであるマーライオンの位置が陸地側に移動しており陸地化が進んでいることが判った。さらに18年前に訪れた頃、この当たりは完全な海上であり、マーライオンは浅瀬の海上にポツリと立っていた。如何にも海の守り神の風情があった。飲茶を主体にした中華料理の昼食を済ませてマリナ・ベイ・コンプレックスで開催中の国際ラン博覧会の展示場に入った。入場チケットが20ドル(1,300円)で仮オープン中のフラワードームの入館券が対となっていた。展示場の開催期間は11月14日から20日迄で、午前10時から午後9時までの入場時間となっていた。
地下一階の会場への導入部は白を基調にしたデンファレとコンパクトなコチョウランでトンネル状に装飾されていた。会場のアレンジは生け花、ディスプレー、植物販売、飲食店と休憩所に分かれていた。出品蘭の品種別の表彰ブースは設けられておらず、ディスプレーブースの中に展示されていた。個別審査の入賞蘭の鑑賞が判り難く今回のツアー参加メンバーからは不評であった。ディスプレーに用いられた蘭は近隣のマレーシア・タイから持ち込んだバンダ、アランダ、モカラ、デンファレなどの品種で熱帯地域のラン展示会の特徴的な展示手法であった。台湾のブースは多彩なコチョウランの品種を用いており、会場内で異彩を放っていた。日本国内の展示と異なるのはカトレア類の展示が少ないことであった。ボリュームのあるディスプレーであるにもかかわらず、地下1階の会場は採光が不十分で展示物を上手く表現できずにいた。熱帯のブルー系のバンダ類は明るい光の中でこそその魅力が発揮できるのである。東京ドームで開催される展示会のような十分な明るさがあればもっと素晴らし観賞価値を演出できただろう。私はカメラの電池が消耗するまで展示ブースを撮影し続けた。美ら島財団の展示ブースもあったが、あまり評価に値する作品では無かった。彼らの目的は二年後のアジア蘭会議(APOC)の宣伝であり、良質な作品の作成ではなくあくまでも協力出展を目的としていたのである。私は植物販売ブースを巡回してシダ植物を二鉢買った。日本に持ち帰るからと店の者に言ってポットを取り去り簡単なパッキングをしてもらった。台湾の蘭生産者のブースを回って顔見知りの店主に挨拶した。清華、台大、佳和、鮮、珍などが出店していた。販売コーナーの一角で輸出用のサイテスを申請するブースがあったが混雑した様子も無く、一組の利用者が書類に記入しているだけで海外からの購入者は少ないようであった。この国では蘭のビジネスは未だ発達していないようである。この国は貿易国であり、蘭の消費国ではあっても生産国ではないのだ。

我々は一時間半の見学時間をもてあました後に会場を後にした。私は似たようなディスプレー作品を多く見たせいか、色彩の食中毒にも似た目眩を覚えて屋外に出た。雨雲が立ち込めて今にも降りそうな空の下を通り向かいのマリナ・ベイ・シティ・ホテルに向かって歩いた。ホテルの屋上に携帯電話会社ソフトバンクのコマーシャルで有名な空中庭園がある。
ペンさんがエレベーターの利用チケット配った。スカイパーク・マリナベイ・サンズとある。料金は記載されてなく今日の日付と営業時間が午前9時から午後11時までのツアー旅行者用・成人とだけだ。高速エレベーターは一気に200メートルの屋上展望台まで駆け上がった。台北スカイタワーのエレベーターよりは遅いらしく、急速な気圧差が引き起こす不快な耳鳴りに悩むことはなかったが、屋上の景観は僕らをがっかりさせた。僕らは屋上庭園への観覧許可が得られず、ただ高い位置からのシンガポールの遠景を見ただけである。それも午前中に見たシンガポール・フライヤーより僅かに四十メートル高い位置から近隣の同じ風景を眺めただけである。緑化事業に関わる人間の満足には答えてくれなかった。ペンさんの説明によると空中庭園を利用出来るのはホテルの宿泊客のみらしい。私は残り少ないカメラの電池を気にしながら僅かに見える屋上庭園に向かってシャッターを2回だけ押すにとどめた。眼下に建設中のフラワードームの全景が鳥瞰図のように見えたのが唯一僕たち造園家を満足させる景観であった。40分ほど過ごして再びエレベーターで降りた。そしてホテルに隣接したカジノを覘いた。2年前にソウルのヒルトンホテルで覗いたカジノよりも数倍も大きな施設である。シンガポールにはカジノが2ヶ所あり、世界1位に肉薄した2位の売上があるという。現在建設中の3か所目が開設されると世界一の賭博収入国に転じるらしい。パスポートを提示して施設の中に入ると映画で見る華やかなシーンが出現した。僕らの様な素人の部外者には無縁の世界が広がっている。デーラーがサイコロを振り、ルーレットを回し、トランプを配っている。客が真剣な眼差しでデーラーの手元を注視している。ゲームが一区切りするたびにため息が漏れる。時折緊張と安堵の入り混じった面持ちでゲームコインを手元に引き寄せる客がいるのだが、その表情も長くは続かない。歓喜よりも落胆の吐息が漂う空間が果てしなく続く場所である。ゲームのルールが分からない私にとって取り立てて興味のある施設ではない。元来私は賭け事が得意ではなく、この種のゲームにのめり込む事が出来ないタイプである。私がパチンコに興じたのは、記憶が定かでないくらい過去の学生の頃だ。私は予定の30分を待たずに施設を後にした。集合場所に戻ると既に他のメンバーも戻っていた。私は仕事の事が気になって携帯電話で仲地君に電話した。
「仲地君、3名のオッサンたちは休まずに出勤しているかい」
「常務お疲れ様です。草花の植え付けは今日で完了します」
「そうかい、それなら明日、明後日の土・日は休ませると良いな」
「そうですね。そうさせます」
「では、月曜日に戻るから」そう言って電話を切った。
新垣さんが横から私に言った。
「仲村、お前がいなくても現場は動くよ。たまにはお前がいない方が職員はリラックスするんだヨ」そう言って笑った。
「仲村さんの携帯は沖縄に繋がるのかい。僕のはさっぱりだ」
「機種によりますよ。これを使ってみて下さい。電話番号は」そう言って仲本さんの言う電話番号を押して発信音を確認して携帯を渡した。
「もしもし、・・・・・。ありがとう、片付いた。」そう言って携帯電話の返した。
「オイオイ、シンガポールまで来て仕事の話をするなよ。お前たちはバカか。それよりも飯が不味くていかん」
「仲村さん何処かいい所は無いですか」と仲本さんが言った。
「仲村、前に此処に来たことがあるか」と新垣さんが訊ねた。
「今度で4回目です。夕飯が済んでからタクシーでニュートン・サーカスという屋台村に一杯飲みに行きますか。飲み物、食べ物、何でもありますよ。ホステス以外はね」そう言った。
「そうしよう、今晩は決まりだな」仲本、新垣さんが喜んで手を打った。
フラワードームにはバスで移動した。この施設は来年の秋にオープン予定の新しい植物園である。WOCに合わせて仮オープンした施設の一部を見学するのである。WOCチケットには半券が2枚付いており、その1枚がフラワードームの入館券となっていた。貝を伏せたような2基のドームが隣接して建設され、その周辺にバオバブの大木を模したモニュメントを多数配置した公園広場で構成されている。全長500m程の敷地に池や広場を配置している。私は迫力ある施設規模よりも次々と新しい施設を開設して、これらの施設に観光客を誘導するこの国の活力にこそ驚きを感じた。

僕らは1つのドームを見学した。このドームは熱帯の乾燥地を再現した植栽空間となっていた。バオバブの林、サボテンの庭、オリーブの植えられた地中海性気候の庭等である。プレオープンするには未完の状態であるが熱帯雨林の国シンガポールでは体験できない空間には違いない。植栽が終了していない場所にコチョウランやポインセチア、ハイビスカスなどの鉢物が押し込まれているのにはいささか閉口した。いつの日か完成したこの施設を見たいと思った。バス駐車場の横は緑化樹のストックヤードとなっており、これから植栽される緑化樹が大型コンテナで栽培されていた。日本の造園会社が関わっているらしい。

携帯電話の万歩計の表示を見ると1万歩以上も歩いていた。この日のスケジュールを全て終了して夕暮れのベイシティを後にした。そしてシーフードレストランの並ぶ東部海岸へ向かった。
この日の夕食は海に面したシーフードレストランであった。郊外の広い駐車所の一角に数軒の海鮮レストラン並んでいた。この駐車場は市街地への車両の乗り入れを抑制するための公共駐車場だ。料理は茹でたエビとマングローブガサミのカレーで煮である。カレー煮はガサミ特有の泥臭さ押さえるための調理法だ。マレーシアの料理のような強い辛味ではなく、日本人の味覚にも抵抗が無い。ビール、白ワイン、紹興酒を飲みながら一時間半ほどの食事を楽しんだ。台湾の新竹、マレーシアのペナン、コタキナバル、タイのパタヤ、中国の厦門等、海沿いの町の海鮮料理は当たりはずれが無く美味いのが特徴だ。
バスの中で誰ともなく2次会を開いて少しばかり飲もうということになり屋台に立ち寄ることになった。女性2名をホテルの前で降ろして屋台に向かった。ペンさんが携帯電話で予約を入れて到着した場所がニュートン・サーカスである。シンガポールは屋台が多い国であるがこの場所がもっとも有名で大きい。私も3度目の訪問である。最初に訪れた25年前は砂利交じりの土間で不潔なイメージであった。その時の添乗員がリョービ・ツーリストの呉屋さんであった。八重山出身で私より一つ先輩であった。両親とも台湾出身で、帰化する前の姓は呉であったとのことだ。当然のごとく中国語は堪能であり、屋台の店主と交渉して新鮮なブラックタイガーを腹一杯食べた記憶があった。「貴方、日本語が上手いね」と店主に言われたと呉屋さんが笑って言っていた。翌年の「青年の翼」の旅も彼が引率してくれた。現在では整然と並ぶ店舗の前庭はセメント舗装され、雨避けのビニールテントの下にテーブルが設えてあった。僕らは2組のテーブルに分かれてタイガービール、キリンビールなどを次々と注文して、訳も無く祝杯を挙げて旅の交流を楽しんだ。
只、料理は以前と較べるべくもなくありふれた品と味だ。台北の士林夜市やペナンのテント村には全く及ばない特徴の無い屋台となっていた。多数の外国人が訪れると自ずと平均化した料理が好まれるのだろう。観光客相手のレストランの特性である。定かではないが10時過ぎにニュートン・サーカスを後にした。添乗員の崎浜さんが運転手の時間外手当として参加者から千円を徴収した。運転手に割高な時間外手当を払ったが仕方の無いことであった。明日からは運転手が代わるらしく皆の拍手で労をねぎらった。
私はホテルの部屋に戻ると服を脱ぎ棄て、直ぐにベットにうつ伏せになって眠りに落ちた。2時間ほどして目覚めて携帯電話とカメラのバッテリーを充電機に差し込んで再び深い眠りに落ちた。誰かが呼び出しの電話を鳴らしたかもしれないが、旅に出てまでメンバーの誰かの1室で飲むことは私の趣味に合わない。旅は異国の風情を楽しむことであって、身近な生活の話題に落ち込むこと程馬鹿げたことはないのだから。

11月19日(土曜日)
朝のシャワーを浴びて2階のレストランに入ったのが午前8時30分である。上間に朝食時間の約束をしていなかったのが気になったが彼らは既に昨日と同じ席に着いて朝食を取っていた。
「おはよう」と声をかけると顔を上げた。
「おはようございます」と返した顔の瞳が睡眠不足で赤くなっていた。
「夕べはホテルに帰ってからも飲んだのかい」
「ええ、善孝さんの部屋に呼ばれまして1時過ぎまで飲んでました」
「若いね、いい体力をしているね。僕はバタン、キューで寝入ったよ」
私は笑いながら立ち上がって食事を取りにカウンターに向かった。昨日と似たようなメニューである。このレストランはオムレツが旨い。しかしデザートの果物は質が落ちる。
上間と仲井間は先に立ち上がって部屋に戻った。私はゆっくりとマイペースで朝食を楽しんでから部屋に戻った。今日は終日のんびりと行楽地の観光だけである。9時過ぎにバスに乗り込んでホテルを後にした。
土曜日の朝は交通量が少なく、バスは深い緑陰の中をスムーズに走った。此の街の街路樹はバスよりもはるかに高く、車窓からは見える樹木の緑が街ゆく人を穏やかな気持ちにさせてくれる。時折高層ビルが緑の中から姿を見せるが、視界に占める割合が少なく高層ビル特有の圧迫感は無い。樹木の幹には大型のシダやシンガポール植物園で見たグラマトフィルム・スペキオスムが着生している。国営沖縄記念公園の植物管理を生業とする者としてはまことに羨ましい限りである。

9時40分に橋を渡ってセントーサ島に着いた。バスを降りると巨大なマーライオンが見えた。シンガポールには数か所に大小のマーライオンがあるらしい。地元の中学生や日本からの高校生の団体旅行者の姿が目に付いた。セントーサ島は回転展望台、歴史博物館、4D映画館、人口ビーチ、その他の31もの施設をもつシンガポール最大の行楽地である。それらの施設が緑に囲まれた中に散在しており、第1級の行楽地である。僕らは歴史博物館、スカイタワー、4D映画館で時間を潰して園内のレストランで昼食を取った。日本の幕の内弁当に似たつまらない昼食であった。新垣さんが真っ先に不平をこぼした。確かに今少し気の利いた食事を提供できぬものかと不満に感じた。しかし、時間に制限のある団体旅行では致し方ないだろう。ここでの収穫と言えば、スカイタワーからの絶景と園内からナガラッパバナを採取したことだけだ。ナガラッパバナは毎年11月になると自宅の裏庭で花を咲かせている。

昼食後はアラブストリートのお土産品店通りを散策した。店先に出されたテーブルでティタイムを楽しむ人々の姿が目に付いた。これまでの私の旅なら、その椅子に腰かけて同行者と他愛もない会話で異国情緒を満喫していただろう。ホテルのフロントで現地ガイドとドライバーを頼めば何とでもなることである。以前はラン展示会に同行した友人達が展示作業で忙しく働いる頃に、時間を持て余した部外者の私は気軽な1日だけの一人観光をしてきたのだ。クアラルンプル、ジョホールバル、コタキナバルではそうしてきたのである。この地区には大きなモスクがあり、イスラム教の宗徒が礼拝に訪れる。私は昼食時のビールが効いたのか小用をしたくてトイレを探した。ペンさんに教わったとおりにモスクの中のトイレに行くと其処の入り口では靴やサンダル等の履物が無造作に置かれていた。モスクには裸足で礼拝すると聞いていたが、トイレもそうかと不思議に思いつつ素足になり靴を手に持って中に入った。靴を手に持ったのは、旅行用の安物の私の靴でさえ上等に見える汚い履物の中に置くと盗まれると思ったからだ。階段を10段ほど下りると広いシャワー室にも似た水場があり、教徒が身を清めていた。足だけを洗う人や頭から水をかぶる人もいた。そのさらに奥にトイレがあり素早く用を足して出口に向かった。私は何かこの中にいることが不謹慎であるような視線を教徒から向けられているような気がした。しかしそれは異教徒の私の思い過しであり、彼らは誰とも雑談することなくなにやらつぶやきながら身を清めていた。コーランの一節を唱えているのかもしれない。彼らは礼拝の前から既にイスラムの神と一体となっているのだ。私は素早く靴下を履いて靴を突っ掛けてそこを離れた。モスクのゲートを出てから振り返るとモスクの黄金色の丸い屋根がヤシの葉の向こうに光って見えた。あの中は僕らの知らない荘厳な別世界なのである。


アラブストリートはアラブ系商店、土産品店、レストランが並んでいた。ペンさんによるとこの辺りではアラブの香水が有名である。香水よりも特徴のある形をした容器の小瓶に人気があるらしい。平地婦人らが店内を覗いていたが手ぶらで戻ってきた。この種の香りは西洋人好みであり日本人には余り馴染みがない香りである。私は孫の為に変わったデザインの駒を3個買った。この種の土産品店はじっくりと見て回ると中々面白いものが見つかるのだ。バスに戻ったのは私が最後であった。今回の旅行メンバーは異国情緒を楽しむ感性を持たないようであった。

僕らはマーライオン公園とラッフルズ卿上陸地点に立ち寄って記念写真を撮った。英国出身のラッフルズはシンガポールの初代統治者である。世界最大の花ラフレシアはラッフルズが発見して、彼の名前から名付けられた。私はこの場所のマーラインオンを見るのは四度目であるが、その都度陸地から沖へ向かって移動している。今では人造湖の前に立っている。正面にスカイパーク・マリナベイ・サンズが見える。このマーライオンが海へ向かってこれ以上前進することも無いだろう。国内各地にマーライオンが既に立っているのだから。この国が埋め立て事業によって国土を拡張している証拠でもある。私の家にもマーライオンのマークが入った錫製のジョッキが2個ある。何度目かにシンガポールを訪れた際に買った土産品である。錫は熱伝導率が高く、冷えたビールの冷たさを保つのでジョッキに最適だ。只、柔かい金属故に今ではジョッキのふちが変形してしまったのが残念だ。マレーシアは錫の産地であり良質なスズ製品が入手できたが、今は鉱山が枯渇してしまった。自宅の食器棚にはワイングラスなど9点のスズ製品がある。

私がウーロン茶の専門店はないかとペンさんに尋ねると、これから向かうチャイナタウンで1時間の自由行動時間があるので探せると教えてくれた。私は市場の一角で茶器を数点と鉄観音の茶を専門店で買った。茶器は良かったが鉄観音は失敗であった。鉄観音茶は福建省で買うべき茶である。輸入品を外国で買う愚かさであった。寺院前のチャイナタウン・コンプレックスは中華系の住民の公共市場である。生鮮食料売り場が地下にあるのだが、観光ガイドブックにあるとおりに異様な悪臭が立ち込めていた。私は地下の庶民の市場に降りる階段の途中で引き返した。私は東南アジアの数多くの市場を見てきたつもりであるが悪臭の漂う市場に出合ったことはない。市場を見ることが好きな私にとって些か残念であったが、疲れた足を引きずり悪臭に耐えてまで覗いてみる覚悟は無かった。集合場所で仲間が帰って来るのを待っている間にペンさんから砂糖入りの紅茶を奢ってもらった。以前マレーシアのコタキナバルでよく飲んだホットティだが香りが少なかった。ここはお茶の産地ではないのだから仕方がない。グラスの底に砂糖が溜まっておりスプーンでかき混ぜて好みの甘さにするのである。
午後4時、バスはチャイナタウンを出てオーチャード通りにある免税店の地下駐車場で僕らを降ろした。夕食までの間の2時間だけ自由行動にするとの計らいである。1982年に初めてシンガポールで泊ったホテルがこの通り沿いの一角であった。緑に囲まれた静かな通りはオーチャード(果樹園)の名の通りであった。その時同行した友人は現在マンゴー農園を経営しており、その名を「オーチャード比嘉」と称している。現在のオーチャード通りは喧騒に満ちた商業施設が立ち並びオーチャードの気配すら残っていない。オーチャード通りはいつの間にか降ってきたスコールで濡れていた。私は松田、国吉の3名で地下街をぶらついたが歩きつかれてしまい、地下の一角にある食堂に入った。セルフサービスで魚、鶏肉、野菜とビーフンを注文してビールを飲んで時間を潰した。庶民向けの食堂は安くて美味いのが中華系の商店街の特徴である。この地下街は沖縄県の牧志公設市場の雰囲気に似ている。庶民の日用雑貨からキーホルダー等の安価な観光土産品まで揃っている。
地下街を出ると雨は既に上がっており、僕らは人ごみの中をDFS免税店あるビルに向かって歩いた。この街を歩く人々は観光客が少なくない。東洋系、西洋系、インド系、イスラム系と様々である。キャノンの一眼レフカメラを首からぶら下げた男性が目に付いた。土曜日の夕方に繁華街をブラブラと観光するのは何処の国でも同じかも知れない。30年前には首からカメラをぶら下げたのが日本人観光客の標準的なスタイルと言われた頃があったが、今日のシンガポールの街角では普通のスタイルだ。むしろキャノンのカメラをぶら下げることはステイタスかもしれない。この辺りの雑踏では中国語、英語以外の言葉が飛び交っている。本当にアジアの人種の坩堝である。大きな体躯をしたアングロサクソン系の白人やアフリカ系の黒人は少なく、近隣のマレー系、中華系、インド系の人々が多いのが特徴である。私が以前に訪れたことのあるシドニーやハワイの多民族国家の都市の雑踏とは異なっている。欧米人がオリエンタルの旅を楽しむにはタイのパタヤ、マレーシアのペナン、インドネシアのバリ島だろう。シンガポールは30年前から始まった都市計画によって古い中華街を撤去して近代な商業ビルへの切り換えしまい、欧米人にとっての魅力を失ってしまったようだ。私は最初に訪れた1982年に既に都市計画が始まった中で、未だ残った伝統的な中華街の一角を訪れたことがあった。赤を基調にした雲型模様のデザインが施された中華街特有の表情に満ちていた。
オーチャード通りの雑踏を後にして夕食会場に向かったのが午後6時であった。夕食はホテルから程近い繁華街の中にある海鮮鍋の専門店であった。食べ放題の鍋物は何処でも食材の質を落としているものである。わずかばかりのエビと魚にソーセージ、カマボコ、鶏肉、豚肉、牛肉と野菜が混入している不思議な海鮮料理である。お世辞にも海鮮料理とは言えない。ただ腹が満ちるのを待つだけの夕食である。新垣さんが相変わらず料理の不平を並べながら食べている。1時間足らずで食事を済ませて外に出ると中庭に丸テーブルが並べられ架設ステージが準備されている。なにやらディナーショウが始まるらしい。中庭は幾つかのレストランで囲まれている。ディナーショウの食事や飲み物は周りのレストランから運ばれてくるようである。ショータイムに遭遇できずに少し残念ではあったが僕らはバスに乗り込んでホテルに向かった。
ホテルの部屋に戻るとクリーニングに出したズボンが戻ってきていた。税込みで98ドルであった。安くは無いが必要な旅の経費で仕方ないと思っている。同じホテルに連泊する場合はズボンとシャツをクリーニングに出すのが私の旅の習慣だ。
私は顔を洗って髪を整えてから再び外に出た。夜のチャイナタウンを見たいからである。地図を見るとホテルから昼間訊ねたチャイナタウン・コンプレックスまで歩いていける距離である。私は一人で夜の街の見学に出かけた。
ホテルの前の路地を左に少し進むと幹線道路のニューブリッジ・ロードに出た。そこを右折して200mほど歩くと道向かいにチャイナタウンのネオンサインが輝いて見えた。陸橋を渡ってチャイナタウンに降りていくとそこは土産品店や小さな屋台の連続する祭りの夜店群であった。雑踏の多くは欧米人である。日本人らしい顔つきの人も見かけるが中国語で話している。私は茶店と古物商を覗いて回った。気に入った茶器もあったが何か紛い物の気がして買わずに見てまわった。古物商店では武神の像を探した。中国南部拳法の原点である風神像を探したが三国志の項羽や長雲、劉備の像ばかりであった。私はチャイナタウン・コンプレックスの広場の前で引き返した。時計を見ると午後10時である。夜市から離れた場所は既にシャッターを閉じており、時折店じまいのためのシャッターを閉める音が聞こえてきた。私は重たくなった足を引きずりながらホテルに向かった。途中のマッサージ店のガラス越しに松田がマッサージを受けているのが見えた。さらにホテルに近づくと雑貨店で旅行仲間のホテルのスタッフがお土産品を買い込んでいた。私は片手を上げて合図を送り、声をかけることも無くそのまま通り過ぎた。ホテルの近くの雑貨店で缶ビールを3缶とピスタチオを求めてホテルに帰った。シンガポールの滞在は今晩で終わりである。私はふとシンガポールで何を観たのだろう思った。熱帯の珍しい植物だろうかそれともこの地の特徴ある文化だろうか、何かを探したようで何も得ていないような気がした。シンガポールは特定の伝統文化を取り払って、利便性を備えた独自の社会文化を進化させている国だ。私の居住地の周りにありそうな上質の都市空間を展開している。しかし、それは全く未知の自然や文化では無いだけに、私の中に強烈な非日常の感動をもたらすことは不可能であった。自ら再生し続ける自然とそこに暮らす人々が延々と築いて来た地域特有の空間、他の地域と異なる歴史の重みを形成した痕跡を全て取り除いた社会空間を持った国がシンガポールである。車窓や遠見台から見た景色は既に記憶の何処かに保管された残像の再生であり、そのことが全くの真新しい感動を呼び起こすことが出来ない原因であろう。この国そのものがアミューズメントパークのような気がした。1820年にラッフルズ卿がシンガポールを自由貿易港としての統治を始めてから一貫して人の往来の空間としての機能を高めてきたのである。それが歴史的事実であるが故に主を持たない行きかう人々の為の場所になったのであろう。私がこの国の風物にのめり込むような感動を得られなかった原因が見えた気がした。缶ビールを片手に窓の外を眺めると、そこに暮らす住民が生活の痕跡を積み重ねて歴史を刻んでいくという空間の重みを欠いた夜景が広がっている気がした。

11月20日(日曜日)
6時30分に朝食を取ってからフロントでクリーニング代の精算を済ませた。7時30分の出発である。バスに乗り込む前にホテル周辺の風景をカメラに収めて座り馴れた席に着いた。バスの席はいつの間にか自分の座る席が決まっているのである。おかしな事だが事実である。人はテリトリーを確保することで落ち着きを取り戻すのだろうか。

明るい光の中で見るチャンギ国際空港は何年も変わらずにブーゲンビレア生垣の花で飾られている。見覚えのある懐かしい景色である。到着ロビーが1階で出発ロビーが2階である。24時間運航で発着本数が多い東南アジア最大級のハブ空港の一つであるが、チェックインカウンターを見る限りそのような雰囲気は無い。私は重くなったバックを預けて割れ物注意の張り紙を付けてもらった。張り紙の効果がないことを承知ではあったが無いよりはましである。昨日買ったばかりの茶器が気になったからだ。定刻の午前10時、チャイナエアラインCI-752はチャンギ空港を飛び立って午後2時40分に台湾の桃園国際空港に着いた。空港で携帯電話の電源を入れるとすかさず呼び出し音が鳴った。発信ネームを見ると仲里である。
「仲里ですが、今、桃園の空港待合室にいます。仲村さんは今日帰るのですか」
「今、シンガポールから着いたところだ。4時の便で帰る予定です」
「同じ便ですね、搭乗待合室で待っています」
「では後ほど」
仲里は中国福建省のラン展示会からの帰りらしい。私もプライベートでその展示会に行きたかったのであるが残念だと思っていた。僕らの団体旅行ののぼりを何処かで見たのか、造園関係者を見かけたのかも知れない。
乗り継ぎはカウンターで再び次期検査を受けてターミナルⅡに移動した。なぜだか知らぬが台湾の次期検査は空港入り口より乗り継ぎカウンターの検査がシビアである。CI-122を待つ搭乗待合室は既に混雑していた。帰りの便も満席のようである。階段を下りていくと客の中から手を上げて仲里が合図した。彼の側に小柄な奥さんが座っていた。僕らは近況を説明しあった。福建省三並の展示会は楽しかったようである。次回は私をアシスタントとして使ってくれと笑った。台湾の友人秦は未だ三並にいるらしい。タイ国の生産者が1カ月前の洪水の影響を受けて不参加のようであった。ただし、秦が彼らの代行でディスプレーをしているので表立ってはタイ国も参加したことになっている。トングロオーキッドは未だ10メートルの水面下らしい。僕らはそんなことを話しながら搭乗時間を待った。
CI-122は定刻どおり何事もなく桃園国際空港を飛び立っていつもの時刻に那覇空港に到着した。僕らは手荷物受け取り広場で簡単な解散式を行って散会した。新垣さんが途中で一杯飲もうかと声をかけてきたが、連れの運転手がいることを理由に誘いをはぐらかして帰路に着いた。彼の誘いに乗ると日常の話題を酒の肴にすることで旅の記憶が掻き消されてしまう気がしたのだ。
大抵の旅は疲れた体で車を運転して帰路に着くための難儀な仕事が残っているのだが、幸いにも今回は上間君がプリウスを運転してくれたのが嬉しかった。名護に着いたのが午後9時過ぎである。上間君が私の車を片付け「お疲れさまでした」と告げて自分の車で仲井間君と二人で本部の自宅に向かって帰っていった。
私は旅の衣類を洗濯かごに放り込み、自宅の冷蔵庫から市内の工場で生産された純地元産のオリオンビールの缶を取り出してプルトップのリングを引いた。プシュッという軽い音がした。この音を聞いた時、旅が完全に終了したことを知った。そして飲み下したビールの炭酸と共に疲れが胃袋の底から湧きあがって来るのを感じた。

エピローグ
団体旅行は気苦労の割に記憶に残ることが少ない。シンガポール植物園は随分と改修されており、造園に携わる人間にとって見るべき修景が多いのであるが、部外者には単なる緑の集合体に過ぎないであろう。植物好きにとっては改修されていない古い場所こそが興味の対象である。100年前にシェイシェル諸島から導入された、あの双子ヤシはどうなっているだろうか。果皮の付いたヤシの実の形状はどうだろうか。植物好きなら人工物のオーキッド・ガーデンは直ぐに飽きてしまう修景である。アラブストリートの街角でティタイムを取ると素敵であっただろう。夕食は最初からニュートン・サーカスで自由選択の食事がベストである。自分の美味いと思う料理で酒を飲むのが旅の楽しみである。或いは夜のチャイナタウンで談笑するのも楽しかっただろう。旅は総勢5名までが限度である。シンガポールにはアジアの様々な文化が流入しており、この地での軽妙な形態に変化してそこに暮らす人々の遥かな故郷を連想させる存在となっている。しかし本物ではなく、通り客に便利な模倣としての存在だ。シンガポール模倣を独自に視点で高度化することに存在意義を見出している国だ。私にとって1982年に訪れた頃が最も輝いていた。あの豪奢な中華街は跡形もない。近代建築のマンション群に変わってしまっていた。シンガポールはトランジットの時間つぶしに街を探索するだけの存在である。私にとってタイやマレーシアのように幾度も訪れて、土地の文化に触れて時を過ごすだけの価値はない。いわゆる現代の宿場町である。宿場町を旅の目的地に設定しては得る物が少ないことが良く分かった旅であった。

2021年11月10日 | カテゴリー : 旅日誌2 | 投稿者 : nakamura

マレーシア・蘭と食の探索

「マレーシア・蘭と食の探索」

マレーシアの行政区にある王宮。イスラムの伝統的建築様式を取り入れた近代建築

プロローグ
マレーシアに謝華生:Cheah Wah Sang(チャー・ワー・サン)をという友人がいる。謝華生胡姫園:Cheah Wah Sang Orchid Farmのオーナーである。小太りで明るい人好きのする顔立ちの男だ。我々沖縄の友人はチャーワンさんと敬愛を込めて呼んでいる。4月上旬に彼の農場から1,000株のランを輸入していた。我社は那覇空港ターミナルビルの植物展示業務を受注しており、常時2,000株のランを展示している。バンダ類は自社生産、コチョウランは自社生産で足りない分を台湾のミンタイ・エンタープライズより輸入している。デンファレはタイのS・オーキッドから輸入していたが、今年に入ってチャーワンから2度ばかり輸入していた。チャーワンのランは品質が良くて展示期間が長いことに起因していた。

チャーワンは2月に開催される沖縄国際洋蘭博覧会に毎年参加しており、彼と同行する友人達や台湾の取引先の仲間を接待するのが私の例年の仕事だ。台湾や東南アジアの友人達は酒好きが少ないのが特徴だ。社員の運転する18名乗りの自社の送迎バスで名護市内の居酒屋まで案内し、目いっぱい騒いでも5、6万円程度で収まるのだ。店のおススメメニューと刺身の盛り合わせ等を取って宴席に適当に配膳して、後は写真付きの豊富なメニューから彼らの好きな物を自ら注文させればよい。社員を運転手兼世話役で伴うと手際よくゲストの接待が出来るのだ。社長の歓迎の挨拶を私のいい加減な英語の通訳でごまかして宴会が始まる。東南アジアの友人達は日本式の高級定食スタイルの会席を好まないようだ。そもそも定食の食味が彼らの口に合うか否かは我々日本人には分からないだろう。その点居酒屋のメニューは、揚げ物、焼き物、炒め物、煮物など多様である。そっくり同じ品を彼らの国で食べることは出来ないが、メニューの写真から自分の好みかどうかの想像は出来るのだ。社員はゲストの注文を取る係である。メニューの写真を指差すだけで英会話を必要としないのだ。時折、料理について質問があるも、私が簡単に英語で説明するだけで事足りるのだ。居酒屋の料理は量が少なくスピーディーにオーダーに応えるのでゲストの食味を大いに満足させてくれるのだ。気に入った料理であれば追加注文すれば良いのである。彼らも久しぶりに会うラン生産仲間との会食で盛り上がる。招待者である我々に気を使うことなく懇親を深めているようだ。この関係は日本人の接待宴会の接待者とゲストの間に必ず生じる奇妙な力関係のバランスに配慮した雰囲気は全く無いのだ。最初に代表者が歓迎の乾杯を擦ればゲスト同士で盛り上がるので僕らの気遣いは無用である。只、気を使うのは畳座席を出来るだけ避けて掘り炬燵の席が良い。テーブルに慣れた彼らの膝の負担が無く、日本風の雰囲気も味わえるからだ。ミンタイの陳先生と会食した際に、中華系の人々は美味い物を食うために稼いでいると話していた。台湾、中国、タイ、マレーシアの中華系の友人達と会食していると良く分かることだ。台湾の親友秦とは何度も旅行して悪遊びを繰り返していた。東南アジアへの出張は、トランジットの都合で台湾に一泊する事が多く、その度に夜遊びとなるのだ。沖縄で再会して宴席でその夜遊びを話題に酒を飲むことになる。チャーワンはその話題に参加できないことが不満らしく会うたびにマレーシアに来てくれと言われていた。4月上旬にチャーワンからデンファレを輸入したことがきっかけで彼の誘いに乗ることになった。マレーシアには東京ガスの子会社でグリーンテック・トウキョウというランの取引農園があったが、本社の意向で現地法人に経営を渡してしまった。東京ガスは本業のガスの取引の代償として現地補助事業を行っていた。補助事業の完了と共に東京ガスから出向していた渡辺氏が本社に引き上げてしまい、我社との取引システムが停止してしまっていた。そのこともあって、以前からの知り合いであったチャーワンとの取引が始まったのである。
1年前のことであるが市立図書館の案内掲示板で英会話教室の案内を見つけた。カースティン・儀間という南アフリカ共和国出身の女性が講師である。儀間という姓から沖縄嫁だろうと思った。それに自宅での英会話教室というのも実践的であろうと思って参加することにしたのである。毎週1回で自宅から15分の距離であり、成人を対象にした90分のレクチャーは負担にならなかった。ログハウスの自宅の居間で5名の生徒であったが、1カ月ほどして今帰仁村のログハウスから名護市内の福祉センターの市民講座教室に移動した。カースティン夫妻の引っ越しによるものであった。カースティンに最初の指摘されたのは、
「ナカムラさんは何処で英語を覚えたのですか?」
「一応中学、高校、大学まで英語の授業はありました。英会話のCDも少し聞きました」
「文法が全く駄目です」
「英語の成績はダメでした。数学が得意でした」
「私たち英国系の人間は間違った文法で話されると、とても気になります」
「教えて下さい。頑張ります」と答えた。「東南アジアの友人とは何とかコミュニケーションが取れています」とは言えなかった。女性への反論で良いことが無いのは万国共通であるのだから。
英会話塾では日本語はほとんど使わずに英国のテキストを利用して授業が行われた。週1回の授業でもネイティブの英語を聞くと自信がつくものである。実力は別としてのことだが。英語が第2公用語のマレーシアでもなんとかなるだろうと思ってチャーワンの誘いに乗ることにした。私は旅の道連れとして部下の玉城政隆次長を頼んだ。自社は国営沖縄記念公園が保有する75,000株のラン管理業務を受注しており、彼はその管理部門の責任者である。ラン園の調査には申し分なく、唯一の上司である専務も了解してくれた。彼は私より一歳若いが、入社は3年程早い。カトレアの育種で有名な東京の青木蘭園で2年の研修をうけ、その後15年以上のラン管理の責任者を務めている。沖縄県におけるラン栽培の最高のエキスパートであると私は評価している。実際、彼は定年後に沖縄国際洋蘭博覧会において、最高賞の内閣総理大臣賞の受賞実績を残すことになる人物だ。私が入社して間もない頃、関東一円の蘭業者の調査と挨拶周りに同行してもらったこともある。無口で仕事に妥協しない性格は、私よりも社員から一目置かれた存在であっただろう。しかし私にとって心強いのは、彼が酒をほとんど口にしないことである。酒好きの私にとっての安全装置の役割を果たしてくれるに違いないのだ。マレーシアには何度か訪問していた。ジョホールバルの国際蘭展示会、クアラルンプルの国際蘭展示会、タイ・マレーシアのラン生産者訪問、ボルネオ島サバ州での国際蘭展示会などである。東洋一広大なクアラルンプル国際空港を利用するのは今度で4回目である。ゴールデンウイークが明けて、台湾・沖縄間の観光客による混雑が終わった頃に旅のスケジュールを設定した。私は出発の2日前に土曜日から次の週の金曜日まで出張でマレーシアに出かけると妻に伝えた。妻は特段の返事をしなかった。いつもの事である。

平成21年5月16日(土)
午後3時30分、那覇空港ビル内植物展示業務のスタッフの一人、玉城豊君が玉城次長を伴って自宅に私を迎えに来た。予定より30分ほど早いが準備は既に整っていたので車に乗り込んだ。近くの佐川急便名護営業所に立ち寄り、アマゾンで注文していた旅行記録のロディア革手帳と小型の予備のボールペンを受け取って空港に向った。玉城と申し合わせて荷物は機内持ち込みが可能なサイズのバッグにした。トランジットを伴う個人旅行では手荷物受取の手間が省けてスピーディーに行動できるからである。
国道58号許田インターより自動車道に入り、西原ジャンクションを抜ける時に500円の表示が出ていた。政府の景気対策処置で土・日・祝祭日はETC利用料金が半額設定になっているようだ。この時間は未だ夕方の交通混雑が始まっておらず、国際線ターミナルビルには午後4時50分に着いた。私は早速ビル内のレンタルショップで海外使用の携帯電話のレンタル手続きをした。私の携帯電話は台湾、タイ、シンガポールでは海外通話が出来るが、マレーシアは圏外であった。1日650円で通話料金は返却時に別途に請求するとの契約である。契約書にサインして電話と充電器の入ったケースを受け取って戻ってくると、植物展示班の親川君が待っていた。
「気をつけて行ってください。今日は豊君が泊まりです。私は常務の車レガシーで会社に引き上げます」と言って豊君と二人で去っていった。
僕らは直ぐにチケットカウンターに向った。荷物のX線検査のコンベアーに乗せようとすると、係員が手荷物は必要ないと言った。その検査機械の脇を通り抜けてチケットカウンターに向った。チケットは沖縄―台北、台北―クアラルンプルの二枚を渡してくれた。チェックインはまだ始まっておらず、空港内のレストランにて少し早めの夕食をとることにした。親川君が夕食を取るなら国内線1階にある「琉球村」が安くて美味いですよと紹介してくれた場所だ。私は注文カウンターのボードに手書きされた「本日のお薦めメニュー」を注文した。本日最後の一品であった。玉城はカツ丼である。「本日のお薦めメニュー」はどんぶり飯の上にキャベツと牛肉の炒め物を被せ、さらにその上に目玉焼きがのっていた。味噌汁にサラダ付きである。600円では安いセットメニューだろう。そしてこの食事がこれから1週間続く旅の最後の沖縄料理だと思った。
午後6時10分、X線による手荷物検査を受けるためにチェックインの列に並んだ。アメリカの航空機テロ事件の影響から機内持ち込みが厳しく制限されるようになった。100CC以上の液体は全て廃棄される。シャンプー、化粧水、幼児のミルクにいたる全てだ。X線検査も感度が高くなりパソコンや電子辞書に影響が出るようだ。この手の検査は日本が最も丁寧で、靴やズボンのベルトを脱がされることもあって全く不愉快千万である。特段のトラブルも無く通過して、出入国検査官が先月更新したばかりのパスポートに初めての出国スタンプを押した。3名の出入管理官に義兄の姿は無かった。この日は休みか或いは事務所内にて勤務しているのかも知れない。この先からは法律上の外国扱いである。もっとも免税店は日本人のスタッフであり外国の感覚は全くない。しばらくすると場内アナウンスが流れ、CI-122の到着が遅れており、我々の乗る予定の台湾・沖縄折り返し便CI-123が1時間ほど遅れることを伝えた。私は会社の事務所に出発前の連絡を取っていないことを思い出して電話をした。事務主任の上間さんが電話に出たので状況を話し、マレーシアで通信可能なレンタル携帯電話の電話番号を教えた。そして、旅のルーチンとして4名の娘に「5月22日までマレーシアへ行く」とメールを送った。「行ってらっしゃい、気を付けて」の返事を確認して旅の準備を完了した。
8時10分、機内への案内バス2台が到着した。身体的弱者、ビジネスクラスに続いてエコノミークラスの順に待合室を後にした。飛行機が待機する場所までは約150mであるが、バスに乗ってゆくのである。ボーディングデッキが無く、なんとも寂れた空港のイメージは拭えない。新ビルの建築計画はどこまで進んでいるのであろうかと思った。
8時20分、機内放送で携帯電話の電源オフにした。緊急時の説明等を終えるとCI-123は那覇空港を離陸した。機内では夜食のつもりであろうか、軽食が配られた。チーズとサラダを挟んだサンドイッチ、オレンジジュースのパック、チョコレートビスケット(キットカットと呼ばれる商品)、それに熱いウーロン茶又はホットコーヒーである。国際線にしては物足りない食事であるが、1時間半のフライトでディナーを期待するのは無理である。
8時40分(日本より1時間遅れの現地時間)、1時間20分のフライトで桃園国際空港に着陸した。いつもより速度を上げてフライトしたようだ。飛行機は第二ターミナルのボーディングブリッジに接続されて旅客を空港ビルへと誘導した。私は衣類の入ったカバンとお土産の入った小さめのショルダーバッグを、頭上の格納トランクから降ろしてボーディングデッキを渡った。周囲の雑音から日本語は全く聞こえない。完全な外国語圏内に移動したのである。
ボーディングデッキを出て人の流れは右折した。私はその交差点に立ってトランジット案内のプラカードを持った男子係員に
「Excuse me. Where is transfer counter」(すみません。乗り継ぎカウンタは何処ですか)と尋ねた。
「Go straight and left side」(真直ぐ行って左だ)と左手で指差してくれた。
「Thank you」と言って玉城と共にムービング・ウォークの上を少し早足で歩いた。
二つ目のムービング・ウォークを過ぎると左手にトランスファー・カウンターがあった。近くに休憩イスや軽食コーナーも備えていた。既に9時前のせいであろうか、カウンター内は二人の職員だけで対応をしていた。手続き中の旅客は大柄な欧米系の外国人が7名であった。私はこの日のトランジット用の宿を紹介してもらうため、オーストラリアのパスポートを持った金髪の女性の後ろに並んだ。一人の職員が12歳前後の女の子の3名組にてこずったおかげで随分と時間がかかった。その間に携帯電話の位置情報を台湾モードに切り替えた。私はエアー沖縄からの紹介状を渡してスタンプを押してもらい宿泊予定のホテルのバッジを胸に付けた。出迎えのロビー右端にホテル案内所があるのでそこを訪ねるように指示された。バッジは普通のステッカーと同じ裏糊で出来ており、アロハシャツの胸のポケットから落ちないよう念のためにボールペンのクリップで挟んでおいた。
広い入国検査用の広場に行くと入国審査待ちの旅客は少なくなっていた。それでも外人専用のボックスには2人の係員しかおらず、やはり時間がかかりそうであった。
審査官は私の胸ステッカーを見て、
「City suites hotel ?」(シティ・スィート・ホテルか?)
「Yes, beside the airport」(ハイ、空港の隣の)
「Very near」(とても近いよ)
そう言ってパスポートを返してくれた。
「Thank you」(ありがとう)
「Your welcome」(どういたしまして)
人の好さそうな入国検査官に出会ってホッとした。
玉城の入国審査が済むとバゲッジ・エリアに降りていった。那覇空港からの荷物受け取りのバゲッジレーンは既に停止しており、旅客の人影は無かった。このエリアから外に出るときに再び手荷物のX線の検査を受けた。既に出迎えの人々が少なくなったロビーの中を、トランスファー・カウンターの係員の説明したとおりに広いロビーの右側に向かって進んだ。しかし右の突き当りまで探したがそれらしき案内所を見つけることは出来なかった。再びロビーの中央部まで戻って両替所の女性係員にホテル案内所を尋ねた。すると今度は左方向の総合案内所に行くように言われた。到着ロビーの左端まで歩いていくとホテルの案内所があった。そこの係員に声を掛けるとすぐ隣を指差した。その隣のカウンターに顔を出すと男性の係員が出てきて私の胸のバッジを見て「Follow me」(ついて来て)と言って歩き出した。歩きながら携帯電話で何処かに連絡を取っていた。外のタクシー乗り場で車を待つ間、私はトランスファー・カウンターの係員の説明を思い出していた。彼の説明は彼の側からの右で私の側からは左の意味であったと理解した。
大きなベンツのリムジンが私たちの前に止まった。私は誰かVIPが来るのかと思い後ろを振り返ると、案内所の係員の男性がどうぞと手で誘導した。運転手が降りてきて私たちのカバンをリムジンの大きなトランクに運んだ。リムジンのトランクに収納するには余りに小さい手荷物である。運転手と案内所の係員が車の後部ドアを開けてくれたので、僕らはVIPになったような気分で革張りのシートに腰を沈めた。リムジンは空港の雑音を遮断してゆっくりとホテルに向った。
空港を出るとすぐに屋上に『CITY SUITES HOTEL』 という電飾あるホテルが見えた。英字の表示に続いて『城市商旅―航空館』の台湾名が表示されていた。リムジンの快適な移動は10分足らずで終了した。ホテルの入り口には空港往復のリムジンバスが2台止まっており、我々が他の旅行者より多少遅れたせいで、バスの代わりにリムジン乗用車をよこしたのであろうと推測した。どう考えても僕らが特別待遇を受ける訳は無いのだから。
ホテルのフロントでチェックインの手続きをした。係りの男性は「二人一部屋でよいか」といって一枚のチェックインシート差し出してサインを求めたが、私がエアー沖縄の宿泊クーポンを指差して「シングルルーム2部屋」言うと、しぶしぶさらに一枚のシート出してサインをそれぞれに求めた。部屋は私が8階で玉城が9階であった。男二人の数時間の乗り継ぎに2部屋はもったいないと考えたのかもしれない。
部屋の入り口に立ってドアノブ辺りにカードキーの差込穴を探すも見当たらない。どこにも穴が開いていないのだ。私は困ってしまった。エレベータの近くまで引き返して、その近くの電話からフロントを呼び出した。
「部屋の鍵穴を探せないのだが」と言うと、フロントの女性係員は笑いながら「カードをドアノブの上部にタッチしてください」と告げた。私も笑いながら「OK,試してみましょう」と受話器をおいた。少し恥ずかしくなって一人で赤面して顔が火照ってしまった。彼女の言うとおりカードをノブの上部のプラスチックの部分にタッチするとドアの鍵が外れる音がした。ノブを回すとドアが開いた。素直にホッとした。午後10時20分を過ぎていた。
私は見知らぬ部屋の中に入る時に常にある種の緊張感を伴う。長年、空手古武道の道場に通って身に着いた警戒心からだろう。それが国内のホテルであれ、公園の公衆トイレであれ同じである。シャワールームを覗き、カバンを荷物置き専用の台の上において部屋を観察するのが常である。この部屋は入り口の右側にシャワールーム兼洗面台、その次にWベッドの部屋、さらに左側の部屋に1対のソファーセットとテレビがある。二つ目の部屋の入り口に湯沸かしポットがあるのも面白い間取りである。8時間ほどのトランジットの部屋としては出来過ぎた部屋である。ベンツのリムジンに乗った旅客への特別待遇ではなく、単純にこの部屋しか空いていなかったのだろう。僕らをツインの部屋に泊めようとしたフロント係の思惑が理解できた気がした。私は湯沸しポットに備え付けのペットボトルから水を注いでスイッチを入れた。電圧が高いのか直ぐに沸騰した。備え付けのコーヒーを入れてお湯を注ぎ、普段は入れないステック砂糖を半袋加えてからシャワールームに入った。熱いコーヒーが苦手でシャワーが終わった頃に飲み頃となると思った。
シャワールームはバスタブが無くガラス張りのシャワー室と洗面台、洋式トイレのセッティングである。シャワー室のシャワーはビーチのシャワー仕様に似た大きなヒマワリ状のシャワー口からお湯が頭上に降ってくる。洗面台は私にとっては高すぎて西洋人のサイズである。身長172cmの私にとって洗顔は不都合であったが下着と靴下を洗うには好都合である。洋式トイレは私にとっても低い便器が取り付けられており、西洋人にとっては膝を抱えて座るほど低いだろう。全くチグハグな造りのシャワールームであった。
少しぬるくなったコーヒーを一口飲んで、この日の行動を今朝受け取ったばかりの新しいメモ帳に記した。洗い物はいつもの旅の心得で、よく絞って隣の部屋の行灯の傘に掛けて乾きを促す工夫をした。マレーシアで使うレンタル携帯電話の充電をした。持参の携帯電話のアラームを寝過ごしに備えて午前4時半と5時の2段階にセットしてベッドにもぐった。玉城とは5時50分にロビーで会う約束である。明日の行動をもう一度シュミレーションしているうちに眠りに落ちた。

5月17日(日)

午前5時、ホテルから見た桃園市の夜明け
午前4時30分、飛行機の爆音で目が覚める。このホテルは飛行場に極めて近い場所である。乗り継ぎの利便性の代わりに爆音が伴うことに気づいた。それでもしばらくベッドの中でまどろんでいたが携帯電話のアラームが5時を告げたのをきっかけにベッドから起きだしてアラームの2段回セットを解除した。湯沸しポットの電源を入れてから歯磨き始めた。歯ブラシを咥えたままで備え付けの2本目のネスカフェをコーヒーカップに入れて湯を注いだ。シャワールームには上等な髭剃りが備え付けてあった。髭を剃り、ヘアオイルで髪型を整えた。備え付けの歯ブラシ、髭剃り、櫛を洗面用の自分の袋に詰めて朝の一連の行動を完結した。この先のマレーシアのホテルに使い捨ての歯ブラシ、髭剃りがあるとは限らず、予備として確保したのだ。コーヒーは適度の温度に冷めていた。猫舌の私に十分な温度である。昨夜洗濯した下着と靴下は幾らか湿り気を含んでいたが、ビニール袋に入れてバックの2番目の仕切りに押し込み他の衣類に湿り気が移らぬようにした。窓の外は少しだけ明るくなり始めており、旅の慣わしに従ってこの部屋から見える屋外の風景を撮影した。そして部屋の中をゆっくりと点検した。忘れ物が無いことを確認してから部屋を出てエレベータに向った。
1階のロビーでは既に玉城君が待っていた。「おはようございます」言って私を迎えた。我々はチェックアウトのためにフロントのカウンターに向った。フロントではインド系と思われる中年男性が、フロント係りの男性に何やら甲高い声で怒鳴っていた。フロントの係りの男性は苦りきった顔をしていた。インド人は訛りの強い英語でまくし立てていたが、為替レートのことについて抗議しているようであった。インド訛りの英語は凄まじい発音であり、私の初級英語では全く理解出来なかった。少し長引きそうであったので、私はそばから割り込んでチェックアウトをしたいと告げた。係りの男性はインド人を無視して直ぐに私に対応してくれた。チェックアウトのペーパーにサインしながら「クアラルンプル行きのターミナル1まで送ってくれるね」と確認した。係員は運転手らしき男性に声を掛け「クアラルンプル、ターミナル1」と告げた。運転手は私のバッグを受け取って車へと案内した。今朝の車はベンツのリムジンではなく台湾のイエローキャブであった。私はシンデレラの銀馬車が夜明けと共に黄色いカボチャのタクシーに変わったことを理解して苦笑した。玉城に「今日はベンツではないね」と言うと「そうですね」と笑った。
6時10分にターミナル1の出発ロビーに着いた。私はチャイナエアラインのチェックインカウンターで搭乗券を見せて言った。「私は何かチェックすることがありますか。空港税を払う必要ありますか」質問した。係員はチケットのボーディングデッキ欄にD7と記入して、中央のエスカレータを登るようにと指差した。エスカレータを登るとガラスの仕切りがあり、その向うにイミグレーションがあった。数箇所の入り口があったがこの時間帯は左側の1箇所が開いていて係員にパスポートと搭乗チケットを見せてゲートをくぐってイミグレーションに向った。出国の手続きはいたって簡単であった。左側にD7の表示板を見つけてその方向に歩いていった。少し歩くと搭乗のためのX線チェックがあった。X線の精度を上げていないのかスムーズに通過できた。この検査所を過ぎて50mほどいくとT字路に出た。右方向にD5、D6、D7と表示が続いていた。D7の搭乗ロビー前の表示には、未だに香港行きの表示が示されており、クアラルンプル行きCI-721の表示に30分ほど早い午前6時30分であった。飛行場はかなり明るくなっており日の出が近くなっていた。
我々は引き返して朝食をとることにした。振り返るとちょうどT字路の近くにナイフとフォークの絵柄のレストランの看板が見えたので其処に向かった。その店は軽食専門の喫茶店風であった。通路とは腰の高さの壁で仕切られているだけである。私の旅行用財布には米ドル、台湾元はいつでも入っている。150元(435円)のサンドイッチと90元(261円)のホッとコーヒーを2人分注文した。サラダ、ハム、卵焼き、チーズが挟まれており悪くない味である。コーヒーもインスタントではない。
30分ほど時間を潰してレストランを後にした。T字路の正面付近のカウンターに15名ほどの人が列をなしている。それぞれペーパーを手にして並んでいるのだ。カウンターの上部の表示にDFS-SHOPとある。台北市内にDFSの店があり、空港のこの場所で商品を受け取っているのである。この手の商売は世界各国の国際空港にて行われているようである。ボーディングエリアに引き返す途中で免税店を覗いてみたが、あまり安いとも思えない価格のような気がした。もっとも、私は免税店で販売されているような高価なウイスキーを購入することはめったに無く、価格についての判断は出来ない。
午前七時、階段を降りて登機待合室のイスに腰掛けて搭乗時間を待った。トラブルが無ければ午前7時50分にCI-721に乗り込めるはずである。しばらくすると中華系の旅客がぞろぞろとやって来た。彼らは声が大きく誠に騒々しい。活発・陽気な国民性と言えるが私は好まない。私は耳障りな雑音から逃れるため最前列の席に移動したが、其処でも中華系の男性が欧米系の男性相手に休むことなしに英語で話し続けている。欧米人の男性は表情も変えずに時々うなずいているだけだ。話好きな人種であることは確かなようだ。何気なく左側の壁に目をやると赤色の警告表示が目に入った。中国語と英語で『警告:薬物を持ち運ぶものは死刑に処する』とある。日本と異なりダイレクトな表現である。欧米人の旅行客の一人がものめずらしいげにカメラに収めていた。私も気になる表現であったので一枚撮っておいた。CI-721は定刻どおりの搭乗案内があった。私は「これからマレーシアに発つ」妻に電話をして携帯電話の電源を切った。この電話は週末まで使うこともない。4時間半後のマレーシアではレンタルの携帯電話を使うことになる。既に完全に日本語圏外であり、唯一玉城のみが日本語と沖縄方言の話し相手である。私は外国において日本人と見られることに少しばかり抵抗感があり、お互いの会話は努めて沖縄方言を使うことにしている。8時20分、台湾の朝日を浴びながら桃園国際空港を離陸した。

桃園空港搭乗待合ロビーの警告表示
午前9時、朝食とも昼食とも言えぬ時間に機内食が出た。チキンと魚のいずれかの料理を選ぶことが出来た。私はチキンを選んだ。小さな弁当箱にカレー煮の鶏肉、ご飯、塩茹でのインゲンマメとニンジンが3等分で詰められていた。丸いパンが1個、バター、デザートにスイカ、パパイヤ、オレンジが一切れ、スポンジケーキ、プリンである。私は飲み物に白ワインを取った。二口で飲み干す程度の少量である。昨今の経費削減策によるものか国際線の食事も質の低下が年々進んでいる。旅の楽しみが少しづつ減っていくのは残念である。
食事の後に入国カードが配られた。個人旅行の場合は自分で記入する必要があるのだ。Embarkationという見慣れぬ単語が出てきた。バックから電子手帳を出して引いてみると搭乗という意味である。Where from と書かれている入国カードが一般的である。Taipeiと書く。以前の一人旅でexpiryの単語が分からずに悩んだことがあり、電子辞書は身近に置くことにしている。国によって入国カードの表示が少し異なることもあるのだ。マレーシアは空路だけでなく陸路でも外国と繋がっているのだ。スチュワーデスがウーロン茶お代わりを注いで回っているがとてもまずくて飲む気になれない。
機内には様々な人々が載り合わせている。私の右前でいびきを掻く男性は無呼吸症候群のように「ズズズー・・」と来てしばらく息を止めて「フッ・・ツ」と急に吸い込む。耳障りないびきだ。その横で何気なく雑誌をめくっているのが妻らしい。縮れ毛に大きな蝶の形の髪飾りをしている。彼女はその耳障りな音にも免疫力を得ているらしい。トイレの周りはいつも人だかりで、使用中ランプが点灯している。乱気流と着陸態勢に入ると使用禁止である。その着陸態勢に入ったときにトラブルが起きた。からだの大きい赤毛に西洋人の女性がトイレを利用しようとしたが、客室乗務員に止められすごすごと席についた。機長がランディングの説明を始めた。乗務員は客席を見渡してから彼女ら専用の席についてシートベルトを着用した。その隙に先ほどの女性がダッシュしてトイレに駆け込んでロックした。女性乗務員はトイレの外から何やらヒステリックに話しかけた。一人が電話で何かを話し始めた。男性のチーフパーサーがやってきて彼女らと話している。慌てた様子はない。男性はゆっくりとトイレをノックしてなりやら話しかけた。飛行機が車輪格納庫からタイヤを出す音がガクン、ガクン響いた。機首が次第に傾いて降下しているのが分かった。エンジン音が高くなった。私はトラブル発生かと少し緊張した。するとトイレから女性が何事もない様子で出てきた。前屈した通路を女性が足早にもとの席に向っていった。左腕に帯状の刺青が見えた。乗客には様々なタイプがいるようだがテロリストでなくて良かったと本気で安堵した。女性乗務員の苦笑の中には安堵感が漂っていた。既に窓からは油ヤシの広大な畑が見えた。
機体はがくんと大きく揺れてランディングした。エンジンが逆噴射で大きな音を立てた。そして次第に減速していった。英語とマレー語の機内アナウンスが始まると乗客がざわめき始めた。私の感性は台湾の記憶を払拭してマレーシア圏内に到着したことをはっきりと認識した。この先は蒸し暑いマレーシアである。友人のCheah War Sang (チャー・ワー・サン)が待っているはずだった。時計は午後1時を指していた。
飛行機を降りて乗客の流れに乗って歩いていくと無人電車のエアロトレインが待っていた。KL(クアラルンプル)国際空港は日本語による動線案内があり、日本人旅行者への配慮があって嬉しい。但し空港ビルの国際線だけの話である。2階の国内線でジョホールバルやコタキナバルに向かうには英語とマレー語だけだ。入国審査を受けて出迎えの広場に出る前に両替コーナーに立ち寄った。1万円を370MYR(リンギット)に替えるためにだ。両替は空港が最も適正レートである。パスポートと1万円札を差し出すとスカーフをしたイスラム衣装の女がクスっと笑って「No need PASSPORT」言った。両替所の中で腰に銃をぶら下げた警備員に女は何かを話して再び小さく笑って作業を続けた。警備員はこちらを見たが無表情であった。私はその田舎娘の妙な優越的な態度に少しだけムカついた。玉城も同じく1万円を両替した。出迎えの広場は柵が張り巡らされており旅客との直接の接触が出来ないようになっている。客引きやスリ対策であろうか。出迎えの人々が旅客の名前を書いたプラカードを手にして旅客の品定めをしている。私はチャーワンの姿を見つけることが出来なかったので自動ドアから外に出た。タクシーが待機する通路と旅客がプライベートで乗り降りできる通路が2列並行に走っている。那覇空港の到着通路に似ている構造である。ただ異なるのは猛烈な暑さである。

KL空港の到着出口で迎えを待つ人々
クーラーの効いた建物から出た私は目眩がするほどの暑さを感じた。素早くチャーワンを探すもどこにも見当たらない。カバンからレンタルの携帯電話を取り出して連絡を取ることにした。しかし、今日が日曜日であることに一抹の不安を感じつつ農場の電話番号を押した。《英語表記を中止》
「ハロー、仲村です。ミスター・チャーワンをお願いします」
「オー、ハロー、ミスター仲村、ハワユー」
「今着いた。ナンバー5のゲートの外に待っている」
「OK、すぐ来る、とても近いから」
チャーワンは15分ほどでやってきた。
「ハワユー、ナイスミーツユー」
互いに挨拶を交わした。
「玉城を知っているだろ。うちのスタッフだ。沖縄オーキッドショーで会っているだろ」
「オー、イエス、ハワユー、ミスター玉城」
「こんにちは、チャーワンさん」
チャーワンは素早く車を出した。この場所は車の往来が多く空港ポリスから注意されるようである。
「昼飯はどうだ」
「機内食を食べたが、少し腹が減っているな」
「それでは、其処のドライブインでマレー料理でも少し食べるか」
屋台風のレストランが並んだ一角に車を停めた。
セルフサービスのレストランである。チャーワンが食べ物を取ってきた。
①イカのぶつ切りカレー煮2皿、
②魚のぶつ切りフライ1皿、
③インド風ナン1皿(甘みをつけていた)、
④大きなポテトチップス1皿:カレールーにつけて食べた。
⑤飲み物はアイスコーヒーである。

CIMG4046コチョウランの栽培ベンチ

CIMG4047空調温室内の開花コチョウラン

CIMG4063広大な栽培ベンチ

シリンジによる気温調整機能

食事が済むと空港に近い彼の農場に向った。彼の自宅はクアラルンプルの郊外で農場から75kmほど離れているという。「毎日75kmの通勤だぜ」と笑った。農場は原野と湿地の入り混じった場所で周辺に人家のない場所だた。農場は100m四方の広さで高さ2m余りのフェンスで囲っていた。マレーシアやタイ国のラン園の特徴は、支柱を立ててワイヤーを引っ張り、ネットをフラットに張った構造である。コチョウランのベンチの上だけは屋根に雨よけのビニールが張られていた。さらに冷房設備を供えた50坪の温室が3棟あった。バンダ、カトレア、デンファレ、オンシジュウムなどはネットのみのベンチである。コチョウランのベンチには扇風機、その他のベンチはシリンジで温度を下げる工夫がなされていた。農場は周辺に遮蔽物が無いので風通しがとても良かった。飛行場に近いので人工の遮蔽物が建築出来ないのであろう。その為に自宅から75kmも離れたこの場所に農場を構えているのだろう。我々は暑い盛りの2時半ごろ農場を巡回した。彼がシリンジの効果を見せてくれた。数分の散布で気温の低下を肌で感じることが出来た。昼下がりにシリンジを10分間作動させて湿度の保持と気温を低下させていると説明した。コチョウランはベンチの上で葉の向きが整然と並んでおり、とても良い生育状況であった。気温が幾分高目であるが扇風機で空気を攪拌していた。冷房温室は彼独自の工夫が施されていた。ハウスは6m×25m、高さ3mのかまぼこ型である。厚手のビニールが二重に張られていて断熱効果を図っていた。高さ2mの位置に備え付けられた送風機からの風は25m先の壁に当たってハウスの側面を送風機のところに戻って室内を循環するシステムである。チャーワンの意見では送風機の風の届く距離がハウス構造を決定するという。
冷房システムも特徴がある。我社の空調設備はダイキン工業社製で、日本で一般的な空冷システムであるあるが、彼の場合は水冷システムである。はじめに水を冷やしてタンクに溜め、それを送風機の後ろのラジエターに巡回させるのである。ラジエターから戻った水は再び冷やしてからタンクに戻すのである。彼は「水を暖めると暖房としても利用できるはずだから沖縄でも試してみろ」と言った。「こんなラジエター空調設備を作る会社があるのかい」と問うと
「ラジエターは大型車の部品の改造だ。タイの自動車修理業者から取り寄せたのだ。その他は自分で改造して作ったのさ。グッドアイデアだろ」と自慢げに笑ってこめかみを指差した。開花株をクアラルンプルの市場に出荷しているらしい。コチョウランの苗や水苔は台湾からの輸入品である。玉城は農場で働く作業員を指差して言った。
「マスクもせずにタオルで口元を覆って農薬を散布していますと」
「以前に渡辺の農場にいた作業員はスリランカ人と言っていた。彼らも同じだろう」と返事した。
チャーワンに作業員のことを問うと、「マレー人は農作業に従事しないので海外のスリランカ人を雇っている」と言って、農場内の宿舎を指差した。農場の警備を兼ねているので助かるそうだ。只、2年後の沖縄国際洋蘭博覧会にチャーワンが来沖しないことがあった。その年に特別講演で参加したマレーシアのプラト大学の植物学助教授のルイスさんによると、就労ビザでやって来たスリランカ人が都会に逃げ出してしまい、チャーワンは苦労していると話した。日本国内でも同様な現象が起きているのは確かだ。最近のチャーワンの農場は点滴灌水システムに切り換えて労力の省力化を図っているようだ。

1時間ほどチャーワンのラン園を見学した後、クアラルプル郊外のセレンバン・オーキッドに出かけた。オーナーのリチャードはランの原種の収集家で、痩身で色白の中華系の男だ。彼とは対照的にチャーワンは浅黒い肌をしたマレーと中華の混血タイプで腹が十分に出た愛嬌のある男だ。リチャードの50坪ほどの空調温室はパットエンドファン方式である。台湾に多く見られる冷房方式だ。コチョウランの原種の収集が多い。マレーシアの野生種の収集家である。空調以外の施設の屋根は平張りのビニールで5mピッチの階段状になっている。階段状の隙間から熱気を外に流すような構造である40分ほど見学して引き上げた。チャーワンはリチャードから原種をいくらか買って車に積み込んだ。
近くの食堂で休憩しているとリチャードがやってきて名刺を交換した。コーヒーを飲みながら雑談した。店の前ではトラックから小玉のパインを降ろしていた。ポリスが退屈そうにそれを眺めていた。駐車禁止地区かもしれなかった。町の景観はタイの田舎と似ていたが、生活の為の活動がタイ程活発でなく、極めて穏やかである。タイより南に位置しており、南方系特有の穏やかさが濃くなっているのだろう。
時計を見ると午後5時を過ぎていた。
チャーワンは立ち上がって言った。
「ホテルに送ろう。私の自宅の近くだ」
「7時にロビーに迎えに来る。夕食をSimonの家族と共にしよう」
「オーケー」
我々はリチャードと分かれてクワラルンプルの郊外の新興住宅街にあるホテルに向った。ゴルフ場を備えたリゾートホテルのHOLIDAY INN KUALA LUMPURである。
「明日はキャメロン・ハイランド、その次はイポーに泊まり、そしてクアラルンプルのこのホテルに戻ってくる。OK」と説明した。
私が「オーケー」というとフロントの女性に18日、19日の予約を取り消して20日は再び戻って宿泊するとマレー語で話した。
私は412号室のカードキーを貰ってチャーワンと分かれた。今度の部屋は差し込み式カードキーであった。カードを差し込むと難なくドアが開いた。私は一人で苦笑した。部屋はワンルームでダブルベッド、広いベランダを備えていた。ベランダの向こう側にゴルフ場が広がっていた。
私はシャワーを浴び、下着と靴下と今日着けていた化繊のかアロハシャツ洗った。予備のバスタオルに包んで絞った。こうすると洗濯物の水分を随分と吸い取ることが出来て朝までに乾き易いのである。上着はロッカーに、下着と靴下は行灯の傘に掛けた。そしてクーラーは最大の吐き出しにして洗濯物の乾きを促すのである。財布とパスポートをポケットに入れて花柄のアロハシャツに着替えてロビーに降りた。玉城君がお土産の袋を持って待っていた。チャーワンが長男を伴って7時丁度にやって来た。「ハワユー」と長男に声を掛けると、同じく挨拶を返してきた。彼とは2月の沖縄国際洋蘭博覧会で会っている。陽は既に落ちているが未だ明るい市街地を走った。
15分ほど走ると海鮮レストランに着いた。辺りは既に薄暗くなっていた。サイモンが待っていた。私は「ハロー、ナイスミーツユー、アゲイン」といって握手した。そして玉城君を紹介してお土産を渡した。沖縄の伝統菓子だと言うと喜んだ。店は混んでいてチャーワンは車を片付けに去っていった。私はサイモンに案内されて彼の家族の待つテーブルに向った。彼の自慢の色白の奥さんが笑顔で私を迎えた。サイモンと彼女には2月のラン展示会で会っているのだ。サイモンはチャーワンと似た体格で同じタイプの臭いがする人物である。あごの痣から白い毛が5cmほど生えている。中華系の人々に見られる縁起物であろうか。サイモンの子供は長女が高校を卒業して社会人として働いている、その下の長男がメガネの高校2年生、高校1年生の次女、やんちゃなメガネの小学生の三女である。一方、チャーワンの子供は長男、次男、次女がいた。長女と妻は参加していなかった。理由は知らない。赤ワインの乾杯、さらにウイスキーを別のグラスに注いで宴が始まった。サイモンは私のために特別な海産物の食材を準備していた。彼は海産物の輸出業者である。マレーシアの漁民から買い取った鮮魚を、冷凍コンテナ車でタイ、シンガポールにむけて国際道路を利用した陸上輸送を生業としているのだ。国営沖縄記念公園の水族館を案内した時のことを思い出した。大型水槽の中を泳ぐ大型魚のマグロ、ハタ、タイ、そしてナポレオンフィッシュを見た時である。僕らはいつもの様にあの魚は美味いとか、あれは食えない等と話していた。突然、サイモンがナポレオンフィッシュを指差して言った。
「あれは美味いぞ。今度クアラルンプに来たらご馳走するぜ」
「ほんとかい、滅多に手に入らんぞ。俺は未だ食ったことは無い」
「サイモンは魚の輸出業者だ。彼が手に入らない魚は無いぜ」とチャーワンが言った。
「そうかい。今度クアラルンプル行った時には頼むよ」と笑って応えた。それ以来の再会である。
料理が運ばれてきた。
① 魚のスープ:大きな優勝カップに似た鍋で作られた魚のスープはショウガと椎茸が入っており、体に良い味と香りがした。
② シダの新芽の御浸し:シダの新芽を茹で上げ、ピーナツのあら挽きを振りかけてレモン汁と醤油で味付けした山菜料理だ。
③ マレー風ラフテー:豚肉を醤油と香辛料でたっぷり煮込んだ沖縄のラフテー風味、
④ 川エビのトマトソース煮:(ブラックタイガーサイズ)
⑤ ナポレオンフィシュの皮と胃袋の煮込み:サイモンが持ち込んだ食材でめったに入手できない素材だ。沖縄の水族館で話題にした魚料理だ。
⑥ 細い麺の中華炒め
⑦ キュウリと魚の煮込み:小さなカボチャをくりぬいて魚のすり身ときゅうりを煮込んである、
⑧ デザート:スイカ
我々は何度も「チェース」と言ってグラスを上げた。末娘は私が料理のメモを取るボールペンが珍しいのであろうか、しきりと私の席に回ってきた。私は自分の末娘の幼かった頃を思い出し、昨日入手したばかりの金色の特殊ボールペンをサイモンの末娘にプレゼントした。ペンを手にして皆に見せびらかして得意顔で席に着いた。サイモンがニコニコして私を見て「サンキュー」と言ってグラスを掲げた。私も応えてグラスを掲げた。店の客がまばらになったころオーナーシェフが我々のテーブルにやって来た。サイモンが中国語で私を紹介した。私はこの店の料理は沖縄料理に似たところがあるが、料理の質はより繊細で奥が深くグレードが高いと褒めた。シェフは納得して私と握手をくり返した。事実、この店のシェフは料理のコンテストで州知事から表彰されていて、その表彰式の写真が壁に貼られていた。私も久しぶりに良い気分で少し酔ってしまった。玉城は酒を口にしないのでいたって冷静である。私にとって酒を口にしない同僚との旅は、ある種の安全保障を手にしている気がして心強かった。
再会のディナーが終了してホテルに戻ったのが午後10時半であった。チャーワンは「明朝午前9時30分に迎えに来る」と言ってホテルの玄関で僕らを降ろした。私は「オーケー、サンキュウー、グッドナイト」と言って別れた。ホテルのロビーの一角にあるバーでは女性がピアノを演奏していた。夫婦と思しき欧米人の数組のカップルがそれぞれにグラスを傾けて南国の夜を楽しんでいた。私の感覚は既にマレーシアモード切り替わっており、日本と台湾の記憶が完全に消し飛んでいた。チャーワンは体に似合わず心優しき男である。私の長旅の疲れを癒すため、明朝9時30分という少し遅めの出発時間を設定していた。久しぶりに心地よい疲れの中で眠りに落ちた。いつの間にかマレーシア表示となった私の体内時計が時を刻んでいた。

5月18日(月)
午前5時に目覚めた。しばらくベッドの中でまどろんでいたが次第に意識がはっきりとしてきた。五時半にベッドを出て髭剃りとシャワーで意識を鮮明にした。コーヒーを入れて旅行メモを整理している間に外から芝刈り機の音が聞こえてきた。広いベランダに出て外の様子を眺めると、ゴルフ場のスタッフが朝の管理作業をしていた。私が会員登録している沖縄県本部町のベルビーチゴルフクラブの管理作業と変わらぬ朝の風景である。乗用式芝刈り機の芝刈り跡をこげ茶色の小鳥が何やらついばみながら追いかけている。羽を広げて飛び立つときひし形の白い斑点が際立った。沖縄のヒヨドリに似た甲高い鳴き声で芝刈り機の周りを飛び交った。私は朝の目覚めにはもう少し穏やかな鳥のさえずりが欲しいと思った。

CIMG4106ホテルのゴルフ場。各ホールに向かう競技者
ベランダの木製の丸テーブルでメモを取っていると次第にプレーヤーらしき人々が集まってきた。相当の人数である。どうやらコンペがあるらしい。二人一組のカートでコースに散っていった。各ホール同時にプレーを始めるショットガン方式の競技であろう。このカートは二人乗りで後部のキャディバッグ置き場とステップがあり、キャディはそのステップに立ち、プレーヤーがカートを運転して移動するのだ。ベランダから見えるコースのレイアウトは、高低差の少ないなだらかな丘陵地にマニラヤシが立ち木のブラインドを作り、細長い池のウォーターハザードが続いていた。フェアウエイは余り波打っておらず比較的にやさしいコースに思えた。リゾート地特有のトーナメントを意識しない楽しいコース設計である。遠く500mほど先のマニラヤシの並木の隙間から車が通過するのが見えた。人々の朝の活動が始まっているようである。午前8時15分サイレンが鳴った。スタートホールで写真撮影やらをしていたプレーヤーがティショットを打ち始めた。早朝のゴルフコースは刈り取ったばかりのフェアウエーの芝目がくっきり目立っており特別美しいものである。私は10年前にグリーンテック・トウキョウの渡辺さんに誘われて、KL空港の近くのゴルフコースでプレーしたことを思い出した。早朝の快適なスタートであったがホールアウトする頃の昼前には暑さでバテそうになった。私は心底ゴルフがしたくなり、ゴルフコースでスタート前にするようなストレッチで体をほぐした。
8時30分、玉城君のドアをノックする音を合図に一階のレストランに向った。
ホリデー・イン・ホテルは世界中にチェーンホテルをもっている。朝食は西洋人好みのオーソドックスなバイキングスタイルである。
① オムレツ、
② マメのトマト煮、
③ ハム1枚、
④ クロワッサンと小さな丸いパン、
⑤ 自ら取り分けたチーズ、
⑥ 味噌汁、
⑦ オレンジジュース、
⑧ デザートにパパイヤ、スイカ、パイン
果物容器の前には小さな地元産のレモンの一片があり、指で挟んで絞り汁をパパイヤかけるのである。レモンの香りと酸味はパパイヤの特有の臭いを消して風味を引き立てる。
コーヒーは給仕係が小振りの水筒のようなポットで注いでくれた。ポットをそのまま置いていったので客専用のお代わり用ポットの意味らしい。朝食をとる客の前には同じようにポットがある。コーヒーはやや濃い目だ。私はブラックのアメリカンコーヒーが好きだが、旅行中はミルクと砂糖を常用している。糖分を補給することで疲れが取れる感じがするのだ。

CIMG4110ロビーで休む相棒の玉城次長

CIMG4112ホテル入り口修景、旅人木とガジュマル傘仕立て

9時15分にチェックアウトのためにロビーに降りた。チェックインの時にチャーワンの会社での予約と彼のクレジットで保障を取っていた。フロント係りの女性が少しいぶかしげに質問したが、私個人のクレジットカードでの支払いで問題ないと告げてチェックアウトを済ませた。ルームチャージ255RM、その他のサービスチャージが38.25RM、合計293.25RM(7,950円)[1MR=¥27.11]だ。円高のせいで2千円ほど安くなっている。
しばらくするとチャーワンがやって来た。助手席にいる男をリーだといって紹介した。
「よく眠れたかい」
「ああ、良いホテルだ。暇があればゴルフがしたいくらいだ」
「今日はKL空港トレーディング・グループのゴルフコンペティションが開催されているね」
車はホテルの構内を出て表通りを進んだ。この辺りはクアラルンプルのベッドタウンで美しい建物が並んでいる。2階建ての建物を指差して100万RM(2,900万円)だという。チャーワンの自宅もこの近くにあるという。トヨタの自動車工場が近くにあり、日系企業の職員や公務員も多く住んでいるらしい。この辺りの一般的な住宅価格は50万RMらしい。ショッピングモール等も増えて住宅都市として拡大しているようである。
車は高速道路へ入った。この高速道路はインターナショナル・ハイウェイである。シンガポールからタイ、カンボジア、ベトナム、中国までと続いている。人や物の輸送が盛んである。昨日、ある乗用車を指差して中国からだと言ったのを思い出した。車は北へ向かって走っている。スピードメーターを覗くと時速120kmを指している。チャーワンの車は、トヨタの最高級ワゴン車アルファードの旧型3ℓ:250PSエンジン搭載車である。どのような経緯かは知らぬが日本仕様車である。いわゆる逆輸入車だ。当然だが標準装備のカーナビが日本使用であり当地では使えない。もちろんモニター表示も日本語である。専らカーステレオ専用となっている。最新の3.5ℓ:280PSには及ばぬが心地よい走りである。この国の長距離ドライブに適している。日本での価格は380万円程度であろう。この国では逆輸入車は外国車扱いでとても高価だという。トヨタ、日産、三菱系列の現地生産車が国産車として売られている。エンジン等の主要な部分は日本で製造されており、装備は日本車レベルのグレードを省いて廉価に仕上げているようだ。
さて、チャーワンが伴ってきたリーさんは彼と同期ぐらいの男で、職業人としての感触が無くいわゆる遊び人風の匂いがした。左目が潰れかけている。先天的か事故によるものかは定かでない。よく喋り乾いた笑いをする人好きのする男である。時々チャーワンが小遣い銭を渡して食べ物の支払いを促していた。台湾の秦にもダンという兵隊崩れで、大酒飲みで気の荒い友人がいたのを思い出した。その男と2日ほど旅をしたが、飲むたびに地元衆に睨みを利かすのには閉口した。沖縄でも二日ほど飲み歩いたがそのときはおとなしくしていた。それに較べればリーはすごく気楽な好人物に見えた。

CIMG4116途中の田舎町の一角

CIMG4123店頭の豊富な果物

40分ほど走ってから高速を降りて何処やらの田舎町で軽食をとった。「朝食は十分だったか」と聞くも、私が答える間もなく何やら注文した。
① シュウマイ入り野菜スープ2杯、
② コーヒー各自に、
③ 5個入りの小さな饅頭1袋、
④特性スープ1杯:ステンレスカップに入った特性スープは、屋外の蒸し器の中から取り出してきた1品である。
野菜スープはあっさりした味だったが、特性スープはアヒルの腿肉を多くの香辛料や薬草と共に煮込んであり、とても滋養がつくような味であった。4名で取り分けて飲んだ。
チャーワンは先ほど食した饅頭はこの地域の特産だといって追加で買ってきて、4袋を土産にしろと渡した。街角の果物屋を覗いて回った。数種類のマンゴー、マンゴスチン、バナナ、種無しグァバ、レンブ、ザボン、パンノキの実、ビルマネムノキの実などである。若い娘がネムノキの実の品定めをしていた。チャーワンに訪ねると、その実を炒めて食べると腰痛に良いがとても臭いという。うらぶれた老人がしきりにその剥き身を売りに来たが、チャーワンは取り合わなかった。よほど不味いのであろう。チャーワンはマンゴーやらマンゴスチンを買い込んで車に積んだ。この町にもカメラショップがあり、玉城君のデジタルカメラのメモリーチップを買った。街はイポーに続く旧道沿いにあり、日本の宿場町に似た生活臭のする佇まいであった。道路標識にイポーと矢印がついていた。
車は高速に戻って北へ向った。油椰子のプランテーションが続いた。この農場は外国資本とマレーシア政府のジョイントで構成されているらしい。プランテーションが途切れると高速道路は原生林に似た山林を登り始めた。チャーワンは高い山を指差して3,000m級の山だ。この辺りの標高は1,500mだろう。国内で一番高い山はボルネオのキナバル山で4,000mを越えているといった。沖縄の最高峰は400mだと私が言うと大笑いになった。

CIMG4131補修中の崖の脇を平気で走る

午前11時45分、高速道路を降りて狭い幅員の道路に入った。やがて山の斜面に沿って曲がりくねった山道を登っていった。40分ほど上ると耳鳴りがした。気圧の変化を自覚できるほどの高度である。チャーワンはほんの少しでも見通しがあると前の車を追い抜いた。山の右斜面を登っているので追い越す場合は右側に断崖を見下ろすことになるので危険この上ないドライブである。野生のドリアンが握りこぶし大でぶら下がっていた。30mもある高木である。道端脇の小屋でトーチジンジャヤーの株、野生ラン、取れたてのトウモロコシ等が売られていた。2,000mを登りきったところで小さな平地に民家がポツポツと現れた。二つ目の集落で車を停めた。高速道路を出てから1時間20分、キャメロン・ハイランドの街角に降り立った。

CIMG4137キャメロンの街角
少し遅い昼食をとるためにレストランに入った。昼時を過ぎているので客はまばらであった。ミスター・ローが待っていた。菊の大規模生産者だと紹介された。「野菜料理でよいか、肉料理も欲しいか」と聞かれたが、「ベジタブルでオーケーだ」と答えた。この辺りは野菜の産地という。日本の長野県の夏場の高原野菜の産地の類である。只、長野県と異なるのは、一年中安定した気候の高原野菜の産地であることだ。
① 煮込みうどん:もち米で作られた長さ7cmに太さ5mm程の麺である。両端がぶつ切りでなく細く絞られている。細切り野菜、茸と炒められており、ぬるぬるとした中華風うどんを噛むとそのモチモチ食感がたまらない。
② 極細麺の焼きそば:白菜の細切りを加えてさらっと炒めてある。
③ 太め目の新鮮アスパラガス、小型の玉ねぎ、にんじん、刻みネギのピリ辛炒め、
④ クレソンとカマボコ風のスープ、
⑤ キャベツのピリ辛炒め
体に良い新鮮食材の昼食である。この席から英語塾のカーステンに電話をして明日の英語塾を休む旨を伝えた。彼女は「インターナショナルテレホンね」と言った。一瞬だけ沖縄の時間帯に戻った。なんだか知らぬがホッとした。

CIMG4159谷間に建つハウス群

CIMG4240園芸店

CIMG4249園芸店の吊鉢、ネペンテス

CIMG4288100m先まで続く菊畑、ビニール張り施設

2時10分、ランチタイムを終えてローの農場を訪ねた。15エーカー(18,400坪)の菊畑を管理しており70名の労働者を抱えている。彼の邸宅の前に車を停め4輪駆動車に乗り込んで農場見学に出かけた。彼の豪邸の庭には斑入りのコバノコバテイシが3本植えられていた。この樹木はマダガスカル原産である。2001年のマダガスカル探索で開花株を見たことがあるも他の国では開花しない。コバテイシの実生苗に接ぎ木で繁殖しているのだ。沖縄県の都市モノレールの空港駅付近で見ることが出来る。但し斑入り種ではない。チャーワンはとても高価であると感心していた。いわゆる菊成金の類かと思った。ガレージにはヨーロッパの外車が2台停められていた。先ほどのレストランで挨拶を交わした老人の息子が栽培するラン生産農場に向った。この辺りは斜面地に多種類の野菜類、菊、ラン類、観葉植物が栽培されている。雨よけのための屋根だけのビニールハウスが続いている。強風が無いので細身の骨材で作られている。沖縄ではとても考えられない簡易な構造である。栽培されている作物はいずれも一級品である。花崗岩が風化した排水良好な土壌、2,000mの高地の冷涼で安定した気候、ダムから供給される十分な水資源、作物にとって最高の適地であろうと推察された。そして山を下ってインターナショナル・ハイウェイを利用すれば、クアラルンプル、シンガポール、バンコックの大量消費地まで陸上輸送で商品を供給できるのだ。平坦で利便性のある広大な農地は確保できないが、技術と資本を投下したことで一大産地が形成されたのである。特にシンガポールという高級市場に商品を供給することで技術力の向上に拍車がかかったのであろう。ローの農場で働く労働者の表情を見ると英語や中国語に反応しない。おそらくスリランカからの出稼ぎ労働者であろう。ローの話では日本のJAからの視察グループもあるらしい。私たちはさらに2か所の観葉植物出荷場とラン園を廻ってローと別れた。
午後5時、小雨のなかを次の集落に向った。峠の頂上付近から左手に山一面の広大な茶畑が見えた。これが有名なキャメロン・ハイランドの茶畑である。尾根の頂上に旅行ガイドブックの写真でよく見る峠の茶屋があった。チャーワンの車は停めてくれと声を掛ける間もなく一気に通過した。山頂近くの雨霧に煙る茶畑の尾根を越えるて10分程下ると道路に面した8階建てのホテルがあった。2週間前にオープンした新築のホテルである。1泊200US$のところをオープンセールの半額であった。部屋の中は未だ新品の家具の匂いがした。最初の部屋がツインのベッド、その裏側がダブルベッドの部屋、そして比較的に広いバスルームという間取りだ。私と玉城、チャーワンとリーで泊まった。私は玉城君がシャワーを浴びる間にチャーワンの部屋でしばらく雑談して備え付けの緑茶を飲んでいた。キャメロン・ハイランドの香りの強い緑茶である。
午後7時にホテル前の坂を車で10分ほど下って街のレストランに向った。太めの女将が親しそうにチャーワンを迎えた。よく利用しているのだろうと思った。そういえば、彼は毎週のように誰かを案内してこの町に来ていると言っていた。話半分でも頻繁に通っているのは間違いないだろう。トヨタの高級ワゴン車を持っている理由のひとつだろう。店は奥に縦長の特別大きい店ではない。10人掛けの丸テーブル4台がカウンターと並行して置かれ、その奥に2台の丸テーブルがある。その2台は少し小さい。カウンターの奥の小さめのテーブルを使った。4台の大きなテーブルには食材が準備されており、30分ほどすると中国系の旅行客らしき一団が食事会を始めた。繁盛した店のようである。客足の多い店ほど美味いのは万国共通の事実だ。
レストランには既にローがいて、その隣のメガネを掛けた色白で背の高い男性を紹介した。ポーという男でケミカルの商売をしているらしい。私は化学工場にでも勤めているのかと思ったが詳しくは尋ねなかった。しばらくして洋酒のヘネシーを抱えた老人が加わった。77歳のリューさんだ。元気な方でトマトの生産者らしい。がっちりした体格の色白で血色の良い顔つきである。カールした髪を後ろに撫で上げたいわゆるオールバックスタイルの髪型だ。農家の親父というより不動産業か社交業界のドンといった感じだ。私がチャーワンに言った。
「grand father look like so young」(親父さんは、随分と若く見えるね)
すると、リーが傍から笑いながら
「no! no! he is young young men. Not young men」といった。
そのときから彼のことを「ヤング・ヤング・メン」と呼ぶことになった。私が帰国するときまで彼の話題が出るとヤング・ヤング・メンと呼んだ。我々は7名でテーブルを囲んだ。酒はヘネシーの他にチャーワンが持参した金粉入りの高粱酒である。この日のディナーパーティは高粱酒のチェース(乾杯)で始まった。食材としてサイモンがプレゼントした食材の冷凍魚、イカ、エビを発泡スチロールの箱に入れてこのレストランに持ち込んであった。ローの農場を去るときにチャーワンが彼に渡してあり、今日のパーティに使うといっていた食材である。この店で既に調理されているのだろう。
①土鍋に入った魚のスープ:昨夜のスープより少し魚くさい。同じく香草が入っていた。リーが取り分けて皆に配った。一人当たり2~3杯の量である。
ハンディ・ガスコンロが持ち込まれた。その上に直径40cmほどの金属製の鍋が載せられており、だし汁が入っていた。だし汁は定期的に女将が継ぎ足してくれた。鍋は真ん中で二つに仕切られており、左右で別々の食材を調理することが出来た。
②魚の切り身:サイモンが渡したものでかなりぬめりがあった。肉質によるものか、コックの下ごしらえに拠るものかは分からなかった。シャブシャブや海鮮鍋と同じ要領で軽く煮立てて食べるのである。小皿にチリソース、醤油、青唐辛子の酢漬けのスライスがあり、それを薬味として使うと味が引き立った。
③エビ:ブラックタイガーと同じだが川エビである。臭みが無くて美味い。チリソースの酸味とピリ辛がマッチする。
④イカ:半透明の薄茶色で3角形に切ってある。イカの触感ではなくコリコリとした歯ごたえがある。味はイカに違いなかったが少し淡白である。
エビとイカを鍋から全てすくい取ってから次の食材を入れた。異なる食材が影響しあって食材本来の味が変化しない工夫である。
⑤油でカリカリに揚げた魚の胃袋:3角形で湯にほぐれると変わった食感となった。
⑥小さな袋上の揚げ物:日本の鍋物に入ってくる高野豆腐の揚げ物とも異なる。中にはシュウマイのような具が入っている。
鍋の中身を取り出してだし汁を追加した。
⑥ 豆腐:三角形の絹ごし豆腐で3cm幅、15mmの厚みだ。
⑦シイタケ:マッシュルームサイズであるが、小さい丸い傘のシイタケだと思った。
⑨平茸:一口大にきってある。
⑨ エノキダケ:鍋物によく使われているものである。
キノコ類は大皿にそれぞれ盛られている。
⑪丸いカマボコ:親指大のこんにゃく風カマボコである。少しだけ弱った臭いがした。こんにゃく特有の臭いであったかもしれない。
⑫春菊:軽く湯を潜らしただけであるが、エグミの無い新鮮で柔らかい新芽の部分である。
⑬クレソン:軽く煮てから食べる。
⑭マメの新芽:大根のモヤシに似て少し辛味がある。だし汁にさっと潜らせてから食べる。さっぱりとした食感だ。
⑮大根:ポーが外に停めた自分の車から大根を持ってきて女将に渡して短冊に切ってもらった。緻密な大根で甘味と歯ごたえがある。
⑯ゆで卵:殻ごとだし汁の中で茹でる。しかし誰もが満腹となっており、ポーが持ち帰った。魚やその他の料理もビニール袋に入れて持ち帰った。汁も加えていた。ローがあれこれと袋に詰めるのをリーが手伝った。
リューさんは余り食事を取らずしきりに酒を勧めた。チェース、チェースの連続である。結局のところヘネシーを全て空にして満足な表情をしていた。笑うと穏やかな好々爺という感じである。食卓のメンバーが一目を置いているのをはっきりと読み取れる程のステイタスを感じた。チャーワンは25年来の友人であると真面目な顔で言った。老人には裏の顔があるのかもしれない。旅行客は既に引き上げて、店のスタッフが奥のテーブルで夜食の鍋を囲んでいた。午後10時になっていた。リーは3分の1ほどになったコーリャン酒を持ち帰った。今日のディナーはポーの支払いであった。それ故、彼が残り物を持ち帰ったのであろう。私はポーに今日の夕食は最高に美味しかったと礼を言って握手した。
外に出ると雨は上がっていた。雨上がりとはいえ高地の夜は沖縄の冬並みの肌寒さを覚えた。ホテルにもどったのは10時20分であった。私はわずかに疲れを覚えており、衣類を脱ぎ捨てるとベッドに入った。シャワーは明日だと思いながら眠りに落ちていった。

5月19日(火)
2時間ごとに目が覚める。昨年秋の人間ドックで指摘された前立腺が旅先で少し悪化しているのかもしれない。午前4時45分ベッドから這い出して外を眺める。5階からの視界に幾つものホテルの明かりが見えるが未だ夜明けに間がある。先ほど電源を切った携帯電話のアラームが鳴った。5時である。携帯のアラームは電源を切っても鳴るものであろうか。それとも眠気眼のせいで電源を上手く切らなかったせいであろうか。シャワーを浴びて荷造りをすませ、昨日の出来事を記録するためにメモを取った。何処からかコーランの音が聞こえた。このような山中の避暑地でもイスラムの信者は存在するのだと少しばかり違和感を覚えて寒気がした。午前七時、玉城は未だ寝ている。彼は言葉の通じない世界に多少のストレスを感じてはいないかと気になった。私はつたない英語であるがコミュニケイション上のストレスは全く無い。カーステン英語塾の効果があるのか、それとも単なる楽天家気質の旅人気質によるものかもしれない。昨日の夕方、妻に電話するも連絡が取れなかったことが少しばかり気になった。名古屋で暮らす長女とは連絡が取れたのでいくらか安心している。旅先で自宅のことを心配すのがナンセンスであることを私は十分に知っているつもりであったのだが。老いが始まりつつあるのかもしれない。

CIMG4297朝霧の立ち込めたキャメロンのアパート群
山の端が少し明るくなってきたので写真を撮るためにベランダのガラス戸を開けた。足元のジュウタンが結露で濡れていた。夜間の気温はかなり下がるのであろう。確かにクアラルンプルのホテルのように25度に自動温度調節したエアコンの送風音が聞こえない。
7時25分、ベランダの左方向の山から朝日が射してきた。谷合の集落は白いアパートが林立している。アパートか賃貸別荘であるかはわからない。昨日下山の途中でゴルフ場を見かけた。日本人らしきグループがプレーしている姿があった。右側の道路では車の往来が激しくなった。タイヤが水を含んだ路面をジャキ、ジャキと噛む特有の湿った音を響かせて行き交っている。山中のホテルらしく小鳥の声が活発になった。ホリデー・イン・ホテルで見た羽に菱形の白い斑の鳥である。私はこの景色にはウグイスに似た鳴き声がふさわしいと思うのであるが、この国の華僑のように騒々しい鳥が繁盛しているようだ。自然生態も国民性に付随するのであろうかと思った。
玉城が起きだした。
「おはようございます」
「8時に食事に行こう。8時30分の出発だ」伝えた。
しばらくしてチャーワンがドアをノックしたので1階のレストランに向った。
バイキング用の鍋が並んだこじんまりしたレストランである。ルームナンバーを告げて鍋の蓋を開けると空である。給仕がテーブルに案内して、チャーワンに広東語で何やら話していた。チャーワンは「朝食のメニューは、焼きそばかマレーフードだ」と言った。
「ここはマレーだ。マレーフードをくれ」と答えた。
リーは相変わらず焼きそばを注文した。
ぎこちなくコーヒーを注ぐ給仕の仕草に新品ホテルだということを改めて感じた。マレー風ランチが出てきた。
皿の中央に丸く盛ったタイ米があり、左に普通のカレールー、右に辛口のカレールー、右上にキビナゴの甘佃煮、ご飯の向こう側に1枚のサラダ菜と薄切りトマト。オレンジジュースが付いている。極めてシンプルである。リーの食事は変哲も無い醤油色した焼きそばである。朝から焼きそばもありかと思った。
8時30分、チェックアウトしてホテルを出た。10分程下ると昨夜の町に着いて給油をした。35ℓの給油で63RMである。日本円の1リットル60円で日本の半額である。車を出してすぐ近くの農業資材店の前に車を停めた。中からポーが出てきた。ケミカルの仕事とは農薬、肥料、その他潅水設備にいたる全ての農業資材を扱う商売のことであった。彼の店から昨夜のレストランは50mの距離である。農業に必要な全ての資材がポーの店で手に入った。大規模生産者はポーの名前でジョイントを組んでオランダ等の海外の園芸先進地からコンテナ単位で農業資材を輸入しているという。ローの栽培する菊の品種はもとより肥料、灌水装置の部品の殆どがオランダからの輸入品である。単なる自然環境の良さと低コストの労働者ではこれだけの高品質の園芸産品は生産できない。オランダから世界最先端の技術が導入されているのだ。店にはマレー人らしい気の利かない店員が商品を並べていた。雇用主と従業員が同じ営業感覚を養う日本の経営スタイルに至っていないのも現実であった。

CIMG4305ポーの園芸資材店

CIMG4312キャメロンの中心市街地の朝
10分ほど雑談して彼と別れた。車はゆっくりとキャメロン街道を下っていく。通り沿いにやたらとイチゴの看板が目立つ、イチゴ狩り、イチゴの鉢物、イチゴの苗販売などの看板がある大小のガーデンセンター、果てはイチゴの形をした枕やマグカップ等のイチゴグッズを売るお土産品店まである。

YKガーデンセンター

YGガーデンセンターに着いた。キャメロンで最も大きな園芸植物の生産販売業者である。ビニールハウス関連の資材も製作販売している。ここで生産する鉢物は高速道路を通してクアラルンプル、シンガポール、バンコックまで出荷するという。オーナーは50代の中華系である。英語を話せないので直接のコミュニケイションは図れなかったが、代わりに八重歯の可愛い小柄なお嬢さんが英語で丁寧に説明してくれた。この企業の園芸商品の品質は、日本の愛知県知多半島の園芸産地にも劣らないものばかりであった。30分ほど説明を受けてこの店舗を後にした。キャメロンでナンバーワンの生産者を訪ねたことでこの地の調査を終了した。そして、午後の予定であるペナンのラン生産者に会うためにキャメロンを後にした。

国立自然保護林、手前は野生のナリアラン
10時20分、再び峠を登った。今度はワインディングロードではなく比較的に新しい道路である。昨日からの行程は高速道路を右折し、キャメロンハイランドを横断して、さらに高速道路の北側に抜けるルートを走っているようだ。眼下にキャメロンのハウス群が朝日を浴びて光っていた。30分ほど走るとキャメロン特有の園芸団地の光景は姿を消した。道路は切り立った岩盤の斜面を削り取って作られていた。道路わきにナリヤランが群生して花を付けていた。ボルネオのナリヤランより草丈が低い。気温が低いのであろう。壁面にはデンドロビューム、グラマトフィルム等の原種が無造作に着生していた。野生ランの宝庫である。道路が下りにさしかかると右手の遠くに国立公園に指定された原生林が広がっていた。チャーワンはあの地区は全く人手の入らない自然であると説明した。交通量の少ない道路を軽快に下っていった。

マーブルの採石場
下り坂が緩やかになった頃、前方にがけ崩れに似た岩肌が見えた。さらに近づくと採石場であることが分った。マーブル(大理石)の採石場である。石の節理は立ての目をしており奇妙な景観であった。チャーワンの兄弟がその中の採石場のひとつを経営していると話した。必要ならコンテナひと箱分送っても良いと冗談めかして言った。私の庭の園路は沖縄産の大理石を敷いてあるから要らないと断った。実際は大理石では無く、安価なビーチコーラルの石灰岩を門の壁面と園路に張り詰めてあるのだ。ここの大理石はイタリア産と材質が異なるとのことであった。イポーの街に入って右折した。そして高速道路に乗ってさらに北上した。セメント工場が2箇所にあった。大理石はセメントの原料にもなるようだ。

マーブルを原料にしたセメント工場
11時40分、ペラ川を横切った。この川では美味い魚が捕れるとチャーワンが言った。確かに川の水は養分の多い半透明の土色をしており、開口健の旅行記『オーパ!』の写真で見アマゾンの川に似て魚が豊富かもしれないと思った。車は120kmスピードで油椰子のプランテーションの間を走り続けた。チャーワンの長男が今年2月の洋蘭博覧会に訪れた際に買ったというCDを掛けた。車内に沖縄の島唄で喜納昌吉の歌う『花』のメロディーが流れた。ヤシ林の続く異国で聞く沖縄のメロディーに不思議な思いがした。しばらくして日本のポップスにかわった。ヤシ畑が途切れると集落が現れて、再びヤシ畑に変わるという景色の繰り返しである。

油ヤシのプランテーション
高速道路の料金所支払いシステムは、右端の黄色い看板のゲートがETCシステムの[smart TGA]、青い看板のゲートが専用クレジットカードをボックスの読み取り機にタッチする[touch and go]、その左は一般的な現金の直接払い料金所だ。チャーワンは肘掛のコンソールボックスからETC機器を取り出し、ゲートセンサー向かってスイッチを入れてゲートバー上げた。日本では車載であるが、此処でたちまち盗難に遭うそうだ。
12時30分、高速道路を左に折れて古い町並みのタイピンの市街地に入った。旧街道はアンサーナの並木が続く穏やかな町でマングローブの湿地帯が続いていた。昼食のために目的の海鮮レストランの前に車を停めるも閉店であった。別のレストランを求めて古い市街地を走る。高速道路と平行して走る道路は混雑していており、先ほどまでのスピード走行との落差がある。道路わきにマレーの墓が続く道をゆっくりと進む。墓の形状は沖縄の亀甲墓に似た小型タイプが多い。リーがあの店はどうだと指差すがチャーワンはうんと言わない。大型のコンテナトレーラーが行き交い、貿易港が近いことを示している。

マレーシア墓地の亀甲墓

マレー墓の倍以上もある沖縄の亀甲墓
再び高速道路に乗って走り出し、午後1時30分に商業ビルの多い街に降りた。本格的な中華レストランの前に車を停めた。タイピンの街角でレストランを探し始めて1時間が経過していた。
赤塗りの玄関の中華レストランは冷房が効いて気持ちが良かった。ランチタイムの終わった店内は客の入りはまばらであった。丸テーブルに着くと品の良い黒いパンタロンスーツの女性が注文を取りにきた。本格的な中華レストランである。飲茶で始まった。
①海老入りのシュウマイ:海老のぷりぷり感が絶品
②潰しポテトの揚げ物
④ 緑色の袋のシュウマイ
⑤ カリカリ焼きそば:中央にパクチョイ風の野菜炒めがのっている。野菜とその汁と焼きそばとを混ぜて椀に取り分ける。麺は直ぐに汁が浸みて麺全体に旨味が絡みつく。
⑥ 細いインゲンマメの炒め物:マメ臭さが全く無くて美味である。
⑦ アジに似た魚の餡かけ:白身の淡白な味
⑧ 茹でた海老:川エビではない。
⑨ ココナッツの果肉のようで餅に似た炒め物:餅とも異なるねちねちとした食感だ。
⑨海老のカレー煮:スパイスが効いて美味い
⑩アヒルのロースト:中華の定番料理。
⑪ご飯:タイ米を必要なだけ皿に取り分ける。
⑫ウーロン茶は随時注いでくれた。久々に飲む美味い本物のウーロン茶である。
⑬ぜんざい:ぜんざい風味で小豆、ココナッツミルク、グリーンのメロンの細切りが入っていて消化を促すらしい。さっぱりとしている。人気メニューらしく我々以外にも食べている人がいる。
チャーワンにしては珍しい本格的な中華料理であった。

広大なマングローブ
2時20分、レストランの外に出ると乾いた熱気に包まれた。再び高速道路で北に向った。海が近いのであろう川べりにニッパヤシが群生している。水田と所々にマングローブが広がる湿原地帯である。20分ほど走って高速道路降りた。チャーワンがトイレに行ってしばらく待つと友人がやって来た。昨日のセレンバン・オーキッドのリチャードともう一人は見覚えのある男である。「コンニチワ、ヒサシブリデス」日本語で話しかけてきた。少しだけ日本語を話す台湾のJIA-HO ORCHIDウオン(黄)である。3年ほど前に夫婦で沖縄国際洋蘭博覧会に参加したので多くのゲスト共に夕食会に誘ったことがある。彼の農場は台南にあり、コチョウランを始め自作の交配品種を幾つも発表している。とりわけTolmuniaはらん展示会で入賞する人気の品種である。
目的地が同じらしく、2台の車が連なって走った。支線に入ってマングローブの広がる湿地帯の中を走った。片田舎の道路でもアスファルト舗装で快適なドライブである。この国の道路事情は中々優れたものである。やがてマングローブの脇の小さな水路に3m程の幅の私設のコンクリート製の橋を掛けた農場に着いた。前を走るリチャードの車が橋を渡り、その次にチャーワンの車が渡ろうとすると対向車が近づいて来た。チャーワンは急いで左にハンドルを切った。車がガクンと揺れた。30cmの高さしかなく、車の死角となった欄干の角が車の左サイドに接触したようだ。農場の倉庫の前に車を停めて調べてみると、ステップの下のバンパーがずれて落ちかけている。チャーワンとリーはバンパーを剝ぎ取ってトランクに収めた。チャーワンは拳で自分の頭をコツンと叩いて笑いながら言った。「OK!セーフティドライブ」リーがむき出しのシャーシを指差してケラケラと乾いた声で笑った。

チャーワンの傷ついたアルファード
その汽水域の一角の農場がNT オーキッド・ナーセリーである。オーナーは陳さん、(ローレンス・タン)若い男である。原種の収集と販売を手がけている。主な出荷先はヨーロッパだと言った。マレーシアは低地の湿原から2,000mの高地まで様々な野生ランが生育している。NTオーキッドでもデンドロビュームからファレノまで多種類が収集されていた。ファレノの原種は暑さに弱いので扇風機を3台稼動させていた。黄がリチャードと二人で陳と交渉して買い付けている。交渉が終わると陳ははペットボトルの水を僕らに配った。午後3時半の太陽は未だ衰えることを知らず灼熱の日差しを送ってくる。農場の一角にコパラミツの大木があり、果実を椰子の葉で編んだ籠で包んでいる。鳥除けらしかった。コパラミツは根元近くに集中して実っており、熟しても直径15cm長さ30cm程度であるが、パラミツの中では甘くて果汁が多く高値で売られている。ボルネオで食べたことがあるが確かに美味い。包丁を使わずに指で簡単に果肉を掘り出した食べることが出来る。パラミツは沖縄の私の実家にも3本が生えており、毎年5kg程の果実が実る。しかしコパラミツは高温多湿でなければ育たない。タイの市場でも見かけない果物だ。果実は一果ごとに鳥除けを施すだけの価値があるのだろう。それに籠は巧くできている。野鳥が食べる前の小さな幼果に細長い大き目の籠を取り付けておき、果実が成長するにつれて籠の網が伸びて果実にフィットしていくのである。それ故、可変性のヤシの葉で編まれた籠は誠に合理的である。地元住民の優れた知恵だ。

山採りの野生ラン

山採りのコチョウラン

コチョウランの原種。貴重な色彩だ
ナーセリーを後にしてペナンに向った。ペナンにもランの収集家がいるらしい。タイピンから再び高速道路に乗ってパタワースで降りた。大きな貿易港で栄えている町である。高速道路を150kmも北上すれば隣国のタイである。4kmのペナンブ・リッジを渡ってペナン島へ入った。

周囲15kmの島である。ローカルの飛行場が島の中央にあり、クワラルンプル国際空港の2階からローカル線でアクセスで来るのだ。マレーシアの独立前は大英帝国がリゾートとして開発した島であり、多くの外国人観光客の姿を目にする。人種も多様でイスラム、インド、中国、キリストの礼拝所を目にすることが出来る。島の中腹にあるラン収集家ワン・キン・ホーの自宅を訪ねるも不在である。タイから未だ帰ってきていないようだ。来月の第1週に国際ラン展があり、その調整に出かけていると対応した息子が話していた。引き返す途中で小腹が空いたのでチャーワンは車をとめて、露天商の店先にぶら下がった沢山のバナナの中からを1房選んで持って来た。小振りなマレー産のモンキーバナナである。皮が薄く果肉がフィリピン産よりも黄色で、ねっとりとしていた。いつの間にか空いてきた腹に美味いと思った。しかし残りを翌朝食べてみるとそうでもなかった。日本人の味覚と多少のずれがあるようだ。マンゴスチンやドリアンも売られていたがチャーワンはドリアンを食べると車の中に臭いが残ると言って手を出さなかった。チャーワンにとってこのワゴン車は来賓専用の営業車両である。この周辺ではランブータンは未だ流通が少ないようだ。時折、民家の庭先に緑色で未熟のままでぶら下がっているのを見かけた。
この街は古くから開発されおり、道路わきのインドシタン、ビルマネム、マホガニーの巨木が緑のトンネルを作った場所が多く、オリエンタルの風情のある町だ。未だ日没までの時間があるのでペナン植物園に立ち寄った。1884年に造られた30haの敷地である。仕事を終えたビジネスマンや初老の夫婦が暑さを避け、夕方のウオーキングやジョギングを楽しむ姿が目立った。ホウガンボクの巨木に果実がたくさん実っており歴史を感じる植物園だ。島の雑踏から隔離された素敵な空間である。20分ほど園内を散策してホテルに向った。午後6時であった。

植物園を探索する相棒

ペナンの植物園とカジュアルな服装のチャーワン。夕方の散歩楽しむ地元の人々

砲丸木の蕾と実、花は夜咲き
「Many hotels. You can choice. OK」(ホテルがたくさんあるぜ。選び放題だ)
「NO need booking this area」(この辺りのホテルは予約の必要がない)
チャーワンはそう言って海岸線に車を走らせた。海はマングローブの発達した河川が近いのであろうか汽水域特有の濁った色をしていた。沖縄のエメラルドグリーンの浜辺とは較べようもない。海を右に見ながら随分と走ってからUターンした。自身なさそうに「ゴールデン・チャイナ」にしようと言った構内に車を停めた。ホテルの表示には「ゴールデン・コースト」と書かれていた。チャーワンは英語を話すも読み書きは得意ではない。私へのメールは大学卒の息子が対応しているのだ。中級ホテルである。しばらくすると宿泊費が高すぎて話にならないと言って出てきた。リーに何やらこぼしている。リーも仕方が無いという顔をして相槌を打って聞いている。本当に高いのか、ホテルの格式に合わぬ客と敬遠されたのか分からない。Tシャツの上にボタンも掛けずに上品とは言えない柄物のシャツをはおり、半ズボンとゴム草履の風体ではフロントが宿泊を敬遠してもおかしくないだろう。いずれにせよ、マレー語で話す二人の会話は私にとって未知の言語である。しばらく走って「ホリディ・イン・リゾート・ペナン」の構内に車を停めた。クアラルンプル郊外の初日のホテルと同系列だ。今度は交渉成立である。荷物を降ろそうとすると向かいのホテルだと言う。道向かいの別館である。道路を挟んで陸橋で繋がっている。ホテルの部屋は2034号室、20階のツインルームである。7時50分に夕食に出ようといって分かれた。部屋に帰って手足を洗う間もなく呼び出しの電話が鳴った。夕食の誘いである。
表通りは既に街灯が燈り始め、人の往来が多くなっていた。ホテルの右方向に歩いていくと、屋台のお土産品店、レストランが並んでいる。小奇麗なレストランを幾つか通り過ぎた。帆船のマストを屋根に掲げたステーキハウスがあった。「キャプテン・・・」と店の名がネオンに輝いている。沖縄にもキャプテンズ・インという店名のステーキハウスがあったのを思い出した。どこの国の船長もステーキが好きなのであろうかと思って苦笑した。レストランはどこも客の姿が無くウエイターが気のない声で「ハロー」声をかけてきた。チャーワンはそれを無視して歩き続けた。200mほど歩くと人のざわめきが聞こえた。其処は道路に面した屋台村である。一方が海岸に面しているようで潮騒に似た音が風上からわずかに聞こえた。テント張りの広場の両サイドに4mピッチで異なる料理店が並んでいる。魚介類、インドカレー、肉類、汁物、様々なタイプの店がひしめき合っている。ローマ字で鉄板焼きと書かれた店もある。確かに鉄板の上で肉を焼いている。店の前で食材を注文してテーブル番号を言うとその屋台村共通のシャツを着たウエイトレスが調理した料理を持ってくる。テーブルで料理を受け取ってから金を払うシステムだ。ウエイトレスに「ハロー」と呼びかけてビールを注文する。マレーシアのタイガービールだ。あまり美味いビールではないが、ビール無しではこの手の食事は美味くない。玉城君はサイダーやココナッツの生ジュースを注文した。小玉のタイ産ココナッツの青果である。二人の男が柱を押している。よく見ると柱に連結した天井が開いて夜空が現れた。手動の開閉式天井である。空気が通り抜けて涼しくなった。マレーシアはタイと異なり、夜にスコールがやって来ることが珍しくないのだ。夜店のテントは必需品である。食い物店以外の夜店の土産品店でもテントは常備されている。
① 串焼き:牛肉10本、鳥肉10本
②イカの輪切りピリ辛炒め:イカげそは使わないのか見かけない。
③大根の千切り入り春巻き2皿:径4cmで3cmにカットしてある5個だ。美味いので1皿を追加した。
④ホッケ風の魚の炭焼き1皿:開いた魚を炭火で焼いてある。淡白な白身魚だ。醤油ダレで食べる。チリソースを加えると風味が出る。
⑤海老のピリ辛炒め1皿:ハーブと共に炒めてある。ブラックタイガーサイズだ。
⑥マングローブガサミのカレー煮1皿:この料理はどこも同じだ。カレーにはマングローブガサミの泥臭さを取り除く効果あるようだ。
⑦チャーワンが肉団子入りスープ1杯:とるも不味いといって私に回さなかった。
⑦ ビール5本
屋台村は盛況である。欧米人、チャイナ、インド系と多彩だ。日本語は聞こえない。一般的なレストランに客がいないのは、旅人の嗜好が変わったのか不況のせいであるのかは不明だが、この形式のレストランがこの街の風物として似合っているのは確かである。あまり高級ともいえない海浜リゾートに白いテーブルのレストランは似合わないだろう。もっともガラス越しに中が見えた1箇所だけは高級感のするバー風レストランに数組の西洋人がそれらしく談笑していた。午後9時に食事を終えて其処を立った。チャーワンはホテルの本館のビーチサイドにバーがあるので、ルームナンバーを言えば飲めるからと言って互いの部屋に分かれた。彼らは21階である。
部屋に帰って用を足して玉城と再び通りに出た。酒を飲まぬ玉城をホテルのバーに誘うことはできないし、通りの夜店を覗くほうが楽しいと思った。ホテルの前の通りを左に向って歩いた。通りの出店は日本の夏祭りの夜店に似ている。マレーシアの民芸品、偽ブランドのロレックスの時計やモンブランの万年筆、イブサンローランの財布、有名ブランドのポロシャツ等である。玉城がポロシャツを品定めした。中華系の太目の女主人が28RMという。
私は「NO! Expensive」(高い)
「OK,40RM two」と2枚を見せた。
「no need, only one 20RM ,OK」(ひとつでよい、20RMでよいか)
「OK」と言って一枚を袋に入れた。
玉城君20RMを払ってそこを離れた。
水彩画を売る老人がいた。私は妻が水彩画を習っていると彼に話しかけた。彼は日本人かと問い直してきた。中華系の細身の老人である。売れない絵描きのフィーリングがぴったりの初老の人だ。まことに夜店にぴったりの風景である。画用紙は日本製だと表紙を見せてくれた。確かにMARUMANと書かれていた。シンガポールの紀伊国屋で買ったらしい。絵の具は英国製だ。油絵は画かないのかいと聞くと、油絵は重ね塗りが出来るが水彩画はそれが出来ない。水彩画が難しいと屁理屈を言った。私は貴方の推薦する1枚を買おうと言った。6枚ほどだして見せた。3枚の画風が異なるので「少しフィーリングが変わっているね、貴方のか」と聞くと息子のだといった。明るい感じでグリーンをバックに黒い水牛が映えていた。これが良いと勧めたが、私は彼の描いた『ペナンの街角の食堂』を買った。58RMである。50RMでよいかと訊ねると53RMと言った。未だに芸術家の末席にいるのか安売りはしなかった。私も執拗に交渉することも無く53RMを支払った。ただ簡易額縁を施したこの絵のサイズがバックに収まるかが不安であった。もし大きすぎるなら額縁を取り除くつもりで買ったがその必要はなかった。しかしこの絵には新たな顛末が待っていた。帰宅後にDIYセンターで安物の額を買って取り付ける際、少し気になって唾を着けて擦るとコピーであることが解った。老人の勧めた水牛の絵が本物であったようだ。コピーではあるがペナンの特徴が現れた秀作である。
私たちは引き返して反対方向に少し歩くと「スリランカ」という看板の店が目に付いた。夜店ではなく通り3軒ほど入ったところである。革製品を扱っていた。小柄な男性店員はマレー系で、奥のレジの前に座っているのは大柄な欧米人の女性であった。けだるそうな顔をしてこちらをチラッと見た。客に興味がなさそうな気配である。皮製の肩掛けカバンが上等であったが、280RMも出して買う代物ではなかった。
「日本人か?観光か?」
「いや、仕事だ。ランの買い付けだ」
「日本の何処だ?」
「南の方だ。ペナンに似て暑いところだ」
ひとしきり世間話をして店を出た。
インド人の洋裁店があった。8時間仕立て、スーツ100RM、ズボン50RM、ドレス150RMとの立て看板があった。店に人影は無かった。少し前を歩く初老の夫婦が日本語を話していた。日本人も確かにいるのである。セブンイレブンのコンビニでドイツ製のハイネケン・ビールとサイダーを買ってホテルに戻った。チャーワンの車が無かった。二人は繁華街にでも行ったのであろう。
部屋に戻って旅や仕事の話等をしながらビールを飲んだ。タイガービールよりもかなり美味いと思った。私はチャーワンが近くにいるときには、日本語による玉城と二人だけの共通の込み入った会話を全くしない。日本語も英語もチャーワンと共通の話題を話した。3本目の缶ビールを飲み干して午後11時に床についた。わずかではあるが疲れを覚えた。しかし沖縄での生活を思い出すこともなく眠りに落ちていった。何十回も過ごしてきた旅先では当たり前の習慣になっていた。

5月20日(水)
午前6時30分、ホテルのベランダのガラス窓を開けるといつもの騒々しい鳥の声がする。20階まで届く鳴き声である。マレーシアの早起き鳥は威勢が好い。外は凪である。トタン屋根の続く民家の一角から煙が漂っている。朝の食事の準備をしているのであろうか。ゆっくりと広がって朝もやの中に溶けてゆく。少し離れた山すそに新興住宅地の赤瓦屋根の集団が見える。山腹から頂にかけては構築物が無く緑が豊かであり、開発が規制されているのであろうか。
このホテルはガウンと髭剃りがあった。マレーシアでは珍しいことである。7時50分、電話が鳴りチャーワンから朝食の誘いがあった。本館の海岸に面したレストランである。陸橋を渡ってレストランに着いた。彼らは未だ来ていなかった。

ペナンリゾートの朝の家並み

陸橋から見た街路

僕らは2人掛けのテーブルに席を取った。クアラルンプルのホリディ・イン・ホテルと同じバイキングスタイルである。しばらくして二人がやって来て隣のテーブルに着いた。
① クロワッサン、干しぶどう入りパンを自らトーストで焼く。
②スクランブルエッグ
③マメのトマト煮
④ハム2枚
⑤チーズ1切れ(自ら取分け)、ジャム(パック)
⑥レッド・グレープジュース
⑧ パパイヤ(レモン汁をかける)、パイン、メロン
⑨ カレー風味の肉入りポテトのパイ包み揚げ。チャーワンが試してみろと取り分けた一品だ。
チャーワンはマレー粥でリーは飽きもせず今日も焼きそばだ。
少し離れたテーブルにイスラムのアベックが朝食を取っている。細身の男性は半そで半ズボン。女性は黒ずくめのロングドレスにのど元まで垂れ下がるニカーブと呼ばれるベールを着用しており目だけが見える。色白の女性だ。ちらりと見るとパンをマスクの下に持って言って食べていた。あの格好ではスプーンを使うのは困難であろうと思った。食事を終えて引き上げるときに別の席ではおしゃれなヒジャブを着用しただけのイスラム女性がいて、フォークとナイフを使って食事をしていた。イスラム女性の慣習は私には分からない。
9時5分にチェックアウト。ガソリンを補給してから海岸通りを走る。東海岸のショッピングエリアとホテル街が続いた。モクマオのトンネルが続き、その下に屋外レストランが並んでいた。食事中の場所もあったがやはり賑わうのは夜であろう。フェリーポートの横を走った。10人乗り程度の小型ボートで近くの島にレジャー客を運ぶらしい。この辺りの海は透明度が悪く海洋レジャーにはふさわしくないので近隣の小さな島に出かけるようである。港の近くにはフェリー・パーキングという駐車場が多く見られた。

朝の街角の屋台で朝食を取る人々
ホテル街から庶民の街に入った。古い建物が続く街である。街角では朝食を賄う屋台が出ていて、焼きそばやら、雑炊やらをせっせと作っている。地元の住人が朝食を取っていた。街が活動を再開している。アンサーナの大木の下には、にわかレストランが100mほども続いていて、その中の朝食専門の屋台レストランが湯気を立てて何やら調理している。昼、夜の専門店に分かれているのか、人影のないテーブルがほとんどである。車はやがてペナン・ブリッジの上を大陸に向って進んだ。この時間帯はペナン島に向う車が多い。橋を降りて細いモクマオの並木を進んだ。モクマオは3mの高さで3本に分枝しており、ふっくらとしかも細長い樹冠をした糸杉のような樹形に仕立ててあった。
我々は高速道路を昨日の逆コースで南下した。10時45分、途中のインターチェンジで小用を片付けたついでに、収穫が始まったばかりンランブータンの果実、マンゴーのピクルス、蒸したハスの実を買った。マンゴーのピクルスの酸味が蓮の実ととても合う。ランブータンは種の周りの薄皮が果肉についてくるので、口の中で触感が損なわれてしまいレイシほどは美味くない。昨日のバナナも未だ残っていたが食べる気がせず紙袋に入ったままだ。車は120kmのスピードでひたすらイポーの町に向っていた。日本の運送会社のロゴマークを付けたクロネコヤマト、日本通運のトラックを次々と追越していった。やがて小さな峠を下るとイポーの特徴であるマーブルカラーの大理石の岩山が見えてきた。高速道路を下りてキンタ川を渡りイポーの町に入った。この街は4年ほど前にグリーンテック・トウキョウの渡辺に案内されて1泊した町だ。アランダ、モカラの生産者を訪ねたのである。夜のバーで渡辺が地元の生産者に少し絡まれて早々に引き上げた記憶が蘇った。

イポーの園芸資材店

様々な陶器

鉢植えの植木
この街の道路沿いでバンダ類と陶器を専門に扱っているAH CHAT オーキッド・ナーセリー園芸店を覗いた。店主に暑いマレーシアで上手にバンダを育てているねと褒めると、タイからの輸入品だと答えた。夜温の下がらないマレーシアではバンダの栽培は難しいようだ。只、近縁種のアスコセンダは良く育っているのを見かけた。イポーは花鉢をはじめとする陶器類の生産地でもある。磁器の生産は無いようだ。町を離れてイポーの平地を進んだ。いたるところに大小の湿地帯が広がっていた。その中の水草に混じってシンガポールで有名なバンダ・ミス・ジョアキムの交配親であるVanda hookerianaの野生種が咲いていた。スコールの多いシンガポールで交配種のミス・ジョアキムが良く育つ理由が分かった。

Vannda hookerianaの生える湿地
12時40分、小さな町に車を停めて魚市場を覗いた。セリ市は既に終わっていて広い市場の建物の中の洗い場で初老の女性が魚を捌いていた。鯉に似た川魚である。直径3cmで体長が25cmもある淡水産の手長エビがザルの中に横たわっていた。腕の長さは40cm以上もある。ナマズに似た魚が生簀で泳いでいた。セリにはどんな魚が売られているのか見たいものである。

競り市の魚介類

手長エビの一種

市場の向かいのレストランに向った。店に備え付けの水槽には川エビと2種類の魚が飼われていた。チャーワンはエビ6匹とコチに似た顎のせり出した魚、髭の長いナマズの1種を注文した。オーナーは網ですくって調理場に持って行った。
① コチ似た魚の餡かけ風煮付け:白身の魚である。チャーワンは頬骨の周りが美味いと言って私に取り分けてくれた。確かに川魚特有の泥臭さが無くて美味い。
② エビの酒蒸し:皮を剥くと身がプリプリとしてなんともいえない食感である。チリソース入りの醤油だれにつけて頬張るのであるが3口で食べるのがやっとである。未だかってこれだけの味のエビを食べたことが無い。さらに残った汁を中華さじですくって口にすると素晴しい香りと味である。チャーワンは私のびっくりした顔をニヤニヤして見ている。私の喜ぶ姿に満足しているようだ。どうやら私は彼のプライドを満足させたようである。
③野菜炒め:エンサイに似ていて、粗ら引きピーナッツが振りかけてある。生だとエグイが熱を加えると旨みが増す野菜らしい。
④平麺のヌードルスープ:幅1cmに長さ15cmのもち米で出来たヌードルだ。カマボコに似た切り身が入っていた。汁が少なくぬるぬるした淡白な味である。
⑤ナマズの煮付け:チリトマトソースの煮込みである。辛味は少なくトマト風味である。
全部で230RM(6,200円)の食事代だ。海老は70RM/Kg(調理して1,890円/kg)である。このサイズの川海老はここでしか育たないという。養分がたっぷりのこの自然の恵みで育つようである。満足な昼食であった。午後2時にイポーの田舎町を発って高速道路をひたすら南下した。クアラルンプルまで200kmの距離である。

ファンの農場、通路は砂利

点滴灌水装置、後年スリランカ人労働者に逃げられたチャーワンも後導入した
午後3時30分、ファンの農場に着いた。観葉植物をメリクロン苗から育てる農場である。ファンは3年前に洋蘭博覧会に来ていた。彼からメリクロン苗を買ったこともある。農場の中をファンの案内で歩いたが日差しがきつい。彼の農場は点滴潅水設備でポット栽培をしていた。これまで見た他の農場と異なるところである。施設設備が優れているが、自己資金であるか助成金があるのかは不明であった。私の英語力では其処まで質問する能力が無い。果実の赤いパインに面白いものがあった。アグラオネマのフラスコ苗を注文するも在庫が無いとの返事であった。

アランダの路地植え
チャーワンは先を急いだ。ランドスケープの材料に適したナーセリーがあるというのである。UNAITED ORCHID MALAYSIA に着いた。デンファレやアランダ、モカラを中心に多くの品種が栽培されていた。私は様々な品種を撮影した。この農園のラン類で修景してあるレイクランドのオーキッドガーデンまで足を運ぶことが出来なかったのが少しばかり残念であったが、今回の旅ではこの程度の調査が限界であろうと思った。本日の調査を終了してホテルへ向った。
午後5時40分、マレーシア初日の宿泊ホテルHOLIDAY INN についた。チェクインの手続きをして7時にロビーで会おうと言ってチャーワンと分かれた。
私は556号室へ急いだ。前立腺がゴー・ファーストと言っている。急いでカードキーを差し込んで部屋に入った。其処には脱ぎ捨てられた靴と開いた状態のスーツケースがあった。人の気配はなかった。フロントの手違いだと思ったがそのことは後回しである。バストイレに飛び込んで小便をした。無防備な状態の時にこの部屋の主が来ないことをだけを祈った。私は尿を放出して目的を達成した安堵感で「フー」大きく息をついた。急いで部屋を出てフロントへ行った。フロントで部屋のことを説明しているが中々拉致があかない。「どうしましたか」とネクタイ姿でスーツとアタッシュケースを手にした日本人の商社マンらしき男性が声を掛けて来た。私はトラブルの事情を話した。流暢な英語で交渉して新しい部屋のカードキーを渡してくれた。私が礼を言うと、「この国ではよくあることです」と笑ってロビーに向かって歩いて行った。私は安堵すると共に海外でビジネスをするには彼のレベルで英語を使えるべきだろうと思った。今度の部屋は441号室で、無人の部屋であった。シャワーを浴びて着替えて7時にロビーで待った。
チャーワンは市内の交通に詳しいようである。馴れたタイミングで走路を変更しながら混雑を避けて地下道を通過した。クアラルンプルにこのような距離の長い地下道があるとはガイドブックにも記されていなかった。クアラルンプルの中心地に短時間で着いた。頭上に何かの気配を感じて見上げると、都市モノレールが通過した。ゆっくりと音も無くである。間近にKLタワーとツインタワーが見える。ツインタワーは電飾が素晴しくクアラルンプルの夜のランドマーク的な存在である。

ライトアップされたKLのツインタワー
KELANA JAYA SEAFOOD RESTAURANT に着いた。3兄弟で経営している繁盛した店だ。サイモンが既に待っていた。そして長兄と次兄が私たちを待っていた。長兄の彼女、チャーワン、リー、私と玉城、少し遅れてファンがウイスキーを抱えてやってきた。チャーワンが私を紹介して宴会が始まった。店のオーナーは明らかに私を観察している様子であったが、次第に会話が弾んで打ち解けていった。サイモンがこの店に魚を納めているらしい。イポーでの最高に美味いエビのことやマレーシア料理と沖縄の郷土料理を比較して具体的にその味の違いと美味しさの質を褒めて、毎日が驚きの連続だと話すと笑顔に変わって「チェース」「チェース」と何度もグラスを重ねた。私が遠慮せずににこやかにグラスを何度も彼らの求めに応えることに彼らも満足しているようであった。この日の料理は明らかにゲスト用であった。
① 魚のすり身のレタス包み:ツナフレークとも異なる魚の蒸し肉とネギを炒めて絡めてある。それをスプーンで適量をすくってレタスに包んで醤油タレにつけて食べるのである。実に美味い。韓国の焼肉にも似た手法があるも比較にならぬ旨さだ。チャーワンは私たちのために取り分けてくれた。彼らはゲストにそうすることを誇らしい態度で示す。とても好ましいもてなしの文化である。
②空心菜の炒め物:トロフィに似た器に熱い状態持ってくる。(沖縄のウンチェーに似ていると思い、帰国後にネットで調べるとそうであった。ただし、若干の品種の違いや栽培方法の違いはあるかもしれない)
「美味いね、何という野菜だ」と尋ねると、チーフ・ウエイトレスがポケットからメモ用紙を取り出して書いてくれた。空心菜、一翁才、Kang Kong等と呼ばれていると言った。空心菜とは日本語でも呼ばれているだろうとも言った。
③テレピアのから揚げ:炭火で焼いて肉を引き締めてから味をつけてから油で揚げている。揚げるときにあらかじめ胴の部分の皮を剥いである。そして背びれを上にして座った形で皿に乗っている。ピンクのテレピアである。私の国ではこの魚は一般的に泥臭くてとても料理に向かないのであるが、この店の調理は特別だ。私のテレピアのイメージが変わったと話した。オーナーは満足げな顔でグラスを掲げて「チェース」乾杯を促した。私は喜んでグラスを空けた。
④マレー風ラフテー・サンド:この店のラフテーは香辛料が効いた醤油色をしている。沖縄のラフテーよりもしっかりと油分が抜かれている。皮付きである。1cmの厚みで縦横7×5cm程度だ。これをやや小さめの蒸しパンでサンドイッチにして挟んで食べるのである。蒸しパンは肉饅頭と同じ素材である。台湾でも同じものを食べたがこちらのほうがより洗練されている。私がこのことを話すとオーナーはニヤリとした。満足げな表情である。
⑤エビの刺身:生の車エビの殻を剥き、カキ氷を被せて盛りつけてある。ワサビ醤油につけて食べるのである。プリプリとして美味い。生のエビは腹痛の原因にならぬかと少し不安になって1尾に止めた。しかし平気な顔をして美味そうに食べた。翌日、玉城君に聞くと彼は食べたふりをして残したそうである。
⑥マングローブガサミのカレー煮:ガサミの調理法はどこも似ている。ただしカレーの味が異なる。この店はカレー味を抑えて蟹の美味さを強調してある。このこともオーナーに話すと、彼は私を料理評論家のように感心した表情に変わった。
⑦アヒルの照り焼き:店によって香辛料の使い方が少しずつ異なる。ショウガタレをつけて食べる。この料理の評価をせずに専ら会話を楽しんだ。
⑧コーン:チャーワンがキャメロンで入手したコーンである。茹でて輪切りにして食べた。甘味が格段に優れている。やはりキャメロンの野菜は特別である。
話が弾んだ最後にワサビのサンプルを1箱持ってきた。チューブ入りの錬りワサビが20個ほど入っている。醤油皿にひねり出して私に試食してくれと頼んだ。箸で摘んで味を見るとすごく辛い。日本製よりもはるかにスパイシーで天然ワサビと味が随分と異なる。人口製品の傾向が強くワサビ本来の味ではないと正直に話した。上質なワサビの辛みは舌や喉ではなく鼻にツンとくる風味の辛さだ。少し日本語が少し話せる女性チーフにその風味を基準に判断することだと伝えた。彼女が私の意見をオーナーに話すと、オーナーは何度も頷きながら中国製ワサビの品質が未だ信用できないと判断したようだ。ワサビのサンプルを夕食に参加したメンバーに分け与えた。
私はレストランのオーナーと握手して料理の素晴しさを改めて褒めて夕食会を去った。マレーシアの最後の夜である。チャーワンはマレーシアで最高の6星レベルのエジプトホテルを見てから帰ろうと車を出した。この国では酒気運転はさほどの罪では無いようである。チャーワンは酔うほどではないが酒気運転に間違いないのだ。エジプトホテルの玄関は銅製の大きなライオン、ゾウ、ヤシ、バナナ等の造形物が黄金色に輝いており、黄金伝説の光り輝く宮殿の入り口である。ホテルの前の通りは野外バーとなっており、200m以上も続くネオンサインが特殊な雰囲気を醸し出していた。ホテルの地下部分は表参道とおなじグラドレベルとなっており、ショッピングモールが連続していた。ショッピングモールの入り口はスフインクス、ピラミッドの縮小モデルが電飾でデコレーションされていた。この地で何ゆえエジプト伝説なのかは知らないが、マレーシアの国民の購買意欲を掻き立てるものがあるのであろう。チャーワンは「奥さんを連れて遊びに来いよ。このホテルのマネージャーは俺の友人だから安く泊まることが出来るよ」と言ったが黄金伝説は家内の趣味に合わぬと思った。私は夕食を取りすぎたのでリーと共にエクササイズのつもりで少しばかり体を動かしてから車に乗り込んだ。
ホテルに着いたのが午前0時20分である。まぶたがかなり重くなっているのを感じたが、いつものように靴下と下着の乾き具合を確認してからベッドにもぐった。マレーシアでの最後の夜がしだいに深くなっていった。

5月21日(木)
2時半と4時半に目覚めてトイレに立った。5時40分にシャワーを浴びて目を覚ました。ベランダに出るとゴルフコースは静かに朝を迎えていた。今日はマレーシアを発つ日である。チャーワンとの仕事上の交渉事項をメモ帳に書き記した。4日間の成果を集約して組織間の結束を高める必要がある。輸入契約、植物検査の課題等を整理した。
午前8時、ロビーで玉城が待っていた。1階のレストランは4日前の朝よりも混雑していた。団体旅行客がいるのかもしれない。朝食はバイキングスタイルである。オレンジジュース、パン、チーズ、ウインナー、マメのトマトソース煮、ポテトのクラッシュ揚げ、デザートにパパイヤ、パイン、メロン、コーヒーはウエイターが注いでくれた。
9時にチェックアウトを済ませてチャーワンの車で出発した。リーは来なかった。チャーワンは行政区のランドスケープを見て、農場に寄ってから空港に送ると説明した。

行政区の丘に向かう緑のトンネル

コブラヘッドのコンベンションセンター

臨戦態勢で軍用ジェット機の滑走路に変わる行政区の中央道路

官庁職員の住宅地域

池に掛かるつり橋

建築ラッシュの都心
行政区は新しい都市開発区域である。中心部に議会棟、王府、大統領府、コンベンションセンター、航空関連、法律関連、貿易関連等各種の行政センタービルが立ち並んでいる。都市の周辺部に公務員宿舎であるアパートが林立していた。チャーワンが公務員のことをpublic servant と発音するのを聞いて私は苦笑した。日本では既にgovernment officer殿に変わっており、国家権力の権化と化しているのである。懐かしい言葉を聴いた。
全ての建築物がイスラムの影響を受けた特徴のあるデザインを何処かに取り入れており、一見してマレーシアの近代建築だと理解出来た。広大な行政区は大きな人口の池を配置した公園都市としてのランドスケープがなされている。チャーワンは2兆円の国家予算を投じていると話した。ランドスケープについては友人がマネージメントをしているので詳細を知りたいなら紹介すると言った。この池は石組みの堰と植物による堰がフィルターとなって水の浄化を図るシステムとなっている。広場から直線で2km先にコンベンションセンターが見えた。まるでコブラの顔のようであるとチャーワンが教えた。この道路はフラットになっており非常時には軍用ジェット機の滑走路に転用することが可能な造りとなっているようだ。広場の後ろの丘が王宮であり、コンベンションセンターと対面している。この丘はとぐろを巻いたコブラの尻尾であるとも彼は言った。道路は大きな人造湖を横切る巨大な石橋のような造りである。日本では考えられないゆったりした都市構成である。国土の広さが歴然としている行政都市だ。この国の国家予算はどこから捻出しているのであろうかと気になった。
10時45分、チャーワンの農場へ向った。農場の周りは広い原野であり時折草を食むやせた茶色の牛が群がっていた。途中に山羊小屋を見たが地上2mの高床式の小屋である。山羊は風通しのよい場所を好むようである。沖縄でも最近は高床式が流行っている。チャーワンの農場には一昨日会った黄とセルバンオーキッドのリチャードがいた。黄はリチャードの案内でマレーシアを回っていたようだ。同じ便で台湾に向うと言った。私はチャーワンと植物の取引について話し合った。そして植物検査の厳しさとその被害について資料を示してチャーワンに説明した。しかし彼は専ら彼の空調ハウスについての説明を丁寧にした。私は話に食い違いがあるかも知れぬと思ったが全ての資料を彼に渡した。そして来月の第2週から毎月デンファレの輸入を始めようと伝えた。彼も了解した。MIN-TAI ORCHIDから輸入しているデンファレの単価を那覇着で530円だと隠さずに教えた。しかし彼の輸出価格については問わなかった。
11時45分、農場を発った。リチャード、ウォンが一緒である。途中でマレー式ドライブインに立ち寄った。マレーシア到着の日に来た場所である。ひと棟の長屋風の建物に数軒の店が並んでいる。先日とは別の店に入り、5名で昼食を取った。やはりバイキングスタイルである。
①それぞれにライスの皿、
②白ゴーヤーの炒め物1皿:溶き卵が入っている。
② パイン入り酢の物サラダ1皿:キュウリ。キャベツ、大根
③ チキンのから揚げ2皿:ケンタッキーフライドチキン風味
⑤魚のから揚げ2皿:カレー粉をまぶしてあげてある。
⑥カレールー2皿:普通味と辛味でライスに少し混ぜて食べる
残ったものはプラスチックパックでチャーワンが持ち帰った。
12時30分、KL国際空港の4階出発ロビーの前で車を降りた。長時間の駐車が困難な場所であり、この場でチャーワンと別れた。
「Thank you. I will call you again, get back office. OK」(ありがとう。事務所に戻ったら電話するよ)
「Oh! Yes」(ああ、頼む)
私は明日にも会える友人のような気がして簡単な分かれの挨拶を交わしてターミナルビルに向った。リチャードは何処からか荷物カートを探してきて、黄が買い付けたランをパッキングした段ボール箱を積んだ。そしてカート押して黄と共にチェックインカウンターまで運んだ。荷物がベルトコンベヤーに載せられて輸送荷物として送られたのを確認した後、笑顔で黄と握手してから引きあげた。値の張るラン類の取引であったのだろう。チケットカウンターで搭乗手続きを済ますと、それ以後黄と話すこともなくそれぞれの歩みでエアロトレイン乗り場へと向った。チケットはクアラルンプル-台北及び台北-那覇の2枚を貰っていた。この時点で私は旅の工程のほとんどを終了した気がした。台湾でSandy Wu女史と陳先生に会う予定であったが本来の目的ではなくトランジットの為の余分な日程である。
出国審査官に入国カードの半券を渡すのを忘れて何やら文句を言われたが、私にとってマレー語は宇宙人の言葉と変らぬ意味不明の雑音である。急いでパスポートカバーの中に潜んでいた半券を渡すとぶっきらぼうに行けという仕草をした。丁寧にサンキューと言ってゲートを通過した。マレーシアからの出国では、毎回のように何らかの軽いトラブルを引き起こしている。帰国のせいで気持ちが緩んでいるのかも知れない。空港内では時間つぶしにコーヒーショップに入った。チョコレートケーキを一個注文したのであるが、すごく大きな1片が現れてびっくりした。店員はちびのマレー女性である。彼女たちの胃袋が要求する一切れとはこのように大きいのであろうかと不思議に思った。
2時20分、CI-722は離陸した。ヤシ林が眼下に見えたが直ぐに消えて行った。しばらくして機内食が出た。来たときの便と異なる魚料理を選択した。
①メインの弁当は揚げた白身魚のピリ辛トマト煮、ご飯、茹でたインゲンマメが3等分に入っている。
②サラダ:りんご、きゅうり、トマトの角切りマヨネーズ和え
③もち米プリン風:ココナッツミルクで味付け
④パン、バター
⑩ デザート:パパイヤ、スイカ
午後7時、桃園国際空港にランディングした。入国審査を受けて到着ロビーに出るとSandy Wu 女史が待っていた。久しぶりの出会いである。背の低い女性で独身である。ピンク色の爽やかな感じのスーツを着用していた。陳先生の三男のリチャードは不在であった。彼女は車を回しましょうか言ったが、共に歩いて駐車場まで行った。車中で日本や台湾の景気状況や沖縄の観光客の推移について話した。彼女は台北大学の英文科卒業だけあって流暢でしかも綺麗な発音で話した。チャーワンのぶっきらぼうな英語とは雲泥の差である。いわゆる正統派の英語である。私もマレー英語の訛りが自然と影を潜めて丁寧に話した。
彼女は桃園市の日本食レストランに招待した。客はほとんどいなかった。以前、この辺りは桃の産地であり、それ故に桃園の地域名が付いたと説明した。彼女は食べきれないくらいの料理を出した。
①刺身:ガーラ、マグロ
②オオタニワタリの新芽の炒め物
③イモの新芽炒め
④キンメダイ蒸物
⑤竹の子のマヨネーズかけ
⑥豆腐の角煮
⑦客家料理風のスープ:この地域の原住民の薬膳スープ
⑧ご飯
なんだか知らぬがたくさんの料理が出てきた。どのように注文したか分からないが恐縮した。
午後9時45分、レストランを後にした。途中で尿意を感じたので給油所で用を足した。女性の運転する車で小用を依頼するのはとても気が引けた。この旅で前立腺のトラブルが心配になった。
午後10時30分、ゴールデン・チャイナ・ホテルにチェックインした。英語での会話に慣れてしまい。フロントで日本語を話せるかと確認した後にも受付嬢に英語で話している自分に苦笑した。ひどく疲れを感じていた。Sandy Wuへのお礼の挨拶を済ますとベルボーイに引率されて部屋に向った。彼女への土産を持参しなかったことを少し後悔した。気配りの足りないところである。この1年間旅をしなかったことに起因するかもしれないと思った。部屋に入ると直ぐにドアロックを確認してベッドにもぐった。旅の疲れがどっと噴出して一瞬で眠りに落ちた。

5月22日(金)
午前1時、2時、4時と目覚めて台湾モードにした自分の携帯電話の時計を見る。携帯電話がX検査で故障したのだろうかと思った。結局、午前6時に起きてシャワーを浴びる。窓の外を見ると台北市特有の町並みが階下に広がっていた。

朝の台北の街並み
ふと上司の内原専務へのお土産を何にしようかと考えた。先日、出張みやげとして金飾りのついた手相占い師が使いそうな虫眼鏡を貰った手前、何か気の効いたものを求めねばなるまいと考えた。社員、家族へのお土産はいつもチョコレートのセットで済ませることにしている。唯一、妻への水彩画のお土産のみである。旅の終わりはお土産で悩むのが常である。
午前7時45分、陳先生から電話があり、9時に迎えに来るとのことである。玉城を誘って2階のレストランへ朝食をとりに行った。バイキングスタイルである。
①平パン、クロワッサン
②ハム、ソーセージ
③スクランブルエッグ
④パクチョイ
⑤魚フライ(小片)
⑪ 揚げ豆腐の煮込み
⑫ デザートのミカン、グァバ、メロン、スイカ
⑧ジュース、コーヒー
日本人、中国人、欧米人の客である。さすがにマレー系は見当たらない。
午前9時、チェックアウトをしていると陳先生がやって来た。いつものようにお茶をお土産に貰った。3男のリチャードが車を運転していた。陳先生の前ではいつも無口な男である。英語を話すのを見たことがないが、EPOCのアジア蘭会議で世話役を引き受けていたので話せるだろう。花市場と果物市場を見学した。先生は台南から昨夜帰ってきたと話した。私と同じ大学の花城先輩の奥さんの妹を案内したとのことだ。北海道でランを取り扱う仕事をしているおり、ミンタイを通してコチョウランを輸入しているようだ。先生もお疲れ気味であるようだ。台北の卸売業者の市場を覗いてみた。台北市民に供給する花と野菜果物を扱う市場が道を隔てて建っていた。市場の活気はどの国も一緒で気持ちがいい。陳先生が果物市場で初物のレイシを買ってきた。4人で道路わきの木陰のベンチに腰掛けて食べた。玉華宝という品種で種が小さく甘味が強い品種である。台南辺りから運ばれてきているらしい。台北周辺では未だ熟に至っておらず高値である。二十日もすれば暴落するだろうと先生は笑った。先生の笑いには品がある。マレーシアのリーとは両極端にある。果物のエリアには台湾国内を初め、南のニュージーランド産のキューイーフルーツ、北の日本の静岡メロン、東の米国産チェリーまで並んでいる。市場を出て昼食に向った。

市場の花卉コーナー

青果市場

高速道路から見た丸山大飯店

高速道路から見える朱塗りのホテルが古くて由緒ある台北丸山大飯店である。このホテルの建設には台湾の初代大統領夫人将美麗が尽力したようである。それ故、彼女の有名な外交手腕の中でこのホテルが何度となく利用されている。先生はゲストをこのホテルのレストランに招待することが常である。未だ午前11時15分であった。上海料理で有名なレストランである。他に客は見当たらず我々がこの日の最初の客のようである。
①キュウリの塩もみ:5cm程の長さに縦割りに切ったキュウリを塩もみしてニンニクの香りを付けた上品な味だ。
②ショウロンポー:汁の入ったシュウマイで汁が熱い。中華さじですくって食べる。
③蒸しシュウマイ:上品な味の海老が美味い。マレーシアと異なる調理である。
④春巻き:
⑤餅と竹の子とシイタケの炒め物:直径2cmの円筒のもちを斜め輪切りにしてシイタケと竹の子を加えて中華炒めにしてある。
⑥ゴマ入りお汁粉:もちは入っていない。ゴマ風味が変わっている。
⑩ 甘菓子:蒋介石の奥さん将美麗が好きであったという有名なカルカン風味の菓子だ。小豆入り菓子の中にあんこが入っている。この店だけの定番メニューだ。以前にもこのレストランで陳先生から御馳走になった。
12時20分、ホテルのレストランを立って空港に向った。45分程でターミナル1に着いた。チェックインの2時まで時間があるので中2階のバーガーキングでコーヒーを飲んで雑談した。先生は「来週の水曜日の便でアメリカに住む弟夫婦と従姉夫婦の6名で来沖する計画です」と言った。「迎えの車を出しますので旅行の詳細をFAXでお知らせください」80歳を超えた先生の足取りは少しばかり勢いを失いつつあるが元気な方である。残ったレイシをカバンの隙間に詰めた。違法と知りつつ国内に持ち込む作業をレストランのテーブルの上で行った。
午後2時チェックインカウンターの案内係に搭乗券を見せてボーディングデッキと座席ナンバーを記入してもらった。手荷物検査場入り口で先生に別れを告げた。

台北市の遠景、右端は台北101タワー
手荷物検査でホテルから持ってきた飲用水のペットボトルを捨てた。出国検査もスムーズに抜けて登機場へと歩いた。途中の免税店で内原専務への金粉入り高粱酒のグラスつきセットを買った。何やら祝いようの箱であり彼の72歳のお祝いの意味を込めて買ったのである。二人の事務員には七宝焼きの宝石入れを買った。自宅と社員向けにチョコレートのパックを5箱買った。これにて全ての帰り支度が整った。登機場にて搭乗時間を待っていると思いがけぬ人に会った。名護市内で園芸店を営む普天間夫妻である。タイの植物市場を見ての帰りといった。台北まで来ると知り合いに会うことも珍しくない。帰りの足があるかを問うと車を那覇空港の駐車場に置いてあると言った。もしなければ帰りの足を提供しようと思ったがその必要はなかった。このところ彼の店は事業が低迷しており、我社との取引は途絶えていた。組織が大きくなると小規模の園芸店との取引が少なくなるのは致し方ないことであり、ビジネスとしての弾む会話も失いつつあった。
午後4時10分、予定通りに離陸した。この後那覇空港を出るまで普天間夫妻と顔を合わすこともなかった。
午後6時15分(日本時間)、那覇空港国際線ターミナルにランディングした。新型インフルエンザの影響で入国審査が随分と遅れた。税関検査で仕事ですかと係員に訊かれた。いつも同じように訊かれる。私の旅姿は観光客には見えないようである。一人旅の雰囲気が身に付いているのかも知れない。
出迎えロビーで那覇空港ビル展示業務班の仲地茂君と比嘉伸也君が待っていた。私は土産袋からチョコレートの箱を取り出して「空港班への土産だ」と言って仲地君に渡した。伸也君が自宅まで送ってくれるようである。私はレンタルの携帯電話の返却処理をして車に乗り込んだ。全ての日程が終了した。伸也君に「旅は何事もなく安全であった。君が僕たちを自宅まで安全に運んでくれるなら完璧に旅を終了する事ができる。よろしく頼む」と冗談で言うと笑いながら「ハイ」と返事した。車がゆっくりとターミナルビルを離れた。乗り馴れた私の業務車両の排気音を聞きながら旅が終了したことを感じた。

エピローグ
旅は多少の後遺症を残すのが常である。東南アジアの旅は、4日以上滞在すると帰宅してから下痢気味の症状が起こる。私の内臓は強いと自負しているが今回も少しばかり下腹部に違和感があり排便が緩んでいる。現地では快便であったが帰国後に生じるのはどうしてだろうと思う。沖縄の食事に慣れないせいだろうか。玉城は何事も無いようである。病院に行くほどのことでもないが不快感が消えるまで3日ほどを要する。妻は私の汚れた衣類が、出張前と違ったいやな体臭が染みついていると言った。海外出張の度毎に言われる言葉だ。確かに日本では使わない香辛料を使った料理を食べ続けたのだから。私の電子辞書は単語の音声表示が止まってしまった。X線検査の影響かもしれない。さらに旅から帰ると仕事のペースが極端に低下するのも確かである。いわゆる旅ボケというものであろうか。そして、2週間もすると次のたびを夢見ることが始まるのである。次はチャーワンが誘ったインドネシアのスラバヤを訪ねてみたいとか、もう一度マラッカの古い町並みを歩いてみたい等とである。そしてもっと英語力を身につけねばと反省するのが常だ。一ヶ月はそうして旅の思いに浸ることが出来るのである。良い旅をした者には、幸せな記憶をリピートする特権が与えられても良いだろう。それだから旅は止められない。尤も、人生そのものが旅路であると言えなくもない。
陳先生は予定通りに2泊3日で来沖した。1泊目を私が名護市内のホテルに予約を取り、2泊目は先生自ら那覇市内のホテルに予約と取ってあった。初日は自社の農場や海洋博公園、水族館を案内した。2日目は首里城の見学を専務が案内した。陳先生と弟は首里城には行かずに那覇市内のパチンコ店に居座ったとのことだ。80代のパチンコ好きな兄弟である。先生はパチンコの為の馴染みのホテルがあるのだ。真意は知らないが、先生によると台湾のパチンコ店はヤクザが絡んでおり十分に楽しめないらしい。私はギャンブルを好まないのでパチンコ好きな社員を先生のお供に付けることにしている。
1週間後に台北の秦から電話があった。マレーシアのジョホール蘭展示会への誘いである。私がマレーシアの旅のトランジットで台北に立ち寄ったことを知ったらしい。彼に電話しなかったことを詰られた。8月4日のジョホール蘭展示会の後でボルネオのサラワク州クチンに行く計画である。私はつい弾みで「OK、スケジュールを教えてくれ」と返事してしまった。今度の旅の思い出が記憶の揺篭に乗せられる前に次の旅を夢見ることになった。
「完」

2021年10月31日 | カテゴリー : 旅日誌2 | 投稿者 : nakamura

ソウル

「ソウル」

「芙蓉亭」:ユネスコ文化遺産に指定されている昌徳宮の池の畔にある施設。芙蓉亭とは貴賓室の意味があり、来賓をもてなす施設である。韓国の国の花は木槿(ムクゲ)だ。何故、木槿亭と名付けなかったか不明だが、木槿と芙蓉(フヨウ)の花はとても良く似ており見分けがつきにくい。芙蓉の花が華やかな品種が多いだろう。

プロローグ

ソウルは大韓民国(韓国)の首都である。テレビニュースで見る韓国の人々の反日感情を見ていると、熱しやすいソウル(魂)をもつ人々だと納得した。ところがある時、英語の表記を見て、韓国の首都はSeoulで、魂はSoulである。首都をすごい名称にした民族だと感心した感情が少し萎んでしまった。「徐羅伐」という外来語の日本語表記方法に起因するだけのことである。我々沖縄県に暮らす人間にとって、日本の隣国であるにも関わらず馴染みの薄い国だ。本州から南に遠く離れた台湾に近い離島県であり、東京、大阪、福岡に比べると、身近に韓国籍の人を見ることは極端に少ない。米国人は広大な米軍基地があるゆえにごく普通に巷にあふれている。中華系の人々は台湾に近いことや、琉球王府時代の文化交流から今日でも生活の風習に中国文化の痕跡が残っており、違和感はほとんど無いだろう。一方、韓国の人々やハングル文字の看板を巷で見ることはほとんど無い。韓国の人々は近年における観光客としての存在くらいだ。それ故、テレビで伝えられる韓国と日本の対立は沖縄の人々にとって心情的に理解の範囲を超えている。歴史的な事実として豊臣秀吉の朝鮮出兵、第二次世界大戦時の侵略戦争による理不尽な行為があったことは知られている。それでも身近に韓国の人々が暮らしていなければ、その被害を身近な出来事として理解することは出来ない。戦中戦後も沖縄に韓国の人々が暮らしたとの話題を祖父母や父母の口から聞いたことは無かった。沖縄に暮らす人々にとって、日本国民から与えられた韓国人の辛苦は解るはずもない。ユダヤ人のホロコーストのレベルの遠い世界の歴史にしか思えないだろう。只、戦争が厳しくなった頃に招集された沖縄の民間人、いわゆる若年者・初老の日本軍従事者は、奴隷並みの扱いを受けている朝鮮人従軍労働者や慰安婦の姿を見た人もあったようだ。日本軍の管理下にあった従軍朝鮮人と沖縄県民との接触は禁じられていたようだ。父母が受けた戦前の皇民教育では朝鮮人、志那人は3等国民と呼ばれていたらしい。もっとも日本軍は沖縄県民(琉球人)を純日本国民より下位の2等国民として扱ったらしく、自らの身の保全に腐心した県民にとって朝鮮人従軍者のことなど意識の外であったのだろう。琉球王府時代の唐(中国)の世、廃藩置県後の日本の世、敗戦後の米国支配の世、日本復帰後の日本の世、過去150年の歴史で4度の社会システムの変遷があった沖縄である。日本と韓国の間に政治的な軋轢があった時代は、沖縄県民にとって米軍基地のフェンスの内側ほども関心が無かった。現在の日本と韓国の関係は、政治的な対立は解決の方向が見えないが、経済的には深く絡み合っているようだ。しかし沖縄の人々にとっては、テレビニュースで知るだけの日常生活に関わらない海外の世界に過ぎない存在である。私にとってもオーストラリア旅行の際にトランジットで立ち寄り、時間つぶしに4時間の市内観光をしただけの存在でしかなかった。只、大韓航空機は運賃が安い分だけ、シドニーに到着するまで狭い座席で8時間の苦痛を強いられた記憶は残っていた。今回の旅で韓国の生の姿を見たいと思って参加したのである。

旅の始まり

私は仕事がらみの付き合いで「旅行友の会」なるものに加入していた。毎月幾らかの積立金を口座引き落としで納めていたが、見知らぬ会員と旅行する目的ではなく、単なるヘソクリのつもりであった。私を旅行友の会に誘った幹事から旅行の誘いがあったのが八月の上旬である。何やら団体旅行に必要な頭数が足りないとのことである。「週末の3日間だから穴埋めに協力してくれ、アンタなら海外旅行に慣れているし国内旅行と変わらないだろう」と口説かれた。

日程を尋ねると9月下旬とのことだ。タイ出張の1カ月後なら海外旅行のほとぼりも冷めているだろうし、週末の3日間なら妻の不平もかわせるだろうと思った。それに、9年間の積み立て金もそれなりに貯まっていたのである。電話で参加可能との返事をした2日後に、九月の末頃に金・土・日の2泊3日でソウルに行くとのFAXが事務所に届いた。参加者や詳細な旅行スケジュールは出発の1週間前に届けるとの内容であった。

8月23日にタイより帰国後、農業法人設立に関する法務局との事務調整、コチョウランの開花処理設備を導入するため、大型空調機メーカーのダイキン工業との打ち合わせ、個人的には一級小型船舶免許の取得認定講習などに忙殺される日々が続いた。9月22日に沖縄ツーリストから郵便物が届いた。開封してみると「満喫ソウル三日間」と表題のついた旅行パンフレットと日程表、参加メンバーに関する書類が入っていた。パンフレットを読んでいると韓国旅行が現実味を帯びてきた。

さて、韓国そしてその首都ソウルとは如何なる所であろうか。韓国に対する私の印象は、熱し易く素朴で強烈な反日感情を持つ国民。南北分断の国。以前、日本が植民地として搾取した国。現在は日本にライバル意識を強く持つ国。キムチ料理発祥の地。12年程前にオーストラリア出張の際、乗り継ぎの合間に四時間ほど市内観光をしたが、豊かな国という印象は残っていない。私の中に好意的なイメージが湧いてこない国でもある。それでも出発の3日前までにはインターネットで日程表に載っている見学地や料理などを調べた。さらに千円のソウルガイドブックを書店で求めて雑学を増やすなどと旅行の基本準備を整えた。

9月30日(金)

一昨日の晩に造園業者会の懇親会で痛飲したことから、昨夜は体調回復のために午後九時に床についたのだが、午前3時頃から眠りが浅くなった。仕方なく午前五時にベットを抜け出しシャワーを浴びて朝刊を読んだ。スポーツ欄では日本女子オープンゴルフで宮里美香が3アンダーのトップタイと大きく報じられていた。お茶漬けでも食べようと炊飯器を覗くと空である。食器棚の横のワゴンの上のカゴを覗くと日清のチキンラーメンが一個だけ残っていた。卵を一個落としてポットジャーのお湯を注ぎ、五分間待つと出来上がりである。ネギを加えると完璧だが冷蔵庫のどこにも見あたらなかった。具の無いわびしいラーメンは貧乏学生の頃に食べた懐かしい味がした。

午前6時30分、音を立てずに玄関を開けて門前で軽くストレッチをした。妻と末娘は未だ床の中だが起こす必要もない。二泊三日の旅の荷物はショルダーバッグ一つで十分である。ほどなく社員の玉城君がコンテナ車で迎えにきた。我が社は那覇空港の植物展示業務を請負っているので、毎日展示用の植物をコンテナ車で運んでいるのだ。通常の運行時間より1時間30分ほど早いのだが空港までの移動を引き受けてくれた。私は車中で先日届いた旅行者名簿に目を通した。11名の参加者で知らない顔ぶれは3名ほどであった。その他の7名は概ね面識のある人達である。

7時40分に那覇空港国際線ターミナルに到着した。指定の集合時間より25分遅れである。沖縄ツーリストの女性職員から航空チケットを受け取り、世話役の旅行友の幹事から小遣いの55,000円を受け取った。今回の旅費として旅行友の会の私の積立金より15万円が引き出され、旅行社へ76,800円、旅行障害保険が4,000円、空港税が4,900円、供託金(共通の酒代)が9,300円、残り55,000円が小遣いとなっていた。その場で渡された部屋割り表では、私と同じ造園業界の友人松田氏(通称:松チャン)が相部屋であった。空港内のレストランで松チャンとコーヒーを飲んでいると、沖縄ツーリストの女性職員がやって来て搭乗手続きを促した。彼女の仕事はここまでである。韓国の空国には現地添乗員が待っているとのことだ。

午前8時20分、搭乗手続きの列に並んだ。世界的なテロ対策の影響でエックス線チェックは厳しくなっていた。先月の出国時よりかなり厳しく混雑の原因となっていた。ズボンのベルトまで外すのである。松チャンは女性の係員に「ベルトを外すとズボンがずり落ちるのだがどうしましょう」とからかっていた。結局、ショルダーバッグ、時計、財布、携帯電話、デジタルカメラ、ベルトをトレイに置いて金属探知機を通過した。搭乗待合室で待機している間に、娘たちにメールを入れた。「韓国に行く」と短い文面だけだ。「今月もネー」と反発した返事だ。

9時15分、チケットゲートを通過して飛行機に向った。その頃の那覇国際空港はボウディングブリッジがなく、バスで飛行機の前まで行ってタラップを上るのだった。建物から百メートルも離れていないのでバスで移動する距離でもないのだが。なんとも田舎の空港の感は否めない。7年後には新空港に変わると聞いていた。座席番号は24-Aで後方の席である。室内の装飾から判断すると新しい飛行機ではないだ。直ぐに飛行機が動き出した。機体後方の外側からグォー、グォーと数回、ワイヤーのこすれる音がした。松チャンが「アィヤー、ちゃんと飛んでくれるかネー」言った。さらに一度不可解な音を立てて飛行機は加速を始めた。そしてガタン、ガタン胴体を揺さぶると僕らを収めた金属性の箱は沖縄の大地を蹴って舞い上がった。

しばらくしてスチュワーデスが食事を配り始めた。彼女たちのユニフォームは薄いグレーの上下に赤いストライプのあるネッカチーフが印象的である。品のある装いで落ち着いた雰囲気の美形で大柄な女性たちだ。食器のふたをとると幕の内弁当である。白米にゴマをまぶした伝統的なスタイルだ。キムチ弁当を期待したが機内は未だ韓国ではないようだ。軽い仮眠をしばらくとった後、午前11時30分、何事もなく韓国の仁川国際空港にランディングした。ペンキの臭いがかすかに残る新しい空港だ。日韓ワールドカップ・サッカーに間に合わせて2001年に開港したと聞いている。イミグレーションを通過して出迎えの人々の待つ境界柵に向かった。プラカードを持つ人々がいて山田電機様御一行、近畿ツーリスト様などと書かれている。沖縄ツーリスト様と書かれたプラカードを見つけて合図を送った。20代後半の中肉中背の可愛い女性がにこやかに話しかけてきた。待合室のイスに腰掛けて彼女の説明を聞いた。仁川国際空港は永宗島に建設されており京仁高速道路を通ってソウル市内まで旅行社のバスで約70分・50kmの距離という。沖縄から来た中年女性の四人組が相乗りするらしい。

外に出るとあいにくの雨である。バス乗り場には25名乗りの黄色いバスが待っていた。ソウルまでの車中で彼女は旅行スケジュールの説明をした。ガイド嬢の名前は亭志蓮・チョンさんである。日本の京都の大学に1年間程留学した経験のある30歳の独身女性である。現地の日興旅行社に勤めて5年目で、沖縄からの客が8割以上を占めているという。日本語が上手くてよく笑う楽しいガイドである。化粧を控え見えにしてあるが中々の美人である。社員旅行で沖縄を訪れたことがあると話していた。しかし、彼女に取り付く男はかなりの勇気がいるだろう。笑顔と会話の結び目に緩みを見せない女は世の東西を問わずいるようだ。自立した女性の持つプライドが彼女を凛とさせているのだ。バスは空港のある永宗島と本国を結ぶ海中道路を走っているようだが窓の外は雨で景色はさっぱり見えない。この海は干満の差が5mほどあるらしい。干潮時には赤い海草が辺り一面に浮き出てきて不思議な景観を形成するという。彼女は曇りガラスで閉ざされた車中に退屈した我々に韓国の成り立ちを話した。

昔、この国には虎と熊がいて人間になりたいと願っていた。神様にこのことを話すと神様は2頭に告げた。これから100日間洞穴にこもってヨモギの葉を食べて過ごしなさい。さすれば人間に生まれ変わるであろう。2頭はお告げに従い洞穴にこもったが、虎はヨモギの葉が嫌いで100日を待たずに逃げ出してしまった。熊はやがて美しい乙女に変身して洞窟から出てきて神様と夫婦になり子供を授かった。その子孫が今日の韓国の人々であると言う。何やら日本の地方のどこかにありそうな昔話である。しかし突き詰めれば儒教の教えは韓国を経由して日本の武家社会に浸透したのだ。思想信条の原点である昔話に類似点があっても不思議ではない。

マンドウ

最初のキムチ

バスはいつの間にかソウル市内に入り仁寺洞(インサドン)の街角に停車した。気晴らしと軽い運動を兼ねての自由散策をするのだ。バスに備え付けの安物の傘を手に40分の散策に出かけた。この町は王宮に仕える人々の居住区として発達したという。通りのたたずまいは落ち着いており、骨董品店、書道用品を扱う専門店、おかしなお面を店頭に飾った土産店、洒落た喫茶店があり、通りの少し奥に入ると民家を改装したような専門料理店が軒を連ねている。どこからともなく漂ってくる食べ物の臭いを嗅ぐと空腹を感じた。時計を見ると午後2時である。軽い機内食のため少し腹が空いている。相合傘で歩いていた6名でレストランに入った。1階が混雑していて2階に案内された。メニューの写真はどれも美味しそうである。夕食が五時と聞いていたので一人前の料理は遠慮して6個入りのマンドウ(餃子)を2皿とビール4本を注文した。テーブルにはキムチの入った容器が置いてあり、好きなだけ食べてよいようだ。マンドゥは丸い形の蒸し餃子で、日本のそれの2個分はある。挽肉、豆腐、ネギの入ったあっさりした味で酢醤油を付けて食べるのだ。キムチの付け合わせと相性がよい。マンドゥをさらに1皿とビール2本を追加した。初めての韓国料理だが胃袋に良く馴染んだ。おやつとしては十分である。後で知ったのだがこの店は有名なマンドゥのチェーン店という。店の一階が混雑していたのもうなずける。雨の中を再びバスに戻った。強い雨脚ではないが止む気配のない雨である。

その次にバスが止まったのはナムサンゴルハノクマウル(南山谷韓屋村)である。王朝時代の貴族階級や豪族の邸宅を復元したテーマパークである。オンドルという床下暖房設備があり、零下20度にもなるこの地域の冬の厳しさが理解できた。戸主の生活する建物と嫁、舅、娘の部屋は別棟となっており男尊女卑の儒教の教えが如実に現れた建築様式である。もっとも、一般庶民の家屋にはこれほどの格式はなかったであろう。雨は相変わらず降り続いている。園内は花崗岩の風化した砂を敷きつめて転圧してあるので足元が泥で汚れることはない。

韓国風タイ焼き

バスに戻ると誰かが韓国風たい焼き(プンオッパン)を近くの屋台から買ってきたらしく袋ごと配っていた。製法が日本と異なり油で揚げてある。パリッとした食感で中に餡が少し入っている。魚の形のほかに蟹の形もある。谷韓屋村の門前には幾つかの屋台があり、焼き栗、菓子、綿あめ、おでん、蚕のサナギ煮などが売られていた。蚕のサナギは醤油で煮てあり、鍋から150ccほどの紙コップに取り分け爪楊枝を添えて売っている。イナゴの佃煮の感覚であろうか。私にとっていささか抵抗のある食べ物である。

夕食の5時まで少し間があり2カ所の免税店を訪ねた。1ヵ所は東和免税店という高級舶来品のデパートである。一方は紫水晶のトパーズ、革製品、国産土産の専門店である。韓国は冬の寒さが厳しいので革製のジャンパーは安くて良質とのことだ。滑らかな手触り黒い革ジャンは、網走番外地の高倉健さんなら似合うだろうが、沖縄の短い冬に着ける機会も無いだろうと思った。この手の店に男共は興味を示さないがメンバーの女性二人は熱心である。とりわけ、那覇市内で居酒屋を営むロコさん(ひろ子)は、今度の旅行に中型のスーツケースを持ってくるほどの買い物好きのようだ。当然のことながら最後にバスに乗り込むのはロコさんと添乗員である。私はお土産として一箱750円の韓国産海苔を4箱買った。韓国は良質の海苔を生産することで有名である。

プルコギ

プルコギの付け合わせキムチ

木の小鍋

夕食のレストランに着いたのが午後5時であった。雨のためか辺りは既に薄暗くなっていた。夕食はプルコギ(韓国風すき焼き)である。ヤンニョム(独特のたれ)に漬け込んだ牛肉を平たい鉄鍋で焼くのだ。刻んだ玉ねぎと長ネギが入っている。焼けたころあいを見て野菜に包んで食べるのだ。肉の上にコチュジャンを少し乗せると味が引き立つ。テーブルには幾つかの付け合わせがあり、お代わり自由である。肉を包む葉野菜、定番のペチュキムチ(白菜)、豆腐にキムチのたれをのせた一品、もやしの炒め物(キムチ味)、細切り昆布の炒め物、コチュジャン、細長く切った大根の甘酢漬け、生にんにくのスライスである。鍋の肉が半分に減った頃、スライスしたキノコを一皿注文して肉汁と共に煮た。キノコの名前は知らないがとても美味しかった。ご飯はステンレス製の蓋付の椀に入っている。金属製のため熱くて容器を持つことは出来ない。この国では日本のように左手に椀を持って食事をする習慣はないという。この店はニラチジミが美味しいと紹介されたので、2皿を追加注文して試してみた。細かく切ったニラがたっぷりと入った沖縄のヒラ焼チーである。コチュジャンを塗って食べると美味い。おやつに良い食べ物である。汗をかき、地元産のOBビールを飲み、騒ぎなら夕食に舌鼓を打つことで必然的に旅の連帯感が養われた。追加の料金を払ってレストランを出たのが午後6時30分であった。

《ソウルの夜-1》

ソウルの夜の楽しい過ごし方が幾つかある。昼間の疲れをとるマッサージ・エステ、ホテルのディナーシショー、地下酒場のステージショー、カラオケハウスなどが主流である。日本で流行の居酒屋のように、夕食を兼ねて食べて飲んで談笑する場所は少ないようだ。文化の違いであろうか。

さて、この夜のスケジュールはロコさんがエステ、残りの一〇名がウォーカーヒルショーへ向った。ソウルのエステはかなり本格的である。もちろん男子より女子のコースが多彩だという。料金は8,000円程度の基本料金に、追加料金で各種のオプションを選択することできる。基本コースは緑茶風呂、人参風呂、泥風呂、サウナ、あかすり&全身オイルマッサージ、顔パックとなっており、オプションで特殊マッサージ、特殊顔パック、カッピング、アートメイク、ネイルアートなど多種である。

ウォーカーヒルの韓国民族ショー

アストリア・ホテルにチェックインして荷物を解き、午後7時30分にロビーに集合した。ショーが公演される米国資本のシェラトン・ウォーカーヒル・ホテルまでは約30分、タクシーで14,500ウォン(1,450円)の距離である。我々は交通費とショーの代金として8,500円を添乗員に納めた。ホテルはソウル市内が一望できる丘の上にあり、雨でなければ美しい夜景が見えたはずである。このホテルは朝鮮動乱が終結した頃、米軍将校の保養と社交場として建設された経緯がある。

ショーはホテルの地下一階、座席数720席のKAYAGUM HALLで毎日2回、年中無休の公演がおこなわれている。ショーの見学料金はワイン一杯とショー観賞が6千円、コースディナーとショー観賞が8,500円、特別コースディナーとショー観賞が9,900円となっている。料金が高いほど食事の質が良く観賞に適した座席である。我々はワインコースで舞台に向って右端の二列目に座った。

さてショーの内容は2部構成となっていて、最初が韓国伝統民族公演で後半がラスベガスショースタイルのミュージカルレビューショーである。ショーは8時45分に始まり10時25分に終了した。伝統民族公演の題名は「LOVE OF BEAUTY」(美しき愛)内容は韓国のおとぎ話を現代風に演出したもので、男女が出会い愛し合うまでを民族舞踊で表現している。見所は艶やかで美しいチマチョゴリ(民族衣装)着たお姉さんたちの優雅な扇の舞、床の上を滑るように踊る躍動感あふれる団体舞踏、民族楽器の競演など初めて見る韓国伝統芸能の公演である。朝鮮の民族衣装が質素で素朴あるという私の概念を改めさせた公演であった。

第二部は外国人ショー「オデッセイ」である。制作費50億ウオン、キャスト33名、スタッフ70名が参加する大規模なショーである。翌年の6月まで公演する予定らしい。物語は大航海時代に英国の帆船オデッセイ号の乗組員がモロッコ、スペイン、ローマ、アフリカと幻想的な旅をするのだ。各国の特色あるダンス、女性ダンサーの艶やかな衣装、大仕掛けのステージ、ミュージカルダンサーのアクロバティックな競演、スタイル抜群の女性ダンサーによるトップレスダンスは男性客にはたまらないであろう。私はハンズフリーのマイクでバックコーラスを従えて、歌って踊る女性ボーカリストの伸びやかで豊かな声量に圧倒された。ショーの合間には中国・南京芸団の中国コマの演技、客席の頭上で披露されるスリル満点のロシア人男女ペアによる空中ブランコのアクロバットショーが演じられた。8,500円の経費に充分な観賞料金であった。

このホテルには「パラダイスウォーカーヒル」という外国人専用のカジノがある。当然のことだが入場するには身分証明書(パスポート)が必要である。我々は旅行社が準備した入場カードを貰って中に入った。入り口には日本語のゲームガイドパンフレットがあり、案内デスクでは日本語の説明もしてくれるので簡単に遊べるシステムとなっている。日本人のカモが金のネギを背負ってやって来るというシステムでもある。500坪はあろうかと思う広いフロアでゲームに興じるのは日本人観光客がほとんどである。壁にはスロットマシンがずらっと並んでいる。直径2mのビッグホィール、サイコロゲームのダイダイ、カラカラと乾いた音を立てて回転するルーレット、トランプゲームのバカラ、ブラックジャック、ポーカー(カリビアン・スタッド)。ディラーは白の長袖ワイシャツに金の刺繍が施されたベストをきちんと着こなしている。シャープな目つきの美女ディラーもいてゲームに熱中した各テーブルを見て回るだけでも楽しい。ただ、フロアには腰に小型の拳銃を装着した警備員が巡回しており、普通の遊技場とは明らかに雰囲気が異なっている。たしかに客の中には血走った目つきでブラックジャックに興じる日本人客も見られた。私はこの手のゲームが不得手で雰囲気を味わうだけにしたが、メンバーの中にはスロットマシンに興じて10万ウオンを勝ち取った強者もいたようだ。カジノで40分ほど時間を潰した我々は小雨の中をタクシーに分乗してホテルに戻った。タクシー代金は添乗員が今夜のショー代金の中から返してくれた。

ホテルの部屋で缶ビールを2本空けて、デジタルカメラと携帯電話の充電を完了して眠りに落ちたのが午前0時であった。

10月1日(土)

午前8時、一階のレストランで朝食を取った。食事は洋食と韓国風があり、私は必然的に現地の習慣に従って韓国風朝食を選んだ。メニューはご飯にキムチ入り味噌汁。揚秋刀魚の半分、白菜のキムチ、インゲン豆とニンニクのキムチ、海苔、シラウオのキムチ風味佃煮、キムチ風味の薄蒲鉾、薄切り大根の酢漬けキムチ風味など朝から韓国キムチ風味のオンパレードである。食事のたびに汗をかくことになるのだ。ご飯一椀でキムチのおかずを完全に食べきれるものではない。たいていの人が一番辛い白菜のキムチを残していた。

昌徳宮の正門

広い石張りの中庭の持つ儀式殿

美しい彩色の天井

朝から雨である。午後には上がるという予報だが、安物の傘をホテル近くの雑貨店で求めた。最初に訪ねたのがユネスコの世界文化遺産に登録されている昌徳宮である。1,405年、第3代王太宗の離宮として約6万坪の敷地に幾つもの建造物が建立されている。入場料は3,000ウオンで日本語、英語、韓国語等の専属ガイド嬢が団体客を引き連れて公園内を案内する。個人の自由閲覧を禁じている。日本語は午前中3回、午後2回の一日5回である。ガイド嬢は流暢な日本語で時々ユーモアを混ぜて丁寧に説明しているのだが、笑いのネタが古く笑う客はほとんどいない。韓国訛りのチャ、チュ、チョの音が日本人には耳障りに聞こえるのかもしれない。御影石をふんだんに使った構造物である。群青色の屋根瓦が泰然と鎮座する正殿とその屋根の内側の青を基調にしたデザインが興味を引いた。この群青色の気品のある瓦は民間の建築には使うことが許されず、王府の建築物の象徴であったという。敷地内にはブナ科の植物が多く、参道にはドングリや栗のイガが落ちていた。藪の中を行きかうリスも頻繁に見かけた。冬に備えて木の実を拾っているのかもしれない。私も来園の記念にドングリと栗の実を少しばかりポケットにしまった。公園内を一巡して駐車場に戻る頃に雨は上がっていた。

大統領府迎賓館

その次に訪ねたのが大統領府である。官邸の周りの建物は高さの建築規制があり二階建てが限界である。その理由はテロリストによる高い建物からの狙撃を警戒しているとの説明であった。迎賓館前のロータリーには平和記念像と国の象徴である鳳凰のモニュメントが建立されていた。大統領府は屋根に群青色の瓦を使っていることから別名青瓦台とも呼ばれている。その後方には北岳山がそびえているのだが霧でほとんど隠れている。中腹に展望台があり、晴れた日にはソウルの街が一望できるという。我々は展望台に向ったのだが山肌に向けての写真撮影が禁じられている。藪の中には大統領府を警護する兵隊の監視小屋がいくつも配置されていた。10年以上前のことだが、この山中に北朝鮮の兵隊が大統領府を狙って侵入していた事件があったという。韓国と北朝鮮は終戦状態でなく休戦状態であり、再度の開戦に対する備えを怠っていないのだ。我々日本人には理解できない臨戦態勢の緊張感がこの国にはある。

花崗岩で形成された山の中腹にレストランを備えた展望台があった。あいにくの霧で眺望は望めない。王朝時代の韓国はこの山を基点にソウル市内を城壁が取り囲んでいたという。ソウルとは「都」という意味であり、英語の「魂」の意味ではない。その都への出入りは東西南北の四方の大門から日中のみ可能であったという。近代の都市整備の進行で城壁は取り除かれ南大門だけがその景観をとどめている。大門の周辺には必然的に市場が形成され現在でも南大門市場と東大門市場はソウル最大の庶民市場として活況を呈している。霧の展望台に厭きた我々一行は山を下って市内のレストランへと向った。

「青紗草龍」という名の韓国レストランに着いた。看板を見ると宮廷料理専門店のようであるが、本日の昼食は庶民的な石焼ビビンバである。ビビンバ料理の始まりは、豪族の家に嫁いだ嫁が目上の家族の食事の世話で自分の食事が満足に取れないので、その日の食事の具を少しずつ取って自分の椀の上に載せておいて、家族の世話が終わったのを見計らって椀の具とご飯を混ぜて食べたこと由来するという。混ぜご飯という意味があるそうだ。男尊女卑の儒教の教えから発生した習慣の一つでもある。もっとも、レストランで食べるビビンバは惣菜の残り物で作っているのではない。img009 (2)ビビンバ丼

img009 (3)ビビンバ丼の付け合わせ

最初に出てきたのが白菜のキムチ、大豆モヤシの炒め物、小松菜に似た野菜の炒め物、何れもキムチ風味である。この辛口前菜が出るとビールを飲まずにはいられない。しばらくするとジュウジュウと音をたてて石焼のどんぶりに入った料理が出された。熱した石丼にご飯が盛られその上に野菜と肉片と卵が載っている。野菜は大豆モヤシ、玉ねぎ、人参、シイタケ、青野菜である。その上にコチュジャンを好みの量のせてかき混ぜるのである。石焼丼はとても熱く、焦げご飯が香ばしい。ビビンバは有名な韓国料理だが取り立てて旨いとは思えない。メンバーの松チャンがこれよりは那覇市の泊漁港内食堂のビビンバがはるかに美味いと言った。団体旅行者の食べるビビンバは調理コストを抑えた単なる体験食事でしかないだろう。店の中はほとんどが日本人旅行者である。添乗員に案内されて本場モドキの石焼ビビンバをありがたがって食べているのが可笑しい。それぞれの楽しい旅の思い出を笑う権利は私にはないのだが、東南アジアの友人たちに伴われて現地の純粋な郷土料理に親しんで来た私にとって、外国人歓迎の店に入って現地料理だと思って満足する日本人団体旅行者の光景を見るのが可笑しいのである。

img010 (3)雨霧に霞む北朝鮮

食後はバスで1時間程の行程で韓国統一展望台へと向かった。食後の昼寝にちょうど良い按配だ。10分もすると添乗員の解説を聞く者は見あたらず、彼女自身も頭を垂れ始めた。40分ほどするとバスはイムジン川沿いを走っていた。右側は収穫前の稲穂が延々と金色の頭をたれている。左側の河川敷は鉄条網が続きおよそ100m間隔で監視小屋が設置されている。高さ4mほどの監視棟で小さな窓がついており2人の兵士の姿が確認できた。気温が零下20度にも下がる冬になると川は凍り付いてしまい、対岸の北朝鮮から徒歩で侵入して来る不審者の監視だという。両国の国境は川の中心である。川は途中から韓国側へ蛇行しており、国境線は陸地へと続いている。陸地の境界は両側に2kmの緩衝地帯としての非武装地帯(DMZ)が設置されている。非武装地帯は立ち入り禁止であるが、朝鮮戦争前の居住者が厳重な監視のもとに暮らしており、稲作を中心に農作物を生産している。この地域は農薬の使用が禁じられており、自然農法の米はDMZ米として高値で取引されているようだ。

統一展望台は小高い丘の上にあり、見学には3,000ウオンの施設入場料が必要である。3階建ての施設は、3階がビデオホール兼展望台となっており、朝鮮分断の歴史を韓国語と日本語と英語のいずれかで聞いた後に対岸を見ることが出来る。対岸の景色は雨霧のためはっきりとしないが、田園風景が広がっている。共同作業所や共同住宅らしい3階建ての比較的大きな施設があり、豊かな暮らしのように思える。添乗員の説明によるとこの展望台の完成により、北朝鮮の貧しい農村生活が覗かれるのを恐れた当局が実態のない張子の建造物を作ったという。2階が資料館で1階が土産品店となっていた。添乗員は韓国の歴史を丁寧に説明しているようであったが、私はこの国の近代史に興味がなく外の風に20分ほど吹かれていた。元韓国軍人の団体や韓国、中国の旅行者がバスで乗りつけた。

img010 (2)有事には戦闘機の滑走路に変わる自動車道

img011 (2)分断家族の寄せ書き

この次に訪れたのは自由の橋と呼ばれる国境記念公園である。広場には離散家族のモニュメントや、特別の日に南北を行き来する列車の線路が続いている。レールは使用頻度が少ないようで赤く錆びついていた。朝鮮動乱により、この橋の中央で家族が北と南に引き裂かれた歴史がある。南に住む人々は正月や盆にこの広場に集まって北に残った親戚に思いを馳せて涙を流すという。橋の先端は鉄条網で遮られており、風雨にさらされたタオル、シャツ、布切れに書かれた多くの寄せ書きが掛かっていた。ハングル文字の読めない私にも書き手の悲痛な叫びや嗚咽が聞こえる気がした。この公園は普段から来園者が多く、レストラン、土産品店、遊園地を備えている。ソウルからの国道も片側6車線となっており市民のドライブコースでもある。しかし、ひとたび有事になるとこの幅広い直線道路は戦闘機の滑走路に早変わりするとのことだ。この公園から数キロ先の地点に有名な板門店の南北共同監視所があり、外国人のみの見学が許されているらしい。公園の建物の一角にはDMZ(非武装地帯)見学コースなるチケット売り場があった。

img012 (2)南大門(後年焼失した)

img012 (3)南大門市場

img012 (4)粉唐辛子の量り売り

img013 (2)各種キムチの量り売り

img013 (3)蟹のキムチ

午後3時、バスはソウルに引き返した。雨は完全に上がり雲間から光が漏れている。南大門の市場見学に向った。南大門は現在でも保存されていて市民の憩いの広場になっている。2重屋根の巨大な石門は、当時の朝鮮半島最大の都の繁栄を物語っていた。南大門の市場にはキムチの材料が全て揃っている。挽き唐辛子、魚介類、野菜類、既に完成したキムチも売られている。ビビンバ丼が積み上げられた雑貨屋、衣類、装飾品、漢方薬などあらゆる商品が入手できる。見て回るだけで楽しい市場である。私は添乗員の紹介で朝鮮人参のカプセルを買い求めた。更年期障害が出始めた妻への贈り物である。1粒50円、1日朝晩に2粒づつ服用するので安い買い物ではないが、八月、九月と海外旅行に出た後ろめたさが少しは和らぐ気がしたのだ。1瓶120粒入りの4瓶(4ヶ月分)である。2ヵ月以上服用しないと効果がないという添乗員の話を信じた。私につられたのか3名が2瓶ずつ買い求めた。店の売り上げに大いに貢献したようで店主は愛想よく我々を送り出した。添乗員のバックマージンも少なくないだろう。市場の雑踏を抜けてバスに戻った頃には日が落ちかけていた。ソウルの夕暮れの空気は冷気を帯び始めており秋の始まりを感じた。

img014 (2)海鮮鍋

夕食のレストランは昼食をとったレストランの道向かいで海鮮鍋の専門店である。今夜もキムチの皿が出てきた。白菜のキムチ、大根の角切りキムチ、大豆モヤシのキムチ風味、茹でたパクチョイの胡麻和え、カマボコキムチ、黒豆である。海鮮鍋は簡易ガスコンロで煮ながら食べるのであるが、鍋に特徴がある。鍋の中央が五センチほどへこんでおり、その中に麺を入れてある。鍋の具が煮えた頃には麺にだし汁がしみこむ仕掛けである。鍋の具は蟹、イカ、エビ、豆腐、餅、ネギ、シイタケ、白菜、人参、エンサイである。だし汁はキムチ風味である。11名で3つの鍋を囲んだ。雑談を交わしながらの食事はいつもより箸が進みどの鍋も完食である。この店の人気メニューの海鮮チジミを試してみた。シーフードミックスピザに似ているがパリパリ感はなくモッチリとしている。ネギと細切れのタコが入っていて、すこし辛めの醤油をつけて食べるのである。タコのプチプチとした食感が面白いが特別に変わった味ではない。タコは日本のマダコよりも小さな独特の種類で店によっては水槽に飼っている。南大門市場の鮮魚店でもキムチの具として売られていた。食事が終わると居酒屋で飲みなおすグループとこの店の地下にあるショー見学のグループに分かれた。那覇市内で居酒屋を営むロコさんは韓国居酒屋の雰囲気と料理に興味があるらしい。結局、男女の四名と男だけの七名のグループに分かれて散会した。

《ソウルの夜 二》

夕食をとった店の地下にある「ディアブロ」(中国ゴマの意)という名前の観光ショークラブは2時間の見学で6,000円の料金である。ビール、地酒、ウーロン茶の飲み放題でパイン、ブドウ、ミカン、バナナ、りんご等のフルーツ山盛りセットがついている。7時半に添乗員のチョンと共に席に着いた。彼女はこの店の営業部長ペックを紹介した。彼は我々のグラスにビールを注いで回った。我々が返杯すると仕事中の無礼をわびてウーロン茶を貰った。そして顔をひょいと後ろに向けて飲み干して「ごゆっくりお楽しみ下さい」と言って席を離れた。我々は一同にはっとした顔でうなずきあった。これが韓国流の目上の人の前での酒の作法なのだ。噂には聞いたが目上の人の前でグラスに口をつけるのを見せまいとする粋な心得である。もっとも彼の流れるような隙のないしぐさは、彼の商売で身に着けたある種の技であり、常人にそこまでの所作はないだろう。

img015 (2)一輪車乗りの吹き矢の芸、風船を加えた旅行メンバー

酒の飲み放題となると沖縄の酒飲み共の行動は決まっている。早速回し飲みの始まりである。開演まで20分もあるのだ。明日のソウル10kmマラソンに参加するというガイドの亭を引き止めて飲み較べが始まった。テーブルの上のビールが一気に消えた。何せ6,000円を払った飲み放題である。遠慮する気はまったくないのだ。しかし店の係りも5回目の注文をしたショーの後半には酒を持ってこなくなった。ビールの他に地酒の焼酎があった。360ml入りで商品名「眞露」というポピュラーな酒である。竹の炭でろ過してあるらしくラベルには竹の図柄がある。商品の説明がハングル文字では詳細はわからない。糖分を加えてあるらしく甘みがあって飲みやすい。メンバーの中の長老で3年前に那覇市役所を定年退職した福サンと呼ばれる御大の口に合うらしくビールの代わりに飲んでいた。ステージは高さ50cmで5m四方程度である。ステージの三方が客席で8名掛のボックスシートである。シートの数は12,3席ほどである。白いシャツに黒いベストを着用した客席対応マネージャーが数箇所に立っている。人目でタフな男たちと判る雰囲気を持っており、客のトラブルをいさめる役割も兼ねているのだろう。

ショーが始まったのは午後8時であった。男3名女2名によるアクロバットショーから始まった。メンバーのクニさんが舞台に呼ばれて両手と口と股間に風船を持たされた。すると一輪車に乗った軽業師が吹き矢で見事にその風船を割った。客席から拍手が起こった。辺りを見渡すと8席ほどが埋まっていて40名ほどの客がいるようだ。工夫(カンフー)組手、居合抜刀術、石弓(ボウガン)、タコ男の穴抜け技、吹き矢、マジック、乞食の漫才トーク、2名の女性のストリップショー、美形で豊満な女性の体躯をしたオカマのストリップショー(声は男性であった)、筋肉ムキムキ男のストリップショーと続いた。客席に下りてくる演技者にチップを与えるのがこの店のマナーらしい。我々の席もストリッパーの豊満な胸に圧倒されたのか6,000円ほど献上してしまった。福さんはビキニ姿の美人オカマ・ストリッパーに抱きつかれ、彼女の股間に手を導かれて目を丸くした。ドモリながら「あの娘、ナニが付いていた」と言った。「先輩、ソウルまで来た甲斐がありましたね。でも血圧に気をつけてくださいよ」と皆ではやし立てた。この店の人気役者は乞食姿の漫才師らしいが彼のトークは私の感性には合わなかった。ショーの後半になると店のオーナーという50代のマダムが我々の席に挨拶に来た。律儀な店だと思いきや「女の子を紹介します」としきりに誘った。誰も興味を示さないので少し不満そうな顔をして男性客だけの隣のボックスに挨拶に向った。男性ストリッパーの登場で我々は席を立った。午後10時である。営業部長のペックが我々を店の外まで見送り、手配した車でホテルに送ってくれた。ウォカーヒルの豪華ショーも素晴らしいが、この手の怪しげな地下酒場のショーも見知らぬ国で退屈な夜を過ごすのには悪くない。

10月2日(日)

午前8時30分、朝食のためにホテルを出た。歩いて5分の距離に松竹という名のお粥の専門店があった。昨夜のうちに予約を入れておいたのだが、日本人に人気の店らしく20名ほどの日本人観光客がバスで乗り付けていた。韓国語でお粥のことをチュクという。この店には鶏、松の実、アワビの三種類のチュクがあった。12,000ウオン(1,200円)と朝食にしては少し値段が高いが一番人気のアワビ粥を注文した。いつものように大豆モヤシ、白菜キムチ、海鮮キムチのキムチセット、スープが付いているが塩味に大根の切り身が四個入っただけでお世辞にも美味いといえない。茶碗にはお湯が入っている。この国にはお茶の習慣がないのだろうか。そしてごく普通のスプーンとステンレスのお箸である。

さて、本命のアワビ粥であるが、かなり深めのスープ皿に入っており、生卵を一個落としてあった。アワビのダシが効いていて味は申し分ないがとても熱い。キムチの辛さと合わさって口の中が茶釜のようだ。食べるのに必死で口をきくものもいない有様だ。この国の食事はどれも汗をかくのものらしい。

img016 (2)韓国の花嫁

ホテルに戻ると沖縄コンベンションビューロー・ソウル支局の夫(プー)副長が待っていた。日曜日であり小学4年生の一人息子を伴っていた。旅のメンバーで彼の上司である吉彦氏が案内を依頼したのだ。今日は午後3時までのフリータイムの設定である。我々は昨夜の夕食後に配られた市内地図の手に、明洞(ミョンドン)の街を歩いて探索することにした。ホテルの裏手に南山谷韓屋村があることをプーさんが教えてくれたのでそこを起点に歩くことにした。初日に雨の中を見学した場所で南山公園の一部である。公園の一角で結婚記念写真の撮影が行われていて、白いウェディングドレス姿の女性が石組みの庭園で晴れやかな笑顔でポーズを取っていた。私も一枚撮らせてもらった。韓屋村の施設の中で韓国伝統の古式の結婚式が行われるらしく天幕の中にイスが並べられていた。先ほどの一組の結婚式であろうか。

img016 (3)明洞の街角

一昨日の見学で施設の内容をガイドから丁寧に説明を受けていたので早々に引き上げ、明洞の街に向った。アストリアホテルの前を左に向って20分ほど歩くと明洞の繁華街に入った。この街の名称は植民地時代に日本人が料亭を作って「明治町」と呼んだことに由来するという。有名ブランド店、衣料品店、高級レストラン、ファーストフード店、衣料品や食べ物の屋台、安価な食堂などが同居する活気に満ちた街である。東京の渋谷に似た雰囲気があり若者の姿が目立つ街である。午前10時半という時間帯のためか人の往来は少なく開店前の静けさといった感じである。それでも女性用の派手な下着類を店頭の通りにはみ出して並べた庶民向け衣料品店や何かのイベントのチケットを求める若者の行列があり、通りを歩くだけでも楽しい街である。南大門路の地下商店街を抜けて表に出るとロッテの百貨店の前に出た。この一角はロッテ一番街と呼ばれる韓国の大企業ロッテの支配地である。高級百貨店、免税店、高級ホテルが200m四方を独占している。我々はショッピンググループとぶらり歩きグループに分かれて行動した。百貨店には韓国の二枚目俳優で日本人に大人気のペ・ヨン・ジュ(ヨン様)の大きなグラビア写真が目立った。この企業のイメージキャラクターとして活躍しているが、たぶんに日本の婦人客を意識しているようだ。韓国でのヨン様の人気は日本ほどではないようである。特別に買うものもない私は5名で連れ立って市庁舎の近くの広場まで歩いていった。今日はソウルの市民マラソンがあり、ガイドの亭さんが10kmの部にエントリーしているという。彼女の応援でもしようかと考えたのである。市庁舎の広場に着いたのが午前11時30分である。競技は既に終了したようで木陰で休憩して昼食の弁当を開く人々の姿があった。亭さんに携帯電話で連絡を取ると、無事完走して自宅に戻ったところだという。午後3時に我々を空港まで送ることになっていて午前中はソウル市の行事に参加したのだ。歩き疲れて空腹を感じたので百貨店前の集合場所に戻ることにした。

img017 (2)サムゲタン

img017 (3)サムゲタンの付け合わせ

ソウル市庁舎前からソウル中央郵便局に向う小公路の途中に沖縄県コンベンションビューロー・ソウル支局がある。その近くに参鶏湯(サムゲダン)の専門店があり昼食はそれにした。薬鶏と呼ばれる若鶏の中に朝鮮人参、もち米、ナツメなどの漢方藥食材を詰めてじっくりと煮込んである。大きなどんぶりに白濁した汁と共に丸ごと入っている。あっさり味でいかにも滋養がありそうな料理である。鶏肉をほぐしてもち米と混ぜてお粥のようにスプーンで食べるのである。テーブルには粗塩が準備されているので好みの塩加減を調整すればよい。大根の角切りキムチ、パクチョイに似た野菜のキムチ、鶏の砂肝炒め、スライスにんにくを軽く炒めたもの、コチュジャンの小皿などの付けあわせが出た。鶏肉は簡単に骨から外れるのでコチュジャンにつけて食べるのも良い。小指大の朝鮮人参が鶏の中から出てきたので噛んでみると特有の生臭さが口中に広がった。体が火照ってきて生気を取り戻したような気になった。食事のたびに体が熱くなる料理ばかりである。やはりこの国の冬の寒さは特別なのであろうと思った。

img018 (2)清渓川のオープンフェスティバル

img018 (3)屋台の豚の丸焼き

昼食後は今日のソウルのメインイベントである清渓川オープンフェスチバルを見に行った。日本の植民地時代に市内を流れていた清渓川が埋められたが、親水河川公園として整備されたのである。ソウル市民にとって旧日本帝国からの復活を意味するものでもある。イベントは9月30日から10月3日まで開催されて数十万人の参加が見込まれているという。約2kmの河川公園と両側の道路は歩行者に解放されており大変な人だかりである。路地には屋台が立ち並び、さながら日本国内の夏祭りの雰囲気を演出していた。ただ、群衆は僕らが日本人と知ってか、日本の祭り会場で出会うような和やかで楽しげな視線を送る者は無く、全くの異邦人として人の群れの中をうろつくばかりであった。半日の散歩で歩き疲れた頃、誰かが「ソウルは満喫したね」と言うと、誰もが「満喫ソウル三日間の旅」と旅行社の宣伝文句を口々に言い出した。そしてぼくらはホテルへのなだらかな坂道をゆっくりと歩き出した。

ホテルのレストランでコーヒーを飲んで雑談している間にガイドのチョンさんがやってきた。空港へ送ってくれる約束の午後3時である。午前中に10kmの市民マラソンを走ってきた割には元気である。本人は「もう足がパンパンだわ」といいながらも笑顔で話しかけてきた。来たときと同じイエローバスで空港に向った。今日は晴れていて海中道路から見える海は、潮が退いて赤い色の海草が浮かび上がり不思議な景観である。空港に向かう途中の埋立地に建設された新町という名の問屋街で降りて土産を少しばかり求めた。この区域は大規模な臨空都市計画が進んでおり、外国人向けのカジノなど外貨獲得産業の誘致が計画されているそうだ。

img019 (2)赤い海藻の海

img019 (3)夕暮れの空港

ホテルを出発して2時間ほどで空港に着いた。チョンさんは出国チケットの手続きを済ませ、我々を出国ゲートに案内した。笑顔で一人ひとりに握手して僕らを送り出した。混雑したイミグレーションを通過して48番ゲートの待合室に着いたのが午後6時少し前であった。滑走路は既にオレンジ色の誘導灯が点灯されていて夕闇が迫っていた。離陸の時間まで残り1時間40分である。私はゲート近くのカウンターバーで一杯4ドルのビールを飲みながら空港が闇に包まれていく様を眺めた。そして3日間の少し窮屈な旅を振り返っていた。私にとってこの国は複雑すぎて好感を持てるようになるには、プライベートな友人を見つけて何度か訪問する必要があるだろうと思った。

エピローグ

タイのバンコクで会った韓国のラン貿易商ヤンのことをすっかり忘れていた。「ソウルにきたらぜひ連絡してくれ」と言われていたが、思い出したのは帰りの空港の待合室でビールを飲んでいる時であった。バンコクでの通り客であり、深く繋がる人物ではなかったようだ。人の繋がりは酒を酌み交わし、本心が見えるような付き合いが必要である。私が好きな台湾、タイ、マレーシア、シンガポールは、何度か訪れてその土地の人々の暮らしの中に笑顔を見つけることが出来たからである。そしてその地は黒潮の海流で繋がる暖流の海の道の沿線であるからだろう。食べ物や気質が同じ源泉から湧き出ている気がする。言語は異なるもすぐに打ち解けることが出来るのは、遥か昔は親族であったとの感性を互いに持っているのだ。残念ながら生粋の南方系の人間にとって、ソウルの景観や僅かな滞在時間で一般大衆から受けた触感は、この地の文化・交友関係に馴染むにはかなり高いハードルをクリアする必要を感じた。南大門市場の中や清渓川オープンイベント人混みの中を歩いても「ウエルカム」「ウエアフロム」の声や興味深々の視線を受けることは無かった。地元の人々のバカ笑いの声すら僕らの前から消えていた。あの東南アジアの屋台や土産店、雑貨屋から発する笑い声をこの地で見つけることが出来なかった。ソウルの人々は日常生活の中で笑いを押し殺して暮らしているのだろうか。バンコクで会った陽気なヤンもこの地では無口で礼儀正しくひっそりと暮らしているのかも知れない。北の国の文化は容易に理解できる気がせず、ましてや馴染むことなど不可能な気がした。我々南方系の民族は沖縄の方言で「イチャリバ、キョウディ」(出会えば兄弟)との感性が文化として染みついており、北の国の人々と義兄弟になるには限界があると感じた旅であった。そして普段の遊び仲間以外の人達との団体旅行の窮屈さをしみじみ知らされた。旅行友の会の旅は今回を最初で最後にして退会した。積立金は私の旅行用通帳に払い戻してもらった。どのような旅でも心に残る良い風景、良い交友、良い文化習慣に接しなければ疲れてしまうものである。しかし、海外の旅は容易に非日常の景観、空間、体験を提供してくれる。それは日々の自分の生活空間だけが現実であるとの錯覚を、否応なしに是正してくれる効果的な手段でもあるのだ。

「完」

2021年10月22日 | カテゴリー : 旅日誌2 | 投稿者 : nakamura

一族の由来を訪ねて(北部編)

一族の由来を訪ねて(北部巡り)

10月の最後の土曜日、私は遅い夕食を一人で取っていた。夕食と言っても公民館から支給された弁当と缶ビールが2缶である。家内は実家の母が入院中で父の世話に出かけており不在である。いつもは会社帰りにスーパーマーケットで自分の好きな食材を求めて簡単に調理しているのだが、この日は村の豊年祭があり、出演の返礼の弁当と酒が振る舞われたのだ。公民館の近くに空手道場があり、25年ばかり手習いをしている。門人と共に空手・古武道の演武と赤瓦、木製バットの試し割りを行ったのだ。公民館長の岸本さんは舞踊や寸劇など区民の舞台演目を楽しんでくれと勧めたが、素人の田舎芝居に興味が沸かず、礼を言って引き揚げてきた。道場の館長だけは村の有志に義理立てして会場に残り、門人は引き上げてきたのだ。シャワーを浴びて弁当を開いた。昼食弁当と異なり祝いの酒の褄を意識して作られていて中々気が利いていた。テレビを見るともなく眺めて冷蔵庫から2缶目のビールを取り出して栓を抜いてグラスに注ぎ足したところで携帯電話のベルが鳴った。1-1空手村祭りでの空手演武(剛柔流・砕破の形)

「カズか、明日の今帰仁巡りは参加するのかい」兄からである。私は一族の7年巡りの件を思い出した。3週間前に南部巡りが終わって、2週間後の先週の日曜日が今帰仁巡りであったが台風18号の影響で1週間遅れたのである。私は気乗りしなかったのであるが兄からの電話で行くことにした。

「ああ、そのつもりだ」と答えた。

「じゃあ、車を出してくれないか。家内が車を使う予定があるから」

「いいですよ9時前に迎えにいくから」

兄は半年前に定年退職して実家に戻り両親と暮らすようになっていた。

午前8時50分、実家の門前に車を停めた。既に兄は熱帯果樹ピタンガの生垣で仕立てられたヒンプンの前に立っていた。ヒンプンの斜め後ろには母がタイル張りの濡れ縁に立っていた。いつものように鼻から細長いチューブを引いている。肺の機能が低下しており酸素濃度を上げる機械に繋がっているのだ。15m程の細い透明なチューブを引いて家の中を歩き回っている。濡れ縁までが行動範囲である。私は車から降りて右手を上げ「おはよう」と声をかけた。母は目を細めて誰かを確認する仕草で言った。

「カズーか?」

「ああ、今帰仁巡りに行ってくる」そう言って笑顔で答えた。

「行きましょうか」と言って運転席のドアを開けた。兄は「会社の車か」と尋ねて助手席に乗り込んだ。「ああ」とだけ答えてエンジンスイッチを押した。エンジンモニターが点灯し、プリウスは小さく震えてモーターが作動した。アクセルを踏んで車を発進するとモニターがカーナビに変わった。兄は珍しそうにそれを見ていた。「テレビも見ることができるよ。でも朝のこの時間の番組には面白いものは無いね」と言った。兄はモニターから視線を外した。兄には私が小さな造園会社に勤めていると話しているだけで役員車両を持つ会社での役職については一切話していなかった。むろん彼の退職時の会社での役職について尋ねたことも無い。兄は最近まで県内随一の建設資材を製造する企業の試験室に勤めていたらし。私の会社はその企業の100分の1以下の規模である。それでも私は常々牛の尾になるより鶏の鶏冠でありたいと思う主義であり、大企業に属する一員としてのステイタスより自分の個人の力を頼りに生きるのが好きだ。

公民館までは500m程だ。公民館広場のガジュマルの下に車を止めると、すでに多くの親族が集まっていた。宏幸叔父が弁当を片手にゆっくりと歩いてやってきた。自宅は公民館の近くである。私が夕方に21世紀公園をジョギングしていると、時折自転車で散策している姿を見かける叔父である。腕の良い大工であったと父が話していた。父より5歳ほど年下であったはずだ。

「叔父さんこれに乗りなよ」と声をかけた。

「おお、カズか。良い車だな、新車だな、お前のか」

「俺のじゃないよ、会社の車だ。これで行こうぜ」そう言って車の後部ドアをあ開けた。叔父が車に乗り込むと一族の当主である宏春叔父の元に行って今日の道順を尋ねた。

「毎回の通り、初めに運天港の近くの百按司墓を訪ねよう。私の車の後ろを追いかけてきてくれ」そう言った。

私が公民館の自販機でさんぴん茶のペットボトル3本を買って戻ってくると宏春叔父は「皆さん出発しましょう」と言って車に乗り込んだ。20名ほどの参加者である。私は車に乗り込んで叔父と兄にペットボトルを渡した。叔父に「ビールでなくてごめんね」と言うと

「馬鹿たれ、俺はもう酒は飲まないよ」苦笑いした。

宏幸叔父公民館の近くにある建設会社神山組でも一番腕の良い職人であったらしいが酒が過ぎるのが欠点だったなと父が言ったことを思い出して叔父をからかったのだ。今朝、父の姿を見なかったが、既に150坪ほどの菜園に出かけた後のようであった。宏幸叔父には父のような野菜作りの趣味は無く、もっぱら飲むことのようである。

宮里公民館前を出発した一行は、5台の車列で58号線に出てゆっくりとした速度で北上した。程無く伊佐川交差点にさしかかり左折して今帰仁村に向かう国道505号を進んだ。

「この頃は街でも田舎でも軽自動車が多くなったね。税金が安く、取得時の車庫証明が必要ないからかな」と兄に言った。

「それもあるかもな。今度4輪駆動のパジェロを下取りに出して、軽自動車のワゴンタイプを注文したよ」

「新車は結構な値段がするだろう」

「ああ、100万円を超えるから嫌になっちゃうよ」少し自慢げに言った。

兄は父母の病院への送迎に乗り降りが便利なスライドドアの低床のワゴン車に替えたのだと思った。釣り好きの兄は長い間オフロード車のパジェロのショートタイプを愛用していたが、車体が高く80歳を過ぎた老人には乗り降りが難しいのだ。奥さんが普通乗用車を所有しているが、車検が満了するのを機会に1台の自家用車にするつもりのようだ。私は兄が父母との暮らしに次第に慣れてきたように感じて安堵した。30年以上も夫婦だけで暮らした生活から父母との暮らしになれるのには心の切り替えが必要で神経がくたびれるのだろう。私は叔父が退屈していないかと思い、カーナビをテレビ画面に切り替えた。

「叔父さん、近頃の車はテレビ付きだぜ」と信号待ちの交差点で後ろを振り返って話しかけた。叔父が身を乗り出して画面を見つめた。

「おお、大したもんだ。高級車に乗っているな。お前は会社で社長をしているのか」

「よせやい、今時その辺のガキの車にも付いているぜ」と笑った。

1-2トンネル

車列は羽地内海沿いをしばらく走って湧川の坂道を上った。大きな道路標識に矢印で直進は仲宗根、右折は運天港とあった。僕らは右折して村道を進んだ。ししばらく進むと右折運天港の表示がある集落に入った。港に向かう県道72号を横切って集落の中に入った。旧道である。500mほど進むと運天トンネルが見えた。大正13年に作られて平成9年に改修工事がなされている。中型8トンのダンプトラックが通行できる間口だ。トンネルの向こう側に運天集落の港がある。新港が出来るまでは地元漁民の漁港と古宇利島への艀の港を兼ねていた。琉球王朝の尚巴志が三山を統一するまでは、北山城主の中国王朝との貿易港として利用されていたとの歴史を持っている。源為朝伝来伝説の港でもある。現在は新港が整備されて県道72号線が名護市まで続いている。那覇空港までのシャトルバスの起点であり、午前11時30分那覇空港発のバスに乗れば伊平屋、伊是名へ向かう午後3時発のフェリーの最終便に間に合う。トンネルの手前を左折して細く曲がりくねった坂道を上って頂上近くの広場に車を停めた。

1-3運天港公園

沖縄海岸国定公園・運天港園地の立派な表示板が立っていた。看板には環境庁・沖縄県と附則されていた。拝所の入り口には真新しい表示板があり百按司墓と矢印があった。その下の石柱に運天港散策道・田園空間整備事業と彫り込まれていた。管理者は今帰仁村との表示も見えた。沖縄本島北部地区町村の活性化事業である。私の職場からそう遠くない本部町具志堅集落の農耕放置湿田地帯でもこの事業が行われていて、レンタル農園、農産物販売所、集会研修施設などが整備されているのを思い出した。立派な親水公園として整備されているが人影は少なく活性化事業の効果はどうであろうか。国の箱物行政の典型的な一例であろう。

拝所の途中までコンクリートの石段と歩道が続いており、老齢の親族には有難いものだ。以前に来たときは崖の急斜面に造られた藪の中の小道を足元を気にしながらそろりそろりとあるいた記憶がある。今でも倒木が歩道に横たわった場所もあり、細かい手入れはなされていないようだ。箱物行政は管理予算が不足気味であるのは何処でも同じである。

2ムムジャナハカ百按司墓

百按司(ムムジャナ)墓は首里王府から派遣された北山城監守役の武将の遺骨が納められた風葬墓だ。実際に三山統一以前の今帰仁城は内紛によって3度の火災を起こしている。口伝から作られた村の豊年祭に演じられる歌劇には、城主をだまし討ちにした謀反人を城主の子息が仇討の本懐を遂げて城主に返り咲く物語が演じられている。集落に残る口伝は歴史書から漏れた史実の形跡の一部である。それ故、三山を統一した尚巴志は配下の武将を北山城に派遣して地方豪族の反乱に備えていたのである。我が一族の始祖と言われる尚泰久も城を守った時期があり、今帰仁巡りの原点がそこから始まるのだ。王族の身内が北山城の責任者を廃したのは200年後の第二尚氏の7代目からだ。この墓は任期を終えて故郷の首里に戻ることを夢みながら無念のうちに果てた武将の亡骸が眠っているのだ。眼下に運天港が望め、港からは第一尚氏の発生地伊平屋へ運航するフェリーいへや300人乗りの寄港地だ。古宇利島と屋我地島に挟まれて風雨を遮る場所であり、水深が深く1万トン級の貨物船でも入港できるのだ。戦時中は哨戒艇が港のさらに2km奥の現在の湧川マリーナの近くに係留されていたらしい。

3名護連山名護岳を望む

拝所の墓は岩山の岩石の突き出た部分の根元に石を積んで作られていた。突き出た岩が雨除けの庇となっており、あちらこちらに豆粒ほどの小さな鍾乳石が下垂していた。この場所は本部半島の嘉津宇岳と本島北部の連山の一つ多野宇岳の間のなだらかな陸地を隔てて名護岳の中腹が望める。北山城址までは直線で5km、古道を歩けば10㎞だろうか。北山城で謀反があれば名護城に狼煙で知らせることが可能である。運天港から船を出して王府へ連絡することもできる。尚巴志が北山王を攻めた時の協力者が名護城の豪族であった。名護岳から読谷村の座喜味城までは海路の見通しが効く連絡体系である。座喜味城から越来城、中城城、首里城と狼煙が伝わるのである。北山城は南に本部半島嘉津宇岳、八重岳がそびえており緊急の連絡は東回りの運天集落経由、あるいは西回りの本部町備瀬崎経由の狼煙である。名護岳から恩納岳へと続く稜線は故郷の首里に思いを馳せる場所であっただろう。この場所は1420年代に始まった琉球王統の行政の下で、遠く首里城から派遣されて故郷に戻ることなく逝った武将たちの思い籠る場所でもあったに違いない。長い年月の間に岩から染み出る石灰質の雫は王府の按司(武将)の涙にも似て小さく垂れ下がって白い鍾乳石に変わっていた。

当主の宏春叔父の音頭でそれぞれに配られた平線香を手にして最初の御願をした。前回の南部巡りの御願の様に私はどこそこの誰であるとは言わなかった。ただ祈るだけであった。

4為朝碑為朝碑

この園地には源為朝が上陸した記念碑が建っている。口伝によると為朝が運を天に任せて上陸したのがこの地であり、故に運天という集落名がついたとのことだ。沖縄県には運天という姓もあり、確かなことは分からない。為朝上陸は確かでないが、この運天港からマツノザイセンチュウが本土から侵入して、沖縄県の琉球松に甚大な被害を与えているのは研究者の報告で証明されている。米軍統治下の沖縄県は本土各県からの原木、土砂の移入が制限されていたが、本土復帰後に整備された運天新港から赤松の原木が移入されており、運天港周辺から琉球松を枯死させるマツノザイセンチュウが上陸したのである。眼下を「フェリーいぜな尚円」が出航していく。1日2往復の1便目の戻り船である。伊平屋島とその隣の伊是名島には平家の落人が来島したとの口伝がある。伊是名島は第二尚氏王統の初代尚円金丸の出身地である。郷土歴史家の亀島靖先生の説によると第一尚氏も第二尚氏の金丸も平家の落ち武者であろうとのことだ。体格に恵まれ新しい知識が豊富で日本語を話すことから琉球の豪族に日本国との貿易上の才覚を認められて出世したのだと。尚巴志の父尚思紹や金丸が村から追い出されたのは、出来すぎる者への嫉妬から来る村八分の意味を指しているのだ。柳田邦夫の学説「黒潮の道」は、日本列島から台湾、フィリピン、シャム、マラッカ海峡へと続く交易文化の基礎となる黒潮の海流が作った歴史のロマンである。

5ティラガマティラガマ拝所

百按司墓の御願を済ますと近くの丘にあるティラガマ(洞窟)に移動した。宏春叔父が歩いて行こうとすると宏幸叔父が「歩くには少し骨が折れるから車で移動しよう。ちょっとした広場があるから」と言って車に乗り込んだ。私は前回来た時のことを思い出して確かだと思った。しかし、宏幸叔父は前回の御願には参加していないはずだが妙に詳しいなと不思議に思った。200mほど車で移動すると宅地造成地の広場があり、そこに車を停めた。

藪の中の小道を進むと洞窟の前に出た。地面にぽっかりと開いた洞窟の前に香炉があった。洞窟は地下に続いており人が下りることが出来そうだ。以前は人の出入りがあった形跡があった。この洞窟はミルクガーと呼ばれていて中には豊かな水源があると秀明さんが得意げに説明した。そのあとでチラリと奥さんの幸子さんのほうを向いた。物知りの幸子さんの受け売りに違いない。若いころから運動は得意であったが知識の方はあまり得手との印象は無い男だ。宏幸叔父が「このガマは4km先の仲宗根集落まで続いているそうだ」とボソリと私に言った。ガマの前の香炉に線香を立てて皆で拝んだ。宏春叔父はこのガマではなくてこの近くに御先祖の武将の屋敷跡がありそこを拝むのが筋であると言って、新品の鎌を手にして藪の中に入って行ったが、何も見つけることは出来ずに引き上げて来た。産婦人科医という彼の職業柄からメスやピンセットの扱いは得意でも農耕具の鎌は不慣れのようであった。一緒に藪の中に入った息子の宏樹とて外科医であり鎌を手にすることは無いだろう。早々に引き上げてきて言った。

「前回来た時には探せたがもう分らなくなってしまった。この辺りに見当をつけて拝むことにしましょう」僕らも叔父の指示に従って手を合わせた。

6-1古宇利古宇利島

車を停め広場に戻ってあたりを見回すと別荘が数軒立っていた。ピザハウスの看板を上げた家もある。向かいの古宇利島がすぐ手前に見えた。まるで陸続きのような感である。古宇利島の高台にはかって狼煙を上げた場所が記念碑と共に残されている。琉球列島を結ぶ海上のランドマークとしての島々の頂に同じ場所が残っている。奄美大島、徳之島、与論島、沖縄本島の最北端辺戸岬、伊平屋島、伊是名島を中継する古式通信手段の跡である。琉球王府は北から来る日本武士団への警戒を怠っていなかったのだ。南へは門戸を開き中国王朝、日本の海賊倭寇とは友好関係を保っていたのだ。島の端にはリーフが連なっており白い波が立っていた。その向こうは未だな夏の色を残した透明なブルーの海が広がり、そのはるか向こうに伊平屋島と伊是名島が浮かんでいた。島の上には雨を予感させる厚い雲が低く流れており、秋特有の抜けるような青空ではなかった。右手の森の陰から突然にフェリーが出てきた。船首に書かれたフェリーいへやⅢの船名がはっきりと読み取れる距離である。伊平屋島から出た朝の第1便が帰るのである。1日2往復で午後2時に2便目が入るようだ。古宇利島のリーフを過ぎると煙突から黒い煙を吐いた。エンジンの出力を上げたようだ。本部半島と伊是名島、伊平屋島の間はとても水深が深く北から南へと強く速い海流が流れている。為朝、尚巴志一族、尚円金丸を北の日本から運んだ黒潮の反転海流だ。島へ向かう船はエンジンの出力を上げ、右に舵を切ってやや北向き船艇を保って斜めに滑るように進んでいくのだ。船首を島に向けると横からの強い流れに持っていかれるのだ。その代わり運天港に向かう船は海流に押されて滑るように進むのである。島と本島を結ぶ船の往復の航行時間が異なっている。ただし運賃は同じである。誰も声を出さずに船を見送っていた。船は僕らの視線を振り切るように点になって島影に染まって消え去った。

6-2帰港するフェリー帰港に向かうフェリーいへやⅢ

「次は大井川の昔墓に行きます」宏春叔父の声につられるように皆は車に乗り込んだ。

7昔墓昔墓

大井川の河口に昔墓がある。現在は「かりゆしばし」のたもとであるが、20年程前は湿地の中の藪を通って墓参りに行く難儀な場所であったらしい。

8-1今帰仁酒造今帰仁酒造と酒の貯蔵タンク群

川向には今帰仁酒造の工場がある。大きなステンレス製の貯蔵タンクがある。昨年の春先に北部地区安全管理協議会役員として10名ほどで工場点検業務の名目で訪れたことある。ISO9001の認定をうけた企業は点検項目の一つとして協議会の役員を接待代わりに施設案内してくれるのだ。沖縄県の酒造所は先の大戦で多くの零細工場が被災によって消滅したのだが未だかかなりの数がある。県内市町村の7割には酒造所があるだろう。現在本島北部12市町村に10社が存在するのだ。今帰仁酒造の工場長の咲村さんが言ったのを思い出した。「うちの会社には古酒貯蔵用の150トンタンク6基があります。これだけの量の酒を誰が飲むのでしょうかね。それでも毎日製造しているのですよ。沖縄県民はほんとに大酒のみばかりですね。ありがたいことです」と笑っていた。ちなみに泡盛の原料であるコメはインディカ種の輸入タイ米である。これを発酵して造る蒸留酒である。日本酒よりウイスキーに似た製法である。地元の沖縄県産米はジャポニカ種でもっぱら食用である。大戦前の古酒造りの貯蔵壺は東南アジア産の南蛮瓶であった。現在でも個人の古酒貯蔵は瓶である。今帰仁酒造ではウイスキーの製法を真似て樽仕込みの泡盛も製造されている。工場の倉庫に酒樽が整然と寝かせられていた。その横のガラス張りの部屋で若くもない女性たちがボトルにラベルを手作業で張って段ボール箱に詰めていた。私が「琥珀色の泡盛は手作業するほど貴重品なのですね」と話すと、咲村さんが答えた。「樽で寝かせて質のより古酒にするとウイスキーのような濃い色の泡盛になるのです。樽のエキスが出すぎるのですよ。そうなれば日本の酒税法では泡盛の分類から外れてウイスキー並みの課税となります。ウイスキー並みの税金では採算が取れません。だからオートメーション化せずに酒の色をチェックしながらの少量生産の色付き泡盛に留めているのです」

原材料や酒の濃度でもなく酒の色が酒税法に関わるとは強い酒を好まぬ軟弱な国家官僚の考えそうなことだと思って可笑しくなった。土産に今は手に入りが難い平瓶の1合ボトルを貰った。何年か前に台湾とマレーシアの友人たちとタイのラン生産者を訪ねたことがある。夜の飲み会ではタイ米で作られた蒸留酒は見当たらずジョニーウォーカーの黒ラベルを飲んでいたのを思い出した。必ずしも主食の炭水化物で酒を造るとは限らないようだ。私も五升壺を二個と金箔入り2升瓶を2本押し入れに保存しているが10年以上も忘れたままになっている。朝鮮人参を漬けた泡盛もあったはずだが、一度仕舞うと失念するようだ。

墓は川沿いのビーチコーラルで出来た岩場に彫り込まれて作られていた。ここに葬られているのは1416年の北山城滅亡の戦で死んだ者やあまり位の高くない侍とのことらしいが定かではない。入り口が小さな四角の穴墓が幾つもある。宏春叔父はどれを拝むべきか良く分からないらしく、全体が見渡せる場所に線香を並べて御願した。僕らもそれに倣った。マングローブ林の潮だまりで釣り糸を垂れている人が珍しそうにこちらを見ていた。僕らは長居せずに次の拝所に向かった。

9湧水池湧水の拝所

大井川の上流に湧水地が拝所である。沖縄では多くの古い湧水地が拝所である。干ばつが起こりやすい島嶼文化圏では湧水地は人の生活の基盤となってきたのだ。現在の様な浄水施設や水道設備の無い時代には枯れることのない湧水地は神々の宿る信仰の対象地であったのだ。沖縄本島で干ばつによる断水騒ぎが亡くなったのは、灌漑ダム整備が充実した僅か10年前である。県内のほとんどの民家は貯水タンクか飲料水として使える井戸を備えていたのだ。私の自宅も現在では使っていないが、ステンレス製の2トンタンクを備えている。この拝所は、王府へ献上するターウムと呼ばれる湿地で育つ里芋の1種が栽培されていたと伝わっている。最近まで養鰻場があったらしくコンクリートの囲いがされていた。現在は廃墟となっている。水面を覆ったホテイアオイが淡い紫の花を咲かせていた。それでも湧水の利用者はいるようで取水ポンプが断続的に作動していた。湧水は取水で変化することなくこんこんと湧き出て養鰻場のコンクリート壁に沿って下流に流れ出ていた。

10ホテイアオイ養鰻場跡と今帰仁村の文化施設

先ほどの汽水域の湿地と異なり山手の湿地は藪蚊が多い。皆で祈願して早々に車を停めてある県道脇へ向かう坂道を上った。私は宏幸叔父に話しかけた。

「今でもウナギの需要は多いだろうに、ウナギ商売は儲からないのかね。これだけの水量があるのだがね」

「養鰻場跡地の向かいに今帰仁村の中央公民館があっただろう」

「田舎にしては立派な施設だね」

「この場所は大昔からの湿地だろう。建築用パイルをたくさん打つ必要があるのさ」

「そうだろうね。県道79号の下り坂の右側はこの辺りから湿地が広がっていたであろうから」

「それでさ、パイルを打つと振動でウナギがえさを食わなくなるそうだ。町役場の改築に始まって、中央公民館、学習センター、物産センターと10年近く工事が連続したのよ。人間には感じない振動だがウナギには致命的だったそうだ。その当時はだれも知らなかったのだ。ただウナギの食欲が低下したことで成長が遅くなり採算が取れなくなって廃業したそうだ」

「確か、製糖工場の出資会社であったと覚えているが」

「ま、本業の製糖業に専念したわけだ。それで原因を深く追及しなかったのだろう」

「叔父さん物知りだね。見直したよ」

「ああ、大先輩を尊敬しなよ」

「御見それしました」そう言って褒めると叔父さんは頭を搔いて言った。

「実は桃源の里のお楽しみ見学会で今帰仁村の名所を2度ばかり回ったのさ。その中の物知り男の説明で勉強したわけよ」

「なるほどね」私はそう言って相槌を打った。宏幸叔父が老人福祉法人「桃源の里」のディケヤサービスに通っているのは、アルコール依存症の改善のためだと父から聞いた記憶があった。一人息子夫婦が手続したのであろう。酒で悪さをする人ではないが健康管理に不安を感じたのかもしれない。

11植物群落諸志の植物群落

一行は諸志の植物群落保存区の広場に車を停めた。この場所は古くからの拝所であり、ノロ(女神)等地位の高い人々の風葬墓があった場所だ。このような人々は一般庶民の様にない近くの風雨にさらされた荒れた場所に葬られたのではないようだ。畑地や宅地としての開発から免れて植物群落として残ったのは、神々の祟りを恐れた住民がこの地の植物を採取することなく今日まで至ったのだろう。幹回りが60cmあるクロキが生えている。三味線の竿に使うと1本30万円以上の品が何本取れるだろうかと思うが、祟りもその分だけ子々孫々に伝わるだろう。沖縄で三味線の絶品となる竿の材料が残っているのは、波照間島の風葬墓の周辺に生えるハマシタンの古木など誰もが恐れる場所だけである。三味線は古くから人の思いを奏でる楽器であり、祟りと縁が深いのは確かだろう。琉球古典音楽の三味線は古人の思いが強く表れる音色である。前々回の御願では林の中の拝所まで入って線香をあげたが、小道が分からなくなるほど草木が茂っており、林の入り口で線香を上げた。そして道向かいの小川でも線香を上げた。其処も拝所となっているらしく古いコンクリートの小屋が設えてあった。

12カー拝所のカー

13諸志のフクギフクギの屋敷林

僕らは国道を横切って集落の中を歩いて次の拝所に向かった。諸志集落は古い歴史があるようだ。海岸に程近く砂交じりの土地である。屋敷林としてフクギが植えられていた。フクギは防風林としての機能が高く海岸に近い古い集落では今でも見かけるがコンクリート住宅の普及で少なくなりつつある。この集落は北側が海岸になっておりフクギは冬季の季節風から集落を守っているのだろう。目的の家は海岸に近い場所にあった。敷地の右端に2坪ほどの小さな拝所が設えてあった。宏春叔父は家主に挨拶をして拝所の木製の引き戸を開いた。祭壇の右端に模造品と思しき古刀が立て飾られていた。誰かが刀があるねと話すと宏春叔父と同年配の宏政さんが言った「昔僕らが中学生の頃であったが、あの刀を祭壇から降ろして宏春さんと二人で手に取って見ていたらハサマの大祖父にひどく怒られたことがあったな」

「そうだったね、刀を手にして鞘を抜きはらい村の豊年祭で演じられる按司の真似をしたのだったね」

二人が懐かしそうに笑っていると、いつの間にか家主の女性が微笑みながら話しかけてきた。

「尚泰久王様から拝領した本物の刀は小太刀だったのですよ。戦時中に金属の拠出指令で軍に提供してしまったのです。その刀は戦後に仲宗根集落の鍛冶屋に頼んで作ってもらったのですよ」老婆は情けなさそうに話してくれた。

14セリキヨ世利久の祭壇と右端の刀

僕らは皆で合掌してその拝所を離れて車に向かって歩き出した。

私は物知りの幸子さんに話しかけた。

「刀が尚泰久王からの贈り物だとすると、あの家は世利久の実家ということですかね」

「あら、貴方はそれも知らずに御願していたの。車を停めた向かいの拝所も世利久がノロとして活動した拝所なのよ。困った人ね」そう言って笑った。

「幸子姐さんは一門の祭り事に詳しいですね」

「私の初孫は未熟児で生まれたの。それで祖先の元を訪ねて孫が健康に成長してくれるように祈ったのよ。7年廻りとは別に秀明と二人でね。中南部の御先祖と少しでも縁のある拝所は全て廻ったわ。伊波城址、読谷村の尚巴志の墓、添石の拝所などもね」

「1日では回れないでしょうね」

「丁寧に御願したので4日は必要だったわ。おかげで孫は元気に成長してくれたわ。いまでは少年サッカーのチームに入って真っ黒に日焼けしているのよ」そそう言って嬉しそうに笑った。

「念ずれば御先祖は我々を守ってくれるのですね」

「そういう事、信心が一番よ」

僕らは車で今泊集落の民家に移動した。この家は北山城に上る役人の逗留場所であったそうだ。北山城の監守に謁見する前に身だしなみを整えて城からの呼び出しを待つ宿舎のような役割の場所である。大学ノートに礼拝者の記録があった。本日は我々で4件目である。丁度12時を回ったところであるから午前中に訪れた人たちだ。那覇市、糸満市等南部からの来訪者だ。前日の土曜日の記録もある。皆御先祖が行ったようにこの家で礼拝して北山城の上るのだ。1416年に北山城主樊安知が尚巴志に滅ぼされてから600年を経て尚、北山城を参拝する琉球王府の士族の末裔がいるのだ。尚泰久もこの北山城に関わり、我がハサマ一族御先祖の誰かも何らかの役割でこの城に関わってきたのかもしれない。郷土史家によると「元は今帰仁城」と言われる口伝があり、北山城をめぐる5度の戦の敗残者が沖縄各地に離散して行った。北山城は千年前の平安時代から存在していたのだ。そして尚巴志が三山を統一するまでは支配地の面積が琉球に群雄割拠する武士団の城主の中で最も大きな領地を支配していたのだ。北山城に関わる末裔が長い歴史の中で全県下に流れて行ったとの説である。

この屋敷は北側が10m程の盛土になっており防風林のフクギが植えられている。庭にはリュウガンの古木が生えていて棒蘭(Luisia teres)と呼ばれる沖縄の野生ランが着生していた。沖縄県では古くからリュウガンの木は由緒ある家に植えている。中国南部から伝わった果樹である。果実は皮を剥くと竜の眼に似た実があり、食することが出来る。漢方薬としての薬効もあるらしい。中国南部の広東省にはリュウガンの果樹園が大きく広がっている。ムクロジ科でレイシの近縁種であるがレイシほど美味しくは無い。木造住宅の一室が礼拝所として使われていた。年配の方数名が線香を立てて座して祈願した。僕らは軒下から祭段に向かって祈願した。この家の主人も愛想がよかった。ただ神棚の近くに販売用の守護神札や祈願飾りが並べられており、南部巡りの拝所のような荘厳な雰囲気は無かった。ご先祖を頼みにする拝所としては違和感が残った。

15リュウガン

16ランリュウガンの古木と着生ラン

表に出ると国道が騒がしかった。高校駅伝らしい。白バイに先導されて地元の北山高校を先頭に、中部工業高校、八重山農林高校が競り合って駆け抜けた。県内の公認駅伝コースで男子の6区アンカーだろう。この先3kmに今帰仁村運動公園があるのだ。優勝校が12月に京都で開催される全国高校駅伝に選抜されるのである。団子鼻の宏政さんが言った。「ヨシ坊は走ったかな」

「宏吉は2区と言っていたから、走り終わっているね。ここはアンカーの6区だから」と誰かが言った。「残念だな。せっかく今帰仁まで来たのに」

皆は車に向かって歩き出した。午後1時である。

北山城址公園の駐車場に着くとそれぞれのファミリーでの昼食となった。本家の一族、分家の秀仁ハサマグァーの秀明さんのファミリー、そしてマガイハサマグァ-の僕らだ。それぞれのファミリーが弁当を持参していたが僕らは食堂に向かった。

北山城址は来るたびに整備が進んでいる。とりわけ世界文化遺産に登録されてからは駐車場整備とその周りに、売店、食堂、記念館が建っていた。この部分は歴史上の遺産発掘の範囲に含まれていないのだろう。駐車場の向こう側から文化遺産の敷地のようで発掘作業の表示板が立っていた。私と兄は宏幸叔父を伴ってソバ屋に入った。ソーキそば定食を注文した。ソーキそばにジューシー飯が付いているのである。宏幸叔父の弁当は小さく仕切の付いた器に巻きずし、チキンのから揚げ、サラダ、煮物、スパゲッティ、卵焼き、野菜炒め、酢の物など10種類の品が美しく並んでいた。

「上品で美味しそうな弁当だね」と私が言うと

「嫁が何処からか買ってきたのよ」と嬉しそうにはにかんで答えた。

食事が終わると外に出て隣の待合室に入って休んだ。私は地元の「おっぱ牛乳」が出店しているアイスクリーム店でターウム(里芋)を原料にした紫色のムベを3個買って兄と叔父さんに渡した。

「個々の名産らしいよ、デザートにどうぞ」と言った。

「紫色しているから紅芋が原料かな」と叔父が言った。

「いや、ターウムらしいよ」と言うとしげしげと眺めてから口にした。

「おお、美味しいな。甘いものはあまり食べないが、食後にはいいな」と笑った。

「辛い、酒のつまみだけでなく、たまには女子供が食べるアイスクリームもいいだろう。健康にも良いのだぜ」

「馬鹿野郎」と言って笑った。

休憩所で転寝をしていると宏樹が呼びに来た。城址の御願に出るらしい。外に出ると雲が厚みを増して早く流れ出していた。

2時30分、入場者には御願割引という奇妙な制度がありそれを利用した。300円割引の150円の入場券を宏樹が配って回った。

17北山城北山城址の石垣と門

城址の入り口には大きな松の木があり、その横に改札口があった。城門を潜り石灰岩で出来た石段をゆっくりと歩いて頂上に向かった。いつの頃に植えたのか知らぬが寒緋桜が並木となっていた。すでに落葉しており年明け2月の開花まで静かに北風の襲来に備えているようだ。現在残っている北山城の城郭はあまり広くない。首里城に次ぐ広さと言われているが確かな資料がなく復元が困難なようである。本丸部分が600年の風雨に耐えて残っているようだ。

18桜並木落葉した桜並木、毎年2月に桜祭りがある。

最初の御願は火の神を祀った祠である。隣に見事なフクギ立っている。巨木というほどの高さは無いが、太い幹はデコボコとしており、飛来物に叩かれて生き延びてきたのだろう。北に面したこの場所は台風、北風をまともに受けるだろう。太くこれ以上伸びないだろうという姿で威風堂々と立っている。フクギの大木は金武町の観音堂、久米島の琉球王府の交易所跡にもあるがいずれも平地の敷地内でまともに風雨に晒されてはいない。私は6年に一度の御願の度にこのフクギを眺めるが全く変わらない。まるで剛柔流空手の武人が三戦立で構えているように見える。鳥肌が立つほど見事だ。太くゆったりとしていて全く隙が無く、断崖の要塞に空を背にして立っている。この城は何度か火災に見舞われている。本当の吹き曝し城塞の頂上で幾百年の歳月を過ごしたのであろうか。岩石を積み上げて造られた要塞の地中にどれだけ深く根を下ろせばこの場所で自然の猛威に耐えることが出来るのだろうか。王者とは、真の武人とはかくあるべきだとこのフクギが語っているようであった。私は火の神に祈る一族の祈願と共にフクギの精霊にも祈りを捧げた。

19福木火の神の拝所とフクギの巨木

城址内では5か所で祈願する。次の場所は男子禁制の場所である。僕らは女性たちが祈るのを後ろで見守っていた。その次に伊平屋島に向かってお通しをするために城塞の北側に移動した。ただ雨雲は北の海を覆いつくし島影を消してしまっていた。宏春叔父は線香に火を付けて言った「北はあの方向だね。伊平屋島に向かって皆で祈りましょう」

僕らはそれに倣って合掌した。線香が消えぬ間に大粒の雨が落ちてきた。私は兄と宏幸叔父を誘って城址内の管理棟へ移動して雨が上がるのを待った。雨は15分ほどで止んだ。僕らは残り2か所で線香を上げて礼拝を終了した。そして雨でぬれた石畳を踏んでゆっくりと駐車場に向かった。

20伊平屋島雨雲に隠れた伊平屋島

坂道を下りながら本家の良子叔母が私に話しかけてきた。宏春叔父の妹で独身である。ハサマ本家は長男が那覇の県立2中で勉学中に肺結核で亡くなり、叔母も結核の影響で嫁ぐのを諦めたと聞いている。次男である宏春叔父が医学の道を志したのは長兄の病死に起因しているのだろう。敗戦後の沖縄から本土の大学で医学を学んだことや、産婦人科の開業費用の捻出によって本家は随分と資産を処分したとの噂である。

「カズ君、貴方たちの曾祖母のウシお婆さんのことで謝らなければいけないことがあるのよ。戦時中に亡くなったから貴方は知らないだろうけど」

「家に遺影がありますよ。戦前にハサマ一族の集合写真が残っていて、それからとトリミングした写真を飾っていますよ」

「ああそれね、戦前の南洋移民がはやったころの写真ね。一族の人間が南洋群島に出稼ぎに行くので集合写真を撮って皆に配ったのよ。一族の人間がバラバラに分かれていくのをお爺さんが心配したのよ」

「すごく気性の強そうな顔立ちの方に見えますが」

「私のお爺さんと同じくらいの歳で、シパマタ屋の7人兄弟の一番上の姐さんだったわ」

「シパマタ屋の恵一兄さんが昨年の衆議院議員選挙前に訪ねてきて、従妹の奈津美が国会議員に立候補するからよろしくと言っていましたね」

「彼女のお父さんはシパマタ屋の3男の息子で現在はコザに住んでいるわ」

「私の父と宏次叔父を残して一家が南洋群島のテニアン島に移民したのでウシお婆さんに中学まで育てられたと親父が言っていましたね。ウシお婆さんはテニアン島には行かずに沖縄で亡くなったらしいですね」

「そうなのよ。戦争が激しくなってウシお婆さんも私たちもシパマタ屋の後ろの森の防空壕に避難していたの。お婆さんはその頃マラリア性のひどい下痢を罹っていてその防空で亡くなったの。亡くなる前にお婆さんから書類らしきものが入った布袋を預かったの。それを家の仏壇の下の引き出しに収めていたのだけどね。米軍の空襲で家が焼けたので消失してしまったのですよ。戦争が激しくなっていたので中身を確認する間もなかったのですよ。今でも心残りなのです」

「お婆さんはとてもキチンとした人であった父は言っていました」

「そうね、お出かけの時は芭蕉布の着物をパリッと糊付けしていたわ。ウシお婆さんが通るとパリッ、パリッと布ずれの音がすると村の噂だったのよ」そう言ってほほ笑んだ。写真を思い出してさもありそうなことだと思った。

「お婆さんは何か本土の宗教の信徒であるらしく手紙のやり取りをしていたみたい。預かった書類に手紙も混ざっているようだったわ。戦争のせいではあるが貴方のお父さんの宏兄さん渡せなかったことがとても心残りなの」

「戦争は色々なことを消してしまうのですね」と返事した。私はふと母が話したことを思い出した。母が嫁いできて1年目の旧盆の頃のことである。

白装束の10名ほどの人々が訪ねてきたらしい。明らかに他府県の宗教団体らしき人々で、たくさんの倶物を備えて1時間ほども供養をして引き上げたといいう。その人たちの師と思しき人がここは仲村ウシさんの家ですか母に訪ねたそうだ。その日は母だけが在宅で何も分らぬまま様子を眺めていたらしい。夕方に畑から戻ってきた義母にそのことを話すと「お婆さんは変わった宗教を習っていたからね」だけ言ってその人々が置いていた倶物をキツイ眼差しで見つめたらしい。義母のウタさんは祖母のウシさんに劣らず気性の激しい人であったらしい。とりわけテニアンで夫を失い、幼子を抱えて戦火を逃げ回った気力は現代人には理解できないであろう。祖母一家の住むテニアン島から出撃したB52爆撃機が父の所属する海軍があった長崎県に原爆を投下したのも不思議な因果である。父のいた大村海軍基地に原爆が投下されずに長崎市内に投下されたので今の私がいるのだ。ただ、沖縄県平和記念公園の平和の礎に戦没者として記名された祖父は、行方が分からぬまま遺骨として帰郷することもなくテニアン島のジャングルで眠ったままだ。私は石畳を踏みしめながら千キロ以上も離れたテニアン島に一人で眠る祖父と6百年前に武士の勤め故に異郷で死んだ百按司の影を重ねていた。

僕らは日差しが天使の梯子となって降り注ぐ中を最後の訪問地本部町伊野波集落の並里家に向かった。僕らは伊野波公民館の前に車を停めて100m程の坂道を登り、満名殿地と呼ばれる家まで歩いた。最後の訪問地である。宏幸叔父さんは私に小声で言った。ハサマの大祖父はこの地はハサマ一門が拝むべき場所ではないと並里家の頭首から言われたそうだ。その場所は定かではないが伊野波集落の別の場所らしい。しかし宏春叔父はそのことを気にせずに本宅と離れの拝所を礼拝した。僕らもそれに倣った。これにて本日の御願は全て終了した。並里家は私の高校、大学の後輩で若くして事故で夭折した並里君の実家である。皆が休憩している間に本宅を訪ねた。線香を上げようと思って玄関の呼び鈴を押すも不在であった。彼とはタイのパタヤで開催された熱帯果樹の国際会議に同行した記憶があり、何度もゴルフを楽しんだ中であった。当時のオフィシャルハンディキャップ11の私が滅多に勝つことが出来なかった好青年であった。豪快な笑いと繊細な気配りを持つリーダー気質の男だった。本部町の町長を務めることが出来る器であり、地域の青年団期からもそれを期待されていた人物であったが、時の流れは彼を忘却の海へと一気に押し流してしまった。それでも彼が情熱を傾けて育成した熱帯果樹の栽培とその果実の加工品は一つの地場産業として一定の成果を上げ、今なお新しい事業展開を見せている。

21満名満名殿地の拝所

僕らは満名殿地の展望休憩所で少し休んで今年の南部・北部の7年廻りの終了を宏春叔父から告げられて散会した。そして坂道を下って公民館の駐車場に向かった。南部廻りに比べて見知った場所であり、移動距離も短く前回のような疲労感は無かった。私は帰宅途中で渡具知漁港に近い儀間鮮魚店の前で車を停めた。義父と宏春叔父の旧制第三中学の同窓生の弟の店である。店主は商工会の集まりで親しくなった間柄で馴染みの店でもある。店主頼んで大きめのカツオ1本を刺身にして3分割にしてパックしてもらった。3,500円を払って車に戻った。車に乗り込むと宏幸叔父に「夕飯時の晩酌のつまみだ。今朝釣れたばかりの近海カツオだ。本部まで来てカツオを買わないで帰ることもないだろう」そう言って1パックを渡した。

「おう、ありがとう。カツオ漁の本場の渡具知漁港で水揚げされたカツオはうまいだろうな」と叔父は喜んだ。

「晩酌で飲み過ぎないようにね」と言うと叔父はバカ野郎とは返答せずにはにかんで頭を搔いた。クスクスと笑う兄に1パックを渡して車を発進した。

6年後には宏春叔父は93歳である。その時まで7年巡りの習慣が残っているだろうかとふと思った。今の時代の時の流れが6年後まで同じリズムで続く保証と理屈は何処にもないのだから。

「完」

2020年6月27日 | カテゴリー : 旅日誌2 | 投稿者 : nakamura

一族の由来を訪ねて(南部編)

一族の由来を訪ねて(南部巡り)
1、(プロローグ)
10月初旬の午後3時、事務員の入れてくれたコーヒーを飲みながらゴルフ雑誌「アルバ」のページを退屈まぎれにめくっていた。2日前に品質管理システムISO9001の審査が終わって一息ついていた。従業員45名の造園工事を主な事業とする会社における工事部門の品質管理システムISO 9001の取得は実質的な経営上のメリットなどほとんどないのが現状である。現場職員に煩わしい数値目標やデータの収集を押し付けているが、仕事上の出来高が上がるわけでは無い。安全管理に多少のメリットがあるだけだ。品質管理マネージャーの私は、各工事の現場責任者に審査のポイントを説明して審査官からの質問に対応できるようにするのだ。品質管理上の不具合が発生する案件については私から審査員へ改善計画を提出して審査合格となるのである。毎年A4-100枚前後のファイルが追加されていくのである。水族館案内業務、植物リース業、フラワーショップ部門についてもISO 9001の対象に入れてはどうかと審査員は提案するが、これ以上の煩雑な事務処理はごめんである。工事部門だけはプロポーザル方式の入札に対応しており、ISO9001の取得は僅かに評価ポイントが上がる程度だ。落札の成否は入札価格が絶対的な要素である。総事業費が年間3億円に満たない会社にとってのメリットは少なく、名刺にISO9001の認証マークを刷り込むことで営業上のスティタスが得られるだけだろう。
ゴルフ雑誌には相変わらず様々なクラブのメリットが載っている。ゴルフはクラブの価格でなく練習量だけがハンディを減らす絶対条件である。2週間後の月例会で80を切るスコアを目標にしており、所属コースのレイアウトをシュミレーションしていた。ISO審査の準備で4日前の開催された造園業者会の定例ゴルフコンペをキャンセルしたせいでストレスがいくらか溜まっていた。
事務所のスライドドアがガラガラと開いので顔を上げると、フラワーショップの女子店員が顔をのぞかせた。事務所の横にフラワーショップを併設してあるのだ。
「失礼します。常務を訪ねてお客様がお見えです」
「どなたですか」
「年配の方でナカムラとおっしゃっています」
私は店員の後からショップに入った。色とりどりにラッピングされたコチョランの贈答用商品に囲まれた休憩スペースに初老の男性が腰かけていた。テーブルには買い求めたばかりのオンシジュウムの小鉢が置かれていた。
「こんちわ、叔父さんご無沙汰しています」
「カズ君元気そうだね。勤め先の病院のロビーに君の会社の花屋がリニューアルオープンとのポスターが張られていてね、それでこの場所を知ったのだよ」
「花を買っていただきありがとうございます」
町内の病院、公民館、食堂等、人の出入りのある場所にポスターを掲示してあったのだ。ハサマと呼ばれる本家の宏春叔父は近くのノーブル・クリニックに非常勤で勤めている。長い間那覇市内で産婦人科を開業していたが、施設の老朽化と一人息子が外科医になったことで閉業したのだ。80歳を超えたことも主な原因の一つである。クリニックでは婦人科と内科を診ているらしい。先の大戦中は義父の旧制中学の同窓生である。
「お義母さんの具合はどうかね」
「中頭病院の集中治療室から屋宜原病院に移っています。容態は安定しているようですが、意識もなく機械任せの生活を送っています」
「充君も大変だな。彼の体調はどうかね。以前に大動脈瘤の手術をしたはずだが」
「血圧は相変わらず高めですが体調に問題もなく、毎日母の面会に通っているようです」
「食事の世話や家の掃除等は嫁がしているのかい」
「いえ、私の妻が月曜から金曜日まで住み込みで面倒をみています」
「そうか。君も大変だね」
「子供たちも成人して家を出ていますし、単身赴任みたいにのんびりと暮らしていますよ」と笑った。
「ところで、2週間後の第三日曜日だがナ。7年巡りを予定しているのだよ。参加できるかな」
私はポケットから手帳を取り出した日程を調べた。所属するゴルフクラブのメンバー月例会が入っている。少し残念な気もしたが
「大丈夫です。何とか都合を付けます」
「そうか、良かった。その日は午前8時に宮里公民館前を出発だ。これが訪問先の道順だ」そう言ってカバンから茶封筒を取り出して中の紙を広げた。
「名護を出て最初に読谷を訪ね、それから越来、中城、佐敷、玉城、首里城と巡るのですね」
「そうだ、6年前と同じだ。25名ぐらい乗れるバスを手配したので奥さんが在宅なら一緒にどうぞ」そう言って立ち上がった。
「わざわざありがとうございます」私はオンシジュウムの小鉢を手に持って駐車場まで叔父を見送った。7年巡りと称するが、旧暦の歳勘定と同じで6年毎の一族の由来を訪ねる旅である。いつの頃から始まったか定かでないが、大戦以前の明治の頃から続いており、自動車交通の無い時代には米を持参して徒歩で幾日もかけて巡ったと言われている。沖縄本島北部の名護間切りの裕福な本家であり、馬車ぐらいは使ったかもしれない。分家筋の私には7年巡りの意義は理解できないが、50年余の人生で3度ばかり参加した記憶がある。大抵は我々分家の当主がその役を引き受けていたのだろうと思う。遥かに遠い日々の小学校高学年頃に、本家の爺様に連れられて一度だけバスで越来を訪問した微かな記憶が残っている。宏春おじは足腰の衰えた父の代わりとして私に参加してほしいと考えたのだろう
「完」

一族の由来を訪ねて(南部巡り)
2、(平田家)
10月の第三日曜日の午前7時30分、宮里公民館のガジュマルの老木の近くにプリウスを駐車した。このガジュマルの大木は私が幼稚園児として見上げた頃と全く変わらぬ大きさだ。否、幼稚園児の私が大木と感じた樹形と大人の私が大木と感じる感覚は同じでない。ガジュマルは50年の時を経て大きく成長しているのだろう。この場所は井戸があるも湿度が低いのであろうか

ガジュマル特有の気根の発生が見られない。 3宮里のガジュマル

公民館の南、100m程離れてこんもりと緑の繁る「前の宮」拝所が見える。樹高20以上のハスノハギリが数十本も繁る拝所は周辺の2階建ての民家よりはるか上に突き出ている。丸く大きな葉で覆われた樹冠は夏の日の海から立ち上がる入道雲にも似ている。私が幼稚園児の頃は公民館が公立幼稚園であり、拝所は夏の日差しを避けて幼児を遊ばせる最適な場所であった。幹回り5m以上で巨大な樹冠を作る巨木の間は20m以上も離れており、鬼ごっこや遊戯に興じる格好の広場であった。広場の端は海辺となっており、水遊びや砂遊びで子供たちがはしゃぎまわっていた。遠浅の海は奇跡的なエメラルドグリーンの美しさで広がり、名護湾の対岸の恩納岳の低い山並みが水平線の切れ目まで連なっていた。その風景は三十数年前までのことで、今では埋め立てられて運動公園に変わり、拝所の前を新たな国道58号が走っている。そして観光客のレンタカーが朝夕の交通混雑を引き起こしている。

公民館の2軒隣りに根神屋と呼ばれるノロの家がある。現在はノロのなり手がおらず木造建築の拝殿は公民館の女性事務員が管理をしている。男子の立ち入りが禁じられているのだ。ハスノハギリが繁る「前の宮」の一角には女人禁制の藁縄を張り巡らした結界の拝所がある。その拝所の手入れは区長さんの仕事である。
1ハスノハギリ

古い時代の名護間切りは東から東(アガリ)、城(グシク)、大兼久(ポーガニク)、宮里(ミャーザトゥ)の4集落で形成されていたようだ。集落の歴史家によると宮里は名護間切りの西の端を流れる屋部川の中流域の湊と称する場所を起源としており、湊(ミナト)ナントゥ、ナーザトゥと訛ってミャーザトゥの呼び名に落ち着いたとのことだ。台風の影響を受けやすい砂の原野に村人が落ち着くまでは随分と時が経ったことであろう。人々の棲家は水の利用が便利な川辺から始まったと理解するのが正しいと思う。私が中学の頃まで耕作していた田畑はヒルギ原、ナザキ原と称する地名である。ヒルギとはマングローブ林の樹木の一種であり、ナザキとは雑草のチガヤのことである。要するにマングローブの生い茂る湿地帯が水田に変わり、陸地化した原野が畑地になったのだ。農耕が盛んになるにつれて農地に適さないが、湿度が低く居住地に適した砂地に集落が移動したのであろう。古くからある屋敷は海浜植物のオオハマボウが防風林として屋敷の周りに植栽されており、僅かに塩分の混ざった井戸を備えていた。私の実家にも水量が豊富な井戸があり、広葉樹であるオオハマボウの新梢は田んぼの緑肥として利用していた。村はずれに歌碑があって「名護の大兼久、馬走らちいしょしゃ、船はらちいしょしゃ、わ浦泊」と方言の琉歌が刻まれていた。日本語訳にすると「名護の大兼久、馬走らせて楽しいことよ、船走らせて楽しいことよ」の意味だ。この地での草競馬は消えたがサバニと呼ぶ小型船の手漕ぎボートレース(ハーリー)は現在でも盛んだ。名護市長杯の全島選手権があるくらいだ。ちなみに旧暦の5月4日に県内の漁師町で開催されるハーリーの銅鑼が鳴ると梅雨が上がると言われている。大兼久(ウフガニク)とは広い砂地の意味である。海岸近くの砂交じり土地を兼久地(カニクジー)と名護市周辺の方言で称する。歌碑の記録では幅8間(15m)、長さ120間(220m)の馬場であったようだ。父に歌碑と馬場の話をしたことがある。母が気管支炎で入院中であり、父と二人だけで夕食を取っているときのことだ。箸を止めて遠くを見るような目で話し始めた。
確かあったようだ。ワシが子供の頃にもその痕跡が残っていた。「前の宮」のさらに東側で大兼久集落との境だったと覚えている。当時の小中学校が大兼久集落と城集落の間にあったので馬場の跡地に出来た砂交じりの道を通って通学していた。学校の帰りに本家の前を通ると本家の爺様に呼び止められ家の縁側でふかし芋とひとかけらの黒糖を食べさせてくれた。「美味いか、チュウバー(猛者)になれよ」と言った。そして納屋に連れて行って壁に吊るした馬の鞍を見せて言った。「ワシが青年の頃は馬場で馬を走らせる競争をしたものだ」言った。爺様は明治の少し前の生まれで。紐で結ばれた丸い眼鏡をかけて新聞を読んではワシの知らない世間の話をしてくれた。ワシの子供の頃は新聞などというものは何処にも無かった。ワシにとって学校の先生よりも位の高い雲の上の存在であった。爺様は明治の断髪令に反抗して未だにカンプゥ(髷)を結っていた。村の人は爺様に合うと誰もが頭を下げて挨拶していた。父は汁椀を手に取って味噌汁を一口飲んでから少し顔をほころばして話を続けた。爺様の話には続きがあってナ。親戚の叔父さんからこんな話を聞いた事がある。爺様の若い頃は家で書物を読んでばかりいて、畑の見回りに積極的に行かなかったそうだ。たまに親父に叱られて見回りに出ても、一刻もしないうちに帰宅したそうだ。婆さまが問いただすと「暑いし、脚は痛いし一里も先の小作人の田畑まで回る気がしない。近くの小作人が頑張っているから遠くの小作人も同じく真面目に働いているだろう。ワシは学問が好きだ。田畑の管理は親父殿に任せとけば良いでしょう」と口答えしたそうだ。母親を早くに亡くした爺様は祖母に育てられたらしい。そこで婆様は馬を何処からか探してきて、これに乗って田畑を回っておくれと言ったそうだ。爺様は馬に鞍を着けて昼飯のイモを持って朝から小作人の田畑を回って夕方に帰宅したそうだ。日に焼けて帰宅する爺様は次第に体つきもがっしりしてきたので婆様はひどく喜んだそうだ。父は言った。幾ら遠い田畑でも馬で行けば1日中かかることは無いだろう。ほれ、今の為又集落の奥地でも大した距離ではないのだから。爺様は確かに小作人の田畑を回ったのではあるが、昼食後は馬場に行って馬を走らせて遊び、夕方に馬を水浴びさせてから帰宅したそうだ。確かに体は頑丈になっただろうさ。いつの時代でも婆様は孫に甘いのさ。ワシも子供の頃に弟と二人は祖母に育てられて小中学校を卒業したのだ。その頃は国の政策で南洋群島開拓団が流行っており、両親や多くの親戚が南洋群島のテニアン島、ポナペ島に出稼ぎに出ていたのだ。沖縄県民は貧乏人が多かったから沖縄より暮らし易い南洋群島に生活の糧を求めたのだ。そのことを知っている本家の爺様はワシらの生活を気にしていたのだろう。父は少し寂し気に笑って食事を続けた。
2馬場

1970年名護町、屋部村、羽地村、屋我地村、久志村が合併して名護市となった。

ハサマ一族の本家の現在の当主である宏春叔父は一族が集う祭事の度に我一族がこの地に住み着いたのは1500年代であると家系図をみせて説明した。我が一族は湊と称する時代からこの地に住んでいた土着民ではなく、外来転入者の一族ということになるのだ。家系図なるものを持つ外来者故に一族の由来を訪ねる礼拝地所お参りの旅を定期的に行っているのであろう。宗教的ない色合いを持たず、琉球列島伝統の祖先崇拝として一族の繁栄と自らの心の安寧を求めて、一族を繋ぐ礼拝地所を巡る旅をするのである。
公民館の広場には沖縄県農業協同組合北部地区本部と書かれたマイクロバスが停まっていた。三菱自動車の27名乗りである。フロントガラスの上部に「ハサマ一門様」と書かれた紙が貼られていた。このバスで拝所地巡りのツアーにでるようだ。バスの周りには既にバスツアーに参加する親族が集まっていた。本家のヨシ叔母さんの顔が見えたので声を掛けた。
「今日の参加費はどうすればよいでしょうか。参加は私一人ですが6名家族です」
「ハサマの一族の者一人に付き500円です。貴方の奥さんの分は要りませんよ。血縁者ではないから」
私は父と娘4名と自分の分を含めて3000円を納めた。叔父の嫁が会計役をしていた。参加費は訪問先のお布施として使われるのである。次々と参加者が会費を納めてバスに乗り込んだ。私は皆が席を取ってから最後に乗り込むためバスの外で待った。叔母に参加者の人数を尋ねると総勢29名ということである。但し名護市から参加するのは20名で那覇市在住の者9名は最初の訪問地である読谷村で合流するとのことである。バスは補助席を使わずとも乗れるようだ。一族の構成はハサマ本家が8名、私のマガイハサマ小(グワー)から8名、スージンハサマ小(グワー)から5名、コーブンハサマ小(グワー)5名、宏春叔父の従弟家族が3名である。分家筋には小(グワー)の敬称が付いている。本家が大(ウフヤー)で分家が小(グワー)らしい。沖縄県では良く見られる家の呼び名だ。私の実家はコーブンハサマ小の家の角を曲がったその先の家という意味らしい。曲がり角の先の家、曲りを方言でマガイと言うのだ。私の実家が一族の中では集落の最も西はずれに位置している。それでも本家との距離は400mも離れていないのだ。
午前8時、運転手がやってきて叔父に声を掛けた。
「皆さんおそろいですか」
見覚えのある男だ、私の顔を見てほほ笑んだ。高校の同窓生上間君である。高校の2年次に腎臓を悪くして1年遅れで卒業した男だ。その後、私と同じ大学の経済学部に進学して卒業後に沖縄県農業協同組合名護支店の経理部門で働いていたはずである。
「久しぶりだね。今は何処の農協に勤めているのかい」
「北部地区本部だ。資材センターの運営に関わる部署だ」
「今日はどうしたの」
「休みの日にボランティアで運転手をしているのさ。老人会の視察旅行などで県内をくまなくドライブしているよ。今回は職場の知人を介して宏春さんからの依頼を引き受けたのさ」
「そいつはありがたいな」
「おかげさまで大学にいた頃より中南部の道路事情に詳しくなったよ」
「俺は今でも大学のあった首里城の周りぐらいしか知らないよ」
「門中御願の拝所巡りは初めてだ。ハサマ一門は首里からやって来た由緒ある一族だってね」
「由緒あるかどうか知らないが、一族の絆を深める行事には違いないな。今日一日よろしくお願いします」そう言ってバスに乗り込んで後方の席に座った。バスの中は家族同士が対になって座っていた。6年前には兄と父の弟の三男叔父が私と並んで座っていたのを思い出した。今回は叔父も兄も不参加で叔父の次男夫婦が参加していた。奥さんは他府県から嫁いでおり妊婦であった。マガイハサマ小からは昨年亡くなった四男叔父の奥さんと長男次女、そして父の妹の二人の叔母が参加していた。門中御願の拝所巡りは老人会の慰安旅行とは随分と趣が異なる旅である。
8時20分:宮里公民館を後にして国道58号を南下した。許田から高速道路に入った。家族連れの年配の叔母さんたちは菓子類をカバンから取り出して皆に分け合っていた。まるでピクニックのようである。私も喉飴を1個貰った。バスの車窓から見る風景はいつもの乗用車からの視界と少し異なり、普段気付かぬものが見えて面白いものだ。しかしすぐに慣れてしまい眠気を誘った。気がつくと高速道路を降りて国道58号読谷村多幸山の長い上り坂に差しかかっていた。バスのエンジン音が高くなったので目が覚めたのである。目的地の伊良皆集落の手前の喜名交差点を右折して旧読谷米軍飛行場の跡地の荒涼としたススキが原の中を進んだ。右手の小高い松林の中に護佐丸の最初の居城座喜味城址ある。さらに進むと右前方の真新しい赤瓦の読谷村役場あり、そこに続く交差点を左折した。ススキの原野の中にアスファルト舗装の滑走路跡が長く伸びていた。その中を緩やかに左に旋回して進むと伊良皆集落の民家が見えて来た。目的の拝所付近が一方通行の為に大きく迂回して集落に向かったのである。大戦前の豊かな農耕地と集落は米軍に接収され軍事施設に変わり、日本復帰まで利用されてきた。返還後も土地利用が中々進まないでいる。一度アスファルトで固められた土地は以前の豊かな耕作地に容易には戻らない。数百年の時代を積み重ねて耕作に適した土地に作り上げた農地をブルトーザーで剥ぎ取り、コーラル砂利を敷きつめてアスファルトで被覆してしまったのだ。先祖伝来の農地は農作物の生産能力を失ってしまった。その代り軍用地料という新たな換金収入源を発生させた。大戦後の半世紀の間に住民と土地との関りを一変させてしまった。人工的な荒廃地が出現した今日、住民は土地本来の能力を再現するエネルギーを見いだせないでいるのかもしれない。集落の消滅は村人を散逸させてしまい、農村としての土地利用に関する世代間の継承が途絶えてしまっているのだろう。それでも米軍が去った後には新たな文化が芽生え始めている。座喜味城址の周辺に「やちむんの里」が形成されている。読谷村の政策の成果である。琉球王朝時代に城下町の壺屋に島内の陶工が集められて壺屋焼きという琉球独特の陶芸が発達してきた。しかし大戦後の那覇市の爆発的な人口の集中は焼き物工場の存在を圧迫してしまった。大量の薪を燃やし、住宅街に煙を吐き出す壺屋焼き独特の登り窯は都会の空気に馴染むわけにはいかなかったのである。私の友人で沖縄県立芸術大学元教授のSさんも30数年前まで壺屋でガス窯を使って焼き物をしていたが読谷村の募集に応じて「やちむんの里」に移って来た。現在ガラス工芸などを含む60余の工房があり、一つの文化村を形成している。緑の中に点在する工房と作品の展示即売所は観光客の往来が絶えない。壺屋焼き独特の伝統的な技法から斬新な若手陶芸家の作品まで多彩な焼き物を鑑賞できる地域である。ガラス工芸の体験工房も幾つかあって土産品の購入以外でも楽しめる地域である。
私は15年前に友人のSさんの紹介で宮城敏徳氏のシーサー1対を求めたことがある。自宅を立て替えた際に門柱に据える為である。50㎝程の高さであるが伝統的な表情をしたシーサーで威風堂々としている。今年に入って愛知県でマンションを買った長女に頼まれて玄関に据えるシーサー1体を探しにやちむんの里を訪れた。宮城氏の工房は代が変わり既に以前の面影のある作品は消えていた。最近の観光客に威風堂々は好まれぬようだ。私はSさんの穏やかな性格が滲み出た優しい表情の逸品を求めた。屋外に置くシーサーは威風堂々でも良いが玄関の内側に置くシーサーは穏やかな表情で帰宅した家族を迎える方が良いとも考えた。ちなみに壺屋焼きの伝統的な食器は最近の西洋料理は相性が良いとは言えない。米国式の食生活が他府県より早くに普及した沖縄県では、洋風と地元料理の混合料理が普及していて、伝統的な器は料理とのマッチングがあまりよろしくない。私は大学の先輩が復元した名護市羽地の古我知焼の工房を時折訪ねて湯飲みなどの小品を求めるのであるが、実用品としては長く使用できないでいる。観賞用としての存在になってしまうのは残念である。
最初の訪問地である平田家の前でバスを降りた。既に那覇からの一族が待っていた。平田家は尚巴志の祭壇を祭っているのだ。祭壇は本宅と別棟で10畳程の広さのコンクリート造りの平屋である。宏春叔父が本宅へ挨拶に行くも不在らしく戻って来た。祭壇のある建物は鍵が掛かっておらず勝手にガラス戸を開けて中に入った。祭壇の中央にはお布施を投入するポストにも似た穴が開いており、お布施口と紙が貼られていた。部屋の左隅に水道付きの流し台があり、「水道の閉め忘れと火の元にご注意ください。ウチカビはご遠慮ください」と張り紙があった。現在の平田家の管理者は頻繁に訪れる拝観者に対応出来ないのであろう。1400年代の初頭、三山を統一して琉球国の初代王に付いた尚巴志という琉球のスーパースターは、今日でも平田家に関わっているのである。国道58号を隔てて約600mの場所に尚巴志の墓があるようだ。尚巴志は沖縄の歴史上の偉人であり今でも名前だけが独り歩きをしている。この祭壇に線香をあげるのは、ハサマ一族だけでなく立身出世を願う財界人、政治家が頻繁に参るそうだ。とりわけ政治家にその傾向が強いと言われている。尚巴志に我が身を投影して世の中を治めたいとの自負心があるのだろう。
平田家が守っている祭壇には右端に火の神(ヒヌカン)の香炉、中央に尚巴志、平田之子、屋比久之子と並んでいる。平田氏、屋比久氏は第一尚氏に代わって第二尚氏が台頭した折、第二尚氏の手を逃れて尚巴志親子の遺骨をこの地に移動したとの伝承がある。第二尚氏の始祖金丸は自ら尚円王と名乗るも血族ではない。内乱の隙に乗じて王になったのである。当時の琉球国は中国の認可の元に交易を行っており、首里城近くにある尚巴志親子の墓の存在は目障りであったのだろう。何しろ中国の冊封子と呼ばれる紫禁城からの官僚が定期的に首里城を訪問して文化交流をしていたのだから。平田氏と屋比久氏は第二尚氏が采配を振るう前に骨壺を移したのである。平田氏は座喜味城址の北20kmにある伊波城址の出と言われている。宏春叔父より前の党首は伊波城址も御願の対象としていたらしい。叔父は実家と遠く離れた那覇市内の産婦人科病院の経営に追われて実家の祭りごとは先代に任せきりであったと口にしたことがあった。ハサマ一族は尚巴志の五男である尚泰久王を始祖としており、その親を奉る意味での参拝である。火の神、尚巴志、平田氏、屋比久氏の順に参拝するのだ。
お祈りの口上をスージンハサマ小の英明さんの奥さんの幸子さんが説明した。
「私は名護間切りのハサマ一門の誰それです。どうぞ私の家族の子々孫々まで繁栄させてください」と心で唱えて祈るのである。何度も線香を立て、水酒を取り換えての祈りは手間がかかるものである。さらに線香が燃え尽きるまではこの場所から離れられないのである。一連の御願は宏春叔父の長男の宏樹とその奥さんが行い、年長者の幸子さんがアドバイスをして儀式を進めた。10畳程の部屋が忽ち線香の煙で充満し、衣服が沖縄独特の平線香の香に染まった気がした。
35分ほどで儀式が終わり、バスに向かう途中で幸子さんが言った。
4平田家

「この先の米軍基地の近くに尚巴志のお墓があるのよ。どうして其処にお参りしに行かないのかしら」
「この近くに尚巴志の墓があるのですか。幸子姉さん詳しいですね」
「私は読谷高校の出身ですよ」と笑って答えた。
「そうですか、宮里の方だと思っていました」
「お墓は本通りからあまり遠くなく、今では楽に歩ける道があるのよ。その近くを比謝川の支流が流れていて佐敷川と呼ばれているの。私が思うに佐敷出身の屋比久氏を偲んで地元の村人が名付けたのでしょうね」
この地に屋比久氏の祭壇があるということは、故郷の佐敷に戻ることなく骨を埋めたのであろう。屋比久姓は中・北部に少なく佐敷町に多い一門である。
僕らは上間君の誘導でファミリーマートの駐車場に止めてあるバス向かって歩き出した。嘉手納基地からやって来たと思しき3機の戦闘機が爆音を響かせて頭上を飛び去った。閑静な北部の田舎町で暮らし爆音に慣れていないハサマ一族が一斉に空を見上げた。
「完」

一族の由来を訪ねて(南部巡り)
3、(嘉手納基地)
10時10分、平田家の近くのファミリーマートの駐車場からバスは次の礼拝場所に向かった。国道58号を喜名交差点でUターンして南下した。ゆっくりと下って比謝橋を渡った。17世紀の琉球王朝の女流歌人吉屋チルーの歌碑が橋の近くのポケットパークにあるはずだ。読谷村山田の貧しい農家の生まれで、8歳で花街に売られていく途中の比謝橋を渡る際に歌った歌がある。
「恨む比謝橋や、情け無い人の、我身渡さと思て、架けて置きやら」
美女薄明で身分の違う恋に破れて18歳で命を絶ったと言われている。悲恋の女流歌人である。レンタカーナンバーの車が行き交う現在の比謝橋を眺めて、吉屋チルーはどう歌うだろか。比謝橋を過ぎるとゆっくりと上り坂となっていて嘉手納ロータリーに入る。正面は嘉手納飛行場で国道58号はその横を南下して那覇市まで続く。バスは左折して県道74号に入り米軍基地のフェンス沿いを沖縄市に向かって進んだ。米軍戦闘機ファントムの発着は見られず、格納庫の前で日向ぼっこをしている。遠くに黒い機体のB-52大型爆撃機が羽を広げている。格納庫に収まらず、駐機場に停まっているのだろう。台風の後に飛来するグンカンドリ似て異様な黒褐色の機体を駐機場に晒している。これだけ大きな機体が空を飛ぶのか、この大きさの機体はどれ程多くの爆弾を投下出来るのだろうか、そしてどれだけ多くの人民を殺傷するのだろうか思うと不快になった。父を除く兄弟姉妹は南陽群島のテニアン島で戦争に巻き込まれ、皆で難儀して育てたサトウキビ畑を無造作に均して作られた飛行場からB-29爆撃機が連日飛び立つのを見ていた。そして本土の都市を爆撃して広島、長崎には新型大量破壊兵器の原爆を投下したことを大人の噂話から知った。父は長崎大村の海軍基地で潜水艦乗りとして終戦を迎えた。むろん長崎の原爆被災地の状況を知っていただろうが、僕らにその惨状を話すことは無かった。
5-1嘉手納基地2

あまり高さの無い建物には星条旗と日の丸が初秋の西風を受けて翻っていた。沖縄が日本復帰した頃から自衛隊の交流があるのだろう。嘉手納ロータリーにはいつの間にか防衛局の沖縄事務所の建物が居座っている。戦争に負けて米国の支配下に安住することへの羞恥心を失い、武士道を忘れた日本人の哀しい姿である。もっとも武士道は日本帝国軍が天皇を狡賢く利用した時点で死語となっていたのだろう。正義の無い侵略戦争を隣国や東南アジアに広げて自国を崩壊させてしまったのだ。日の丸の旗は沖縄県民の歴史観が日の丸に対する憧れと悲哀が重なって複雑な思いとなって風に翻っているのだ。まして星条旗と並んで秋風に翻っていると尚更である。私には広大な米軍基地の中にはためく日章旗は虎の威を借りる狐が虎に化けるための呪い用の木の葉にも思えるのだ。農耕民族が狩猟民族に迎合していつまでも続いてくれる平和の白昼夢を見ているように思える。
農耕民族である日本人は本物の戦(イクサ)を身近に体験してこなかった。長い武家社会の歴史の中の戦は国民の6%に過ぎない武家の戦いであり、国民の意思で戦いに参加することは無かった。日露戦争の戦勝に沸きたった余韻で二次大戦へと突入していった。天皇を頂点とする神の国の選ばれし国民という訳のわからぬ理屈は、西欧列強への劣等感の裏返しであったのだろう。過去の愚かな戦争の歴史を反省する者は多いが、今日のお愚かな国防行動を反省する者は少ない。今日の日米同盟によって自らの平和な暮らしを守ってもらっているとの錯覚に気づかずにいるのだ。日米安保条約は米軍人の治外法権を容認して彼らの良心に基づく行動を期待してきた。米国軍人による犯罪行為を見ないふりしてきた日本の知識人すら多いのだ。米国軍人を羊の皮を被った狼とも知らずに平和の使者と歓迎する愚かな思想から抜け出せずにいる日本国民に悲壮感を覚えるのは私だけではあるまい。日本人は武家社会と変わらぬ発想のままであり、武士が庶民を守ってくれるとの歴史認識のままで戦後の70年を過ごしてきた。自衛という観念が育たぬ中で自衛隊なる集団を作り、多くの思いやり予算で米国軍を雇ったつもりになっている。自衛隊は所詮的撃ちの公務員に過ぎず、米国軍人のような殺戮の戦場を這いずり回る殺人集団には育っていない。農耕民族は狩猟民族の歴史を好まない。今日ある農作物は明日もそこに実っているだろうが、今日撃ち取った獲物が明日もそこに現れると思う狩猟者は皆無だろう。自らの命の危険と引き換えに今日の糧を得るのが狩猟民だ。米国は膨大な農産物を生産する国であるが農耕民族ではなく狩猟民が作った国であり、いまだにその狩猟民族としての思想が国民の基礎になっているのだ。農耕民族で形成された自衛隊が狩猟民族の米国軍と対等な能力を持つことは出来ない。幸か不幸か日本は幕末の開国で西洋列強に侵略されず、英米に比べて国民が異国の人種と混在することが無かった。それを国粋主義者は神が与えた純潔国民と自負するが遺伝学的には南北海洋民族の混血種である。ユーラシア大陸の極東の小国が300年の眠りに就いていただけだ。西欧諸国に産業革命と略奪紛争の吹き荒れる中で揺り篭に安眠をむさぼっていただけだ。明治の開国依頼100年の騒乱の時代を経て日本は本来の農耕民族の形態に戻ってしまった。自力で防衛する能力を育てる術を米国の虚言によって放棄したのだ。国家の自己防衛とは個人の生死の間にあるであって政治家の机上にあるのではない。
私は遠く青年期の終り頃、果樹園管理の仕事を兼ねて射撃と狩猟に明け暮れた日々があった。その時に射撃と狩猟が同じ火器を扱うも似て異なることを知った。
例えば的撃ちのライフル射撃では、照星の先でクルクル回る黒い標的が止まるのを待ってゆっくりと引き金に圧力をかければ良い。引き金は絞るのではなく押すのだ。その方が無意識の行動に入りやすい。心臓の鼓動さえもがと止まる気配の中に身を置けば良い。禅の世界に近い空間に身を置くのだ。一方、スキーと射撃では、プールから飛び出したクレービジョンを照星に乗せて引き金を引き、銃身を反転してマークから飛んできたクレービジョンを追い抜きざまに引き金を絞ればよい。何も考えずにただ素早く正確なレミントンM1,100の銃床の頬付けと機敏で正しい軌道での銃身の切り返しだけだ。
ところが狩りは的撃ちとは全く異なる。肉体と精神を融合させる行動である。例えば12月の夕暮れ時、稲刈りの終わった名護市の北の羽地集落の水田地帯の片隅のキビ畑の陰に隠れ、近くの農業用ダムから飛来するカモを待つ。やがて山影から十数羽のカモが編隊を組んでやってくる。ゆっくりと旋回しながら上空を舞い、次第に高度を下げて降り場所を確認している。レミントンM-870の30インチ銃身に込めた4号弾の射程に入るのを待って先頭の一羽目を撃つ、そして荒れた隊列の次の一羽を打つ、それが外れると3発目のマグナム3号弾を発射する。回収犬を使わずカモの落下地点を目で追っての狩猟では2羽が限界だ。ルアーフィッシングで2キロのガーラ(ロウニンアジ)を釣り上げるほどの興奮もなくゲームが終了する。そして銃を肩に担いで田んぼの稲の刈り株の間に落ちたカモを回収して肥料の空き袋に入れる。今しがたまで羽ばたいていたカモは未だ生暖かく生命の名残を残している。狩人の心に生き物の命を取り去ったことへの奇妙な寂寥感にも似た感傷が僅かに芽生えるのだ。
5-2羽地水田羽地米として人気の銘柄の春の田植え直後

大型獣の猪撃ちの場合はもっと明確だ。4月の早朝。果樹園の防風林イスノキの下に茂るススキの陰に隠れてリュウキュウバライチゴの茂みに意識を集中する。前日に果樹園のフェンスの金網が腐食して破れた部分からイノシシの出入りしている跡を見つけておいたのだ。足跡が新しく近くのイチゴの実を毎朝食べに来ているのだろう。イノシシは熟した果実しか食べない。イチゴに限らず温州ミカンやタンカンもそうである。特にうまい果実の実る木を知っているようだ。グルメな動物である。野イチゴ狩りを山鳥と競って早朝にやってくるのだ。私はレミントンM870の銃身に照星と照門を取り付けて猪撃ち用に改造してあった。1発目にライフルスラグ弾、その次に9粒弾を3発込めてあった。煙草をじっと我慢して1時間ほど待った。朝日が昇る直前になっても気配が無く、米軍野戦ジャケットのポケットの煙草に手を伸ばそうとしたとたんに30m先のフェンスが揺れた。ススキとチガヤとシャリンバイの幼木が入り混じって生えた場所がカサカサと揺れた。ゆっくりとこちらに向かっている。姿は見えないがイノシシ以外にあのように草木を大きく揺らす動物はいない。膝撃ちの姿勢をとってススキの間からイチゴの茂みに体を向けて待った。銃を担ぐ革のスリングを左腕の前腕に巻き付け銃身のブレを抑える工夫をして息を殺してイチゴの茂みの動きを見つめた。イノシシは低い枝のイチゴを食べているらしく中々姿を見せない。しかしイチゴの樹冠は1m近くあり、下枝の実を食べつくすと上の部分の実を食べるだろう。その時に顔を出して私に正確な体形の位置を示すだろう。フェンスに沿って15m程の長さで広がるイチゴの茂みの一か所だけが揺れている。そこにいるのは分かっている早く顔を出して高い位置のイチゴを食え。私の心臓は初夏の爬龍船競争の銅鑼鐘の様に高速に打ち鳴らされている。血流が全身を駆け巡った。そしてついにイノシシの鼻先が見えた。人差し指で引き金の手前にある安全ボタンをはずした。パチンと音を立てて安全ボタンが赤色に変わった。いつもは意識しない安全ボタンの開錠音がひどく大きく聞こえた。イノシシがこの音に反応することは無かった。喉が無性に乾いた。唾を飲み込むと銃身が僅かに動いた。イノシシはしきりにイチゴをむしっていた。時折イチゴの葉の間から鼻をのぞかせた。小さな舌先が鼻を舐めた。やがて前足を上げて後ろ足立ちで体を持ち上げた。イノシシの横顔がほんの少しイチゴの葉の間から覗いた。可愛い目をした若いイノシシである。照星を胴体と思しき位置に向けた。イノシシは無防備な状態で私のレミントン照星の先にいる。私は一瞬引き金に圧を加えるのを躊躇った。イノシシの顔がイチゴの葉の中に消えた。私はフーと息を吐いた。イチゴの茂みが僅かに揺れている。その上にイチゴの実が多数残っている。もう一度立ち上がってそれを取るはずだ。私は銃床から頬を離し手のひらを開いて指を屈伸して握りなおした。そして再び茂みの一点に焦点を合わせた。イノシシが背伸びをするように後ろ足で大きく立ち上がった。私はイノシシの腹の辺りに照星を少し降ろして引き金を絞った。文字通り右手を握りしめるように絞った。右肩と頬にライフルスラグ弾特有の強い衝撃が走った。キジバト撃ちの7号半やカモ撃ちの4号弾と比較にならない衝撃である。イチゴの茂みの中でピーとイノシシが甲高い悲鳴にも似た鳴き声を上げて野イチゴの枝葉を激しく揺さぶった。私はすぐさまススキの陰を飛び出して揺れる茂みの5m前からM870のスライドレバーを操作して3発の9粒弾をその中に連射した。イノシシの鳴き声はすぐに止んだ。イノシシのもがきで茂みが割れてイノシシの姿が見えた。その頭部に向けて止めの引き金を引いた。カチンという撃鉄の乾いた音がした。レミントンの弾倉は空になっており弾を撃ち尽くしていた。既にイノシシはピクリとも動かなかった。背骨の部分が大きくえぐり取られた若いイノシシが横たわっていた。一発目のライフルスラグ弾がタンブリングして背骨と背筋を直径10㎝程弾き飛ばしイノシシの動きを無能にしたようだ。私は銃を肩から降ろして脇に抱えたまま茫然とイノシシの死体を眺めていた。時の流れを見失っていた。ふと首筋に日の光の温かさを感じて振り返ると普久川の谷間にある安波集落の向かいの林から朝日が顔を出していた。散弾銃の引き金の後ろの安全ボタンを押すと、パチンと音がして赤い目印が消えた。銃を肩にかけ煙草を取り出して火をつけた。朝凪の森に煙草の煙がゆっくりと広がった。イノシシを果樹園の管理道路まで引きずりだしてから100mほど先の防風林のイスノキの脇に止めてあるダットサンピックアップに向かって歩き出した。2本目の煙草に火をつけてからトラックのエンジンをかけた。爬龍船競争の終わった心臓は心拍数をいつもの調子で叩いていた。30㎏程のイノシシを荷台に積み込み果樹園の管理棟に向かった。猪撃ちの興奮は消えて若イノシシの優しい瞳とぼろ毛布の如く草むらに横たわる姿が私の脳裏に繰り返し交錯した。高揚感の代わりに疲れを伴った寂寞した感情が残ってしまった。大きな躯体と感性を備えた表情を持つ生き物の命を奪う行為の報いのような気がした。的撃ちと狩猟の違いがそこにあった。その後も何頭かのイノシシを撃った。狩猟を止めて二十数年も経つがスラグ弾を撃つ衝撃と硝煙の臭いは未だに忘れることが出来ない。それは私が小心者故か、誰もが抱える人間の本性であるかの区別は解らない。
5-3やんばるの森国頭村の原生林、猟師が消えてイノシシが増えている。

ベトナム戦争、中東戦争と容易に大義名分を掲げて人間を狩っては覇権を争う米国軍と何かを御旗にして狂気に陥らねば人間狩りをできない日本国軍の違いは確かにある。そしてそれを認識できない現代の日本人の民族としての哀しさが嘉手納基地に翻る日章旗に存在している気がした。

「完」

一族の由来を訪ねて(南部巡り)
4、(川端家)
バスは嘉手納基地のフェンス沿いを走り、松本交差点で左折して沖縄市美里(南)交差点近くで停まった。バスを降りると越来3丁目の2の表示板が電柱に固定されていた。我々はファミリーマート越来店の横の路地をぞろぞろと下って行った。人通りもなく閑散とした古ぼけた住宅がひしめき合っていた。20年ばかり前にタイムスリップした感があった。300mほど下ったくぼ地に川端家があった。谷間の始まりに似た場所で川端家からさらにゆっくりと谷間が西の方角に続いていた。おそらくこの谷間は比謝川の支流の起点となっているのであろう。敷地の一角にトタン屋根の倉庫に似た建物とその横に古い鉄製の大きな煙突か立っていた。煙突には錆が浮いており長い間使われた形跡がない。この施設は風呂屋であったのだろう。
川端家も平田家と同様に母屋と拝所が別棟となっていた。只、平田家ほどの来訪者は無い様だ。川端家の90歳近い女主人が母屋の仏間に我々を招き入れてくれた。全員で仏壇に手を合わせてその次に隣の棟の配所を全員で祈願した。6川端家

川端家の始祖は第一尚氏の6代国王となる尚泰久王子とノロの世利久の間に生まれた子供である。ハサマ一族は川端家の6代目の次男を始祖としている。宏春叔父は正月の初祈願に系図を開いて分家の我々に説明するのが常である。首里王府勤めの役人が何故に王府から遠く離れた本島北部の田舎やんばる地の名護間切に移り住んだか定かでないが、系図では読み取れない何らかの事情があったのであろう。庭の一角には尚泰久王子が我子の誕生を記念して植えた白椿がある。越来白玉という一重咲きの品種である。現在の株は高さ1.5m程で、実生で続いた何代目かの株であろう。私の小学生の頃に訪れた記憶では幹回り30㎝で3m余りの老木であった。半世紀の間に代替わりしたのであろう。越来白玉は純白で貴婦人のような気品のある花である。成長が遅く育てにくい品種でもある。私も6年前に訪れた際に種子を採取して育成しているが未だ開花に至っていない。ツバキの盆栽マニアの間でも幻の名花と呼ばれているらしい。家主の老女は気さくな方で我々に炭酸飲料のオロナミンCを配ってくれた。宏春叔父が訪問のアポイントを取るために訪れた際に十分な謝金を渡したのであろうと推察した。叔父は一族の当主として幾日か前に必要個所を事前訪問しているのである。離れの配所は世利久を祭ってあり、川端家の直系の縁者以外の来訪もあるらしく、平田家の離れの配所と同じ造りである。7白椿3

川端家の向かいは石ガーと呼ばれる湧水地がある。分水嶺の谷の始まりである。白椿の他に水の利権を与えたのである。川端家はその水を利用して風呂屋を営んでいたようだ。尚泰久王は越来王子の頃、首里と沖縄北部との交通の要であるこの地を治めている。そのころに第二尚氏の初代王となる金丸を側近として登用している。尚巴志、尚泰久、金丸(尚圓王)は琉球王国の誕生初期の頃に最も大きな変革をもたらした人物達である
8井戸

我々はこの石ガーを拝んだ。井戸には手漕ぎポンプが設置されており、ハンドルを上下させると勢いよく水が出てきた。井戸の周りは100坪程のポケットパークとなっており、多くの椿が植栽されていた。ただ品種は園芸種らしく樹形や樹勢が越来白玉と全く異なっていた。越来白玉は貴婦人らしく庶民の園芸品種に混ざって育つことは出来ないようだ。僕らは緩やかな坂道を登ってバスに向かった。あまり立派とは言えない民家の表札には吉田、田端、山本、中村、石原など沖縄には少ない姓が目立った。那覇から参加した秀栄さんにそのことを話すと、「戦後、大和風に改名したのだろう」と吐き捨てるように言った。
私は少しだけ可笑しくなった。僕らだって戦後、仲村渠から仲村に改名したのだから。秀栄さんはそのことも含めて不快に感じているのかもしれない。私より一世代前の先輩は祖先への尊敬の念が強いのだろう。
世利久の墓はコザ中央霊園の中にあった。石灰岩をくり抜いて作られた墓は戦火にも耐えて石壁は苔むしていた。この周りは霊験が高いのだろう。樹木は手入れがなされず自然に生えていた。アカギ、ガジュマル、ホルトノキ、クロツグ、トウズルモドキが無造作に自然の摂理に任せて存在している。尚泰久が覇権を示したの頃から悠久の時を経て存在しているのである。墓の庭は岩をくり抜いて作られており、周りより窪んでやたらと湿度が高くなっている。藪蚊がたちまち集まってきて僕らの血で栄養補給をするために活動を始めた。宏春叔父が蚊取りスプレーを噴射するも蚊の数には及ばない。僕らは手早く線香あげて手を合わせて立ち上がった。隣に大戦後に造られたコンクリート製の墓があり、川端家と表示されたていた。
宏春叔父が立ち上がって言った。
「この先にもう一か所お参りすべき墓があったはずだが、地形が変わってよく分からない」
指さす方向の崖の上にはブロックが積まれており、「中の町建材資材置き場、立ち入り禁止」の表示板があった。
「名護墓と呼ばれていて、名護から来る人達だけが拝んでいたそうだ」
ブロック塀の左端の崖下に小さな古い墓が3基並んでいた。そこに続く小道はブロック壁の手前で崩落していた。
「私たちの直接のご先祖も知れないのでお通しだけでもしておこう」宏春叔父の合図で手を合わせた。
参拝者はそれぞれにパチン、パチンと手をたたいて藪蚊を追い払いながらバスに戻った。私は近くに誰かがいる場合は不思議と蚊が寄り付かない。一人で藪に入ると蚊も不本意ながら私の血を求めるようだ。私の血は蚊の好みに合わないようだ。小道を下りながら気づいたのは誰か小道の周りのクワズイモやススキ葉を刈り払って通り易くしていた。宏春叔父の一人息子の宏樹に「叔父さんは下見に来たのかい」と尋ねた。
「先週の日曜日に川端家に挨拶に行ったようだ」返事した。
「そうかい、ここの小道も手が入っているね」と言って笑った。
「オヤジはマメな人ですから」そう言ってはにかんだ。
9世利久墓

コザ中央霊園を出て、コザ十字路横切り国道329号を南下した。中城村渡久地の公民館前でバスを降りて、公民館の向かいにある配所で手を合わせた。宏春叔父は何らの説明もしなかった。中城城址が近くにある場所だ。尚泰久王の義父護佐丸と勝連城主安麻和利の戦いに由来する場所かもしれない。昼時の空腹のためか誰もこの地の配所に関する質問をするものはいなかった。一行の直接のご先祖にかかわる場所とも思われなかった。皆は拝み疲れと空腹感で会話の余裕もなかった。
12:35、昼食を大西ゴルフクラブのレストランでバイキングスタイルの食事を取った。年寄、子供交じりの30名近い人間が食事をとれる場所は少ない。一人1,000円を払って好きなものを好きな量取れば短時間で昼食が済むのである。上間君と並んで30分ほどで昼食を済ませて外に出た。テラスの向こうには中城湾が秋の澄み切った空気の中で青く広がっていた。左手のはるか彼方に勝連半島が続いていた。半島の小高い丘に安麻和利の居城であった勝連城址があるはずだ。この地で戦国武将の護佐丸が安麻和利に滅ぼされ、安麻和利は逆賊として首里王府に滅ぼされた。戦国時代の実力者を排斥する為の尚泰久王と側近金丸の策略であろうが、側近として金丸を迎え入れたことで尚泰久没後に第一尚氏が10年を待たずに側近の金丸(尚円)を始祖とする第二尚氏変わるのも皮肉な歴史の変化である。日本の戦国時代の織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康の時代になって武家社会の安定期を迎えたのに似ている。いつの時代でも人間の個の力は集合して大きなエネルギーを生じ、それが終息するには攻防によるエネルギーの放出が必要なのであろう。中国、中東諸国、西洋とて同じだ。国土の大きさによってエネルギーの規模が異なるだけである。
10大西ゴルフ2

私はゴルフを始めた頃、この大西ゴルフ場で何度かナイターゴルフをしたことがある。ここから見るゴルフ場のロケーションは素敵だが、夜のゴルフ場は少し異なっている。ゴルフ場内には幾つもの古い墓があり。沖縄の亀甲墓は広い庭を備えている。ティショットを曲げてボールを墓の庭に入れると必然的にロスとボールだ。墓の庭からチップショットをするには墓の主に申し訳が立たない。一打罰で近くから打つことになる。スコアが100を切る頃からは大西ゴルフクラブでのナイターコンペは遠慮した。ちなみに沖縄出身の有名な世界的女子ゴルファーの父君も初心者の頃はこのゴルフ場のナイタープレーで腕を磨いたらしい。
「完」

一族の由来を訪ねて(南部巡り)
5、(月代の宮から首里城まで)
午後1時10分、上間君の運転するマイクロバスが駐車場にやってきた。午後の巡礼の始まりである。県道146号を下り、添石の交差点で右折して国道329号を南下した。
「添石の拝所には行かないのですか」幸子さんが宏春叔父に尋ねた。
「そこには行かない」素っ気なく答えて車窓に目をやった。中城は護佐丸、安麻和利、そしてその戦の仕掛人である尚泰久王の覇権が交錯した場所である。琉球の歴史の要のひとつではあるも仲村渠一族との関りは希薄だ。560年も前のことであり宏春叔父が気に留める要素は無いのであろう。宏春叔父にとって直近の血族である川端家が家系図の原点であり、その先の尚泰久王の活動の足跡は御威光を拝むだけの実像の乏しい礼拝でしかないのであろう。拝所としては奈良の大仏や伊勢神宮のレベルであるのかもしれない。
与那原町の交差点を左折して国道331号に入った。しばらく行くと佐敷小学校の横の通りに大きな鳥居がありその下を潜って山手に少し上ると月代の宮の拝所に着いた。馬天港を望む丘陵地である。佐敷城のあった場所で、尚巴志の父尚思紹が父の鮫川大主と共に伊平屋島から流れ着き地勢を固めた最初の拠点である。一介の流れ者の子に過ぎなかった尚巴志が地域の豪族の婿となり、琉球国の三山の統一の祖となったからには人並み外れた才覚の持ち主であったのだろう。歴史の分岐点に忽然と登場する英傑の一人である。
僕らは50段ほど階段を上って最上段の小さな祠と敷地内の一角を礼拝した。5度目の礼拝である。何度も礼拝すると集中力も薄れてしまいただ手を合わせて「ウートートゥ」と唱えてしまった。三山を統一した王の御威光を示すものは無く小さな祠が侘しく存在しているだけである。
11月代2

礼拝が終わって帰るときに祠の手前の鳥居型の拝殿の中の記名版を指さして宏春叔父が言った。「大戦後にこの月代の宮を再興したとき僕らの叔父も寄進したのだよ。私も叔父とともに落成式に参列したが、中々名誉なことであった」。叔父の指さす方角には厚板の上に献上者の名前が記載されており、金00ドルと記載されていた。かなり劣化しており仲村渠宏までは読み取れるがその次の一字は読み取れなかった。この姓名は他にはなく、確かに僕らの一族の一人だろうと推察した。その方は県内随一の日曜大工センターの創業者の祖父である。
僕らはゆっくりと階段を下りた。このあたりのホウオウボクは地際が板根状に立ち上がっていた。地下水位が高く根が土壌の表面を走っているのであろうか、まるでサキシマスオウノキの変異種かと思しき景観である。眼下に馬天港とその先の太平洋の青い海の上に久高島がポツリと浮かんでいた。この高台は琉球の神々の島に最も近い屋代に違いないと思った。
12板根

バスは県道137号を南下して琉球ゴルフクラブの横から脇道を抜けて富里の集落に入った。尚泰久王の墓参りである。墓は国道331号の改修工事で敷地の一部が削り取られた急な斜面の上部に位置していた。墓地の入り口の石碑には第一尚氏王統、第6代尚泰久王陵墓と刻まれていた。石碑の裏側には1985年1月建立、月代の宮奉賛会と刻まれていた。道路拡張工事に伴い月代の宮に関わる一族が整備に普請したのであろう。墓は尚泰久とその長男安次富氏が並んで配置してあった。石灰岩をくり抜き正面は石灰岩をブロック状に積み上げた現代の石組み工法である。
13-1

13-2尚泰久墓2

儀式通りの祈りをささげた後で、墓地の入り口横の太平洋が見える場所に移動した。青い海原の先に浮かぶ久高島に向かって礼拝するのである。久高島は琉球の王府に関わる神々の原点である。穏やかな秋の日差しの中で僕らは素直な心で血族の家内安全を無心に祈った。僕らはゆっくりと歩いて安次富家の離れにある拝殿に向かった。崖下から墓地に上り、今度は周回するようにキビ畑の細い道の歩いた。宏文ハサマ小(グワー)の喜美子が話しかけてきた。私より一つ年上の気の強い女である。浅黒い顔は変わらぬが血色が優れない気がする。内臓に不安があるのかもしれない。

「奥さんは元気。喘息気味で退職したでしょう」
「宜野座村の漢那タラソ通って、蒸気サウナで治ったみたいだ」
「そう、良かったわね」
「市民講座の太極拳教室に通い、名護市の婦人コーラスグループ茜雲にも所属しているみたいだ。派手なドレスで発表会に出かけているよ」
「貴方が働かせすぎたのよ。お嬢様育ちだから」
「書道塾は今でもやっている」
「忙しくて止めたわ、旦那の病気もあったし」
喜美子は小学校の事務職である。そろそろ定年だろう。妻が教職中は同じ小学校で同僚であった。3年前に夫を亡くしている。成人した息子と孫を同伴している。私は妻の言葉を思い出して苦笑した。
「貴方の従姉に喜美子さんという方がいるでしょう」
「ああ、宏文屋の三女で僕より一つ年上だ」
「先日、小学校の学習発表会の準備をしているときに校長先生が彼女に仕事を頼んだのよ」
「何を」
「舞台の上に掲げる平成00年度学習発表会の表示を書いてほしいとお願いしたのよ」
「確か喜美子は書道教室を開いていたはずだ」
「そうしたら彼女が校長先生にピシャリと言ったのよ『私の書はそんなものを書くためのものではありません』とね。校長先生はポカンとしていたが、そのまま事務の仕事を続けていたわ。書家としてのプライドが表に現れていたわ」
「そうかもしれないな、俺も子供の頃から彼女は苦手だった」
喜美子の顔に以前の覇気は見当たらない。苦労が彼女からある種のエネルギーを奪い穏やかな暮らしに埋没することを望んでいるのだろう。
私の前をとぼとぼと歩く女性は私より2歳上だが、10歳以上も年長に見える。父の末弟の嫁で昨年夫を亡くしている。二人の子供と一緒だ。亡くなった宏光叔父は大戦中にミクロネシア連邦のテニアン島で生まれた。戦火がひどくなって極端な食糧難の中で赤子が生き延びたのが不思議だと叔母たちが葬儀の時に話していた。体力に恵まれなかったのは赤ん坊の頃の栄養失調が影響したのだろう。幼稚園、小学校と私の母が育てたこともあり実家によく顔を出した。何とも言えない優しい笑顔の叔父であった。アルミサッシ工場を経営していて、私の最初の家のアルミ建具一式は叔父が作ったものであった。玄関には叔父から送られた畳大の姿見があり、贈・名護アルミと金文字で書かれていた。この姿見は2度目の自宅を建築した時に、古い家から取り外してウォークインクローゼット内に取り付けてある。厚みのある丈夫な逸品で叔父の形見になってしまった。この巡礼の旅は本家への義理で参加しているのではなく、心に何かを抱えている者達が参加しているのだ。はるか昔のご先祖の墓参りで心の重石を軽くする。あるいは光の届かぬ井戸の闇に蓋をかぶせたいのかも知れない。550年以上も前のご先祖の英傑を訪ね、自分の家族の繁栄を祈ることに現実的なご利益は無いだろうが。しかし、誰もが何かにすがって今の不安を解消したいのだ。宗教上の神のような高尚な存在でなくとも心の闇に僅かな明かりを灯す術が欲しいのである。自分の存在を明日へ導く何かが欲しくてその対象をご先祖の霊力に託すのは、沖縄に生まれた者の根底に流れる土着の宗教的な心の拠り所である。
安次富家の祭壇は平田家や川端家と同様に本宅の隣に建っている。尋ね人が気兼ねなく礼拝できるようにとの配慮である。尚泰久とその息子の安次富氏の位牌があり、香炉には三つ巴の紋が入っている。尚泰久の遺骨は明治になってから石川市の墓地からこの地に移されたらしい。第2尚氏の影響が亡くなってから血族の許に戻ったようである。月代の宮奉参会が尽力したのであろうか。仏壇には尚泰久の香炉の他に安次富家と関わる小さな香炉が並んでいた。宏春叔父は尚泰久の香炉に3本の線香を立て、他の香炉には1本ずつ立てて祈願した。はハサマ一族は安次富家との直接の繋がりは薄いようである。拝所には瞬天王統から尚圓王統までの系図が書家によって表示されて額に飾られていた。そして系図の余白の下部に走り書きの様に記された文字が私の心を捉えた。琉歌調で「祖先崇拝」祖先(モトヂ)タズネラン 道マユラ故(ユイ)カ 祖先道アキテ 栄テイカナ」 と書かれている。書体からして、この系統図を描いた書家が詠んだ歌であろうと推察した。自分は何処からきて何処へ行こうとしているのかは2千年前の孔子の時代からの人間の哲学的命題である。孔子ですら論語の最後の章に「命を知らざれば、以て君子たることなし」と証している。我々の日常は些細な不安の連続である。せめて偉大なご先祖にすがって不安を軽減してもらうは庶民のささやかな願いであろうし、先達の偉大な「気」を心に取り込みたいと願うは本人の心次第だから。
14安次富家

15王代記2

4時半を回ると日差しが少し傾いて来た。バスは国場十字路を右折して首里城に向かった。首里城での拝所は守礼の門近くの園比屋武御嶽である。この御嶽は城主が旅に出る際の安全祈願所であったと言われている。観光客の行列の先には朱塗りの首里城が建っていた。第二次世界大戦で日本軍の駐屯地であった首里城は米軍の艦砲射撃で完璧に破壊され、戦後は琉球大学が立てられて多くのリーダーを輩出して沖縄復興に貢献した。しかし今は四十数年前に私が学んだ学舎の影は無く、本土復帰直後の学生運動で賑わったセクトの隊列の旗頭の代わりに観光ガイドの誘導旗だけが幾つも観光客の列を先導していた。琉球大学が西原町に移転して首里城が再び沖縄の歴史の縮図である那覇の町を見下ろしている。琉球王国の象徴的場所である首里城は、中国王朝、薩摩、明治以降の日本政府、米国政府、そして戦後の日本政府と歴史の変遷に翻弄された沖縄の庶民の暮らしを静かに鎮座して眺めている。歴史に善悪の基準は無く、ただ結果としての記録が存在するだけである。首里城は幾度か焼失しては再建されてきた。この地を拝所として訪れる者たちにとって、城の威風堂々とした城郭は視覚的な感動を促すも心の拠り所ではない。幾世代か前の祖先が関わった場所としての城址その物が祖先との魂の交差を誘うのである。私はハサマ一族の旅が一族の歴史の中で途絶えることなく続いてきたのは、庶民の暮らしの中に存在する心の拠り所としての祖先への回帰思想が人間の根源的ものであるからだと思うのだ。
16園比屋

この場所での礼拝は、世界文化遺産であるがゆえに線香に火を付けずに水と酒と倶物を備えて祈願した。首里城の警備員の監視付きである。無作法な観光客の一人が僕らの一行の間に割って入ってカメラを構えた。私は威嚇するように睨みつけて手で制した。私は疲れが体の表に出てきて、無礼な者への嫌悪感から不覚にも強い殺気を放ったのかもしれない。カメラを向けた観光客は顔を背けて退いた。警備員がそれを察して手を広げて観光客の一群を制してくれた。御嶽での礼拝を終えると門の裏手のアカギ林の中に入った。ここから沖縄本島北部の西の海に浮かぶ伊平屋島に向かってお通しのお祈りをした。南部巡りの巡礼の旅の終わりの報告である。第一尚氏は伊平屋島から始まったのである。
17アカギ林

18守礼門2

僕らはアカギ林を抜け、守礼の門を潜り、バスの待つ首里城公園管理事務所前に向かって坂道を下った。午後5時半を回っていた。バスに乗り込む前に宏春叔父が言った。「再来週の日曜日に今帰仁巡りをします。その時は各自の車で行きます。宮里公民館からの出発時間は午前9時です。今日はお疲れさまでした」
僕らはバスに乗り込んだ。宏春叔父は息子夫婦の車で那覇市内の自宅へと引き上げていった。上間君の運転するバスは鳥堀の交差点へ向かって首里の坂道を下って行った。一族の南部めぐりの小さな旅が終わった。二週間後の一族の旅の後編については考えないことした。終日漂った線香の香りは私をひどく疲れさせたようでバスのエンジン音に誘われるままに眠りに落ちていった。
「完」

2022年9月 川畑家より種子を採取して育てた越来白玉を自宅に植栽。10年目ににして蕾が付いているのを確認した。開花は年明け早々だろうか。尚泰久の声を聴きたいと思う。

2020年3月17日 | カテゴリー : 旅日誌2 | 投稿者 : nakamura