The King of Thailand

(ザ・キング・オブ・タイランド)

Wat Arun big landmark in Bangkok City, Thailand

Thailand

プロローグ
The Kingdom of Thailand(ザ・キングダム・オブ・タイランド)、英語でのタイの正式名称である。呼び名の通り 立憲君主制度の国家である。2014年に軍部がクーデターによって政権を握っている。仏教が国民の生活に根付いており、軍政と言われるが武力による圧政が全く感じられない市民生活である。仏教と微笑みの国と言われる所以であろう。国民の国王への信頼は特別であり、軍部も国王の認可を得て軍政を執行しているのである。日本ではシャムの国と呼ばれて古くからの交流がある。沖縄の地酒である泡盛はタイ米を原料に醸造されている。近代における西洋列強の影響が少なく、隣国のカンボジア、ベトナム、ミャンマーが内戦に明け暮れた歴史を持つ中で古くから安定した国情が続いている。鉱物資源に恵まれているわけではないが、肥沃で広大な農地を持つ米作を中心とする農業立国である。国民の暮らしは豊かとはいえないが貧富の格差が目立つことは無い。仏教寺院や拝所がとても多く、仏教の礼節が市民生活の中に深く根付いているからだろう。黄色い僧衣をまとった修行僧の姿を街角で見かけることが多く、市民は敬愛の念を込めて接している。広い国土に日本の半分の6,600万人の人口である。穏やかな仏教の国であるが、首都バンコクの交通渋滞と夜の盛り場の喧騒は東京新宿駅東口周辺と変わらない。

私がこの国を訪れたのは、1983年の緑化事情調査に始まり、「青年の翼」と称する沖縄県の異業種交流海外視察研修会、熱帯果樹の国際シンポジューム、自社のラン類輸入先会社の表敬訪問に続く5回目である。埃っぽいバンコクの市街地、対照的に地方の豊かな自然、暑い日中と涼しい夜、辛いが美味なエスニック料理、独特の香りでとろける美味さのドリアン、世界有数のラン類の生産地、様々な種類の観葉植物を次々と出現させる園芸産地でもある。シンガポール、マレーシアとは異なる顔を持つ国であり、訪れるたびに変化を見せる国だ。

旅の始まり
7月下旬の昼飯時、八重瀬町の沖縄そば専門店「しまぶく家」に居た。那覇空港の空港ビル内植物展示業務に関する会議を終えて、仲里園芸の仲里清と昼飯を共にしていたのだ。
「キヨシ、こないだ秦から電話があってサ。君と一緒にタイに行こうと誘われたぜ」
「うん、僕にも電話があった。カズさんと一緒に来てくれ。全てフリーだと言っていた」
「石油大手のシェルカンパニーのオーナーの招待だと言っていたナ。多分台湾・バンコクの航空チケットと宿泊費が無料という意味だろうナ」
「今年の2月に、タイ国シェル石油の社長が秦と一緒に沖縄に来たことがある。海洋博公園を案内した後、牧志公設市場の海鮮理店で沖縄の近海魚のイマイユュ(新鮮魚)料理で接待したことがある。カツオ、イラブチャー(アオブダイ)、シルイチャー(近海イカ)の刺身、タマンのマース煮(塩煮)ミーバイ(ヤイトハタ)の煮付け、アバサー汁等沖縄料理を提供したヨ」
「台湾の桃園漁港近くに、水揚げしたばかりの魚を自ら選んで料理を頼む美味い店があったな」
「沖縄でしか食べられない料理だったので喜んでくれたよ」
「しかし、まあ偉いお方を接待したな。シェル石油の代理店は沖縄にもあるだろう」
「うん、沖縄代理店の幹部連中が空港に勢ぞろいさ。肩透かしを食らった彼らに睨まれたよ」
「それで、どうした」
「僕のワゴン車で、案内して夕方の便で台湾に向かったのさ」
「その縁で誘いがあったのかも知れないな。しかし俺を誘う理由はないぜ」
「秦のことだ、何かしらの計算があるのでしょう。抜け目のない男だから」
「そうかもナ。アンタはオーナーだから旅行の理由は必要ないが、オレの会社は役員とて旅費決済の理由が必要だ」
「株式会社は面倒ですね。何か理由を作れないですか」
「そうだな、バンコクのカリーの農場調査にでもするか。2か月前に安いデンファレを輸入したので現地のラン類栽培事情調査の名目を立てよう。場合によってはSオーキッドの塩谷さんに会っても良いだろう。塩谷さんとの取引はあるかい」
「陳先生の紹介で顔は知っているが取引はないな。眉が薄く目付きが鋭い得体の知れない雰囲気の男で少し怖いね」
「確かだね、軍人や裏社会の人々との付き合いもあるらしい。でもいざとなったらタイでは重宝だぜ」
「そうですか、塩谷さんとのお付き合いはカズさんに任せます。秦の招待に乗りましょう。カズさんと一緒だと女房殿の了解も取りやすいから」
「なんだよ、お前も奥方の決済が必要なわけか」
清が苦笑いしながら最後のソバを口に運んだ。
「秦に連絡して旅行の日程を連絡します。台湾往復のチケットはそれぞれで確保しましょう」
ソーキそばの代金750円を払って店を出た。キヨシは農場に戻り、私は名護向けの高速インター南風原南に向かった。

1週間ほどして仲里から8月17日~23日までの旅行日程だと連絡が入った。私は会社の旅行起案書を「タイ国における蘭生産者の現状調査」とした。タイからの輸入は主にSオーキッドの塩谷勝を仲介していた。塩谷は生産者でなくブローカーである。旅行代理店やタイにおける邦人の会社設立、タイへの輸入品の法的手続きを斡旋する司法書士に似た仕事もしている。よく知らないが日本国内のラン関係団体でトラブルを起こし、国内に居づらくなってタイに飛び込んだとの噂がある正体不明の男だ。仕事が少し荒いので新しい取引先を模索することを起案書に付け加えた。私の唯一の上司であるU専務は塩谷を好ましく思っておらず喜んで同意してくれた。只、台湾往復の航空チケットを購入後で旅行期間が旧盆と重なることに気がついた。次男の私は同じ市内ある実家と離れて暮らしており、ご先祖を祭る実家の仏壇行事に関心が薄かった結果だ。妻に明後日から1週間ばかりタイに出張に出ると伝えた。妻は旧盆を挟んで旅に出ることは不謹慎でしょうと不平を言った。今回面会する予定のタイ国最大手のシェル石油オーナーの都合だ。仕方が無いだろう。タイの国にはお盆が無いそうだ。そう返事しながら荷造りをした。荷造りと言っても泡盛の古酒1本に中華系の人々が好む赤い包装紙の菓子類が5箱で後は着替えが少しだ。機内持ち込みが可能で引いて歩ける小さなコロが付いた手ごろなバックに詰め、寝室裏側のウォークインクローゼットの隅に無造作に置いた。私が大きなスーツケースを使ったのは、公式訪問を伴った数件の旅行だけであった。妻はスーツケースの大きさでこの旅が遊び半分だと判断しているようだ。実家には末娘と二人で参加して私の分まで線香を上げてくれ。父母には仕事の都合で海外にいるとだけ話してくれ。必要なら電話すればよい。電波の届かぬ未開地の山奥でも無いし、長女の暮らす名古屋に出かけるのと大差ないだろ。毎度のありきたりの答弁を言って旅の話題を切り捨てた。妻にとって聞き飽きた言い訳で反論する気も無いのだろう。黙ってテレビのスイッチを入れた。私は飛行機が遅延して帰宅が遅れた時以外は旅先の出来事を話題にしない。それは仕事上の機密だと妻に暗示しているつもりであるが、妻は遊びの延長線上に旅という名の仕事があると理解している気配がする。

出発の前日に1級造園施工管理技士会の道路緑化シンポジュームが宜野湾市のコンベンションセンターで開催された。造園関係者を中心に県内市町村の都市計画に関わる職員を含めて、約300人が参加したシンポジュームであった。私は施工、情報、植物の3部門の技士会の中の植物部会長を務めており、シンポジューム終了後のパネリストの先生方を交えた懇親会まで参加せざるを得ず、帰宅したのが午後10時過ぎであった。リビングルームの照明は既に消えており、音を立てぬように静かに玄関の鍵を開けて室内に入った。ダイニングキッチンの電気を点け、コンビニで買った明日の朝食用のサンドイッチを冷蔵庫に収め、缶ビールをコップに注いだ。外では遠雷の光がダイニングの出窓から見えた。もうすぐ雷雲がやって来そうな気配であった。3本買ったビールの1本を飲み干し、2本は旅から帰った後で飲むことにして冷蔵庫の奥にしまった。大粒の雨がガラス窓を叩き始めた。ズボンとシャツを脱いで洗濯機に放り込み、クローゼットからステテコを取り出して履き替えてベットに横になった。妻の寝息に後ろめたさを覚えながらも雷鳴が大きくなる前に眠りに落ちて行った。

8月17日(水曜日)
いつもの起床時間6時に目覚め、妻を起さぬように静かに寝室を出た。クーラーが止まっており、寝汗がシャツに絡みついていた。シャワーを浴びて下着姿のままキッチンの自分の席に座った。ステックタイプのインスタントコーヒーの封を切り、マグカップに入れて魔法瓶からお湯を注いだ。コーヒーの香りが立ちのぼり目覚めを促してくれた。昨晩買ったサンドイッチを冷蔵庫からとりだして賞味期限を見ると昨夜の午後11時である。パンのパサつきも茹で卵サラダにも違和感はまったくなく、ホッとしてコーヒーで胃の中に流し込んだ。インターネットのニュースは特段の出来事も無かった。私と無関係のごく普通の一日が始まっていた。パソコンの電源プラグを外して落雷対策をして蓋を閉じた。念のためにパスポート、航空チケット、所持金の米ドル、台湾ドル、バーツ、日本円、20万円ほどの残高の旅行用クレジットカード、そして小型デジタルカメラと携帯電話の充電器を確認して玄関に荷物を運んだ。昨夜のうちにリビングのソファーに置いていたチノパンツを履き、かりゆしウェアを羽織って、新聞を取るために玄関を開けて外に出た。玄関ポーチの御影石を境に門へと続くビーチコーラル石灰岩の石畳の園路は、昨夜の雨に濡れて落ち着いた色に変わり、石組みのモルタルの目地がくっきりと表れていた。湿った空気の中に銀香木の花の香りが微かに混ざっていた。本来冬の花のはずだが夏にも2,3輪と咲くことがある。花径3㎜程の淡いクリーム色の目立たぬ花だが、湿った空気の中に自ら存在を示している。園路の横には10坪ばかりの石組みの庭があり、小さな滝を備えた畳5枚ほどの広さの池を設けてある。早春には白梅の花の香りが流れ、ほんの一瞬の沖縄の短い春を飾ってくれる。池の中に白い熱帯スイレンが咲いていた。満月の頃に4日間だけ咲く夜咲きの花である。午前10時ごろまで開いて昼間は閉じて日が暮れると再び開くのである。ふと今日は旧暦の7月13日、ご先祖を仏壇にお迎えする(ウンケー)日であることに気づいた。銀香木の香り、スイレンの白い花が、私の懐の奥深く押し隠していた旧盆行事への不参加の後ろめたさをフツと湧き上がらせた。私は両手を大きく広げて湿った朝の空気を吸い込んだ。そして懺悔という実体のない観念を吐き出した。

自宅前のフクギ通りは右側に下っており、突き当りに屋部小学校がある。いつもと変わらぬ朝の通学時の子供たちの賑やかな声が聞こえてきた。新聞受けから朝刊を取り出して部屋に戻った。新聞の地方ニュースの太字だけを拾い読みしていると携帯電話が鳴った。「5分ほどで着きます」と迎えの社員からの連絡である。柱時計は7時50分を指していた。私はソファーに新聞を放り出し洗面所で歯磨きをしてトイレで用を足した。食卓に残ったコーヒーを飲み干しのマグカップをキッチンの水道で軽く流してシンクに置いた。いつの間にか起きだしてきた妻がソファーの上の新聞を拾上げた。私はかりゆしウェアのボタンを掛けながら「行って来る」とだけ言って玄関に向かった。妻は「そう、いってらっしゃい」と小さく言って新聞を広げながらソファーに座った。いつもの出勤時の一コマ変わりない動作である。カーキ色のテント生地で作られたカバンを手に外に出た。那覇空港に展示するラン類を運ぶ2トンコンテナ車が自宅前に停まっていた。
助手席のドアを開けカバンを放り込みステップに足を掛けて乗り込むと
「常務、おはようございます。どうぞ」と言って缶コーヒーを差し出した。「おお、ありがとう。空港まで頼む」と受け取った。今日の運転手は平安山君である。
「帰りは何日ですか」
「来週の火曜日のCI-122で帰って来る」
「1週間ですか。長いですね。お盆期間中ですが大丈夫ですか」
「俺は次男だ、家内と娘に代理を頼んだ」
「帰りは何時頃ですか」
「CI-122だから通関を終えて外に出るのが8時頃かな」
「そのつもりで手配しておきます」
「すまんな。頼むよ」
国道58号許田インターから自動車道路に入り、豊見城仲地インターから国道331号に降りた。糸満市のあしびなー商業団地からの海浜道路が合流する豊見城警察署の前から朝の混雑が始まっていた。
「常務、時間は大丈夫ですか」
「10時半までにチェックインすれば良いから心配いらないよ」
「那覇は名護・本部の田舎と異なって混雑が半端でないですから」
「お前も那覇の水を飲んで少しは都会人の仲間入りをしたな?」
「そうですね、ハハハ」と頭を掻いた。
9時30分に那覇空港国際線ターミナル前のバス乗り場に停車した。
「ありがとう。助かったよ。来週の火曜日も誰かよこしてくれ。頼む」
「分かりました。手配しておきます。お気を付けて行ってください」
コンテナ車は後続車両を気にしながら急いで離れて行った。

ターミナルの待合室、レストランを覗くも仲里の姿はなかった。私は直ぐにチェックイン・カウンターに行って旅行バッグを預けて座席の予約をした。連れに仲里清がいるからと隣の座席を予約したいと頼むと、乗客予約リストをチェックして押さえてくれた。未だ搭乗手続きの客は少なく、いつもの通り通路側の席が取れた。パスポートに航空チケットを挟み、かりゆしウェアのポケットに入れてロビーに戻った。未だ旅客の姿が閑散としたロビーでゆっくりとストレッチして体を解していると、仲里が奥さんと共にやって来た。台車に大きな段ボールを乗せていた。
「何だいその荷物は」
「オンシジュームだ。タイへのお土産として秦に頼まれたのさ」
「大したサービスだな」
「そうじゃないさ、秦の注文だからしっかりと料金を貰うよ」そう言って奥さんの顔を覗いた。奥さんが笑っていた。
「先にチェックインしてアンタの席を俺の隣に予約してある。カウンターの女性にそう言ってくれ」
「おお、ありがとう」そう言ってチェックイン・カウンターに向かった。重量オーバーの追加料金を取られたようだ。
僕らはレストランに入って時間を潰した。仲里は朝食の沖縄そばを取り、私と奥さんはオレンジジュース頼んだ。
「仲村さん、暫らく日本食を食べられませんよ。沖縄そばを食べておかなくて良いですか」
「出がけにサンドイッチを食べたので満腹です」
「東南アジアの料理は口に合いますか。私は全然ダメです」
「さあ、東南アジアで不味い料理を食べたことは無いですね。海外出張の度に体重が増えますよ。逆に国内出張では何故だか体重が減ってしまいますね。」
「国内出張は無いのですか」
「植物園協会の賛助会員を脱会してからは、定期の国内出張はないですね」
「国内の国際洋蘭展示会の見学行きませんか」
「東京ドーム、名古屋も1度で十分です。皆さんのように出店するわけでもないですから」
「見るだけなら一度で十分ね。でも観光地巡りはしないのですか」
「5年ほど前に長女の結婚の顔合わせで、婿殿の実家である三重県に行ったのが最後かな。特別食べたい日本食も無いですし」
「貴方も清も同類ね。要するに南方系の土人の血筋ね。ハハハ」と声を出して笑った。私はふと思い出した。東南アジアの友人たちから何度も言われるのは「ナカムラ、アンタ日本人か」私はその度に「私の故郷はメインランド・ジャパンから1,000㎞離れた日本の南の外れだ。台湾のすぐ隣の島だ」そう答えると彼らは笑ってうなずくのだ。私が思うに、人類は赤道を挟んだ熱帯、亜熱帯の地域に暮らす人々は、穏やかで物事に固執しない傾向がある。一方寒さの厳しい北の民族には備えを怠ると忽ち生命を奪い去ってしまう自然の脅威がある。イソップ物語の蟻とキリギリスの物語の世界だ。しかし南方のキリギリスに冬の厳しさはやってこない。1年中ギターを演奏して暮らせるだろう。厳しい寒さから身を護るためにガードが固くなる民族と、蓄えの習慣を必要とせず豊かさの意味が異なる文化を形成してきた民族の違いだろう。沖縄は南方系の北限に位置するようだ。南方から来る黒潮の流れによって形成された黒潮文化圏である。民俗学者柳田國男の説によると、ミクロネシア、フィリピンを経由して北上する黒潮の海流に運ばれた文化である。柳田は海上の道が作った文化圏と呼んでいる。柳田の民俗学説はともあれ、北の民族の慣習や気質は私に合わない。とはいえ、関東以南の大きな植物園はほとんど見学し、京都の有名庭園も5度ばかり見学した。私の庭も明治の造園家・植治が作庭した無鄰菴を模したつもりだ。単純に現在では日本文化圏への興味が薄れているだけであろう。
仲里夫妻は損得を共にする同じ事業エリアで暮らすことで、私に欠けつつある夫婦間の大らかさと信頼感などの強い結びつきを備えているのは確かだ。165cm、90kgのキヨシに対して奥方は小柄で痩せている。何事も大雑把なキヨシの手綱を締めているのが彼女で、互いの何かを補完しあっているように見える。
那覇空港ビルの植物展示スタッフ3名がレストランにやって来た。
「常務、お気をつけてお出かけください」と挨拶にきた。
「おお、ありがとう。コーヒーでも飲むか」と言うと
「いえ、仕事が残っていますから、失礼します」と出て行った。
「気持ちの良い子達ね。誰が教育したのかしら」と笑った。
「さあ」と首をすくめた。

清の食事がすむと奥方は引き上げた。僕らはレストランを出てX線磁気検査、イミグレーションと進み搭乗待合室に入った。11時10分であった。私は会社に電話して事務主任の上間女史にこれから台湾に向かうと伝えた。4名の娘にメールを入れ、今から旅に出ると伝え娘からの返信を確認して電源を切った。CI-121は11時45分に那覇空港を飛び立ち、時差が1時間遅れの台湾時間の12時10分にランディングした。いつもながらエンジンの逆噴射の振動音が私は苦手だ。薄っぺらな主翼ぶら下がったエンジンが外れて、機体がキリキリ舞いしそうな不安に襲われるのだ。1時間25分の飛行時間は福岡よりも近い距離である。機内で記入したイミグレーションカードを仲里に渡した。宿泊先はゴールデン・チャイナ・ホテルと記入した。これまで何度も泊まったホテルで、利用客名簿に私の名前が記録されているホテルだが今回も泊まるか否か分からない。単なる記載事項である。長い列の外国人専用の入国審査を受ける間に携帯電話を台湾モードに切り替えて秦に電話をした。
「私、空港迎え行けない。陳先生ロビーで待っています」それだけ言うと電話を切った。
1階で荷物を受け取り、迎えの人々でごった返す広場に出ると、秦の電話通りに陳石舜先生、息子の達寛、そして呉秀美女史(サンディ・ウー)が待っていた。達寛の運転するワゴン車に乗り込み空港を出て桃園市内に向かった。陳先生は那覇空港に展示するコチョウランを輸入する為の取引先である。名臺企業股份有限公司、英語表記:ミンタイ・エンタープライズの代表である。戦前の生まれで台北大学の経済学部卒を卒業したエリートで日本語、英語が堪能である。台北銀行頭取秘書、酒タバコの専売公社役員などを経て、定年後にランの輸出に関する会社を立ち上げている。台湾の蘭生産者を束ねる台湾蘭協会の会長であり、世界蘭会議のアジア地区代表評議員を務める。英国王立蘭協会から功労感謝状を貰うなど世界中の蘭関係者から知られた存在だ。紛れもなく台湾におけるラン業界のキングである。息子は先生の秘書的存在で英語がある程度話せる。サンディは台北大学の英文科卒で英語・スペイン語に堪能で水苔の貿易商をしている。出迎えの人ごみに紛れる程の背丈であるが南米チリ、ニュージーランドまで単身で貿易交渉に出かける強者である。美人とは言えないが笑顔が素敵なビジネスレディだ。陳先生の紹介で付き合いを始めて数年が経つ。毎年コンテナ1台単位でチリ産・ニュージーランド産の水苔を輸入していた。
「秦は旅行の準備で忙しいので迎えに来ることが出来ませんでした。彼の農場の近くのレストランで待っています。食事に行きましょう」先生はそう言った。私は秦に会う前に先生とサンディにお土産を渡した。秦の農場は空港からほど近い場所にあり、グッドウィル・オーキッドと称していた。パット・エンド・ファンを装備した300坪余りの温室であるが、名ばかりの商いである。生活の糧は台北近郊にある数軒の貸しアパートである。東南アジアの蘭展示会に出品して各地のラン仲間との交流を楽しんでいるだけだ。金に不自由しない良い星の下に生まれた男の典型である。秦の父と陳先生は大戦前の日本統治下の旧制中学の同窓生である。台湾国軍の高級将校の一人としてフィリピンの内戦に従軍して2年間投獄されるなど屈強な軍人経歴の人であったらしい。資産家でもあった父を亡くした後は、陳先生が秦をラン業界に引き込んで親代わりに面倒を見ているようだ。おかげで金目あての不良仲間に取り込まれなかった幸運も持ち合わせているようだ。軍人の父親は息子の教育に関わる時間が無かったようで、秦は自由奔放に青少年期を過ごしたようだ。秦の日本人に理解できない日常生活の判断基準は少年期に形成されたのであろう。秦は東南アジアのラン展示会で時として軽度の不始末を引き起こすも、陳先生の後ろ盾があるので不問に付されていることが多々あるのだ。スケジュールに無頓着な性格故に日本国内の蘭関係者からは全くの信用を欠いていた。本人は片言の日本語を話すも、広東語で会話が出来る東南アジアの中華系の蘭生産との交流を楽しんでいた。英語は日本語よりも上手く、私は英語で意思疎通を図っていた。互いの未熟な言語を補完しあいながらコミュニケーションを取るので、同じ言語を持つ日本人よりも親密さが増すことも少なくないのである。

秦は自分の農場の屋根が見える場所のレストランの外で待っていた。レストランの中には秦の友人の洋品店の店主が席を作って待っていた。ほどなくして台南の蘭生産者陳全江が加わった。5年以上前の台湾国際蘭展示会以来の友人であり、その後も何度か飲みあった友人だ。今回の旅の同伴者である。185cmの背丈に120kgの巨体だ。ラグビーのホワードが務まりそうな骨太の体格だ。目が細くいつもニコニコした穏やかな性格で、60度の高粱酒を好む飲兵衛でもある。彼から貰った高粱酒が今でも私のキッチンの一番奥に手つかずに残っている。「ハロー、ナカムラサン」以外の英語は話せない。この日もそう言って握手を求めて来た。仲里との飲み友達ではないようだ。台湾国際蘭展の折、自社職員2名と彼の車で近くの蘭園巡りをしたが意思疎通に不具合は無かった。意思疎通を図るには言語でなく遠慮のない誠意のだけである。
昼食は淡水魚の蒸し物、エンサイと豚バラ肉の炒め物、小エビの炒め物、小さな牡蠣の炒め物、チャーハン、乾燥イカを湯で戻してその切り身をわさび醤油で食する。プリプリした食感がたまらなく嬉しい。小エビの入った淡白なスープで味覚を正常に戻して胃袋を落ち着かせた。久しぶりに飲む青島ビールも淡白で美味かった。陳先生は秦に気付かって昼食後に引き上げた。荷物は秦の車に積み替えた。先生にはタイから帰った翌日にお付き合いをお願いした。仕事の話を少しばかりしたいと伝えた。サンディにもタイから帰ると台北に一泊するのでもう一度会う機会があるでしょうと英語で伝えた。彼女の表情がパッと明るい表情に変わり楽しみに待っていますと答えた。美人でもなく背も低いこの女性は表情の変化が多彩で私の中に好ましい記憶を残す人物である。この宴席は秦の席であり、陳先生、サンディとも自分の宴席を持たねば気のすまぬ気性の民族的慣習の持ち主である。彼らに日本人のような割り勘接待の習慣はない。陳先生一行が引き上げた後も僕らは宴席を閉じるでもなく店のビールを飲みつくし店主の隠し酒の高粱酒も飲みつくして終了した。
レストランを出て秦の友人の洋服店主のオフィスでコーヒーを飲み、1時間のドライブで秦の自宅に近いホテルにチェックインした。雅荘汽車旅館という名の駐車場付きホテルである。宿泊料金は朝食付で1,760元(5,300円)である。私の街のビジネスホテルより少し安くシングルルームにダブルベッドはありがたい。女連れ込み兼用のホテルだ。台湾やタイ、マレーシア、シンガポールではごく普通にある仕様のホテルだ。日本国内のシングルルームは東南アジア仕様に慣れた私にとって窮屈感がある。早速シャワーを浴び、下着を洗顔石鹸で洗ってクーラーの風が当たる場所に吊るした。洗顔石鹼は体の油分が良く落ちるので肌着やアイロンの要らないポロシャツの洗濯には好都合である。ズボン以外はホテルのランドリーサービスを使うことは少ない。しかし、この先洗濯をする機会があるか定かではないので、旅の初日といえども洗濯が出来るときにするのがベターだ。会社に提出した旅行日程表は那覇発と那覇着以外は全く無意味である。旅行日程は秦の頭の中である。2時間ほど昼寝をして備え付けのウーロン茶を飲みながらテレビを観た。何処のホテルでも衛星放送が受信できるのでNHKの7時のニュースを見た。午後6時だが1時間遅れの時差があり日本の夕方のニュースが放送されているのである。ふと国内の地方の安ホテルに宿泊している気分がした。

午後7時、秦に案内されて徒歩でホテル近くの食堂に入った。先客がいて大声で手招きした。テーブルを繋ぎ合わせて席をあつらえてくれた。仲里、秦、陳、私の4名が座った。先に来ていたのは秦の姉の旦那、洋品店主の弟とその友人2名である。話の様子から彼らもタイに出かけるので前祝いを兼ねているらしい。この店はアヒルとガチョウの専門料理店である。彼らはダッグとかグースと言っているが私にその肉の違いは分からない。香草を加えて蒸した冷えた胸肉、ショウガや様々な薬草の入った鶏ガラのスープ、揚げた手羽先、肉を千切りにしてネギを絡めた炒め物、紹興酒に合う料理である。何度となく乾杯を重ねた。
秦の義兄が突然立ち上がって中国語でスピーチしてから錠剤を皆に配った。
「先輩、バイアグラです。旅行で必要です」と秦が大声で笑いながら言った。秦の義兄は輸入代行業だと言ったが、そのようなビジネスがあるのか、本業が何であるかは不明である。尤も秦の友人にはごく普通にいる不可思議な職業の人間たちだ。秦自身ですら自分の本業が何であるかを全く意識している様子がないのだから。最後に出て来た一品はアヒルの血を発酵させた塊の入ったスープである。秦の義兄が私に向いて中指を立て、卑猥な表情をして中国語でまくしたてた。皆がどっと笑った。精力が付く食べ物らしく皆うまそうに食べていたが、私も仲里もその独特な発酵臭と食味には馴染めなかった。天井に扇風機が回り、もうもうと湯気とタバコの煙が立ち込める薄汚い食堂は、客の体臭とアヒル特有の料理臭が混ざり合い、それらが油汗と共に体中にへばりついてしまった。私は何度も額の汗をハンカチで拭った。紹興酒を2本だけ空けた。秦の弟とその友人たちはもっぱら青島ビールである。若者には紹興酒離れが進んでおりビール、ウイスキーを好むようだ。あの独特の薬膳酒にも似た香りは若者受けしないのだろう。午後11時に最後の乾杯で散会した。
陳と仲里と3人でホテルに向かった。陳は途中の屋台で紙コップに入った搾りたてのスイカジュースを僕らに渡した。胃の辺りを擦って親指を立てた。胃の調子を整える効果があるらしい。口に含むとクラッシュ氷に砂糖を少し混ぜた味がした。陳の巨体には優しいだろうが私には少し重たい気がした。少し口に含んだだけで飲み干さずにホテルに持ち帰りトイレに廃棄した。ホテルに戻ると今日3度目のシャワーを浴び、2度目の洗濯をしてベットに横になった。なんの抵抗もないまま睡魔に襲われて朝のモーニングコールを迎えた。

8月18日(木曜日)
午前6時30分、仲里と共にフロントで待っていると秦がやって来た。陳が降りてこないのでフロントから呼び出した。午前7時から始まる朝食をキャンセルして車に乗り込んだ。秦が笑いながら言った「陳さん、ポルノテレビ見て、朝寝坊した」。昨日の洋品店主の運転する秦のワゴン車で空港に向かった。台北の朝は交通混雑が激しく、空港まで1時間20分を要した。着いたのが7時40分である。既にチケットの予約が済んでおり、秦からフライト予約表を受け取った。チケットカウンターで各自のカバンとランを詰めた3箱の段ボールを預け、重量超過料金を払い搭乗チケットを受け取った。沖縄を発つ前に仲里と私のパスポートのコピーをPdfメールで送ってあり、秦がフライトスケジュールを予約してあったのだ。秦は旅行経費として20,000円を要求した。チケットの割引差額であるのか、タイでの飲食代であるのか良く分からない料金の算出であるも安いにこしたことはない。午前8時30分、何らのトラブルもなくイミグレーションを通過した。我々はファーストクラス専用のラウンジで無料の軽い朝食を取った。軽食のラウンジであるがラーメン、うどん、餃子、シュウマイ、サンドイッチと豊富なメニューである。飲み物は缶ジュース、ビール、ブランデーまで揃っている。秦の勧めで早朝からラーメン、蒸し餃子、ブランデーをセルフサービスで取った。

CI-693のファーストクラスの座関はいつものエコノミークラスと異なり、座席が広くゆったりとして心地よい。3時間の旅も苦にならないだろう。離陸して1時間ほどで昼食の機内食である。機内食は定番の弁当箱タイプでなく、食前酒、前菜、メインディッシュ、デザートまで付いている。3種類のメニューからローストビーフを選んだ。エコノミークラスの狭い座席で、隣の席の客人の肩に触れるのを気にしながら食事をするのとえらい違いだ。秦とお喋りをしながらゆっくりと食事を楽しんだ。秦はチャイナエアラインの乗務員の女性を度々呼んでブランデーを3杯注文した。しばらくして乗務員が通路を通りながら免税品の販売を始めた。秦が呼び止めてタイの客人への土産として、ブランデーXOを免税価格の95米ドルで買った。各自1本ずつの負担である。座席に付いた画面で映画を見ながらうたた寝をしているうちに機体はタイのドン・ムアン国際空港に向かって降下を始めた。機内放送で目覚めて、乗務員の指示に従いシートベルトを締め直して窓の外を眺めた。飛行場は樹木でセパレートされた細長い芝の広場が連続する不思議な景観であった。不思議に思って注視していると機体がガクンと揺れてタイヤを出して着陸態勢に入った。ランディングの直前に200ヤード先のティグランドでクラブを振りぬくゴルファーの姿を見つけた。よくもまあ頭上から降り注ぐ旅客機の爆音の中でゴルフが楽しめるものである。国が変わればゴルファーの遊ぶ場所も変わるようである。
ボーディングブリッジを渡り、細長いボックス状の通路を歩いていると、CB無線を手にした空港スタッフの若い男ががやって来て秦に話しかけた。
「先輩、パスポートを出してください」と秦が言った。
僕らのパスポートを持って男はイミグレーションボックス内の入国審査係官に何かを話してパスポートを渡した。肥った女性の入国管理官は眼鏡の奥から僕らをジロリと一瞥して入国審査印をポンポンと押して男に渡した。僕らはパスポートを受け取り、男の後ろに続いて進んだ。長い列となって入国審査を待つ旅客の不審に満ちた視線を感じながらその脇を進んだ。入国審査官は僕らを無視して作業つづけていた。僕らはまるで最慶国の貴族の扱いであったが、今にも入国審査官に呼び止められる気がして振り向かずにボックスの横をすり抜けた。僕らは手荷物やランの入った段ボール箱を台車に積み込み出国検査ゲートに向かった。僕らを引率する男が係員に何かを告げると何らの検査もなしで出迎えのロビーに出ることが出来た。それを確認して引率の男はCB無線で何かを話して引き返して行った。私には信じ難いことであったがこの国の経済界のキング、シェル・カンパニーのオーナーの権力であろう。ロビーにはボルネオのゴメス・シムが若い女性と待っていた。仲里も私も個別にボルネオ島の旅行の際に現地ガイドとしての親交があった。秦の説明にはなかったがこの旅の同伴者らしい。
「ハロー、シム、ウェイティング、ロング」「ドンチュウ、ボーディング」(久ぶりだなシム、待たせて退屈しなかったかい)と話しかけた。「オー・ノープロブレム、ナイス、ミーツユウ」(全然、久しぶりだな)と握手を求めて来た。仲里とも懐かしそうに握手をした。
空港の外の路上は相変わらず訳の分からぬ混雑であった。出迎えの人々なのか客引きの怪しい職業の輩なのか日本や台湾には見られないカオスの空間である。こざっぱりした制服を着た如何にも会社のお抱え運転手らしき40代の男と空港警備員にガードされたトヨタの高級ワゴン・アルファードが待っていた。警備員が見守る中で運転手が手伝って荷物を積み込むとゆっくりと喧騒の空港から脱出した。

2ユイガイドのユイ嬢
運転手の名前は発音が難しく失念したがシェルカンパニーの職員である。ユイと名乗った30歳前後のガイドは社長がよこした女性である。社員か否か問うことも無く旅を続けることにした。くだけた会話から社員ではなく、社外のガイドを生業にした女性のような気がした。
助手席にユイ、2列目に秦と図体のデカい陳、後部座席にシム、仲里、私だ。シムは細身だが私と仲里はそれなりにデカい。多少窮屈なドライブとなった。
小柄で色白の中華系特有の顔立ちとストレートの髪を薄茶に染めたユイ嬢はタイ語、広東語、癖のある英語を話した。日本語は全く駄目である。この国で経済的に豊かな人々は中華系が占めており、とりわけ中国南部地方出身の家系である。それ故広東語圏とも呼ばれているのだ。寒い上海、北京の漢民族系でなく、ベトナム、ミャンマーと国境を接する多民族の人々からなる華南人を先祖とする人々である。秦や陳先生の一族も祖父母の代に広州からやって来たらしい。台湾、広州の男性の話す広東語は騒々しいがタイ、マレーシアの中華系の人々にとっては地域ごとの方言に類する変化を生じたのか、イントネーションが穏やかである。ユイの鼻にかかった話し方は何とも艶めかしく聞こえる。会話の意味が解らぬせいもあるだろうが、私の耳には悪い響きではない。

空港を出たワゴンはバンコクの南東120㎞に位置する海浜リゾート地のパタヤに向かった。バンコクの異常な喧騒を抜けて3時間余りのドライブである。バンコクの渋滞から逃れた頃、高速道路料金所手前の食堂で少し遅い昼食を取った。十分な朝食と活動もせずに機内食を食べたせいで空腹感は無かったが、喉が渇いたのと、僕らは手足を十分に伸ばしてタイの郊外の新鮮な空気を吸い込みたかったのだ。
この国の庶民相手の食堂の造りは壁が無いのが特徴だ。日中はとても暑く風通しが悪くては飯が食えないのだ。尤も閉店後は野盗に備えて雨戸をしっかりと閉じている。壁があるのはクーラーを備えた高級レストランだけだ。そのような店は外国人の味覚に迎合しているので、大抵の場合ホテルのレストランの延長線上の味に似ており、本物のローカルの旨味に出会うことは少ない。
店に入り、シム、ユイ、運転手のテーブルと台湾から来た僕らのテーブルに分かれた。店内の陳列棚にはタイの醬油ベースで煮込んだこげ茶色の豚の足が積まれていた。秦がそれを指差して2皿分を注文した。沖縄のテビチである。テビチは予め7㎝程度に切断してから調理するのであるが。足を膝の部分から下をそっくりそのまま調理されている。テーブルに出されたのは骨を取り除き適度の大きさに切断された皮付きの肉とエンサイの炒め物である。定番の香草パクチーを刻んで振りかけてある。香辛料が効いているが間違いなくテビチである。小皿に取り分けて口にすると、油が適度に抜けた肉とコラーゲンたっぷりの軟骨、そして味が浸みこんだプリプリした皮の部分はたまらなく美味い。刻んで振りかけたパクチーがタイ料理の魅力を存分に引き出している。スープは鶏ガラダシの細麺の入った薄味のヌードルである。濃い豚肉の味で染まった口の中をスープが洗い流してくれる。テーブルにはコショウ、赤唐辛子の粉末、生の青唐辛子の輪切り、シシトウに似た厚肉の唐辛子のピクルス、ナンプラー等、幾つもの香辛料があり、それぞれの好みで辛みを加えるのだ。メンバーはだれも激辛を好まない。現地人の運転手とユイは僕らがラーメンに七味唐辛子を振りかける仕草でごく普通に香辛料を振りかけていた。暑い昼下がりと辛味の効いた昼食にはビールが良く合う。タイのビールは国産のシンハービールとライセンス生産のハイネケンビールが主流である。僕らはこの先つとめてシンハービールを飲むことにした。外国人が地元のビールを注文すると店員の表情が和むのである。
店を後にしてパタヤに向かう高速道路に入った。料金所の道路脇に事故で酷くクラッシュした3台の車両が錆びついた状態で放置されていた。交通事故の恐ろしさを喚起する処置であろうが、極めてダイレクトな表現である。高速道路と言っても、日本の様にガードレールで完全にセパレートされているわけではない。道路下に原野が広がり、道路わきの砂利の広場に食堂やら雑貨屋等がある。無論高速道路に侵入できる脇道は無いのであるが、いたってのんびりした風景が見られるのである。高速道に入る前の街角に肩から赤と黄色のラインの入ったタスキを掛けた上品な女性の写真が数多く見られた。少し気になったのでユイに尋ねると国王の奥方、王妃とのことである。何やら記念事業があるようだ。タイは王室と国民の間に親密な繋がりがあるようだ。何しろ王室を非難すると逮捕されるとのことである。現代の琉球人である私には想像もつかぬが、大戦前の日本の皇室もそうであっただろうか。
ビールのアルコールで私は1時ほどうたた寝をしていたようだ。気がつくと大型のコンテナトレーラーが増えている。パタヤの手前20kmにあるレムチャバン貿易港からバンコクへ荷物を運ぶ車両である。ワゴン車の中は静かで、先ほどまでユイをからかっていた秦も熟睡している。私は秦の横顔に今夜の長い夜の為に充電している不穏な気配を感じていた。

3トラックコンテナ車の群れ
タイランド湾に沿って海岸をカンボジア国境まで続く有料の幹線道路3号線を左折してパタヤの街に入ったのは午後5時頃であった。バンコクよりも欧米人の姿が増えていた。大柄な欧米人の男が小柄なタイ女性と連れだって街角に立っているのも少なくない。親子ほども齢が離れた小娘を伴い、半ズボン姿のラフな身なりは落ちぶれた不良外人の姿にも見えた。パタヤビーチリゾートは1960年代から開発が始まった。ベトナム戦争の帰還兵の休息地、あるいはカンボジア内戦に備えたタイ国内の米海軍の駐留地などもあり、次第に近代的なリゾートホテル群が形成されていった。当然のごとく歓楽街も広がって行った。私は1983年に初めて訪れて以来4回目の訪問である。訪れるたびにホテルは近代化されていた。当初の建築ラッシュが治まり、町並みは落ち着いていた。魚介類を焼く煙や麺類、スープの湯けむりにむせる屋台、夜風が吹き抜ける食堂、夏祭りの夜店にも似た雑多な土産物を売る店が並んだ繁華街は、大小のショー劇場や電飾の施されたバー、レストランへと変わり、この時間は小奇麗に化粧して夜が来るのを待っていた。この街の変化は他にもあった。コンビニのセブンイレブン、店の看板が中国語の中華料理店、日本語のすし店、ハングル文字の焼肉レストランが幾つか見られた。アジア極東地域からの旅行者も増えているのだろう。僕らもその仲間に違いないなのだが。

4ホテル前庭ホテルの前庭、奥はゴルフコース
僕らはダウンタウンの喧騒地帯から少し離れた海岸の低い崖に面したアジア・パタヤ・ホテルにチェックインした。私と仲里、シムと陳、秦と運転手、ユイはシングルルームである。ロビーには欧米人、韓国人の姿があった。ミニゴルフコースを備え、若者の姿はなく年長の宿泊客らしい2,3のカップルがロビーのソファーでくつろいでいた。幾らかハイクラスのホテルのようであった。東南アジアの中級以上のホテルではパスポートの提示を求められるが、このホテルではご丁寧にコピーを取ってから返した。テロ対策の意味があるかも知れないが少し不快感が残った。尤も、宿泊メンバーはタイ人2名、マレー人1名、台湾人2名、日本人らしからぬ浅黒い肌の男2名の不可解な構成であり、巨大企業シェルカンパニーの紹介客である。
段ボール箱を車に残し、バッグだけをカートに乗せた。カートを運ぶベルボーイの後に付いて4階に上がった。秦はカートのバッグを指差しては各部屋の前にバックを降ろさせ、最後にチップを渡した。ボーイは部屋ごとに貰えるはずのチップを1回分しか貰えなかった。ボーイが「サンキュー」と言って去っていくと。
「センパイ、頭イイ」と笑いながら人差し指で自分のこめかみを差して日本語で言った。秦は旅慣れているのかケチなのか良く分からない男である。夜遊びで金遣いが荒いが20バーツ(60円を)倹約する知恵もある。

私は念のためにトイレで便意を片付けてロビーに降りた。午後6時半の明るい時間にダウンタウンに向かった。最初に入ったのがパタヤに多いマッサージ店である。私は肩こりを知らぬ人間である。マッサージが特に好きでもないがお付き合いだd。ユイと運転手殿はコーヒータイムだ。5名は浴依に着替えて広間に並んで横になった。店内は全てが見通せる造りで、韓国系、中華系の客があちらこちらに寝転がっていた。欧米人の姿はなく私と同じで肩こりが無いからであろうか。マッサージ嬢は20代である。8年ほど前に熱帯果樹の国際シンポジュームでパタヤを訪れ、友人4名で会議を抜け出しマッサージを受けたことがあった。その時は額に赤い紅を付けたインド系の女相撲取り並みの女性が力強いマッサージを施し、皆が悲鳴を上げたものである。
マッサージは仰向けに寝て、爪先から体の表面を頭に向かって進み、うつ伏せになって足の裏から頭部に向かって指圧を進めて終了した。ふくらはぎと腰にタイガーパームオイルを擦り込んでおり、エアーサロンパスをスプレーした感があった。マッサージは1時間コースであった。タイに到着してから両替をする機会が無かったので手持ちのバーツを持ち寄って支払った。よく覚えていないが600バーツ程度であっただろう。マッサージ嬢は訓練学校を出ていると話していたが、インド女性ほどは私の筋肉を弛緩させてはくれなかった。車に戻ると辺りはすっかり夜が始まっていた。
夕食のレストランに向かう途中でハングルハン文字の看板に明かりが灯っていた。レストランにカラオケバーである。未だ日本ほど贅沢な街灯の明かりが少ないこの地区では、セブンイレブンの赤とグリーンのラインが目立った。店の中には地元の人間でなく旅行者らしい数人の人影が動いていた。コンビニエンスストアは何処でも旅行者にとって便利な存在である。
レストランは100名程が収容できる割と広い店である。むろん壁となる仕切りはなく屋根を支える柱が立っているだけで店内の端まで見通せる造りである。
ユイと秦が写真付きのメニューから料理を選んでいる間に僕らはビールを注文した。ビールは此処でも冷えておらず、氷の入ったグラスに注いで冷やすのである。ビンをテーブルの上に置くのでなく、テーブルの傍らのワゴンにビール、コーラ、ジュース、氷の入った容器を乗せて各テーブル付きのボーイが次々と注いでくれるのである。グラスのビールは常に満たされている。
タイに来て初めての晩餐である。ワゴンで運ばれてきたパサパサのタイ米をボーイが各自の大きな皿に取り分けてくれた。その皿にメインの料理を取り分けて食べるのだ。コメと料理を適当に混ぜて食べるのである。日本米だと料理から出る油や汁でベチャベチャになって食えないだろう。タイ米でなければこの国の料理には合わないのである
ブー・パッ・ポン・カリー:大ぶりのマングローブ蟹をぶつ切りにして、ネギ、カレーソースに溶き卵を絡めて煮てある。最初は上品にフォークとスプーンで身を解して食べていたが、しだいに手づかみで嚙みついて殻をテーブルに置いた。テーブル付のボーイが時折その殻を片付けてくれた。
チューチー・クン:大ぶりのエビをココナツミルクとカレーで炒めてある。
トム・ヤム・クン:よく知られたタイ料理だ。酸っぱくて辛いスープには刻み葱やショウガが薬味に使われている。大きなドーナツ状の鍋が火にかけられ、この店の具材のエビがごろりと入っている。小ぶりの椀に取り分けて食べるのだ。
プラー・チョーン・ペサ:40㎝程の蒸した白身の魚に酸味のある餡かけ料理だ。あっさりとした味である。この店では生簀で飼っているヤイトハタ(沖縄ではミーバイ)を調理してある。亜熱帯のサンゴ礁に住む高級魚である。テーブルには3種類のトロっとした薬味の醤油が小瓶に入っている。手元の小皿に差して使うのだ。いずれも辛い味だ。
トート・マン・プラー:魚のすり身に千切りのインゲン豆を混ぜて揚げた蒲鉾だ。直径10cm、厚さ1cmの円形蒲鉾である。スプーンをナイフ代わりにして小さく切り取って薬味のたれに浸けて食べるのだ。八重山蒲鉾が数段美味い。すり身の材料である魚の質が異なるのであろう。この辺りで盛んな養殖淡水魚かも知れない。
クン・パオ:クルマエビの大きさのエビを網焼きにした料理だ。緑色の辛めのタレに浸けて食べるのだ。エビの香ばしさが口内に広がって何とも嬉しい気持ちになる。エビは網焼きが一番美味い。子供の頃の川遊びで、手長エビを河原で焼いて食べた記憶が蘇った。
その他に赤貝の網焼き。エンサイ、ツル野菜の炒め物を取り分けて食べた。
デザートはパインとスイカである。この国のパインは本当に美味い。よく食べてよく飲んだ晩餐会であった。

レストランを後にしたのが午後9時半であった。秦は車中から携帯電話で誰かと話していた。セブンイレブン近くのショー劇場の駐車場に車を停めた。広い駐車場の両サイドにショー劇場が建っており、大人子供が楽しめる宝塚歌劇団タイプと男性向けのアダルトショー劇場だ。宝塚劇場タイプは派手な舞台衣装の美女が歌って踊る本格的なタイ式宝塚ショーだ。宝塚ショーと根本的に異なるのはスタイル抜群の美人の踊り子たちが全て元男性であることだ。この国がオカマ天国と言われる所以だろう。劇場前の広場は韓国、中華系の人々で賑わっている。数年前に私がこのショーを見た時は欧米人観光客が多かったが、この国での社会情勢の変化が現れていた。

Pattaya, Thailand - October 7, 2016: Crowd of tourists on the noisy and sleazy Walking Street, Pattaya's hottest nightlife spot, surrounded by flashing advertising placards and nightclub signs.

Pattaya, Thailand –

僕らはユイと運転手を残して秦の友人が待っているという男性向けのショー劇場に入った。入場料金は400バーツでビール又はコーラが1本付いていた。1時間の見学時間でプログラムが1サイクル演じられる仕組みである。舞台には既に踊り子の姿があった。長身で手足の長いスタイル抜群の踊り子が上半身裸でハイテンポなソール系音楽に合わせて体をくねらせている。アメリカ映画に出て来るショーの雰囲気である。ステージは様々な色のライトが動きながら交錯して踊り子の姿をアップしている。踊りが指をパチンと鳴らして手拍子を要求すると、すり鉢状になった会場が踊り子の踊るリズムと一体となった手拍子の響で会場が盛り上がった。踊り子が軽やかな足取りで舞台を降りて幕内に去ると、反対側の間口から両端に火の点いた棒を振り回した筋骨隆々の男が出てきてポリネシア風の火炎の踊りが始まった。その次は裸の美女が観客の男性を舞台に上げて絡みつくお笑いのシャワーショーだ。その次に大きなまな板に乗った裸の美女が男性4人に担がれて舞台に登場した。体の上には料理が盛り付けされており、それを観客の男性が一人また一人と交代で手を使わず口でぱくつくショーだ。次々と観客一体となった愉快なショーが続いた。日本の盛り場の場末に僅かに残ったストリップ劇場で開催される卑猥なショーの雰囲気は無く、観客席には新婚カップルらしき姿も少なくない。僕らは秦の友人を見つけ、ショーが一巡した頃外に出た。秦の友人とは言うのは僕らを空港まで送ってくれた洋品店主の弟で台北の遊び仲間と3人で観光に来ているらしい。僕らはタクシーとワゴン車に分乗して移動した。午後11時を過ぎていた。日本時間の午前1時である。

車から降りたのはカラオケバーの前である。秦は既に彼の友人とカラオケルームの喧騒の中にいた。ユイを含めた客10名とホステス9名の饗宴である。中華系専用のカラオケバーであるらしく、台湾系の歌が多く、日本のポップ系曲もあったが私の好みではなかった。秦のカラオケ好きは有名だ。台湾、中国、日本国内とどこでもカラオケバー探し出して徘徊するのだ。しばらくすると秦はボーイを呼んだ。
「シックス・ダイス、ツー・ヌードルカップ。アンド、スモールグラス」そう言ってサイコロ3個と丼を2セット持ってこさせた。1個のサイコロをテーブルに置き、残りの2個をドンブリの中に転がすのだ。テーブルの上のサイコロの目と丼の中のサイコロの目が一致すると罰ゲームを受けるのである。3個のサイコロが一致する確率は1/6×2の30%以上だ。1個の目が合えば1回、2個の目が合うと2回の罰ゲームが待っている。小さなグラスに氷を1個入れてウイスキーを半分ほど注ぎ、罰の数ごとに1杯、2杯と一気に飲み干すのだ。ゲームは私と陳それに新しい台湾の友人が客チームでそれぞれの席に付いたホステスと対戦するのである。秦、仲里、台湾の友人も別のサイコロで対戦していた。ゲームに参加しないものはカラオケに興じていた。このゲームは言葉によるコミュニケーションを必要としないので、ホステスの嬌声だけで場が盛り上がる。サイコロの目が合うと私の知らないタイの方言らしき言葉で嬌声を上げる。目が合わないと勝ち誇った表情で隣のホステスにサイコロを渡す。ジョニーウォーカーのブラックラベルのボトルがたちまち空になっていく。ホステスたちは時々「ジャスト・モメント・ワン・ミニツ」(ちょっと待って)と言って席を外す。僕らはボトル3本をたちまち空にしてゲームを終えた。サイコロゲームの後でデスコダンスに興じた。踊る相手のホステスには50バーツをチップとして渡すのがこの店のマナーのようだ。私はチップ用にと常に米ドルの1ドル札を10枚程ポケットに突っ込んでいる。2ドルをホステスに渡した。ホステスが困った顔をしたのでボーイを呼んで「イッツOK」と言うと頷いてホステスに何やら話した。ホステスの顔がパッと明るくなった。この時期の為替レートでは50バーツより高いのである。2曲目の音楽が終わり席に戻る時にさらに1ドルを渡すと浅黒い顔の田舎娘が嬉しそうに笑った。国道3号線の東の外れのカンボジア国境にほど近い町トラートから出稼ぎに来て4カ月だと片言の英語で話していた。未だ米ドルを貰ったことが無いのであろう。
カラオケバーを引き上げたのが午前1時過ぎであった。ワゴンの中でシムが寂しい顔で話した。サイコロゲームの途中でホステスが「ジャスト・モメント」と席を立ってトイレに向かったのは、飲んだ酒を無理にやり吐き出す為である。不用意に強い酒を体に吸収させない彼女たちなりの自己防衛手段のようだ。小柄な女性が大男の陳や私と同じように強い酒を飲み干すと体がもたないのであろう。生活を賭けた女たちの哀しくもしたたかな商売根性である。このところの秦の酒場での遊びはスマートさが欠け、いささか品性が低下してきたような気がした。ホテルに着くと秦は「明日の朝食は7時30分です」と言って部屋に消えた。私が仲里のいびきを聞きながら眠りに落ちたのは午前2時頃であろうか。日本時間の午前4時である

8月19日(金曜日)『旧盆の日』
6時30分に起きて仲里と交互にシャワーを浴び、7時30分に1階のレストランに降りた。秦、シム、陳は既に屋外のテラスでコーヒーを飲んでいた。私はクーラーの効いた屋内でゆっくりと朝食を取りたかったが、トレーにパン、目玉焼き、カリカリベーコン、小ぶりのウインナー、サラダとジュース、コーヒーをのせて彼らの隣のテーブル座った。テラスの前の園路を挟んだ小さなプールでは欧米人で肉付きの良い初老の夫人が一人でゆっくりと泳いでいた。シムに向かって「グッドモーニング・ハブ・ア・グッド・スリーピング・ラストナイト」(おはよう。よく眠れたかい)と挨拶した。「ノー・ヒー・スノー・ビッグ」(あいつのいびきがうるさくて)と陳を指差して笑った。客のテーブルを巡回しているボーイにコーヒーを注ぎ足してもらいしばらく談笑した。ユイに誘われて仲里と共に海が見える崖の方に行った。朝の海風が心地よかった。崖はそれほど高くはなく、10m程降りるとプライベートビーチである。干潮らしく黒い砂浜が干上がっていた。この辺りの海岸はビーチコーラルではないようだ。沖縄の白浜とエメラルドグリーンの海の美しさが貴重な自然に思えた。ホテルの従業員らしき男が金属探知機で干上がった砂浜を調べていた。客の遺失物を探しているのかも知れない。
9時にチェックアウトしてホテルを出た。ホテルで1万円札をバーツに両替しておいた。ホテルの両替レートは不利益であるが仕方がない。旅先では円や米ドルが通用しない事態が起こるのが常である。バンコクに通じる国道に合流すると大型コンテナ車が多くなった。やがて高速道路に入り車は120㎞のスピードでコンブリの街を横目に見ながら通過した。しばらくして高速を降りてプランチンブリに向う幹線道路に入った。昨日の予定ではパタヤ近くのデンドロビュームの生産農家を訪ねる予定であった。仲里が少し交流のあるその生産者について秦に尋ねると、「ナーセリーはダウン、訪問は駄目ね」と言った。いつの間にかパタヤの北100kmの地点まで来ている。今日の旅の行く先は秦の気の向くままに動いているようだ。

6寺院タイの寺院
しばらくして走ってチャチューンサオの町に停車した。立派なお寺があり、道路を隔てて大きな市場があった。寺の敷地内に拝所があり、老若男女が蓮の花を買って仏様にささげて熱心に祈っていた。ユイが蓮の花を持て来て皆に配った。タイの人々に倣って床に膝をついてお祈りをした。今日は沖縄の旧盆の最終日である。遠くタイからでは私の祈りもご先祖様には届くまいと思ったが家内安全を祈った。只、外国の仏様からのお知らせにはご先祖様もさぞかしびっくりするだろう。沖縄方言に慣れ親しんだご先祖様に、この地の仏様のタイ語は理解できないであろうと少し情けない思いがした。拝所の近くの建物の一角ではタイの女性が伝統的な衣装での独特な舞を披露していた。この踊りは寺だけでなく街角の拝所でも踊っているのを何度か見かけた。見物客が多いのでもなく、投げ銭を求めたショー的な行為でもない。仏教の国の不思議な習慣の一つである。

7市場何でも市場
道を横切って向かいの雑貨市場をブラブラと覗いて回った。小エビ、小さな蟹のカラアゲ、もち米に何やら具を混ぜてバナナの葉に包み、炭火で焼いた食べ物が香ばしい香りを漂わせていた。沖縄では月桃の葉に水で練った餅粉を包んで蒸した逸品があり、ウニムーチーと呼ばれる古くからの冬の慣習が残っている。同じ材料を竹筒に詰めた焼いた一品もある。ミドリガイの剥き身を扱う鮮魚店は6畳間程の海産物食堂も兼ねている。ここでもビンローの実を扱っている店がある。台湾ではウズラの卵より少し小さい実に特殊な石灰ペーストを挟みニッキの葉で包んで売っている。噛んで所構わず唾を吐き出すのである。吐いた唾が赤茶色に変色して見苦しい跡を地面に残す。決して行儀の良い嗜好品ではない。今時の若者の間では流行らない嗜好品となっている。この市場ではスライス乾燥して薬味として利用しているようだ。所変われば嗜好も変わるのが世の常だ。

8蟹フライ海老と蟹のフライ
市場はトタン葺きの屋根が連続して100m四方程の広がりがあり、食べ物、衣類、荒物類等、日用品の全てが揃っているようだ。秦と陳は今晩の酒の摘まみ使うつもりかエビ、カニの揚げ物、蒲鉾に似た団子状の食べ物を買って市場を出た。車の近くに宝くじ売りの青年が立っていてしきりに売り込んでいた。私は5枚セット100バーツの券を買ってユイに渡した。「ハブ・ア・グッドラック」と言うと大きな声で笑って「サンキュウー」と言った。4日後にタイを発つので宝くじの当落を知ることは無いだろう。途中の屋台で買った椰子の実ジュースがとても美味かった。スポーツ飲料のポカリスエットに似た味で昨夜の酒盛りでくたびれた体には妙薬であった。表面の皮を削ったソフトボール大の台形で、持ちやすい手ごろの大きさだ。トップの穴にストローが差し込まれて中身をこぼすことなく飲めた。ヤシの実ジュースは300ccぐらいの容量であっただろう。

9バナナ餅焼き焼き餅

混雑の無い市街地の道路を1時間ぐらい走ってプランチンブリの町に着いた。軍服に似た制服を着た若者がバイクで行きかう姿が多くなった。80ccクラスのバイクに2人乗りが多い。男女ともカーキ色の制服で肩にワッペンが付いていた。ユイに彼らはミリタリースクールの学生かと尋ねると、農学校の生徒だと答えた。昼食時間には校舎の外に出て昼食を取る学生が多いのであろう。台湾を含む東南アジア諸国は外食産業が盛んである。地方の農村でなければ大抵は屋台で加工された食材を求めて帰宅して食する習慣が普通である。朝の通勤時も同様で早朝から屋台は賑わっている。タイではホワイトカラーの職業を解雇されると、屋台での飲食業に転ずる人は珍しくないのだそうだ。少ない元手で開業できる実践的な商売である。但し味の世界がそれなりに厳しいのは万国共通の現実である。
あまり大きくないレストランを見つけて7名で中に入った。店舗脇に生えたホウオウボクの大木の樹冠が店の屋根を覆って良好な日陰を作っていた。市街地の中でも風が心地よく吹き抜けた。円卓でなく横長のテーブルに向かい合って席を取った。給仕係が運んできたビールは相変わらず氷入りのグラスで飲むスタイルだ。シム、ユイ、運転手はコーラだ。
「センパイ、ボーイはレディね」と秦が言った。
細身で浅黒い肌の中華の血の混ざらない整った顔立ちの純系のタイ人に見えた。中背で手足が長く手の平が女性にしては大きかった。僅かだが喉仏があった。小学生のような未だ蕾の胸でもしっかりとブラジャーを着用している。白いポロシャツから透けて見えた。立ち振る舞いは柔らかくおキャンなユイよりもはるかに女性的である。向かい合った4名で代わる代わる観察しては暇つぶしの話題とした。そのことを知ってか知らずか、取り皿を片付ける際に陳のポーチとズボンに残り汁をこぼしてしまった。秦も僕らもそれ見たことか爆笑した。そのミスターレディが慌てて腰の布を取って陳のズボンを拭いた。それを見て再び笑ったが誰も彼女を罵ることはなかった。なんてことも無いトラブルが僕らを楽しませてくれただけである。
最初に冷えた10cm程の茹エビの一山でビールを飲んだ。味は今一だが次の料理が出て来るまで皮を剝いては香味料を付けて口に運んだ。
ホーイマレン・オブ・モーディン:蒸したミドリガイ
オースアン:小さな牡蠣をカレー風味で炒めた品で新鮮なコショウが房ごと入っている。
カイ・ヤーン:鶏の炙り焼きをぶつ切りにした一品
プラー・カポン・ヌン・シーュ:蒸した白身魚の淡水魚にピーマン、ネギなどの野菜を炒めて絡めてある。
パット・カナー・ムー・グローブ:小指大の豚バラ肉を唐揚げにしてカイラン菜と一緒に炒めた品。豚肉の甘辛味とカイラン菜のポリポリとした歯ごたえが絶妙である。
上げ蒲鉾のトート・マン・プラー:昨夜の夕食でも食べた品と味に差はない。
トム・ヤム・クン:昨夜のスープと酸味、味の濃さが微妙に異なっていた。この料理は店ごとに特徴が明確に現れるようだ。
本日も2,000バーツで十分すぎる昼食を楽しんだ。

午後2時にレストランを後にした。プランチンブリの町から30分ほど走って目的の別荘の入り口に着いた。途中でウオン・タクライ国立自然公園への案内標示板があった。ゲートからサンダンカが小奇麗に刈り込まれて続いた。1km程進むと大きなパラボラアンテナを備えた別荘に着いた。200mほど離れて丘の上に温室群が見えた。別荘は広い池に面した静かな佇まいである。前庭の池の中央には中国風の東屋があり、水面に姿を映し遠くの山並みに溶け込み、中国の山水画を切り取って来た感があった。池は雨季のせいか多少濁っていた。この場所から見える風景は遠くの山並みのウオン・タクライ国立自然公園のすそ野から全て私有地である。72ヘクタールの国営沖縄記念公園の4倍を超える面積だ。オーナーはタイシェル石油の社長ドクター・フーと呼ばれる人物である。この別荘を訪れる人々は彼をドクターと呼んでいるようだ。2階建ての別荘は1階の中央部は風が通り抜ける大広間、両サイドにゲストルームがそれぞれ3部屋でベッドが2台のツインルームで20畳ほどの広さがある。時によってはベットが複数台持ち込める広さである。シャワールームとトイレは部屋の外側の木造である。2階は大柄スクリーンを備えた大会議室とオーナーの部屋らしい。衛星中継を利用した社内会議が可能とのことだ。

10別荘ドクターの別荘
管理人は姿を見せぬが既に来客の手配が済んでいるらしく、秦の指示で僕らは荷物を割り当てされた部屋に運んだ。秦は以前も訪れたことがあるらしく、くつろいだ姿勢でソファーに座ってユイと雑談を始めた。私と仲里はオーナーが来るまで1時間ほどの仮眠を取った。クーラーが効いているわけではないが、建物の天井が高くゲストルームの仕切り壁の上から風が抜けていくので涼しかった。広い湿地の草地を渡ってくる風が気温を穏やかにしているようだ。車中でうたた寝をしたとは言え昨夜はベットで4時間足らず浅い眠りだけである。それに台湾で1時間、タイで1時間の時差を強いられて睡眠のバランスが少々綻んでいるようだ。携帯電話のタイマーを4時にセットしてベットに横になった。

11東屋池の中の東屋
午後4時過ぎにドクターとマネージャーがやって来た。ドクターは小柄な中華系の人物である。名刺を差し出して挨拶をするとドクターではなく、初老のマネージャーが自分の名刺を渡した。英国貴族の執事の立場であろうか、ドクターの名刺は出さぬことになっているらしい。まさにキングの慣習なのであろう。
ドクターは自ら別荘の周りを案内した。街路樹のアフリカンチューリップの根元周りを直径4m程円形に木枠で囲んでアランダ、モカラがオレンジ、黄色、紫と品種別にカラフルな色彩で配置されていた。花は咲いていなかったが、1m程の草丈のグラマトフィルム・スペシオスムが1m角の植え込みボックスで配置されていた。鳥の飼育施設もあり、4種類の孔雀と様々な色彩の小鳥が広いケージの中で飛び交っていた。白色の孔雀はとても貴重な品種だとのことであった。広い人工池には様々な水鳥が放鳥されていたが、いずれも海外から導入された種類らしい。植物の育成圃場、造成中の育林地など説明を聞きながら温室群に着いた。屋根の高いラスハウスが2棟あり、ヘゴに着生されたラン類、アナナス類、熱帯地域から収集された貴重な植物が育成されていた。1棟500坪程で膨大な植物のコレクションであるが、未だ十分なスペースが残っていた。300坪ほどのビニールハウス2棟は空調設備が設置されていた。台湾で主流のパット・エンド・ファン方式の施設である。コチョウランを中心に栽培されている。今日、仲里と秦が持ち込んだ蘭もこのコレクションに加わるのだろう。空調設備は導入したばかりでうまく作動しないとこぼしていた。陳が屋外のプラントを見て回り、フィルター設備が弱いようだ話した。ドクターは軽く頷いて後で詳しく教えてくれと言った。1万株程のラン類を保有しているらしいが、出荷場らしき施設はなく販売ルートに乗せる様子はない。あくまでもドクターの趣味の世界だ。開花株をどのように扱っているのか少し気になった。日が落ちる前に別荘に引き返した。施設に隣接する200坪程のマグノリアの栽培圃場では、白い花弁が光を失い始めた夕暮れの空間の中で樹冠の表面に競い合うように浮かび上がっていた。

12タイガーオキッドタイガーオキッド
別荘の大広間に戻って雑談をすると、程なく辺りは闇に包まれた。屋外に民家の明かりは全く見えない。あらためて敷地の広さを実感した。闇が深くなるにつれて蛙の鳴き声が大きくなって来た。施設の周りは池である。幾種類もの蛙がそれぞれの縄張りを主張しているのであろう。夕食は市場で買った蟹、エビ、そして蒲鉾に炒め物が少し付いただけである。睡眠不足で胃の調子が少し衰えた私にとって晩餐会形式の食事でないことは好都合である。機内で買ったブランデーを飲みながら雑談を続けた。
「先輩は日本の造園の専門家です。植物の本も3冊書いているので何でも質問して下さい」と言った。秦が私をメンバーに加えた訳が分かった気がした。
「池のオオオニハスの成長が悪い。原産地の葉のように2mくらいにする方法は無いだろうか」ドクターが訊ねた。前庭のオオオニハスを見ていたのでその質問に答えた。
「貴方の池は深すぎる。植え込み鉢を直径2m、深さ60cmにして、水面から30cmの深さが適切です。要するに鉢を上げるのです」ドクターがメモを取った。
「先ほど見た池のオオオニハスは深い場所に植えられています。葉が水面に展開するまでにエネルギーを消耗しているのです。」ドクターは手を叩いて納得した。
「この植物は葉を大きく広げる為にとても多くの肥料を必要とします。たくさん与えて下さい」と言った。肥料という英語が思い出せず漢字で書くとシムがすかさず「ファテライズ」答えてくれた。
陳はパット・エンド・ファンの作動について回答した。
「池の状態からこの辺りは水質が悪いと思う。私のハウスも水田地帯にあるので水質管理に気を付けています。私のパットエンドファンのフィルター設備は5トン、3トン、2トンと3連式を使っています。必要なら業者を紹介します」。マネージャーが名刺のFaxナンバーを示してくれた。シムはボルネオの不思議な野生植物の紹介をした。人の顔よりも大きなアリストロキア、ネズミが落ちる程大きな壺をもつネペンティス、そして世界最大の花プロテアの移植について説明した。ボルネオには不思議なランが沢山あります、収集がお望みなら協力しましょうと答えた。ドクターとマネージャーはメモを取りつつ謙虚に聞きいていた。仲里には今回導入したオンシジュームとカトレアについて明日の午前中に農場で教えてくれと言った。秦はゲストを伴った効果があったとばかりに僕らに提案した。
「センパイ、仲里さん明日もここに泊まります」私はそら来た。秦の独走が始まった。仲里を見ると困った顔でポツリと小声で言った。
「タイに来てランの生産者を会わないなんてどうかしてるぜ」
私は秦に対する不快感を表に出さぬように穏やかに諭すように言った。
「秦、私も仲里もタイには友人がいます。タイに来た場合、彼らの農場を訪問しなければいけません。貴方も知っているミスター・カリーから必ず農場を訪ねてくと言われている。彼に合わずに帰ることは出来ません。来年の沖縄国際洋蘭博覧会で再会した時にクレームがきます。それに今度タイに行くから会おうと伝えてあるのだ。」
「私も彼にそう伝えてあるよ」仲里が相槌をいれた。
「それに、時間に余裕があれば、古い友人のミスター・塩谷にも会いたいしナ」と付け加えた。
「カリーはタイ国蘭協会の副会長、とても忙しいです。会長のサガリック先生が年寄りでカリーが仕切っているから、会えるかどうか分かりません」と秦は言った。
私や仲里も方便だが秦の意見も全くの方便である。
「オーケー秦、僕らは明日の午後カリーに会いに行くから、貴方は此処に泊まってのんびりしてくれ。カリーが忙しいならミスター・塩谷に頼んで幾つかのラン園をチェックしましょう。明後日にバンコクで合流しよう」私は半分本気で秦を脅した。仲里も私の意見に納得したような表情を秦に向け「イエス、アイ・シンク・ソウ」(そうしましょう)と言った。秦はゲッとした表情に変わった。ドクターの前で仲間割れすると秦のメンツが潰れるのを承知で吹っ掛けたのである。仲里はタイでの取引が多いし、私も最悪の場合、何度も取引しているSオーキドの塩谷勝にコンタクトすれば何とかなるだろうとの考えがあった。塩谷は秦の関係はよろしくないが陳先生との関係は良好である。塩谷は秦のことを金持ちのチンピラと見下しており、秦は塩谷のことを、日本を追われたヤクザモドキと敬遠している。私が塩谷と取引があることを秦は知っているのだ。僕らが別行動を出来ることを秦は解っているのだ。ドクターは僕らのやり取りを聞いて携帯電話で何やら話した。
「オーケー、カリーとコンタクトしました。明日の午後は農場いるので訪ねてくれと言っている」
「ありがとうございます。明日の午前中はフリーですから何でもお尋ねください」と礼を言った。
明日のスケジュールが決まった。懇親の場に穏やかな空気が流れた。仲里と陳はユイの通訳で温室管理の現地スタッフに栽培レクチャーをする。私とシム、秦はドクターともに農場を巡回しながら開発とそれに伴う熱帯植物栽培のアドバイスをする。昼食後に別荘を出てバンコクに向かう事になった。私は明日のスケジュールが希望に近い方向で決まったことで安堵したが、僕らを招待してくれたドクターの前で仲間の不協和音を晒したことが少し恥ずかしくなった。
午後7時過ぎに席を外して妻の携帯に電話した。既にご先祖様の見送り(ウークイ)を済ませたようで集まった親戚と雑談しているとのことだ。母に電話を代わると何やら拍子抜けしたことを話した。母にはタイが何処にあるのかも分らず、ただ仕事で旅先に出ており、今日の行事に参加できなかった事実だけを理解しているのである。今年83歳の母は7前から肺気腫を患っており、酸素過給機と繋いだ細いビニールパイプを引きずりながらの生活だ。8部屋、50坪のコンクリート平屋の中を唯一の生活空間としているのだ。現在は父と妹家族の5人暮らしであるが日中の殆どを一人で過ごしている。携帯用小型ボンベで通院する以外はほとんど外出しない生活である。父の兄弟家族、子供、孫を合わせて20名以上が集まる年に一度の親族の集まり、旧盆の最終日に顔を出さなかった懺悔の念が残った。携帯電話の通話スイッチを切るとタイと沖縄の実家の間に2時間の時差があることを不思議な現実として感じた。
僕らは雑談の合間に交互にシャワールームを使った。私がシャワールームに立つとシムが言った。
「ビー・キャフル、コブラスネーク」
「リアリー」と聞き返すと、シムと秦がゲラゲラと笑った。
「サノバ、ヴィッチ」といって笑ってシャワールームに向かった。
シャワールームは広場のフロアより3段ほど下がった壁が板張りのコンクリート土間である。本当にコブラが出そうな湿気の多い場所である。ガラス窓から満月が見えた。この満月が沖縄の実家の天空にも等しく冴えた月光を放っているとは思えなかった。持参したシャンプーと石鹸でサッと汗を流した。お湯は出ないが貯水タンクの水が日中の気温で温まっており気にならなかった。2年前ボルネオ島コタキナバル山の中腹2,000m地点にある山小屋で、震えあがるほどの冷水シャワーに比べると爽快であった。シャワーを浴びて再び雑談の中に戻り、散会したのが午前0時30分であった。少し片頭痛が出始めており酒の量を減らした。それでも土産として持ち込んだブランデー2本目が既に空になっていた。豪傑の陳が同行してラッキーであった。

8月20日(土曜日)
腹の調子は相変わらず今一つである。下痢ではないが何となく重たいのである。正露丸糖衣を飲んでも効果が少ない。自宅の薬箱に残っていた小瓶を持ってきたのだが糖衣錠は女、子供用である。黒く独特の香りがする丸玉がよく効くのだ。それでも私の内臓は今日中にはタイ料理に慣れてくれるだろうと思っていた。旅先で時折生じる僅かな体調の変化である。洗面を済ませて食卓に着くと、有難いことにお粥である。地鶏の茹で卵のスライス、薄味の卵焼き、醤油と香辛料で煮込まれた豚バラ肉の細切れ。それらの具材をお粥に好きな量を混ぜて食べるのだ。日本の梅干し付きのお粥ではないが、毎日続いた濃厚なランチ、ディナーに比べると胃袋に優しい朝食である。これにて正露丸はカバンの奥に押し込むことが出来そうである。
陳は持参したウーロン茶を入れた。ドクターのラウンジ・カウンターには湯沸かし器具、茶器のセットが揃っていた。日頃のおどけた表情を何処かに仕舞って真面目な顔でお茶を入れている。沸かした湯を茶器に注いで温め、腕時計を見ながら正確に茶のエキスを湯の中に絞り出した。美しい梅の浮き絵柄で制作された茶器だ。陳がトレーに並んだ小さな茶碗にウーロン茶を注いだ。急須とセットの梅の絵柄の白い茶碗の中に鮮明なウーロン茶特有の色が現れた。口元に運ぶと何とも言えぬ香りがした。少しだけ口に含むと渋みの中に僅かな甘みを含んだ上質のウーロン茶である。陳が小さな茶袋に取り分けて持参した、この日の朝の為の特級のウーロン茶に違いない。ウーロン茶の作法は、茶を熱いお湯で洗い、その洗い湯を茶碗に注いで温める。洗い湯をこぼした空の茶碗を鼻に近づけて茶の香りを確認する。沸騰中の湯ではなく、少し冷ました湯で茶葉を開いていくのだ。友人によると90~95度の温度で1分間が基本だ。陳が真面目な顔をして腕時計を見ていたのはそのためである。ドクターに台湾産の本物のウーロン茶はこれだと示したかたのだろう。私は彼の自宅やラン温室の休憩所で何度もティータイムを取ったが、その時の一品とは別物である。私も旅の土産に買ったり、プレゼントでもらった茶器セットがあるも、安物の急須と小ぶりのコーヒーカップでウーロン茶を入れて毎朝飲んでいる。私にとって作法に準じた茶の入れ方は些か面倒である。陳の入れたウーロン茶は私の胃袋を復活させてくれた。デザートには冷えたドリアンが出て来た。熱帯果実は食べる直前に少しだけ冷やすのが大切だ。温帯果実の巨峰、桃、リンゴ、ナシとは異なる。久しぶりに食べるドリアンは本当に美味い。目の前に出されると手を出さずにいられない果物のキングである。私にはこの果物には耐え難い果実臭があるという日本人の感覚が理解できない。
朝食が終わると昨夜の予定通りに陳と仲里とユイがランの栽培レクチャーに出かけた。私と秦、シムはドクターと共に植栽地を巡回した。広い丘陵地には様々な導入植物が植栽されていた。この敷地の開発に利用するための養生植物である。棚田には熱帯スイレンが品種ごとに植えられていた。私は熱帯スイレンは水深が深い場所での生育が悪いことや、容易に種子が出来て小苗となって水面を浮いて流れて浅い場所に定着する性質。この辺の土壌であれば施肥の必要は無いことなどを話した。熱帯スイレンには昼咲きと夜咲きの品種があり、夜咲きは夕方から翌日の午前10頃まで咲く。その特性を配慮して昼咲きと夜咲きの植栽場所を決めることが肝要だと説明した。シムはラスハウスに収集された野生植物の生育特性を説明しながらボルネオの野生樹林地に生えている植物を説明した。ラン温室では仲里と陳が農園管理スタッフに植替えの実演指導を熱心に行っていた。
ラン温室を出て水田跡地が湿地となった湿原の中の道路を歩いた。一軒の小さな民家が残っていて人の住んでいる気配があった。あれは何ですかと秦が問うと、老婆が住んでいるが来月にはこちらで準備した新しい住まいに移ると話した。そうすれば家を撤去してこの辺りは広い池に変わるだろうと言った。あまりに広く静かな閑静な景色になるねとシムが話すとドクターが頷いた。私は南米産のアロワナを放すと良いでしょう。僕らも公園の池で飼っており、繁殖力が強く、水面近くを飛ぶ昆虫を狙って50cmも跳ねる大型魚です。熱帯スイレンやオオオニハスの生える静かな池に無作意の動きを発生させます。静寂の中にある種のインパクトをもたらすでしょうと話した。ドクターが2度、3度と頷いた。新しいホテルなどの施設予定地、ゴルフコース、保養林、その他の植物園を設計中だと話した。ラン温室の裏手にも広大な丘陵地がひろがっているらしい。
2時間ほどの散歩で腹の具合が回復していた。運動不足で腸にガスが溜まっていたようだ。別荘の近くにはクチナシ、チューベローズ、イランイラン、ギョクラン、ジャスミン等、香りのある花を咲かせる植物が500坪程植栽されていた。クチナシとジャスミンは刈り込まれており、明らかに花を採取している様子である。ドクターは中華系の人々が好む香りのする芳香植物が好きなようである。ホールに戻ったのは午前11時前であった。仲里と陳は熱心にレクチャーしているようで未だ戻って来ていない。ドクターは何やら調整する事があるらしく2階に上って行った。秦とシムは応接広場で雑談を始めた。私はベランダ近くに置かれた緩やかに傾いた背もたれのある籐椅子に体を投げ出して目を閉じた。湖面を流れ来る風が心地よくスッと軽い眠気に襲われた。旅に出てガツガツと見聞した若い頃のスタイルが消え失せて、睡眠が取れるときに短い仮眠を遠慮なく取るのが常道手段となってしまった。とりわけ秦との旅ではそうしている。此処は異国のタイなのだ。入国と出国の時間だけが決まっていて、組織の制限が一切届かぬ空間である。秦のペースに巻き込まれるのも善しとすべきかと思って朦朧としながら吹き抜ける風を心地よく感じていた。ホールに人の気配を感じて起き上がると陳が戻って来て、ラン管理グループの幹部らしき4名の職員にレクチャーを続けていた。テーブルに置かれた鉢植えのラン類を前にして片手にブランデー持ってしきりに説明をしていた。広東語が分かるスタッフのようである。
広間の奥からドクターの手を叩く合図でレクチャーが終了した。ランチタイムである。昼食は別荘の料理人が腕を振るったようだ。名前の知らない淡水魚を蒸して、炒めた野菜を乗せた餡かけ料理。淡水魚特有の細かい骨があるも淡白な味で胃に優しい。トート・マン・プラー。茹でたエビ。豚肉とエンサイの炒め物。辛みを押さえたトム・ヤム・クン。デザートはソムオー(ザボン)の果肉。この時期のソムオーはとても美味い。旬の果物である。手毬くらいの熱帯系のミカンである。厚みのある果皮をむくと果実の入った大きな袋が出て来る。温州ミカンと同じだ。少し硬い袋をむいて中の果肉を食べるのである。剝いて直ぐにたべるのが肝要だ。乾くと粒状の塊がパサついてしまい食感を損なうのだ。午後1時30分、ドクターとマネージャーに何度も礼を言って別荘を後にした。秦は別荘に泊まり損ねたことに何の未練もないようだ。ケロリとして車に乗り込んで行き先を運転手に指示した。彼の頭にはバンコクの繁華街で遊ぶための青写真が既に焼き直して整理してあるのであろう。昨日の風景を今日風景に被せて引きずることが無い楽観者の典型である。恵まれた星の下に生まれ、その時々の都合の良い時の流れに身を任せて漂う風来坊の典型である。

 

13水路水郷地帯の水路(左)
予定通りにナコーン・パトム県のカリーの農場に向かった。距離にして150kmであるが、交通渋滞の激しいバンコク市内を横切るので3時間半のドライブである。ナコーン・パトムは水の豊かな地域で郊外は水路が無数に交差した農村である。バンコクから高速道路を使えば1時間の距離だ。湿度が高くバンダ類やデンファレの栽培に適している。ほとんどのラン生産者は水田跡地にベンチや吊り棚を組んだ栽培方法だ。カリーさんの本名はカリアエット・ベジャバットであるが誰もがカリーと呼んでいる。カリーはノボーン氏、ブラナ氏と共同でレイクランド・グループを組んで海外取引を行っている。この地は別名レイクランドとも呼ばれているらしい。ノボーン氏はノボーン・ホワイト、ブラナ氏はブラナ・シャンシャインという日本で人気のデンファレの切り花品種を育成した人物である。
カリーは農場でオランダのバイヤーと話していた。バイヤーは150kgあろうか思われる鏡餅のように太い男で、運転手付のワゴン車で来ていた。助手席には納まらず後部座席を占有していた。カリーはバンダの中間苗を段ボールに詰めさせていた。中々忙しそうであった。秦が呼びかけると振り向いた。私と仲里を見つけると職員にバイヤーとの作業を引き継いでやって来た。2月の沖縄国際洋蘭博覧会で接待して以来である。笑顔で握手を求めて来た。腰にコルセットを締めている。浅黒い顔が妙に泥色に黒くなっていた。私はコルセットを指差していった。「随分儲かっているみたいだな。腰を痛める程に」と言うと「ノー、ノー」顔の前で手を振って笑った。持参した土産を渡すと笑顔で「サンキュー」と再び握手を求めた。カリーの農場は幅60m程で中央の作業棟を境に左側に鉢物のベンチと水際にバンダの吊り棚が70m程の面積であった。コンポストはヤシ殻で様々な品種が小苗の状態から開花株まで整然と並んでいた。通路には建築ブロックを敷いており、その上を歩いて農場を探索した。オランダのバイヤーはいつの間にか引き上げていた。彼の注文品の段ボールに輸出用の書類が張り付けられてあった。明日は国内の趣味家100名ばかりが観光バス2台で訪れる予定が入っているらしい。蘭協会の副会長になると国内各地の展示会に出かけて、審査や表彰式でのスピーチをするし、即売テナントも出店するので顔が売れるのである。この国の蘭協会のキングであるサガリック先生は貴族の出身で大学の元教授である。高齢でもあり一般庶民の蘭愛好家との対応はカリーやその他の若手の理事の役割である。台湾や日本国内のラン展示会でもそのような仕組みだ。ドクター・フーも愛好家の一人であろう。尤もドクターは電話で用件を依頼できる程の特別な存在に違いない。

14カリーバンダマヌーのバンダハウス

私は那覇空港ビルの室内展示に利用する明るいピンク系のデンファレ1,000株ばかり調達を頼んだ。カリーは努力するが1,000株は難しいと首を振った。急がないので出荷の目安が付いたらFaxを送れと言うと、納得したようにオーケーと頷いた。彼のグループは海外向けのランを大量に扱う経営スタイルでは無く、趣味家向けの優良な品種を国内外に販売する経営である。

カリーは僕らを夕食に誘った。明日は忙しくてこの地域を案内する事が出来ない。近くの仲間を誘うから一緒に行きましょうと話し、一度事務所に入って戻って来た。運転手とユイにナコーン・パトムの町のレストランの場所を教え、自分の車で先に出て行った。農場は既にうだるような昼間の熱気が失われ、水郷地帯の湿った空気をはらんだ冷気が流れ始めていた。指示されたレストランに着くと仲間が既に席に付いてビール手にテレビを観ていた。テーブルの上には茹でた小エビの皿があった。僕らが隣の席に付くと直ぐに同じような小エビを盛った大皿が追加された。この国は東洋一のエビ養殖の産地である。日本の居酒屋で枝豆が最初に出されるのと同じレベルである。ほどなくカリーがやって来て乾杯が始まった。料理は鶏肉のショウガ炒め、焼いたミドリガイ、白身魚のタイ風ムニエル、豚肉の野菜炒め、それにトム・ヤム・クンである。レストランと言うよりも大衆食堂と言う呼び名が正しいこの手の店にはブランデーもウイスキーもない。もっぱらビールのオンザロックである。陳が店の棚から2合入り程度の茶色の酒瓶を取って来た。何だと聞くとユイがビンのラベルを見てタイ米で作った地酒だと言った。グラスに氷を2個入れて40度の透明な液体を注いで舐めてみた。まろやかな風味に乏しいが紛れもなく泡盛である。沖縄の泡盛もこの地から輸入したタイ米で作られているのだ。琉球王府の400年の薫陶をうけて酒としての醸造技術が格段に高度化している。現在ではフランスの国際酒類コンクールの蒸留酒部門で何度も入賞する品質となっている。泡盛の醸造原料米の生産国であるこの国に優れた酒が生産されないのは不思議である。この国の人々は琉球人に比べるとそれ程酒好きでは無いようだ。中国2,000年の王朝文化が融合して独自の文化へと変化してきた中国各地、台湾、沖縄の人民がアジアの中で特殊なくらい酒好きなだけかもしれない。紹興酒、高粱酒、泡盛は長い歴史の中で品質が高度に発達した酒である所以だ。要するに良い酒は酒好きの人民が作り出す文化の一面である。欧米のワイン、ブランデー、ウイススキーも同様な歴史的背景があるのだろう。
食堂の客はテレビのサッカーの放映に夢中である。タイにはセパタクローという竹製の毬を足で蹴りあって競うバレーボールに似たスポーツがある。タイのサッカーは国際競技として強くはないが、足を使った競技は人気があるようだ。確かにサッカー好きな国民らしく、放課後の学校の校庭でサッカーに興じる少年の姿を見かけることが多かった。
カリーに礼を言って食堂を出るとナコーン・パトムのシンボル的な寺院プラ・パトム・チュディがライトアップされて金色に輝いて闇夜に浮かんでいた。120mの高さと言われている仏教寺院だが、それ程の高さには見えない。この辺りには高層建築や町の灯りが少なく、奥行きのある深い闇の中に威風堂々と存在感を示していた。

バンコク市内に戻ってホテルにチェックインした。チャオプラヤ川沿いのホテルである。別名メナム「母なる河」と呼ばれるタイ国最大級の河川である。ホテル名は「ザ・ロイヤル・リバーサイド・ホテル」、ロイヤルの名が付くだけあって少し上級のホテルと期待した。ホテルの川に面したテラスから遊覧船が出ているようだがこの時間は係留中である。ホテルのフロントでパスポートのコピーを取ることはなかった。嬉しいことに2泊で一人部屋である。仲里のイビキから解放されるのだ。おそらく彼も私のイビキから解放されると思っているだろう。腕時計を見ると午後9時である。シャワーを浴びてルームサービスを頼んで、少しばかりの寝酒のウイスキーをあおれば旅の中休みに丁度良い。私は気分が軽くなってフロント嬢から部屋の鍵を受け取った。エレベータで5階まで上がり、仲里の隣の部屋に入った。荷物を置いて窓からチャオプラヤ川の向こう岸に広がる夜景を眺めて深呼吸をした。ホッとしたとたんテーブルの上の電話がなった。
「ハロー」
「センパイ、カラオケ行きます。カリーが待っています。仲里さんとフロントに直ぐ集合です」秦が使い慣れた日本語のフレーズを言って電話を切った。仲里の部屋に電話した。
「どうする」
「せっかくのカリーさんの誘いだから行きましょう」カリーを待たせては行かねばなるまいと覚悟を決めてロビーに降りた。
カリーの車に4名を詰め込み20分ほどでカラオケバーに着いた。1階は生バンドのセクシーシヨーで2階がカラオケバーであった。中華系の客がほとんどで地元の客も少しばかり混ざっていた。欧米人は皆無である。2階の右側の部屋にビリヤードのテーブルが2台置かれ、店のスタッフらしき青年と一目でホステスと分かる派手な衣装の女達がスティックを手に退屈そうに球を突いていた。スタッフの控室のような部屋であった。トイレを挟んで左側の部屋がカラオケバーである。10名程度が座れる席が2セットのありきたりの部屋だ。客は我々だけであった。1階の喧騒が嘘のような場末の店の感じであった。
真っ赤なソファーに座るとすぐにホステスがやって来た。上手く化粧したスタイルの良いあか抜けた美女たちである。パタヤの田舎娘と随分な違いである。この部屋を仕切っているママは黒のパンタロンに真っ赤なブラウスの少し太めの浅黒い肌の中華系の40前の年増の女だ。秦のことを知っているらしくけんか腰に広東語で詰りあっていた。私の横には背の高いホステスが座った。「センパイ、パタヤの女より美人ですね」「確かにバンコクの女は美人だね」と言うと秦がいつもの卑猥な笑みを口元に浮かべて小さく笑った。巨体の陳の横には可愛いちびのホステスが付いた。そのチビのホステスが陳の太い腕に抱き着くと、秦は二人の大きさを比べて大笑いした。確かにそのアンバランスが可笑しく皆で大笑いした。カリーが初めに歌い、シム、陳と歌った。仲里はカラオケが苦手らしく私にマイクを渡した。私は日本の曲目から石原裕次郎の「北の旅人」を探して歌った。「・・・夜の小樽は雪が肩に舞う」と演歌のサビを聞かせて歌った。くそ熱いバンコクまでやって来て雪が舞うも無いだろうと思った。この店のカラオケは歌手の声が小さくなっているだけで何やら海賊版の感がした。歌うテンポがずれると本物の歌手の声が流れて来るので少々バツが悪い。秦は私の正面に座り歌うでもなくママと何かをやりあうように広東語で話していた。「何だよ秦」と呼びかけると、秦が英語と日本語をミックスして答えた。「このママは前に来た時、酒を飲ませてダウンさせた」と愉快そうに答えた。テーブルの上のジョニーウォーカー・ブラックラベルが半分ほど残っている。秦は左手でボトルを持ち上げて言った。「一気飲みできる奴にこれをやる」アロハシャツのポケットから500バーツを摘まみだしてホステスの面前にチラつかせた。ホステスはボトルに残った酒と見比べてフンとした目線を秦に送った。秦はボトルをテーブルの上に置いてポケットから300バーツを加えた。ホステス視線が興味深げに秦の右手に集まったが誰も反応しない。私に付いているホステスがボトルを取って私のグラスに注いだ。秦はポケットから札束を取り出し1,000バーツ紙幣に取り換えようとしていた。その間に仲里のホステスがシムのグラスと合わせて2個寄こしたのでそれにも注いだ。ボトルの酒が3分の1ほどに減った。秦はボトルの酒の量を見ていなかった。手にした1,000バーツ紙幣をホステスの前に突き出し、口元に卑猥な笑みを浮かべてテーブルの端から皆にぐるりと見せびらかした。ホステスの目が丸くなって秦の手元に集中した。
陳の腕に抱き着いていた小柄なホステスがボトルをひったくり立ち上がった。秦が喜んで手をたたき「ゴー」と言った。
ホステスは上を向いてボトルからウイスキーを一気に喉に流し込んだ。15秒ほどの間を置いて息を整えて再びウイスキーを口の中に注いだ。この国のウイススキーボトルは口に絞りが付いており、ビールのラッパ飲みのようには飲み干せないのである。今度は少し長めに琥珀色の酒を喉に注ぎ込んでからボトルをテーブルの上に戻した。ホステスは荒い息使いで秦に向かって愛嬌のある顔で右手を差し出して金を要求した。皆の視線がボトルに集中した。哀しいかな酒は5分の1程残っている。秦が見逃すわけがない。「ノー、ワンモアトライ」と言って左手で酒瓶を突き返し、ちびのホステスに冷たい視線を送った。秦は女の愛嬌に妥協しないサディスティックな性格である。女は肩で息をしながら怒りに満ちた目で秦を睨みつけた。呼吸を整えると顔を天井に向け、残った150cc余りの酒を口に注いだ。一度息継ぎをして秦を睨んだ。目が潤んでいる。秦は「ゴー」と口元に冷たい笑いを浮かべて女をけしかけた。女は天井に向かってボトルを咥え、残りの酒を全て飲みつくした。そして一度、二度と小さく咳き込み、ボトルを逆さにして空だということを示してテーブルにゴロリと転がした。僕らもホステスも一斉に拍手を送った。秦も目的達成を喜ぶように誰よりも強く拍手した。ソファーに腰を下ろした女の双眸は既に正体を失っていた。女はやおらソファーの下から屑籠を取り出すと吐き始めた。カラオケのバックミュージックが女のうめきを小さくしていた。秦は女を指差したサディスティックに笑いだした。誰も同調して嗤う者はいなかった。ママは秦の手から1,000バーツをふんだくると女のブラジャーに奥に挟み込んだ。既に意識の飛んだ女をボーイがやって来て隣のホステスと二人で抱えて連れ出した。直ぐにジョニーウォーカーの半分入りのボトルをボーイが持ってきた。部屋の中に白けた空気が残った。カリーが困った顔をして私にカラオケのメニュー本を差し出した。カラオケ画面ではタイの人気歌手らしき男女がハイテンポで歌う映像が流れていた。私は「氷雨」を選んで歌った。「酔わせ下さいもう少し、今夜は帰らない、帰りたくない、誰が待つというのあの部屋に、そうよ誰もいないわ、今は・・・・・・」日本で流行った哀愁を帯びた歌のフレーズも仲里以外はだれも知らないだろう。陳の隣に新しいホステスが座った。真赤なミニスカートに肩から背中にかけて花柄のレースが施された黒い薄手のブラウスを着けていた。今度はちびの可愛い子ではなく、中肉中背の落ち着いた美人のホステスだ。陳のそばに座っても違和感が無いバランスだ。秦がびっくりした顔で口元を押さえて女の肩を指差した。室内の薄暗い照明で分からなかったが、花柄に見えたレース模様のブラウスは、肩から背にかけて彫られた刺青が空けて見えたのだった。女は秦の動きを知っているはずだが、何らの反応も見せずに陳に酒を勧めた。この店の年増のママは秦の悪ふざけをけん制するために訳アリの臭いがするホステスを寄こしたのかもしれない。新しいホステスが入ったことで空気が変わり皆はカラオケに興じだ。私に付いたホステスは英語が話せずコミュニケーションが取れないので、しきりにテーブルの上のツマミを私の口に運んだ。ピーナッツ、カシューナッツ、グァバ、パイン、スイカである。果物には砂糖、塩、唐辛子の混ざった薬味を振りかけて食べるのであるが何とも微妙な味である。カラオケを一通り歌って坐が白けて来たところでお開きとなった。午前1時過ぎである。閉店時間でもあるらしい。階段を降りると1階のステージからは音楽が聞こえてきた。駐車場にはコールガールがたむろしてショーが引けるのを待っていた。僕らの姿を見るも彼女らのターゲットでは無く、一瞥するも声すらかけてこなかった。ホテルに戻って枕を抱いたのが午前2時頃であっただろうか。頭の中で「誰が待つというのあの部屋に・・・・・」氷雨のフレーズが壊れたCDプレーヤーのように何度も繰り返して流れる中で眠りに落ちた。

8月21日(日曜日)
窓から差し込む光で目が覚めた。午前6時である。自宅でも旅先でも同じ時間に目が覚める。朝寝をしなくなったのは若さを失いつつある傾向であろうか。それとタイの時差に順応したのであろうか。さすがに頭の回転は未だ正常に戻らず、爽やかなバンコクの朝に馴染めないようだ。昨日の行動を追想しているうちにやっと頭の回転が戻り始めた。窓を開けてテラスに出るとメナムが眼下にゆったりと流れていた。対岸のビル群に朝日が当たり、右手の川上に掛かる橋の上を走る車両の往来が活発になっていた。河はいつも通りに透明度を欠き、浮草や発泡スチロールの欠片やらを浮かべてゆっくりと左の川下へと流れていた。眼下の船着き場ではこのホテルを発着する遊覧船の船員が、デッキの掃除やガラス窓を拭いて出航の準備を始めていた。僕らの昨夜の悪夢にも似た喧騒のかけらは、既に何処にも残っていなかった。目覚めのコーヒーを入れる為の湯沸かし器が沸騰の合図を告げたので部屋に戻った。ベットから不快な酒交じりの体臭が漂ってきた。この空間には昨夜の悪夢の残影が色濃く残っており、シーツ剥ぎ取り枕と一緒に丸めてベットの隅に片付けた。そして枕の横に1ドル札2枚を置いた。メイドに今日も泊まるのでベットメイキングをよろしくとのサインだ。そして悪夢を洗い流すべくシャワールームに向かった。

15メナムチャオプラヤ川の朝
シャワーを浴び、ついでの肌着を洗濯してロッカーに吊るした。ズボン1本とかりゆしウェアとポロシャツ3枚をランドリー用のビニール袋に入れて備え付けのシートにルームナンバーとチェックマークを記入してサインした。明日はバンコクを経つので夕方までに仕上がる50%増しのエクスプレスとした。
7時30分、仲里からの電話で地下1階のレストランに降りた。秦の姿は見えなかった。昨日ははしゃぎすぎたのかも知れない。お粥ときざみ菜、スライスした茹卵をトレーに乗せてテーブルに運んだ。飲み物はトマトジュースとお湯で薄めたコーヒーである。ほどなく秦、陳、シムがやって来た。
「ハブ・ア・グッドスリーピング」(よく眠れた)とシムに問うと
「イエス、ノープロブレム。ノーバディ・メイド・ビッグスノー」(ああ、イビキを掻く奴が居なくてな)と首をすくめた。全く元気な奴らである。
秦が今日のスケジュールを説明して「オーケー、ゴーアウト、ナインオクロック」(9時に出ようぜ)の合図で部屋に戻った。
部屋に戻り、荷物を整理してバックをクローゼットの中に置いた。クリーニングの袋をドアの外に出し、フロントに電話して洗濯物の回収を依頼した。室内にあった飲みかけのコーヒーを洗面所にこぼし、歯磨きをしてスタンバイである。

フロントのキーボックスにカギを放り込み外に出るとユイが待っていた。メンバーが集合してホテルを出たのが午前9時である。ホテルを出て最初にダムロンの農場に向かった。ダムロンは昨夜の夕食会で会った大柄な男である。ダムロン・ホンセンヤザムがフルネームだ。カリーと同じような水郷地帯にある農場だが幾分かバンコクに近い場所である。1時間足らずで農場に到着した。栽培されたラン類ではスパソグロティスが最も多く、バンダ、デンファレ、アンスリューム、ホヤが栽培されていた。ホヤは15種類程のコレクションがあるという。ハート形のホヤの葉を発根させ葉面に油性のペイントを用いて花柄の模様を描きLOVEと書いたアイデア商品もあった。沖縄にはホヤ・カルノサという野生種があり、ホヤの栽培は容易である。このアイデアを試してみたくなり、鉢植え50株をカリーのデンファレと混載して送ってくれるように依頼した。ダムロンの農場は増築中であった。ダムロンは英語が全く話せないが息子は英語が話せるので今後の取引が可能だろうと思った。タイ、マレーシアで感心するのは、若者の多くが英語でのコミュニケーションが出来ることである。むろん英米の人間のような流暢な英会話の能力は無いが、英語でのコミュニケーション能力に関しては日本の若者が遠く及ばない。言語の基本はコミュニケーション・ツールである。日本の外国語教育システムが何を目標にしているのか良く分からなくなってしまうのである。ダムロンは農場を一回りした後で僕らをお茶に招待した。近くのローカルホテルのレストランである。メニューの表にはリバー・サイド・ホテルと書かれていた。ロイヤルの名称が付かないだけ僕らの宿泊しているホテルよりもグレードが低い建築物である。ダムロンは食事を勧めたが昼食には間があり、茹でエビでビールを飲んで雑談した。席を立つと空のビール瓶が8本ばかり並んでいた。ダムロンに礼を言って次の蘭園に向かった。

16ハートホヤハートホヤ

レストランを出て15分ほどでエン・オーキッドに着いた。農園の入り口が濠になっており、コンクリート製の危うい橋を渡って敷地に入った。濠には赤と白の斑入りの熱帯魚が飼育されていた。以前はデンファレの有名な品種であるシャネルを作出した育種家であったらしい。小柄なオーナーと大柄な奥さんが出迎えてくれた。仲里は掘り出して筵に広げてあった球根性の野生ランに興味を示し、しばらく説明を受けてから商談を始めた。奥さんがすかさず計算機で円建ての計算をして3万円だと値段を示した。仲里は現金を払い梱包を頼んだ。台湾まで運び、後日台湾のサイテスを作成して日本に輸入するつもりだ。秦に頼むつもりである。台湾はランの生産農家の育成に力を入れており、ラン類の輸出入には極めて寛容だ。但し、果実生産農家の保護にも積極的で、日本からのリンゴ、ナシ、ブドウ、モモの輸入には高い関税をかけている。エンの農場ではGramatophyllum speciosum(タイガーオキッド)の栽培が主力となっていた。実生株で3バルブ立ちの8号プラスチック鉢サイズまで成長していた。既に70cm程のバルブに育ち開花株もある。1m近い高さのベンチで栽培されているのは、雨季には水かさが増すからだそうだ。仲里の話では、エンのラン園は経営が少々下降気味らしいく、以前訪れた時ほどの勢いは無いらしい。タイガーオキッドで起死回生を狙っているらしく熱心に説明した。しかし、このランにはマレーシア・ボルネオ島の赤道直下の高温多湿地帯が原産地であり、4mにも成長する大型のランである。日本国内では趣味家の需要は少ないだろう。辛うじて国内の国公立熱帯植物園で栽培されるも、開花が話題に上るのは稀である。国営沖縄記念公園の熱帯温室を管理する自社職員も苦労しているのだ。
8月は雨期というに僕らは未だスコールに巡り合っていない。水郷地帯であるも日中の空気はとても乾いている。僕らの行動を避けるようにスコールが何処かを走り抜けているようだ。あのスコールの後の潤いが欲しくなった。昼間の直射日光で睡眠不足の頭がハンバーグになりそうであった。時計に目をやると午後1時である。確かに太陽が一番に吠える時間だ。2時間前に飲んだビールは既に体から蒸発して1滴も残っていないみたいだ。仲里の商談が終了したのでエンの招待で食事に出かけた。
食事の場所はチャオプラヤ川に浮かんだフローティング・レストランである。幅10mに長さ30m程度の屋根付き浮き桟橋のような造りだ。陸地と繋がった橋を渡ってテーブルに着くのだ。橋の入り口で料理を注文するとウエイトレスが席へと案内した。今日は穏やかであるが日によっては水かさが増えて多少揺れるらしい。川面に目をやると50cm~70㎝近い大ナマズが群れている。しばらくするとエンがビニール袋に入ったパンの耳と枕パン1個を持ってきた。パンの耳をひとつかみ川面に投げ込むと、無数のナマズが水しぶきを上げて食いついて来た。凄まじい食欲で見る者が息をのむ行動である。15cmもあるデカイ口で水ごとパンを飲み込むのだ。枕パンは新鮮な感じがしたので食えるのかと尋ねるとユイが「イエス」答えた。パンの耳が少ないのでサンドイッチに使う前のパンを持って来たらしい。我々ゲストに気を使ったのである。僕らはパン千切っては川面に投げてナマズの踊り食いを眺めて騒いだ。
料理は定番の茹でた小エビからである。リバーサイド・ホテルのエビより少し大ぶりで新鮮だ。緑色のソースを付けて食べると味が引き立つ。私もこの国の定番料理に口が慣れてきたようだ。白身魚の煮付け。そして茹でた蟹だ。蟹はカレー煮ではなく単純な塩茹でだ。珍しく泥臭さがない。泥抜きの飼育を施しているのかもしれない。メインは揚げた豚の足だ。7㎝程度に骨ごとブツ切りにしてある。一度塩茹でして脂分を抜き取り、さらに油で唐揚げして皮がパリパリに仕上がっている。ナイフとフォークで身と骨を切り分けて食べるのだ。脂身が少なく軟骨と肉片に塩味と香辛料が染みついて美味い。沖縄の足テビチとは変わった風味の調理法である。大食漢の陳は豚の骨に付いていた肉をしつこくしゃぶっていたが、身が無くなるとそれをポイと川に捨てた。ナマズがそれに飛びついて呑み込んだ。腹が角張って膨らんだ。シムが「陳、ノー、グッドマナー」といって笑った。

17ナマズ残飯に群がる大ナマズ
ウエイトレスがプラスチック製のボールを持って来て、テーブルの上に散らかったエビ殻やカニ殻、豚の骨をその中に片付けた。それを浮きレストランの端に持っていくと無造作にボサッと川の中に放り出した。水面に慌ただしく水しぶきが立ち上がってナマズが群がった。皆が一瞬あっけにとられた後、手を叩いて大笑いした。ナマズも昼食時間のようである。デザートはザボンの剥き身である。豚肉の脂で淀んだ口の中がサッと爽やかになった。
昼食を終えると再びエン氏の農場に戻った。東屋の天井に吊るした大型扇風機の風に当りながら冷えたワンカップのミネラルウォーターを飲み、犬が見つけた蛇を捕えて騒いだりしているうちに午後3時になった。本日のラン園訪問は終了である。

午後4時過ぎにホテルに戻った。部屋は既にベッドメーキングが終了しており、綺麗にパッキングされた洗濯物がテーブルの上に置かれていた。携帯電話のアラームをセットして5時まで仮眠を取った。仮眠をとることに慣れてきていた。シャワーを浴びて約束の5時半にロビーに降りた。秦が今夜はドクターの紹介でドイツ料理を食べに行くと言った。私も仲里も少しだけ期待した。タイ料理にも少々飽きてきたところであった。車はルンピニ公園の駐車場に入った。そこは公園内の一角にあるドイツ村でタイとドイツの国旗が涼しくなった夕暮れの風にはためいていた。園内は灯油のかがり火が炊かれ、屋外テーブルは多くの客にあふれていた。程なくシェルカンパニーの若い男がやって来た。秦はドクターの身内だと話していたが中華系ではなく背が高く細身のインド系の顔立ちであった。運転手が上司に対する接し方をしたのでシェルカンパニーの幹部職員の一人に違いないと思った。そのマネージャーらしき男に案内されて白いコテージの中に入った。四つのテーブルがあり、一つは先客があった。僕らは窓越しに中庭が見える二つの席を使った。クーラーが効いており少しくたびれ気味の私にとって快適な空間である。
先ず、ビールを注文した。トレーにボーイがビールとグラスを乗せてやって来た。
細身のグラスに次々とビールを注いでくれた。シンハービールよりも酸味とコクが強いビールだ。ドイツ製のビールかも知れない。今度は氷付のビールでは無くしっかりと冷えていた。マネージャー氏は車を持っているらしくサイダーである。遅い昼食のおかげで腹は空いていない。秦が話したとおりのドイツ製か知らぬが太めのウインナーが最初に出てきた。その次からはタイの定番料理であるトム・ヤム・クン、大ぶりのエビ、白身魚のムニエルである。そして秦が昨日から自慢していた豚足のドイツ料理が出て来た。何のことはない、お昼にエン氏がご馳走してくれた豚足の揚げ物だ。少し異なるのは足が小ぶりで味付けが上品なことぐらいだ。日本で言えば大衆居酒屋の握り寿司と本格的な割烹の握り寿司の違い程度である。ドイツウインナーが出たところでマネージャー氏の携帯電話が鳴って席を立った。外で何やら話していたが、戻って来て僕らに告げた。
「急な用事が出来たので引き上げます。今夜はゆっくり楽しんでくれ、後はユイに任せる」そう言って部屋付きのボーイに何やら話して出て行った。固苦しいインド系のマネージャー氏が去ったので、僕らはいつもの雑談を始めた。
「センパイ、後ろの席の犬を抱いたレディは男ね」
「確かに大きな女だが美人だぜ」
「ノー、ノー、靴のサイズが大きいです」確かに膝を組んだ右足のハイヒールは女性用にしては大きいと思った。
シムも陳もミスターレディに間違いないと言った。
「おい陳、あんまり見つめると今度は皿が飛んでくるぜ」と私が言うと、秦が大声で笑い出し陳を指差した。皆で一昨日のことを思い出しドッと笑った。ミスターレディは美貌に自信があるのか、3名の男に横柄な態度で優雅に細身のタバコを吸っていた。僅かなハッカの臭いが僕らの席まで漂ってきた。
何ともミスターレディの多い国である。仲里と私はビールを追加注文した。陳は食欲があるもビールをあまり飲まない。彼にとってのビールとは青島ビールなのだろう。僕らは昨日のカラオケバーの話の続きをして盛り上がり、笑い転げて時間を過ごした。8時にタイ風ドイツ料理の夕食会を終了した。外に出るとルンピニ公園の池の水面に屋外レストランのかがり火と遠くの街のネオンが映っていた。広場の客の騒めきと相まって映画の1シーンのようであった。大きく背伸びして夜気を吸い込んで車に乗り込んだ。
車中で秦が明日のスケジュールについて話した。明日は何もすることが無い。ホテルで暇つぶしをして夕方の便で台北に向かうと言った。明日は単純な観光を予定していたが本人が夜遊びで疲れたのか、暑い昼日中に見なれた観光地に行くのが億劫になったのかも知れない。秦の辞書にはもともとスケジュールなる単語が欠けているのは承知のことである。台北向けの便は午後5時である。
「オーケー、明日は仲里と市内観光する。3時にチャイナエアラインのチェックインカウンター前で会おう」
「遅れないでください。センパイ帰れない。第2ターミナルです」と笑った。
「ダイジョウブ、遅れたらシムと昨日のカラオケに行きます」と返事すると、
「オーケー、グッド・アイディア。ゴウトゥゲザー」とシムが大声で笑った。
ホテルに着くとユイと律儀な運転手に「今日でお別れだ。明日は秦と別々に行動します。ありがとう」と言って仲里と代わる代わる握手をしてホテルのロビーに向かった。

僕らは部屋に戻らずにチャオプラヤ川に面したウォーターフロントの野外ラウンジに出た。奥の船着き場に遊覧船が停まり、僅かに揺れて時々桟橋の船止めロープがギィと音を立てていた。河を渡って来る夜風が心地良かった。プラスチック製の丸いテーブルがいくつもあり、その一つに席を取った。少し離れた場所で日本人らしき初老の夫婦と5,6歳の男の子を伴った5人家族一行が夜食の軽食を取っていた。電子ピアノを備えた小さなステージがあり、黒いドレスの女性がバイオリンを弾いていた。聞き覚えのあるクラシック曲だが思い出せなかった。僕らはジントニックを注文した。この時間のメニューにはビールはなくカクテルのみであった。屋外の仮設のバーカウンターからウエイターが酒を届けた頃、バイオリンの演奏は音色を引きずるような胡弓の情緒にも似た曲に変わった。秦が中国の民謡だと言った。ウエイターが僕らを中華系の旅客と配慮してバイオリン奏者に中国民謡をオーダーしたのだろう。静かに流れる大河と遠くにさざめくように点滅する無数のネオン、そして穏やかなバイオリンの調べだ。誰もが静かに人生の足跡を振り返りそうな空間である。少し離れた席の日本人家族の佇まいは確かにそのようにみえた。しかし僕らの席はバイオリンが奏でる物悲しい中国の古謡とは裏腹に、沖縄、台北、厦門、パタヤ、バンコク、ジョホールバル、コタキナバルなど東南アジアの夜の盛り場で羽目を外してきたバカな話題ばかりであった。とりわけ仲里、秦、私は東南アジア各地での国際蘭展示会に出かける度に、その国の友人達を交えた社会秩序に無頓着な夜の宴会を共に過ごしてきたのである。
仲里の携帯が鳴って席を立った。フロントに友人が来ているとのことだ。昨日の夕食前に友人にコンタクトを取っており、カリーから詳細を聞いて訪ねて来たらしい。程なくして背の高いインテリ風の男と一見して韓国人と分かるがっしりとした体格の男を伴ってやって来た。私は立ち上がって二人を迎えた。握手をして名刺を交換して秦達の隣の席を勧めた。テーブルに7名が座るには狭すぎたのだ。ウエイターがこちらを向いていたので手を上げて呼んだ。二人は車を持っているらしくソーダ水を頼んだ。私はジントニックの2杯目を追加した。タイの友人はラン生産者でマヌーと名乗った。もう一人の男は韓国の蘭輸出入業者でヤンと名乗った。ヤンは元軍人のような体格だが目元が優しく笑顔を絶やさぬ商売上手な男に見えた。マヌーとヤンは取引があるらしく親しげであった。偶然ロビーで出会ったらしい。人懐っこいヤンが仲里について来たのである。秦は広東語を使わない初対面の人に容易に打ち解けない、警戒心の強い少し臆病な男だ。秦が動かなければ陳、シムも動かない。挨拶も無しに二つのグループで雑談が始まった。しばらくして秦は立ち上がり「カリーが置いて行ってワインがあるから後で飲もう」と言って立ち去った。ヤンに韓国内のラン栽培事情を尋ねた。コチョウランの栽培は軌道に乗り始め、最近はデンファレの等の熱帯系の蘭の需要も出てきているらしい。洋ラン栽培は国の補助事業のひとつで、今のところ中々旨味のあるビジネスだと話した。私は付き合いで会費を納めている都市緑化旅行友の会の次の旅行先がソウルであることを黙っていた。韓国へはトランジットで2度ばかり立ち寄っただけであり、その国の人間の気質までは分からず、安易に近づく気にはならなかった。1時間ばかりお互いの地域のランの生産事情を話し合って散会した。飲み物代金はマヌーが私を遮ってカードで精算した。明日の9時に職員を寄こすとマヌーとが言ってヤンと二人で帰って行った。僕らはフロントでカギをもらい、秦の部屋に立ち寄った。陳は隠し持っていたコーリャン酒の中瓶を出して飲んでいた。寝酒として持ち込んだのだが毎日の夜遊びで飲む機会がなく今日まで残っていたようである。一昨日立ち寄った市場で買った小エビと蟹の乾物も取り分けておいたようである。僕らはカリーが渡したというミャンマーのワインを飲んで12時前に引き上げた。

8月22日(月曜日)
午前7時30分、仲里からの電話で朝食を食べに地下1階のレストランに降りて行った。秦、陳、シムは未だ姿を見せていなかった。私にとってタイに来てから一番爽やかな朝である。お粥、コーンスープ、目玉焼き、カリカリベーコン、小さな蒸しパンとチーズ。そしてデザートのパインにまでに食欲が沸いた。久しぶり5時間半も寝たことでエネルギーが充填されたようだ。コーヒーを飲んでいる頃に秦、陳、シムがやってきて近くのテーブルに座った。
8時になるとドクターがやって来た。僕らは立ち上がって挨拶した。コーヒーと少しばかりの料理を取って来て、僕らと同じ席に付いて朝食を共にした。豚の乾燥チップだというお土産を付き人が携えており、僕らに配った。私はカリー、エン、ダムロンの農場を見ることが出来たことへの礼を言った。ドクターは満足そうに穏やかにほほ笑んだ。僕らは全員でドクターをホテルの玄関まで見送った。黒塗りのベンツに乗り込むと窓を開き軽く手を上げて去って行った。

私は部屋の中を見渡し忘れ物がないか確認して部屋を出た。フロントでクリーニング代金240バーツを払っただけでチェックアウトである。私と仲里はバック引きずりながら秦と二人の連れのことは忘れたかのようにホテルの玄関に出た。玄関の駐車スペースの端に申し訳なさそうに白いくたびれた旧型の日産自動車のワゴン車バネットが停まっていた。そのわきにヤンが立っており、僕らの姿を見つけて手を振った。車に近づくとあの人懐っこい顔で「グッドモーニング・ミスター」と言った。僕らも「グッドモーニング・ミスター・ヤン」と挨拶した。直ぐに後部座席に乗り込みホテルの前庭から一般道に出た。混雑したバンコクの市街地を15分程で抜け出して農道に出た。車は次第にジョンフォードの西部劇映画「駅場馬車」のように跳ねだした。昨日までの僕らの優待ドライブが嘘のような気がした。跳ねる車中から事務所に電話した。「何か変わったことは無いですか。今日の5時の便で台北に飛ぶ」と伝えた。事務責任者の上間主任は退屈そうな声で「特にありません。お疲れ様です、気を付けてお帰り下さい」と返事した。我社は今日も淡々と不可のない事業を堅実に展開しているようだ。私は自分が何処か異次元の世界を漂っている気がした。尤も私の出張先タイ国の旅は、彼女の夢の中にも出現しない理解不能な現実の中で、アップダウンを繰り返しながら進んでいるのは確かである。ヤンは飛び跳ねる駅馬車を気にもせず、助手席から後ろを振り向いてしゃべり続けた。仲里が仕方なさそうに「イエス、イエス」と相槌を打っていた。1時間足らずでマヌーの事務所に着いた。私は最後のスペアの土産として残していた赤い包装紙で包まれた「ちんすこう」をマヌーに渡した。仲里が「さすがカズさん、準備が良いね」と感心した。
4名で20分ほど朝のティータイムを取った。ヤンは空港に向かう途中のマヌー農場を見学すると言って椅子から立ち上がり、先ほど乗って来た駅馬車に向かった。「ソウルに遊びに来てくれ。その時は電話をしてくれ」陽気な口調で言った。北の国の気さくで騒々しい男である。
マヌーはハワイ大学でランについて学んだとのことである。彼のビジネスのひとつにデンファレの花でレイを作ってハワイに出荷する部門があるのも在学中の経験から立ち上げたものであろう。以前にハワイの空港売店で見た、ランで作られたレイがタイ産とは思いもしなかった。マヌーはデンファレ、コチョウランの育苗の他にコチョウランの開花株の生産も始めたらしい。このオフィスから北西に2時間のカンチャナブリ県の山間部で山上げ栽培を行っているとのことだ。そこは寒暖差が大きくパット・エンド・ファンの施設が無くても花芽を形成するとのことだ。オフィスの事務員がコンピューターで農場の外観や栽培状況、栽培品種を見せてくれた。屋根の雨よけだけで壁は無い。生育状況も良好である。開花株を寄せ植え仕立てにして国内市場に出荷しているとのことだ。大小の規格の苗もオランダ、オーストラリア、韓国などに出荷しているらしい。仲里に花の写真をみせて買わないかとセールスした。只、台湾に比べて輸送コストは割高になってしまうので採算的にはどうかと思った。
マヌーの案内で農場見学に出た。今度はトヨタのランドクルーザーだ。革張りのシートで特注品だろう。ビジネスは順調のようである。
一番目にデンファレの栽培圃場に案内された。カリーやダムロンの農場と同じく水郷地帯の水田跡地の圃場である。少し異なるのは高畝にしてベンチ間に広めの通路を確保して畝の谷間を跨いでベンチが設置されている。作業員の往来が便利な造りとなっている。栽培品種はタイの代表的な品種ソニアである。鮮やかな赤紅色の色彩と花弁が厚く花持ちの良い品種だ。タイの輸出用切り花の主力品種である。日本国内では棺の中に収める葬儀のお見送り用の切り花としての需要も増えている。沖縄で栽培するとステムの途中の花が落ちてしまう傾向があり、営利栽培品種には向いていない。栽培に高温を必要とするので、日本国内での切り花奨励品種ではない。ベンチの上にヤシの実の皮の部分が敷き詰められており、その上にデンファレを植えているのだ。このヤシ殻は水苔に比べるとタダ同然の安価な園芸資材だ。この国ではココナツミルクを採取した後の発生材であり、観葉植物の植え込み材料など様々な植物の園芸資材として利用されている。この圃場ではレイを作るために1輪ずつ採花していた。摘み取られた花は60×90cmの竹籠に広げて入れて乾燥防止のスプレーをして段積みで加工場に運ばれる。そして華やかなレイに加工されハワイの空港に運ばれて、熱烈歓迎の象徴として観光客の首にぶら下がる役目を果たすのだ。ハワイを訪れる観光客にとって歓迎のレイがタイ国産だとは誰も思わないだろう。管理道の十字路の四方に50m×100mの圃場が広がっている。100m四方に黒い遮光ネットが広がっており中々壮観である。マヌーはこの規模の農場を6か所保有していると話した。

19レイ造りレイ作り作業
その次に案内されたのは育苗圃場である。フラスコ苗を単鉢に上げて育成し、開花前の苗として出荷するシステムだ。フラスコから出してしばらく網トレーで外部の環境に馴らし、新根が動くと3cm径のプラスチック製ポットにヤシ殻で挟んで植え込むのだ。それをポットが填まる専用のプラスチック製網に取り付けてベンチに並べるのである。圃場は100mも先まで続いており遮光ネットを支えるコンクリートの柱が整然と並んでいる。苗の運搬が便利なように広い通路を挟んで品種ごとにかれており、生育ステージの違いによって遮光ネットの枚数と生育中のランの草丈が異なっている。出荷先はオランダ、オーストラリア、米国、日本、フィリピン、マレーシアそしでヤンの韓国だ。敷地の広さは陸上競技場をはるかに超える広さだ。

18フラスコ膨大な数のフラスコ
作業棟には順化の為のフラスコ苗が並べられていた。日本や台湾は三角フラスコを使うのが普通だが、プラスチック製のアミ籠に並んでいるのはラベルの無いジョニーウォーカーのボトルだ。本物のウイススキー瓶の再利用では無いだろうが同じ形状である。1本当りの苗数はこの方が多いだろう。チョット目には酒瓶がゴロリと並んでいるみたいで奇妙だ。夜の酒場でジョニーウォーカー・ブラックラベル空けて騒ぎまくっていた一昨日の記憶が蘇った。
作業棟の一角の風通しの良い場所で世話役の男性1人と20名ばかりの女性がペチャクチャと雑談に興じ、時には笑い声を立てて車座で作業をしている。デンファレのレイ作り作業である。細いテグスに花を挿しているのだ。部屋の端に冷蔵庫があり、完成品を段ボールに詰めて保管している。明後日にはハワイを訪れる観光客、或いはどこかの国からやって来る賓客の首に掛かるのだろう。
マヌーは僕らを案内する合間も頻繁に電話をしていた。流暢な英語を明るい声で話していた。一昨日、オーストラリアから帰国したばかりと言う。サガリック先生がタイ国蘭協会という組織のキングであるなら、マヌーはランビジネスを展開する生産者中のキングの一人だろう。マヌーは腕時計を見て言った。
「コチョウランのナーセリーも紹介したいが今日は無理です。食事に行きましょう」
車に乗って近くのレストランを物色したが閉店の食堂が多い。この国でも日本と同じで休日の翌日の月曜閉店が多いようだ。10分程移動してさほど大きくないレストランに入った。マヌーはタイや中華系の訛りが無くアメリカナイズされた流暢な英語を話した。ハワイ大学在籍中に鍛えられたのであろう。中華系の顔つきだが背が高く立ち振る舞いがスマートである。タイ語は話すも広東語は話す気配も見せない。彼の立ち振る舞いに広東語は似合わないだろう。
チキンのカレー煮、エビのカレー煮、白身魚のムニエル、鶏の血を固めた汁物は台北のアヒルの血の発酵食品のような奇妙な臭いが無く抵抗なく食べることが出来た。そして定番のトム・ヤム・クンである。「この魚は」と聞くと「キャットフィッシュ(ナマズ)」だと答えた。
「昨日の水上レストランでデカイ奴を見たぜ」と言うと、「ノー、ノー、この魚は別の品種でカルチベイティド・フィッシュ(養殖魚)だ。この程度までしか成長しない」と両手を40cmほど広げて笑った。仲里は「前に来た時、貴方の会社の職員に連れられて大ナマズを釣ったことがある。その時は野外パイーティでバーベキューにして皆で食べた。悪くなかったぜ」と笑って話した。マヌーも思い出して笑い出した。マヌーは秦の遊び仲間のような大きく砕けた中華系特有の豪快な笑い方をしない。陳先生やドクターのような節度をもった大人の笑い方である。中華系でも育ちが異なるのであろう。昼食の最後はザボンの切り身で口内を爽やかに締めた。
レストランを出ると午後2時である。マヌーは大事な予約が入っているらしくタクシーを呼んで待機させていた。タクシーにバックを積み込んだ。運転手は英語が解らないらしくマヌーが送り先と到着時間を説明していた。既に過分な料金を渡してあるようで、運転手はご機嫌である。マヌーに丁寧にお礼を言って次回はもっとゆっくりと農場を見学させてもらうと話した。マヌー見送られて空港に向かった。運転手はマヌーに午後3時までに空港に送るようにと指示されているらしく、バンコク市内の混雑の中をすごく飛ばした。ザ・ロイヤル・リバーサイドホテル近くの高架橋下を抜けて午後3時丁度に空港に着いた。荷物を降ろして「サンキュウー、グッドタイム」と時計を指差すと、意味を理解したらしく運転手が自慢げに微笑んだ。私はポケットから100バーツをとりだしてもう一度「サンキュウー」と言って渡すと、遠慮がちであったが喜んで受け取り両手を合わせた。なるほど仏教と微笑みの国の住民である。

チャイナエアラインのカウンター近くに秦と陳が待っていた。「今日はどうしていた」と尋ねると、「昼過ぎまでシムの部屋で休んでいた」と言った。シムは帰らないのかいと尋ねると、「今日も泊まってユイとデートだ」と言った。秦の話は何処までが本当か分からない、シムが明日の便で帰ることだけは確かなようだ。シムは時々バンコクに来るようだが彼の本当の目的も良く分からない。只、今朝シムと朝食時に会った時に別れの挨拶をしなかったことが気になった。バックを預けてチケットを受け取り、X線検査に向かう前に100バーツの通行税チケットを買った。バーツの残金がある私が4人分を払った。X線検査、イミグレーションの出国検査を通過するまではだれもが緊張する。ここは馴染みのないタイ国である。シェルカンパニーのドクターの配慮があった入国審査とは別である。ほとんどの国の入国検査はそれ程でもないが出国検査官の目は厳しい。機内に不審な物を持ち込まれては一大事である。これまでも不注意で植物採取用のポケットナイフやハサミを没収されたことが何度かある。他にも何か予期せぬものを嗅ぎ付けて立ち往生しそうな予感に襲われるのだ。しかし旅の常道を外さねば滅多にトラブルに出会うことはない。
僕らはファーストクラス専用のゲストルームで搭乗前の休憩をした。数名の上品そうな先客がいて、ビジネスマンらしき男がパソコンで何かを調べていたり、コーヒーカップをテーブルに置いて英字新聞を広げていたりである。秦は棚から半だけ入ったブランデーを取って来てグラスに注いだ。私はツマミになりそうなザボンの切り身、カシューナッツの小袋を取って来てテーブルに置いた。シムはどうするのかいと仲里が問うと、明日の便でユイをクアラルンプールに連れて行き観光だと答えた。彼の答えはいつも先が読めないことだらけだ。
ブランデーが空になった。
「センパイ、ブランデーの追加はありません。僕らが帰ってからの追加です。行きましょう」そう言って立ち上がった。私もさもありなんと思った。大男4名が長居すればブランデー1本ぐらいたちまち空になるのだから。ラウンジの棚にボトル半分の酒を飾るのは正しい選択だろう。ラウンジを出て搭乗口に向かう途中のショップ入り、昨日誕生日を迎えた末娘の為にタイの伝統的なデザインの革製の小銭入れを買った。その他の土産は台湾の空港で菓子類を買うことにした。
CI-695は午後4時55分に定刻通りバンコク国際空港を飛び立ち、やがて北東に針路を取り台北に向かった。この飛行機は中華航空の最新の飛行機で、尾翼のマークが国の花である梅からコチョウランの花柄に変わっていた。最近になってコチョウラン栽培が世界一となり、コチョウランの国をアピールしているようである。事実、白花コチョウランの代用的な品種Phal.amabilisは台湾の原種である。バンコクに来るときに乗ったCI-693も快適であったが、最新機種だけあってシートのリクライニング、座席テレビの操作パネルなど多くの面で改良されていた。只、時折漂ってくる乗務員の過剰な香水臭だけは更なる改善が必要であった。女に無頓着な秦ですら私にその香りの不満を漏らすのだから改善は必要だろうと思った。食前酒にジントニックを2杯、機内食はチキンのカレー煮と赤ワイン、食後にブランデーを2杯飲んで少し眠りに就いた。秦とは通路を隔てた席であり、機内での酒盛りが休止できたのは幸いであった。
3時間半のフライトで桃園国際空港に着いた。台北時間の午後9時30分である。洋品店の友人が秦のワゴン車で迎えに来ていた。陳を高雄行きの高速バス停で降ろした。これから台南の自宅まで夜行バスで3時間の旅である。午前様の帰宅となるだろう。ホテルに着いたのが午後11時だ。出発前に泊まった雅荘汽車旅館だ。服を脱ぎ荷物を解いて冷蔵庫を覗くも空である。寝酒のビールが欲しかったが服に着替えて、ホテル内の自販機でビールを探すのも難儀である。電気ポットで湯を沸かし、備え付けのウーロン茶を入れた。NHKのニュースはとっくに終わっておりBBCのニュースを少し見て眠りについた。

8月23日(火曜日)
仲里と7時半に朝食をとり、8時半にチェックアウトした。秦が迎えに来ており、彼の娘を小学校に送り届けてからオフィス街の大通りに面した陳先生のオフィスに向かった。秦は警察の取り締まりがうるさいからと車に残った。7階のオフィスに入ると陳先生は出勤前らしく、事務員のシェリーが入れたコーヒーを飲みながら待った。シェリーと英語でタイの旅の話をしていると10分ほどして陳先生がやって来た。仲里は先生に挨拶すると秦を下に待たせてあるのでと退席した。何やら秦と空港近くのラン生産者に会う予定らしい。
陳先生と少しだけコチョウランの導入スケジュールについて話し合い、迎えに来た息子の達寛の運転する車で台北花市場を見に行った。土曜、日曜だと高速道路の高架橋下の建国花市場の賑わいを見ることが出来るが、残念ながら今日は火曜日である。台湾を訪れる場合、土日を最終日に旅行するように計画するのが常である。台北市の人口は260万人で周辺都市部を含めると690万人が暮らしている。台湾の総人口2,300万の約30%が集中しているのだ。花市場には台湾中から集まって来る植木、切花、鉢花、園芸資材などを扱う業者が集中している。競り市の開催時間と関係なく卸売業者、仲買人、個人客で賑わっている。コチョウランの生産大国だけあって様々な色合い、仕立ての鉢花が中売り業者の市場内店舗で売られている。日本で人気の白花のコチョウランよりピンク系の品種が圧倒的に多い。国民性の違いが如実に表れた市場風景である。

20台北花市台北花市場のコチョウランの仕立て

市場の入り口でサンディ(呉秀美)を拾って昼食に出た。台北円山大飯店(ザ・グランド・ホテル・タイペイ)だ。台北市内から高速道路で桃園国際空港に向かう途中に見える建築物だ。赤を基調にした外観はまるで近代以前の中国の宮殿のようなホテルである。台北市内から離れているので訪れる観光客は少ない。如何にも外国のVIPやセレブ専用のホテルの外観だ。初めて訪れるホテルである。その後も2度ばかり訪れたことがあるが当然のことで宿泊はない。台北のダウンタウンから離れた超高級ホテルに泊まれるほどのリッチな身分でもなく、さりとて台北市内の昼夜の享楽を味わうことが出来ない哀しい身分でもないのだから。
1754年建設のこのホテルは外観と同様に中国の伝統的なインテリアを取り入れた内装である。中央階段の正面には最近訪れた韓国の男優スターの大型ポスターが飾られていた。伝統的なホテルには似つかわしくなく宣伝である。古いスタイルの経営方式故に現代の旅行客の嗜好とのマッチングに苦戦しているのであろうか。私が興味を持ったのは、ロビー中央のコチョウランのディスプレイである。高さ1mの木彫りの台の上に2尺の唐草模様の陶器の鉢があり、その上にピンクのコチョウランの鉢植えが球形状に差し込まれたディスプレイである。そのボリュームはロビーに入って来る人々に圧倒的なインパクトを与えていた。コチョウランの本場ならではの演出であり、これだけの広いロビーを持つホテル故に出来るディスプレイでもある。
2階のレストンに上がると、達寛がウエイターに声を掛けた。そして僕らは4人、6人掛けのテーブルが並ぶ細長いフロアの奥の席に付いた。あまり多くの客席数ではないがその分だけ多人数が会席出来る個室を幾つも備えているようだ。
「ここは北京料理が美味しいですよ。ビール飲みますか」と陳先生が訊ねたので。
「ハイ」と答えた。何故か知らぬが青島ビールの小缶を2本持って来た。なんだか『この店の料理に缶ビールは合いませんよ』と言われているみたいで気が引けた。最初の料理はエビ入りのスープと鶏肉入りの2種類のスープだ。何故スープが2種類だろうか。その次はシャオロンポウ。餃子の皮に具と汁を入れて蒸してある。包みの中に汁が残っているので、蒸籠から箸でつまんで取り出し、中華スプーンの上で袋を破り、汁のこぼさぬように口に運ぶのだ。鶏肉味とエビ味の2種類が4個づつかわいらしく入っている。その次は焼きそばだ。細かく刻んだ野菜が少量だけ混ざっているが野菜の種類は分からない。脂分の少ないあっさりとした一品である。最後に出たのが餅の炒め物だ。直径3cm程の丸い棒状の餅を薄くスライスして、小エビとネギを加えて中華味で炒めてある。餅の食感が心地よい料理である。陳先生は日本の正月明けの鏡餅を使ってこの様な料理をすると美味しいですよと話した。先生は大戦前に日本教育を受け、日本の文化にも精通する台湾の富裕層の家庭で育った一人である。日本統治下の旧制中学から特待生として台北大学経済学部に進学したエリートである。英語を自由に話せて、日本語にも不自由しない。台湾知識人に共通の書の達人でもあるのだ。私は自分の悪筆が恥ずかしくFaxを使わずに専らメールでコンタクトしている。電子機器の扱いに抵抗が無いのも恐れ入る次第だ。
デザートに出てきたのが蒸し菓子である。蒋介石大統領夫人の将美麗が好んだ菓子で、この店で必ず注文したとの逸品である。この店では北京からやって来た調理人の技を変えることなく今に伝えているという。2切れが運ばれて4人で分けて食べた。現代風の味ではない懐かしい母の作ったカルカンという蒸しカステラに似ていた。小豆、もち米、山芋の澱粉質が主な材料らしく斬新な洋菓子に比べると田舎の菓子という見映えであった。中国共産党の毛沢東一派に追われて大陸から台湾に落ち延びることを余儀なくされた将美麗が、北京での生活を思い出す一品であったやも知れない。それ故、将美麗が好んで訪れたというこのホテルに、彼女が愛したこの蒸し菓子が味を変えずに今に伝えられているのだろう。私は今日の昼食で昨日までの山盛りのタイ料理が何ともワイルドで、タイの庶民の胃袋を満たすことを最優先したものであったかを理解した。慎ましやかな北京料理を食べたことで帰宅後の沖縄料理にすんなりと適合しそうな気分になっていた。
昼食を済ませた我々はサンディを彼女のオフィスの前で降ろして空港に向かった。航空貨物の集積所で輸出証明証(サイテス)受けたコチョウランの苗の入った段ボール4箱を受け取り、空港内の検疫所で検査印を貰ってチケットカウンターに向かった。仲里が急ぎ足でやって来て達寛が押していた台車を受け取った。秦は車が止められないとのことで仲里を降ろしてそのまま引き上げたらしい。彼は友人の見送り、出迎えの行為に特段の儀礼を尽くさねばならぬとの価値観を持っている男ではない。彼の価値観は私の感性と異なる世界のものである。
「今日の見学は何処でした」と陳先生が問うと、
「洋品店のオヤジとコーヒー・タイムで時間つぶしました」と笑った。
「相変わらず気まぐれな男だな」と陳先生と達寛が笑った。
仲里は荷物の超過料金を払いチケット受け取った。僕らは陳先生と達寛に握手して別れを告げて入国審査の列に向かった。イミグレーションを抜けて空港内の土産店で必要な土産を求めた。CI-122が桃園国際空港を飛び立ったのは台北時間の午後4時であった。窓から見える桃園の街並みが次第に消えて雲海の上に出た。昨日までの旅を振り返ると、食って飲んで騒いでの旅が主であり、出張起案書に提示した「タイ国におけるラン生産者の現状調査」が充分に達成出来たとは思えなかった。秦の絡んだ旅に通常の成果を求めるのは無理である。とりあえずカリー、エン、ダムロン、マヌーの農場、台北花市場の様子を紹介すればそれらしく仕上がるだろうと考えているうちに眠りに落ちていた。

エピローグ
旅が終わり。何の変哲もない日常が続いた。ドクターのマネージャーから貰った名刺のホームページを開くと、タイシェル石油は大型タンカー、製油施設を有するタイ有数の企業である。彼らの社会貢献事業は学校の設立などの教育支援に始まり多岐に亘っているようだ。別荘は本格的なリゾート開発が進んでいるようだ。タイのプラヤット国王は死去して息子が国王に就任したが国民の人気はあまり得られていない。時折学生による国王非難のデモがテレビニュースで流れて来る。タイ国蘭協会の次期会長と目されていたカリーは白血病であえなく世を去ってしまった。あのコルセットは白血病の予兆であったのだ。サガリック先生も引退してバンダ類の生産を本業とするスワンがタイ国蘭協会長になった。背の高い中華系の男で国内のラン展示会のパーティで挨拶する程度で親密な交流はない。フェイスブックでバンダの投稿をよく見かける。マヌーはどうしているか不明だ。仲里は電話でのコンタクトが取れなくなったと心配していた。タイにおけるラン生産者の中のキングの位置から滑り落ちたようだ。シムは蘭商売から観光案内業に転換したと2年前の沖縄国際洋蘭博覧会のパーティで話していたが、今はフェイスブックでSINGERミシン販売店の投稿を毎日載せている。私はお付き合いで「いいね!」を毎日クリックしている。陳先生は台湾蘭協会の顧問となり、会長職を東京農大卒で清華蘭園2代目のデニス・カオ(黄)が勤めている。秦は父親が残した台北市内の土地に100室余りのタワーマンションを建設して上部4階部分に親族と共に住んでいる。夜遊びのキングはコロナで海外渡航が出来ないので台湾内の景勝地を回っているようだ。フェイスブックに風景、植物、食べ物の記事を毎朝「good morning」ではじまる投稿をしている。秦の生まれ星は、流れ星にならずに天空に残っているようだ。サンディは母の介護の為に商売をたたみ、母亡きあとは旅行などで自由に暮らしているようだ。ほぼ毎日投稿する彼女のフェイスブックの記事はインテリらしく中国語の長い文章である。英語で投稿してくれると多少は理解できると思うのであるが。投稿写真を見る限り友人たちと気楽に暮らしているようだ。羽目を外せない知識人のままの生活スタイルに安堵している。塩谷勝はどの様な心境の変化であるか知らぬが、高野山真言宗の通信教育を受講し、定期的に高野山の本山を訪れて勉強しているとメールがあった。商売で養った外交上手は何処でも発揮するようだ。ある時メールが入った。高野山の高僧を伴って、ダライ・ラマ14世に拝謁したと写真付きで報告してきた。私だけでなく多くの友人に発信したようで、その話題がポツポツと私の所にも伝わって来た。本人はタイ国に高野山真言宗系列の寺院を建立したいとの夢があると話していた。しかしながら、今ではその後の情報を確かめるだけの付き合いを欠いている。私は31年間で3度の天下りキングに代わった会社の株主で筆頭御側付の役目を退き、父の農協組合員株式を引き継いだ。そしてJA傘下のファーマーズ店舗の生産者会員となり、農家モドキのラン販売と趣味でランの育種を楽しんでいる。1,400名の生産者を有する生産会・会長を拝命するも、特段の権力も配当も無い名ばかりのキングをボランティアのつもりで務めている。世の中にキング呼ばれ、あるいは自称する者がいるも、時の流れは、あのチャオプラヤ川の圧倒的な水量と同じく、その位置に留まるために抗うことすら許さず,過去の物語へと押し流していくのである。しかし、その摂理を受け入れると、人生は無上の楽しみに変化していくのも事実である。幾重にも曲がりくねった海岸線の線路の先に終着駅が見え隠れするのを確認するも、老いに抗いながら今日という日になにがしかの愉快な変化を探している日々である。

「完」

2021年10月13日 | カテゴリー : 旅日誌 | 投稿者 : nakamura

厦門(アモイ)の旅

厦門(アモイ)の旅 (1)

台湾に暮らす友人に秦という男がいる。祖父の代に台湾の西に位置する中国福建省から移り住んだらしい。台湾で言う本省人である。中国の南部は広東語圏であり台湾を含む東南アジアへの移住者が多い。ベトナム、タイ、マレーシア、シンガポールの友人たちの母国語以外のコミュニケーションツールである。日本語と少しの英語しか使えない私には羨ましい限りだ。私は沖縄方言も話せるが如何せんポピュラーな言語とは言えない。秦とは蘭に関する仕事での付き合いである。秦は桃園国際空港の近くに300坪程の蘭温室を持っているがラン栽培が本業ではない。彼の収入源は台北市内にある数軒の貸しビルの家賃収入である。数年前から秦に誘われてボルネオ島やタイ、台湾国内を旅行する機会があった。暇人で旅行好きの秦は東南アジアの蘭展示会に頻繁に出品していた。彼は福建省の厦門に友人が出来たらしく、2年前のマレーシアのジョホールバル国際蘭展示会で林という中国人を私に紹介した。それ以来、何度か林の会社のある厦門市への旅行に私を誘った。今年の2月に開催された沖縄国際洋蘭博覧会に林が参加したことで彼の会社とランの取引を始めた。厦門国際空港花卉園芸公社(シャーマン・インターナショナル・エアポート・フローラ公社)が正式名称である。3月、4月、6月と3度の取引を行った。那覇空港ビル内の展示に使う蕾付のコチョウランを総額150万円で3千株程輸入した。台湾産よりも幾らか安いが品質では台湾産に及ばない。取引を始めたことで厦門への関心が高まったが、秦の誘いには乗り気でなかった。それと言うのも6月の輸入で粗雑品が入荷したので、シャーマンカンパニーとの取引に嫌気がさしていたのだ。彼らの商法は1回目に優良品を送り、2度目に少し質が落ち、3度目はかなり質が悪くなるのだ。そろそろ取引を切り上げるべき時期かなと考えていたのだ。世に聞こえる中国商法の典型のような気がしていた。 p1那覇空港 - コピー (2)シャーマンカンパニーより導入してなは空港出発ロビーに展示してあるコチョウラン Dtps.Acker’s Sweetie ‘Dragon Tree Maple’ 7月の中旬にラン栽培仲間の仲里と二人で2泊3日のスケジュールで台湾に出かけた。共通の友人である陳先生の奥様の告別式に参列したのだ。沖縄からは僕らの他に別の便で2名が参列した。無論、共通の友人である。 夜の便で空港に着くと秦が迎えに来ていた。海鮮バーベキューレストランで遅い夕食を取った。2時間で食べ放題、飲み放題である。火鉢を囲んで座り、魚介類をカウンターから自由に取ってきて焼いて食べるのだ。生ビールのサーバーを操作して自由に注いで飲むことが出来る。紹興酒は別料金だ。 秦はこのレストランのシステムを説明しながら僕らを厦門の旅行に誘った。仲里が私の顔を見て言った。 「仲村さんどうします」 「うん、何度か誘われているんだ」 「仲村さんが行くなら同行しますよ。私もシャーマン・カンパニーから少しばかり輸入しているから。それに少しトラブル発生していて、10万円分の商品の回収が残っているのだ」 「僕の方も6月にツボミ付のコチョウランを輸入しらノン・ステムだったよ」 「ひどいね。値段は同じだろ」 「うん、それでメールで文句を言ったらなんと返信してきたと思う」 「なんて」 「ノー・プロブレム。1週間後にステムが出て来からだとさ。確かにクーラー温室に入れて2週間後にステムが出て来たけど、電気代のロスと出荷工程も遅れるしうんざりしたよ。台湾商法も未だ納得できないけど、中国商法は要注意事項だらけだね。」 「そうだね、一度はシャーマン・カンパニーを訊ねて組織の状況を確認しておく必要があるね」 「秦の話に乗ってみることにしよう」 僕らの会話を聞いていた秦は 「オーケー、8月4日出発、フライトをチェックする。2時間後に迎えに来るから」そう言って立ち上がると、精算カウンターで料金を払って出て行った。 海鮮レストランの店名は「FLOG」、点灯した看板に蛙の絵が描かれていた。通りに面した部分と駐車場側の壁が無く、店内の様子が覗けるようになっていて、当然のごとくバーベキューの香ばしい煙が屋外に流れている。日本の焼鳥屋の商法と同じで香りで客を誘うという考えであろう。むろん店の賑わいの喧騒も屋外へと流れていくのだ。4人掛けのテーブルが20台も並んでいて6割ほどが既に埋まっていた。 秦が料金を払うと男の店員が火のついた木炭をテーブルの中央にある火鉢に放り込んだ。海鮮バーベキューの開始である。氷を敷き詰めた台の上には魚、カニ、イカ、貝などの鮮魚の他にナス、玉ねぎ、ピーマン、キノコ、タケノコ、白菜、軽く茹でたジャガイモなどの野菜類もふんだんにあった。火鉢の上には網が敷かれておりその上で焼くのである。網の端に丸い穴があり、そこにステンレス製のスープ椀を置くと熱いスープが楽しめる仕掛けとなっていた。セルフサービスの生ビールをサーバーから注いできて飲んだ。久しぶりに紹興酒を1本買って飲んだ。 十分に夕食を楽しんだ頃に秦が戻って来た。火鉢の火種も消えかかっていた。火種が制限時間の2時間で消えるだけの炭火が投入されているのである。中々賢い商法である。 ホテルまでの車中で厦門の旅のスケジュールを説明した。8月4日に出発して8日に帰る計画だ。台北・厦門間のチケット代3万円とパスポートを渡した。 告別式を終えた翌日、台北から桃園国際空港へ向かう秦の車の中でパスポートと厦門へのフライト予約券のコピーを渡してくれた。手回しの良い男である。ともあれ秦の計画に乗って厦門の旅が始まったのだ。

(2)8月3日(火)

私は一昨日の日曜日に、妻に明後日の火曜日から日曜日まで台湾経由で中国に行くと話した。81歳の義母が体調を崩して入院しており、妻は月曜から金曜日まで実家に宿泊する生活が3カ月ほど続いていた。私は妻と一緒に国内を旅行したのは4度程度しかない。妻は飛行機に弱く旅行があまり好きでは無いようだ。娘や孫が東京、名古屋から訪ねて来ると喜ぶが、自ら訊ねたことは1度しかない。私は出張の2日前に行き先を妻に告げるのが常であった。 「あ、そう。四日間も自宅が空き家になるわね」と答えただけである。 「現地の蘭生産業者に会う」と話しても、妻には遊びと思われてしまうのだ。旅先の細かいことは行く前も帰ってからもほとんど話さない。只、海外から帰宅した私の衣類を洗濯する際に決まって言うのは、 「なんて臭い衣類でしょう。何を食べるからこんな匂いのする汗を掻くのですか。私は海外なんて御免だわ」 「そうかな、毎日美味いモノを食べてるぜ。国内の中華料理なんて紛い物だよ」 「ゲテモノ食いでしょう。日本人は日本食が一番よ。こんな体臭の汗を掻く食べ物は私の体質に合わないわ」 妻の口癖だ。それ故、私の海外みやげは現地の特産品を止めてチョコレートが定番となっている。 私は30歳で初めての海外旅行で東南アジアへ行った。ヤシ油やタイの香草パクチーを使った料理に違和感があったが、翌年から今に至るまで食べ物の違和感あるいは拒絶反応を感じたことがない。今日まで東はミクロネシア、西はマダガスカルまで旅をする機会があったが、現地の食事と酒を楽しむことが旅の原則だ。旅の途中で下痢や腹痛に悩まされたことは無い。むろん、胃薬や整腸剤、頭痛薬などの常備薬は持参するのであるが。 那覇から台湾の桃園国際空港への最終便は午後8時10分である。私は6時半に空港に着いた。仲里はまだ来ていなかった。とりあえず構内に設置してある自動改札の旅行保険を掛けてクレジット決済をした。しばらくすると仲里が奥さんと共にやって来た。仲の良い夫婦である。僕らはチェックインカウンターで搭乗チケットの交換を済ませてレストランに入った。未だ出発まで時間があるので夕食を取ることにした。3人でソーキソバを食べていると、このシーンが3週間前と全く同じであることに気付いた。陳先生の奥様の告別式に参加した旅の初日とである。ビデオの再生シーンのようであるが、今日からの旅はあの日から始まったのは確かである。 午後7時30分に仲里夫人に別れを告げてセキュリティーチェックの列に並んだ。台湾への最終便は何時も混雑している。ほとんどが台湾人であるが欧米人と日本人も1割程度が混ざっている。桃園国際空港からは東南アジアと南米・北米諸国の主要都市に便が出ており、東南アジアのハブ空港としての機能が高いのだ。 台湾時間の午後8時30分に桃園国際空港に着いた。私は携帯電話を台湾モードに切り替え小さなスーツケースを手にイミグレーションに向かっていた。 「先輩、今どこですか」秦からの電話である。 「イミグレーションの前だ」 「20分後に車で迎えに行きます。外の5番乗り場で待っていてください」 桃園国際空港のNO CITIZNのイミグレーションは昼の時間は混んでいるが、夜間は空いている。台湾人の旅客が多く、外国人は少ないのだ。イミグレーション・カードの滞在先の欄にはゴールデン・チャイナ・ホテルと書いた。入国目的は観光である。宿泊先と目的は適当なホテル名と観光で十分である。台湾の入国時の手荷物検査はほとんどフリーだ。日本の通関のように、やれ税金の申告だの植物検疫だのとうるさい係員はいないのだ。ゴールデンチャイナ・ホテルは実在するホテルで、20年来の台北での私の宿泊先だ。多少の予約ミスがあっても泊めてくれる。私のパスポートナンバーが控えられているのだ。ごく普通のホテルが上級ホテルに変身してしまい宿泊料金も値上がりしてしまったのは少し残念だ。 仲里がバゲッジクレームで荷物を受け取るのを待って外の5番乗り場に向かった。 「5日の旅にしては偉く大きな荷物だね。僕は機内持ち込みが可能なサイズの手荷物だけだよ」と仲里に尋ねると 「何だか知らないが、1kgの味噌を10袋も買わされたよ。それにゴーヤーの種もだ」 「ゴーヤーなんて台湾にもあるぜ」 「だけど沖縄のゴーヤーが好きらしい」 「確かにこちらの白ゴーヤーは淡白な味がしてあまり美味くないね」 「秦も沖縄ゴーヤーの味を覚えたのだろう」 5番乗り場で待つとすぐに秦のワゴン車がやって来た。 「先輩、go, go」と僕らを急き立てた。 僕らが乗り込むと急いで車を出した。この場所はタクシー専用の乗り場であり、一般車両の待機は原則禁止である。空港警察官が絶えず巡回しているのだ。彼らは駐車違反を調べるというより、運転手のアルコール探知をしているのである。秦は頻繁に飲酒運転をしているので警察官への警戒を怠らないのだ。 「Did you booking hotel」 「No,problem,大丈夫」 予約をしていないだろうと思いながら訊ねただけだ。予約をしていないということである。 「先輩、eating OK」 「那覇空港でソバを食べた」 「では、少しだけ食べましょう」と言って桃園の市街地に向かった。 秦は英語と日本語をチャンポンで話す。私は英語を多少話すが中国語は話せない。僕らの会話は英語、日本語、中国語のごちゃ混ぜの可笑しなコミュニケーションであるが、取り立てて困ることもない。会話は所詮、気持ちの持ち方で通じるものだ。 小さな食堂の前に車を寄せた。店員が出てきて店の前のバイクを移動して車の駐車スペースを空けてくれた。明日空港まで送ってくれる林さんと今の店で合流するのだ。 店は台湾特有の造りで、氷が敷かれた台の上に魚介類が並べられており、肉類はガラスケース中に下処理したものが吊るされている。野菜は無造作に台の上に置かれている。こじんまりした店内には6人掛けのテーブルが2台と4人掛けのテーブルが2台だけである。僕らが奥の4人掛けのテーブルに着くと、女主人が奥の冷蔵庫から青島ビールとグラスを持ってきて栓を抜いて僕らのテーブルに置いた。仲里が私のグラスにビールを注いで早速乾杯した。秦は立ち上がって女主人と共に店の入り口で何やら料理を注文して戻って来た。その後ろに林さんが付いていた。 「ニーハオ」「ニーハオ」と僕らは笑顔で挨拶して握手を交わした。 昨年の11月に彼の家に泊めてもらい、3週間前にも海鮮バーベキュー店からの帰りに仲里と共に彼の家で3時間ほど飲んだのである。人は親しくなると共通の言語を持たずとも何とか意思の疎通を図れるものだ。大きな体だが控えめな話し方をする律儀な男である。空港の貨物を扱う仕事を受けているらしい。秦は海外へ出かける度に彼の事務所に自分の車を駐車しているのだ。僕らは何度も乾杯を繰り返した。林は勝手に店の冷蔵庫から青島ビールを取り出して栓を抜いた。馴染みの店らしく女主人はニコニコして見ているだけだ。

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電飾のパレード車両

地元産の小さな牡蠣をアヒルの卵でとじたチジミ風の料理を摘みながらビールを飲んでいると、表通りから騒々しい音楽が流れて来た。通りが明るい光を放っているので不思議に思って店先に出てみた。電飾を施した大型トラックにショートパンツの令嬢と張りぼての仏像を乗せて大音量で走っている。20台、30台と続き時折爆竹を飛ばしている、爆竹が道路わきのビルの2階の壁に当って弾けるが全く気にする様子もない。この辺りの何かの祭りであろうかと秦に尋ねるも台東県から来た車であるが何のパレードか知らないらしい。一行は200m程先の交差点で旋回して戻って行った。静かになった通りに爆竹の硝煙の臭いだけが残った。僕らは再びテーブルに戻って食事をした。 ・イカの口の揚げ物:イカの口に衣を絡めて揚げたものだ。輸入品らしく新鮮さに欠けた。数年前に桃園の漁港近くの海産物店で食べたのはとても美味く土産に持ち帰った程であった。最近は地元産が少ないと秦が嘆いた。 ・蛙の香草煮:むき身の蛙を2㎝程に刻んで香草と空炊きした物だ。肉は少ないが鶏肉に似た淡白な味がする。小骨を取り出してテーブルに積んだ。庶民の食堂には骨入れの器が無い。必然的にテーブルの上が食べカスで散らかってしまうのだ。 ・淡水魚の煮付け:魚の種類は解らないがだし汁で煮込んである。細長く刻んだネギをちりばめてあるので川魚の臭みは無い。淡白な白身で小骨の多い魚だ。台湾の中南部は淡水魚とアヒルの養殖が盛んである。 ・茹でたカニ:溶き卵を絡めてある。インド南部からの輸入品である。腹に赤い卵を抱えていた。奇妙な色合いであったが違和感のある味では無かった。マングローブガサミに似た形だが、握り拳より大きく成長しない種類らしい。沖縄のガサミよりくどくない味であった。 台湾時間の午後11時にお開きとなった。4人でビールを10本に紹興酒を2本空けていた。林さんにお土産を渡して今夜の宿のモーテルに向かった。むろん予約の必要のない1泊千3百元(約3千円)と格安のホテルだ。空港に近いようで飛行機に離発着の音が頻繁に聞こえた。秦は仲里と私を降ろして林と共に帰って行った。林の家に止まるのであろう。台湾の田舎で時々泊まるカーモーテルと異なり1階の部屋であった。あまり頑丈にも思えないドア1枚を隔てて即屋外であった。私は少し不安になり就寝中の不意の侵入者に備えてドアの後ろに椅子を2脚並べて用心した。ベットの横の高窓のカーテンを開けると格子の無い窓である。モーテルの敷地はブロック塀で囲まれており、出入り口はホテルのスタッフが料金精算所のゲートを開閉しているのであるが、何ともセキュリティ対策の無いホテルで寝ることになったものである。しかし案ずる暇もなく眠りの中に落ちてしまった。何しろ日本時間の午前0時30分であった。

(3) 8月4日(水)

午前5時半、セットしていた携帯電話のベルが鳴り、ゆっくりと起きだして目覚ましのシャワーを浴びた。歯ブラシ、髭剃り等良品が備えられており、沖縄県内のモーテルよりもはるかに良い。備え付けのミネラルウォーターで湯を沸かしてコーヒーを入れた。テレビのスイッチを入れると日本人が出演したポルノが映った。しばらくコーヒーを飲みながら見ていると電話が鳴った。秦からの電話かと思ったが単なるモーニングコールであった。コーヒーを注ぎ直してテレビを消して荷物の確認をしていると携帯電話が鳴った。 「先輩、空港に行きます」秦からの電話である。 入り口の椅子をどけて外に出ると、林の運転するワゴン車が目の前にあった。 「ニーハオ」と声を掛けて車に乗り込んだ。午前6時45分であった。 午前7時に第二ターミナルのチェックインカウンターで搭乗手続きをした。秦と仲里は荷物を預けたが私は機内持ち込みとした。チケットは3名が横1列のシートナンバーである。 「先輩、change money」秦が中国元への両替を促した。 「How much we need」 秦は少し考えてから 「二万円。OK」 二万円を空港内のマネー・イクスチェンジに出すと。千4百中国元と331台湾元を返金した。二万円を台湾元に交換して、更に中国元に交換するのである。手数料の100台湾元を差引いて半端な金額を台湾元で戻したのである。何だか狐に騙された気がした。秦はクレジットカードで現金を引き出して戻って来た。 セキュリティーチェックを難なく済ませて厦門行きの待合室に向かった。秦は私にVIP用のチケットを渡して朝食を取ってくるように勧めた。チケットは1枚しかないとのことだ。私は彼らと分かれて地下のVIPルームに一人で降りて行った。VIPルームではインターネットサービスや軽食が無料であった。私はヌードルスープとシュウマイで朝食を取った。この部屋の利用者は東洋人、西アジア人、欧米人と様々であったが、身なりがしっかりした裕福な階層であり、私はその部類からかなり外れていたと思う。ただ、朝食のヌードルの注文引換券の番号呼び出しを中国語で呼び出すので、中国語に不慣れな外国人には親切とは言えない。アジアの国際ハブ空港と言われているが完全な国際空港であるとも言えないようだ。 朝食を済ませて待合室に向かう途中で秦と仲里に会った。彼らも近くのファーストフードショップで軽食を取ったようだ。VIPルームもファーストフードショップも私にとって同じようなものである。旅先で気取ることもないだろうし、気取るほどのステータスも持ち合わせていないのだから。 8時45分、EX-0991は厦門向けに定刻通りに飛び立った。便名のEXはEXAMEN(シャーマン)厦門の中国語発音から取ってある。航空会社はチャイナエアラインの完全子会社である。1日1往復のフライトで7割の乗客であった。機内の飛行ルートモニターによると飛行機は台湾の西海岸を南下して台南付近から西に向かって飛行している。桃園から直線で厦門へ向かうルートを取らない何らかの軍事的な航空事情があるのかもしれない。p3-1厦門空港の花 - コピー 厦門空港内の飾花 10時30分に厦門国際空港に到着した。那覇・台北間より飛行時間が少しだけ長い。新しい空港ビルの中を進みイミグレーションをスムーズに通過した。イミグレーション・カードは秦が前もって記入してあった。秦は僕らと異なる中国人専用のイミグレーションカウンターから国内線並みの特別のチェックを受けずに早々と通過した。 「秦、Are you chinese」と尋ねると 通常の台湾行政府発行のパスポートより小さなサイズの緑色の手帳を見せた。中国外省人専用と表記された中国への出入国専用の特別なパスポートである。秦の説明によると、中国の特別行政区である香港、マカオ、台湾の住民がこの特別な出入国手帳を持てるらしい。入国スタンプも我々パスポートの印と異なる丸い形状である。秦は誇らしげに説明した。彼の祖先は福建省の出身であり、彼の中には中国人としての誇りがあるのかも知れない。ただ、陳先生のような戦前の日本教育を受けた知識人は中国本土の行政手法に良い感情を持っていない人が多数だ。知識人の子弟は米国留学者が多く、米国の市民権を取得した者も少なくない。陳先生の弟や息子もロスアンゼルスに暮らしている。 バゲッジクレームにシャーマン・カンパニーの林が待っていた。秦と仲里の荷物をカートに積んで出口に向かった。手荷物チェックの女子職員が笑顔で林に挨拶をした。林は片手を上げて笑いながら何かを言った。彼は空港職員に顔が効く立場のようである。林は背が高くアスリートのような体格をした30台の男だ。白のナイキのマーク入りTシャツにチノパンツ。足元はスニーカーの遊び着の装いだ。その姿で空港内の制服を着用した女子職員と砕けた話をしているのは少し違和感があるも、この組織での立場は悪くないようだ。 林の車で空港に近い彼の事務所に向かった。オフィスには彼の上司である劉さんが待っていた。色白で小太りの40代の男だ。声が大きく豪快に笑う典型的な中国人である。林の所属する部門を仕切っている男らしく、英語で話してくれた。林は福建省の銘茶鉄観音を入れてくれた。中国も台湾も来客には茶を入れて歓迎するのが習わしだ。鉄観音茶は烏龍茶と少し異なる。1回分ずつ真空パックで小分けされているのだ。茶の入れ方は烏龍茶と同じだが香りがとても強い。日本茶を好む人にはきつい香りであろう。香りを保存するために真空パックで封じ込めてあるようだ。茶器は烏龍茶と同じで4回程度湯を継ぎ足して飲める。僕らは劉さんの豪快な笑いを聞きながら1時間ほど談笑した。仲里は来年1月に開催される海南島国際蘭展に参加するので、その時に出品する展示ブースで使用するラン類及び観葉植物をシャーマン・カンパニーに供給してもらうことで商談を成立させた。未納となっている蘭代金を相殺したのである。仲里は小声で「現金を返してもらった方がベストだが回収できないよりマシだ」と沖縄方言で私に言った。 「仲里さん、グッドアイデアです。問題ありません」劉さんは手を叩いて大きな声で笑いながら言った。仲里も笑顔で劉さんと握手した。 林の車で劉さんと共に少し早い昼食に出かけた。空港職員が利用するレストランらしく林と劉さんに挨拶する者が何人かいた。クーラーの効いた個室に案内され、10人掛けのテーブルにゆったりと座った。林は半ダースのビールをボックスごと持ってきてテーブルの上に置きポンポンと栓を抜いてグラスに注いだ。そして劉さんの乾杯の音頭でビールを飲み干した。台湾で主流の青島ビールと異なる中国の別のメーカーのビールでアルコール分3.5%の水っぽい味であった。しかし、暑い最中のビール程美味いモノは無い。林、秦と続く乾杯で空き瓶が次々と増えていった。林は何処で覚えたのか日本語で「一気、一気」と声を掛けて僕らがビールを飲み干すのを急かせた。まるで学生寮の新入生歓迎コンパである。中国滞在の週末までこのスタイルの飲み方が続きそうな予感がした。 程無く料理が出てきた。 アサリの酒蒸し:ジューシーで臭みの無い柔らかな肉質だ。 淡水魚と白菜のスープ:白身魚のあっさりと味だ。 豚の皮付きバラ肉と豆腐の煮付け:バラ肉は予め煮込んでから醤油と香辛料で味付けされている。香港料理の逸品に似ている。沖縄の島豆腐より少し柔らかい食感だ。豚肉の味が浸みこんでいて旨い。 渡り蟹の塩茹:小ぶりの渡り蟹を塩茹でして二つに割ってある。一皿3匹でさっぱりした味だ。 パクチョイ炒め:ごく普通の野菜炒めだが、美味いだし汁の絡みつきとパリッとした食感が抜群だ。単純な野菜炒め料理には店の料理人のレベルが明確に現れるものだ。 深海魚の餡かけ:魚種は知らないが200mの深海から釣り上げた魚という。20㎝程大きさの魚を一度から揚げしてから野菜の餡かけで仕上げている。から揚げによって白身の肉が引締まり、表面がカリッとして美味い。 食材は全て地元産らしい。僕らに次々と料理を勧めるが、自らはマイペースでゆっくりと味を楽しみ、大きな声で快活に話し、且つ、愉快に笑い頻繁に酒を勧める。豪快な食事風景である。以前、陳先生が話していたが、「中国人は美味いモノを食べるために金を稼ぐのである」との説は本当であろう。中国人の料理に対する感性は見た目よりも旨味を優先する。日本料理の器を含めた美しく繊細な味は重宝されないだろう。以前、広州市の市場を案内してくれた友人が言ったのであるが、中国人は椅子テーブル以外の四つ足は何でも料理する。この市場には蛇、狸、猫、犬等、野生動物及び家畜の様々な生き物が食材として取引されている。私はと言えば、以前、京都の庭園鑑賞会の帰りに鴨川沿いの日本料理店で食べた懐石料理よりも東南アジア各地で食べ歩いた中華料理に軍配を上げる。料理とは見て楽しむものでは無く、食べて満足する物なのだと私は思うのだ。 1時間ほどゆっくりと食事を楽しんでからホテルに向かった。シャーマン・インターナショナル・エアポート・ガーデンホテルという長い名の空港系列のホテルだ。中国語では厦門国際空港花卉園芸飯店である。林にパスポートを渡してチェックイン手続きをする間にロビーの茶室で劉、秦、仲里、私の4人でのティータイムとなった。茶室には小柄の丸坊主の男が茶の係りとして常駐している。この道のプロである。穏やかな表情をした無口な男で、日本の茶人に似た風情であった。テーブルは古木を彫り込んだ重厚な逸品である。茶は右手のガラス張りの冷蔵庫に保管してある。鉄観音は低温保存によって風味を保つと説明してくれた。茶係の入れたお茶は芳醇な香りがして、劉さんの事務所で飲んだお茶とは私でさえも味の違いが分かった。劉さんは快活に話し笑って僕らをリラックスさせてくれた。カンフー映画に出て来る豪放磊落なボスという感じだ。 林がパスポートを持って戻って来た。ポーターに荷物を預けて11階へエレベータで移動した。1106号が私でその隣が仲里、秦と続いた。私の部屋の鍵が壊れており、修理が終わるまで仲里の部屋に荷物を置いてお土産だけを持ってロビーに降りた。秦の言う四つ星ホテルにしては少し怪しいグレードである。 p3厦門空港 - コピー   ホテルから見た厦門空港 午後のスケジュールはシャーマン・カンパニーの温室見学である。林にお土産 を渡して秦と劉さんを事務所に残した。代わって江という背の高い社員が同行 した。彼らの温室は空港のフェンス沿いに建てられており、蘭温室と観葉植物 の温室群に分かれていた。蘭温室は台湾の施設と同じのパットエンドファンシ ステムムである。外気温35度でも温室内は30度に保たれていた。フラスコか ら出されたばかりのコチョウランの1.5“ポット苗が生産されていた。 この施設では3.5”のサイズまで成長させてから山上げして花芽分化を促すコチ ョウランの生産システムとなっている。2か月前に導入したコチョウランもこの施設で生産されたのであろう。   P5園芸公司 - コピー             施設を一巡してから事務所に戻った。事務所のある建物ではフラスコの生産がなされていて、その生産施設を見せてもらった。               p4パットエンド - コピーパット これからは開花株の生産よりもフラスコ苗の生産を主力にするとのことである。P6フラスコ群 - コピー 来年には年間30万本のフラスコの生産を計画しており、既に生産拠点となる4 階建ての中古ビルを買収済みとのことであった。鉢植えにすると450万本のを どのような販路で捌くのか気になったがあえて質問する気にはなれなかった。 事務所の応接室に戻ると厦門市の湖里区の警察署長の務める蓮氏が待ってい た。厦門市は空港のある厦門島に2区と対岸の中国本土の4区で区分されている。蓮氏は空港のある地区の警察署長である。厦門市では強大な権力者の一人であるようだ。自分の組織を持たない秦は権力者に迎合することを好む男だ。練氏と親しげに話していたが室内は煙草の煙で充満した。それに林が加わったものだから火事場のような室内となり、劉さんが慌てて窓を開けた。中華人は友人同士で煙草を勧める習慣があるのだ。仲里も私も既に煙草を止めていたのでこの煙には閉口した。秦によると中国ではタバコの値段がバカにならないと言う。仲里がそれを聞いて秦に言った。 「では、お土産はタバコがイイね。次からはタバコにしよう」 「彼らは中国製のタバコしか吸わないから駄目だ」 「タバコは味噌より軽いから楽だと思ったのだが残念だネ」 値段の安い味噌でも彼らに味噌の味等解らないが、10袋も頼まれると重くて叶わないとこぼした。彼らが中国産のタバコを吸うのは国策に関わる立場の人間であるからだろう。とりわけ高い地位の者は外国産のタバコを人前で吸うこと危ういことであろうか。何処の国でもタバコは税金の塊である。 4時にホテルに戻り6時まで仮眠の時間となった。秦と旅行する時の毎度ののスタイルだ。部屋の電子ロックは既に修理されていて、ダブルベットの上に横になってこの先の旅の行程について考えた。秦の旅は植物観察などへの興味はなく、只その地域の友人たちとの飲食の交友だけである。今夜も蓮署長が持参する4本のブランデーを飲み干そうと言った秦の言葉が気になった。彼との旅は飯代、宿代は要らないが体力だけは相当に必要である。とりわけ酒に強いことが要求されるのだ。仲里が私と同行するならと秦の誘いに乗ったのもそのあたりが本音である。それに体力のある林の「一気、一気」酒飲みスタイルは私の好みではないのだ。そのようなことを考えているうちに旅の軽い疲れから眠りに落ちていた。 秦からの電話でロビーに降りると劉さんが待っていて、ホテルの中二階あるレストランの特別室が歓迎パーティの場所であった。このホールは1階フロアからだけ入ることが出来た。私と劉さんが上座で、私の左に仲里、劉さんの右に秦、一つ席を空けてその隣に蓮署長、林と続いた。林と仲里の間も一つ席が空いていた。秦の隣には太めの女友達、仲里の隣には林の弟が遅れてやって来た。全員で8名のディナーである。 ブランデーがグラスに3分の1ほど注がれた。 「仲村さん、仲里さん、welcome 乾杯」一斉に飲み干して再びブランデーを注いだ。 「Thank you very much for inviting us 乾杯」と答えてディナーが始まった。 乾杯は蓮署長、林と続いた。のど越しの良い良質なブランデーである。 料理は茹でた小海老に始まり、ホテル特有の豪華な料理が次々と出てきた。ホテ ルの中華料理は何処でもあまり変わり映えがなくて面白みがない。食材の品質 が多少良くなっているだけである。私は沖縄が150年前まで琉球と呼ばれた独 立王国であり、東南アジア貿易が盛んであった。中国との貿易の窓口は福建省の 厦門であった。丁度、我社とシャーマンカンパニーのような関係だったと話した。 劉さんは満足して乾杯を促した。乾杯が続くのでグラスに氷を入れて酒の量を 少なくして対応したが、多勢に無勢で酔いが回ってしまった。 ディナーの後でカラオケバーに寄ったがあまり記憶に残っていなかった。カラオケが嫌いではないが中国語のカラオケでは楽しめないのは仕方のないことである

(4) 8月5日(木)

午前7時、シャワーを浴びて荷造りをした。このホテルに今夜も泊まること思い出してズボン、シャツ、パンツ、靴下をクリーニングに出した。大抵の旅行ではズボンだけをクリーニングに出すのであるが、ゲストの僕らは全てがフリーなのである。 8時半に朝食を取りに1階のレストランに降りていくと、秦が見知らぬ2人の女とコーヒーを飲んでいた。昨夜の太った女とは別であった。朝食はバイキングスタイルである。私はお粥と卵焼き、ハム、野菜炒めを軽めに取ってオレンジジュースで胃袋を落ち着かせた。 秦が私のテーブルにやってきて言った。 「今日は別行動です。仲里と一緒にシャーマンカンパニーの農場見学をして下さい。私は彼女たちと観光に行きます」 「オーケー、仲里に連絡する」 「9時にロビー、林さんが一緒」そう告げて彼女たちの席に戻った。 仲里と二人でロビーに降りて待っていると小柄な青年が声を掛けてきた。 「ミスター、ナカムラ。アイアム、ヨーキン」 「オー、ミスター・ヨーキン、ユーセント・イーメール・トゥ・ミー」 「イエス、ナイス・ミーツユウ」 「ナイス・ミーツユウ」 お互いに紹介しあった。仲里と私にメールを送ってくれるシャーマンカンパニーの窓口の男である。 「ヨーキンとは女生と思ったが男だったね」と仲里が言った。 「僕も一応Mr,Yokinと書いたが自信は無かったよ。それでも前回の輸入トラブルで直接電話があったので、声に質から男と分かったのさ」 ヨーキンの英語は何処で習ったのだろうか。まったく理解しがたい発音で懸命に話してくるので鬱陶しくなってくる。水木しげるの漫画「ゲゲゲの鬼太郎」に出て来るネズミ男に似た印象である。厦門島の説明で「アモイ・イズ・アィズランド」話したので仲里が「アイズランドとは何のことですか」と尋ねる始末だ。中国に北欧のアイスランドが在ってはたまらない。更にRとLをでたらめに舌を転がすように発音するので全く手におえない会話である。林はヨーキンの会話を補正することはしないのだ。 昨日農場を案内してくれた江さんが合流して5名で出かけることになった。彼らの農場は厦門市の北方60kmの同安区の山中にある。標高900mの農場で開花誘導処理を行っているようだ。いわゆるコチョウランの山上げ栽培による自然の低温処理を行っているのだ。電力の供給不足からクーラーによる冷房処理栽培が困難であるのだろうか。 午前9時20分ホテルを出発した。小柄なヨーキンが一緒だが後部座席の3名は窮屈である。私も仲里も体重85kgを軽くオーバーしているのだから。 車は厦門島に架かる3本の端のうちの最も長い7kmの橋を渡って対岸に向かった。厦門空港が右手に見えた。浅い泥の海に橋脚が立っており、交通量の多さがこの経済特別地区の繁栄を物語っている。建設中の高層ビルがいくつも見えた。厦門工業大学の横を通過して集美区に入ると次第に商業施設が少なくなり20分ほどで農村の同安区に入った。広大なリュウガンの果樹園が続いた。レイシ畑は全く見当たらない。果樹としてはレイシの方が市場価値は高いはずだがどうしてリュウガンなのであろうか。台湾の青果物ではレイシが主流でありリュウガンはほとんど見かけない。中国のリュウガンは青果物ではなく加工品の原料であるかもしれない。 何処までも続くリュウガンの農園である。p7-1リュウガン農場 - コピー リュウガン農園 やがて車は自然保護区の坂道を登り始めた。曲りくねった狭い道路をエンジンの音を響かせて登った。時折放し飼いのジャージー種に似た赤牛がのんびりと道路を占有して歩いていた。林がクラクションを鳴らすとゆっくりと道路脇に寄って道を譲ってくれた。牛の持ち主の姿が見えない穏やかな農村である。大きな花崗岩を積んだ大型車両がすれ違った。近くに採石場があるのだろうか。林はクラクションを鳴らして次々と車両を追い越して山を登った。対向車が近づいても意に介せずに加速していった。仲里は交通事故に遭遇せぬかと心配した。私もこの国のドライバーの運転マナーが近隣諸国とあまりに異なっていることに心配した。P7森林保護区 - コピー山頂近くの風景 道路脇の山林は自然林ではなく、ユーカリ、松、杉の人工林である。自然保護区は何処であろうかと車窓から遠くを眺めたが良く分からなかった。山頂に近づくにつれて茶畑が広がりやがて集落が現れた。あまり大きな集落ではなくレンガ造りの平屋が点在した。民家の周辺に自家菜園と思しき畑が小さな畑があった。時折老人の姿を菜園の中に見かけたが若者の姿を見ることは無かった。 P8山頂の民家 - コピー 山頂近くの集落から少し下って更に10分ほど登った場所にシャーマン・カンパニーの農場があった。2000坪のパイプハウスの周辺は全て茶畑である。車を降りると空気が乾いてしのぎやすい気温である。ハウス内の温度計が28度を示していた。パットエンドファンの装備されたハウス以外は空である。この時期は気温が高いので8月末から秋の山上げを始めるとヨーキンが説明した。パットエンドファンの温室には花芽の上がったランが並んでいた。私は10月に出荷できる品種のリストを送ってくれとヨーキン言った。単なる社交儀礼である。 P9山頂の温室 - コピーP10OX fire bird - コピー 農場とコチョウラン Dtps.OX Fire Birdのメリクロンであるがオリジナルはスプラッシュが中央まである。メリクロンによってスプラッシュが小さくなる。私が台湾からフラスコで導入した株はさらにスプラッシュが小さかった。 温室を一回りした後に作業員休憩所で施設の管理人と共にお茶となった。この辺りでとれた茶で製造された紅茶である。後で知ったのであるが正式名称は野茶である。ジッパーのついたビニール袋に無造作に保管してある。ヨーキンが茶漉しピストン式の紅茶専用の器具で手際よく入れてくれた。茶碗は鉄観音と同じ小杯である。味は英国の紅茶よりも渋みが強くややワイルドな味で赤みが強い。小屋の中に人の気配がするので覗いてみると8歳くらいの女の子がテレビに見入っている。この時期は中国でも夏休みであろうか。私が見つめても意に介せずテレビに夢中だ。山中の集落には子供が少ないのか。初老の施設の管理人の孫であろうか。仲里が何かを見つけたようで私を呼んだ。きれいな冷水の流れる小川の土手に何かの花を見つけたようである。 「この花は何ですか」 「ノボタンだね」 「沖縄にもありますか」 「いや、ほふく性のヒメノボタンに似ているが、少し矮性の傾向がある品種だ。おそらくここの固有種だろう。こんな田舎の畑の土手に園芸種があるはずも無いからね。沖縄県への導入は未だ無いだろうね」 僕らが写真を取っていると林が近づいてきて言った。 「何か珍しいモノでも見つけたか」 「この品種をあまり見たことが無い。増やしてから送ってくれないか」 「どの位だ」 「1.7インチポットで1000鉢」 「オーケー、ヨーキンに任せよう」P11ノボタン - コピー 匍匐性のノボタン 午前11時30分に農場を後にして山を下った。林は相変わらず危うい運転で次々と車を追い越して行った。午後1時を過ぎた頃に平地の街に降りた。道路の幅員が広くなり街路樹のベンガルボダイジュが整然と続く落ち着いた地区である。林は町はずれの食堂に車を停めた。昼食時間が過ぎており客は少なかった。店の入り口に鉢植えの大きな徳利状のガジュマルがあった。ガジュマルは実生で育てると幹が徳利状膨らむ布袋型の樹形のなるのだ。僕らはトックリガジュマルと呼んでいる。幹の大きさから20年以上の年月が経っているのであろうか。   P12ベンガル - コピー 手前がヨーキン、右が江、前方のtシャツが林 P13トックリ - コピー トックリガジュマルの盆栽 店の中はクーラーが効いており狭い車中から解放されて心地よかった。しかし、私の体調は快調には程遠い状態であった。昨夜のブランデーによる乾杯疲れが未だ回復せず、3名の中国人のタバコの煙も気分を悪くしていた。 昼食は毎度のように乾杯で始まった。運転手の林は砂糖入りの烏龍茶のボトルを飲み、江とヨーキンがしきりにビールを勧めた。田舎町の料理店には地域特有の美味い物が多いのは確かだ。 川魚のフライ・・・ヤマメと思しき胴体に斑点のある川魚に軽く粉をふったフライである。コショウを軽くまぶしてあるがあっさりとした非中国的料理だ。 タケノコ炒め・・・サクサク感と軽めの味付けが嬉しい。今朝採って来たような鮮度である。 蟹のスープ・・・脱皮したばかりの蟹のゼラチン質の甲羅の周辺部も美味いが痛んだ胃袋にスープが心地よい。 エンサイの炒め物・・・沖縄のエンサイ料理と同じだが味に深みがある。調味料のダシの成分が異なるようだ。野菜を食べる機会が少ないので消化の為に少し多めに食べた。 豚の骨の塩茹風・・・豚の膝関節付近を塩茹でしたものであるがあまり肉は付いていない。ストローが付いており、骨の中にストローを挿してゼリー状の髄液を吸い出す変わった料理だ。 アヒルの炒め物・・・台湾では冷たいアヒルの肉が定番だがここでは暖かい肉である。味が浸みて美味い。ビールが美味いと感じて来た。胃袋が回復し始めて来たようだ。 2時過ぎに昼食を終えてホテルに向かった。中国の交通事情はかっての自転車交通からオートバイ、乗用車の社会へと変化している。都市における自転車の稼働率は日本より少ないかも知れない。只、オートバイは3人乗り、4人乗りはごく普通だ。対向車線の路肩部分を平気で走ってくるのには驚いた。この国のマナーはあらゆる面で日本と異なっているようだ。歴史・文化の違いという事であろうか。もちろん私の商取引でも同じ傾向があるのだから困ったものである。 P14バイク - コピー一家4名でドライブ中 林は僕らをホテルに降して6時に迎えに来ると言って帰って行った。シャワーを浴びてすぐにベットで横になった。5時半までに体力の回復を図るためである。今夜も乾杯の嵐に巻き込まれるのは必然と思われたからだ。5時半の携帯電話のアラームで目覚めた。洗面して歯を磨くとスッキリとした。体が夜の仕様に戻ったようである。6時にロビーで仲里と共に待っていると林がやって来た。林の事務所で長身の奥さんを乗せて市街地に向かった。江とヨーキンは同行しないようだ。途中の大きなマンションで劉さんを乗せて市内の古いレストラン着いた。林の奥さんが車を運転して帰って行った。秦は未だ外出先からの途中のようであった。僕らは店の一角で鉄観音を飲んで秦を待った。茶はその店の調達品で昨日の茶師の鉄観音ほど美味くはなかった。鉄観音にも様々なグレードがあるようだ。 外はいつの間にかスコールが雷を伴ってやって来た。スコールはそれ程激しいものでは無く30分ほどで通り過ぎた。そして涼しさと共に夕暮れとなった。ディナーに程よい時間である。 林が厨房を覗いて戻って来た。 「ナカムラさん、キャン・ユウ・イイトゥ・リトルタイガー」と言って携帯電話の画像を見せた。 「イッツ。キャット」 「ノー、デファレント、イッツ・ア・リトルタイガー。ベーリー・テイスティ」と言って笑った。 今夜は猫料理となるのかと気が滅入って額に手を当てた。 「オーケー、チェンジ、スネーク」と言って厨房に戻って行った。今夜のメインディッシュが猫から蛇に変わったことに安堵した。 蓮さんが3名の部下を伴ってやって来た。箱入りの紹興酒を運ばせている。円卓の横のサイドテーブルに10数箱が積み上げられた。 「ベーリグッド。13年物の古酒だ」と言って劉さんが親指を立てた。蓮さんが満足そうに目を細めて軽く頷いた。 秦が四川省から来た女性二人とやって来た。林の弟の優男も一緒である。口数の少ない色男だ。40歳前後の年上の女は四川省の小学校の教頭らしい。秦が気を使っているのが分かる。30歳前後の痩せた女の素性は分からないが、林の弟に気があるらしく時々視線を送っているのが見て取れた。秦には素性の知れない女が良く現れる。二人の女のどちらかがIDカードを紛失したらしく飛行機のチケットが取れないらしい。明日いっぱい遊ぶ予定が一日がかりで四川省まで電車で帰る羽目になったと秦は笑っていた。いずれにせよ私には勝手が分からない事情が発生したようだ。 夕食会は蓮署長の部下2名が加わって11名の宴会となった。紹興酒は700ミリリットル壺に入っていてコルクの栓がしてあった。林は栓を抜くのに躍起となって唸っていたが店の女がやってきて栓抜きで次々と栓を抜いてくれた。ぐったりした林を見て劉さんが豪快に笑い一同もつられて爆笑した。今夜の宴会は紹興酒の乾杯で始まった。 定番の茹でた小エビの皮をむきながら口に放り込んでは乾杯をする。 上海ガニに似た小ぶりの茹でた蟹。 鮎に似た川魚のフライ 豚バラ肉の角煮。沖縄のラフテーとほぼ同じだ。ラフテーの元祖だろう。 エンサイの炒め物。沖縄ではウンチェーと呼ばれているが何とも中国語的な発音である。沖縄の夏場の葉野菜の定番である。 アサリの酒蒸し スッポンのスープ。かなり大きなスッポンが料理されたようだ濃厚なスープで精が付きそうである。むろん肉も美味い 蛇のスープ。今夜の特別料理だ。香草と共に煮てある。少しピンクがかった白身の肉だ。硬めの棒状の肉を前歯で噛んで肉をむしり取ると蛇特有の細い骨が現れた。背骨を軸にゆっくりと湾曲している。魚の骨よりも弾力性があり、髭のようにしなやかである。淡白で細かい肉質は鶏肉に似ている。手づかみで肉を咥えてゆっくりと蛇の肋骨から肉片を剥がしていくのである。肋骨は簡単に千切れることがなく、最後まで背骨に付いている。劉さんが日本語で「美味しいですか」と尋ねた。親指を立てて「ベーリグッド」と答えると、破顔して豪快に笑った。蓮署長が穏やかに笑って乾杯を促した。僕らは何度も乾杯を重ねた。中国の乾杯は完全に杯を飲み干すことだ。この国の簡潔な礼儀作法である。ゲストにとって1対1なら楽な作法であるが、10対1ではかなり苦しい礼儀作法でもある。 林の弟が500ミリリットルのミネラルウォーターに何か袋状の実を爪楊枝で突き刺してその汁を流し込んでいる。かなり苦戦していたがやがてその袋から緑色に液体が滴り落ちた。袋の汁をすべて絞り出すとテーブルの上に放り出した。それを見て私はその小さな袋が蛇の胆嚢であることを即座に見抜いた。林の弟がペットボトルのふたを閉めて揺さぶるとミネラルウォーターが透明なグリーンに変わった。そして僕らのグラスに少しずつ注いでくれた。女性は嫌がったが秦が何やら説得している。きっと美容に良いとでも言っているのだろう。僕らは一斉に乾杯とグラスを掲げて飲み干した。少し青臭く苦みがあったが気にするほどの味でもなかった。中国の友人たちは彼らが準備した食材を僕らが旨そうに食べるのに満足しているようだ。いつの間にか蓮署長の持ち込んだ古酒を全て飲み干し、更に店にあった普通の紹興酒を取り出して飲んだ。ディナーが終了する頃には林の椅子の後ろの土間に紹興酒の空の箱と空き瓶が無造作に放り出されていた。秦が空き瓶を数えて18本だと笑った。蓮署長、劉さんも大いに満足げな表情でごみの山を見下ろした。中国の食事マナーは日本と異なり、テーブルの上に食べカスを散らかすことや宴席の周りにごみを投げ散らかすことに全く抵抗感が無い。むしろ食べ散らかすほど大いに飲んで食べて賓客をもてなしたことに満足を覚えるようだ。国が変われば文化も異なりマナーも変わるものらしい。私は彼らの文化を否定しないが、食べカスの魚の骨や貝殻をテーブルの周りに無造作に散らかすことに慣れそうにもなかった 酒と食事で腹が充分に満ちて宴会が終了したのが午後10時半であった。蓮署長と劉さんと林は帰って行った。秦の案内で林の弟、四川省の女性、僕らの6名で近くのカラオケバーに入った。この頃から私の記憶は途切れ途切れになっていた。確か男4名で一人500元の割り勘で料金を払ったこと。ホステスが4名ついてビールと摘みとカラオケ代がフリーであったこと。大音響の中国語のカラオケは騒音にしか聞こえず、テッシュペーパーをちぎって丸めて耳栓をして、うたた寝をしていると秦に頭を小突かれたこと。年増の女教頭と秦が休みなく歌い続けたこと。連れの若い女がカラオケバーで出されたスイカを猛烈な勢いで食べまくっていたことが記憶に残っていた。何時に散会したかは定かでないが、ホテルのロビーに据えてある大きな柱時計が午前1時前後を指していたことだけは覚えている。

(5) 8月6日(金)

午前8時30分、胃の調子が未だ回復しないまま1階のレストランで朝食をとった。私は連日の夜更かしから朝食に仲里を誘わないことを伝えていた。互いの体調を気遣ってのことである。1日の行動が始まるのは午前9時からであり、それまでは互いに干渉しないことにしてあるのだ。尤も、仲里は私より4歳若いだけあって、私より早く朝食を済ませているようだ。秦は既に昨夜の女性と朝食を済ませていた。私の席にコーヒーカップを手に一人の男を伴ってやって来た。中肉中背で眉毛の薄い典型的な中国人タイプの男だ。40歳前後に思えた。蓮署長の弟で建築設計士だと紹介された。 「ビジネスは昨日で終わり。今日は観光です。別の場所に泊まります。明日の着替えだけ持ってください。カバンはマイルーム1109に置いてください」 「オーケー、部屋の鍵を貸してくれ」 「ノーニード。肥った女がいるから大丈夫」 私がいぶかしげな顔をするのに構わず 「ナイン・サーティ、スタート」と言って蓮と何やら話し始めた。 私は部屋に戻り仲里の部屋に電話してから荷造りをした。下着にシャツ、靴下を部屋に備え付けのランドリー専用のビニール袋に詰めてカバンを閉じた。 仲里の部屋をノックして合図して、その隣の部屋をノックすると一昨日宴席で一緒だった肥った女がドアを開けた。「ニーハオ」と言ってカバンを渡した。女は一瞬はにかんだ表情を見せた。仲里も続けてカバンを渡した。ロビーに降りて秦に女にカバンを預けたと話した。 「彼女はコンピューター・フレンド。一日中部屋にいる」とあまり興味無さそうに答えた。日本で言うメル友で、北朝鮮の近くの町からやって来たらしい。単なるメル友が同じ部屋で過ごすことも無いだろうが秦とその女との濃密度については詮索する気はなかった。何しろ昨晩のディナーに彼女は同行しなかったのだ。 蓮の車はトヨタの4輪駆動車ランドクルーザー(通称ランクル)だが仕様が少し異なっている。中国での現地生産車であろうか。車にナンバープレートが無く、運転席のフロントガラスの前に登録証があるだけだ。それも有効期限が本日までとなっている。秦がそれを指差して笑った。ランクルのバックドアを開けると広いトランクに木箱がぎっしりと詰め込まれていた。その隙間に秦の荷物と僕らのビニール袋を押し込んだ。秦が全て洋酒だと笑いながら言った。「今夜は此の酒で乾杯するのではないよね」と仲里が沖縄弁で言った。「勘弁してくれよ」と私も沖縄弁で答えた。僕らは秦に聞こえるとまずい内容は沖縄弁で話しているのだ。蓮の副業であろうか、かなりの金額の高級洋酒であることは間違いない。車は車高が高いわりにクッションが良く快適なドライブであった。只、車が揺れるたびに酒瓶のカランコロンと鳴る音が私の胃袋を不快に刺激した。 車は厦門島に架かる3本の端の中央を渡って右折して高速道路に乗った。秦の説明によると、この高速道路324号は南の香港から厦門、上海、青島を通って北京へと海岸線を通る陸上物流の幹線道路らしい。左側に高速鉄道が並行して走っている。厦門・上海間を走る高速鉄道車両で中国製だという。中国技術の素晴らしさを強調していたが、後年この列車が転落事故を起こして物議を醸しだすとはこの旅では想像も出来なかった。未だ運行本数が少ないようで福州市に着くまで列車を見ることは無かった。人家が少なくなった頃、工事中の2本のトンネルを抜けた。ここから泉州市の区域との道路標識があり、泉州市市街地まで70キロ、福州市まで205キロと表示されていた。高速道路は中央分離帯の右側だけが開通した片側通行であるが、それでも片側2車線である。全面開通となれば片側4車線の基幹道路になるだろう。至る所で高架橋の工事が行われている。コンクリートミキサー車とポンプ車が並び、象の鼻に似たホースから吐き出すコンクリートの周りに労働者がひしめき合っている。日本国内で見られる工事現場の風景と変わらない。少し違和感があるとすれば労働者の作業着、ヘルメット、安全靴など国内で見かける○○会社ですとの統一性のある現場環境ではないことだ。P15ポンプ車 - コピー 高架橋工事 一方、工事現場の活気と異なり、農村で働く人々の姿を見かけることが少ない。かっての集団営農団地なるものは見かけない。民家の周りに家庭菜園規模の農地を見るだけだ。或いは小規模な自作農家の菜園ばかりである。大規模農園はリュウガンの果樹園だけだ。その果樹園でも農業者の姿を見ることは無い。リュウガンの果実がたわわに実っているが収穫労働者は何処へいるのだろうか。不思議な農村風景である。1990年頃に広州、深圳、成都、昆明、西双版納と旅する機会があったがその頃の農村風景は全く見られない。中国は大きく変化しているようだ。高速道路脇には一定間隔で広告塔が立っている。高さ15mの柱の上に3m×5m程の表示パネルが乗っている。電化製品、薬剤、飲料水、ワイン、石材、茶等である。デザインが洗練されており、経済力の力強さが感じられるものばかりだ。この地の特産品であろうかワイン、石材、お茶の宣伝広告が最も多い。P16ワイン看板 - コピー時折、山手に石切り場が見えた。灰色の花崗岩の石切り場である。私の友人の造園業を営む丸喜緑化の喜屋武さんも福建省から石灯篭などの石材加工品を輸入していると話していたことを思い出した。もしかすると彼に作ってもらった自宅の庭の池に架けた2m程の花崗岩の石橋や沓脱石はこの地から持ち込まれているのかもしれない。 町はずれに新築或いは建築中の2階建ての小綺麗な民家が時々見られた。突然秦がその家を指差して言った。 「先輩、あの家には老人が住んでいます」 「ほう、この辺りには金持ちの老人が多いのだね」 秦が笑いながら言った。 「子供が日本に出稼ぎネ。密航して」 中国経済は中々多様性に富んでいるようだ。 P22老人宅 - コピー やがて右手の遠くに街並みとその先に広がる海が見えてきた。蓮はランクルの速度を落としてインターチェンジを右に降りて行った。インターチェンジの料金所近くの路肩の植え込みは、芝生、灌木、高木が整然と植栽されており管理も行き届いていた。500m程離れた丘の上に、馬に跨る武人の巨大な石像が立っていた。 p22-2アヒル池 - コピーアヒルの養殖池 泉州市の中心部を流れる橋を渡って右折して川下に向かって1kmほど進んで石橋の前で車を停めた。蓮はこの町で建築設計の仕事をしているらしい。僕らを降ろして一人で出かけた。銀行に用事があるらしく僕らに休憩しろとの事らしい。今日は金曜日で明日の週末は銀行が休みである。午前11時半となっていた。小腹の空く時間であるが辺りに雑貨店は無く、ただ大きな石像と川を横切る長い石橋があるだけだ。 秦が石橋の入り口の石碑を指差して、この洛陽橋は千年の歴史があると言った。石橋は幅4m程で僅かにカーブしながら800m先の対岸まで続いている。 P17千年表示 - コピー 一般車両の通行は禁止との表示がされていた。川岸の車道よりも低くなっており3段の階段が付いている。車の往来は出来ないがバイク通行は可能なようだ。親子連れのミニバイクがやってきて階段の前で二人の子供を降ろして親父が階段を苦も無く登った。一般道で再び子供を乗せて何処かへ去って行った。               P18橋 - コピーP19漁民 - コピー 橋脚の根元は舟形の台座となっており、船の切っ先が川の上流に向いて河川の流れを切るようになっている。船の艫はボートのようにストンと切られている。まるで上流に向かう小舟を浮き足場にして橋脚を乗せている形状だ。河川は大雨になると水切りが必要になるほどの急流と変わるのであろう。今は干潮時で辺りは干上がっており、水切り土台の効果を見ることは出来ない。むろん、川の中央部まで行けば水の流れが分かるだろうが暑いさなかに石橋を300mも歩く気にはなれない。石橋は何度も修復を繰り返したようで、路面の石を取り換えた跡がある。60cm角に8mの長さで新しい石が据えられていた。この地域で産出する花崗岩であろうか。花崗岩の角柱を組み木細工のようにして橋の路面を繋いでいた。干上がった川の岸辺では漁師が船の手入れをしていた。のどかな地方の漁村の風景である。橋の川下には広大なマングローブが広がっていた。白い花を着けた1m程の高さのメヒルギが主な樹林である。P20マングローブ - コピー 端の左手の休憩広場には数メートルの石像があった。石碑には蔡譲翁と記されその功績も書かれていた。未熟な私の漢字解読力によると、若くして官吏となり多くの治世と書物を記したらしい。また700里に及ぶ松の並木を作ったらしい。琉球王府の偉人祭温翁は此の福建省に学び中国名祭温を拝命して琉球に戻った宰相である。農林業に功績を残した偉人であり、祭温松と呼ばれる沖縄を縦断する街道の松並木は有名である。松並木は大戦の戦火や敗戦後の米軍基地整備でほとんどが消滅した。僅かに残った本島北部の松も日本本土復帰に伴う他府県から侵入したマツノザイセンチュウの被害をうけてほぼ消滅した。私はこの石碑の文章の中に祭温公の影を見た気がした。石像の横に小さな洗い場があり、地元の漁師が魚介類を捌いているようだ。洗い場の後ろの雑木の根元に甲イカの骨や貝殻が散らばっていた。備え付けの水道の古い真鍮の蛇口を捻ると冷たい水が勢いよく噴き出した。P21蔡譲 - コピー 1時間ほどで蓮が戻って来た。秦が蓮に代わってランクルを運転して再び高速に戻って福州市に向かった。 「レンさん、ノースリピング・エスタディ。チェンジドライバー」秦が言った。 「ドゥ・ユウ・ハブ・ライセンス」と問うと 「ノー、バット・ノーポリス・オーケー」笑った 中国も台湾も右側通行であり、交通量の多い台湾に比べて泉州の田舎の道のドライブは気楽なようだ。秦はケラケラと笑いながら次第に加速していった。蓮は秦の横で完全に寝入ったしまった。 「秦、ノースピード」仲里が秦の肩を叩いて言った。 「ダイジョウブ、ノープロブレム」笑いながら楽しそうにハンドルを握った。 私も仲里も台湾中央高速での秦のクレィジードライイブをよく知っているのだ。途中で高速道路高架橋のPCコンクリートを運ぶトレーラーがエンジントラブルを起こしたらしく、マフラーから白煙を吐きながらゆっくりと進んでいる。片側1車線となっている数キロの工事区間が交通渋滞となった。僕らは空腹を伴って次第にイライラしてきた。その時、秦は道路右側の道路建設用の仮設道路を見て右にハンドルを切った。そして砂塵を巻き上げて1km余りの渋滞を一気に抜き去った。僕らはシートを叩いて大笑いした。 「秦、ユーアー・グレイト」と秦を褒め上げてストレスと発散した。福州市に着いたのが空腹のピークを過ぎた午後2時であった。 福州市は関江という河川の河口に古くから栄えた町だ。琉球王府の中国交易の中継地でもあり、琉球人が移り住み中国文化を琉球に送り込んだ土地柄である。沖縄県の那覇市には福州市との交流を示す中国南部式庭園の福州園がある。 泉州よりも豊かな水量を湛えた川を渡って市内に入った。人通りの多い市中で車を停めて蓮が運転を代わった。市街地を抜けるまで10分ほどスコールとなった。街はしっとりとして人間の喧騒を洗い流してくれた。P23福州市 - コピー街角で30代の二人の女性を拾った。「マイフレンドの奥さん」と秦は説明した。車内が窮屈になった。背の高い細身の女性と背の低い美人の女性だ。高層ビル街を抜けてレストラン街の前で車を停めた。「オーケー・イーティング」と秦が言われて車から降りた。仲里と二人で背伸びをしてどちらからともなく「疲れた」とつぶやいた。この時間は昼食と夕食の間で何処のレストランもスタッフの休憩時間である。麺類を扱う小さな食堂に入ってみると親父が椅子を並べてその上で寝ていた。秦が親父を起して料理の相談をしていると蓮が厨房を覗いて戻って来た。そして手招きして僕らを外に追い出した。 「中が汚いからダメ」と秦が言った。 僕らは再び市中をさ迷った挙句、客家料理専門店に入った。その店は二階建ての立派な店であったが、やはり昼食と夕食の合間のスタッフの休憩時間のようであった。2階の個室を要求したがクーラーが故障中であり1階の大広間の奥に席を取った。大広間には4台の円卓があり、店のスタッフが昼食時の喧騒を終了した安堵感と脱力感を伴って休憩していた。僕らがやってきてもうつろに見ているだけである。今はただ、休息して再びやって来る夜の喧騒に備えているようでもあった。大広間と言っても客は僕らだけであり、周囲に遠慮する必要は無かった。壁には客家料理の写真が貼られており値段も付いている。安い物で200円、高い物でも1500円程度だ。大きなアヒルを丸ごと蒸したスープが最も高価であった。小ぶりのアヒル700円である。秦はあれこれと注文してビールの栓を抜いた。蓮は睡眠不足だと言って食事もそこそこに仮眠を取りに車に戻った。二人の女性は秦と親しいようで何のこだわりもなくビールの乾杯を繰り返した。二人とも秦の友人の奥さんと言うが詳細は分からない。背の高い女がしきりと乾杯を勧めた。 アサリに似た2枚貝の炒め物、 竹の子の炒め物 苦みのある葉野菜の炒め物。葉の裏側が紫色をしており沖縄のハンダマという野菜に似ている。皿に紫色の色素が染み出ていた。 川魚のフライ。厦門の田舎町で食べた種類と異なる。 鶏肉のスープ バリバリした細い焼きソーメン タロイモ澱粉のビーフン アヒルのスープ。アヒルが丸ごと入ったスープである。 最後にアヒルのスープの土鍋がぐつぐつと煮えたぎる音を立ててテーブルの中央に運び込まれた。蓋を取ると大きなアヒルが土鍋の中にすっぽりと浸かり、スープの中に香草がたっぷりと入っていた。アヒルの頭は尻の方に曲がって鍋の中に収まり、嘴を少し開いて目をしっかりと閉じて短い人生を儚んでいるかのようであった。しかしアヒルの滋養がたっぷりとしみ出した茶褐色スープは日々の生活に疲れた人間の為に存在しているかのようである。僕らは客家料理の特性スープを繰り返して飲んだ。しかしアヒルの肉を取り出して食べるには十分に満腹していた。しばらくすると再び同じ料理の小ぶりのアヒル料理が出て来た。僕らがキョトンとしていると秦は困った顔をしてテーブルに置くようにと指示して苦笑いした。女どもが「どうするのよ」と言ったように声を出したが、お前たちが持って帰ればよいと伝えたようだ。どこかでコミュニケーションの行き違いがあったらしくアヒル料理の大小を注文してしまい後で彼女たちのお土産になってしまった。秦の見栄っ張りは女性の前でははなはだ顕著である。結局、食べきれないほど注文してしまい閉口した。 店の中の壁掛けの小さなスピーカーから賑やかな音楽が流れ始めた。仲里が「ナイトタイムの始まりかな」と私に言った。夜のディナータイムの準備に入るようだ。時計を見ると午後4時を回っていた。かなり遅い昼食が終わった。仲里が「もう夕飯は要らないな」と言った。私も「全くだネ」と答えた。秦はというと、相変わらず上手い食事の取り方をしており、ビールをタイミングよく飲みながら料理は軽くつまんでいるだけだ。客に勧め上手な遊び人の典型である。2匹のアヒルをプラスチックのスープ用の容器に入れ、ビーフンやその他の料理を別の容器に詰めて女性に渡した。 外に出て街路樹のガジュマルの下で体を解した。長時間のドライブと食べるだけの行動では体の筋肉が膠着してしまい思考がおかしくなるのだ。背伸びをして体を解している私の横に信号待ちのバイクが止まった。学生風の青年が咥えタバコで生意気な顔をしてこちらを見た。何処の国でも大人になったばかりの青年はエネルギーを持て余し、無遠慮な視線を往来の人々に投げつけて虚勢を張って我が道を探しているようだ。 車で寝ていた蓮を起して僕らは客家料理店を後にした。女性たちは5分ほどで車を降りた。秦の話では今晩の泉州でのカラオケバーで合流する予定であったが、都合が付かなくなったようだ。僕らが福州市に来たのは彼女たちを誘う目的であったのだが頓挫したようだ。秦の行動に目的はあっても計画は無い。僕らは今日の行動は200㎞のドライブをして年増女と遅い昼食を取っただけの結果になったようだ。 午後5時、僕らは再び退屈なドライブで150km先の泉州市に向かった。交通量が増えだして途中で暗くなった。道路工事はライトをつけて続けられていた。軽装の作業員達がのんびりとエアコンプレッサーの削岩機で岩石を割り、それをトラックに積み込んでいた。中国大陸の人々の労働ペースは日本の労働環境とは異なる様だ。泉州市に着いた時には陽が落ちて市街地は既に夜の顔に変化していた。街角で二人の男を拾った。 「先輩、此処の海鮮料理は美味しいです。何を飲みますか。ビール、紹興酒?」 「海鮮料理なら白ワインだね」と仲里が言った。 「オーケー、今日は白ワイン」 「良かった、ワインならがぶ飲みはしないだろう」と仲里が沖縄弁でささやいた。 「そうだね、一気飲みは勘弁だよ」と私も沖縄弁で返事した。 15分ほど走って家並みが途切れた場所で車を停めた。蓮が何やら秦に話している。 「先輩、蓮さんここに大きなアパートを建てる。政府のオーケー貰った」 車のライトに照らされた先には作業小屋と小型のショベルカーがあり、その先に原野が広がっていた。あたりに明かりは全くなく周辺のロケイションは判断できなかった。ただ、潮の香りをわずかに含んだ穏やかな風が絶え間なく雑草を揺らしており、海岸からあまり離れていないような気がした。 車は再び走り出して街灯の無い古い家並みを縫うようにして進んだ。時折、民家の庭先のベンチに座って談笑する老人達の姿がライトに浮かんだ。民家の室内から漏れて来る薄明かりの下で夕涼みをしているようだ。この辺りは想像以上に電力事情が良くないようだ。対向車を避けながら海岸の防波堤の横を走る狭い道路しばらく進んで止まった。車が4,5台停まった古ぼけた2階建ての食堂である。街灯に照らされた道向かいの空き地にはたくさんの貝殻が捨てられていた。それこそ中型ダンプで何台もこぼしたような小さな盛土が点在していた。防波堤の方向から浜風に乗って潮の臭いが流れて来た。海藻の臭いでなく泥を含んだマングローブ特有の臭いである。市街地から遠く離れているようで辺りは完全な闇の中に沈んでおり、地元の人々だけが知る海辺の海鮮料理店のようだ。蓮が店と交渉して2階の個室に入った。この辺りのレストランでも個室はトイレを備えており、厦門の四つ星ホテルと同様である。日本と異なる感性だ。先ほど車に乗り込んで来た二人は泉州市の検察官の高さんと蓮の代わりをする運転手だ。さらに地元の警察官二人が同席した。右腕にギブスをした若い丸刈りの男は小柄であるが、精悍な顔つきと引き締まった体をしており、如何にも公安員という印象である。 台湾の料理店でよく出て来る摘みの焼きピーナッツがテーブルに載ると、運転手がビールの栓をポンポンと抜いて僕らのグラスに注いだ。自らは甘い烏龍茶だ。蓮さんの音頭で乾杯をすると料理が運ばれてきた。 「チェンジ・ホワイトワイン○○○○」秦が広東語で女店員に伝えた。 「仲村さん、今晩はワインだから一気飲みは無いね」と仲里が笑顔で言った。 しかし、女店員の代わりに男子の店員がワインをビールケースに入れて持ってきた。 「なんてこった。仲村さんお願いだから私の分も飲んでください」仲里が下を向いて言った。 「ワインの一気飲みは翌日頭に残るぜ」と私も顔をしかめた。 中国全土か南中国の習慣であるかわからないが、彼らには優雅なディナーという感染が欠落しているようだ。中国のカンフー時代劇の映画のシーンでは豪快に食らいかつ一気に酒を飲むのが習慣の如く描かれているが、あれは映画の世界ではなく来客をもてなす現実の習慣なのである。僕らは観念してこの習慣に従うしかなかった。 泉州市は普江川の河口に栄えた港町である。大きな河川に近い海は山から運ばれてきた自然の養分で魚介類の豊富な漁場を形成すると言われている。陸地の養分が海に流れ出て微生物を養い、微生物はカニ、貝、エビ、小魚を養う。そして海の食物連鎖は豊かな漁場をけいせいするである。海鮮料理店の食材は全て地元産とのことだ。P24海鮮料理 - コピー 最初に出てきたのは岩場に生息する人差し指の先程大きさの巻貝の空炊きした料理だ、爪楊枝でほじくり出して身を食べるのだ。話しながら食べるのに丁度よい。食前酒の摘みのようなものだ。メインディッシュが出来るまでの繋ぎでもある。 小エビの炒め物。オキアミほどの大きさのエビのピリ辛味付け炒めでビールに合う。 細長い二枚貝の炒め物。小指大の細長い白い貝が高温の油で炒められた新鮮な食味だ。 茹でたタコ。鶏卵程の大きさの茹でたタコは柔らく美味い。 茹でたイカ。15㎝程の小イカでタコ同様に美味い。 ハゼの煮付け。ムツゴロウに似たトビハゼの煮付けである。骨まで煮えており頭ごと食える。泥臭みは全く無い。 苦瓜炒め。沖縄のゴーヤーチャンプルーより水っぽい。沖縄のゴーヤーチャンプルーには及ばない。 アジの煮付け。手のひら大のアジの煮付け。唐辛子の効いた煮付けだ。 茹でた蟹。地元産のマングローブガサミを香草と共に茹でてある。握り拳大で新鮮だ。台湾で食べたインド産の蟹より数段美味い。 若い警察官同士が指ジャンケンで遊び始めた。P25中国ジャンケン - コピー地元の酒の座での遊びらしい。よく見ると沖縄でも古い時代に流行った遊びに似ている。海洋博公園近くの本部町備瀬集落の祭りの酒席で見たことがある。福建省から琉球に伝わった遊びであろうか。互いに片方の手の指を1本、3本、4本と出すと同時に双方の指の合計を交互に発声するのだ。合計が合った方の勝ちである。合計が合うまで連続して続けるのだが、指を出し発声する速さが次第に早くなり、声も大きくなって白熱してくる遊びだ。大声を出す割には勝敗が簡単に決まらない。やる側は興奮するも見る側はそれ程面白くもない遊びである。私はその遊びを見て言った。 「この遊びは複雑でさっぱり勝負がつかない。ジャンケンポンの方が簡単だ」 彼らが一斉に顔を上げてそれではジャンケンをしようと言い出した。ジャンケンは中国でもポピュラーなようだ。私が立ち上がって「レッツ・プレイ、秦」と秦を指差した。 「ジャンケンポン」秦の勝ちである。 「先輩、一気」とワインを指差した。私は一気にグラスを空にした。それを見て皆が立ち上がってジャンケンを始めた。勝った者同士、負けた者同士のオールラウンドでジャンケンを繰り返すのであるから僕らの部屋は騒々しくなった。 P26ジャンケンポン - コピー右から秦、蓮、一人置いて高さん 暫くすると地元の名士である高さんを訪ねて他の部屋から挨拶をしに来た者までジャンケンに加わった。この部屋のワインが空になってワインがどんどん追加された。僕らはなにが何だか解らなくなった。 気がつくと午後11時である。ワインを注ぐ係となった運転手の後ろに空き瓶がケースからあふれていた。アルコール分が低いのであろうか飲んだ割には酔いが回っていなかった。テーブルの上もイスの周りにも料理の残骸が散乱していた。私も仲里もいつの間にかこの地のテーブルマナーに染まってしまっていた。 「オーケー、先輩、ホテルに行きます」 仲里が「やっと眠ることが出来る。今日はありがたいね」と小さく呟いた。 暫く走るとホテルに着いた。秦がフロントからカードキーを受け取って僕らに渡してエレベーターに乗り込んだ。そして最上階の7階のボタンを押した。 「先輩、カラオケタイム、オーケー」とニヤリと笑った。 カラオケバーには数名の美人ホステスと蓮、運転手、若いギブスの警察官が待っていた。蓮が「ウエルカム」と言って若いホステスの横のシートを指差した。本日も歌えぬカラオケタイムの始まりである。秦、蓮、警察官が歌っているうちに仲里が日本の演歌を探し出してマイクを私に渡した。石原裕次郎の歌を2曲連続で歌ったが酔いの為に音程が何処かに吹き飛んでいた。それでも拍手喝さいであった。其処から私の脱線が始まった。 事の始まりは定かでないが、私は上半身裸で空手の形を演じることになった。剛柔流空手の形「転掌」と「クルルンファー」を演じて見せた。おぼつかない足さばきで何とか演じると蓮が立ち上がって地元の武道の形を演じて見せた。それが終わると蓮と約束組手のまねごとを始めた。すると警察官が加わって捕縛術に似た形を演じた。やがて僕ら3名は上半身裸で腕を組んで踊り出した。まるでコサックダンスさながらである。秦の歌うリズミカルな曲に乗り、ホステスも加わって舞踏会のように盛り上がった。泉州市の夜がゆっくりと更けていった。二日酔いの片頭痛のお土産を伴ってである。 毎日が不覚の連続であり、異郷の地に自らの居場所を見つけることなど出来ぬと承知で夜になると舞い上がってしまうのだ。私は人生のストレスの根源が何であるかを探り出せぬままに異郷の大地の回廊を歩き続けている。遠い日にモーリシャスの海辺のバンガローのウッドデッキに立ち、ココヤシの群生の遥か遠くのリーフの白波を眺めて、自らの心に巣くう異形を探そうと試みたが眩しい陽光が作り出す陽炎を見るだけであった。只、旅という非日常の世界に入り込み、人生の本質に繋がる扉を開けることもせず無秩序に真理の社の壁の周りを彷徨い続けているようだ。朝を迎える度にいたずらに胃薬を消費する旅を続けている気がした。既に持参した胃薬は半分に減っていた。

(6) 8月7日(土)

午前8時、シャワーを浴びて備え付けの鉄観音を飲みながらガラス越しに町並みを眺めた。整然と並んだ街路樹の下を地元の人々がせわしく歩いている。未だ明瞭にならぬ頭でそこに住む人々の営みを見ていると何の生産性も目的も持たぬ自分の時の浪費に少しばかりの恥ずかしさを覚えた。P27朝の泉州 - コピー 泉州市に入ると目に付く銀色の丸いタワー 午前9時、運転手がドアをノックして迎えに来た。言葉は通じないが朝食への誘いである。隣室の仲里に声を掛けて4階の食堂に降りて行った。何処のホテルでも朝食はバイキングである。私は朝食の定番となった粥に少しばかりの野菜の炒め物とゆで卵である。仲里はしっかりと朝食を取っている。日ごろから体を動かして働いている男は頑強な回復力を持っているようだ。秦が疲れた顔でやって来て少しばかりの朝食を取った。 「先輩、今日はローカルの観光です」 「オーケー」 僕らは着替えの入ったビニール袋を持ってロビーに降りて部屋のキーを秦に渡した。このホテルの精算は蓮がしてくれたようだ。昨夜の運転手と別れて蓮が車を運転してホテルを後にした。 午前10時、ホテルを後にして再び蓮さんのマンション建設予定地を見に行った。 其処は埋め立て地の湾岸道路に面した広々とした都市開発計画地の一角であった。未だ大型建築工事は始まっておらず数年後の新興都市の予定らしい。既にパイル打ちが始まっている場所も幾つかあって活気が一気に噴出する予感が漂っていた。 蓮は事務所に戻り、新しい運転手と現地ガイドの男を乗せた。後部座席が窮屈になった。湾岸道路は片側1車線であるが幅広い植栽スペースを設けてあり、都市開発の進行に伴って片側2車線に増幅できるようになっていた。植栽マスの中のアラマンダの黄色い花を咲かせていた。開発と景観作りが並行してなされておりこの国の経済力が着実に伸びているのを感じた。 30分ほど走って海岸近くの集落に入った。道路の突き当りの公園に車を停めた。宗武古城風景公園と表示されていた。入園料と観覧車の代金を払って公園の中に入った。P28石像公園 - コピーこの地区の民族衣装を着た女性運転手が観覧車を運転して園内を回った。チャイニーズハットにカラフルなスカーフとスカートである。P29観覧車ガイド - コピー この地域は福建省のなかでも独特な服装をした民族が暮らしていると秦が説明した。尤も若い世代は既にこのローカル衣装を着用しないらしい。情報化の時代の若い世代のファッション感覚を虜にする衣装ではないのだろう。この地は花崗岩の産地であり公園内には様々な動物や人物の石像が立っていて面白い景観を構成している。海上の岩石までも亀の形に彫り込まれている。西遊記の三蔵法師一行の石像も海岸の岩場に立っている。海岸は海水浴場へと続いている。この海の向こうは幻の琉球王国だろうか。P30亀 - コピー 公園を後にしてこの地域の未だ開発の進んでいない町に入った。町の店先には先ほどの公園の観覧者の運転手のユニフォームより少しだけ地味なローカルの衣装をまとった女性がごく普通にいた。男性は何らの特徴もない地味な服装であるが女性はカラフルな衣装で働いている。何処か異国の文化の影響を受けているのだろうか。只、ローカル衣装の女性は全て中高年であり、若くてこの衣装を引き立てる程の美女に出会うことが無かったのは残念である。p31ローカル市 - コピーp32民族衣装の母子 古い集落を抜けて海岸道路を走った。通りでは若い男が往来の車に駆け寄って刀剣に似た土産を売っている。観光客の姿の見えないこの辺りの情景に似合わぬ男の行動である。時折理解できない光景が中国には出現する。牡蠣の殻が3mの高さに野積された捨て場の横の悪路を抜けて護岸沿いの養殖場の管理道路走った。水面にカキ養殖のブイが延々と続いている。p34カキ養殖水深はそれ程深く無いようだ。この辺りも干拓事業が進むだろうと秦が説明した。蓮のマンション建設予定地は対岸にあると指差した。途中に牡蠣専門のレストランがあったが閉店日らしくゲートが閉まっていた。僕らは牡蠣の産地の恩恵を受けずにこの地を去ることになった。 午前11時40分、現地ガイドを降ろして厦門に向かった。道路脇には石材店が数多く並んでいる。烏龍茶を専門とするお茶屋もある。泉州市は石材と茶とワインの産地である。高速料金所の入り口の路肩で車を停めて秦と運転手がダッシュボードからナンバープレートを取り出して針金で取り付け始めた。料金所の中から警察官らしき男が出てきて運転手に質問した。昨日の書類を見せると立ち去った。料金所の制服を着たスタッフが右上の建物から金庫に似た箱を抱えて降りてきて料金所の中のスタッフと交代した。時計を見ると12時である。小腹が空いてきた。厦門まで75㎞の距離である。昼飯は午後1時過ぎだろう。私はポケットからのど飴を取り出して一粒を仲里に渡した。少しばかりの腹の足しになるだろう。p33石像販売所高速道路を南下して厦門に向かった。秦は運転せず助手席で眠り始めた。帰りの景色は単調であったが偶然にも中国高速鉄道車両とすれ違った。通過場所によるのかもしれないが日本や台湾の新幹線よりも高速では無かった。退屈なドライブで仮眠を取っているうちに厦門島の対岸に着いた。目の前に新築の駅が現れた。紫禁城のような威風堂々の建築物である。この程度の鉄道にお城に似た駅の建物が必要であろうかと仲里が呆れ顔で呟いた。私も同感であったが中国の鉄軌道の発展を予測しての構築物であるのか、あるいは中国政府特有の権力誇示政策の一環であるのかは不明であった。私は後者であろうと思った。 工事中の高速道路のインターチェンジは幾重にも複雑に絡み合い、運転手は2度も方向を変えてやっと厦門島の西の橋に繋がる道路に降りて行った。このインターチェンジはどれほどの物流を予測して建設しているのだろうか。 橋を渡って厦門の市街地に入ったのが午後1時過ぎである。ホテルで2度目のチェックインを済ませた後、秦のメル友の肥った女性を伴って昼食に向かった。色白で丸顔に眼鏡をかけ黒いドレス姿ではにかんだ笑顔の彼女は昨日の福州市の二人の女性よりもはるかに上品だ。きれいな発音の英語を話し控えめな態度にも好感を覚えた。コミュニケーションが取れると自然とチャームポイントが見つかるものである。街角の海鮮料理店の前に車を停めた。大きなギランイヌビワの樹冠が穏やかな影を作って昼間の暑さを和らげている。見上げると何かがぶら下がっている。よく見ると下着やらタオルやらだ。店の3階以上がアパートになっているらしく洗濯物が風で飛ばされてきたようだ。発展途上の街の   雑居空間の象徴であろうか。 p36魚種類p35貝の種類

店先には蟹、エビ、貝、魚の囲み水槽があり、エアーポンプで生きたまま展示されていた。活魚の他に氷の上に並べられた魚もあるが、日本の魚屋の店先に見られる大きなタイ、ヒラメ、カツオ等大型魚は無く、手の平より少し大きなサイズが最大である。随分前になるが広州市で2kg近い淡水魚の餡かけを食べたことはある。しかし福建省での3日間では大型魚を食べていない。小型魚の方が味の浸透が良く福建省の料理の基本であるかもしれない。 「先輩、何食べますか」 「このエビはどうだ」と元気に泳ぎ回っているシャコを指差すと 「これ美味しくない」と言ってその隣の囲みの中のエビを注文した。その他にも貝類と魚を注文して2階の個室に入った。 1階の鮮魚店に似合わず、いくつもの円卓が並ぶかなり大きなレストランだ。1階の3店舗分を賄っているようだ。1階は肉や野菜の店舗が並列してあったのを思い出した。この時間帯はランチタイムとディナータイムの中間である。ウエイターたちが僕らの個室の横から丸テーブルを転がして夜の宴会の準備を始めている。夜の喧騒までは十分な時間があるのでのんびりと働いている。 僕らはピーナッツを摘まんでビールを飲んだがあまり美味いとは思わなかった。酒浸りの日々が続いてビールを美味いと思う程の良い汗をかいていない証拠である。 巻貝の油炒め。殻が透明なカタツムリに似た小指の先の大きさの巻貝だ。手に取って口で軽く吸うと中身が出て来る。味は確かに海の貝である。一つ、二つと口にしてはビールを飲む。 秦と仲里と私の3名での一気飲みはない。正しいビールの飲み方だ。酒は自分のペースで飲むにかぎる。運転手は甘い烏龍茶だ。飲酒運転はご法度のようだ。 茹でたエビ。この地方の定番で確かに美味い。 二枚貝の油炒め。割りばしほどの太さで3㎝程の長さだ。強火で揚げたせいか中身が外に飛び出している。2,3個摘まんで身を吸い出す。マングローブの泥の中に棲む貝であろうが上手く処理さていて泥臭さが全く無い。 魚の煮付け。手のひらより小さなアジに似た魚だが魚種は解らない。甘辛く煮付けてある。美味いが辛みが後からやって来る。私には少し辛すぎる。 豚足の煮付け。豚の足を煮詰めて醬油味で仕上げている。油が抜けて軟骨がトロリとしている。2年ほど前にバンコクのドイツ村でドイツ料理と称する豚足の油揚げを食べたが、今日の豚骨は比較にならぬ程美味い。琉球料理の足テビチよりも濃厚な味だ。ビールより泡盛の様な強い酒に合うだろう。 イカとセロリの炒め物。ぶつ切りの小イカとセロリを強火で炒めてある。セロリの緑色が食欲をそそる。あっさり味だ。 エンサイの炒め物。この辺りの野菜炒めはパクチョイでなくエンサイだ。火加減とだし汁の味付けが抜群だ。エンサイは火が通らぬと青臭くて不味くなるので火を通しすぎる料理が多い。この店の料理はエンサイの茎のパリパリ感を楽しめる。 午後2時30分、いつもより軽めの食事を済ませて店を出た。 「先輩200元です。安いね」と秦が言った。日本円で3,000円だ。五名で飲んで食べての料金である。女は運転手がホテルに送って行った。 「先輩、今日は暑い、少し休んで夕方に観光しましょう。足マッサージ、オーケー」 「ベーリグッド」仲里が即座に応えた。 店から少し歩いて本通りでタクシーを拾った。マッサージ店は3階建てのカラオケやらバーやらの入った雑居ビルの2階にあった。入口で秦が案内嬢に金を払った、料金表に90分・・70元、3時間・・110元等中国語で色々と表示されていた。中央のエスカレーターを登っていくとピンクの超ミニスカートの案内嬢が「ニーハオ」と笑顔で出迎えた。秦が何かを話すと部屋の案内嬢に引き継いだ。美形でスタイルの良いニーハオ嬢はマスコットガールのようだ。一人用から4人用までの区切りとなっていて入口に収容人数が記載されたパネルが掛かっていた。近くの部屋の前にフラスコに似たガラス容器がバケツに積み込まれていた。沖縄でも見かける針灸マッサージの吸い出し器具である。 僕らは4人部屋に入った。横1列に並んだリクライニングシートに座って待った。係りの男性店員が20リットルほどの木製の桶を重そうに運んできてそれぞれの足元に置いた。桶の中のビニール袋に液体が入っていた。水ではなく褐色であり何か薬草の煮汁の様である。二十歳位の若いマッサージ嬢が3名やって来た。私の前に小太りの眼鏡の女性が小さな椅子に腰を下ろした。そして靴と靴下を脱がしてズボンの裾をまくり上げて両足を桶の中に入れた。熱めの湯である。 マッサージ譲はシートの横にやってきて頭、肩、腕、背中、太もも、指先とゆっくりと揉み解していった。僕らは缶ビールを飲みながらダランとしてされるままになっていた。体のマッサージが終わると足元に座った。お湯で足がふやけるのを待っていたようだ。桶から片足を取り出して足枕の上に置いて足マッサージを始めた。香油を何度も塗って足の甲も足裏も丁寧に揉み解していく。木製のスティックで足の裏を押して刺激していくのだが、時折ツボにハマるのか痛みが走る。「アガ、アガ、ヨーンナシーヨ」(痛い、痛い、ゆっくりとして)と仲里と私が沖縄方言で交互に叫ぶと女どもが大声で笑った。秦もつられて笑った。 秦のメル友を送った運転手が戻ってきて秦の横でマッサージを受け始めた。薄暗い部屋の中に4人で寝そべってマッサージタイムである。運転手は寡黙な男で咥えタバコで人懐っこい笑顔を見せる。蓮の会社の職員が週末の時間を手伝っているのだろう。ちなみに私はマッサージなるものをあまり好まないし、肩こりに無縁である。肩が凝るのはバーベルシュラッグで僧帽筋を鍛えた後の筋肉痛だけだ。 運転手のマッサージ嬢が突然「ギャッ」と奇声をあげた。何事と右側を見ると女が運転手の腿を叩いてダダをこねている。秦が笑いながら言った。 「彼女の飲んでいる烏龍茶の缶にあいつがタバコの吸い殻を入れ、それを知らずに彼女が飲んでしまったのさ」 僕らも他のマッサージ嬢も大笑いになった。 1時間余り過ぎた頃、彼女たちは休憩に立って行った。私は枕もとの2本目の缶ビールを飲みながらぼんやりとしていた。 「先輩、夕食まであまり時間がない。観光は中止、オーケー」 「オーケー」正直なところ今朝の石像観光で十分な気がしていた。 「マッサージ3時間」秦はそう言ってスリッパをつっかけて部屋の外に出て行った。 「観光はどうでもいいよ。少し休みたい」仲里がつぶやいた。 暫くして秦が弁当らしき包みを抱えて戻って来た。そして再びやって来た女たちに渡した。仲里の横のマッサージ用具を置くテーブルの後ろに隠れるように弁当にむしゃぶりついた。まるで朝から飯も食わずに働き続けてきたかのような仕草が奇異に映った。 再びマッサージが始まった。足から始まってふくらはぎ、太腿、臀部、背筋、肩、頭へとゆっくりと進んでいった。 マッサージは5時半に終了した。秦が靴下を履きながら言った。 「先輩、take out lady ok,大丈夫」 「no need tonight」私は秦の本音ともつかぬ言葉に笑いながら答えて靴下を履いた。 立ち上がると体も足がとても軽くなっている。3時間のマッサージはそれなりに効果があるようだ。マッサージ譲たちが屈託のない笑い声をあげながら部屋を出て行った。僕らはマッサージ店のキャンペーンガールに見送られてエスカレーターを降りて行った。 雑居ビルを出てランクルで夕食の会場に向かった。宿泊ホテルと異なるホテルに着いた。このホテルにも茶房があり、茶坊主が来客をもてなしていた。古木の根に彫り込まれた虎の彫刻に感心していると林がやってきて僕らを2階の個室に案内した。シャーマンホテルと同じ大きさの部屋でトイレと洗面化粧台を備えていた。室内のインテリアも落ち着いた造りである。しばらくして劉さんと蓮署長がやって来た。今日は劉さんと蓮署長が上座である。その隣に秦とメル友だ。僕らは主賓から離れて下座に就いた。上座に近いと乾杯の催促に合うのを警戒したのだ。蓮署長の部下が2本の大瓶のワインを持ってやって来た。先日の二人だ。厦門警察署の幹部なのであろう。 「今日は10リットルボトルのフランスワインを飲もう」と蓮署長が宴席の座を仕切った不思議な笑みを浮かべて言った。 「エッ、これを全部乾杯するの」仲里が小声で言った。 林がコルクの栓を抜くとまたもや苦戦してコルクのカスを瓶の中に落としてしまった。劉さんがそれを指差して大笑いして何かを言った。給仕が差し出したステンレスの水差しにワインを移し替えて皆のワイングラスに注いで回った。私はワインソムリエの真似をしてワイングラスを手に取ってゆっくりと回した。そしてグラスを顔に近づけて香りを嗅ぐ仕草をした。ワインは高級な逸品らしく芳醇な赤ワインの香がした。昨夜の泉州市のジャンケンポンの一気飲み白ワインとは物が違う正真正銘の上物のフランスワインである。私は大きく頷いてグラスをテーブルに置き、蓮署長と劉さんの方を見て親指を立てた。そして一言「Good」と言った。蓮署長が満足そうに頷いた。 蓮署長の乾杯の音頭で宴会が始まった。当然のごとくワインを一気に飲み干した。確かに一気飲みには勿体無い本当に美味い赤ワインであった。この日もホテルの定番の上品な中華料理であった。それでもメインディッシュに一抱えもある大きな伊勢海老が出たのには驚いた。「オオー、グレイト」と私が言うと劉さんが英語で私に尋ねた。 「ミスター、ナカムラ、沖縄にもエビはいるかな」 「もちろん、エビは沢山いますよ」そう言うと劉さんの顔がすこしひきつった。私はそれを確認してからおもむろに答えた。 「沖縄のエビはこれくらいだ」と両手を20cmほど広げて示した。そしてさらに付け加えて言った。 「沖縄のエビがこのサイズになるには100年はかかるな」と肩をすぼめて言った。 劉さんが満足げな表情に変わり豪快に笑った。そして「食べてくれ」給仕を呼んで身を取り分けさせた。私のささやかな接遇が彼を満足させたようだ。 少し遅れて蓮署長の弟が運転手と共にやって来た。大阪城に似た高速鉄道駅で迎え来たようだ。私の隣に座ったのでワインを勧めると少しだけ飲んでしかめ面をしてグラスを置いた。昨夜の酒がまだ残っているようだ。会話が少し落ち着くと蓮は兄の蓮署長にカラー刷りのアパートの鳥瞰図を見せて何やら意見を求めている。署長はその図面を見て不満げに小言を言っている。この計画が気に入らないような雰囲気である。蓮が黙っていると劉さんが図面を見ながらアドバイスしている。蓮は神妙に聞いていたが、蓮署長が何やら図面を指差して穏やかな表情で蓮に話してから図面を返した。少しばかり図面を引き直して完成ということらしかった。蓮は図面をケースに戻してホッとした表情で席に戻って来た。アパートの実質的なオーナーは蓮署長のようだ。宴席は再び騒々しくなった。 林が私に向かって言った。 「仲村、昨日はジャンケンとカラオケとタイ式ボクシングで騒いだそうだな」 「エッ、もう知っているの」 「俺は何でも知っている、君のパスポートの情報もな。俺はホテルのマネージャーでもあるのだ」 「そりゃないぜ」と私が言うと、林は立ち上がってジャンケンポンを促した。 僕らは立ち上がって誰彼となくジャンケンポンで一気飲みを重ねた。蓮署長がニコニコとその様子を見ている。このホテルの別の部屋で警察関係の宴会があるらしく二人の部下は既に席を立っている。蓮署長はこの宴席が気に入っているらしくホテルの給仕が2度、3度と呼びに来てやっと席を立って予定の宴席に移って行った。部屋の入口のサイドテーブルには2本の空のワインの大瓶が乗っていた。 蓮署長が出てしばらくして台湾の蘭業者という二組の男女がやって来た。秦の話では60代のオヤジと30代の息子の夫婦連れらしい。親父の妻らしき女は息子やその嫁より若い。「おい、親父の女は随分と若いな」と秦に問うと秦が笑って答えた。 「ワイフが死んで若い女を妻に迎えたのさ」 「息子よりも若いみたいだな」 「そうだ、夜が大変だろうな」秦が笑いながら言った。秦はその若妻と親しいのかしきりとからかうような様子で声を掛けていた。広東語で何を言っているか知らぬが女はうるさいと言うような表情で口をとがらして反論しながら乾杯を重ねていた。親父はあまり飲まないようだ。息子は名刺を手に挨拶周りをしている。後妻より随分と年上に見えた。息子の妻は食事に夢中だ。 台湾の客が合流した頃からワインを飲みつくしてビールに代わっていた。厦門の長い夜が永遠に続く気がした。

(7)8月8日(日)

午前7時半、朝のシャワーを浴びると頭が少しずつ明瞭になり、昨夜のことを思い出した。確か秦が帰りの日程を1日遅らせると話しており、既に台湾行の便を月曜日に変更したと話していた気がする。沖縄記念公園の植物課の依頼で桜の木の調査をすると言っていた。秦に出来る調査がどうか知らぬが手伝ってやらねばなるまいと思っていた。延泊して困る仕事上の事情もないことだから。 午前8時過ぎに1階のレストランで朝粥を食べていると秦がやってきて言った。 「先輩、桜の調査ダメ。日曜日は公園の事務所休み。ノースタッフ」 「で、今日のスケジュールは」 「トゥデイ、ゴーバック」 「オーケー」 結局のところ、桜の木を調査する予定の公園が休園日のため、公園のスタッフに会えないとのことだ。日曜日が休みの公園は日本では珍しいがこの国ではそうなっているようだ。私は内心ホッとしていた。疲れが少しずつ溜まり始めていたのだ。仲里が食事に降りて来たのでそのことを話した。 「良かった」とホッとした顔で答えた。彼も疲れてきていたのだろう。 「オーケー、9時30分ロビー」と言って運転手と何かを話し始めた。 私は運転手に声を掛けて昨日トランクに放り込んでいた着替えを取り出して部屋に戻った。p37ファレ仕立て ホテル内の飾花:コチョウランの仕立て方が日本と異なる。ステムが横向きで日本の様に下垂仕立てでない。 荷物を持ってロビーに降りると林と秦がチェックアウトをしていた。3日分の宿泊代は取引相手のシャーマンカンパニーの植物部門が負担してくれた。しばらくソファーで待っていると蓮がお土産の鉄観音茶を持ってやって来た。僕らは抱き合って肩を叩いて別れを惜しんだ。蓮は運転手付きのランクルで泉州に帰って行った。チェックアウトを済ませた林がやはり鉄観音茶のお土産をくれた。 「先輩、これ値段高いよ」と秦が笑いながら言った。 「秦、10時だぜ、フライトは11時だ」 「ダイジョウブ、エアポート近い、5分」 結局10時30分に林の車でホテルを出た。確かに5分で空港に着いた。私は林と抱き合って別れを惜しんだ。離れ際に林が私の右胸を指先で突いて来たので大胸筋をキュッと硬くした。林は驚いた顔で笑った。私はいつの間にか彼らの間で武道家としてのうわさが立っているのかも知れない。何だか気恥ずかしく思ったが旅先の酒の席での噂で捨て置こうと思った。遥か彼方の沖縄の田舎町の道場の館長や道場仲間に迷惑が掛かるわけでもないだろうしと思った。 秦との旅行は慌ただしさと退屈な時間の浪費の混在したものである。日本人の時間に関する感覚との誤差が大きいのだ。この日も登場10分前に手荷物を預けて列に並んだ。秦はVIPルームのチケットを1枚渡して「先輩、チョット休憩して下さい」と渡した。旅行好きの彼はチャイナエアラインのマイルサービスでVIPルームの利用チケットを入手しているようだ。秦は一人で洒落た行為をすることが得意ではないようだ。彼は品位よりも猥雑な喧騒が好きな男の典型である。私は旅行メモを書きながらオレンジジュースを飲んでいたが、空港スタッフの女性が搭乗者の呼び出しにやって来た。私は10分も休まぬうちにVIPルームを出た。これまで桃園とクワラルンプルの国際空港でon timeの時間を間違えて搭乗者の呼び出しを受けたことがある。機内でイライラして待っていた乗客から白い目で見つめられる中を席に着くのはとても気恥ずかしいものである。チケットを手に既に短くなった登場者の列の最後尾に並んだ。秦はチラリと私を見て言った。 「先輩、まだ大丈夫だよ」確かにまだ大丈夫だが、5分後には間違いなく館内放送で呼び出される状況だ。秦にとっては呼び出されることなどさしたることも無い。飛行機は乗客を置いてきぼりにしないことを理解しているのである。機内アテンダントのクレームなど酒場のホステスの小言程度にしか思わない男なのだから。未だサラリーマンの経験が無く、台湾国軍の高名な上級将校の故人を父にもつ賃貸ビルのオーナーにとって日本人的な時間の概念など生活の中に存在しないのだ。 チャイナエアラインは定刻通りに厦門空港を飛び立った。おそろいの制服を着た小学校高学年らしい団体旅行生が機内で騒いでいた。中国の富裕層の子供たちであろうか、あどけない顔の中に旅立ちの興奮が見て取れた。子供の発する無邪気なエネルギーは何処の国でも同じだ。 台風17号が近づいているらしく機体が少し揺れた。その度に子供たちが楽しそうに笑って騒いだ。飛行機の揺れを気にするのは大人だけだ。飛行機は桃園国際空港の滑走路に向かって降下しながら着陸態勢に入りガタンと車輪を出した。そして車輪が滑走路に一度接地した後に再びエンジンの回転を上げて上昇した。乗客の大人が一斉にどよめいた。飛行機は20分ほど桃園の上空を旋回した。台風の影響による着陸のやり直しである。2度目はごく普通にランディングした。飛行機は離陸よりも着陸に弱いようだ。エンジンの出力を落として滑空しながら着陸する際の横風に弱いようだ。 秦とは第1ターミナルの乗り継ぎカウンターの前で別れた。彼との別れは何の惜別感も無い。無表情で片手をあげてムービングウォークの上を移動していくだけだ。まるで一日の仕事を終えた社員同士がそれぞれの自宅に向う駅のホームで「またな」と別れの合図をする程度である。4日間の夜の狂騒曲を演奏した跡など微塵も感じさせない。 僕らは乗り継ぎカウンターでCI-122のチケットを交換し、第2ターミナルまでの長い通路を移動した。途中で少しばかりの土産を買い、軽食のサンドイッチで昼食を済ませた。そして搭乗までの3時間を未だ乗客の少ない登場待合室で仮眠を取って過ごした。 4時10分、台湾人、日本人、アメリカ人の混ざった旅客共に台湾を飛び立った。機内では日本語が飛び交うようになり、沖縄が近くなったのを知った。定刻通り日本時間の午後6時30分に那覇空港に到着した。仲里はいつもの様に奥さんが迎えに来ていた。 「お疲れ様」と奥さんが言った。 「少し疲れましたね」と私が答えると 「秦と旅行するといつも疲れるよ。仲村さんがいて良かったよ」と仲里が笑いながら疲れた声で応えて奥さんと二人で出て行った。私は職員に電話して空港内の自社契約駐車場に止めてあった車を届けさせた。社員にお土産のチョコレートを1箱渡して帰路に就いた。 午後7時、夕暮れの那覇市内は日曜日とあって交通混雑も無く、私はゆっくりと那覇空港自動車道を北上した。高架橋の上から左手に夕日に染まった那覇の市街地が見えた。既に私の頭からは厦門の夜の舞踏会で狂騒曲に踊らされた不思議な旅の感覚が消えて、明日から淡々と続く退屈な日常の予感が占めていた。只、喉の痛みだけが今週の無節操な旅の余韻を残すだけであった。 追記 9月に入りヨーキンからメールが入った。ノボタンの増殖が上手くいかないとのことであった。結局ノボタンは諦めることにしてコチョウランの1.7”ポット苗の2,000鉢を導入することにした。この旅の宿代・飯代の返礼である。いわゆる一宿一飯の仁義としての付き合いだ。しかしシャーマン・カンパニーとの付き合いは次第に希薄になって行った。旅の後に台湾国際蘭展示会を訪れた際に、秦の車で劉さんとベトナムの女性蘭業者と共に阿里山に登り、終日を愉快に過ごしたのを最後に関係が途絶えた。変わらないのは秦との奇妙な交友関係である。

2017年10月29日 | カテゴリー : 旅日誌 | 投稿者 : nakamura

ボルネオ(6)

9月29日(月)

シムと共にホテルを出た。海岸近くのレストランに秦と黄が待っており、ヌードルスープの朝食をとって会場に向かった。会場入口のテナントは朝から盛況である。ランを始めとする植物だけでなく、ボルネオの民芸品も多種多様に販売されていた。民芸品よりも工芸品に近い品質の商品もあった。私はネペンシスの苗と籐で作られた小物入れを土産に買った。小物入れは十分な強度があるだけでなく実に精巧に作られている。庶民の市場で売られている商品とは出来が異なるようだ。国際展示会にはそれなりの商品が出品されている。陶器も気に入ったデザインであったが持ち帰るには大きすぎた。

セールスブースを物色する黄

私はシムの入館証で展示会場を見て回った。金曜日の内覧会で見落としたコーナーを丁寧に見た。サボテンは数品種を組み合わせた盆栽の妙技が如実に表れている。写真は蘭の展示会と言うより写真コンクールである。蘭の品種でなく光の妙を競う芸術作品だ。フラワーアレンジメントは地元の材料をふんだんに使った力感のある作品であった。

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サボテンの寄せ植え

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写真部門のNo1

会場を一回りして帰ってくるとシムがテナントから声を掛けてきた。秦が会場内のレストハウスいるからと誘った。黄も何やら土産を持ってテーブルに肘をついていた。僕らはコーラと焼きそばに似た軽食で腹を満たした。

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シムの販売ブース

私は秦に言った。

「作品は十分に見たので市内の博物館に行きたいのだがホテルの近くに戻る人はいないかい」と尋ねた。シムが「OK」と言ってすぐに手配をしてくれた。

私がシムの友人と共に立ち上がると秦が言った。

「夜は先輩の部屋でパーティです。夕食を持っていきます。6時に行きます」

「OK.後で会おう」

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サバ州立博物館前のモニュメント

サバ州立博物館はしっかりした建物である。夏休み期間あろうか1階の大ホールでは子供向けのお化け屋敷に類するイベントが開催されていた。子供の甲高い声が館内に響いて賑やかである。私が吹き抜けとなった2階の展示会場から覗いてみると森林風の装飾がなされており、日本のお化け屋敷と趣が異なっていた。

博物館の展示物はボルネオの歴史が写真パネルで分かりやすく紹介されていた。この地区は華僑の影響を古くから受けていたようだ。国の統治は英国や日本の支配下にあったようだが、住民の生活は華僑が実質的に支配していたようである。シムの話によると今でも中華系の私立学校の教育レベルが高いという。秦の口癖の原住民は公立学校に通っているとのことだ。それにしても秦はどこで「原住民」いう日本語を覚えたのだろうか。私にとって響きの良い言葉では無いのだが、さりとてたしなめる程の悪意をもって使っているわけでもない。

首狩りシャツ

シムが土産にくれたTシャツ、前後にこのプリントがあり、未だに着用する勇気はない。

首狩り族の風習についての記述によると、テノムでは二次大戦の前までその風習が残っていたらしい。そこはボルネオ島の内陸部で外部との接触が乏しい地域である。現在ではテノムコーヒーが有名である。博物館には民具や武具、動物の標本などが展示されていて興味深い。博物館のショップを尋ねるのも楽しみの一つだ。そこには上質の土産があるのだ。クアラルンプルでは、硬質の木で制作された鳥の彫刻を手に入れた。オーストラリア・ケアンズの植物園では針葉樹の硬い実で作られた宝石入れを手に入れた。ここでは既に貴重品となりつつあったスズ製のペーパーナイフを3本買った。マレーシアは錫の産地であったが次第に産出量が少なくなっているらしい。スズ製品ではビールジョッキが一番だ。スズは熱伝導度が早く、ビールの冷たさを存分に楽しめる。他にはラフレシアの写真の絵葉書を1枚買って、会社で留守を預かっている上間女史あてにホテルで投函した。

土産ペーパーナイフと小物入れ。ペーパーナイフは錫の純度が高く自重で湾曲する。籐製の小物入れは強度も機能も抜群である。

丘の上にある博物館から歩いて公道に出た。タクシーを難なく捕まえてホテルに戻った。私はホテルのロビーにある旅行案内所をすぐに尋ねた。

受付の女性にテノムに行きたいのだがタクシーを利用できるかと尋ねた。ホテルの外にはいつでもタクシーが止まっており融通が利くだろうと思ったのだ。彼女の答えは「ノー」であった。その代り車とドライバーを手配することが出来る。私が午後4時の便で台北に帰るので午後2時半までの戻れるかと尋ねると。午前8時に出発して2時間のドライブで公園に着くので、2時間の見学そして再び2時間のドライブで戻ってくるスケジュールだと笑って言った。そしてテノムの農業公園を見るには2時間では不十分であるとも言った。

私は書類にサインしてクレジットカードで清算した。車と運転手の代金を含んでいることを確認して礼を言った。

「明日の朝7時30分までにロビーで待ってください。ハンというドライバーが迎えに来ます」

6時になると秦がいつものメンバーで騒々しくやってきた。皆口々に素晴らしい部屋だと言った。しかしすぐにソファーを片付け車座になり、持ち込んだ料理を開いた。部屋にあるすべてのグラスとコーヒーカップを集めて酒を注いだ。私を含めて部屋のグレードに興味を持つ者はいないのである。

僕らは旅の最後の夜に何度もグラスを空けた。そして相変わらずバカな話で盛り上がった。ジュディのTバックの可愛い尻に蛾が着いて大騒ぎになったことや原住民の女の見分け方は、両乳首の間隔が広いほうが原住民だという秦の持論に「それはお前の彼女だろう」とルイスが小指を立てて言った。

ルイスが私に尋ねた。

「初めてのボルネオはどうだ」

「ラフレシアを見たかったが秦が谷間に降りるのが難儀だと言って行けなかった」

「秦は怠け者だからな」

「そう言うなよ、先輩の会社のUさんは帰りの坂道で心臓が止まると泣いていたぜ」と身振りで笑いを誘った。

「秦と山に入るから駄目だよ。この次は俺がネペンシスを踏みながら歩く場所を紹介するよ。ウサギが溺れぐらい大きな袋のネペンシスもあるぜ」

「ところで、明日はひとっ走りテノムの農業公園まで行ってくるよ。車とドライバーを手配した。午後2時半までにホテルに戻るので出発の時間に間に合うだろう」と私が言った。するとルイスの顔色が変わった。

「オー・ノー、それならジョーの車で行きなよ」

「でも、料金を既に払ったぜ。皆忙しい毎日だから」

「解った、これを出発前にドライバーに渡したくれ。俺に電話させるのだ」ルイスがテーブルの上からメモ用紙をちぎって自分の携帯電話の番号を書いて渡した。

「オーケー、解った」

シムが何か言いたそうであったが何も言わずに話題を変えた。私は少し気になったがそれ以上は言葉を繋がなかった。

少しだけ座が白けかけたが再びバカな話で盛り上がった。シムの生まれて来る子供が女か男か、本当にシムの子か。ジョーは毎晩奥さんに苛められて過ぎて腰が悪くなった。本当は腰が治っているのにワイフが怖くて痛いふりをしている。マザコンの劉はお袋さんが心配するので2泊で台北に戻った等、言いたい放題で酒を飲みつくして帰って行った。

9月30日(火)

朝のシャワーを浴びてフロントでチェックアウトを済ますせた。ロビーの案内所の近くに外国人の旅行者が数名ほど人待ち顔で立っていた。皆トレッキングの装備である。キナバル山に行くのだろう。午前7時30分に車が来た。案内所の女性が男を紹介した。ハンと名乗った。小柄の若い男だ。案内嬢の「良い旅を」の声を背にロビーを出た。

シムのアウディより小さな車だ。それでも男二人を載せて走るには十分な馬力が出るだろう。私はルイスのメモを渡して電話を掛けさせた。ハンはニコニコして何かを話していた。僕らは直ぐにホテルを出て3号線に乗った。最初の日にシムが案内した道路を登って尾根の裏側に降りた。クロッカーレンジ保護区の東の端の峠を越えて西の端のテノムに向かった。キナバル山系の保護区とは異なる地域である。標高は低いが面積は広い保護区だ。保護区の南側の盆地を車は走り続けた。3号線の途中にどこまでも続く直線道路があり予定の時間でテノムには行き着くのかと不安になった。民家が続く地域に入った時に雑貨店の前でハンに車を停めさせた。私は朝食代わりの菓子パンとペットボトルの飲料水を買って車に戻った。

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3号線の直線道路

2時間もせずにテノムの農業公園の案内板が見えた。パンフレットにはテノムまで160kmとあったが、それ程の距離は無いようである。案内板に従って左折した。しばらくして赤く濁った川を横切った。この川はブルネイ湾に流れているらしい。道路脇の農場にはカカオの果樹園が広がっていた。近くにコーヒー園を見ることは無かった。

公園の駐車場でハンに12時までに戻るからと告げて公園内に入った。チケット売り場で数名の西洋人を見かけたが公園内で出会うことはなかった。この公園はとても広いのであろう。

公園のエンテランスは見事な遠近法で演出されている。模様煉瓦の歩道の両脇がシンメトリー植栽されている。背の低い斑入りの植物はアダン(タコノキ科)の一種だ。その外側を斑入りのカンナが列植されている。ヒメショウジョウヤシが5m間隔で続き、その後ろに間を埋めるようないゴールドクレストに似たコニファーが等間隔で続いていた。この先に王宮があるような導入部である。

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テノムの農業公園のエンテランス。

公園内は樹種別、有用植物、庭園、野生ランの収集保護施設物、研究施設に区分されているようだ。公園内で働く人々の住居もあり、洗濯物を干している女性の姿を見かけた。

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花は良い香りがしてレイなどに使われる。沖縄県の屋外でも栽培できるが、これだけ多くのの花はつかない

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キャノンボールの花

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花を咲かせたことはあるが、着果は難しい

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有用植物エリアのマンゴスチン

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ヤシのコレクション

菓子パンを食べながら園内を早足で歩き写真を撮りまくった。植物好きにはたまらないエリアだ。しかし、よく歩くと腹が空くものだ。果樹園の中でマンゴスチンを見かけるもシーズンオフだ。ザボンに似た柑橘を見たが手が届かない。ランブータンを見かけてラッキーと思った。それでも立ち止まってあたりに人影が無いことを確認してから赤く色づいた実をもぎ取った。この中にはレイシに似た甘い果肉があるはずだ。

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ランブータンの樹形

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オオアリのついた果実

私は指の付け根にひどい痛みを感じてランブータンの果実を離した。よく見ると手足の長い大きな蟻が噛みついているのだ。老眼の始まった視力では蟻がいることに気付かなかったのである。食べ物を得る先着順位を破るとペナルティがあるのは当然だろうとあきらめて園内の散策を続けた。

公園内の植物で驚いたことがあった。樹木に着生したコチョウランの改良種が開花しているのだ。低温反応で花芽を誘導する植物が赤道直下の植物群と同じ条件下で開花しているのだ。今日は9月30日である。このステムは8月頃から咲いているのだろう。思うに、この地区は昼夜の気温差が大きく、コチョウランの花芽分化を促す要因となっているのだろう。植物の多様性には驚くことばかりだ。

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開花中のコチョウラン。

ブーゲンビリアの庭園、竹をうまく使った中国庭園も飽きない修景である。どのエリアも知恵と労力が十分に投入された見事な管理である。1級造園施工管理技士の資格を持つ私の能力ごときでは真似のできないレベルだ。植物好きならサバ州に来てテノムの農業公園を見逃してはいけない。

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ブーゲンビリアの庭園

竹庭

竹と奇岩を配した中国式庭園

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東屋とネペンテスを模したくずかご

12時に公園を発ってコタキナバルに向かった。2時半には余裕があったので、先日シムと立ち寄ったドライブインで遅い昼食をとった。フライドチキンとチャーハンの定食を二つ注文してハンと食べた。ハンは近い将来日本に留学したいと話した。年齢は20歳で私の印象よりずいぶん若い。只、言われてみると20歳に見える。

ハンはホテルではなくシムの家に車を停めた。そしてトランクから私の荷物を降ろしてくれた。シムが笑いながらハンと握手をして何やら話した。知り合いらしい。私はポケットから200RMを出し「ありがとう受け取ってくれ。助かった。良いドライブだった」と言って握手を求めた。ハンは満面の笑みで手を握り返してきた。

秦が戻ってくるまでシムの家で待った。何やら注文していた土産を取りに行ったらしい。テーブルに置かれた新聞の一面に写真入りで事件のことが載っていた。不法入国のフィリピンギャングと警察が銃撃戦になってギャングの一人が射殺された。警察は逃げたギャングの消息を調べているらしい。昨夜のルイスの心配はこの事件であったようだ。

秦がアイスクリームの表示のある発泡スチロールの箱を2個持ってルイスの車で戻ってきた。僕らは急いで空港に向かった。黄がウオンと共に待っていた。シムとルイスとウオンにお礼を言って別れ、僕らは荷物を預けイミグレーションを通過した。

「先輩アイスクリームが重たいので1箱お願いします」と言った。

「OK.サバのアイスクリームは特別なのか」

「イエス」と真顔で答えた。

夕暮れの闇が迫る中、僕らは中世国際空港に到着した。段の運転する車で空港に近い秦の農場に向かった。秦はアイスクリームの箱を開けて中からビニールの袋を取り出した。アイスクリームの代わりに熱帯魚が1匹ずつ入っていた。

秦は急いでバケツに移して写真を撮った。現在の状態を記録するのだそうだ。

「マジックでアイスクリームが熱帯魚に変身」と私が笑うと秦が言った。

「これは持ち出し禁止の魚、1匹3万NT$で買った。もし空港で見つかると先輩もこれね」と両手を突き出して手錠をかけられた真似をして笑った。大きな水槽の中の熱帯魚を指差して「これは40万円」と自慢げに言った。

秦の農園の近くの食堂で夕食をとった。そして黄を桃園の高速バス乗り場に送り、台南行きのバスに乗り込むのを確認してから台北の私の宿泊先であるゴールデンチャイナホテルに送ってくれた。ロビーで陳先生が待っていた。

「先輩、明日の朝11時に迎えに来ます」と言って帰って行った。

私はホテルのフロントでチェックイン手続きをした。1週間も英語だけで話しているとフロントの女性が日本語で話し、私が英語で答えるという奇妙な会話となってしまい、それに気づいて思わず苦笑した。明日の朝、ホテルで先生と朝食をとる約束をして部屋に向かった。

10月1日(水)

ゴールデンチャイナホテルの朝食レストランは様々な国の言葉が飛び交っている。先生と朝食をとってからチェックアウトを済ませ、荷物をフロントに預けて市内の観光に出た。土・日であれば建国花市場で植物観察を楽しめるのであるが、この日はタクシーで中世記念堂へ向かった。台湾の初代大統領蒋介石を記念して造られた施設だ。庭園と蒋介石の遺品を収めた施設、記念広場で構成されている。中国式庭園を回り、記念館の中で蒋介石の遺品を見た。権力者を象徴する遺品が展示されていた。愛用のキャデラック車が当時のナンバープレートのままでレッドカーペットの上に鎮座している。古い車種であるがよく磨きこまれている。広場では建国記念式典のリハーサルが行われていた。部外者の見学を規制することもなく自由な空気が流れていた。私の好きな台湾の国民性がそこにあった。

中世公園の私

陳先生と別れて秦の運転する車で桃園に向かった。農場の犬に餌をやるために立ち寄った。昨日の熱帯魚は大きな水槽の中で悠々と泳いでいた。私は観賞魚の趣味は無いのでその価値は解らないが、秦の話では一年後に50万円の価値が付くと言う。熱帯魚に興味は無いが、彼の広い温室は空調設備付きで様々な蘭の原種が取集されていて興味深い。P.giganteaはヘゴ板着生で100株以上がぶら下がっている。只、彼の性分からして商売は難しいとも思っている。

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秦の温室、パット・エンド・ファンの空調を装備

近くの食堂で遅めの昼食を取って空港に送ってもらい、16時のCI-122便で那覇空港に向かって飛び立った。カバンの中には食堂で作ってもらったイカの口だけを炒めたビールの摘みがお土産として入っていた。1パックだがイカ100匹分はあるだろう。私の奇妙なボルネオの旅は終了した。そして旅の付録ともいえるコタキナバルのホテルで投函したハガキは、出社後1週間を過ぎてから届いた。 (完了)

2015年8月28日 | カテゴリー : 旅日誌 | 投稿者 : nakamura

ボルネオ(5)

9月27日(土)

午前9時30分、ホテルのチェックアウトを済ませてロビーで秦を待った。ロビーでは観光案内相談コーナーの設置作業が始まっていた。会議用テーブルにクロスが掛けられパンフレットが並べられている。キナバル登山、サンダカンの動物探索等のパンフレットだ。秋の観光シーズンが始まるのであろうか。地元の英字新聞を拾い読みしていると秦と黄が迎えに来た。ルイスの兄のジョーがトヨタのランドクルーザーで待っていた。屋外電気配線の会社に勤めているとのことだが、腰痛が悪化してハードな現場作業から退いているらしい。それでも時折、この4輪駆動車で田舎の集落を回って電気配線の改修工事が必要な地域の調査を担っているとのことだ。キナバル山の南側を下った集落の調査を兼ねて1泊2日の案内をしてくれるのである。ジョーは建築と不動産業を行っている色白で外交的なルイスと異なり、色黒で体格も大きく外線工事業の親方の風体だ。口数が少なく強面であるが優しい目をしている。ランクルの後部ドアを開けて荷物を積み込んでくれた。半袖シャツに半ズボン、スニーカーのスタイルだ。それでもトランクには安全ブーツとヘルメットが載っていた。

海岸線をしばらく走ると小さなフィリピン人の水上集落があった。そこは陸からの侵入橋が無く、船で往来する漁民の集落のようである。円筒型のメタリックカラーの奇妙な建築物を左側に見て、州議会の白い建物を過ぎ、ゆっくりと山道を登り始めた。道路脇には山採りの植物を販売する露店や軽食店が4、5軒連なって点在した。その中の一つにジョーが車を停めた。僕らは朝食のサンドイッチとコピアを手にして露店の中を覗いた。デンドロビューム、バルボフィルム、グラマトフィルム、シンビジューム、デモルフォルキスもある。私は輸入サイテスが不要な植物であるビカクシダを一株買った。新聞紙に包んでもらいリュックに突っ込んだ。

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グラマトフィルムの花

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バルボフィルム

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蟻の巣に生えるビカクシダ

道路は軽いアップダウンを繰り返しながらゆっくりと登っている。1,000m程登っただろうか少し耳鳴りがしたころから雨が降ってきた。キナバル山の岩山が雨霧の中に見え隠れする。ランクルの窓からは容易に写真が取れない。

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雨中キナバル4号線

キナバル山の稜線を超えると雨が上がった。車はサバ州の南東の地区に下って行った。ジョーは時々車を停めて送電線を見ては手持ちの地図に何かを記入していた。この辺りはコタキナバルよりも乾いた土地の風景に見えた。マンゴー、ドリアン、パラミツの大木が民家の周りに植えられていた。道路を我が物顔でジャージー種に似た赤毛の牛が数頭で歩いている。ジョーはクラクションを鳴らすこともなく車を路肩に寄せて牛様のお通りを妨げずにすり抜けた。

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牛様の散歩

ブルランの町で車を停めて軽食店に入った。2時過ぎの店の中は閑散としていた。コピアとヌードルで腹を満たして雑貨店に入った。秦に言われるままに頭痛薬、湿布薬、ビスケット、缶ビール1ダースを買って金を払った。この町の植栽ではゴールデンシャワーが多く使われており、鮮やかな黄色の花が垂れ下がって風に揺れていた。この4号線をさらに進み左折して22号線の終点にサンダカンの町があると道路標識が示していた。

ジョーは4号線を引き返しながら支線の集落を2か所ばかり点検した後でキナバル山の管理事務所前に車を停めた。今夜の宿の代金を払って鍵を貰ってきた。代金は秦が払った。

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ジョーのランクルと管理事務所

キナバル公園の中には大小幾つかのコテージがあり、僕らは一番奥の建物を借りた。床が少し高くなった造りである。途中のコテージの2か所だけ車が止まっており、この時期は未だシーズンの最盛期ではないようだ。施設の入口の左が娯楽室で、7つの寝室の他に大きな厨房と食堂があった。寝室にはシャワー室があったがお湯は出ず、水温20度の凛とした天然水であった。

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コテージは十分に離れて設置されている

時刻は午後4時、山の日暮れは早いとはいえ日没までは間があった。黄と共に30分ほどあたりを散策した。キナバル公園には幾つもの散策路があり、その中の一つは山頂へ向かうと表示されていた。木製の表示板には「写真以外は何も取るな」。「足跡以外は何も残すな」と書かれていた。

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写真以外は何も取るな(施設案内)

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メディニラと異なるノボタンの一種、ナリヤラン、ヘメロカリス。タンポポに似たキク科の植物を見つけた。私は表示板に従って採取をやめることにした。

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花の大きなナリアラン

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見事な株立ちのナリアラン

コテージに戻ると秦が娯楽室でビールを飲んでいた。

「先輩、この時期はレストランが早く閉まります。今日の夕食はビスケットとビールだけです」と秦が笑って言った。

「オーマイガッド。シャワーを浴びて早寝するか。TVも無し、バーも無しでは何もすることが無い」

「先輩、冷たいシャワー大丈夫?心臓危ない」と言って再び笑った。

秦は既に冷たいシャワーを体験したらしい。私が自分の部屋に向かうと秦が後ろから声をかけた。

「先輩、明日はポーリン・ホット・スプリングです」

私はキナバル山の近くに温泉保養地があることを思い出した。

私がシャワーを浴びて娯楽室に戻ると秦が嬉しそうに言った。

「シムが夕食を持って近くまで来ています。ゲストと共に」

「そいつはラッキーだ。あいつの車でよく此処まで登れたな」

「イエス、ベリー・ラッキー」と私の後ろから黄が手を叩いた。

ビールを一口飲む間もなく、シムの車のクラクションが鳴った。黄が立ち上がって玄関のドアを開けた。

「ハロー、グッド・イブニング、ナイス・ミーチュユー」とシムと一緒に騒々しく入ってきたのは昨夜のバーのホステス4名であった。秦が手を叩いて大笑いした。シムによるとこの時期の繁華街は閑古鳥が鳴いているそうだ。それにフィリピン系のホステスは信心深くて日曜礼拝を欠かさないので土曜の夜は遅くまで働かかないのだそうだ。キナバル山荘のパーティだと誘うと皆喜んで応じた。

「ただし、俺の車に乗れる体重の軽い女を選んだのさ。なにしろ古いアウディでの山登りだろ。デブはカットしたのさ」手を広げてアクションを交えながら話すとホステス共が大笑いした。何とも陽気な性格である。

ホステス相手の遊びは決まっている。男女がペアになって2個のサイコロを転がすのだ。2個のサイコロの数字の合計が少ないほうが負けである。ゾロ目も負けだ。負けた者がグラスの酒を飲み干す罰ゲームだ。ビールでは酔いが回らないので、私が持参した泡盛を水で割って飲むことにした。このゲームは単純で言葉のハンディが無くどの国でも遊べるゲームだ。サイコロ又はトランプがあればよいのだから。実際僕らは、マレーシア本国、タイ、中国、台湾でも同じように遊んでいる。

ホステスの中には酒に弱い娘もいて、代わりに誰かが飲んでも構わない。その中の一人ジュディは最も元気であって、美人ではないが陽気な女の子だ。真っ先に出来上がってしまいテーブルの上に立って踊りだした。他の女子はジュディの癖を心得ていてタガログ語で囃し立てた。僕らも手拍子で囃し立てた。ジュディは腰を振り、ジーンズをずり下ろして赤いTバックの下着の尻を見せて踊った。原生林の一角でのショウタイムの始まりだ。各コテージの間は十分に離れており、辺りの闇に騒音をまき散らしながら僕らは大いに盛り上がった。無口なジョーでさえ痛む腰をさすりながら笑いこけた。

その絶好調の時に何かが飛んできてジュディ尻に着地した。驚いたジュディはそれを払落し、ズボンを引き上げて仲間のホステスの間に飛び込んだ。ジュディに弾き飛ばされた生き物は私が買ったビカクシダの上に止まった。よく見ると蛾の一種である。シムとゲストを招き入れた際に特別ゲストとして同行したらしい。シムは毒蛾ではないからと腕に移動させて外に逃がしてやった。ホステスが安堵の溜息をついた。

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本日の特別ゲスト

シムは私のシダを見て言った。

「このシダは栽培できませんよ。蟻の巣の上に生えるシダだから。ほら、この穴は蟻の巣の跡です」と説明した。

確かにシダが着生した木質の部分に白蟻の巣のような穴が無数に開いている。蟻と共生関係にあるシダ植物の様だ。

突然の来客にパーティが白けてしまった。

「オーケー、蟻の話をしょう。ボルネオの昔話です」とシムが語り始めた。

≪蟻と蛙が河原でお喋りをしていた。近くで洗濯をしている女性を見て蟻が言った。先日の事だがとても怖い目に遭った。河原で餌を探して歩いていると小雨が降ってきた。俺は急いで女の人の腰巻の下に隠れたのさ。雨がひどくなったので女は立ち上がって移動していった。俺は振り落とされないように必死に上に登って行った。すると黒い針山にたどり着いた。俺はもう登るのに疲れ果ててあたりを見回した。すると近くに洞穴があった。少し湿っていたが中に潜り込んで休むことにした。どのくらい寝たのか知らないが洞窟の入り口が騒がしいので外を覗いてみた。すると恐るべきものがこちらを見ているのだ。なんだと思うかい。

それは龍だよ。2個の銅鑼をぶら下げてこちらにやってくるのだ。俺は急いで穴の奥に引き返した。すると龍は口を開けて俺を飲み込もうと穴の中まで追いかけて来たんだ。俺がさっとよけると銅鑼をゴーンと大きく鳴らして戻っていくのだが、再び追いかけて来るんだ。そのたびに銅鑼がゴーンと大きく鳴るんだぜ。その度に洞穴も大きく揺れ、俺はもう必死だったね。さすがの俺も今度だけは生きて帰れないと思ったとき、突然龍が口からネバネバした白い液体を吐きつけてから出ていった。しばらくして俺が洞穴の外を覗くと龍の奴が小さくなって寝ているではないか。龍の奴が目を覚まさぬように足音を忍ばせて逃げてきたのさ。

そうか、それは災難だったな。俺なんか蛇ですら怖いのに、龍だとそれは恐ろしいのだろうなと蛙が納得顔で言ったそうだ。おしまい≫

「どうだい、ボルネオには怖い話があるんだぜ」とシムがホステス共に言った。

「あら、あたしはその龍に会ってみたいわ」とジュディが少し酔った眼差しで言い返した。他の女子も口々に「あたしも、あたしも」と言って笑った。

「シャラップ、アイ・ノゥー、ア・イノゥー、イエス、ゴーバック、レディ、トゥモーロー、ウワーシップ」シムがそう言うとホステス共は立ち上がった。ジュディはチャッカリと飲み残しの泡盛のパックを手にシムの後に続いた。口々に黄色い声で「グッド・ナイト」手を振ってキナバル山の闇の中に消えていった。

2,000mの山荘は既に20度を下回っているのだろう。冷たい夜風が吹き込んできた。僕らも急いで部屋に戻って毛布にくるまった。

 

9月28日(日)

キナバル公園の中にレストランがあり、朝食をとること出来る。その施設はキナバル登山の案内所も兼ねており、公園管理の現状を写真パネルで紹介している。そこで登山手続きをして弁当を持って次の山小屋で一泊して山頂に登るとのことだ。キナバル登山は1泊2日の行程である。

僕らは朝食の後でキナバル山周辺に見られる植物を収集した植物園を見学した。

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キナバル公園の蘭収集施設

そしてのんびりとポーリン・ホット・スプリングに向かった。温泉でリラックスして帰るだけだ。しかし思惑は外れてしまった。今日は日曜日である。山奥の道路は地元の行楽客で混雑しているのだ。僕らは温泉保養をあきらめて近くの動植物園見学に切り換えた。

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植物園入口

動植物園の開園時間は午前9時から午後4時30分で入館締め切りは午後3時30分だ。動物園ではオラウータンとシカを見ることが出来た。ラン管理センターと表示された植物園ではカランセ、バルボフィルム、P.gigantea等多くの品種が収集されていた。

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カランセの収集

 

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Dimorphorchis rossii 上段の花が黄色で 下段の花は白

 

Vanilla kinabluensisは通常のVanilla planifoliaよりもはるかに大きい果実を着ける。

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本種は花も実も大きい

かなり数のバニラの株が丸太に着生栽培されていた。秦にそそのかされて蔓に手を伸ばした途端、後ろに物音がして振り返ると管理人が立っていた。すかさず「ハロー、グッド、ボタニカルガーデン」と言って伸ばした手を上げて挨拶を送った。相手も心得たもので「サンキュー、サー」と笑顔で答えた。秦が笑いを堪えるように口元を手で押さえて歩き出した。雑木林の落ち葉の中から大コンニャクが芽を出していた

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芽を出した大コンニャク

。金網フェンスにはヒハツモドキが絡みついていた。私の実家のコンクリート壁に着生している品種よりも実が長いようである。品種が異なるのか環境の違いかは定かでない。

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ボルネオのヒハツモドキ、実が下垂する

自宅ヒハツ

私の実家のブロック塀に着生したヒハツモドキ。実を乾燥させて挽くと香ばしい。コショウ科の香辛料(苗を近日中に販売予定)

僕らは近くの集落に車を停めて果物を売る屋台を物色するなど寄道をしながらゆっくりと下山した。途中で小ぶりのドリアンを買って食べた。タイの品種改良された大きな果実よりも濃厚で美味い。少し果肉の残った果実を店の横で寝そべった赤毛の犬に投げると旨そうに食べた。ドリアンを食べる犬がいることを初めて知った。貧相な顔に似合わぬ美食犬である。

僕らは退屈しのぎに奇妙な形をした金属調のメナラ・ツゥン・ムスタファビルやサバ州モスクを遠目に見て、サバ州鉄道のタンジュンアル駅に寄った。線路はテノムまで続いているとのことだ。列車が出てしまった駅は閑散としており活気が失せて、さながら廃墟のようであった。ホテルは一昨日と同じベバレイ・ホテルである。前回と異なるのは寝室の他に応接間のあるハイクラスの部屋であった。ジョホールバルのリーさんが手配してくれたらしい。料金はごく普通のツインルーム並である。ホテルの株式をマレー航空が保有しており、リーはマレー航空の株主の一人で株主特権があったようだ。秦が素っ頓狂な声で言った。

「先輩、明日は皆ここに集まってパーティをしましょう」

この日の晩はシムから貰ったチケットで公式レセプションパーティーに参加した。ルイスにジェリーウォン、その妻アリスと同じテーブルであった。レセプションの内容はサバ州が自然保護に取り組んでいることの紹介と次回の展示会がフィリピンで開催されることなどが話題であった。只、私の英語力では学術的な報告内容を理解するには至らなかった。国と州政府の役人も参加したお堅いパーティである。食事もローカル色の少ない上品でごく普通の料理であった。パーティが終わるとシムの家に送ってもらい少し飲み直してホテルに戻った。ベットに横になり、白い天井板をぼんやりと眺めていると旅の終わりが近づいていることに気付いた。私は未だにテノムの農業公園を探索していないのだ。もはや秦の案内では退屈なだけだ。明日の朝、ホテルのフロントで国内旅行のガイドプランを探してみようと考えながら眠りについた。

2015年8月19日 | カテゴリー : 旅日誌 | 投稿者 : nakamura

ボルネオ(4)

9月26日(金)
この日の秦の迎えは午前10時である。私は空調の効いたホテルのレストランで、コピアでない普通の美味いコーヒーを楽しむよりも、朝の涼しい時間帯に市内の緑化事情探索に出ることにした。
ホテルの前庭にはタビビトノキ(オオギバショウ)が見事に半円に近い葉の展開を見せている。この辺りは台風の影響が無いのであろう。私が植物管理工事を受注している国営公園では、台風のたびに葉柄が折れてしまい、せいぜい90度の展開に止まっている。熱帯植物の管理を本業とする私にはうらやましい限りだ。

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ホテル前のオオギバショウ

少し歩くと水路に出た。海抜の低い湿地を開発して都市を形成したのであろう。ステラハーバーホテルから見たフィリピン人の水上集落は、都市開発から見放された一角なのだろうか。水路の土手や街路樹として利用されている高木類はビルマネム、ホウオウボク、マストツリー、アカシアの仲間、フイリデイゴ、インドシタン、マホガニ、オオバナサルスベリ等だ。高木の中で私の興味を引いたのは、クスノキ科のイヌニッケイ(Cinnamommum iners)だ。香辛料のシナモンとしての品質はセイロンニッケイに及ばないが、緑化樹としての品質は格別である。成長が早く刈り込みに耐え、刈り込んだ後に発生する新芽はピンク色をしており本当に美しい。もちろん緑葉に変わった後も日を浴びて照葉となり美しい樹冠を形成する。

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イヌニッケイ

ベンジャミナをパラソル状に仕立て、その下に下草をあしらった休憩場所を作ったのは熱帯地方ならではの修景だ。細やかで確かな造園技術が存在していた。

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ベンジャミナの日傘

ヤシ類ではココヤシ、マニラヤシ、フォックルテールが主流だ。ホテルやショッピングモールなどの入り口にはショウジョウヤシが植栽されている。美しい赤い葉柄を持ち、株立ちする性質がある。熱帯地方の上質な庭園の修景に利用される椰子だ。15年ほど前に台湾の緑化植物の主要生産地である員林から実生苗を取り寄せて育成したことがある。高温多湿を要求するヤシであり、尺鉢サイズに育てるまでの随分と枯損させた苦い思い出がある。栽培のポイントは水分だった。鉢の下の受け皿に常に水を蓄えると冬季の10度程度の気温でも枯損することは無い。沖縄県では池の修景樹木として水際に植栽したい椰子である。

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ショウジョウヤシ

潅木類ではサンダンカ、斑入りサンユウカ、キバノタイワンレンギョウ、ブーゲンビレアの刈り込み、ポリシャス、ヒメノウゼンカズラ、ルリマツリなどが利用されていた。クロッサンドラとポリシャスの組み合わせも良い仕立て方だ。

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ポリシャスとクロッサンドラの植え込み

草本類ではムラサキオモト、ポリポディウム、スパイダーリリー、ヘリコニア、タマスダレ、ヘミグラフィス、ヒオウギ等多種だ。
グランドカバー植物としてマメ科の通称グーバー(学名Arachis pintoi)が使われていた。ピーナッツの仲間でブラジル原産のようである。

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グランドカバー(グーバー)

シンガポールやマレーシアの公園、道路緑化として利用されている。以前に訪れたハワイの果樹園では下草として栽培されていた。私も沖縄県北部国道事務所に提案して国道の植栽枡のグランドカバーとして実験したことがある。国道58号世冨慶の中央分離帯、大宮中学校前。国道329号宜野座村、金武町の4箇所であった。本種は夏場の生育は良好であったが、冬季に成長が止まって葉が黄変した。枯れることはないが、他の雑草に凌駕されて次第に衰退した結果となってしまった。南北回帰線の内側の熱帯地域で成果を出す植物のようだ。
リーカス・スポーツ・コンプレックスは展示会の準備が整っていた。入り口のエンテランスの両サイドには販売ブースが並んでいた。その中のひとつにシムのブースがあった。シムと奥さんとパートの女性が立っていた。ラン類、観葉植物、キーホルダーなどの小物、壷などの大小の焼き物、様々なローカルの商品を扱うブースである。
秦が知合いに土産を配っている間に私は展示品をゆっくりと見て回った。ゴルフのスケジュールは午後である。展示会の主力はディスプレイ作品である。マレーシア、インドネシア、ブルネイ、フィリピンの蘭協会や企業が出展している。

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グランプリ作品(テノムの農業公園)

私が一昨日泊まったステラハーバーホテル・アンド・リゾートも切り花と観葉植物を組み合わせたディスプレイ作品を出品していた。

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ステラハーバーリゾートの作品

鉢物審査ではアランダ・モカラ類、デンファレ、コチョラン、パフィオペディルムが多い。日本や台湾の様にカトレアはあまり見られない。ただカトレアのBc.Maikai ‘Mayumi’がメダルを取っていた。この品種は屋外の樹木の陽当たりの良い場所に着生させても良く育つことから、この地方でも栽培が盛んなようである。

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入賞作品・パフィオペディルムの原種

Paph.rothschildianumやP.violaceaはこの地方の原産であり数多く出品されていた。切り花はこの地方の主力切り花品種であるアランダ、モカラ、デンファレが殆どであった。竹筒に生けられておりローカル色が出ている。ランを使った生け花もある。素材はデンファレとバンダ類だ。変わった展示ではサボテンのコーナーがあった。国際洋蘭博覧会の出品として中々奇抜である。

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サボテンの出品作品

昼食後にシェリーが車で迎えに来た。連れていかれたのはステラハーバーゴルフ・アンド・カントリークラブである。初日に泊まったホテルの隣にあるホテルの系列ゴルフ場だ。ホテル、ヨットハーバー、ゴルフ場が一体となったリゾート施設を構成している。ゴルフ場の駐車場でシェリーの友人の2人の女性ゴルファーが待っていた。そのうちの一人は頭に白い頭巾をまとったイスラム教徒と思しき女性である。2人乗りのカートにゴルフバックを積んでコースに出た。私はシェリーとペアである。コースのレイアウトは池をハザードとして配してある。フラットなコースであるが砲台グリーンをバンカーでガードしてある。フェアウエイはバミューダ芝でラフは深くはないがボールが沈むので少し打ち難い。それでもリゾートのコースであり難易度は低く設計してある。池でハザードを作っているにも関わらずOBでボールをロストすることもなかった。それでも使い慣れないルイスの柔らかいシャフトのクラブでプレーすると90を切ることは出来なかった。シューズも歩きやすいトレッキングシューズを履いていたのでグリーン上では芝を痛めぬように気を使った。シェリーは87で回った。毎週3回程度ラウンドしている。彼女の友人のイスラムの女王はパワフルに飛ばし、「フォアー」と可憐な発声と同時に右に左にクラブを手に走り回った。実に賑やかなパーティである。日本の商社マンと思しきパーティが呆れた顔で僕らを見ていた。まともなゴルフスタイルでない男が騒々しい女性を伴ってゴルフをしているのだから。おまけにイスラムスタイルの女性が一番に騒々しいので、否応なしに目立ってしまうのだ。このようなプレーではコースのレイアウトはあまり覚えていない。パー4でスタートして池越えのパー5でホールアウトしたことだけだ。海が近いので風があって暑さを感じないコースである。以前にクアラルンプール空港の近くでプレーした時には、午前7時30分にスタートして11時にホールアウトしたのであるが、暑さでグロッキーになった覚えがある。内陸のゴルフ場と異なるリゾートのゴルフコースである。

D11

≪2015’2月。ジェリー・ウォンが持参した観光ガイドブックより抜粋した写真≫
ちなみに私の所属するベルビーチゴルフクラブは、海に面した斜面地を折り返しながらワンウエイでプレーするアップダウンの強い戦略性の高いコースだ。夏は海風が心地よく、冬は嵐が丘に変化する風の影響をもろに受けるコースだ。1,2,5,13,16番ホールは左が崖で、6,7,8,10,11,12,14,15,17,18番ホールは右側が崖である。スライスボールでOBとなりやすいレイアウトだ。ビギナーには辛いレイアウトだが、すべてのホールから東シナ海の美しいエメラルドグリーンの海が望めるので沖縄県で最も美しいゴルフコースだと自負している。毎月2,3回プレーしてハンディキャップ14に止まっている。一時期シングルプレイヤーを目指して鍛錬したのは若気の至りであり、現在は楽しいゴルフをモットーにしている。
クラブハウスで軽食を取りながら雑談していると、時折シェリーに挨拶するゴルフ場のスタッフがいた。彼女は気軽に声をかけており、レッスンプロやコースの管理者だと答えた。このコースをホームコースにしているらしい。
ホテルに戻ってシャワーを浴びてロビーに降りるとシムが迎えに来た。蘭展示会の表彰式を兼ねた歓迎パーティに参加するのだ。
会場はリーカス・スポーツ・コンプレックスの施設内であった。僕らはいつものメンバーでテーブルを囲んだ。出品作品の表彰式の前に幾つかの挨拶があり、その中でAPOC台湾の紹介があった。秦と黄がステージに上がり、黄が英語で台湾蘭協会の案内文書を読み上げた。そして最後に「WELCOM TO APOC IN TAIWAN」と締めくくった。その言葉を待って秦がAPOC IN TAIWANのポスターをぱっと広げた。そしてステージから降りてきた。僕らは秦の動作に一瞬あっけにとられ、その後に大声で笑った。皆は口々に「あいつの役割は只ポスターを広げるだけかよ」と秦の動作を真似して笑った。それでも秦がテーブルに着くと「great action」とはやしたてた。
食事をしながら作品の表彰気が始まった。地元のシム、ルイス、ウォンが幾つかの賞をもらった。秦が台湾から持ち込んだ蘭もその中に入っていた。
シムは壇上に上がって賞状と副賞の封筒を持ってテーブルに戻ってきた。そして賞状には目もくれず副賞の封筒を開いて中身を取り出して皆に見せた。赤い紙袋の中身は現金であった。ルイスやウォンの封筒の中身も現金である。
「先輩、この金で飲みに行こう」笑いながら秦が言った。
僕らは市内のバーにくり出し、氷の入った大きなピッチャーにバドワイザーを注ぎ、回し飲みしながらはしゃいだ。滋味の抜けたビールも気持ちで飲めば酔いが回る気がした。

2015年8月12日 | カテゴリー : 旅日誌 | 投稿者 : nakamura

ボルネオ(3)

9月25日(木)

9:00、シムがモスグリーンのアウディで迎えに来た。

「高級車だね」と言うと、「20年前の車だぜ、いつ止まるか心配だよ」と笑った。確かに今時流行らないデザインの型式だ。高速走行は無理だろう思った。

秦と黄を拾って市内の食堂で軽食を取りコーヒーを飲んだ。コピァという砂糖の多く入った奇妙な味のコーヒーである。テノムで生産されるコーヒーだ。シムが私に届ける土産の定番となったコーヒーである。

10gティバック12袋入り

朝食後に植物散策のために山へ向かった。シムのアウディはゆっくりと市内を抜けてクロッカーレンジ国立公園の山道を登った。私は半袖シャツにベストを着用、靴はトレッキングシューズだ。秦とシムと黄は半袖に半ズボンそしてサンダルである。このあたりは2,000mクラスの山が続く。山を越えて160㎞ほど行った盆地にテノムがある。

しばらく登るとナリヤランが道路脇に見られるようになった。このArundina graminifoliaは沖縄県の西表島の草地でも見られるランである。東南アジアに広く分布するランである。沖縄県では70㎝前後の草丈であるが、道路脇に生えているナリヤランは150㎝もある。まるでススキの様に葉が大きくて花も明らかに大きい。新しい葉は少し紫色の色素を帯びている。とても同一種とは思えず亜種のような気がする。

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ナリヤラン

ノボタン科のメディニラに似た植物が見られた。Medinilla magnificaはフィリピンからこの辺りに分布しているようだ。園芸店で見られる60㎝程の鉢物サイズでなく2m以上もあるのだ。この地域の熱量の豊かさが育ててくれるのだろう。

路肩が少し広くなった場所に車を停めた。僕らはシムの後について道路脇の小さな排水溝を飛び越え、大木が繁るでもない雑木林の中に入った。シムはビーチサンダルで落ち葉を踏みしめて藪の中に入った。足元にはショウガ科のバービジア、ノボタン科のメディニラの幼木、種名の解らない地生ランが無数に生えている。

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藪の中の樹木は幹回りが10㎝から40㎝程度の広葉樹がほとんどである。沖縄の広葉樹の雑木林と何ら変わらない植物相に見える。私は学生のころにテントを担いで八重山諸島の西表島を2泊3日の行程で横断したことがある。その原生林の雰囲気と同じだ。ただ異なるのは湿度が高く、落ち葉は湿っており、樹木に苔が多く付着していることだ。よく見ると蘭が苔に混ざって着生している。高さが50㎝から4mの範囲で無造作に着生しているのだ。ラン類は大木の高い場所に着生しているものと考えがちであるが、ボルネオでの生育環境はそうでもないようだ。デンドロビューム、バルボフィルムその他多種の蘭類が着生している。

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少し太めの幹にエスキナンサスが着生しており枝の先端に赤い花をつけている。落ち葉の中からバービッチアが花をつけている。薄い黄色の花で先端が三裂しているのが特徴だ。以前に社員が採取してきたBurbidgea schizocheila(英名Golden Brush Ginger)とは異なる品種である。ボルネオには5種類のBurbideaがあり、その中のstenanthaかlongifloraではないだろうか。

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Burbigea. sp

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Burbidgea schizocheila(golden brush ginger)

沖縄県での開花時期は冬から春、秋以降に販売予定です。

僕らは藪を出てさらに山道を登った。途中に露店がありバナナを人房買って食べた。あまり美味いものではなかった。さらに登ると焼けて廃屋となった露店があり、シムが営業していたと秦が指差して言った。何かいわくがありそうだがシムに尋ねることはしなかった。

やがて森林伐採の現場で車を停めた。直径80㎝以上もある大木が伐倒された跡が広がっている。シムは外資系の会社が自然を破壊していると言って不快感を露わにした。シムが指差した大木の中ほどの太い枝の上にグラマトフィルムが着生していた。バルブの長さが1mほどで10本近くが展開している。以前に栽培したことがあるが、気まぐれなランで容易に咲いてくれない。友人とタイの生産者を尋ねたおり、50㎝の4本立ちバルブで咲いているのを見たことがある。株の大きさと関係なく環境が開花に作用しているのだろう。素焼きの尺鉢にヤシ殻のコンポスト植えで水田跡地の作った蘭園であった。随分前であるが、名古屋の「蘭の館」が開園する際に高さ1.5m、10本立ちの株をフィリピンから2株輸入して納入したことがある。その時は秦の斡旋であった。

グラマトフィルムを見ているうちに雨がポツリ、ポツリと落ちてきた。

「雨が降る時間だ」とシムが言った。

僕らは急いで車に戻り元の道を引き返して下山した。雨が強くなる前に途中のドライブイン・レストランに飛び込んだ。雨は霧を呼び、50m先の視界を遮るようになった。道路わきの排水溝から洪水のように雨水が流れた。レストランの温度計を秦が指差すのを見て驚いた。僅か15分ほど前に蒸し暑くて30度以上だと感じた気温が一気に20度まで下がっているのである。

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雨霧

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摂氏20度

「すごい雨だね」と私が言うと

「1時間もすると止むよ。山では毎日のことだ」とシムが言った。

この雨は山間での現象であり、平地のコタキナバル市街地は全く降っていないらしい。

僕らはコピアとケーキで雨宿りをすることになった。そしてシムが退屈しのぎにボルネオの昔話を始めた。

≪この原生林には巨大な龍が住んでいるとのうわさがあり、村人の恐怖の対象となっていた。ある日、一人の猟師が山中で龍に出くわした。口から牙を出した巨大な龍である。猟師は恐怖のあまりろくに狙いも定めずに鉄砲をズドント打ち村へ逃げ帰った。そして村人に伝えた。今しがた龍を仕留めたので皆で担ぎ出しに行こう。村人は山鉈を手にして猟師の跡を山に入った。村人がその場所に着くと、巨大な蛇がシカを飲み込もうとしているが、鹿の角が口元に引っかかって呑み込めずにのたうち回っているのだ。その様はまるで巨大な龍が暴れているようであった。臆病な猟師の弾は蛇にあたっておらず、村人は急いで手にした大ナタで蛇を叩き切ったそうだ。おしまい。≫

ボルネオの自然林にはニシキヘビ、小型のシカ、オラウータン等特徴のある野生動物が生息しているらしい。

シムのほら話を聞いているうちに雨も霧も上がったのでレストランを出て下山した。コタキナバルの市街地には雨の痕跡は無かった。市街地の一角に市場があり、その前に車を停めて中を覗いた。私の旅先での楽しみの一つは、ローカル市場を見て回ることだ。台北のゴールデンチャイナホテルの裏通りにも市場があり、宿泊時の退屈しのぎに時々覗いている。

この市場には海産物以外の大抵の生活用品が売られている。マンゴスチン、マンゴー、柑橘類の苗木。果物はレンブ、グァバ、ミカン、バナナ、ドリアン、パパイヤ。珍しいスネークフルーツというサラカヤシの実が売られていた。松毬状の果皮の内側に甘酸っぱい白い果肉を持っている。ただし、私の好みではない。

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レンブ、ミカン、グァバ、パパイヤ

果菜類ではヘチマ、白ニガウリ、シカク豆、葉野菜は数種類のサツマイモ属の新芽、ツルムラサキ、ウリ科の新芽等の多年草である。暑さに強い植物だ。レタス、小松菜、大根、キュウリ、モヤシ等の日本の八百屋の定番野菜は全く見られない。香辛料の売り場で薬用植物類のヤエヤマアオキの果実(ノニ)が売られていた。ニッケイの根の曳割(シナモン)の他にも何だか解らない民間療法の商品が並んでいた。その隣の店では民族衣装に似合いそうなブレスレットやネックレスも売られていた。

秦は夕顔の果実ほどの大きさのコパラミツを1個買って戻ってきた。僕らは市場の中の食堂で軽い食事をとってシムの家に引き返した。デザートにコパラミツを食べた。ナイフを使わずに、手で引き裂いて中から種を包んだ果肉を抓みだして食べるのだ。見た目は小型のパラミツだが、臭みが無く柔らく甘い果肉だ。沖縄でも栽培したい果樹であるが、ドリアン、マンゴスチン等と同じく豊かな熱量が必要だ。私が実家の裏に25年前にタイから持ち込んだパラミツは10kg近い実が着果するが食べる者はいない。奇妙な臭みのあるこの果実は、温帯地方の淡白で上品な風味の果実に慣れた日本人に敬遠されるのだ。

シムは出店準備があると言って秦と黄と共に出かけた。私は勧められるままにシムの家で2時間ほど昼寝をして時を潰した。ゲストの旅は万事がこのようなものである。

4時過ぎにホテルにチェックインした。この日の宿はベバレイ・ホテルである。2泊の予約が取れていた。昨日のステラハーバーホテル程大きさではないが十分満足できるレベルだ。フロントで3万円を両替した。1リンギット(RM)34円のレートだ。市中の両替所より割高であるがシムに頼むわけにもいかないし、両替所を探すのも面倒でもある。

シャワーを浴びてフロントに電話した。洗濯の依頼である。ランドリー係りの者を呼び出して洗濯物を備え付け袋に入れて直接渡すのである。衣類の数をその場で確認してチップと共に渡すのだ。そうすればトラブルなく早く仕上がるのである。それに東南アジアのクリーニング代は安くて上手だ。下着や靴下も出している。下着類の手洗いも旅の都合に応じてやるのだが、洗濯機のようには汚れが落ちない。快適な旅をしたいなら2度に一度はクリーニングに出したほうがよい。私の愚かな旅の方針であるが、富める自国からそうでない発展途上国に出かけた場合は、ささやかな浪費はすべきである。

「自分の豊かさを実感できる国へ行ったら、ケチらずにその土地の人にも豊かさの御裾分けをしろ」

私の所属する沖縄県造園業協会界の大御所とミクロネシア連邦のポンペイに行った時に言われた言葉だ。私は、ハワイ、韓国、台湾以外ではそうしているつもりだ。もっとも不遜と言われるほどの浪費をする気力は無いのである。

冷蔵庫からビールを出して飲みながら、日誌を付けていると秦から電話があった。午後5時過ぎである。

IMBP国際蘭会議の会場は、郊外のリーカス・スポーツ・コンプレックスであった。陸上競技場、体育館、会議室備えた総合文化施設だ。会場内では審査が終了して仮の表彰順位のプレートが着けられていた。ほとんどの国際蘭展示会の日程そうであるように、木曜日に審査、翌日の金曜日に関係者だけの内覧会、土曜日から一般客の鑑賞となっている。

ディスプレイ作品の中でも人目を引いたのがグランプリをとったテノムの農業公園であった。ボルネオの自然を豊かに表現したデザインであり、ボルネオの固有種の蘭と観葉植物がふんだんに使われていた。ボルネオの野生植物の収集と保護に努めている組織の力量が発揮された作品であった。

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展示会場入口

審査が終了したばかりで未だ整然と配置されていない会場内を歩いていると、秦とルイスがやってきてルイスが言った。

「退屈していないかい」

「そうでもないさ」

「どうだい、明日はゴルフでもやりなよ。ゴルフは出来るのだろう」

「ああ、地元のゴルフコースのメンバーだ。それは良いけど、誰とだい」

「俺は忙しいから、こいつが付き合うよ」

近くにいた女性を紹介した。ルイスの妹である。中肉中背で身長は160㎝足らずで白の落ち着いたデザインのワンピース姿であった。年の頃は28歳位か美人ではないが明るい感じの女性である。少しはにかんだ顔で「シェリー」名乗った。ルイスよりきれいな発音の英語である。

「オーケー、明日は楽しんでくれ」

ルイスは楽しそうに笑って言った。

私は以前にマレーシアのクワラルンプルとオーストラリアのケアンズでゴルフをしたことがあった。退屈しのぎに良い機会だと思うと同時に、ここまで来て女連れゴルフでもないだろうとも思ったが、成り行き任せの旅のついでだと割り切った。

この日の夕食は市場近くのレストランであった。初日の昼飯のメンバーにウォンの奥さんのアリサが加わった。審査が終了して安堵したのか皆饒舌であった。私も時々英語で尋ねて会話に加わった。私は壁の陳列棚の上に置かれた水槽の中に無数の蛙が居ることに気付いた。あまり大きくもなく玩具と思ったのだが、よく見ると喉元が呼吸の度に微かに動いており本物である。蛙は一様に外を向いて行儀よく座っている。

「ルイス、あのカエルは生きているね。置物かと思ったよ」

「オーケー、刺身にして食おうぜ」陽気に笑って言った。

皆が「刺身、刺身」と言って騒いだ。

暫くして蛙の料理が出てきた。ただし刺身では無かった。皮を剥ぎ取り内臓を取ってぶつ切りにして香りの強いネギと空芯菜と共に炒めていた。きめの細かい肉質で淡白な味だ。小骨を指でつまみだしてテーブルに放り出した。テーブルは料理の食べカスで散乱しているが誰も気にしない。中国南部から東南アジアにかけての華僑文化の一つだ。中華系の人々の概念の一つに「美味いものを食べるために人は生きるのだ」という諺があると陳先生が教えてくれた。

香料が効いてビールによく合う料理だ。私はビールを飲んでいるが、皆は透明なブルーの炭酸飲料を飲んでいる。メーカーはコカコーラ社のようである。少し飲んでみるとコーラよりもサイダーに近い奇妙な味がした。

午前0時の少し前に散会した。リー夫妻はルイスから車を借りて帰って行った。明日の朝テノムに向かうとのことである。私は予定外のゴルフに向かう羽目になった。

2015年8月3日 | カテゴリー : 旅日誌 | 投稿者 : nakamura

ボルネオ(2)

 

9月24日(水)

午前5時、秦が友人の段と共に迎えに来た。ボルボのワゴン車の後ろに大きな段ボールが3箱積まれている。コタキナバルで開催されるIMBP蘭展示会で使うラン類である。出発時刻は午前8時であるが輸出手続きに手間取るので早めに出たのだ。段の運転するボルボは街灯で明るい台北の市街地を抜けて中山高速道路を南下した。段は秦の兵役時代の友人であり少し粗暴な運転をする。体が大きく無精ひげを生やした酒好きの男だ。「秦にお前のボディガードか」と訊くと笑って答えた。「あいつは確かに酒も喧嘩も強いがフランス語が話せるのだぜ」と言った。見かけによらずインテリな部分もあるようだ。40分ほどで空港に着くと段は荷物を運搬ワゴンに積み替えて直ぐに引き返した。「交通整理の警察官に酒の匂いを嗅ぎ付けられないように急いで引き上げたのだ」と笑いながら秦が言った。

空港のロビーで黄さんと劉さんが待っていた。黄さんはユニバーサル・オーキッドのマネージャーで180㎝近い長身である。劉さんは160㎝程度の小柄な男だ。黄は来年3月に台南市で開催されるAPOC(第8回アジア太平洋蘭会議)開催機関のスタッフであり、その宣伝を目的にコタキナバルに出向くのである。劉はラン栽培の趣味家である。本業は台北市内で内科医をしている。二人とも沖縄国際洋蘭博覧会で2度ばかり会っており、プライベートで食事や観光に付き合っている。劉の傍らには70歳過ぎの女性が付き添っている。秦の話では40過ぎの独身の息子の見送りに来ているのだそうだ。幼児の旅立ちを見送る母の眼差しにも似て何とも奇妙で微笑ましい光景である。黄とは台北に戻るまで行動を共にすることになる。

中世国際空港のチェックインカウンターは何度来ても混雑している。この国の活力が凝縮されている。秦の大きな荷物は私の荷物として分散したが重量オーバーの超過料金を取られた。出国手続きに手間取ることもなく通過して出発ゲートへ向かった。途中の軽食店に立ち寄ってモーニングサービスをとって出発ロビーに着いた。

マレーシア航空の中型機は満席であった。コタキナバルまで3時間半の旅である。一眠りして目を覚ますと乗務員が入国カードを配っていた。英語とマレー語のカードがあり、英語のカードをもらった。添乗員同行の団体旅行では旅行社が必要事項を記入しているので、せいぜい自筆のサインをするだけである。個人旅行では自分ですべてを記入する必要があり、旅行用の手帳に基本情報をメモしておく必要がある。それでもトラブルは発生するのだ。国によって記入事項が多少は異なるのだ。日本の海外旅行ガイドブックのマニュアル通りには行かない。DATE OF EXPIRY との記入欄がある。さて、何のことであろうか。秦に尋ねようとしても席が離れている。おまけに飛行機はランディング体制に入っていてシートベルト着用のサインで席を立てない。パスポートの記述を何度も見比べてみるとパスポートの有効期限と小さく書かれている。老眼の始まった視力では仕方がない。 滞在ホテルはハイヤット・ホテルにした。入国審査官が宿泊予約の確認をすることはないのだから現地あるホテル名を適当に記入すればよいのだ。ただし記入しないと入国審査でもめてしまう。

飛行機は雲の絨毯に潜り込んで降下していった。雲を抜けると美しい海岸線と小島が見えた。開発の跡が見えない緑の山並みが美しい。那覇空港の大きさと変わりない小さな海岸沿いの滑走路に飛行機は降りた。

イミグレーションに向かう途中で黄が私に尋ねた。

「仲村さん、ホテル名はどうしましたか」

「ハイヤット・ホテルと適当に書いたよ」

「ちょっと見せてください」

黄は私の入国カードを見て同じホテル名を記入した。秦も劉もそれに習った。黄は3名の中で日本語が一番上手である。

簡単な入国審査で到着ロビーに出た。IMBP蘭会議のメンバーが立ち会っているので特別の配慮がなされたようだ。黄と劉の持ち込んだ蘭を含めて5箱の段ボールがトラックに積み込まれた。ルイスが懐かしそうに握手を求めてきた。3年前の沖縄国際洋蘭博覧会でボルネオの自然植生とネペンテスについての講演をした男である。その折、ルイスが持参したボルネオのネペンテスの本を20冊ほど引き取ったのだが、英文の本は売れずに会社の書庫に積まれたままである。ルイスの他にゴメス・シムとジェリー・ウォンが我々を迎えてくれた。トラックは劉の荷物をルイスの家に降し、黄の荷物をウォンの家に降し、秦の荷物をシムの家に降した。蘭の梱包された荷物を解いてから僕らは市内のレストランへ出かけた。

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シムのコレクション(山採りのバルボフィルム)

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ルイスのコレクション(パフィオペディラムとファレノプシスの原種)

集まって来たのは、ルイスと弟のジョー、シム、ウォン、マレーシア・ジョホールバルのリー夫妻、サラワク州から来た植物ハンターのア・ウー・ヤンと台湾から来た我々だ。リー夫妻は2年前に沖縄国際洋蘭博覧会で会っている。マレーシアのチャーワンと共に桜祭りの案内や夕食会を共にした。ヤンは植物ハンターとしてヨーロッパの蘭収集家の間で名が知れているらしい。私以外の参加者はすべて中華系であり、広東語が共通語となっているようだ。私にはさっぱり解らないが、時折英語で話してくれる。マレーシアでは英語教育が熱心で英語を話せる人が多い。私の半端な英語力でも何とかコミュニケーションがとれるので助かる。

昼食が終わると私の宿さがしである。劉はルイスの家に泊まり、黄はウォンの家、秦はシムの家に泊まる。ホテルに泊まるのは私だけだ。彼らが入国カードに宿泊ホテルを書けなかったのはそのせいだ。シムが幾つかのホテルに電話してたどり着いたのがステラハーバーホテルだ。それも1泊だけである。明日の晩は別のホテルを探さねばいけない。秦には予約という概念が欠けている。私自身はホテルのグレードに拘ることはない。寝る場所があればどこでもよいと思っているので気にならない。

しかし、ステラハーバーホテルは高級ホテルである。料金も高くはない。客の入りが少ない時期なのだろうか。シムが上手に交渉してくれたようだ。

シムの車で秦と共にホテルに向かった。途中のスーパーマーケットの駐車場で小柄な若い女を拾った。白いショートパンツにストライプのノースリブシャツ姿で小さな化粧ケースを手にしたマッサージ嬢である。ホテルでチェックインを済ませると秦が女と共に部屋まで付いてきた。

「先輩、僕らは蘭のディスプレイをします。2時間マッサージです。6時に迎えに来ます。スペシャルサービス、OK! 後でチップを10ドル渡してください」そう言って出ていった。

女の年の頃は25歳位だろうか、強いフィリピン訛りの英語を話した。よく喋る女でマッサージ中も携帯電話でずっと何処かに電話をしていた。私は直ぐに心地よい微睡の中に落ちていった。

1時間半が過ぎたころであろうか、うつぶせの状態の私は息苦しさを覚えて目が覚めた。女は私の背中に立って踊りだしている。背筋のマッサージなのであろう。私は手を叩いて女にマッサージの終了を伝えた。スペシャルサービス無しで10ドルを渡すと女は嬉しそうに出ていった。私は立ち上がって窓から外の景色を眺めた。ステラハーバーホテルの名の通りホテルの横はヨットハーバーとなっていた。中庭は回遊式庭園の作りであるが日本庭園の趣には程遠い作庭である。

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ヨットハーバー

 

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回遊式庭園?

シャワーを浴びてしばらくすると秦から電話があった。夕食への誘いである。部屋を出てエレベーターホールの小窓から外の景色を眺めるとフィリピン人の住む水上集落が見えた。このホテルの背の方向である。サバ州の東の岬から小舟で往来が可能な距離にフィリピン領のバラワン島があり、以前から不法入国者が水上集落を形成しているのだ。掃き溜めと化した湿地の中に形成された集落は、サバ州政府にとって統治できない不法地帯となっている。ここに住む人々が治安上のトラブルを起こすことも少なくない。しかし、人間の往来や生活は、権力者による国境線の確定よりも早いのが歴史の常である。また、観光地に生活の糧を求めて集まる人々の生活にも陰と陽の部分が生じるは人間社会の常である。

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フィリピン人の水上集落

シムが奥さんと3歳の息子を伴ってロビーで待っていた。奥さんの腹の中にはもう一人いるようだ。夕食は郊外の郷土料理レストランであった。リー夫妻が少し遅れてやってきた。ヤシの葉を重ねた屋根の木造の建物は、中央に舞台があり先住民の音楽と踊りを楽しむことが出来た。来客者が参加できる吹き矢による風船割りゲームやバンブーダンスなどもあって、十分に楽しめるステージであった。私も吹き矢で風船を3個ほど割って喝采を浴びた。

食事は地元の食材がふんだんに使われていた。マメ科の植物の新芽、サツマイモの新芽、エンサイ、ハヤトウリ等である。海が近いせいか魚介類と良くマッチした料理となっている。中華料理がベースとなった味である。野菜の風味も食感も十分に楽しめる料理である。

リーさんが明後日から一泊でテノムに行くので同行しないかと誘ってくれた。私はテノムの農業公園探索が目的の一つであり良い機会だと思った。しかし、「先輩は私のゲストだから行けません」と秦が勝手に断ってしまった。少し残念であったが秦のメンツを立てることにした。4年後の2,007年にリーの地元のジョホールバルで東南アジア蘭協会が関わる国際蘭展示会が開催されるので、その時に会う約束をして別れた。

2015年8月1日 | カテゴリー : 旅日誌 | 投稿者 : nakamura

ボルネオ島-プロローグ

2015年6月5日、マレーシアのサバ州でM6の地震が発生、キナバル山が崩落して登山客16人が死亡。その中には日本人1名が含まれるとのニュースがテレビで放送された。私はその報道の映像に見覚えがあった。それは2003年の9月に私がキナバル山中腹のコテージの窓から撮った写真と同じであったからだ。キナバル山は標高4,095mでボルネオ島の東側に位置する自然の豊かな国定公園である。ボルネオ島はインドネシア、マレーシア、ブルネイの3か国の領土からなり、マレーシア領はサラワク州とサバ州がある。サバ州には私の親しい友人たちが住んでいる。 2003年9月28日撮影・中腹のロッジより朝のキナバル山を望む 今年の2月に開催された沖縄国際洋蘭博覧会には、友人の一人であるゴメス・シムが若い仲間数人とやってきた。私は台湾やマレーシアの友人たちと共に蘭展示会場近くの居酒屋で懇親を深めたばかりであった。私の友人たちは蘭や熱帯植物の取引で親しくなった人々である。私が彼らの国を訪れると快く案内を引き受け、彼らが沖縄国際蘭展示会にやって来ると私が接待するという付き合いが長い間続いている。最近のシムは、蘭商売を切り上げて自然体験型旅行ガイドのマネージメントしているらしい。連れの青年達はツアーガイドらしい。もう一人の友人ジェリー・ウォンは蘭展示会の懇親会場で日本語の観光案内パンフレットをラン関係者に配っていた。現在のサバ州は観光事業に力を入れているようだ。

好生蘭園(秦の作品)「花心」

サバ州蘭協会(シムの作品)「緑の感性」

マレーシア(チャーワンの作品)

さて、2003年の9月にボルネオのコタキナバルを訪問したのは、IMPB国際蘭会議が開催され、それを見学を機会にボルネオ島の自然を観察する目的からであった。その情報を提供したのは台湾蘭協会顧問の陳石舜先生である。台湾から共通の友人である秦が行くので同行することを勧めた。秦は翌年の2004年に台湾で開催されるAPOC(アジア太平洋蘭会議)宣伝に出かけるのである。アジアで開催される蘭展示会は、他国の蘭協会が開催する展示会に自ら参加することで、自国の展示会に呼び込む努力をしている。沖縄国際洋蘭博覧会にアジアの蘭協会が数か国も参加するのは、主催者の美ら島財団が自らの職員を派遣して東南アジアの主要な蘭展示会に出展しており、相応の評価を得ているからでもある。

2007年5月ジョホールバル国際蘭展示会、

海洋博公園管理財団出展作品 英語ではボルネオ、インドネシア語ではカリマンタンと呼ばれるこの島を地質学的に見ると、アジア大陸とオーストラリアの間に位置する世界で3番目に大きな島である。1億年も前から熱帯の同じ位置にあり、熱帯雨林気候特有の動植物が進化したようだ。文化的にはマゼランが活躍した大航海時代からオランダ、英国が植民地として利用した歴史がある。15世紀から中国の華僑が活躍しており、現在でもその末裔が定住している。旧日本軍が侵攻する前には首狩り族が住んでいたとも言われているアジアの秘境の一つである。当然のことながら世界自然遺産に登録されている。 沖縄からボルネオのコタキナバルに行くには、台湾経由で桃園の中世空港から週二便、高雄から週一便飛んでいる。現在、中世国際空港は桃園国際空港と名称を変えている。中世とは台湾の初代大統領の蒋介石の別名である。中国との交流が盛んになるにつれて、中国共産党の仇敵であった蒋介石の冠のついた空港名を中国側が嫌ったのではないだろうかと、私は意固地に邪推している。なにしろ独自の歴史認識を重んじるのが現代中国共産党政府の慣習であるから。 9月23日(火) 私は陳先生のアドバイスに従って、中華系の人々にとって縁起の良い赤い色の包装をした沖縄名産の「ちんすこう菓子」数箱と紙パックの安い泡盛を1個求めて土産とした。 チャイナエアラインCI-121は午前11時30分に飛び立ち、1時間半後に中世国際空港に到着した。到着ロビーでは陳先生が待っていた。長身で白髪の先生は人混みの中でもすぐに分った。台北大学経済学部出身のエリートで戦前の日本教育受けており日本語・英語が堪能である。台湾蘭協会の会長職を務めており翌年に控えたAPOCの開催に向けての活動で精力的に活動する身であった。昭和2年の生まれと聞いている。 人混みの中から小柄な女性が現れた。呉秀美(Sandy Wu)は水苔や植え込み鉢などを扱う貿易会社の社長だ。穏やかな外見と異なり、単身でニュージーランド、南米チリ、中国の奥地まで水苔を求めて出かける豪の者である。台北大学英文科出身で英語に精通しているらしい。陳先生も時々複雑な貿易文書を彼女に翻訳を依頼することがある。 サンディの車に乗り込み空港から30分ほどの桃園の港町に向かった。沿岸漁業の盛んな漁港の周辺に海産物レストランが軒を並べている地域だ。防波堤の前の駐車場に車を止めると秦が2人の男と待っていた。秦はサバ州の展示会場に持っていく蘭類の輸出手続きを済ませた帰りである。二人の男は通関業者であった。僕らは「王宮活海鮮」という豪奢な店に名のレストランに入った。日本時間の午後2時であった。

桃園の街角

陳列棚の魚介類 店の形状は日本の魚市場の鮮魚店が料理店も兼ねているような感じだ。魚、カニ、貝などを客が選ぶと適当な調理をして出してくれる。幾つかの食材を注文しても、客の人数に応じて量を調整してくれる。食べ残しが出ることは少ない。もちろん残ったものを持ち帰ることもできる。日本と異なるのは刺身が無いことである。最近の台湾ではマグロの刺身の消費量が増えているがそれ以外の魚種はほとんど見かけない。 小エビの塩茹を抓みながらビールで喉を潤し、渡りガニのスープ、ハタの餡かけ、貝と野菜とヌードルの炒め物だ。僕らは日本語、中国語、英語のチャンポン会話で近況を話し合った。私が食材陳列ケースの中に白色のニガウリを見つけて沖縄での調理法を話題にすると、陳先生はウエイトレスを呼んで調理を頼んだ。 台湾式のゴーヤチャンプルーは食べなれた沖縄のそれとは味が若干異なった。先生の説明によるとアヒルのゆで卵を使っているとのことだ。アヒルの有精卵を赤土に塩を混ぜた泥の中に1週間ほど浸けておくと塩味が浸みて風味が増すとのことだ。私が感心すると先生はボルネオから帰った時に土産に準備しますと言った。 僕らは2時間ほど食事と会話を楽しんで散会した。秦は明日の朝5時にホテルに迎えに行くと言って引き揚げた。ホテルに向かう途中でサンディ事務所に寄った。来月輸入する水苔の品質の確認をするためである。チリ産水苔は既に乾燥処理を終えて5キロパックに詰められていた。圧縮も十分であり品質上の問題は無かった。20フィートコンテナで1万ドル相当の商品である。陳先生と取引は円決済、サンディとはドル決済である。水苔は契約してから採取地で乾燥処理をするので受け取りまで1か月以上を要する。送金時の為替レート1円の変化は購入金額に1万円の変化をもたらすことになる。 宿泊ホテルは台北市内のゴールデンチャイナホテル(康華飯店)だ。台湾に来るとほとんど毎回利用するホテルだ。日本語を話すスタッフがいて日本人客の利用も多いホテルだ。日本人の団体客が多くなると異国の旅情が削がれてしまうのが残念だ。それでも中国人の騒々しい団体客が未だ利用しないだけ素晴らしいホテルの一つである。地下の中華レストランは地元の人々が接待や祝いの席に利用する程上質である。新幹線台北駅や建国花市場へもタクシーで気軽に行ける距離である。

ホテルから見た台北市内 夕食は台北高島屋の12階で歓迎夕食会となった。サンディが仕切った宴である。先生の3男の達寛、秘書のシンディ一家4名の8名で上海料理を楽しんだ。陳先生は持参した紹興酒の古酒を開けて私の旅の安全を祈念して乾杯してくれた。20年以上保存した紹興酒の古酒は、濃い色に変化してビンの底に滓が溜る。滓が混ざらぬようにゆっくりと別の容器に移し替えて温めの燗に飲むのが良い。紹興酒は悪酔いすることが無く、中華料理との相性が抜群だ。私の好きな酒であるが、日本酒に比べると癖が強く日本人には馴染まない酒である。日本料理には日本酒、琉球料理には泡盛、フレンチにはワイン等、食と酒は連動しているようだ。最近の台湾の若者は洋食を好む傾向にあり、ビールや洋酒を好み紹興酒は敬遠される傾向が顕著なようだ。 午後10時に食事会を終了してホテルに戻った。フロントに午前4時のモーニングコールを依頼してベッドに潜り込んだ。

2015年7月13日 | カテゴリー : 旅日誌 | 投稿者 : nakamura