(一)
立秋とは名ばかりで、相変わらず猛暑が続いている。お昼のニュースでは、昨日埼玉県熊谷市で最高気温38度を記録したらしく、熱中症予防が全国ネットで流れている。本日の名護市の最高温度は33度の予報だ。沖縄は東シナ海に点在する島々からなり、風の通り抜けが良く、内陸地的な蒸し暑さはない。しかし真夏の太陽は凄まじい紫外線を放出して、地表面でうごめく生命体を焼き焦がす勢いだ。既に海も陸も十分に過熱されている。旧盆の祭事はこの頃にやって来るのだ。
沖縄の三大祭事は正月、清明祭、旧盆だろう。正月には本家に集まって一族の開祖に祈願する神御願、初夏には分家の一族がそれぞれの墓に集まって祈願する清明祭、そして初秋には仏壇に先祖の霊を迎えて祝う旧盆がある。これらの祭事は血族の絆を保つための古くからの慣習しだ。三大祭事の他にウマチー、アブシバレー、豊年祭等、生活に密着した地域祭事もあるが、既に途絶えた祭事も少なくない。都市化の進展はコミュニティの形態を変化させ、利便性と言う名の新しい神器によって、地域の神々と住民とを繋いでいた穏やかで情緒に満ちた暮らしをも風化させていくようだ
さて、旧盆の作業は、七夕の日に墓掃除を行うことから始まる。私も昼間の強い日差しを避けて午後3時頃から墓掃除を始めた。草刈機で墓の周りの雑草を刈り払い、墓の庭に溜まった落ち葉を掃き取るのだ。密生したチガヤの刈り払いは難儀な作業であるが、根茎が赤土をしっかりと掴んでくれるので土砂の流出を防いでくれる。この辺りの地形は、地質学的に見ると屋部川の周辺に広がる湿原の一部である。集落の形成に伴い水田地帯となり、集落の後背地の農耕に適さない雑木の繁る丘陵が墓地となったのだろう。集落からそう遠くない場所に自然発生的に形成された場所で現在は公有地となっている。それ故、人口の増加と共に墓も必然的に増えてしまい、現在この丘陵地に墓敷地を求めることはできない。都市に流入した多くの住民は、新しい墓を民間の墓地公園に求め、あるいは臨済宗やら日蓮宗等の他府県から布教した寺に永代供養を依頼することも増えている。辛いことだが、人間は己の身の始末を誰かに委ねるという宿命を背負って世に生まれて来る。この宿命は血族によって完結されるのだ。血族の絆の原点がそこ存在する。

それにしても真夏の墓地は暑い。かつて、先人が湿原を開いてできた水田は、青々とした二期作米の緑地を育て、稲田を渡って来る真夏の風を冷やして穏やかな涼風をもたらしていた。しかし、今では秋茜の如く無作法に流入した人々によって、水田は食い散らかされてしまい、半世紀も経ずに消えてしまった。顔の無い人々の発する喧騒は、彼らの暮らす無機質な構造物に反射してすべての空間を過熱している。もはやこの地に点在して残った僅かな墓地や拝所の森に涼風が届くことは無い。
七夕の墓掃除の次に、13日の午後に仏壇を掃除して花や果物を供え、ご先祖を迎えるウンケー(お迎え)の行事をとり行う。果物はバナナの上にミカン、リンゴ、ブドウ等を載せる。バナナを手の平に見立てて果物を載せる形だ。スイカとパイナップルを脇に置き、サトウキビを仏壇の両サイドに立て掛ける。サトウキビは80㎝程の長さで、ご先祖様がお帰りの際に使う杖の意味らしい。以前は山野の果実であるサルナシの実、グァバの実、ヒメユズリハの実を採取して供えた記憶がある。夕暮れにウンケージューシィ(沖縄風炊き込みご飯)を供えてご先祖のお迎えをする。仏壇のお供え物は、全てスーパーマーケットで調達できるのも時代の利便性のおかげだろう。
中日の14日には、3食の他におやつのアマ菓子(ゼンザイ)供える。夕食にはソーメンの汁物を供えるのが定番だ。そして、午後から中元の品を携えて直近の親戚に線香を上げに行くのが一般的である。私の場合は、妻の実家、母の実家、父の弟である叔父の仏前、それに本家である。本家へは脚力が衰えてしまった93歳の父の名代として行くのだ。
本家の屋号はハサマと呼ばれる。琉球の三山を統一した尚巴志の五男尚泰久王の次男から6代目の分家筋を始祖とする。そして今から約300年前に王府から名護間切り(現在の名護市)に派遣された豪族らしい。私の実家の屋号はマガイハサマグァー(曲がり角にあるハサマ小)と呼ばれている。分家筋にはグァー(小)と言う呼び名が付くのがこの辺りに習わしのだ。本家の頭領である叔父によると、私の実家は4代前に分家した頃、本家から二つの通りを隔てた曲がり角の土地を分け与え、一家を構えさせたことからその呼び名が付いたとのことだ。私の一族は父の代まで宏の名がついている。宏友、宏春、宏正、宏秀等だ。一代目はコウと読み二代目はヒロと読む呼び名を繰り返すのだ。必然的に同じ名前が世代を超えて名付けられる。沖縄県内ではよく見られる命名様式だ
本家の仏前に線香をあげ、出された冷たいゴーヤージュースを飲みほした。
「ご馳走さま、適度な苦みがあってさっぱりしています。暑い夏には嬉しい飲み物ですね」とお礼を言うと、頭領の叔父が言った。
「今年は7年巡りの年に当たるので心得ていてくれ。涼しくなる10月頃に予定するから」
「ついこの間、ヘーカタマーイ(南部巡り)したと思いましたが、もう6年が経ちましたか」
「うん、月日が経つのは早いものだ。僕が老いてしまうのも仕方ないな。ところで満君は元気かな」
「はい、義父は毎日元気にウォーキング出かけ、時折老人会のグランドゴルフを楽しんでいるようです。」
「そうか、元気で何よりだ。僕らは三中学徒兵として徴兵され、本部町の八重岳周辺の山中でずいぶん苦労したよ。多くの学友が戦死した中で、自分たちが生き残ったのが不思議だよ」
義父は叔父より1歳年下で戦前の旧制沖縄県立第三中学(現名護高校)の同窓生である。大戦後の混乱の時代に叔父は産婦人科医、義父は沖縄県警察の警視となって一家を養ってきた。異なる人生の航路を歩み既に現役を退いている。70年後の現在でも互いの近況を案じる朋友である。私も旧制三中(現在は名護高校)の出身であるが、彼らの様な同窓生の強い絆は無い。最近届いた25期生同窓会の案内ハガキを見ても卒業時の同級生の顔を多くは思い出せない。
叔父の弁では、「自分たちは第一尚氏に由来する一族である。私には頭領として一族を束ねて先祖の足跡を訪ね、子孫の繁栄を祈願する務めがある」。この行事がいつの頃から始まったか定かでないが、自動車の無い時代に米・味噌等の食料を携え、徒歩で数日間の参拝旅行をした記録がある。相当古くから続いているようだ。叔父は人口の多い那覇市で開業したこともあり、実家の祭事に積極的に関わらなかった負い目があるようだ。両親の死後は自費で大型バスをチャーターして、先代の残した資料を基に拝所巡りを企画している。人は老いてくると先祖の事がことさら気になるようだ。自分のルーツが気になるのは人としての根源的な性分であろうか。ただ、私の子や孫の代までその慣習が現状の形で残るかは定かでない。
最終日の15日がウークイ(見送り)である。夕暮れには仏間のテーブルにお重、餅、菓子、オードブルを並べて儀式の準備を整えた。日が落ちてから叔母と叔父がやってきた。今年のウークイのメンバーは私の娘と妹の息子を加えた7名である。以前は襖を外した6畳の3部屋に20数名の一族が集っていたのであるが、今年は寂しい人数である。2人の叔父が亡くなりそれぞれの家の新しい仏壇に収まった。7人兄弟の私の4人の妹はそれぞれの亭主の実家でこの夜の行事に参加する。兄と弟は家を出て他府県で居を構えており、沖縄の三大祭事に帰郷することもない。市内に住む私が年間の祭事を仕切る役割を担っているのだ。妻も実家の母が病に伏してからは、他府県に暮らす男兄弟に代わって年間の祭事を仕切っている。血族の慣習の価値観が少しずつ変化を始めている。
旧盆のしきたりは、早めにご先祖をお迎えして遅めに送るのが良いとされている。それでも最近では8時ごろにはウークイを済ませる家が多いようだ。参加者の翌日の仕事に差し支えない配慮が生じているのだ。もはや旧盆の15日と翌日が休みの企業などは存在しない時代である。
沖縄独特の平線香に火をつけて参加者に渡す。各自の家庭の繁栄をご先祖に祈る。それを集めて仏壇の香炉に立てて全員で再び祈る。お供えの重箱から豚肉、蒲鉾等数品を取り出ししてご馳走の上に置き「どうぞ召し上がって下さい」と祈る。餅も同じようにする。ウチカビと呼ばれるあの世の銭を金盥の上で燃やしてその灰に酒を掛ける。線香が燃え尽きる前に「ウークイサビラ」と仏前に手を合わせてから線香を取り出して金盥の中に入れる。先ほどの豚肉、蒲鉾、花瓶の花も入れる。その金盥を持って門の外に出て、塀のそばに小石を枕にして線香を置いて皆で祈る。
「お土産のご馳走も沢山持ち帰ってください。来年もお越しください。お待ちしております。足元にお気を付けてお帰り下さい」と祈り、皆で「ウークイ」と声を掛け、金盥の品を線香の上に伏せてご先祖を見送る。
ウークイの後は、皆でご馳走を分け合って食べながら世間話をして過ごすのだ。午後9時過ぎにお開きとなり、残ったご馳走は皆で分け合って持ち帰る。毎年同じ儀式をするのであるが、参加者が少なるたびにお供えの重箱やオードブルの品数が少なくなっていく。何やら一族の勢いが失われていく気がして少し寂しくもある。

タクシーを呼び、叔父たちを門前で送り出して空を見上げた。大気は未だ昼間の猛暑の名残を含んで生温いが、初秋の深い天空の中に満月が浮かんでいる。遠く公民館広場の辺りからエイサーの太鼓と三線の音色が微かに聞こえた。ウークイを終えた青年たちが沖縄独特の盆踊りの形態であるエイサーを踊るために集まり始めたのだろう。青白い光を放つ満月の中のウサギと呼ばれる奇妙な影が私を見下ろしていた。幼い頃に私を悩ませた不思議な影は、変わらずにそこにあった。大人になった私は、いつしか満月を注視することも無く過ごしてきたようだ。会社勤めの頃に毎年繰り返された観月会でも、満月を横目で捉え、グラス片手に乾杯に興じる日々であった。組織を退き久しぶりに注視したこの日の満月は、遠い日々と同じ青白い光を放ち、その中の奇妙な影が私の記憶の深い場所に沈んでいたものを呼び戻した。

(二)
大学1年生の夏休みはアルバイトと読書、それに自宅前の浜辺での投げ釣りで退屈な時間を消費していた。左官業を営む父の下で力仕事のある時だけ格安賃金で働き、それ以外の日は自宅でゴロゴロしているのが日課となっていた。携帯電話もマイカーも無い時代の夏休みは、学友との繋がりが途絶え、さりとて大人の遊びも未だ出来ない青臭い青春を送っていた気がする。
そんなある日の夕暮れが近い午後、屋敷を取り巻くオオハマボウの大木が影を落とす2番座敷で横になり、小梢を抜けて来る涼しい風にあたりながら、暇つぶし五木寛之の小説「青春の門」を読んでいるうちに寝入ってしまった。ふと気が付くと台所から人の話し声が聞こえた。母の弟の武史が祖母を伴って来ているらしい。祖母の甲高い声とひどいドモリの武史の声は、私の昼寝を妨げるには十分であった。私は方言で話す親子の親しい会話に割り込む気にもなれず、眠ったふりをしていた。
「カズは家に居るのかい。学校は夏休みかい」祖母は方言で母に問いかけた。明治生まれの祖母は、小学校を少し通っただけで読み書きが十分でない。日本語を聞くことはできるが話すことにはかなり無理がある。外国人が話す不可解な日本語である。その代り人並み外れた体力と男口調で話す激しい気性は男勝りだ。祖父が早くから病で床に就いており、昨年亡くなった祖父の分まで田畑の手入れする必要があったのも事実だ。
「昨日までお父の下でアルバイトをしていたので疲れて寝ているみたい」
「ダ、ダ、・・大学生は休みが長いみたいだね。小中学校の授業は始まっているけどね」武史がドモリながら言った。
「タケ、慌てないでゆっくりし喋りな」祖母が叱りつける。
「タケ坊はドモリがいつまでも治らないね。30歳にもなって彼女はいないの」
「ドモリが治らないから女に逃げられてばかりさ、この阿保が」祖母は容赦なく息子を叱りつける。
「お母さん、何処かに良い娘がいないかね。武政に相談してみたら。あれはタクシー会社を経営しているから顔が広いでしょう」母の4歳下の弟が8年前に小さなタクシー会社を設立していた。
「ニ、ニ、・・兄さんの会社の従業員は男ばっかりで、女は50過ぎの叔母さんが一人だけだ」
「うん、先ほど武政の家に寄って来たので、妻の正子にこれの嫁のことを頼んできたよ」
「ト、ト、・・年寄りが余計なことをしゃべらないでくれ。みっともないから」
「お前は黙っとけ。この役立たずが」祖母が叱る
「お母さん、この子をあまり叱らないで、ドモリがひどくなるだけだから」
戦後生まれの武史は長女である私の母と15歳も年齢が離れており、共に暮らした期間が短い。それだけに可愛いのかもしれない。
「姉さん、こないだ不思議な事があった」武史がドモルことなく言った。
「またその話かい」祖母がうんざりした声で言った。
「お母さんは黙っていて」母が祖母をたしなめて武史を促した。
「夜中に外に出て小便を済ませると急に足が勝手に歩き出して東江集落の近くまで行ったのだよ。世冨慶川の河口の浅瀬を渡ろうとすると、急にお父さんに呼び止められた。それで気が変わって引き返したのさ。気がついたら家で寝ていた」
「何を言うか、お前が戸を開けて小便に出たのを覚えている。でもすぐに戻って寝たじゃないか。戸も閉めずにな。それに東江までは1里半もあるんだよー。ハハハハハ」祖母は甲高い声で笑った。
「でもね、お母さん。人は夢の中で神がかりに遭って、一瞬にしてひと山超えて戻ってきた話があるじゃない。本当のことかも知れないね」
「お前は子供のころからコウモリの鳴き声や夜の暗がりをひどく怖がる子だったね。時々、神がかったことを言う子だったが、タケに変なことを教えないでよ」
「お父さんがタケを呼び止めなかったら向こうの世界へ渡ったかもしれないね。お父さんに感謝しなければね」
「バカバカしい」祖母が甲高い声で笑った。座の奇妙な緊張感が吹き飛んだ。
「オ、オ、・・お父さんの1周忌の手配を兄さんにお願いしてきた。兄さんから連絡があるはずだから」
「確か来月の15日が命日だったわね。今から準備しなければね」
「おい、おい、タケのバカ話を聞いていて遅くなった。早く帰ってヤギに草を与えねば。遅くなるとヤギが鳴きだして隣家の勝三の奴から苦情が来るから。」
祖母が武史を急かせた。
私は頃合いだと思って目を擦りながら台所へ回って祖母に挨拶をした。
「お婆ちゃんは相変わらず声が大きくて元気だね」
「カズ、元気そうだね。アルバイトを頑張っているみたいね。色が黒くなっているさー」と方言で言った。
「ダ、ダ、・・大学生、勉強しているか」
「ま、適当にね、タケさんも今日は休みですか」
「た、た、た、たまには休まないと体がもたないよ。大学生はいい身分だね」
「カズ、後でタケにカーブチーミカンを持たすから食べてね」
「家の前の庭のカーブチーですか。あの木のミカンは何処の物よりも美味しいね」
「今年も沢山実っているから」
祖母はそう言って武史を急かせてバイクの後ろにまたがり、背中に買い物袋を背負って去っていった。騒々しい祖母とタケさんが帰ると何だか空気が一気に変わったような気がした。私は大きなあくびを一つして母に言った。
「眠りすぎて頭がすっきりしないからちょっと浜を歩いてくる」と言って草履をつっかけて外に出た。門から砂浜まではキビ畑を挟んで100mもない距離だ。夜が更けると浜風に乗って潮騒が聞こえるのだ。
「夕飯に遅れないでよ」母の声を背に庭を横切った。既に夕日は集落の西の外れにある大石の森に迫っていた。私は武史の不思議な話を未だ霧がかかった頭の中で反芻しながら砂浜をしばらく歩いた。波が砂浜に寄せて引くたびに白い泡が残り、泡が消えるときに砂浜はブツブツと何かをつぶやいていた。湿った海風が首筋にまとわりついた。夕日が大石の森の松の大木の後ろに隠れたのを機に引き返した。

埋め立て前の名護湾、浜辺のサバニ、大石の小島(名護市の資料より)
(三)
その日の夜も沖縄特有の熱帯夜が続く寝苦しい夜であった。旭川集落は嘉津宇岳の東の谷間を流れる西屋部川に沿って数軒ずつ民家が点在している。熱帯夜で風が止まるとひどく暑い夜となってしまう。武史はひどく喉の渇きを覚えて目が覚めた。台所に行かずガラス戸を開けて外の水道に向かった。簡易水道は川向こうの山腹の湧水を引いており、いつでも冷たい水が流れているのだ。しばらく水を流して配管の中に溜まったぬるい水を捨て去り、水が新鮮で冷たくなったのを確かめてから腰をかがめて水を飲み、冷たい水で首筋を濡らした。暑さが少し引くと同時に尿意を覚えた。屋敷を出て芋畑の端で立ち小便をしながら空を見上げた。天頂から少し西に傾いて丸い月が輝いていた。小便をしながら昨日の出来事を思い出していた。
武史はプロパンガスを扱う山源商事に勤めていた。プロパンガスのボンベを各家庭に配達する係である。その頃の台所の火器は石油コンロからガスコンロへと変わっていた。住宅事情が未だ十分でなくガスボンベの配達は中々難儀な仕事である。車が横付け出来ない細い路地はボンベをカートに乗せて運ぶのだ。田舎の斜面地に建てられた民家の細い路地の階段は、50kgボンベを担いで登るしか配達の手段はなく、ひたすら脚力の鍛錬でしかなかった。満タンのボンベを供給して空のボンベを担いで帰るときに考えるのは、行と帰りのボンベの重量が逆であればと考えるのが常であった。山源商事はプロパンガスの販売事業では後発の参入である。社長の山入端源蔵は配達の便の悪い辺地の家庭を対象に商売を勧めざるを得なかった。市中の新築の家庭は、大手のガス会社が住宅資金融資の銀行と提携して押さえられていた。
昨日の武史の仕事は近場の配達ばかりで、午後3時過ぎに事務所に戻っていた。年増の事務員と冗談を言いながらコーヒーを飲んでいると、社長の源蔵が突き出た腹をポンポンたたきながら入ってきた。60歳を超えた白髪交じりの短髪で肩幅の広い色黒の男だ。
「タケ、今日は早かったな」
「社長、ボンベ30本の配達なんか片足ケンケンで終わっちゃいますよ」軽いドモリで返事した。
「そうかい、来週は国頭方面を配達してもらうからな」
「全然オーケーですよ」とおどけて答えると
「タケさんは若いわね」と事務員が笑いだした。
「タケ、お前、名護地区体協の駅伝メンバーらしいな。20km区のエースだと昭和スポーツ店の長嶺さんが言っていたぜ」
「社長が長嶺さんの店で買う品物があるのですか。大和相撲の褌の特注とか」
「バカ言え、孫のバスケットシューズを買ったのよ。しかし、お前が長距離選手だとは知らなかったな」
「毎日ガスボンベの配達で鍛えられていますからね。手ぶらのランニングなんてスイスイですよ。」両腕を横に広げてクラゲが泳ぐようにブラブラとフラダンスの真似をした。
「タケ、今日はよほど体力が余っているようだな。名護城址の階段を登ってみるかい」
「社長、名護城址の階段なんて坂道では無いですよ。国頭村安波集落のガスボンベ配達に比べると平地と同じですよ」
「そうかい、それならばうさぎ跳びで登れるかい。一番上の拝所まで登れたら体協のトロフィーの代わりに10ドルの賞金を出そう」
「待ってました。社長」
「タケ、お前が負けたら当分の間、田舎周りだぜ」源蔵の目が笑っていた。
「オーケー、問題ないです」武史は反発するように真顔で答えた。
「カツ、お前はタケの監視役だ。ズルを手伝うとお前も明日から配達組へ配置換えだぜ」
「ヘイ、がんってんです」
「ヘイ、じゃねーよ。標準語を使え。いつまでも大阪訛りを出すな」
「ヘイ」
勝次は大阪で暮らす源蔵の姉の次男である。遊び癖が抜けない末息子を源蔵のもとによこしたのである。口が達者な色男だが体力がなく、ガス器具の販売を担当している。

名護城址は古くから桜の名所として知られている。城址と言うがその名残を留めてはいない。西暦650年、尚巴志が三山を統一して琉球王朝を築いた頃、この地を支配していた小規模豪族の居住地であったらしい。尚巴志に加担して北山城を陥落させたとの記録があるも、多くの住民は知らないだろう。地元の城(ぐすく)集落の祭事の拝所として整備されているのだ。石段の両側に桜が植えられ地元の有志が寄進した石灯籠が並んでいる。最上部の拝所以外にも幾つかの祠が点在しており、県指定の文化財でもある。1月の最後の週末に桜祭りが開催されて町は賑わいを見せる。沖縄県では最も古い桜の名所である。

桜祭りで賑わう名護城址入口の階段
武史はトレパンにTシャツ姿で軽くストレッチをして、振り向いて右手をまっすぐに上げ、源蔵に向かって深くお辞儀をしてからうさぎ跳びで石段を登り始めた。駅伝競技の1区のランナーになったつもりだ。勝負のお目付け役の勝次が5段ほど後ろから付いて行った。源蔵は「上で待っている」と言ってバイクでう回路の管理道路を登って行った。
石段はなだらかな勾配でゆっくりと山肌に沿って曲がりながら登っている。駆け上がりは4インチブロックの厚み程度でところどころ階段でなくスロープとなっている。低い駆け上がりが続く石段は2段跳びで上がることが出来た。
「タケさん。ここからしばらくは歩こうぜ。オジキも見ていないし」
「いや、俺も走って登ったことは何度もあるが、うさぎ跳びで登ったことは無い。一度は試してみたいと思っていたので完走するぜ」
程無く323段の階段を登り切って管理道路に出た。源蔵が煙草をふかして待っていた。鳥居の横のコンクリートの柵に海抜50mと小さな表示板がはめ込まれていた。
「タケ、息が上がっていないな。カツ、お前はちゃんと監視したか。途中で歩いたのではないだろうな」
「社長、タケさんの馬力にはあきれましたよ。おいらがくたびれちゃったよ」
武史は膝関節を伸ばすストレッチを繰り返し、次の急勾配の階段上りに備えていた。
「タケ、半分の5ドル出すからここで引き分けしようぜ。お前が途中でくたばって明日からの仕事を休むと困るからな」
「俺は大丈夫です」
「タケさんもうひと踏ん張りお願いします。さっきの話通り10ドル稼いで東屋食堂の2階でビールを飲もうよ」
「俺が難儀してお前が飲むのかい」
「俺だって、あんたの応援係だし、号令もかけているぜ。イチ、ニ、イチ、ニとさ」
武史は思わず笑いだした。未だ体内にはエネルギーが十分に充填されているし、何度か駆け上った経験から階段の数は前半より少ないことを知っていた。見上げると拝所の鳥居と赤瓦の屋根が見えた。武史は再びうさぎ跳びで登り始めた。
「オーケー、上で待っている」源蔵は二人が20段ほど登るのを見てからバイクのスターター・クランンクをキックした。

急こう配の階段は駆け上がりが6インチブロックの厚みより少し高くなっている。武史は登り始めて気付いた。前半の階段は段数こそ多いが勾配が緩く平地の運動とあまり変わらない。しかし後半の急勾配は得意の有酸素運動では無く、短距離走の筋力を必要とした。少しずつ呼吸が乱れ始めた。カンヒザクラは既に休眠期に入り、夏の落葉を済ませていた。8月の午後4時過ぎの日差しは衰えを知らず、武史の左頬と後頭部を容赦なく焦がしていた。武史の心臓と肺はフル稼働で下半身の筋肉に血液を送り続けた。しかし酸素補給が不十分となって目の前を昼間の蛍が飛び始めた。階段は60段毎に緩い勾配の平場があり、3枚の平場は6畳、4畳、2畳と上にいくにつれて狭くなっていた。武史は平場で小さなジャンプを繰り返して呼吸を整えた。それでも最後の平場にたどり着いた時には膝関節と心臓が悲鳴を上げてギブアップする寸前になっていた。

武史は呼吸を整えるためジャンプを止めて階段の上部に目をやった。残り7段である。源蔵が鳥居にもたれてこちらを見ていた。武史は大きく息を吸い込んで一気に階段を駆け上がった。そして最後のジャンプを終えると勢い余って両手を前に突き出して石畳の上に手を付き反転して尻もちをついた。立ち上がると源蔵の顔があった。源蔵の目は悲しげに武史を見ているように思えた。その眼は決して武史のうさぎ跳びの結果に対する感嘆の思いを含んではいなかった。武史の脚力は驚嘆に値するのであったが、親子ほども年長で組織の長である源蔵の目には、武史が既に若者の特権である無尽蔵のエネルギーを失い始めているのが見て取れた。武史は振り返り階段を喘ぎながら登って来る勝次を見た。その向こうに夏の日を浴びて輝く名護湾と、白い帆を掛けて港に向かうサバニが一艘だけ見えた。「カツ兄ちゃん遅いぜ」と声を掛けようとしたが、乾いた喉からは声が出なかった。意識に体の疲労がついていけないのを知った。「ひゅっ」小さく息を吐き、源蔵から少し離れて屈伸運動を繰り返した。自分の疲れを源蔵に悟られまいとしたのだ。しかし、源蔵は既に武史から視線を外して嘉津宇岳のなだらかな稜線を見ていた。稜線が海になだれ込む手前に若い女の乳房にも似た小さな安和岳があった。あの山の麓に源蔵の村があったのだ。敗戦後に建設された広大な嘉手納米軍基地は、工事に必要なコンクリートやアスファルトの骨材として琉球石灰岩を採取した。米資本によるセメント工場の建設は琉球石灰岩の採掘を加速した。村は巨大な採石場と化して消滅した。海岸から陸地に向かって広がる採石場の無残なアバタの中に源蔵の家があったはずだ。敗戦の痛みも癒えぬ間に先祖伝来の故郷を失った。源蔵は悲しくはなかった。只、奇妙な人生の変化に戸惑っただけだ。故郷の消滅の代償で得た立ち退き代金を元に今の商売を立ち上げた。人は生きていると幾多の予期せぬ変化に出会う。それをトラブルとみるか新しい展開の始まりと見るかで人生観が変わる。変化を自分の裁量で切り開くだけだ。今日の自分の立ち位置を明日も保てるか誰も知らない。人は時と共に変化するものだ。源蔵は武史の中にそれを見たのかもしれない。変わらずにあるのは採石場の先に広がる東シナ海の深い蒼さだけだ。源蔵は西日を浴びながらぼんやりと丸みを帯びた水平線を眺めていた。


勝次が鳥居の前にたどり着くと源蔵が言った。
「タケ、お前の勝ちだ。降りようぜ」自虐的な笑い声で言ってバイクにまたがった。
三人は管理道路をゆっくりと歩いて登り口に向かった。下りの階段は疲労が溜まった膝関節に堪えるのである。クスの大木が作る木陰が心地良かった。三名は何も話すことなく下って行った。
入口の鳥居の前で3名の仕事仲間が待っていた。勝次が親指を立てて合図すると、仲間たちが指笛と拍手で迎えてくれた。
「タケさんの完走を記念して乾杯と行こうぜ。社長のおごりだ。東屋食堂へレッツ・ゴー」勝次が仲間に呼びかけた。
「分った、分った。俺の負けだ。今日は夏の慰労会としよう。お前ら先に行って始めておけ。俺は事務所を閉めてから戻って来る」
武史は久しぶりに聞く仲間からの称賛の声に舞い上がり、何杯もジョッキを空けた。そして何時に帰宅したかも覚えていなかった。
(四)
武史は小便を済ませ、軽く身震いをして再び空を見上げた。月が青く不思議な光を放っており、丸い器の中のウサギに似た影が揺れて見えた。自分の体の深部で何かが騒ぎ出すのが解った。家の中からボーンと柱時計の音が1回だけ聞こえた。その音が長距離走の合図のように聞こえた。足が勝手に動き出した。母がトマトかエンドウ豆の支柱に使うつもりで束ねてあった1m程の竹を一本抜き取るとひょいと肩に置き、ゴム草履のままゆっくりと、谷間の川に沿って続く県道を川下に向かって歩き始めた。県道112号、屋部・仲宗根線は未だアスファルト舗装が施されておらず、琉球石灰岩を敷き詰めた道路は、月の光を浴びて暗闇に白く浮いていた。西屋部川は本流の屋部川に比べて水量は少ないが急流となっており、小さな段差を繰り返す砂防ダムは暗闇の中で騒々しく水しぶきを放っていた。川向の馬小屋からブルン、ブルンという息吹が聞こえた。敏感な馬の聴力が武史の足音に驚いたのだろう。道路脇の急斜面は時折月光を遮り、道路を闇の中に引きずり込んでいた。武史は無意識にハブを警戒して竹の杖で地面を軽く叩きながら前方に見える月の光を浴びた白い道路を目指して進んだ。暗闇の中で梟がコウホー、コウホーと鳴いた。武史は何も考えずにただ足を運んでいるだけだった。田イモ畑の横を通るとウシガエルがモー、モーと重低音で合図してきた。空を見上げたが雨雲の気配はない。今夜はウシガエルも暑くて一雨欲しくくて雨乞いの祈りをしているのかもしれない。

谷間を抜けると視界が開けた。この先が屋部集落である。海に面した集落の東を屋部川が流れ、西の谷間から流れてきた西屋部川が河口で合流している。県道を左に曲がって勝見橋を渡った。フクギの屋敷林で囲まれた集落は、月明かりの中で一つの森に見えた。集落の中に進むとフクギは月明かりを完全に遮断して真っ暗である。只100mほど先の交差点の地面が月明かりで奇妙に白く浮かびあっているだけだ。武史はそこを目指して歩いた。久護家の前を通ると誰かに呼び止められた気がして立ち止まった。王府の時代に栄えた旧家で、この辺りを仕切っていた豪族である。現在は縁者が途絶えてしまい、県指定の歴史的木造家屋を集落で管理している。赤瓦の上をコウモリが小さな羽音を立てて横切った。フクギの実が地面にポトンと音を立てて落ち、足元に転がってきた。コウモリの食べ残しだろう。武史はフクギのトンネルの向こうに見える明かりに向かって歩いた。

トンネルを抜けると屋部川の川べりの道路に出た。対岸まで100m程の距離があり、河口が近い。メヒルギの群生した近くに開閉式の水門の残骸が残っており、河口に向かって開いていた。屋部小学校の横を歩いて屋部橋のたもとに出た。右前方にトワヤの物見塔が見えた。橋のたもとの護岸は王府時代の山原船の船着き場の名残だ。久護家の支配のもとに年貢米や薪燃料が泊の港に運ばれたらしい。トワヤは船の出入りを見守る遠見台であった。船着き場のあった石組みの隣の広場には、白塗りのカトリック教会が静かに鎮座している。敗戦後の米国による占領政策の中でキリスト教が急速に布教された。「隣人に愛を、富める者は貧しきものに分け与えよ」と、唱える神の言葉は、敗戦で深く傷ついた住民の心を捉えたに違いない。実際、米軍関係者は教会を通した物資の配給を頻繁に行っていた。この地域には住職の住む寺よりキリスト教会の数がはるかに多い。この地のキリスト教は祖先崇拝の慣習を排除しない。その寛容さが地域に浸透した原因のひとつかも知れない。あるいは、イエスは天地自然の神々の頂点に位置する存在であるとの理念かも知れない。もっとも、部外者が様々な宗教の神々を推察することは不謹慎の誹りを免れない。

県道117号、城・渡久地線に架かった屋部橋を渡り、宇茂佐公民館の横から砂浜に降りた。潮の香りが濃くなった。平らで穏やかな海を挟んで遠くに恩納岳の山並みがなだらかに右勾配で続いていた。潮が引いて広くなった砂浜が月の光で輝いていた。武史はグンバイヒルガオに足を取られながら砂浜を水辺に向かって降りて行った。塩水を含んだ砂浜は硬く締まって歩きやすかった。天頂から少し西に傾いた月を背に東に向かって歩き始めた。北部農林高校グランド横を通ると左からの風が吹き抜けた。風向きは既に昼間の海風から夜の陸風に変わっていた。ツキイゲの穂が陸風に乗って転がってきてくるぶしに当たった。微かな痛みと痒みを覚えた。目を凝らすと時折陸地から転がって来る。足元に目をやると不意の侵入者の足音に驚いたツノメガニが高速で走り去っていく。

気が付くと目の前に大石の離れ島が黒い海面に浮かび上がっていた。50m先の島の間を海水が小さな音を立てて流れていた。20m四方に満たない小島の岩礁は琉球石灰岩からなり、潮の干満と波浪によって基部が浸食されてキノコ状になっている。岩礁の上部は風化して砕砂が溜まって海浜植物が生えている。突然、女神の乱れ髪に似た草木を風が強く揺らした。この岩礁には海中から上部に向かって大きな亀裂が走っており、浅い洞窟にドブリ、ドブリと海水が出入りしていた。暗く湿った洞窟は女性の陰部にも似た禍々しさを備えていた。武史は立ち止まってしばらく眺めていたが心を揺らすものは無かった。
大石の離れ島から少し離れてタッチュー石が意味ありげに海面からそびえ立っている。この石は海水に浸食されることなくまっすぐに10mほど切り立っている。琉球石灰岩とは異なる硬い岩石であろう。まるで大石の女陰の洞窟と対比する男根にも似ていた。この辺りは満潮時に海水が入り込み、砂浜が途切れて歩けない場所だ。干潮で干上がった海底の上を歩いて渡り、再び砂浜に出た。
夜の海上に点々と漁り火が見える。海上をゆっくりと漂っている。夏の夜の海は干潮が弱く、温んだ浅い海中に獲物の姿は少ない。漁りは冬の厳寒の新月の晩が適している。それ故夏の夜に漁りをする者はいない。海上に漂っているのは狐火である。武史はそのかがり火に心動かすことも無く歩みを進めた。20kmレースの時に起こるランニングハイにも似た感覚である。ただひたすら砂浜に足跡を刻んだ。やがて左手にこんもりとした森が現れた。宮里集落の「前の宮ハスノハギリ群落」である。幹回り10m、樹冠と樹高が20mの巨木が十数本生えている。女人禁制の拝所だ。この森の向こう側に姉さんの家があるはずだと考えながら歩いた。武史は振り返ることなく何かに憑かれたように歩いた。

やがて砂浜にサバニの並んだ場所に出た。漁民の住む集落の船置き場だ。サバニを係留する桟橋は無く、漁を終えたサバニは砂浜に引き上げて保管するのだ。木製のサバニを海上に係留して保管することは少ない。サバニの横を通ると嫌な臭いがした。サメの肝油を船体に塗ってあるのだ。船の防腐剤であろうか。
この海岸がイルカ狩りを行う場所である。コビレゴンドウクジラを浅瀬に追い込んで捕獲するのである。ピートゥドオーイ(イルカが来たぞー)との声が集落に響くと漁民だけでなく周辺の集落のにわか漁民も船を出した狩りに参加するのだ。義兄を手伝って一度だけ参加したことがある。クジラを浜に引き上げるロープを引く等、少しでも漁を手伝うと肉の一部が貰えるのだ。小さなクジラとは言え1,500kgはあるのだ。肉は幾らでもある。100m四方の海が赤く染まる。人々は血の海を見て心を震わすのだ。狩りに参加する者は白装束である。黒い衣装だとクジラと間違えて銛を撃ち込まれる危険性があるのだ。赤い血の海にクジラがのたうち回り、狩り人が銛を撃ち込みロープをかけて砂浜に引き上げるのだ。黒いクジラが大鉈で切り分けられ、赤い肉が血に染まった砂浜の波打ち際に並ぶ。狩り人も砂浜で肉を求めて待っている人々も、殺戮の光景に興奮の奇声をあげて目の色を変えるのだ。

イルカ狩り1980年頃まで行われた。(名護市の資料より)
クジラの肉は食料の乏しい時代の安価で貴重な蛋白源であった。油身は鍋で溶かしててんぷら油として使われた。武史は月の光にざわめく海面にイルカが断末魔の潮を吹きながら浮き沈みする姿を見た。
港橋を渡るとクジラ工場の前に出た。工場の前には専用の桟橋が長いスロープを伴って伸びていた。20トンクラスの小型捕鯨船で仕留めたザトウクジラを引き挙げるスロープだ。工場ではクジラを解体冷凍保存して肉をブロックで販売している。解体は思わず見とれてしまう程壮観である。牛の20倍もの大きさの肉の塊が分別されるのだ。ヒートゥと呼ばれるコビレゴンドウクジラはイルカの仲間で臭気の強い肉であるが、ザトウクジラは臭みが無く本当に美味い。

桟橋のスロープを引き上げるザトウクジラと見物人
クジラ工場の前を抜けると製材所の前に出た。山から切り出した松材を使ってホークリフト専用の盤木を作っているのだ。サメ肝油の後で嗅ぐ木の香りが鼻腔を刺激して穏やかな気持ちにした。只、武史の足は相変わらず何かに憑かれたように歩みを止めず再び砂浜に降りてさらに進んだ。しばらく進むと町はずれに出て世冨慶川が行く手を遮った。川の水量が少なく干潮時に河口の浅瀬を渡るのは容易い。武史は立ち止まって向こう岸を見た。世冨慶集落の墓地が海岸沿いの崖下に並んでいた。満月の光は墓地を明るく浮き上がらせていた。武史の目には見知らぬ新しい集落の広がりに映り、彼の来訪を待っている気がした。乾いた砂浜に腰を下ろしてズボンの裾をまくり上げた。そして川の水が海に流れ込む浅瀬に向かって歩き出した。川の水がチャリ、チャリと楽しげに何かのリズムを奏でて海に飲み込まれていた。武史はもう一度ズボンの裾を手で引き上げるために腰をかがめた。その時、背中に誰かの気配を感じて振り返った。誰かが月を背にして護岸の上に立っていた。顔は見えぬが見覚えのある懐かしい影だ。
「タケ、お前は一人で何処に行くつもりか。そこはお前の行くところではない。行ってはならぬ」方言で話しかける父の声だ。聞き覚えのある腹に響く太くて低い声である。
「ウー、ワカイビタン(ハイ、分かりました)」
何故か深く頭を垂れて丁寧に返事をした。そしてやおら顔を上げるとそこに父はおらず、青い光を放つ満月があるだけだった。
武史は月を背に砂浜に腰を下ろして両手で顔を覆った。俺は何をしているのだろう。亡き父に呼び止められなかったらどこまで行くつもりであったのだろうか。只やみくもに進んでもその先には何もないことが解る齢になっていたはずだ。
中学を卒業してから昨日まで、若いエネルギーに頼って人混みの中を走り抜けた。何度も仕事を替え、女友達を替え、周りの誰かの生きざまを肯定出来ずに生きてきた。過ぎ去った時間の中で、自分の手の中に残った確かな物は何ひとつもない気がした。自分は変わるべき人生の節目に来ている。自分が好むと好まずにそれはやってくるのだ。既に別れた女のこと、今の仕事のこと、走ることの意味さえも失い始めている。武史は人生の潮目がはっきりと変わり始めたことを悟った。若さだけで駆け上がった峠の先にも次なる峠の坂が続くだけだった。自分の望む物は見つからなかった。若さを失いつつある中で得たのは、自分が誰かの下で同僚と歩調を合わせて働けるタイプの人間ではないという確信だけだった。自らの選択で新しい道を歩まねばと思った。蓄えた金で兄貴の会社のタクシーの権利を買って一人親方になるのも良いだろう。母の手におえず荒れてしまった裏山の畑を耕し、パインとミカンを植えて大地からの恵みを得るのも良い。地に足をつけて穏やかに確実に自分の力だけで歩ける道を探そうと思った。
武史は立ち上がって防波堤を駆けあがった。砂浜を離れて城十字路から県道117号線の住宅街を駆け足に近い急ぎ足で進んだ。そして嘉津宇岳入口を右折して西屋部川に沿って続く県道112号を北上した。ほどなく旭川集落の最初の民間が見えた。夜明けには未だ間があるというに、近くの家で鳴き声を競う鶏のチャーンが甲高く、そして長い尾を引きながらひと声鳴いた。月は天頂からかなり西に傾いていた。仕事が終わってから毎日のように20kmを駆ける長距離走の練習に比べると、3里の歩行は何らの疲れも残らなかった。武史は何事もなく部屋に戻って寝た。
朝になって母が言った。
「タケ、酒もたいがいにしなさいよ。昨日は酔って帰ってきて夕飯も食べずに寝たよ。おまけに夜中に起きて外で小便をして、戸を閉めずに寝ただろう。わたしは蚊に刺されて睡眠不足だよ。お父さんが生きていたら何と言うかね」
武史は黙って外に洗面に出た。
「このアホ、さっさと朝飯をたべて会社に行きなさい」母の声が後ろから飛んできた。
母がいつものようにまくしたてるのを聞くと昨夜の出来事は夢であったのだと思った。昨晩水を飲んだ水道で顔を洗うと水しぶきがズボンの裾に跳ねた。首にかけたタオルで裾を払った。裾の折り返しから海砂がはじけ飛んだ。裾に乾いた白い塩の帯がぐるりと巻いていて微かに潮の匂いがした。立ち上がって背伸びをすると庭のミカンの梢を通して朝日が目を射した。武史は手をかざして指の間から川向の山を見上げた。見慣れたはずの朝の景色が僅かに異なって見えた。武史は人生の潮目が確実に変わり始めたのに気付いた。