一族の由来を訪ねて(北部編)

一族の由来を訪ねて(北部巡り)

10月の最後の土曜日、私は遅い夕食を一人で取っていた。夕食と言っても公民館から支給された弁当と缶ビールが2缶である。家内は実家の母が入院中で父の世話に出かけており不在である。いつもは会社帰りにスーパーマーケットで自分の好きな食材を求めて簡単に調理しているのだが、この日は村の豊年祭があり、出演の返礼の弁当と酒が振る舞われたのだ。公民館の近くに空手道場があり、25年ばかり手習いをしている。門人と共に空手・古武道の演武と赤瓦、木製バットの試し割りを行ったのだ。公民館長の岸本さんは舞踊や寸劇など区民の舞台演目を楽しんでくれと勧めたが、素人の田舎芝居に興味が沸かず、礼を言って引き揚げてきた。道場の館長だけは村の有志に義理立てして会場に残り、門人は引き上げてきたのだ。シャワーを浴びて弁当を開いた。昼食弁当と異なり祝いの酒の褄を意識して作られていて中々気が利いていた。テレビを見るともなく眺めて冷蔵庫から2缶目のビールを取り出して栓を抜いてグラスに注ぎ足したところで携帯電話のベルが鳴った。1-1空手村祭りでの空手演武(剛柔流・砕破の形)

「カズか、明日の今帰仁巡りは参加するのかい」兄からである。私は一族の7年巡りの件を思い出した。3週間前に南部巡りが終わって、2週間後の先週の日曜日が今帰仁巡りであったが台風18号の影響で1週間遅れたのである。私は気乗りしなかったのであるが兄からの電話で行くことにした。

「ああ、そのつもりだ」と答えた。

「じゃあ、車を出してくれないか。家内が車を使う予定があるから」

「いいですよ9時前に迎えにいくから」

兄は半年前に定年退職して実家に戻り両親と暮らすようになっていた。

午前8時50分、実家の門前に車を停めた。既に兄は熱帯果樹ピタンガの生垣で仕立てられたヒンプンの前に立っていた。ヒンプンの斜め後ろには母がタイル張りの濡れ縁に立っていた。いつものように鼻から細長いチューブを引いている。肺の機能が低下しており酸素濃度を上げる機械に繋がっているのだ。15m程の細い透明なチューブを引いて家の中を歩き回っている。濡れ縁までが行動範囲である。私は車から降りて右手を上げ「おはよう」と声をかけた。母は目を細めて誰かを確認する仕草で言った。

「カズーか?」

「ああ、今帰仁巡りに行ってくる」そう言って笑顔で答えた。

「行きましょうか」と言って運転席のドアを開けた。兄は「会社の車か」と尋ねて助手席に乗り込んだ。「ああ」とだけ答えてエンジンスイッチを押した。エンジンモニターが点灯し、プリウスは小さく震えてモーターが作動した。アクセルを踏んで車を発進するとモニターがカーナビに変わった。兄は珍しそうにそれを見ていた。「テレビも見ることができるよ。でも朝のこの時間の番組には面白いものは無いね」と言った。兄はモニターから視線を外した。兄には私が小さな造園会社に勤めていると話しているだけで役員車両を持つ会社での役職については一切話していなかった。むろん彼の退職時の会社での役職について尋ねたことも無い。兄は最近まで県内随一の建設資材を製造する企業の試験室に勤めていたらし。私の会社はその企業の100分の1以下の規模である。それでも私は常々牛の尾になるより鶏の鶏冠でありたいと思う主義であり、大企業に属する一員としてのステイタスより自分の個人の力を頼りに生きるのが好きだ。

公民館までは500m程だ。公民館広場のガジュマルの下に車を止めると、すでに多くの親族が集まっていた。宏幸叔父が弁当を片手にゆっくりと歩いてやってきた。自宅は公民館の近くである。私が夕方に21世紀公園をジョギングしていると、時折自転車で散策している姿を見かける叔父である。腕の良い大工であったと父が話していた。父より5歳ほど年下であったはずだ。

「叔父さんこれに乗りなよ」と声をかけた。

「おお、カズか。良い車だな、新車だな、お前のか」

「俺のじゃないよ、会社の車だ。これで行こうぜ」そう言って車の後部ドアをあ開けた。叔父が車に乗り込むと一族の当主である宏春叔父の元に行って今日の道順を尋ねた。

「毎回の通り、初めに運天港の近くの百按司墓を訪ねよう。私の車の後ろを追いかけてきてくれ」そう言った。

私が公民館の自販機でさんぴん茶のペットボトル3本を買って戻ってくると宏春叔父は「皆さん出発しましょう」と言って車に乗り込んだ。20名ほどの参加者である。私は車に乗り込んで叔父と兄にペットボトルを渡した。叔父に「ビールでなくてごめんね」と言うと

「馬鹿たれ、俺はもう酒は飲まないよ」苦笑いした。

宏幸叔父公民館の近くにある建設会社神山組でも一番腕の良い職人であったらしいが酒が過ぎるのが欠点だったなと父が言ったことを思い出して叔父をからかったのだ。今朝、父の姿を見なかったが、既に150坪ほどの菜園に出かけた後のようであった。宏幸叔父には父のような野菜作りの趣味は無く、もっぱら飲むことのようである。

宮里公民館前を出発した一行は、5台の車列で58号線に出てゆっくりとした速度で北上した。程無く伊佐川交差点にさしかかり左折して今帰仁村に向かう国道505号を進んだ。

「この頃は街でも田舎でも軽自動車が多くなったね。税金が安く、取得時の車庫証明が必要ないからかな」と兄に言った。

「それもあるかもな。今度4輪駆動のパジェロを下取りに出して、軽自動車のワゴンタイプを注文したよ」

「新車は結構な値段がするだろう」

「ああ、100万円を超えるから嫌になっちゃうよ」少し自慢げに言った。

兄は父母の病院への送迎に乗り降りが便利なスライドドアの低床のワゴン車に替えたのだと思った。釣り好きの兄は長い間オフロード車のパジェロのショートタイプを愛用していたが、車体が高く80歳を過ぎた老人には乗り降りが難しいのだ。奥さんが普通乗用車を所有しているが、車検が満了するのを機会に1台の自家用車にするつもりのようだ。私は兄が父母との暮らしに次第に慣れてきたように感じて安堵した。30年以上も夫婦だけで暮らした生活から父母との暮らしになれるのには心の切り替えが必要で神経がくたびれるのだろう。私は叔父が退屈していないかと思い、カーナビをテレビ画面に切り替えた。

「叔父さん、近頃の車はテレビ付きだぜ」と信号待ちの交差点で後ろを振り返って話しかけた。叔父が身を乗り出して画面を見つめた。

「おお、大したもんだ。高級車に乗っているな。お前は会社で社長をしているのか」

「よせやい、今時その辺のガキの車にも付いているぜ」と笑った。

1-2トンネル

車列は羽地内海沿いをしばらく走って湧川の坂道を上った。大きな道路標識に矢印で直進は仲宗根、右折は運天港とあった。僕らは右折して村道を進んだ。ししばらく進むと右折運天港の表示がある集落に入った。港に向かう県道72号を横切って集落の中に入った。旧道である。500mほど進むと運天トンネルが見えた。大正13年に作られて平成9年に改修工事がなされている。中型8トンのダンプトラックが通行できる間口だ。トンネルの向こう側に運天集落の港がある。新港が出来るまでは地元漁民の漁港と古宇利島への艀の港を兼ねていた。琉球王朝の尚巴志が三山を統一するまでは、北山城主の中国王朝との貿易港として利用されていたとの歴史を持っている。源為朝伝来伝説の港でもある。現在は新港が整備されて県道72号線が名護市まで続いている。那覇空港までのシャトルバスの起点であり、午前11時30分那覇空港発のバスに乗れば伊平屋、伊是名へ向かう午後3時発のフェリーの最終便に間に合う。トンネルの手前を左折して細く曲がりくねった坂道を上って頂上近くの広場に車を停めた。

1-3運天港公園

沖縄海岸国定公園・運天港園地の立派な表示板が立っていた。看板には環境庁・沖縄県と附則されていた。拝所の入り口には真新しい表示板があり百按司墓と矢印があった。その下の石柱に運天港散策道・田園空間整備事業と彫り込まれていた。管理者は今帰仁村との表示も見えた。沖縄本島北部地区町村の活性化事業である。私の職場からそう遠くない本部町具志堅集落の農耕放置湿田地帯でもこの事業が行われていて、レンタル農園、農産物販売所、集会研修施設などが整備されているのを思い出した。立派な親水公園として整備されているが人影は少なく活性化事業の効果はどうであろうか。国の箱物行政の典型的な一例であろう。

拝所の途中までコンクリートの石段と歩道が続いており、老齢の親族には有難いものだ。以前に来たときは崖の急斜面に造られた藪の中の小道を足元を気にしながらそろりそろりとあるいた記憶がある。今でも倒木が歩道に横たわった場所もあり、細かい手入れはなされていないようだ。箱物行政は管理予算が不足気味であるのは何処でも同じである。

2ムムジャナハカ百按司墓

百按司(ムムジャナ)墓は首里王府から派遣された北山城監守役の武将の遺骨が納められた風葬墓だ。実際に三山統一以前の今帰仁城は内紛によって3度の火災を起こしている。口伝から作られた村の豊年祭に演じられる歌劇には、城主をだまし討ちにした謀反人を城主の子息が仇討の本懐を遂げて城主に返り咲く物語が演じられている。集落に残る口伝は歴史書から漏れた史実の形跡の一部である。それ故、三山を統一した尚巴志は配下の武将を北山城に派遣して地方豪族の反乱に備えていたのである。我が一族の始祖と言われる尚泰久も城を守った時期があり、今帰仁巡りの原点がそこから始まるのだ。王族の身内が北山城の責任者を廃したのは200年後の第二尚氏の7代目からだ。この墓は任期を終えて故郷の首里に戻ることを夢みながら無念のうちに果てた武将の亡骸が眠っているのだ。眼下に運天港が望め、港からは第一尚氏の発生地伊平屋へ運航するフェリーいへや300人乗りの寄港地だ。古宇利島と屋我地島に挟まれて風雨を遮る場所であり、水深が深く1万トン級の貨物船でも入港できるのだ。戦時中は哨戒艇が港のさらに2km奥の現在の湧川マリーナの近くに係留されていたらしい。

3名護連山名護岳を望む

拝所の墓は岩山の岩石の突き出た部分の根元に石を積んで作られていた。突き出た岩が雨除けの庇となっており、あちらこちらに豆粒ほどの小さな鍾乳石が下垂していた。この場所は本部半島の嘉津宇岳と本島北部の連山の一つ多野宇岳の間のなだらかな陸地を隔てて名護岳の中腹が望める。北山城址までは直線で5km、古道を歩けば10㎞だろうか。北山城で謀反があれば名護城に狼煙で知らせることが可能である。運天港から船を出して王府へ連絡することもできる。尚巴志が北山王を攻めた時の協力者が名護城の豪族であった。名護岳から読谷村の座喜味城までは海路の見通しが効く連絡体系である。座喜味城から越来城、中城城、首里城と狼煙が伝わるのである。北山城は南に本部半島嘉津宇岳、八重岳がそびえており緊急の連絡は東回りの運天集落経由、あるいは西回りの本部町備瀬崎経由の狼煙である。名護岳から恩納岳へと続く稜線は故郷の首里に思いを馳せる場所であっただろう。この場所は1420年代に始まった琉球王統の行政の下で、遠く首里城から派遣されて故郷に戻ることなく逝った武将たちの思い籠る場所でもあったに違いない。長い年月の間に岩から染み出る石灰質の雫は王府の按司(武将)の涙にも似て小さく垂れ下がって白い鍾乳石に変わっていた。

当主の宏春叔父の音頭でそれぞれに配られた平線香を手にして最初の御願をした。前回の南部巡りの御願の様に私はどこそこの誰であるとは言わなかった。ただ祈るだけであった。

4為朝碑為朝碑

この園地には源為朝が上陸した記念碑が建っている。口伝によると為朝が運を天に任せて上陸したのがこの地であり、故に運天という集落名がついたとのことだ。沖縄県には運天という姓もあり、確かなことは分からない。為朝上陸は確かでないが、この運天港からマツノザイセンチュウが本土から侵入して、沖縄県の琉球松に甚大な被害を与えているのは研究者の報告で証明されている。米軍統治下の沖縄県は本土各県からの原木、土砂の移入が制限されていたが、本土復帰後に整備された運天新港から赤松の原木が移入されており、運天港周辺から琉球松を枯死させるマツノザイセンチュウが上陸したのである。眼下を「フェリーいぜな尚円」が出航していく。1日2往復の1便目の戻り船である。伊平屋島とその隣の伊是名島には平家の落人が来島したとの口伝がある。伊是名島は第二尚氏王統の初代尚円金丸の出身地である。郷土歴史家の亀島靖先生の説によると第一尚氏も第二尚氏の金丸も平家の落ち武者であろうとのことだ。体格に恵まれ新しい知識が豊富で日本語を話すことから琉球の豪族に日本国との貿易上の才覚を認められて出世したのだと。尚巴志の父尚思紹や金丸が村から追い出されたのは、出来すぎる者への嫉妬から来る村八分の意味を指しているのだ。柳田邦夫の学説「黒潮の道」は、日本列島から台湾、フィリピン、シャム、マラッカ海峡へと続く交易文化の基礎となる黒潮の海流が作った歴史のロマンである。

5ティラガマティラガマ拝所

百按司墓の御願を済ますと近くの丘にあるティラガマ(洞窟)に移動した。宏春叔父が歩いて行こうとすると宏幸叔父が「歩くには少し骨が折れるから車で移動しよう。ちょっとした広場があるから」と言って車に乗り込んだ。私は前回来た時のことを思い出して確かだと思った。しかし、宏幸叔父は前回の御願には参加していないはずだが妙に詳しいなと不思議に思った。200mほど車で移動すると宅地造成地の広場があり、そこに車を停めた。

藪の中の小道を進むと洞窟の前に出た。地面にぽっかりと開いた洞窟の前に香炉があった。洞窟は地下に続いており人が下りることが出来そうだ。以前は人の出入りがあった形跡があった。この洞窟はミルクガーと呼ばれていて中には豊かな水源があると秀明さんが得意げに説明した。そのあとでチラリと奥さんの幸子さんのほうを向いた。物知りの幸子さんの受け売りに違いない。若いころから運動は得意であったが知識の方はあまり得手との印象は無い男だ。宏幸叔父が「このガマは4km先の仲宗根集落まで続いているそうだ」とボソリと私に言った。ガマの前の香炉に線香を立てて皆で拝んだ。宏春叔父はこのガマではなくてこの近くに御先祖の武将の屋敷跡がありそこを拝むのが筋であると言って、新品の鎌を手にして藪の中に入って行ったが、何も見つけることは出来ずに引き上げて来た。産婦人科医という彼の職業柄からメスやピンセットの扱いは得意でも農耕具の鎌は不慣れのようであった。一緒に藪の中に入った息子の宏樹とて外科医であり鎌を手にすることは無いだろう。早々に引き上げてきて言った。

「前回来た時には探せたがもう分らなくなってしまった。この辺りに見当をつけて拝むことにしましょう」僕らも叔父の指示に従って手を合わせた。

6-1古宇利古宇利島

車を停め広場に戻ってあたりを見回すと別荘が数軒立っていた。ピザハウスの看板を上げた家もある。向かいの古宇利島がすぐ手前に見えた。まるで陸続きのような感である。古宇利島の高台にはかって狼煙を上げた場所が記念碑と共に残されている。琉球列島を結ぶ海上のランドマークとしての島々の頂に同じ場所が残っている。奄美大島、徳之島、与論島、沖縄本島の最北端辺戸岬、伊平屋島、伊是名島を中継する古式通信手段の跡である。琉球王府は北から来る日本武士団への警戒を怠っていなかったのだ。南へは門戸を開き中国王朝、日本の海賊倭寇とは友好関係を保っていたのだ。島の端にはリーフが連なっており白い波が立っていた。その向こうは未だな夏の色を残した透明なブルーの海が広がり、そのはるか向こうに伊平屋島と伊是名島が浮かんでいた。島の上には雨を予感させる厚い雲が低く流れており、秋特有の抜けるような青空ではなかった。右手の森の陰から突然にフェリーが出てきた。船首に書かれたフェリーいへやⅢの船名がはっきりと読み取れる距離である。伊平屋島から出た朝の第1便が帰るのである。1日2往復で午後2時に2便目が入るようだ。古宇利島のリーフを過ぎると煙突から黒い煙を吐いた。エンジンの出力を上げたようだ。本部半島と伊是名島、伊平屋島の間はとても水深が深く北から南へと強く速い海流が流れている。為朝、尚巴志一族、尚円金丸を北の日本から運んだ黒潮の反転海流だ。島へ向かう船はエンジンの出力を上げ、右に舵を切ってやや北向き船艇を保って斜めに滑るように進んでいくのだ。船首を島に向けると横からの強い流れに持っていかれるのだ。その代わり運天港に向かう船は海流に押されて滑るように進むのである。島と本島を結ぶ船の往復の航行時間が異なっている。ただし運賃は同じである。誰も声を出さずに船を見送っていた。船は僕らの視線を振り切るように点になって島影に染まって消え去った。

6-2帰港するフェリー帰港に向かうフェリーいへやⅢ

「次は大井川の昔墓に行きます」宏春叔父の声につられるように皆は車に乗り込んだ。

7昔墓昔墓

大井川の河口に昔墓がある。現在は「かりゆしばし」のたもとであるが、20年程前は湿地の中の藪を通って墓参りに行く難儀な場所であったらしい。

8-1今帰仁酒造今帰仁酒造と酒の貯蔵タンク群

川向には今帰仁酒造の工場がある。大きなステンレス製の貯蔵タンクがある。昨年の春先に北部地区安全管理協議会役員として10名ほどで工場点検業務の名目で訪れたことある。ISO9001の認定をうけた企業は点検項目の一つとして協議会の役員を接待代わりに施設案内してくれるのだ。沖縄県の酒造所は先の大戦で多くの零細工場が被災によって消滅したのだが未だかかなりの数がある。県内市町村の7割には酒造所があるだろう。現在本島北部12市町村に10社が存在するのだ。今帰仁酒造の工場長の咲村さんが言ったのを思い出した。「うちの会社には古酒貯蔵用の150トンタンク6基があります。これだけの量の酒を誰が飲むのでしょうかね。それでも毎日製造しているのですよ。沖縄県民はほんとに大酒のみばかりですね。ありがたいことです」と笑っていた。ちなみに泡盛の原料であるコメはインディカ種の輸入タイ米である。これを発酵して造る蒸留酒である。日本酒よりウイスキーに似た製法である。地元の沖縄県産米はジャポニカ種でもっぱら食用である。大戦前の古酒造りの貯蔵壺は東南アジア産の南蛮瓶であった。現在でも個人の古酒貯蔵は瓶である。今帰仁酒造ではウイスキーの製法を真似て樽仕込みの泡盛も製造されている。工場の倉庫に酒樽が整然と寝かせられていた。その横のガラス張りの部屋で若くもない女性たちがボトルにラベルを手作業で張って段ボール箱に詰めていた。私が「琥珀色の泡盛は手作業するほど貴重品なのですね」と話すと、咲村さんが答えた。「樽で寝かせて質のより古酒にするとウイスキーのような濃い色の泡盛になるのです。樽のエキスが出すぎるのですよ。そうなれば日本の酒税法では泡盛の分類から外れてウイスキー並みの課税となります。ウイスキー並みの税金では採算が取れません。だからオートメーション化せずに酒の色をチェックしながらの少量生産の色付き泡盛に留めているのです」

原材料や酒の濃度でもなく酒の色が酒税法に関わるとは強い酒を好まぬ軟弱な国家官僚の考えそうなことだと思って可笑しくなった。土産に今は手に入りが難い平瓶の1合ボトルを貰った。何年か前に台湾とマレーシアの友人たちとタイのラン生産者を訪ねたことがある。夜の飲み会ではタイ米で作られた蒸留酒は見当たらずジョニーウォーカーの黒ラベルを飲んでいたのを思い出した。必ずしも主食の炭水化物で酒を造るとは限らないようだ。私も五升壺を二個と金箔入り2升瓶を2本押し入れに保存しているが10年以上も忘れたままになっている。朝鮮人参を漬けた泡盛もあったはずだが、一度仕舞うと失念するようだ。

墓は川沿いのビーチコーラルで出来た岩場に彫り込まれて作られていた。ここに葬られているのは1416年の北山城滅亡の戦で死んだ者やあまり位の高くない侍とのことらしいが定かではない。入り口が小さな四角の穴墓が幾つもある。宏春叔父はどれを拝むべきか良く分からないらしく、全体が見渡せる場所に線香を並べて御願した。僕らもそれに倣った。マングローブ林の潮だまりで釣り糸を垂れている人が珍しそうにこちらを見ていた。僕らは長居せずに次の拝所に向かった。

9湧水池湧水の拝所

大井川の上流に湧水地が拝所である。沖縄では多くの古い湧水地が拝所である。干ばつが起こりやすい島嶼文化圏では湧水地は人の生活の基盤となってきたのだ。現在の様な浄水施設や水道設備の無い時代には枯れることのない湧水地は神々の宿る信仰の対象地であったのだ。沖縄本島で干ばつによる断水騒ぎが亡くなったのは、灌漑ダム整備が充実した僅か10年前である。県内のほとんどの民家は貯水タンクか飲料水として使える井戸を備えていたのだ。私の自宅も現在では使っていないが、ステンレス製の2トンタンクを備えている。この拝所は、王府へ献上するターウムと呼ばれる湿地で育つ里芋の1種が栽培されていたと伝わっている。最近まで養鰻場があったらしくコンクリートの囲いがされていた。現在は廃墟となっている。水面を覆ったホテイアオイが淡い紫の花を咲かせていた。それでも湧水の利用者はいるようで取水ポンプが断続的に作動していた。湧水は取水で変化することなくこんこんと湧き出て養鰻場のコンクリート壁に沿って下流に流れ出ていた。

10ホテイアオイ養鰻場跡と今帰仁村の文化施設

先ほどの汽水域の湿地と異なり山手の湿地は藪蚊が多い。皆で祈願して早々に車を停めてある県道脇へ向かう坂道を上った。私は宏幸叔父に話しかけた。

「今でもウナギの需要は多いだろうに、ウナギ商売は儲からないのかね。これだけの水量があるのだがね」

「養鰻場跡地の向かいに今帰仁村の中央公民館があっただろう」

「田舎にしては立派な施設だね」

「この場所は大昔からの湿地だろう。建築用パイルをたくさん打つ必要があるのさ」

「そうだろうね。県道79号の下り坂の右側はこの辺りから湿地が広がっていたであろうから」

「それでさ、パイルを打つと振動でウナギがえさを食わなくなるそうだ。町役場の改築に始まって、中央公民館、学習センター、物産センターと10年近く工事が連続したのよ。人間には感じない振動だがウナギには致命的だったそうだ。その当時はだれも知らなかったのだ。ただウナギの食欲が低下したことで成長が遅くなり採算が取れなくなって廃業したそうだ」

「確か、製糖工場の出資会社であったと覚えているが」

「ま、本業の製糖業に専念したわけだ。それで原因を深く追及しなかったのだろう」

「叔父さん物知りだね。見直したよ」

「ああ、大先輩を尊敬しなよ」

「御見それしました」そう言って褒めると叔父さんは頭を搔いて言った。

「実は桃源の里のお楽しみ見学会で今帰仁村の名所を2度ばかり回ったのさ。その中の物知り男の説明で勉強したわけよ」

「なるほどね」私はそう言って相槌を打った。宏幸叔父が老人福祉法人「桃源の里」のディケヤサービスに通っているのは、アルコール依存症の改善のためだと父から聞いた記憶があった。一人息子夫婦が手続したのであろう。酒で悪さをする人ではないが健康管理に不安を感じたのかもしれない。

11植物群落諸志の植物群落

一行は諸志の植物群落保存区の広場に車を停めた。この場所は古くからの拝所であり、ノロ(女神)等地位の高い人々の風葬墓があった場所だ。このような人々は一般庶民の様にない近くの風雨にさらされた荒れた場所に葬られたのではないようだ。畑地や宅地としての開発から免れて植物群落として残ったのは、神々の祟りを恐れた住民がこの地の植物を採取することなく今日まで至ったのだろう。幹回りが60cmあるクロキが生えている。三味線の竿に使うと1本30万円以上の品が何本取れるだろうかと思うが、祟りもその分だけ子々孫々に伝わるだろう。沖縄で三味線の絶品となる竿の材料が残っているのは、波照間島の風葬墓の周辺に生えるハマシタンの古木など誰もが恐れる場所だけである。三味線は古くから人の思いを奏でる楽器であり、祟りと縁が深いのは確かだろう。琉球古典音楽の三味線は古人の思いが強く表れる音色である。前々回の御願では林の中の拝所まで入って線香をあげたが、小道が分からなくなるほど草木が茂っており、林の入り口で線香を上げた。そして道向かいの小川でも線香を上げた。其処も拝所となっているらしく古いコンクリートの小屋が設えてあった。

12カー拝所のカー

13諸志のフクギフクギの屋敷林

僕らは国道を横切って集落の中を歩いて次の拝所に向かった。諸志集落は古い歴史があるようだ。海岸に程近く砂交じりの土地である。屋敷林としてフクギが植えられていた。フクギは防風林としての機能が高く海岸に近い古い集落では今でも見かけるがコンクリート住宅の普及で少なくなりつつある。この集落は北側が海岸になっておりフクギは冬季の季節風から集落を守っているのだろう。目的の家は海岸に近い場所にあった。敷地の右端に2坪ほどの小さな拝所が設えてあった。宏春叔父は家主に挨拶をして拝所の木製の引き戸を開いた。祭壇の右端に模造品と思しき古刀が立て飾られていた。誰かが刀があるねと話すと宏春叔父と同年配の宏政さんが言った「昔僕らが中学生の頃であったが、あの刀を祭壇から降ろして宏春さんと二人で手に取って見ていたらハサマの大祖父にひどく怒られたことがあったな」

「そうだったね、刀を手にして鞘を抜きはらい村の豊年祭で演じられる按司の真似をしたのだったね」

二人が懐かしそうに笑っていると、いつの間にか家主の女性が微笑みながら話しかけてきた。

「尚泰久王様から拝領した本物の刀は小太刀だったのですよ。戦時中に金属の拠出指令で軍に提供してしまったのです。その刀は戦後に仲宗根集落の鍛冶屋に頼んで作ってもらったのですよ」老婆は情けなさそうに話してくれた。

14セリキヨ世利久の祭壇と右端の刀

僕らは皆で合掌してその拝所を離れて車に向かって歩き出した。

私は物知りの幸子さんに話しかけた。

「刀が尚泰久王からの贈り物だとすると、あの家は世利久の実家ということですかね」

「あら、貴方はそれも知らずに御願していたの。車を停めた向かいの拝所も世利久がノロとして活動した拝所なのよ。困った人ね」そう言って笑った。

「幸子姐さんは一門の祭り事に詳しいですね」

「私の初孫は未熟児で生まれたの。それで祖先の元を訪ねて孫が健康に成長してくれるように祈ったのよ。7年廻りとは別に秀明と二人でね。中南部の御先祖と少しでも縁のある拝所は全て廻ったわ。伊波城址、読谷村の尚巴志の墓、添石の拝所などもね」

「1日では回れないでしょうね」

「丁寧に御願したので4日は必要だったわ。おかげで孫は元気に成長してくれたわ。いまでは少年サッカーのチームに入って真っ黒に日焼けしているのよ」そそう言って嬉しそうに笑った。

「念ずれば御先祖は我々を守ってくれるのですね」

「そういう事、信心が一番よ」

僕らは車で今泊集落の民家に移動した。この家は北山城に上る役人の逗留場所であったそうだ。北山城の監守に謁見する前に身だしなみを整えて城からの呼び出しを待つ宿舎のような役割の場所である。大学ノートに礼拝者の記録があった。本日は我々で4件目である。丁度12時を回ったところであるから午前中に訪れた人たちだ。那覇市、糸満市等南部からの来訪者だ。前日の土曜日の記録もある。皆御先祖が行ったようにこの家で礼拝して北山城の上るのだ。1416年に北山城主樊安知が尚巴志に滅ぼされてから600年を経て尚、北山城を参拝する琉球王府の士族の末裔がいるのだ。尚泰久もこの北山城に関わり、我がハサマ一族御先祖の誰かも何らかの役割でこの城に関わってきたのかもしれない。郷土史家によると「元は今帰仁城」と言われる口伝があり、北山城をめぐる5度の戦の敗残者が沖縄各地に離散して行った。北山城は千年前の平安時代から存在していたのだ。そして尚巴志が三山を統一するまでは支配地の面積が琉球に群雄割拠する武士団の城主の中で最も大きな領地を支配していたのだ。北山城に関わる末裔が長い歴史の中で全県下に流れて行ったとの説である。

この屋敷は北側が10m程の盛土になっており防風林のフクギが植えられている。庭にはリュウガンの古木が生えていて棒蘭(Luisia teres)と呼ばれる沖縄の野生ランが着生していた。沖縄県では古くからリュウガンの木は由緒ある家に植えている。中国南部から伝わった果樹である。果実は皮を剥くと竜の眼に似た実があり、食することが出来る。漢方薬としての薬効もあるらしい。中国南部の広東省にはリュウガンの果樹園が大きく広がっている。ムクロジ科でレイシの近縁種であるがレイシほど美味しくは無い。木造住宅の一室が礼拝所として使われていた。年配の方数名が線香を立てて座して祈願した。僕らは軒下から祭段に向かって祈願した。この家の主人も愛想がよかった。ただ神棚の近くに販売用の守護神札や祈願飾りが並べられており、南部巡りの拝所のような荘厳な雰囲気は無かった。ご先祖を頼みにする拝所としては違和感が残った。

15リュウガン

16ランリュウガンの古木と着生ラン

表に出ると国道が騒がしかった。高校駅伝らしい。白バイに先導されて地元の北山高校を先頭に、中部工業高校、八重山農林高校が競り合って駆け抜けた。県内の公認駅伝コースで男子の6区アンカーだろう。この先3kmに今帰仁村運動公園があるのだ。優勝校が12月に京都で開催される全国高校駅伝に選抜されるのである。団子鼻の宏政さんが言った。「ヨシ坊は走ったかな」

「宏吉は2区と言っていたから、走り終わっているね。ここはアンカーの6区だから」と誰かが言った。「残念だな。せっかく今帰仁まで来たのに」

皆は車に向かって歩き出した。午後1時である。

北山城址公園の駐車場に着くとそれぞれのファミリーでの昼食となった。本家の一族、分家の秀仁ハサマグァーの秀明さんのファミリー、そしてマガイハサマグァ-の僕らだ。それぞれのファミリーが弁当を持参していたが僕らは食堂に向かった。

北山城址は来るたびに整備が進んでいる。とりわけ世界文化遺産に登録されてからは駐車場整備とその周りに、売店、食堂、記念館が建っていた。この部分は歴史上の遺産発掘の範囲に含まれていないのだろう。駐車場の向こう側から文化遺産の敷地のようで発掘作業の表示板が立っていた。私と兄は宏幸叔父を伴ってソバ屋に入った。ソーキそば定食を注文した。ソーキそばにジューシー飯が付いているのである。宏幸叔父の弁当は小さく仕切の付いた器に巻きずし、チキンのから揚げ、サラダ、煮物、スパゲッティ、卵焼き、野菜炒め、酢の物など10種類の品が美しく並んでいた。

「上品で美味しそうな弁当だね」と私が言うと

「嫁が何処からか買ってきたのよ」と嬉しそうにはにかんで答えた。

食事が終わると外に出て隣の待合室に入って休んだ。私は地元の「おっぱ牛乳」が出店しているアイスクリーム店でターウム(里芋)を原料にした紫色のムベを3個買って兄と叔父さんに渡した。

「個々の名産らしいよ、デザートにどうぞ」と言った。

「紫色しているから紅芋が原料かな」と叔父が言った。

「いや、ターウムらしいよ」と言うとしげしげと眺めてから口にした。

「おお、美味しいな。甘いものはあまり食べないが、食後にはいいな」と笑った。

「辛い、酒のつまみだけでなく、たまには女子供が食べるアイスクリームもいいだろう。健康にも良いのだぜ」

「馬鹿野郎」と言って笑った。

休憩所で転寝をしていると宏樹が呼びに来た。城址の御願に出るらしい。外に出ると雲が厚みを増して早く流れ出していた。

2時30分、入場者には御願割引という奇妙な制度がありそれを利用した。300円割引の150円の入場券を宏樹が配って回った。

17北山城北山城址の石垣と門

城址の入り口には大きな松の木があり、その横に改札口があった。城門を潜り石灰岩で出来た石段をゆっくりと歩いて頂上に向かった。いつの頃に植えたのか知らぬが寒緋桜が並木となっていた。すでに落葉しており年明け2月の開花まで静かに北風の襲来に備えているようだ。現在残っている北山城の城郭はあまり広くない。首里城に次ぐ広さと言われているが確かな資料がなく復元が困難なようである。本丸部分が600年の風雨に耐えて残っているようだ。

18桜並木落葉した桜並木、毎年2月に桜祭りがある。

最初の御願は火の神を祀った祠である。隣に見事なフクギ立っている。巨木というほどの高さは無いが、太い幹はデコボコとしており、飛来物に叩かれて生き延びてきたのだろう。北に面したこの場所は台風、北風をまともに受けるだろう。太くこれ以上伸びないだろうという姿で威風堂々と立っている。フクギの大木は金武町の観音堂、久米島の琉球王府の交易所跡にもあるがいずれも平地の敷地内でまともに風雨に晒されてはいない。私は6年に一度の御願の度にこのフクギを眺めるが全く変わらない。まるで剛柔流空手の武人が三戦立で構えているように見える。鳥肌が立つほど見事だ。太くゆったりとしていて全く隙が無く、断崖の要塞に空を背にして立っている。この城は何度か火災に見舞われている。本当の吹き曝し城塞の頂上で幾百年の歳月を過ごしたのであろうか。岩石を積み上げて造られた要塞の地中にどれだけ深く根を下ろせばこの場所で自然の猛威に耐えることが出来るのだろうか。王者とは、真の武人とはかくあるべきだとこのフクギが語っているようであった。私は火の神に祈る一族の祈願と共にフクギの精霊にも祈りを捧げた。

19福木火の神の拝所とフクギの巨木

城址内では5か所で祈願する。次の場所は男子禁制の場所である。僕らは女性たちが祈るのを後ろで見守っていた。その次に伊平屋島に向かってお通しをするために城塞の北側に移動した。ただ雨雲は北の海を覆いつくし島影を消してしまっていた。宏春叔父は線香に火を付けて言った「北はあの方向だね。伊平屋島に向かって皆で祈りましょう」

僕らはそれに倣って合掌した。線香が消えぬ間に大粒の雨が落ちてきた。私は兄と宏幸叔父を誘って城址内の管理棟へ移動して雨が上がるのを待った。雨は15分ほどで止んだ。僕らは残り2か所で線香を上げて礼拝を終了した。そして雨でぬれた石畳を踏んでゆっくりと駐車場に向かった。

20伊平屋島雨雲に隠れた伊平屋島

坂道を下りながら本家の良子叔母が私に話しかけてきた。宏春叔父の妹で独身である。ハサマ本家は長男が那覇の県立2中で勉学中に肺結核で亡くなり、叔母も結核の影響で嫁ぐのを諦めたと聞いている。次男である宏春叔父が医学の道を志したのは長兄の病死に起因しているのだろう。敗戦後の沖縄から本土の大学で医学を学んだことや、産婦人科の開業費用の捻出によって本家は随分と資産を処分したとの噂である。

「カズ君、貴方たちの曾祖母のウシお婆さんのことで謝らなければいけないことがあるのよ。戦時中に亡くなったから貴方は知らないだろうけど」

「家に遺影がありますよ。戦前にハサマ一族の集合写真が残っていて、それからとトリミングした写真を飾っていますよ」

「ああそれね、戦前の南洋移民がはやったころの写真ね。一族の人間が南洋群島に出稼ぎに行くので集合写真を撮って皆に配ったのよ。一族の人間がバラバラに分かれていくのをお爺さんが心配したのよ」

「すごく気性の強そうな顔立ちの方に見えますが」

「私のお爺さんと同じくらいの歳で、シパマタ屋の7人兄弟の一番上の姐さんだったわ」

「シパマタ屋の恵一兄さんが昨年の衆議院議員選挙前に訪ねてきて、従妹の奈津美が国会議員に立候補するからよろしくと言っていましたね」

「彼女のお父さんはシパマタ屋の3男の息子で現在はコザに住んでいるわ」

「私の父と宏次叔父を残して一家が南洋群島のテニアン島に移民したのでウシお婆さんに中学まで育てられたと親父が言っていましたね。ウシお婆さんはテニアン島には行かずに沖縄で亡くなったらしいですね」

「そうなのよ。戦争が激しくなってウシお婆さんも私たちもシパマタ屋の後ろの森の防空壕に避難していたの。お婆さんはその頃マラリア性のひどい下痢を罹っていてその防空で亡くなったの。亡くなる前にお婆さんから書類らしきものが入った布袋を預かったの。それを家の仏壇の下の引き出しに収めていたのだけどね。米軍の空襲で家が焼けたので消失してしまったのですよ。戦争が激しくなっていたので中身を確認する間もなかったのですよ。今でも心残りなのです」

「お婆さんはとてもキチンとした人であった父は言っていました」

「そうね、お出かけの時は芭蕉布の着物をパリッと糊付けしていたわ。ウシお婆さんが通るとパリッ、パリッと布ずれの音がすると村の噂だったのよ」そう言ってほほ笑んだ。写真を思い出してさもありそうなことだと思った。

「お婆さんは何か本土の宗教の信徒であるらしく手紙のやり取りをしていたみたい。預かった書類に手紙も混ざっているようだったわ。戦争のせいではあるが貴方のお父さんの宏兄さん渡せなかったことがとても心残りなの」

「戦争は色々なことを消してしまうのですね」と返事した。私はふと母が話したことを思い出した。母が嫁いできて1年目の旧盆の頃のことである。

白装束の10名ほどの人々が訪ねてきたらしい。明らかに他府県の宗教団体らしき人々で、たくさんの倶物を備えて1時間ほども供養をして引き上げたといいう。その人たちの師と思しき人がここは仲村ウシさんの家ですか母に訪ねたそうだ。その日は母だけが在宅で何も分らぬまま様子を眺めていたらしい。夕方に畑から戻ってきた義母にそのことを話すと「お婆さんは変わった宗教を習っていたからね」だけ言ってその人々が置いていた倶物をキツイ眼差しで見つめたらしい。義母のウタさんは祖母のウシさんに劣らず気性の激しい人であったらしい。とりわけテニアンで夫を失い、幼子を抱えて戦火を逃げ回った気力は現代人には理解できないであろう。祖母一家の住むテニアン島から出撃したB52爆撃機が父の所属する海軍があった長崎県に原爆を投下したのも不思議な因果である。父のいた大村海軍基地に原爆が投下されずに長崎市内に投下されたので今の私がいるのだ。ただ、沖縄県平和記念公園の平和の礎に戦没者として記名された祖父は、行方が分からぬまま遺骨として帰郷することもなくテニアン島のジャングルで眠ったままだ。私は石畳を踏みしめながら千キロ以上も離れたテニアン島に一人で眠る祖父と6百年前に武士の勤め故に異郷で死んだ百按司の影を重ねていた。

僕らは日差しが天使の梯子となって降り注ぐ中を最後の訪問地本部町伊野波集落の並里家に向かった。僕らは伊野波公民館の前に車を停めて100m程の坂道を登り、満名殿地と呼ばれる家まで歩いた。最後の訪問地である。宏幸叔父さんは私に小声で言った。ハサマの大祖父はこの地はハサマ一門が拝むべき場所ではないと並里家の頭首から言われたそうだ。その場所は定かではないが伊野波集落の別の場所らしい。しかし宏春叔父はそのことを気にせずに本宅と離れの拝所を礼拝した。僕らもそれに倣った。これにて本日の御願は全て終了した。並里家は私の高校、大学の後輩で若くして事故で夭折した並里君の実家である。皆が休憩している間に本宅を訪ねた。線香を上げようと思って玄関の呼び鈴を押すも不在であった。彼とはタイのパタヤで開催された熱帯果樹の国際会議に同行した記憶があり、何度もゴルフを楽しんだ中であった。当時のオフィシャルハンディキャップ11の私が滅多に勝つことが出来なかった好青年であった。豪快な笑いと繊細な気配りを持つリーダー気質の男だった。本部町の町長を務めることが出来る器であり、地域の青年団期からもそれを期待されていた人物であったが、時の流れは彼を忘却の海へと一気に押し流してしまった。それでも彼が情熱を傾けて育成した熱帯果樹の栽培とその果実の加工品は一つの地場産業として一定の成果を上げ、今なお新しい事業展開を見せている。

21満名満名殿地の拝所

僕らは満名殿地の展望休憩所で少し休んで今年の南部・北部の7年廻りの終了を宏春叔父から告げられて散会した。そして坂道を下って公民館の駐車場に向かった。南部廻りに比べて見知った場所であり、移動距離も短く前回のような疲労感は無かった。私は帰宅途中で渡具知漁港に近い儀間鮮魚店の前で車を停めた。義父と宏春叔父の旧制第三中学の同窓生の弟の店である。店主は商工会の集まりで親しくなった間柄で馴染みの店でもある。店主頼んで大きめのカツオ1本を刺身にして3分割にしてパックしてもらった。3,500円を払って車に戻った。車に乗り込むと宏幸叔父に「夕飯時の晩酌のつまみだ。今朝釣れたばかりの近海カツオだ。本部まで来てカツオを買わないで帰ることもないだろう」そう言って1パックを渡した。

「おう、ありがとう。カツオ漁の本場の渡具知漁港で水揚げされたカツオはうまいだろうな」と叔父は喜んだ。

「晩酌で飲み過ぎないようにね」と言うと叔父はバカ野郎とは返答せずにはにかんで頭を搔いた。クスクスと笑う兄に1パックを渡して車を発進した。

6年後には宏春叔父は93歳である。その時まで7年巡りの習慣が残っているだろうかとふと思った。今の時代の時の流れが6年後まで同じリズムで続く保証と理屈は何処にもないのだから。

「完」

2020年6月27日 | カテゴリー : 旅日誌2 | 投稿者 : nakamura