ボルネオ島-プロローグ

2015年6月5日、マレーシアのサバ州でM6の地震が発生、キナバル山が崩落して登山客16人が死亡。その中には日本人1名が含まれるとのニュースがテレビで放送された。私はその報道の映像に見覚えがあった。それは2003年の9月に私がキナバル山中腹のコテージの窓から撮った写真と同じであったからだ。キナバル山は標高4,095mでボルネオ島の東側に位置する自然の豊かな国定公園である。ボルネオ島はインドネシア、マレーシア、ブルネイの3か国の領土からなり、マレーシア領はサラワク州とサバ州がある。サバ州には私の親しい友人たちが住んでいる。 2003年9月28日撮影・中腹のロッジより朝のキナバル山を望む 今年の2月に開催された沖縄国際洋蘭博覧会には、友人の一人であるゴメス・シムが若い仲間数人とやってきた。私は台湾やマレーシアの友人たちと共に蘭展示会場近くの居酒屋で懇親を深めたばかりであった。私の友人たちは蘭や熱帯植物の取引で親しくなった人々である。私が彼らの国を訪れると快く案内を引き受け、彼らが沖縄国際蘭展示会にやって来ると私が接待するという付き合いが長い間続いている。最近のシムは、蘭商売を切り上げて自然体験型旅行ガイドのマネージメントしているらしい。連れの青年達はツアーガイドらしい。もう一人の友人ジェリー・ウォンは蘭展示会の懇親会場で日本語の観光案内パンフレットをラン関係者に配っていた。現在のサバ州は観光事業に力を入れているようだ。

好生蘭園(秦の作品)「花心」

サバ州蘭協会(シムの作品)「緑の感性」

マレーシア(チャーワンの作品)

さて、2003年の9月にボルネオのコタキナバルを訪問したのは、IMPB国際蘭会議が開催され、それを見学を機会にボルネオ島の自然を観察する目的からであった。その情報を提供したのは台湾蘭協会顧問の陳石舜先生である。台湾から共通の友人である秦が行くので同行することを勧めた。秦は翌年の2004年に台湾で開催されるAPOC(アジア太平洋蘭会議)宣伝に出かけるのである。アジアで開催される蘭展示会は、他国の蘭協会が開催する展示会に自ら参加することで、自国の展示会に呼び込む努力をしている。沖縄国際洋蘭博覧会にアジアの蘭協会が数か国も参加するのは、主催者の美ら島財団が自らの職員を派遣して東南アジアの主要な蘭展示会に出展しており、相応の評価を得ているからでもある。

2007年5月ジョホールバル国際蘭展示会、

海洋博公園管理財団出展作品 英語ではボルネオ、インドネシア語ではカリマンタンと呼ばれるこの島を地質学的に見ると、アジア大陸とオーストラリアの間に位置する世界で3番目に大きな島である。1億年も前から熱帯の同じ位置にあり、熱帯雨林気候特有の動植物が進化したようだ。文化的にはマゼランが活躍した大航海時代からオランダ、英国が植民地として利用した歴史がある。15世紀から中国の華僑が活躍しており、現在でもその末裔が定住している。旧日本軍が侵攻する前には首狩り族が住んでいたとも言われているアジアの秘境の一つである。当然のことながら世界自然遺産に登録されている。 沖縄からボルネオのコタキナバルに行くには、台湾経由で桃園の中世空港から週二便、高雄から週一便飛んでいる。現在、中世国際空港は桃園国際空港と名称を変えている。中世とは台湾の初代大統領の蒋介石の別名である。中国との交流が盛んになるにつれて、中国共産党の仇敵であった蒋介石の冠のついた空港名を中国側が嫌ったのではないだろうかと、私は意固地に邪推している。なにしろ独自の歴史認識を重んじるのが現代中国共産党政府の慣習であるから。 9月23日(火) 私は陳先生のアドバイスに従って、中華系の人々にとって縁起の良い赤い色の包装をした沖縄名産の「ちんすこう菓子」数箱と紙パックの安い泡盛を1個求めて土産とした。 チャイナエアラインCI-121は午前11時30分に飛び立ち、1時間半後に中世国際空港に到着した。到着ロビーでは陳先生が待っていた。長身で白髪の先生は人混みの中でもすぐに分った。台北大学経済学部出身のエリートで戦前の日本教育受けており日本語・英語が堪能である。台湾蘭協会の会長職を務めており翌年に控えたAPOCの開催に向けての活動で精力的に活動する身であった。昭和2年の生まれと聞いている。 人混みの中から小柄な女性が現れた。呉秀美(Sandy Wu)は水苔や植え込み鉢などを扱う貿易会社の社長だ。穏やかな外見と異なり、単身でニュージーランド、南米チリ、中国の奥地まで水苔を求めて出かける豪の者である。台北大学英文科出身で英語に精通しているらしい。陳先生も時々複雑な貿易文書を彼女に翻訳を依頼することがある。 サンディの車に乗り込み空港から30分ほどの桃園の港町に向かった。沿岸漁業の盛んな漁港の周辺に海産物レストランが軒を並べている地域だ。防波堤の前の駐車場に車を止めると秦が2人の男と待っていた。秦はサバ州の展示会場に持っていく蘭類の輸出手続きを済ませた帰りである。二人の男は通関業者であった。僕らは「王宮活海鮮」という豪奢な店に名のレストランに入った。日本時間の午後2時であった。

桃園の街角

陳列棚の魚介類 店の形状は日本の魚市場の鮮魚店が料理店も兼ねているような感じだ。魚、カニ、貝などを客が選ぶと適当な調理をして出してくれる。幾つかの食材を注文しても、客の人数に応じて量を調整してくれる。食べ残しが出ることは少ない。もちろん残ったものを持ち帰ることもできる。日本と異なるのは刺身が無いことである。最近の台湾ではマグロの刺身の消費量が増えているがそれ以外の魚種はほとんど見かけない。 小エビの塩茹を抓みながらビールで喉を潤し、渡りガニのスープ、ハタの餡かけ、貝と野菜とヌードルの炒め物だ。僕らは日本語、中国語、英語のチャンポン会話で近況を話し合った。私が食材陳列ケースの中に白色のニガウリを見つけて沖縄での調理法を話題にすると、陳先生はウエイトレスを呼んで調理を頼んだ。 台湾式のゴーヤチャンプルーは食べなれた沖縄のそれとは味が若干異なった。先生の説明によるとアヒルのゆで卵を使っているとのことだ。アヒルの有精卵を赤土に塩を混ぜた泥の中に1週間ほど浸けておくと塩味が浸みて風味が増すとのことだ。私が感心すると先生はボルネオから帰った時に土産に準備しますと言った。 僕らは2時間ほど食事と会話を楽しんで散会した。秦は明日の朝5時にホテルに迎えに行くと言って引き揚げた。ホテルに向かう途中でサンディ事務所に寄った。来月輸入する水苔の品質の確認をするためである。チリ産水苔は既に乾燥処理を終えて5キロパックに詰められていた。圧縮も十分であり品質上の問題は無かった。20フィートコンテナで1万ドル相当の商品である。陳先生と取引は円決済、サンディとはドル決済である。水苔は契約してから採取地で乾燥処理をするので受け取りまで1か月以上を要する。送金時の為替レート1円の変化は購入金額に1万円の変化をもたらすことになる。 宿泊ホテルは台北市内のゴールデンチャイナホテル(康華飯店)だ。台湾に来るとほとんど毎回利用するホテルだ。日本語を話すスタッフがいて日本人客の利用も多いホテルだ。日本人の団体客が多くなると異国の旅情が削がれてしまうのが残念だ。それでも中国人の騒々しい団体客が未だ利用しないだけ素晴らしいホテルの一つである。地下の中華レストランは地元の人々が接待や祝いの席に利用する程上質である。新幹線台北駅や建国花市場へもタクシーで気軽に行ける距離である。

ホテルから見た台北市内 夕食は台北高島屋の12階で歓迎夕食会となった。サンディが仕切った宴である。先生の3男の達寛、秘書のシンディ一家4名の8名で上海料理を楽しんだ。陳先生は持参した紹興酒の古酒を開けて私の旅の安全を祈念して乾杯してくれた。20年以上保存した紹興酒の古酒は、濃い色に変化してビンの底に滓が溜る。滓が混ざらぬようにゆっくりと別の容器に移し替えて温めの燗に飲むのが良い。紹興酒は悪酔いすることが無く、中華料理との相性が抜群だ。私の好きな酒であるが、日本酒に比べると癖が強く日本人には馴染まない酒である。日本料理には日本酒、琉球料理には泡盛、フレンチにはワイン等、食と酒は連動しているようだ。最近の台湾の若者は洋食を好む傾向にあり、ビールや洋酒を好み紹興酒は敬遠される傾向が顕著なようだ。 午後10時に食事会を終了してホテルに戻った。フロントに午前4時のモーニングコールを依頼してベッドに潜り込んだ。

2015年7月13日 | カテゴリー : 旅日誌 | 投稿者 : nakamura