ウサギは満月の夜に跳ねる

     (一)

 立秋とは名ばかりで、相変わらず猛暑が続いている。お昼のニュースでは、昨日埼玉県熊谷市で最高気温38度を記録したらしく、熱中症予防が全国ネットで流れている。本日の名護市の最高温度は33度の予報だ。沖縄は東シナ海に点在する島々からなり、風の通り抜けが良く、内陸地的な蒸し暑さはない。しかし真夏の太陽は凄まじい紫外線を放出して、地表面でうごめく生命体を焼き焦がす勢いだ。既に海も陸も十分に過熱されている。旧盆の祭事はこの頃にやって来るのだ。

沖縄の三大祭事は正月、清明祭、旧盆だろう。正月には本家に集まって一族の開祖に祈願する神御願、初夏には分家の一族がそれぞれの墓に集まって祈願する清明祭、そして初秋には仏壇に先祖の霊を迎えて祝う旧盆がある。これらの祭事は血族の絆を保つための古くからの慣習しだ。三大祭事の他にウマチー、アブシバレー、豊年祭等、生活に密着した地域祭事もあるが、既に途絶えた祭事も少なくない。都市化の進展はコミュニティの形態を変化させ、利便性と言う名の新しい神器によって、地域の神々と住民とを繋いでいた穏やかで情緒に満ちた暮らしをも風化させていくようだ

 さて、旧盆の作業は、七夕の日に墓掃除を行うことから始まる。私も昼間の強い日差しを避けて午後3時頃から墓掃除を始めた。草刈機で墓の周りの雑草を刈り払い、墓の庭に溜まった落ち葉を掃き取るのだ。密生したチガヤの刈り払いは難儀な作業であるが、根茎が赤土をしっかりと掴んでくれるので土砂の流出を防いでくれる。この辺りの地形は、地質学的に見ると屋部川の周辺に広がる湿原の一部である。集落の形成に伴い水田地帯となり、集落の後背地の農耕に適さない雑木の繁る丘陵が墓地となったのだろう。集落からそう遠くない場所に自然発生的に形成された場所で現在は公有地となっている。それ故、人口の増加と共に墓も必然的に増えてしまい、現在この丘陵地に墓敷地を求めることはできない。都市に流入した多くの住民は、新しい墓を民間の墓地公園に求め、あるいは臨済宗やら日蓮宗等の他府県から布教した寺に永代供養を依頼することも増えている。辛いことだが、人間は己の身の始末を誰かに委ねるという宿命を背負って世に生まれて来る。この宿命は血族によって完結されるのだ。血族の絆の原点がそこ存在する。

 それにしても真夏の墓地は暑い。かつて、先人が湿原を開いてできた水田は、青々とした二期作米の緑地を育て、稲田を渡って来る真夏の風を冷やして穏やかな涼風をもたらしていた。しかし、今では秋茜の如く無作法に流入した人々によって、水田は食い散らかされてしまい、半世紀も経ずに消えてしまった。顔の無い人々の発する喧騒は、彼らの暮らす無機質な構造物に反射してすべての空間を過熱している。もはやこの地に点在して残った僅かな墓地や拝所の森に涼風が届くことは無い。

 七夕の墓掃除の次に、13日の午後に仏壇を掃除して花や果物を供え、ご先祖を迎えるウンケー(お迎え)の行事をとり行う。果物はバナナの上にミカン、リンゴ、ブドウ等を載せる。バナナを手の平に見立てて果物を載せる形だ。スイカとパイナップルを脇に置き、サトウキビを仏壇の両サイドに立て掛ける。サトウキビは80㎝程の長さで、ご先祖様がお帰りの際に使う杖の意味らしい。以前は山野の果実であるサルナシの実、グァバの実、ヒメユズリハの実を採取して供えた記憶がある。夕暮れにウンケージューシィ(沖縄風炊き込みご飯)を供えてご先祖のお迎えをする。仏壇のお供え物は、全てスーパーマーケットで調達できるのも時代の利便性のおかげだろう。

中日の14日には、3食の他におやつのアマ菓子(ゼンザイ)供える。夕食にはソーメンの汁物を供えるのが定番だ。そして、午後から中元の品を携えて直近の親戚に線香を上げに行くのが一般的である。私の場合は、妻の実家、母の実家、父の弟である叔父の仏前、それに本家である。本家へは脚力が衰えてしまった93歳の父の名代として行くのだ。

本家の屋号はハサマと呼ばれる。琉球の三山を統一した尚巴志の五男尚泰久王の次男から6代目の分家筋を始祖とする。そして今から約300年前に王府から名護間切り(現在の名護市)に派遣された豪族らしい。私の実家の屋号はマガイハサマグァー(曲がり角にあるハサマ小)と呼ばれている。分家筋にはグァー()と言う呼び名が付くのがこの辺りに習わしのだ。本家の頭領である叔父によると、私の実家は4代前に分家した頃、本家から二つの通りを隔てた曲がり角の土地を分け与え、一家を構えさせたことからその呼び名が付いたとのことだ。私の一族は父の代まで宏の名がついている。宏友、宏春、宏正、宏秀等だ。一代目はコウと読み二代目はヒロと読む呼び名を繰り返すのだ。必然的に同じ名前が世代を超えて名付けられる。沖縄県内ではよく見られる命名様式だ

 本家の仏前に線香をあげ、出された冷たいゴーヤージュースを飲みほした。

「ご馳走さま、適度な苦みがあってさっぱりしています。暑い夏には嬉しい飲み物ですね」とお礼を言うと、頭領の叔父が言った。

「今年は7年巡りの年に当たるので心得ていてくれ。涼しくなる10月頃に予定するから」

「ついこの間、ヘーカタマーイ(南部巡り)したと思いましたが、もう6年が経ちましたか」

「うん、月日が経つのは早いものだ。僕が老いてしまうのも仕方ないな。ところで満君は元気かな」

「はい、義父は毎日元気にウォーキング出かけ、時折老人会のグランドゴルフを楽しんでいるようです。」

「そうか、元気で何よりだ。僕らは三中学徒兵として徴兵され、本部町の八重岳周辺の山中でずいぶん苦労したよ。多くの学友が戦死した中で、自分たちが生き残ったのが不思議だよ」

義父は叔父より1歳年下で戦前の旧制沖縄県立第三中学(現名護高校)の同窓生である。大戦後の混乱の時代に叔父は産婦人科医、義父は沖縄県警察の警視となって一家を養ってきた。異なる人生の航路を歩み既に現役を退いている。70年後の現在でも互いの近況を案じる朋友である。私も旧制三中(現在は名護高校)の出身であるが、彼らの様な同窓生の強い絆は無い。最近届いた25期生同窓会の案内ハガキを見ても卒業時の同級生の顔を多くは思い出せない。

 叔父の弁では、「自分たちは第一尚氏に由来する一族である。私には頭領として一族を束ねて先祖の足跡を訪ね、子孫の繁栄を祈願する務めがある」。この行事がいつの頃から始まったか定かでないが、自動車の無い時代に米・味噌等の食料を携え、徒歩で数日間の参拝旅行をした記録がある。相当古くから続いているようだ。叔父は人口の多い那覇市で開業したこともあり、実家の祭事に積極的に関わらなかった負い目があるようだ。両親の死後は自費で大型バスをチャーターして、先代の残した資料を基に拝所巡りを企画している。人は老いてくると先祖の事がことさら気になるようだ。自分のルーツが気になるのは人としての根源的な性分であろうか。ただ、私の子や孫の代までその慣習が現状の形で残るかは定かでない。

 最終日の15日がウークイ(見送り)である。夕暮れには仏間のテーブルにお重、餅、菓子、オードブルを並べて儀式の準備を整えた。日が落ちてから叔母と叔父がやってきた。今年のウークイのメンバーは私の娘と妹の息子を加えた7名である。以前は襖を外した6畳の3部屋に20数名の一族が集っていたのであるが、今年は寂しい人数である。2人の叔父が亡くなりそれぞれの家の新しい仏壇に収まった。7人兄弟の私の4人の妹はそれぞれの亭主の実家でこの夜の行事に参加する。兄と弟は家を出て他府県で居を構えており、沖縄の三大祭事に帰郷することもない。市内に住む私が年間の祭事を仕切る役割を担っているのだ。妻も実家の母が病に伏してからは、他府県に暮らす男兄弟に代わって年間の祭事を仕切っている。血族の慣習の価値観が少しずつ変化を始めている。

 旧盆のしきたりは、早めにご先祖をお迎えして遅めに送るのが良いとされている。それでも最近では8時ごろにはウークイを済ませる家が多いようだ。参加者の翌日の仕事に差し支えない配慮が生じているのだ。もはや旧盆の15日と翌日が休みの企業などは存在しない時代である。

 沖縄独特の平線香に火をつけて参加者に渡す。各自の家庭の繁栄をご先祖に祈る。それを集めて仏壇の香炉に立てて全員で再び祈る。お供えの重箱から豚肉、蒲鉾等数品を取り出ししてご馳走の上に置き「どうぞ召し上がって下さい」と祈る。餅も同じようにする。ウチカビと呼ばれるあの世の銭を金盥の上で燃やしてその灰に酒を掛ける。線香が燃え尽きる前に「ウークイサビラ」と仏前に手を合わせてから線香を取り出して金盥の中に入れる。先ほどの豚肉、蒲鉾、花瓶の花も入れる。その金盥を持って門の外に出て、塀のそばに小石を枕にして線香を置いて皆で祈る。

「お土産のご馳走も沢山持ち帰ってください。来年もお越しください。お待ちしております。足元にお気を付けてお帰り下さい」と祈り、皆で「ウークイ」と声を掛け、金盥の品を線香の上に伏せてご先祖を見送る。

 ウークイの後は、皆でご馳走を分け合って食べながら世間話をして過ごすのだ。午後9時過ぎにお開きとなり、残ったご馳走は皆で分け合って持ち帰る。毎年同じ儀式をするのであるが、参加者が少なるたびにお供えの重箱やオードブルの品数が少なくなっていく。何やら一族の勢いが失われていく気がして少し寂しくもある。

 タクシーを呼び、叔父たちを門前で送り出して空を見上げた。大気は未だ昼間の猛暑の名残を含んで生温いが、初秋の深い天空の中に満月が浮かんでいる。遠く公民館広場の辺りからエイサーの太鼓と三線の音色が微かに聞こえた。ウークイを終えた青年たちが沖縄独特の盆踊りの形態であるエイサーを踊るために集まり始めたのだろう。青白い光を放つ満月の中のウサギと呼ばれる奇妙な影が私を見下ろしていた。幼い頃に私を悩ませた不思議な影は、変わらずにそこにあった。大人になった私は、いつしか満月を注視することも無く過ごしてきたようだ。会社勤めの頃に毎年繰り返された観月会でも、満月を横目で捉え、グラス片手に乾杯に興じる日々であった。組織を退き久しぶりに注視したこの日の満月は、遠い日々と同じ青白い光を放ち、その中の奇妙な影が私の記憶の深い場所に沈んでいたものを呼び戻した。

         (二)

 大学1年生の夏休みはアルバイトと読書、それに自宅前の浜辺での投げ釣りで退屈な時間を消費していた。左官業を営む父の下で力仕事のある時だけ格安賃金で働き、それ以外の日は自宅でゴロゴロしているのが日課となっていた。携帯電話もマイカーも無い時代の夏休みは、学友との繋がりが途絶え、さりとて大人の遊びも未だ出来ない青臭い青春を送っていた気がする。

 そんなある日の夕暮れが近い午後、屋敷を取り巻くオオハマボウの大木が影を落とす2番座敷で横になり、小梢を抜けて来る涼しい風にあたりながら、暇つぶし五木寛之の小説「青春の門」を読んでいるうちに寝入ってしまった。ふと気が付くと台所から人の話し声が聞こえた。母の弟の武史が祖母を伴って来ているらしい。祖母の甲高い声とひどいドモリの武史の声は、私の昼寝を妨げるには十分であった。私は方言で話す親子の親しい会話に割り込む気にもなれず、眠ったふりをしていた。

「カズは家に居るのかい。学校は夏休みかい」祖母は方言で母に問いかけた。明治生まれの祖母は、小学校を少し通っただけで読み書きが十分でない。日本語を聞くことはできるが話すことにはかなり無理がある。外国人が話す不可解な日本語である。その代り人並み外れた体力と男口調で話す激しい気性は男勝りだ。祖父が早くから病で床に就いており、昨年亡くなった祖父の分まで田畑の手入れする必要があったのも事実だ。

「昨日までお父の下でアルバイトをしていたので疲れて寝ているみたい」

「ダ、ダ、・・大学生は休みが長いみたいだね。小中学校の授業は始まっているけどね」武史がドモリながら言った。

「タケ、慌てないでゆっくりし喋りな」祖母が叱りつける。

「タケ坊はドモリがいつまでも治らないね。30歳にもなって彼女はいないの」

「ドモリが治らないから女に逃げられてばかりさ、この阿保が」祖母は容赦なく息子を叱りつける。

「お母さん、何処かに良い娘がいないかね。武政に相談してみたら。あれはタクシー会社を経営しているから顔が広いでしょう」母の4歳下の弟が8年前に小さなタクシー会社を設立していた。

「ニ、ニ、・・兄さんの会社の従業員は男ばっかりで、女は50過ぎの叔母さんが一人だけだ」

「うん、先ほど武政の家に寄って来たので、妻の正子にこれの嫁のことを頼んできたよ」

「ト、ト、・・年寄りが余計なことをしゃべらないでくれ。みっともないから」

「お前は黙っとけ。この役立たずが」祖母が叱る

「お母さん、この子をあまり叱らないで、ドモリがひどくなるだけだから」

戦後生まれの武史は長女である私の母と15歳も年齢が離れており、共に暮らした期間が短い。それだけに可愛いのかもしれない。

「姉さん、こないだ不思議な事があった」武史がドモルことなく言った。

「またその話かい」祖母がうんざりした声で言った。

「お母さんは黙っていて」母が祖母をたしなめて武史を促した。

「夜中に外に出て小便を済ませると急に足が勝手に歩き出して東江集落の近くまで行ったのだよ。世冨慶川の河口の浅瀬を渡ろうとすると、急にお父さんに呼び止められた。それで気が変わって引き返したのさ。気がついたら家で寝ていた」

「何を言うか、お前が戸を開けて小便に出たのを覚えている。でもすぐに戻って寝たじゃないか。戸も閉めずにな。それに東江までは1里半もあるんだよー。ハハハハハ」祖母は甲高い声で笑った。

「でもね、お母さん。人は夢の中で神がかりに遭って、一瞬にしてひと山超えて戻ってきた話があるじゃない。本当のことかも知れないね」

「お前は子供のころからコウモリの鳴き声や夜の暗がりをひどく怖がる子だったね。時々、神がかったことを言う子だったが、タケに変なことを教えないでよ」

「お父さんがタケを呼び止めなかったら向こうの世界へ渡ったかもしれないね。お父さんに感謝しなければね」

「バカバカしい」祖母が甲高い声で笑った。座の奇妙な緊張感が吹き飛んだ。

「オ、オ、・・お父さんの1周忌の手配を兄さんにお願いしてきた。兄さんから連絡があるはずだから」

「確か来月の15日が命日だったわね。今から準備しなければね」

「おい、おい、タケのバカ話を聞いていて遅くなった。早く帰ってヤギに草を与えねば。遅くなるとヤギが鳴きだして隣家の勝三の奴から苦情が来るから。」

祖母が武史を急かせた。

 私は頃合いだと思って目を擦りながら台所へ回って祖母に挨拶をした。

「お婆ちゃんは相変わらず声が大きくて元気だね」

「カズ、元気そうだね。アルバイトを頑張っているみたいね。色が黒くなっているさー」と方言で言った。

「ダ、ダ、・・大学生、勉強しているか」

「ま、適当にね、タケさんも今日は休みですか」

「た、た、た、たまには休まないと体がもたないよ。大学生はいい身分だね」

「カズ、後でタケにカーブチーミカンを持たすから食べてね」

「家の前の庭のカーブチーですか。あの木のミカンは何処の物よりも美味しいね」

「今年も沢山実っているから」

祖母はそう言って武史を急かせてバイクの後ろにまたがり、背中に買い物袋を背負って去っていった。騒々しい祖母とタケさんが帰ると何だか空気が一気に変わったような気がした。私は大きなあくびを一つして母に言った。

「眠りすぎて頭がすっきりしないからちょっと浜を歩いてくる」と言って草履をつっかけて外に出た。門から砂浜まではキビ畑を挟んで100mもない距離だ。夜が更けると浜風に乗って潮騒が聞こえるのだ。

「夕飯に遅れないでよ」母の声を背に庭を横切った。既に夕日は集落の西の外れにある大石の森に迫っていた。私は武史の不思議な話を未だ霧がかかった頭の中で反芻しながら砂浜をしばらく歩いた。波が砂浜に寄せて引くたびに白い泡が残り、泡が消えるときに砂浜はブツブツと何かをつぶやいていた。湿った海風が首筋にまとわりついた。夕日が大石の森の松の大木の後ろに隠れたのを機に引き返した。

埋め立て前の名護湾、浜辺のサバニ、大石の小島(名護市の資料より)

     

          (

 その日の夜も沖縄特有の熱帯夜が続く寝苦しい夜であった。旭川集落は嘉津宇岳の東の谷間を流れる西屋部川に沿って数軒ずつ民家が点在している。熱帯夜で風が止まるとひどく暑い夜となってしまう。武史はひどく喉の渇きを覚えて目が覚めた。台所に行かずガラス戸を開けて外の水道に向かった。簡易水道は川向こうの山腹の湧水を引いており、いつでも冷たい水が流れているのだ。しばらく水を流して配管の中に溜まったぬるい水を捨て去り、水が新鮮で冷たくなったのを確かめてから腰をかがめて水を飲み、冷たい水で首筋を濡らした。暑さが少し引くと同時に尿意を覚えた。屋敷を出て芋畑の端で立ち小便をしながら空を見上げた。天頂から少し西に傾いて丸い月が輝いていた。小便をしながら昨日の出来事を思い出していた。

 武史はプロパンガスを扱う山源商事に勤めていた。プロパンガスのボンベを各家庭に配達する係である。その頃の台所の火器は石油コンロからガスコンロへと変わっていた。住宅事情が未だ十分でなくガスボンベの配達は中々難儀な仕事である。車が横付け出来ない細い路地はボンベをカートに乗せて運ぶのだ。田舎の斜面地に建てられた民家の細い路地の階段は、50kgボンベを担いで登るしか配達の手段はなく、ひたすら脚力の鍛錬でしかなかった。満タンのボンベを供給して空のボンベを担いで帰るときに考えるのは、行と帰りのボンベの重量が逆であればと考えるのが常であった。山源商事はプロパンガスの販売事業では後発の参入である。社長の山入端源蔵は配達の便の悪い辺地の家庭を対象に商売を勧めざるを得なかった。市中の新築の家庭は、大手のガス会社が住宅資金融資の銀行と提携して押さえられていた。

 昨日の武史の仕事は近場の配達ばかりで、午後3時過ぎに事務所に戻っていた。年増の事務員と冗談を言いながらコーヒーを飲んでいると、社長の源蔵が突き出た腹をポンポンたたきながら入ってきた。60歳を超えた白髪交じりの短髪で肩幅の広い色黒の男だ。

「タケ、今日は早かったな」

「社長、ボンベ30本の配達なんか片足ケンケンで終わっちゃいますよ」軽いドモリで返事した。

「そうかい、来週は国頭方面を配達してもらうからな」

「全然オーケーですよ」とおどけて答えると

「タケさんは若いわね」と事務員が笑いだした。

「タケ、お前、名護地区体協の駅伝メンバーらしいな。20km区のエースだと昭和スポーツ店の長嶺さんが言っていたぜ」

「社長が長嶺さんの店で買う品物があるのですか。大和相撲の褌の特注とか」

「バカ言え、孫のバスケットシューズを買ったのよ。しかし、お前が長距離選手だとは知らなかったな」

「毎日ガスボンベの配達で鍛えられていますからね。手ぶらのランニングなんてスイスイですよ。」両腕を横に広げてクラゲが泳ぐようにブラブラとフラダンスの真似をした。

「タケ、今日はよほど体力が余っているようだな。名護城址の階段を登ってみるかい」

「社長、名護城址の階段なんて坂道では無いですよ。国頭村安波集落のガスボンベ配達に比べると平地と同じですよ」

「そうかい、それならばうさぎ跳びで登れるかい。一番上の拝所まで登れたら体協のトロフィーの代わりに10ドルの賞金を出そう」

「待ってました。社長」

「タケ、お前が負けたら当分の間、田舎周りだぜ」源蔵の目が笑っていた。

「オーケー、問題ないです」武史は反発するように真顔で答えた。

「カツ、お前はタケの監視役だ。ズルを手伝うとお前も明日から配達組へ配置換えだぜ」

「ヘイ、がんってんです」

「ヘイ、じゃねーよ。標準語を使え。いつまでも大阪訛りを出すな」

「ヘイ」

勝次は大阪で暮らす源蔵の姉の次男である。遊び癖が抜けない末息子を源蔵のもとによこしたのである。口が達者な色男だが体力がなく、ガス器具の販売を担当している。

 名護城址は古くから桜の名所として知られている。城址と言うがその名残を留めてはいない。西暦650年、尚巴志が三山を統一して琉球王朝を築いた頃、この地を支配していた小規模豪族の居住地であったらしい。尚巴志に加担して北山城を陥落させたとの記録があるも、多くの住民は知らないだろう。地元の城(ぐすく)集落の祭事の拝所として整備されているのだ。石段の両側に桜が植えられ地元の有志が寄進した石灯籠が並んでいる。最上部の拝所以外にも幾つかの祠が点在しており、県指定の文化財でもある。1月の最後の週末に桜祭りが開催されて町は賑わいを見せる。沖縄県では最も古い桜の名所である。

桜祭りで賑わう名護城址入口の階段

武史はトレパンにTシャツ姿で軽くストレッチをして、振り向いて右手をまっすぐに上げ、源蔵に向かって深くお辞儀をしてからうさぎ跳びで石段を登り始めた。駅伝競技の1区のランナーになったつもりだ。勝負のお目付け役の勝次が5段ほど後ろから付いて行った。源蔵は「上で待っている」と言ってバイクでう回路の管理道路を登って行った。

石段はなだらかな勾配でゆっくりと山肌に沿って曲がりながら登っている。駆け上がりは4インチブロックの厚み程度でところどころ階段でなくスロープとなっている。低い駆け上がりが続く石段は2段跳びで上がることが出来た。

「タケさん。ここからしばらくは歩こうぜ。オジキも見ていないし」

「いや、俺も走って登ったことは何度もあるが、うさぎ跳びで登ったことは無い。一度は試してみたいと思っていたので完走するぜ」

 程無く323段の階段を登り切って管理道路に出た。源蔵が煙草をふかして待っていた。鳥居の横のコンクリートの柵に海抜50mと小さな表示板がはめ込まれていた。

「タケ、息が上がっていないな。カツ、お前はちゃんと監視したか。途中で歩いたのではないだろうな」

「社長、タケさんの馬力にはあきれましたよ。おいらがくたびれちゃったよ」

武史は膝関節を伸ばすストレッチを繰り返し、次の急勾配の階段上りに備えていた。

「タケ、半分の5ドル出すからここで引き分けしようぜ。お前が途中でくたばって明日からの仕事を休むと困るからな」

「俺は大丈夫です」

「タケさんもうひと踏ん張りお願いします。さっきの話通り10ドル稼いで東屋食堂の2階でビールを飲もうよ」

「俺が難儀してお前が飲むのかい」

「俺だって、あんたの応援係だし、号令もかけているぜ。イチ、ニ、イチ、ニとさ」

武史は思わず笑いだした。未だ体内にはエネルギーが十分に充填されているし、何度か駆け上った経験から階段の数は前半より少ないことを知っていた。見上げると拝所の鳥居と赤瓦の屋根が見えた。武史は再びうさぎ跳びで登り始めた。

「オーケー、上で待っている」源蔵は二人が20段ほど登るのを見てからバイクのスターター・クランンクをキックした。

 急こう配の階段は駆け上がりが6インチブロックの厚みより少し高くなっている。武史は登り始めて気付いた。前半の階段は段数こそ多いが勾配が緩く平地の運動とあまり変わらない。しかし後半の急勾配は得意の有酸素運動では無く、短距離走の筋力を必要とした。少しずつ呼吸が乱れ始めた。カンヒザクラは既に休眠期に入り、夏の落葉を済ませていた。8月の午後4時過ぎの日差しは衰えを知らず、武史の左頬と後頭部を容赦なく焦がしていた。武史の心臓と肺はフル稼働で下半身の筋肉に血液を送り続けた。しかし酸素補給が不十分となって目の前を昼間の蛍が飛び始めた。階段は60段毎に緩い勾配の平場があり、3枚の平場は6畳、4畳、2畳と上にいくにつれて狭くなっていた。武史は平場で小さなジャンプを繰り返して呼吸を整えた。それでも最後の平場にたどり着いた時には膝関節と心臓が悲鳴を上げてギブアップする寸前になっていた。

武史は呼吸を整えるためジャンプを止めて階段の上部に目をやった。残り7段である。源蔵が鳥居にもたれてこちらを見ていた。武史は大きく息を吸い込んで一気に階段を駆け上がった。そして最後のジャンプを終えると勢い余って両手を前に突き出して石畳の上に手を付き反転して尻もちをついた。立ち上がると源蔵の顔があった。源蔵の目は悲しげに武史を見ているように思えた。その眼は決して武史のうさぎ跳びの結果に対する感嘆の思いを含んではいなかった。武史の脚力は驚嘆に値するのであったが、親子ほども年長で組織の長である源蔵の目には、武史が既に若者の特権である無尽蔵のエネルギーを失い始めているのが見て取れた。武史は振り返り階段を喘ぎながら登って来る勝次を見た。その向こうに夏の日を浴びて輝く名護湾と、白い帆を掛けて港に向かうサバニが一艘だけ見えた。「カツ兄ちゃん遅いぜ」と声を掛けようとしたが、乾いた喉からは声が出なかった。意識に体の疲労がついていけないのを知った。「ひゅっ」小さく息を吐き、源蔵から少し離れて屈伸運動を繰り返した。自分の疲れを源蔵に悟られまいとしたのだ。しかし、源蔵は既に武史から視線を外して嘉津宇岳のなだらかな稜線を見ていた。稜線が海になだれ込む手前に若い女の乳房にも似た小さな安和岳があった。あの山の麓に源蔵の村があったのだ。敗戦後に建設された広大な嘉手納米軍基地は、工事に必要なコンクリートやアスファルトの骨材として琉球石灰岩を採取した。米資本によるセメント工場の建設は琉球石灰岩の採掘を加速した。村は巨大な採石場と化して消滅した。海岸から陸地に向かって広がる採石場の無残なアバタの中に源蔵の家があったはずだ。敗戦の痛みも癒えぬ間に先祖伝来の故郷を失った。源蔵は悲しくはなかった。只、奇妙な人生の変化に戸惑っただけだ。故郷の消滅の代償で得た立ち退き代金を元に今の商売を立ち上げた。人は生きていると幾多の予期せぬ変化に出会う。それをトラブルとみるか新しい展開の始まりと見るかで人生観が変わる。変化を自分の裁量で切り開くだけだ。今日の自分の立ち位置を明日も保てるか誰も知らない。人は時と共に変化するものだ。源蔵は武史の中にそれを見たのかもしれない。変わらずにあるのは採石場の先に広がる東シナ海の深い蒼さだけだ。源蔵は西日を浴びながらぼんやりと丸みを帯びた水平線を眺めていた。

勝次が鳥居の前にたどり着くと源蔵が言った。

「タケ、お前の勝ちだ。降りようぜ」自虐的な笑い声で言ってバイクにまたがった。

 三人は管理道路をゆっくりと歩いて登り口に向かった。下りの階段は疲労が溜まった膝関節に堪えるのである。クスの大木が作る木陰が心地良かった。三名は何も話すことなく下って行った。

入口の鳥居の前で3名の仕事仲間が待っていた。勝次が親指を立てて合図すると、仲間たちが指笛と拍手で迎えてくれた。

「タケさんの完走を記念して乾杯と行こうぜ。社長のおごりだ。東屋食堂へレッツ・ゴー」勝次が仲間に呼びかけた。

「分った、分った。俺の負けだ。今日は夏の慰労会としよう。お前ら先に行って始めておけ。俺は事務所を閉めてから戻って来る」

 武史は久しぶりに聞く仲間からの称賛の声に舞い上がり、何杯もジョッキを空けた。そして何時に帰宅したかも覚えていなかった。

 

       (四)

武史は小便を済ませ、軽く身震いをして再び空を見上げた。月が青く不思議な光を放っており、丸い器の中のウサギに似た影が揺れて見えた。自分の体の深部で何かが騒ぎ出すのが解った。家の中からボーンと柱時計の音が1回だけ聞こえた。その音が長距離走の合図のように聞こえた。足が勝手に動き出した。母がトマトかエンドウ豆の支柱に使うつもりで束ねてあった1m程の竹を一本抜き取るとひょいと肩に置き、ゴム草履のままゆっくりと、谷間の川に沿って続く県道を川下に向かって歩き始めた。県道112号、屋部・仲宗根線は未だアスファルト舗装が施されておらず、琉球石灰岩を敷き詰めた道路は、月の光を浴びて暗闇に白く浮いていた。西屋部川は本流の屋部川に比べて水量は少ないが急流となっており、小さな段差を繰り返す砂防ダムは暗闇の中で騒々しく水しぶきを放っていた。川向の馬小屋からブルン、ブルンという息吹が聞こえた。敏感な馬の聴力が武史の足音に驚いたのだろう。道路脇の急斜面は時折月光を遮り、道路を闇の中に引きずり込んでいた。武史は無意識にハブを警戒して竹の杖で地面を軽く叩きながら前方に見える月の光を浴びた白い道路を目指して進んだ。暗闇の中で梟がコウホー、コウホーと鳴いた。武史は何も考えずにただ足を運んでいるだけだった。田イモ畑の横を通るとウシガエルがモー、モーと重低音で合図してきた。空を見上げたが雨雲の気配はない。今夜はウシガエルも暑くて一雨欲しくくて雨乞いの祈りをしているのかもしれない。

 谷間を抜けると視界が開けた。この先が屋部集落である。海に面した集落の東を屋部川が流れ、西の谷間から流れてきた西屋部川が河口で合流している。県道を左に曲がって勝見橋を渡った。フクギの屋敷林で囲まれた集落は、月明かりの中で一つの森に見えた。集落の中に進むとフクギは月明かりを完全に遮断して真っ暗である。只100mほど先の交差点の地面が月明かりで奇妙に白く浮かびあっているだけだ。武史はそこを目指して歩いた。久護家の前を通ると誰かに呼び止められた気がして立ち止まった。王府の時代に栄えた旧家で、この辺りを仕切っていた豪族である。現在は縁者が途絶えてしまい、県指定の歴史的木造家屋を集落で管理している。赤瓦の上をコウモリが小さな羽音を立てて横切った。フクギの実が地面にポトンと音を立てて落ち、足元に転がってきた。コウモリの食べ残しだろう。武史はフクギのトンネルの向こうに見える明かりに向かって歩いた。

トンネルを抜けると屋部川の川べりの道路に出た。対岸まで100m程の距離があり、河口が近い。メヒルギの群生した近くに開閉式の水門の残骸が残っており、河口に向かって開いていた。屋部小学校の横を歩いて屋部橋のたもとに出た。右前方にトワヤの物見塔が見えた。橋のたもとの護岸は王府時代の山原船の船着き場の名残だ。久護家の支配のもとに年貢米や薪燃料が泊の港に運ばれたらしい。トワヤは船の出入りを見守る遠見台であった。船着き場のあった石組みの隣の広場には、白塗りのカトリック教会が静かに鎮座している。敗戦後の米国による占領政策の中でキリスト教が急速に布教された。「隣人に愛を、富める者は貧しきものに分け与えよ」と、唱える神の言葉は、敗戦で深く傷ついた住民の心を捉えたに違いない。実際、米軍関係者は教会を通した物資の配給を頻繁に行っていた。この地域には住職の住む寺よりキリスト教会の数がはるかに多い。この地のキリスト教は祖先崇拝の慣習を排除しない。その寛容さが地域に浸透した原因のひとつかも知れない。あるいは、イエスは天地自然の神々の頂点に位置する存在であるとの理念かも知れない。もっとも、部外者が様々な宗教の神々を推察することは不謹慎の誹りを免れない。

県道117号、城・渡久地線に架かった屋部橋を渡り、宇茂佐公民館の横から砂浜に降りた。潮の香りが濃くなった。平らで穏やかな海を挟んで遠くに恩納岳の山並みがなだらかに右勾配で続いていた。潮が引いて広くなった砂浜が月の光で輝いていた。武史はグンバイヒルガオに足を取られながら砂浜を水辺に向かって降りて行った。塩水を含んだ砂浜は硬く締まって歩きやすかった。天頂から少し西に傾いた月を背に東に向かって歩き始めた。北部農林高校グランド横を通ると左からの風が吹き抜けた。風向きは既に昼間の海風から夜の陸風に変わっていた。ツキイゲの穂が陸風に乗って転がってきてくるぶしに当たった。微かな痛みと痒みを覚えた。目を凝らすと時折陸地から転がって来る。足元に目をやると不意の侵入者の足音に驚いたツノメガニが高速で走り去っていく。

気が付くと目の前に大石の離れ島が黒い海面に浮かび上がっていた。50m先の島の間を海水が小さな音を立てて流れていた。20m四方に満たない小島の岩礁は琉球石灰岩からなり、潮の干満と波浪によって基部が浸食されてキノコ状になっている。岩礁の上部は風化して砕砂が溜まって海浜植物が生えている。突然、女神の乱れ髪に似た草木を風が強く揺らした。この岩礁には海中から上部に向かって大きな亀裂が走っており、浅い洞窟にドブリ、ドブリと海水が出入りしていた。暗く湿った洞窟は女性の陰部にも似た禍々しさを備えていた。武史は立ち止まってしばらく眺めていたが心を揺らすものは無かった。

大石の離れ島から少し離れてタッチュー石が意味ありげに海面からそびえ立っている。この石は海水に浸食されることなくまっすぐに10mほど切り立っている。琉球石灰岩とは異なる硬い岩石であろう。まるで大石の女陰の洞窟と対比する男根にも似ていた。この辺りは満潮時に海水が入り込み、砂浜が途切れて歩けない場所だ。干潮で干上がった海底の上を歩いて渡り、再び砂浜に出た。

夜の海上に点々と漁り火が見える。海上をゆっくりと漂っている。夏の夜の海は干潮が弱く、温んだ浅い海中に獲物の姿は少ない。漁りは冬の厳寒の新月の晩が適している。それ故夏の夜に漁りをする者はいない。海上に漂っているのは狐火である。武史はそのかがり火に心動かすことも無く歩みを進めた。20kmレースの時に起こるランニングハイにも似た感覚である。ただひたすら砂浜に足跡を刻んだ。やがて左手にこんもりとした森が現れた。宮里集落の「前の宮ハスノハギリ群落」である。幹回り10m、樹冠と樹高が20mの巨木が十数本生えている。女人禁制の拝所だ。この森の向こう側に姉さんの家があるはずだと考えながら歩いた。武史は振り返ることなく何かに憑かれたように歩いた。

やがて砂浜にサバニの並んだ場所に出た。漁民の住む集落の船置き場だ。サバニを係留する桟橋は無く、漁を終えたサバニは砂浜に引き上げて保管するのだ。木製のサバニを海上に係留して保管することは少ない。サバニの横を通ると嫌な臭いがした。サメの肝油を船体に塗ってあるのだ。船の防腐剤であろうか。

この海岸がイルカ狩りを行う場所である。コビレゴンドウクジラを浅瀬に追い込んで捕獲するのである。ピートゥドオーイ(イルカが来たぞー)との声が集落に響くと漁民だけでなく周辺の集落のにわか漁民も船を出した狩りに参加するのだ。義兄を手伝って一度だけ参加したことがある。クジラを浜に引き上げるロープを引く等、少しでも漁を手伝うと肉の一部が貰えるのだ。小さなクジラとは言え1,500kgはあるのだ。肉は幾らでもある。100m四方の海が赤く染まる。人々は血の海を見て心を震わすのだ。狩りに参加する者は白装束である。黒い衣装だとクジラと間違えて銛を撃ち込まれる危険性があるのだ。赤い血の海にクジラがのたうち回り、狩り人が銛を撃ち込みロープをかけて砂浜に引き上げるのだ。黒いクジラが大鉈で切り分けられ、赤い肉が血に染まった砂浜の波打ち際に並ぶ。狩り人も砂浜で肉を求めて待っている人々も、殺戮の光景に興奮の奇声をあげて目の色を変えるのだ。

イルカ狩り1980年頃まで行われた。(名護市の資料より)

クジラの肉は食料の乏しい時代の安価で貴重な蛋白源であった。油身は鍋で溶かしててんぷら油として使われた。武史は月の光にざわめく海面にイルカが断末魔の潮を吹きながら浮き沈みする姿を見た。

 港橋を渡るとクジラ工場の前に出た。工場の前には専用の桟橋が長いスロープを伴って伸びていた。20トンクラスの小型捕鯨船で仕留めたザトウクジラを引き挙げるスロープだ。工場ではクジラを解体冷凍保存して肉をブロックで販売している。解体は思わず見とれてしまう程壮観である。牛の20倍もの大きさの肉の塊が分別されるのだ。ヒートゥと呼ばれるコビレゴンドウクジラはイルカの仲間で臭気の強い肉であるが、ザトウクジラは臭みが無く本当に美味い。

桟橋のスロープを引き上げるザトウクジラと見物人

クジラ工場の前を抜けると製材所の前に出た。山から切り出した松材を使ってホークリフト専用の盤木を作っているのだ。サメ肝油の後で嗅ぐ木の香りが鼻腔を刺激して穏やかな気持ちにした。只、武史の足は相変わらず何かに憑かれたように歩みを止めず再び砂浜に降りてさらに進んだ。しばらく進むと町はずれに出て世冨慶川が行く手を遮った。川の水量が少なく干潮時に河口の浅瀬を渡るのは容易い。武史は立ち止まって向こう岸を見た。世冨慶集落の墓地が海岸沿いの崖下に並んでいた。満月の光は墓地を明るく浮き上がらせていた。武史の目には見知らぬ新しい集落の広がりに映り、彼の来訪を待っている気がした。乾いた砂浜に腰を下ろしてズボンの裾をまくり上げた。そして川の水が海に流れ込む浅瀬に向かって歩き出した。川の水がチャリ、チャリと楽しげに何かのリズムを奏でて海に飲み込まれていた。武史はもう一度ズボンの裾を手で引き上げるために腰をかがめた。その時、背中に誰かの気配を感じて振り返った。誰かが月を背にして護岸の上に立っていた。顔は見えぬが見覚えのある懐かしい影だ。

「タケ、お前は一人で何処に行くつもりか。そこはお前の行くところではない。行ってはならぬ」方言で話しかける父の声だ。聞き覚えのある腹に響く太くて低い声である。

「ウー、ワカイビタン(ハイ、分かりました)」

何故か深く頭を垂れて丁寧に返事をした。そしてやおら顔を上げるとそこに父はおらず、青い光を放つ満月があるだけだった。

武史は月を背に砂浜に腰を下ろして両手で顔を覆った。俺は何をしているのだろう。亡き父に呼び止められなかったらどこまで行くつもりであったのだろうか。只やみくもに進んでもその先には何もないことが解る齢になっていたはずだ。

中学を卒業してから昨日まで、若いエネルギーに頼って人混みの中を走り抜けた。何度も仕事を替え、女友達を替え、周りの誰かの生きざまを肯定出来ずに生きてきた。過ぎ去った時間の中で、自分の手の中に残った確かな物は何ひとつもない気がした。自分は変わるべき人生の節目に来ている。自分が好むと好まずにそれはやってくるのだ。既に別れた女のこと、今の仕事のこと、走ることの意味さえも失い始めている。武史は人生の潮目がはっきりと変わり始めたことを悟った。若さだけで駆け上がった峠の先にも次なる峠の坂が続くだけだった。自分の望む物は見つからなかった。若さを失いつつある中で得たのは、自分が誰かの下で同僚と歩調を合わせて働けるタイプの人間ではないという確信だけだった。自らの選択で新しい道を歩まねばと思った。蓄えた金で兄貴の会社のタクシーの権利を買って一人親方になるのも良いだろう。母の手におえず荒れてしまった裏山の畑を耕し、パインとミカンを植えて大地からの恵みを得るのも良い。地に足をつけて穏やかに確実に自分の力だけで歩ける道を探そうと思った。

武史は立ち上がって防波堤を駆けあがった。砂浜を離れて城十字路から県道117号線の住宅街を駆け足に近い急ぎ足で進んだ。そして嘉津宇岳入口を右折して西屋部川に沿って続く県道112号を北上した。ほどなく旭川集落の最初の民間が見えた。夜明けには未だ間があるというに、近くの家で鳴き声を競う鶏のチャーンが甲高く、そして長い尾を引きながらひと声鳴いた。月は天頂からかなり西に傾いていた。仕事が終わってから毎日のように20kmを駆ける長距離走の練習に比べると、3里の歩行は何らの疲れも残らなかった。武史は何事もなく部屋に戻って寝た。

朝になって母が言った。

「タケ、酒もたいがいにしなさいよ。昨日は酔って帰ってきて夕飯も食べずに寝たよ。おまけに夜中に起きて外で小便をして、戸を閉めずに寝ただろう。わたしは蚊に刺されて睡眠不足だよ。お父さんが生きていたら何と言うかね」

武史は黙って外に洗面に出た。

「このアホ、さっさと朝飯をたべて会社に行きなさい」母の声が後ろから飛んできた。

母がいつものようにまくしたてるのを聞くと昨夜の出来事は夢であったのだと思った。昨晩水を飲んだ水道で顔を洗うと水しぶきがズボンの裾に跳ねた。首にかけたタオルで裾を払った。裾の折り返しから海砂がはじけ飛んだ。裾に乾いた白い塩の帯がぐるりと巻いていて微かに潮の匂いがした。立ち上がって背伸びをすると庭のミカンの梢を通して朝日が目を射した。武史は手をかざして指の間から川向の山を見上げた。見慣れたはずの朝の景色が僅かに異なって見えた。武史は人生の潮目が確実に変わり始めたのに気付いた。

 

 

 

2017年8月16日 | カテゴリー : 短編小説 | 投稿者 : nakamura

Authorized on Base

Authorized on Base(オーソライズド・オン・ベース)

            (1)

 平成19612日、午前11時の沖縄自動車道の南向け車線の交通量は少なく、私は未だアルコールの抜けきらぬ頭で許田インターから南下していた。昨日は自らが執行役員を務める造園会社の株主総会が開催され、その名残が二日酔いである。総会といっても特段の疑義の出ることもなく、執行役員と非常勤役員の懇親パーティでしかない。私は3月の事業年度終了後、決算書の作成、事業監査、取締役会、そして昨日の株主総会と株式会社の決算に関わる一連の作業を仕切り終わったのだ。社内おける私の仕事の繁忙期は3月から6月までである。この時期を過ぎると退屈な日々が続くことになる。

私は昭和578月に現在の会社に入社した。建設業関連の社団法人の出資による設立2年目の会社であった。入社時の社員数は6名で国営公園の植物維持管理を細々と受注する年商3千万円の零細企業であった。第2次オイルショックで冷え込んでいた沖縄県の経済は、海邦国体の開催に向けての公共事業で次第に回復していった。更にその後に続いた平成バブル経済によって我が社の事業量は格段に拡大していった。年間受注金額はバブル崩壊時に35千万円にまで拡大していった。しかしバブル崩壊後に公共工事が減少して倒産する弱小造園会社が続出した。わが社の受注金額も28千万円まで減少した。それでも一般造園会社と異なる小規模の随意契約を主体とする事業形態であったことや、業界団体の出資で設立された故に同業者間の一般競争入札に馴染まぬ会社に変貌したことで生きながらえて来た。そして6年毎に会社の代表取締役を官公庁からの天下りで迎えることで業界団体とのバランスを保っていた。

 私は一般職員からの生え抜きの役員として同業他社との調整役を担っていた。調整役と言っても接待ゴルフと繁華街の付き合いが主であった。むろん、業界団体の事業開発委員、造園施工管理技士会の役員や青年部組織の世話役等も引き受けていたが、何らの責任も要しない立場であった。

営業と称して同業者との折り合いをつけるための接待ゴルフと繁華街の出入りで退屈な日々を紛らわせていた。

私は名護市内のみどり街と呼ばれる繁華街のネオンの下から帰宅の途に就く時、酒場の店内の喧騒を振り払うようにゆっくりとみどり街の外れまで歩いた。いつの頃からか酒に酔うことを失っていた。傍らを通過する空車のタクシーを拾うこともせずに歩いた。場末の街灯が照らす薄暗い歩道を進みながら何か忘れていたもの思い出そうとしていた。この業界に身を置いて25年、少しは顔を知られる存在となっただろう。しかし私は何を成したのだろうか。少しのチャンスを捉えて事業を発展させたてきたが、それは私だけ成果ではない。私は組織の中の多くの歯車の一つに過ぎず、ただ歯車が他の職員より少しばかり大きかっただけの事だった。何か自分の目指すものを探し出せぬまま今日にいたっている気がしていた。既に夢を探せぬまま若さを失ってしまった寂寥感と、安定した餌場に居座り続けている自分への自嘲感だけが溜まっていた。天は私にこの程度の命を与えたのであろうか。それとも新たな潮目を待てと言っているのであろうか。答えを探せぬままみどり街の外れで、タクシーを拾って帰宅する日々が続いていた。

 私のプリウスの横をグリーンのマツダ・ロードスターが一気に駆け抜けていった。雨上がりの路面から霧のような飛沫が舞い上がった。ワイパーを作動させてスピードメーターを見ると時速80kmを切っている。私は苦笑した。何ともだらけた運転をしていることが可笑しかった。確かに酔いが醒めきっていないようだ。自動車道路の周辺の森が雨水を吸って落ち着いた濃い緑色に変化していた。その緑の中にイジュの白い花がひと塊となって次々と車窓から後方に飛び去って行った。沖縄の古い言い伝えでは、イジュの花が咲くとその毒気に当ったハブが巣穴から這い出て来ると言われている。しかし此のところハブが出没したとの話を聞かない。人間の愚かな営みによって自然の生態系が少しずつ衰退しているのかも知れない。私は窓を開けて雨の香りの残った風を車内に取り込んだ。そしてゆっくりとアクセルを踏み込んだ。フロントパネルのガソリン消費表示が一気に上昇して車体が加速を始めた。

 宜野座インターで降りて少し進むと、三叉路の交差点の左側に宜野座村運動公園の表示板が立っていた。その向こうに野球場の照明スタンドと雨天練習場の巨大なドームの屋根が見えた。5,000人足らずの村民には過ぎた施設のような気もする。国内のプロ野球阪神球団のキャンプに一カ月ほど使われているようだが、普段はどの様に利用されているのだろうか。村の西に広がる米軍演習地の賃貸料の恩恵のひとつであろう。沖縄自動車の西側の山林は、北の久志岳から南の恩納岳まで広大な米軍の軍事演習エリアである。旧久志村(現在は名護市の久志、豊原、辺野古地区)、宜野座村、恩納村、金武町には莫大な軍用地賃料収入が入っており、地域の行政資金を潤しているのだ。緩やかな上り坂を進むと国道329号宜野座村惣慶の交差点に出る。左に行くと宜野座村から名護市の東海岸へと続き、右に行くと金武町、うるま市石川へと続いている。

1B惣慶宮

琉球松の残っている惣慶宮の杜

私はハンドルを右に切って南下した。左手に惣慶宮の松林と宜野座中学校の白い校舎が見えた。緩やかな下り坂の途中の左手にかんな病院の白い建物があった。不正経理で新聞を賑わした東海病院は北部病院、かんな病院と2度も名称を変えている。改名すれば組織の体質が変わるとも思えぬが、臆面もなく真新しいシーツを掛け直している。緩やかなカーブを減速しながら下った。二つ目のカーブで左にハンドルを軽く切った時、右手の斜面から懐かしい花の香りが車内に入ってきた。目をやると季節遅れのソウシジュの花が斜面に黄色の塊をなしていた。1㎝程のパフに似た花だが遠目には樹冠を黄色に染めて見える。この甘い香りが私の古い記憶の何かを刺激しているようだが、二日酔いの頭には特別の意味を成さなかった。坂を下りきるとゆっくりと左折して車を恩納タラソの構内に車を載り入れた。漢那小学校の跡地にふるさと創生事業で建設された健康増進施設である。ドイツ製の設備が導入されており、海水プール、温水ジャグジー、ミストサウナ、健康食レストラン、等を備えていた。利用者の多くは村内の老人であった。何しろ村民の利用料金がバスタオル代の200円では銭湯よりも安いのだ。むろん、村民以外の利用者は1,600円の利用料金が必要である。5千人程の村民の施設としては採算の合わぬ施設であるが、潤沢な軍用地料の成せる施設管理であろうか。私がこの施設を利用するのは、妻がこの施設の利用者メンバーであり、彼女からメンバー特別割引優待券を貰っているからである。3年前に喘息が悪化して教職を辞した妻は、毎週3回ほどこの施設のミストサウナとジャグジーを利用して次第に体力を回復している。メンバーでない私も妻のおかげでバスタオルとロッカー利用料金800円で施設が利用できるのだ。私は25mプールを数往復してジャグジーで筋肉を解し、ハーブミストのサウナで汗を流す。このサイクルを2時間ほど繰り返すと酒は殆ど完全に抜き取れるのだ。毎月12度、深酒の翌日に利用している。

雨上がりの広い駐車場を横切って施設の地下駐車場へと降りて行った。地下駐車場は村内の老人以外の客が利用するスペースだ。夜の仕事をする女性や深酒の翌日の私の類だ。人目を避けて施設内に移動できるのである。私は地下駐車場の隅にスペースを見つけてプリウスを滑り込ませた。そして気怠さを振り払うために目を閉じて頭を後ろに反らし、さらに左右に振ってから前方に向かってゆっくりと目を開いた。その刹那、前方の駐車スペースに止まっていた黒塗りの乗用車がエンジンをふかして点灯した。私は一瞬放たれた閃光と排気音で視界を奪われ現実の空間を見失った。そしてその閃光は私の古い記憶を鮮明に蘇らせた。あのソウシジュの香りが何であったかをはっきりと思い出した。

あの頃、私は深夜の国道329号を時速100キロでタクシーを走らせていた。街灯も無く、只、自分の運転する車のライトに浮かぶセンターラインの白線だけが、瞬きもしない私の瞳孔から後頭部に向かってモールス信号の如く突き抜けていった。寝ているのか醒めているのか判らない意識の中で、漆黒の闇の中から漂ってくるソウシジュの香りだけが未だ命ある世界にいるのを教えてくれた。あのソウシジュの香りは20数年の時を経て、再び人生の潮目の変わり時を告げているような気がした。

1Dソウシジュの斜面

国道58号から名護市の市街地に入る斜面地のソウシジュの群生

      (2)

昭和572月上旬、私は那覇市西町の公安委員会の自動車運転免許試験場にいた。4度目の普通自動車二種免許の実技試験を受けに来たのだ。大学の農学部を卒業して6年目、既に結婚して2歳になる娘がいた。3年ほど勤めたサラリーマン生活に見切りをつけ、友人3名で始めた農業にも挫折して自由人となっていた頃だ。友人と袂を別ったきっかけは既に記憶の中から消えてしまったが、私の深層に巣くっている風来坊としての育ちから来る、堪え性の無い不徳によるものであったに違いない。

その頃の私は養父母を失い、子供が成長するにも関わらず農業生産法人設立の目途も立たず、次第に生産活動エネルギーの消耗だけが加速していた。私のモチベーションの欠落を見抜いた友人が共同経営からの離脱を促し、私は糸の切れた凧のようにゆらゆらと早春の風に流され、緑の農耕地から遠ざかって行ったのだった。

当時の我が家の家計は妻が県立特別支援学校の教師をしており、家賃6千円の新築の教員宿舎に住んでいた。妻の給料でそれなりの生活が出来ていた。私はサラリーマン時代の蓄えが未だ残っており、タバコ代に不自由することも無かった。只、農機具の購入資金として実家から25万円ほど借りており、学生時代に借りた日本育英会の奨学資金の返済も23万円ほど残っていた。今日、明日の返済が要求されるものでは無いが返済は必要であった。平成景気が始まる前のこの時代に学卒の就職先は多くなかった。無論、職安での仕事探しを怠っていたわけでは無いが、さりとて熱心でもなかった。元来の風来坊癖が影響していたのであろう。

娘の彩夏をカトリック系保育園エデンの園に送って、その帰りに実家の母を訪ねた。彩夏の風邪が治って保育園に元気に通い始めたことを伝えるためだ。それに久しぶりに実家に備え付けてある大型スピーカーのステレオで、ジョン・コルトレーンのブルートレインを聞きたいと思ったからだ。あの暗闇の中から何かを送り出してくる響きが気に入っていた。しかし、コルトレーンの重低音のテナーサックスはアパートでは持て余すのだった。

実家には母の弟の武松叔父が来ていた。

「松さん、久しぶりだね」

「おう、カズか、農民を廃業したらしいな」

松さんは以前のひどいドモリが消えたなめらかな口調で話しかけた。

「農業も嫌いではないが、売れ残りのキュウリばかりを食べるのにも厭きたのさ。それによ、俺は親父に似てトマトの若葉の奇妙な臭いが我慢できなかったのよ」

「そうかい、だいたい学卒の農民なんて流行らないぜ。それで、姉さんに聞いたが農協に就職するための履歴書を出したのだろ、返事があったのかい」

「それがさ、新卒が優先で俺らの様な再就職者は6月の総会が終わってから採用を検討するそうだ。俺の方が農業に詳しいのによ。農協もどうかしているぜ、全く」

「相変わらず減らず口を叩くな。お前らしいや」

「そうでもないさ。一応、職安にも通ってはいるけどな」

「ところで、俺のところのタクシー会社で乗務員が一人必要だが小遣い稼ぎにやってみるかい」

「そいつは面白そうだな」

「只よ、二種免許が必要だぜ。お前が持っているのは普通一種免許だろ」

「何だか知らねえが、一種より2種の方が偉いのかい」私は冗談で答えた。

「お前のことだから学科試験は易しいだろうが、実技試験は難しいぜ。4回でパスすれば御の字だ」

「そうかい、やってやろうじゃないか」

「名護自練に具志堅さんという運転教師がいるから習ってきな。元久志タクシーの乗務員だ。実技試験の要領を教えてくれるはずだ。学科試験のテキストは会社にあるから後で姉さんに渡しておくよ。

「ありがとう。明日にでも名護自練に行ってみるよ」

2種免許を取ったら会社に回って来な。社長の政兄さんに伝えておくから」

松さんは会社の位置を新聞のチラシの裏に書いて渡した。

「お前、タクシーの乗務員等せずに武政の下で事務をしたらどうかい。あれは前からお前を欲しがっていたよ。男の子がいないし、本人の体も丈夫じゃないからね」母が言った。武政叔父は母のすぐ下の弟である。

 翌日、名護自練に出かけて具志堅さんを訪ねた。武政叔父の身内だとは告げずに2種免許の実技講習を50分ほど受けた。確かに1種免許より運転技術が細かいようだ。外周の直線で十分に加速すること、鋭角の切り返し、並列駐車、左折時の左への幅寄せ等、1種免許試験ではなかった技能があった。

 午前9時、那覇市西町の公安委員会の2階で学科試験を受け、合格書類をもって1階の受験申請窓口で実施試験の申し込みをした。試験日は2日後の午後2時からである。私は学生の頃にこの試験会場で普通1種免許を取得した。仮免許の学科試験、仮免許の構内実技試験、本免許の学科試験、本免許の路上実技試験と4回の試験を受けたのである。構内実技試験にてこずった記憶がある。

 左隣の実技受験者待機室に入って受験コースの張り紙を探した。コースは6種類あり、受験の20分前に試験官からどのコースで試験を実施するかが伝えられるのである。AからFまでのコースを覚えないといけない。私は学科テキストに添付された場内試験図に6種類のコースを書き込んだ。先日具志堅さんに教わった運転操作技術をシュミレーションしながらコースを記憶することに務めた。そして構内実技受験場の風景を眺めていると、8年前にタイムスリップしているような緊張感に包まれた。

 最初の受験日は1時間前に受験者控室に入った。大型2種免許の実技試験が既に始まっていた。琉球バスと表示されたままの路線バスの中古車での試験である。車体に錆が浮いており、かなり古い年式のようだ。

「7番、安村君」

「ハイ」と大きく返事して30歳くらいの男がバスに乗り込んだ。試験官が左後方の席に着くとドアが閉まり発車のウインカーが点滅してバスは動き出した。ギアが2速,3速と切り替わり加速していく、しかしトップギアに切り替わることが出来ずガリガリとギアチェンジの音がして、トップスピードに達せずに減速した状態で第一コーナー入った。そして減速した状態でコースの外周を1周した。バスは左のウインカーを点滅してスタート地点戻って来た。バスのドアが開いて試験官が降りてきた。続いて受験者も降りてきた。試験官は「もっと練習してくるように」と言って受験票から写真を剥がして渡した。その写真を次の受験申請に使うのである。

「8番、高山君」、「ハイ」次の受験者がバスに乗り込んだ。バスがスタートすると安村と呼ばれた男が歯ぎしりするように言った。

「ちくしょう、あのポンコツバスはギヤが入り難いのよ。自動車練習所のバスよりも相当古くておまけに整備不良だよ」大きくため息をついて出て行った。

 私は普通2種のコース図を指でなぞりながら場内のコースと比較するように記憶を整理しながら試験に備えた。しばらくすると大型2種の試験が終了して試験官が引き上げた。最後まで残って試験を見ていた受験生がぽつりと言った。「今日も合格者は一人かよ」10名中1名の合格者だ。

 午後2時、普通2種免許の試験開始の時間となった。試験官がやってきて言った。

「受験番号の1番から8番まではBコース、9番から15番まではDコースです。20分後に試験を開始しますので準備をして下さい。

 私はDコースの5番目であった。

「お願いします」そう言って車に乗り込んだ。

ウインカーを出してスタートするとすぐに加速してトップスピードに達してからシフトダウンして第1コーナーを回り、周回して中のコースに入って鋭角、クランク、並列駐車等を次々とクリアして終了した。

「試験場はサーキットではない。早く回る試験をしているのでは無いですよ」

写真を剥がしながら試験官が抑揚のない声でポツリと言った。

 2回目の試験を二日後に受けた。Cコースであった。私はスピードを抑えて丁寧に運転した。そしていくらか自信をもって全工程を終了して戻ってきた。

「上手な運転だが安全第一とは程遠いな」と言って写真を剥がして渡した。

3回目の試験を週明けの月曜日に受けた。Bコースであった。しかし不合格である。

「安全確認が不十分ですね」試験官は写真を渡した。

私は不合格の原因が分からなくなって次の試験日を4日後にした。その間に再び名護自練に具志堅さんを訪ねてみようと考えたのだ。

 名護自練に電話を入れて具志堅さんへの教習予約を入れた。水曜日の午前10時に予約が取れた。

教習所に行くと事務所で具志堅さんが新聞を見ながら待っていた。

「よう、君か。未だ合格できていないようだな」笑いながら話しかけてきた。

「よろしくお願いします」

「こんな年寄りを指名するのはよほどの物好きだな。どれ、試験のつもりで見てみよう」

「それでは先日のBコースを回ります」

「ハイどうぞ」

私は何時もより慎重に運転してコースを回った。

「うむ、不合格だな、これなら絶対に合格できない」

「え、どうしてですか」

「試験官は運転のうまさを見るのでなく、安全確認をチェックしているのだよ」

「安全確認をしていますが」

「試験官が分かるように行うのだ。良いかい。発進時は左良し、右良し、後方異常なし、発進しますだ」

「ハイ、声に出すわけですか」

「声だけではなく、顔も素早く動かして確認している動作を試験官に認知させるのです。それでは、別のコースを練習してみよう」

私はC、Dコースを練習した。3コースのうちのどちらかに当たる確率は半分だ。

 4回目の試験日も1時間前に着いた。受験者控室に向かう途中で見知った男に出会った。大学の同窓生宮城茂光である。

「よう、久しぶりだね」と声を掛けてきた。

「おう茂光、何の試験を受けたのかい」

「大型2種だ。外周回って終了さ。全然ダメ。大型1種に変更だ」

「ダンプでも運転するつもりかい」

「姉が経営する保育園の送迎バスの運転手さ」

「カズ、お前はどうして」

「農業では食って行けそうもないので、叔父のタクシー会社のアルバイトさ。ところで、君は今でもバイオリンをやっているかい。君の所属していた沖縄交響楽団の話題が新聞に載っていたけど」

「ああ、今でもメンバーさ、俺のささやかな趣味だ。園児の御昼寝タイムにも演奏しているよ」

「良い趣味だ。そのうちに演奏会を聴きに行くよ」

「お前の空手は今でも続いているかい」

「いや、館長がハワイに行ってしまった」私は人差し指を顔の前で上に向けて言った。

「ハワイ?」

「ああ、3年前に亡くなった。息子さんが道場を継いだが、手習い無しの素人だ。結局は休館日が続いているのさ」

「そうか、残念だな」

「所詮、空手なんぞは暇な学生のお稽古ごとさ。俺も暇だがな」私は自嘲気味に言った。

「俺は落ちたがお前は頑張ってな」そう言って茂光は出て行った。

 受験者控室に入って実技試験コースを指でなぞり運転操作のポイントを確認して過ごした。試験開始の25分前に緊張を解くためにトイレに入った。

 用を足していると試験官らしき男が入ってきた。制服ですぐに分った。私の隣で用を足しながら話しかけてきた。

「受験生かい」

「ええ、普通2種を受けます」

「どこから来た」警察官特有の命令調で尋ねた。

「名護からです」

「名護か、私も名護署勤務の若い頃に住んでいたな。宮里の海岸に大木の生えている拝所があるだろう。あの近くだ」

「私の生まれた村です」

「君、名は何というのだ」

「仲村です」

「仲村君か、仲村宏郎さんを知っているかい。その家に下宿していたのだ」

「宏郎さんは父の従弟です」

「宏郎さんは元気かな。随分とお世話になったからな。彼の経営する名護鉄工所はオリオンビール工場の建設を手掛けていて景気が良かったな。新任警察官の私に美味いものを食べさせてくれたよ。もっともヒートクジラの肉だけは苦手だったな」

「先月、正月の一門祝いで会いましたよ。長く胡坐をかくと膝が痛いと言っていましたがいたって元気でした。浦添市の本社の経営を娘婿の岸本さんに任せていると話していました」

「そうか、元気でいらっしゃるのですか。処で何回目の受験かな」

4回目です」

2種免許はそれぐらいが普通だな。落ち着いて自信をもって臨みなさい」

「ありがとうございます。がんばります」

私は試験官がトイレから出ていくのを軽く頭を下げて見送った。

2Aハスノハギリ

樹高20m、幹回り4mのハスノハギリの巨木に囲まれた拝所、女人禁制である。

 実地試験は定刻通りに始まった。試験は二組に分かれて実施された。試験官は私の淡い期待通りに先ほどの方あった。胸に町田義男と書かれたプレートがあった。今回はCコースであった。2度目の試験コースであり、名護自練でも繰り返し練習したコースである。私は具志堅さんの指導を思い出しながら自信をもって操作した。最後に駐車して車を離れるまで安全確認を声に出して行った。結果は16名中3名の合格者に入っていた。町田試験官が合格者の名前を読み上げ「以上の3名です。おめでとう」言った。

私はすかさず少し大きめの声で「ありがとうございました」頭を下げた。他の二人も私につられて頭を下げた。顔と上げると町田試験官の顔がほほ笑んでいるようであった。

 免許証の更新手続きの申請書を手にして窓口に向かっていると声を掛けられた。

「カズ君、何してるの」振り返ると義父の弟の芳邦叔父である。

2種免許に合格したので更新申請をしているところです」

「農業をしていると聞いたが廃業かい」

「すみません、針路が不安定で」

「若い時はそれでも良いさ。書類を貸しなさい、今日中に受け取れるようにするから」芳邦叔父は事務所の中に入って行ってすぐに出てきた。

1時間もすれば出来るだろう。それまでソバでも食べよう。まだ昼飯を食べていないのだよ。付き合ってくれ」

「忙しいのですね。いつから運転免許課に配属されたのですか」

「糸満署の少年課だけどな。少年事件の後始末で来たのよ。最近の高校生は無免許運転で検挙されると、仲間の免許保持者の名義で不携帯申告をするのだよ。今の若い者の仁義なんて嘘っぱちだよ」

「不義理の時代ですね」

「武政さんの会社でアルバイトするのかい」

「ええ、次の仕事が見つかるまで」

「去年だったかな。乗務員の期限切れ免許証更新の件で世話したことがあったよ。タクシー乗務員はスペアが少ないので経営が厳しいらしいね」

私はソバの小を御付き合いで食べた。程無くして免許証が出来たらしく取ってきてくれた。

「タクシー乗務員なんて長くするものじゃないよ。早く新しい仕事を見つけることだな」

「ありがとうございました」と言って別れた。

             (3)

 普通2種運転免許証の交付を受けた翌日、私は久志タクシーの代表者である武政叔父を訪ねた。事務所は国道329号の辺野古集落の谷を流れる小さな川沿いを、国道から海に向かって200mほど下った場所にあった。事務所の前をさらに500mほど進むと辺野古漁港である。名護市の東海岸は15年前まで久志村であった。名護町、久志村、羽地村、屋我地村、屋部村が合併して名護市になったのである。旧久志村の辺野古集落から南に向かって米軍の広大な演習エリアがあり、辺野古集落の北側と国道の東側に米軍基地のキャンプシュワーブがある。ベトナム戦争の頃には野戦訓練で多くの米軍兵士がシュワーブの兵舎に収容されていた。この基地で訓練を受けてベトナム兵士(通称ベトコン)と戦うのである。小さな繁華街は殺気立った米兵であふれ沢山のバーが営業をしていた。明日の命を知らぬ兵士が紙切れの様に米ドルをばら撒いていた。当時の沖縄の通貨は米ドルであった。しかし、ベトナム戦争の喧騒が終わり、未だ第1次中東戦争が始まらぬこの頃は兵士の数も少なく、閉鎖したバーの錆びついたトタンの看板だけが目立っていた。それでもバー街の入り口には鉄骨で出来た辺野古社交街のアーチ型の看板が威風堂々ウェルカムと表示されていた。今でも十数軒のバーは残っており、基地内から米兵が遊びに通っていた。

「こんにちわ」とあいさつして開いたままのドアから事務所を覗くと、政叔父さんがニコニコして私を迎えた。

「カズ坊、乗務員のアルバイトをしたいのかい」

「すみませんお願いします」

「会社は人手不足だが、経理を覚えながら。私の仕事を手伝っても構わないよ。幾つかの建設会社の会計帳簿も預かっているから」

「いえ、とりあえず乗務員からやってみます」

「そうか、それも経験だな」相変わらずニコニコしながら言った。色白で痩せて眼鏡をかけたオールバック髪型が似合う優男である。名護市を中心とした北部地区法人会の代表幹事の一人であり、見かけによらず胆力のある人物として知られていた。

 私は女性事務員に言われるままに書類に住所、氏名、年齢、学歴を日本語とローマ字で記入した、学歴は高校までとした。米軍施設の通行パスの申請書類らしい。提出先のオフィスはキャンプ瑞慶覧にあるようだ。事務所の壁に貼られた沖縄地図で教えてくれた。

「当分はピンク色の仮パスだが5カ月後に写真入りの本パスに更新できるだろう。但し不用意なトラブルを起こさなければな」

私はほとんど読めない申請書類の英文を見ていた。

「ああ、それからもう一つ言っておく、そのオフィスで親戚や友人に日本共産党員がいないかと質問されるはずだ。いないと答えなさい」

「変わった質問をするのですね」

「米軍は赤旗を極端に嫌うのさ。カズ坊は学生運動をしなかったのかい」

「革マル派と中核派がゲバ棒をもって争っていけど、僕らの頃は既に下火になっていました。僕の趣味にも合わなかったですね」

「革マルとか中核とか学生運動も色々だね」

「僕の友人にはそのような物騒な輩はいなかったけど、民青という共産党の下部組織に似た学生集団が活動をしていました。高校の同級生に熱心な男がいたけど僕には馴染まなかったです」

「仮パスを取ったら事務所に寄ってくれ、勤務割を考えておくから」

「お願いします」

「ああ、紹介しよう。こちらが事務の栄子さん。あちらが無線係の清造さんだ」

私は改めて挨拶した。

「よろしくお願いします」

「社長の自慢の甥っ子さんか、よろしな」ニコニコと挨拶した。

恐縮する私に栄子さんが言った。

「米軍オフィスは明日まで休みです。月曜日の10時までに受付を済ませば1時間程度でパスが貰えます」

「分かりました、月曜の午後にもう一度伺います」

私は叔父に挨拶して事務所を出た。事務所の隣の乗務員休憩室でたむろしている乗務員に会釈して駐車場に向かった。背中に複数の視線を感じた。彼らの目には学卒の乗務員希望者が奇異に映ったのかもしれない。或いは将来自分たちのボスになる存在かも知れないと感じたのかもしれない。

 月曜日の朝、彩夏をエデンの園保育園に送る準備をしながら妻に言った。

「キャンプ瑞慶覧まで行ってくる。夕方の彩夏の迎えの時間までには戻るから」

「何しに行くの、米軍施設でしょ」

「先週、普通2種免許を取ったと話しただろう。しばらく久志タクシーで働くことにした。米軍施設への通行許可証を貰いにさ」

「タクシー乗務員に米軍施設の通行許可証が必要なの」

「ああ、久志タクシーは米兵を乗せてベースの出入りが出来るタクシーらしい。乗務員に必要なパスだ」

「米兵相手に危なくないの」

「ベトナム戦争が終わって随分と経っているし。気の荒い米兵はいないさ」

「いつから勤務するの」

「今週中には始まるだろう。俺はスペアの乗務員だから週に3回くらいかな」

「あら、意外と少ないのね」

「うん、ただし、勤務は一昼夜だ。午前8時から翌朝の8時までの24時間勤務だ」

「噓でしょう。労働基準法違反だわ。体を壊してしまうわよ」

「俺より年上の、松さんがやっているぐらいだ。翌日は一日中休みだから平均すると君の勤務と変わらないぜ」

「難儀な仕事ね、どうせ長続きはしないわ。農協からの返事は無いの」

「採用の決定は、JA沖縄の総会後の7月頃の予定だ」

「それまでのアルバイトなのね。一生の仕事には出来ないわね」

「ああ、タバコ代と日本育英会の奨学資金の返済に充てるつもりだ」

「幾らなのよ」

23万円が残っている。借金を返済して新しい車の購入費用も少しは稼ぎたいし」実家からの借金の件は話さなかった。

「学生の頃の酒場のツケを今頃返すのね。バカな話ね」妻は不機嫌な顔で言った。『人生なんて所詮馬鹿な行動の積み重ねで成り立っているのだ』と口にしそうになり、振り向いて腰を落として彩夏を抱き上げて言った。

「さあ、行こうか。お母さんにバイバイして」

妻が不機嫌な顔を押し隠した笑顔で彩夏に手を振った。

3A嘉手納基地

広大な嘉手納エアベース。50mmのキャノンで1/4の範囲しか写せない

国道58号を南下して広大な嘉手納飛行場を過ぎ、キャンプ桑江の陸軍病院近くの北谷交差点を左折した。道路の両サイドは米軍基地だ。右がキャンプフォスター、左がキャンプ瑞慶覧である。広い芝生地の中にポツポツと平屋のオフィスと体育館よりも大きな倉庫が点在している。倉庫の前の駐車場には多数の大型軍用運搬車両が駐車していた。しばらく進むと左手に栄子さんが教えてくれた施設があった。蒲鉾状のトタン屋根の簡易施設である。終戦直後は小中学校の仮設校舎として使われたこともあるようだ。ゲートのガードマンは日本人であった。

通行証の申請に来たと伝えるとB棟に行くようにと言われた。建物の入り口にA,B,C,D,E,と表示されている。20台ほどが駐車できるあまり広くない駐車場に車を停めて施設に向かった。施設前の4段の階段を上ってふと振り返ると、広い芝生地とフェンスを隔てたはるか向こう側の斜面地に、ひしめき合って建つ屋宜原集落の家並みが見えた。第2次大戦の敗戦後に日本帝国陸軍に代わってやって来た米軍は、普天間、北谷、美里、越来、嘉手納村に住む人々の故郷も歴史も全ての存在を大型ブルドーザで地表からはぎ取り、深い土中の闇へと埋め込んでしまった。その痕跡を隠すように芝生の穏やかな緑で包み込んでいるのだ。私はフェンスを境に切り変わる空間のマジックに少なからぬ不快感を覚えた。

3Bフォスター

この地の人々は平地を追われ、基地の後背地にひしめき合って居住する

受付で書類を渡してその前のベンチに腰掛けた。分厚い米松の板で作られた頑丈な5人掛けの長椅子だ。私の村のキリスト教会にも同じ作りの椅子があった。確かウドラフと言う米国人の牧師が家族で住んでいて熱心な布教活動を行っていた。広い芝生庭を持つ海に面した教会であった。典型的なアメリカンスタイルの教会であった。硬いベンチに腰掛けると、遠い日々にクリスマスの時だけ讃美歌を歌って菓子やらを貰った記憶がよみがえった。教会の道向かいが名護鉄工の宏郎さんの実家でもあった。もっとも、その教会施設は、沖縄が日本復帰をした年に、屋根の上の十字架を取り外して外観を残したままソバ屋に変身している。教会はその隣の小さな敷地に日本人牧師によって開設されている。娘は牧師の妻が経営する保育園に通っているのだ。

ベンチの端には子供連れのフィリピン人らしい中年女性が腰かけていた。少し不安げな表情が気になった。このオフィスは軍人以外の軍関係者の施設への出入りを管轄しているのかもしれないと思った。

30分ほど待って呼び出された。幾つかの質問があったが、いずれも一昨日教えてもらった通りであった。只、予想しなかったのは両手の指先の指紋を丁寧に取られたことであった。私は犯罪者として扱われているような錯覚に陥り、軽い眩暈にも似た感覚を覚えた。トイレで指先のインクを洗い落として戻ってくるとピンク色のパスが出来あがっていた。パスと受取証にローマ字でサインしてパスを受け取った。Austhorized on base. Only Taxiと記載されていた。

オフィスの外に出て車に乗り込む前にあたりを見回した。緑の芝と鉄条網を眺めていると、私は既に一般社会人と異なり、米軍関連のある種の利権を持つ特権階級の仲間入りを果たしたような不可解な高揚感を覚えた。心なしかこの緑の芝生さえにも好感を覚えつつあった。

3C宮里ソバ

屋根から十字架が消えてソバ店に変身した。樹齢70年のガジュマルは全てを知っている。

帰りは国道330から国道329に入り、石川市で昼食のソーキソバを食べた。金武町のキャンプハンセンゲート前を通り、宜野座村、名護市久志地区へと東海岸を北上して午後2時過ぎに辺野古集落の久志タクシーの事務所に着いた。

この日は政叔父も清造さんも不在で事務の栄子さんが出てきた。出来立てのパスを渡すと許可番号を記録して返した。

「明後日の午前8時に事務所に来てください。車の準備をしておきますから」

「よろしくお願いします」と言って外に出た。

「おい、カズではないか」

振り向くと中学の同級生イサオがタクシーから顔を出して笑っていた。

「おお、懐かしいね。此処で働くことになったのでよろしくな」

「おい、おい、タクシー運転手なんてロクな仕事じゃないぜ。他に仕事は探さなかったのかよ」

「ああ、不景気で仕事も金も無いし、あるのは借金ばかりさ、全く泣けて来るぜ」

二人して声を上げて笑った。

イサオは無線機を掴んで言った

6号車これから向かいます」そう言って窓から手を振って車を発進した。

 保育園で彩夏を引き取って帰宅した。二人で風呂に入り洗濯機を回していると妻が帰って来た。彩夏が裸のまま「お帰りなさい」と言って妻に抱き着いた。「彩夏、寒いからパジャマを着けましょう」と言って妻から彩夏を引き取って着替えをさせながら言った。

「明後日の水曜日から仕事に出る」

「あら、早速仕事なの」

「政叔父さんが俺の為にスペアを採用せずにいたのさ。車を遊ばすわけにもいかないのさ」

「彩夏の送迎を考えないといけないわね」

「勤務日の夕方と勤務明けの朝はエデンの園に行けないな。多分、一日おきの勤務になるはずだ」

「分かった。エデンの園は午前7時から午後6時半まで職員がいるので何とかなるわ」

「すまんな、頼むよ」

「でも、貴方の居ない夜は彩夏に何と言えばいいの」

「お父さんは夜も仕事だと言えばいいさ。毎日朝の送りか夕方の迎えのどちらかに僕がいるのだから」

「そう言う問題ではないでしょう。貴方の居ない夜はあの子が怖がって寝付かないのよ」

「そのうち慣れるさ、お仕事だもんネ、彩夏」

「お仕事、お仕事」と言って彩夏は胡坐をかいた私の膝の上に立って、私の頬を両手でパチパチと叩いた。妻はふっと大きくため息をついて台所に出て行った。食器を洗う音が聞こえた。私は彩夏を抱き上げてベランダに出た。北の空に北斗七星を探しているうちに彩夏がいつの間にか私の胸に顔をうずめて寝息を立てていた。物事は何かを中心に移ろうものだ。不規則に動いているようでいて一つの秩序からはみ出すことも出来ずに。

 

               (4)

 水曜日の午前8時、運行管理者で無線係の清造さんから乗務員の業務内容と手順についての説明を受けた。

「貴方は正社員ではないアルバイト扱いですから売り上げを会社と折半とします。ただし、燃料代は貴方持ちです」

そして記録用紙のファイルを示して言った。

「スタート時の走行数値を此処に記入、その隣に納車時の数値を記入します。この欄に客の乗車時間と場所、同じく下車時の時間と場所だ。

このスイッチを押すと本日の売り上げが円で示されます。ドルで売り上げを払う場合は、その日の為替相場で栄子さんが算出して請求します」

「すごいですね毎日の為替相場が分かるのですか」

「この先の国道329号辺野古橋のたもとに久志農協があるでしょう。入口の看板にその日のレートが載っています。土日は金曜日のレートを使います」

「分かりました」

「ところでつり銭はありますか」

「いいえ」

「それでは、今日は立て替えておきますので、明朝の売り上げから差し引きます」アルミ製の四角い手のひらサイズの弁当箱にも似た箱を渡した。10円玉、100円玉、に交じって25セント玉が数多く混ざっていた。二十歳の頃まではドルが沖縄県の通貨であったので違和感はなかった。ドルと円の札入れも渡してくれた。

「つり銭入れはどこかで気に入ったものを探すと良いでしょう。其処の灰皿の上がつり銭箱を置く台座です。」

引き出された灰皿の上が上手く加工されていてアルミ製の釣銭箱が入るようになっていた。釣銭箱は蝶番で開閉できるようになっていた。一寸目にはシガレットケースにも似ていた。

「タクシーの操作方法は松さんから習うと良いでしょう。松さんチョット来てくれ」乗務員控室に向かって呼びかけた。

短く刈り込んだ白髪交じりの頭と陽に焼けた浅黒い顔は老獪な漁師にも似た風貌があった。只、その大きな眼だけはこの地域の変化に揉まれて生き延びてきた者だけが持つ強さと優しさを湛えていた。

松さんが助手席に乗り込んできて装備を説明した。

「後部座席の左側のドアは運転席の右下にあるレバーを引けば開き、下ろすと締まる」操作してみるとテコの原理が作用しているらしく軽い上下で開閉した。

「客が載ったのを確認してからレバーを降ろしてドアを閉めること。車を発進してから料金レバーを右に倒すこと。目的地に着いたらこのボタンを押して料金メーターの作動を停止する。タクシー代金を貰ってからドアを開いて客を送り出すこと。『ありがとうございました』の返事も忘れずに言うことにしろ。このボタンをもう一度押すとメーターがリセットされて空車の表示レバーが立ち上がる。ここまでが客の乗降の操作だ。簡単だろ」

「ああ、分かった」

「それから右ひざの前にあるスイッチを入れると車外の小さなタップが点滅する。緊急事態発生の合図だ。走行中の全てのタクシーがお前の車に注目するだろう。不慮の事故に遭遇した場合のタクシー同士の緊急信号だ。もちろん他社のタクシー乗務員も注目する。一人で働く者同士の安全対策だ」

「覚えておきます」

 「さて無線機だが。このボタンを押して通話する。離せばこちらからの通信は止まる」

「CB無線と同じ要領ですね」

「そうだな、簡単な操作だ。例えば名護に向かう時にはこう言うのだ。

6号車から本部どうぞ』『本部です、6号車どうぞ』『実車で名護に向かいます』『安全運転で行ってください』『了解です』で交信終了だ。必ず了解を入れて交信を終了することだ」

「了解です」

「それからお前はスペアの乗務員だから毎回異なる車両を運転するだろう。だから何号車かを間違えないことだ」

「分かった」

「そうだ、無線の交信範囲だが、西海岸は全く交信不能だ。南は石川までかな。FM電波だから直進方向のみの交信なのだ。無線アンテナを辺野古の一番高い場所である赤羽屋の屋根の上に設置してあるが、名護岳や恩納岳を超えることは出来ない。その方面に実車で行くときは必ず事務所と交信することだ」

「そうします」

「うちは車が7台しかないからトラブルは皆で対応しなければいけないのだ」

7台とは少ないな」

「最後に、仕事が終わったらガス補給して洗車機を通して室内のごみを拾って7時半までに納車だ。栄子さんが7時には出勤しているから。ガススタンドだが名護は宮里と大北にある。金武町は伊芸だ。石川市内の国道沿いにもある。5時を過ぎたらガスを入れて帰る準備をすることだ。どうせ客のいない時間帯だから。ガス充填するときはトランクを開けろ。燃料バルブを閉めてからガスを充填するから。ガス充填の操作はスタンドの係り員がするからお前はトランクのレバーを引くだけだ。そうそう、燃料代は自分持ちだからな」

「ガススタンドは意外と少ないのだね」

「ガス車自体が少ないのさ。それから車を離れるときはキーと釣銭は必ず持って出ることだ。そうだ、24時間勤務だから昼間の暇な時間帯に仮眠をとることも忘れずにな」

「武松先生、新米にキチンと指導したかな」暇な連中が車中を覗き込んで勝手にアドバイスを付け加えた。

「客が多い時には飯など食わずにノンストップでぶっ飛ばせ」

「休まずに走れば客は拾えるぜ。寝る暇など無いぜ、どうせ明日は一日中寝ることが出来るからな」

「車をぶつけて壊すなよ。この車の相棒が泣くぜ。全車が二人一組だからな」

最後に松さんが言った

「今日は練習日だ。名護でも何処でも好きなところを流してきな。まぁ、明日は間違いなく船酔いしているだろうが。誰でも最初はそうだ。頑張ってきなさい」

私は船酔いの意味が良く分からなかったが、それは確かに翌朝にやって来た。

 久志タクシーは名護市内の他の4社のタクシーとは少し変わっていた。フロントガラスには米軍基地に入ることを許される通行許可証のステッカーが貼られていた。米軍基地のゲートにある標識を模した15㎝程の円形の黄色い鳥居マークのデザインである。トランクのハッチの下部には長さ1m、幅15cmでAUTHORIZED ON BASEと目立つように書かれている。この文字はキャンプ・シュワーブの出入りを中心に営業する久志タクシーと、キャンプ・ハンセンを中心に営業する金武タクシーだけに許されていた。久志タクシーは白とブルーのストライプを基調にした車のデザインである。一方、金武タクシーはレンガ色に黄色のストライプを基調にしたデザインだ。どちらかと言えば久志タクシーの方があか抜けたデザインあると私は思った。

 久志タクシーが他社の車と大きく異なるのは米軍キャンプの通行許可だけではない。車種はトヨタコロナの2,000㏄エンジンを搭載していることだ。他社は1,6001,800㏄のトヨタコロナあるいは日産ブルーバードである。他社がノーマルタイヤを装着しているのに対し、久志タクシーは前輪に185サイズ、後輪はアルミホイルに205サイズのラジアルタイヤを装着している。高速走行仕様の装備である。運転席と助手席はセパレートされており、サイドブレーキレバーの上に左肘を置く肘立てを拵えてある。無論、一般車両の装備品ではなく車の内装工に特別注文して装着してあるのだ。まるでレーシングカーの運転ボックスのような仕様である。ハンドルは革のハンドルカバーで滑り止めとグリップ感を良くしてある。私の自家用車日産バイオレット1,6002ドアハードトップよりも明らかに馬力のありそうな車だ。私がこの車の仕様の意味を知るのは次回の勤務からであった。

 私は再び座席の右下の後部座席側のドアの開閉レバーを操作してドアの開閉具合を確認した。少しぎこちないが苦も無く作動した。そして4段ミッションのギアを1に入れてゆっくりと発進した。事務所の乗務員控室でたむろしている先輩乗務員に右手で敬礼して事務所を後にした。後ろから指笛の音が2度、3度と聞こえた。多分、小僧頑張れの意味であったのだろう。老獪な連中にとって既に失って久しい職業運転手としての新鮮な何かを、私の中に見たのかもしれない。時の流れは小さな感動を押し流し、退屈な日々に埋没することの虚しささえも忘れさせてしまうのだ。それが生きることの不安を隠してくれる人間の本能なのだろう。

辺野古社交街入口のウェルカムタワー

車を発進させて事務所前の急な坂道を辺野古社交街に向かった。赤羽屋前の交差点を左折してバー街の緩やかな坂を更に上ると、辺野古社交街のウエルカムアーチが見えた。その下を通り抜け、右折して国道329号を北上した。私は自分の居住地の名護市街地を流してみようと思ったのだ。本部半島の地理はある程度知っているが、辺野古から金武町にかけての東海岸を通る機会は少なく、この辺りの地理に疎かった。100mほど進むとキャンプ・シュワーブのゲートがあった。守衛の黒人兵に手を振ると白い歯を見せて手を上げた。久志タクシーを知っているようだ。シュワーブの第2ゲートを右に見ながら下っていくと辺野古ダムがあった。キャンプ・シュワーブの水がめである。左側の米軍フェンスに沿って進むと二見の交差点に出た。右へ行くと旧久志村の大浦、瀬嵩、丁間集落があり、その次が東村である。東村慶佐次集落には慶佐次ロランの電波基地がある。船舶用の長波の送受信基地だ。細く高い鉄塔から長いアンテナケーブルがいくつも張り巡らされている。米軍が管理しているが世界中の船が定期発信されている電波を利用して船の航行に利用しているようだ。長波は地球の電離層に反射して地球上をどこまでも飛び跳ねていくらしい。久志タクシーのFM無線とは異なる種類の電波だ。その先は国頭村の広大な原生林が広っている。東村高江集落と国頭村安波集落の境界に米軍の熱帯雨林演習場入口がある。ヘリポート、軍用車両駐車場、簡易宿舎、事務所を備えた陸上競技場程度のあまり広くもない敷地がフェンスで囲まれている。しかし、ベトナム戦争の頃は数千、数万人の兵隊がこの施設をベースにして野戦訓練に出ているのだ。追うものと追われるものとの二手に分かれた実践訓練も頻繁に行われた。その頃は安波、安田、楚洲集落を繋ぐ県道70号線は民間車両よりも軍事車両の往来が激しかったらしい。無論アスファルト舗装も無く、むき出しの赤土道路キャタピラ戦車が走ることも珍しくはなかったはずだ。

 三叉路を名護向けに進むとやがて曲がりくねった下り坂が続いた。私はブレーキを踏んでハンドルを切り返し、加速と減速を繰り返してブレーキ性能を確かめながら下って行った。キャタピラー重機の修理工場の辺りから平坦な道路となり世冨慶集落が現れた。国道58号との交差点で国道329号は終わる。そこを右折してドライブインA&Wの前を市街地に入った。名護市のシンボルツリー樹齢300年のガジュマルの下を通って名護十字路を横切った。左側が名護市公設市場でその端から西へ300mほどの歓楽街、通称みどり街が一本道を挟んで続いている。市場の朝の活気と相反して今は眠りについているようだ。その通りから出て来る者はいない。日の出と共に活動を始める者と落日と共に目を覚ます人種が住み分けている一角だ。繁華街に繋がる路地は人の気配が消えて空気が停滞しており、干潮と満潮の変わり目の潮止まりの感がしていた。私は目をキョロキョロと動かして道路の両サイドを絶えず観察しながらタクシーに合図する人を探した。乗客を拾うのである。心がワクワクした。まるで潮干狩りの浅瀬で銛を持って獲物を探すにわか漁師の心境である。しかし、潮干狩りと同様に容易に獲物に出会うことがない。道路脇に立つ人を見かけるとその手前で減速して私のタクシーの存在をアピールする。その人が反応しなければ加速して次の客を探すのだ。潮干狩りでも獲物と思って銛で突いても、むなしく海藻が絡みつくのはよくあることだ。そこら中に獲物が転がっているような楽な商売など無いのである。私は十字路の商店街から名護高校の横を抜け、白銀橋交差点を左折して再び58号線に入った。名護市営野球場の前から城十字路に向けて左折した。左手に私の実家の屋根の上の丸いブルーの水タンクが見えた。母は父と兄を仕事に送り出した後だろう。洗濯機を回しながらコーヒーを入れて、ニコチンの強い古い銘柄のバイオレットを吸っている姿を思い浮かべた。宮里ソバ店を過ぎてハスノハギリ大木が繁る拝所の木陰を通過する時に、拝所の向こう側の明るい場所に二人の女性が立っているのが見えた。近づくと一人の女性が手を上げた。私は減速して車を客の前で止めた。レバーを引いて開けた後部座席に年老いた女性が乗り込み、その後から付き添いと思しき若い女性が乗り込んだ。

「どちらまでですか」

「名護病院までお願いします」

「分かりました」

私は車をゆっくりとスタートさせた。

「兄さん、ちょっと、ちょっと、ドアが開いています」

若い女性がびっくりした声で言った。

「あら、あら」と苦笑いしながらドアを閉めた。

「開閉ドアのレバーの調子が悪くてすみません」

私は初めての客を拾ったことに緊張してレバーを降ろすのを忘れてしまったのだ。チラリと後部座席を振り向いた時にドアの隙間からアスファルトの路面が見えた。バックミラーに映ったハスノハギリの大木の緑の一群が次第に遠ざかって行った。

 料金メーターが二度反転して県立名護病院に着いた。360円を受け取り、本日の初乗り客を降ろした。人生で初めての客商売の仕事が始まった瞬間であった。メーターを元に戻して大きく息を吸い込み「フー」と長く吐き出した。

 名護病院の構内から出るとすぐに客がいた。客は連鎖するものらしい。後日、客がツキを呼ぶと乗務員仲間から聞くことになったがそうかもしれない。飽きずに雑魚と拾っているとやがて大物がやって来る。それは仕事でも遊びでも同じだ。人生の根底に流れている運・不運と呼ばれるものなのだろう。

 中学生を頭に二人の小学生らしき子供の3人連れだ。ドアを開いて3人を乗せた。水曜日の朝だ。休日でもないので身内が入院しているのかも知れない。

「何処までだい」

「仲宗根まで」

「伊差川廻りが近いと思うのでそれでよいかな」

年長の少年が小さくうなずいた。私は落ち着いてドアレバーを降ろして後部ドアを閉じた。そしてゆっくりと発進した。伊差川、我部祖河、湧川を経て今帰仁村仲宗根に着いた。

「仲宗根に着いたけど、どの辺りだい」

「その先の橋を渡って左に曲がってください」

大井川に架かる橋を渡って左折して二つ目の交差点近くで停めた。闘牛場の近くである。

980円です」と言った。

少年が千円札をポケットから出した途端、メーターがカチリと音を立てて料金表示を切り替えた。1,030円の表示となった。少年はびっくりした顔をした。そしてすぐに悲しそうな表情に変わった。

「あ、ゴメン、ゴメン、メーターが変わったけど980円だからね」

私は千円札を受け取り、お釣りの20円を渡してドアを開けた。子供たちは闘牛場と反対側の路地に急ぎ足で消えて行った。私は少年の表情に心が少し痛んだ。彼らはタクシーの運賃が千円未満であることを知っていて、誰か大人から千円札を渡されたのかもしれない。彼らの手持ち金の全てであったのだろう。子供3人がタクシーを利用することは稀なことだ。バスの運行が少ない本部半島廻りの路線で仕方なく利用したのだろう。私が料金停止ボタンを押し忘れたおかげで子供たちに余計な心配をさせてしまったのである。タクシー料金は走行距離の他に混雑時の待機時間にもメーターが作動して料金が加算されるのだ。私は本日営業を始めたばかりの無知で未熟なタクシー運転手であった。

 昼間は名護十字路を起点に名護病院前、市役所前からバスターミナル前を回り、那覇行きのバス乗り場前を8の字を描く経路で流した。昼飯に沖縄ソバを食べ、農道で立ちションベンをした以外は休みなく流し続けた。昼間の客は少なく、無意味に燃料のLPガスを燃やし続けているだけの気がした。それでも夕方4時半頃から客が少し増えた。買い物帰りの主婦である。220円区間を何度か乗せた。日が陰ってきたころまで続いた買い物客も午後6時過ぎには急に途切れてしまった。昼間の客は終了したようである。国道58号沿いのドライブインA&Wに立ちよりチーズバーガーとルートビアで夕食を取った。外に出ると夜気が既に冷たくなっており、街は暗闇と街灯の明かりのコントラストでデザインされた新しい景観に変わろうとしていた。昼間の総天然色のスクリーンが白黒の色彩変化の乏しい世界へと移り始めていた。それでいてこの世界こそが人の本性が露わになる世界のような気がした。昼間の太陽の光は強く乱反射して人の目を眩ませてしまい物事の本質を隠してしまうのだ。一方、夜は灯りと闇、白と黒、真実と虚構の二者択一を迫って来るのだ。もう少しすれば昼間の明かりでストレスを溜め込んだ浪人共が、目覚めたばかりのみどり街のゲートをこじ開けて盛り場をうろつき始めるだろう。街が新しい姿に代わるのは間もなくだ。

 私は夜の運転に備えてドライブイン駐車場の端に車を移動して仮眠をとった。

40分ほど寝ただろうか、午後7時半に車から降りて屈伸運動を繰り返して膝関節を解した。続いて腰、肩、首、肘とストレッチして車に乗り込んだ。眠気が消えて夜の運転モードに切り替わっていた。財布の中身を確認すると7千円余りの昼間の水揚げであった。

昼寝中の飲み屋街

 エンジンを始動して昼間の8の字コースを少し大回りで周回した。居酒屋から帰宅する客、住宅地からみどり街へ出かける客と少しずつ客の動きが始まった。昼間の動きと異なるパターンである。私は周回コースの半径を次第に小さくしていった。深夜営業のスーパーマーケット・オキマートの横からみどり街の直線に入り、名護市公設市場の前で右折して名護十字路を回って再び入口にも戻るコースをベースにした。周回距離が2㎞にも満たない一方通行路である。タクシー以外の車は酒、氷を配達する酒屋のワゴン車だけだ。この300m程のみどり街のメイン通りには細い路地が川の支流の様に幾つも流れ込んでいて、夜のショッピングモールの本流となっているのだ。名護市内には名護タクシー、八重タクシー、北部観光タクシー、屋部タクシーの4社があるが、夜になるとすべてのタクシーがこの無限回路に集中するのである。

 ローギアでゆっくりと回路に乗って定速で進む。幸運にも酔っ払い客を拾った運転手だけがこの回路から脱出できるのだ。この回路のタクシーはパチンコ台の玉と似ている。回路に侵入したパチンコ玉は運よくチュウリップのポケットに吸い込まれると金になるが、大抵の場合一番下の回収口に吸い込まれて再び入口へと発射されていくのだ。

 私は腹が空くと屋台で買ったフライドチキンを齧りながらひたすら無限軌道を周回した。みどり街の最後の客が帰路につくまでだ。みどり街の酔い客は雨上がりのカタツムリにも似て次々と暗い路地から這い出してきた。それを拾っては全速力で自宅に送り届け、みどり街の軌道に戻るのだ。午前2時を過ぎると客足は少なくなり、タクシーがあちらこちらで停まって仮眠を取り始めた。私も午前2時半に拾った大宜味村塩屋集落までの客を最後にみどり街から離れた。無限回路から脱出して那覇行きのバス停の近くの路肩に車を停めて仮眠を取ることにした。未だ夜と昼の選手交代が始まらぬ繁華街の外れの静けさの中に、ヒンプンガジュマルの巨大な樹冠が月の光をうけて周辺の建物と不思議なコントラストを成して浮かび上がっていた。私は四方のドアをロックしてシートを後ろに倒して目を閉じた。瞼の向こう側で繁華街のネオンサインが幻影となって点滅しており、深い眠りに落ちることも無くただ体を横たえていた。

 意識が完全に闇の中に埋もれてしまう前に誰かがドアガラスを叩いていた。反射的に飛び起きた。すぐ前にタクシーが止まっており、その車から降りてきたらしき男が私を覗き込んでいた。ガラス窓を空けると男が話しかけてきた

「タップが点滅しているがどうかしたのかい」

「えっ、すいません。膝でスイッチを押してしまったらしい」

私は眠気眼で頭を掻いて謝った。

「そうかい」と私より一回り程も年上のその男が笑いながら車に戻っていた。私が新米運転手だとすぐに見抜いたのだろう。それに名護市内ではあまり見かけない久志タクシーということも気になったのかもしれない。名護タクシーとタップに表示されていた。

名護市のシンボルツリー、樹齢300年のガジュマル

 私はシートを元に戻してエンジンを掛けた。東の空がわずかに明るくなり名護岳の輪郭が見え始めていた。ヒンプンガジュマルはしっかりと存在を浮かび上がらせていた。その下を通過して東江十字路を右折して商店街を周回して名護十字路に戻って来た。夜が鳴りを潜めて朝が立ち上がり始めているようであった。私は初仕事が終わったのを理解して大北ガススタンドに向かった。街並みがおぼろげに姿を現した。既に昼が夜の背中を押して立ち上がる儀式が始まっていた。

 私はスタンドのガス注入ボックスに車を横付けして、釣銭箱を手にトイレに立った。数歩進むと体がふらついた。トイレから帰って来るとふら付きが治まっていた。ガス料金を払って車を構内の隅に移動して、トランクから雑巾を出して車体とシートを拭いた。ハンドルを握って車を発進すると完全に意識がはっきりとして先ほどのふらつきは消えていた。あれが松さんの言った船酔いかもしれないと思った。私は乗客を拾う視線を歩道に送ることも無く名護市街地を通り抜け、世冨慶集落から国道329号の坂道を登って行った。そして20時間ぶりに事務所に戻った。

 事務所で水揚げを計算すると32千円で、走行距離は320㎞であった。記録用紙と釣銭箱を栄子さんに渡した。そして水揚げの半分を貰った。

「お疲れ様、明後日もお願いね」と彼女は言った。事務所の外では仕事が終わった乗務員が車を磨いていた。松さんが近づいてきて言った。

「どうだった」

「うん、あんたが言ったように、先ほど給油していると軽く船酔いがした」

松さんが大声で笑った。走行距離や水揚げを話すと

「名護市内ではその程度だろう。次は外人相手に運転すると良いだろう。久志タクシーは外人相手のベースタクシーだから」そう言って再び笑った。

帰り支度をしていたイサオが言った。

「おいおい、久志タクシーが名護市内を一日中流すと他の会社のタクシー運転手から睨まれるぞ。お前も怖いもの知らずだな。次は昼だけにしときなよ」

イサオは大きなあくびをして「お先に」と言って気怠そうに歩いて行った。私もつられるようにその後に続いて歩き出した。朝の無垢な光は私の瞳の中に無造作に入り込んで来た。視界が不鮮明な黄色の明かりで遮られ、慌ててポケットからサングラスを取り出した。私はふと自分が未だ夜の世界に馴染んだままでいる様な感覚を覚えた。

愛車の日産バイオレットのエンジンキイを回すとガソリンに点火してエンジンが穏やかに回転を始めた。24時間ぶりに目覚めたエンジンはファンベルトをキュルキュルと鳴らした。アクセルを二度、三度と踏んでエンジンを吹かすとタコメーターが跳ね上がった。濃厚なガソリンの臭いを含んだ排気ガスが辺りに広がり、その臭いが私を現実の世界に戻してくれた。ゆっくりとギアを入れて赤羽屋の坂を登り始めた。この仕事のオンとオフが入れ替わるのを感じてホッとした。ふと彩夏は何事もなく保育園へ行っただろうかと心が疼いた。

 

              (5)

 この日の車は5号車である。記録用紙に発車前の必要事項を記入していると、松さんがやってきて早速外人相手のレクチャーを始めた。

「タクシーメーターの料金をドルに換算する場合は1ドルを200円で換算すること。正式ルートの1ドル280円で換算すると5セント単位でお釣りを渡すことになる。面倒くさくてかなわん。300円前後は1ドル50セントのダーラー・フィフティだ」

「随分とアバウトだね」

「相手が何か言ったらこの紙を見せるとよい」

運転席の日よけからラミネート加工した書類を取り出した。キャンプシュワーブの司令官と取り交わした覚書の写しである。交換レートを1ドル=200円とすると英文で書かれているらしい。

「シュワーブのゲートを入ってしばらく下っていくと僕らのタクシー待機場所がある。そこがスタート場所だ。

「ああ、分った。後で行ってみよう」

「オット、ベース内は時速20k以下の走行だぜ」

「ほう、随分とゆっくりだね」

「奴らもネズミ捕りレーダーを使うぜ。あのプロ野球で使っているハンディタイプのスピードガンだ。大抵はUSOを過ぎてからの下り坂で計測するから」

「何だかせこいね」

1度捕まると1カ月間のシュワーブへの出入り禁止だ」

「分かった。覚えておくよ」

「僕らの場合、ベースの外でもネズミ捕りの場所を無線で知らせている。『浄水場付近無線感度1です。注意してください』とな。パトカーが巡回している場合は感度2だ」

「それは嬉しいな」

「それとそのフロントの小さな計測器はネズミ捕りセンサーだ。警察のネズミ捕りの電波は随分離れた距離からキャッチしてピッとなるから。但しベース内のスピードガンには反応しないからな」

「一昨日、名護市内でも鳴ったぜ」

「ああ、店の自動ドアにも反応するのが欠点だ。そんな場所では高速走行しないから大丈夫だ」

「オーケー、無線交信に注意するよ」

「最近開通した金武大橋と久志の浄水場前の直進はちょくちょくネズミ捕りをしているから昼間の走行は要注意だ」

「そうかい、後でチェックしてみるよ」

「土、日以外の日は午後4時以降にベースに入ると良いだろう。普段の日は訓練があるから昼間にタクシーを利用する兵隊はいないからな。国道329を流したり、名護市内をぶらついたり、適当に昼寝をして無理せずに夜の運転の為の体力を温存するのさ」

「それでベテランのオジサンたちはモクマオの木陰で寝ているのだね」

「そんなところだ。昼間は適当に稼いでくれ」そう言って松さんは釣銭箱を手に自分の車に向かって歩いて行った。

ブーメランと呼ばれる坂道(現在は迂回路の橋が架かっている)

 私は辺野古川沿いの谷間にある事務所から集落内の狭い路地を駆け上がり、辺野古社交街のアーチの下を通って国道329に出た。大半が漁師と軍作業員で構成される人々の集落は閑散としている。左折して国道329号を南に向い、ブーメランと呼ばれる辺野古坂を下った。坂の頂上と谷底の高低差が50mもあるのだ。谷底に信号機があり、青になるタイミングを見計らってアクセルを踏み込むのだ。そして一気に豊原集落の坂の頂上に向かうのである。そうすればギヤチェンジをせずにトップギアで何とか駆け抜けることが出来る。ブーメラン坂と言われる所以である。荷物を満載したダンプトラックは坂の上で減速して青で走り抜けるタイミングを計るのが常だ。不用意に谷底で信号待ちをすると、急坂で黒煙を上げながらローギアで必死に登る羽目になるのだ。もっとも深夜の信号は黄色の点滅に変わるのでノンストップで駆け抜けることになる。豊原、久志の集落の外れにある浄水場を右に見てさらに進むと潟原の交差点に出た。右の県道71号に進むと本島西海岸を南北に走る国道58号だ。私は赤茶けた潟原の広大な浅瀬を左に見て更に南下した。敗戦前の豊かな浅瀬の漁場は、国道329の西側に広がる米軍の戦車訓練場から流れ込んだ土砂で赤く染まっている。米軍の水陸両用艇は陸と海を往来して、トライアルサーキットの如く走り回るのだ。踏み鳴らした大地から噴き出した血潮が清楚な海を赤く染めるのである。此処は紛れもなく殺し屋達の為の訓練場なのだ。

水陸両用車が干潟を出入りするための登坂道

 潟原から宜野座村松田の集落までは緩やかなカーブが続く登り坂である。アクセルを踏み込んで駆け上がった。おそらく逆コースでは高速で一気に駆け抜けるラインだろうと思った。帰りのコースは相当にスピードが出るだろう。松田集落の端から緩やかに下り坂となり、やがて急勾配の窮屈なS字カーブが連続した。私はギアを落としてエンジンブレーキを効かせ、ブレーキとアクセルを小刻みに踏み分け、減速を極力抑えるコーナリングのタイミングを確かめた。ハンドルを左に切って谷底の宜野座川に架かる橋に車体を突っ込むと一気にアクセルを踏み込んだ。後輪が悲鳴を上げてアスファルトを噛んだ。登りの直線ではアクセルを幾ら踏み込んでも車の尻がスライドすることはない。後輪にエンジンの駆動を伝えるワイドラジアルタイヤを装着しているからだ。

s字カーブ坂の入り口(現在は右方向に直線の橋が架かり国道ではない)

宜野座川の橋からの登り坂の頂点を少し下ると道路のすぐ右に宜野座高校がある。ゆっくりと下って再び登った頂上が高速道路の宜野座インターの出口だ。左に惣慶宮の松林と宜野座中学の白い校舎が見える。そこから緩やかなカーブを下る途中の左側に真新しい東海病院がある。その下り坂を降りると漢那小学校のモクマオ並木が続く。600m程の僅かにカーブした直線から福地川を渡り、L字型の急カーブとなった緩やかな坂を登ると金武町中川集落に出る。アップダウンのコースの終わりだ。億首川の谷間に最近開通したばかりの金武大橋がかかっていて、キャンプハンセンまでは丘陵地帯を進むのである。

金武大橋

橋を渡ると県道104号との交差点があり、右へ行くと喜瀬武原を通って西海岸の国道58号へと続く。橋を渡ってしばらく進むとキャンプハンセンの第二ゲートがある。その辺りから金武町の集落が密集している。敗戦直後に集落の西側の平地は米軍に接収されてしまい、追い出された人々が東側のブルービーチの海水浴場へと続くなだらかな丘陵地帯に居住地を構えているのだ。両側に商店の続く金武町のメインストリートを1㎞ほど進むと第一ゲートが現れ、そこから伊芸集落へと下って行き、国道329号は平坦な砂浜の海岸沿いを石川市へと続いている。

 第二ゲートから集落に向かって200m程進むと、右側に辺野古社交街と同じ形状の看板が小さな路地の入口に建っている。牛庭社交街と書かれている。牛庭(ウシナー)とは闘牛場の意味である。この辺りの古い地名で闘牛の盛んな地域である。宜野座村から金武町に住む地元民の歓楽街だ。米軍人は第一ゲート向かい歓楽街を利用している。第一ゲートの向かいの歓楽街には質屋、洋裁店、ビリヤード、タコス、ハンバーグの軽食店、バー、キャバレーがひしめいており、中でもサングリアという大きなクラブがこの一帯の中心的享楽場所となっている。

昼寝中のクラブ・サングリアとその周辺の繁華街

 私はゲートを過ぎて消防署の前を左折し、歓楽街の路地へゆっくりと車を進めた。雑多な異物を飲み込んだクジラの胃袋の中のようなこの一角は、未だ眠りについたばかりであった。私はパンドラの箱を空けぬように静かにクジラの口から外に出た。石川警察署金武派出所の横を右折して辺野古に向かった。キャンプハンセンからシュワーブまでの間の道路の形状を確かめながらゆっくりと走った。漢那小学校前から宜野座村役場まで一人の客を乗せた。帰りのコースは比較的に運転が楽であった。宜野座川から松田集落にかけての急カーブも登りは苦にならないのである。

 潟原の交差点で初老の女性4名を拾った。

「兄さん、本部の海洋博公園までお願いします」

5号車潟原から海洋博まで実車で向かいます」

「了解」昼間の無線係を兼ねている栄子さんの声がした。

県道71号を許田集落に向かって走った。

「水族館とイルカショーの見物ですか」

「そうですよ。兄さん、こないだテレビでイルカの番組を見たけど、イルカって頭がいいのね」

「ほら、フリッパーというテレビさー」

「ああ、人気のあるドラマですね」

「人間の言っていること全部分かるのだよ。すごいねー」

県道71号を右折して国道58号を名護市内に向けて進んだ。

ご婦人の一人が言った。

「名護の人って野蛮人だねー」

「どうしてですか」私は面白そうに尋ねた。

「だってさ、あの頭の良いフリッパーを殺して食べるのでしょう」

「名護の人はヒートゥの肉と言っているらしいですね」

「なによ、人(ヒート)の肉と言ってるの。本当に野蛮ね。兄さん何処の人ねー」

「屋部の旭川集落生まれです」雲行きが怪しくなりそうで母の実家の地名を言った。

「旭川って何処ねー」

「ほら向こうに見える一番高い山、嘉津宇岳の麓ですよ」

「兄さん、名護の人と友達したら駄目よ。野蛮人になるから」

ハハハと私は力なく笑った。ちなみに名護の漁師が捕獲するのはオキゴンドウクジラである。イルカは賢くて捕獲が難しい上、肉が不味いので漁の対象では無いそうだ。

採石場の横を通るとご婦人方は珍しそうに岩肌のむき出した採掘跡を指差して何やら話していた。30分ほどで海洋博公園の中央ゲート駐車場に着いた。

「帰りはあそこに本部タクシーが止まっているからそれに乗って帰るといいですよ」

「ありがとう。午後1時に娘がここに迎えに来るから本部のソバを食べて帰るさー。兄さんバイバイ」元気なご婦人方だ。私は苦笑して車を出した。料金は4名で500円ずつ出し合って払った。バス代よりも安くついたはずである。

 日差しが強くなり始めた。ポケットからレイバンのサングラスを取り出して掛けた。黄色いレンズのシューティング用だ。私の以前の会社勤めは国頭村の果樹園の管理であった。出没するイノシシの駆除にレミントンM870を使っていた頃の名残だ。退職してからは秋の羽地水田の収穫後にカモを撃っていた。このサングラスをタクシー運転に使うとは夢にも思わなかった。

 名護市内を午後3時まで流して事務所に引き上げた。事務所前の水道で雑巾を洗って採石場前の道路で付いた泥をふき取っていると、細い目をした小柄な義信さんと大柄な賢雄さんが近づいてきた。

「海洋博まで行ったのか」

「採石場の前を通ると砕石粉を巻き上げてダンプとすれ違うので車が汚れてしまうね。県道84号の伊豆味周りにしたいけど、お客さんが採石場周りを望むから仕方ないね。」

「どちらも走行距離は同じだがな」と賢雄さんが言った。今帰仁村に住んでいるので道路事情に詳しいのだ。

「賢雄、モクマオの下で休んでばかりでは客が来ないぜ、タクシーは走らせて金を稼ぐ道具だから」ビーバーのようなおどけた顔で笑いながら言った。

「分かりました先輩、赤羽屋経由でキャンプシュワーブまで巡回します」

「了解、カズさん俺らもシュワーブの待合場所に移動するか。此処にいてもしょうがない」

「車を拭いてから行きます」

私はしばらくしてからシュワーブのゲートに向かった。ゲートでは小柄な黒人兵がカービン銃を持って立っていた。私は少し緊張したが右手を軽く上げて何気なくゲートを通過した。通行パスは運転免許証と一緒に尻のポケットにしまってある。トラブルでもない限りパスを見せることは無いのだ。門衛にとっても見慣れた久志タクシーであるし、フロントガラスの右上の通行ステッカーも目立っているのだから。

キャンプシュワーブのゲーと(現在は基地内の埋め立て工事の都合で出入りする民間工事車両のチェックの都合上から、国道への出入り口は日本の警備会社が請け負っている。基地内のゲートは米兵がガードしている)

 ゲートからは50m近い幅の道路が下り勾配で海まで続いている。道路は水平に近く道路の両サイドへの排水勾配が全くない。まるで緊急時の滑走路の様だ。センターラインの遥か先に砂浜が見え、その先の沖のリーフで白波が立っていた。USOと呼ばれる基地内スーパーマーケットの近くからゆっくりとした下り坂となり左側に3階建ての兵舎が並んでいた。途中に80mサークルの広場があり、ブラックフォークと呼ばれる野戦用ヘリから、5人の兵士が一本のロープで宙吊りになって訓練を受けていた。その先の右側の砂浜に近い場所に体育館、映画館、カジノやらの娯楽施設が立っていた。僕らはその近くに車を並べて停めた。隣の建物はウエイトトレーニングジムらしく、時折バーベルを取り換える際の乾いたカランという音が聞こえた。

 宙吊りの兵士の訓練を見て、

「あれは落ちないものかね」と私が言いうと

「以前にあれが落ちてな。1週間ばかり僕らはシュワーブへの出入りが止められたことがあったな」と松さんが言った。

「そういえば、随分前にあったな。ベトナム戦争の終わり頃の事だったな」と賢雄さんが言った

 最後尾に停めた私の車に近づいてきて義信さんが言った。

「アメリカーが、『班長、ハウマッチ、ハンセン』と言うから、『テンダーラー、オッケー』と答えるのだ」

「それだけですか、メーターは関係ないのですか」

「もちろんウチナンチュ(沖縄)客と同じくメーターは作動させるさ。アメリカーにレートは解らないし、みんな統一した料金だ」

「了解、そうします」

「ゲートまではゆっくりと走って、国道に出たらアンタが飛ばせるだけアクセルを踏んだらよいさ。前の車に追突しない程度にな」

「了解です」

12分では金武のバー街に着くから、そこで客が居れば拾って、いなければ此処に戻って待つのさ。午後10からは金武のバー街で待機。シュワーブに戻る兵隊を乗せるのさ。その繰り返しさー」

賢雄さんがそばから口を挟んだ。

「金武のバー街からハンセンの部隊の中までは1ドル50セント、ダーラー・フィフティだ。簡単な料金だろ」

5セント、10セントのお釣りは要らないのですね」

「あたりまえだよ、計算機をもって運転が出来るかよ。大抵はキープ・チャージと言って釣銭の50セントを受け取らないから。アンタのチップだ」笑いながら言った。

陽が陰り始めた頃、一人の婆さんが僕らの前を横切った。義信さんが声を掛けた。

オバアサン、相変わらず元気だね」

「オバアサンとは誰ね」と周囲を見渡し、僕らを睨み付けてゲートに向かって去って行った。

「あのお婆さんは娯楽施設の床掃除を終わると、ゲームセンターのスラグマシンで遊んでから帰るのさ。タクシーはめったに乗らないぜ」

70歳過ぎと聞いたぜ。孫の世話とか他にやることは無いのかね」賢雄さんが沈んだ声で言った。

戦闘ヘリ・ブラックホークでの宙吊り訓練は既に終わったのであろうかホバリング音は消えていた。久志岳に夕日が隠れると東の海岸から潮騒がはっきりと聞こえ始めた。

 あたりがすっかり暗くなった頃、Tシャツにジーンズ姿の若い兵士が次々とやって来た。いつの間にか私の後ろに付けていた松さんが言った。

「ほれ、お前の番だ。賢雄さんについて行きな」

私は義信さんのアドバイス通り「テンダーラー、オーケー」と言って3名の若い兵士を乗せエンジンを始動した。久志タクシーが隊列となってシュワーブの坂をゲートに向かって登り始めた。まるでF1レースのスタート前の予備走行に似ていた。その中に私の5号車も混ざっていた。

 客の若者たちは兵士の気配がせず、そこいらの学生寮から飛び出してきた健康的なヤンキーである。ベトナム戦争が終結して既に7年が経っており、米兵が派遣される国際紛争は発生していなかった。紛争の火種は既に発生しているだろうが、プロの殺し屋集団が大挙して参加するお祭りは、大火となって米国の身勝手な大義名分が発令されてからだ。この時期の新兵達を見ていると米国内の失業対策によって入隊したかのようであった。ゲートを出るときに若者たちは窓から手を振って歩哨の兵士に奇声を飛ばした。英語の解らない私でもこれから遊びに行く者たちの優越感がその奇声から聞き取れた。

 ゲートを左折して辺野古川の谷底まで下り、そこから豊原集落まで登っていく直線である。向かいの豊原側の丘の上から点灯を始めた幌付きの大型軍用トラックが次々と姿を現して降りてきた。目を光らせたカーキ色のカブトムシはギアをシフトダウンする度に運転席の屋根の上まで伸びたマフラーの排気口から黒煙を吐き出した。夜がゆっくりと目覚め始めたようだ。タクシーは時速60㎞の穏やかな速度で南下していた。「急ぐことは無い」。夜は始まったばかりだと先輩車両が私に語り掛けている気がした。私は車間距離を30m以内に保ち、一般車両が割り込まぬように付かず離れずに追いかけた。宜野座川に降りる曲りくねった坂道も気にすることもなくゆっくりと通り抜けた。帰宅を急ぐ車両で国道329号は珍しく賑わっていた。時折石川警察署のパトカーが警告灯を点滅させてすれ違った。タクシーをキャンプハンセン第一ゲート向かいの繁華街の交差点で停めた。助手席の若者が10ドルを渡した。左奥のシャングリアのネオンが点滅しており、卑猥なクジラが口を大きく開いて夕食をねだっていた。繁華街は目覚めのカーテンを開けて客を迎え始めたばかりだ。米兵の姿は疎らである。私は最初の餌をサングリアの女王様とその取り巻きの女たちに運んだのだ。僕らは餌の運搬を始めたばかりだ。私は先輩車両を追って右折してキャンプシュワーブに引き返した。

 僕らはせっせとキャンプシュワーブから餌を運んだ。白い者、黒い者を別々に運んだ。白人と黒人を取り混ぜて運ぶことは無かった。夜の色が濃くなるころから僕らの配送速度は速くなった。午後8時を過ぎると通行車両が少なくなり、集落の住宅地を抜けると一気に加速した。対向車は久志タクシーのタップを屋根に載せた車だけだ。フロントの空車を示す赤い表示と実車を示す緑のランプが奇妙に目立った。片側1車線の直線で同僚の車とすれ違うたびにブンという高速走行車両の風圧にも似た音が響いた。スピードメーターが時速90㎞を指していたが。私はスピードを感じることも無く、只、先導車両についているだけだった。片道12分の運搬時間が10分に縮まっていた。午後9時まで僕らは女王様の餌をひたすら運び続けた。

 午後9時から10までが潮止まりで僕らの休憩時間だ。ベース内の米兵は出尽くして、今はこの辺りのバーやディスコで騒いでいる時間帯である。僕らは近くの屋台からフライドチキンやハンバーガーを買ってで夜食とした。ハンバーガーに人気があった。分厚いひき肉に輪切りの玉ねぎとチーズを挟んだだけの単純な作りであるが、米兵好みのスパイシーな味とボリュームは名護市内のドライブインA&Wでは味わえない美味さである。12ドル50セントのハンバーガーと缶コーラで私の胃袋は十分に満足して翌朝まで何も要求しなかった。

 午後10時を過ぎると金をむしり取られて店から放り出された若造共が通りをうろつき始めた。しばらく仲間同士でふざけあっているがタクシーでベースに帰るのが常である。キャンプハンセンの宿舎に歩いて帰る者は少ない。1ドル50セントで帰ることが出来るのだ。一人50セントのワリカンである。ハンセンは広大な敷地である。ハンセンと金武の繁華街の往復は金武タクシーが専属の如くに配送していた。僕らの仲間はベース内での低速走行を得意としていなかったし、車自体も低速域よりも高速域でのエンジンの回転がスムーズであった。新車の頃から高速運転を日常にしている車の特徴である。トップギアの回転がスムーズになるのは時速60㎞を過ぎてからである。車は2か年ごとに交換していた。一日450km以上を走らせると1年では16万キロ以上を走るのである。

自家用車両の一生分を2年で走るのだ。見た目以上に足回りやエンジンが摩耗してしまうのである。

 僕らは夕方から空車で走ったラインの逆コースを今度は実車で走るのだ。酔っ払いの帰宅コースである。酒の入った若造共はテンションが上がっており、一般車両を追い越すたびに奇声をあげた。とりわけ米軍のMPジープを見ると「班長ゴー、ゴー」と言って追い越しを促した。私が短い直線でアクセルを踏み込んで時速100㎞で一気に追い越す瞬間に、窓から手を出して中指を一本立て何やら罵声にも似た雄叫びを上げた。そして私の左胸のポケット1ドル札を押し込んだ。

 私は米兵を相手にすることなくひたすらハイライトのビームに浮かぶセンターラインの先の変化を注視した。未だ光届かぬ先の闇の中からいつ飛び出すか分からない魔物の出現に意識を集中する必要があった。白いセンターラインが見開いた両眼の瞳孔から後頭部へ途切れることなく通過していった。私は今朝出がけに松さんが言ったことを思い出した。

「僕らの会社の運転手が事故で怪我をすることはめったに無い」

「ほう、安全運転優良者の集まりとも思えませんが」

3名ばかり大きな事故を起こしたが、怪我ではなく即死だった」

「はあ・・・」

「お前もハンドル操作が出来る範囲でアクセルを踏むことだな」

「はい」

「本当の事だぜ」と声を落として義信さんが言って続けた。

「最後に死んだのが辰雄さんだったな。確か松田の谷底の宜野座川を飛び越えて向かい川岸のコンクリートに激突だったさ」

「こないだ3年忌だった。タクシーが20mは飛んだな」

「気をつけろよ、兄さん」義信さんが細い目を更に細くして私を脅すように言った。

 私は対向車の発するライトに注意しつつ、高速で狭く感じる道路のセンターラインを少し跨いで不意な障害物に対応できるように走行ラインを取った。片側1車線では車のコントロールに余裕がなかった。それでも松田から宜野座川の川底かけてのカーブが連続する下り坂では、205の後輪ラジアルタイヤがジリッ、ジリッと滑るのがハンドルに伝わった。その度に股間がキュッと縮み上がった。米兵を降ろすたびにシート下からタオルを取り出して、ハンドルと手のひらに付着した脂汗を丁寧にふき取った。信号機が点滅に変わる深夜には、配送時間が片道8分まで短縮していった。

 午前1時ごろから客足が減り始めて午前2時半を過ぎると手持ちぶたさで仮眠をとるのが常のようだ。私はホステスを石川市と金武町の境界に近い市営団地に送った後、伊芸のガススタンドで給油と洗車を済ませてから繁華街に戻った。仲間の車両は既に去っていた。繁華街のネオンは既に消えていて眠りの時刻を迎えていた。私はゆっくりとクジラの胃袋にも似た雑多な看板の下を通り抜けた。フロントパネルの時計は午前5時を少し過ぎていた。国道329号を北上して辺野古の事務所に向かった。タクシーメーターを回送表示にして宜野座の集落を通過した。村々に人影は無いが、確かな人の気配がうごめき始めていた。既に夜の喧騒が闇の寝床に吸い込まれてしまい、新たな光の乱舞が始まろうとしていた。私は豊原集落の丘から急ぐこともなくゆっくりと下って辺野古橋を渡って右折した。2階建ての久志農協ビルは未だ眠りの中にいた。その横を抜けると久志タクシーの瓦葺の小さな事務所である。駐車場には運転手の居ないタクシーが寝ぼけた顔つきで並んでいた。私は7台目の最後の車をその隣に並べた。7台の車を15名の乗務員で乗り回すのである。事務所には清造さんが待っていた。事務所で売上金を清算した。メーター料金が42,530円、走行距離470㎞であった。売上金額が6,530円と210ドルであった。米兵相手のタクシードライバーの初めての業務が終了した。辺野古坂を登ると東海岸はるか先の太平洋の水平線が赤く染まり始めて新しい一日が動き始めていた。私は朝の景色が前回と少し変化しているのを知った。

                 (6)

 午前8時、私は雑貨店赤羽屋の前から女子高生を乗せての名護高校に向かっていた。前に一人、後ろに4人の5名の乗り合いだ。一人当たり200円でバス料金の合計より少しばかり安いようだ。尤も彼女たちは予定のバスに乗り遅れただけにすぎない。タクシーを利用することはめったに無いのだ。大抵は定期券で通学するか、知り合いの大人の車に便乗しているのが常だ。二見交差点をから世冨慶集落に続く下りの急なカーブで車体が揺れるたびに奇声を上げた。若い女の子の体臭いが車内に漂った。高校生ともなると立派な大人である。洗い髪のシャンプーの香りに混ざって若い雌の匂いを発散している。女生徒は集団の勢いで私に突っかかって来る。

「この兄さんの運転怖いさー」等と勝手なことを大声で話して楽しんでいる。何しろ箸が落ちても笑い転げる年ごろの女の子達である

右折して58号線から市内に入った。東江十字路の信号機の前に警察官が立っている。東江小学校の子供たちの登校時間に合わせて交通指導をしているようだ。

「警察官が交通誘導をしている。誰か後ろの一人は伏せておきな。定員は4名だから捕まっちまうぜ」

「ええ、うっそー」

「捕まったら遅刻だぜ。俺も罰金だしな」

小柄な一人が他の生徒の膝に伏せた。その上にカバンを乗せて隠した。

「ついでに息も止めておきな」私は冗談を言いながら警察官の横をすり抜けた。バックミラーに映った警察官の姿が十分に小さくなったのを見届けてから言った。

「もういいぜ」

「はぁ、死ぬかと思った、息が止まって呼吸困難になったじゃない」車内が爆笑に包まれた。名護高校の100m手前で車を停めて200円ずつ受け取り、20円の釣銭を助手席の女の子に渡した。

「ありがとうございました」と丁寧に頭を下げて出て行った。私はUターンするために後続車両が通過するまで女生徒を眺めていた。遅刻しそうだと話していた割には急ぐでもなくお喋りをしながら校門に入って行った。10年と少し前には私もあの門から通学していたはずだが、退屈な日々であった記憶しか残っていなかった。若い女の子の体臭が社内に残っていた。普段の夜間走行ではシャングリア帰りの黒人兵の体臭に耐えられず、窓を開けて走行するのが常であったが、今朝はその必要もなかった。

 朝の市街地は活気があり、4回ほど近距離の客を運んで10時に世冨慶の坂道を登って事務所前に戻った。坂の途中に事故車があった。左カーブの壁に接触してた車は、排水溝に脱輪してフェンダーが潰れていた。事故処理は終わっており大事に至った様子でもなかった。

「名護迄お客さんを運んだのか」

「女子高生を5名乗せたが、騒々しい連中で全くかなわんぜ」

「定員オーバーだが、女子高校生なら6人まで乗るさ」

「世冨慶の坂で事故があったよ」

「あの下り坂は注意しないとな。山陰で陽当りがわるいだろう。雨が上がっても路面が乾き難いのだよ。」

不意に事務所のガラス窓が開いて栄子さんの声がした。

「義信さん電話があったわよ」

「なんだ」

20分後に名護市内のレストラン大阪屋の前でお客さんが待っているって」

「カズさん、アンタが名護の話をしたのから、僕に運が回って来たみたいだ。ありがとよ」と言って車を出した。

「あれは長距離客ね。義信は名護市内に年寄りの知り合いが多いから。それに知り合いには割引料金で載せているだろうから」

私が怪訝そうな顔をすると隣から松さんが言った。

「どうせ昼間は暇だし、3割引きで那覇まで行っても元は取れるさ」

「へぇ」

8,000円の約束をすると料金メーターをそこで解除して回送に切り換えるのさ。まぁ、違法ではあるがな」

「そりゃそうだよ」

「でも、あのタクシーはあいつが400万円で権利を買っているのさ。ある意味でオーナーの特権だな」

「個人タクシーでもないのにタクシーの権利が買えるのかい」

「会社と彼との共同経営と言うことかな。これも法律違反だがナ」

「彼は特別ですか」

「そんなことは無い、7台の全車両に持ち主がいるのさ。俺も政兄さんもそれぞれ1台のオーナーさ」

「そんな仕掛けもあるのか」

「なんだったらお前も1台買っておけば。増車の申請中だから」

「考えておくよ。その前に奨学資金を返さなくてはネ」

「そうだな、借金は返さなくては」

再び栄子さんが声を掛けてきた。

「松さん、あなたの好きな千代さんが赤羽屋の前で待っているってサー」

「あの博打バーさん、今日もスラグマシンで遊びに行くつもりだな」

「大した金持ちにも見えないが」

「あのバーさんはシュワーブ内に沢山の土地を持っているそうだ。亡くなった旦那が市会議員をしていたので未だにシュワーブ内の将校に顔が効くのさ。子供がいないので唯一の楽しみらしいぜ」

「松さん、千代さんが待ってるヨー」栄子さんが大きな声で促した。

「はい、ただ今出勤します」

松さんは笑いながら車に乗り込んだ。

「おい、今日はペィデーから最初の週末だ。米兵共は金を持っているぜ。昼間は体力温存だ」

「オーケー」

 兵隊の給料日のペィデーは毎月、1日と15日である。この頃の兵士は戦力としての兵士では無く、兵力としての兵士の数合わせであった。米国は兵士の数を兵力として世界にアピールしているのである。一定量の兵士の数を保つために失業対策並みに兵士を募集しているきらいがあった。地域紛争に派遣される機会もなく、訓練で命を落とす確率は一般社会の建設労働者の業務上過失致死の確率並であろうか。彼らはベースにいる限り衣食住は無料だ。おまけに給料を貰っている。ベース内の日用雑貨を扱う雑貨店USOの商品は全て免税品だ。その他にレストラン、映画館等の娯楽施設まで全て揃っているが高級品ではないだけである。兵士として質実剛健な生活ではあるが、雄狼を集めた集団がおとなしく群れるわけがない。息抜きの金を手にする給料日が毎月2回もあるわけだ。サラリーマンの毎月1回の給料日と本質が異なるのである。金を手にすると女を求めて夜の繁華街で羽目を外し、ベース内のレストランではなく市内のレストランで神戸ステーキを注文するのだ。半月の給料を使い果たすとベース内でおとなしく過ごし、次の給料日を待つのである。本国から遠く離れた異国の小さな島で暮らすストレスを、半月ごとに放出する術を彼らなりに心得ているのだ。その恩恵に与るのが兵隊相手の社交街と運搬係のベースタクシーである。兵隊は食うのに困らないのでペィデーの週内で給料の殆どを使い切ってしまうようだ。それ故、金曜日がペィデーだと日曜日の晩までにそのほとんどを散財してしまう。次の週からはタクシー利用者がガタ落ちするのだ。毎度のパターンだ。

 米兵のタクシー利用の多いペイディ直後の週末は、7台の久志タクシーで多くの兵士を運ぶことは出来ない。シュワーブとハンセンの間には黄色い車体の米軍専用バスが運行しているが昼間の間だけだ。僕らは7台の車を駆使して往復25分で21名の客しか運べないのだ。僕らのタクシーからあふれた客はゲートの前で名護市内からやって来た屋部タクシー、名護タクシーを利用するのである。彼らのタクシーはAUTHORIZED ON BASEの表示が無い。いわゆるベースタクシーではないのであるが、この日は通行許可証を持たない他社のタクシーが僕らの獲物のおこぼれをかっさらっていくのだ。但し行きだけである。帰宅する時に他社のタクシーに乗ることは無い。ほろ酔い気分のままゲート前で降りて広いベース内を歩いて宿舎まで帰る兵士はいないのだ。他社のタクシーも心得ていて午後8時以降は名護市内の繁華街へ移動していくのである。週初めのペィデーは小出しではあるが断続的に僕らに仕事を出してくれるのである。今日はペィデー最初の週末である。若造共が一気にエネルギーと金の放出する夜だ。

 午後630分、太陽が久志岳に隠れた頃、ジーンズにTシャツ姿の若者たちがタクシー乗り場に集まって来た。

僕らは次々と彼らを運んだ。それでも彼らは次々と兵舎からやって来た。最後の久志タクシーが出てしまうとゲートに向かって歩き始めた。他社のタクシーを拾うためである。3階建ての白い兵舎が規則正しく配置されたベースの一角はまるでスズメバチの巣である。30m間隔で兵士を乗せた3社のタクシーが金武町の繁華街目指して走った。僕らは競い合うでもなく淡々と往復を繰り返した。次第に夜が深くなっていった。そしていつもの様に運搬作業は一時停止した。つかの間の休息の後にキャンプシュワーブへの返却運搬が始まるのだ。金武タクシーと久志タクシー以外の車両は既に消えていた。

 僕らはハンバーガーやフライドチキンをコーラで胃袋に流し込みながら雑談にふけって潮止まりを過ごすのだ。今は夜の満潮時だ。やがて引き潮になって潮が動き出す。それまでは釣果が望めない時間帯である。やがてサーキットにサイレンが鳴り響き、チェッカーフラッグ振られるだろう。それまではレーサーの束の間の休憩時間だ。

 クラブサングリアに通じる交差点の角にビリヤードのゲームセンターがある。僕らはゲームセンターのシャッター前の駆け上がりに座って時の過ぎるのと待った。ボールのカンとぶつかる乾いた音が私の神経を穏やかにしてくれた。

金武町中川集落から久志タクシーに通っている仲田さんが私に言った。

「カズよ、お前も座ったままでは隣のアメリカーと同じ高さだぜ」

隣の若者をちらりと見て言った

「ああ、チビの兵隊だな」

「ヨォ、メン、スタンダップ、プリーズ」

童顔の若者が立ち上がった。

「カズ、立ってみなよ」

立ち上がった私と若者を見て、手のひらで高さを比較しながら言った。

「カズ、おめー、そのアメリカーより背丈が5寸は低いぜ」

「そうかい」

「うん、何だな。座ると高さが同じで、立つとあいつが5寸高いということはだ。座高は同じで足があいつは5寸ばかり長いと言うことだな。つまり、お前は胴長短足の純粋な沖縄人だな」

仲間が一斉に笑った。私が若者の前で足の長さを比べる真似をすると、外人共にも僕らの会話の意味が分かったのか一斉に笑った。若者が何か話しかけてきたので中川さんに言った。

「中川さん、このヤンキーが何か言っているぜ。相手して下さいよ」

「バカ言え。俺はアメリカーが嫌いだよ」

真っ黒に日焼けして禿げ頭を丸刈りにした小太りの姿は、繁華街の暗がりの中に紛れ込んだプエルトリコ系の兵士さながらである。私は彼の言動の中に潜む少し棘のある意図を知りながら先輩の顔を立てて笑いを誘ったのだ。

義信さんが口を開いた。

「こないだ乗せたパンパン女から聞いた話だがヨ。アメリカーは女の股ぐらに顔を突っ込んで女の穴を舐めるのが好きだとヨ。俺は気持ち悪くて絶対できない」

「義信兄さん、母ちゃんに試してみなよ。母ちゃんが泣いて喜ぶかもしれないぜ。アメリカー女も沖縄女も女の持ち物は変わらないはずだぜ」

イサオがニヤニヤしながら言った。

「バカ言え、若くもない母ちゃんの股ぐらなんかに興味ないよ」

「そうかい、では今日の稼ぎで若い女を買って試してみるか」

皆がどっと笑った。

義信さんはまるで小学校の先生に注意された子供のような顔で頭を掻いた。

路地の街灯の下で外人相手に空手の組手で遊んでいる男がいる。髪を短く刈り込んだ肩幅の広い少し腹の出た50歳前後の男だ。

「イサオ、あいつは誰だい」

「金武タクシーの宜保さんだ。剛柔流2段らしいぜ。お前相手してみるかい」

「バカ言え、年寄り相手につまらぬ遊びはごめんだね」

学生の頃にかじった沖縄拳法の組手と少し変わっているようである。もう少し練習に熱を入れておけば黒帯を閉めたかもしれないと思った。そして、最近から住み始めた宇茂佐集落の公民館の近くに、沖縄剛柔流空手道場の看板が立っていたのを思い出した。しかし今更空手を習うこともなかろうとおもった。私の様な堪え性のない男が武道の修行などに耐えられるわけがないし、流派を代えても黒帯にたどり着けないだろうという気がした。

僕ら停めたタクシーの前で3人組が運転手を探して呼んでいる。

「班長、ハンセン、ハンセン」

あいにく金武タクシーの姿が無い。

「カズさん、アンタ運んでくれ」

「仲田さんの車が先頭で、俺の車はその後ろだぜ」

「仲田やつは何処に行ったのかな。1ドル50セントの短距離だし、アンタ難儀してくれ」

「分かった」

私はのろのろと立ち上がって3号車に向かった。3名の白人を乗せるとゲームセンターの前からゲートに向かった。バックミラーを見ると仲田さんが両手を腰に当て、口をポカンと開いた間抜けな顔をしてこちらを見ていた。私は彼のアライグマにも似たその顔がいっそう可笑しくみえた。そしてノロノロ運転で客を兵舎まで運んだ。退屈な仕事であるが金武タクシーの乗務員はこの単純な仕事でペイディの週末には50万円ほどの水揚げがあるらしい。彼らの車には無線機が無く、短距離運送が中心である。町内客は会社への電話連絡で会社に待機したタクシーが対応するらしい。この地域独特の営業形態である。

 私は繁華街に戻る途中の事務所前で兵士を一人拾った。この時間に軍服姿である。車に乗り込むと兵士が言った。

「キャンプコートニー」

「イェス・サー」きちんとした身なりに誘われて丁寧に答えた。

3号車から本部へ、ハンセンからキャンプコートニーに向かいます」と事務所に連絡した。ゲートを出てから再び事務所に無線を入れた。

「3号車から本部へ、キャンプコートニーへの道順を教えて下さい」

「本部から3号車へ。石川市の東恩納交差点から500m程行くと三叉路があります。そこを左に曲がってください。天願方面への標識があるはずです。5㎞ほど行くと左手にフェンスがあります。そこがアメリカ海軍のキャンプコートニーです」

「了解」私はキャンプコートニーの位置を知っていたがわざと会社に無線を飛ばしたのだ。繁華街で油を売っている同僚に見栄を切ったのだ。この基地には海に面したクレー射撃場があり、鉛玉による海藻ヒジキ漁の汚染が新聞に載っていたのだ。私のサラリーマン時代の射撃仲間が時折利用していた。利用料金と弾代が格段に安いらしい。只、海に向かって撃つのでクレービジョンが風に煽られてヒットが難しいと話していたのを思い出した。

キャンプコートニーのゲート付近は工事中であり、泥んこ道を通って大きな事務所の前で車を停めた。料金は3,600円を示していた。200円換算で18ドルを請求した。その軍人は20ドル札を渡して「キープ・チャージ」と言ってバックを掴んでドアに向いた。

私は「サンキュー」と言ってドアを開いた。私は見慣れぬ夜景の中を注意して引き返した。ゲートから県道75号に出るとタイヤの溝に挟まっていた泥がフェンダーの内側にパラパラと跳ねる音がした。車を加速すると次第に音が消えて行った。キャンプコートニーのフェンスが次第に遠ざかって行った。

 40分のドライブを終えて金武町の繁華街に戻った。未だ潮止まりで引き潮に移ってはいなかった。私は何事もなかったかのようにゲームセンターの駆け上がりに腰を下ろし、マールボロを取り出して火を付けた。

仲田さんが近づいてきて私を睨み付けて言った。

「カズさん、アンタ先頭に停めた私の車を差し置いて客を拾っただろう」

「兄さんが見えなかったので、ほかの先輩に断って1ドル50セントでハンセンの中まで運んだよ。それが何か」

「冗談じゃないぜ。その後アンタはキャンプコートニーまでの客に当たっただろう」

「それが何か」私は立ち上がって仲田さんを見た。

「客商売は運だよ。順番を守ってくれよ」

私は咥えていた煙草をアスファルトの上に落とし、腰を落としながら靴底でもみ消して顔を上げ、冷めた目で仲田さんを見た。彼の後ろに松さんが立っていて私に目配せした。私は沸き上がってこようとした冷やかな古い感覚がすっと引いて行くのを悟った。

それでも僅かにスッと右足を引いてから言った。

「気が付かなくてすみません、先輩」

「気を付けてくれ。まったく、運が逃げちまったぜ」そう言って立ち去った。

「先輩面して舐めたこと言いやがる。車を離れるやつは運も逃げるぜ」いつの間にか私の後ろに立っていたイサオが言った。

「まぁ、そうだが先輩と立てなきゃナ。それにこの辺りは金武の連中の縄張りだし」

「宜保のオッサンがいるからと言って、仲田の狸までがデカい面しやがって腹が立つぜ」

「あの空手2段のオジサンか」

「お前も手習いをしていただろ。あいつに勝てるかい」

「さあな、館長が死んでから道場通いは止めたよ」と苦笑した。

「あの野郎、いつか潰してやろうぜ」

「おい、おい、気合の入りすぎだぜ。ほれ客が待ってるぜ」顎で促すとイサオは自分の車の横に立っている3人組に向かって手を上げた。

「何かあったら真っ先に声を掛けてくれ」そう言ってイサオは急ぎ足で車に戻って行った。

「ありがとう、覚えておくよ」

イサオが本気で話すときは瞳孔が大きく開いて、瞬きもせずに相手を威嚇する。僕らが中学の頃にやんちゃした頃と全く変わらぬ男である。私はフーと大きく息を吐いて腰を下ろした。

 一部始終を見ていた松さんが私の側に腰を下ろして話かかけてきた。

「お前、イサオと同級生と言っていたが親しいのか」

「中学の時の悪さ仲間だ」

「あいつは酒が入ると野蛮になるぞ」

「ああ、そういう事ばかりしていたガキのころの遊び仲間の一人だ」

「仲田さんはこの辺りの人間だ。この辺りは仲間意識が強いから下手な真似は出来ないよ」

「そうらしいですね」

「ま、仲田さんはこのところの稼ぎで、お前に負けていることが気に入らないのさ」

「そうですか」

「それと、さっきの目つきで人を見てはいかんな。イサオもお前も同類の目をしていたぜ。子持ちが不良少年の真似でもないだろ」

「すみません」

「俺は行くぜ、とにかく政兄貴に迷惑をかけてはいけないよ」諭すように言った。

私はおどけた顔で肩をすくめて「ホッ」大きく息を吐きだした。松さんがそれを見て笑いながら車に戻って行った。私は再び煙草に火を付けて煙を吐き出した。そしてはっきりと気がついた。自分がたまたま乗り合わせた人生の旅路の連絡船の中で、指定席を持たぬ自由席の側の人間であることに。

 背の高い黒人が3号車の前に立って「ハロー、班長」と呼んでいた。あたりを見渡すと久志タクシーの仲間は既に引き潮の流れの中で新しい獲物を釣り上げて移動を始めていた。

「シュワーブ」と言ってその男は助手席に乗り込んだ。膝がダッシュボードにつっかえた。「キープ・バック・シート」言って座席下のレバーを引いた。シートが目いっぱい後ろにスライドした。それでも少し窮屈であった。米兵の兵卒は前のシートに乗りたがり、将校クラスは後ろの席に乗るのが普通であるようだ。Tシャツ姿の黒人の体からヤギとゴンドウクジラの肉を煮込んだシチューのような不快な体臭が車内に籠った。私は窓を開けて外の空気を取り込んだ。磯の匂いが流れてきた。この辺りは宜野座村漢那小学校に近い海岸沿いの道路であろう。

 午後11時の小学校の周辺に人影は無い。やがて迫りくる上り坂に備えてアクセルを踏み込んだ。エンジンが快適な音に変わってスピードメーターが120㎞まで跳ね上がった。僕らは休む間もなく次々と帰還兵を兵舎に運んだ。ハンセン行は金武タクシーに譲って、もっぱらシュワーブ行きのみである。夜の闇が深くなるにつれてアクセルを強く踏み込んだ。ブレーキとシフトダウンで高速幌馬車の車輪をギリギリと軋ませながら中川集落からs字カーブを下る。漢那集落入口の最後のカーブをすり抜けるとアクセルを一気に踏み込む。僕らにとって直線に近い緩やかなカーブの漢那小学校のモクマオ並木を時速120kmで東海病院前の急坂に突っ込むのだ。丘の頂上の宜野座小学校前を一気に駆け上がると宜野座高校前を通り抜けて宜野座川の川底の闇にすいこまれる。S時カーブを駆け上がり松田集落を抜けると緩い下り坂の右側に潟原の広い空間が現れる。明かりの乏しい丘の遠くにキャンプシュワーブの明かりが山際をおぼろに浮かび上がらせていた。残り2分でチェッカーフラッグが降られるだろう。私は片道15㎞のサーキットを9分で駆け抜けて行った。闇の中でヘッドライトの一灯を頼りに異国人を運び続ける。日常の生活と乖離したこの空間でブレーキとアクセルとハンドルのバランスを保つことにのみに神経を集中する。時が止まり、まとわりつく闇の中でヘッドライトに浮かんで迫りくるセンターラインだけを凝視し続けるのだ。私は陽光の下で働く人間には感じえないこの不思議な感覚が気に入り始めていた。この日の走行距離は580km、水揚げが日本円4,530円と米ドル355ドルだった。

         (7)

 ペィデー明けのキャンプシュワーブのタクシー乗り場は、辺りが薄暗くなっても閑散としている。僕らはくだらない世間話をしながら米兵が金武の繁華街に行くのを待っていた。私はトレーニングジムの横の自動販売機でマールボロ2箱とスニッカーズのチョコレート2本を買った。1ドル50セントだ。肘宛の下のボックスに放り込んだ。翌朝までの必需品である。夜明け前にチョコレートを齧り、コーラで流し込んで目を覚ます。煙草は深夜の目覚ましである。私が退屈まぎれに仲間を待っている若者にたばこを勧めた。

「ヘーイ、班長カウボーイ」と言っておどけた声を出した。彼らにしてみれば、アメリカのワイルドライフのシンボルである赤と白のパッケージのマールボロを吸う日本人は奇異に見えたかもしれない。私の仲間はほとんどがウインストンを吸っている。米兵に人気のタバコはラッキーストライク、ウインストン、キャメルである。マールボロは比較的に新しい英国のフィリップモリス社のオリジナルである。私はキャメルの香りと味わいも好きだがその両切りのタバコは口の中にたばこの刻み葉が残ってしまい、時々車の窓から唾と共に吐き出さねばならないのだ。ウインストンは馴染めない味だ。ラッキーストライクは何やら不幸を呼びそうな不吉な名前が嫌いである。ハッカの入ったセイラムは論外だ。女性かオカマ用だ。いずれも50セントである。

 いつものペースでシュワーブからハンセンに客を運び、9時頃まで休憩して繁華街からハンセンに何度か客を運んだ。ゲートを出るとすぐに小柄なラテン系と思しき若者3名を乗せた。シュワーブまでと言った。辺野古坂を下っている途中でドラッグストアへ行けという。そしてブロンを買うという。

私は事務所に無線を入れて薬局は何処かとブロンとは何かを訊ねた。

「赤羽屋の隣に薬局があるからそこに行ってください。そこのオヤジが万事対応するから」

「了解」

赤羽屋の隣の薬局は既に締まっていた。

「ヘーイ、クローズ」と言うと、二人の若者が車を降りて店のドアをドンドンと叩いた。しばらくすると50代と思しき白衣の男が出てきた。何やら話していたが若者は何かを買って戻って来た。

「班長、ゴーバック・ハンセン」と言った。

私は社交街のアーチを通り抜け辺野古坂を下ってハンセンに向かった。彼らは奇声を上げながら袋の中から栄養剤に似た藥瓶を取り出してラッパ飲みを始めた。チラリとみると咳止めシロップのブロンである。風邪の咳き込みを止める効果があるはずだ。但し、1回あたり備え付けの小さなカップの半分程度だと思う。以前、妻が服用しているのを見たことがある。やがて彼らは何やら興奮して騒ぎ出し始めた。私にも勧めてきた。

「ノーサンキュー、アイアム、ナオ、ドライバー」と断った。

咳止め薬ブロンには人間の感覚を麻痺させる作用があるようだ。彼らは麻薬代わりにブロンを飲んでいるのだ。ゲートから入ってUSOの前で降りた。10ドル札を2枚渡して暗がりの中に千鳥足で肩を組んで消えて行った。キャンプハンセンの中ではあるが、小柄なラテン系の若者が陽気なハイスクールボーイに見えた。この若者たちが兵士である限り世界のどこかで米軍が関わる戦争など勃発するわけがない。兵士の行動の中に見る緊張感の無さが平和な現実の証だろう。私は奇妙な安堵感に苦笑するだけだった。

 6回目の客をシュワーブの兵舎まで運んだ。東の海岸から押し寄せてきた霧が街灯を包み込み、ぼんやりとした明かりを放っていた。普段は軍用車両が駐車しているキャンプシュワーブの風景を霧がゆったりと包みこんでしまい、映画の中の霧に包まれたサンフランシスコ郊外の坂道の多い住宅地にも似た幻想的な景観を演出していた。梅雨がそこまでやって大気が潤んできているようだ。フロントパネルの時計を見ると午前1時半である。そろそろ金武の繁華街も眠りに着くころだ。回収作業も終わりだなと考えながらゆっくりと坂道を登っていった。

 ゲートボックスの外に小柄な男が立っていた。ゲートの街灯を背にしてシルエットなっていた。頭の形や体つきから黒人兵であることが解った。黒いズボンに紫色の長そでシャツ、左手にアタッシュケース程の大きさのラジカセを持っているのがやっと見えるだけだ。逆光で男の表情は全く読めなかった。彼らが道向かいの雑木林の陰に入ると完全に闇の中に溶け込んでしまうだろう。それ程遠くない歴史の中でアフリカ大陸から米国に輸入されるまで、熱帯雨林の原生林の中で暮らしてきた遺伝子が、逆光の中に浮かんだこの男に息づいている気がした。この男が久志岳に向かって「ホゥ」と合図を送ると、森の精霊と夜行性の動物が一斉に「ホゥ」「ホウ」と返事をするかもしれない。特に今日のような客の少ない退屈な夜には何かが起こりそうな気配があった。或いは海からやって来た夜霧は、既に何か不測の事態を密かに窓の隙間から車の中に積み込んでいたのかもしれない。

3号車、普天間までクロンボーを配達します」

「了解、普天間は電波が届きにくいので気を付けて下さい」

「了解です」

霧がゆっくりと辺野古川の谷間を通って久志岳に向かって流れていた。ハイライトのビームが霧の中で細く長く反射していた。私は何時もより速度を落としてブーメランの坂道を豊原集落まで駆け上がった。私は急ぐでもなく時速60kmで潟原海岸通り、宜野座高校前を走り抜けた。金武町の繁華街を左に見て通過すると久志タクシーが一台客待ちをしていた。消防署前の坂を下って高速伊芸インターを右に見て海岸通りを南下した。伊芸のガススタンドで久志タクシーがガスを充填していた。今日の稼ぎを諦めて帰り支度をしているのだろうか。石川市を抜けて知花十字路を右折して進み、諸見里から国道330号に合流した。プラザハウス前をキャンップフォスターに向かって下って行った。左手に不夜城の屋宜原モーテル街のネオンが煌めいていた。左右の米軍施設フェンスの間を抜けて信号待ちをした。右手にリージョンクラブ、その200m奥がキャンプフォスターのゲートだ。左に行けば国道329号北中城村の渡口交差点だ。1kmもない下り坂の前方に普天間の繁華街の明かりが瞬いていた。私はフッと小さく息を吐いた。そしてギアを入れ替えて青に変わった信号を直進した。時刻は午前2時を既に過ぎていた。

「ヘイ、ルック、フテンマ」と振り向いて黒人客を見た。

「イェス」と言いながらラジオの音楽に合わせて手のひらで軽くラジカセを叩いてリズムを取っていた。

夕暮れの普天間神宮

深い眠りに就いた普天間神宮とその横の交番所の前をゆっくりと通過した。交番所には二人の警察官がいた。一人が電話を片手に何やらメモを取っていた。もう一人は入口の街灯の下で通りすがる車に目をやりながら煙草を吸っていた。

300mほど進んだ時に黒人客が身を乗り出して助手席のシートの肩を叩いた。

「班長、ストップ、ヒャ」黒人客が停車を命じた。私は路肩に車を停め、料金メーターを指差して「30ドル」と言った。

黒人客は「フレンド・・」、「ウェイト・・」と何かをまくしたてたが私には全く聞き取れなかった。私は只「ワッツ、ワッツ」聞き返した。黒人客は諦めたようにラジカセを掴んで出て行こうとした。

「おまえ、どこへ行くつもりだ。マネー」と言ってラジカセを掴んだ。二人で引き合いになった。私が左手の小指に痛みを感じて手を放すと黒人客はドアから外に転がり落ちた。私はすかさず外に出て黒人客のところに回った。彼は立ち上がり、ラジカセを左腕に抱えて走り出した。私より少し背丈が低く小太りである。足はそれ程速くなかった。「ドロボー」と私は叫びながら路地を追いかけた。三つ目の路地で追いついて襟に手を掛けたとたんクルリと急反転して私の手を振り切って右の路地に飛び込んだ。私はたたらを踏んだがすぐに右に反転して追いかけた。20mも走らぬうちに黒人兵がもんどりうって地面に転がった。右側にステテコ姿の男が立っており、足払いを入れたようだ。黒人客は地面に右手を付いて尻を持ち上げて立ち上がろうとしていた。私は近づくと手加減せずに下段回し蹴りを男の左大腿二頭筋に叩き込んだ。パーンと言う乾いた小気味よい音が響いた。尻もちをついて振り向いた黒人兵の縮れた髪を左手で鷲掴みにして右手を脇に引き付けて二本貫手を撃ち込む構えで言った。

「サノバビッチ・キル・ユウ・ボゥイ」殺気を込めて睨み付けた。

「ヘルプ・ミー」ラジカセから手を放して両手を上げた。

「どうしたのだ」と先ほどの男が強い普天間訛りの方言で尋ねた。

「キャンプシュワーブで拾ったが乗り逃げしようとしたのさ」

「そいつは許せないな。ワシが話してあげよう」

「ヨウ、メン・・・・・・・」やはり訛りのある英語で叱りつけるでもなく、ただ口元に冷たい笑いを浮かべて低く沈んだ声で言った。

「ヘルプミー、コール・ポリース」と両手を合わせて泣き出した。

ひどい訛りの英語で良く分からないが、『このドライバーは琉球空手マンだ。お前の目をくり抜いて、そこの溝に捨てると言ってるぞ。ここで死ぬかポリスを呼ぶかどうする』と言ったようだ。

「十分に脅しておいたから、そこの交番に突き出すと良いだろう」

「ありがとう、兄さん」と言うと

「タクシーも難儀な仕事だな」と言って古い民家の屋敷の中に戻って行った。ステテコの袖口から刺青が覗いていた。裏通りに人影は無く。街灯の下で路面がきらきら光っていた。黒人客を引き立てて歩き出すと路面がジャリ、ジャリと音を立てた。交通事故の跡であろうか路面に細かいガラス片が散らばっていた。

 タクシーを止めてある場所に戻るとパトカーが1台停まっていた。二人の警察官が車の中を覗いていた。野次馬が数人いたが私の姿を見るとすぐに散って行った。大した事件でもないと判断したのだろう。私にとっても面白い事件ではなかった。

「どうしたのですか」と一人の警察官が訊ねた。

「キャンプシュワーブから乗せましたが、タクシー賃を払わずに逃げたので捕まえたのです」

「バカなクロンボーだ。ご苦労ですが署まで来てください。パトカーの後についてきてください」

黒人客はパトカーに乗せられ、私は非常用タップを点滅させながらその後に従った。普天間交番所に行くのかと思いきやキャンプフォスターのフェンス沿いに下って行った。伊佐交差点を左折して国道58号線沿いの真志喜にある真新しい宜野湾警察署に誘導された。これで今日の仕事は終わったなと感じた。この距離からは電波は届かぬと思いならも念のために会社に無線を飛ばした。

3号車から本部どうぞ」

「本部です3号車どうぞ」少しばかり雑音が入るも返事があった。

「普天間でトラブル発生、乗り逃げのクロンボーを宜野湾署に引き渡します。処理が終わったら引き上げます」

「了解、気を付けて戻ってください」

電波の不思議である。普天間、嘉手納エアベースの広大な滑走路の平地が上手く作用し、コザの街並みの狭い空間を通して無線が届いたのである。尤もタクシー仲間の間では予想もしない場所から交信した例を時々聞いてはいた。

 宜野湾署の取調室に入ると初老の英語の達者な男が質問を始めた。首から渉外担当者と記載された古ぼけた身分証明書カードをぶら下げている。警察官の制服ではなく、しわの入った地味なアロハシャツ姿ある。随分と砕けた身なりであった。如何にも非常勤ですという身なりだ。調書は別の警察官が記入している。定年退職した英語教師のアルバイトであろうか、それとも米軍勤めの退職者だろうか。壮年期をとっくに過ぎた少しうらぶれた男が、このような時間まで警察署に待機するとは仔細のある人生を送っているのかもしれない。

「彼の目は充血しているが、君が殴ったのかね」

「二日酔いじゃないですか」

「髪にガラス片が混ざっているが、君が投げ飛ばしたのかね」

「転んだ場所にガラスが散らばっていただけですよ。彼は何と言っているのですか」

「君に殺されると怯えているよ」

「タクシー運転手如きが殺せるわけがないでしょう。こいつはアメリカーの兵隊さんでしょう」

「まぁ、そう言いなさんな。今の兵士はベトナム戦争の頃の殺し屋共とは違うから」

「ところで、先生。私のタクシー代30ドルは払ってもらえますかね」

「彼の話では友人のアパートによって借りる予定だったそうだ」

「では、これからそのアパートに借金取りに行くのですか」

「先ほどパトカーから連絡があったが、そのアパートに彼の友人らしき人は不在だそうだ。まあ、悪い夢を見たと諦めるんだな」

「それは無いぜ。それならそのラジカセを預かっておきますよ。30ドル持ってくれば返すとその兄ちゃんに言って下さいよ」

「ま、一応言っておくが無理だな。MPに引き渡すので、こいつは懲罰で営倉行だろうよ」

「全く悪夢だな」

「帰っていいよ。兵隊さんは僕らがMPに引き渡して一件落着とするよ。お疲れさんです」

「では、失礼します」

ラジカセを取り上げると黒人兵に言った。

「兄ちゃん預かっておくぜ」

丸い充血した目をした黒人兵は悲しそうな顔で私を見た。私は腹が立ってラジカセを振り上げてぶん殴るぞと見せかけた。彼は両手で頭を隠すように体を丸めた。

「おい、おい、辺野古は遠いのだろう。さっさと帰ってくれ」渉外担当者は苦り切った顔で手を振って私を追い払う仕草をした。

私は振り返りもせずに閑散とした警察署から外に出た。外はベタつくような湿気を含んだ闇が広がっていた。ラジカセを持つ左手の小指の付け根がチリチリと痛んだ。ラジカセを右手に持ち替えて左手を見ると、小指の付け根が2cm程の擦り傷となって血が滲んでいた。先ほどのラジカセの奪い合いの時に切ったのであろう。タクシーに乗り込み備え付けのティシューで血のりをふき取って窓から捨てた。フウーと大きく息を吐きだし、一呼吸おいてエンジンを始動して駐車場から車道に出た。午前三時過ぎの国道58号は車の往来が途絶えており、時折深夜料金の青い料金表示メーターの明かりをつけたタクシーとサイレンを鳴らして走り抜けるパトカーだけだった。

私は先ほど来た道を通らずに車線が広くて交通量の少ない国道58号を北上し、恩納村仲泊集落を右折して石川市から国道329号に入った。午前4時前に金武町伊芸のガススタンドでガスを充填して洗車した。

 金武町の消防署の前から繁華街に車を乗りいれた。不夜城は既に落城したようで物音一つしなかった。金武タクシーが2台、くたびれた乗務員を抱えて穏やかに眠っていた。僕らのスピードウェイは既にレースが終了していた。観客もドライバーもどこかへ消えていた。私は車から降りてゲームセンター前の自動販売機で缶コーラを買った。自動販売機からガランと大きな音を立ててコーラが取り出し口に落ちてきた。喧騒の消えた繁華街の闇の中に不釣り合いな音響が跳ね上がって吸い込まれていった。私は肘宛の下のボックスから昼間にキャンプ・シュワーブで買ったチョコレートを取り出した。ゲームセンターの階段に座ってシャングリアに続く闇を見つめながらチョコレートを齧りコーラで流し込んだ。歯がコーラの強い炭酸で磨かれてカリカリと鳴った。何も考えてはいなかった。ただ暗い闇の向こう潜むなにかがこちらを見ている気配を探しているだけだった。眼底のさらに後ろ側がジンジンと痛み始めていた。私は立ち上がって背伸びをした。そして車に乗り込んでエンジンを掛けた。アクセルを踏み込んでエンジンを吹かし、ギアを入れてゆっくりと発進した。ライトに黒い犬が浮かび上がってこちらを振り返った。そして迷惑そうにバーの看板の横の細い路地に入って行った。ゲート前に出ると灯りの消えた街灯の下で、街路樹のガジュマルの樹冠がうっすらと浮かんでいた。夜が終わりを告げていた。金武大橋の右手に太平洋がおぼろげに見え始めていた。金武大橋の深い谷間を流れる億首川には昨夜の霧が跡形もなく消えていた。私はマールボロを取り出してジッポのスリムなオイルライターで火を付けた。ライターの蓋をパチンと閉じるとケロシンの匂いがした。夜が朝に変わる微妙な景色の中を事務所に向かっていた。ほんの3時間前の出来事は記憶のくずかごの中に放り込まれて現実味を失っていた。只、小指の微かな痛みと助手席のラジカセが安っぽいメタル色の光を反射しているだけだった。

       (8)

 乗り逃げ事件で傷ついた小指は黴菌が入ったのか炎症を起こしてしまい左肘まで痺れが出た。仕方なく予定の乗務をキャンセルして病院で診察する羽目となった。ラジカセは事務所に置かれて料金30ドルと交換との紙が貼られていた。

乗務員の目に留まる存在となった。皆が私のことを少しだけ意識し始めた気がした。4日ぶりに社長の政叔父さん会った時に注意された。

「カズ坊、兵隊が乗り逃げしても無理に追いかけてはいけないよ。あいつらはナイフや銃を持っていることもあるのだから。日本人とは違う生き物だからな」

「はい、注意します」

「以前、私がベースの中の自動販売機からタバコを取り出そうと腰をかがめた時、大きな石が飛んできて販売機の上の方に当たったことがあるよ。振り返ったら少し離れたところにクロンボーが立っていたよ。かがむのが遅ければ大けがしていたかもしれないよ。あいつらは時々人間でなくなるから」清造さんが不快な顔で言った。

「そうですか、用心します」

「うん、30ドルごときで怪我してはたまらんからな」政叔父は穏やかな口調で言って笑った。内心は甥の気丈な行動が乗務員への暗黙の自慢の種となっているのかもしれない。それに松さんは私が休んだ日に何やら自慢話をしたらしい。そのことを栄子さんが話していた。

「あいつは俺の姉さんの子供だがナ。名護のハサマ・一族の人間だ。ガキの頃から本家筋の空手道場に出入りしていたようだ。イサオの中学の同級生で悪ガキ仲間だと言っていたぜ。イサオに聞いてみな」

イサオも調子に乗って言ったようだ。

「こないだ、ほれ、アイツがキャンプコートニーへ客を運んだ晩のことだ。金武タクシーの宜保さんの組手を見て『年寄りの遊びだ』と笑っていたぜ。誰かさんがイチャモン付けていたが、あと半歩近づいていたらその狸腹に蹴りが入っていたと思うぜ。俺はすぐ後ろで見ていたからな。アイツが腰を落として攻撃の構えに入ったのを俺は知っていたぜ。ま、素人相手にアイツが技を使うことも無いと思うがな。お互い言葉使いには気を付けようぜ」

 1回の欠勤を挟んで出勤してきた私の小指にまかれた包帯が噂の種を助長してしまったのも事実である。いずれにせよ、事件の後らから仲田さんの存在が遠のいたのは気楽なことであった。しかしツキが落ちるとそれはしばらく元に戻らないのも事実のようだ。それどころかアンラッキーを呼ぶことさえあるのだ。

雨季に入ってから、辺野古から名護市内へ客を運ぶことが以前より多くなった。私は名護に出たついでに午後3時ごろまで名護市内を流すのが常であった。この年の梅雨はカラ梅雨気味で一日中雨になることは少なかった。

私は北行きのバス停留所がある東屋食堂の手前でタクシーを止めて客待ちをしながら休憩をするのが常であった。東屋の一階は日用雑貨店、二階は食堂であった。羽地、屋我地、今帰仁村、大宜味村、東村、国頭村向けのバスがこのバス停で停まるのである。名護市の公設市場まで100mの場所でもある。田舎に住む人々が公設市場で肉類やら日用雑貨を買い求め、このバス停から帰宅するのだ。バス会社の都合もあり田舎に向かうバスの本数は少ない。日本国中の赤字路線の常だろう。多くのバス利用者が2階の食堂で軽食を取って帰路に就くのであるが、路線バスの到着を待てない客が時折タクシーを利用するのだ。タクシーの待機場所になりそうなものであるがそうでもない。何しろ東屋の道向いは名護警察署である。駐車禁止場所に長居は出来ないのだ。コーラを1本飲んで煙草を吸い終わると県立名護病院前経由で市内を巡回するのである。

人口6万人の名護市の中心市街地

私は午前中の客が途切れたので、いつもの様に車を停めて自動販売機でコーラを買って車に戻った。コーラのプルトップを引き、一口飲んでからドリンクホルダーに立てた。肘宛の下のボックスから新しいタバコを取り出そうと窓の外に出していた右腕を引いて体を左に体を傾けた。その時、新しいトラブルが発生した。右側に何か黒い影が迫ったと感じたとたん、バーンと大きな音を立てて後方から走って来た軽トラックが右前方のフェンダーに接触した。フェンダーミラーが折れて道路に転がった。フェンダーは見事につぶれている。私が窓から右腕を出していたなら怪我は免れなかったであろう。ショックでコーラが泡を吹きだして私の右足の太ももに滴ってきた。私はコーラを手に取ってグッと一口飲んで泡の吹き出るのを止めて外に出た。バス停の客がこちらを見ている。軽トラックは少し前の路肩に止まった。私は車から降りてフェンダーミラーを拾い上げ、凹んだフェンダーを一瞥して軽トラックに向かって歩いて行った。軽トラックから70歳前後の白髪頭の男が麦わら帽子を手に「すみません、すみません」とペコペコしながら降りてきた。

「爺さん、どこに目をつけて運転してるんだよ」と少し声を荒げて言った。

あまり見かけない黄色のサングラスにタクシー運転手らしからぬ派手なアロハシャツ姿に驚いたのか、顔色を変えてペコペコするだけであった。

道向かいの名護警察署からすぐに警察官がやって来た。事故処理は簡単に済んだ。エンジンにトラブルが発生する程の被害では無いが、フェンダーがひしゃげてミラーのとれた車で営業することは出来ない。東屋の前の公衆電話から会社に電話した。そして会社からの支持をその爺さんに伝えた。

「車の修理代は持ってもらいますよ。警察官の話した通り全てあなたの責任ですからね。それとこの車はタクシーですから修理期間中の営業補償をしてもらいます。よろしいですね」

「はい、分かりました」

私はその男の住所、氏名、連絡先をメモした。名護市瀬嵩集落の区長をしているらしい。私は修理代が取れそうでほっとした。

 会社に戻って事情を詳しく説明すると、清造さんが渋い顔をして言った。

「営業補償は無理だな。その男は久志郵便局の元局長さんで、社長の古くからの知り合いだ。これから名護トヨタに納車すれば明日の昼までには仕上がるだろう。乗務員の具志堅が元トヨタの職員だし、毎年3台の新車を購入しているから修理を優先してくれるだろう。次の乗務は明後日だな。お疲れさん」

「すみません。とんだトラブルに巻き込まれてしまって」

「いいってことよ。タクシーに事故はつきものさ。それよりお祓いでもしてゲン直しをした方が良いな。こないだの乗り逃げ事件からツキが逃げているぜ、兄さん」と言って穏やかに笑った。

「すみません、お先に失礼します」私は清造さんのように笑う気にはなれなかった。乗務員控室にいた松さんが慰めるように言った。

「軽い事故で良かったな。これでお前に憑きかけた悪い憑き物は逃げただろうよ。悪い憑き物は大きく溜まる前に逃がした方が良いのだ。昼飯にフリッパーのサーロインステーキでも食って元気を付けなよ」

私は言われたように、自宅から少し離れた海辺のファミレス・フリッパーで250gのステーキと生ビールで遅い昼飯を取った。既に午後3時半であった。

漁港内の桟橋で暇をつぶす釣り人

 退屈な昼間と狂気の夜がいつの間にか体に馴染んできていた。一昼夜働いて朝帰りである。その足で娘を送って一人で朝食を取って一眠りする。3時頃に目覚めて遅い昼飯を食べに出かける。大抵の場合、未だ客のいない割烹「十八番」に立ちより、少しばかりの握り寿司とビールを飲んだ。暇つぶしに3軒隣りの書店で立ち読みし、漁港に係留された漁船を見ながら潮風に吹かれて煙草をふかして時間を潰した。暇つぶしの老釣り師の姿を眺めるも、自ら釣糸を垂れる気にはなれなかった。ほんの半年前までは羽地内海の浅瀬や護岸でキス、チヌ、太刀魚等を釣っていたのだ。ルアーロッド、チヌ釣り竿、ルアー、タックルケース、たも網などの釣り道具は納戸の中に押し込んだままだ。これまでの日常が何処かへ去ってしまって、日常なるものが分からなくなっていた。私の一日は48時間サイクルである。24時間ハンドルを握り続け、勤務明けの24時間を空虚にさまよっている。結局のところ私は自分自身の立ち位置を見ることもせず、ただ時間だけを食いつぶしているのであった。ちょうど深夜の国道を高速で走り抜けるときに、センターラインの白線がモールス信号のようにが前方から私に向かって飛び込んできて、どこか得体のしれない闇の中に消えて行くのに似ていた。一日48時間の世界に体が馴染み始めたが、本心は失われていく自分の何かに抗っているような気がした。既に実家からの借金と奨学金の返済は終わっており、タクシー稼業を続ける確かな理由を欠いていた。明日の見えない日常。否、明日への目的を探そうとしない私の根源的な癖が日々の活動を支配していた。唯一、朝夕の娘の送迎だけが私の中に日常を復活させてくれた。それも毎日ではなく1日越しのことであった。

 勤務を終えて午前7時半に帰宅すると妻が言った。

「彩夏の耳が少しおかしいの。耳垂れの匂いがするわ。耳の下が少し腫れているみたいだし、病院で診てもらってくれないかしら」

「ああ、構わないよ」

「名護病院の耳鼻科がいいわね」

「分かった。シャワーを浴びてから出かけよう」

「母が一緒について行ってくれるわ」

「そうかい」

妻は私一人で娘の診察に行かせるのが心配らしい。シャワーを急いで浴びて着替えていると、玄関の呼び鈴が鳴って義母がやって来た。本部町からタクシーでやって来たようだ。

「おばぁちゃん」と言って彩夏が飛びついて行った。

「おはようございます」

「お仕事は今終わったの」

「ええ」

「一晩中働いて大変ね」

「なぁに、今日は一日中暇ですから。彩夏の子守が出来ますよ」と言って彩夏の頭を撫でた。

「お母さんお願いね」と言って、妻はアパートの近くの職場に出て行った。僕らもすぐに病院に向かった。

 午前9時の県立名護病院耳鼻咽喉科は予想以上に混んでいた。一階の奥に位置する眼科と耳鼻咽喉科は非常勤医師が診療しており、火曜日と木曜日だけの診療日だった。診療室前の長椅子は何処も満席状態であった。待合室の中ほどの右端に席を見つけて、義母を奥に彩夏を挟んで椅子の右端に私は座った。診察受付窓口で手続きをして順番カードを貰って来た。

25番だから結構待ちそうですね」と義母に言った。

「そう、県立病院はこんなものよ」と言って彩夏と綾取りで遊び始めた。

義父は4月から隣町の本部警察署の署長に就任していた。妻は私が留守の週末に彩夏を連れて頻繁に署長官舎に出かけているようだ。彩夏は義母になつき始めていた。彩夏が義母と楽しそうに綾取りで遊んでいるのを見ると、夜勤の疲れから眠気に襲われ始めた。この3カ月のタクシー稼業で1日のリズムが48時間サイクルに慣れてきていた。この時間は私にとっての睡眠時間である。病院内でタバコを吸うわけにもいかず、私は何度もあくびをして首筋をストレッチしたがついに眠りの中に落ちてしまった。何度か頭が垂れては、ビクッと頭を持ち上げる動作を無意識に繰り返した後、ついに前のめりにぐらりと体が傾いて長椅子から滑り落ちていた。うまい具合に尻と右肩が体重を受け止めてくれたので頭を打つことはなかった。

「ふぅ、寝入ってしまったか」と小さく呟いて、何事もなかったかのような態度で起き上がった。そして椅子に座り直して大きく深呼吸した。待合室の女性たちがクスクスと小さく笑うのが聞こえた。私は赤面することも無く大きく首を回して後頭部の付け根を右手で軽く揉んだ。彩夏が義母と遊ぶのをやめて私を見上げて心配そうに言った。

「お父さん、大丈夫」

私は左手で彩夏を抱き寄せて頭を撫でながら言った。

「大丈夫だよ。スッテンコロリしちゃったネ」と苦笑いした。彩夏はほっとしたように再び義母と綾取りを始めた。義母は困った顔をしたこちらを見ていたが、私は知らんぷりをした。眠気は完全に治まっていた。眠りのリズムが変化したのであろう。

 いつの間にか待合室の人の群れが数名になっていた。

25番、ナカムラ・サヤカさん」看護婦が問診表を手に呼び出した。

「ナカムラ・サヤカさんだって、行こうか」

「お父さん、抱っこ」彩夏が不安そうに私に抱き着いた。

「彩夏ちゃん赤ちゃんみたいね」と義母が少しやきもち声で言った。彩夏は私に抱き上げられて自慢げに義母を見下ろして手を振った。

 彩夏の病状は夏風邪にから来る疑似中耳炎であった。病院内の薬局で抗生物質を1週間分だけもらった。病院を出たのが昼過ぎの12時半であった。病院の隣のファミリーレストランで遅い昼食を取った。窓辺の席から外を見ると名護岳の稜線が南北に連なっていた。私はふと彩夏が生まれた日のことを思い出した。あの日も実母と二人でこの席で遅い昼食を取っていた。あの日の初めての子供を授かった時の心地よい感動は既に失せてしまい、夢見るべき明日は単なる昨日の焼き直しに変わってしまっていた。3カ月後には20代が終わる人生の岐路が迫っていた。

 帰宅後は彩夏が義母と二人で絵本や積み木で遊んでいた。私はそれを見ているうちに寝入ってしまっていた。玄関の鍵がカチリと開く音で目覚めた。予期せぬ物音が私の神経を脅かす習性が私には付いていた。5歳まで里子に出されていた時の幼児体験がある種の警戒心を深層に染みつかせているようだった。窓から指す光が消えかけており、昼は既に幕を引き始めていた。意識が未だ朦朧として霞の中を漂っていて、先日の霧の晩が続いている気がした。

彩夏の「ただいま」の声で立ち上がり玄関に向かった。飛びついてきた彩夏を抱き上げた。妻は義母の買い物に付き合ってから隣町の警察署の官舎まで送ったようである。彩夏は私の顔をペタペタと叩いて

「お父さんが病院でスッテンコロリしたのよネー」と妻に言ってはしゃいだ。私が椅子からの転げ落ちたのが子供心には印象的であったようだ。

「お母さんからその話を聞いたわ。大勢の人前で恥ずかしいわね」

「眠くてしょうがなかっただけさ」

「タクシー運転手なんてろくな商売じゃないわね。こないだはアメリカ兵と喧嘩して怪我をして通院するし、交通事故には巻き込まれるし、本当にろくな仕事じゃないわね」

「オイ、オイ、畑仕事でも鎌で指を切るし、自家用車でも事故に遭うことはあるぜ。何処にでもある些細な出来事さ」

「そうかしら、人様の仕事と随分かけ離れている気がするけど」

「そうかな」と小さく答えた。トラブルの詳細を話しても彼女の理解の範囲外であり、普段から日々の仕事の中身を話すことは無かった。只、指を怪我して病院で治療した件と事故で早退した件は、妻を刺激しない範囲で話したのだった。

「借金は返済したのでしょ。新しい仕事を探したら」

「ああ、借金はとっくに返済した。職安も通っているぜ」

「そうかしら」

「ほんとだよ。こないだも佐敷町の水産研究所の所長に誘われたがよ。俺にミーバイ(ヤイトハタ)やタマン(ハマフエフキ)の餌やりは向かないよ。魚釣りと素潜り漁は得意だけどな。それに君も俺が魚臭い男になるのは嫌いだろ」

「あら、私は魚料理が好きよ。魚を捌くのと生魚の匂いが苦手なだけよ」

「そうかい」私は妻と議論するのがうっとうしくて彩夏を抱いてベランダに出た。妻はエプロンを手に台所に向かった。宇茂佐集落の北側の森は闇の中に沈み込み山際に星が瞬いていた。当たり前のように北斗七星が現れ、その柄杓の少し先に北極星があった。北極星は特別に光り輝くのでもなく、それでいて天空の群れ星の回転軸の中心にある。私は自分の人生の歯車の回転軸がどこにあるか、あるいは自ら回転軸の芯をどこに据えるべきかについて全く見当もつかない日々を送っていた。タクシー稼業に体が馴染む一方で明日の行方が見えない焦りと不安が澱となって心の底に溜まり始めていた。私は青春時代と言う言葉が既に穴の開いた靴にも似て、履き替えるべき頃になっていることにとっくに気付いていた。

                                   (9)

 梅雨明けが近づいており初夏の日差しになっていた。時折降る雨は通り雨であり大雨となることはなかった。国道58号からの名護市内入り口のソウシジュの群生は黄金色の衣を捨て去り、濃い緑に変わった樹冠が浜風を受けて揺れていた。私はソウシジュの下を毎朝通っていた。早朝にソウシジュを左手に見て出勤し、翌朝に右手に見て帰宅するのである。往復に2日がかりの奇妙な生活が続いていた。

 私は売り上げのドルが溜まると市内の銀行で日本円に両替した。3,000ドル単位で出来るだけドルが高くなった日を見計らって交換するのである。私と会社の売り上げの配分は折半である。例えばタクシーの最終売上げメーターが¥40,000とする。会社に返すのは半分の¥20,000だ。ところが僕らは米兵から1ドル¥200換算でドルを貰う。シュワーブとハンセンの区間は¥2,000であるから10ドルだ。メーター料金の¥40,000200ドルを手にする。むろん地元客も乗せるので200ドルには至らない。仮に手取りの200ドルを¥280換算すると¥56,000である。会社へ料金メーター表示の半額の¥20,000、ドル換算の場合は72ドルを返すのだ。私の取り分は差引¥36,000となり、正規の取り分より¥16,000が多くなるのだ。いわゆる闇のチップである。2万円の売り上げ配分に16千円のチップが付くのだから大した商売である。尤もベトナム戦争の頃は1ドル360円のレートで利ザヤはさらに大きく、本物のチップもふんだんにあったそうだ。明日をも知れない命を賭けた本物の戦争があった頃、コザ、金武、辺野古の街は狂気の米兵で賑わっていたのである。

 夏の光が濃くなるこの頃から、米兵共は週末の昼間にブルービーチへ出かけることが多くなった。ラジカセとビールを担いでビーチでの健康的な遊びを楽しんでいた。黒人は紫、赤、黒の原色のシャツにバカでかいラジカセを担いでガンガン音を響かせてゲートから出てきた。彼らのステイタスでもあるかのような大音量に体全体でリズムを取りながら歩いてきた。軍用施設のブルービーチは、水陸両用艇の訓練ビーチであるが、夏の間は米兵のビーチパーティの憩いの場所でもある。僕らは週末の昼間にうるさい奴らを2ドル50セントで運んだ。ビーチの空気はねっとりとした粘り気のある潮風を含んでいた。アヒルの頭にも似た金武岬を取り巻くリーフには白波が立っていた。正面に勝連半島の先端から平安座島、宮城島、伊計島が海中道路で連なっていた。夏の陽光は遠浅の海を透明感の淡いエメラルドグリーンに変え、沖に向かって濃いマリンブルーへと導いていた。私は米兵を降ろすと護岸に腰を下ろしてマールボロに火を付けた。私の好きな夏の海の色だが、無感動にサングラスを通して眺めるだけだった。ジッポのライターの蓋を開けては閉めを繰り返し、そのカシャ、カシャと鳴る音を聞いていた。この白波を立てるリーフの遥か彼方に、先ほど運んだ黒人兵の故郷アメリカ合衆国があるのだろう。ベトナム戦争が終結した平和な世界で白波の向こうに望郷の念を呼び起こす若者はいないだろう。海藻の匂いを含んだ浜風に身を晒しながら漠然と考えていた。昼間の目の眩む輝きと夜の暗闇の中の喧騒とのギャップの中に身を置き、私は何を探しているのだろう。ただ漫然と潮目の変わるのを待っているのだろうか。時は確かに動いているが、それはレコードのターンテーブルの上の針ように周回コースを進んでいるような気がした。それでも、今の自分に似合った日常だ。抗うべき事態が起こるまで前に進み続けるのも悪くないと納得させていた。ジッポのライターをズボンのポケットに押し込み、タバコを砂浜に弾き飛ばして車に戻った。

 日が暮れるといつもの様にキャンプハンセンとシュワーブを往復して米兵を運ぶ作業を始めた。午後8時、ハンセンのゲート前からアタッシュケースを持った軍服姿の男を拾ってシュワーブへ向かった。週末に働く軍人もいるようだ。松田の坂を登り切った時に無線が鳴った。

7号車から本部どうぞ」

「本部ですどうぞ」

「車をぶっつけられました。あっ、逃げました。追いかけます」

「本部から7号車、事故の場所と相手の車両番号を教えて下さい。警察に通報します」

「牛庭前でトラブルです。冲55 さ の1390 ブルーの日産サニーです」

「了解、車の破損状態はどうですか」

「左フェンダーと接触しました。運転に支障はありません」

「空車の久志タクシーは7号車の応援に回ってください」

「ただいま金大橋を通過しました」

7号車は非常用タップを点滅させてください。警察への通報は完了しました。無理な追跡で事故を誘発しないで下さい」

「了解です」

かくして夜の大追跡が始まった。私は無線機から聞こえる追跡交信に耳を傾けながらシュワーブへ急いだ。

3号車、7号車をキャッチしました」

4号車合流しました」次々と同僚の合流合図が聞こえた。私はアクセルと踏み込んでシュワーブへと急いだ。慌ただしく聞こえる無線機の声に「班長、何かトラブルか」と将校らしき男が訊ねた。

「会社のスタッフが小さなクラッシュ事故です」と答えた。

「オゥ、マイガッド」とだけ答えて首をすくめた。しかし、それ以上の会話はなかった。軍人には無縁の世界であろう。

「漢那から宜野座中学向けに右折しました」

「宜野座村役場前を漢那に向かいます」

「中川から喜瀬武原に向かいます」

「喜瀬武原から林道を名嘉真方面に向かいます」

それを最後に交信が途絶えた。私は米兵をシュワーブの第2ゲートの中の平屋が点在する単独施設のひとつに降ろした。第2ゲートの中の建物は米軍の迎撃ミサイル、ナイキホークを発射する施設だとの噂があった。普段から兵卒の姿はなく将校のみが出入りしているようだ。金武の繁華街と無縁の施設であった。こんな時に手間のかかる客を乗せたものだと思いながら金武町へ向かった。メーターを回送に切り換えた。

 私は中川から喜瀬武原に抜けた。タクシーの気配はない。

「全車通常業務に就いてください。容疑者を確保しましたとの連絡が石川警察署からありました。ご苦労様でした」

 私は残念な思いで繁華街に引き返した。ビリヤードセンターの階段に腰掛けて煙草を吸っていると仲間が次々に帰って来た。皆楽しそうな顔で車から降りてきた。

「何処に行っていた。楽しかったぜ」と松さんが言った。

「丁度アメリカーを乗せてシュワーブの第2ゲートに向かっていた」

「そうか、残念だったな」

「宜野座まで戻って来たら交信が途切れてしまった。念のために喜瀬武原まで行ったが、警察が捕獲したとの無線があったので引き返したのさ。何処で捕まえたの」

「喜瀬武原の林道から名嘉真に下りて、58号を南に進み安冨祖の農道に入ったのさ」

58号を走ったのだ。道理で無線が途絶えたのか。それで」

「林道に進むつもりが田んぼに脱輪。ジ・エンドさ」

「俺を除く6台のタクシーに追われて逃げ切れるものかね。アホな奴」

「いや5台だ、仲田はいなかったぜ。犯人が金武の人間だと思ったのだろ」

「で、何処のアホだった」

「瀬良垣のガキだった。田んぼ道から林道に入って瀬良垣に抜けるつもりだったようだ」

「そいつを殴ってボコボコにしたんじゃないだろな」

「お前じゃないよ」イサオが笑いながら言った。

「車をロックして中で震えていたよ」

「あんたらのことだ。車をゆすぶって脅しただろう」

「まあ、警察が来るまで楽しんださ」

「こんな夜中に安冨祖の村中を騒がした不届き者だな。これで喜瀬武原、名嘉真、安冨祖、瀬良垣の客は取れないな」と私は笑った。

「事故に遭った7号車のトヨタさんには悪いが、たまにはハプニングでの息抜きも良いぜ」

「ベースタクシーがジャパニー客を気にすることもないか」と私が言うと皆がどっと笑った。僕らのささやかで奇妙な息抜きと連帯感がそこに在った。

トヨタさんとは乗務員の他に時折無線係を務める具志堅さんの事である。以前トヨタ自動車名護支店に勤めていた辺野古在住の男だ。久志タクシーは本部町、今帰仁村、名護市、宜野座村、金武町と近隣の市町村から転げ込んできた一癖も二癖もある乗務員で構成されている会社である。

 夜はいつもと変わることなく深く沈んでゆき、僕らもいつもと同じペースで運搬家業に務めた。日付が変わろうとする頃、ハンセンの中で一人の軍人を拾った。胸に幾つかの染め分けのあるバッチがあった。大きなカーキ色の野戦用バックをトランクに押し込んだ。全ての米兵がこの大きな野戦バックひとつで戦地を転戦するらしい。ある意味で彼らの命の大きさだ。

「嘉手納エアベース」と一言だけ言った。

軍雇用員の車の出入りが多い嘉手納第3ゲート

 石川市を過ぎて東南植物楽園入口の看板を右に見て、知花弾薬庫前を過ぎて沖縄市白川の第3ゲートから嘉手納空軍基地に入った。兵士の指示通りにゆっくりと走った。やがて暗闇を抜け、滑走路だけが昼間のように明るく輝いて浮かび上がった場所に出た。その近くの平屋の事務所の前で停止を命じた。料金の25ドルを請求した。尻のポケットから財布を取り出して10ドル札2枚と5ドル札1枚を渡した。そして胸のポケットから胸のポケットから2ドルを追加で渡した。ニコリと笑って外に出た。トランクのレバーを引きながら「サンキュー・サー」と答えた。

兵士はトランクからバックを引き出すと明るい事務所の明かりの中に足早に消えて行った。私はトランクのロックを確認するために外に出た。トランクを押してロックを確認して運転席に振り向いた途端、いきなり爆音が空から降って来た。真っ暗な空から黒い戦闘機が滑走路に下りてきた。鉄工所のガスバーナーにも似た、巨大な青白い炎を噴射して滑走路を滑って行った。そして着陸する間も見せず再び飛び上がって嘉手納町の西の海上に去って行った。深夜のタッチ・エンド・ゴーの訓練である。私は方向変換して第3ゲートに向かった。戦闘機が次々とタッチ・アンド・ゴーを繰り返していた。嘉手納基地では昼夜の区別なく戦闘訓練が行われている。この島は間違いなく極東アジアの最前線基地である。キャンプハンセンやキャンプシュワーブで見られる数合わせのような軟弱な若者も兵士の一員であるが、この闇の中に潜んでいるのは殺人兵器を操る本物の得体の知れない悪魔の手先である。アジアで紛争が勃発すれば瞬時に戦争に介入できる体制が出来上がっているのだろう。ある意味、米国の軍需産業と軍隊は定期的に戦争装備品の放出先を模索している気がする。沖縄の不幸は130年前にペルリの琉球王府来訪から既に始まっていたと思う。米国のアジア侵略の拠点形成に沖縄が選ばれた起点であろう。米国の開発途上国侵略の野望は、時代に即した迷彩色に身を包んで、姿を変えながら色濃くなっていくだけである。この界隈は殺戮者たちの不夜城である。先ほどの将校らしき軍人の笑顔はこの前線基地から撤退できる安堵感であったように思えた。今夜の軍用輸送機のグァム島経由で本国に戻るのかもしれない。

                 (10

 暑い日が続いていた。ソウシジュの花が終わり、イジュの白い花も盛りを過ぎつつあった。沖縄気象台は梅雨明け宣言を2日前に出していた。僕らはいつものパターンでタクシーを飛ばし、ハンバーガーとコーラで夜食を取りながらビリヤードセンターの前でたむろっていた。私の隣で甲子園と呼ばれている比嘉が何やら薄い生地に野菜やら挽き肉やらを詰めたものと食べていた。ドライブインA&Wで見かけるホットドックとも異なっていた。比嘉は私と同じ高校の出身で、高校野球で甲子園に出場したメンバーの一人だ。私よりは4歳年下である。色の黒い小柄な男でショートのポジションであったらしい。私は大学生の頃にテレビで彼らのプレーを見ていたはずだが彼の姿の記憶はない。尤も20代半ばにもなって高校球児に面影を残すわけもない。とりわけ米兵相手のタクシー運転手を生業にしている者である。

「よう、甲子園の兄さん珍しいものを食ってるな。それは何だい」

「先輩、知らないのですか。タコスですよ」

「聞いたことも、食べたこともないな。タコの入った料理かい。あのタコ焼きみたいな」

「タコ焼きではないですよ。タコス。メキシコ料理で今流行りですよ」

「タコスね。何処で買ったのだ」

「その先の最近できた屋台ですよ。辺野古の赤羽屋の3軒隣のハンバーガーショップでも売っていますよ」

「そうか、タコスの事だったのか」私が手を叩いて言った。

「先輩どうしたんですか」

「いやな、こないだの事だが。シュワーブの門衛のクロンボーに頼まれたのよ」

「何を」

「そいつがさ、タコスを買ってきてくれと俺に頼んだのよ。兵隊を辺野古のバー街に運ぶ途中さ。金は払うからと言っていた」

「買ってきたのかい」

「俺はタコ焼きの事かと思ってさ。ゲートに入るときにタコは売り切れだと言ったのよ。腹が減っていたのだろう、悪いことをしたな。お前が食っている物とは知らなかった」

「先輩古いね。ま、タコスは20代の若者に人気の食べ物だから仕方ないか」

「そんなもん、食いたくもねぇよ」と側からイサオが言った。

「辛いだけで美味いのかね、甲子園」と義信さんが奇異な目をして訊ねた。

甲子園は笑いながら最後の一切れを口に放り込んだ。そしてコーラで流し込んで言った。

「うん、最高だネ」

「テツよ、少し離れて座っていた仲田さんが哉哲に言った。哉哲は私よりも随分年下で22歳だと聞いた。宜野座村漢那から通う若い乗務員である。コーラを手に自分の車の方向を見ていたが仲田さんを振り向いた。

「お前の彼女、ほれ、あのいい尻をしていたクロンボーハーフのネーチャン。あの娘に今日の昼過ぎに会ったぜ」

「昔の話だよ、今は彼女じゃねーよ」

「そうかい。良かったな」

「それで、マリーに何処で会ったのさ」

「なんだお前、知らないのかい。その坂の下のアパートでガス爆発があってな。俺も暇だから行ってみたのよ」

「そういえば、消防車が走っていたな。2時半ごろだったかな」義信さんが言った。

「ああその頃よ。女が一人焼け死んだのよ。そいつがお前の彼女のマリーって言うじゃないか。びっくりしたよ」

「ガス自殺かな」と誰かが言った。

「そうかもしれないな。それがよ、真っ黒に焼けて髪がチリチリになっていたぜ」と仲田さんが素っ頓狂な身振りで言った。

「それでアンタはマリーを見たのかい」とテツが聞いた。

「ああ、担架で運ばれるのをチラッとな」

「かわいそうに、そこのスナックに勤めていたが可愛い子だったな」と義信さんが言った。

「ああ、可愛い子だったな」と賢雄さんが沈んだ声で言った。

僕らはテツによく声を掛けていたマリーの事を思い出して暗い気持ちになっていた。すると仲田さんが突然言い出した。

「ああそうか。マリーの奴はクロンボーだから焼けなくても肌は黒いし、髪も普段からチリチリの天然パーマか」一人で高笑いした。まるで落語の落ちを皆が期待しているかのように言った。

「おい、テツの前でそんな話をするなよ」と体の大きい賢雄さんが睨み付けた。

「あれ、本当の事だぜ」仲田さんが笑いを期待するかのように言った。

テツは黙って車に戻って行った。その場に気まずい空気が流れた。仲間はそれぞれの車に戻って行った。私は一人残ってポケットからマールボロを取り出して火を付けた。煙がゆっくりと闇に吸い込まれていった。気がつくと私の周りに誰もいなくなっていた。この暗くて湿った空間には、人のまっとうな感性を失わせる何かが沈殿している気がした。所詮、刹那的な米兵相手の繁華街である。ここは米兵、ホステス、そして米兵相手の運送業で日々の生業を得ている不謹慎なベースタクシー・ドライバーが集うだけの空間である。米兵相手の僕らに正規の運賃規定が無いように、この空間にうごめく者たちには世間の常識は欠落しているのかもしれない。私もいつの間にかその空間の発する不条理な空気に取り憑かれ始めていた。

 深夜の国道をひたすらシュワーブに向けて走る私の肩を誰かが揺さぶった。

「班長、ウェイクアップ」

ハッとして前を見るとセンターラインを大きくはみ出して走っている。対向車のライトが私の脳内で爆発して黄色い閃光を放った。無意識にハンドルを左に切った。パ、パーンと対向車のクラクションが尾を引いて通り過ぎた。ほんのコンマ数秒足らずであった。目を開いたまま眠りに落ちて意識を失っていたようだ。

スピードメーターは時速90㎞を指していた。私はブルッと頭を振った。そして窓を空けて外気を取り込んだ。海風が漢那小学校の校庭を横切って流れてきた。海藻にも似た磯の香りが私の鼻腔を強く刺激した。私は死の影を振り払うように更にアクセルと踏み込んだ。後輪が路面を蹴り上げて東海病院前の上り坂に120㎞で侵入した。もはやアクセルを踏み込むことでしか神経を刺激して眠気を振り払うことが出来ないような気がした。

漢那集落前の直線道路、アクセルが床に着くまで踏める場所だ

 キャンプシュワーブの兵舎前に米兵を降ろし、車を反転してハンセンゲート前の繁華街に向かった。既に日付が昨日と明日の峠を越えていた。潟原から宜野座に至るまでに1台の久志タクシーとすれ違っただけである。今夜の米兵相手の運送業は閉店時間が迫っているようだ。もう1回ぐらいは配送したいと車を飛ばした。東海病院前の下り坂で窓を開けて夜気を取り込んだ。定期的な眠気覚ましの換気である。未だ夜気は新鮮な酸素を含んでおり、大気が重たく淀んでしまう不快な熱帯夜が始まるのは1カ月先の事だ。夜気は思いがけずソウシジュの香りを運んできた。季節外れの遅れ花だろうか。私の中に懐かしく初々しい遠い記憶を呼び覚ましてくれた。私は最後のカーブを抜けるとアクセルを踏み込んだ。スピードメーターが一気に100㎞を越えて跳ね上がった。午前1時の漢那小学校前のバス停留所に人影がポツリと浮かんで手を振っていた。地元客だ。私は車が反転しないようにブレーキをポンピングしながらタイヤを軋ませて必死で減速した。停車して振り返ると80m程後ろに人影があった。再びタイヤを軋ませてバックして客の前に戻って後部ドアを開いた。

「バカ野郎。何処のタクシーだ。俺は漢那の自治会長だ。村内をなんてスピードで走るのだ」少し酒が入っている声で怒鳴った。

「すみません」私は素直に謝った。

「牛庭に行け」

私は時速60kmで車を走らせた。夜景がゆったりと後ろへ流れた。まるで時間が止まっているかのような錯覚に包まれたまま牛庭のアーチの下で車を停めた。

「安全運転しろよ」と自治会長さんは車を降りた。

「分かりました以後気を付けます」つとめて朗らかな声で返事した。米兵相手にタクシーを飛ばしていると、地元客を拾う視線など持ち合わせていなかったのだ。夜間走行は米兵オンリーになっていたのだろう。それにしてもゲート前の米兵相手の繁華街は閉店時間と言うに、地元の繁華街は営業真っ盛りである。奇妙なギャップを覚えながらビリヤードセンター前に向かった。

地元客の社交街うしなー

 繁華街に人の気配は無くタクシーは順番待ちの列を作らずそれぞれ離れて停まっていた。乗務員は仮眠を取っているようだ。私も交差点から少し離れて車を停めた。ドアをロックしてシートをすこし倒して仮眠をとることにした。瞼を閉じると眩い光の中でセンターラインの白線がアスファルトから剥がれて私の眼球を突き刺し後頭部から突き抜けていく感覚が付きまとった。それがいつもの眠りに入るときのパターンとなっていた。

 2時間近く目を閉じていただろうか。助手席のガラス窓を叩く音で目覚めた。私は駐車違反の摘発かと思って飛び起きた。夜気で曇りガラスに変わった窓の外に女が立っていた。窓ガラスを空けると女が言った。

25ドルでコザの高原交差点まで行ってくれないかしら」

車の時計が午前240分を指していた。「どうぞ」私はレバーを引き、後部ドアを開けて女を乗せた。夜が更けており、行き先を事務所に告げずに車を出した。この頃は夜間走行で事務所に無線連絡する気も失せていた。

客は美人ではないが肉付きの良い何処にでもいる女である。年の頃は40歳くらいだろうと思ったがもっと若いかもしれない。体つきよりもやけにくたびれた顔をしていた。日暮れの顔はもっと輝いていたのかも知れないが既にその面影は失せていた。丁度、夏の夕暮れの月見草は宵が迫る頃、晴れやかに化粧をして我が物顔で夜の帳を開ける役を演じるのだが、朝の薄明を待たずに色あせてしまう一夜の恋女に似ていた。女は夜の深まりの中で輝きを失って帰るべき棲家に向かっているのかもしれない。国道329号伊芸の海岸を走るタクシーの窓を開けてぼんやりを浜風に浸っていた。セイラムを立て続けに2本吸って指先で器用に吸殻を窓の外に弾き飛ばした。革製の細身のシガレットケースと銀色のガスライターをハンドバックに放り込んでパチンと音を立てて閉めた。私はこの時間にタクシーに乗る女性客のことが気になってバックミラーを何度も見た。女がうつろな目つきで私の方に視線を向けた。私は退屈まぎれに女に話しかけた。

「今日は随分と遅かったですね」と穏やかな口調で言った。

「そうね、今日は何時もより遅かったわね」

「随分と稼いだでしょう」

「冗談じゃないわよ。あの白人は舐めまわすだけで中々入れないのさ。さっさと入れて出してくれたら仕事も早く片付くのに、まったく帰りが遅くなったじゃない」

私は年増女の剣幕に圧倒されそうになった。

「高原から田舎の金武町まで通うのは大変でしょう。コザの街の方が華やかで景気も良いのではないですか」

「家から近いコザのセンター通りでパンパンすると、知り合いに会いそうでいやなのよ」

「そうですか、姐さんは中部訛りがないですね」

「私は元々、喜瀬武原育ちなの」

「どうりで、金武町界隈の方かと思いましたよ」

「ハンセンで働いていた旦那と一緒になって高原の近くの住んだのだけどね。アイツがサッサと逝っちまってさ。仕方なく元の仕事に戻ったのよ。でも地元でこの商売すると噂になるから昔の仕事場に通っているのよ」女はつまらなそうな顔で言った。

「出張でのお仕事ですか」

「アンタ、面白いこと言うわね」と言って女が笑った。女の顔から暗さが消えて何処にでもいるおばさんの表情に変わっていた。私は奇妙な安堵感を覚えた。

知花交差点で信号待ちをするとパトロールカーが右側に止まった。助手席の若い警察官がこちらを見た。私はさりげなく視線を合わせてから正面を向いた。後部座席の女をバックミラーで覗くと寝たふりをしていた。信号が変わると直進した。パトカーは右折してコザの八重島町の繁華街の裏手に向かって行った。コザ辺りで見かけない久志タクシーが気になったのかもしれない。

料金メーターが5,050円を指したところで回送表示に切り換えた。コザ高校の前を通って大里の坂を下る途中で女に声を掛けた。

「姐さん、もうすぐ高原です」

「もう少し先まで行って」いつの間にか本当に寝ていた女が顔を上げて言った。

女はハンドバックから煙草を取り出して火を付けた。セイラムのハッカの香りが車内に漂った。私もマールボロを取り出して火を付けて窓を開けた。闇の深さは変わらぬが既に夜が終わる気配に満ちていた。

 高原交差点を過ぎて北中城村の境界の手前で左折した。二つ目の交差点を右折して農道に入った。未だ十分に伸びきらぬキビ畑の中を少し進むと、ブロック塀で囲まれた木造瓦葺きの民家があった。街灯も無く民家に明かりもない。人の気配は全くなく闇の中でサラサラとキビの葉だけが揺れていた。

「兄さん、タクシー代の分だけ遊んでいくかい。たっぷりサービスするから」と女が言った。

「今日はやめとくよ。車を洗って会社に納車する時間だから。この次に会ったらな」

「そう、残念だわ。アンタ男前だし女にもてるでしょう」そう言って、胸元から紙幣を取り出し25ドルを渡した。

「お疲れ様です」と女に礼を言った。

「アンタ、この仕事は最近からでしょう」

4カ月チョイですかね」

「ろくな商売じゃないわね。体に染みつく前に昼間の仕事を探しなさいよ。長くやると昼の仕事が出来なくなるから。アタシみたいにね」

女は気怠そうにシートから腰を上げて出て行った。私は屋敷の角の交差点で車を切り返して本通りに向かった。バックミラーに映る女の家から明かりが漏れることはなかった。時計は既に4時を過ぎていた。キビ畑の上を流れて来る風は微かに潮の匂いがあった。中城湾の海岸が近いようである。琉球王朝時代には遠浅の海岸で塩田が営まれていたらしいが、今では埋められてキビ畑が広がっている。時代の変化は風景も人間の営みも成り行き任せで変えていくようだ。

 石川市でガスの充填と洗車をして会社に向かった。嘉芸小学校の前を通過する頃には恩納岳がおぼろげに輪郭を現していた。ハンセンのゲート前を通過する時にヘッドライトを消した。時速60㎞でゆっくりと未だ目覚めぬ町内を通過した。普段と異なった地元客が絡んだおかしな夜が終わり、15分後に納車すれば全てが夢の中に沈むはずだと思ってアクセルを踏み込んだ。

 回送に切り換えようとメーターに手を伸ばした途端、牛庭のアーチから3名の青年がおぼつかない足取りで出てきた。二人が肩を組みもう一人が手を上げて車を停めた。ひどく酔った二人組が後ろに乗り、もう一人が前に座った。

「中川まで」と前に乗った男が言った。あまり酔っていないようである。

私はホッとした。今度も石川、コザまでと言われるとどうしようと思ったのだ。

金武大橋を渡るとすぐに集落内に入った。100mほど進んで助手席の男がフクギに囲まれた家の前で停車を命じた。

「ちょっと家に寄って取ってくる物がある」と言ってドアを開いたまま車を降りてスタスタと屋敷に入って行った。私はタクシー代が無いのであろうと思って

「はい、どうぞ」と言って送り出した。その男が荒れた中庭を通って古い赤瓦の住宅の玄関の雨戸を空けて中に入るのが見えた。

「兄さん、車を出してくれ」と後部座席の男がひきつった声で言った。

今まで酔っぱらっているとばかり思っていた二人の男が、おびえたように先ほど出て行った男の方角を見ている。男が玄関に姿を現した。「急げ」二人の男は興奮して同時に言った。私は急発進してその反動を利用して助手席のドアを閉めた。タイヤが軋んでゴムの焼ける匂いがした。70m程走ってバックミラーを見た。男が門から出て追いかけてきたが、すぐに立ち止まってこちらを見ていた。追いつかないと諦めたようである。だらりと下げた男の右手に包丁らしき物が光っていた。男の姿が視界から消えると二人の男はこちらに振り返り、肩をすぼめてポロリと言った。

「殺されるところだった」二人の男は途中下車の男を油断させるために泥酔しているふりをしていたのだ。路地は国道329号に続いていた。

「何方に行きますか」と尋ねた。左を指差して「もう少し先だ」と言った。

中川集落の外れの下り坂に差し掛かった場所で一人を降ろした。国道でUターンして少し戻って海岸に向かって下って行った。途中の小さな売店の前で残った男が言った。

「ちょっと待ってくれ」後部座席のドアを開けたまま未だ開店前の店先から何かを取ってきて再び車に乗り込んだ。ほんの少し前に配達されたばかりの湯気の立っている豆腐である。4丁ほど木箱に詰められたセットだ。私が怪訝そうな顔で車に乗り込んできた男を見ると

「夜が明けたら金を払いにいくから、兄さんは心配しないで」と言って手づかみで豆腐を食べ始めた。

夜はとっくに空けており水平線にたなびく雲は既に赤く染まって日の出を待っていた。坂を下りきって水田の広がった億首川の河口に近いトタン屋根のさびれた一軒家の前で停車を命じた。男は料金メーターを見て無言で千円札を渡して車から降りた。左手で豆腐箱を抱えて屋敷の中に歩いて行った。

 私はメーターを回送表示に切り替えてからギアを入れて車を発進した。この車は≪AUTHORIZED ON BASE≫のベースタクシーだ。地元客を乗せるとロクなことがないと思った。坂を上り切って国道329号に戻って北にむかった。今度こそ本当に本日の業務終了だと自分に言い聞かせてアクセルを踏み込んだ。日の出が始まっていた。

事務所に戻って運賃を精算して車を拭いていた。最後の客の豆腐の食べカスを丁寧にふき取っていると怒鳴り声が聞こえた。車から出て声の方向を見ると2台前の車で宮城さんが怒鳴っている。

「甲子園のアンちゃんよ。一昨日の乗車後の掃除をしないで帰っただろう」

「いつも通りにきちんと拭き掃除をしたぜ」

「冗談じゃネーヨ。後部座席の枕の後ろにフライドチキンの食べカスの骨が残っていたぜ。お客さんの頭のすぐ後ろだ。客を乗せる前に俺が気付いたから良いものを。万座ビーチホテルのフロントに知れたら俺は首だぜ」

「悪かったな。朝は視力が悪くなって見落としたのよ」

「全く困った相棒だぜ」

「アンタも万座ホテルの専属をクビになったらアメリカー相手に商売したらよいだろう。ジャパニー相手より儲かるぜ」

「俺はアメリカーが嫌いだ。クロンボーの匂いよりはヤギ小屋の方がよっぽどマシだぜ。いつも言ってるだろ。クロンボーを乗せるんじゃネーヨ」

「そうかよ。日が暮れたら白・黒と言っていられるかよ」

二人は険悪な雰囲気のまま離れていった。甲子園はトヨタ・セリカの暴走族仕様にも似た愛車で爆音と土ぼこりをまき上げて帰って行った。

「あのバカが、いつまでもガキの真似していやがる」

宮城さんは怒りが収まらぬ様子で私に向き直って言った。

「おい、国立大卒の兄さんよ、いつまでもつまらぬ奴らと遊んでいるじゃないぜ。アメリカー相手に小銭を稼がずにサッサと本職を探しな」そう言ってトランクにタオルを放り込むと車に乗り込んだ。

 宮城さんだけは久志タクシー仲間と異質な雰囲気を持っていた。こざっぱりしたアロハシャツ姿で、如何にも本土からの新婚さん相手の観光タクシーの乗務員ですという身なりだ。車もグレードがワンランク上で兵相手ではもったいない仕様である。それでも彼自身の体の奥から染み出て来る気配は、辺野古川河口の潮だまりに集まっている久志タクシーの乗務員特有の色が滲み出ていた。私はというと、このベースタクシー乗務員の仕事が嫌いではないが、彼らと同じ色には染まりようがないと感じ始めていた。水彩絵具と油絵具を混ぜ合わせても上手く色が乗ってこないのだ。何かを表現するための基礎となる具材が異なるからである。幾ら混ぜ合わせても分離してしまい本物の色を成さない。そろそろ自分らしい景色を描くために適した絵の具を探しに行かねばという思いが頭をもたげ始めていた。

              (11)

 潮目はいきなり変わるものである。変わるには何らかの兆候があるのだろうが、それはいつも突然にやって来るものだ。

勤務明けでいつも通りに自宅で寝ていると電話が鳴った。

「もしもし、ナカムラさんのお宅ですか」

「そうですが、どちら様ですか」私は不機嫌な声で応えた。

「ヤスカズさんいますか」

「私ですが、何かご用ですか」

「ナカムラさん、今日の午後1時から面接の予定ではなかったですか」

私は義父の紹介で履歴書をとある会社に提出してあり、その会社の代表者からの面接を受ける予定日であったのだ。時計を見ると午後3時である。

「申し訳ありません。夜勤明けで寝過ごしてしまいました。1時間後に伺いますが宜しいでしょうか」

「よろしいでしょう。では、午後4時に待っています」不機嫌そうな声で電話が切れた。

私は採用が無理だなと考えながら面接を受けに向かった。背広にネクタイの姿ではなく、少し地味なアロハシャツ姿で面接を受けた。代表取締役は流郷という聞きなれない姓の70歳過ぎの短髪白髪の男であった。後で知ったのだが建設省の上級官僚出身で、定年を沖縄総合事務局の主席調整官で終えた男であった。

「お前、いい度胸しているな。3時間も遅刻して面接を受けるとは」

「すいません。仮眠のつもりが充分に寝てしまいました」悪びれずに答えた。どうせ採用は無理だろうと思っていたからだ。ベースタクシーの乗務員稼業で世間擦れした度胸だけが育っていたのだろう。

「造園協会の副理事長の紹介だから面接をしたのだ。親父は本部警察署の署長だって」

「ええ、義理のオヤジです」

「お前の実のオヤジは何をしているのだ」

7名ばかりの職人を使っている大工の頭領です」

「ほう、それでは、作業人夫の扱いに慣れているな」

「ええ、まぁ。中学、高校、大学と休みのたびに親父の下で仕事を手伝っていましたから。実家では人夫が頻繁に出入りしていましたし、仕事柄の酒の席が多く、父の代わりに世話役も手伝っていましたので」

「そうか、うちの職員は男子6名と、女子の事務員が一人の所帯だ。君なら仕切れそうだな。」

「私でよろしければ、お手伝いさせていただきます」

「では、来月1日付での採用としよう。今は小さな会社だが、いずれ必ず大きくなる性質の会社だ。給料はその都度上げてやるからしばらく我慢しろ」

「分かりました、よろしくお願いします」

可笑しな成り行きであったが、私はこの会社の代表取締役の気に入られたらしく採用と決まった。どうやら潮目が確実に変わったようだ。その新しい潮流に乗ってみるのも悪くない気がした。

 梅雨が上がりイジュの花が散って、ホウオウボクのオレンジの花が咲き始めた7月の終わりに政叔父さんに暇乞いをした。義父の紹介が功を奏して新しい仕事に就くことになったことを告げた。「お前は私のところで事務をするより、体を動かして仕事をする方が向いているようだ」と残念そうに言った。

深紅のホウホウボク、この花が咲くと夏本番だ

 造園協会の副理事長は義父の旧制第三中時代の同窓の学徒兵とのことであった。その協会が出資して作った新会社は未だ小規模の公園管理工事をするに過ぎなかったが、動き始めた新しい潮の流れに乗るのもよしとした。以前に義母を伴って出かけた県立名護病院での一件が転職の引き金になったのだろう。私の日常は24時間サイクルに変わった。妻は私の就職に安堵して機嫌が良くなり、あれこれと新しい職場の事を訊ねた。私はのんびりした業務だとだけ答えた。実際、公園管理工事の現場責任者に就いた私は、目立った活動をすることもなかったのである。職員は全員が北部農林高校卒で素直な後輩であった。あの久志タクシーの乗務員に比べると全くのお坊ちゃんに見えた。職場は国営公園の植物維持管理を生業にしており、米兵相手の緊迫感は何処にも存在しない別世界であった。

 ともあれ、あの闇を切り裂くカーレースの日々から解放されたことに、私自身が一番の安堵感を覚えたのかもしれない。潮目が変わると次々と変化が現れるものだ。入社1週間後に農協から営農指導員の採用通知が届いた。農学科出身の私に相応しい仕事かもしれないし、これまでの知識と経験が生かせる職業であろう。しかし私はその採用通知を断った。大学の農学科を卒業して、多少の農業経験があるも技量の底は知れている。新しい流れから乗り換える程のこともない。農家という大地に根を張って粘り強く生きている人々と付き合うことは私には無理である。造園建設業界という絶えず変化する受注工事が連続する見知らぬ世界の方が性に合っていると思ったのだ。人の甲斐性は容易には変わらないし、自らの天命を知るにはそれなりの出会いと時の蓄積を経るべきものである。

 新しい仕事に就いて二月ばかりして実家で松さんに会った。

「新しい仕事はどうだい」

「毎日定時にベットで寝られるだけがお得かな。給料は半分になっちまったし」

「幾ら貰っているんだ」

「月給14万円さ」

「俺の半分以下か」

「久志タクシーの仲間は元気かい」

「ああ、皆相変わらずだ。テツは消防士の学校に入学した」

「あのガス爆発の後で落ち込んでいたからな」

「甲子園の比嘉は万座交通ハイヤーに転職だ」

「へぇ、観光タクシーは嫌いじゃなかったかい」

「結婚して母ちゃんに泣きつかれたのさ。一日越しに帰宅する仕事に新婚女房殿が怒ったのさ」

「女は強いね。俺も母ちゃんが義父に泣きついたおかげで、乗務員を廃業したのさ」

「ところで、金武タクシーの宜保さんを覚えているかい。剛柔流2段の男だ」

「ああ、年甲斐もなくサングリアの前の通りでで米兵をからかっていた男だな」

「ハンセンの中で刺されて死んだよ。後ろからアーミーナイフでブスリさ。金武タクシーは無線が無いだろ。発見が遅れて出血多量死だとさ」

「武道家でも危ないのだね」

「やったのはプエルトリコ系兵士のガキどもさ。咳止めのブロンでラリっていたらしいよ。あれは一種の興奮剤だからな」

「そうか、俺もそいつらをハンセンから赤羽屋の隣の薬局まで往復で乗せたことがある。ブロンを飲んだ途端にテンションが上がったぜ」

「お前も危ないところだったな。転職して良かったな。兄さんよ」

松さんが乾いた声で笑った。

「お前が置いて行ったラジカセな。俺が貰ってもよいかい。家のラジオが壊れちまってよ」

「ああ構わないよ。どうせあのクロンボーが取りに来るとも思えないし、タクシー代も会社が損金処理していて俺の損失は無いから」

「政兄さんはお前を本気で跡継ぎにしたいと考えていたがそれもチャラだな」

「政叔父さんには悪いことしたな。紹介してくれた農協の採用通知も断ったし」

「仕方ないさ。タクシー稼業でもあっただろ。運の潮目が変わることはよくあることさ。潮目が変われば新しい流れ乗ることが仕事の鉄則だ。しばらくすると新しい潮の流れが次の運を運んでくれるものさ。コロコロ乗り換えても良い運気は来ないぜ」

「そうだな」

「お前の給料も次の潮目が変われば俺よりも高給取りになるってことよ」

「そう願いたいね」

松さんが大きな声で笑った。

 松さんの高笑いを聞いていると、久志タクシーの日々の記憶が離岸流に乗って遠のいたことをはっきりと知った。僕らは別々の潮の流れに乗って次第に遠ざかっていくのだ。

 それから数年後に久志タクシーは行政処分されて丸金タクシーに吸収された。政叔父さんは丸金交通の経営管理者の一人になり、松さんは八重タクシーに移った。他の乗務員もそれぞれ転職していった。その頃から米国経済は停滞を始め、日本経済は平成景気を迎えた。ドルのレートは1ドル110円台に下落していった。ハンセン前の繁華街は潤いを失い。ベースタクシーの利用者がいなくなってしまった。久志タクシーの潮だまりはあたかも辺野古川から流れ込んだ土砂で干上がってしまったかのようになった。時の流れは無造作にそこに住む人々生活を変えてしまうのである。

 入社後10年目を迎えた頃、組織は大きく成長して従業員数も30名を越えていた。平成景気の中で営業と称する乱費がはびこっていた。私は毎月45回のゴルフコンペと繁華街通いに明け暮れていた。意味のない営業活動のおかげで胸膜炎を患い、2週間余り入院した。ただ、入院に伴う体力の低下は思いのほか重症であった。体力を取り戻すために再び空手を始めたのがせめてもの救いであった。空手道場はあの頃住んでいたアパートの近くにあった。あの頃は何とも感じなかった道場の看板をどうして思い出したのか不思議だが、体と心が鍛錬の必要を感じたのであろう。人は必要になって始めて見落としていたものを拾い出し、不要になると無造作に記憶の外に追い出してしまうのだ。

平成バブルはやがて消滅して、不景気の波が業界に押し寄せた。誰もが予感しながら対策も立てなかった波であった。私は組織も規模縮小を余儀なくされたが、事業形態をすこしずつ変えることで生き残った。

私が中東湾岸戦争を知ったのはベルビーチゴルフ場のクラブハウスのテレビニュースであった。東アジアのベトナム戦争が終結して20年、アメリカの軍需産業は西アジアへと商売の拠点を移していった。西アジアでは次々と節操のない喧騒が始まっていた。沖縄の全ての基地が再び熱を帯びて動き始めたのである。ベトナム戦争の頃と同じように沖縄の県民を大きく巻き込むことはないだろうが、潮目の変化は無造作にそこに関わる人々の暮らしを変えてしまうのが常である。

 太陽は遥か彼方の太陽系の中心に座り、誰の目にも明らかに時の移ろいを示してくれる。しかし、本当に人間と深くかかわっているのは月だ。地球のごく近くにあって、夜陰に紛れて地球と引力の引き合いをしているのだ。古い時代の漁師も農民も月の満ち欠けによって自然の変化を読み取っていた。潮目の変化を引き起こすモノは遠きに在る大きな変化ではない。誰もが近くにある≪既に起った未来≫を見落としているのだ。身近にあるモノが夜陰に紛れてゆっくりと変化しているのである。そして変化は度が過ぎると壊れた堤のように一気に新しい流れを作るのだ。その流れに抗って流れが収まるのを待ちつつ朽ちていくか、新しい流れを受け入れて変化の中に自分の航路を探すか、人それぞれの生き方だ。人は宿命を背負って人生を歩み始め、天命を求めて命を運ぶのである。たどり着く先など誰も知らないのが、せめてもの神のご慈悲であろうか。

                         「完」

 

 

2017年8月14日 | カテゴリー : 短編小説 | 投稿者 : nakamura