(ザ・キング・オブ・タイランド)
プロローグ
The Kingdom of Thailand(ザ・キングダム・オブ・タイランド)、英語でのタイの正式名称である。呼び名の通り 立憲君主制度の国家である。2014年に軍部がクーデターによって政権を握っている。仏教が国民の生活に根付いており、軍政と言われるが武力による圧政が全く感じられない市民生活である。仏教と微笑みの国と言われる所以であろう。国民の国王への信頼は特別であり、軍部も国王の認可を得て軍政を執行しているのである。日本ではシャムの国と呼ばれて古くからの交流がある。沖縄の地酒である泡盛はタイ米を原料に醸造されている。近代における西洋列強の影響が少なく、隣国のカンボジア、ベトナム、ミャンマーが内戦に明け暮れた歴史を持つ中で古くから安定した国情が続いている。鉱物資源に恵まれているわけではないが、肥沃で広大な農地を持つ米作を中心とする農業立国である。国民の暮らしは豊かとはいえないが貧富の格差が目立つことは無い。仏教寺院や拝所がとても多く、仏教の礼節が市民生活の中に深く根付いているからだろう。黄色い僧衣をまとった修行僧の姿を街角で見かけることが多く、市民は敬愛の念を込めて接している。広い国土に日本の半分の6,600万人の人口である。穏やかな仏教の国であるが、首都バンコクの交通渋滞と夜の盛り場の喧騒は東京新宿駅東口周辺と変わらない。
私がこの国を訪れたのは、1983年の緑化事情調査に始まり、「青年の翼」と称する沖縄県の異業種交流海外視察研修会、熱帯果樹の国際シンポジューム、自社のラン類輸入先会社の表敬訪問に続く5回目である。埃っぽいバンコクの市街地、対照的に地方の豊かな自然、暑い日中と涼しい夜、辛いが美味なエスニック料理、独特の香りでとろける美味さのドリアン、世界有数のラン類の生産地、様々な種類の観葉植物を次々と出現させる園芸産地でもある。シンガポール、マレーシアとは異なる顔を持つ国であり、訪れるたびに変化を見せる国だ。
旅の始まり
7月下旬の昼飯時、八重瀬町の沖縄そば専門店「しまぶく家」に居た。那覇空港の空港ビル内植物展示業務に関する会議を終えて、仲里園芸の仲里清と昼飯を共にしていたのだ。
「キヨシ、こないだ秦から電話があってサ。君と一緒にタイに行こうと誘われたぜ」
「うん、僕にも電話があった。カズさんと一緒に来てくれ。全てフリーだと言っていた」
「石油大手のシェルカンパニーのオーナーの招待だと言っていたナ。多分台湾・バンコクの航空チケットと宿泊費が無料という意味だろうナ」
「今年の2月に、タイ国シェル石油の社長が秦と一緒に沖縄に来たことがある。海洋博公園を案内した後、牧志公設市場の海鮮理店で沖縄の近海魚のイマイユュ(新鮮魚)料理で接待したことがある。カツオ、イラブチャー(アオブダイ)、シルイチャー(近海イカ)の刺身、タマンのマース煮(塩煮)ミーバイ(ヤイトハタ)の煮付け、アバサー汁等沖縄料理を提供したヨ」
「台湾の桃園漁港近くに、水揚げしたばかりの魚を自ら選んで料理を頼む美味い店があったな」
「沖縄でしか食べられない料理だったので喜んでくれたよ」
「しかし、まあ偉いお方を接待したな。シェル石油の代理店は沖縄にもあるだろう」
「うん、沖縄代理店の幹部連中が空港に勢ぞろいさ。肩透かしを食らった彼らに睨まれたよ」
「それで、どうした」
「僕のワゴン車で、案内して夕方の便で台湾に向かったのさ」
「その縁で誘いがあったのかも知れないな。しかし俺を誘う理由はないぜ」
「秦のことだ、何かしらの計算があるのでしょう。抜け目のない男だから」
「そうかもナ。アンタはオーナーだから旅行の理由は必要ないが、オレの会社は役員とて旅費決済の理由が必要だ」
「株式会社は面倒ですね。何か理由を作れないですか」
「そうだな、バンコクのカリーの農場調査にでもするか。2か月前に安いデンファレを輸入したので現地のラン類栽培事情調査の名目を立てよう。場合によってはSオーキッドの塩谷さんに会っても良いだろう。塩谷さんとの取引はあるかい」
「陳先生の紹介で顔は知っているが取引はないな。眉が薄く目付きが鋭い得体の知れない雰囲気の男で少し怖いね」
「確かだね、軍人や裏社会の人々との付き合いもあるらしい。でもいざとなったらタイでは重宝だぜ」
「そうですか、塩谷さんとのお付き合いはカズさんに任せます。秦の招待に乗りましょう。カズさんと一緒だと女房殿の了解も取りやすいから」
「なんだよ、お前も奥方の決済が必要なわけか」
清が苦笑いしながら最後のソバを口に運んだ。
「秦に連絡して旅行の日程を連絡します。台湾往復のチケットはそれぞれで確保しましょう」
ソーキそばの代金750円を払って店を出た。キヨシは農場に戻り、私は名護向けの高速インター南風原南に向かった。
1週間ほどして仲里から8月17日~23日までの旅行日程だと連絡が入った。私は会社の旅行起案書を「タイ国における蘭生産者の現状調査」とした。タイからの輸入は主にSオーキッドの塩谷勝を仲介していた。塩谷は生産者でなくブローカーである。旅行代理店やタイにおける邦人の会社設立、タイへの輸入品の法的手続きを斡旋する司法書士に似た仕事もしている。よく知らないが日本国内のラン関係団体でトラブルを起こし、国内に居づらくなってタイに飛び込んだとの噂がある正体不明の男だ。仕事が少し荒いので新しい取引先を模索することを起案書に付け加えた。私の唯一の上司であるU専務は塩谷を好ましく思っておらず喜んで同意してくれた。只、台湾往復の航空チケットを購入後で旅行期間が旧盆と重なることに気がついた。次男の私は同じ市内ある実家と離れて暮らしており、ご先祖を祭る実家の仏壇行事に関心が薄かった結果だ。妻に明後日から1週間ばかりタイに出張に出ると伝えた。妻は旧盆を挟んで旅に出ることは不謹慎でしょうと不平を言った。今回面会する予定のタイ国最大手のシェル石油オーナーの都合だ。仕方が無いだろう。タイの国にはお盆が無いそうだ。そう返事しながら荷造りをした。荷造りと言っても泡盛の古酒1本に中華系の人々が好む赤い包装紙の菓子類が5箱で後は着替えが少しだ。機内持ち込みが可能で引いて歩ける小さなコロが付いた手ごろなバックに詰め、寝室裏側のウォークインクローゼットの隅に無造作に置いた。私が大きなスーツケースを使ったのは、公式訪問を伴った数件の旅行だけであった。妻はスーツケースの大きさでこの旅が遊び半分だと判断しているようだ。実家には末娘と二人で参加して私の分まで線香を上げてくれ。父母には仕事の都合で海外にいるとだけ話してくれ。必要なら電話すればよい。電波の届かぬ未開地の山奥でも無いし、長女の暮らす名古屋に出かけるのと大差ないだろ。毎度のありきたりの答弁を言って旅の話題を切り捨てた。妻にとって聞き飽きた言い訳で反論する気も無いのだろう。黙ってテレビのスイッチを入れた。私は飛行機が遅延して帰宅が遅れた時以外は旅先の出来事を話題にしない。それは仕事上の機密だと妻に暗示しているつもりであるが、妻は遊びの延長線上に旅という名の仕事があると理解している気配がする。
出発の前日に1級造園施工管理技士会の道路緑化シンポジュームが宜野湾市のコンベンションセンターで開催された。造園関係者を中心に県内市町村の都市計画に関わる職員を含めて、約300人が参加したシンポジュームであった。私は施工、情報、植物の3部門の技士会の中の植物部会長を務めており、シンポジューム終了後のパネリストの先生方を交えた懇親会まで参加せざるを得ず、帰宅したのが午後10時過ぎであった。リビングルームの照明は既に消えており、音を立てぬように静かに玄関の鍵を開けて室内に入った。ダイニングキッチンの電気を点け、コンビニで買った明日の朝食用のサンドイッチを冷蔵庫に収め、缶ビールをコップに注いだ。外では遠雷の光がダイニングの出窓から見えた。もうすぐ雷雲がやって来そうな気配であった。3本買ったビールの1本を飲み干し、2本は旅から帰った後で飲むことにして冷蔵庫の奥にしまった。大粒の雨がガラス窓を叩き始めた。ズボンとシャツを脱いで洗濯機に放り込み、クローゼットからステテコを取り出して履き替えてベットに横になった。妻の寝息に後ろめたさを覚えながらも雷鳴が大きくなる前に眠りに落ちて行った。
8月17日(水曜日)
いつもの起床時間6時に目覚め、妻を起さぬように静かに寝室を出た。クーラーが止まっており、寝汗がシャツに絡みついていた。シャワーを浴びて下着姿のままキッチンの自分の席に座った。ステックタイプのインスタントコーヒーの封を切り、マグカップに入れて魔法瓶からお湯を注いだ。コーヒーの香りが立ちのぼり目覚めを促してくれた。昨晩買ったサンドイッチを冷蔵庫からとりだして賞味期限を見ると昨夜の午後11時である。パンのパサつきも茹で卵サラダにも違和感はまったくなく、ホッとしてコーヒーで胃の中に流し込んだ。インターネットのニュースは特段の出来事も無かった。私と無関係のごく普通の一日が始まっていた。パソコンの電源プラグを外して落雷対策をして蓋を閉じた。念のためにパスポート、航空チケット、所持金の米ドル、台湾ドル、バーツ、日本円、20万円ほどの残高の旅行用クレジットカード、そして小型デジタルカメラと携帯電話の充電器を確認して玄関に荷物を運んだ。昨夜のうちにリビングのソファーに置いていたチノパンツを履き、かりゆしウェアを羽織って、新聞を取るために玄関を開けて外に出た。玄関ポーチの御影石を境に門へと続くビーチコーラル石灰岩の石畳の園路は、昨夜の雨に濡れて落ち着いた色に変わり、石組みのモルタルの目地がくっきりと表れていた。湿った空気の中に銀香木の花の香りが微かに混ざっていた。本来冬の花のはずだが夏にも2,3輪と咲くことがある。花径3㎜程の淡いクリーム色の目立たぬ花だが、湿った空気の中に自ら存在を示している。園路の横には10坪ばかりの石組みの庭があり、小さな滝を備えた畳5枚ほどの広さの池を設けてある。早春には白梅の花の香りが流れ、ほんの一瞬の沖縄の短い春を飾ってくれる。池の中に白い熱帯スイレンが咲いていた。満月の頃に4日間だけ咲く夜咲きの花である。午前10時ごろまで開いて昼間は閉じて日が暮れると再び開くのである。ふと今日は旧暦の7月13日、ご先祖を仏壇にお迎えする(ウンケー)日であることに気づいた。銀香木の香り、スイレンの白い花が、私の懐の奥深く押し隠していた旧盆行事への不参加の後ろめたさをフツと湧き上がらせた。私は両手を大きく広げて湿った朝の空気を吸い込んだ。そして懺悔という実体のない観念を吐き出した。
自宅前のフクギ通りは右側に下っており、突き当りに屋部小学校がある。いつもと変わらぬ朝の通学時の子供たちの賑やかな声が聞こえてきた。新聞受けから朝刊を取り出して部屋に戻った。新聞の地方ニュースの太字だけを拾い読みしていると携帯電話が鳴った。「5分ほどで着きます」と迎えの社員からの連絡である。柱時計は7時50分を指していた。私はソファーに新聞を放り出し洗面所で歯磨きをしてトイレで用を足した。食卓に残ったコーヒーを飲み干しのマグカップをキッチンの水道で軽く流してシンクに置いた。いつの間にか起きだしてきた妻がソファーの上の新聞を拾上げた。私はかりゆしウェアのボタンを掛けながら「行って来る」とだけ言って玄関に向かった。妻は「そう、いってらっしゃい」と小さく言って新聞を広げながらソファーに座った。いつもの出勤時の一コマ変わりない動作である。カーキ色のテント生地で作られたカバンを手に外に出た。那覇空港に展示するラン類を運ぶ2トンコンテナ車が自宅前に停まっていた。
助手席のドアを開けカバンを放り込みステップに足を掛けて乗り込むと
「常務、おはようございます。どうぞ」と言って缶コーヒーを差し出した。「おお、ありがとう。空港まで頼む」と受け取った。今日の運転手は平安山君である。
「帰りは何日ですか」
「来週の火曜日のCI-122で帰って来る」
「1週間ですか。長いですね。お盆期間中ですが大丈夫ですか」
「俺は次男だ、家内と娘に代理を頼んだ」
「帰りは何時頃ですか」
「CI-122だから通関を終えて外に出るのが8時頃かな」
「そのつもりで手配しておきます」
「すまんな。頼むよ」
国道58号許田インターから自動車道路に入り、豊見城仲地インターから国道331号に降りた。糸満市のあしびなー商業団地からの海浜道路が合流する豊見城警察署の前から朝の混雑が始まっていた。
「常務、時間は大丈夫ですか」
「10時半までにチェックインすれば良いから心配いらないよ」
「那覇は名護・本部の田舎と異なって混雑が半端でないですから」
「お前も那覇の水を飲んで少しは都会人の仲間入りをしたな?」
「そうですね、ハハハ」と頭を掻いた。
9時30分に那覇空港国際線ターミナル前のバス乗り場に停車した。
「ありがとう。助かったよ。来週の火曜日も誰かよこしてくれ。頼む」
「分かりました。手配しておきます。お気を付けて行ってください」
コンテナ車は後続車両を気にしながら急いで離れて行った。
ターミナルの待合室、レストランを覗くも仲里の姿はなかった。私は直ぐにチェックイン・カウンターに行って旅行バッグを預けて座席の予約をした。連れに仲里清がいるからと隣の座席を予約したいと頼むと、乗客予約リストをチェックして押さえてくれた。未だ搭乗手続きの客は少なく、いつもの通り通路側の席が取れた。パスポートに航空チケットを挟み、かりゆしウェアのポケットに入れてロビーに戻った。未だ旅客の姿が閑散としたロビーでゆっくりとストレッチして体を解していると、仲里が奥さんと共にやって来た。台車に大きな段ボールを乗せていた。
「何だいその荷物は」
「オンシジュームだ。タイへのお土産として秦に頼まれたのさ」
「大したサービスだな」
「そうじゃないさ、秦の注文だからしっかりと料金を貰うよ」そう言って奥さんの顔を覗いた。奥さんが笑っていた。
「先にチェックインしてアンタの席を俺の隣に予約してある。カウンターの女性にそう言ってくれ」
「おお、ありがとう」そう言ってチェックイン・カウンターに向かった。重量オーバーの追加料金を取られたようだ。
僕らはレストランに入って時間を潰した。仲里は朝食の沖縄そばを取り、私と奥さんはオレンジジュース頼んだ。
「仲村さん、暫らく日本食を食べられませんよ。沖縄そばを食べておかなくて良いですか」
「出がけにサンドイッチを食べたので満腹です」
「東南アジアの料理は口に合いますか。私は全然ダメです」
「さあ、東南アジアで不味い料理を食べたことは無いですね。海外出張の度に体重が増えますよ。逆に国内出張では何故だか体重が減ってしまいますね。」
「国内出張は無いのですか」
「植物園協会の賛助会員を脱会してからは、定期の国内出張はないですね」
「国内の国際洋蘭展示会の見学行きませんか」
「東京ドーム、名古屋も1度で十分です。皆さんのように出店するわけでもないですから」
「見るだけなら一度で十分ね。でも観光地巡りはしないのですか」
「5年ほど前に長女の結婚の顔合わせで、婿殿の実家である三重県に行ったのが最後かな。特別食べたい日本食も無いですし」
「貴方も清も同類ね。要するに南方系の土人の血筋ね。ハハハ」と声を出して笑った。私はふと思い出した。東南アジアの友人たちから何度も言われるのは「ナカムラ、アンタ日本人か」私はその度に「私の故郷はメインランド・ジャパンから1,000㎞離れた日本の南の外れだ。台湾のすぐ隣の島だ」そう答えると彼らは笑ってうなずくのだ。私が思うに、人類は赤道を挟んだ熱帯、亜熱帯の地域に暮らす人々は、穏やかで物事に固執しない傾向がある。一方寒さの厳しい北の民族には備えを怠ると忽ち生命を奪い去ってしまう自然の脅威がある。イソップ物語の蟻とキリギリスの物語の世界だ。しかし南方のキリギリスに冬の厳しさはやってこない。1年中ギターを演奏して暮らせるだろう。厳しい寒さから身を護るためにガードが固くなる民族と、蓄えの習慣を必要とせず豊かさの意味が異なる文化を形成してきた民族の違いだろう。沖縄は南方系の北限に位置するようだ。南方から来る黒潮の流れによって形成された黒潮文化圏である。民俗学者柳田國男の説によると、ミクロネシア、フィリピンを経由して北上する黒潮の海流に運ばれた文化である。柳田は海上の道が作った文化圏と呼んでいる。柳田の民俗学説はともあれ、北の民族の慣習や気質は私に合わない。とはいえ、関東以南の大きな植物園はほとんど見学し、京都の有名庭園も5度ばかり見学した。私の庭も明治の造園家・植治が作庭した無鄰菴を模したつもりだ。単純に現在では日本文化圏への興味が薄れているだけであろう。
仲里夫妻は損得を共にする同じ事業エリアで暮らすことで、私に欠けつつある夫婦間の大らかさと信頼感などの強い結びつきを備えているのは確かだ。165cm、90kgのキヨシに対して奥方は小柄で痩せている。何事も大雑把なキヨシの手綱を締めているのが彼女で、互いの何かを補完しあっているように見える。
那覇空港ビルの植物展示スタッフ3名がレストランにやって来た。
「常務、お気をつけてお出かけください」と挨拶にきた。
「おお、ありがとう。コーヒーでも飲むか」と言うと
「いえ、仕事が残っていますから、失礼します」と出て行った。
「気持ちの良い子達ね。誰が教育したのかしら」と笑った。
「さあ」と首をすくめた。
清の食事がすむと奥方は引き上げた。僕らはレストランを出てX線磁気検査、イミグレーションと進み搭乗待合室に入った。11時10分であった。私は会社に電話して事務主任の上間女史にこれから台湾に向かうと伝えた。4名の娘にメールを入れ、今から旅に出ると伝え娘からの返信を確認して電源を切った。CI-121は11時45分に那覇空港を飛び立ち、時差が1時間遅れの台湾時間の12時10分にランディングした。いつもながらエンジンの逆噴射の振動音が私は苦手だ。薄っぺらな主翼ぶら下がったエンジンが外れて、機体がキリキリ舞いしそうな不安に襲われるのだ。1時間25分の飛行時間は福岡よりも近い距離である。機内で記入したイミグレーションカードを仲里に渡した。宿泊先はゴールデン・チャイナ・ホテルと記入した。これまで何度も泊まったホテルで、利用客名簿に私の名前が記録されているホテルだが今回も泊まるか否か分からない。単なる記載事項である。長い列の外国人専用の入国審査を受ける間に携帯電話を台湾モードに切り替えて秦に電話をした。
「私、空港迎え行けない。陳先生ロビーで待っています」それだけ言うと電話を切った。
1階で荷物を受け取り、迎えの人々でごった返す広場に出ると、秦の電話通りに陳石舜先生、息子の達寛、そして呉秀美女史(サンディ・ウー)が待っていた。達寛の運転するワゴン車に乗り込み空港を出て桃園市内に向かった。陳先生は那覇空港に展示するコチョウランを輸入する為の取引先である。名臺企業股份有限公司、英語表記:ミンタイ・エンタープライズの代表である。戦前の生まれで台北大学の経済学部卒を卒業したエリートで日本語、英語が堪能である。台北銀行頭取秘書、酒タバコの専売公社役員などを経て、定年後にランの輸出に関する会社を立ち上げている。台湾の蘭生産者を束ねる台湾蘭協会の会長であり、世界蘭会議のアジア地区代表評議員を務める。英国王立蘭協会から功労感謝状を貰うなど世界中の蘭関係者から知られた存在だ。紛れもなく台湾におけるラン業界のキングである。息子は先生の秘書的存在で英語がある程度話せる。サンディは台北大学の英文科卒で英語・スペイン語に堪能で水苔の貿易商をしている。出迎えの人ごみに紛れる程の背丈であるが南米チリ、ニュージーランドまで単身で貿易交渉に出かける強者である。美人とは言えないが笑顔が素敵なビジネスレディだ。陳先生の紹介で付き合いを始めて数年が経つ。毎年コンテナ1台単位でチリ産・ニュージーランド産の水苔を輸入していた。
「秦は旅行の準備で忙しいので迎えに来ることが出来ませんでした。彼の農場の近くのレストランで待っています。食事に行きましょう」先生はそう言った。私は秦に会う前に先生とサンディにお土産を渡した。秦の農場は空港からほど近い場所にあり、グッドウィル・オーキッドと称していた。パット・エンド・ファンを装備した300坪余りの温室であるが、名ばかりの商いである。生活の糧は台北近郊にある数軒の貸しアパートである。東南アジアの蘭展示会に出品して各地のラン仲間との交流を楽しんでいるだけだ。金に不自由しない良い星の下に生まれた男の典型である。秦の父と陳先生は大戦前の日本統治下の旧制中学の同窓生である。台湾国軍の高級将校の一人としてフィリピンの内戦に従軍して2年間投獄されるなど屈強な軍人経歴の人であったらしい。資産家でもあった父を亡くした後は、陳先生が秦をラン業界に引き込んで親代わりに面倒を見ているようだ。おかげで金目あての不良仲間に取り込まれなかった幸運も持ち合わせているようだ。軍人の父親は息子の教育に関わる時間が無かったようで、秦は自由奔放に青少年期を過ごしたようだ。秦の日本人に理解できない日常生活の判断基準は少年期に形成されたのであろう。秦は東南アジアのラン展示会で時として軽度の不始末を引き起こすも、陳先生の後ろ盾があるので不問に付されていることが多々あるのだ。スケジュールに無頓着な性格故に日本国内の蘭関係者からは全くの信用を欠いていた。本人は片言の日本語を話すも、広東語で会話が出来る東南アジアの中華系の蘭生産との交流を楽しんでいた。英語は日本語よりも上手く、私は英語で意思疎通を図っていた。互いの未熟な言語を補完しあいながらコミュニケーションを取るので、同じ言語を持つ日本人よりも親密さが増すことも少なくないのである。
秦は自分の農場の屋根が見える場所のレストランの外で待っていた。レストランの中には秦の友人の洋品店の店主が席を作って待っていた。ほどなくして台南の蘭生産者陳全江が加わった。5年以上前の台湾国際蘭展示会以来の友人であり、その後も何度か飲みあった友人だ。今回の旅の同伴者である。185cmの背丈に120kgの巨体だ。ラグビーのホワードが務まりそうな骨太の体格だ。目が細くいつもニコニコした穏やかな性格で、60度の高粱酒を好む飲兵衛でもある。彼から貰った高粱酒が今でも私のキッチンの一番奥に手つかずに残っている。「ハロー、ナカムラサン」以外の英語は話せない。この日もそう言って握手を求めて来た。仲里との飲み友達ではないようだ。台湾国際蘭展の折、自社職員2名と彼の車で近くの蘭園巡りをしたが意思疎通に不具合は無かった。意思疎通を図るには言語でなく遠慮のない誠意のだけである。
昼食は淡水魚の蒸し物、エンサイと豚バラ肉の炒め物、小エビの炒め物、小さな牡蠣の炒め物、チャーハン、乾燥イカを湯で戻してその切り身をわさび醤油で食する。プリプリした食感がたまらなく嬉しい。小エビの入った淡白なスープで味覚を正常に戻して胃袋を落ち着かせた。久しぶりに飲む青島ビールも淡白で美味かった。陳先生は秦に気付かって昼食後に引き上げた。荷物は秦の車に積み替えた。先生にはタイから帰った翌日にお付き合いをお願いした。仕事の話を少しばかりしたいと伝えた。サンディにもタイから帰ると台北に一泊するのでもう一度会う機会があるでしょうと英語で伝えた。彼女の表情がパッと明るい表情に変わり楽しみに待っていますと答えた。美人でもなく背も低いこの女性は表情の変化が多彩で私の中に好ましい記憶を残す人物である。この宴席は秦の席であり、陳先生、サンディとも自分の宴席を持たねば気のすまぬ気性の民族的慣習の持ち主である。彼らに日本人のような割り勘接待の習慣はない。陳先生一行が引き上げた後も僕らは宴席を閉じるでもなく店のビールを飲みつくし店主の隠し酒の高粱酒も飲みつくして終了した。
レストランを出て秦の友人の洋服店主のオフィスでコーヒーを飲み、1時間のドライブで秦の自宅に近いホテルにチェックインした。雅荘汽車旅館という名の駐車場付きホテルである。宿泊料金は朝食付で1,760元(5,300円)である。私の街のビジネスホテルより少し安くシングルルームにダブルベッドはありがたい。女連れ込み兼用のホテルだ。台湾やタイ、マレーシア、シンガポールではごく普通にある仕様のホテルだ。日本国内のシングルルームは東南アジア仕様に慣れた私にとって窮屈感がある。早速シャワーを浴び、下着を洗顔石鹸で洗ってクーラーの風が当たる場所に吊るした。洗顔石鹼は体の油分が良く落ちるので肌着やアイロンの要らないポロシャツの洗濯には好都合である。ズボン以外はホテルのランドリーサービスを使うことは少ない。しかし、この先洗濯をする機会があるか定かではないので、旅の初日といえども洗濯が出来るときにするのがベターだ。会社に提出した旅行日程表は那覇発と那覇着以外は全く無意味である。旅行日程は秦の頭の中である。2時間ほど昼寝をして備え付けのウーロン茶を飲みながらテレビを観た。何処のホテルでも衛星放送が受信できるのでNHKの7時のニュースを見た。午後6時だが1時間遅れの時差があり日本の夕方のニュースが放送されているのである。ふと国内の地方の安ホテルに宿泊している気分がした。
午後7時、秦に案内されて徒歩でホテル近くの食堂に入った。先客がいて大声で手招きした。テーブルを繋ぎ合わせて席をあつらえてくれた。仲里、秦、陳、私の4名が座った。先に来ていたのは秦の姉の旦那、洋品店主の弟とその友人2名である。話の様子から彼らもタイに出かけるので前祝いを兼ねているらしい。この店はアヒルとガチョウの専門料理店である。彼らはダッグとかグースと言っているが私にその肉の違いは分からない。香草を加えて蒸した冷えた胸肉、ショウガや様々な薬草の入った鶏ガラのスープ、揚げた手羽先、肉を千切りにしてネギを絡めた炒め物、紹興酒に合う料理である。何度となく乾杯を重ねた。
秦の義兄が突然立ち上がって中国語でスピーチしてから錠剤を皆に配った。
「先輩、バイアグラです。旅行で必要です」と秦が大声で笑いながら言った。秦の義兄は輸入代行業だと言ったが、そのようなビジネスがあるのか、本業が何であるかは不明である。尤も秦の友人にはごく普通にいる不可思議な職業の人間たちだ。秦自身ですら自分の本業が何であるかを全く意識している様子がないのだから。最後に出て来た一品はアヒルの血を発酵させた塊の入ったスープである。秦の義兄が私に向いて中指を立て、卑猥な表情をして中国語でまくしたてた。皆がどっと笑った。精力が付く食べ物らしく皆うまそうに食べていたが、私も仲里もその独特な発酵臭と食味には馴染めなかった。天井に扇風機が回り、もうもうと湯気とタバコの煙が立ち込める薄汚い食堂は、客の体臭とアヒル特有の料理臭が混ざり合い、それらが油汗と共に体中にへばりついてしまった。私は何度も額の汗をハンカチで拭った。紹興酒を2本だけ空けた。秦の弟とその友人たちはもっぱら青島ビールである。若者には紹興酒離れが進んでおりビール、ウイスキーを好むようだ。あの独特の薬膳酒にも似た香りは若者受けしないのだろう。午後11時に最後の乾杯で散会した。
陳と仲里と3人でホテルに向かった。陳は途中の屋台で紙コップに入った搾りたてのスイカジュースを僕らに渡した。胃の辺りを擦って親指を立てた。胃の調子を整える効果があるらしい。口に含むとクラッシュ氷に砂糖を少し混ぜた味がした。陳の巨体には優しいだろうが私には少し重たい気がした。少し口に含んだだけで飲み干さずにホテルに持ち帰りトイレに廃棄した。ホテルに戻ると今日3度目のシャワーを浴び、2度目の洗濯をしてベットに横になった。なんの抵抗もないまま睡魔に襲われて朝のモーニングコールを迎えた。
8月18日(木曜日)
午前6時30分、仲里と共にフロントで待っていると秦がやって来た。陳が降りてこないのでフロントから呼び出した。午前7時から始まる朝食をキャンセルして車に乗り込んだ。秦が笑いながら言った「陳さん、ポルノテレビ見て、朝寝坊した」。昨日の洋品店主の運転する秦のワゴン車で空港に向かった。台北の朝は交通混雑が激しく、空港まで1時間20分を要した。着いたのが7時40分である。既にチケットの予約が済んでおり、秦からフライト予約表を受け取った。チケットカウンターで各自のカバンとランを詰めた3箱の段ボールを預け、重量超過料金を払い搭乗チケットを受け取った。沖縄を発つ前に仲里と私のパスポートのコピーをPdfメールで送ってあり、秦がフライトスケジュールを予約してあったのだ。秦は旅行経費として20,000円を要求した。チケットの割引差額であるのか、タイでの飲食代であるのか良く分からない料金の算出であるも安いにこしたことはない。午前8時30分、何らのトラブルもなくイミグレーションを通過した。我々はファーストクラス専用のラウンジで無料の軽い朝食を取った。軽食のラウンジであるがラーメン、うどん、餃子、シュウマイ、サンドイッチと豊富なメニューである。飲み物は缶ジュース、ビール、ブランデーまで揃っている。秦の勧めで早朝からラーメン、蒸し餃子、ブランデーをセルフサービスで取った。
CI-693のファーストクラスの座関はいつものエコノミークラスと異なり、座席が広くゆったりとして心地よい。3時間の旅も苦にならないだろう。離陸して1時間ほどで昼食の機内食である。機内食は定番の弁当箱タイプでなく、食前酒、前菜、メインディッシュ、デザートまで付いている。3種類のメニューからローストビーフを選んだ。エコノミークラスの狭い座席で、隣の席の客人の肩に触れるのを気にしながら食事をするのとえらい違いだ。秦とお喋りをしながらゆっくりと食事を楽しんだ。秦はチャイナエアラインの乗務員の女性を度々呼んでブランデーを3杯注文した。しばらくして乗務員が通路を通りながら免税品の販売を始めた。秦が呼び止めてタイの客人への土産として、ブランデーXOを免税価格の95米ドルで買った。各自1本ずつの負担である。座席に付いた画面で映画を見ながらうたた寝をしているうちに機体はタイのドン・ムアン国際空港に向かって降下を始めた。機内放送で目覚めて、乗務員の指示に従いシートベルトを締め直して窓の外を眺めた。飛行場は樹木でセパレートされた細長い芝の広場が連続する不思議な景観であった。不思議に思って注視していると機体がガクンと揺れてタイヤを出して着陸態勢に入った。ランディングの直前に200ヤード先のティグランドでクラブを振りぬくゴルファーの姿を見つけた。よくもまあ頭上から降り注ぐ旅客機の爆音の中でゴルフが楽しめるものである。国が変わればゴルファーの遊ぶ場所も変わるようである。
ボーディングブリッジを渡り、細長いボックス状の通路を歩いていると、CB無線を手にした空港スタッフの若い男ががやって来て秦に話しかけた。
「先輩、パスポートを出してください」と秦が言った。
僕らのパスポートを持って男はイミグレーションボックス内の入国審査係官に何かを話してパスポートを渡した。肥った女性の入国管理官は眼鏡の奥から僕らをジロリと一瞥して入国審査印をポンポンと押して男に渡した。僕らはパスポートを受け取り、男の後ろに続いて進んだ。長い列となって入国審査を待つ旅客の不審に満ちた視線を感じながらその脇を進んだ。入国審査官は僕らを無視して作業つづけていた。僕らはまるで最慶国の貴族の扱いであったが、今にも入国審査官に呼び止められる気がして振り向かずにボックスの横をすり抜けた。僕らは手荷物やランの入った段ボール箱を台車に積み込み出国検査ゲートに向かった。僕らを引率する男が係員に何かを告げると何らの検査もなしで出迎えのロビーに出ることが出来た。それを確認して引率の男はCB無線で何かを話して引き返して行った。私には信じ難いことであったがこの国の経済界のキング、シェル・カンパニーのオーナーの権力であろう。ロビーにはボルネオのゴメス・シムが若い女性と待っていた。仲里も私も個別にボルネオ島の旅行の際に現地ガイドとしての親交があった。秦の説明にはなかったがこの旅の同伴者らしい。
「ハロー、シム、ウェイティング、ロング」「ドンチュウ、ボーディング」(久ぶりだなシム、待たせて退屈しなかったかい)と話しかけた。「オー・ノープロブレム、ナイス、ミーツユウ」(全然、久しぶりだな)と握手を求めて来た。仲里とも懐かしそうに握手をした。
空港の外の路上は相変わらず訳の分からぬ混雑であった。出迎えの人々なのか客引きの怪しい職業の輩なのか日本や台湾には見られないカオスの空間である。こざっぱりした制服を着た如何にも会社のお抱え運転手らしき40代の男と空港警備員にガードされたトヨタの高級ワゴン・アルファードが待っていた。警備員が見守る中で運転手が手伝って荷物を積み込むとゆっくりと喧騒の空港から脱出した。
ガイドのユイ嬢
運転手の名前は発音が難しく失念したがシェルカンパニーの職員である。ユイと名乗った30歳前後のガイドは社長がよこした女性である。社員か否か問うことも無く旅を続けることにした。くだけた会話から社員ではなく、社外のガイドを生業にした女性のような気がした。
助手席にユイ、2列目に秦と図体のデカい陳、後部座席にシム、仲里、私だ。シムは細身だが私と仲里はそれなりにデカい。多少窮屈なドライブとなった。
小柄で色白の中華系特有の顔立ちとストレートの髪を薄茶に染めたユイ嬢はタイ語、広東語、癖のある英語を話した。日本語は全く駄目である。この国で経済的に豊かな人々は中華系が占めており、とりわけ中国南部地方出身の家系である。それ故広東語圏とも呼ばれているのだ。寒い上海、北京の漢民族系でなく、ベトナム、ミャンマーと国境を接する多民族の人々からなる華南人を先祖とする人々である。秦や陳先生の一族も祖父母の代に広州からやって来たらしい。台湾、広州の男性の話す広東語は騒々しいがタイ、マレーシアの中華系の人々にとっては地域ごとの方言に類する変化を生じたのか、イントネーションが穏やかである。ユイの鼻にかかった話し方は何とも艶めかしく聞こえる。会話の意味が解らぬせいもあるだろうが、私の耳には悪い響きではない。
空港を出たワゴンはバンコクの南東120㎞に位置する海浜リゾート地のパタヤに向かった。バンコクの異常な喧騒を抜けて3時間余りのドライブである。バンコクの渋滞から逃れた頃、高速道路料金所手前の食堂で少し遅い昼食を取った。十分な朝食と活動もせずに機内食を食べたせいで空腹感は無かったが、喉が渇いたのと、僕らは手足を十分に伸ばしてタイの郊外の新鮮な空気を吸い込みたかったのだ。
この国の庶民相手の食堂の造りは壁が無いのが特徴だ。日中はとても暑く風通しが悪くては飯が食えないのだ。尤も閉店後は野盗に備えて雨戸をしっかりと閉じている。壁があるのはクーラーを備えた高級レストランだけだ。そのような店は外国人の味覚に迎合しているので、大抵の場合ホテルのレストランの延長線上の味に似ており、本物のローカルの旨味に出会うことは少ない。
店に入り、シム、ユイ、運転手のテーブルと台湾から来た僕らのテーブルに分かれた。店内の陳列棚にはタイの醬油ベースで煮込んだこげ茶色の豚の足が積まれていた。秦がそれを指差して2皿分を注文した。沖縄のテビチである。テビチは予め7㎝程度に切断してから調理するのであるが。足を膝の部分から下をそっくりそのまま調理されている。テーブルに出されたのは骨を取り除き適度の大きさに切断された皮付きの肉とエンサイの炒め物である。定番の香草パクチーを刻んで振りかけてある。香辛料が効いているが間違いなくテビチである。小皿に取り分けて口にすると、油が適度に抜けた肉とコラーゲンたっぷりの軟骨、そして味が浸みこんだプリプリした皮の部分はたまらなく美味い。刻んで振りかけたパクチーがタイ料理の魅力を存分に引き出している。スープは鶏ガラダシの細麺の入った薄味のヌードルである。濃い豚肉の味で染まった口の中をスープが洗い流してくれる。テーブルにはコショウ、赤唐辛子の粉末、生の青唐辛子の輪切り、シシトウに似た厚肉の唐辛子のピクルス、ナンプラー等、幾つもの香辛料があり、それぞれの好みで辛みを加えるのだ。メンバーはだれも激辛を好まない。現地人の運転手とユイは僕らがラーメンに七味唐辛子を振りかける仕草でごく普通に香辛料を振りかけていた。暑い昼下がりと辛味の効いた昼食にはビールが良く合う。タイのビールは国産のシンハービールとライセンス生産のハイネケンビールが主流である。僕らはこの先つとめてシンハービールを飲むことにした。外国人が地元のビールを注文すると店員の表情が和むのである。
店を後にしてパタヤに向かう高速道路に入った。料金所の道路脇に事故で酷くクラッシュした3台の車両が錆びついた状態で放置されていた。交通事故の恐ろしさを喚起する処置であろうが、極めてダイレクトな表現である。高速道路と言っても、日本の様にガードレールで完全にセパレートされているわけではない。道路下に原野が広がり、道路わきの砂利の広場に食堂やら雑貨屋等がある。無論高速道路に侵入できる脇道は無いのであるが、いたってのんびりした風景が見られるのである。高速道に入る前の街角に肩から赤と黄色のラインの入ったタスキを掛けた上品な女性の写真が数多く見られた。少し気になったのでユイに尋ねると国王の奥方、王妃とのことである。何やら記念事業があるようだ。タイは王室と国民の間に親密な繋がりがあるようだ。何しろ王室を非難すると逮捕されるとのことである。現代の琉球人である私には想像もつかぬが、大戦前の日本の皇室もそうであっただろうか。
ビールのアルコールで私は1時ほどうたた寝をしていたようだ。気がつくと大型のコンテナトレーラーが増えている。パタヤの手前20kmにあるレムチャバン貿易港からバンコクへ荷物を運ぶ車両である。ワゴン車の中は静かで、先ほどまでユイをからかっていた秦も熟睡している。私は秦の横顔に今夜の長い夜の為に充電している不穏な気配を感じていた。
コンテナ車の群れ
タイランド湾に沿って海岸をカンボジア国境まで続く有料の幹線道路3号線を左折してパタヤの街に入ったのは午後5時頃であった。バンコクよりも欧米人の姿が増えていた。大柄な欧米人の男が小柄なタイ女性と連れだって街角に立っているのも少なくない。親子ほども齢が離れた小娘を伴い、半ズボン姿のラフな身なりは落ちぶれた不良外人の姿にも見えた。パタヤビーチリゾートは1960年代から開発が始まった。ベトナム戦争の帰還兵の休息地、あるいはカンボジア内戦に備えたタイ国内の米海軍の駐留地などもあり、次第に近代的なリゾートホテル群が形成されていった。当然のごとく歓楽街も広がって行った。私は1983年に初めて訪れて以来4回目の訪問である。訪れるたびにホテルは近代化されていた。当初の建築ラッシュが治まり、町並みは落ち着いていた。魚介類を焼く煙や麺類、スープの湯けむりにむせる屋台、夜風が吹き抜ける食堂、夏祭りの夜店にも似た雑多な土産物を売る店が並んだ繁華街は、大小のショー劇場や電飾の施されたバー、レストランへと変わり、この時間は小奇麗に化粧して夜が来るのを待っていた。この街の変化は他にもあった。コンビニのセブンイレブン、店の看板が中国語の中華料理店、日本語のすし店、ハングル文字の焼肉レストランが幾つか見られた。アジア極東地域からの旅行者も増えているのだろう。僕らもその仲間に違いないなのだが。
ホテルの前庭、奥はゴルフコース
僕らはダウンタウンの喧騒地帯から少し離れた海岸の低い崖に面したアジア・パタヤ・ホテルにチェックインした。私と仲里、シムと陳、秦と運転手、ユイはシングルルームである。ロビーには欧米人、韓国人の姿があった。ミニゴルフコースを備え、若者の姿はなく年長の宿泊客らしい2,3のカップルがロビーのソファーでくつろいでいた。幾らかハイクラスのホテルのようであった。東南アジアの中級以上のホテルではパスポートの提示を求められるが、このホテルではご丁寧にコピーを取ってから返した。テロ対策の意味があるかも知れないが少し不快感が残った。尤も、宿泊メンバーはタイ人2名、マレー人1名、台湾人2名、日本人らしからぬ浅黒い肌の男2名の不可解な構成であり、巨大企業シェルカンパニーの紹介客である。
段ボール箱を車に残し、バッグだけをカートに乗せた。カートを運ぶベルボーイの後に付いて4階に上がった。秦はカートのバッグを指差しては各部屋の前にバックを降ろさせ、最後にチップを渡した。ボーイは部屋ごとに貰えるはずのチップを1回分しか貰えなかった。ボーイが「サンキュー」と言って去っていくと。
「センパイ、頭イイ」と笑いながら人差し指で自分のこめかみを差して日本語で言った。秦は旅慣れているのかケチなのか良く分からない男である。夜遊びで金遣いが荒いが20バーツ(60円を)倹約する知恵もある。
私は念のためにトイレで便意を片付けてロビーに降りた。午後6時半の明るい時間にダウンタウンに向かった。最初に入ったのがパタヤに多いマッサージ店である。私は肩こりを知らぬ人間である。マッサージが特に好きでもないがお付き合いだd。ユイと運転手殿はコーヒータイムだ。5名は浴依に着替えて広間に並んで横になった。店内は全てが見通せる造りで、韓国系、中華系の客があちらこちらに寝転がっていた。欧米人の姿はなく私と同じで肩こりが無いからであろうか。マッサージ嬢は20代である。8年ほど前に熱帯果樹の国際シンポジュームでパタヤを訪れ、友人4名で会議を抜け出しマッサージを受けたことがあった。その時は額に赤い紅を付けたインド系の女相撲取り並みの女性が力強いマッサージを施し、皆が悲鳴を上げたものである。
マッサージは仰向けに寝て、爪先から体の表面を頭に向かって進み、うつ伏せになって足の裏から頭部に向かって指圧を進めて終了した。ふくらはぎと腰にタイガーパームオイルを擦り込んでおり、エアーサロンパスをスプレーした感があった。マッサージは1時間コースであった。タイに到着してから両替をする機会が無かったので手持ちのバーツを持ち寄って支払った。よく覚えていないが600バーツ程度であっただろう。マッサージ嬢は訓練学校を出ていると話していたが、インド女性ほどは私の筋肉を弛緩させてはくれなかった。車に戻ると辺りはすっかり夜が始まっていた。
夕食のレストランに向かう途中でハングルハン文字の看板に明かりが灯っていた。レストランにカラオケバーである。未だ日本ほど贅沢な街灯の明かりが少ないこの地区では、セブンイレブンの赤とグリーンのラインが目立った。店の中には地元の人間でなく旅行者らしい数人の人影が動いていた。コンビニエンスストアは何処でも旅行者にとって便利な存在である。
レストランは100名程が収容できる割と広い店である。むろん壁となる仕切りはなく屋根を支える柱が立っているだけで店内の端まで見通せる造りである。
ユイと秦が写真付きのメニューから料理を選んでいる間に僕らはビールを注文した。ビールは此処でも冷えておらず、氷の入ったグラスに注いで冷やすのである。ビンをテーブルの上に置くのでなく、テーブルの傍らのワゴンにビール、コーラ、ジュース、氷の入った容器を乗せて各テーブル付きのボーイが次々と注いでくれるのである。グラスのビールは常に満たされている。
タイに来て初めての晩餐である。ワゴンで運ばれてきたパサパサのタイ米をボーイが各自の大きな皿に取り分けてくれた。その皿にメインの料理を取り分けて食べるのだ。コメと料理を適当に混ぜて食べるのである。日本米だと料理から出る油や汁でベチャベチャになって食えないだろう。タイ米でなければこの国の料理には合わないのである
ブー・パッ・ポン・カリー:大ぶりのマングローブ蟹をぶつ切りにして、ネギ、カレーソースに溶き卵を絡めて煮てある。最初は上品にフォークとスプーンで身を解して食べていたが、しだいに手づかみで嚙みついて殻をテーブルに置いた。テーブル付のボーイが時折その殻を片付けてくれた。
チューチー・クン:大ぶりのエビをココナツミルクとカレーで炒めてある。
トム・ヤム・クン:よく知られたタイ料理だ。酸っぱくて辛いスープには刻み葱やショウガが薬味に使われている。大きなドーナツ状の鍋が火にかけられ、この店の具材のエビがごろりと入っている。小ぶりの椀に取り分けて食べるのだ。
プラー・チョーン・ペサ:40㎝程の蒸した白身の魚に酸味のある餡かけ料理だ。あっさりとした味である。この店では生簀で飼っているヤイトハタ(沖縄ではミーバイ)を調理してある。亜熱帯のサンゴ礁に住む高級魚である。テーブルには3種類のトロっとした薬味の醤油が小瓶に入っている。手元の小皿に差して使うのだ。いずれも辛い味だ。
トート・マン・プラー:魚のすり身に千切りのインゲン豆を混ぜて揚げた蒲鉾だ。直径10cm、厚さ1cmの円形蒲鉾である。スプーンをナイフ代わりにして小さく切り取って薬味のたれに浸けて食べるのだ。八重山蒲鉾が数段美味い。すり身の材料である魚の質が異なるのであろう。この辺りで盛んな養殖淡水魚かも知れない。
クン・パオ:クルマエビの大きさのエビを網焼きにした料理だ。緑色の辛めのタレに浸けて食べるのだ。エビの香ばしさが口内に広がって何とも嬉しい気持ちになる。エビは網焼きが一番美味い。子供の頃の川遊びで、手長エビを河原で焼いて食べた記憶が蘇った。
その他に赤貝の網焼き。エンサイ、ツル野菜の炒め物を取り分けて食べた。
デザートはパインとスイカである。この国のパインは本当に美味い。よく食べてよく飲んだ晩餐会であった。
レストランを後にしたのが午後9時半であった。秦は車中から携帯電話で誰かと話していた。セブンイレブン近くのショー劇場の駐車場に車を停めた。広い駐車場の両サイドにショー劇場が建っており、大人子供が楽しめる宝塚歌劇団タイプと男性向けのアダルトショー劇場だ。宝塚劇場タイプは派手な舞台衣装の美女が歌って踊る本格的なタイ式宝塚ショーだ。宝塚ショーと根本的に異なるのはスタイル抜群の美人の踊り子たちが全て元男性であることだ。この国がオカマ天国と言われる所以だろう。劇場前の広場は韓国、中華系の人々で賑わっている。数年前に私がこのショーを見た時は欧米人観光客が多かったが、この国での社会情勢の変化が現れていた。
僕らはユイと運転手を残して秦の友人が待っているという男性向けのショー劇場に入った。入場料金は400バーツでビール又はコーラが1本付いていた。1時間の見学時間でプログラムが1サイクル演じられる仕組みである。舞台には既に踊り子の姿があった。長身で手足の長いスタイル抜群の踊り子が上半身裸でハイテンポなソール系音楽に合わせて体をくねらせている。アメリカ映画に出て来るショーの雰囲気である。ステージは様々な色のライトが動きながら交錯して踊り子の姿をアップしている。踊りが指をパチンと鳴らして手拍子を要求すると、すり鉢状になった会場が踊り子の踊るリズムと一体となった手拍子の響で会場が盛り上がった。踊り子が軽やかな足取りで舞台を降りて幕内に去ると、反対側の間口から両端に火の点いた棒を振り回した筋骨隆々の男が出てきてポリネシア風の火炎の踊りが始まった。その次は裸の美女が観客の男性を舞台に上げて絡みつくお笑いのシャワーショーだ。その次に大きなまな板に乗った裸の美女が男性4人に担がれて舞台に登場した。体の上には料理が盛り付けされており、それを観客の男性が一人また一人と交代で手を使わず口でぱくつくショーだ。次々と観客一体となった愉快なショーが続いた。日本の盛り場の場末に僅かに残ったストリップ劇場で開催される卑猥なショーの雰囲気は無く、観客席には新婚カップルらしき姿も少なくない。僕らは秦の友人を見つけ、ショーが一巡した頃外に出た。秦の友人とは言うのは僕らを空港まで送ってくれた洋品店主の弟で台北の遊び仲間と3人で観光に来ているらしい。僕らはタクシーとワゴン車に分乗して移動した。午後11時を過ぎていた。日本時間の午前1時である。
車から降りたのはカラオケバーの前である。秦は既に彼の友人とカラオケルームの喧騒の中にいた。ユイを含めた客10名とホステス9名の饗宴である。中華系専用のカラオケバーであるらしく、台湾系の歌が多く、日本のポップ系曲もあったが私の好みではなかった。秦のカラオケ好きは有名だ。台湾、中国、日本国内とどこでもカラオケバー探し出して徘徊するのだ。しばらくすると秦はボーイを呼んだ。
「シックス・ダイス、ツー・ヌードルカップ。アンド、スモールグラス」そう言ってサイコロ3個と丼を2セット持ってこさせた。1個のサイコロをテーブルに置き、残りの2個をドンブリの中に転がすのだ。テーブルの上のサイコロの目と丼の中のサイコロの目が一致すると罰ゲームを受けるのである。3個のサイコロが一致する確率は1/6×2の30%以上だ。1個の目が合えば1回、2個の目が合うと2回の罰ゲームが待っている。小さなグラスに氷を1個入れてウイスキーを半分ほど注ぎ、罰の数ごとに1杯、2杯と一気に飲み干すのだ。ゲームは私と陳それに新しい台湾の友人が客チームでそれぞれの席に付いたホステスと対戦するのである。秦、仲里、台湾の友人も別のサイコロで対戦していた。ゲームに参加しないものはカラオケに興じていた。このゲームは言葉によるコミュニケーションを必要としないので、ホステスの嬌声だけで場が盛り上がる。サイコロの目が合うと私の知らないタイの方言らしき言葉で嬌声を上げる。目が合わないと勝ち誇った表情で隣のホステスにサイコロを渡す。ジョニーウォーカーのブラックラベルのボトルがたちまち空になっていく。ホステスたちは時々「ジャスト・モメント・ワン・ミニツ」(ちょっと待って)と言って席を外す。僕らはボトル3本をたちまち空にしてゲームを終えた。サイコロゲームの後でデスコダンスに興じた。踊る相手のホステスには50バーツをチップとして渡すのがこの店のマナーのようだ。私はチップ用にと常に米ドルの1ドル札を10枚程ポケットに突っ込んでいる。2ドルをホステスに渡した。ホステスが困った顔をしたのでボーイを呼んで「イッツOK」と言うと頷いてホステスに何やら話した。ホステスの顔がパッと明るくなった。この時期の為替レートでは50バーツより高いのである。2曲目の音楽が終わり席に戻る時にさらに1ドルを渡すと浅黒い顔の田舎娘が嬉しそうに笑った。国道3号線の東の外れのカンボジア国境にほど近い町トラートから出稼ぎに来て4カ月だと片言の英語で話していた。未だ米ドルを貰ったことが無いのであろう。
カラオケバーを引き上げたのが午前1時過ぎであった。ワゴンの中でシムが寂しい顔で話した。サイコロゲームの途中でホステスが「ジャスト・モメント」と席を立ってトイレに向かったのは、飲んだ酒を無理にやり吐き出す為である。不用意に強い酒を体に吸収させない彼女たちなりの自己防衛手段のようだ。小柄な女性が大男の陳や私と同じように強い酒を飲み干すと体がもたないのであろう。生活を賭けた女たちの哀しくもしたたかな商売根性である。このところの秦の酒場での遊びはスマートさが欠け、いささか品性が低下してきたような気がした。ホテルに着くと秦は「明日の朝食は7時30分です」と言って部屋に消えた。私が仲里のいびきを聞きながら眠りに落ちたのは午前2時頃であろうか。日本時間の午前4時である
8月19日(金曜日)『旧盆の日』
6時30分に起きて仲里と交互にシャワーを浴び、7時30分に1階のレストランに降りた。秦、シム、陳は既に屋外のテラスでコーヒーを飲んでいた。私はクーラーの効いた屋内でゆっくりと朝食を取りたかったが、トレーにパン、目玉焼き、カリカリベーコン、小ぶりのウインナー、サラダとジュース、コーヒーをのせて彼らの隣のテーブル座った。テラスの前の園路を挟んだ小さなプールでは欧米人で肉付きの良い初老の夫人が一人でゆっくりと泳いでいた。シムに向かって「グッドモーニング・ハブ・ア・グッド・スリーピング・ラストナイト」(おはよう。よく眠れたかい)と挨拶した。「ノー・ヒー・スノー・ビッグ」(あいつのいびきがうるさくて)と陳を指差して笑った。客のテーブルを巡回しているボーイにコーヒーを注ぎ足してもらいしばらく談笑した。ユイに誘われて仲里と共に海が見える崖の方に行った。朝の海風が心地よかった。崖はそれほど高くはなく、10m程降りるとプライベートビーチである。干潮らしく黒い砂浜が干上がっていた。この辺りの海岸はビーチコーラルではないようだ。沖縄の白浜とエメラルドグリーンの海の美しさが貴重な自然に思えた。ホテルの従業員らしき男が金属探知機で干上がった砂浜を調べていた。客の遺失物を探しているのかも知れない。
9時にチェックアウトしてホテルを出た。ホテルで1万円札をバーツに両替しておいた。ホテルの両替レートは不利益であるが仕方がない。旅先では円や米ドルが通用しない事態が起こるのが常である。バンコクに通じる国道に合流すると大型コンテナ車が多くなった。やがて高速道路に入り車は120㎞のスピードでコンブリの街を横目に見ながら通過した。しばらくして高速を降りてプランチンブリに向う幹線道路に入った。昨日の予定ではパタヤ近くのデンドロビュームの生産農家を訪ねる予定であった。仲里が少し交流のあるその生産者について秦に尋ねると、「ナーセリーはダウン、訪問は駄目ね」と言った。いつの間にかパタヤの北100kmの地点まで来ている。今日の旅の行く先は秦の気の向くままに動いているようだ。
タイの寺院
しばらくして走ってチャチューンサオの町に停車した。立派なお寺があり、道路を隔てて大きな市場があった。寺の敷地内に拝所があり、老若男女が蓮の花を買って仏様にささげて熱心に祈っていた。ユイが蓮の花を持て来て皆に配った。タイの人々に倣って床に膝をついてお祈りをした。今日は沖縄の旧盆の最終日である。遠くタイからでは私の祈りもご先祖様には届くまいと思ったが家内安全を祈った。只、外国の仏様からのお知らせにはご先祖様もさぞかしびっくりするだろう。沖縄方言に慣れ親しんだご先祖様に、この地の仏様のタイ語は理解できないであろうと少し情けない思いがした。拝所の近くの建物の一角ではタイの女性が伝統的な衣装での独特な舞を披露していた。この踊りは寺だけでなく街角の拝所でも踊っているのを何度か見かけた。見物客が多いのでもなく、投げ銭を求めたショー的な行為でもない。仏教の国の不思議な習慣の一つである。
何でも市場
道を横切って向かいの雑貨市場をブラブラと覗いて回った。小エビ、小さな蟹のカラアゲ、もち米に何やら具を混ぜてバナナの葉に包み、炭火で焼いた食べ物が香ばしい香りを漂わせていた。沖縄では月桃の葉に水で練った餅粉を包んで蒸した逸品があり、ウニムーチーと呼ばれる古くからの冬の慣習が残っている。同じ材料を竹筒に詰めた焼いた一品もある。ミドリガイの剥き身を扱う鮮魚店は6畳間程の海産物食堂も兼ねている。ここでもビンローの実を扱っている店がある。台湾ではウズラの卵より少し小さい実に特殊な石灰ペーストを挟みニッキの葉で包んで売っている。噛んで所構わず唾を吐き出すのである。吐いた唾が赤茶色に変色して見苦しい跡を地面に残す。決して行儀の良い嗜好品ではない。今時の若者の間では流行らない嗜好品となっている。この市場ではスライス乾燥して薬味として利用しているようだ。所変われば嗜好も変わるのが世の常だ。
海老と蟹のフライ
市場はトタン葺きの屋根が連続して100m四方程の広がりがあり、食べ物、衣類、荒物類等、日用品の全てが揃っているようだ。秦と陳は今晩の酒の摘まみ使うつもりかエビ、カニの揚げ物、蒲鉾に似た団子状の食べ物を買って市場を出た。車の近くに宝くじ売りの青年が立っていてしきりに売り込んでいた。私は5枚セット100バーツの券を買ってユイに渡した。「ハブ・ア・グッドラック」と言うと大きな声で笑って「サンキュウー」と言った。4日後にタイを発つので宝くじの当落を知ることは無いだろう。途中の屋台で買った椰子の実ジュースがとても美味かった。スポーツ飲料のポカリスエットに似た味で昨夜の酒盛りでくたびれた体には妙薬であった。表面の皮を削ったソフトボール大の台形で、持ちやすい手ごろの大きさだ。トップの穴にストローが差し込まれて中身をこぼすことなく飲めた。ヤシの実ジュースは300ccぐらいの容量であっただろう。
混雑の無い市街地の道路を1時間ぐらい走ってプランチンブリの町に着いた。軍服に似た制服を着た若者がバイクで行きかう姿が多くなった。80ccクラスのバイクに2人乗りが多い。男女ともカーキ色の制服で肩にワッペンが付いていた。ユイに彼らはミリタリースクールの学生かと尋ねると、農学校の生徒だと答えた。昼食時間には校舎の外に出て昼食を取る学生が多いのであろう。台湾を含む東南アジア諸国は外食産業が盛んである。地方の農村でなければ大抵は屋台で加工された食材を求めて帰宅して食する習慣が普通である。朝の通勤時も同様で早朝から屋台は賑わっている。タイではホワイトカラーの職業を解雇されると、屋台での飲食業に転ずる人は珍しくないのだそうだ。少ない元手で開業できる実践的な商売である。但し味の世界がそれなりに厳しいのは万国共通の現実である。
あまり大きくないレストランを見つけて7名で中に入った。店舗脇に生えたホウオウボクの大木の樹冠が店の屋根を覆って良好な日陰を作っていた。市街地の中でも風が心地よく吹き抜けた。円卓でなく横長のテーブルに向かい合って席を取った。給仕係が運んできたビールは相変わらず氷入りのグラスで飲むスタイルだ。シム、ユイ、運転手はコーラだ。
「センパイ、ボーイはレディね」と秦が言った。
細身で浅黒い肌の中華の血の混ざらない整った顔立ちの純系のタイ人に見えた。中背で手足が長く手の平が女性にしては大きかった。僅かだが喉仏があった。小学生のような未だ蕾の胸でもしっかりとブラジャーを着用している。白いポロシャツから透けて見えた。立ち振る舞いは柔らかくおキャンなユイよりもはるかに女性的である。向かい合った4名で代わる代わる観察しては暇つぶしの話題とした。そのことを知ってか知らずか、取り皿を片付ける際に陳のポーチとズボンに残り汁をこぼしてしまった。秦も僕らもそれ見たことか爆笑した。そのミスターレディが慌てて腰の布を取って陳のズボンを拭いた。それを見て再び笑ったが誰も彼女を罵ることはなかった。なんてことも無いトラブルが僕らを楽しませてくれただけである。
最初に冷えた10cm程の茹エビの一山でビールを飲んだ。味は今一だが次の料理が出て来るまで皮を剝いては香味料を付けて口に運んだ。
ホーイマレン・オブ・モーディン:蒸したミドリガイ
オースアン:小さな牡蠣をカレー風味で炒めた品で新鮮なコショウが房ごと入っている。
カイ・ヤーン:鶏の炙り焼きをぶつ切りにした一品
プラー・カポン・ヌン・シーュ:蒸した白身魚の淡水魚にピーマン、ネギなどの野菜を炒めて絡めてある。
パット・カナー・ムー・グローブ:小指大の豚バラ肉を唐揚げにしてカイラン菜と一緒に炒めた品。豚肉の甘辛味とカイラン菜のポリポリとした歯ごたえが絶妙である。
上げ蒲鉾のトート・マン・プラー:昨夜の夕食でも食べた品と味に差はない。
トム・ヤム・クン:昨夜のスープと酸味、味の濃さが微妙に異なっていた。この料理は店ごとに特徴が明確に現れるようだ。
本日も2,000バーツで十分すぎる昼食を楽しんだ。
午後2時にレストランを後にした。プランチンブリの町から30分ほど走って目的の別荘の入り口に着いた。途中でウオン・タクライ国立自然公園への案内標示板があった。ゲートからサンダンカが小奇麗に刈り込まれて続いた。1km程進むと大きなパラボラアンテナを備えた別荘に着いた。200mほど離れて丘の上に温室群が見えた。別荘は広い池に面した静かな佇まいである。前庭の池の中央には中国風の東屋があり、水面に姿を映し遠くの山並みに溶け込み、中国の山水画を切り取って来た感があった。池は雨季のせいか多少濁っていた。この場所から見える風景は遠くの山並みのウオン・タクライ国立自然公園のすそ野から全て私有地である。72ヘクタールの国営沖縄記念公園の4倍を超える面積だ。オーナーはタイシェル石油の社長ドクター・フーと呼ばれる人物である。この別荘を訪れる人々は彼をドクターと呼んでいるようだ。2階建ての別荘は1階の中央部は風が通り抜ける大広間、両サイドにゲストルームがそれぞれ3部屋でベッドが2台のツインルームで20畳ほどの広さがある。時によってはベットが複数台持ち込める広さである。シャワールームとトイレは部屋の外側の木造である。2階は大柄スクリーンを備えた大会議室とオーナーの部屋らしい。衛星中継を利用した社内会議が可能とのことだ。
ドクターの別荘
管理人は姿を見せぬが既に来客の手配が済んでいるらしく、秦の指示で僕らは荷物を割り当てされた部屋に運んだ。秦は以前も訪れたことがあるらしく、くつろいだ姿勢でソファーに座ってユイと雑談を始めた。私と仲里はオーナーが来るまで1時間ほどの仮眠を取った。クーラーが効いているわけではないが、建物の天井が高くゲストルームの仕切り壁の上から風が抜けていくので涼しかった。広い湿地の草地を渡ってくる風が気温を穏やかにしているようだ。車中でうたた寝をしたとは言え昨夜はベットで4時間足らず浅い眠りだけである。それに台湾で1時間、タイで1時間の時差を強いられて睡眠のバランスが少々綻んでいるようだ。携帯電話のタイマーを4時にセットしてベットに横になった。
池の中の東屋
午後4時過ぎにドクターとマネージャーがやって来た。ドクターは小柄な中華系の人物である。名刺を差し出して挨拶をするとドクターではなく、初老のマネージャーが自分の名刺を渡した。英国貴族の執事の立場であろうか、ドクターの名刺は出さぬことになっているらしい。まさにキングの慣習なのであろう。
ドクターは自ら別荘の周りを案内した。街路樹のアフリカンチューリップの根元周りを直径4m程円形に木枠で囲んでアランダ、モカラがオレンジ、黄色、紫と品種別にカラフルな色彩で配置されていた。花は咲いていなかったが、1m程の草丈のグラマトフィルム・スペシオスムが1m角の植え込みボックスで配置されていた。鳥の飼育施設もあり、4種類の孔雀と様々な色彩の小鳥が広いケージの中で飛び交っていた。白色の孔雀はとても貴重な品種だとのことであった。広い人工池には様々な水鳥が放鳥されていたが、いずれも海外から導入された種類らしい。植物の育成圃場、造成中の育林地など説明を聞きながら温室群に着いた。屋根の高いラスハウスが2棟あり、ヘゴに着生されたラン類、アナナス類、熱帯地域から収集された貴重な植物が育成されていた。1棟500坪程で膨大な植物のコレクションであるが、未だ十分なスペースが残っていた。300坪ほどのビニールハウス2棟は空調設備が設置されていた。台湾で主流のパット・エンド・ファン方式の施設である。コチョウランを中心に栽培されている。今日、仲里と秦が持ち込んだ蘭もこのコレクションに加わるのだろう。空調設備は導入したばかりでうまく作動しないとこぼしていた。陳が屋外のプラントを見て回り、フィルター設備が弱いようだ話した。ドクターは軽く頷いて後で詳しく教えてくれと言った。1万株程のラン類を保有しているらしいが、出荷場らしき施設はなく販売ルートに乗せる様子はない。あくまでもドクターの趣味の世界だ。開花株をどのように扱っているのか少し気になった。日が落ちる前に別荘に引き返した。施設に隣接する200坪程のマグノリアの栽培圃場では、白い花弁が光を失い始めた夕暮れの空間の中で樹冠の表面に競い合うように浮かび上がっていた。
タイガーオキッド
別荘の大広間に戻って雑談をすると、程なく辺りは闇に包まれた。屋外に民家の明かりは全く見えない。あらためて敷地の広さを実感した。闇が深くなるにつれて蛙の鳴き声が大きくなって来た。施設の周りは池である。幾種類もの蛙がそれぞれの縄張りを主張しているのであろう。夕食は市場で買った蟹、エビ、そして蒲鉾に炒め物が少し付いただけである。睡眠不足で胃の調子が少し衰えた私にとって晩餐会形式の食事でないことは好都合である。機内で買ったブランデーを飲みながら雑談を続けた。
「先輩は日本の造園の専門家です。植物の本も3冊書いているので何でも質問して下さい」と言った。秦が私をメンバーに加えた訳が分かった気がした。
「池のオオオニハスの成長が悪い。原産地の葉のように2mくらいにする方法は無いだろうか」ドクターが訊ねた。前庭のオオオニハスを見ていたのでその質問に答えた。
「貴方の池は深すぎる。植え込み鉢を直径2m、深さ60cmにして、水面から30cmの深さが適切です。要するに鉢を上げるのです」ドクターがメモを取った。
「先ほど見た池のオオオニハスは深い場所に植えられています。葉が水面に展開するまでにエネルギーを消耗しているのです。」ドクターは手を叩いて納得した。
「この植物は葉を大きく広げる為にとても多くの肥料を必要とします。たくさん与えて下さい」と言った。肥料という英語が思い出せず漢字で書くとシムがすかさず「ファテライズ」答えてくれた。
陳はパット・エンド・ファンの作動について回答した。
「池の状態からこの辺りは水質が悪いと思う。私のハウスも水田地帯にあるので水質管理に気を付けています。私のパットエンドファンのフィルター設備は5トン、3トン、2トンと3連式を使っています。必要なら業者を紹介します」。マネージャーが名刺のFaxナンバーを示してくれた。シムはボルネオの不思議な野生植物の紹介をした。人の顔よりも大きなアリストロキア、ネズミが落ちる程大きな壺をもつネペンティス、そして世界最大の花プロテアの移植について説明した。ボルネオには不思議なランが沢山あります、収集がお望みなら協力しましょうと答えた。ドクターとマネージャーはメモを取りつつ謙虚に聞きいていた。仲里には今回導入したオンシジュームとカトレアについて明日の午前中に農場で教えてくれと言った。秦はゲストを伴った効果があったとばかりに僕らに提案した。
「センパイ、仲里さん明日もここに泊まります」私はそら来た。秦の独走が始まった。仲里を見ると困った顔でポツリと小声で言った。
「タイに来てランの生産者を会わないなんてどうかしてるぜ」
私は秦に対する不快感を表に出さぬように穏やかに諭すように言った。
「秦、私も仲里もタイには友人がいます。タイに来た場合、彼らの農場を訪問しなければいけません。貴方も知っているミスター・カリーから必ず農場を訪ねてくと言われている。彼に合わずに帰ることは出来ません。来年の沖縄国際洋蘭博覧会で再会した時にクレームがきます。それに今度タイに行くから会おうと伝えてあるのだ。」
「私も彼にそう伝えてあるよ」仲里が相槌をいれた。
「それに、時間に余裕があれば、古い友人のミスター・塩谷にも会いたいしナ」と付け加えた。
「カリーはタイ国蘭協会の副会長、とても忙しいです。会長のサガリック先生が年寄りでカリーが仕切っているから、会えるかどうか分かりません」と秦は言った。
私や仲里も方便だが秦の意見も全くの方便である。
「オーケー秦、僕らは明日の午後カリーに会いに行くから、貴方は此処に泊まってのんびりしてくれ。カリーが忙しいならミスター・塩谷に頼んで幾つかのラン園をチェックしましょう。明後日にバンコクで合流しよう」私は半分本気で秦を脅した。仲里も私の意見に納得したような表情を秦に向け「イエス、アイ・シンク・ソウ」(そうしましょう)と言った。秦はゲッとした表情に変わった。ドクターの前で仲間割れすると秦のメンツが潰れるのを承知で吹っ掛けたのである。仲里はタイでの取引が多いし、私も最悪の場合、何度も取引しているSオーキドの塩谷勝にコンタクトすれば何とかなるだろうとの考えがあった。塩谷は秦の関係はよろしくないが陳先生との関係は良好である。塩谷は秦のことを金持ちのチンピラと見下しており、秦は塩谷のことを、日本を追われたヤクザモドキと敬遠している。私が塩谷と取引があることを秦は知っているのだ。僕らが別行動を出来ることを秦は解っているのだ。ドクターは僕らのやり取りを聞いて携帯電話で何やら話した。
「オーケー、カリーとコンタクトしました。明日の午後は農場いるので訪ねてくれと言っている」
「ありがとうございます。明日の午前中はフリーですから何でもお尋ねください」と礼を言った。
明日のスケジュールが決まった。懇親の場に穏やかな空気が流れた。仲里と陳はユイの通訳で温室管理の現地スタッフに栽培レクチャーをする。私とシム、秦はドクターともに農場を巡回しながら開発とそれに伴う熱帯植物栽培のアドバイスをする。昼食後に別荘を出てバンコクに向かう事になった。私は明日のスケジュールが希望に近い方向で決まったことで安堵したが、僕らを招待してくれたドクターの前で仲間の不協和音を晒したことが少し恥ずかしくなった。
午後7時過ぎに席を外して妻の携帯に電話した。既にご先祖様の見送り(ウークイ)を済ませたようで集まった親戚と雑談しているとのことだ。母に電話を代わると何やら拍子抜けしたことを話した。母にはタイが何処にあるのかも分らず、ただ仕事で旅先に出ており、今日の行事に参加できなかった事実だけを理解しているのである。今年83歳の母は7前から肺気腫を患っており、酸素過給機と繋いだ細いビニールパイプを引きずりながらの生活だ。8部屋、50坪のコンクリート平屋の中を唯一の生活空間としているのだ。現在は父と妹家族の5人暮らしであるが日中の殆どを一人で過ごしている。携帯用小型ボンベで通院する以外はほとんど外出しない生活である。父の兄弟家族、子供、孫を合わせて20名以上が集まる年に一度の親族の集まり、旧盆の最終日に顔を出さなかった懺悔の念が残った。携帯電話の通話スイッチを切るとタイと沖縄の実家の間に2時間の時差があることを不思議な現実として感じた。
僕らは雑談の合間に交互にシャワールームを使った。私がシャワールームに立つとシムが言った。
「ビー・キャフル、コブラスネーク」
「リアリー」と聞き返すと、シムと秦がゲラゲラと笑った。
「サノバ、ヴィッチ」といって笑ってシャワールームに向かった。
シャワールームは広場のフロアより3段ほど下がった壁が板張りのコンクリート土間である。本当にコブラが出そうな湿気の多い場所である。ガラス窓から満月が見えた。この満月が沖縄の実家の天空にも等しく冴えた月光を放っているとは思えなかった。持参したシャンプーと石鹸でサッと汗を流した。お湯は出ないが貯水タンクの水が日中の気温で温まっており気にならなかった。2年前ボルネオ島コタキナバル山の中腹2,000m地点にある山小屋で、震えあがるほどの冷水シャワーに比べると爽快であった。シャワーを浴びて再び雑談の中に戻り、散会したのが午前0時30分であった。少し片頭痛が出始めており酒の量を減らした。それでも土産として持ち込んだブランデー2本目が既に空になっていた。豪傑の陳が同行してラッキーであった。
8月20日(土曜日)
腹の調子は相変わらず今一つである。下痢ではないが何となく重たいのである。正露丸糖衣を飲んでも効果が少ない。自宅の薬箱に残っていた小瓶を持ってきたのだが糖衣錠は女、子供用である。黒く独特の香りがする丸玉がよく効くのだ。それでも私の内臓は今日中にはタイ料理に慣れてくれるだろうと思っていた。旅先で時折生じる僅かな体調の変化である。洗面を済ませて食卓に着くと、有難いことにお粥である。地鶏の茹で卵のスライス、薄味の卵焼き、醤油と香辛料で煮込まれた豚バラ肉の細切れ。それらの具材をお粥に好きな量を混ぜて食べるのだ。日本の梅干し付きのお粥ではないが、毎日続いた濃厚なランチ、ディナーに比べると胃袋に優しい朝食である。これにて正露丸はカバンの奥に押し込むことが出来そうである。
陳は持参したウーロン茶を入れた。ドクターのラウンジ・カウンターには湯沸かし器具、茶器のセットが揃っていた。日頃のおどけた表情を何処かに仕舞って真面目な顔でお茶を入れている。沸かした湯を茶器に注いで温め、腕時計を見ながら正確に茶のエキスを湯の中に絞り出した。美しい梅の浮き絵柄で制作された茶器だ。陳がトレーに並んだ小さな茶碗にウーロン茶を注いだ。急須とセットの梅の絵柄の白い茶碗の中に鮮明なウーロン茶特有の色が現れた。口元に運ぶと何とも言えぬ香りがした。少しだけ口に含むと渋みの中に僅かな甘みを含んだ上質のウーロン茶である。陳が小さな茶袋に取り分けて持参した、この日の朝の為の特級のウーロン茶に違いない。ウーロン茶の作法は、茶を熱いお湯で洗い、その洗い湯を茶碗に注いで温める。洗い湯をこぼした空の茶碗を鼻に近づけて茶の香りを確認する。沸騰中の湯ではなく、少し冷ました湯で茶葉を開いていくのだ。友人によると90~95度の温度で1分間が基本だ。陳が真面目な顔をして腕時計を見ていたのはそのためである。ドクターに台湾産の本物のウーロン茶はこれだと示したかたのだろう。私は彼の自宅やラン温室の休憩所で何度もティータイムを取ったが、その時の一品とは別物である。私も旅の土産に買ったり、プレゼントでもらった茶器セットがあるも、安物の急須と小ぶりのコーヒーカップでウーロン茶を入れて毎朝飲んでいる。私にとって作法に準じた茶の入れ方は些か面倒である。陳の入れたウーロン茶は私の胃袋を復活させてくれた。デザートには冷えたドリアンが出て来た。熱帯果実は食べる直前に少しだけ冷やすのが大切だ。温帯果実の巨峰、桃、リンゴ、ナシとは異なる。久しぶりに食べるドリアンは本当に美味い。目の前に出されると手を出さずにいられない果物のキングである。私にはこの果物には耐え難い果実臭があるという日本人の感覚が理解できない。
朝食が終わると昨夜の予定通りに陳と仲里とユイがランの栽培レクチャーに出かけた。私と秦、シムはドクターと共に植栽地を巡回した。広い丘陵地には様々な導入植物が植栽されていた。この敷地の開発に利用するための養生植物である。棚田には熱帯スイレンが品種ごとに植えられていた。私は熱帯スイレンは水深が深い場所での生育が悪いことや、容易に種子が出来て小苗となって水面を浮いて流れて浅い場所に定着する性質。この辺の土壌であれば施肥の必要は無いことなどを話した。熱帯スイレンには昼咲きと夜咲きの品種があり、夜咲きは夕方から翌日の午前10頃まで咲く。その特性を配慮して昼咲きと夜咲きの植栽場所を決めることが肝要だと説明した。シムはラスハウスに収集された野生植物の生育特性を説明しながらボルネオの野生樹林地に生えている植物を説明した。ラン温室では仲里と陳が農園管理スタッフに植替えの実演指導を熱心に行っていた。
ラン温室を出て水田跡地が湿地となった湿原の中の道路を歩いた。一軒の小さな民家が残っていて人の住んでいる気配があった。あれは何ですかと秦が問うと、老婆が住んでいるが来月にはこちらで準備した新しい住まいに移ると話した。そうすれば家を撤去してこの辺りは広い池に変わるだろうと言った。あまりに広く静かな閑静な景色になるねとシムが話すとドクターが頷いた。私は南米産のアロワナを放すと良いでしょう。僕らも公園の池で飼っており、繁殖力が強く、水面近くを飛ぶ昆虫を狙って50cmも跳ねる大型魚です。熱帯スイレンやオオオニハスの生える静かな池に無作意の動きを発生させます。静寂の中にある種のインパクトをもたらすでしょうと話した。ドクターが2度、3度と頷いた。新しいホテルなどの施設予定地、ゴルフコース、保養林、その他の植物園を設計中だと話した。ラン温室の裏手にも広大な丘陵地がひろがっているらしい。
2時間ほどの散歩で腹の具合が回復していた。運動不足で腸にガスが溜まっていたようだ。別荘の近くにはクチナシ、チューベローズ、イランイラン、ギョクラン、ジャスミン等、香りのある花を咲かせる植物が500坪程植栽されていた。クチナシとジャスミンは刈り込まれており、明らかに花を採取している様子である。ドクターは中華系の人々が好む香りのする芳香植物が好きなようである。ホールに戻ったのは午前11時前であった。仲里と陳は熱心にレクチャーしているようで未だ戻って来ていない。ドクターは何やら調整する事があるらしく2階に上って行った。秦とシムは応接広場で雑談を始めた。私はベランダ近くに置かれた緩やかに傾いた背もたれのある籐椅子に体を投げ出して目を閉じた。湖面を流れ来る風が心地よくスッと軽い眠気に襲われた。旅に出てガツガツと見聞した若い頃のスタイルが消え失せて、睡眠が取れるときに短い仮眠を遠慮なく取るのが常道手段となってしまった。とりわけ秦との旅ではそうしている。此処は異国のタイなのだ。入国と出国の時間だけが決まっていて、組織の制限が一切届かぬ空間である。秦のペースに巻き込まれるのも善しとすべきかと思って朦朧としながら吹き抜ける風を心地よく感じていた。ホールに人の気配を感じて起き上がると陳が戻って来て、ラン管理グループの幹部らしき4名の職員にレクチャーを続けていた。テーブルに置かれた鉢植えのラン類を前にして片手にブランデー持ってしきりに説明をしていた。広東語が分かるスタッフのようである。
広間の奥からドクターの手を叩く合図でレクチャーが終了した。ランチタイムである。昼食は別荘の料理人が腕を振るったようだ。名前の知らない淡水魚を蒸して、炒めた野菜を乗せた餡かけ料理。淡水魚特有の細かい骨があるも淡白な味で胃に優しい。トート・マン・プラー。茹でたエビ。豚肉とエンサイの炒め物。辛みを押さえたトム・ヤム・クン。デザートはソムオー(ザボン)の果肉。この時期のソムオーはとても美味い。旬の果物である。手毬くらいの熱帯系のミカンである。厚みのある果皮をむくと果実の入った大きな袋が出て来る。温州ミカンと同じだ。少し硬い袋をむいて中の果肉を食べるのである。剝いて直ぐにたべるのが肝要だ。乾くと粒状の塊がパサついてしまい食感を損なうのだ。午後1時30分、ドクターとマネージャーに何度も礼を言って別荘を後にした。秦は別荘に泊まり損ねたことに何の未練もないようだ。ケロリとして車に乗り込んで行き先を運転手に指示した。彼の頭にはバンコクの繁華街で遊ぶための青写真が既に焼き直して整理してあるのであろう。昨日の風景を今日風景に被せて引きずることが無い楽観者の典型である。恵まれた星の下に生まれ、その時々の都合の良い時の流れに身を任せて漂う風来坊の典型である。
水郷地帯の水路(左)
予定通りにナコーン・パトム県のカリーの農場に向かった。距離にして150kmであるが、交通渋滞の激しいバンコク市内を横切るので3時間半のドライブである。ナコーン・パトムは水の豊かな地域で郊外は水路が無数に交差した農村である。バンコクから高速道路を使えば1時間の距離だ。湿度が高くバンダ類やデンファレの栽培に適している。ほとんどのラン生産者は水田跡地にベンチや吊り棚を組んだ栽培方法だ。カリーさんの本名はカリアエット・ベジャバットであるが誰もがカリーと呼んでいる。カリーはノボーン氏、ブラナ氏と共同でレイクランド・グループを組んで海外取引を行っている。この地は別名レイクランドとも呼ばれているらしい。ノボーン氏はノボーン・ホワイト、ブラナ氏はブラナ・シャンシャインという日本で人気のデンファレの切り花品種を育成した人物である。
カリーは農場でオランダのバイヤーと話していた。バイヤーは150kgあろうか思われる鏡餅のように太い男で、運転手付のワゴン車で来ていた。助手席には納まらず後部座席を占有していた。カリーはバンダの中間苗を段ボールに詰めさせていた。中々忙しそうであった。秦が呼びかけると振り向いた。私と仲里を見つけると職員にバイヤーとの作業を引き継いでやって来た。2月の沖縄国際洋蘭博覧会で接待して以来である。笑顔で握手を求めて来た。腰にコルセットを締めている。浅黒い顔が妙に泥色に黒くなっていた。私はコルセットを指差していった。「随分儲かっているみたいだな。腰を痛める程に」と言うと「ノー、ノー」顔の前で手を振って笑った。持参した土産を渡すと笑顔で「サンキュー」と再び握手を求めた。カリーの農場は幅60m程で中央の作業棟を境に左側に鉢物のベンチと水際にバンダの吊り棚が70m程の面積であった。コンポストはヤシ殻で様々な品種が小苗の状態から開花株まで整然と並んでいた。通路には建築ブロックを敷いており、その上を歩いて農場を探索した。オランダのバイヤーはいつの間にか引き上げていた。彼の注文品の段ボールに輸出用の書類が張り付けられてあった。明日は国内の趣味家100名ばかりが観光バス2台で訪れる予定が入っているらしい。蘭協会の副会長になると国内各地の展示会に出かけて、審査や表彰式でのスピーチをするし、即売テナントも出店するので顔が売れるのである。この国の蘭協会のキングであるサガリック先生は貴族の出身で大学の元教授である。高齢でもあり一般庶民の蘭愛好家との対応はカリーやその他の若手の理事の役割である。台湾や日本国内のラン展示会でもそのような仕組みだ。ドクター・フーも愛好家の一人であろう。尤もドクターは電話で用件を依頼できる程の特別な存在に違いない。
私は那覇空港ビルの室内展示に利用する明るいピンク系のデンファレ1,000株ばかり調達を頼んだ。カリーは努力するが1,000株は難しいと首を振った。急がないので出荷の目安が付いたらFaxを送れと言うと、納得したようにオーケーと頷いた。彼のグループは海外向けのランを大量に扱う経営スタイルでは無く、趣味家向けの優良な品種を国内外に販売する経営である。
カリーは僕らを夕食に誘った。明日は忙しくてこの地域を案内する事が出来ない。近くの仲間を誘うから一緒に行きましょうと話し、一度事務所に入って戻って来た。運転手とユイにナコーン・パトムの町のレストランの場所を教え、自分の車で先に出て行った。農場は既にうだるような昼間の熱気が失われ、水郷地帯の湿った空気をはらんだ冷気が流れ始めていた。指示されたレストランに着くと仲間が既に席に付いてビール手にテレビを観ていた。テーブルの上には茹でた小エビの皿があった。僕らが隣の席に付くと直ぐに同じような小エビを盛った大皿が追加された。この国は東洋一のエビ養殖の産地である。日本の居酒屋で枝豆が最初に出されるのと同じレベルである。ほどなくカリーがやって来て乾杯が始まった。料理は鶏肉のショウガ炒め、焼いたミドリガイ、白身魚のタイ風ムニエル、豚肉の野菜炒め、それにトム・ヤム・クンである。レストランと言うよりも大衆食堂と言う呼び名が正しいこの手の店にはブランデーもウイスキーもない。もっぱらビールのオンザロックである。陳が店の棚から2合入り程度の茶色の酒瓶を取って来た。何だと聞くとユイがビンのラベルを見てタイ米で作った地酒だと言った。グラスに氷を2個入れて40度の透明な液体を注いで舐めてみた。まろやかな風味に乏しいが紛れもなく泡盛である。沖縄の泡盛もこの地から輸入したタイ米で作られているのだ。琉球王府の400年の薫陶をうけて酒としての醸造技術が格段に高度化している。現在ではフランスの国際酒類コンクールの蒸留酒部門で何度も入賞する品質となっている。泡盛の醸造原料米の生産国であるこの国に優れた酒が生産されないのは不思議である。この国の人々は琉球人に比べるとそれ程酒好きでは無いようだ。中国2,000年の王朝文化が融合して独自の文化へと変化してきた中国各地、台湾、沖縄の人民がアジアの中で特殊なくらい酒好きなだけかもしれない。紹興酒、高粱酒、泡盛は長い歴史の中で品質が高度に発達した酒である所以だ。要するに良い酒は酒好きの人民が作り出す文化の一面である。欧米のワイン、ブランデー、ウイススキーも同様な歴史的背景があるのだろう。
食堂の客はテレビのサッカーの放映に夢中である。タイにはセパタクローという竹製の毬を足で蹴りあって競うバレーボールに似たスポーツがある。タイのサッカーは国際競技として強くはないが、足を使った競技は人気があるようだ。確かにサッカー好きな国民らしく、放課後の学校の校庭でサッカーに興じる少年の姿を見かけることが多かった。
カリーに礼を言って食堂を出るとナコーン・パトムのシンボル的な寺院プラ・パトム・チュディがライトアップされて金色に輝いて闇夜に浮かんでいた。120mの高さと言われている仏教寺院だが、それ程の高さには見えない。この辺りには高層建築や町の灯りが少なく、奥行きのある深い闇の中に威風堂々と存在感を示していた。
バンコク市内に戻ってホテルにチェックインした。チャオプラヤ川沿いのホテルである。別名メナム「母なる河」と呼ばれるタイ国最大級の河川である。ホテル名は「ザ・ロイヤル・リバーサイド・ホテル」、ロイヤルの名が付くだけあって少し上級のホテルと期待した。ホテルの川に面したテラスから遊覧船が出ているようだがこの時間は係留中である。ホテルのフロントでパスポートのコピーを取ることはなかった。嬉しいことに2泊で一人部屋である。仲里のイビキから解放されるのだ。おそらく彼も私のイビキから解放されると思っているだろう。腕時計を見ると午後9時である。シャワーを浴びてルームサービスを頼んで、少しばかりの寝酒のウイスキーをあおれば旅の中休みに丁度良い。私は気分が軽くなってフロント嬢から部屋の鍵を受け取った。エレベータで5階まで上がり、仲里の隣の部屋に入った。荷物を置いて窓からチャオプラヤ川の向こう岸に広がる夜景を眺めて深呼吸をした。ホッとしたとたんテーブルの上の電話がなった。
「ハロー」
「センパイ、カラオケ行きます。カリーが待っています。仲里さんとフロントに直ぐ集合です」秦が使い慣れた日本語のフレーズを言って電話を切った。仲里の部屋に電話した。
「どうする」
「せっかくのカリーさんの誘いだから行きましょう」カリーを待たせては行かねばなるまいと覚悟を決めてロビーに降りた。
カリーの車に4名を詰め込み20分ほどでカラオケバーに着いた。1階は生バンドのセクシーシヨーで2階がカラオケバーであった。中華系の客がほとんどで地元の客も少しばかり混ざっていた。欧米人は皆無である。2階の右側の部屋にビリヤードのテーブルが2台置かれ、店のスタッフらしき青年と一目でホステスと分かる派手な衣装の女達がスティックを手に退屈そうに球を突いていた。スタッフの控室のような部屋であった。トイレを挟んで左側の部屋がカラオケバーである。10名程度が座れる席が2セットのありきたりの部屋だ。客は我々だけであった。1階の喧騒が嘘のような場末の店の感じであった。
真っ赤なソファーに座るとすぐにホステスがやって来た。上手く化粧したスタイルの良いあか抜けた美女たちである。パタヤの田舎娘と随分な違いである。この部屋を仕切っているママは黒のパンタロンに真っ赤なブラウスの少し太めの浅黒い肌の中華系の40前の年増の女だ。秦のことを知っているらしくけんか腰に広東語で詰りあっていた。私の横には背の高いホステスが座った。「センパイ、パタヤの女より美人ですね」「確かにバンコクの女は美人だね」と言うと秦がいつもの卑猥な笑みを口元に浮かべて小さく笑った。巨体の陳の横には可愛いちびのホステスが付いた。そのチビのホステスが陳の太い腕に抱き着くと、秦は二人の大きさを比べて大笑いした。確かにそのアンバランスが可笑しく皆で大笑いした。カリーが初めに歌い、シム、陳と歌った。仲里はカラオケが苦手らしく私にマイクを渡した。私は日本の曲目から石原裕次郎の「北の旅人」を探して歌った。「・・・夜の小樽は雪が肩に舞う」と演歌のサビを聞かせて歌った。くそ熱いバンコクまでやって来て雪が舞うも無いだろうと思った。この店のカラオケは歌手の声が小さくなっているだけで何やら海賊版の感がした。歌うテンポがずれると本物の歌手の声が流れて来るので少々バツが悪い。秦は私の正面に座り歌うでもなくママと何かをやりあうように広東語で話していた。「何だよ秦」と呼びかけると、秦が英語と日本語をミックスして答えた。「このママは前に来た時、酒を飲ませてダウンさせた」と愉快そうに答えた。テーブルの上のジョニーウォーカー・ブラックラベルが半分ほど残っている。秦は左手でボトルを持ち上げて言った。「一気飲みできる奴にこれをやる」アロハシャツのポケットから500バーツを摘まみだしてホステスの面前にチラつかせた。ホステスはボトルに残った酒と見比べてフンとした目線を秦に送った。秦はボトルをテーブルの上に置いてポケットから300バーツを加えた。ホステス視線が興味深げに秦の右手に集まったが誰も反応しない。私に付いているホステスがボトルを取って私のグラスに注いだ。秦はポケットから札束を取り出し1,000バーツ紙幣に取り換えようとしていた。その間に仲里のホステスがシムのグラスと合わせて2個寄こしたのでそれにも注いだ。ボトルの酒が3分の1ほどに減った。秦はボトルの酒の量を見ていなかった。手にした1,000バーツ紙幣をホステスの前に突き出し、口元に卑猥な笑みを浮かべてテーブルの端から皆にぐるりと見せびらかした。ホステスの目が丸くなって秦の手元に集中した。
陳の腕に抱き着いていた小柄なホステスがボトルをひったくり立ち上がった。秦が喜んで手をたたき「ゴー」と言った。
ホステスは上を向いてボトルからウイスキーを一気に喉に流し込んだ。15秒ほどの間を置いて息を整えて再びウイスキーを口の中に注いだ。この国のウイススキーボトルは口に絞りが付いており、ビールのラッパ飲みのようには飲み干せないのである。今度は少し長めに琥珀色の酒を喉に注ぎ込んでからボトルをテーブルの上に戻した。ホステスは荒い息使いで秦に向かって愛嬌のある顔で右手を差し出して金を要求した。皆の視線がボトルに集中した。哀しいかな酒は5分の1程残っている。秦が見逃すわけがない。「ノー、ワンモアトライ」と言って左手で酒瓶を突き返し、ちびのホステスに冷たい視線を送った。秦は女の愛嬌に妥協しないサディスティックな性格である。女は肩で息をしながら怒りに満ちた目で秦を睨みつけた。呼吸を整えると顔を天井に向け、残った150cc余りの酒を口に注いだ。一度息継ぎをして秦を睨んだ。目が潤んでいる。秦は「ゴー」と口元に冷たい笑いを浮かべて女をけしかけた。女は天井に向かってボトルを咥え、残りの酒を全て飲みつくした。そして一度、二度と小さく咳き込み、ボトルを逆さにして空だということを示してテーブルにゴロリと転がした。僕らもホステスも一斉に拍手を送った。秦も目的達成を喜ぶように誰よりも強く拍手した。ソファーに腰を下ろした女の双眸は既に正体を失っていた。女はやおらソファーの下から屑籠を取り出すと吐き始めた。カラオケのバックミュージックが女のうめきを小さくしていた。秦は女を指差したサディスティックに笑いだした。誰も同調して嗤う者はいなかった。ママは秦の手から1,000バーツをふんだくると女のブラジャーに奥に挟み込んだ。既に意識の飛んだ女をボーイがやって来て隣のホステスと二人で抱えて連れ出した。直ぐにジョニーウォーカーの半分入りのボトルをボーイが持ってきた。部屋の中に白けた空気が残った。カリーが困った顔をして私にカラオケのメニュー本を差し出した。カラオケ画面ではタイの人気歌手らしき男女がハイテンポで歌う映像が流れていた。私は「氷雨」を選んで歌った。「酔わせ下さいもう少し、今夜は帰らない、帰りたくない、誰が待つというのあの部屋に、そうよ誰もいないわ、今は・・・・・・」日本で流行った哀愁を帯びた歌のフレーズも仲里以外はだれも知らないだろう。陳の隣に新しいホステスが座った。真赤なミニスカートに肩から背中にかけて花柄のレースが施された黒い薄手のブラウスを着けていた。今度はちびの可愛い子ではなく、中肉中背の落ち着いた美人のホステスだ。陳のそばに座っても違和感が無いバランスだ。秦がびっくりした顔で口元を押さえて女の肩を指差した。室内の薄暗い照明で分からなかったが、花柄に見えたレース模様のブラウスは、肩から背にかけて彫られた刺青が空けて見えたのだった。女は秦の動きを知っているはずだが、何らの反応も見せずに陳に酒を勧めた。この店の年増のママは秦の悪ふざけをけん制するために訳アリの臭いがするホステスを寄こしたのかもしれない。新しいホステスが入ったことで空気が変わり皆はカラオケに興じだ。私に付いたホステスは英語が話せずコミュニケーションが取れないので、しきりにテーブルの上のツマミを私の口に運んだ。ピーナッツ、カシューナッツ、グァバ、パイン、スイカである。果物には砂糖、塩、唐辛子の混ざった薬味を振りかけて食べるのであるが何とも微妙な味である。カラオケを一通り歌って坐が白けて来たところでお開きとなった。午前1時過ぎである。閉店時間でもあるらしい。階段を降りると1階のステージからは音楽が聞こえてきた。駐車場にはコールガールがたむろしてショーが引けるのを待っていた。僕らの姿を見るも彼女らのターゲットでは無く、一瞥するも声すらかけてこなかった。ホテルに戻って枕を抱いたのが午前2時頃であっただろうか。頭の中で「誰が待つというのあの部屋に・・・・・」氷雨のフレーズが壊れたCDプレーヤーのように何度も繰り返して流れる中で眠りに落ちた。
8月21日(日曜日)
窓から差し込む光で目が覚めた。午前6時である。自宅でも旅先でも同じ時間に目が覚める。朝寝をしなくなったのは若さを失いつつある傾向であろうか。それとタイの時差に順応したのであろうか。さすがに頭の回転は未だ正常に戻らず、爽やかなバンコクの朝に馴染めないようだ。昨日の行動を追想しているうちにやっと頭の回転が戻り始めた。窓を開けてテラスに出るとメナムが眼下にゆったりと流れていた。対岸のビル群に朝日が当たり、右手の川上に掛かる橋の上を走る車両の往来が活発になっていた。河はいつも通りに透明度を欠き、浮草や発泡スチロールの欠片やらを浮かべてゆっくりと左の川下へと流れていた。眼下の船着き場ではこのホテルを発着する遊覧船の船員が、デッキの掃除やガラス窓を拭いて出航の準備を始めていた。僕らの昨夜の悪夢にも似た喧騒のかけらは、既に何処にも残っていなかった。目覚めのコーヒーを入れる為の湯沸かし器が沸騰の合図を告げたので部屋に戻った。ベットから不快な酒交じりの体臭が漂ってきた。この空間には昨夜の悪夢の残影が色濃く残っており、シーツ剥ぎ取り枕と一緒に丸めてベットの隅に片付けた。そして枕の横に1ドル札2枚を置いた。メイドに今日も泊まるのでベットメイキングをよろしくとのサインだ。そして悪夢を洗い流すべくシャワールームに向かった。
チャオプラヤ川の朝
シャワーを浴び、ついでの肌着を洗濯してロッカーに吊るした。ズボン1本とかりゆしウェアとポロシャツ3枚をランドリー用のビニール袋に入れて備え付けのシートにルームナンバーとチェックマークを記入してサインした。明日はバンコクを経つので夕方までに仕上がる50%増しのエクスプレスとした。
7時30分、仲里からの電話で地下1階のレストランに降りた。秦の姿は見えなかった。昨日ははしゃぎすぎたのかも知れない。お粥ときざみ菜、スライスした茹卵をトレーに乗せてテーブルに運んだ。飲み物はトマトジュースとお湯で薄めたコーヒーである。ほどなく秦、陳、シムがやって来た。
「ハブ・ア・グッドスリーピング」(よく眠れた)とシムに問うと
「イエス、ノープロブレム。ノーバディ・メイド・ビッグスノー」(ああ、イビキを掻く奴が居なくてな)と首をすくめた。全く元気な奴らである。
秦が今日のスケジュールを説明して「オーケー、ゴーアウト、ナインオクロック」(9時に出ようぜ)の合図で部屋に戻った。
部屋に戻り、荷物を整理してバックをクローゼットの中に置いた。クリーニングの袋をドアの外に出し、フロントに電話して洗濯物の回収を依頼した。室内にあった飲みかけのコーヒーを洗面所にこぼし、歯磨きをしてスタンバイである。
フロントのキーボックスにカギを放り込み外に出るとユイが待っていた。メンバーが集合してホテルを出たのが午前9時である。ホテルを出て最初にダムロンの農場に向かった。ダムロンは昨夜の夕食会で会った大柄な男である。ダムロン・ホンセンヤザムがフルネームだ。カリーと同じような水郷地帯にある農場だが幾分かバンコクに近い場所である。1時間足らずで農場に到着した。栽培されたラン類ではスパソグロティスが最も多く、バンダ、デンファレ、アンスリューム、ホヤが栽培されていた。ホヤは15種類程のコレクションがあるという。ハート形のホヤの葉を発根させ葉面に油性のペイントを用いて花柄の模様を描きLOVEと書いたアイデア商品もあった。沖縄にはホヤ・カルノサという野生種があり、ホヤの栽培は容易である。このアイデアを試してみたくなり、鉢植え50株をカリーのデンファレと混載して送ってくれるように依頼した。ダムロンの農場は増築中であった。ダムロンは英語が全く話せないが息子は英語が話せるので今後の取引が可能だろうと思った。タイ、マレーシアで感心するのは、若者の多くが英語でのコミュニケーションが出来ることである。むろん英米の人間のような流暢な英会話の能力は無いが、英語でのコミュニケーション能力に関しては日本の若者が遠く及ばない。言語の基本はコミュニケーション・ツールである。日本の外国語教育システムが何を目標にしているのか良く分からなくなってしまうのである。ダムロンは農場を一回りした後で僕らをお茶に招待した。近くのローカルホテルのレストランである。メニューの表にはリバー・サイド・ホテルと書かれていた。ロイヤルの名称が付かないだけ僕らの宿泊しているホテルよりもグレードが低い建築物である。ダムロンは食事を勧めたが昼食には間があり、茹でエビでビールを飲んで雑談した。席を立つと空のビール瓶が8本ばかり並んでいた。ダムロンに礼を言って次の蘭園に向かった。
レストランを出て15分ほどでエン・オーキッドに着いた。農園の入り口が濠になっており、コンクリート製の危うい橋を渡って敷地に入った。濠には赤と白の斑入りの熱帯魚が飼育されていた。以前はデンファレの有名な品種であるシャネルを作出した育種家であったらしい。小柄なオーナーと大柄な奥さんが出迎えてくれた。仲里は掘り出して筵に広げてあった球根性の野生ランに興味を示し、しばらく説明を受けてから商談を始めた。奥さんがすかさず計算機で円建ての計算をして3万円だと値段を示した。仲里は現金を払い梱包を頼んだ。台湾まで運び、後日台湾のサイテスを作成して日本に輸入するつもりだ。秦に頼むつもりである。台湾はランの生産農家の育成に力を入れており、ラン類の輸出入には極めて寛容だ。但し、果実生産農家の保護にも積極的で、日本からのリンゴ、ナシ、ブドウ、モモの輸入には高い関税をかけている。エンの農場ではGramatophyllum speciosum(タイガーオキッド)の栽培が主力となっていた。実生株で3バルブ立ちの8号プラスチック鉢サイズまで成長していた。既に70cm程のバルブに育ち開花株もある。1m近い高さのベンチで栽培されているのは、雨季には水かさが増すからだそうだ。仲里の話では、エンのラン園は経営が少々下降気味らしいく、以前訪れた時ほどの勢いは無いらしい。タイガーオキッドで起死回生を狙っているらしく熱心に説明した。しかし、このランにはマレーシア・ボルネオ島の赤道直下の高温多湿地帯が原産地であり、4mにも成長する大型のランである。日本国内では趣味家の需要は少ないだろう。辛うじて国内の国公立熱帯植物園で栽培されるも、開花が話題に上るのは稀である。国営沖縄記念公園の熱帯温室を管理する自社職員も苦労しているのだ。
8月は雨期というに僕らは未だスコールに巡り合っていない。水郷地帯であるも日中の空気はとても乾いている。僕らの行動を避けるようにスコールが何処かを走り抜けているようだ。あのスコールの後の潤いが欲しくなった。昼間の直射日光で睡眠不足の頭がハンバーグになりそうであった。時計に目をやると午後1時である。確かに太陽が一番に吠える時間だ。2時間前に飲んだビールは既に体から蒸発して1滴も残っていないみたいだ。仲里の商談が終了したのでエンの招待で食事に出かけた。
食事の場所はチャオプラヤ川に浮かんだフローティング・レストランである。幅10mに長さ30m程度の屋根付き浮き桟橋のような造りだ。陸地と繋がった橋を渡ってテーブルに着くのだ。橋の入り口で料理を注文するとウエイトレスが席へと案内した。今日は穏やかであるが日によっては水かさが増えて多少揺れるらしい。川面に目をやると50cm~70㎝近い大ナマズが群れている。しばらくするとエンがビニール袋に入ったパンの耳と枕パン1個を持ってきた。パンの耳をひとつかみ川面に投げ込むと、無数のナマズが水しぶきを上げて食いついて来た。凄まじい食欲で見る者が息をのむ行動である。15cmもあるデカイ口で水ごとパンを飲み込むのだ。枕パンは新鮮な感じがしたので食えるのかと尋ねるとユイが「イエス」答えた。パンの耳が少ないのでサンドイッチに使う前のパンを持って来たらしい。我々ゲストに気を使ったのである。僕らはパン千切っては川面に投げてナマズの踊り食いを眺めて騒いだ。
料理は定番の茹でた小エビからである。リバーサイド・ホテルのエビより少し大ぶりで新鮮だ。緑色のソースを付けて食べると味が引き立つ。私もこの国の定番料理に口が慣れてきたようだ。白身魚の煮付け。そして茹でた蟹だ。蟹はカレー煮ではなく単純な塩茹でだ。珍しく泥臭さがない。泥抜きの飼育を施しているのかもしれない。メインは揚げた豚の足だ。7㎝程度に骨ごとブツ切りにしてある。一度塩茹でして脂分を抜き取り、さらに油で唐揚げして皮がパリパリに仕上がっている。ナイフとフォークで身と骨を切り分けて食べるのだ。脂身が少なく軟骨と肉片に塩味と香辛料が染みついて美味い。沖縄の足テビチとは変わった風味の調理法である。大食漢の陳は豚の骨に付いていた肉をしつこくしゃぶっていたが、身が無くなるとそれをポイと川に捨てた。ナマズがそれに飛びついて呑み込んだ。腹が角張って膨らんだ。シムが「陳、ノー、グッドマナー」といって笑った。
残飯に群がる大ナマズ
ウエイトレスがプラスチック製のボールを持って来て、テーブルの上に散らかったエビ殻やカニ殻、豚の骨をその中に片付けた。それを浮きレストランの端に持っていくと無造作にボサッと川の中に放り出した。水面に慌ただしく水しぶきが立ち上がってナマズが群がった。皆が一瞬あっけにとられた後、手を叩いて大笑いした。ナマズも昼食時間のようである。デザートはザボンの剥き身である。豚肉の脂で淀んだ口の中がサッと爽やかになった。
昼食を終えると再びエン氏の農場に戻った。東屋の天井に吊るした大型扇風機の風に当りながら冷えたワンカップのミネラルウォーターを飲み、犬が見つけた蛇を捕えて騒いだりしているうちに午後3時になった。本日のラン園訪問は終了である。
午後4時過ぎにホテルに戻った。部屋は既にベッドメーキングが終了しており、綺麗にパッキングされた洗濯物がテーブルの上に置かれていた。携帯電話のアラームをセットして5時まで仮眠を取った。仮眠をとることに慣れてきていた。シャワーを浴びて約束の5時半にロビーに降りた。秦が今夜はドクターの紹介でドイツ料理を食べに行くと言った。私も仲里も少しだけ期待した。タイ料理にも少々飽きてきたところであった。車はルンピニ公園の駐車場に入った。そこは公園内の一角にあるドイツ村でタイとドイツの国旗が涼しくなった夕暮れの風にはためいていた。園内は灯油のかがり火が炊かれ、屋外テーブルは多くの客にあふれていた。程なくシェルカンパニーの若い男がやって来た。秦はドクターの身内だと話していたが中華系ではなく背が高く細身のインド系の顔立ちであった。運転手が上司に対する接し方をしたのでシェルカンパニーの幹部職員の一人に違いないと思った。そのマネージャーらしき男に案内されて白いコテージの中に入った。四つのテーブルがあり、一つは先客があった。僕らは窓越しに中庭が見える二つの席を使った。クーラーが効いており少しくたびれ気味の私にとって快適な空間である。
先ず、ビールを注文した。トレーにボーイがビールとグラスを乗せてやって来た。
細身のグラスに次々とビールを注いでくれた。シンハービールよりも酸味とコクが強いビールだ。ドイツ製のビールかも知れない。今度は氷付のビールでは無くしっかりと冷えていた。マネージャー氏は車を持っているらしくサイダーである。遅い昼食のおかげで腹は空いていない。秦が話したとおりのドイツ製か知らぬが太めのウインナーが最初に出てきた。その次からはタイの定番料理であるトム・ヤム・クン、大ぶりのエビ、白身魚のムニエルである。そして秦が昨日から自慢していた豚足のドイツ料理が出て来た。何のことはない、お昼にエン氏がご馳走してくれた豚足の揚げ物だ。少し異なるのは足が小ぶりで味付けが上品なことぐらいだ。日本で言えば大衆居酒屋の握り寿司と本格的な割烹の握り寿司の違い程度である。ドイツウインナーが出たところでマネージャー氏の携帯電話が鳴って席を立った。外で何やら話していたが、戻って来て僕らに告げた。
「急な用事が出来たので引き上げます。今夜はゆっくり楽しんでくれ、後はユイに任せる」そう言って部屋付きのボーイに何やら話して出て行った。固苦しいインド系のマネージャー氏が去ったので、僕らはいつもの雑談を始めた。
「センパイ、後ろの席の犬を抱いたレディは男ね」
「確かに大きな女だが美人だぜ」
「ノー、ノー、靴のサイズが大きいです」確かに膝を組んだ右足のハイヒールは女性用にしては大きいと思った。
シムも陳もミスターレディに間違いないと言った。
「おい陳、あんまり見つめると今度は皿が飛んでくるぜ」と私が言うと、秦が大声で笑い出し陳を指差した。皆で一昨日のことを思い出しドッと笑った。ミスターレディは美貌に自信があるのか、3名の男に横柄な態度で優雅に細身のタバコを吸っていた。僅かなハッカの臭いが僕らの席まで漂ってきた。
何ともミスターレディの多い国である。仲里と私はビールを追加注文した。陳は食欲があるもビールをあまり飲まない。彼にとってのビールとは青島ビールなのだろう。僕らは昨日のカラオケバーの話の続きをして盛り上がり、笑い転げて時間を過ごした。8時にタイ風ドイツ料理の夕食会を終了した。外に出るとルンピニ公園の池の水面に屋外レストランのかがり火と遠くの街のネオンが映っていた。広場の客の騒めきと相まって映画の1シーンのようであった。大きく背伸びして夜気を吸い込んで車に乗り込んだ。
車中で秦が明日のスケジュールについて話した。明日は何もすることが無い。ホテルで暇つぶしをして夕方の便で台北に向かうと言った。明日は単純な観光を予定していたが本人が夜遊びで疲れたのか、暑い昼日中に見なれた観光地に行くのが億劫になったのかも知れない。秦の辞書にはもともとスケジュールなる単語が欠けているのは承知のことである。台北向けの便は午後5時である。
「オーケー、明日は仲里と市内観光する。3時にチャイナエアラインのチェックインカウンター前で会おう」
「遅れないでください。センパイ帰れない。第2ターミナルです」と笑った。
「ダイジョウブ、遅れたらシムと昨日のカラオケに行きます」と返事すると、
「オーケー、グッド・アイディア。ゴウトゥゲザー」とシムが大声で笑った。
ホテルに着くとユイと律儀な運転手に「今日でお別れだ。明日は秦と別々に行動します。ありがとう」と言って仲里と代わる代わる握手をしてホテルのロビーに向かった。
僕らは部屋に戻らずにチャオプラヤ川に面したウォーターフロントの野外ラウンジに出た。奥の船着き場に遊覧船が停まり、僅かに揺れて時々桟橋の船止めロープがギィと音を立てていた。河を渡って来る夜風が心地良かった。プラスチック製の丸いテーブルがいくつもあり、その一つに席を取った。少し離れた場所で日本人らしき初老の夫婦と5,6歳の男の子を伴った5人家族一行が夜食の軽食を取っていた。電子ピアノを備えた小さなステージがあり、黒いドレスの女性がバイオリンを弾いていた。聞き覚えのあるクラシック曲だが思い出せなかった。僕らはジントニックを注文した。この時間のメニューにはビールはなくカクテルのみであった。屋外の仮設のバーカウンターからウエイターが酒を届けた頃、バイオリンの演奏は音色を引きずるような胡弓の情緒にも似た曲に変わった。秦が中国の民謡だと言った。ウエイターが僕らを中華系の旅客と配慮してバイオリン奏者に中国民謡をオーダーしたのだろう。静かに流れる大河と遠くにさざめくように点滅する無数のネオン、そして穏やかなバイオリンの調べだ。誰もが静かに人生の足跡を振り返りそうな空間である。少し離れた席の日本人家族の佇まいは確かにそのようにみえた。しかし僕らの席はバイオリンが奏でる物悲しい中国の古謡とは裏腹に、沖縄、台北、厦門、パタヤ、バンコク、ジョホールバル、コタキナバルなど東南アジアの夜の盛り場で羽目を外してきたバカな話題ばかりであった。とりわけ仲里、秦、私は東南アジア各地での国際蘭展示会に出かける度に、その国の友人達を交えた社会秩序に無頓着な夜の宴会を共に過ごしてきたのである。
仲里の携帯が鳴って席を立った。フロントに友人が来ているとのことだ。昨日の夕食前に友人にコンタクトを取っており、カリーから詳細を聞いて訪ねて来たらしい。程なくして背の高いインテリ風の男と一見して韓国人と分かるがっしりとした体格の男を伴ってやって来た。私は立ち上がって二人を迎えた。握手をして名刺を交換して秦達の隣の席を勧めた。テーブルに7名が座るには狭すぎたのだ。ウエイターがこちらを向いていたので手を上げて呼んだ。二人は車を持っているらしくソーダ水を頼んだ。私はジントニックの2杯目を追加した。タイの友人はラン生産者でマヌーと名乗った。もう一人の男は韓国の蘭輸出入業者でヤンと名乗った。ヤンは元軍人のような体格だが目元が優しく笑顔を絶やさぬ商売上手な男に見えた。マヌーとヤンは取引があるらしく親しげであった。偶然ロビーで出会ったらしい。人懐っこいヤンが仲里について来たのである。秦は広東語を使わない初対面の人に容易に打ち解けない、警戒心の強い少し臆病な男だ。秦が動かなければ陳、シムも動かない。挨拶も無しに二つのグループで雑談が始まった。しばらくして秦は立ち上がり「カリーが置いて行ってワインがあるから後で飲もう」と言って立ち去った。ヤンに韓国内のラン栽培事情を尋ねた。コチョウランの栽培は軌道に乗り始め、最近はデンファレの等の熱帯系の蘭の需要も出てきているらしい。洋ラン栽培は国の補助事業のひとつで、今のところ中々旨味のあるビジネスだと話した。私は付き合いで会費を納めている都市緑化旅行友の会の次の旅行先がソウルであることを黙っていた。韓国へはトランジットで2度ばかり立ち寄っただけであり、その国の人間の気質までは分からず、安易に近づく気にはならなかった。1時間ばかりお互いの地域のランの生産事情を話し合って散会した。飲み物代金はマヌーが私を遮ってカードで精算した。明日の9時に職員を寄こすとマヌーとが言ってヤンと二人で帰って行った。僕らはフロントでカギをもらい、秦の部屋に立ち寄った。陳は隠し持っていたコーリャン酒の中瓶を出して飲んでいた。寝酒として持ち込んだのだが毎日の夜遊びで飲む機会がなく今日まで残っていたようである。一昨日立ち寄った市場で買った小エビと蟹の乾物も取り分けておいたようである。僕らはカリーが渡したというミャンマーのワインを飲んで12時前に引き上げた。
8月22日(月曜日)
午前7時30分、仲里からの電話で朝食を食べに地下1階のレストランに降りて行った。秦、陳、シムは未だ姿を見せていなかった。私にとってタイに来てから一番爽やかな朝である。お粥、コーンスープ、目玉焼き、カリカリベーコン、小さな蒸しパンとチーズ。そしてデザートのパインにまでに食欲が沸いた。久しぶり5時間半も寝たことでエネルギーが充填されたようだ。コーヒーを飲んでいる頃に秦、陳、シムがやってきて近くのテーブルに座った。
8時になるとドクターがやって来た。僕らは立ち上がって挨拶した。コーヒーと少しばかりの料理を取って来て、僕らと同じ席に付いて朝食を共にした。豚の乾燥チップだというお土産を付き人が携えており、僕らに配った。私はカリー、エン、ダムロンの農場を見ることが出来たことへの礼を言った。ドクターは満足そうに穏やかにほほ笑んだ。僕らは全員でドクターをホテルの玄関まで見送った。黒塗りのベンツに乗り込むと窓を開き軽く手を上げて去って行った。
私は部屋の中を見渡し忘れ物がないか確認して部屋を出た。フロントでクリーニング代金240バーツを払っただけでチェックアウトである。私と仲里はバック引きずりながら秦と二人の連れのことは忘れたかのようにホテルの玄関に出た。玄関の駐車スペースの端に申し訳なさそうに白いくたびれた旧型の日産自動車のワゴン車バネットが停まっていた。そのわきにヤンが立っており、僕らの姿を見つけて手を振った。車に近づくとあの人懐っこい顔で「グッドモーニング・ミスター」と言った。僕らも「グッドモーニング・ミスター・ヤン」と挨拶した。直ぐに後部座席に乗り込みホテルの前庭から一般道に出た。混雑したバンコクの市街地を15分程で抜け出して農道に出た。車は次第にジョンフォードの西部劇映画「駅場馬車」のように跳ねだした。昨日までの僕らの優待ドライブが嘘のような気がした。跳ねる車中から事務所に電話した。「何か変わったことは無いですか。今日の5時の便で台北に飛ぶ」と伝えた。事務責任者の上間主任は退屈そうな声で「特にありません。お疲れ様です、気を付けてお帰り下さい」と返事した。我社は今日も淡々と不可のない事業を堅実に展開しているようだ。私は自分が何処か異次元の世界を漂っている気がした。尤も私の出張先タイ国の旅は、彼女の夢の中にも出現しない理解不能な現実の中で、アップダウンを繰り返しながら進んでいるのは確かである。ヤンは飛び跳ねる駅馬車を気にもせず、助手席から後ろを振り向いてしゃべり続けた。仲里が仕方なさそうに「イエス、イエス」と相槌を打っていた。1時間足らずでマヌーの事務所に着いた。私は最後のスペアの土産として残していた赤い包装紙で包まれた「ちんすこう」をマヌーに渡した。仲里が「さすがカズさん、準備が良いね」と感心した。
4名で20分ほど朝のティータイムを取った。ヤンは空港に向かう途中のマヌー農場を見学すると言って椅子から立ち上がり、先ほど乗って来た駅馬車に向かった。「ソウルに遊びに来てくれ。その時は電話をしてくれ」陽気な口調で言った。北の国の気さくで騒々しい男である。
マヌーはハワイ大学でランについて学んだとのことである。彼のビジネスのひとつにデンファレの花でレイを作ってハワイに出荷する部門があるのも在学中の経験から立ち上げたものであろう。以前にハワイの空港売店で見た、ランで作られたレイがタイ産とは思いもしなかった。マヌーはデンファレ、コチョウランの育苗の他にコチョウランの開花株の生産も始めたらしい。このオフィスから北西に2時間のカンチャナブリ県の山間部で山上げ栽培を行っているとのことだ。そこは寒暖差が大きくパット・エンド・ファンの施設が無くても花芽を形成するとのことだ。オフィスの事務員がコンピューターで農場の外観や栽培状況、栽培品種を見せてくれた。屋根の雨よけだけで壁は無い。生育状況も良好である。開花株を寄せ植え仕立てにして国内市場に出荷しているとのことだ。大小の規格の苗もオランダ、オーストラリア、韓国などに出荷しているらしい。仲里に花の写真をみせて買わないかとセールスした。只、台湾に比べて輸送コストは割高になってしまうので採算的にはどうかと思った。
マヌーの案内で農場見学に出た。今度はトヨタのランドクルーザーだ。革張りのシートで特注品だろう。ビジネスは順調のようである。
一番目にデンファレの栽培圃場に案内された。カリーやダムロンの農場と同じく水郷地帯の水田跡地の圃場である。少し異なるのは高畝にしてベンチ間に広めの通路を確保して畝の谷間を跨いでベンチが設置されている。作業員の往来が便利な造りとなっている。栽培品種はタイの代表的な品種ソニアである。鮮やかな赤紅色の色彩と花弁が厚く花持ちの良い品種だ。タイの輸出用切り花の主力品種である。日本国内では棺の中に収める葬儀のお見送り用の切り花としての需要も増えている。沖縄で栽培するとステムの途中の花が落ちてしまう傾向があり、営利栽培品種には向いていない。栽培に高温を必要とするので、日本国内での切り花奨励品種ではない。ベンチの上にヤシの実の皮の部分が敷き詰められており、その上にデンファレを植えているのだ。このヤシ殻は水苔に比べるとタダ同然の安価な園芸資材だ。この国ではココナツミルクを採取した後の発生材であり、観葉植物の植え込み材料など様々な植物の園芸資材として利用されている。この圃場ではレイを作るために1輪ずつ採花していた。摘み取られた花は60×90cmの竹籠に広げて入れて乾燥防止のスプレーをして段積みで加工場に運ばれる。そして華やかなレイに加工されハワイの空港に運ばれて、熱烈歓迎の象徴として観光客の首にぶら下がる役目を果たすのだ。ハワイを訪れる観光客にとって歓迎のレイがタイ国産だとは誰も思わないだろう。管理道の十字路の四方に50m×100mの圃場が広がっている。100m四方に黒い遮光ネットが広がっており中々壮観である。マヌーはこの規模の農場を6か所保有していると話した。
レイ作り作業
その次に案内されたのは育苗圃場である。フラスコ苗を単鉢に上げて育成し、開花前の苗として出荷するシステムだ。フラスコから出してしばらく網トレーで外部の環境に馴らし、新根が動くと3cm径のプラスチック製ポットにヤシ殻で挟んで植え込むのだ。それをポットが填まる専用のプラスチック製網に取り付けてベンチに並べるのである。圃場は100mも先まで続いており遮光ネットを支えるコンクリートの柱が整然と並んでいる。苗の運搬が便利なように広い通路を挟んで品種ごとにかれており、生育ステージの違いによって遮光ネットの枚数と生育中のランの草丈が異なっている。出荷先はオランダ、オーストラリア、米国、日本、フィリピン、マレーシアそしでヤンの韓国だ。敷地の広さは陸上競技場をはるかに超える広さだ。
膨大な数のフラスコ
作業棟には順化の為のフラスコ苗が並べられていた。日本や台湾は三角フラスコを使うのが普通だが、プラスチック製のアミ籠に並んでいるのはラベルの無いジョニーウォーカーのボトルだ。本物のウイススキー瓶の再利用では無いだろうが同じ形状である。1本当りの苗数はこの方が多いだろう。チョット目には酒瓶がゴロリと並んでいるみたいで奇妙だ。夜の酒場でジョニーウォーカー・ブラックラベル空けて騒ぎまくっていた一昨日の記憶が蘇った。
作業棟の一角の風通しの良い場所で世話役の男性1人と20名ばかりの女性がペチャクチャと雑談に興じ、時には笑い声を立てて車座で作業をしている。デンファレのレイ作り作業である。細いテグスに花を挿しているのだ。部屋の端に冷蔵庫があり、完成品を段ボールに詰めて保管している。明後日にはハワイを訪れる観光客、或いはどこかの国からやって来る賓客の首に掛かるのだろう。
マヌーは僕らを案内する合間も頻繁に電話をしていた。流暢な英語を明るい声で話していた。一昨日、オーストラリアから帰国したばかりと言う。サガリック先生がタイ国蘭協会という組織のキングであるなら、マヌーはランビジネスを展開する生産者中のキングの一人だろう。マヌーは腕時計を見て言った。
「コチョウランのナーセリーも紹介したいが今日は無理です。食事に行きましょう」
車に乗って近くのレストランを物色したが閉店の食堂が多い。この国でも日本と同じで休日の翌日の月曜閉店が多いようだ。10分程移動してさほど大きくないレストランに入った。マヌーはタイや中華系の訛りが無くアメリカナイズされた流暢な英語を話した。ハワイ大学在籍中に鍛えられたのであろう。中華系の顔つきだが背が高く立ち振る舞いがスマートである。タイ語は話すも広東語は話す気配も見せない。彼の立ち振る舞いに広東語は似合わないだろう。
チキンのカレー煮、エビのカレー煮、白身魚のムニエル、鶏の血を固めた汁物は台北のアヒルの血の発酵食品のような奇妙な臭いが無く抵抗なく食べることが出来た。そして定番のトム・ヤム・クンである。「この魚は」と聞くと「キャットフィッシュ(ナマズ)」だと答えた。
「昨日の水上レストランでデカイ奴を見たぜ」と言うと、「ノー、ノー、この魚は別の品種でカルチベイティド・フィッシュ(養殖魚)だ。この程度までしか成長しない」と両手を40cmほど広げて笑った。仲里は「前に来た時、貴方の会社の職員に連れられて大ナマズを釣ったことがある。その時は野外パイーティでバーベキューにして皆で食べた。悪くなかったぜ」と笑って話した。マヌーも思い出して笑い出した。マヌーは秦の遊び仲間のような大きく砕けた中華系特有の豪快な笑い方をしない。陳先生やドクターのような節度をもった大人の笑い方である。中華系でも育ちが異なるのであろう。昼食の最後はザボンの切り身で口内を爽やかに締めた。
レストランを出ると午後2時である。マヌーは大事な予約が入っているらしくタクシーを呼んで待機させていた。タクシーにバックを積み込んだ。運転手は英語が解らないらしくマヌーが送り先と到着時間を説明していた。既に過分な料金を渡してあるようで、運転手はご機嫌である。マヌーに丁寧にお礼を言って次回はもっとゆっくりと農場を見学させてもらうと話した。マヌー見送られて空港に向かった。運転手はマヌーに午後3時までに空港に送るようにと指示されているらしく、バンコク市内の混雑の中をすごく飛ばした。ザ・ロイヤル・リバーサイドホテル近くの高架橋下を抜けて午後3時丁度に空港に着いた。荷物を降ろして「サンキュウー、グッドタイム」と時計を指差すと、意味を理解したらしく運転手が自慢げに微笑んだ。私はポケットから100バーツをとりだしてもう一度「サンキュウー」と言って渡すと、遠慮がちであったが喜んで受け取り両手を合わせた。なるほど仏教と微笑みの国の住民である。
チャイナエアラインのカウンター近くに秦と陳が待っていた。「今日はどうしていた」と尋ねると、「昼過ぎまでシムの部屋で休んでいた」と言った。シムは帰らないのかいと尋ねると、「今日も泊まってユイとデートだ」と言った。秦の話は何処までが本当か分からない、シムが明日の便で帰ることだけは確かなようだ。シムは時々バンコクに来るようだが彼の本当の目的も良く分からない。只、今朝シムと朝食時に会った時に別れの挨拶をしなかったことが気になった。バックを預けてチケットを受け取り、X線検査に向かう前に100バーツの通行税チケットを買った。バーツの残金がある私が4人分を払った。X線検査、イミグレーションの出国検査を通過するまではだれもが緊張する。ここは馴染みのないタイ国である。シェルカンパニーのドクターの配慮があった入国審査とは別である。ほとんどの国の入国検査はそれ程でもないが出国検査官の目は厳しい。機内に不審な物を持ち込まれては一大事である。これまでも不注意で植物採取用のポケットナイフやハサミを没収されたことが何度かある。他にも何か予期せぬものを嗅ぎ付けて立ち往生しそうな予感に襲われるのだ。しかし旅の常道を外さねば滅多にトラブルに出会うことはない。
僕らはファーストクラス専用のゲストルームで搭乗前の休憩をした。数名の上品そうな先客がいて、ビジネスマンらしき男がパソコンで何かを調べていたり、コーヒーカップをテーブルに置いて英字新聞を広げていたりである。秦は棚から半だけ入ったブランデーを取って来てグラスに注いだ。私はツマミになりそうなザボンの切り身、カシューナッツの小袋を取って来てテーブルに置いた。シムはどうするのかいと仲里が問うと、明日の便でユイをクアラルンプールに連れて行き観光だと答えた。彼の答えはいつも先が読めないことだらけだ。
ブランデーが空になった。
「センパイ、ブランデーの追加はありません。僕らが帰ってからの追加です。行きましょう」そう言って立ち上がった。私もさもありなんと思った。大男4名が長居すればブランデー1本ぐらいたちまち空になるのだから。ラウンジの棚にボトル半分の酒を飾るのは正しい選択だろう。ラウンジを出て搭乗口に向かう途中のショップ入り、昨日誕生日を迎えた末娘の為にタイの伝統的なデザインの革製の小銭入れを買った。その他の土産は台湾の空港で菓子類を買うことにした。
CI-695は午後4時55分に定刻通りバンコク国際空港を飛び立ち、やがて北東に針路を取り台北に向かった。この飛行機は中華航空の最新の飛行機で、尾翼のマークが国の花である梅からコチョウランの花柄に変わっていた。最近になってコチョウラン栽培が世界一となり、コチョウランの国をアピールしているようである。事実、白花コチョウランの代用的な品種Phal.amabilisは台湾の原種である。バンコクに来るときに乗ったCI-693も快適であったが、最新機種だけあってシートのリクライニング、座席テレビの操作パネルなど多くの面で改良されていた。只、時折漂ってくる乗務員の過剰な香水臭だけは更なる改善が必要であった。女に無頓着な秦ですら私にその香りの不満を漏らすのだから改善は必要だろうと思った。食前酒にジントニックを2杯、機内食はチキンのカレー煮と赤ワイン、食後にブランデーを2杯飲んで少し眠りに就いた。秦とは通路を隔てた席であり、機内での酒盛りが休止できたのは幸いであった。
3時間半のフライトで桃園国際空港に着いた。台北時間の午後9時30分である。洋品店の友人が秦のワゴン車で迎えに来ていた。陳を高雄行きの高速バス停で降ろした。これから台南の自宅まで夜行バスで3時間の旅である。午前様の帰宅となるだろう。ホテルに着いたのが午後11時だ。出発前に泊まった雅荘汽車旅館だ。服を脱ぎ荷物を解いて冷蔵庫を覗くも空である。寝酒のビールが欲しかったが服に着替えて、ホテル内の自販機でビールを探すのも難儀である。電気ポットで湯を沸かし、備え付けのウーロン茶を入れた。NHKのニュースはとっくに終わっておりBBCのニュースを少し見て眠りについた。
8月23日(火曜日)
仲里と7時半に朝食をとり、8時半にチェックアウトした。秦が迎えに来ており、彼の娘を小学校に送り届けてからオフィス街の大通りに面した陳先生のオフィスに向かった。秦は警察の取り締まりがうるさいからと車に残った。7階のオフィスに入ると陳先生は出勤前らしく、事務員のシェリーが入れたコーヒーを飲みながら待った。シェリーと英語でタイの旅の話をしていると10分ほどして陳先生がやって来た。仲里は先生に挨拶すると秦を下に待たせてあるのでと退席した。何やら秦と空港近くのラン生産者に会う予定らしい。
陳先生と少しだけコチョウランの導入スケジュールについて話し合い、迎えに来た息子の達寛の運転する車で台北花市場を見に行った。土曜、日曜だと高速道路の高架橋下の建国花市場の賑わいを見ることが出来るが、残念ながら今日は火曜日である。台湾を訪れる場合、土日を最終日に旅行するように計画するのが常である。台北市の人口は260万人で周辺都市部を含めると690万人が暮らしている。台湾の総人口2,300万の約30%が集中しているのだ。花市場には台湾中から集まって来る植木、切花、鉢花、園芸資材などを扱う業者が集中している。競り市の開催時間と関係なく卸売業者、仲買人、個人客で賑わっている。コチョウランの生産大国だけあって様々な色合い、仕立ての鉢花が中売り業者の市場内店舗で売られている。日本で人気の白花のコチョウランよりピンク系の品種が圧倒的に多い。国民性の違いが如実に表れた市場風景である。
市場の入り口でサンディ(呉秀美)を拾って昼食に出た。台北円山大飯店(ザ・グランド・ホテル・タイペイ)だ。台北市内から高速道路で桃園国際空港に向かう途中に見える建築物だ。赤を基調にした外観はまるで近代以前の中国の宮殿のようなホテルである。台北市内から離れているので訪れる観光客は少ない。如何にも外国のVIPやセレブ専用のホテルの外観だ。初めて訪れるホテルである。その後も2度ばかり訪れたことがあるが当然のことで宿泊はない。台北のダウンタウンから離れた超高級ホテルに泊まれるほどのリッチな身分でもなく、さりとて台北市内の昼夜の享楽を味わうことが出来ない哀しい身分でもないのだから。
1754年建設のこのホテルは外観と同様に中国の伝統的なインテリアを取り入れた内装である。中央階段の正面には最近訪れた韓国の男優スターの大型ポスターが飾られていた。伝統的なホテルには似つかわしくなく宣伝である。古いスタイルの経営方式故に現代の旅行客の嗜好とのマッチングに苦戦しているのであろうか。私が興味を持ったのは、ロビー中央のコチョウランのディスプレイである。高さ1mの木彫りの台の上に2尺の唐草模様の陶器の鉢があり、その上にピンクのコチョウランの鉢植えが球形状に差し込まれたディスプレイである。そのボリュームはロビーに入って来る人々に圧倒的なインパクトを与えていた。コチョウランの本場ならではの演出であり、これだけの広いロビーを持つホテル故に出来るディスプレイでもある。
2階のレストンに上がると、達寛がウエイターに声を掛けた。そして僕らは4人、6人掛けのテーブルが並ぶ細長いフロアの奥の席に付いた。あまり多くの客席数ではないがその分だけ多人数が会席出来る個室を幾つも備えているようだ。
「ここは北京料理が美味しいですよ。ビール飲みますか」と陳先生が訊ねたので。
「ハイ」と答えた。何故か知らぬが青島ビールの小缶を2本持って来た。なんだか『この店の料理に缶ビールは合いませんよ』と言われているみたいで気が引けた。最初の料理はエビ入りのスープと鶏肉入りの2種類のスープだ。何故スープが2種類だろうか。その次はシャオロンポウ。餃子の皮に具と汁を入れて蒸してある。包みの中に汁が残っているので、蒸籠から箸でつまんで取り出し、中華スプーンの上で袋を破り、汁のこぼさぬように口に運ぶのだ。鶏肉味とエビ味の2種類が4個づつかわいらしく入っている。その次は焼きそばだ。細かく刻んだ野菜が少量だけ混ざっているが野菜の種類は分からない。脂分の少ないあっさりとした一品である。最後に出たのが餅の炒め物だ。直径3cm程の丸い棒状の餅を薄くスライスして、小エビとネギを加えて中華味で炒めてある。餅の食感が心地よい料理である。陳先生は日本の正月明けの鏡餅を使ってこの様な料理をすると美味しいですよと話した。先生は大戦前に日本教育を受け、日本の文化にも精通する台湾の富裕層の家庭で育った一人である。日本統治下の旧制中学から特待生として台北大学経済学部に進学したエリートである。英語を自由に話せて、日本語にも不自由しない。台湾知識人に共通の書の達人でもあるのだ。私は自分の悪筆が恥ずかしくFaxを使わずに専らメールでコンタクトしている。電子機器の扱いに抵抗が無いのも恐れ入る次第だ。
デザートに出てきたのが蒸し菓子である。蒋介石大統領夫人の将美麗が好んだ菓子で、この店で必ず注文したとの逸品である。この店では北京からやって来た調理人の技を変えることなく今に伝えているという。2切れが運ばれて4人で分けて食べた。現代風の味ではない懐かしい母の作ったカルカンという蒸しカステラに似ていた。小豆、もち米、山芋の澱粉質が主な材料らしく斬新な洋菓子に比べると田舎の菓子という見映えであった。中国共産党の毛沢東一派に追われて大陸から台湾に落ち延びることを余儀なくされた将美麗が、北京での生活を思い出す一品であったやも知れない。それ故、将美麗が好んで訪れたというこのホテルに、彼女が愛したこの蒸し菓子が味を変えずに今に伝えられているのだろう。私は今日の昼食で昨日までの山盛りのタイ料理が何ともワイルドで、タイの庶民の胃袋を満たすことを最優先したものであったかを理解した。慎ましやかな北京料理を食べたことで帰宅後の沖縄料理にすんなりと適合しそうな気分になっていた。
昼食を済ませた我々はサンディを彼女のオフィスの前で降ろして空港に向かった。航空貨物の集積所で輸出証明証(サイテス)受けたコチョウランの苗の入った段ボール4箱を受け取り、空港内の検疫所で検査印を貰ってチケットカウンターに向かった。仲里が急ぎ足でやって来て達寛が押していた台車を受け取った。秦は車が止められないとのことで仲里を降ろしてそのまま引き上げたらしい。彼は友人の見送り、出迎えの行為に特段の儀礼を尽くさねばならぬとの価値観を持っている男ではない。彼の価値観は私の感性と異なる世界のものである。
「今日の見学は何処でした」と陳先生が問うと、
「洋品店のオヤジとコーヒー・タイムで時間つぶしました」と笑った。
「相変わらず気まぐれな男だな」と陳先生と達寛が笑った。
仲里は荷物の超過料金を払いチケット受け取った。僕らは陳先生と達寛に握手して別れを告げて入国審査の列に向かった。イミグレーションを抜けて空港内の土産店で必要な土産を求めた。CI-122が桃園国際空港を飛び立ったのは台北時間の午後4時であった。窓から見える桃園の街並みが次第に消えて雲海の上に出た。昨日までの旅を振り返ると、食って飲んで騒いでの旅が主であり、出張起案書に提示した「タイ国におけるラン生産者の現状調査」が充分に達成出来たとは思えなかった。秦の絡んだ旅に通常の成果を求めるのは無理である。とりあえずカリー、エン、ダムロン、マヌーの農場、台北花市場の様子を紹介すればそれらしく仕上がるだろうと考えているうちに眠りに落ちていた。
エピローグ
旅が終わり。何の変哲もない日常が続いた。ドクターのマネージャーから貰った名刺のホームページを開くと、タイシェル石油は大型タンカー、製油施設を有するタイ有数の企業である。彼らの社会貢献事業は学校の設立などの教育支援に始まり多岐に亘っているようだ。別荘は本格的なリゾート開発が進んでいるようだ。タイのプラヤット国王は死去して息子が国王に就任したが国民の人気はあまり得られていない。時折学生による国王非難のデモがテレビニュースで流れて来る。タイ国蘭協会の次期会長と目されていたカリーは白血病であえなく世を去ってしまった。あのコルセットは白血病の予兆であったのだ。サガリック先生も引退してバンダ類の生産を本業とするスワンがタイ国蘭協会長になった。背の高い中華系の男で国内のラン展示会のパーティで挨拶する程度で親密な交流はない。フェイスブックでバンダの投稿をよく見かける。マヌーはどうしているか不明だ。仲里は電話でのコンタクトが取れなくなったと心配していた。タイにおけるラン生産者の中のキングの位置から滑り落ちたようだ。シムは蘭商売から観光案内業に転換したと2年前の沖縄国際洋蘭博覧会のパーティで話していたが、今はフェイスブックでSINGERミシン販売店の投稿を毎日載せている。私はお付き合いで「いいね!」を毎日クリックしている。陳先生は台湾蘭協会の顧問となり、会長職を東京農大卒で清華蘭園2代目のデニス・カオ(黄)が勤めている。秦は父親が残した台北市内の土地に100室余りのタワーマンションを建設して上部4階部分に親族と共に住んでいる。夜遊びのキングはコロナで海外渡航が出来ないので台湾内の景勝地を回っているようだ。フェイスブックに風景、植物、食べ物の記事を毎朝「good morning」ではじまる投稿をしている。秦の生まれ星は、流れ星にならずに天空に残っているようだ。サンディは母の介護の為に商売をたたみ、母亡きあとは旅行などで自由に暮らしているようだ。ほぼ毎日投稿する彼女のフェイスブックの記事はインテリらしく中国語の長い文章である。英語で投稿してくれると多少は理解できると思うのであるが。投稿写真を見る限り友人たちと気楽に暮らしているようだ。羽目を外せない知識人のままの生活スタイルに安堵している。塩谷勝はどの様な心境の変化であるか知らぬが、高野山真言宗の通信教育を受講し、定期的に高野山の本山を訪れて勉強しているとメールがあった。商売で養った外交上手は何処でも発揮するようだ。ある時メールが入った。高野山の高僧を伴って、ダライ・ラマ14世に拝謁したと写真付きで報告してきた。私だけでなく多くの友人に発信したようで、その話題がポツポツと私の所にも伝わって来た。本人はタイ国に高野山真言宗系列の寺院を建立したいとの夢があると話していた。しかしながら、今ではその後の情報を確かめるだけの付き合いを欠いている。私は31年間で3度の天下りキングに代わった会社の株主で筆頭御側付の役目を退き、父の農協組合員株式を引き継いだ。そしてJA傘下のファーマーズ店舗の生産者会員となり、農家モドキのラン販売と趣味でランの育種を楽しんでいる。1,400名の生産者を有する生産会・会長を拝命するも、特段の権力も配当も無い名ばかりのキングをボランティアのつもりで務めている。世の中にキング呼ばれ、あるいは自称する者がいるも、時の流れは、あのチャオプラヤ川の圧倒的な水量と同じく、その位置に留まるために抗うことすら許さず,過去の物語へと押し流していくのである。しかし、その摂理を受け入れると、人生は無上の楽しみに変化していくのも事実である。幾重にも曲がりくねった海岸線の線路の先に終着駅が見え隠れするのを確認するも、老いに抗いながら今日という日になにがしかの愉快な変化を探している日々である。
「完」