黒潮の流れの果てに

「黒潮の流れの果てに」

    ・・・・・・・・《黒潮の海を渡った同胞に捧ぐ》・・・・・

名護湾から東シナ海の黒潮の海を望む

1プロローグ

 宏と妻の初代はそれぞれ自分専用の籐イスに座り、座卓を前にしていた。40cm角の大きな白のデコレーションケーキがあり、茶色のチョコレートで祝米寿、祝卒寿と2列に書かれていた。そして8本と9本の細身の火の点いたローソクが立っていた。宏の3番目の弟である仲村製菓の宏安が特別に作ったケーキである。二人の周りには長男夫妻を除く2人の息子と4名の娘とその嫁と婿、そして12名の孫と2名のひ孫が集まっていた。その中から一人の男が言った。

「今日は母の米寿と父の卒寿も合わせて執り行います。父の卒寿は来年ですがめでたいことは早い方が良いので合わせて行いましょう」

「おばあちゃん、フーして蠟燭を消して」ひ孫の一人が言った。

初代がフー、フー、と二度ばかり息を吹きかけるが消えないので宏が腰を折って身を乗り出し、消え残った数本の蠟燭を一気に吹き消した。26名の身内が一斉に拍手して「おじいちゃん、おばあちゃん、おめでとうございます」の大合唱となった。

合唱騒ぎが治まると「おめでとうございます」との声がした。皆がその方向を振り返ると撮影機材を手にした男女が立っていた。

「カズさん、集合写真を撮りに来ました。皆さんおそろいですか」津波写真館のオーナーの卓とその娘のアシスタントである。卓はカズと同じ高校の3年先輩で結婚写真の撮影以来、子供の百日写真等を頼む間柄で30年来の付き合いであった。つい最近も母の米寿祝いの写真を撮ってもらっていた。仏壇のある三番座敷でケーキを前にした父母とその周りに子供、孫、ひ孫が押し合って並んだ。3枚ほど取った後で卓とアシスタントの娘は宏の子供たちが持参したカメラでも取ってくれた。「カズさん来週には仕上がりますので」と言って卓が引き揚げた。6畳間の2番座敷、8畳間の3番座敷に男どもは座卓を追加で並べ直し、娘や嫁は台所からご馳走を運び始めた。

 宏の家は建物の前面の部屋が全て襖で仕切られており、一番座の板張りフロアはカーペットが敷かれ、ガラスのテーブルにソファーセットの応接間となっている。畳敷きの2番座の床の間、3番座の仏間、4番座が初代の寝室である。応接間と2番座の間が通路となって左に曲がってダイニングキッチンへと続いていた。応接間の後ろの部屋が介護当番にやって来る4人の娘が交互に使う部屋だ。その横から通路を挟んでトイレ、風呂場、10畳程のダイニングキッチンと続き、突き当りの一番奥が電動式介護ベットを置いた宏の部屋となっている。玄関を入ると右に応接間、左の2番座の間を通りその裏を廻ってダイニングキッチンへと続く動線である。この家の屋号はハサマ一族の分家でハサマ小(グァ)と呼ばれている。宏は分家の3代目の当主だ。ご先祖に関わる仏壇行事に対応するために家の全面が襖で仕切られており、襖を取り払うと応接間から6,8,6畳の畳間へと連続する大広間が出来る構造となっている。200坪の屋敷に40坪の住宅と10坪の倉庫があり、いずれも鉄筋コンクリート造りである。前庭には桜、コガネノウゼン、ハイビスカス等の花木の他、季節ごとに開花するテッポウユリ、アマリリス、ヒガンバナ、秋の忘れ草等の多年草が植えられている。屋敷の東側から裏庭にかけてグァバ、ミカン、パラミツ、カニステル、レイシ、ビワ、柿、パパイヤ、バナナなどが植えられている。庭いじりの好きな初代が植えた果樹は季節ごとに実を着けていた。子供たちが幼い頃には畑であったが、子供が巣立った後は、孫を喜ばすために植えたのである。初代は80歳を過ぎた頃から肺の機能が低下して酸素供給のコンプレッサーの世話になってしまった。コンプレッサーから細い透明なチューブを通して圧縮酸素が鼻から供給されているのだ。細いチューブを引いて移動できるのは家の中だけであり、外での庭いじりは出来ない。田舎育ちの初代は好きだった草花の手入れを諦めて、手間のかからない多年草・花木・果樹の四季の変化だけが楽しみとなってしまった。

この辺りは琉球王府時代に名護間切りの宮里村と呼ばれる名護湾に面した砂質土の集落であり、防風林のフクギやオオハマボウに囲まれた広い屋敷で構成されていた。しかし、沖縄の本土復帰後は、遠浅の海が埋められ国道58号の整備などが進むと、人と物の移動が活発となり、集落は大きく変わって行った。干拓によって海岸が遠のくと防風林が消え、人の流入によってアパートが乱立し、宏や初代の見知らぬ人々が往来するようになった。宮里集落の住民で米寿、卒寿を迎える宏や初代と同年代の高齢者は少なくなっており、隣近所ではほぼ皆無である。まして90歳を前にしてまで介護施設でなく自宅に暮らす者は皆無に近い状態だ。

宏が顔を上げると2番座の欄間に掛けられた祖母、両親の遺影が目に付いた。祖母は戦時中に実家の防空壕で子や孫に看取られずに亡くなり、父は北マリアナ諸島のテニアン島で米軍の艦砲射撃から逃げ惑う最中に行方不明となってしまった。戦時中の宏は志願兵として長崎県大村の海軍基地の潜水艦部隊に配属されており、祖母や父の死に立ち会うことが出来なかった。その不運による親不孝者としての後ろめたさが今でも残っていた。そして今日の祝いの場に長男夫婦が参加していないことにも少なからぬ感傷の情を秘めていた。4年前に大手建設会社の研究室を59歳で早期退職し、これまで一緒に暮らしていた末娘夫婦に代わって自分たち夫婦と暮らしたのであるが、1年前にコンクリート2次製品製造会社に再就職して出て行った。会社の勤務システムの都合との言い訳で妻と二人で出て行ったのだが、通勤が出来ぬ程この家から離れた距離の再就職先でもないと思っていた。この家の住み心地が悪かったのであろうか。長男夫婦が出て行ったこの1年間は夜の暗さの中に一人で佇み、浅い眠りの中で朝を迎えることも少なくなかった。

宏は17歳の春にこの屋敷に祖母を一人で残し、東シナ海を北上する黒潮の海流を逆方向に南下し、北マリアナ諸島を流れる北赤道海流の西の端にあるテニアン島に渡った。そしてしばらくそこに留まるも両親と弟妹達を残し、一人で再び黒潮の流れに乗って北上した。長崎の海軍基地で終戦を迎えるも帰郷せず、さらに北上して大阪の地に流れ着いた。故郷を出て7年後に帰郷した時には祖母と父は戦火の中で他界していた。母のウサと暮らした期間の短さが透明なゼリーにも似た空気の遮蔽物を生んだのであろうか、母のウサは自分の元から離れて弟の宏次と暮らして一生を終えた。自分も長男に看取られずに一生を終えるかもしれないとの思いがあった。祖母、父母、自分の3世代に渡ってハサマ小一家の跡取りといえる長男から置いて行かれる輪廻にも似た宿命を背負ってしまった。この不運な連鎖は自分が祖母を置いてこの家を出たことから全てが始まったのだろうか。北太平洋上の亜熱帯循環の海流のうねりに身を任せて流されて行った90年の長い旅路の中で、海路の何処かの海中に何か大切なものを落としてしまった後悔にも似た思いがあった。老いが進むにつれて目覚めの悪い朝を迎えるのはそのせいだと思い、祖母、父、母の遺影に問いかけていたのだ。

「オヤジ、何をボーっとしているのだ。ほれ、この刺身の盛り合わせを見なよ。名護市営市場の比嘉鮮魚店の同級生に特注した一級品だぜ、マグロ、アカマチ、タマン、ガーラで祝いのバラの花を作らせたのヨ」宏の次男のカズが呼びかけた。

「おお、見事だな、旨そうだ」宏は我に返ってテーブルの大皿を見た。

「だろう、誰か小皿を持って来てオヤジに取り分けてくれ。料理を並べたら始めようぜ」カズが声を掛けた。

宏は騒々しく席に着く子や孫たちを見て思った。自分の代で30数名の身内が出来たのだ。自分の旅の終着港はそう遠くないだろうが、悪い旅路では無かったようだ。今更何を思案する必要があると言うのだ。宏は麦茶の入ったグラスを手にカズの音頭に合わせて「カンパイ」とにこやかに発声した。

2 芭蕉布の女性(ひと)(ひと)

右の糸芭蕉と奥の芭蕉布を織る工房(大宜味村喜如嘉集落)

 カズは父の宏と二人で夕食後に3番座敷でテレビを観ていた。宏の日課は朝9時にデイサービスセンターの担当者に迎えられ、昼食付きで終日を過ごし、風呂まで入って午後4時半に帰宅するのだ。夕食は栄養管理された宅配サービスの弁当を食べている。その日の宿泊当番のカズは、会社の帰りにスーパーマーケットに立ち寄って自分の夕食の惣菜と翌日の朝食のサンドイッチを買って実家に行くのだ。父の好きな刺身の1パックを惣菜に加えるのが常であった。夕食後は世間話をして父の就寝時間までの間を潰していた。退屈な時間を処理するために父の好きな古い時代劇を放映するBSにチャンネルを切り換えていた。父は9時になるとベットに向かうが、その前に睡眠導入薬を渡す必要があるのでテレビに付き合っているのだ。母は少し喘息気味で1昨日から明日までの入院となっていて不在である。カズはテレビのコマーシャルの時に退屈まぎれに父に言った。

「2番座の欄間に飾ってある曾祖母のウトお婆さんは随分と野生的で気が強そうな顔をしているね」

「あれか、戦前に撮った団体写真から抜き取って拡大してもらったからうまく映っていないのさ。あの頃は写真を撮ることなど無いので誰もが緊張したのだろう」

「ほう、どうして集合写真を撮ったのかな」

「昭和10年頃だったかな。南洋移民が盛んでな、ハサマ一族の中からも多くの家族が応募したのさ。一族がバラバラになるので本家に集まって団体写真を撮ったのさ」

「オヤジなんかはテニアン島だったらしが、秀栄さん一家はポナペ島だったらしいね。俺も墓参団の1員として秀栄さん達とポナペ島に行ったことがあるよ」

「ポナペは爆撃されなかったが、テニアンは凄まじかったらしいよ。ワシは出征して長崎にいたからよく知らないがな」

「それにしてもウタお婆さんは強そうな顔をしているね。今時あんな顔の女性、いや、男でもめったにいないな」

「ハハハ、わしは17歳まで一緒に暮らしたが確かに気が強く、体力もあって男勝りであったな。そう言えばウト婆さんの実家のひ孫に女性国会議員が出たと聞いたな。婆さんの気の強さが遺伝したのだろう」

「ああ、衆議院議員選挙前にシパマタの兄さんが投票依頼に来ていたよ」

「その代り爺さんの宏友は体が丈夫でなく、ワシが小学校低学年の頃に死んでしまったな。ほとんど記憶に残っていないのだ」

「ウトお婆さんも苦労したんでしょうね」

「息子が3名いて、あの欄間の写真の宏全、仏壇に祭られている位牌の宏林、そして宏秀叔父さんだ。宏和の親父の宏秀さんはお前も知っているだろ。しばらく宮里にいたから」

「ああ、確か再婚して首里に行って、そこで亡くなったと聞いている」

「ワシの親父の宏全は家族でテニアン島に行き、宏秀は大阪に働きに行き、宏林は台湾で日本陸軍の憲兵をしていたらしいが、終戦後復員して流行り病気で亡くなったらしい。独身だったので位牌はワシらの仏壇に祭ってあるのだ」宏はテレビの画面から視線を外に向けてため息にも似た息を小さく吐き、遠い記憶を手繰り寄せるようにウト婆さんについて話し始めた。外はようやく昼と夜の境目に至り、向かいのアパートの2階、3階の通路の街灯が少しずつ明かりを増していた。沖縄の短い春が終わり、早くも梅雨を待つうりずんの季節となっていた。昼間の熱射で熱くなった空気は、飽和状態まで湿気の含み、重く淀んだ大気となって葉桜となった桜の枝に重くのしかかっていた。早春に濃いピンク色の花をまとい北風に舞っていたうら若い乙女にも似た桜花の姿は過去の景色に取り込まれ、今は黒ずんで重たげな葉を身に纏い街灯の薄明の中に佇んでいた。

 ウトはシパマタと呼ばれる屋号を持つ旧家の9人兄弟の長女として生まれた。名護村宮里集落の西の外れで、海岸から400m程離れた松林の小さな丘の麓の家が実家であった。子沢山であるが故に、幼い頃より母の代わりに良く働く女性に成長した。

一方の夫である宏友はハサマ一族の6代目宏源の3人の息子の次男であった。ハサマ一族は第一尚氏の第7代国王・尚泰久が越来王子の頃、今帰仁のノロ世利休との間に生まれた男子を祖としている。越来川端家を祖としており、ハサマ一族はその家の5代目からの分家筋である。分家筋の何代目かが王府から名護間切りに派遣された岸本親雲上が名護ハサマ一族の初代となっている。王府時代の名護間切りは南の許田村、中央に大兼久、東に東江、西に宮里、海に面した漁師の多い城村からなっていた。当時の屋号は大兼久山當屋で初代は岸本親雲上(ペーチン)の位であった。2代目の長男が比嘉加那で宮里村に移った。次男は大兼久村に残り名護次良仲屋の屋号を称し、分家筋として続いた。次良仲屋の末裔が昭和に入って武道家として名を残した沖縄拳法の創始者中村茂である。比嘉親雲上(3代目)、比嘉親雲上(4代目)、岸本親雲上(5代目)と続き廃藩置県後は6代目の仲村渠宏源である。その息子が長男宏吉(7代目)、次男宏友、三男宏三郎であった。その7代目分家筋のハサマ小の初代宏友は青年期になっても体の弱い男であった。ハサマ本家の6代目で父親の宏源は、次男の宏友の行く末を案じてシパマタの親父に頼み込んでウトを嫁に貰ったのである。子沢山の家では女の子を那覇の花街に男の子は糸満の漁師村に売り飛ばす時代であった。子沢山のシパマタの親父に異論はなかったはずである。ハサマの分家筋では生活に困らぬ田畑が与えられており、必要とあれば、広大な農地を持つハサマ本家の土地を小作すれば食い物に困ることは無かった。6代目の仲村渠宏源は馬で小作人の水田を見回るほどの大地主であった。明治20年、ウトは17歳の時にハサマ小の宏友の嫁となった。宏友の家の屋号はマガイハサマ小と呼ばれていた。村の中央にあるハサマ本家から西に3ブロック進み左に曲がった海辺の突き当りの一つ手前の土地を本家から屋敷として貰った。西に進んで曲がった最後の家の意味からマガイ(曲がり角)ハサマ小と本家が名付けたのである。

 防風林のオオハマボウに囲まれたマガイハサマ小の屋敷は200坪余りであった。屋敷の前に20m幅の砂地の芋畑が東西に広がりその前を県道が西は屋部村から本部村まで走り、東は名護湾をぐるりと回り遥か南の那覇まで続いていた。県道のすぐ前はオオハマボウ、オキナワキョウチクトウ、アダンが混在した自然植生の防風林となっており、広い砂浜が続いていた。屋敷から満潮時の波打ち際まで50m程しか離れておらず、海が少しでも荒れると庭先の如く波の音が聞こえた。ハサマ本家は分家筋に屋敷と茅葺の家と井戸を掘って与えた。砂地の井戸の深さは4m程であったが、井戸掘りには10m四方もなだらかにすり鉢状に掘り下げ直径1mの円形に石垣を積み上げて作るのである。垂直に穴を掘ると砂が崩れて埋まってしまうのだ。井戸の設置は手間と金のかかる仕事であった。海が近いせいで少し塩分が混じるも水量は豊富で枯れることは無かった。宮里集落には南北に2本の本道が走り、県道の他に東西の本道が集落の真ん中を名護村の東の東江集落まで1本だけ走っていた。南北に走る西側の本道がマガイハサマ小の東側を走っていた。北は集落の後背地の小さな二つの丘の間を抜けて屋部川の周辺に広がる水田地帯へと続き、南は防風林が途切れた砂浜へと続いていた。防風林に囲まれた屋敷の外に出ると途切れた防風林の間から海が見えた。大きな台風がやって来ると荒波がその途切れた防風林の間から県道を越えて屋敷の近くまで打ち寄せて来た。屋敷の前に畑地があるのは海に近すぎる場所に住宅を作るには適当で無かった所以だ。なにしろ、家の前の砂地の道路の端には浜ガニが巣穴を掘るぐらいであった。

 昭和10年、日本政府の南洋群島移民政策に応募したマガイハサマ小の2代目宏全は長男の宏と次男の宏次を残し妻のウサと長女の清美と3男の宏安を連れてミクロネシア連邦のテニアン島へ向かった。宏次が中学を卒業するまでの間、宏と宏次は祖母のウトと共に暮らした。宏が小学校6年生で宏次が小学校3年生であった。ウトは南洋移民に反対であり、宏全は母を一人で残すことに後ろめたさの他に、宏次の健康面の不安もあった。宏次は5歳の頃に馬に蹴られる事故に遭っており、その後遺症で時折ボーとして腑抜けの状態が2,3日続くことがあった。見知らぬ土地へ連れてくことで足手まといとなるのは必至でもあったのだ。尤も後年、宏全がテニアン島で体調を崩したことで宏と宏次もテニアン島へ渡ることになるのであった。宏は苦い思いで宮里集落と祖母のウトと別れることになった。一家のテニアン島移民が宏の人生の長い旅路の起点であった。

 ウトは息子の宏全夫婦のテニアン島移民によって、7人家族から孫2名の3人暮らしへと変わった。ウトにとって気性の激しい嫁のウサと気弱な息子の宏全との暮らしより、気遣いの要らない孫二人との暮らしが楽であった。ウトは50歳を超えたばかりであり、人並み以上の体力と気力を持ち合わせていた。さらにほんの少し離れた場所に実家があることも気丈な原因であった。広い屋敷の一角にヤギを飼い、大根、ニンジン、豆類、ニンニク、ラッキョウ、葉野菜、ヘチマ等の季節の野菜を育て、バナナ、パパイヤなどの身近な果物を植えた。そしてハサマ本家から分家の時に与えられた土地と本家から賃貸した耕作地で稲作とサツマイモ栽培して相応の自給食料が賄えた。その他に大阪に出稼ぎに出ている次男の宏秀と台湾の日本陸軍に務めている3男の宏林からの仕送りも多少はあった。息子一家の移民によって実際の日常生活は楽になっていた。孫の学費以外はあまり出費が無かった。ハサマ本家の頭領の宏源は移民で取り残された一族の生活が気がかりで何かと気配りをしていた。自ら求めて一族の嫁に貰ったウトからは田畑の賃料も取っていなかった。ウトの楽しみは孫の成長と田畑の手入れが1番であった。そして毎月の模合で近隣の主婦と寄り集まって雑談を交わすことも実益を兼ねた楽しみの一つであった。模合の金は宏秀、宏林からの仕送りを充てた。模合の金が貯まると移民で不在となった家の水田を買い取った。気丈なウトの性格は日常生活にも表れていた。集落内に冠婚葬祭があると身なりを整えて参加するのであるが、ウトはガチガチにノリの効いた芭蕉布を着て出かけた。ウトが通りを歩くと芭蕉布の着物が擦れてバサ、バサと音がした。村人は家の中にいてもウト姉さんが家の前を通ることが分った。そのことで村内に何らかの行事があることを理解できた。

 3月のある日のことである。ウトは夕食時に宏と宏次に言った。

「私は明日の朝早くにブセナ崎まで用事がある。お前たちは朝ごはんの芋を食べて、準備した弁当をもって学校に行ってくれ」そう言って早寝を促した。

翌朝宏と宏次が起きるとウトの姿は無く、朝飯の芋と味噌汁、大根の漬物と弁当が食卓に並んでいた。宏と宏次は朝飯を食べると隣近所の子供たちと連れ合って2km離れた名護尋常小学校に出かけた。宏が学校から帰って来てヤギ小屋の掃除をして新しい餌を与えているとウトが大きな籠を背負って帰ってきた。

「お婆、お帰りなさい。どこ行っていたの」

「ブセナ崎まで行って来た」

「ブセナ崎って何処ね」宏が問うと

「ほれ、夜になると灯台がピカピカ光る海の向こう側の岬さ」

「ええー、随分遠いところだね。何しに行ったの」

ウトが籠の上に被せたススキの青い葉を取り除いた。籠の中にもう一つの籠があり、その中に海藻が入っていた。その籠を取り出すとその下にサザエ、高瀬貝、ウニ、タコが入っていた。

「宏次がスゴーイ」と声を上げた。

「さて、こしらえるか、宏手伝ってちょうだい」そう言って籠を持って井戸端に向かった。ウニは包丁の背で殻を割って水洗いして内臓を洗い出し、中の縦筋の卵黄をサジですくって取り出して皿に盛った。タコを茹でた後のお湯で貝を茹でるのだ。モーイと呼ばれる海藻は水洗いして翌日から天日干しにするのだ。

「お婆、どうして遠くのブセナ崎まで行ったの。タコもウニも貝もすぐ前の宮里の海でも簡単に捕れるよ」宏が言った。

「うん、でもこのモーイだけはブセナ崎でこの時期にだけ採れるのだよ。モーイは乾燥して保存すれば長らく使えるからね」

「でも遠いね。どのくらい歩いたの」

「片道3時間くらいかね。茹でてから貝の身を取り出そうね」

「御馳走だね」宏次が手を叩いて喜んだ。

「宏、後で婆ちゃんの肩を叩いておくれ」そう言って台所に向かった。宏もタコと貝の入ったザルを持ってウトの後を追った。宏にとってブセナ崎は異郷であった。実際、宏の家からはブセナ崎までの道のりは県道を南に向かって進み、許田まで続く名護七曲りと呼ばれる幾重にもカーブした海岸線を廻った対岸である。片道15㎞以上はあるだろう。誰かと一緒に出かけるのでなく一人でモーイの採取に出たのである。モーイは沖縄本島北部の一部の地域で捕れる海藻だ。乾燥して保存することが出来る。使う時は水で戻し豆や魚介類を刻んで煮炊き、常温に戻すと寒天の様に固まるのである。繊維質の寒天はモーイ豆腐と呼ばれ独特の風味がある。宮里海岸の潮干狩りで採取した魚介類と混ぜてモーイ豆腐にするとタンパク質とミネラルが豊富な貴重なローカル食品が出来上がる。漁師の集まる城集落の漁師の主婦達は、夫の採取してきたモーイを天日干しする季節の作業となっていた。春から雨季に入る僅かな時期の海の恩恵であった。

 ウトは孫の教科書を見て読み書きを覚えるのも好きであった。9人兄弟の長女として小学校も満足に出ていなかった。孫が学年を上がる度に多くの漢字を覚えて行った。やがて宏は尋常小学校高等科を卒業した。畑仕事をしながら母親のウサの従弟の泰栄の元で大工の下働きの見習いに就いた。毎日仕事があるのではないが畑仕事よりは楽しかった。宏は土を相手にする農業よりも建設業に興味があった。田畑の手入れと日雇いの土木建築作業が3年ほど続いた。そして宏次が高等科を卒業する春になって1通の手紙がウトの許に届いた。送り主はテニアンに移住した息子の宏全であった。手紙の内容は次女の富美子が生まれて家族が増えたが、働き手の自分が病気がちで体が思うに任せないので生活に困っている。一家の働き手として宏と宏次を寄こしてくれとのことであった。宏全夫婦がテニアンに移住する時の約束では、宏次が高等科を卒業したら親元のテニアンに送り出し、宏はウトの元に残して家屋敷と田畑を継いでいくとのことであった。既に物心ついていた宏もその様に理解していた。宏がウトに手紙を読んで聞かせるとウトが言った。

「お前達の両親が南洋のテニアンで難儀している。お前は宏次を連れてテニアンに渡ってくれ」

「婆様はこの先どうするのか。一人で暮らせるのかい」

「私は何とでもなる。一人で暮らせるから、行って宏全を助けてくれ」

宏は少し考えてから言った。

「婆様も60歳を超えている。取りあえず宏次をテニアンに送り届けて向こうの様子を1年ばかり見て、お父が元気になったら戻って来るから」

「そうしておくれ。それまで私は元気でいるから」

「分かった。この手紙はお母ァの考えに違いない。狡賢い女だったから」宏はふてくされた声で返事した。実際、6年間も手紙ひとつ寄こさない両親への愛着が薄れていたのは確かである。

「宏次、4月になったらお父うのいるテニアンに行くぞ」宏はボソリと宏次に言った。無口であまり感情を表に出さない宏次が目を輝かせて言った。

「テニアン、南洋のテニアンかい」

「ああ、南洋のテニアンだ。久志村の天二屋集落ではないぞ。それにお前の兄弟の清美、宏安、そして新しく生まれた富美子に会えるだろう。何日もかかる船旅だ」宏は自嘲気味に言った。

「テニアンは冬が無い国だと友達が言っていた。暮らし易い国らしいよ」宏次は夢見るような顔で言った。

「俺はお前を送り届けたら引き上げて来る。良いな」

「兄さんはテニアンが好きでないの」

「ばか野郎、婆様を残していつ迄もテニアン何んかで暮らせるか」

「婆様も一緒に行けばよいのにね」

「うるせぇ!世間知らずのガキはテニアンの夢でも見ておれ。ハサマの叔父さんに頼んで渡航の準備をするから、それまで風邪なんぞ引くのじゃないぞ」宏が夢見顔の宏次をたしなめた。

「宏、お前が南洋に行きたがらないのは分かるが、宏全を助けておくれ。本当に私は一人で大丈夫だから。何かあったら実家のシパマタの親父に頼めるし、本家のハサマの叔父さんも頼りになるから」

「ああ、分っている。お婆さんも体に気を付けるのだよ。田んぼの1期作の植え付けを片付けてから旅に出るから」

宏の長い旅の始まりであった。宏は1年後に帰郷するつもりであったが、この屋敷に戻って来たのは7年後の夏であった。

 慌ただしい1カ月が過ぎて4月になった。神戸港から南下してきた南洋丸は名護港の近くに停泊して艀船で沖縄本島北部からの南洋移民を乗せ、那覇港で貿易貨物を積み込み中部南部の移民を乗せて南へと下って行った。台湾の基隆に立ち寄り、そこから南東に舵を切って北マリアナ諸島サイパン島、テニアン島そしてグアム、ミクロネシアへと進んだ。宏と宏次は無事にテニアン島に上陸した。2か月後にウトの許に宏から手紙が届いた。家族は皆元気でおり製糖工場で働いていると知らせて来た。ウトは安堵すると共に一人暮らしの寂しさが身に染みた。寂しさを紛らわすように仕事に精を出した。しかし行き場のない寂しさは募るばかりであった。

 夏の夕暮れにウトがヤギに青草を与えていると門の方角から人の声がした。出てみるとオオハマボウの脇に杖を突きクバ傘を被った白い上着の僧侶に似た初老の男が立っていた。見知らぬ人で地元の者の服装ではなかった。

「どちら様ですか。何か用ですか」と問うた。

「あまりに暑いのでそこの井戸水を一杯下さらぬか」沖縄訛りのない日本語で言った。ウトは鶴瓶を井戸に降して水をくみ上げた。

「今日は暑かったですね。どうぞ気兼ねなく飲んでください」そう言って柄杓を渡した。男は礼を言って旨そうに井戸水を飲んだ。男の姿に興味を惹かれたウトは「旅の方ですか、この暑さでくたびれたでしょう。軒下で少し休んでください」そう言って開け放した縁側を勧めた。

「ありがとうございます」その男は少し右足を引きずるように歩いて上がり框に腰掛けた。

ウトとその僧侶の説く宗教との出会いである。

男は天理教という宗教の普及活動のために奈良県から来ていた。易占いをしながら教典の普及に努めていた。通称大和サンリンショウ(易者)と呼ばれていた。男は普及活動の内容や旅先の出来事をウトに話した。ウトは自分の身の上を少し話した。陽が陰って来た頃に僧侶は立ち上がって井戸水の礼を言った。ウトはその僧侶の話が何となく気になって言った。「井戸水ならいくらでもあるので気軽に立ち寄って下さい」と声を掛けた。ウトは宏が旅に出てしまい何か新しい出来事を望んでいたのかも知れない。僧侶はひと月に一度、或いは2か月に一度の割合でウトを訪ねた。ウトは天理教の教えに次第に共感して行った。「人は土から生まれ土に帰っていく。それは天理教を作った神の仕業である。人の死は恐れるものでは無く、生まれ変わる一つの変化に過ぎない。人間にとって大切なことは、生きている間は自分と同じく他人にも心地よいことを行うことだ。それが天理教の神の望みである。朝に神に感謝して、夕方に神に感謝するお祈りをするのだ」僧侶は天理教の教えをウトに説いて教えた。ウトは僧侶の教え通りに朝晩のお祈りをした。仏壇ではなく床の間にお札を置いて朝晩唱えた。むろん旧暦の1日、15日には沖縄のしきたりであるご先祖への御願も欠くことは無かった。何度目かの僧侶の訪問があり、冬の気配が濃くなった頃僧侶が言った。

「私は奈良の本殿に戻ります。ウトさんは気丈な方です。何も迷うことはありません。お心のままに神様を信じて下さい。この教典を差し上げますのでお札と共に床の間に置いて朝夕にお勤めをしてお心を穏やかに保ってお過ごしください。本殿で修行をして、いつの日か沖縄を訪ねてきますのでその時まで元気でお暮し下さい」僧侶は巻物をウトに渡した。そして深々とお辞儀をした。ウトも床に手をついてお辞儀をした。ウトが頭を上げると僧侶がゆっくりとした足取りで右足を引きずってオオハマボウに囲まれた屋敷の門を出て行った。ウトは一人でいることの迷いから解放されていた。宏から2カ月に1度の割合で手紙が届いた。宏は尋常小学校高等科を卒業したのであるが筆使いは達筆であった。ウトは文字が読めないふりをして宏からの手紙を知り合いに読ませた。達筆な孫の文字を自慢したかったのだ。1年が経っても宏は帰郷できなかった。ウトはそのことを気にしなかった。しかし4年目の春に宏が長崎の海軍に入隊したとの知らせの手紙を受け取った時には心に穏やかならぬものを感じた。

 昭和20年4月、米軍の上陸作戦が始まる前にウトは実家のシパマタの裏山の防空壕で息を引き取った。ウトと一緒に避難していたハサマ本家の恵美子叔母の話では、酷い下痢症状の末に息を引き取ったとのことだ。その時に袋に入った品を預かり自宅に保管していたが戦火で家もろとも焼失したとのことだ。中身を確認する前に戦火で焼失したのであるが何かの書類のようであった。

大戦が終わった5年後の夏に、白装束の数名の僧侶が宏の屋敷を訪ねて井戸の近くに供物を広げて供養をして引き上げたと宏は妻の初代から聞いた。その中の頭領らしき男は右足を引きづって歩いていた。宏が祖母のウトと別れて10年の歳月が経った頃の出来事だ。夜は既に闇を深くしており、67年前の闇と今夜の区別を無くしていた。宏は闇の深さの中に遠い日の記憶を辿っていた。その時、ふと糊の効いた芭蕉布の衣擦れの音を辺りに響かせて、今はブロック塀と変わった屋敷の壁の向こう側から近づいて来る祖母の気配を感じた。

 3 テニアン島異聞

 (1)

昭和15年4月、宏は弟の宏次と共に北マリアナ諸島のテニアン島に渡った。

テニアン島はフィリピンの東、北緯15度、東経145度38分の太平洋上にある山のないフラットな台地の面積101㎢の島だ。5km余り離れて標高428mの山がある面積122㎢サイパン島がある。2島合わせても宏が見慣れた沖縄本島の本部半島程度の面積である。

宏は2島が重なった島影の状態を見て大きな島を想像していたが、船が近づくと左がサイパン島で右側のテニアン島は海上に浮かぶ筏にも似て情けなく思えた。海外移住と言えば満州大陸、南米のブラジル、アルゼンチンの広大な地平線の大地を想像していただけに下船する前から落胆していた。この程度の島なら半日で島を一周するだろうし、名護湾にスッポリと納まる大きさにしか見えなかった。僅かばかりの荷物を持って弟の宏次と共に下船した。多くの出迎えの人々が次々と去って行き、疎らとなって点在する出迎えの人々の中に3名の子供が立っていた。宏はゆっくりと近づき5年前の記憶に照らし合わせて言った。

「お前は清美か、この子は宏安か」

「はい、宏兄さん」

清美の後ろに見え隠れしながらはにかむように4,5歳の女の子が立っていた。

「お前が富美子か」宏が尋ねると小さく頷いて「うん」と言った。

「出迎え有難う。お父とお母は元気か、どうしている」宏が清美に尋ねた。

「お父さんは製糖工場、お母さんは近くの鰹節工場に働きに行っている」

「家までは遠いのか」

「ううん、少し遠いけど歩いて行ける。行きましょう」そう言って清美は歩き出した。宏はポケットから船内で買った飴玉を取り出して1個ずつ渡した。そして歩きながら言った。

「お前は学校に行っていないのか」

「兄さん達のお迎えがあると先生に言ったら休んでも良いと言っていた」

「そうか、お前たちは何年生になった」

「私が6年生で宏安が3年生、富美子が来年から1年生です」

「そうか、ここの学校はどうだい」

「家が忙しいときは休んでもいいので休む生徒も多いわ」

「そうか、俺が来たからお前たちはちゃんと勉強しろよ」

港からなだらかな上り坂となった通りを進んだ。大きな交差点を横切ると右手に本通りが見えた。通りには大小の日本語の看板が立っており、故郷の名護町より賑わっていた。しかし特段に異国風の珍しい形状の建物もなく、驚くような大きさでもなかった。ただ、やたらと見かけるのは軍服姿の兵隊と彼らに伴われた聞きなれぬ外国語を話す東洋人であった。以前、故郷の名護町で大工の頭領の泰栄親方の元で日雇い労務をしていた頃、軍隊の兵舎近くで見かけた徴用工の朝鮮人の言葉に似ていた。

30分ほど歩くと町はずれのうらぶれた住宅街に入った。道路は住宅街を抜けて

キビ畑の広がる農地へと続き、はるか先の小高い丘へと消えていた。この一角は一見して労働者世帯の暮らす長屋だと分った。住宅街の2番目の通りを右に曲がって4軒目で清美が立ち止まり、宏を見上げて言った。

「この家で暮らしているの」そう言って道路に面して竹で編んだ垣根で仕切られた開口部から敷地内へと入った。

建物は茅葺屋根ではなくトタン屋根で雨樋が付いていた。雨樋の端は貯水タンクへと繋がっており、雨水を溜める工夫がなされていた。この島は高い山が無く、地下水が乏しいのであろうと宏は推測した。振り返って周辺の家々を見ると何処の家でも雨樋が取り付けられていた。家の上がり框に腰掛けて空を見上げると夕陽を浴びたあかね雲が遥か上空にたなびいていた。背中が汗でじっとりと濡れていた。故郷を出る時の南洋移民の宣伝チラシには、寒い冬が無く地上の楽園で暮らし、高賃金の仕事が幾らでもあると書かれていた。しかしこの時刻で汗が噴き出すようでは昼間の暑さと湿度は半端でないと思った。簡素な労働者住宅を見る限り地上の楽園の生活には程遠いのは確かであった。

 宏は宏次を促し、桶に水を溜めて濡らした手ぬぐいで体を拭き、着けていた上着と肌着を水洗いして軒下に吊るされた物干し竿に干した。少し赤みが薄くなったあかね雲を見上げて大きく背伸びをした。後ろに人の気配がしたので振り返ると母親のウサが竹の垣根の脇に立っていた。

「宏、帰って来ていたのかね。宏次も一緒かい、あれは元気かい」

「ああ、宏次は体が強くなって元気だ。昔の変な病気は出てこないさ」

「そうかい、2,3日休んだら仕事に就けるでしょう。会社は人で不足みたいで、工場も農場も忙しいみたいだから」

「沖縄より暑そうだね」

「冬がない代わりに昼も夜も暑いけど直ぐに慣れるから」

「そうかい、お父は元気かい。仕事に出ているみたいだが」

「あれは弱虫で、仕事が辛いと毎日愚痴ばっかり言っているわ。私も鰹節工場で働いているのに情けない男だよ。お前のお爺に似たのだよ。全く情けないよ」

「働けるだけマシさ」

「お前たちが、働き出したら怠けて仕事を休むかも知れないね。困った男だね、全く」ウサは吐き捨てるように言った。

「そうか、相変わらず気の弱い男だね。沖縄にいた時と同じかよ」

「清美、夕飯の準備は出来ているかい」

「芋は炊いたし、瓜と魚の煮付けに魚汁です」

「上等だ、ここは魚だけは名護町よりも豊富だよ。私も鰹節工場で働いているのさ」

「沖縄の魚と同じかい」

「ああ、イラブチャー、ミーバイ、ガーラ、グルクン、カツオが多いね。沖縄の糸満の漁師が魚を採って市場に卸している」

 陽が陰り家の中にランプが灯った頃、玄関に物音がして父親の宏全が帰って来た。足元が少しふらつき、よろけるように玄関の上がり框に転がってから柱に掴まりながら立ち上がった。

「お父、どうした。大丈夫かい」宏は立ち上がって近づいた。

「宏、宏次、来ていたのか」そう言っておぼつかない足取りで座卓の前に座り込んだ。酒の入った潤んだ目付きで宏と宏次を見上げた。

「毎日、毎日、仕事が難儀だ、疲れたと言って酒の飲んで帰って来るのさ」ウサが苦り切った顔をして言った。

「酒を飲む元気があるんだな」宏は棘のある口調で小さく言った。

「あたしは毎日鰹節工場に出かけているのに、この人は時々製糖工場を休むのさ。働く気があるのかね」

「うるさい、働き過ぎて俺は疲れているんだよ」

「何か言えば、疲れていると言っている」とウサがこぼした。

「そうかい、俺はまたお父が寝込んでいるのかと心配して飛んできたのに、酒を食らう元気があるのかい」

「宏、お父さんの力になっておくれよ」

「俺はお母の従弟の泰栄親方の下で大工見習をしていたのを止めて来たのだぜ。宏次がここの暮らしに慣れたらウト婆さんの元に引き上げるぜ」宏はうんざりした声で言った。

「お前たちが俺を難儀させるから、俺は長生きできそうもない」宏全はうなだれた声で言った。

「お父さん、愚痴ばっかり言わないで夕飯にしましょう」清美がそう言ってその場を納めた。

「この人はいつもこうなんだから」ウサが諦めたように言った。

普段は宏安が勉強机に使っている小さな座卓を継ぎ足して宏と宏次の席を作った。宏はウサに請われるままに故郷の話題をした。ウタ婆さんは相変わらず元気であること。田んぼを増やしたこと。ハサマ本家の爺様の考えで一門の集団写真を撮ったこと等を話すとウサは安堵したように聞き入った。宏は父の食欲が細くなっているのを見てとった。故郷にいる頃から体力のない男だと思っていたが、不慣れな土地に来てさらにやつれた感がした。祖父に似て体の線が細い男であった。

宏次は清美と宏安の問いかけにボソッ、ボソッと答えていた。相変わらず口数の少ない弟である。只、宏も宏次も色黒で体は人並より大きく、母親のウサに似て病気知らずの頑強な造りである。宏安は元気だが父に似て小柄だ。清美と富美子も母親似で元気そうな造りである。

夕食が終わってから宏はウサに尋ねた。父の宏全は既にうたた寝を始めていたからだ。

「俺と宏次の仕事の当てはあるのかい」

「東江村の中村政治さんが監督をしているからもう頼んであるよ」

「ほう、名護町の方ね、心強いな」

「中村政治さんは台湾の製糖会社から来た人らしい。何でも馬に乗って畑を巡回するのが仕事みたいよ」

「監督が大和人でなくて良かったな。大和人は兵隊だけで十分だ。威張ることしか分からない人間ばかりだから」

「奥さんは私と同じ城村の人だから知っているのさ」

「それでいつから働けそうかな」

「5日後からにしようか。来週の月曜日から。それまでに作業着を揃えなないといけないしね」

「給料はどうだい」

「良く知らないが、鰹節工場の仲間の話では毎月15日と30日の支払いらしい。賃金は沖縄の3倍ぐらいみたいね」

「それはありがたいね。泰栄親方はソバ3杯分の手間賃しかくれなかったぜ。仕事も少なかったしな」

「アイツは昔からケチだったからね。元気にやっていたかい」

「ああ、口だけは元気だったよ。腕も確かだったけどね」

「お前、宏次は学校を卒業したばかりだし、あれがここに慣れるまでは戻らないでおくれヨ」

「ああ、宏次の体のことは心配ないよ。高等科に入ってからは俺と一緒に畑仕事も十分に出来たから」

「そう、子供の頃の病気は出ないのだね」

「ああ、口数が少ないだけだ。読み書きも計算も人並みに出来るし、何の心配も無いから」

「そうかい、安心したよ」

「ところでお母、この島はやたらと兵隊さんが目立ったけどどうしてかな」

「飛行場があるからでしょう。日本の勝ち戦だと言って威張っているけど、あたしは兵隊が嫌いだね」

「確かにね、台湾の基隆から乗り込んできた兵隊さんは船の中でも威張っていたよ。仕事が始まるまで島中を歩いて様子を見て来るヨ」

「そうかい。山も無く屋部と名護を合わせたくらいだよ。直ぐに見飽きるはずだよ」

ウサは清美と富美子の3名で奥の部屋に寝て、宏と宏次、宏安、父親の宏全の4名は食卓を片付けた後の部屋で寝た。台所と2部屋の居間の簡素な住まいであった。

 (2)

テニアン島のリーフの内側の魚介類の豊かな海

 翌朝、父宏全は製糖会社に出て行った。来週から働けるように事務所に連絡して就労書類を貰ってくると言った。一晩寝たせいか昨晩のやつれた父の顔色は落ち着いて見えた。宏は「ああ」とだけ返事した。ウサは富美子を連れて鰹節工場に出て行った。工場の近くに子供を預かる家があるらしい。清美と宏安は小学校へと出て行った。残った宏と宏次は土間に降りて鍋の中にあった握り拳の大きさの蒸かしたタロイモと南洋イワシの唐揚げを食べた。タロイモは食べ馴れた沖縄のサツマイモよりも緻密で腹持ちが良さそうであった。

「宏次、この島を探索してみよう。そこの壁に掛かっている布袋にタロイモ2個ばかり入れろ、昼飯代わりだ」壁に掛かった水筒を取り宏次に渡した。壁には鞘に入った小振りな山鉈があった。宏はそれを手に表の手洗い場に出て行った。宏次が水筒に水を詰めて待っていると宏がやって来て言った。

「手洗い場に砥石があったので鉈の刃を研いできた。何かに使えそうだ、袋に入れておけ」そう言って渡した。

外は日差しが強くなっていた。二人は白いコーラル砂利の敷かれた道路を北に向かって歩いた。母の話では島を循環する幹線道路らしい。住宅が途切れて1時間ほど歩くと左に飛行場が見えた。右はサトウキビ畑とパイナップル畑が広がっていた。飛行場のはるか先に海が見えた。さらに1時間程歩くと両側に原生林の繁る場所となった。日本軍の基地の出入り口に歩哨兵が立っていた。こちらの様子を伺っている気配がしたので軽く頭を下げて足早に通り過ぎた。しばらく歩くと右側が下り勾配になっており、その先に海が見えた。遠くに高い山を持つサイパン島が見えた、二人は海岸へと下る小道を降りて行った。この辺りは湧水があるのか大型の里芋が生えていた。細いあぜ道が続いており栽培されているようであった。宏はカバンの中にある昼飯のタロイモであろうと思った。切れ込みのある大きな葉を持つ軟そう枝にバレーボールのどの大きさの実がぶら下がっていた。あれが清美の行っていたパンノキの実かと思った。野生か栽培か知らぬがバナナは何処にでも見られた。見たことも無い果樹が至る所に生えていた。その果実が食えるのかどうかは分からなかった。

砂浜はサンゴの白砂で故郷の名護の海と全く同じであった。只、この島の周りはほとんどが海岸段丘特有の断崖となっており、白浜は崖の間の小さな入り江の一部でしかなかった。故郷の名護の数キロも続く砂浜の海岸では無かった。100m先のリーフの途切れる場所には外洋からの白波が立っていた。このテニアン島は日本軍が上陸するまでは人の住まない絶海の島であったのだろうと宏は思った。海岸近くあるはずの原住民の住居らしいものは見当たらなかった。

宏はオオハマボウの木陰に座り水筒の水を飲んだ。そして遠くの白波を眺めながら昼飯のタロイモの皮を剝いて宏次と二人で食べた。浅瀬で南洋イワシの群れが跳ねた。その周りで小ぶりな50cmほどダツが次々とはねてイワシの群れに飛び込んだ。故郷と何も変わらぬ風景が広がっていた。隣の宏次を見ると黙ってタロイモを頬張り宏と同じように遠くを見つめていた。俺は沖縄から2,200kmも離れたこの島に何をしに来たのだろうか。この島に自分の求める未来はあるのだろうか。サトウキビ畑とパイナップル畑以外に何も見当たらないこの小さな島で何を見つければよいのだろうか。心を躍らせる気配すらない島で明日を夢見ることは出来そうもなかった。黙って沖合の白波を見ている感情の乏しい弟の横顔みて、コイツはこの状況を哀しいと思う程大人になっていないのだと寂しくなった。

「兄さん見なよ。大きな鳥が飛んでいる」宏次が沖を指差した。白い鳥の群れが右に左にと旋回しながらこちらに向かって近づいて来た。そしてドタバタと砂浜に降りた。如何にも鈍そうに砂浜を歩き回りグンバイヒルガオの中に座り込みギャーギャーと鳴き声を上げた。宏はテニアン島に向かう船の中で聞いた事を思い出した。こいつが船員たちが話していたアホウドリか。何でも飛び立つ時には重い体を浮き上がらせるために長い助走が必要らしい。空中に高く舞い上がる前に棒で首を叩き折れば獲れると聞いた。船員の戯言だと聞き流したが、目の前にいるアホウドリを見ていると本当かも知れないと思えた。大人の一抱えもある大きな体を空中に浮かび上がらせるには高い崖から飛び降りるか、砂浜をしばらく走りながら羽ばたくしか方法は無いだろう。

「宏次静かに動かずおれ」そう言って山鉈を手にオオハマボウの茂みの中に入って行った。しばらくして細長い2m程のオオハマボウの枝を2本持って出て来た。

オオハマボウ樹皮を剥いで棍棒を作り1本を宏次に渡した。

「宏次ズボンの裾をまくり上げ浅瀬を歩いてアホウドリの向こう側の浜に移動しろ」

「兄さんは何をするつもりですか」宏次が不安そうに口を訊いた。

「アホウドリを獲るのよ。お前はゆっくりとアホウドリを慌てさせずに向こう側に移動しろ。アホウドリから十分に距離を保ってナ。奴らはお前の動きを追っている」

「知らんふりしてアホウドリの向こう側に行くのだね」

「そうだ。十分に間を開けて移動しろ。向こう側に着いたら、ゆっくりとアホウドリに近づくんだ。急いではいけないよ。その間に俺は腹ばいで鳥に気付かれないように近づくから。俺がこの棒を立てて合図したらお前はその棒を振り回して鳥を追い立ててくれ。鳥はドタバタと俺の方に走って来るだろう。その時に立ち上がって鳥の首をこの棒で叩き折るのさ」

「上手く行くかな」

「大丈夫だ。あの鳥は3、4kg程度もあるぜ。夕飯に食べようぜ。しばらく肉を食っていないからな」

「いい考えですね」珍しく宏次が目を輝かせて言った。

「ヨシ、行け。慌てずゆっくりとだ。鳥を脅かすなよ」宏次を促した。

宏次はズボンの裾をまくり上げ干潮の浜辺の浅瀬に向かって下って行った。宏は腹ばいになってアホウドリの様子を眺めた。アホウドリは宏次の姿を見つけて首を伸ばして観察していたが、すぐに興味を失ったかのように仲間同士でガヤガヤと騒ぎ始めた。15分もすると宏次はアホウドリを挟んで宏と反対側の砂浜に上がって手を振った。そしてゆっくりと鳥の居場所に向かって歩き始めた。宏も腹ばいで前進を始めた。鳥の視線は宏次に向かっており、時々首を伸ばして観察する仕草を見せた。宏次と鳥の一群の間が50m程に近づいた時に一羽が立ち上がった。宏と鳥の群れの間は30m程迄まで近づいていた。宏は棒を立て宏次に追い立ての合図をした。宏次は次第に歩速を上げた。アホウドリの群れはそれを見て立ち上がり宏の方角に歩き始めた。宏次の追い立てに驚いたアホウドリは次第に歩速を上げ軽く羽ばたきをしながら宏の伏せた場所の10mの距離まで近付いた。宏は一気に立ち上がり鳥の群れに突進した。群れはパニックを起こして羽ばたきを強くして飛び上がろうとした。宏は無茶苦茶に棒を振り回した。棒に衝撃を感じた。両側から挟み撃ちにされた鳥の群れは波打ち際へと下って行った。2羽のアホウドリがのたうち回っていた。宏はその鳥の首を棒で叩き息の根を止めた。アホウドリの群れは飛び立つことが出来ず海中に浮かんで沖へと泳ぎながら進んで行った。

「兄さん上手く行ったね」宏次が紅潮した顔で言った。

「思いのほか簡単だったね。もう2、3羽叩き落せたけれど2羽で十分だろう」

「そうだね、阿呆なアホウドリだね」

「宏次、言い忘れたけど、この鳥を獲ると罰されるらしいぞ」

「えっつ」

「心配するな。ここの浜で羽をむしり取って頭と足を刎ねて内臓を取り出して海水で洗ってから家に持って帰ろうぜ。何の鳥か分からないようにするのさ」

2人はアホウドリの羽をむしり取り、頭と足を山鉈で切り落とし砂の中に埋めた。波打ち際で鳥の腹を裂いて内臓を海に流した。宏は藪の中に入って大きなタロイモの葉を数枚切り取って来て丸裸になった鳥の肉の塊を包み、先ほど剥いだオオハマボウの樹皮で丁寧に括った。オオハマボウの樹皮が紐代わり使えることは自宅の周りの防風林のオオハマボウで経験済みであったのだ。

「どうだいこれでばれることは無いだろ。鳥の細かい産毛は家に帰ってお湯をかければきれいに取れるから」

「そうだね、婆様もアヒルを潰すときにお湯をかけて羽をむしり取っていたね」

「帰ろうか。明日は街と漁港を見てこようか。今のうちに街の様子を調べておこう。来週から仕事らしいしな」

宏は水筒に残った水を二人で分け合って飲み干した。帰宅途中でいきなり辺りが暗くなりスコールがやって来た。雨宿りの場所も無く濡れるに任せて歩いた。火照った体にスコールの雨脚が気持ちよかった。途中で屋根をヤシの葉で覆っただけの簡素の家に現地人らしき人影を見た。半ズボンに半袖シャツ姿で浅黒い肌の男であった。この島には日本人、沖縄人、朝鮮人、現地の土着民、そして鼻持ちならぬ日本兵がいた。気がつくとスコールは去っていた。

 家に着くと宏安が学校から帰っており近所の友達を遊んでいた。程なく清美が富美子を伴なって帰宅した。陽が陰るまでには時間があった。宏は清美に湯を沸かさせた。湯はサトウキビの搾りかすを燃料にしていた。製糖工場から近所の指定の置き場に定期的に運ばれ、各家庭に必要なだけ持って行き、各自で乾燥させて使うとのことである。湯が沸くと清美に言った。

「そのタロイモの包みを開けてみな」

オオハマボウの紐を外してタロイモの葉の中の鳥を見て清美は驚いて言った。

「兄さん、この鳥どうしたの」

「宏次と二人で取ったのよ。お湯をかけて産毛を抜き取ってくれ」

「すごいわね。久しぶりの鶏肉だわ」

「清美、鶏肉を食べたなどと誰にも言うんじゃないぜ。この鳥はアホウドリと言って獲ってはいけない鳥だ。でも、食べてはいけないとは聞いていないから食べようぜ。宏次手伝ってやれ。毛を抜いたら寄こしな。鉈で小さくばらすから」

「鳥汁が簡単ね。鳥の出汁が出たら赤瓜とタロイモを入れると美味しいはずよ」

「味付けは任せるから」そう言って宏は山鉈でアホウドリを適度な大きさに叩き切ってザルに放り込んだ。

 鳥汁の夕食が出来てしばらくするとウサが帰って来て。その後で長屋の男達が集団で製糖会社の車で帰って来た。この日の宏全はしらふであった。夕食後に封筒から就労申込書を出して宏に渡した。宏は清美に勉強机に向かった。清美の小筆を使って宏次の分まで書き上げた。「清美、墨が乾くまで触るなよ」そう言って座卓に広げたままにした。

「宏兄さんとっても文字が綺麗ね。学校の先生よりも上手だわ」清美が目を丸くして言った。

「お前も練習すれば上手くなるぜ。筆に水を着けて板に書いて、手ぬぐいで拭けば墨を使わずとも何度でも練習で来るよ。やってみな」

「うーん、あたしは字を書くのは好きでない。裁縫は好きだけどね」

「そうか、読み書き、計算が出来れば十分さ。自分の特技があると良いね」

宏は父に尋ねた。

「製糖会社は送迎があるみたいだね。便利で通勤が楽だね」

「その代り仕事は楽では無いぞ。昼飯は工場から出るから水筒だけ持っていけばよいだろう。ああ、ひどく暑いから帽子と汗を拭く手ぬぐいもな」

「分かった、明日町まで行って宏次の分まで買ってくる。お父さんと同じ形の作業服で良いかな」

「ああ、お前らは若いからもう少し大きい方が良いだろうな」

「分かった」

「宏次は慣れるまとお前は同じ組に入れるように頼んでおくから」

「その方が良いだろうね。こいつは無口だから誰かにいい加減にこき使われかねないからね」宏次は黙って返事もしないで聞いているだけであった。

 翌日は港まで歩いて行き、改めて港の様子を見た。外洋航路の船着き場の奥に漁船の係留港があった。故郷の名護町の港とあまり変わらないさびれた港町風景であった。港の南に続く丘は切り立った断崖となっていて波頭が立っていた。如何にも太平洋上の絶海の孤島の感じがして侘びしく見えた。宏の目には豊かな農村を連想させる風景を探すことは出来なかった。

街の雑貨屋に立ち寄り水筒を買った。そしてこの頃誰もが被っていた兵隊さん御用達のキャップを買った。水筒に水を詰めてもらい、真新しいキャップを被って街を歩いて商店街を探索した。八百屋には見慣れぬ果物が並んでいた。それ以外の店は故郷の名護町と殆ど変わらず、取り立てて興味を引く物は無かった。宏はタピオカ澱粉で作られた餅を買って昼飯にした。港から吹き上げて来る風が心地良かった。宏次は相変わらず無口で横に並んで歩くだけであった。宏はふとテニアン島に来るときに乗った船員同士の会話を思い出した。

「日本から南洋群島に向かう時は船足がどうしても遅くなるな」

「ああ、黒潮海流と北太平洋海流の海流の流れに逆らって船を進めているからな」

「熱帯の海は空気がべた付いていけねぇや。こんな小さな島に日本人が移民するなんてどうかしてるぜ。志那大陸や南米大陸があるというにナ」

「お前が移民するわけでなし。愚痴るなよ」

「そうさな、でも帰りの船足は早くなるから差引同じだな」

「言えてるぜ」

そう言って船員はタバコを海に弾き飛ばした。

宏は船員の会話を思い出して気分が重くなっていった。俺は黒潮の流れに逆らって太平洋の孤島にやって来たのだ。俺は自分の人生の運をこのテニアン島で使い尽くして果てるのだろうか。親父の運気の無い物腰を見ていると、いずれの日にか自分もその気配の中に飲み込まれるかも知れないとの不安が足元からせり上がってきた。宏は立ち止まって空を見上げた。そしてその不安を払しょくするように自分に言い聞かせた。いずれ時機が来ればこの島から出て黒潮の本流に乗って確かな運気を掴むのだ。見上げていた空が急に暗くなりスコールがやって来た。二人は近くの商店の軒下に逃れた。人生の運気はスコールと同じだ。振り続ける雨などない。待てば必ず晴れ間がやって来る。その時に動き出せば良いのだ。悪い運気とて未だ始まってもいないのだから。そう考えて軒下を落ちて行く南太平洋の孤島の通り雨のスコールの雫を見ていた。

(3)

 月曜日の午前7時半、宏と弟の宏次は父に伴われて長屋団地の広場にいた。広場のガジュマルの下に数名の労働者らしき人々がいた。一人の男が父の宏全に声をかけて来た。

「おはようございます。宏全さん、この二人が今度名護からやって来た息子かい」

「おはようございます。この方がこの団地の世話役の大城清三さんだ」宏全は宏と宏次に紹介した。

「おはようございます。宏です。こいつは弟の宏次です。学校を出たばかりで無口ですが体力はオヤジよりあります。よろしくお願いします」宏が頭を下げて挨拶した。宏次もモグモグと何やら言って頭を下げた。

「オヤジさんより体力がありそうだな」清三が笑った。

「図体ばかりデカく、ろくに礼儀も知らんので教えてやって下さい」宏を睨みながら言った。

直ぐに車がやって来た。幌付きのトラックで荷台にベンチが据えられていた。皆がぞろぞろ乗り込んだ。運転台のドアに南洋製糖と黒い文字で書かれていた。トラックは幾つかの長屋団地で作業員を乗せて20分ほどで製糖工場に着いた。煙突が数本立った製糖工場の敷地に入ると懐かしい糖蜜の臭いがした。只構内には牛の姿も牛舎特有の糞尿の臭いも無かった。沖縄の製糖工場と異なり、動力は家畜でなく蒸気機関のようであった。水蒸気があちらこちらに吹き出ていた。

宏と宏次は清三ら作業員の後に続いて事務所に入った。彼らは出勤簿に名前を書いて出て行った。出勤簿は長屋ごとに綴られており清三が棚から取り出して仲間に渡した。清三は事務所の奥で大きな机に向い、大きめの茶碗を手に何やら帳簿を見ていた男に声を掛けた。

「中村課長、今度名護から働きに来た若者です」

頭を丸刈りでなくやや短めに整えた男が顔を上げてこちらを向いた。良く陽に焼けた顔をしていたが襟から覗く胸元は色白であった。精悍な顔をしていたがどこか知的な風貌が見てとれた。

「よく来たな。何という名だ」優しそうな笑顔で言った。

「仲村渠宏と弟の宏次です」二人は直立の姿勢から体を折って挨拶した。

「山田君、この二人の入社手続きをしてくれ。雇用契約書を作成してくれ」女子事務員に指示しながら事務所カウンターにやって来た。宏は持参した書類を手渡した。身元確認の書類に目を通して事務員に渡した後で言った。

「名護町の宮里村から来たのだね。仲村渠といえばハサマ一門だな。ハサマ一門は田畑が多いのでテニアンまで出稼ぎに来る必要は無かったのではないかね」

「婆様と3人で食う分の米の芋を作るだけの土地はありましたが親に呼ばれました」

「名護では畑仕事だけをしていたのかい」

「いえ、城村の岸本泰栄さんの下で大工見習をしていました」

「ほお、ワシの女房のオジキの泰栄さんの下での大工見習をしていたのか、ケチなオジキのことだから大した手間賃は貰えなかっただろう。ここの手間賃は高いから頑張ってくれ。沖縄と違って冬が無いから生活は楽だぜ」そう言って声を上げて笑って机に戻って行った。入れ替わって事務員が出勤帳簿を持って来て出勤の署名を求めた。宏と宏次は事務員の指さした空欄に付けペンで署名した。

「中村課長、失礼します」清三が挨拶した。

「作業場所は当分アンタと同じ部署においてやってくれ」書類から視線を上げて声を掛けた。

事務所の外に出るとトラックで長屋から出勤した作業員がそれぞれの持ち場へと移動を始めていた。宏と宏次も清三の後に続いた。二人のテニアン島での労働が始まった。工場での作業は含蜜糖の袋詰め、倉庫への運搬、サトウキビの搾りかすの片付け、機械にこびり付いた糖蜜をヘラで削り落とす作業など、単純な肉体労働であった。昼食は工場の賄い食堂で作業部署ごとに交互に支給された給食を食べた。宏にとって難儀な作業ではなく、物珍しさもあって勢いの出る労働であった。只、工場全体から発する糖蜜の甘い臭いを毎日嗅いでいると不快になった。砂糖の味や香りのする甘い菓子類は手にするのも嫌になった。帰宅すると服にも手足にも糖蜜の臭いが染みついていた。それが汗と混ざって不快な臭いを助長させていた。宏と宏次は同じ部署で働いたが、父の宏全と同じ部署で働くことは無かった。宏たち体の大きな者は荷揚げなどの体力の必要な作業に従事させられていたようだ。30kgの粗糖袋を積み上げる作業は体力の乏しい宏全には無理な労働に違いなかった。宏は父親の作業内容に興味を持つことは無く、淡々と日常の工場労働に従事していた。工場での作業は1週間もするとその部署での作業に熟知してしまう程度の単純作業であった。宏が得たものといえば肉体労働で鍛えられ強くなった体幹と筋力だけであった。工場は休みなく稼働しており、世話役の清三の割り振りで休みを取っていた。宏は工場の労働で疲れを覚えることもなくほとんど休まず工場に通った。休みは給料を貰った翌日だけであった。父親の宏全は週に1度か2度は休みを取っていた。何やら自家菜園の手入れをしているらしかった。宏はそのことを父に尋ねることはせず、宏次を毎週1日は休ませて父親の手伝いをするように言い聞かせた。宏にとって変化に乏しい工場での単純な肉体労働は3カ月ほどで終了した。製糖期が終わったのである。次の操業は半年後であると清三が言った。仕事が切れるのかと宏が問うと、サトウキビ畑の農作業があるので工場から農場へと働く場所が変わるだけだと返事した。機械工員だけは整備の為に工場に残り、一般労働者は農園に配属されると教えられた。1週間ほどの休みがあってから新しい配属場所が通知されるらしい。この長屋の連中は同じ配属になるとのことだ。

 宏はシフト制の定休日に宏次と二人で島内を探索した。島は大部分が崖となっているが小さな湾があり、あまり広くない浅瀬とその先にサンゴ礁のリーフが連なっている場所があった。漁師が入った気配はなかった。この島の漁師はカツオ、マグロ漁に従事するのが大多数であり、一部の漁師が島の周りに小舟を出して1本釣漁で市場に近海魚を卸していた。1万5千人の住民の食生活に供与する漁獲量では、南洋の小島の生態系を荒らすほどこともなく魚影が薄くなることは無かった。冷蔵施設のない市場ではその日の消費量だけの鮮魚を卸すだけであり、乱獲する程の釣果を必要としなかった。宏はこの島の海岸を探索してこのマリンブルーの故郷とそっくりの海が故郷よりも遥かに豊な海の幸を含んでいることを知った。

 宏達の短い臨時休暇が始まった。父は近くの友達の家に将棋を打ちに行き。母はいつもの様に富美子を連れて鰹節工場に出た。妹達は学校である。太陽はゆっくりと高度を上げ、南洋群島の熱帯の爽やかな朝が既に終わりを告げ始めていた。宏は朝寝坊の眼をタンクの水で洗い、鍋の中からタロイモを取り出して口にしながら部屋の中に入って来た。縁側に寝そべって手垢の付いた古い雑誌を読んでいる宏次に言った。

「海に遊びに行こうぜ。こないだ行った海岸で潜り漁をしよう」

「うん」とだけ答えた宏次に、故郷から持って来たバックからミーカガン(水中メガネ)を取り出して寝そべっている宏次の雑誌の上に放り出した。

「名護の海で使っていた物だ。そいつはお前が使っていたやつだ」そう言って笑った。宏次は飛び起きてミーカガンを手にして宏を見上げた。

「こんなこともあろうかと思って、カバンに入れて来たのさ」目を丸くした宏次に言った。そしてタロイモの皮をポイと垣根の外の道路に放り出して縁側に回って床下から何かを取り出した。2本の銛である。1本を宏次に手渡した。

「これはどうしたの」驚いた顔で宏次が訊ねた。

「お前が昼めし食って昼寝をしている間に作ったのさ。工場の工作室には工具が揃っていてな、廃材の鉄筋を貰って3日掛りで作ったのさ。銛の先に返し鈎も付けておいたぜ」

「良く出来ているね。竿はアホウドリ猟で使ったユウナだね。乾燥して軽くなって握り具合がいいね」宏次が珍しく声を出して喜んだ。

「そこのメリケン袋を取りな。銛の刃先を隠すのだ。麻のカマスを銛の柄に括って畑に行く格好にしようぜ。兵隊に見つかると煩わしいからな」

宏次がメリケン袋と麻袋を持ってきて宏の言ったとおりにした。宏は別のメリケン袋に手ぬぐいと針金と水筒に昼飯代わりのタロイモを2個放り込んで麻ひもで括った。さらに腰の後ろに鎌を差し込んでいかにも畑仕事に出かける風情であった。陽は既に高くなっており10時を回っていた。この島には暮らす者お家には時計は無く、朝8時、昼時の12時、夕暮れの5時に島内に響くサイレン以外は時を知る術は無かったし、取り立てて時間を知る必要もなかった。時間を小まめに知らせるのは雇用労働者の仕事場と学校だけであった。

 旧暦の1日と15日は大潮で最大干潮は午後1時と夜中の午前1頃であり、沖縄と大差がなかった。この海岸に来るのは2度目である。今度はわき見をせずに急ぎ足で歩いたので30分余りで着いた気がした。引き潮の海岸の沖ではリーフに白波が立っていた。二人は銛を砂に突き刺し、茂みの中に入って裸になった。衣服はメリケン袋にいれた。カマスから麻ひもを取り出して褌の上から腰に巻いて、褌が抜けないように括り付けた。タロイモの入ったカマスと衣服の入ったメリケン袋を木の枝に括り付けて吊るした。茂みの中から出て来た二人は背伸びをして海を眺めた。人一人いない穏やかな風景である。この浜は右側の岸壁に沿って深い切れ込みがあり濃い色となっている。リーフを乗り越えた潮はその深みをから沖へと流れ出るのだろう。潮の流れの少ないリーフの内側の縦長の深みとなったサンゴ礁の棚の下を潜ってみたいと思った。宏は握り拳ほどの枯木を拾って針金の端に括り一方を腰の紐に結わえた。宏次にはメリケン袋を持たせた。さらにアダンの新芽を引き抜いて柔らかな部分をメガネのガラスの内側に擦りつけた。透明な汁がガラスに付着した。ガラスの曇り止めである。二人はゆっくりと砂浜を下って水辺に向かって歩き出した。

「俺はサンゴ礁の切れ目に沿って潜って岩の庇の下の穴を探ってみる。タコやエビやミーバイ(ヤイトハタ)が隠れているはずだ。お前は膝から腰の深さを歩いて貝を拾ってメリケン袋に入れな。高瀬貝。シャコガイ、ヤコウガイ、サザエが見つかるはずだ。小さな貝は取るんじゃないぜ、貝は重たいから帰りが難儀だからな」

「うん」と宏次は頷いた。

「初めての海は潮の流れが良く分からないから深い所には行くなよ。宮里の家の前の見慣れた海とは違うぞ」

宏は眼鏡を一度海水で漱ぎ、目に合わせた。メガネが目に吸い付いた。懐かしい感触である。「よし、この辺りから始めようぜ」そう言ってサンゴ礁の切れ目の深場に体を送り出した。銛の柄の後ろに穴を開け、麻縄を通して2m程の長さにして輪を作り右手首に通していた。1度5m程の深さまで潜りそこから辺りを観察しながら浮かび上がった。宏次の姿が近くにあった。

「大丈夫だ、お前はその辺を探せ」立ち泳ぎをしながらそう言って大きく息を吸い込んで再び潜った。獲物は直ぐに見つかった。銛で岩の穴を突いて調べると、柔かい当たりあり、強く銛を突き刺すと捻じれて暴れた。茶色の粘着性のある墨を吐き出した。タコが隠れていた。なかなか出てこないタコにてこずって息が切れた。銛を離して浮かび上がり再び銛の元に潜って戻った。銛の柄が大きく傾いていた。宏は柄を掴んで跳ね上げるように銛を引き抜いた。タコが大きく墨を吐き出しながら泳ぎ出した。銛がタコの頭を突き抜けているのを確認して浮かび上がった。そして岩の上に立った。海水は腰の深さほども無かった。腰の針金を取ってタコの頭に突き通した。タコの頭の傘の中に指を入れて内臓を引きちぎった。タコがおとなしくなった。ただ足の吸盤だけが銛の柄に絡みつき吸い付いた。2斤ほどのタコである。宏は針金を岩の突起に縛り付けて宏次を探した。50m程先にいるのを確認して再び潜った。テーブル状のサンゴの隙間に隠れたヤイトハタとヤマトビー(ベラの仲間)を突いた。海藻にコブシメの卵が多数付着しており、この辺りに生息しているだろうと推察した。魚を針金に通して宏次を探した。70m程離れて銛を杖代わりにして歩いているのが見えた。宏は親指と人差し指で輪を作って口に挟んで指笛を強く吹いた。宏次が振り返った。手を上げて戻るように合図して岸に向かって歩いた。途中で宏次が追いついたのでメリケン袋の中を覗く握り拳大の20個ほどの貝が入っていた。

「良く捕れたな。俺はタコとミーバイとヤマトビーを突いた。今日はこのくらいで引き上げようぜ」

「小さい貝は置いて来た」宏次が言った。

「貝はサンゴ礁の棚の下にもいたが拾わなかった。明後日くらいにもう一度潜ってみようかと思う」

「来週から仕事が始まるからしばらくいけないね」

「ああ、海で漁をしていることは誰にも話すな。この島で暮らす大和人の考えは俺たちと違うかもしれないからな」

宏次は黙って頷いた。

2人は着替えて砂浜に座ってタロイモを食べた。陽は未だ天頂あり1時間も海に入っていなかった。

「宏次、海は良いな。俺は大工仕事も好きだが、船乗りになりたいと思ったこともあるぜ。爺様の弟に船乗りがいたらしいが外国で死んだらしい。」

「ふーん、初めて聞いた」

「婆様に一度船員募集の話をしたらひどく怒られてな。お前も未だ学校に通っていたし諦めて泰栄さんの下で働くことにしたのさ」

「知らなかった、俺は船乗りに向かないな。船酔いするし」

「ハハハ、お前は泳ぎが上手くないし陸の仕事が向いている。俺はいずれの日か船に乗ろうと思っている。お前が一人前になったらな。その時はオヤジ達の事を頼む。俺は何時までもこの島では暮らせそうもない」

「兄さんに畑仕事は向いていないと思う」宏次がボソリと言った。宏が宏次の方を向くと遠く波頭を見ていた。こいつは黙って俺の後を着いて来たが、何れの日か独り立ちする日を迎えねばいけないのだ。その時が来れば難儀を押し付けねばならないだろうと少し心が痛んだ。二人はそれぞれの思いで海の白波のはるか向こうを眺めていた。潮目は次第に満潮に代わっており、右の岸辺のリーフの切れ目から海水が川の様に流れ込むのが見えた。宏は立ち上がってズボンに着いた白砂をポンポンと払った。2本に束ねた銛の柄に獲物が入ったカマスを括り付け宏次に担がせて帰路に就いた。本通りに向う坂の小道の脇にバンジローが実っていた。宏は軽く握って柔らかみのある2個をもいで1個を宏次に渡した。この島は野生の果物が豊富で腹を空かすことは無い。確かにある意味で天国に近い島である。やがて昼過ぎのスコールがやって来て二人を叩いた。冷たい雨が火照った体に心地良く感じられ、二人は濡れるに任せて歩き続けた。宏は大潮と休みが重なる日には宏次と連れだって海へ出かけて漁をした。この島での唯一の楽しみとなってしまった。

 製糖期が終わると、翌週からの作業は農場での労働であった。収穫後のサトウキビに肥料を施し新梢に土を被せる培土作業、新しい農地を切り開く作業であった。培土作業は郷里でも行ったことがあったので手慣れた作業であった。農地を切り開く開墾作業はいささか難儀であった。沖縄のイルカンダにも似たつる植物を鉈で切り払い裸地にして馬に引かせた鋤で農地を拵えるのだ。幾重にも絡みつき太い綱状になった蔓を鉈で切ると蔓が大きく跳ねた。切り方を間違えると蔓が体に向かって鞭のように跳ね飛んできた。宏は蔓が跳ねるのが面白く進んで蔓切を行った。時折出て来る石を大ハンマーで叩き割り畑の一角に積み上げた。昼飯は弁当が会社から届いた。畑には影が無く送迎車両からターフを張り昼食と3時の休憩場所にしていた。

宏が休憩中に何の気なしに小刀で伐倒した木の小枝を削っていると人影が近づいて来て止まった。見上げると中村課長である。乗馬ズボンに革のブーツ姿だ。近くに馬がいて草を食んでいた。宏は立ち上がってお辞儀をして言った。

「こんにちは、ご苦労様です」

「うん、頑張っているようだな。ここの暮らしに馴れたかい」

「単純な作業で体力だけはありますから」

「休みの日はどうしているかい。若い者が家で寝ているわけでもあるまい」

「海に出かけて潜って魚を突いたり、貝を拾ったりしています」

「ほう、泳ぎが得意なのか」

「家の前が海で風呂代わりに泳いでいましたから。それに水中メガネも持ってきましたので」

「俺たち東江村の若者は村内を流れる幸地川で泳いでいたので、海で泳ぐことは得意でないな。この島は海に囲まれているので楽しみだな」

「実は外国航路の船乗りになりたかったのですが、婆様に猛反対されて諦めました」頭を掻きながら宏は答えた。

「仲村渠君にとって、初めて外国航路の船に乗ってテニアンまでやって来たのだな。船員ではなく乗客とし乗船したのは残念だったな。ハハハ」中村課長は朗らかに笑った。

「確か君は17歳だったね。ここの暮らしに馴れると何か芽の出ることに出会うこともあるだろう。まだ若いのだから頑張り給え」そう言って宏の肩をポンと叩いて馬の元に歩いて行った。

「ありがとうございます」宏はそう言って一礼した。

農場の作業を3カ月ほどすると再び製糖業が始まった。熱帯のテニアン島では沖縄と異なり一年中サトウキビの収穫が出来るようだ。工場では3カ月単位で収穫と製糖業を繰り返していた。

(4)

 年が3度明けて昭和17年を迎えた。この年にウサは6番目の子を出産した。4男で宏光と名付けた。ウサが42歳の子供であった。日本軍は志那戦線、東南アジア戦線において相変わらず連戦連勝のニュースを流していた。南国の楽園テニアン島には戦争の気配もなくただ砂糖の増産だけが軍部から指示されるだけであった。宏にとって単純な日常が繰り返されて昭和18年となった。そして旧正月の内祝いが終わった2月の誕生日を迎えて20歳となった。父の宏全はほとんど仕事に出ず、専ら宏光の子守が仕事となっていた。清美は高等科を卒業して洋裁店の見習いの仕事に就いていた。宏と父の宏全が口をきくことはほとんど無かったが、給料が出ると泡盛の4合瓶を買って宏全に渡した。宏全はとても喜んで機嫌がよくなった。南洋群島特有の季節感が無く濃厚な湿気を含んだ単調な日々が続いており、宏の日常もそのどんよりとした空気の中に沈み込んでいた。

 宏がテニアン島に来て、何度目かの製糖工場の操業期が終わり、数日の休暇によって日常生活の中に一時の空白期間を生じていた。季節感は無いが既に春分の日が過ぎていた。その日の夕食時にウサが鰹節工場で聞いた話をした。明日の午前中に沖縄を経由した船が入港し、停泊せずに荷物を降ろすとすぐにサイパン、ポナペに向かうらしい。宏は知り合いに会うこともないだろうが暇つぶしに行ってみることにした。港の守衛に聞くと船は4時間ほど停泊してグアム、トラック、ポナペまで行って、そこからポリネシア、パラオ、フィリピンのマニラ、台湾、上海と巡回して神戸に至る巡回船舶であると話した。午前10時、ボーと汽笛を鳴らして船が入港してきた、宏たちが乗った南洋丸よりも大きな船である。船が岸壁に接岸されブリッジが降ろされると、兵隊やら工夫やら大きな荷物を抱えた家族連れしき人々、中には手ぶらで降りて来る者もいた。次の島々に渡る人々が久しぶりの大地の感触を確かめたく一時下船した者たちであろう。その中に宏の見慣れた子連れの男の姿を見つけて駆け寄った。宏と同じハサマ一族の秀仁ハサマ小の屋号を持つ家の秀造兄さんである。宏の実家のマガイハサマ小から通りを二つ離れた場所に暮らしていた。宏の祖父の宏友と秀造の父秀仁が従弟同士であった。

「秀造兄さん」声を掛けると男が振り向いて宏をしげしげと見つめた。

「マガイハサマ小の宏か」

「はい、ご無沙汰しています」

「お前たちはテニアン島に渡ったと聞いていたが、家族は元気か」

「はい、なんとか暮らしています」

「何人家族だ」

「両親と男4名、女2名の8人で暮らしています」

秀造は辺りを見渡して言った。

「そうか、少し腹が空いたな。何処かソバでも食えないか。こいつも腹をすかしているようだ」小学校高学年らしき男の子を連れていた。

「おお、お前は秀栄か。大きくなったな」

「オカアともう一人のガキは船の中だ」

「その先に食堂がありますので案内します」

桟橋には既に人影がまばらとなっており、荷下ろし作業員の姿が目立つだけであった。宏たちは5分ほど歩いて港町の繁華街の入り口にある小さな食堂に入った。昼食時間までには間があり、客の姿は無かった。宏はソバの大を2杯と中を1杯注文して金を前払いした。

「おお、すまないな。御馳走になるよ」秀仁が言った。

「ここはカツオ漁が盛んで鰹節工場もあるのでソバの鰹節ダシが効いて美味いですよ」

「ウサさんと宏全さんはどうしている」

「オカアは鰹節工場で働いています。オヤジは体がだるいと言って家でブラブラしています」

「ウサさんは相変わらず元気だな、宏全さんはお前と弟の宏次が来たので怠け癖が出たのだろう。困った男だ」

「そうかもしれませんね。ところでうちの婆様は元気でしょうか。こちらから手紙を出してはいますが。婆さまの様子は分かりません。沖縄から来る船が入港する度に見に来ますが知り合いに会ったのは秀造兄さんが初めてです」

「ウト婆さんは元気だったよ。実家のシパマタ屋の子供たちが何かと気を使ってくれて元気に暮らしていた。実家が近いから心配ないよ」

「そうですか、有難うございます。そばを食べましょう。冷めないうちに」

宏は時折宏次と連れだったこの店に来ていた。確かに美味いのであるが故郷の沖縄そばとは異なると思っていた。

「宏、ここではどんな仕事をしているのだ」

「製糖期は工場で力仕事をして、製糖期が終わるとサトウキビの手入れです。培土やら農地の開墾作業です。名護とあまり変わらないですね。手間賃は高いですが」

「お前は幾つになった」

「今年で二十歳になりました」

「良い若者が単純な農夫か。南洋まで来て沖縄と同じ仕事をするとは少し情けないね」

「全くです。手間は安かったけど城村の泰栄親方の下で大工見習をして働いていた方が将来の見込みがあったのだけどね。婆さまと暮らす分の食べ物は自分の家の畑でも十分でしたから」

「なんでまたテニアン迄来たのかい」

「オヤジの体調が悪いと手紙で知らされて、オカアに呼ばれたのですよ。学校を卒業したばかりの宏次を一人で船に乗せる訳にもいかなかったのでね」

「ハハハ、宏全さんとウサさんにやられたな」

「婆様のことが心配だからそろそろ沖縄に帰ろうかとも考えています。沖縄でなく大阪辺りでも良いですし。隣の兼松屋の叔父さん夫婦が大正区で鉄道工事現場の賄い食堂をしていると聞いているので訪ねて見ようかとも時々思っています」

「そうかね。この島では若者向きの仕事は見つからないのか」秀造はそう言って最後の麺を口に入れてから汁を一気に飲んだ。

「秀造兄さんは何処へ行かれるのですか」

「ポナペ島へ行くのさ」

「ポナペ島は話しに聞くと随分を田舎らしいですよ。南洋群島の東の外れでハワイ島に近いと誰かが言っていたけど」

「宏、ハサマ本家の東側の公民館の隣にある一門の宏三郎ハサマ小を知っているだろ」

「ええ、うちよりも早くに南洋群島に出稼ぎに行ったと聞いていますが」

「それでよ、息子の宏仁さんが運送会社を始めたらしい。資金はハサマ本家の爺様が融資してくれたらしい。南洋で難儀している一族の事を気にしてさ」

「運送会社ですか」

「ところがだ。ポナペの原住民はあまり働かないそうだ。山にパンの実、バナナ、タロイモ、リーフに囲まれた内海には魚も蟹も豊富だそうだ。食うのに困らないので手間賃を貰ったらしばらく仕事場に来ないそうだ」

「あの島は本当の熱帯の楽園なのですね」

「それで信頼できる親戚のハサマ一門を呼んだのさ」

「運送業か、車の運転なら俺もやってみたいな」

「お前は腕力もあるからきっと会社の戦力になると思うぜ」

宏は腕を組み天井を見上げて言った。

「家の方は宏次が働くし、清美の洋裁店の見習いだし、オカアも鰹節工場で働いているから俺が抜けても心配はないけどな。オヤジが何と言うかな」

「おいおい、宏、お前も二十歳になったのだぞ。自分将来は自分で決めなよ」

「秀造兄さん、俺が行っても大丈夫かな」

「寒さの無い南洋だぜ、雨露をしのげる軒下でも倉庫の中でも暮らせるさ」

「よし、一つ乗ってみるか」

「同じハサマ一門だ。オヤジを説得して訊ねてきな。港でハサマ運送と聞けばすぐに分るさ」

「よし決めた。行くことにする」宏は秀造の顔を見て言った。

「そうしな、いつでも良いぞ。宏仁さんに話しておくから」そう言って秀造は立ち上がった。

「宏兄さん御馳走さまでした」そう言って秀栄も立ち上がった。

店には客がボツボツと入り始めていた。3人は食堂を出ると八百屋と食品店に立ち寄りバナナ、蒸したタロイモ、タピオカ葛餅等を買って船に向かった。

「宏ご馳走になったな、ポナペで待ってるぜ」そう言って秀造親子はデッキを登って行った。秀栄が甲板で振り返り手を振って船内に消えて行った。宏はしばらく船を見るともなく眺めていたがフッと小さく息を吐いて桟橋を背にして自宅に向かった。宏はわずかな希望とこの後片付けねばならないオヤジとの関りの処理方法を思うと帰宅する足取りが自然と重くなった。立ち止まって既に見えなくなった港の方角を振り向いた。スコールが通りの商店街のトタン屋根を叩きながら近づいて来た。スコールの雨脚の中で出航の汽笛がボーと小さく聞こえた。

 翌日は宏次と二人でリーフに潜り、ブダイ、ベラ、ハタの仲間を5匹と2斤程のクブシミを突いて海から上がった。着替えて砂浜に座り、来る途中でもぎ取ったグァバの実を齧りながら宏次に言った。

「お前、秀仁ハサマ小の秀造さんを覚えているか」

「うん」

「昨日、港で秀造さんに会った。息子の秀栄が一緒だった。」

「テニアンに来たのかい」

「いや、ポナペに行く途中で寄港しただけだ。一緒にソバを食べた」

「ポナペに移住するのかな」

「親戚の宏三郎ハサマ小の宏仁さんがポナペで運送会社をしているらしく、そこで働くそうだ」

「ポナペは何処にあるのかな」

「テニアンよりもっと東の島だ」

宏次は黙って沖のリーフに跳ねる波頭を見ていた。

「それでよ、仕事があるから俺も来ないかと誘われた」

「兄さんは行くつもりかい」

「ああ、いつか話したな。俺は何時までも製糖工場の労働人夫でいるのはごめんだぜ。お前は残ってオヤジとオカアを助けな。お前を見知らぬ土地に連れて行くわけにはいかないし、お前には運送会社で港の荷受け作業をする島民相手の荒い仕事は向いてない」

「いつ発つの」

「次の船が来たら乗るつもりだが、3,4か月後くらいかな、秀造さん一家の生活が落ち着いてからだ。いずれにせよ年内には出るつもりだ」

宏次は黙っていた。宏はしばらく沖の白波を見ていたが、立ち上がって食べ残しのグァバの蔕の部分を指で弾き飛ばして言った。

「帰ろうぜ。今の話を今晩の夕飯の後で皆に言うつもりだ」

 宏は帰宅すると漁で取った獲物の下ごしらえをした。クブシミは表面の薄皮を剥ぎ、内臓を捨てゲソに分けた。胴体を鍋で沸かしたお湯に塩を入れてサッとくぐらせて薄い塩味をつけた。それを2寸幅で数本に切り分けて刺身が切れるようにした。食べる直前に切り分けるとクブシミの肉の内部のネットリとした食感が味わえるのだ。ゲソは魚と共に煮付けにさせるつもりだ。魚は鱗を落とし内臓と鰓を取り除いて適当な大きさにぶつ切りにして籠に入れて布巾を掛けておいた。頭は兜割りにして魚汁用の鍋に入れた。宏は風通しの良い縁側で寝転がって漁の疲れを癒しているうちに寝入ってしまった。宏が目覚めたのは陽が落ちて清美の調理した魚の煮付けの臭いが家中に漂う頃であった。水タンクの横の流し場で顔を洗って戻って来ると夕食の準備が出来ていた。

清美の「いただきましょう」の合図で家族は2台の座卓に就いて夕食を摂った。

宏は富美子と宏安が美味しそうに魚の煮付けを口に運ぶのを見て心が和んだ。宏全は塩味の付いたクブシミを摘みにして、宏が給料日の度に買ってくる泡盛をチビリチビリと飲んでいた。宏は夕食の魚料理を食べ終わるとグァバの葉を乾燥させて作った薬草茶で口を漱いで呑み込んだ。口の中にグァバの青臭い味が残った。宏次が父の養生に効くと聞いて原野に生えているグァバの葉を摘んで陰干しして作ったものである。宏は座卓から少し離れた柱にもたれて休んでいたが、父を除き母や弟妹達が食事を済ませたのを確認して言った。

「オカア、昨日港で懐かしい人に会ったぜ」

「誰だ、この島にお前の知っている人がいるのかい」ウサが言った。

「秀仁ハサマ小の秀造さんだ。何でもポナペ島に行く途中に寄港したので下船したらしい」

「ほう、元気だったかい」

「ああ、息子の秀栄が一緒だった。ソバを驕ったよ。うちのウト婆様も元気に暮らしているそうだ」

宏はチラリと父の様子と見た。宏全は興味無さそうに酒を口に運んでいたが

「人にソバを驕るぐらい金を稼いでいるのだな、大いしたものだ」とボソリと言った。ウサは宏全の愚痴を無視して言った。

「それで、秀造さん達はポナペで何をするのだい。あそこは島民だけで畑はあまりないと聞いているよ」

「宏三郎ハサマ小の宏仁さんが運送業をしているのでそこの手伝いをするそうだ」

「ああ、聞いた覚えがある」とウサが言った。

「それでよ、俺も来ないかと誘われたよ。宏次も一人前になったし、俺は行くと返事した。次の定期便が来たら行くと答えておいた。年末までには行くつもりだ」

「宏仁さんが運送業を起したのか、大したもんだね。誰かさんとえらい違いだ」ウサが小さく詰るように言った。宏は知らんふりして宏全の反応を見ていた。

「宏、お前は家族を捨ててポナペに行くつもりか」宏全が顔を上げて宏を睨みつけた。

「冗談じゃねえぜ、馬車馬みたいにキビ畑で汗を流しても何の技術も身に付かない仕事に明け暮れるのはごめんだね。アンタらが嘘をついて俺を泰栄親方の大工見習を諦めさせたのだよ。今度は好きにさせてもらうぜ」

宏全は手にしていた茶碗から酒をグッと飲み干すと宏に向かって茶碗を投げた。宏は見透かしたように飛んできた茶碗を交わした。茶碗が柱に当たって二つに割れた。宏安と富美子が座卓から飛びのいて壁際に張り付いた。

「チクショウ、体が言うことを効かない。お前らは難儀させるからワシは長生きできそうもない」そう言ってコホンコホンと乾いた咳をした。

「笑わせるぜ、働きもしないで何が難儀させるかよ。難儀しているのは俺や宏次やオカアだぜ」

「チクショウ、お前は親を捨ててポナペに行くというのだな。親不孝者が」と言って再び乾いた咳をした。

宏はうんざりした声で言い放った。

「何が親不孝者だ。40過ぎの男が見っとも無いぜ。アンタだって60過ぎの婆様の見捨てテニアンまで来たのだろ。せっかく俺が婆様の手伝いをして畑仕事をしていたのに、自分の為に俺を呼び出して母親を一人きりにしただろうが」

「ばか野郎、お前に何が分かるか」宏全は力なく行って頭を垂れた。

「分からないな。大の大人が子守だけで日がな暮らし、家族の稼ぎで良い思いをしているくせに。婆さまはただ一人で暮らしているのだぜ。婆さまの身になって考えたことはあるのかい。アンタこそ親不孝者だ」宏は言い放った。

「宏、分っておくれよ、この人は意気地がなく体も丈夫でないのだから」ウサが困った顔で宏に言った。

「分かってるよ。チョット夜風にあたって来るわ」そう言って草履をつっかけて外に出た。空を見上げると南十字星の脇から銀河が天頂に向かって流れていた。宏はふと婆様のことが気になった。明日にも手紙を書こう。こちらは何事もなく元気だ。秀仁ハサマ小の秀造兄さんに会ったことを書こう。仕事を探しにポナペに行きたいとは書かないでおこうと思った。

 宏は何事もなかったように次の週からサトウキビの手入れに出た。毎月2回の給料日には泡盛の4合瓶を買って帰宅した。只、酒は宏次から父に渡すようにしていた。単純なサトウキビの手入れ作業と開墾作業が3カ月続いた後で秋の製糖期に切り替わった。秋分の日が来ても野原に紅葉の気配はなく時折台風の卵がやって来て海が荒れ、沖縄育ちの宏達にとってさして強くもない風が島中に海水を撒き散らすだけだった。むろんサトウキビに被害が出ることは無かった。

 製糖業が始まって2週間が過ぎた頃、桟橋に軍艦が入って来た。軍艦と言っても軍事物資を中心に運ぶ輸送船だ。ニューギニア戦線で物資を降ろし、給油と食料の調達の為に入港したのである。何処か補修個所があるらしく材木の板や柱が積み込まれ大工が出入りしていた。時折、陸軍の兵隊とは異なる軍服姿の水兵が街中を歩いていた。宏の目には水兵の白い上着の姿が垢抜けて見えた。普段見慣れている陸軍兵の軍服は工場労働者を連想させて土臭く見えていた。

 宏が出勤すると中村課長がやって来て声を掛けた。

「宏、話がある。歩きながら話そう」そう言って先になって歩き出した。工場作業員の姿が見えなくなった場所に来て歩調を緩めて肩を並べるようにして言った。

「宏、幾つになった」

「今年で二十歳になりました」

「そうか。海軍の輸送船が入港していることは知っているな」

「はい、格好の良い制服の水兵さんの姿を町で見かけました」

「昨日、軍艦の水兵さんとの歓迎懇親会が町の料亭で開かれた。将校たちは国に都合の良い話を聞かせてくれたが、水兵達との会話の中で実際の現在の戦況が分った。日本軍はアメリカ軍に押されているようだ。昨年6月のミッドウェー海戦で日本海軍は善戦したと大本営の広報は発表しているが、水兵の会話から推察すると実際は壊滅的な被害を受けたようだ。ソロモン諸島やビスマルクのラバウル航空基地にはオーストラリア軍が参戦しており、防衛が危なくなっているようだ。何しろ海軍は兵士の数が激減しており、水兵の確保に懸命らしい」

「大本営の宣伝では連戦連勝と言っていますが」

「それは国民向けの国威発揚のための文句だ、現実は異なる。私もミッドウェー海戦が勝利したとの広報を信じていなかったが、壊滅的敗北とは思わなかった。それにオーストラリア軍が参戦したとなると南太平洋諸島の防衛は持たない。そのうちにここは戦場に変わるだろう」

「米国と豪州の2か国で責められるとこんな小さな島はひとたまりもないでしょうね」

「そういう事だ。その時にはお前のような若者は直ちに招集されてにわか兵隊になるだろう。銃を触ったこともない素人兵隊のお前は確実に死ぬぞ」

「故郷を離れた南洋の小島で死ぬのは情けないですね。故郷に婆様を残したままだし」

「宏、いいかよく聞け。お前は志願して本土に行って海軍に入隊しろ」

「海軍への志願兵ですか。この島には陸軍しか駐屯していませんよ。それに私には海軍に入隊する手段はありませんが」

「実は昨夜の歓迎会で知り合った村上少尉が明日の午前中に工場見物にやって来る。俺がお前を推薦してやろう。君は以前に船乗りになりたいと思ったことがあると言っていたな。良い機会ではないか」

「願ってもないことです。広い世界へ出たいと考えていました。今月中にポナペ島に行って親戚の経営する運送会社に勤める予定でしたが、ポナペより日本本土が絶対に良いです」

「よし分った。帰宅したら履歴書を書いて明日の出勤時に持って来てくれ。村上中尉が来たらお前を呼びに誰か寄こすから事務所に来なさい」

「ありがとうございます」

「では君に話すことはこれだけだ。いつもの様に作業現場に出なさい」そう言って中村課長は引き上げた。宏は後ろ姿に深々とお辞儀して見送った。

 宏は帰宅すると履歴書を書いた。氏名にはナカンダカリ・ヒロシとフリガナを振った。本籍、学歴、職歴、テニアン島居住日、現職、両親氏名、弟妹5名と筆で書いた。祖母に定期的に手紙を出すために買い置きしていた白い封筒に経歴書と黒々と墨で書いた。出勤時に履歴書を中村課長の机の上に置いて作業現場に出た。宏は昨日の中村課長とのやり取りが気になったが、砂糖袋の運搬に精を出しているうちにいつもの作業ペースに戻っていた。10時半に小休止が入った時に事務員の山田女史が呼びに来た。宏は額から首筋に吹き出た汗を拭き取り作業着の襟を直して事務所に向かった。

「失礼します。ナカンダカリ・ヒロシです」そう言って事務所の応接間の入り口で声を上げた。

「入り給え」中から中村課長の声がした。応接室の中には中村課長と対面して白い制服の将校がソファーに座っていた。

「ナカンダカリ・ヒロシです」と再び名乗って一礼した。

「この男が先ほど紹介した青年です。真面目で体力があって当社としては使い勝手がある職員ですが、今般の戦況からお国の為にお渡しするのが賢明かと思います」

「中村さんの話では、君は海辺の村育ちで泳ぎや素潜りが得意らしいね」

「故郷の田舎では風呂代わりに1年中海で泳いでいましたし、ここに来てからは遊びと食事に足しにと素潜り漁をしていました」

「ほう、素潜り漁か、どのくらいの深さまで潜れるかね」

「いつも5豁程度の深さで魚を突いています。あまり深くなると魚もタコもイカもいませんので」

「どの位の時間の素潜り漁をしているのかね」

「1時間もあれば家族7人分の魚は獲れます。泳ぐだけなら何時間でも泳げます。陸で歩くのと同じです」宏は真面目な顔で答えた。

目を丸くして聞いていた海軍将校の前で、中村課長がニコニコして見ていた。

「中村さん頼もしい青年だね。うちにくれないかな」

「よろしいですよ、本人も故郷にいる頃、船員に憧れていたそうですから」

「ヨシ、入隊を認めよう。明後日の昼前に出港するので午前9時に停泊した船の搭乗ブリッジの前に来てくれ。ワシらの船は長崎の佐世保の造船ドックに入港するから、そこから車で大村の軍事訓練基地へ送ろう」

「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」宏は深々と頭を下げた。

「ナカンダカリ君良かったな。俺のメンツを潰さぬように頑張れよ」

「はい、ありがとうございます」

「中村さん、ナカンダカリ君の名は呼び難い。戦場では機敏に指示を出さねばいけないことが多い。青年の呼び方を君に倣ってナカムラとしたいがどうかな」

「ヒロシ、どうかな」中村課長が訊ねた。

「上官の指示が一番ですから私は構いません」

「ではナカムラ君、明後日の9時に埠頭で待っている」

「失礼します」宏は深々と頭を下げて退室した。

宏は夢の中を歩いているような気分で作業場に着いた。この日の午後はなにが何だか解らぬまま終わった。退勤時に中村課長の姿は無く、事務員の山田女史が言った。

「明日も出勤して下さいとの課長の伝言です。退職の処理をしておきますから」

宏は人生の潮目が変わりつつあることをはっきりと感じていた。

 翌朝の通勤のトラックを待つ間に宏は弟の宏次に言った。

「俺は明日の朝、港に停泊してある海軍の輸送船にのる。昨日海軍の村上少尉から志願兵応募の許可が出たので長崎県大村の日本海軍の訓練基地に行く。海軍に入隊することになった」

「うん」と寂しそうに小さく頷いた。宏次には兄が家を出て行くことは周知のことであった。

「俺がいなくなったらお前が一家の面倒を見てくれ。オカアは元気だし、清美も少しの手間賃を貰って自分の食い扶持は稼げるだろう。宏安も高等科に入ったし、親父一人は相変わらずダラダラしているが俺がいなくても何とかなるだろう。頼むぜ」そう言って宏次の肩を叩いて立ち上がって背伸びをした。立ち眩みしそうな朝陽が宏の目を射しした。

 事務所に着くと中村課長が既に出勤していた。課長は工場近くの官舎に住んでいるのだった。事務の山田女史に声を掛けると金庫から封筒を出してきた。

「今日までの給料です。課長の計らいで今日までの賃金が入っています。」そう言っていつもの給料袋を渡した。中村課長はポケットから茶色の封筒を出して

「これは餞別だ、そしてこれは俺が台湾製糖に務めていた頃の防寒服だ。台湾は沖縄より南の国だが冬は沖縄より寒いのだ。長崎もテニアンより寒いだろうから役に立つだろう使ってくれ」そう言って風呂敷包みを渡した。

「ありがとうございます」そう言って受け取った。

「誰か宏を町まで送ってくれ」振り向いて事務所内の男に言った。

「宏、防寒になりそうな肌着類を手に入れたほうがいな」

「何から何までお世話になります」そう言って頭を下げた。

「この戦争が終わって故郷の名護でいつの日か会えるといいな」そう言って優しいまなざしで見つめた。

宏は事務所の職員に何度も頭を下げて外に出た。送迎トラックの助手席に乗り込んだ。トラックは緩やかな坂道を下って走り続け、宏の見慣れた風景が次第に遠くに流れて消えて行った。宏は街の本通りで車を降りた。先ず雑貨店に入り兵隊が担いでいる厚めの布地の背嚢を買った。タオル、洗面具を買って袋に入れた。そして衣料品店に入って店員に訊ねた。日本本土に行くので長めの肌着とシャツ、ズボンを頼んだ。女子店員は店の奥から箱を持って来て宏の前で開けて見せた。「ごくたまに本土に帰る方が買うぐらいですからこれだけです」

宏は2着買って袋に詰めた。靴屋に寄って丈夫そうな布地のズックを買って履き替えた。古い靴のゴミを払って袋に入れた。最後に清美の洋裁店に寄って買ったばかりのズボンを取り出して裾丈直しを清美に頼んで店を出た。清美が帰宅時に持ち帰るようことにした。宏は以前に秀造親子と立ち寄ったソバ店に入ってそばを食べた。この島ともこれにてお別れだな、そう思うと奇妙な感傷が湧き上がって来た。

 宏が帰宅すると父の宏全は不在であった。最近広げた新しい菜園に出かけているようだった。清美の筆箱から硯を取り出して墨を擦った。そしてすべての荷物に記名した。宏は便箋を取り出し祖母のウト宛に手紙を書いた。「明日、この島を出て長崎の日本海軍に入隊する。今後は手紙を書くことが出来なくなるかもしれない」とも書いて封筒を綴じた。背嚢を押し入れの上の棚に押し込むと封筒をポケットに入れ郵便局に向かった。郵便局で切手を買って投函すると長屋の世話役の清三さんの家を訪ねた。清三さんは製糖工場に出勤中であり、奥さんが出てきた。宏は今度日本海軍に志願して入隊する旨を伝えた。清三さんには色々と世話になりました。テニアンから遠く離れた長崎の海軍訓練所に入隊するので、今後は会うこともないですが、自分の家族の事を今後もお気遣い下しますようにとお願いした。宏は自宅から20分ほど離れた住吉神社に立ち寄り武運長久と家族の安全を祈願した。鳥居の脇に佇み町並みを眺めた。家並みのはるか遠くの海に陽光がさざめき南太平洋の楽園に近い風景が広がっていた。宏はどのくらい佇んでいたが分からぬが、次第に夕暮れの気配が迫って来るのを感じて住吉神社の階段を降りて自宅に向かった。途中で雑貨店に立ち寄って泡盛の4合瓶を5本買った。

 帰宅すると既に宏安と富美子が学校から帰っておりカルタで遊んでいた。台所の棚の奥に買ったばかりの泡盛の瓶を押し込んだ。清美が帰って来て言った。

「兄さん裾を直しておいたわ。ズボンの内側にヒロシと刺繍を入れておいたから」

「ありがとう」

「夕飯の支度をするから宏安手伝って頂戴」そう言って台所に出て行った。

やがて父の宏全、母のウサ、最後に宏次が帰宅して一家の夕食が始まった。

 宏は夕食が終わると皆に言った。

「俺は明日の朝早くにこの島を出て行く」そう言った。

「ポナペ島に行くのか。俺は許した覚えは無いぞ」相変わらずチビリチビリと晩酌の酒を口に運んでいた父の宏全が顔を上げ、宏を睨み付けて言った。

「そうじゃねぇ。日本海軍に入隊するのさ。中村課長が現在入港中の戦艦の村上中尉に推薦してくれたのだ。昨日、中尉直々に面接して入隊を許可して頂いたのだ。長崎県の大村海軍訓練基地に向かうのだ。ポナペ島の田舎運送会社で働くわけではないぜ。お国の為だ、身が引き締まる思いがするぜ」

「クソッ、何がお国の為だ。お国が俺にどんな良い思いをさせてくれたのだ」

「オヤジ、息子が志願して海軍に入るのに反対して愚痴を言うもんじゃないぜ。誰かに聞かれたら非国民と言われるぜ。いい加減自分が楽することばかり考えているとロクなことはないぜ」

「宏、本土の冬は寒いよ。アタシは若い頃、神奈川の紡績工場に勤めていたから良く分かるよ。体に気をつけてよ」

「長崎は九州だ、関東の神奈川ほど寒くはないさ。みんなもオカアを手伝って元気でいなよ」

宏全はうつむいて酒が空になった茶碗を握っていた。

「宏次、チョット外に出ようか」宏は宏次を促して立ち上がった。

「チクショウ、お前たちが俺を難儀させるから、俺は長生きできそうもない」宏全がそう言って茶碗を力なく台所に投げつけた。茶碗は割れずに土間に転がった。

「チェッ、元気があるじゃねーか」宏はそう言って宏次と外に出た。

宏は製糖工場の送迎トラックを待つ場所のベンチに座って言った。

「宏次、今朝、お前に言い残したことがある。俺の言うことは誰にも話すな。もし憲兵の耳に入るとお前は掴まって袋叩きだ」

宏次は心配そうに宏の顔を見て頷いた。

「飛行場のあるこの島は確実に戦争に巻き込まれる。そしてアメリカに占領されるだろう。アメリカ軍は飛行場のある島を全て占領しているらしい。既に南半球のラバウルも陥落したみたいだ。大本営の発表と違ってミッドウェー海戦で日本海軍は全滅したそうだ。だから俺でも海軍に志願出来たのだ。俺が乗る船もニューギニア戦線から逃れてきたのだ。中村課長が懇親会で酔った水兵から聞いたのだから本当の事だ」

「俺はどうすればよいのだ」と宏次が言った。

「この先、1年以内に戦争が始まるだろう。お前は家族を守っておくれ。絶対に陸軍に志願してはいけなぞ。アイツらはお前をアメリカ兵の前に立たせて逃げるだけだ。分かるな。奴らが住民を守ることは無いから」

「うん」宏次は頷いた。

「お前は16歳だから徴兵されないが、俺は2月で二十歳になった。戦争になったら強制的に徴兵されると中村課長が話した。それで志願を紹介したのさ。同じ名護出身だからな」

「兄さん分ったよ。それで具体的にどうすればよいのですか」

「いつでも避難できるように身支度しておけ。水筒、非常食、衣類だ。そして宏安をお前の側から離すな。お前の手伝いがすぐ出来るようにしておけ」

「分った」宏次が真剣な顔付きになって言った。

「それからな、オヤジの事だがな。あれはどんどん弱っている。みんなで逃げる時に遅れるようだと何処かに隠してひとまず家族を避難させることを優先しろ」

宏次は黙ってうつむいた。

「おれはオヤジに怨みがあるのではない。家族が一人でも多く生き延びて欲しいのだ。分かるか。お前しか判断出来ないのだから。俺が此処に残っても陸軍に徴兵されると、お前たちと離れるのだから長崎の海軍と同じだ」

「兄さん頑張ってみるよ」

「すまんな、戦争が終わったらもう一度沖縄の名護で会おうぜ。そうだ、台所の戸棚の奥に親父の為に泡盛を買っておいた。お前からといって給料日に渡しておきな。ただし1本ずつだぞ」宏は夜空の銀河の流れを見上げた。宏次も同じように夜空を眺めた。

「沖縄では秋だろうが、テニアンはいつまでも夏だな」宏は立ち上がって宏次の肩をポンと叩いて歩き出した。宏次も立ち上がって宏の後に続いた。

 翌朝、夜明けとともに宏は水筒に水を入れ、清美が炊いたタロイモを紙に包んで背嚢に押し込んで肩に担いだ。宏次と宏安と清美が戸口で黙って見送った。宏は宏安の頭を黙って撫でてから通りに歩き出した。

(5)

テニアン島カロリナス台地の崖とその下の洞窟

 1時間ほど歩いて港の埠頭に着いた。船の煙突から薄い煙が出ており、エンジンが始動しているようだった。乗船ブリッジは未だ降りておらず、時折甲板を歩く水兵の姿があった。宏が船を見上げていると同じように背嚢を背負った若者が一人、また一人集まって来た。4名の若者が口も利かずにただ船を見上げていた。皆色黒で顔の彫りが深く一目で沖縄県人と分った。人見知りで声を掛け合わないところも沖縄の田舎の出身者の特徴・気質を備えていた。水兵が甲板から笛を吹くと、港湾労働者が何処からかやって来て船から降りてきたデッキを岸壁に固定した。宏達はデッキの近くに集まった。水兵が一人降りて来てポケットから白い紙を取り出して言った。

「海軍への志願者はお前たちか」

「はい」と4名が同時に返事した。水兵がニヤッと笑って言った。

「名前を呼ぶから前に出ろ。テルヤアツシ、ウラサキヒトシ、アラカキマサル、ナカムラヒロシ」呼ばれるたびに「ハイ」返事して前に立った。「以上4名の乗船を許可する」宏はナカムラヒロシと呼ばれたことに少しの違和感があったが、不快ではなかった。むしろ清々しい気持ちがあった。デッキは直ぐに引き上げられた。ボーと汽笛が鳴ると船のエンジン音が高くなり、係留ロープが護岸から外され、船がタグボートに引かれて離岸した。タグボートの牽引ロープが離されるとエンジン音はさらに高まり汽笛が再びボーとなり煙突の黒煙が激しく噴き出した。右舷の後方にテニアンの港が見えた。やがてゆっくりと島影が小さくなり、海軍の輸送船の作る航跡の彼方にテニアン島が過去の世界へと押し流されていくのを見ていた。宏は自分の人生の旅路が黒潮の流れに乗って移動を始めたのを感じていた。

 艦内放送があり、後部甲板に集められた。乗員は22名に宏達新人の4名であった。八雲艦長の訓示があった。

「南洋戦線の戦況はひっ迫している。この艦船も被弾しているが幸いにも運行に支障はない。長崎の佐世保港まで一気に進むぞ。未だ米軍の潜水艦の気配は無いが歩哨は気を抜かぬようにしろ。それから志願兵を4名乗船させている。山田伍長前へ、アンタの指揮下において海軍の仕事に少しでも慣れさせてくれ」

「ハッ、承知しました」山田伍長と呼ばれた30過ぎの小柄な男が1歩前に出て艦長に敬礼して整列した水兵に振り向いていった。

「志願兵4名前へ」

宏と3名の新人は背嚢を担いだまま水兵の後列から前に出て並んだ。

「その背嚢に何が入っているか知らぬが下に置いて名を名乗れ」

4人は急いで背嚢を肩から降ろして直立の姿勢を取った。

「右から名乗れ」

「テルヤアツシ、ウラサキヒトシ、アラカキマサル、ナカムラヒロシ以上です」

「よろしい。この船に乗っている間は生死を共にすることになる。伍長の指示に従ってテキパキと動け、既に海軍訓練所に入隊していると思いたまえ。ヨシ、全員所定の部署に就け、解散」艦長がそう言うと係の水兵がベルを吹いた。

水兵達が足早に動き出した。

「岩田」伍長が若い水兵を呼んだ。「ハッ」と振り向き敬礼をした。

「こいつらに部屋を当てがって、水兵らしい服装にしろ。仕事はお前の代行だ。付き合ってやれ」

「承知いたしました。新米どもついてこい」

宏ら4名は磐田の後に従って船内に入って行った。船室の一番奥の2段ベッドが向かい合った小部屋であった。背の高い宏と勝が上のベッドで仁と保が下のベッドに背嚢を放り込んだ。岩田に伴われ備品室で白いズボンとシャツを2着受け取った。

「飯は9時と4時だ。着替えたら俺が呼びに来るまで休んでおけ」そう言って部屋を出て行った。

4人は着替えて下の段のベットの縁に腰掛けた。マサルが最初に口を開いた。

「俺は新垣勝、21歳だ。糸満の生まれでカツオ船に乗っていた」と糸満訛りの方言で言った

「俺は照屋篤、19歳だ。佐敷生まれで市場の魚屋で働いていた。」

「俺は仲村渠宏20歳だ。名護生まれで製糖工場に勤めていた。読みにくい姓だから仲村としている」

「俺は浦崎仁、18歳だ。本部の生まれで鰹節工場で働いていた」

それぞれが地域の訛りのある方言で話した。互いに暗黙の了解で他の船員に聞かれたくない話は方言で話す方が良いと心得ていた。それぞれの志願の理由を話した。4人とも南洋群島までやって来て今の仕事に厭きたからだと言った。しばらく仕事の話をしていたがマサルが声を潜めて本音を話し始めた。以前は沖のカツオ漁で日本の軍艦を見ることがあったが最近はアメリカ軍の艦船だけだった。オヤジの話ではいずれの米軍がテニアンにやって来るから志願しろと言われたのだ。アツシもヒトシも親から言われて志願していた。ヒロシが最後に話した。製糖工場の課長の話では既にミッドウェー海戦で日本軍は壊滅しているそうだ。米軍だけではなくオーストラリア軍もブーゲンビル島を攻撃してきたそうだ。それに近々18歳以上は徴兵令が出るそうだ。工場の課長に勧められて志願したわけよ、と詳細をヒロシが名護訛りの方言で話した。道理で親父が俺を送り出したわけだと魚屋のアツシとヒトシが言った。多分、日本海軍は船乗りが不足しているのだろう。お前らみんな泳ぎが得意か訊かれただろう、外洋に出る船員が不足しているのだろうとマサルが言った。こんな南洋の小さな島で死になくはないぜとヒトシが言うと、皆それぞれに納得顔で頷いた。4人の心に急速に仲間意識が高まって行った。宏の一人旅に道連れが出来た。船は黒潮の流れに乗って足早にテニアン島から離れて行った。

 宏が志願してテニアン島を出た年が明けてしばらくするとウサは鰹節工場で奇妙な噂を聞いた。カツオ漁の漁師から島の周辺で米軍の艦隊を見ることが多くなり、操業が怖くなったとの噂が出ていた。港への軍艦の入港が全くなくなった。4月になると貨物船までもが入港しなくなった。宏次の働く製糖工場では在庫が溜まり操業が停止していた。そして5月になると16歳以上45歳未満の男に徴兵令が届いた。宏次は16歳に4カ月だけ足りなかった。父の宏全は44歳であったがひどく弱っており徴兵の対象外であった。宏次は兄の宏が家を出る時の言葉が現実となったことを知った。6月に入ると島の高台から米軍の艦船が何隻も見えるようになった。艦船は島を取り囲むほどの数であった。6月15日サイパンで日米の戦闘が始まった。米軍はサイパンの南側のテニアン島から10kmしか離れていない場所から上陸した。そこから島の北へと攻めていき7月9日に陥落させた。サイパン島からの爆発音が途絶えたことでサイパンは米軍の手に落ちたのだとテニアン島の住民は理解し、次はテニアン島に米軍が上陸するのは誰の目に似も明らかになった。宏次は兄に言われたことを思い出し避難の準備に取り掛かった。それぞれの肩掛けカバンに水筒を入れ、非常食として黒糖を小袋に詰めた。蒸かしたタロイモは1、2日分の保存食でしかなかった。7月16日、米軍は艦船からテニアン島の要塞に向けて艦砲射撃を開始した。米軍戦艦の1隻に被害が出るも日本軍はたちまち迎撃能力の大半を失ってしまった。そしてすでに陥落したサイパンに近いテニアン島の北の海岸から7月24日の早朝に米軍が上陸を開始した。昼間の戦闘で劣勢であった日本軍が夜間奇襲攻撃を試みるも、米軍の大量の照明弾は陸地を真昼の様に照らし、日本軍が夜陰に乗じて米軍の野営地に進行するという作戦は全く成す術もなく、戦力を失うばかりであった。日本軍は民間徴用の3000名余の義勇軍を次々と失いながらテニアン島の南へと後退を余儀なくしていた。宏次は米軍のテニアン島上陸を知ると、家族で避難を始めた。その夜の照明弾の灯りは米軍の圧倒的な軍事力を住民に知らしめた。近隣長屋の住民は家族単位でカロリナス高原のジャングルに逃げ込んだ。宏次は体の弱った父親の宏全を背負って住民の移動に合わせてジャングルの洞穴を転々と移動した。ジャングルには雨露を凌げる小さな岩穴が多数あり、衰弱した宏全をスコールから避けるように休憩を取りながら移動した。一家は次第に集団に遅れ始めた。砲弾の音が島の北東部から小さな音ではあるが確実に迫っていた。避難する人々はスコールごときで休むことはなかった。スコールに打たれながら誰もがカロリナス大地の果ての断崖下の幾つもの洞窟群を目指していた。宏次一家の前を行く集団の姿が見えなくなって4時間が経っていた。宏次は宏の伝言を思い出していた。そして意を決して父親の宏全に言った。

「他の家族はカロリナス大地の崖下の洞窟に向かった。俺はオカアや赤ん坊の宏光や富美子たちを明るいうちに洞窟に避難させてくる。あの洞窟に降りる崖道は切り立っていて、宏安一人だけでは家族全員を降ろし切れない。俺と宏安が皆を洞窟まで降ろしてくるまで、オヤジはこの洞窟に隠れていてくれ。ここなら雨が降っても濡れないし、米軍もしばらくは来ないから。明日の朝一番に俺が迎えに来るまで隠れていてくれ」

「まだ遠いのか、俺は家に残りたかったのに。お前たちが俺を急き立てるからここまで来のだ。お前たちが難儀させるから俺は長生きしそうもない。どうせ死ぬなら自宅の床の上で死にたい」宏全が疲れた声で言った。

「あんた、いつ迄同じ愚痴を言っているのさ。死ぬ、死ぬばかり言っても始まらんさ。アンタに愛想をつかして宏も出て行ったのだよ」ウサが痺れを切らして怒鳴った。

「宏の親不孝者が、俺に酒を飲ますのが嫌で出て行ったのだろが」

「アンタは何も分かっちゃいないね。アンタが飲んでいた酒は宏が買って隠しておいた酒だよ。この根性ナシが。アンタは家族を道ずれにするするつもりかい」ウサが睨み付けた。

「分かった。先に行ってくれ」宏全はすがるような目で宏次を見て言った。

「この水筒に水が入っている。芋はこれだけしかないが食べて待っていてくれ」そう言って水筒と子供の拳大の芋を渡した。

「宏安、富美子の手を引け、清美は宏光を背負った帯をしっかり締めておけ。オヤジ、日本軍は未だ飛行場の所の陣地で踏ん張っている。米軍がここまで来るには3日は掛かるだろう。この洞穴に隠れておけば雨も砲弾も落ちてこないさ」そう言って洞窟の入り口に立てて置いた宏全が日頃使っていたオオハマボウの杖を渡した。

「宏次、明日の朝には迎えに来てくれよ」哀しそうな眼をして宏次を見上げて言った。

「心配しないで良いよ。米軍は夜間攻撃しないから」そう言って宏全を励ました。

「みんな急ぐぞ。日が暮れては崖を降りきれないぞ」宏次は家族を急かせて先に行った一団の後を追った。70m程歩いて振り返ると洞窟の前の岩に腰掛けてて杖を握っているオヤジの姿見えた。一家は直ぐに右に折れて住民が踏み荒らした草の跡を辿った。一家が宏全を見たのはこの時が最後となってしまった。

 4時間程歩くと前の一団の後ろ影が見えた。崖の端のなだらかな斜面を降りて、干潮で水面が膝の高さまでとなったリーフの上をバシャバシャと海水を弾きながら歩き一番手前の洞窟に入った。避難住民は奥の洞窟から埋めて来たようである。誰もが米兵の侵入から遠い穴から占拠してきたのであろう。この洞窟は満潮時には歩いて出入りが出来ないほどの水深になるようだ。洞窟入口の岩礁には人の肩の高さまで海藻が付着していた。洞窟の中は奥に向かって次第に高くなっており乾いた場所に10畳程の広場があった。既に3組の家族が入っていた。宏次たちの一家がこの日の最後尾であった

「御無礼します」と宏次は方言で言った。

「宏次か」薄明りの中で年配の男が言った。

目を凝らしてみると長屋の世話役の大城清三さんである。

「清三兄さん御無事でしたか」

「俺は48歳であるから徴用は免れた。オヤジはどうした」

「弱って歩くのが遅く、おぶってきたのですが、明るいうちにこの洞窟までたどり着けないので、途中の豪に隠れさせています。水筒と芋と渡してありますから明日の朝に迎えに行きます」

「そうか、宏全さんに最近会っていなかったが、そこまで弱っていたのか」

「宏兄さんがいたらおぶって一緒にこれたけど、去年の9月に志願兵で長崎に行っていますから残念です」

「米軍がカロリナス高地に来るまでには3,4日かかるから、明日行けば連れて来ることが出来るだろう。まあ、今日は十分休んで明日難儀してくれ」

「そうします。俺らは後から来たから分からないけど、兵隊さんはこの洞窟にも来ているかい」

「多分来ているだろう。一番奥の洞窟ではないかな。アイツらには逆らわずハイ、ハイとだけ言って知らんぷりしろよ。どうせ負け戦だ」

「そうします。大丈夫ですかね」

「サイパンでは崖から飛び降り自殺した家族が多いらしいが俺はごめんだ。俺たちは生きて沖縄に帰ろうぜ」

「宏兄さんにも生きて沖縄に帰れと言われました」

「宏はそれが分かるから志願したのだ。多分名護の東江村の中村課長が教えたのだろう」

「そう言っていました」

振り返ると宏安が同じ年頃の小柄な男の子とふざけ合っていた。同級生であるかもしれない。

「宏安、あまり大きな声を立てるな。兵隊に聞こえるぞ」そう言ってたしなめた。

洞窟入口からの光が次第に薄くなり夜がやって来た。潮が満ちてきたようで水位が上がっていた。4組の家族同士が体を寄せ合って明日の読めない夜に震えながら避難路の疲れで泥沼の眠りに落ちて行った。

朝になったらしく洞窟の入り口から明かりが射していた。洞窟の入り口はかなりの深さで海水が入っており、波の打ち返しの影響で水面が上下していた。清三が目覚めのタバコを吸うと煙がゆっくりと上昇して岩の隙間に吸い込まれていった。それを見ていた清三が言った。

「この洞窟はどこかで地上と繋がっているな。この洞窟が酸素不足になることは無いだろう。しかしこれだけの高さがあると登って確かめること出来ないな、豪の出入りは1個所だけだ」

「しかし、出入りは昼と夜の干潮時だけだな」宏次が洞窟の出入り口で波の上下する様子を見ながら言った。

「宏次、お前がオヤジを探しに行くのは早くても2,3時間後だな」

「肩までの深さになったら外に出ることが出来るだろう。飲み水の汲める場所も探しておくから」

「頼むよ、貯水池は直ぐに米軍に占領されるだろからな」

暫らくして、宏次は水の中に入って水面に頭だけ出して洞窟を出て行った。洞窟を出た宏次は崖から少し離れて泳いで崖の登り口に向かった。崖に沿って歩くと波が宏次の体を尖った崖の岩場に叩きつけそうであったのだ。3時間も経てば崖下のリーフの上を歩いて移動できるのだが、父を負ぶって戻る時間が欲しかった。海中から上がった宏次は衣服を脱いで海水を絞り出し、着け直して歩き出した。遠くで砲弾の破裂音が聞こえた。2時間ほどで父の隠れた岩がせり出した場所に着いた。父の姿は見えなかった。

「お父う、何処だ」宏次は2度、3度と呼びかけて岩場の周りを探した。しかし宏全の姿は見つからなかった。

「チクショウ、ここにいろと言ったのに、何処へ行ったんだよ」宏次は額の汗を拭って空を見上げた。太陽が頂点近くに上っていた。岩場の周りのオヤジが歩けそうな場所を30m、60m、100mと捜索の範囲を広げた。何処にも人の気配は無かった。艦砲射撃弾の炸裂音が市街地の方角から断続的に聞こえてきた。宏次はオヤジの奴、待てなくて街に戻ったのだろうかと思って、砲弾の炸裂音のする市街地に向かった。小高い岩の上に登って市街地を見ると既に市中は黒い煙に包まれ、砲弾の爆発する噴煙はいたるところで立ち上っていた。北のハゴイ飛行場を見ると司令塔から黒煙が立ち上り、滑走路には日本軍の戦闘機と思しき残骸が横転していた。宏次は自宅のある製糖工場労働者長屋に急いだ。カロリナス高地の端に来て立ち止まった。そこから1.5km程先に住宅街が見えるのだが既に黒煙に包まれていた。そして砲弾はそこを通り越して住吉神社の丘の近くで炸裂していた。宏次は早足で自宅へ向かう坂道を下って行った。しかし500m程進んで諦めた。宏次の300m先の製糖工場の農機具小屋が砲弾で吹き飛んだのだ。砲弾は何かを狙っているのではなく、一定距離で円を描くように打ち込み、しだいに距離を伸ばしてきていた。いずれ宏次の伏せている場所まで飛んでくるのは明らかであった。宏次は父の捜索を諦めて引き返した。その途中でも「オトウ、オトウ」呼びかけた。しかし聞こえるのは砲弾の爆発音だけであった。

父が昨日のうちに帰宅しているなら助かるまいと思っていた。ふと、兄宏の言ったことを思い出した。「生きて故郷で会おう。お前が俺の代わりに家族を守れ」

宏次は辺りを見回しながら足早に壕に向かった。

 宏次は壕に戻ると母親のウサの耳元で言った。「昨日の場所周辺を丁寧に探したがオヤジは見つからなかった。町の住宅地は何処も焼夷弾で黒煙が上がっていた。砲弾がどんどん近づいて来たのでやむなく引き上げた」ウサは宏光を抱いたまま無表情で聞いていた。そして宏次は清三に小声で言った。

「今はマルポ水源地で水が汲めるが直に米軍が占領するだろう。そうなれば岩場に貯まるスコールの雨水しか当てに出来ないかもしれない」

「そうか、米軍がここまで来るのは時間の問題だな」ため息交じりに清三が言った。

 避難を始めた宏次たち壕の避難家族は次第に食糧が乏しくなった。宏次らは

密林でパンノキの実や青いバナナをもぎ取り、誰かが持参したナベに海水を入れて茹でて皮を剝いて食べた。黒糖は直ぐに食べつくした。ササップ(トゲバンレイシ)やグァバの実は熟しないと食べられず直ぐに尽きてしまった。宏次たちは遠くまで野生の食料を採取しに出かけたが、7月29日は米軍の侵攻に追われて逃げ帰って来た。いよいよ食料が尽きてきた。飲料水もスコールの度に岩場に貯まった雨水を水筒に詰めて換えて飲むことになった。2歳に満たない宏光は食物の吸収が不十分で腹が膨らみ、目が飛び出しそうになり、餓死する餓鬼の様相と変わり始めていた。ウサが言った。

「どこかにサトウキビが生えていなかったかい。サトウキビを噛んで汁を飲ませると少しは栄養が摂れるかねぇ、1本でいいから」

「オカア、俺が取って来るヨ。2,3本ぐらいなら兄さんよりも体の小さい俺の方が隠れ易いから」宏安が言った。

「俺も行く」宏安の同級生の具志堅與一という男の子が立ち上がった

「そうか、行ってくれるか。幸い今夜は十五夜月で明るいから道に迷うことは無いだろう。サトウキビを齧って道草を食うと潮が満ちて洞窟に入れないぞ。いいな」與一のオヤジは鎌を渡した。與一のオヤジは片足が不自由らしく軽いビッコを引いていた。徴兵漏れの原因であったのだろうと容易に推測できた。もう1家族はオヤジが徴兵されたらしく母子のみの3名であった。誰もが無口で他人の家庭の事情を詮索することも、自分の家庭の事情を話すこともなかった。

宏安と與一は午後8時頃に洞窟をでて腰まで海水に浸かって出て行った。満月が引き潮の海を照らして水面がキラキラと揺れていた。二人は陸に上がるとズボンを脱いで海水を絞り出すとパタパタとはたいてから履き直して坂道を登って行った。細い獣道がしばらく続くと小型の車両がやっと通行できる山道に入った。そこから山道をしばらく進むと農道への合流点に先住民チャモロ族の住居跡があった。ヤシの葉を重ねて作った屋根の一部が壊れて垂れ下がり、住居の後ろの壁が無く、久しく住んでいなかったようだ。住宅からほんの少し離れてコンクリート造りの貯水タンクがあった。製糖工場が島内のあちらこちらに作った古い構造物である。蓋が壊れており明らかに用済みに状態であった。住居の屋根の隅に雨水をためる桶があり、この辺りを通る人が利用しているようだった。

「興ちゃん、飲み水があるぜ」宏安はそう言ってタライ状の水溜から両手で水をすくって飲んだ。

「ヒロ、うめーな」與一も両手ですくって飲んだ。農道の片側には遠く遥かに広がるキビ畑が夜風にサラサラと音を立てて右に左に騒めいていた。砲弾の音がはるか遠くに聞こえた。その方向を見ると照明弾の灯りがゆっくりと降下して行くのが見えた。サトウキビ畑の辺りに人影は無く十五夜の月明かりがコーラル敷の農道を照らしているだけだった。

「ヒロ、アメリカ兵のことを知ってるかい」與一が言った。

「なにも」

「洞窟の防空壕に逃げる途中で大人たちが行っているのを聞いたんだ。奴らに掴まると男は金玉を抜かれて種なしにされるらしいぜ」

「ホントかよ。豚じゃあるまいし、それは嫌だな」

「豚はフグリを抜かれる時、ビイビイ鳴くぜ。あれは痛そうだぜ」

「ああ、あれが自分の事だと想像するだけでぞっとするな。アメリカ兵は悪魔かよ」

「そうだよな、フグリを抜かれるくらいなら死んだ方がましだな」與一は真面目な顔で言った。

「それは噂だろ。誰もアメリカ兵を見たこともないし、考え過ぎだよ興ちゃん」

「ヒロ、俺は心配なんだ」

「心配はいらねえよ。興ちゃん」宏安は與一の背中をポンと叩いて笑った。逆光の月明かりの中で與一の表情は良く見えなかった。

 二人はサトウキビ畑に入り太く成熟したものを選んでキビの根元を足で踏んだ。小気味い音を立てて簡単に折れた。根元から身の丈程の長さに膝を当てて曲げるとそこも簡単に折れた。キビは上部に行くほど甘みが薄くなるのだ。4本づつ束ねてキビの上部の葉をもぎ取って上下の2か所を縛った。テニアン島で栽培されているサトウキビの品種は台湾から導入されたPOJ2725と呼ばれる品種である。茎が太く柔らく汁の多い品種だ。只、茎が折れやすく大型台風に弱いのが欠点だ。大戦後の沖縄県では茎が硬く台風被害が少なく、分株力の強い細茎種NCO310が奨励品種として普及した。機械化の普及しない手刈り収穫の時代は大茎種のPOJ2725が南洋群島の奨励品種であった。

「興ちゃん、鎌を使うまでもなかったな」

「そうだね」そう言って與一は鎌でサトウキビを根元近くから鎌で切り取り、さらに2尺の長さで切り分けて1本を宏安に渡した。

「食べながら帰ろうぜ」

「ありがとう興ちゃん」そう言って受け取り、右肩に4本のサトウキビの束を担いでキビ畑を出た。

 二人はキビ畑を出て帰路に就いた。しばらく歩くと宏安は急に腹がゴロゴロと鳴った。丁度道端にオオハマボウの木が生えている場所まで来ると立ち止まり與一に言った。

「興ちゃん、俺クソがしたくなった。先に行ってくれ、チャモロ族の家の前辺りで追いつくから」

「じゃ先に行くよ、ゆっくり歩くから急いで用を片付けな」

宏安はサトウキビの束を草むらに降し、尻を拭くチリ紙の代用品としてオオハマボウの葉を数枚引きちぎって木の裏側に回って慌ててズボンを降ろした。用を足して立ち上がりズボンを引き上げてベルトを締めていると大型車両のエンジン音が聞こえた。遠くからこちらに近づいて来る音だ。やがてキビ畑の角から強力なライトの中に砂埃を巻き上げてこちらに向かってくる軍用車両の1団が現れた。宏安はオオナマボウの大木の後ろに身を潜めた。50m間隔で10数台の大型軍用車両が目の前を通り抜けた。しかも見慣れぬ米軍の車両である。チャモロ族の小屋の前を通過して去って行った。宏安が木の裏から出ようとすると再び車のエンジン音がした。今度は小さな車両である。2台が連続して通り過ぎたがチャモロ族の小屋の前辺りで後尾の1台が止まった。宏安は木陰からゆっくりと這い出して小型車両の見える位置まで移動した。遠目にも二人の米兵が降りて来て何か大声でわめいているのが分かった。するといきなり手にしていた自動小銃を小屋に向けて乱射した。小屋から噴煙が立ちの上がった。米兵たちは銃を肩にかけ小屋を指差して大声で笑ってから車に乗り込んで去って行った。宏安はしばらく呆然と佇んでいたが軍用車両特有のエンジン音が全く聞こえなくなったのを確認して、藪の中から農道に出てチャモロ族の小屋に向った。小屋は柱が1本折れて屋根が傾いていた。

「興ちゃん、いるかい」3度、4度と声を掛けたが現れなかった。月明かりの中で小屋の周りを探したが與一の姿は無かった。小屋の角の桶から溜まった雨水をすくって口にしてサトウキビを担いで農道を歩き出した。宏安は與一が既に先に行っているものと判断して先を急いだ。宏安が洞窟に着いたのは満月が天中にある時刻であった。洞窟前のリーフは完全に干上がっていた。洞窟の中に入ってサトウキビの束を降ろしてから宏次に訊ねた。

「兄さん、興ちゃんは帰っているかい」

「一緒じゃなかったのかい」與一のオヤジが尋ねた。

「俺は急に腹が痛くなりクソがしたくなったので茂みに入り、興ちゃんを先に行かせた。クソを済ませたら急に米軍車両が農道をやって来たのでしばらく隠れていた。それで先に行った興ちゃんに随分遅れてしまったのさ」

「どこかに隠れていなかったか」

「あのチャモロ族の小屋で何度も興ちゃんを呼んで小屋の中も外も探したけど、返事が無かったから先に進んでいると思ったわけよ」

「道に迷ったのかな」

「あのチャモロの小屋は米兵が機関銃でバラバラ撃ったので柱が折れて傾いている」宏安はそう言った。

「ヨシ、俺が明日の朝早く宏安と二人でチャモロ族の小屋まで探しに行ってみる。今日は洞窟の外で寝ることにしよう。満潮になると洞窟から出ることは出来ないからな」そう言って二人は洞窟を出た。洞窟の入り口で與一のオヤジが言った。「すまん、手間をかけてしまうな」

「大丈夫さ、探してくるよ。気にしなさんな」宏次はそう言って洞窟を出て崖の斜面の坂道の途中の岩陰に向かった。

 宏次と宏安は満月が崖の向こうの海に沈む前に崖を出て薄明りの中を歩いた。夜の湿度の高さは足元の草を濡らしていた。ズボンの裾が直ぐに濡れてきた。未だ日が昇らぬうちに獣道を抜けて山道の小道を歩いた。僅かな明かりの中で朝霧に佇むチャモロ族の小屋が見えた。宏安が指差した。二人は急ぎ足になった。

「日が昇ると米兵が来る。急いで探そうぜ。怪我をして隠れているかも知れない」

2人は二手に分かれて小屋の周りを歩き回り近くの茂みに向かって「與一、與一」呼びかけた。返事は無かった。少し離れた場所から「宏次兄さん、いたよー」と宏安の呼ぶ声がした。振り返るとコンクリート造りのタンクの廃墟の上に宏安が立って手招きしていた。宏次がタンクの上に上り中を覗き込んだ。タンクの中にはうなだれて座り込んだ與一がいた。その首から流れ出た血液の跡が胸から腰辺りに染みついていた。血は既に粘っこいペンキのようにかたまっていた。右手に鎌が握られていた。宏次はタンクの中に降りた。深さは腰より少し深い程度で底の部分が割れているのか水は溜まっていなかった。宏次は鎌を注意深く引き剝がして宏安に渡した。そして遺体を持ち上げてタンクの縁に掛けた。タンクから出るとその上に立ってサトウキビ畑の方角を眺めた。風もなくただ朝霧がキビ畑を覆い隠すように漂っていた。宏次は冷たくなった少年の亡骸を担ぎ上げて言った。

「鎌を洗っておけ。テニアンの学校では死ぬことを教えているのか」

「そういう先生もいるみたい。でも俺は死ぬ気持ちは無いね」宏安が答えた。

「誰かの為に自分で死ぬのは馬鹿げている。解るかい」

「うん」宏安は安堵した声で答えた。

「急いで帰るぞ。明るくなると米兵がやって来るからな」

2人は朝霧の漂う山道の中に消えて行った。二人は崖の上の岩陰に遺体を隠してリーフへの坂道を降りて行った。海水は満潮に近く洞窟に戻るには間があった。宏次は上着を脱いで海水で揉み洗いし、担いだ時に着いた血を洗い流して岩場に干した。二人は岩陰にもたれて仮眠を取った。3時間ほどうたた寝をしていただろうか。宏安が宏次に言った。

「兄さん股迄の深さになっている。何とか洞窟に行けるよ」

「お前、與一のオヤジを呼んできてくれ。與一のことを訊かれても俺に聞いてくれと言え。分ったな」

「死んだとも言わないわけね」

「そうだ、お前が言えば洞窟の中は騒ぎになる。與一のオヤジのメンツもあり、洞窟の中にいる他の人に聞かれたくないだろう。分ったな、行ってオヤジと一緒に戻ってこい」

「はい」宏安は緊張した顔で海中を洞窟に向かってザブザブと歩き出した。

具志堅興作は製糖工場つとめであったが宏次とは別の作業班に属しており一緒に働いたことは無かった。工場の機械で足を負傷し右足が不自由になったらしい。木製の杖を携帯していた。機械の操作、保守点検業務に携わっているようだ。

 しばらくして具志堅さんが急ぎ足で海水をかき分けるように歩いて来た。海水から上がり坂道を登る時もズボンから海水を滴らせたままで宏次の所にやって来た。立ち上がって待っていた宏次に言った。

「世話になった。與一は何処だい」何もかも心得ている顔色で言った。

「この上に寝かせてあります」そう言って宏次は坂街をゆっくりと具志堅さんの歩調に合わせるように登った。

崖を登り切って坂の出入り口から少し離れた場所に案内した。

「ここに寝かせてあります」そう言って岩陰の與一の場所を示した。

與一は岩壁に足を延ばし座り、手をズボンの前で組んで首を左に傾けて目を閉じていた。首に刃物傷があった。宏次は顎から首にかけての血糊を岩の窪みの雨水に手ぬぐいを濡らしてふき取ってあった。衣服に血が付いていたが凄惨な自殺の表情は無くなっており、ただ岩場にもたれて昼寝をしているようであった。

具志堅は與一を抱きしめて肩を震わせて声を立てずに泣いた。ひとしきり泣いた後で宏次に言った。

「宏次さんアンタが担いできてくれたのかい。有難う。どうしてこういう事になったのだろうか」

「おれも良く知らないが、宏安がクソを出しに茂みに入ったので、與一君は少し先を歩きチャモロ族の小屋の近くを通った時に米軍車両がやって来たようだ。それで彼は古いタンクに逃げ込んで隠れたらしい。そのまま米軍車両が通過してくれると良かったのだが、最後の一両から米兵が降りてきて面白半分で自動小銃をチャモロ族の廃墟に打ち込んだようだ。この光景を宏安は遠くから見たそうだ。與一君は多分殺されると思い自害したんだと思います。最近の日本軍は自害を名誉だと宣伝していますからね」宏次は話した。

「チクショウ。俺が鎌さえ持たせなければ與一は死ななかったのに」具志堅は跪いた自分の両足の股を叩いて肩を震わせて涙をこぼした。

 30分ほどして宏次が具志堅に言った。

「具志堅さん與一君をどうしますか」

具志堅は顔を上げて如何したもんだろうかと考えあぐねた顔で宏次を見上げた。

「この先の岩のくぼ地に納めて石を積んで埋葬したらどうですか。手伝いますよ。後で家族に手を合わせてもらえば良いでしょう。今は戦時中です。俺らもどうなるか分かりません。生きて終戦になれば考えると良いでしょう」

「うん、手伝ってくれるか」具志堅はそう言って立ち上がった。

宏次と具志堅、宏安の3名で與一の亡骸を岩のくぼ地に移動して大小の石で囲って石塚を造った。3人で手を合わせて洞窟に戻った。洞窟の前のリーフは完全に干上がっていた。

 この日の昼過ぎに一番奥に陣取っていた兵隊がぞろぞろと出て崖の坂道を登って行った。皆が壕の前に出て見送った。最後に将校の一人と思しき男が宏次と達の集団の前で立ち止まり小声で言った。

「米軍は民間人を殺すことは無い。こんな赤子連れでいつまでも壕の中に隠れて餓死するより白旗を上げて投降しなさい。僕たちは二度と戻ってこないから君たちは自分で判断しなさい」そう言って何事もないかの様に坂道を登って去って行った。4家族は壕の中に戻ってから話し合った。

「どうしようかな」清三が言った。

「俺は出て行くつもりだ。日本軍と同行するのはごめんだ。死ぬのは息子の與一一人で十分だ」具志堅がそう言った。

「それが良い。水もない、食い物も無く餓死するくらいなら、せめてタロイモが食える場所で米兵に撃たれた方がましだな」宏次が言った。

「ヨシ、白旗を上げて町に戻ろう。いずれこの辺りは最後の戦場となる。その前に出て行こう。荷物をまとめて出発の準備だ」清三が言った。

「宏安、崖に上って兵隊共の行き先を調べろ。彼らと同じ道を通っては危ない」宏次が言った。宏安が走って洞窟を出て行った。

「清三さん、俺が合図したら壕を出て宏安たちがサトウキビを取って来た道から投降しよう。あそこの農道は米軍の占領下のようだ」宏次も壕の外に出て行った。清三は宏安が持って来たサトウキビにフンドシを括り付けて2本の白旗を作った。

「宏次が先頭で俺が最後尾に白旗を担いで投降しよう」清三はそう言って白旗を持って外に出た。

海水をバシャバシャ跳ねて宏安が入って来た。

「兄さんが坂の上で待っている。みんな急いできてくれ」そう言って急き立てた」

清美が宏光を負ぶって背負い布でしっかりと体に結わえた。膝まで来た満ち潮の波を蹴散らしながら登坂にたどり着いた。宏安は走って坂の上に登って行った。そして大きく手招きして皆を呼んだ。坂の上に宏次が待っていた。

「具志堅さん少しだけ待っているから、家族で與一君との別れをしてきてください。この次に会えるのはいつの日か分からないから」

「すまん、少し待ってくれ」そう言って家族を促して急ぎ足で去って行った。

少し離れた場所から家族の泣き声が聞こえてきた。誰もが明日の我が身のことだと思って苦しくなった。

 20名の集団は獣道から山道に入りチャモロ族の屋敷跡にたどり着いた。宏次は具志堅に耳打ちして貯水タンクに向かって二人で手を合わせた。農道に出ると町に向かって歩き出した。遠くで銃撃音が聞こえたが誰も気にする様子もなく歩き続けた。しばらく歩き太陽がキビ畑のはるか向こうの雲を茜色に染め始めた頃に小型ジープが砂埃を上げて近づいて来た。一行の前で停まると二人のMPの腕章を付けた男が降りて来て英語で何やらまくし立てた。一行に兵士が混ざっていないことを確認したらしくついてくるように手招きしてジープに乗り込んだ。ジープはノロノロと進んだ。しばらくすると大型車両がやって来て全員が押し合って積み込まれるように乗り込んだ。車は焼け跡の残る街の一角の有刺鉄線が張り巡らされた構内に止まり宏次たち一行が収容された。宏次一家のテニアンでの新しい生活の始まりとなった。テニアン島の戦争は2日後の8月2日に戦闘が終結した。

4 帰郷

(1)

名護町宮里集落に米軍作った臨時飛行場。左から右の海に向かって飛び立つ(1946年)

昭和19年8月2日、アメリカ軍はサイパン島に続いてテニアン島を制圧した。8月10日にはマリアナ諸島の4島で最も南に位置するグアム島も陥落してすべての島々がアメリカ軍の管理下に置かれた。テニアン島とグアム島の間に位置するロタ島にはアメリカ軍は空爆と艦砲射撃にとどめて上陸しなかった。軍艦、戦闘機を持たない陸海軍の3,000人に満たない日本軍には反撃能力は無く、昭和20年9月2日に日本がアメリカに降伏した戦艦ミズリー号上の調印によって日本軍は軍備を放棄して日本へ送還された。アメリカ軍はミクロネシア諸島、マリアナ諸島に置いて飛び石攻撃を行っており、日米交戦に大きな影響を与えない島々との交戦を避けて不用意な米国軍の消耗を避けて日本本土に進軍していた。秀仁ハサマ小一族の渡ったポナペ島は米軍による市街地の空爆を受けるも地上戦闘は無く、ロタ島と同じく日本が米国に降伏調印した後に米軍が上陸した。住民の被害はほとんど生じなかったのである。大戦から70年を経た今日ラグーンに囲まれたポナペ島には日本軍の駐留した痕跡は無く、熱帯の自然植生は沖縄県民が住んでいた居住跡すら覆いつくしているのだ。

宏次を頭にマガイハサマ小の一家は1年半を米軍政権下で暮らすことになった。鉄条網の中に収容されカーキ色のターフやテントの中で暮らした。食料は不自由することなく栄養出張で餓鬼と化していた宏光は、脱脂粉乳のおかげで生き延びることが出来た。テント暮らしから蒲鉾状のコンセット・ハウスと呼ばれるトタン造りプレハブ建築物に変わった。学校も再開した。小中高校の6-3-3制度のアメリカ式教育は南洋群島から始まったのである。勉強嫌いの宏安は尋常高等科の卒業となった。このコンセット・ハウスは戦後の沖縄の学校でも各地で利用された。

宏次は飛行場や道路建設、各地の公共施設の建設に携わった。給料は米ドルが支給された。USOと称する米軍専用のショップがあり、食糧雑貨など様々な商品が購入できた。耕作も奨励され、サトウキビに代わって豆類、トウモロコシ、ナス、芋類が生産され米軍の統制下で住民の食料に供された。清美は洋裁店に勤めていた経歴から様々な服を作るテーラーハウスに下働きに出た。宏安は料理が好きであり厨房での下働き出た。富美子は中学校に入学し、ウサはもっぱら宏光の子守で暮らした。住民の楽しみは米軍が上映する屋外映画、中学生が行う野球の見学であった。米軍は中学生に野球のグローブ、バットなどの用具を支給してルールを教えて娯楽を作った。学校教育にも力を入れて英語も学科に加えた。日本軍の戦争教育にウンザリしていた沖縄県人はアメリカ式の社会生活基盤に溶け込んで行った。桟橋には日本の貿易船や漁船の姿は無く、米軍の輸送船が弾薬や建築資材、食糧その他の様々な物資を運び込んでいた。ハゴイの飛行場は再整備されB-29と呼ばれる爆撃機が連日飛び立って夕方に帰って来た。そしてB-29の数が急速に増えていった。航続距離の長いB-29の行く先はフィリピン、台湾であった。年が明けると故郷の沖縄に飛び立って爆撃を繰り返した。宏次ら沖縄出身の者には知る由もなかった。4月に入って沖縄が陥落すると日本本土向けに飛び立つようになった。淡々と宏次たち一家のテニアン島の生活が過ぎて行った。製糖会社が閉鎖されて多くの従業員が職を失った。宏次たちは沖縄に引き上げる以外に次の生活の目途が立たぬと解った。しかし宏次たちの暮らすテニアン島での戦争が終結しただけで戦争は続いていた。米軍は休みなくB-29爆撃機を飛ばしており、何処かで日本軍を攻撃しているのは確かであった。そして日本軍の戦闘装備を含めた軍事能力は米軍の圧倒的な物量の前に成す術もないことを理解させられていた。この島で暮らす誰もが日本が米国に勝てぬことを理解していたが、いずれの日か敗戦を迎えることを口には出さぬだけであった。それ故、皆の関心はいつの日に帰郷できるかだけであった。米軍のおかげで飢えることはないが、さりとて明日に希望を見出すこともなかった。ハゴイ飛行場では時折トラブルが発生して住民を驚かせた。爆弾を積みすぎたB-29爆撃機が離陸直後に海に落ちたことや、様々な機種の艦載戦闘機が中継の離着陸をすることであった。8月に入った直後に島内に非常サイレンが鳴り渡った。B-29が特殊爆弾を積んで2時間後に緊急着陸する。住民は家の中に隠れるようにとの放送がジープで呼びかけられた。もし爆弾は爆発すればこの島が消えて無くなるとの話が伝わった。米軍の車両が慌ただしく走り回ることからただ事ではないと宏安は思った。しかし具体的に成す術は無かった。2時間が過ぎても何事も発生しなかった。やがて緊急事態解除の放送が流れて安堵した。住民はB-29の攻撃が只ならぬ爆撃であることだけは分かった。その後B-29はテニアン島から飛び立って8月6日に広島、8月9日に長崎に原子爆弾を投下した。その結果として日本がポツダム宣言を受け入れて敗戦を決定づけられたのだ。テニアン島の住民がそのことを知ったのは1年後にそれぞれの故郷に戻ってからであった。長崎県大村の軍事訓練基地で暮らす宏に人生の幸運が失われておれば、千載一隅の不運がテニアン島からもたらされていたのかも知れない。日本からの出稼ぎ移住者にとってある意味での南国の楽園であったのかも知れない。贅沢ではないが食い物に困らず、明日のことを考えることを拒絶されたテニアン島の空間は時の流れから遮断されていたのだ。南国の楽園独自の時計が回っていた。

日本の時計が動き始めたのは昭和21年1月に入ってからである。前年の8月14日に日本はポツダム宣言を受諾し、翌日15日正午の天皇陛下による終戦の玉音放送がなされた。このニュースはテニアン島の住民にも伝えられたがそこに暮らす日本人の日常は変わらなかった。海外からの日本人の帰国は年が明けてからであった。テニアン島の沖縄県民2052名が帰国を始めたのは昭和21年1月から4月までだった。

マガイハサマ小の一家がテニアン島から離れたのは3月の中頃に入ってからであった。那覇の港で下船して米軍の幌付きトラックで名護に向かう途中は焼けた市街地とバラックの住居であった。1年半前のテニアン島市街地の風景を思い出し慄然とした。名護に着くとヒンプンガジュマルの前で降ろされた。迎えに来たのはハサマ本家の恵美子であった。焼け跡に建つバラックの通りを抜けてハサマ本家に着いた。本家の頭領の宏善さんが迎えてくれた。ハサマの家は何とか住める状態のなっており、かって馬小屋であった納屋にしばらく寝起きすることになった。宏次、宏安、清美は早速自宅の様子を見に行った。自宅の東隣りから海岸に向かって米軍の臨時滑走路が幅100mでヒルギ原入り口から海岸へと400mの距離で平坦に均されて伸びていた。屋敷の防風林が折れたままで雑然としており、自宅の屋根はカヤが随分と吹き飛んでいた。

「俺たちが明日から住むことは無理だが、修理すれば何とか住めるだろう。取りあえず明日から荒れた屋敷の片づけをしよう。家の修理はその後からだ」と宏安と清美に話した。壁に「無断立ち入り禁止・仲村渠宏善(ハサマ本家)」と書かれた板が打ち付けられていた。ハサマ本家の頭領・宏善さんが一族の住居を巡回管理しており、南洋群島から帰還する一族を待っていたのだ。

4月入ると秀仁ハサマ小一やその他の2家族も引き上げてきた。全ての南洋移民家族が戻って来た。戦死したのはマガイハサマ小の宏次の父である宏全だけであった。宏次らが帰郷した1週間後の4月の初めに台湾に出征していた父宏全の弟の宏林が戻って来た。宏次と清美が迎えに行った。宏次が宏林を最後に見たのは小学校6年の時であった。宏林の顔を覚えているのは宏次とウサだけであった。宏林が幌付きの軍用トラックから降りて出迎えの人々を見渡した。誰もが視線を反らした。宏林の背丈も体躯も大柄ではないが、やや細身の体を日本軍の軍服に包み、足元は革製の長靴であった。敗戦後8カ月が経って日本軍の軍人の姿は完全に消えてしまったが、宏林の姿は日本軍が威勢を誇った敗戦前の姿であった。しかも民間人が最も恐れた憲兵その者の姿であった。腰の軍刀、拳銃、肩と胸の階級章を携えていないだけであった。宏林の痩身から台湾での長い間の憲兵隊伍長としてのオーラが滲み出ており、出迎えの人々の心に少し前の思い出したくない記憶を呼び戻していたのだ。宏次が駆けよって声を掛けた。

「宏林叔父さん、ご無事でしたか、迎えに来ました」そう言いて僅かな荷物を受け取った。清美は恐ろしい物を見るように只「お帰りなさい」と答えるだけだった。

「皆は元気か」低く透る声で宏林が言った。

「婆様はシパマタの防空壕で亡くなり、父がテニアンで亡くなりました。兄は志願兵で長崎の海軍基地に行って未だ戻りません」宏次が答えた。

「そうか、ご苦労さんだったな。家はどうなっているか」

「屋敷の隣から米軍の飛行場が海に向かって作られていましたが今はありません。家は燃えてはいませんが屋根のカヤが飛んで雨が漏るので住めません。家族は先週テニアンから引き上げて来てハサマ本家の馬小屋跡に泊まっています」

「そうか、宏善さんに挨拶してから後で家に行ってみよう」そう言って背筋を伸ばして大股で歩き出した。宏林の体には出迎えの人々が忘れかけていた敗戦前の治安維持を任務とする帝国軍人の特有の狂気の空気がまとわりついていた。その恐怖の影がゆっくりと近づいて来ると、出迎えの人々の群れがサッと退いて退路を作った。清美は恐々と宏次の後をついて行った。

 宏林はハサマ本家の頭領宏善さんに帰還を報告すると宏次を伴い実家に向かった。滑走路は自宅の東隣りの1区画3筆の敷地の7区画が南北に均されており、北はヒルギ原の水田地帯入り口の丘陵地まで、南は名護湾の浜辺へとフラットになっていた。既に役所の用地課の仕事であろうか道路と屋敷の境界杭が打たれていた。幹折れしたオオハマボウに囲まれた屋敷はそっくり残っていた。井戸も土砂で埋まることなく残っていた。井戸に落ちたオオハマボウの落ち葉などのゴミを取り除けば飲み水として直ぐに使えそうであった。住宅の茅葺屋根の至る所が吹き飛んでおり補修が必要であった。屋敷の角に宏次が枝打ちしたオオハマボウの枯れ枝が積まれていた。

「宏次、明日から修繕することにしよう。屋根はススキを刈り取って乗せ、その上に米軍の野戦用テントカバーを掛ければ雨漏りは塞げるだろう」そう言って家の中を物色した。鎌、鍬等の農作業具の他、ナベ、釜土がそっくり残っていた。農機具はウト婆さん、宏、宏次の3名分である。

 翌日から自宅の修理に取りかかった。ススキはウタ婆さんの実家シパマタ屋の裏山から刈り取り、ハサマから借りた荷車で運んだ。軍用品の払い下げ品の落下傘糸で括りつけて屋根に乗せた。その上に米軍の野戦用テントを被せて更にススキを乗せた。破損した壁もススキを束ねて張り付けて補修した。補修作業が終了すると宏林が言った。

「1,2年もすると日本本土から材木が入って来るだろう。その時に少しづつ修繕すればよい。次は井戸のゴミを取って飲めるようにしよう」そう言って井戸に向かった。宏次がハサマから借りてきた梯子を伝って井戸に降りた。地表から3m程で深さが1m程であった。竹籠でオオハマボウの落ち葉をすくい取り、ハサマから借りてきた釣瓶で5,60回ほど水をくみ上げると澄み切った水に変わった。この井戸は太い地下水脈が走っており幾らくみ上げても減らないのである。只山手の湧水に比べると僅かに塩分が混ざっていた。一家は宏林が帰還して4日後にハサマの馬小屋から自宅に移った。ハサマを出るとすぐに食い物の確保が急務になった。米軍からの配給米では十分な食料を確保できなかったのだ。

 引っ越しを済ますと宏林が言った。

「さて、戦前の様に田畑を耕して稲と芋を植えなければいけないが、田畑はどうなっているかな、宏次」

「私が高等科を卒業するまでは宏兄さんとで、ナザキ原の畑150坪、桑木の下(クァーギノシチャ)の畑と水田が400坪、石真埼(イシマサキ)の水田500坪、それに婆様が新たに買った田通し(タードウシ)の水田120坪がありました。芋と稲を作付けしていました」

「新しく買い取った田んぼもあったのか」

「はい、宏林叔父さんの仕送りを貯めて模合のお金で買ったと宏兄さんが話していました」

「そうか、明日から皆で手入れを始めよう。1期作目の時期は過ぎているから今年は2期作だけの水稲栽培だな」宏林が言った。

「今からイシマサキの田んぼで種撒きをすれば5月に田植えが出来るから、9月には収穫できるだろうね」ウサが指を折って計算した。

「種籾はどうする」宏林が言った。

「ハサマの宏善が一門の稲作の為に倉に種籾を残してあるから早く田んぼを耕して種蒔きしなさいと言っていた」ウサが言った。

「クワギノシチャーには芋を植えることにしよう。畑の状態を調べるから宏次これから案内しなさい」宏林はそう言って立ち上がり土間に行って軍靴を履いた。宏次はテニアン島から履いてきた米軍の軍靴を履いて表に出た。宏次は壁から鎌を取り出して腰の帯に差し込んだ。屋敷の防風林の片づけをするときに鎌を研いであった。宏林は宏次の鎌を見て言った。

「家には畑仕事で使う農機具は揃っているのかな」

「家の後ろの壁に掛かっていましたので手入れすれば使えると思います。此の鎌は先日屋敷のオオハマボウの枝打ちをするときに研ぎました。全部手入れしておきます」そう答えた。

2人は飛行場跡の平坦な道をヒルギ原の水田地帯に向かって歩き出した。人気の無い空き地には杭が打たれ、秀仁ハサマ小、金松屋、ソセイ屋、宏文屋等と書かれていた。ヒルギ原の水田地帯には既に耕された水田や芋が作付けされた畑があったが、雑草の生い茂る畑も少なくなかった。ごくまれに既に1期作の田植えが終わった水田があった。灌漑設備の整備されていないこの頃は広い水田地帯が同時に工作を始めなければ水の供給が出来なかった。山裾の湧水のある場所の水田だけが単独で水稲栽培を出来たのである。ヒルギ原が豊かな水田地帯に変わるのは翌年の昭和22年春からであった。

 二人はクワギノシチャーに着いた。畑の呼び名は畑の後背地に桑の木が密生していたからだ。養蚕をする方が植えたらしいが途中で放棄したらしく、時々ヤギを養っている人が枝葉を刈り取っていくだけだった。畑は雑草に覆われており、所々にサツマイモの蔓が混じっていた。この場所は湧水があるも山の影で水稲の出来は良くなかった。二人はイシマサキに回った。この場所は4筆からなり1筆を苗代に使っていた。水田は1年も放棄されており雑草が繁茂していた。

「水田は天地返しをして水を満たし、雑草を腐らせてから再び均して田植えの準備をしよう。そこの苗代にする場所だけを先に手入れしておけば良いだろう」宏林が言った。

「そうですね、先ず三つ刃鍬で耕すことから始めましょう。それが終わったらクワギノシチャーの畑を耕して芋の植え付けをしましょう。雑草の中に芋の蔓があったので芋の苗が獲れるかもしれませんね」宏次が答えた。

「宏次、婆さんが新たに買った田んぼは何処だ」

「この先のシパマタの畑の隣です。宇茂佐の人から買ったそうです」

2人は細い農道を歩いてタードウシの水田に向かった。

「あれ、宏林叔父さん、誰かが既に田んぼの半分ほど耕してある」宏次が言った。タードウシと呼ばれるこの一帯でマガイハサマ小の水田の半分とその角向かいの水田の全部が耕されて畝上げされており、芋を植える準備がされていた。この水田は耕土が砂交じりで浅く、稲の出来が悪かった。2期作目には畝上げして芋やソラマメを植えるが常であった。

「宏次、ほんとにこの田んぼかい。テニアンに渡って5年も経っているから間違っていないかい」

「いいえ、3年間程この田んぼを耕しましたから間違いません」

「この耕された隣の田んぼは誰のかな?」

「確か公民館のもっと東側の比嘉さんとか言っていました。うちのオヤジよりも随分年上の方で、私や兄さんと同じ年頃の人はいませんでした。いつも一人で働いていました。この方も私と同じ頃に娘の家族を頼って南洋に渡ったと聞いた覚えがあります」

「その方の身内が間違ってうちの畑も耕したのかね」

「生きていればそろそろ南洋から引き上げて来ると思いますが」

「うちの田んぼを耕した人に訊くしかないな」宏林がそう言った。

2人は田んぼ畦をひと廻りしてイシマサキの田んぼに向かって引き返し始めた。少し歩くと後ろで自転車のブレーキ音がしてスタンドを立てる音がした。二人は振り返って音のした方角を見た。一人の男が鍬を担いでタードウシの田んぼに降りて行った。

「宏次、あの男に訊いてみよう」宏林がそう言って引き返した。

宏林は鍬を振るっている若い男に向かって言った。

「もし、そこの兄さん、チョットよろしいかな」

男は鍬を置いて振り返った。少し傾いた日差しの中に憲兵隊の軍服姿の男が立っていた。

「はい、何でしょうか」

「そこは私の畑だが、君は誰の指示でその田んぼを耕しているのかな」宏林は長い軍隊生活で使い慣れた憲兵が容疑者を尋問する口調で訊ねた。

「はぁ」とその男が怪訝そうに返事した。

「はぁ、ではない。誰の指示でこの畑を耕しているかと訊いているのだ。私は2か月前まで台湾第二連隊台北支部憲兵隊に所属していた仲村渠宏林伍長だ。日本国陸軍大本営からの連隊解散命令を受けて帰国したばかりだ。明確に答えなさい」左手を腰に当て右手でその男を指差して言った。

「はぁ、いえ」

「バカ者、私が質問した時はそんなだらけた姿勢を取るんじゃない。直立不動の姿勢で立て、貴様はそれでも日本男児か」辺りの水田地帯に響き渡る声で叱りつけた。

いつの間にか夕暮れの中を帰宅する農家の姿が4人、5人と立ち止まって遠巻きにこの様子を眺めていた。

「君は地元の人間か」

「はい、宇茂佐の者です」

「この辺りは私と同じ部隊に一時期所属していた陸軍の山部隊の村山大尉が管理していたと聞いたが、ロクな教育もなされていなかったようだな」

宇茂佐の男は直立不動で右手を上げて敬礼の姿勢を取っていた。

「二度とこのような間違いはするな、半年前の私ならお主のような真似をした台湾の原住民はすぐさま拳銃で撃ち殺すか、サーベルで首を打ち落としていたはずだ」宏林は男の目を見据えて本物の殺気を飛ばして言い放った。震えている男に追い打ちをかけるように言った。

「おぬし、戦争に負けて運が良かったな。今のワシの腰には拳銃もサーベルも無いことを有難く思いたまえ。下がって良し、戦争を終結した天皇陛下のお言葉に従って今日の所は不問に処する」宏林は男を指差していた右手を右方向に大きく振って畑から出て行くように指図した。男は震える足取りで歩き始めた。すると再び宏林は大きな声で言った。

「バカ者、シャキッとしろ、鍬を忘れておる」

男は鍬を手にすると急ぎ足で田んぼから上がり、あぜ道を通らずに隣の水田を駆け足で横切って自転車にたどり着くと、自転車を反転させて走りながら飛び乗って走り去った。

「宏次、帰るぞ。明日から耕さなければならぬ畑が沢山ある」そう言ってイシマサキの方向に歩き始めた。宏次は宏林の後ろに続いた。先ほどの宏林の振る舞いを見ていた男達は農道の端に寄って道を開けた。二人がすれ違う時に直立して頭を下げて見送った。宏次はテニアン島で見た兵隊たちとは異なる日本陸軍の本物の兵士の恐ろしさを宏林の中に見た。宏林は戦争が厳しくなる10年も前から職業軍人として国内から中国、台湾と転戦した生粋の憲兵であった。宏林の噂は次第に宮里、宇茂佐、屋部、為又の屋部川周辺の集落に広まった。この事件はこれで終わりでは無かった。宏次たちの角向かいの水田の比嘉某がポナペ島から帰郷してから事件は再発した。宇茂佐の男は宏林にたしなめられて無断耕作地から立ち去れば良かったが、既に芋を作付けしたこともあって比嘉某の帰郷によって争いが再燃した。既に芋の収穫期に入った畑で二人の争いがおこり、誰が仕掛けたかはっきりしないが鎌を持って争い、傷を負った二人の中で死んだのは比嘉某であった。宇茂佐の男は琉球民政府の警察に収監されたがその後の動向ははっきりしない。只結果として残ったのは主のいなくなった畑だけであった。親族の誰も争いで死んだ人間の土地を相続することは無かった。主を失って半世紀を経ても未耕作地となった水田は、近隣の人々から「主獲り田」と呼ばれ、いつの間にか大蔵省管財課に登記されてしまって現在に至っている。

 食料の乏しい生活は9月で終わった。10月からは大戦後初めての水田から収穫があり、水田跡は冬の間に豆や芋、トウモロコシを植え付けた。そして翌年の2月からは例年の2期作の農耕周期に落ち着いた。為又にあるハサマの水田も借りて耕作面積を増やした。日本本土からの集団帰郷者が増える中で宏の行方は分からなかった。そして2期作の稲の植え付けが終わってから新しい変化があった。戦中戦後に流行した結核に羅病していた宏林は、流行性感冒の風邪をこじらせて肺炎で急死してしまった。6月の終わりごろのことである。宏次達兄弟姉妹にとって宏林は風の様にやって来て風の様に去って行った風神にも似ていた。宏林と入れ替わるように宏が帰郷した。宏林が位牌となって3か月後の9月初めの2期作の収穫が始まる頃であった。

(2)

長崎の原爆投下の瞬間。香焼島より撮影(1945年8月9日)

 宏が日本海軍の輸送船に乗って出航したのは昭和18年9月10日であった。アメリカ軍は前年の昭和17年11月下旬にマーシャル諸島の攻撃を始め翌昭和19年1月末には全域の島々を制圧してミクロネシア連邦のトラック島への侵攻を始めていた。マーシャル諸島とトラック島の間にあるポナペ島は攻撃から外した。米国海軍は飛び石作戦とし島々を一つ置きに制圧して行ったのである。トラック島は2月17,18日の2日間で陥落した。その後米国軍は4カ月間の軍備の充電期間を置いて昭和19年6月15日からサイパン島の攻撃を開始した。テニアン島、グアム島とマリアナ諸島を一気に攻撃して、8月10日には3島全てを制圧したのである。マリアナ諸島、ミクロネシア諸島、マーシャル諸島等、南洋群島に配備された日本海軍の艦船も航空機も全て壊滅してしまった。台湾、沖縄、中国沿岸部の戦艦のみとなった。

 台湾を経由してテニアン島で拾った4名の沖縄出身者を乗せた海軍輸送船が長崎県佐世保に着いたのは9月25日であった。4名は小型のタグボートで大村湾を横切って大村海軍訓練施設に送られた。大村の訓練所はこの年に滑走路が整備され、陸軍から海軍航空兵の訓練所に変わったばかりであった。この年の志願兵はテニアン島から来た4人の他10数名がいたが、テニアン組が最後の志願兵であった。航空兵の訓練施設だが少数の軍艦の乗組員も合わせて訓練が行われた。大村湾の西の佐世保の丘に夕日が傾いた頃、訓練所の船着き場にタグボートが着岸した。背嚢を背負って桟橋に飛び降りた4名は教官らしき男に引率されて宿舎に向かった。宿舎に入ると入口の鐘をガラン、ガラン、と鳴らした。ベットに寝そべっていた訓練兵が飛び起きて2列に並んだベッドの真ん中の通路側に直立して入り口に向かって敬礼をした。

「舎監は誰だ」

「私、山口俊平であります」背の高い男が半歩前に出て敬礼をして答えた。

「山口、志願兵4名だ。お前が面倒を看ろ。明日の訓練から参加させろ。これから主計課に出向いて必要な品を調達してくれ」

「ハッ、承知いたしました」

「ヨシ、直れ」そう言って男は出て行った。

「君たち名前は」山口が言った。

「沖縄出身で南洋群島テニアンから来た新垣勝です」

「同じく照屋篤です」

「同じく仲村宏です」

「同じく浦崎保です」

4名は直立して敬礼した。

「君たちが最後の入隊だと聞いている。寝る場所はそこを使いなさい」山口は奥のベットを指差した。空いたベットが6台ほどあった。背嚢をベッドに放り出すと山口に伴われて主計課に向かった。そこで事情を確認して署名した。その後衣服や洗面具などが渡されて宿舎に戻った。その日の夕食から軍隊生活が始まった。4名は白いズボンに白いTシャツ姿に着替えてベッドに腰掛けた。着替える時に赤銅色に全身が日焼けした体を部屋の先輩達が異人を見るように眺めていた。

「ヒロシ、似合っているぜ(ニアトンドー)」勝が糸満訛りの方言で言った。

「そうかい(アンヤガヤ)」と宏が名護訛りの方言で答えた。

「そうだな(ヤンヤー)」他の二人が笑って言った。

「こらー、訳の分からぬ言葉で喋るんじゃない。お前らは南洋の土人か。日本語を使え」と怒鳴った。

4名は直立して

「すみません、日本語を使うようにします」

「気を付けろ。海軍の訓練所は何かといえば精神棒で尻を殴られるぞ。明日から早速上官の餌食になるだろう」山口が言って笑った。

4名は精神棒が何であるか翌日から頻繁に体験することになった。

 ラッパが鳴った。皆が急いで靴を履き外に向かった。

「夕食だ。ついてこい」山口が言った。

4名は山口の後に続いた。食堂に入ると椀と箸を手に列に並んだ。厨房から次々を椀に雑炊を入れて渡した。4人が山口の後ろから動作を真似て席に着いた。山口は息もせぬように素早く雑炊をかき込んで席を立った。その席に次の兵隊が着席した。山口が言った「軍隊では早く食うことも訓練だ。急げ」そう言って出て行った。顔を上げると年長の兵隊が言った。

「こら、新米共いつまで飯を食っているか、敵が襲来しても飯を食うつもりか」

「4名は慌てて何も噛まずに呑み込んだ」暑さで喉が痛み、涙が出てきた。直ぐに立ち上がって空の椀を手に立ち上がった。

「何喰ったか分からないな」マサルが方言で呟いた。

「そうだな」ヒロシも小さく方言で言った。

4名は今後に不安を感じながら宿舎に戻った。テニアンで気楽に過ごしてきたテニアン組は息苦しさを感じて眠りに落ちた。

 翌朝の未明の5時にラッパが鳴った。何やら周りが騒々しいのでテニアン組はノソリ、ノソリと起き出した。

「朝から騒々しいな」マサルが方言で呟いた。

「コラア、テニアン組、起きて着替えて表のグランドに集合だ」山口が大声で言った。4名は飛び起きて着替えて山口の後に続いた。グランドでは訓練兵が整列していた。テニアン組は最後尾に並んだ。誰もが顎を引き直立して全面を見ていた。三尺の樫の棒を肩に担いだ教官らしき男が整列した訓練兵の周りを歩いて点検した。そして「点呼始め」と声を掛けた。1,2,3,4と大きな声が右から左、そしてターンして左から右へと巡回した。最後尾のテニアン組で点呼がつっかえてしまった。

「オラア、そこの色の黒い4人組、1歩下がれ」教官が大声で言った。

テニアン組は言われるままに1歩下がった。

「気を付け、精神が緩んでいる。鉄槌を入れてやる」教官はそう言うと樫の木で作られた三尺棒を振り上げて尻に打ち込んだ。パーンという乾いた音が朝靄の中に響いた。20名の3組が柔軟体操、ジョギング、腕立てなどの規則訓練を行って宿舎に戻った。

「クソ、尻が赤くなっているぜ。あのクソ教官め、マサル、お前平気な顔をしているが痛くないのかい」

「どうってことネェヨ」

「お前、神経が無いのかい」タモツが言った。

辺りを見回して人気が近くにいないことを確認してからマサルが言った。

「俺は糸満にいる頃手習い(空手)をしていたのさ。毎日師匠から蹴られていたから何ともないさ」

「そうかよ、俺の村にも上地武士がいたけど」ヒロシが言った。

「流派は違うけどな、1週間も鍛錬するとあの程度の棒で殴られたぐらいでは痛くも無いさ」マサルが笑った。

「サンチン立ちと言って爪先を内側に入れて尻と腿を締め上げるのよ」そう言ってサンチン立ちで歩いて見せた。

「みんなもやってみな。直ぐに慣れるから」マサルに言われて3名は練習を始めた。時折マサルがそれぞれの尻や太ももを蹴って締まり具合を点検した。宿舎に人がいなことを見計らって尻を蹴ってサンチン立ちの鍛錬をした。2週間もすると精神棒のことが気にならなくなった。新兵の基礎訓練はカッター船を漕いで大村湾を一周することや遠泳等があった。海育ちのテニアン組は全く苦にならなかった。銃器類の訓練では手榴弾の投的方法や三八式歩兵銃扱い方を訓練したが実際に弾丸を装填して発射することは無かった。この頃から弾薬節約が始まっていたのである。手榴弾は信管を叩いて遠くへ投げるだけだ。銃は取り扱いだけで撃鉄で空の薬莢を叩くだけであった。弾が実際に命中したかどうかはどうでもよくなっていたのである。時折、武道場で銃剣道の訓練があった。三八式銃に銃剣を取り付けると5尺(150cm)となった。5尺の木製の模造銃の先に丸いタンポンを着けて突き合うのである。陸軍の基本訓練の一つであるが、大村の海軍訓練場の前身が陸軍訓練場であったことから練習器具が残っており、新規志願兵の訓練教科の一つになっていた。

 マサルはこの時に思わぬ成果を見せた。訓練生の勝ち抜き戦ですべての者を倒したのである。只、試合が終わってから教官に指摘された。

「お前の銃の持ち方は間違っておる。右手で銃床を握らねば引き金を引けぬが、お前は左手で握っておる。お前は左利きか。日本の銃は全て右利き用に製造されておる。お前の銃剣術は戦闘では使えぬ」

「はあ、この方が扱い易かったものですから」マサルはそう言って頭を下げた。

マサルの銃剣道は琉球古武道の杖術であった。右手で棒の先端から2尺の場所を握り、相手の付いてくる棒の中ほどを自らの右手を外側に返すように回転させて自分の棒で絡めて抑え込み、返す手で空いての胸を突くのである。棒術の基本でもある。教官も対戦相手も琉球古武道のことを知らなかったのである。テニアン組はマサルが棒術を応用していると解っていた。棒術は古くから各地の村に武術としてはなく、村の祭りの一つとして伝わっていたのだ。

3カ月ばかり基礎訓練を受けた後テニアン組は専門の機関に配属された。

宏は通信兵、保は機関兵、篤は厨房室、勝は甲板員に配属された。海軍の訓練はもっぱら航空兵の増強が主力であり、志願兵の多くは中学、師範学校、大学中途の学歴であり、尋常高等科卒はテニアン組だけであった。多くの新規訓練兵は特別攻撃隊として訓練が始まっていた。テニアン組は通常の訓練以外に佐世保の造船所への応援が多くなっていた。宏だけが通信兵としてモールス信号の特訓を受けていた。モールス信号の送受信を間違えると教官の竹刀が頭に降って来た。頭を打たれると覚えたばかりの信号が頭から抜け落ちていった。寝ている時もモールス信号のトン、トンツーの甲高い音が脳裏を駆け巡っていた。宏は容易に訓練をパス出来ずにいた。佐世保の造船所に行くのが楽しみであった。鉄板の溶接や機材をボルトで固定する作業は名護の泰栄親方を思い出して楽しくもあった。テニアン組はこの造船所で建造中の潜水艦に乗り組む予定だと教官から言われていた。

テニアン組の環境が変わったのは入隊3カ月後8月下旬からであった。8月20日にはB-29の初空襲があり、翌週の25日は空襲による被害が次々と生じた。訓練をしているのか空襲爆撃の後片付けをしているのか分からない始末であった。訓練よりも造船所に通うことが多くなっていた。誰もが俺たちの乗る船が未だ出来上がっていなのだろう。そしてミクロネシア諸島、マリアナ諸島も米軍に陥落させられてB-29はテニアン島のハゴイ飛行場から飛んでくるとの噂が流れていた。実際は中国四川省成都の基地からであった。テニアン島からのB-29の飛来は11月に入ってからであった。10月10日には艦載機による那覇市の爆撃が始まっており、既に沖縄本島も戦火に見舞われていた。年が明けた昭和20年に入ると国内のいたるところでB-29の空襲があり日本軍の施設以外の市街地の空襲が頻繁になって来た。7月に入ると佐世保基地から新造船の潜水艦が推進して出航するとの噂が出ていた。テニアン組も日本海軍の戦闘員に加わることが出来るとの期待感に高揚していた。

8月6日の朝、広島に米軍の新型爆弾が投下され、町が一瞬にして瓦礫と化したとの伝令がテニアン組にも伝わった。3日後8月9日午前11時長崎にも原子爆弾が投下された。何やら大村湾の向かいの長崎市方面で爆発音がしたが、B-29の空襲は毎度のことであり、テニアン組は気にせず朝昼食を取っていた。食事の途中で海軍基地内にサイレンが鳴り響き予期せぬ騒ぎが起こった。空襲かと思って外に出ると軍用トラックが県道を長崎に向かって移動していた。テニアン組にも直ぐに指令が出てトラックに乗り込み長崎に向かった。

坂道を下って長崎の町に入った。町は見渡す限り瓦礫の山であった。山手に僅かに校舎が残っていた。教官の指示に従って建物の影から生存者を探し出し校舎に仮設された救護室に運んだ。ある者は肩を貸して移動し、倒れてうめく者は担架で運んだ。瓦礫の下からうめき声がしても掘り出すことはせず、自力で這い出て火傷を負った者だけを運んだ。瓦礫の間を2巡、3巡するうちにうめき声は聞こえなくなっていた。誰もが瓦礫の下でうめき声の主が息を引き取ったと解っていたが口にしなかった。被災者に水を与えて真夏の太陽を避けてテニアン組はしばしの休憩を取った。マサルが遠くに広がる長崎の外洋を見ながら言った。

「沖縄も玉砕したと聞いたが、この爆弾が投下されたのかな」

「那覇も、名護も、本部も沖縄中が全滅しているかもしれないな」ヒロシが言った。

「せっかくテニアン島から逃げてきたのに、故郷がこの様な瓦礫になっていては帰る場所が無くなってしまった」アツシがつぶやいた。

「誰だよ、こんな負け戦を始めやがって」マサルは腹立ちまぎれに瓦礫の中に立っていた門柱を横蹴りで蹴った。爆風の熱で脆くなったコンクリート柱が砂埃を立てて砕けた。

「チクショウ、やってられないな」タモツがそう言って小石を拾って坂の下に向かって投げた。カラン、カランと乾いた音が小さく聞こえた。

「おい、お偉いさんが来るぜ。車に戻ることにしよう」ヒロシが立ち上がって言った。その後も3日ばかり長崎市内の瓦礫の中から被災者の遺体の片付けに出た。夏の暑さは直ぐに遺体を腐食させて死体特有の臭いが町中に漂った。テニアン組の衣服に染みついた死体臭は容易に消えなかった。兵舎に戻っても何もすることが無く無駄飯を食うだけであった。佐世保の造船所はB-29の爆撃で壊滅的に破壊されており、上官も何をしているか分からないまま3日が過ぎた。官舎には負け戦の空気が漂っていた。テニアン組はベットの脇に集まって小声で話し合った。

「おい、戦争は負けるぜ。新型爆弾は広島にも落とされたらしい。次は東京かも知れないぜ。日本は終わりだな」アツシが小声で言った。

「戦争が終わったらどうするかい」タモツが言った。

「大阪大正区には県人が多いと聞いているぜ」ヒロシが言った。

「俺もそう聞いている」アツシが言った。

「ヨシ、皆で行くことにしよう。この戦争は今月中も持たないぜ。教官共のやる気のなさを見てみろ」マサルが言った。

「来週にも潜水艦に乗り込めるとの噂があったがだめだな」アツシが言った。

「佐世保があんなに破壊されては、潜水艦どころかポンポン船すら推進出来ないぜ」ヒロシが言った。

朝食とも昼食ともつかない昼前に食事の合図のラッパが鳴った。このとろ1日2回の食事に変わっていた。「飯ぐらいは食おうぜ」マサルが立ち上がった。テニアン組はノロノロと立ち上がった。

 相変わらずの雑炊飯を押し込んで丼を返却口に持っていくために立ち上がると、教官が食堂にやって来て言った。

「正午に重要な放送がある。各自の宿舎の連絡装置を注意して聞くこと」そう言って出て行った。

「何だろう。何処かへ出航するのかな。新たな任務が出来たのかな」誰も不審げに呟きながら食堂を出て行った。

 その日の正午に天皇陛下の玉音放送が各施設の放送設備より流れた。テニアン組にとっては難解な発音とお言葉であった。しかし同室の輩達が嗚咽を漏らし戦争は負けたと呟くのを聞いて本当に戦争が終わったことを知った。哀しくはないがこの先のことを考えると気分が落ち込んだ。天皇陛下の玉音放送によって日本が戦争にまけたことになってもテニアン組の日常は変わらなかった。1日2回の食事は変わらず、暇つぶしに海軍の敷地内の海岸をぶらつくだけであった。軍隊生活が解除になったのは9月に入ってからであった。

 その日の昼過ぎに米軍の車両が数台やって来た。そして施設内の銃器類を全て中庭に集めて軍用トラックに積み込んだ兵員は全員中庭に整列して武装した米軍への前で大村海軍基地総指揮官が訓示を述べた。

「本日をもって大村海軍基地を閉鎖する。兵員諸氏は軍事の任務を終了した。これより諸君は故郷へ帰還してよし。以上である」そう言って右手を上げて敬礼した。整列した兵員も一斉に敬礼した。総指揮官は横一列に並び銃を携えた米軍指揮官に振り向いて敬礼した。米軍指揮官は通訳官からの返事に答えた敬礼で返した。海軍基地の総指揮官は振り返り海軍基地の兵士に向かって右手を横に水平に広げ「解散」と宣した。兵士達はゾロゾロと重たい足取りで宿舎に引き上げた。海軍基地総司令官と下士官は彼らを見送った。そして米軍指揮官と共に司令官室に向かって歩いて行った。基地の引き渡しに関する段取りの確認する作業を行うためである。

テニアン組は部隊から離れる為の荷造りを始めた。途中でアツシが言った。

「おい、みんな、大阪まで行くにも金も食料も無いぜ。どうするかい」

「弱ったな」マサルが言った

「俺は厨房に出入りしていただろ、コメの在りかを知っているぜ。背嚢に詰めるだけの米を分捕ってこないか。今なら誰も気づかないから」アツシが言った。

「よし、直ぐに行こう。騒ぎが起こる前の今しかない」マサルが背嚢を背負った。他の仲間もすぐに立ち上がってアツシの後に続いた。部屋の先輩訓練生は未だにベットの脇でぐずぐずと荷物の整理をしていた。

 厨房はガランとしていた。4名は背嚢を床に置き厨房の中に入った。窯場の後ろに積まれていた。20斤の米袋を取り出して背嚢に詰めた。背嚢の中身をからの麻袋に詰め替えて背嚢の上に括った。最後に壁に掛かった飯盒に釜に残ったご飯を詰め込んだ。アツシが壺の中からたくあんの漬物取り出して3本づつ渡した。

「よし、この基地に用事も未練も無いぜ。行くとするか」マサルがそう言って背嚢を担いで厨房の外に出た。テニアン組は食堂の廊下を歩いて出口に向かった。廊下の交差点で下士官に出会った。

「お前ら琉球人だな。ここで何をしている」咎める目付きで言った。

「あんた誰だったけ」マサルが言った。

「お前ら上官の顔を忘れたのか」

「おい、タモツ、この方が上官だとさ」

テニアン組が声を上げて笑った。

「どちら様か知らないが、先月の天皇陛下の玉音放送を聞いていなかったみたいだぜ」アツシが言った。

「玉音放送も聞かない軍人さんは最低だな」ヒロシが吐き捨てるように言った。

「こんなことだから、戦争に負けて米軍に武器を取り上げられるんだよ」タモツがバカにした口調で言った。

「貴様ら、何を言うか」上官声を張り上げた。

上官の声を聞きつけて廊下の奥の部屋から3名の男が出てきた。

「岡本中尉いかがしましたか」と近寄って言った。

「こいつら上官をバカにしている。捕縛しろ」

一人の男がマサルを見て何かを思い出したように岡本中尉に耳打ちした。

「この男は銃剣道大会の優勝者です。素手の私には捕縛は出来そうもありません」

「上官だとさ」マサルがあざけるように言って背嚢を床に降ろした。他の3名も笑いながら背嚢を降ろした。

「よう、オッサン、見ていな」マサルは言うと同時に「キェー」と奇声を発して横に飛びざま右足横蹴りで壁を蹴り反転すると同時に右肘を漆喰の壁にめり込ませた。建物は腰の高さから下の部分が板壁で腰から上の部分が白い漆喰の壁であった。腰の高さの壁板がバリンと音を立てて割れて床に落ちた。漆喰の壁に肘がめり込んだ跡が残った。マサルはゆっくりと上官の前に近づいた。驚いて1歩下がって壁にへばりついた上官の肩に左手を乗せ、「ハッ」気合を発し耳元を掠めるように貫手を漆喰の壁に打ち込んだ。恐怖に引き攣った

顔の横の漆喰にぶすりと4本の指がめり込んだ。

「オッサンどもヨ、いつ迄上官面するつもりだい。お前の言う琉球人は皆この程度の空手が使えるぜ。鉄砲を持たないアンタらが素手で俺たちの相手をするかい」

「マサル、こいつらみんな殺しちまうかい。どうせ戦争の死に損ない共だ」タモツが殺気立った目付きで言った。

「悪かった、戦争は終わったんだった。つい忘れていた」

「ワカリャ良いさ。アメリカ軍に占領された基地に居ても始まらないさ。海軍基地司令官の指示通り解散するぜ。今日の夕食の飯は頂いたからな」

「解ったか。元上官殿」アツシが怒鳴るように言って背嚢を担ぎ上げて歩き始めた。4名の元兵士が声も無く呆然と見送った。広場に出ると既に背嚢を担いだ数名の元兵士が守衛の消えた門に向かって歩いているのが見えた。テニアン組は大村海軍訓練基地の門を出て駅のある街の方向に歩き出した。9月の真昼の日差しは未だに秋の気配も見せていなかった。

 テニアン組は佐世保線に乗って北へ向かった。1年前に黒潮の流れに乗ってテニアン島からやって来たが今度は汽車の旅である。敗戦後しばらくは車賃がいらずに乗れた。汽車は随分とくたびれており戦火の影響でガラス窓が壊れて板張りの個所も少なくなかった。誰かが窓の板を外しており窓から流れ込む浜風が心地よかった。汽車は佐世保から佐賀県周りで久留米に向かって山の中を走った。そして有田のトンネルに入った。汽車の爆音がトンネルに反響すると共に石炭火力の汽車の煙突から黒煙が社内に流れ込んだ。乗客が一斉に咳き込んだ。

トンネルが幾つか連続して続いて山間部を抜けて佐賀の平野に出た。タモツが仲間の顔を見て笑った。

「おい、お前ら、昨日見た米軍人のクロンボーみたいだぜ」

鼻を覆っていた手ぬぐいで顔と拭くと黒い煤が汗と共にベッタリと付いた。

「どこのクソッタレだ。窓なんぞ開けやがって」マサルが怒鳴った。

汽車は小倉で夜になり、駅の構内で一夜を明かした。翌朝早く門司港まで行き、艀で下関に渡った。山陽本線に乗り換えて大阪を目指した。昼過ぎに広島を通過した。広島の町は本当に何も無かった。長崎の惨状と比較にならぬ程の瓦礫が原であった。平地の瓦礫が原の遥か遠くに海が見えた。この様な新型爆弾が沖縄に落ちたなら人も家も町ごと消えて無くなっているだろう。テニアン島から来た4人にとって沖縄が玉砕したとの噂が真実味を帯びており、帰郷しても身内に会うことは無理だろうと思われた。そして望郷の念が次第に薄れて行った。

2日目の夜を神戸で迎えた。米を売って屋台でウドンを食べて駅の屋根の下で4人が背中を合わせて寝た。夜は未だ寒さを運んでこなかったことだけが幸いであった。

 翌朝、炊き出しの火を使わせてもらい飯盒で飯を炊いた。米を売るよりも炊いた方が長持ちすると思ったのだ。仕事と宿を確保するのは容易いことでは無いと神戸の人混みをみてそう思ったのだった。甲子園球場の前を通ると米軍のトラックが次々と出入りしていた。甲子園球場は米軍車両基地として利用されていた。数百台の最新型ぼ軍用トラックが整然と並んでおり、アメリカ合衆国の圧倒的な物量が解った。テニアン島からポナペ島の親族が経営する運送会社に渡りたいと考えていたヒロシにとって天地がひっくり返るほどの光景であった。

「クソ、何処のバカ者がこのような物量のあるアメリカ合衆国に喧嘩を吹っかけたのだ。無知にも程がある」ヒロシはアツシに言った。

「俺たちが訓練を受けた海軍基地に何台のトラックがあったかな。バカにしやがって」タモツが言った。

「勝てるわけがない戦争の軍事訓練をやっていたわけだ」マサルが言った。

「何かに文句をつけて俺らの尻を叩くだけしか能のない奴らはなにを考えていたのだ」アツシが言った。

テニアン組は、大量の大型トラックと長崎、広島の町を瓦礫にする新型爆弾を落とす国力の差を目の当たりにして腹が立った。

「バカな奴らのせいで故郷を捨ててここまで来たのかよ」

「情けなくなるな」誰もがそうつぶやいた。

 大阪で汽車を降りて大阪城の城壁を左に見ながら天王寺に向かった。そこから木津川を渡って港町の大正区に入るつもりであった。タモツがゲラゲラ笑いながら前方を指差して言った。

「おい、見なよ。キリンだぜ」

焼け跡の格子の上からキリンが首を出してこちらを見ていた。小学校の教科書の挿絵にあった通り、茶色でまだら模様をしており、長い脚に長い首を持っていた。天王寺動植物園入口と焼け残ったポールに看板が掛かっていた。テニアン組が可笑しくなったのは平和の象徴その物である動物園のキリンが、焼け焦げたバラックの続く街並みの中でひと際高く頭を出している様子があまりにアンバランスであったからだ。この動物園では空襲による脱走を恐れてライオンやトラなどの猛獣は早くに殺傷処分され、大食漢の象も衰弱で死んでいった。キリンは僅かに生き残った草食動物の類であった。しばらくキリンを見ていた4人は木津川に向かって歩き出した。そして川に沿って歩き爆撃で残った橋を渡って大正区に入った。ヒロシは一人の男を探した。大城兼松という自分の父親と同世代の男である。その人は実家の隣に住んでいたがヒロシが尋常高等科に入る前に大阪に渡り、大正区で食堂と港の荷受け作業人夫の斡旋、賄い、簡易宿泊所をしていると聞いていた。故郷の名護町出身者が世話になっていると聞いていた。只、宏と宏次がテニアン島に渡った時には屋敷は空き地となっており、祖母のウト婆さんがタダで借りて芋やカボチャを植えて管理していた。250坪ほどの屋敷は井戸があったので砂地でもなんとか作物が栽培できた。

かって隣近所の住人であった兼松さん夫婦には8年近くも会っていなかったが唯一の知り合いと言える存在であった。この辺りは空爆による延焼が少なく貧弱な建物がひしめき合っていた。大阪中心部や天王寺区とは木津川や淀川水系の掘割で仕切られた大阪湾に面した水郷地帯であったことから米軍の空襲による延焼から免れたのである。それに米軍の攻撃対象となる重工業や商業の中心地でもなかった。唯一明治末期に設立された紡績工場があり、沖縄本島の名護、本部、今帰仁からの職工が出稼ぎ移住していた。大阪湾に面した土地柄で瀬戸内海を運行する四国、中国、九州の小型・中型船が様々な生活物資を京阪地区に運ぶ港として活気があった。大正区に入ると名護、本部、今帰仁等の沖縄方言や沖縄訛りのある大阪弁が聞こえた。

 ヒロシは一膳飯屋を訪ねて回った。数軒の飯屋を廻って夕暮れ近くになった頃、金松食堂と古い看板の架かった店の暖簾を潜った。

「チャービラサイ(コンニチハ)」と名護訛りの方言で呼びかけた。

「ほーい」と声がして小柄の男が前掛けで濡れた手を拭きながら出てきた。

その男はヒロシをじっと見て言った。

「イャーヤ、ヒロシーな。(お前は宏か)」

「ウー、グブリーソオイビタン。(ご無沙汰しておりました)」ヒロシは頭を下げた。

「どうして此処に来たのか。その姿は兵隊上がりかい」

「長崎の大村海軍基地で終戦になったので沖縄県人の多いという大阪まで登ってきました。本部、勝連、糸満の戦友です」

「そうか、よく生きていたな。そこの腰掛に座れ」そう言って皆を促した。

「ウト婆さんは元気かい」

「お婆さんと暮らしていましたが、4年前に両親に呼ばれてテニアン島に渡りました。その後志願して軍隊に入隊しました。3カ月に1度は手紙を出しましたがお婆は字が書けないので返事は貰ったことがありません。1年半前にテニアン島を出る前に秀仁さんに会った時、お婆さんは元気だと言っていました」

「沖縄はアメリカに占領されたままだからどうなっているか分からないね」兼松さんが心配そうに言った。

「叔父さん、何処か働き口は無いですか。宿と飯代を稼がねばいけないので」

「そうか、港の荷受け作業ならあるぞ。お前らは軍隊上がりだから体力はありそうだな。ハハハ」と笑った。

「ハイ、ワシらは体力だけはあります。アツシはテニアン島で刺身屋の息子でしたから包丁は使えますよ。軍隊でも厨房に出入りしていましたから」

「そうか、明日にでも仲間にあたってみよう。今日は2階に泊まりなさい」そう言ってから奥に声を掛けた。

「オカァ、マガイハサマ小のヒロシが来ている」そう言った。

「アイェ、ヒロシナー、よく生きていたね」小太りの兼松の奥さんが言った。

テニアン組の大阪大正区での生活がこの日から始まった。

2日後からヒロシ、タモツ,マサルは日雇いの港湾労務に出た。アツシは近くの沖縄出身の老夫婦が営む屋台で働くようになった。3名は日当を貰うとアツシの働く屋台で夕食を取り焼酎を飲んだ。軍隊生活に比べると難儀な仕事ではなくその日暮らしを生活が続いていた。やがて冬がやって来た。温暖な九州長崎の大村湾の南向きの海軍施設を異なり、大阪の冬はとてつもなく寒く感じた。南洋群島のテニアン島で暮らした4人にとって初めての極寒と言える冬であった。4人は連れだって宿舎から離れた場所にある銭湯へ出かけた。仕事に出る途中でガード下に凍死した者を見ることも少なくなかった。この頃から日本人の警察官が目立つようになっていた。しかし横たわった人間を3尺棒で突いて死んでいることを確認するだけで立ち去った。遺体は米軍人が白い布で包みトラックでどこかに運んで行った。それを見てヒロシ達はつくづく情けないと思った。戦争に負けるということは人情を失うことだと思った。

宏にとって大阪の寒い冬が終わり大阪城周辺の桜が咲き始めた頃、沖縄への船舶による公費帰還が始まったとの噂を聞いた。集団疎開の生徒や家族など集団帰還であった。集団帰還は昭和21年の12月迄あった。集団帰還が終了すると翌年1月から個人を対象に沖縄への帰還者を募集する通達が大正区にも伝わった。宏は大阪での2度目の正月を迎えた。大阪城公園の梅の咲く2月で宏は24歳となっていた。17歳の春に故郷を出てテニアン島に渡りそして長崎の海軍基地に渡り、敗戦後に大阪まで流れて来て既に7年の歳月が経っていた。短い梅の季節から桜の季節に移った頃、テニアン組の4人は大阪城公園の桜を見に出かけた。茶店で団子を買ってベンチに腰掛けて話し込んだ。誰からともなく帰郷の話が出た。

「今なら船賃がタダで沖縄へ渡れるらしいぜ」タモツが言った。

「那覇の街も人が集まってきていると聞いたぜ。オヤジの船は沈没せずにテニアンから糸満の港に帰ってきているとよいな。ここでは飯は食えるが将来の夢が無いな。俺はもう一度オヤジとはえ縄漁に出てマグロを上げたいぜ」マサルが言った。

「本部ではそろそろカツオ漁が始まり、鰹節工場が操業される時期だな。鰹節はカツオが獲れて薪で火を起す乾燥場があれば再開できるから」タモツが言った。

「俺の家は田んぼが沢山あるから1期作の田植えの頃だな。婆さんは元気でいるかな。テニアン島の皆は引き上げてきているかな。親方が生きていれば大工仕事に戻りたいな」ヒロシが言った。

「アツシはどうするかい」マサルが訊いた。

「俺はもう少しここで暮らしたい。去年の暮れから警察と保健所がグルになって屋台の取り締まりを厳しくしたので、爺さんが屋台を廃業して沖縄に引き上げたのさ」

「ああ、俺たちの一杯飲み屋が消えて残念だ」タモツが言った。

「それで、爺さんの紹介で小料理屋に仕事替えしたのさ。仕事はきついが勉強になるぜ。しばらく修行して腕を磨いてから沖縄に帰るかどうか決めるよ」

「そうか、アツシを除けばこの辺りが大阪暮らしも潮時だな。酒を止めて少しばかり金を貯めて旅費を稼ぐとするか」マサルが言った。

「そうだな、寒くなる前に引き上げるとするか」ヒロシが言った。

「ヒロシは寒がりだからな」タモツが笑って言った。皆がつられて笑った。

 テニアン組は相変わらず集まっては屋台で飲んでいたが以前のような休みの前の晩の深酒は止めるようになった。ヒロシは兼松夫婦に秋には沖縄に引き上げると伝えた。夜風が冷たくなり始めた9月の中頃に兼松爺さんに呼ばれた。

「ヒロシいつ帰るのだ」

「ハイ、9月の最後の週に大阪港から出る船に乗ろうと思っています」

「そうかい、それが良い。ここは長く暮らすところではないぞ。名護で地道な仕事を見つけるといだろう」

「ハイ、テニアン島に渡る前は大工仕事の見習いをしていました。大工仕事に就こうと考えています」

「そうか、その方が賢明だな。俺たち夫婦も何年かしたら沖縄に引き上げたいと考えている」

「そうですか」宏は意外そうに兼松爺さんの顔を見た。

「それでよヒロシ。お前に頼みがある。お前の所のウト婆さんに頼んで管理してもらっていた俺の土地だがな。今はどうなっているか知らせて欲しいのだよ。住所は此処だ」そう言って住所の書かれた紙を渡した。

「兼松さんには子供か身内はいないのですか」

「男の子が一人いるがハワイに行っている間に戦争になってしまってな。アメリカ国籍だから日本へは帰ってこれないのさ。姉さんが那覇の方にいるが今はどうなっているか分からないし、お前しか頼めないのだよ」

「よろしいですよ」

「沖縄との船舶の往来が頻繁になれば日本本土から建築木材も届くようになるだろう。その頃に建築材料を送ってお前の屋敷の隣に家を建てようと思っている。腕の良い大工の頭領をお前に探してもらうことにするよ。ハハハ」兼松さんは愉快そうに笑った。

 10日後の昼前に大阪港からヒロシ、タモツ、マサルはアツシに見送られて多くの沖縄への帰郷者と共に大阪を発って沖縄に向かった。船は沖縄への帰還者を乗せて、紀州灘で黒潮反流となって南へ向かう黒潮に押されて沖縄に向かった。夜中に奄美大島の名瀬港で積み荷を降ろし翌朝に那覇港に着いた。昭和22年9月にヒロシは7年ぶりに沖縄の地を踏んだ。港には米国旗が翩翻とはためいていた。港の対岸の垣花の軍港にはアメリカ軍の軍用トラック、戦車、上陸艇が整然と駐車していて米兵が動き回っていた。その後背地の垣花の丘にも米軍の仮設基地があり、米軍旗が翻っていた。テニアン組は沖縄が既にアメリカ国家の占領地であることを認識させられた。船を降りると県内各地へ向かう軍用バスが停車しており、沖縄県の職員と思しき係が帰省先を調査書に記入して配車していた。マサルとは港のこの場所で別れた。タモツとは名護迄同行して別れた。テニアン島以来の絆がこの日に切れた。ヒロシを含めたテニアン組は紀州沖で反転する黒潮反流の流れに乗って新しい棲家を求めてそれぞれの小舟でこぎ出したのであった。

5 黒潮の流れの果てに

(1)

名護市の入り口にあるシンボルツリー。樹齢400年のガジュマル

昭和22年9月、宏はヒンプンガジュマル横の広場でバスを降りた。敗戦後2年が経っており、出迎えの人々の姿は無かった。名護の町は既に復興が始まっており、幹線道路沿いは店舗が立ち始めていた。時折軍用車両が通り抜けたが、人力の荷車の他、馬車の往来があった。宏は名護十字路を西に進んだ。しばらく行くと第三中学校の前に出た。米軍の蒲鉾状のコンセットハウスが立っており、古いコンクリートの大きな門に名護高等学校と表示された真新しい表札が立っていた。道路の右手の奥に小さな森が並列して続いていた。民家が途切れてしばらく歩くと宮里集落が見えてきた左側に拝所の緑の樹木の一群が見えた。7年前にこの村を発った時と変わらぬハスノハギリの群落が佇んでいた。宏は路地を左に曲がってコーラル敷きの県道を横切り御神と呼ばれる拝所に立ち寄った。幹回りが5m以上もあるハスノハギリは時の流れを遮断して林立していた。100m四方の拝所を抜けると砂浜に出た。満潮の波が砂浜に寄せては返しザーザー、ザーザーと音を立てていた。白浜の途切れるところに浜辺から少し離れて岩礁が浮かんでいた。時が完全に止まっていた。宏は砂浜に降りてサンゴの欠片を踏みながらプーイシと呼ばれていた岩礁の方向に歩き出した。人影のない浜辺の波打ち際を淡々と歩き続けた。ジャリ、ジャリと靴がウルウと呼ばれるサンゴ砂利を踏む音だけが着いて来た。

しばらく歩くと波打ち際から少し離れて2個の岩が水面から顔を出した場所があった。宏にとって見慣れた岩であった。そこから県道に向かって砂浜を上がった。県道から1筆の畑地を挟んで宏が7年前に祖母と暮らした屋敷があるはずだ。砂浜を登る途中で振り返り遠くに見えるブセナ崎とその後ろに立ち上がる恩納岳に目をやった。少し傾きかけた日差しで海面がキラキラと輝いていた。アダン、オオハマボウ、オキナワキョチクトウ、モクマオが混在する自然植生の防風林の間に細い通路があった。以前と同じく人の往来があるようで雑草が踏まれて裸地となっていた。防風林を抜けると県道に出た。県道を引き返すように50m程進むと見慣れたオオハマボウの屋敷林があった。その隣は100m幅で屋敷林が消えた状態で集落の後方に続いていた。既に数軒の仮設住宅が建っていた。

宏はオオハマボウの間の屋敷正門を入った。僅かに見覚えがある今にも倒れそうな茅葺の家があった。庭には小学生と思しき小柄な丸坊主の男の子が一人いた。砂に立てた棒切れに丸い小石を当てて遊んでいた。

「オイ坊主、ここはマガイハサマ小の人が住んでいるのか」と声を掛けた。

「ウン」小さな声で怖い物を見る目付きでこくりと頷いた。

「お前は此処の子か」

「ウン」さらに小さな声で頷いた。

「何という名前だ。お前の他に誰かいないのか」

男の子は黙ってうつむいた。

「水を飲ませてもらうよ」そう言って井戸の側に行って肩から掛けていたカバンを降ろし、鶴瓶を井戸に降ろして水を汲んだ。鶴瓶を両手で抱えて水を飲んだ。懐かしい少し塩分を含んだ味がした。「フー」一息ついて振り返ると子供の姿が消えていた。「チェッ、なんてガキだ」そう言って井戸の脇の平たい物置石に腰掛けた。カバンから握り拳より少し大きい乾パンを取り出した。那覇港で支給された昼飯代わりの硬い米国仕様のパンである。食べ終わると立ち上がりカバンを肩にかけ隣の兼松さんの屋敷を見るため門を出て隣の屋敷に回った。大阪を出る時に頼まれていたことを思い出したのだ。屋敷内にはパパイヤが4本とバナナがひと塊で生えているだけであった。砂地では芋などの耕作な不向きなようである。近くの通りの交差点に立って眺めると、山入端一門、神山一門、比嘉一門が既に帰還しているらしくバラック小屋が建っていた。一つ離れた通りの交差点を誰かが横切ったが声を掛けることはしなかった。村を出て7年間もの流れ者生活を送った宏にとって故郷の村は異質に見えた。テニアン島を出てから家族とすらも全くの音信を絶っていたのだ。宏は大きく息を吸い込んで吐き出した。そして少し陰って来た秋の夕暮れの中を元の実家のある場所に引き返した。

門を入ると家の中に人の気配がした。家の中から米を炊いている臭いがした。宏は軒下まで歩いて行き声を掛けた。

「誰かいるかい」

「ハーイ」と台所と思しき奥の部屋から甲高い声がしておかっぱ頭の女の子が出てきた。そして珍しい物を見るように宏の姿を見つめた。宏は笑いながら言った。

「お前は富美子か、しばらく見ないうちに随分と大きくなったな」

「ヒロシ兄さんなの」声が裏返った調子で言った。

「ああそうだ。久しぶりだな。学校は行っているのか」

「ハイ、名護中学校の1年生です」

「そうか、あのチビは誰だ」

「末っ子の宏光です」

「そう言えば俺がテニアン島を出る時にいた鼻たれ小僧か。思い出したよ」

宏光は柱の影から宏を恐ろしそうに見つめていた。

「もうすぐお母さんと宏次兄さんが帰って来るわ。手足を洗って中で休んでください」そう言って宏のカバンを受け取った。

宏が井戸端で手足と顔を洗い腰の手ぬぐいで水をふき取っていると母のウサが竹かごを担いで裏門から入って生きた。

「宏、今帰ったのかえ」そう言って安堵した顔で笑った。そして何事も無かったかのように言った。

「手足を洗ってくるから家の中に入っていてくれ」ウサは井戸端に向かって歩き始めた。

 宏が家の中に入り富美子の入れてくれた自家製のグワァバ茶を飲んでいると、清美、宏安、宏次の順で帰って来た。父親の宏全の姿は無かった。皆が「宏兄さん、お帰りなさい」声を掛けた。宏は予期したことであったが父のことを訪ねた。

「お父はどうした」

「テニアン島で米軍から逃げる途中ではぐれてしまった。いくら探しても見つけることが出来なかった」宏次が寂しそうに言った。

「あれは、いつも死ぬ、死ぬとばかり言っていたから逃げる元気を失っていたのだろうね」ウサが言った。

「そうか、テニアンも大変だったね」宏は言った。

「兄さん本土はどうだった」宏次が尋ねた。

「長崎の海軍基地にいたのさ。長崎の町に新型爆弾の原子爆弾が落ちてな。俺たちはその救助に行ったのだがな。町は完全にガラクタになっていた。ほとんどの人が死んでいた。生きている人も火傷していたね。毎日死体の収容で体中に人の腐った臭いが染みついたよ」

「原子爆弾はテニアン島からB-29で運んだそうだよ」宏安が言った。

「広島の町も10㎞先までも何もなかったよ。沖縄にも原爆が落とされたとの噂があってな。俺らは大阪の大正区の沖縄県人を頼って行ったのさ」

「それで帰りが遅かったのね」清美が言った。

「ウト婆はマラリアに罹って戦争中に亡くなったと聞いた。宏林叔父さんは台湾から帰還したが今年の春に肺炎で亡くなった」宏次が言った。

「そうか、身内が3名死んだか。それで田畑はどうなっているかい」

「兄さんが出る前と同じになっている。来週から稲刈りを始めようと考えている」

「そうか、稲刈りが終わったら大工仕事を探してみるか」

「宏、城の泰栄親方は生きているから明日にでも挨拶に行ってきな」ウサがそう言った。

「道路工事などが増えてきているから現金収入もあるよ」宏次が言った。

「俺は菓子屋の見習いに出ようと考えている。力仕事は俺には向いていないし、兄さんが帰ってきたから畑仕事は任せられるからね」宏安が意を決したように言った。

「テニアン島では皆難儀したようだからこれからは自分の好きな仕事をして暮らしを立てると良いだろう」宏が言った。

「私は今、洋裁店の見習いをしているけど、富美子が中学を卒業したら一緒に本土の紡績工場に集団就職しようと考えているの。兄さんどう思う」清美が言った。

「大阪の大正区でも紡績工場があってな、沖縄県人が働いていたぞ。若いときは好きに働いたら良いだろ」

「戦前に私が神奈川県の紡績工場に入った頃は難儀させられたよ」

「今はアメリカ世で学校からの推薦があるから安心よ」清美が言った。

「本土の人は仕事に厳しいから良い勉強になるだろう。冬は寒いぞ、覚悟して行かねばな、ハハハ」と宏が笑った。

「兄さん、今は名護町で菓子屋の手伝いをしているけど。本格的な修行は嘉手納町だ。家を離れて行っても良いかな」

「那覇でなく嘉手納かい」

「今は米軍基地がある嘉手納町のほうが景気は良いそうです。それに名護出身の職人がいるので安心です」

「ああ、好きなようにしなさい。修行出来るときに行くべきだな。俺の軍隊仲間の一人は大阪で料理人修行すると残ったよ。俺は港湾労務ばかりして大工の仕事先が無かったから帰って来たのさ。明日からでも行って構わないぞ。畑仕事は俺がやるから」

「ウン、兄さん先方との調整が出来次第行くことにするよ」宏安が安心した顔で言った。

「宏は本当に体が大きくなったね。お父とは全く体つきが違うね」ウサが感心したように言った。

「オカア、大正区では隣の兼松さん夫婦に世話になったよ」

「兼松さんは元気だったかい」

「ああ、港湾人足相手の飯屋をしていた。そろそろ引き上げたいと言っていたね」

「子供はハワイ移民したらいいね」

「建築材木が沖縄に送ることが出来ると引き上げるそうだ」

「ワシらもいつまでもこのぼろ家で暮らすのは嫌だね」

「建築材料が自由に本土から輸入できるようになると新築を考えよう。宏次ワシらも頑張って働こうぜ」

「ウン、兄さんが帰って来たから畑仕事は楽になるし、外での仕事も見つけやすいと思う」宏次が珍しく弾んだ声で言った。

「富美子、ご飯は炊いてあるかい、夕飯にしよう」ウサが言った。

「ハイ、大根の味噌汁とラッキョウの漬物があるわ」富美子と清美が台所に立っていった。宏にとってテニアン島で別れて以来、3年ぶりの兄弟そろっての夕食であった。灯油がもったいないので早くから床に就いた。宏は筵を敷いただけの床に横になり持参したカバンを枕に横になった。茅葺屋根特有の湿気を含んだ堆肥にも似た臭いがした。2日前までいた大阪大正区のくらしは、雨露を凌ぐだけの住まいの沖縄の自宅の暮らしぶりに比べて何とも贅沢であったと感じていた。沖縄出身の人間が本土では琉球人とバカにされるのは沖縄の貧しさが要因であろうとしみじみと感じた。

 翌朝、宏は昨晩の残りの飯に味噌汁をかけて、大根の漬物をバリバリ齧って宏次と二人でヒルギ原の水田に向かった。稲穂が朝の柔らかい光を浴びてヒルギ原一面に金色に輝いていた。桑木の下、イシマサキ、タードウシの水田を見て回った。既に水が落とされており、1週間も待たずに稲刈りが始まる様子になっていた。稲穂は歩先まで実がパンパンに膨らんでいた。

「宏次、田んぼはこれだけか」

「今年の1期作から為又にあるハサマ本家から借りた田んぼが4筆ある」

「脱穀機はどうしている。今でもハサマ本家から借りているのか」

「ウン、そうしている。米軍払い下げのテントカバーに籾を干している」

「戦前と同じように籾は精米所が買ってくれるかい」

「半年間食べる分を残して売っているが大した金にはならないよ。アメリカ産の加州米の配給があるからさ」

「1週間では収穫が終わるな。籾干しはオカアに頼んで労務に出ようぜ。名護には土建屋は無いかい」

「この近くでは住宅建築は神山組、土木工事は比宮組と比嘉建設がある」

「神山組は定和さんがやっているのか」

「ウン、比宮組はウガミの森の近くにある。道路工事専門です」

「ヨシ、分った。今日で神山組、比宮組をあたってみる。城の泰栄親方にも会って来る。それとハサマの宏善さんにも挨拶して来る」宏は宏次と並んで為又にある田んぼに向かった。

 午前中で為又の田んぼまでの見回りを終えて帰宅した。宏は昼飯の芋とラッキョウの漬物を食べて軽い昼寝をして稲刈りに必要な道具の確認と鎌を研いで稲刈りの準備をした。日が陰って来た頃に家を出た。ハサマに立ち寄り内地からの帰郷の報告と来週からの稲刈りの為の脱穀機と荷車の借用を頼んだ。ハサマの3軒隣に神山組があり事務所を訪ねた。事務所には定和さんがいた。現場は息子の定春が仕切っているとのことである。宏は兼松さんの依頼の件を話した。定和さんの話では、来年の秋からはLCと呼ばれる材木輸送専門の船が本土と沖縄を本格的に往来するので建築資材の調達が出来るだろうとのことであった。兼松さんの建築依頼を受けることが出来るかと問うと可能だとの返事であった。宏は事務員に神山組の住所を紙に書かせた。それをポケットにしまうと定和さんに言った。近日中に大阪の兼松さんに手紙を書いて建築に関する件を神山組に引き継いだと伝えるので、後は兼松さんと手紙の遣り取りしてくれと言って事務所を出た。

宏が次に向かったのは城の泰栄親方の自宅であった。

 縁側に座ってしばらく待つと泰栄親方が自転車で帰って来た。7年間会わぬうちに随分と年を取っているように見えた。名護に残った者も大戦で身内を亡くして悲惨な目に遭ったのだろうと思った。立ち上がって親方に頭を下げて言った。

「昨日、大阪から帰りました。親方が健在だとオカアに聞いたので挨拶に来ました」

「元気そうだヒロシ。ウサは元気かい」

「相変わらず口が達者で元気です。内地に志願兵で行っている間にお父とお婆が死にました」

「そうか、宏全さんは残念だったな。俺と同じ年であったがあれは体が丈夫でなかったからな。ウサは俺たち岸本一族の中でも一番に体が丈夫であったからテニアンの戦争ぐらいでは死なないと思っていたよ」

「そうですね。戦前に内地の紡績工場に出稼ぎに行っていたくらいですから」

「それで、ヒロシ、俺の下で大工の仕事をしたいのかい」

「ええ、戦前は大した修行もしないでテニアンに呼び出されたものですから、今度はジックリとブロック積み、左官工事、墓作りなど親方から習いたいと思っています」

「そうか、俺も年だからお前に何でも教えてあげたいがな、今は道路工事の土方人夫の仕事しかないぞ」

「そうみたいですね。神山組の定和さんに別の用件で会ってきたのですが、建築資材が内地から入って来るのは来年の秋ぐらいと言っていました」

「その頃からはワシらのセメント大工も仕事も出て来るだろう。俺の出番はその頃からだな」

「俺も畑仕事の合間に道路工事に出るしかないみたいですね。比宮組と比嘉建設に誰か知り合いはいませんか」

「お前の家から近いのは比宮組だな。社長は上地さんだ。現場監督は大城さんだ。羽地出身でお前より少し若い男だ。確かお前の家の近くに住んでいるはずだよ」

「あの辺りは米軍の飛行場があったらしく昔の家屋敷が変わっていますね」

「帰りに寄ってみな。大城健司という男だ。俺からの紹介だと言えば信用するだろう。道路工事が沢山あるみたいだから工事人夫として雇ってくれるさ」

「ありがとうございます。稲刈りが済んだら働きに出ます」

「ヒロシ、お前は俺の下で大工見習していた頃はガリガリに痩せていたが、随分とガッシリしているな」

「ハイ、長崎の大村海軍基地で潜水艦乗りの訓練を受けていました。敗戦後は大阪の大正区で港湾荷受け日雇い労務をしていました」

「そうか、お前はウサに似て体が強いようだな。俺も昔より年を取ってしまって体力が落ちたのでお前は使い勝手がありそうだな。世の中が少し落ち着いてセメン大工の仕事の注文が出たらお前を呼ぶから、それまで比宮組で働いておきなさい」

「ありがとうございます。期待して待っております」

「ハハハ。期待されるほどのこともないがな。これからはアメリカ世だ。世の中がどんどん変わっていくからどんな仕事でも一生懸命に働きなさい。それが若い者の勉強だ」

「ハイ、分りました」宏が直立して右手を上げて敬礼した。

「よせやい、俺は軍隊の隊長じゃないぜ。セメント大工の職人だ」

2人は声を出して笑った。

「親方ありがとうございました」

「ウサに宜しくと言ってくれ。たまには城の実家にも遊びに来なさいと言ってくれ」

「失礼します」宏が軍隊の規律を思い出し自然に直立してから頭を下げた。

泰栄は笑いながら宏を見送った。嘉津宇岳の右側に掛かった雲が赤く染まり始めていた。

 宏は急ぎ足で自宅に向かった。自宅に着くと辺りは既に暗くなっていた。ウサに比宮組の大城健司という現場監督がこの辺りに住んでいないかと尋ねた。羽地から来た男であるとも話した。ウサは笑いながら言った。2軒東隣にその一家が住んでいると話した。宏は早速出かけて会うことにした。大城は母親と二人で暮らしているようであった。大城は土建屋らしくない真面目そうな顔つきの小柄な男で夕食前のようあった。宏は訪問の目的を手短に話した。そして稲刈りが終わった1週間後には体が空くので仕事が出来ると伝えた。自宅は西に2軒隣りのマガイハサマ小の長男であると名乗った。母親らしき女性がウサさんの息子さんだね。確か内地の海軍に行ったままになっていると話していたが帰って来たのだねと言った。宏は改めて伺いますと言って引き揚げた。母親は「健司雇って損はないよ、あれは軍隊上がりで肝が据わっているようだから」そう言って台所に戻って行った。

 稲刈りが始まった。脱穀機をハサマ本家から借りて荷車で水を落とした水田に運んだ。宏、宏次、清美、ウサの4名で50坪程刈り取ると。宏と清美で脱穀を始めた。足踏み式の脱穀機を宏が操作して、清美が適度な束の稲を宏に手渡すのである。脱穀機の籾摺りドラムがブンブンと音を立てて回転した。宏が回転するドラムに稲穂を当てるとジャリジャリと籾をそぎ落とした。宏は稲穂の落ちた稲束を右後ろに放り出して清美から新しい稲束を受け取った。宏次が刈り取った稲束を清美の前に運んだ。ウサはもっぱら稲を刈り取る作業である。宏安は既に菓子屋の修行で嘉手納の菓子店に住み込みで働いていた。鯖缶詰の脂味噌をオニギリの中身にして大根の漬物、大きなアルミの急須に入れたお茶で一日中働いた。桑木の下の100坪を終えるとイシマサキに移動した。脱穀した籾はカマスに入れて持ち帰った。翌日はタードシ田迄終わった。3日目と4日目のハサマ本家からの借地である為又の水田であった。4日ですべての水田の稲刈りが終わった。ハサマ本家から借地は100坪辺り1斗缶一杯の籾を借地料として献上した。身内割引があったようだ。収穫した籾は米軍払い下げのテントカバーに広げて干した。バーキと呼ばれる浅い竹籠ですくって肩の高さから揺り動かしながら落とし風に任せて実の入っていない不稔の籾を吹き飛ばした。ウサの仕事である。清美は洋裁店に戻った。宏と宏次は直ぐに水田に戻り三つ刃鍬で田んぼを耕して天地返しの作業をした。春先の作付け前に水を引き込み、田んぼの土を練り易くするためと水田を耕起することで土中に酸素を補給して微生物の活性を促すのである。最初の荒耕しが終わると次の田植えの準備時期まで手が空くことになるのだ。宏は比宮組の大城を訪ねた。そして弟と二人の雇用を依頼した。

 宏と宏次は水田の作付け及び収穫期を除いて比宮組の大城の下で働いた。この頃から戦後の復興工事が盛んとなって行った。南部の糸満から本島最北端の辺戸岬迄を県道1号線が走った。戦火で破壊された橋の架け替え工事など土木工事が至る所で始まった。大戦によって失われた男子労働力は貴重であった。終戦直後から沖縄独自のB円通貨いわゆる米軍票通貨が発行された昭和38年まで沖縄の基本通貨として利用され、その後は米ドル切り替わった。比宮組は恩納村金武村、宜野座村、久志村以北の土木工事を中心に活動した。宏の自宅から比宮組までは500m程度で歩いて通うことが出来た。宏は道路や橋が次々と新しく変わっていくことが楽しかった。テニアン島の南洋製糖、長崎県大村の海軍訓練所、大阪大正区の港湾荷受け作業の労働には無い楽しさが建設土木工事にはあった。宏は1か所に留まって先が見える仕事が好きではなかった。汗を流し埃にまみれて働くことが全く苦にならなかった。土木工事は農業の様な植物任せの変化では無く、自らが働いた分だけ前進する変化があった。半月に一度の給料を貰って年が明けた。3月の田植えが終わると宏と宏次は比宮組に戻った。富美子はこの春に名護中学を卒業した。そして4月の上旬に清美と共に中部地方の名古屋に近い紡績工場に集団就職として家を出て行った。テニアン島から帰郷して2年後に再び黒潮の流れに乗ってマガイハサマ小の実家を出て行った。家にはウサ、宏、宏次、宏光が家に残った。

(2)

屋部川の河口から集落を望む(2022年)

 宏はこの年の一期米の収穫が終わり、2期米の植え付けが終わった6月に嫁をもらった。大戦は結婚適齢期の男女の比率を変えていた。戦争は多くの成年男子消耗しており結婚適齢期の男子の売り手市場を呈していた。各村の有力者同士が情報を交換して嫁の斡旋をするのがこの頃の流行りであった。

ハサマ本家の7代目の次男分家筋のマガイハサマ小の3代目である宏は屋部村から嫁をもらった。宏の一族には名護の東の名護岳を源流とする幸地川に掛かるあなだ橋を渡って嫁を貰うなとの言い伝えがあった。ハサマ本家の頭領宏善は村の西を流れる屋部橋を渡って屋部村から嫁を探した。宏善が探し出したのが初代であった。

屋部村の中心地は村の東を宮里村との境界を流れる屋部川と村の西側を流れる西屋部川に囲まれた扇状地である。初代は西屋部川上流の山間部の耕地の乏しい集落のウサンピ屋の屋号を持つ比嘉家の長女であった。大戦中に結婚して嫁ぎ先で暮らしていたが、夫の戦死で実家に出戻っていた。美人ではないが色白で家事労働が上手い賢い女だとの評判であった。宏善は屋部村の有力者である前田義男と懇意でありそのツテで一門の嫁にと判断したのである。

屋部村は琉球王府時代には屋部間切りと称し、王府の年貢米の徴収等級は第4等と評価されていた。名護間切りの許田村が1等、宮里村が2等であり、住民の暮らしは名護間切りの村に比べて豊かでは無かった。中でも急斜面の山間を流れる西屋部川の上流部周辺に点在する集落は屋部村の中でも貧しい暮らしを余儀なくされていた。初代の家も典型的な貧乏の輪廻から抜け出せない一族であった。共に暮らす叔父の長英は小学校の頃に那覇の享楽街の丁稚に身売りされ、若い頃に歌三味線引きで世を渡り歩き、占いを覚え、民間医療の灸や薬草療法を覚えて帰郷した男である。女沙汰で那覇の享楽街を追われ、沖縄の最果てと言われた国頭村の高江、荒川で薪の積み出し飯場に身を隠してほとぼりを覚まして帰郷した男であった。帰郷した頃からは体調を崩しがちになって独り身で暮らした。叔母のツルも同じく那覇の商家へ奉公に出され、18歳の時に奉公先の次男で沖縄本島北部の伊是名島出身の男と結婚して横浜に暮らした。終戦後は伊是名島出身者が多い嘉手納町に帰郷して暮らした。初代の父である長順は小学校もろくに出ず子守で一家を支えたが、やがて糸満の漁師に売られた。糸満から八重山に流れ、奉公の年期が過ぎるとカツオ船に乗って南洋諸島迄流れて行った。30歳前に帰郷してひと廻り年下の16歳のウタと結婚して生まれたのが初代であった。初代が物心ついた頃の長順は大工仕事に就いていた。西屋部川の上流5kmの谷間の集落に帰郷した長順は二度と漁師としての職業に戻ることは無かった。初代が生まれた頃にも貧乏の輪廻から十分に抜け出ることは出来ていなかった。それでも子供に義務教育を受けさせるだけの生活は出来ていた。

初代は昭和15年に尋常小学校高等科を卒業した。一つ上の従姉の比嘉和子が大阪で暮らす姉を頼って出て行ったことから、自分は横浜のツルおばさんを頼って本土に渡りたいと思っていた。しかし、父の長順は初代が本土の水に馴染むほどの体力が無いと判断して、那覇で中堅の料亭を営むツルの義兄銘苅恵栄の元に送り出した。長順は娘の初代には黒潮の流れに乗って旅をするだけの丈夫な体を供えていないと判断したのである。長順は幼くして糸満から八重山諸島、台湾、南洋群島のパラオ諸島と黒潮の海を移動した経験があり、娘の初代の体力では旅の途中で海の藻屑と消えてしまうと見ていたのだ。初代は戦火が響きが聞こえてきた昭和19年まで銘苅の恵栄叔父さんの下で働いた。

料亭「尚風亭」の店名は尚円王の名に由来していた。伊是名島は第二琉球王統の初代尚円王を輩出しており、尚円王が即位前の金丸と称した頃の出身地である。恵栄の実家は銘苅殿内と呼ばれ、島内における王家の拝所の管理や様々な王家に関する祭事を取り仕切る家であった。祭事に必要な供物の供給や備品の調達に関わっていた。那覇は首里の日本軍本部があり、港でも本土、台湾、香港、南洋群島への中継港として軍人やそれに関連する戦争商人の出入りが多かった。那覇市内の料亭は戦争関連者の溜まり場として賑わっていた。

恵栄の料亭には10名余りの女給が住み込みで働いていた。県内の田舎から送られてきた貧しい家庭の女性がほとんどであった。恵栄は女給たちに初代を紹介した。

「これは私の弟の嫁の親戚です。貴女達と違って家の中の仕事をしてもらう」

「初代です。よろしくお願いします」と初代が挨拶した。

「ふーん、垢抜けない田舎娘だから客の給仕は無理だわね」誰かが言った。

「台所仕事がお似合いね」そう言ってクスクスと笑った。

「よろしくお願いしまーす」と言って綺麗処が持ち場に戻って行った。

 初代は沖縄随一の都会である都会の生活習慣、祝いの膳、法事の供物、その作法を学んで恵栄叔父のサポートに務めた。昼下がりの暇な時間には恵栄の小学生の孫の勉強を見てあげていた。初代は屋部尋常小学校高等科を卒業するまでクラスで2番になったことは無く常に1番であった。初代が那覇に出て来て一番嬉しかったことは、新聞が読めることであった。料亭「尚風亭」では様々な階級の人間が来店しており、恵栄は当時発行されていた琉球新報社の日刊紙を取っていた。初代は新聞記事の中で那覇近郊の記事で分からない出来事があると調理場の奉公人や恵栄叔父に訊ねた。初代が暇な時に新聞を読んでいると女給がやって来て新聞を覗いて言った。

「アンタ、これが読めるの」

「与那原軽便鉄道の列車にヤギがぶつかって死んだらしいわ」

「へぇ」

「泊の漁港に300斤のマグロが水揚げされたとも書いてあるわ」

「新聞の文字が読めるんだ」

その他の記事を読んで教えるといつの間にか3,4名の女給が集まっていた。

恵栄がその様子を見て女給達に言った。

「この子はな、やんばるの屋部尋常小学校高等科の一番優等生だよ。お前隊と頭の出来が違うのだよ」そう言って自慢げに大声で笑って奥に入って行った。

「ねぇ、ハッちゃん。チョットお願いがあるのだけど」一人の女給が言った。

「何ですか」

「家に、手紙を出したいのだけど、いつも沖縄方言で話しているので正しい日本語が分からないし、それに平仮名だけで書くと恥ずかしいので代わりに書いてくれないかしら」恥ずかしそうに言った。

「よろしいですよ。話したい内容を言えば日本語で書いてあげるわ」

「ありがとう、お母も字が読めないから誰かに読んでもらうしかないの。だから漢字が書けないとお母が笑われることになるの」苦笑いしながら言った。女給の親だけでなく初代の母親のウタも無学で読み書きが出来なかった。明治生まれの女性は文字が読めないのが普通であった。父の長順とて小学校を出ておらず自力学習で習得したのである。

女給達と初代の距離が急速に近づいたのはこの頃からであった。女給達は新聞記事について初代に訊ねることが多くなった。いつの世でも女性が井戸端会議のネタを欲しがるのは同じであった。初代は女給の話を聞いて自分の言葉で手紙を書いた。それを本人に読んで聞かせてから封筒を綴じた。そして切手代と少しばかりの御駄賃を貰って投函した。

 初代は沖縄本島南部に多い門中墓の法事には恵栄叔父と奉公人と共に駆り出された。その頃の裕福な一族は清明祭、年忌法要、その他の仏壇行事は料亭からの法事膳を取ること多かった。初代は伊是名島の銘苅殿内(ドンチ)祭事にも駆り出された。持ち前の才覚で恵栄叔父の片腕となって働いた。料亭の運営は息子の恵一夫婦が取り仕切っていた。恵栄は対外的な営業を担当しており初代を助手代わりに使っていた。初代は女給達からも次第に一目置かれるようになり、仕事のやりがいを感じていた。

 昭和16年12月8日に真珠湾攻撃があり、日米交戦が始まった。日本軍はフィリピン、ビルマ、タイ。マレーシア、シンガポールと次々に東南アジアを侵略して行った。更にニューギニア戦線へと拡大していった。新聞は戦線の勝利を大々的に報じていた。しかし翌年の昭和17年6月5日のミッドウェー海戦からは戦争は善戦と表示されるようになった。大本営からの報道は善戦のみとなって行った昭和18年に入ると様々な物資の使用制限、或いは配給制度となった。大政翼賛会が発足して国内は戦争一色になった。料亭の利用客は激減していた。この年の暮れに恵栄は料亭を閉めた。そして伊是名村出身者が多い嘉手納村に移った。米軍との直接交戦となれば沖縄一の大都市で軍司令本部がある首里、那覇は攻撃目標となることは必至であった。料亭・尚風亭に出入りする軍人の顔色や言葉の端々からその気配を嗅ぎ取っていたのだ。店を処分した金で嘉手納村に広い農地を買い、小作に出して農産物の確保に努めた。さらに息子夫婦に小さな雑貨店を開業させた。商品は那覇で活動した頃の商売仲間から調達した。戦争が終結した数年後に米軍によって農地が強制収容され軍用地賃貸料で生活が出来るとは知る由も無かった。料亭尚風亭の閉鎖によって初代や女給達は帰郷、或いは転職して行った。

 年が明けて昭和19年、誰の目にも戦火がすぐそこにやってきていることが明らかになっていた。昭和19年10月10日、米軍の空襲と艦砲射撃によって那覇の街は壊滅した。初代は既に帰郷した。そしてその年の暮れに屋部の比嘉某と結婚した。年が明けて昭和20年本島北部に中南部からの避難民が殺到した。初代の夫も日本陸軍山部隊と共に本部町伊豆味小学校の本体に移動して帰宅することはなかった。4月7日米軍は名護湾沿岸の3か所から上陸した。日本軍は何らの抵抗も出来ぬまま1日で名護から羽地迄占拠され、名護町、屋部村民は羽地村田井等の収容所に集められた。本部、今帰仁の住民も収容された。8月15日の天皇陛下よりの戦争終結の放送を田井等の収容所で聞いた。名護町、屋部村民が帰郷できたのは10月30日になってからである。初代は田井等収容所で3番目の弟の武吉をマラリアで失った。初代は敗戦後も嫁ぎ先に1年ほど暮らしたが昭和22年2月に行方不明となっていた夫が戦死したものと判断して嫁ぎ先から実家に戻った。父の長順は焼失した民家の修復に駆り出されて忙しく働いていていた。初代も建築現場の作業人夫の食事の炊き出しに駆り出されていた。那覇の料亭。尚風亭での暮らしで賄い料理が上達しており、父と共に屋部村内の住宅建築現場を渡り歩いて少しばかりの給金を稼いでいた。

 初代は昭和23年の初夏に屋部川を渡って宮里村に嫁いできた。同じころに3軒隣りに同級生の孝子が嫁いできた。

宏は隣の屋部村からやって来た嫁の初代がいたく気に入った。美人とは言えないが2歳年下の色白の才女と評判の女性である。琉球人離れした肌の白さは、大阪の花街で見かけた色白の日本女性を彷彿とさせた。宏は母親のウサの城村の岸本一族の血を引いて肌の色は初代に比べるべると琉球人特有の褐色であった。3年間の本土暮らしで褐色の肌に劣等感を植え付けられていた。初代が嫁いできて尤も喜んだのは、小学校に上がったばかりの末っ子の宏光であった。初代は何かと宏光の世話をした。初代は戦時中に亡くした弟の武吉の姿を宏光に見ていたのかも知れない。宏光は同い年の子供に比べて少し成長が遅れていた。兄の宏安によると戦時中に逃げ惑う時に十分な栄養を取らなかったことに起因していると話していた。ただ、ウサの42歳の高齢出産のせいでもあったのであろう。それでも1歳年下の子供と較べると体力・勉強も同じ程度であり、心身に特段の障害を抱えているのでなく、単純に成長が遅れている程度であった。初代は宏光の勉強をみてあげた。初代とウサの感性の違いは直ぐに現れた。似ていたのは内に秘めた芯の強さだけであった。ウサは料理、洗濯等家事全般が不得手であった。尋常小学校を出て直ぐに神奈川の紡績工場に女工として住み込みで働き。待遇が気に入らぬと女工仲間をそそのかし、夜間出奔して他の工場へ逃げ込むほど気性の激しい女であった。結婚後も炊事洗濯を舅のウトに任せて畑仕事に精を出た。さらに南洋移民が盛んになると宏と宏次を姑に預けて体も気力も弱い夫の宏全を炊きつけてテニアン島へ渡った女であった。体も気力も男勝りの屈強な女であった。義母のウトは体の弱い息子の宏全のことを思ってウサを嫁にしたのだろう。

 口答えをすれば直ぐに手が出る母親に比べて賢くて優しい兄嫁の初代に宏光が懐くのは当然のことであった。炊事洗濯子育ては初代の仕事であった。むろん農繁期は田畑にも駆り出された。宏は仕事が楽しく宏次を伴い比宮組の仕事に精を出した。ウサは嫁が来たことで清美、富美子と引き継がれてきた日々の家事労働から再び解放された。畑仕事が少ないときは自宅で過ごすことは無く、近隣の知り合いの家を訪ねては茶飲み話で過ごした。初代と日常生活でいがみ合うことは無いが、二人で世間話をして楽しく茶を飲む時間を持つことは少なかった。嫁と姑の間には接点のない空気感がゆっくりと広がって行った。  

年が明けて1期作の田植えが終わった頃、初代の腹が目立ってきた。長男を懐妊したのである。初代は時々実家に帰って過ごした。その頃から日本本土との物資の流通が活発となり、隣の屋敷の兼松夫婦が帰って来た。宏が紹介した神山組がセメント瓦の家を建てた。5部屋に台所のあるその頃の標準的な家屋であった。宏の家の角向かいの所有地に数軒の貸家を建てた。その賃料で暮らすようであった。

ちょうどこの年から沖縄県立北部農林高等学校(旧嘉手納農林)が隣村の宇茂佐村に移って来た。恩納村以北の生徒を対象にした農林高等学校である。普通科、商業科、電気科、機械科を有する名護高校(旧三中)と農林業教育の北部農林高等学校の2校が高等学校としての学生育成に携わったのである。宮里村は農林高校まで小さな丘を挟んで1kmも離れておらず寄宿舎に入れない生徒の宿泊所として最適であった。さらに名護高校迄も同じ距離であった。村内に学生の姿が目立つようになっていた。

昭和24年の夏に初代は長男を出産した子供の首が座るまでの2か月間を実家で過ごした。宏は休みのたびに自転車で初代の実家に通った。時によってはそこから比宮組に通った。初代は度々実家に戻って過ごした。ウサにとっては難儀な日々が続いた。何しろ毎朝宏、宏次、宏光の食事と弁当を作る必要があったのだ。ウサが毎日の家事にくたびれたころに初代は帰って来た。ウサは嫁に対して少なからぬ不快感を覚えていた。宏光の出産が終わって3か月後にはテニアン島の鰹節工場で働いていたウサには嫁の行動は理解できないでいたのだ。屋部村の田舎の貧乏家庭の出戻り女を嫁に迎えてやったが、自分の家事労働の肩代わりも満足に出来ないとの不満が燻ぶるのであった。

 隣の兼松さんの家に北部農林高等学校の英語教師宮城俊雄夫妻が下宿を始めた。子供のいない奥方は宮城先生が出校すると、暇つぶしには初代の長男の康志を時々預かっていた。その間に初代は家事労働や畑仕事に打ち込んだ。その翌年秋に次男の和彦が生まれた。長男の康志と2歳違いである。実家でのお産を終えて帰宅した秋の終わりに大型台風がやって来た。幸いにも2期作の収穫が終わっており、農作物への被害を免れた。しかし大戦で一度傾いて補修した茅葺家である宏一家の暮らす家が強風で傾いた。乳飲み子の和彦は高窓をこじ開けて毛布に包んで脱出した。そして宮城夫妻の家にしばらく厄介になった。宏が外に出て屋敷の周りを点検すると屋敷の防風林の中に50kg程のウミガメがうずくまっていた。宏は宏次を呼び、二人で縄をかけて井戸の近くのオオハマボウの幹に括り付けた。ハサマ本家の頭領の宏善を訪ねて自宅の復旧を依頼した。宏善は村の者を集めると共に神山組の定和に傾いた家の復旧を頼んだ。定和は屋根の茅を取り外し屋根の仲程の太い柱にロープをかけて家の傾きを直した。そして傾いた側に持参した柱でツッパリを入れた。最後に取り除いた茅を掛けてその上に米軍のテントを被せた。初代はゴロ石で釜土を組み大なべを据えて米を炊いた。その中に亀を潰してその肉を放り込んだ。兼松さんの庭から台風で落下したパパイヤの実を持って来て皮を剝き、ぶつ切りにして放り込んだ。即席の五目飯の出来上がりである。バナナの葉に包んで大きな握り飯にして作業人に配った。宏は和彦の100日誕生祝いだなと喜んだ。初代の臨機応変な料理が隣近所の話題になった。神山組の定和が宏に言った。「取りあえず住める家になったが、来年もこの程度の台風が来たら今度はペチャンコになるぜ。そろそろ建て替える頃だな」

「そうですか。材料は手に入りますかね」

「ああ、来月から仕掛ける家があるからその次ならアンタの家に取りかかれるかな。材料も2軒分同時に本土の材木商に注文すると仕入れ易いからな」

「金はどうするかな」

「今は銀行がしっかりしてきたから借りることは難しくないぞ。お前の家は宏次、宏安と働き手がいるし、田畑を担保に入れることも出来るだろう。ハサマのオヤジに保証人になってもらいなさい。その辺はワシの建築屋としての信用が銀行にもあるから心配するな」

「分りました。頼みます」ヒロシが頭を下げた。

「お前も働き甲斐が出ただろう。お前の代で家を建てるのが男の甲斐性と言うものだ」

「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」

「宏、料理の上手な嫁を貰ったな。大事にしろよ。それとな、作業人夫の手間賃は要らないぜ。お前も村の誰かが困ったら手助けをしなさい。ゆいまーるだ」

そう言って大声で笑った。

傾いた家の建て起しは1日半で終わった。庭の隅に亀の甲羅と太い背骨が残った。宏次がそれをカマスに入れて運び海に流した。台風が去って次の週に宏安が修行先の嘉手納町から帰宅した。宏は夕食時に家族に言った。

「神山組の定和さんが言っていた。この家は次の大型台風には持たないだろう」

「そうだな。俺もそんな気がする」宏安が言った。

「それでな、定和さんは新築を進めてくれた。今度手掛ける家と俺たちの家を連続して建てると材料が本土から仕入れやすいそうだ。どうかな、俺は頼もうと考えている。それにはお前たちの協力が必要だ」

「金はどうする」ウサが訊いた。

「今は銀行が出資してくれるそうだ。昔のように高利貸しに頼む訳では無いぞ」

「兄さん、俺も協力するから、その代り台所を大きくして菓子を製造できる釜土を置けないかな。いずれ嘉手納町の修行先から戻って名護町で商売したいからね」宏安が言った。

「構わないよ。細かい設計は何も無いから台所はお前の好きにしたらよいぞ。その代り建築費の一部を負担してくれ。お前が名護町で稼ぐようになってから銀行の返済に協力してくれたらよい」

「このぼろ家では宏次の嫁も探せないからね」ウサが言った。

「俺も頑張るとするか」宏次が笑顔で言った。

マガイハサマ小の居間の仄暗いランプの下に佇む家族の間にささやかな希望の気配にも似た空気が流れて行った。

 一家は誰もが働くことに精を出した。ウサは持ち前の行動力で田畑の借地を増やした。初代は家事手伝いを手早く済ます必要があり、ウサの後を追って農作業に駆り出された。屋敷内に簡易な小屋を作りヤギを飼った。初代は持ち前の料理の知識を生かして味噌を作り、ラッキョウ、大根、キュウリ、ニンニクの漬物を作って家計の支出を抑えた。初代の料理の腕はカメの五目飯以来隣近所に知れ渡り、祝いの席には料理の手伝いに駆り出された。手伝いの報酬に料理の御裾分けを持ち帰って家族を喜ばせた。中でも一番喜んだのが末っ子の宏光であった。ただ、初代は働きすぎて母乳が出産後の4カ月目から出なくなった。その頃には宮城先生の奥方の喜久子が康志と和彦の面倒を見ることが多くなっていた。

母乳の出が悪くなったことを心配した宮城先生は代わりに牛乳を持って来て和彦に与えた。北部農林高等学校には農業学科、林学科、農業製造学科、生活科が開設されており、農業製造学科ではパイン缶詰の製造、サトウキビから砂糖の製造、飼育した乳牛からの乳製品の加工も農業実習教育の一環として実施されていた。英語教師の俊雄は妻の喜久子の依頼で毎日3合瓶2本を持ち帰って来た。

和彦の幼児期の成長は宮城夫妻の協力によるところが大きくなっていた。俊雄は女子の生活科の実習に使う哺乳瓶の乳首を調達して母親の乳首の代わりにしていた。乳児の和彦が宮城夫妻に懐くのはごく自然な成り行きであった。奥方の喜久子にとっても他人様の子とはいえ、初めての子育てに夢中なって行った。和彦はいつしか喜久子の腕に抱かれて牛乳を飲み、喜久子の心臓の鼓動を聞いて眠りに就く時間が多くなった。和彦は初代の体内で聞いた心臓の鼓動を忘れて喜久子の心臓の鼓動に安らぎを覚えるのは仕方のないことであった。幼い哺乳動物が命の糧を与え、抱きかかえて身を守ってくれる存在に傾倒するのは自然の法則である。初代は遥か先の自分の人生の僅かな綻びが始まっていることに気づくはずは無かった。人間の女として誰もが抱く子を産んだ母親としての絶対的な優越感がそこにはあるのだから。しかし既に起った未来がそこに在った。

 年が明けて昭和27年2月マガイハサマ小の新築工事が始まった。古い茅葺屋根の茅を取り除き、床を外して軽くなった骨組み状態の家を近隣の男達で屋敷の西側の角に移動した。再び床を張り、茅を乗せて仮住まいを完成した。4か月後に新しい住宅が完成した。1番座から4番座迄の6畳の4部屋に台所と広いコンクリート土間が付いた矩の字型の家であった。土間にはレンガ造りの大小の薪を炊く窯が設置された。宏安の提案による菓子工房である。6月の完成と共に宏安が修行先から帰って来た。宏安は実家に戻らず名護市場に近い場所に家を借りて住んだ。最初は飴玉を製造して近隣の雑貨店に自転車で配達して回った。そして名護の市場の発展と共に市場内に2坪ほどの販売店を構えた。市場仲間の紹介で隣接する城村から嫁を貰って店当番を依頼した。製造場所と販売所を構えたのである。飴玉の生産から法事用の菓子類に製品を切り替えた。戦争で犠牲になった人々の7年忌の法事が盛んになった。市場で注文を受けて実家で精算をするのである。法事用の菓子の他に祝い用の鯛の形をした落雁の菓子も製造した。売り上げを順調に伸ばしていった。

 宏は自宅の台所の工事に城村の泰栄親方がやって来たことから再び親方に弟子入りした。左官工事、コンクリートブロック積、墓作りとコンクリート大工の仕事が増えて来ていた。比宮組で単純な道路工事の労務をしても将来性が無いと焦っていた頃である。賃金は大工見習の身となるので少なくなるが数年もすれば親方の後を継いで独立出来ると考えていた。宏は沖縄を出てテニアン島に渡り、黒潮の流れにも似て長崎、大阪そして黒潮反流に乗って帰郷するという10年の歳月を経て一か所に留まることが心地よく感じなくなっていた。親方に弟子入りして仕事を覚える中で近い距離ではあるが、工事を一つ片づけると次の現場へと次々に場所を変えて構造物を完成させていく仕事に大きな魅力を感じるようになっていた。

 宏次はしばらく比宮組の道路建設に携わっていたが、自宅から500m程の場所に砕石工場が出来たことを機に其処で働くことにした。昼飯を自宅で取って昼寝が出来るという単純が動機もあった。工場は大型ダンプで運んできた石灰岩を削岩機で荒く割り、破砕機に放り込む単純な作業であった。破砕されたバラスと呼ばれる砕石は馬車で小さな工事現場に運ばれた。住宅の土間、ブロック塀の積み上げ、墓の建設などの宏が関わる小規模工事に搬入されるのであった。宏次は収入が安定したので工場長の紹介で嫁を貰った。金武町喜瀬武原の出身の女性であった。町内の市場に近い食堂の女店員であった。実家のひと部屋が宏次夫婦の部屋であった。

年が明けて昭和28年になった。その年の3月に戦争遺族年金の手続きが沖縄県でも始まった。初代はウサと共に町役場で亡き義父の弔慰金手続きをした。弔慰金の申告内容をみて義父宏全の死因はテニアンで徴用された義勇軍で行方不明とした。サイパン島、テニアン島、グアム島はマリアナ諸島の激戦地域であり、16歳以上45歳未満の成人が戦闘に強制参加させられたと記録されていた。集団自決者も多く悲惨な戦場との通説ともなっていた。名護町役場に残された婚姻届けでも昭和19年の米軍上陸戦闘時の宏全の年齢は44歳であると証明出来た。9年前の激戦地の民間戦闘員の義勇軍兵士の徴用記録など有るはずも無かった。実際には体が弱く従軍できなかった宏全であるがテニアン島の戦闘で行方不明になったのは紛れもない事実であったのだから。第二次世界大戦から半世紀以上も経って沖縄県の戦没慰霊碑に仲村渠宏全の名は記名されている。初代はウサの代理で書類を完成させた。ウサは仲村渠宏の妻として未亡人の欄に署名しただけであった。弔慰援護金は2年後の昭和30年から支給されることになった。戦争が終結して10年後のことであった。沖縄県が米軍施政下にあったことで他府県よりも遅れたのである。沖縄県人の戦後の生活の困窮が続いた所以の一つでもあったのだ。

初代は手続きを完了して帰宅して夫の宏に一件を話した。宏は苦笑いしながら不可解な表情でウサに言った。

「お父は今頃からやっと働く気にようになったようだね」

「何のことだい」

「南洋のテニアン島では、お前たちが難儀させるから俺は長生きできないと愚痴ばかりこぼしてあまり働かなかったからな」

「そうだったかしら」とウサはとぼけた。

「トラは死んで皮を残すというが、お父は死んで援護金を残したな。中々気の利いた良い男だな、オカア」そう言って小ばかにするように笑って煙草を吸いに庭に出て行った。

「お前に言われる筋合いはないわい。お前だって米軍が攻めて来るのを知っていて、親兄弟を捨て海軍に志願したのだろうが」ウサは不快な幻影を見るように憎しみに満ちた目で宏を見つめて小声であるが宏に聞こえるように言った。甲斐性のない夫であったが、実の長男からバカにされる言われは無いとウサは思った。宏は兄弟の中でウサと暮らした年月が一番短く、テニアン島の戦火の中を命からがら逃げまわった家族としての強い絆が欠けていた。ウサと宏は互いに日常のさりげない会話の中に互いの間に存在する海溝にも似た深い溝が存在するのを感じていた。それは宏がテニアン島を離れて長崎に向かう時にマリアナ諸島の冲を流れる北赤道海流に落としてきた家族の絆の鎖止めの一部であった。その落としてしまった絆の一部を回収出来ずに黒潮の流れを幾度か乗り換えて旅を続けてきたのだ。宏は人生のパズルの大切なパーツを欠いたまま晩年を迎えるとはその時に気づくはずも無かった。

 昭和59年の初夏に海神際のハーリー鐘がなって梅雨が明けた頃、初代は長女の恵美を出産した。実家で出産した初代は蒸せる暑さで産後の日立ちが悪かった。宏は仕事が終わると康志と恵美に会いに頻繁に初代の元を訊ねた。和彦は宮城先生の家で暮らす日が続いていた。初代が康志と恵みを連れて嫁ぎ先に戻ったのは秋風が吹き始めた10月の末であった。

恵美が生まれて1カ月が過ぎた頃、幼馴染の和子が訪ねて来た。和子は初代の家の川向に住んでいた1学年上の親友であった。初子と同じように学業は優秀であったが女学校へ進学できるほど豊かな家庭では無かった。和子は大阪に出て働きながら看護学校を出て民間病院で働いていた。沖縄戦間近の昭和18年、サイパン島に移民していた姉が国の強制帰国命令で4名の子供を連れて神戸にやって来たが姉が病気になってしまい。和子が子供の世話をする為に一緒に帰郷したのである。それ以来大阪には戻れず、名護町内の陸軍病院化していた北山病院に勤務し、その後コザの米軍病院を転々としていたが屋部村の診療所に就職することが出来たとのことであった。その日は日曜日で小学生の男の子を連れていた。和子は屋部診療所に勤務してすぐに結婚して1児を授かったが、夫を交通事故で失っていた。子供の名を俊雄と名付け再婚はせずに子育てをしていると言った。和子は戦時中に幾多の戦争負傷兵の介護と死を見ており、戦火を潜ることで生と死の不条理に動揺しない度胸を身に着けていた。二人はしばらく幼い頃の話をして別れた。初代は去っていく和子の後ろ姿を羨望の目で見送った。初代は和子が手に職を持ち誰の世話にもならずに自分の道を行く姿をうらやましく思うと共に一抹の寂しさを覚えた。幼い頃は互いに貧乏な家庭で育つも、学業優秀で誰もが一目置く秀才であった。あれから15年の歳月が流れて自分は何を得たのだろうか。黒潮の海を渡って自分の望む物を掴んだ朋友と海を渡ろうと港までやって来て躊躇して留まった自分との差であると悟った。既に29歳となった自分に人生のやり直しは難しく、3名の子持ちでもあるという現実が心を重くした。

ウサは自家から戻った初代に対して酷く愚痴をこぼした。田畑の仕事は宏次の嫁が手伝うも農家育ちでない故に農作業にはあまり役立たなかった。近隣の女性に田植え、稲刈りを手伝ってもらい、自分も返礼(ユイマール)労力としてその家の農作業に出ていた。その当時の農家にはごく普通にあるユイマールという協力農作業であった。しかしウサには不満が残った。宏が自分の家の農作業を母親に任せて嫁の実家に足しげく通うことが我慢できなかった。和彦は宮城先生の奥さんが誰にも触らせず、康志は初代の側から全く離れない子供であった。ウサは家族の中に孤独を感じていた。

 年が明けると妊娠した宏次の嫁の腹が目立ってきた。悪阻がひどく出産3カ月前から実家の金武町喜瀬武原の実家に戻って行った。初代は宮城先生の奥さんに3名の子供を預けて田畑の作業に出ることが多くなった。和彦は宮城先生の喜久子を母親と思っていた。初代は次第に体力、気力が萎えて行った。宏は泰栄親方からほとんどの仕事を任せられるようになっており、仕事が楽しくなっていた。仕事が一段落すると発注主から酒を振る舞われる機会も多くなり、ほろ酔い加減で帰宅することが多くなっていった。井戸端で水を被り茶漬けで眠る日が多くなり初代の苦労話やウサへの愚痴を聞くことは出来なかった。初代は春の1期作の植え付けが終わって農作業が一段落したのを見計らって実家に戻って行った。

宏は帰宅して妻の姿が見えないことウサに問うと実家に帰ったと言った。今朝の出がけに妻が何も言っていなかったことを不審に思った宏は家に上がることもなく自転車に跨って妻の実家に駆け付けた。初代の実家の前の川の浅瀬をジャブジャブと自転車を押して渡った。河原の斜面を登ると2軒目が初代の実家である。茅葺屋根の古ぼけた家はカーブチーミカンに囲まれていた。丁度花が咲いていて淡く甘い香りが漂っていた、初代は縁側に腰掛けて恵美を抱き、庭のミカンの花を見上げていた。ミカンの樹冠の下の地面に白い花びらが無数に落ちていた。その花びらを集めて遊んでいた康志が自転車のブレーキ音で振り返った。宏は自転車のスタンドを立てて腰を落とした。「お父ちゃんだ」と叫んで手にした花びらを放り出して駆け寄って来た。宏は康志を抱き上げて初代に近づいた。

「どうした」と宏は言った。

「もう、マガイハサマ小の家には戻りたくない。和彦は宮城先生の奥さんに懐いているのでしばらく預かってもらいます」

「そうか」とだけ宏は言って康志を初代の横に降ろして、ポケットから煙草を取り出して火を着けた。煙草の煙を大きく吐き出した。夕暮れの停滞した空気の中をゆっくりとミカンの枝を抜けて舞い上がって行った。

「ミカンの花を始めて見た。良い香りがするし清楚な気分になるな」宏は言った。

「うん、この花を見ていると落ち着いた気分になるわ」初代が言った。

「宮城先生は何か言っていたかい」

「ううん、まだ何も話していない」

「3月になると教員は転勤があるそうだ。電力会社に勤める信興さんが言っていた。農林高等学校に通う弟の信明の話では宮城先生は教頭に昇格して宜野座高校に転勤するそうだ」

「宜野座高校は久志村の更に南側の宜野座村に出来た新しい学校よね」

「そうだ。家から見える宜野座岳の裏側だ。比宮組にいる時に橋の工事で行ったことがある村だ。人口の少ない田舎の集村が点々としている。久志村、宜野座村、金武町等の東海岸の中学生の為の高等学校だろうな」

「宮城先生に和彦を預けると簡単には会えなくなるわね」

「そうだな」宏は最後の一服を吸うと煙草を地面に落として地下足袋で踏みつけて消した。吸殻を拾うと門の外まで歩いて行って道路の窪みに捨てた。

「宏、夕飯を食べて明日は此処から仕事に行きなさい」義父の長順が部屋の中から声を掛けた。

「ありがとうございます」そう言って水タンクのある洗い場で手足を洗いに立っていった。

 3日後の仕事が休みとなった日曜日の昼過ぎにヒロシは初代と子供達を伴なって帰宅した。初代は和彦の件で宏が何も反論しなかったことでもう少しこの人と暮らすことが出来る気がしたのだ。

 居間の戸を開けてうたた寝をしていた宏次が康志の声で起き出した。

「姉さん、お帰りなさい」ひどく疲れた顔をして宏次が起き上がって視線を向けた。

「幸子さんは未だ喜瀬武原の実家かい」初代が訊いた。

「来月がお産だから、赤ん坊の首が座る3カ月後の7月迄実家に帰してある」

「そうね、その方が良いわね。お産が済んで直ぐに働かせると体を壊すからね」初代が感心したように言った。

「オカアは畑かい」初代が尋ねた

「畑なんかに行かないよ。隣近所で誰かの悪口でも言って遊んでいるのだろ」宏次が肩をすくめて煩わしい様子で言った。

その頃、3男の宏安は市場に近い自宅で菓子を製造していた。大量の注文がある場合に実家にやって来て初代を手伝わせて生産していた。市場内の店舗で売る分は自宅で作る方が効率的であった。それに半年前に長女の吉江が生まれており妻の近くで過ごしたかったのである。

初代が夕食を作っているとウサが帰って来た。

「この家の嫁が子供を連れて何処をほっつき回っていたのかしら」ウサが自分の茶を入れながら皮肉交じりに小言を言った。

「人の家庭のことはごちゃごちゃと言うな。アンタだって隣近所を遊びまわっていたのだろう」宏が射貫くような目付きでウサを見据えて言った。

ウサは怯えて宏次のほうに向かって何か言って欲しいような表情をした。宏次は知らんふりをして煙草に火を着けた。ウサは仕方なし宏光に向かって言った。

「遊んでばかりいたけど、学校の宿題は終わったかい」

「初姉さんがいなかったから出来なかった。初姉さん後で教えて」宏光が甘えるように言った。

「夕飯迄時間があるから、宿題を見せてごらん」初代は前掛けで手を拭きながら宏光の勉強テーブルに向かって行った。

「誰に似たのかね。このポンカス頭は」ウサが苛立った声で言った。

「アンタと宏全オヤジの子供であって、俺達の子供ではないぜ」宏は小馬鹿にした口調で小声であるがウサに聞こえるように言った。

ウサは次第しだいに宏との間の親子の溝が深くなっていくのを感じていた。

一方の宏は黒潮に流されて点々と居場所を変えていく中で、やっと掴んだ自分の居場所を手放す気など毛頭なかった。宏にとって妻と子供が絆の本流であって、親子、兄弟の絆は屋部川の本流では無く支流に過ぎなかった。

 3月の最後の週に宮城夫妻は和彦を連れて宜野座高等学校に転勤した。宏と初代は生活が楽になった。和彦が小学校に上がる頃に返してくれるように約束した。それ故に養子縁組をすることは無かった。ただ、互いの間には場合によっては養子縁組も有り得るとの暗黙の了解があった。

この年度には一昨年に申請していた戦争遺族年金の支給が始まることになっていた。ウサはそれを心待ちにして日々を送っていた。そして宏次もまた自分の子供が出来ることへの高揚感があった。宏光もこの春には中学に進級することになっていた。宏も宏安も自分の仕事の力量が確実に上達しており、人生の運気が膨らみつつあることを実感していた。誰もが新しい期待感を持って4月からの芽吹きの時機を持ち臨んでいた。しかし、人生は常に幸運と不運あるは希望と失望の相反する事態が罠を仕掛けて待っているのである。人生の幸・不幸の軽重は神が同じ比重で分配していると言われているが、信ずるに足る結果を見ることは無い。

(3)

沖縄の春は気付かぬままに去ってしまう程短い。気付かぬまま湿度と気温が一気に上昇するうりずんの季節に入っていく。日本本土より1カ月も早く梅雨に入るのだ。穏やかな冬の終わりの寒緋桜が咲く季節から体が暑さに慣れる間もなく高温多湿の季節に突入する。誰もが体調に異変を起し易い時期である。昔から春の芽吹きの季節に人は精神に変調をきたし易いと言われる所以だ。その禍の種がマガイハサマ小の家中に芽生えると一族の誰が予想しただろうか。

うりずんの蒸し暑さの中で清明祭が終わり、誰もが日中の暑さに馴れぬ日々を過ごしている毎日であった。この週も僅かな通り雨以外は太陽が照り付け、熱中症に捕まりそうな中で働いていた。宏と初代は翌月に5歳になる康志、1歳になったばかりの恵美を二人の間に寝かせて横になっていた。3番座敷の高窓を開けて夜風を取り込んでいた。初代は人の声で目が覚めた。誰かの歌声が外から聞こえてきた。歌声は次第に大きくなっていった。高窓から月明かりが差し込んでいた。12時を回った頃であろうか。何だか聞き覚えのある声であった。初代は爪先で宏の脛を軽く数回蹴った。深い眠りに就いている宏は起きる様子が無かった。仕方なく宏の肩を揺すぶった。

「んん、どうした。夜中だぞ」宏が眠たそうな声で言った。

「お父ちゃん。誰かが屋敷内で声を出している。何か歌を歌っているみたい」

一呼吸おいて宏が起き上がった。

「何処のバカ野郎だ。こんな夜中に大声で下手くそな唄なんぞ歌いやがって。北農高校の生徒か」

「お父ちゃん、この家の屋敷内みたいよ」

宏は高窓から顔を出して大声で怒鳴った。

「どこのバカ野郎か、やがましい」

すると歌声が治まった。

「まったく、寝られやしない」そう言って横になるとすぐにイビキを掻いて寝入った。

初代は宏次の眠る1番座の辺りで物音がしてジャーと立ちションベンをする気配を感じた。宏の怒鳴り声で宏次が目を覚まして外でションベンをしたのだろうと思った。昼間の疲れもあり直ぐに眠りに落ちた。

 翌朝は何事も無く宏と宏次は仕事に出て行った。初代はウサに昨夜のことを話さなかった。宏も朝食時に昨晩のことなど忘れたように早飯を食べて自転車に道具箱を積み込み初代が作った弁当を道具箱の中に仕舞った。そして一言「行って来る」とだけ言って出て行った。初代は得体の知れない胸騒ぎを覚えたがすぐに炊事洗濯と毎日の作業に追われた。ウサはいつもの様に籠に鍬と鎌を入れ背負って畑に向かった。水田の雑草取りや畦の草刈りなど農作業は限りなくあった。しかし適当に見回って茶飲み仲間との雑談が主な日課であった。昼飯に芋を食べて夕方にヤギの草を刈って背負い籠一杯にして帰れば日課は完了であった。暑い日が続いた。自宅から300m程離れた宏次が働く砕石工場からはクッラッシャーのガンガンという音がひどく騒々しく聞こえた。その音が暑さを助長するようであった。夜中の歌声は3日ばかり続いた。ただ初日の様にうるさい程の大声で無かったので初代は宏を起さなかった。この日は特別に暑い日であった。宏は帰宅して直ぐに井戸水を頭から被って汗を流すと共に体を冷やした。宏次はぐったりとして帰って来て夕飯を残して直ぐに部屋に引き上げた。昼間の疲れで直ぐに横になったようだ。初代が夕食の食器を洗い、翌朝のご飯を炊く準備をしている間に宏は康志と恵美を寝かしつけて自分も寝入っていた。ウサと宏光は2番座敷で既に寝入っていた。夜中に宏次の部屋から何度も寝がえりに打つような音に混じって唸り声にも似た音が聞こえた。何やら寝苦し暑さの為に寝返りを打ちながら寝言を言っているようであった。初代は昼間の暑さ疲れで直ぐに寝入ってしまった。

 初代の朝は早い。薪でご飯を炊き、みそ汁を作り宏と宏光の弁当に入れるおかずの炒め物を作るのである。宏が起き出し宏光も起きてウサが起きてきた。宏は顔を洗って作業箱の道具の点検をするのが日課である。時には鎌や鉈を研ぐこともある。この日は宏次が起きてこなかった。ウサが宏光に宏次兄さんを起してきなさいと言った。

宏光は怪訝そうな顔で戻って来て言った。

「宏次兄さんは、口から泡を吹いてウンウンと言っているよ。白い眼をしていた」

「何よ、お父ちゃん、宏次を見て来て」初代は宏に怒鳴るように言った。

宏は庭から宏次の部屋に回って行った。

「宏次しっかりしろ」と宏が言うのが聞こえた。初代は弁当の準備をしていた釜戸の火を落として宏の元へ駆け寄った。宏次はぐったりとしており宏が肩を揺さぶって正気を取り戻そうとしていた。初代は井戸に行って水を汲み腰の手ぬぐいを洗って絞った。手ぬぐいを宏に渡して言った。

「お父ちゃん、宏次の上着を脱がしてこれで汗を拭いて頂戴。上着を着替えた方が良いわね」そう言って軒下に干してあった物干し竿から宏次の肌着を取って渡した。手ぬぐいを宏から受け取ると井戸水で洗い直し横になった宏次の額に乗せるようにと宏に渡した。ウサはただ茫然と立って宏と初代のする様を見ているだけであった。宏次は穏やかな呼吸で仰向けに寝ていた。

「お母ちゃん。宏光に弁当を持たして学校に行かせなさい。俺はもう少ししてから照屋病院か幸地病院に行って来る。9時ごろになったら病院も開くだろう。先生に往診してもらおう」初代に向かってそう言って立ち上がった。ウサのほうを見もせずに外から台所に向かって歩き出した。ウサが宏次の側に座ってクバ扇でゆっくりと風を送り始めた。台所では康志がおもちゃのガラガラで恵美をあやしていた。何事も無い朝の風景を作っていた。

 宏は朝飯を食べると直ぐに自転車から工具箱を降ろし、自転車で出て行った。泰栄親方に事情を話しその日の作業が出来ぬ旨を伝えて幸地病院へ向かった。病院では看護婦が玄関の掃き掃除をしていた。看護婦に用件を話すと病院内に入って行った。程なく幸地先生があくびをしながら出てきた。宏が宏次の今朝の状態を話すと先生が再び大きなあくびをして言った。「うん、熱中症だな。頭を濡れタオルで定期的に冷やしておきなさい。家は何処かな。準備が出来たら行くから」

宏は看護婦の渡した白紙に見取り図を描いた。

「前の宮拝所から西に行った宮里の端の9班だな。家の目印は何かあるか」

「オオハマボウで囲まれた家です。終戦後の飛行場跡です。県道から畑を挟んで見える家です。県道で待っています」

「そうか、では1時間後に外に泊めてある黒い車で行くから」そう言って奥に引き込んだ。

宏は幸地病院を出て自転車に跨り、急いで自宅にむかってペダルを踏んだ。

 帰宅すると初代が宏次の額の手拭いを取り換えているところであった。宏次の様子を尋ねると、相変わらず意識を取り戻さないとのことであった。病院の件を手短かに話した。軒下で煙草を一本吸うと麦わら帽子をかぶって自宅前の県道に向かって歩いて行った。既に日差しが強さを増しており今日も暑い1日が始まる気配に満ちていた。

 宏が自宅向かいの県道の道路脇に立って東の拝所のハスノハギリの森の方向を見ていた。しばらくすると土ぼこりを舞い上げて黒い乗用車がやって来た。宏は右手を上下に振って合図した。車が宏の前で停まるとオオハマボウでの防風林で囲まれた自宅を指差して案内した。車は屋敷の中庭に入って止まった。車の後部座席から白衣を着けたメガネの男が降りてきた。反対側のドアから黒い鞄を持った看護婦が降りてきた。宏は1番座敷の宏次の元へ幸地先生を案内した。

宏次は眠ったままであった。看護婦が脈を測り、体温計を宏次の脇に挟んで体温を測った。37.5度であった。

「少し熱があるな。いつからこんな状態かな」

「今朝、気付きましたが、昨晩は食欲が無いと言って早くに床に向かいました。夜中に何だかうなされていたようです」初代が言った。

「そうですか。微熱があり脈拍が早くなっていますね。お仕事は何をなさっていますか」

「近くの採石場に勤めています」

外から採石場の稼働するガンガンと石を砕く音が聞こえてきた。今日の操業が始まったようである。

「今聞こえる音は砕石工場からかな。熱い中での砕石工場での作業は大変だろうね」

「はい、お昼に帰って来ると井戸水で頭を冷やしていることがありました」

「注射を打っておきましょう。1時間もすると目を覚ますでしょう。すこし気掛かりなことがあるので入院させて2,3日様子を見ましょう。病院ではリンゲルを打つことが出来るので回復が早くなりますからね」

「入院ですか」ウサが言った。

「この状態が続くと水分とカルシウムが不足して前身痙攣をおこすことがあります。そうなれば命を落とすこともあるのですよ」

ぐったりとした宏次を運転手と宏で抱えて車の後部坐席に乗せた。宏に向かって幸地先生が言った。

「夕方ごろに病院に来てください。詳しい診察結果をお知らせしますから。付き添いが必要ならその時にお伝えします。一応の準備をしていてください」ウサに向かってそう言った。隣の部屋から二人の幼児が心配そうに覗いており、嫁の初代の子供であろうと思ったので母親に向かって言ったのである。

車が出て行くと宏は砕石工場に向かった。宏次が入院したのでしばらく出勤できないと伝えに行ったのである。工場の責任者に会ってその旨を話すと男が言った。

「そうですか。大変ですな。宏次は動力インパクトで大きな石を割るのが上手だったから、彼が休むとしばらく生産能力が落ちるな。困ったな」そう言った。

2人の男がインパクトで岩石を割っているのが見えた。太いタガネの付いた大人の太腿程の機械のハンドルを両手で握って鏨の先を岩面にあてて岩を割り、岩石を砕くクラッシャーの中に落とし込んでいるのが見えた。インパクトを扱う男の全身がブルブルと揺れるのが見えた。岩石を割るタガネからの振動が男の体を揺さぶっているのである。宏次はこんな仕事をしていたのかと初めて知った。ふと、宏次の体の古傷に良くない影響を与えていないかと不安になった。

 宏は帰宅すると田畑を見回り、昼飯を食べると2本の鋸を工具箱から取り出してヤスリで鋸の刃を研ぎだし、目立てをして時間を過ごした。3時を回り少しだけ陽が陰り始めた頃にウサを自転車の後ろに載せて市場内の宏安の店を訪ねた。事情を話してウサをしばらく泊めてくれと頼んだ。宏安も仕事が片付いたら病院へ行って様子を見て来ると言った。ウサを伴ない病院に着くと看護婦に案内されて宏次の病室に入り宏次の様子を見舞った。宏次は無表情でベットに仰向けに寝て天井を見ていた。

「宏次、どうだ」と声を掛けた。反応は無く虚ろな眼差しをして時折瞬きをするだけであった。幸地先生が入って来たので頭を下げて迎えた。

「目を覚ましたのだが、意識がハッキリとしないみたいだな。最近様子が変わったことはなかったかな」

「別にいつもと変わっていませんでした」とウサは言った。

宏はふと気になって先生に言った。

「この2,3日、夜中に誰かが家の外で歌を歌っていたようですが、こいつだったのかもしれません」

「うむ、もしそうなら夜中に夢遊病者に陥っていたかも知れませんね」

「最初は家内が気付いて、私が不審者と思って大声で怒鳴ると歌が治まったので宏次とは思いませんでした。家内はその後も2日ばかり聞いたそうですが声が小さくなっていたので私を起さずにほっておいたそうです」

「うむ、すこし気になるな」

「それは何ですか」

「いや、まだ良く分からない、2,3日様子を見ましょう」そう言って部屋を出て行った。

「今のとこと付き添いは必要ではありません。毎日午前9時から午後8時まで面会が出来ますので、その時間内に見舞いに来てください」看護婦はそう言って出て行った。

「宏次が夜中に外に出て歌を歌う訳がないでしょう。私は何も聞こえなかった」ウサが詰るように言った。

「そうかも知れないな。能天気に人の家の軒下でお喋りして遊んで、嫁の作る夕飯を食べてぐっすりと寝る人には分からないだろう。俺は帰るぞ、明日から仕事に出る。宏安の家に泊まって病院に通ってくれ。ここからは近いだろう。宏安にそう言っておくから」宏は病室を出て行った。ウサが自分の後姿を睨み付けているのを宏は知っていた。それを知りつつウサに当てつけの言い方をしたのであった。

宏は宏安の店に顔を出して宏次の様子を話してウサのことを頼んだ。その足で泰栄親方を訪ねて明日から仕事に出ると話し、今日の仕事の進み具合を確認して自宅に向かった。辺りは既に暗くなっていた。コーラル敷きの県道が自転車の車体をガタガタと揺らした。宏は前の宮の拝所の前で立ち止まって鳥居の向こう側に広がる闇に眼を凝らした。何か不吉なモノがこちらを見つめている気がしたのだ。両手をパンパンと叩いて合掌してその場を立ち去った。帰宅すると直ぐに井戸端に行って水を被った。火照った体に井戸水の冷たさが心地よかった。水を2度、3度と被ることで身に付きかけた不吉な影を流し去りたいのが本音であった。夕食時に病院での出来事やしばらくの宏次の入院と対応を初代に話した。そして砕石工場の仕事は宏次に似は良くない。やめさせて俺の下で働かせねばとも言った。宏にとって宏次はこの屋敷で子供の頃に親元から離れて暮らし、苦楽を共にしてきた強い絆の同胞であった。

宏次の体調は中々回復しなかった。宏次が運び込まれて4日が経った日の仕事帰りに病院に立ち寄るとウサは不在であった。丁度先生が健診にやって来たので宏次の容態を訊ねた。先生はいぶかし気な顔をして宏に言った。

「お母さんは、宏次君は子供の頃から無口だが病気知らずの体であったと言っていましたが、今日何気なく頭を診察すると大きな傷がありますね。あれはどうしたのですか」

「あれですか。あの傷は子供の頃に暴荒れ馬に蹴られた痕です。10日以上も寝込んでいました。小学校に上がってからも時々ボーとしていることがありました。小学校の高学年になってからは他の子と同じように運動していましたが無口でした。でも読み書きも計算も人並にできて学校を卒業しましたよ。たまに宏次が食事も取らないで2,3日ボーとしていると、迷信でしょうが婆さまは宏次がマジムン(亡霊)に捕まって死ぬかもしれないと言って毎朝、毎晩仏壇に線香を上げていたのを覚えています。テニアン島から引き上げてからは人並に喋る男になっていました。私は軍隊にいましたので3年ばかりは一緒に生活していません」

「そうか、その子供の頃に馬に頭を蹴られたことが影響しているかもしれませんね。今の仕事はどんなですか」

「先日、これの職場に休職のお願いに行って来たのですが、削岩機を使う仕事です」

「削岩機のことは良く知りませんが、体に振動を与えるのでしょうか」

「はい、振動なんてものではありません。体中がこのようにブルブルと震えてしまします。作業員の様子を見てびっくりしました。退院後は私の下で働かせたいと考えていたところです」宏は右手を前に出してブルブルと揺さぶって説明した。

「そうですか。それが原因でしょうね。子供の頃に馬に蹴られて傷ついた脳の一部が外部からの強い振動による刺激で何らかの異変を起こしたのかもしれませんね」

「先生、宏次は回復するのでしょうか」宏は心配して訊ねた。

幸地医師は額に指を当てて難しい顔をして言った。

「脳外科は私の専門外です。私は内科と小児科が専門です。ただの熱中症とは原因も治療方法も治療薬も異なります。専門の病院に移って治療をすることが必要です。連絡を取って治療入院の了解が取れると紹介状を書きます」

「名護町内にありますか」宏が心配そうに訊ねた。

「いえ、金武の伊芸、浦添の牧港、那覇の松川に入院可能な病院があります。金武町の病院を当たってみましょう」

「いつ頃になりそうですか」

「そうですね。そろそろ先の大戦のPDS精神疾患の患者は少なくなっているしょうから、2,3日で調整が出来るでしょう。専門の病院ではいろんな診察器具も治療薬もあるので早く回復に向かうでしょう。この病院では無理です。早めに転院の手続きに入りましょう」

「お願い致します」

「貴方はお仕事があるようですから、結果が出るまで毎日夕方に来院して下さい」

「分かりました。身内で相談して転院の算段をしておきます」

「では、次の準備に入りましょうね」そう言って先生は出て行った。

宏次は相変わらず他人事のような顔をして天井を見つめていた。

「宏次、しっかりしろよ」そう言って肩を軽く握って宏は病室を後にした。

幸地川沿いの道は既に暗くなっていたが、ヒンプンガジュマルある本通りに出ると商店からの灯りの中を人々の往来が多かった。自転車を降りて十字路を横切り、市場の中の宏安の店を訪ねた。ウサが店の片隅に腰掛けて一人で茶を飲んでいて、宏安は少し早めの閉店準備をしていた。宏次が入院してからは病院の見舞いに行くので早仕舞を余儀なくされているのであった。宏は幸地医師の話を二人に説明した。但し、採石場との関連は省いて馬に蹴られた後遺症とだけ説明した二人は溜息をついてどちらからともなく言った。

「精神科のある病院か。金武町が近いね」

「先生は俺に毎日夕方に回ってくるように言っていた。転院が決まると知らせるそうだ。連絡待ちだな」

「宏次兄さんも運がないな。嫁さんに子供が出来たというのに」

「ふん、さっさと里に帰る女のことなんかほっておけ、本当に宏次の子供かどうか知るもんかね」ウサが小声で不快そうに言った。

「俺は明日も仕事だ、オカアみたいな暇人では無いから帰るぜ。ヒロ、お前も働き過ぎに気を付けな」宏はそう言って出て行った。宏は前の宮の拝所前を通るのを避けて集落の中を進んだ。拝所の中の暗がりが宏を引きずり込んで自分の運気を取り上げてしまいそうな気がしたのだ。本音は自分の心が弱くなっていることを拝所の「男の神」に悟られるのが厭であったのかもしれない。初夏とはいえ辺りは既に暗くなり、各家の垣根から僅かに石油ランプの灯りが漏れているだけであった。オオハマボウの防風林に囲まれた門を入ると台所の灯りが見えた。宏は普段は感じない安堵感が湧いて来た。自転車を台所の土間に連結した納屋に納めて工具箱を降ろした。納屋から土間への入り口にある小さな水がめから柄杓で水をすくって飲んだ。

「だだいまー」と台所に向かって声を掛けると、康志と恵美が振り向いて「お父ちゃんだ」走って来た。宏は恵美を抱き上げて「お利口にしていたか」と声をかけた。「うん」と言って肩を叩いた。宏は自分の今の幸福をしみじみと感じていた。そして、ほんの束の間だが宏次のことを忘れることが出来た。夕食が済んでから初代に幸地先生の診断結果を教えた。

 翌日の夕方、宏は病院に立ち寄った。幸地先生から案内があった。宏次は明後日の昼過ぎに転院の予定であるから誰か付き添いをしてくれとのことであった。宏は即座に自分が付き添いますと答えた。午後1時半に病院の車で出かけて先方の病院と患者の病状などの引継ぎをして夕方に戻るだろう言った。おそらく長期の入院となるだろうから当面の着替えなどは要らない。病院の患者服で過ごすので、退院の時に普段着を持ってくれば良いだろう。ここでの医療費は明後日の退院時に示しますと伝えた。宏はその時間に伺いますと言って宏次の顔を見た。相変わらず生気のない顔で天井の何処かを見ていた。宏は情けなくなって宏次の肩を軽く叩いた。宏次が視線を少しだけ動かした気がした。

 翌日、宏は泰栄親方に弟が入院するので付き添いが必要であり、休ませてくれと話した。この頃には仕事の段取りから仕上げまで宏がほとんど仕切っていた。。泰栄はウサの従弟であり仕事仲間には甥の泰造を抱えていたが宏に仕事の仕上がりを頼っていた。

「ウサも大変だろう。お前が面倒を見てやってくれ。泰造に頑張ってもらうから」

「すいません、泰造兄さん」宏より5歳年上の泰造に頭を下げた。

「宏次は良い子だ。構ってやりな」泰造が言った。泰造はセメント大工にあまり熱心でなく。田畑の仕事と半々に取り組んでいた。泰栄は自分の跡継ぎにすることを諦め始めていた。美佐子と言う名の泰造の女房は石川市出身の女で働き者の上、早口で甲高い声で喋り、泰造は女房の尻に敷かれていた。ポウシ小(大石小)と呼ばれる屋号の泰造の家は宏のマガイハサマ小よりも田畑が多く、農繁期に泰造が大工仕事に出ることを女房の美佐子は許さなかった。泰栄もそのことを知っており、自分の体力の衰えに伴い宏に仕事を継がすつもりであった。

 その日の昼過ぎに宏とウサは幸地病院にいた。宏次は幾分体力を回復しており宏に脇を抱えられて車に乗った。幸地先生と宏が宏次を挟むように後部座席に乗り込んだ。看護婦が助手席に乗り、ウサを残して病院を出た。ヒンプンガジュマルの巨大な樹冠の下のあなだ橋を渡って県道1号線を南下した。名護湾の海岸に沿って幾重にもカーブする通称七曲り道路を経て許田で左折した。名護岳と宜野座岳の間の道路を抜けて東海岸の宜野座村潟原に出た。赤土の干潟が広がる海岸線から坂を登り宜野座村松田集落に入った。宜野座福地川の谷底に降りて坂を登ると新設されたばかりの宜野座高校の白い校舎が見えた。宏はこの校内に宮城教頭先生が勤務しているのだと思った。漢那福地川の河口に架かる橋を渡ると金武町であった。マングローブが点在する湿地帯と水田が入り交ざる億首川を渡って坂道を登った。金武の米軍基地キャンプハンセンの北ゲートにカービン銃を肩に下げた警備兵の姿が目に付いた。そのゲート手前を右に折れて西に行くと宏次の嫁の幸子の実家がある恩納村喜瀬武原の集落がある。四方を山に囲まれた海の見えない盆地の村だ。金武町観音堂入り口を過ぎるとキャンプハンセンの金網フェンスが続いた。南ゲート過ぎて直ぐに右に曲がった。米軍施設と同じく高い金網フェンスに囲まれたゲートの前で車が止まり、日本人の門衛に運転手が何やら話しかけると門衛がゲートを開けた。車が施設の敷地内に入ると直ぐに門衛がゲートを閉じた。真新しい建物の玄関前で車が止まった。建物には琉球政府立・琉球病院と書かれた分厚い木製の表札があった。看護婦が車を降りて中に入って行った。しばらくして中から白衣を着た男性職員が降りて来て言った。

「患者さんをご案内します」そう言って幸地先生が車から降りた後、宏次に肩を貸して施設の中に連れて行った。宏もその後に続いた。宏次は外来患者受付室の中のベットに寝かせられた。宏次は疲れた顔で天井を見つめていた。宏は待合室の廊下の椅子に腰かけて待った。病院とは連絡が取れていたようで担当の医師が直ぐにやって来て幸地先生を診察室に招いた。宏次を見ながら何やら病状の申し送りをしているようであった。しばらくして同行した看護婦が宏を呼びにやって来た。診察室の入ると宏次はベットで横たわって目を閉じていた。

「お疲れの様でしたので先生の指示で注射を打って寝かせてあります」

「そうですか」と宏は答えた。

担当医師は胸に高田とネーム刺繍が入った白衣を着けて腰かけていた。その横に幸地先生が並んで座っていた。同行した看護婦と施設の男性職員は宏次のベットの横に立っていた。宏に向かって丸椅子に座るように手を差し伸べて勧めた。宏が座ると話しかけた。

「今日から入院する宏次さんのお兄さんですね。幸地先生から宏次さんの病状を伺いました。大変でしたね。この病院は6年前の1949年にアメリカ政府の援助で開設されました。精神病理医学は戦前と較べて格段に進歩しています。診察機械も治療薬もアメリカの最新の医学に基づいて開発されていますので確実に回復しますよ。ただ、脳の障害ですから流行り風邪や腕の骨折と異なります。回復まではそれなりの時間がかかります。いつまでに回復して、どの程度の復活が期待できるかは未知数です」

「何年もかかるのですか」宏は村の中にいた精神障害者が座敷牢に長年閉じ込められて暮らしていたのを思い出して思わず訊ねたのだ。

「心配でしょうが、大丈夫です。半年程度では回復するでしょう」

「半年ですか」何とも想像できないとの顔をして宏は言った。

「宏次君は治療の過程で精神安定剤を飲むことになりますが、彼に適した薬の成分、投薬量を突き止めなければいけません。その為にはそれなりの時間が必要なのです」

「退院すれば畑仕事などは出来るでしょうか」

「大丈夫でしょう。カルテにあるような体に強い振動を与える削岩機を扱う仕事はいけませんが、誰か近親者が見守る中ではそれなりの活動が出来ますよ」

「分かりました。よろしくお願いいたします」

「そうですね。月に2回程度の面会でよろしいですよ。名護からは遠いですし、回復はゆっくりしですから。緊急の場合は幸地先生にお電話しましょう」

「ありがとうございます」宏は幸地先生に頭を下げた。

「では、我々はこれにて引き上げましょう。高田先生、後はお任せいたます」幸地先生にうながされて宏は診察室を出た。帰りの車の中で幸地先生は宏に言った。

「この障害の治療は時間がかかるものだ。気長に回復を待つことしかないな」

「そうですね、覚悟しておきます。退院したら私の手元で働かせることにします。

「それが良いでしょう。琉球病院は米国政府の補助を受けているので入院費用はあまり高くないと聞いている。頑張って治療を受けさせて下さい」

「はい、ありがとうございます」そう言って車窓から流れる宜野座村の原野のはるか向こう側の海を見つめていた。あの太平洋の遥か先のテニアン島で一家は不運を背負ってしまったのかもしれないと思った。

 幸地病院に着いた時には陽が陰り始めていた。宏は先生と共に病院に入り入院費を受付で訊ねた。支払いはウサが既に済ませてあった。宏は改めて幸地先生にお礼を言って病院を後にした。名護十字路の市場内にある宏安の菓子店に立ち寄った。ウサが店の中の奥に座って壁にもたれてうたた寝をしていた。宏の姿を見て宏安が宏次の様子を尋ねた。宏は高田先生の説明をかいつまんで話した。

2人は安堵するも入院が長引くことへの不安を感じた複雑な表情で宏を見つめた。

「名護那覇東線のバスに乗れば金武の琉球病院前のバス停留所で降りること出来る。病院は目の前だ。門の守衛に言えば中に入れてくれる。片道1時間足らずで行けるだろ」宏がそう言った。

「2週間後の休みの日に一度連れて行ってくれ。そうすれば後は自分一人で面会に行くから」ウサは宏に言った。

「ああ、分った。俺は泰栄親方の所に寄って仕事の打ち合わせをして帰る」そう言って店を出た。宏は気の弱い無口な弟の宏次が一人で見知らぬ風景の中を旅して行くのを思って胸が詰まった。

 宏とウサは2週間後に琉球病院を訪ねた。宏次の様子は変わり映えしなかった。ウサは一人で2週間ごとに面会に行った。宏は20日に一度の割合で仕事の合間をぬって面会に行った。宏次は次第に回復の方向に向かって行った。宏次は宏やウサの顔を分かるようになり、家族のことなど古い出来事は思い出して行ったが、この数年のことから入院前のことは思い出すことが出来なかった。高田先生によると人間の脳の古い皮質の部分の記憶は消えないが、最近の記憶は脳への刷り込みが浅く記憶から抜け落ちるのだろうと説明した。老人がボケてしまって散歩路で自宅への帰り道を忘れるのと同じ現象だとも説明した。ウサは宏次が自分や兄弟のことを思い出したことに安堵した。そして嫁の幸子のことを口にしないことにも少なからず安堵していた。

宏次の転院から1カ月が経った頃、初代はふと気になって宏に訊ねた。嫁の幸子は宏次の入院を知っているだろうかと。宏はあまりにドタバタしたので宏次の嫁のことを忘れていた。初代は思案した結果、手紙で知らせることにした。恩納村喜瀬武原までは分かるが幸子の住所は記録していなかった。初代は喜瀬武原の公民館長宛に手紙を書き、同封の封筒を喜瀬武原に在住の幸子に渡して欲しいと書き添えた。封筒には旧姓喜久山幸子様と書いた。もし届かねば宮里のこちらの住所に不在者扱いで返送されるはずであった。投函して1週間が経っても戻ってこなかった。初代は手紙が届いたと判断した。幸子からの返事が無いまま淡々と4カ月が過ぎて秋の気配が濃くなり2期作の稲刈りが終わった。

この年の7月からウサは戦争遺族年金の支給を受けていた。しかし、誰にもそのことを話さなかった。宏や宏安、初代の関心は宏次の回復と退院のことであった。やがて年が明けて桜の季節になった。過ごし易い春の気配があった。宏が久しぶりに病院を訪ねると高田医師が言った。

「宏次さんの病状は頭のほうは随分と回復したので入院中に低下してしまった基礎体力をつける訓練に切り替えます。おそらく4月に退院できるでしょう見先日もお母さんに話した」と言った。そのことを宏は聞いていなかった。宏は帰宅してウサに問うとそうだったかい、忘れていたとだけ答えた。3月になるとウサが宏光を連れて家を出た。ウサの従弟の泰造の屋敷にある離れ家屋であった。宏には元より異存は無かった。泰造は仕事仲間であり住宅事情はよく知っていた。名護高校に通う学生が3名で借りていた家だった。ウサは宏次を迎えて静養させながら暮らすと言った。宏次の入院費用は全てウサが払っていた。戦争遺族年金で払っていたのだ。夫の宏全がテニアン島で行方不明となった折、宏光は幼児で富美子は尋常小学校の生徒であった。未亡人の子供養育金も加算されていたのである。むろん初代の手続きの手腕によるものであった。いずれにせよ、宏と初代の日常生活からウサの気配が薄くなった。何か肩に担いでいた得体の知れない重石が取れたようであった。ウサと初代の関りが消えたわけではなかった。田植えと稲刈り時は共同で作業するし、宏安が大量の法事菓子、祝い菓子を製造する時は実家で共同作業となっていたのだ。

(4)

 4月の初めに宏次は退院して帰宅した。ウサの暮らす家である。宏次は初代やその子供のことを忘れていた。しかし、宏安や宏光のことは10カ月ぶりであるが覚えていた。宏次はゆっくりと暑い日差しに慣れて行った。6月の1期作の刈り取りからは問題なく作業をこなした。稲刈り作業は体が覚えていたようだ。2期作の田植えが終わると宏はウサに乞われて宏次を自分の作業現場に伴った。その頃には泰栄親方は一線を離れて宏が頭領になって下働きを引き連れていた。泰造は時々共に工事に携わるも請け負うのは宏であった。ウサは泰造の離れ家屋暮らすうちに孫がいない寂しさが募った。泰造には宏光より4歳下の男の子を筆頭に康志と同い年の女の子、和彦と同い年の男の子、恵美と同い年の男の子がいた。偶然の同い年であったが子供の声を聞く度に自分にも孫がいるも抱くことが出来ない寂しさを募らせていた。ウサには4人の孫がいた。宏の子供が3人、宏安の子供が1人だ。

 年が明けて春の1期の田植えが終わり、農機具を片付けた後の実家でお茶を飲んでいた。近所の家を昔なじみの家々を回って立ち寄ったのだった。恵美は昼寝をしており、康志は初代に背もたれをして何やら手作りのおもちゃをいじっていた。

「ヤス坊、黒砂糖を食べるかい」ウサが康志に声を掛けた。

「いらない」そっけなく返事した。色白で母親似の康志はウサに全く懐かなかった。いつも初代の側を離れずにいた。恵美は時々抱かれていた。和彦が宮城先生に連れられて宜野座に行く前の2歳の頃は、先生の奥方と茶飲み話をしながら抱いたこともあった。和彦の濃い眉に彫りが深い顔立ち、浅黒い沖縄人特有の肌の色はウサと似ていた。誰もがウサの孫だと違和感なく見ていた。ウサにとっても嬉しい孫の姿であった。ウサは和彦のことを思い出して初代に言った。

「カズ坊はどうしている。このところ見ないけど」

「一昨年の3月から宮城教頭先生の所にいます」

「私は宏次のことで頭が混乱して孫のいなこと気付かなかったよ。カズ坊はいつ帰って来るのかい。あの子は私に懐いてよく抱かれたからね」

「宮城先生には子供がいないから良く可愛がってくれるわ。何時とは決めていないけど、そのうち連れて来るわ」初代は曖昧な口調で返事を濁した。

初代の煮え切らない態度を見てウサの表情が一変した。初代を睨み付けて刺すような口調でゆっくりと言った。

「アンタ、カズ坊を宮城教頭にクレてやるつもりでは無いだろうね。アンタが産んだ子に違いないが、宏を通してハサマ一門の血があの子には流れているんだからね。それにあの子はアンタよりも宏やハサマ一門の顔立ちに似ているんだから」

「いえ、そんなつもりはありません」びっくりして返事をした

「アンタが育てきれないなら、あたしが宜野座迄行って取り戻してくるわ。アタシは未だ52歳だ。援護金だってある。孫の一人くらい育てて見せる」

初代はウサの中に言いようもない恐ろしさを見て黙ってしまった。

「ふん、屋部の田舎娘が、自分の子供を売って楽して生きるつもりかい。戦前の糸満の漁師売りみたいなことは絶対にさせなからね。ハサマ一門の恥をさらすつもりかい」そう言いて飲みかけの茶を軒下に捨てた。茶碗を床にガタンと手荒く置き、もう一度初代を睨み付けてから草ゴムゾウリを履いて出て行った。ウサの後ろ姿が門のオオハマボウ間から消えると、ひどい動悸がして胸に手をやり燭台にうつ伏せた。康志が「お母ちゃん大丈夫」と背中を擦った。恵美が起き出して初代の上着を引っ張った。その日から初代は仕事が上手く片付かなかった。ウサの言葉が頭の中を駆け巡っていた。4日ほどして4軒隣りの屋部小学校時代の同級生の孝子が訪ねて来た。

「初ちゃん、アンタ大丈夫かい」心配そうに言った。

「何が」怪訝そうに問い返した。

「いやね、昨日のことだけど。隣の源光さんのお婆さんとウサさんが話していたのを聞いたの」

初代はハッとなったが何事も無いように孝子の話を聞いた。

「アンタ、次男のカズ坊を宮城教頭にあげたって言っていたけど、本当なの」

「そんなことはないわ、少し家の中がゴタゴタしていてね。それを心配した教頭先生が預かっているのよ」

「そうかい、いつ迄も預けると子供は取り返せなくなるわよ」そう言ってからお茶を飲み、黒糖を摘まんで懐かしい幼い頃の屋部での暮らしの話をした。初代は相槌を打っていたが何を聞いているか分からなくなっていた。しばらくして孝子は帰って行った。帰り際に言った。

「アンタの舅のウサ姉さんは村でも指折りの根性の座った女だと私の亭主が言っていたわ。アンタも苦労が絶えないわね。体に気を付けてね」

初代は翌朝、仕事に出る宏に実家に行って来ると言った。宏は「ああ」とだけ言って自転車に工具箱を積んで初代の作った弁当を押し込み出て行った。たまには息抜きもしたいのだろうと考えていた。宏は妻の思い込みの強さには閉口しており、特段のことが無い限り関わらぬことにしていた。それでなくとも泰栄親方から仕事を引き継いでからは片付けねばならない雑用が多くなっていた。材料の手配、工事の段取り、施主との打ち合わせ、賃金の支払いなどの親方としての作業が多く、家庭のことは主婦の仕事だと考えていた。宏は次第に大工の親方としての職人気質が身に付き始めていた。

 初代は月に1度は実家を訪れていた。生活の愚痴をこぼしに来るのだ。康志は母のウタの末っ子の朝一と同い年であり、一緒に遊ぶのが好きであった。とりわけ実家のすぐ前での川遊びが気に入っていた。二人はこの春から小学校1年に上がった齢であった。初代はウサの言ったことを不満げに父親の長順に話した。長順は煙草盆の灰入れにキセルの灰をポンと叩き落すと即座に言った。

「ウサさんの言ってることが正しい」

「えっ」と初代は期待していなかった父の言葉に狼狽した。

「ワシは自分の生んだ子供を捨てるような娘を育てたつもりは無いぞ」

「カズ坊を捨てたつもりは無いわ、直ぐに取り戻せるわ」

「お前はカズ坊を自分の子供と思っていても、あの子はお前のことを母親と思っているかな。既にお前のことを何処かのおばさんとしか思わないだろう」

初代は肩を震わせてうつむいていた。長順は追い打ちをかけるように続けて言った。

「カズ坊にとって教頭先生の奥さんが母親だ。今のお前は子供を母親から引きはがす鬼になるわけだぞ。お前はこれまで自分が生活の苦労から助かることを考えて子供を預けたが、今度は地獄を見ることになるぞ」長順は川向の丘の上を流れる雲を見上げ、遠い日に糸満の漁師に売られた頃の事を思い出していた。そして初代に言った。

「ワシの孫に、糸満の漁師売りに出されたワシと同じことをお前がするとなら二度とこの家の敷居をまたぐことは許さないぞ。子供を取り戻しなさい。分ったな」

「ハイ」初代は肩を震わせて泣きながら返事をした。

「小学校からは人口の多い名護町で勉強させたいと言って引き取りなさい。先生への恩義と子供の心の問題もあるから、互いの家を行き来させながら育てることだな。これはお前が犯した不始末なのだから」

初代は黙って庭のミカンの枝を見ていた。枝先には既には花が散った後に小豆台の小さなミカンが膨らみ始めていた。

「小学校に上がる前に幼稚園もある。ゆっくりとお前の家庭の習慣に馴らして行くことだ。急ぎ過ぎて子供の心を傷つけ捻じ曲げては取り返しがつかなくなる。その時は本当に子供を捨てることになるぞ」

「ハイ、分りました。私が迂闊でした」

「お前は勉強ができて頭が良いだけだ。本当の世の中の人間のことを解っていない」長順はキセルにキザミ煙草を詰めると備え付けの煙草盆の火種の炭火から火を着けて煙草を吸った。吐き出した煙がミカンの樹冠の中に吸い込まれていった。

初代は昼食を取ると実家を後にした。家の向かう道すがら宮城先生に会うための算段をしたが、これと言った手段を思いつかなかった。父に言われて初めて気付いた事の重大さが心を塞いでいた。

 この年の4月からは1番座と3番座を北部農林高等学校の学生に間借りさせた。農林高校に近いこともあり、近隣の家庭で間借りの学生が多く住んでいた。大戦後の住宅改築ではほとんどの住宅が大きく作られており、戦後生まれの子供たちが勉強部屋を必要とするのは数年後のことであったのだ。宏の家でもウサが宏次、宏光を伴なって出て行ったので部屋に空きが出たのである。4人家族が寝泊まりするには広すぎたのだった。月に3,4度宏安が菓子造りにやって来る時だけが騒々しくなるのであった。初代はウサがやって来る度に神経が過敏になった。後ろ盾の宏は仕事で外出中である。

 夏になってキッカケが起きた。和彦が祝い弁当のカマボコで食中毒を起こして幸地病院に運び込まれたのだ。高熱を出し生死をさまよった。夜は宏が駆けつけ、昼間は康志を学校に送り出してその足で病院を訪ねた。幸いな事に和彦は2日の入院で退院することになった。このことが宮城夫妻の負目となって和彦を引き取るキッカケとなったのである。この出来事があってウサは宏と初代を前にして強い口調で罵った。

「お前たちは私の孫を他人に預けて殺すつもりか。自分で育てないから子供が病気になるのだ。ハサマ小一門の子供を取り戻しなさい」ウサの口調は常道を逸していた。菓子作りに来ていた宏安さえも震えあがるくらいであった。

秋になり和彦は5歳になった。宏と初代は揃って宮城教頭夫妻を訪ねた。初代は父の長順が教えた通りに名護町の大きな学校に通わせたいと切り出した。喜久子夫人は和彦を抱いて必死の表情で二人を見つめていた。夫の俊雄が和彦を返すことを了解した。4年後には宜野座高校よりも田舎の国頭地区の大宜味村に新設された辺士名高校に転勤することが決まっていた。大抵の教員は自分の生まれ故郷に近い学校で定年を迎えるのが慣例であった。宮城教頭夫妻は大宜味村に隣の東村の出身であった。宜野座村、大宜味村と田舎を転勤して子供を教育するよりは本島北部で最も人口の多い名護町で教育を受けさせる方がこの子の将来の為になると考えたのである。俊雄自身も大戦前に東村慶佐次の僻地から名護町の第三中学へ進学し、大学は関東の青山学院大学で英語を学んだのであった。父親はハワイへ出稼ぎに出てその地で亡くなっていた。英語を学んだのも父が米国に渡ったことからであった。日米大戦が無ければ俊雄もハワイへ移住していただろう。人生の行路の何処かで舵取りを誤り亜熱帯循環海流の黒潮反流に乗って里帰りしてしまったのであった。俊雄が和彦を引き取って育てたのは若い頃に英語お学ぶ過程でクリスチャンとしての精神に傾倒していた頃があった所以でもあった。時期が来たら子供は本当の両親の元に帰るのが神の教えだと理解していたのだった。ただ、喜久子は和彦が小学校、中学校と進級しても夏休み、冬休みの長期休暇には必ず返してくれることを確約した。宏も初代も同意した頭を下げた。

 和彦はその年の10月から宜野座の俊雄夫妻の家と名護のマガイハサマ小の家を1週間単位で交互に暮らすことになった。そして翌年の4月から宮里公民館にある幼稚園に通い始めた。一つの区切りが始まったのであった。ただ、初代は和彦の扱いには随分と心を痛めた。和彦は喜久子に言い含められて初代の下で暮らすようになったが、直ぐには新しい暮らしに馴染めなかった。和彦は夕方になると海の見える2番座の戸口に立って海に向かって「お母さーん」と涙声で呼びかけた。夜になると「お家に帰りたい」ぐずついて泣いた。初代は恵美を宏に渡して和彦を抱いて寝た。自分のしたことが今頃になって酷い仕返しとなって襲ってきたのだ。胸が締め付けられる思いで眠れぬ夜が続いた。そんな日が1週間続いた後に喜久子が和彦を迎えに来た。和彦は喜久子の胸に飛び込んで「お母さんのバカ」と言って胸を叩いて泣き出した。そして振り向いて初代に手を振って「おばちゃんバイバイ」言って笑った。二人の母親は複雑な思いで時の流れを待った。2度、3度と宿泊先を変えることで、和彦は喜久子の元へと帰る場所があることが分り、マガイハサマ小の家で暮らすことに抵抗が無くなっていった。和彦が戻ってきたことで喜んだ一人がウサであった。和彦はウサに連れられて近所の家々を遊びまわることに抵抗が無かった。この頃はいわゆる団塊の世代であり近所には同い年の子供が多く暮らしていた。ウサは孫の自慢をして友人と茶飲み話をするごく普通の幸せを手に入れた。ウサは心の中に長く引きずって来た棘にも似た何かが抜け落ちていった。

 翌年の春にはもう一つの変化があった。3月の終わりごろ宏次の嫁の幸子が初代の下を訪ねて来た。日暮れには少し早い時間に一人の学生と1歳くらいの女の子を連れていた。

「あら、幸子さん久しぶりね。元気そうで何よりだわ」初代は声を掛けた。

「ご無沙汰しています。おかげさまで親子共々元気に暮らしています」

「この子は貴方の子供なの。お名前は、何歳ですか」

「エツ子です」そう言って指を1本立てた。

「お利口さんね」初代はそう言って頭を撫でた。女の子は恥ずかしそうに幸子のスカートの裾を掴んで後ろに回った。

「初姉さん、チョットお願いがあるの」幸子が言った。

「どうしたの」エツ子に視線を送ったまま返事した。

「実はこの学生は従弟の子供なの、北部農高校に合格したけど学生寮が一杯で入れないのよ。学生寮が増築されるまで何処か住める場所がこの辺りに無いかしら。私が以前にこの辺りに住んでいたので頼まれたの」幸子が言った。

「あら、運の良い子ね。来月から其処の部屋が空くわよ。既に引き上げて中は空っぽよ」初代は顔を上げて学生を見た。そして1番座を指差した。

「あら、あたしたちがしばらく暮らした部屋ね」幸子が言った。

初代は1番座の中戸を開けて中を見せた。

「2人部屋として使えるわよ。二人で借りると安く付くし」

「喜久山誠忠と言います。ぜひお貸しください。友達と二人で貸して下さい」そう言って深々と頭を下げた。

「少し気兼ねしたけど、来てみるものね」幸子が言った。

「今週の日曜日に机やその他の荷物を運びたいのですが宜しいでしょうか」

「家は鍵を掛けないので大事な物は自分で管理してね。それとコンロなど火の気ある道具は持ち込まないこと。いいわね」初代が言った。

「分かりました。これから学校に寄って間借りに必要な届出書を貰ってきます。叔母さん待っていて下さい。失礼します」そう言って喜久山君は出て行った。

「若い子は良いわね」幸子が笑って言った。

「立ち話も何だから中に上がって、恵美が昼寝をしているだけだから」そう言って台所から家の中に入って行った。

家の中に入り座卓を前にして幸子が尋ねた。

「お義母さんは此処にはいないの。宏安さんは此処で菓子作りをしていないの」

幸子が訊いた。

「宏安の菓子作りはほとんど無いわね。宏次と宏光のお義母さんはポーシ小の泰造さんの離れ屋敷に移ったわ。ほらお喋りのミサさんの家よ」

「ああ、石川訛りに早口の女性ね」幸子が言った。

初代はお茶を入れて、菓子箱から宏安の作った菓子の失敗品を出してエツ子にすすめた。

「アンタと宏次の間はどうなったの」幸子に訊ねた。

幸子はお茶を一口飲んでから話し始めた。

 幸子は初代からの手紙を受け取ってから宏次の入院を知って病院を訪ねた。腹は随分と目立ち始めていた。最初に訊ねた日の宏次はうつろな眼差しをしていて誰にも対応しない様子であった。医者の勧めで面会は2週間に1回程度が良いだろうと言われてその通りにした。しかし変化は無かった。やがて臨月に入り面会を中断した。子供が生まれて1カ月が過ぎ、幸子の体調が戻って来たので病院を訪ねた。宏次は穏やかな表情に変わっていたが、幸子のことを忘れていた。それでも2週間毎に面会に行ったが幸子のことを思い出すことは無かった。幸子の父親がエツ子の出生届を出した。宏次のいない名護の嫁ぎ先に戻るわけにもいかず自分の実家の手伝いをして過ごしていた。エツ子が生まれて3カ月が経っても宏次の記憶は戻らなかった。そして4カ月目に事態が変化した。幸子がお産の為に嫁ぎ先を出てから半年が経っていた。面会中にウサがやって来たのだ。

「ご無沙汰しております。お義母さん」幸子が立ち上がって挨拶した。

「半年も顔を見せない女にお義母さんと呼ばれる筋合いはないね」ウサは幸子を睨み付けて言った。そして宏次に向き直って問いただした。

「宏次、お前はこの女が誰だか解るかい。分るならお母に教えてくれ」宏次は幸子をじっと見て両手で頭を抱えた。

「お母、多分会ったことが無いと思う。思い出せない」弱弱しく呟くとベットの上で頭を抱えて前のめりにうつむいた。

「どこの女か知らないが、宏次はアンタのことを知らないとさ。この子に関わるのは止めておくれ。この子に嫁や子供は必要ないし、育てることも出来ないさ。二度と私たちの前に顔を見せないでくれ」ウサは怒った時に見せる人を刺すような鋭い目つきで突き放すように言った。

幸子は宏次との関係が終わったと悟って病室から出て行った。そしてこの日を最後に面会に行くことを止めた。新しい生き方を探すことしか道は残っていなかったのだ。

幸子は宏次に最後に会った日のいきさつを話してから初代に訊ねた。

「あの人は初姉さんのことも覚えていないの」

「そうね、夫の兄嫁として理解しているだけみたいね。うちの人が大工仕事の下働きとして使っているから」

「義兄さんがいて本当に良かったわ」

「兄弟や昔の人の顔は覚えているみたい。でもこの数年前に会った人は記憶に残っていないの。最近あった人は覚え始めているみたいね。ただ、向精神薬を定期的に服用しているから皆と同じだけの体力は無いようだね」初代がため息交じりに言った。

「宏次を助けてあげて、ありがとうございます」幸子が涙目で頭を下げた。

「それで貴女はどうしてるの」

「仕事に就いたわ。金武町にはキャンプハンセンがあるでしょう。レストランの厨房で皿洗いをしているわ。この子と二人で食べる分は稼げるの。でも、沖縄の景気が良くなったら県内企業で働くわ」

「そう、頑張るのよ。宏次に子供を育てる力は無いけど、子供を手放してはいけないよ。私はエツちゃんが貴女と宏次の子だと信じているからね」初子は幸子の手を握って言った。

「ありがとうございます」と言ってポロポロと涙をこぼした。

「あら、見てごらん、大人がおしゃべりしている間にあの子たち仲良く遊んでいるわ。やっぱり従妹同士ね」初代が言った。

「あら、ほんとだ。子供は良いわね」幸子がハンカチで涙を拭いて笑いながら言った。

初代は真面目な顔をして言った。

「宏次の籍は未だ抜いていないでしょう。その時が来たら書類を郵便で送って良いわよ。私が宏に言って書類に署名と印鑑をつかせて返送するから」

「考えておきます。ここの住所は知っていますから」

2人は幸子が暮らしていた頃の宏次の変わった癖を話題に茶を飲んでいると、門から2人の学生が入って来た。

「叔母さん学校で書類を取ってきました。相棒の西銘君です」そう言って傍らの青年を紹介した。

「喜瀬武原出身の西銘誠仁です」そう言って深々と頭を下げた。

幸子は立ち上がって言った。

「エツ子帰りますよ。お姉ちゃんとはまたいつか遊びなさい」

「ハーイ」と言って恵美から離れて駆けて来て幸子に抱かれた。

「お姉さんに会って胸の痞えがとれたわ。ありがとうございます。お義母さんには今日のことは内緒にお願いします」

「解ってますよ、私も嫁に来てこの家の大変さが良く分かるわ」初代はそう答えた。

訪問者達はオオハマボウの門から出て行った。喜久山青年におぶさったエツ子が門を出る時に振り返って手を振った。後年、エツ子が実父の宏次に会ったのは57歳となった秋の宏次の告別式であった。初代は身軽になった幸子が心底うらやましいと思っている自分に気付いてハッとなった。慌てて井戸の洗い場に行って水を汲み、冷たい水で顔を洗って腰の手拭いで顔を拭いた。日差しは既にオオハマボウ樹冠に隠れてしまい、長い影が住宅の縁側まで伸びていた。初代は夕食の準備に取り掛かるため台所に向かって歩き出した。

(5)

 時が淡々と流れた。黒潮海流に乗って愛知県の紡績工場に集団就職していた清美と富美子は紀州沖で反転する黒潮反流に乗って帰郷した。そして嫁に行って新しい一家を構えた。二人は主婦の傍ら仕立て直しの仕事を引き受けていた。宏光は中学を卒業するとハサマ一門の仲村宏郎さんが設立した名護鉄工のアルミサッシ加工部門に就職した。宏安は新しく菓子工場兼住宅を建築して実家での菓子作りをしなくなった。宏はセメン大工の頭領として沖縄本島の北部一円を渡り歩き、墓作り、公共工事の校舎のブロック積、民間のブロック積、モルタル塗り等の腕の良い職人集団として本島北部の建設業仲間で名を知られるようになっていた。セメント大工と下働きを数人抱えて奔走していた。宏は男子が3名、女子が4名の子持ちとなっていた。通貨は米軍票のB円から米ドルに変わった。1962年のキューバ危機で砂糖の価格が急騰して稲作からサトウキビ作に沖縄の農業が急変した。宏たちは小作していた為又のハサマの水田を手放した。ヒルギ原、ナザキ原の水田地帯は全てサトウキビ畑に変わった。水田からサトウキビ畑に変わったことでウサがマガイハサマ小の実家に来ることが少なくなった。清明祭の墓参りと旧盆の仏壇行事の時だけとなった。宏光が名護鉄工を退職してハサマ一門の宏栄と共にアルミサッシ工場を設立した。ウサはポーシ小の借家を引き払って村の外れに土地を求めて宏光の名義で住宅を新築した。宏光のアルミサッシ工場はコンクリート住宅の建築ブームに乗って繁盛した。やがて宏光は8歳年下の実家の近くのソセイ屋の長女の美恵子を嫁に貰った。ウサは再び嫁と考え方が合わなくなった。50歳も年下の嫁の考え方に会うはずも無かった。ウサは再び土地を買い求めて新築した。そして宏次を伴なって移った。ウサの隣の屋敷には次女の富美子夫婦が住んでいた。ウサは70歳となっていた。ウサには子供の嫁と争うだけのエネルギーは残っていなかった。ウサの乗る船はやっと港に停泊したようであった。ウサは夫の援護金と宏次の稼ぎで十分に生活が出来た。若い頃から浪費をすることのない女であったのだ。清明祭、旧盆には宏一家のくらすマガイハサマ小に兄弟姉妹嫁婿が集まった。皆同じ名護町内に暮らしていた。80歳を超えたウサはひ孫を抱く幸運を得て長い旅路を終了した。そして宏の暮らす実家の仏壇に夫の宏全や一族の先代と共に祭られた。

 ウサや宏の兄弟姉妹は黒潮の海に翻弄された後に、それぞれの港に船を係留した。ヒロシがマガイハサマ小の頭領としての立場に落ち着き、初代はその妻として一族を繋ぐ祭事を取り仕切った。兄弟姉妹はそれぞれの一家を成しており、

初代はマガイハサマ小の中で自由を得た。そんな暮らしの中でも心の中に何か置き忘れた物が残っていた。遠い日に知った親友の和子の生き方への羨望と我が身を不遇と思う感覚が再び沸き起こっていた。しかし、時の流れは既に40歳を超えた初代から新しい選択の余地を取り去っていた。初代にとっては宏だけは自分の存在を尊重してくれるはずであったが、宏は自らの仕事にのめり込んで初代に寄り添うことを止めてしまった。少なくとも初代にはそう思えた。ヒロシが配下の人夫を増やし、「親方、親方」と尊敬の念を込めて呼ばれるのを見る度にあの輝いていた自分は何処に消えたのだろうかと落ち込んで行った。自分の人生の航路の寄港地はこの場所では無いのだろうかと思うことが少なくなかった。ウサの軋轢から解放された初代は、自分の輝く場所を見失っていたのかもしれない。初代のプライドは今の場所に満足を得ることが出来なかった。初代の苛立ちは夫の宏に向けられた。宏が配下の人夫から尊敬の念を受けるのを見るにつけてマガイハサマ小を支えている自分に対して彼の配下の者たちが示す敬愛を宏が自分に示して欲しかった。初代は宏の日常の生活態度を何かとクレームをつけて罵ることが増えていった。夫婦喧嘩が増えていった。宏は初代のクレームが煩わしくなって仕事に逃げ込んだ。初代は夫への不満を子供へ訴えた。それを最も多く引き受けたのが幼い頃から身近に置いて育てた康志であった。和彦は中学、高校、大学と宮城先生の家と往復する生活をしており、初代の不満のはけ口にはならなかった。ある意味で初代とウサは似た気性の持ち主であった。自分のテリトリーを自分が仕切らないと気が治まらなかったのである。ウサが嫁と合わず3度も居場所を変え、最後は次男の宏次と暮らしたのもその気性の故であった。和彦は成人してから初代の気質を如実に示した出来事を知った。和彦が選挙権を得て初めて国政選挙に投票する機会を得た頃の事だ。大学の夏休みで帰宅中であった。通りはひっきりなしに選挙カーが広報活動を行っていた。「うるさい選挙カーだな」と和彦がつぶやいてアルミサッシのガラス戸を閉めた。テレビを観ていた初代が振り向いて外に視線を向けて言った。

「選挙はいつでもウルサイものよ。でもね、大切な選挙もあったのよ」

「なにが」和彦が問うと初代は何かを思い出すように話した。

「お前たちが小さい頃の事だけどね。県会議員選挙に屋部村から又吉興和先生が立候補して、名護からは岸本誠仁さんが立ったの。その頃、弟の武正は又吉先生の関連会社に勤めて間もない頃であったわ。武政は先頭に立って選挙応援をしていたの」

「又吉県議はどこかで聞いた覚えがあるね」和彦が答えた。

「そんな時にね、武正がやって来て言ったの。お父ちゃんが岸本候補の選挙事務所前のテントの真ん前に陣取っている。それで又吉先生の選挙事務所の仲間からひどく詰られたと言ってきたのよ。『アンタは姉の夫も説得できないのか』とね。武正が私に何とかならないかと言ったのよ。私はお父ちゃんに言ったわ、アンタは弟の出世の邪魔をするつもりなの。私は全く物事の分からない人と結婚したと思ったわ。でも、又吉先生が勝ったので事なきを得たのよ」初代はそう言って飲みかけのコーヒーを口に運んだ。

「へぇーその頃は選挙熱がすごかったのだろうね」そう言って選挙カーが遠のいた後の窓を開けた。

初代を見ると何か面白いシーンが映っているのか、テレビ画面を見て笑っていた。和彦がその続きを聞いたのは40年後のことだ。初代は入院中で不在の時である。やはり選挙カーが裏通りをひっきりなしに通っていた。今度は市会議員選挙であった。立候補者数が多く、次々と選挙カーが通過するので「うるさいね」と和彦が言ってダイニングキッチンの高窓を閉めた。午後5時半の早い宅配弁当の夕食を食べ終わった宏が突然に話し出した。この頃の宏は何の脈略もなく、いきなり本題に入る話をするのであった。話題について後から問い直すことも度々であった。

「武正の奴、俺が選挙事務所の前で陣取っているのをお母ちゃんに告げ口しやがって、俺だって好きで選挙事務所のテントに居たのでないよ。仕事を教わっている泰栄親方の指示でやっていたのさ。俺だって妻子の為に生活を賭けて動いていたのさ。俺に親方の言い付けを断れる訳がないだろ。武政の奴は自分の事だけを考えていたのさ。アイツは変な病気持ちでな。時々眩暈がすると言って俺の家で休ませていたのよ。人の恩義も解らない若造だったよ。おかげで、俺はお母ちゃんにこっぴどく叱られたさ」宏は遠くを見るように話した。宏の話をいきなり聞いても何のことやら分からないだろう。和彦の中で40年前の記憶が明確に繋がった瞬間であった。初代は自分のテリトリー、屋部の実家を起点とする初代の自我の源流が其処に在ったのだった。母の初代と祖母のウサは群れの頂点に居場所を持ねば心が落ち着かない女であり、その意味で同じ気質を備えていたのだ。その二人が四六時中同じ空間で佇むことは無理なことであったのだろう。

初代が主婦に収まった頃にはユイマールの習慣が失われており、隣近所との総合扶助の付き合いは消滅していた。それ故にユイマールを元にした井戸端会議で不平不満を発散する機会を失っていた。さらに初代は女同士で集まって無意味な雑談を好むタイプの女ではなかった。むしろ井戸端会議に嫌悪感さえも持っていた。康志が初代の分身の如く5名の弟妹の世話をすることが多くなり、宮城先生の家を出入りする和彦は中学生になると宏の仕事を手伝って小遣いを得ることが多くなった。和彦は頭領の息子で在るが故に宏の配下の人夫からも一目置かれる建設現場が心地よかった。初代と宏はウサが去った後のマガイハサマ小の新しい未来を自らが方向づけているとは知らかなかった。誰もが今日、今この瞬間に既に未来を作っているのである。只、誰もが未来の物語を読もうとしないだけである。

 1972年、沖縄は米政府の施政権下を離れて日本政府の下に編入された。いわゆる日本復帰である。大戦後に米政府の援助でインフラ整備が進んだように、今度は日本政府の援助でインフラ整備が進んだ。県道1号線が国道58号に変更され国道整備が急速に整備された。宏の周りでも急速に建設業が盛んになった。名護湾の一部が埋め立てられ、国道が市街地を避けて宮里と宇茂佐の間を北に向かって羽地に抜けて行った。イシマサキの4枚の水田は国道に売却された。宏はその売却金を元金にして長男の康志名義で新しいコンクリート住宅に建て替えた。神山組が木造建築を建ててから20年後のことである。土地の売却益は子供の教育費に当てることが出来た。宏の世代と同じく中学で卒業する者は無く、すべての子供に高校、大学と人並み以上の教育を与えることが出来た。宏と初代の7名の子供は伴侶を伴ない、それぞれの船旅をして新しい港に帰港した。

 宏は60歳を過ぎると体力と気力の衰えを感じてセメント大工集団を解散して頭領の座を降りた。小さな建設業者の左官職人として非常勤で雇われた。その頃には7人の子供はそれぞれに独立しており、自分の稼ぎで生活が賄えた。さらに名護市の市道改修に伴い桑木の下の土地を売却した。宏は75歳になっていた。その頃には長男の康志は本社勤務で浦添市に夫婦で暮らしていた。宏夫婦の日常は末娘夫婦と一人の孫の5名暮らしとなっていた。マガイハサマ小の3代目宏が初代の仲村渠宏友から受け継いできた田畑は100坪足らずのタードーシだけとなっていた。それでも家庭菜園として十分であった。ニンジン、大根、ジャガイモを育て宏光、清美、富美子、宏次の妹弟に配り、近くに住む次男の和彦に分け与える楽しみを得ていた。一方初代は、ウサが出て行った後で覚えた喫煙の弊害で肺の機能を悪くしており、畑に出ることは出来ず庭の手入れをするだけであった。しかし、加齢と共に肺の機能は増々劣化して酸素過給機から細い管を通して酸素を補充する体となって行った。既に台所の火の前に立つことが危険になっていた。初代の健康の劣化が末娘一家と暮らす所以であった。

 長男の康志は59歳で大手建会社の試験室を早期退職して、実家に戻って来た。同居していた末娘一家と入れ替わった。宏夫婦は長男夫婦との生活が人生の末日まで続く人生の既定路線を喜んだ。しかし康志の乗る船はしばし寄港しただけで直ぐに自分の港に向かって出航して行った。3年間の停泊に過ぎなかった。ウトから宏全、宏全から宏と続いた長男と晩年の生活を異にする3度目の輪廻が訪れたのである。宏は覚悟していた。あの時、自分が作った未来であるのだと。マリアナ諸島を流れる亜熱帯還流から黒潮海流へと流されていく中で何か血族としての大切な絆を洋上の何処かに落としてしまったのだ。あの時、志願兵に応募して新しい海流の流れに乗らなければ、今と異なった未来を掴んでいたかも知れないと思った。おそらく、昭和18年9月10日午前9時、海軍運搬船佐世保丸がテニアン港の桟橋で係留ロープを外した時、自分と家族を結んだ絆の鎖のフックを港の海底に落として出航したのだ。初代には長男のいない晩年が来るとは全くの想定外であった。そして初代の晩年もあの日、あの時に自ら作った未来であった。田植え、稲刈りの仕事に精を出し、正月、清明祭、旧盆行事には義母のウサ、宏の兄弟夫妻を招いて滞りなく祭祀を成し遂げてきており、長男嫁として一族を満足させてきたとの自負があった。常に自分の側に置いて育てた長男のいない晩年を迎える寂しい終末が来る理由が見つからなかった。しかし、康志は初代、宏、ウサの居場所を巡る軋轢を見て育ったのである。親の介護と言う現実が厚みを増してくる日常から脱出したくなっても不思議ではない。宏も初代も実母、義母の晩年の介護には関わっていなのだから。康志の親元からの出奔は遠い日に初代が作った未来の基であったのだ。ただ、喉元を過ぎ去った過去の熱さを忘れてしまっただけである。

 2012年4月29日、康志は山口県で暮らす弟を除き5名の弟妹を実家に集めて兄弟会議を開いた。兄夫婦と5名の兄弟姉妹が1番座敷で座卓を囲んで話合いを始めようとした時、初代がやって来て子供たちを眺めた。

「私も一緒に話合いに参加させて」と初代が襖の側に立って言った。

「お前は此処にいろ」と宏が強い口調でたしなめた。初代はしぶしぶと2番咲きに戻り自分の愛用の藤造りの座椅子に腰掛けた。

康志が話の口火を切った。

「俺は退職してこの3年間で十分に両親の介護をしてきた。あとはお前たちで両親の介護の続きをやってくれ。俺は新しいアパートの賃貸契約をしたのでこの家を自由に使ってくれ。少なくとも3年は帰ってこないからそのつもりでいてくれ」康志は勢い込んだ口調で矢継ぎ早に話した。

和彦はこの日が来るのを予感していた。兄の苛立ちが目立ってきた1年前から何度か居酒屋に誘って兄の不満を聞いていたのだ。

「そうか、分った。いつからにするかい」康志に聞いた。

「1週間後の5月6日にはすべての荷物を片付ける」そう言って会議を終了して康志は出て行った。康志は4月6日に宏と親子喧嘩を起して家を飛び出しており、既に5名の兄弟姉妹で介護らしき両親の見守り当番を始めていたのである。

「では、今日まで不安定な日常であったが、これからは正式な宿泊当番を実施しましょう」

和彦は妹達に言った。4名の妹は安堵した顔で頷いた。

初代は「康志はどうしたのかしら」と毎日愚痴ともつかない独り言を言った。時々むきになって「康志を連れ戻して」と子供たちを詰った。宏は「あれはもう子供じゃない大人なのだから」と初代をたしなめた。初代は康志が出て行ったのは貴方のせいだと宏を詰るように見つめた。宏は何も言わなかった。すでに起こったことだ、あの子の好きにすればよい、ワシがやった事と同じように気の済むまま暮らせばよいのだと思っていた。

 年寄りの物忘れは常道であると言われているが、2カ月もすると初代は康志のことを口にしなくなった。康志が去ると同時に康志の日常的な苛立ちの態度を見ることが無くなった。そのことが初代と宏の間に漂っていた緊張感を取り払ってくれたのである。康志夫婦に代わって交互に介護にやって来る5名の子供たちの賑やかさは長男夫婦の気配を薄くしていった。そんなある日の和彦が宿泊当番の日の夕食後に初代が言った。

「私は康志の教育の仕方を間違っていたのかね。あれは私が何か言うと『俺達には子供がいない』と言ったのよ。宮城先生みたいに子供がいなくても立派な方がいるのにね」相槌を期待するように言った。

「子供の教育が間違っていたから親を置いて出て行ったのだろ」和彦は皮肉交じりに突き放すように言った。

「親の心子知らずだね」と和彦を睨んでからテレビの部屋に向かって歩き出した。その後姿に向かって和彦は、

「兄貴には兄貴の考えがあるんだろ」と母の背中に投げつけるように言った。

(子の心を知らない親だっているんだ。どっちも同じことだ)と和彦は思った

「兄貴は元気かな」と晩酌のビールと飲み干すと呟いた。初代と和彦のやり取りを聞いていた宏がポツリと言った。

「あれは心の弱い子に育ってしまったな」

初代の口から康志のことを問うことが次第に少なくなっていった。子供たちが代わる代わる美味しい食べ物を持って宿泊介護にやって来ることや、時折それぞれの孫ともなって来ることに慣れて行った。3カ月が経った頃、初代が思い出したように言った。「私は康志と暮らすより、貴方達と暮らす方が楽しいわ」

和彦は年寄りのオベンチャラかと思って苦笑いをしながら「ホウ、そうかい」と聞き流すように言った。

「だって、あの子は怒りっぽくて怖かったのよ。私が何か言うとバンとテーブルを叩いて出て行ったのだから。貴方達は誰も怒らなくて優しいしね」初代が満足と不満が入り混じった顔で言った。初代が康志のことを話題にした最後の言葉であった。和彦は兄貴が両親との暮らしに相当に苦戦していたのだと思って母の上機嫌とは裏腹に心が沈み込んだ。

 ハサマ本家の6代目の次男の宏友がマガイハサマ小の初代として分家して嫁のウトを迎えた。ウトが2代目の宏全の嫁のウサと暮らしたのが12年間である。ウサが3代目の初代と暮らしたのが6年間である。初代が4代目の康志の妻である嫁と暮らしたのは3年間だ。マガイハサマ小の嫁と姑が暮らす期間が短くなっていく輪廻は次第に短くなっていき、5代目以降は存在すらなくなった。輪廻は家風では無く、そこに暮らす人々が作り、次の世代に見せて無意識に教える。人々の無意識の言動がビリヤードの玉突きの如く続くのだ。最後の玉がホールに落ちて連続性を絶つまで続くのだ。人間が悲しい性を持つ生き物である所以だ。しかし多くの場合、自分の過去を美しく飾り直して正当化するのも人間の性であり、生きる為の哀しき知恵でもあるのだ。

初代は90歳になると体力の衰えが目立ち、自宅を出て介護施設に移り、病院に入院することが多くなっていた。宏は海軍に入隊した程の体力と強い自制心から健康を保っていて、毎日のデイサービスを楽しんでいた。尤も94歳からは車椅子の世話になっていた。初代は肺の機能が次第に低下してゆき、病院での暮らしになった。初代が嫁いできて幾度も帰りたいと思っていた実家のある集落に続く道路から少しはなられた丘の上の老人専用の病院に入院した。半年ほど入所していた特別介護老人施設から専用の介護タクシーに乗って国道449号を西に向かい、屋部川を渡り、幼い頃の通学路に掛かっていた勝美橋の上流に新設された片側2車線の高架橋を渡り、右折し県道72号名護運天港線に入った。直ぐに左折して500m程登った南向きの斜面に新設された養老施設と内科病院が併設された勝山病院が初代の終の棲家となった。病院のベットからベランダの向こうに屋部集落とその前の穏やかな海岸、更に名護湾の向こう側に名護岳、宜野座岳、恩納岳が南側にゆっくりと低くなって連なっていた。屋部集落のフクギの屋敷林は大戦前の状態で家々を覆い隠し、3階建ての屋部小学校の校舎のだけが見えた。朝日が名護岳から昇り、夕方には校舎の窓ガラスに夕日が反射して初代の部屋まで届いた。夏の強い日差しは名護湾のさざ波に反射してキラキラと光った。まるでミジュンの群れにも似て心が躍った。朝と夕方には勝美橋を渡る小学生の一群を見ることがあった。初代は80年以上も前の遠い日々を思い出して心が和んだ。人の世の芥を知らなかったあの頃が一番楽しかった気がした。遠い日々を思うままに飾り付け、幼い頃の貧乏の辛苦を置き去って、病院生活を思い出の中だけに生きていた。初代の幼い頃の親友の和子の一人息子がこの病院の院長をしていることを知らなかった。国費で北海道大学医学部に進学した俊雄は、婿養子で入った北海道の病院を息子に任せて、亡き母和子への罪滅ぼしの為に65歳の時に母の故郷の病院に着任したのである。神が今は亡き親友の為に気配をして送りこんで来たのかもしれない。人の世の奇妙な糸でつながっている絆の1本であったかもしれない。初代は自らの夢や思いが失せていく中高年期の憂鬱を喫煙で紛らわせた。肺の機能を低下させ、持病の心臓の疾患を助長した。そして入所から1年後の12月の小春日和の昼過ぎ、珍しく吹いた強い南風が名護湾のリーフに小さな白い波頭を立てていた。初代は屋部海岸の防風林のモクマオが左右に揺れるその先の白い波頭を眺めている途中で心臓大動脈瘤を破裂させた。和彦は定年後に始めたランの育種専用ハウスの北風対策をしている途中で病院に呼ばれた。病院で母の手を握ると未だぬくもりがあった。担当の山川女医の求めに応じて既に意味のなくなった呼吸装置の解除を了解した。女医は午後4時13分死亡を確認しましたと告げた。92歳と6カ月の生涯を閉じた。初代の葬儀を滞りなく済ませた。

宏はデイサービスセンターの職員から娘さんの迎えが遅くなるので夕飯を食べてからのお帰りになりますと告げられた。宏は5名の子供の誰もが迎えに来ることが出来ない不測の事態が発生したことを予想していた。午後8時過ぎになって恵美と次女のさゆりが迎えに来た。宏は二人に理由を訪ねなかった。車が家の前で停まった時に門に忌中の灯篭が設定されていることですべてを悟った。

1番座敷に西向きに枕をして初代が横たわっていた。和彦が初代の顔を覆っていた白いハンカチを取って細長い線香に火を着けて宏に渡した。宏は車椅子に座ったまま線香を両手で挟んで合唱した。

「午後4時13分、動脈瘤の破裂が原因でした」と和彦は宏に言った。

「そうか、一晩中線香を絶やさないでおくようにしなさい」そう言って宏は自分の寝室に向かって恵美の押す車椅子で移動した。

淡々と葬儀と執り行われた。康志は告別式と翌週の繰り上げ法要に参列するもその後は1年忌法要に参列しただけで実家に出入りすることは無かった。

初代の葬儀を滞りなく済ませた1か月後に、初代の弟の武正が和彦を訪ねて来た。横浜の親戚からの香典が現金書留封筒に入っていた。屋部尋常小学校を卒業した14歳の初代が黒潮の流れに乗って訪れる予定であった銘苅鶴おばさんの縁者からであった。あの時、初代は那覇の港で黒潮の海を北上する予定の船に乗り込むのを躊躇して故郷に戻って来たのである。初代の人生の忘れ物が届いたのかもしれない。和彦は仏壇の初代に香典を添えて線香を上げた後、銘苅一族が多く暮らす嘉手納町で創業したジミー製菓の菓子に香典お礼の手紙を同封して返礼品として宅配便で送った。初代の思いが少しでも叶えばと思った。

時が淡々と過ぎて次男の宏次が最初に去り、その次に4男の宏光が彼岸に渡り、宏安の妻、宏安、そして妹の富美子が彼岸に船出した。その他にも宏の世代の人々が彼岸を渡って行った。戦前の世代と戦後世代の交代が進んで行った。

 宏は96歳になっていた。その齢になって胃癌が見つかって市内の総合病院に入院した。老齢となり手術を断念したが、老人介護専門の病院への転院を余儀なくされた。初代が入院した勝山病院に空きが無く、隣町の本部町の野毛病院へ転院した。本部港に近い埋め立て地の海に面した施設である。食堂からは伊江島に向かうフェリーや本部漁港を出入りする漁船を眺めることが出来た。遠くに伊江島とその島のシンボルであるタッチュウーと呼ばれる岩山を見ることが出来た。宏は4人部屋で暮らした。5人の子供たちは代わる代わる病院へ見舞いに来ていた。それでも週に2回程度であった。宏は最後の一人旅に出たことを理解していた。病院特有の白いい部屋の天井を見つめて過ごし、胃癌による消化能力の低下は鼻からの流動食を余儀なくされ人体の活動能力を低下させた。その年にカジマヤーの祝いを野毛病院で迎えた。赤いちゃんちゃんこに赤烏帽子姿で名護市から派遣された津波写真館の卓親子が記念写真を撮った。和彦らは病院の食堂に集まり、ちゃんちゃんこ姿の宏を囲んで集合写真を撮った。祝いのケーキを取り分けて食べた。看護婦の目を盗んで宏の口元にケーキの白いクリームを塗ってみんなで騒いだ。宏はその頃から既に認知能力を大きき低下させていた。宏はゆっくりと確実に旅支度を始めた。記憶の扉を閉めて心の面会を止めて行った。それでも子供達は面会にやって来た。しかし面会の中断は突然にやって来た。新型コロナウイルスの脅威が対面での面会を中断した。リモートでの面会は宏の認知能力を急速に低下させた。そしてコロナの終息が見えた頃に宏は旅に出た。

野毛病院の担当医に呼び出された和彦と妻、恵美とさゆりの4名はビニールの医療服を着用して宏のベットの脇に立っていた。和彦が宏の左手を握り、さゆりが「お父ちゃん」と呼びかけていた。宏は口を半開きにして、酷く荒い息をしていた。

宏は潜水艦の通信室にいた。ひどく蒸し暑く空気が薄い。船内は警笛がなっており非常事態である。次第に水蒸気が室内に流れ込んで来た。どこかで機関長と艦長の怒鳴り声が聞こえた。

「艦長、エンジン出力低下」

「機関長、バラスト放出、浮上開始」

船内の電灯が点滅を始めて非常用の薄明かりに変わった。艦長の声が再び聞こえた。

「戦艦浮上、全員脱出せよ」

宏は通信室を出た。薄明りの中で誰かにぶつかった。「ヒロシか」マサルの声だ。「タモツとアツシはどうした」ヒロシが言った。「先に行ったぞ、急げ」二人は戦艦の中央の鉄の梯子を駆け上がって外に出た。辺りは漆黒の闇である。「沈没するぞ。海に飛び込んで戦艦から離れろ」誰かの声がした。船員が次々に海に飛び込む音がした。「いくぞ」とマサル声がした。ヒロシも慌てて飛び込んだ。ヒロシの周りに渦が出来て体を引きずり込んでいく。「チクショウ、沈没流に巻き込まれた」ヒロシはそう思った。誰かが左手を握って引っ張っている。マサルが海上に引っ張り上げようとしているのか。ヒロシは息苦しい中でもがいていたがふと息が軽くなった。どうやら海上に浮かび上がったようだ。近くでアツシとタモツがマサルとヒロシを呼ぶ声がした。ヒロシとマサルが声を掛け合った。しばらくして漆黒の海原の中で集まって手を繋いで立ち泳ぎをした。どうにか俺たちは生き延びて何処かへ流されているようだ。見上げるといつの間にか雲が開けて空には満点の星空の中を銀河が流れていた。南十字星が45度の方角に輝いていた。どこかで「ボー、ボー」と汽笛が2度鳴った。振り返ると銀河の明るい帯を背に黒い大きな輸送船がシルエットになって浮かんでいた。

「どうやら次の船が来たみたいだ。新しい旅が始まりそうだな」タモツが言った。

「潜水艦でなくて良かったぜ」マサルが言った。

「俺もだ。トンツー係りは卒業だ」ヒロシが言った。

「潜りはアブねぇや、もう十分だ」アツシが笑いながら言った。

「言えてるな」誰もがそう言って一斉に笑った。

宏は急に体が軽くなった気がした。「ボー」再び汽笛が鳴った。何かが新たな旅の始まりを急かせている感じがしていた。

2022年4月9日 午前11時35分、宏は最後の旅に出る船に乗った。99歳と2カ月での旅立ちであった。

      「了」

2024年3月13日 | カテゴリー : 長編小説 | 投稿者 : nakamura