右手に棍棒を持った男

 

『右手に棍棒を持った男』

    (1)

嘉津宇岳

九月は最後の週になっても未だ秋の気配はなかった。カズは温室内のベンチの上に並べられたカクチョウランの鉢植えの草取りしていた。老眼鏡をかけてピンセットと指先でカタバミや名も知らぬ外来種の雑草を抜き取るのは退屈な作業である。この外来雑草は3cm足らずで種を着け、灌水で茎葉が揺れるだけで種子がはじけ飛ぶのだ。カタバミも放置すると鉢の中でクモの巣状に茎を張り巡らせる。可愛い黄色の花が咲きやがてオクラのミニタイプの莢から1m四方に種を弾き飛ばすのだ。温室のベンチの上の鉢物とて屋外の畑と同じで雑草の尽きることは無い。昔も今も雑草と争わずに成果を上げる農法など無いのだ。人間社会とて同じことだ。春の南風に吹かれて砂浜で居心地の良い昼寝をしているうちに潮目が変わり、見知らぬ風景の中に取り残されてしまうのだ。見知ら者どもが何処らかともなくやって来て、ところかまわず居座ってしまい、聞き覚えの無い言語で話し、歌い、先人の居場所を占拠しているのだ。カズの指先は草の汁で緑色に染まっている。首にかけた手ぬぐいで顔の汗を拭い、手にしたピンセットを見て思わず頬の筋肉が緩んだ。三重県に住む蘭愛好家の戸田さんからのプレゼントである。彼は三重大学医学部附属病院に医療器具を納める会社の会長らしい。経営は息子に任せて気ままに国内外の旅とラン栽培を楽しんでいるようだ。数年前に台北の高速道路高架橋下の建国花市場で植物を物色していると初老の日本人夫婦から声を掛けられた。台北の友人陳先生と日本語と英語を混ぜた会話をしているのを見て声を掛けたのだろう。市場の一角の茶店でウーロン茶と蒸し菓子で雑談して以来の交友だ。カズの娘が三重大学の社会学部に在籍していたことも話題となり親近感が湧いたのだろう。名刺を交換した後で草取りに使ってくださいと、ピンセットを郵送してくれたのだ。ピンセットは長短の二本セットで、袋には『血液を丁寧に洗い落として熱処理乾燥して下さい』との注意書きが書かれていた。製造元:パキスタンとなっていた。パキスタンの山岳部の村では鍛冶屋が多く、ソビエト製の銃カラシニコフの密造が大戦後から盛んに行われており、アフガニスタンのテロリスト、中国人の武器商人の手でミャンマー、ラオス、カンボジア等の内戦ゲリラに供給されていた。やがてインド洋から吹き上げて来るサイクロンの風雨は硝煙の臭いの漂う村々を清浄化し、蓄積された金属加工の技術が現在では医療器具の生産へと転換されているようだ。しかしながらサイクロンは血の臭いを完全に洗い流すことは出来ず、人間の血に関わる技術が下地となって受け継がれているのかも知れない。このピンセットは確かに医療用だけあって先端の上下の筋がピッタリとかみ合うのだ。カタバミのごぼうのような細長い根茎でもしっかりと摘み取ることが出来る。この医療用ピンセットが私の仕事ではありませんと異議申し立てをしているかも知れない。俳優の藤木三郎に似た顔と穏やかな物腰、そしてピンセットの説明書を思い出して笑いがこみ上げたのだ。氷水を入れた水筒の水は既に温くなっていたが一気に飲み干した。宮里集落の広報マイクから5時を告げるムーンリバーのメロディーが流れて来た。カズは服に着いた雑草の切れ端と土塊を手ぬぐいでポンポンと払い、ピンセットを腰のハサミケースの中に差し込み草取りを終えることにした。急いで片付けねばならぬ作業ではない。早期定年退職後に趣味で始めたラン栽培に急ぐことなど無いのだ。冷えた地下水をランの鉢物全体に葉水して温室内の湿度を保つとこの日の作業が終わった。

ハウスにカギを掛けていると農場のすぐ横の国道58号をパトカーがサイレンを鳴らして走り抜けた。直ぐに救急車がその後を追いかけるように走り抜けた。カズのランハウスの裏側の敷地の端から10mも離れずに国道58号が南北に走っている。南は名護湾に沿って沖縄本島の西海岸を那覇まで続き、北は国頭村の北端の辺戸岬が終点だ。緊急車両の通過は頻繁で珍しいことでは無い。直ぐ近くの交差点から東に2km先の県立北部病院、西に2km先の北部医師会病院が救急診療を受け付けているのだ。金武町以北から本部半島、国頭地区までの消防署が所轄である。カズは単純作業で緩んだ体を目覚めさせるために、裏庭の巻き藁を少し突いてからシャワーを浴びて冷たいビールを飲もうと思った。気持ちは既に国道58号を左折して次の信号機の角にあるコンビニエンスストア・ローソンに向かっていた。

国道58号を左折して国道449号に入ってから片側2車線の道路の通行車両がピタリと進行を止めた。500m先のローソンまでは左折できる支線が無い。信号機のある十字路で混雑はバラけるだろと諦めた。前の車はレンタカーだ。この10年でレンタカーが増えて来た。行く先は海洋博公園だろうか、順調に走れば水族館の開園時間内に到着できるだろう。この辺りは水田跡地で地盤が緩いのか大きな建築物が無く、ほとんどが一般住宅で3階建て程度賃貸アパートが点在するだけだ。遥か彼方に嘉津宇岳の尾根が見える。ローソンのブルーのストライプの屋根の右側にこんもりとした緑の小さな丘が見える。辺りにまとまった緑地はない。墓地公園の一角にあるプーミチャと呼ばれる古い拝所だ。交通渋滞はその先まで続いており、先ほどの緊急車両が事故処理に関わっているのだろう。諦めてカーラジオのスイッチを入れるとFM本部の懐メロ演歌が流れてきた。古い曲は突然にカズを遠い記憶の中に引きずり込んだ。

この辺りの平地は東に宜野座岳、名護岳、多野宇岳、與那覇岳と続く沖縄本島を南北に走る山並みと沖縄本島の中央部にコブの様にくっ付いた本部半島の嘉津宇岳、八重岳との間に出来た扇状地である。両方の尾根から流れ込む水脈からなる屋部川が平地を横切っていた。屋部川は東と西の山系からの水の通り道と言うより入り江が隆起によって生じた溝に近いものであった。5km先の上流までも海抜1m地帯であり、国道沿いの津波警戒表示の黄色い看板に海抜1mと表示されている。カズは遠い日に旅したマダカスカル南部のベレンティ自然保護区の湿地帯、マレーシア西岸のPeral Riverの湿地帯のマングローブ地帯を思い出していた。屋部川河口には古島原貝塚と前田原貝塚があり、その頃は水田耕作とは程遠いメヒルギ、オヒルギの生い茂るマングローブの林が2km先まで広がっていたのだろう。やがて何処からか人間が現れて耕作を始めて、マングローブの林は水田地帯に変化し、集まった住民は集落を形成し、それぞれの住民気質を持っていった。この地に出来た集落は、屋部川の東が宮里集落の所有地で西側が屋部集落の所有地だ。集落間の距離はかっての湿地帯を挟んで直線で2kmも離れていない。農業で暮らしを立てていた頃の耕作地の面積は宮里区が圧倒的に広い。王府時代の年貢の査定基準は宮里区が第2等級で屋部区は第4等級の評価であったと古文書に記載されている。屋部川を挟んで両村の村人の気質も異なっている。屋部乱暴(ランボウ―)、宮里糠割(ヌカワイ)と互いに皮肉を込めて呼び合っていた。乱暴者とケチな者とさげすむ意識があり、村同士の中は好いとは言えない。ハ行の発音を宮里地域の人々はぱぴぷぺぽと発声するのである。宮里の村人がケチであるとの評価は知らないが、屋部村の人々の言葉使いは今でも荒いと言えるだろう。口を開けばワシらがワシらのと高飛車に切り出すのが特徴だ。

カズのハウスの登記簿上の地番は宮里ヒルギ原1,530番である。人の手の入らない時代はメヒルギ、オヒルギの繁ったマンローブと呼ばれる湿地帯であった名残だ。カズの一族とては400年前の琉球王統時代に首里王府からやって来た役人であると本家の叔父から聞いている。この地に流れ着いたよそ者の一塊である。遥か昔の宮里集落は屋部川沿いの上流にあり、湊と呼ばれていた。それが幾つかの時代を経るにつれて海岸の砂地に移り住むようになった。地名も湊(ナント)が訛って宮里(ナーザトゥ)と変わったのだと宮里集落誌に解説されている。湿地帯は王府時代に水田へと開拓整備された。屋部集落民よりも穏やかな性格をしているのは豊かな農地に恵まれていたことにも起因しているのであろう。

第二次世界大戦は鉄の暴風となって村々を焼き払い、人々の住環境を一変させたが、食糧事情の悪化を回復するために農地はたちまち豊かな緑地に再生された。プーミチャの周りは豊かな水田地帯となって行ったのである。しかし、農地は所詮人間の浅はかな知恵の延長線上にあるだけで天然の自然林程の安定性を備えてはいない。1962年ソビエトとアメリカ大統領ケネディが引き起こしたキューバ危機は、世界一の砂糖生産国からの砂糖の輸出規制を伴って砂糖価格の高騰を招いた。屋部川に沿って広がった水田地帯は一気にサトウキビ畑に変身した。稲は水を必要とするがサトウキビはほとんど水を使わない。雨水で十分すぎるのだ。サトウキビは稲作に比べると多くの人力を必要としない。収穫期だけに労働力が集中するのだ。専業農家が減少してサトウキビの収穫期だけの兼業農家に変化していった。産業構造が少しずつ変化して耕作放棄地が出始め頃の1972年に沖縄は日本に返還された。日本国の国家プロジェクトは沖縄に大きな変化をもたらした。県道1号線は国道58号線に変わり、那覇から国頭村辺戸岬までと規定された。国道58号の整備は名護湾岸道路からヒルギ原を通過して本部半島を横断した。カズが幼い頃から耕してきた田畑は国道に買収され、いびつな三角形の小さな残地が残った。そして本部半島の名護湾に面した石灰岩地帯に出来た採石場とセメント工場は建設ラッシュの中でフル稼働した。建設資材を中南部に運ぶ県管轄の産業道路の利便性を図るためにプーミチャの横から58号線へとつながる国道449号へと昇格して片側2車線の道路に整備された。穏やかな農村風景が急速に変化して行った。王府時代以前は湊と呼ばれマーラン船が停泊した屋部川の中流域は住宅開発で土砂が堆積して川底が見える水量となってしまった。河口部は古い時代にイルカが迷い込むほどの深さがあり、稲作の盛んな頃には海水の遡上を防ぐ水門を備えていたが、既に姿を消してしまい、もはや地域の老人の微かな記憶の中に留まるだけである。「人心は天地に同じ、日月は血脈に似たり」と拳法の八句に記されているが、次の天変地異が起きて人間の悪しき知恵の跡を払拭しても人間という生き物は、再び悪しき縄張りの獲得に奔走するのであろうか。

昭和20年4月頃の水門、水田がサトウキビ畑に変わり、都市化が進み土砂の流入が増えた昭和40年頃に機能不全となって解体撤去された。

カズは渋滞の中でプーミチャの森を見ているとこの辺りが田園風景であった頃本家の爺様のお供でお参りをしたのを思い出した。ハサマ一族では7年毎に中南部にある一族のゆかりの地を訪問して祈願をするのであるが、プーミチャを祈願した記憶は1度だけだ。風葬墓は岩山の一角にあり、遥か昔に波に削られて軒状に突き出た石灰岩の奥に石垣で囲って人骨が葬られていた。子供が覗き込める高さの石垣であり、人骨を見たのは初めてであった。頭蓋骨やその他の骨が雑多に混ざった状態に怖さはなく、奇妙な感覚があったのを覚えている。この骨の多くは日米大戦前の遥か前の、王府時代の三山統一時代の戦いで死んだ無名武士の亡骸と言われている。カズの遺伝子の一片がその無秩序に散乱する骨の中に存在していたのかも知れない。

整備された拝所プウミチャ

空手道場仲間のシゲさんの一族である屋部一大門は5年毎に牛を屠って祭ったと言う。今は墓地公園となった一角に写真入りの説明板が立っている。シゲさんによると暗い夜明け前に牛小屋に繋がれた牛の眉間に大ハンマーを打ち込んで殺すのであるが、打ち損じると牛が暴れて大騒ぎになることもあったと話していた。今日では屠畜衛生法に規制されてしまい行われていないようだ。ほんの少し前まで正月には豚を屠り、新築祝いにヤギを屠ってその肉料理で隣人をもてなすという風習は風化しつつある。ヤギ汁、豚汁、牛汁は専門業者に依頼して鍋ごと届けてもらう方法が未だ残っている。仲間で家畜を殺して調理する中で親睦を深める時間を共有する風習は消えてしまった。宮里集落から屋部にかけての水田地帯は地球本体の大地が定期的に引き起こす何回目かの潮の干満の中で、大戦後の満潮によって海中に埋もれてしまい、プーミチャの森だけが取り残された小さな岩場であるようにも見えた。人は人生という名の旅路の途中で誰かに出会い、立ち話をして別れていく。再び歩き出そうとすると辺りの景色が変わっていることに気付くのだ。振り返ると過去が川向こうに見え隠れしてしまい、後戻りは出来ない。誰もが過去をそれぞれの思い出として飾り付けて前に進むしかないのだ。例え歩みが蟹の横ばいであってもだ。立ち止まれば過去に飲み込まれてしまうことを無意識に理解しているからだろう。

救急車が449号線をカズの進行方向と反対側にサイレンを鳴らして通り過ぎて行った。県立北部病院に向かっているのであろう。カズは眠りから覚めたように前を見た。混雑が解除されて車がゆっくりと動き出した。FM本部は懐メロから6時のニュースに変わっていた。日差しが少し傾き眩しくなっていた。カズはフロントの遮光パネルを倒し、ダッシュボードからサングラスを取り出した。太陽は未だ嘉津宇岳の山頂に寄り添うのを嫌がるように強い熱波をまき散らしていた。一度動き出した車はゆっくりと加速して信号機の前で停車した。いつの間にか赤信号の向こう側は渋滞車両が無くなっていた。カズは信号機が青に変わるとブレーキペダルを押さえていた足をアクセルペダルに移して車を発進して信号機をゆっくりと抜けてローソンの駐車場に車を停めた。車の庇から缶ビールを入れる小さな買い物袋を取り出して車を降りた。

ローソンの入り口に向かって歩き出すと黒いかりゆしウェアの喪服を着た男が出て来た。ローソンのレジ袋に360㎖の6パック入り缶ビールが入っている。

髪を短く刈り込み、日に焼けた浅黒い顔、右のこめかみから顎にかけて細長い傷跡があり、口元にも僅かに傷跡が残っている。160cm程の背丈で背筋をピンと伸ばした無駄のない歩き方をする男だ。カズは立ち止まって男が気付くのを待った。顔見知りでも喪服姿の訳ありの男に気軽に声を掛けるのは気が引けるものだ。男がこちらを見たので声を掛けた。

「シゲさんどうしたんですか喪服なんか着けて。今朝は屋部村の公民館からの告別式案内放送は無かったけどな。それに今朝の新聞の告別式案内欄には葬儀御礼だけしかなかったけど」

「いや、告別式への参列ではなく法事だよ。村の有志代表で沖縄市まで出かけたのさ」

「そうですか。この暑い中難儀しましたね」

「いや、ほんとまいったヨ。寺にはクーラーがなく、おまけに市中の寺は風通しが悪いので熱気ムンムンだった」

「沖縄の法事は線香の煙だけでなくウチカビを燃やすので他府県の人は火事場みたいに見えるらしいぜ」

「そうだろうな。俺の村も年寄りが増えて彼らの代役を引き受けずにおれないのさ」

「沖縄県支指定の伝統芸能『8月の十五夜踊り』の舞踊の師匠の役割だけでは治まらないみたいですね」

「いつの間にか俺が世話役を務める立場になってしまって雑用が増えるばかりだよ。農業従事者を暇人と思っているのかな。全く困ったものだよ」

「人の為に働くとそのうち良いことがまとまってやって来るさ」

「そうあって欲しいね」

「シゲさん一人で行かせるなんて村の長老たちも人情が無いね。運転手の交代要員一人ぐらい同伴させればよいものだが。困った老人共だね」

「まあ、チョットした事情があって香典だけを俺に預けたのさ」

「何だよ、香典だけを預ける理由なんて。シゲさんの屋部村は、言葉使いは荒いが人情の深い村と聞いているぜ」

シゲさんはポケットから煙草を取り出して火をつけ、煙を長く吐き出してから言った。

「ほれ、先週の黒帯会で、昔、俺の村に片腕の乱暴者がいた話をしただろう」

「ああ、清吉さんとかいう右手首から先の無いえらく腕っぷしの強い荒くれ男がいて、シゲさんの悪たれガキ仲間と張りあっていたらしいね」

「今日の13年目の法事は清吉さんの法事だったのさ。今でも悪評が消えていなくてな、それで俺が区長の依頼で33年忌の繰り上げ法要に出かけたわけよ。まあ、血縁は無いが俺の義兄の遠縁でもあるのさ」

「13年たっても悪たれの素行を忘れずですか。それでは尚更疲れるね」

「カズさん、生前の素行の悪さは後々まで響くぜ。お互い気をつけねばな」

「尤もだな、短気は損気だな、俺も気を付けねばな」

「喪服を着ての立ち話もカッコ悪いから帰るぜ。今週は道場を休むよ。このところ色々な雑用が多くてゴーヤーの作付けが遅れているのだ」

「宇茂佐区の豊年祭の演武は来月末だ。それまでに体を仕上げると良いさ」

「ああ、来週から少しずつ練習のピッチを上げることにするよ」

「オーケー、取りあえず今日はビールを飲んで疲労回復とするか」

「じゃな」

そう言って軽トラックに乗り込むと国道449号を西の嘉津宇岳に向かって車を出した。シゲさんは国道449号の第二屋部橋を渡り左折して500m程下流に進んだ東屋部川沿いある旧家の当主である。

    (2)

カズの所属する沖縄剛柔流空手剛柔会・拳勝会空手古武道道場では毎月第三水曜日に黒帯会を開いている。月・水・金曜日の午後8時から10時までが練習日である。普段は4、5名程度の門弟が汗を流しているが、黒帯会には全員が顔を揃える。1時間の練習後に会議と黒帯会費を納めるのだ。月謝とは別に門弟の黒帯会長が管理して黒帯会としての活動資金に供している。剛柔会は上地流会派、少林流会派、沖縄拳法会派等の流派と共に全沖縄空手道連盟を構成しており、館長は剛柔会と連盟の理事を務めている。剛柔会又は連盟の定例会議で得られた県内空手界の情報を黒帯会で門弟に伝達しているのだ。この会議で道場の対外活動への参加方針が決められる。黒帯会では形の中に含まれる技の意味や実戦での使い方の応用が館長から指導され、基本鍛錬の正しい鍛錬方法について互いに吟味・確認するのである。黒帯全員が拳勝会道場としての共通の認識を有する機会でもあるのだ。この日は四向鎮の形の分解と実戦での利用法について二人一組になり、攻撃する者に対して受けから反撃に転ずる技の練習を繰り返した。拳勝会では受けは攻撃の一部であると捉えている。例えば相手の中段突きを前腕で払う動作は、前腕の陽の部分で相手の前腕の陰の部分を叩いて衝撃を与える攻撃的要素を発揮するのである。その為には前腕で野球バットをへし折るくらい骨を強く鍛える必要があるのだ。前腕の鍛錬は丸太打ちでも鍛えられるが二人一組の鍛錬はより実践的な方法である。小手鍛えの鍛錬法だがいつの間にか鼓笛隊と称するようになっている。館長の指示で鼓笛隊の鍛錬が始まった。

相方の右中段突きを左手中段受けし、右手で払い戻し左手の前腕で相手の中段突きの前腕を叩く。そして右中段突きをいれる。相方はそれを左中段突きが受けて同じ動作で再び右中段突きを入れる。10名の黒帯が横1列となってバシッ、バシッと音を立てる様は壮観である。10本の右中段突き、10本の左中段突きを行うと前腕が赤くはれてしまう。最後にこの練習の実践バリエーションとして、相手からの顔面への攻撃を左前腕で強く受けて跳ね上げ、その手を引かずに手のひらを返しながら相手の顔面に見せかけの掌底を打つ。掌底撃ちで相手の目を眩ますと同時に右手で極めの拳を水月に打ち込む動作を繰り返す。この技は前腕の攻撃的な強い受けで相手が衝撃を受けなければ次の掌底の動作が続かない。相手が素人であれば前腕の受けだけで戦意を失うだろうし、不要な喧嘩を招かずに事を治めることが出来る。前腕は拳と同様に鍛えるべき重要な部位である。

 合同鍛錬が終わり黒帯会に移った。板の間に茣蓙を敷き、長テーブルをT字型に並べて館長が上座に座って会合が始まった。連盟からの報告事項、黒帯会の会費の納入が済むと近況報告を兼ねた世間話となる。

「久しぶりに鼓笛隊をしたがクニさん前腕は相変わらず固いね」とカズ言った。

「そうかな、未だバットを折ることはできないよ」クニさんが苦笑いをした。

「バットを折るには日ごろから前腕の陽の部分の中ほどをよく叩いて骨の上に強い軟骨を乗せる必要があるのだ。いわゆるムチミを作るのだ」館長がそばから言った。

「ムチミですか」とカズが言うと、館長は右手を前に出して触ってみろと門弟に言った。館長の前腕は皮膚が分厚い生ゴムで出来ているような感触であった。これがムチミ(餅身)である。拳勝会では館長だけが前腕によるバット折りの試し割りが出来た。

「シゲ、お前の村に手首から先がない片腕の乱暴者がいたな。棍棒の様に腕を振り回しては村人を小突き回していたが今はどうしているかな。長い間消息を聞かないね」館長が訊ねた。

「15年程前に交通事故で亡くなり、沖縄市に住んでいる姉が位牌を引き取って市内の寺に供養しています。来週は繰り上げ法要があるので沖縄市の寺まで出かける予定です」

「そうか亡くなっていたのか」館長はしんみりとした声で呟き、ペットボトルのミネラルウォーターを口に運んだ。

「あの男は手首から先が無いので、右手は拳で人を突くような形になっていたのを思い出したのさ」

「あの乱暴者は平手でビンタを張ることが出来ないので棍棒のような腕で人を叩くのさ。手のひらのビンタ張りの様に手加減が出来ないので鍬の柄で叩かれたのと同じだったようです」

「屋部村の田舎武士だな」館長が可笑しそうに小さく笑った。

「棍棒持ちの清吉と呼ばれていました。ガキだった僕らは清吉さんの姿を見ると逃げ出していました。でも嫁さんを貰って子供が出来てからはあまり悪い評判を聞きませんでした」

カズは棍棒持ちの清吉という男が少し気になり、不動明王の像を連想した。

「ノリさん」と館長が師範代に声を掛けた。

「豊年祭が近いので、空手の形の練習の他に棒、サイ、トウンファーの古武道の練習を始めてくれ。棍棒持ちの清吉さんの話題で思い出した」

「分かりました。長雲の昆はノブさん、棒組手はシゲとクニ、トウンファーはガンさん、サイはカズさんとしますか。皆さん家でも武道具を振って体に馴染ませておきない」ノリさんが言った。

「形はサンチン、撃砕第一を全員で行い、個人形は持ち時間を見て決めることにしよう。それぞれ得意の形を練習して下さい。10月の最後の終末に豊年祭の開催が予定されている。来週からは怠けずに練習に励んでください」館長が全員に促した。

「いい加減な演武をしては恥をかくぞ。来週から練習に頑張ろうぜ」師範代のノリさんが門弟の顔をぐるりと見渡して大きな声で言った。

館長は柱時計が午後10時を回っているのを確認して黒帯会の終了を促した。皆立ち上がって茣蓙と座卓を片付け始めた。カズは道場のガラス窓を閉めて着替えの棚に向かって歩きながら自然とサイの形の手の動きを真似ていた。宇茂佐村の秋の豊年祭で演武するようになってから20年以上が経っていた。

    (3)

屋部川河口部の汽水域

 屋部川は水田地帯を西の端にあるプーミチャの石山を巻くように蛇行して宇茂佐森の西側のなだらかな丘陵地に沿って3kmばかり下って西屋部川と合流して海に流れ込んでいる。200年前にはイルカが迷い込む程広く深くなっており、琉球王府の年貢や薪を那覇港に運ぶ山原船が係留できるほどの水深があった。宇茂佐森と屋部川周辺に住んでいた人々の1団が川の東の宇茂佐森の南側の海辺に移動して集落を形成し、1団は屋部川の西に暮らす集団となって集落を形成した。宇茂佐区の住民の姓には岸本が多く、屋部区は比嘉姓が多い。王府は屋部川周辺の住民を屋部村民と一括りにして年貢を徴収した。その元締めは久護家である。

屋部村の西には西屋部川が流れており二つの川から運ばれた土砂の扇状地に集落が形成されてきた。屋部川の河口近くの古島原と西屋部川の前田原には貝塚が発掘されている。二つの川が合流する河口付近に集落が形成され後背地の山裾までの平地に水田が耕作された。水田は屋部川に流入する谷合の小川の周辺部が多く肥沃な土壌とは言えない。王府の年貢米等級の第4等と査定する所以である。

 屋部地区の歴史年表を見るとこの地域の人々の気質が現れている。1700年代の王府時代に刊行された『琉球国由来記』には屋部村とあるが、明治に入ると名護間切りの一部として名護村に編成されている。大正13年に名護町制施行となる。敗戦後の昭和21年に人口の多い名護町に飲み込まれるのを嫌って分離して屋部村となる。昭和45年には市町村合併によって名護市となり今日に至る。

明治政府と県の政策に反対した地頭代久護家の岸本久光が監禁拷問され、そのことに反発した村民150人が決起して救出に向かう事件が発生。明治16年にはその久護家の土地開放を求めて土地紛争を起こす。昭和10年癩病診療所を計画に対した官吏の家を焼き討ちにした事件が発生。塩田事業、製糖事業、カツオ漁組合の活動を手掛けるもいずれも長く続かずに頓挫する。熱しやすい地域住民の特性から「屋部乱暴」と呼ばれるようになったのかも知れない。古くから人の活動が活発であった地域故に伝統文化も多く継承されている。多くの拝所があり、住職を持たない村管理の寺もある。それに関わる祭事として、地域信仰の拝所祈願、祭礼が毎月のごとく執り行われている。当然のごとく地域住民の結束は強い。古くから継承されている「八月十五夜の祭り」は沖縄県の民俗芸能の無形文化財に指定されている。

琉球舞踊の四つ竹踊り

 明治20年に名護尋常小学校の分校が屋部集落に開設され、明治41年には分離独立して高等科が設置された。その頃には安和分校も開設されている。名護・那覇間の道路整備が進み電話の回線も引かれて王府時代の風景は消えて行った。しかし、王府の支配の代わりに日本政府は日中戦争でこの田舎にも影を落とし、第2次世界大戦の勃発によって悲惨な影響下に置かれるようになった。当山久三が推進した移民政策は「いざ行かん我らが国は五大州」と夢と富を求めた海外移民であったが、日本の南洋群島の占拠によって多くの家族がミクロネシア連邦に移住した。ほとんどが甘味資源のサトウキビの生産の労働者としてである。沖縄県では江戸時代からサトウキビの栽培実績があり、即戦力として評価されたのであろう。それでも勝ち戦の頃は徴兵令が少なく志願兵が中国へ渡るだけであったが、南方洋侵攻が始まった頃から徴兵令が実施されてフィリピン、さらに南のオーストラリアの嘱託地ブーゲンビル島まで進行した。県内からも多くの成人男性が戦地に向かった。新聞報道では真珠湾攻撃の成功や様々な勝ち戦の報道のみが掲載され、人々は戦勝気分に酔いしれた。しかし、軍部から名誉の戦死の報告がポツポツと伝えられるにつれて村民の中に不安の色が濃くなっていった。教育制度が尋常小学校から国民学校に変わり、皇民教育が強制され竹槍訓練など軍事訓練が国民学校高等科で実施された。鬼畜米兵という標語が流布してアメリカ合衆国の影が島中を覆ってきた。国民学校高等科を終えた青年男子は護郷隊として編成された。それでも名護湾に浮かぶ戦艦や伊江島飛行場から飛び立ち、嘉津宇岳の上空を旋回する戦闘機を見ていると日本国は偉大だと信じて疑わなかった。村内の青年で構成された護郷隊員は軍の命令で屋部川河口の渡波屋と呼ばれる岩山に連結した桟橋から前田原の崖下の洞窟を改修した防空壕に弾薬などの軍事物資を運んだ。屋部村の青年の一人である清吉は3年前に出征した父が南方戦線で戦死したとの通知を受け取っており、父の仇討ちの思いが強く軍部への忠誠心に燃えていた。護郷隊に参加して3年目で17歳となっていた。7歳年上の姉良子は宇茂佐集落の岸本正治と結婚して那覇で働いていた。この頃の家庭では一家の働き頭である当主を兵隊に取られており、残された青少年が一家を支えるしかなかった。前田原の山裾の水田と芋畑を母と二人で耕作しながら護郷隊の仕事も積極的に参加していた。赤茶けた縮れ毛の髪、色黒の顔に太い眉、薄茶色の人を拒むようなギョロ目、6尺の上背は既に大人であった。清吉の実際の年齢は18歳であった。初めての跡継ぎの男の子の誕生に喜び、深酒の抜けぬまま役所に届けた出生日を1年遅らせて記入していたのだ。酒癖の悪い清吉のオヤジに閉口した戸籍係がろくに確認せずにパタンと帳簿を閉じて追い返した結果だった。小学校の入学時に母親が気付いたが、取り立てて困ることでもなく、1歳下の子供らと入学した。内に秘めた気性の荒さは父親譲りであろう。父親の戦死の通知があってからある種の殺気を伴っており、村人は幾ばくかの恐れを感じていた。それでもこの地域の小部隊の指揮官である村上少尉は清吉の働きぶりに好感を覚えて名指しで雑用を言いつけた。体が大きく大人びているが表情の何処かに幼さの残る清吉の姿に、故郷で母と暮らす14歳の弟の姿を重ねていたのだろう。

国民学校中等部から第三中学校(現在の名護高校)までの生徒で構成された屋部青年会(昭和13年の写真)その後日米開戦に伴い護郷隊青年部に編成された

昭和19年10月10日、屋部集落にも本物の日米大戦がやって来た。何処からともなく飛んできたB29爆撃機は名護湾内の戦艦を爆撃した。高射砲のとどかぬ高度から爆撃された戦艦は、本部町の瀬底島の近くまで逃げたが名護湾沖の深い海底に沈んだ。この日一日の爆撃で沖縄に停泊していた日本軍の軍艦は全て破壊された。米軍の艦船は日本軍の陸上からの高射砲の届かぬ沖合に停泊し、はるか上空を飛ぶB52爆撃機から高射砲の発射地点を爆撃した。清吉たち護郷隊は村の後背地の洞窟を改修して村民が逃げ込む防空壕造りに懸命となった。本部半島を統括する宇土軍隊は僅か16門の高射砲を嘉津宇岳中腹の勝山集落まで引き上げて戦艦に向かって大砲を撃った。高い場所からは砲弾の距離を稼げると判断したのだろう。しかし砲弾は艦船に届くことは無く返礼として数10発の砲弾が飛んできた。発射場所を特定して撃ち返してくるのだ。米軍の攻撃は昼間だけで夜は休息時間となっていた。宇土部隊は屋部集落内の久護家の大きな屋敷を強制接収して地区本部として駐屯していたが、役に立たぬ高射砲の砲弾などの軍事物資を前田原の自然豪に保管していた。豪には空爆を避けるため手榴弾、機関銃の銃弾も保管していた。いずれ米軍が上陸作戦を遂行する時に備えて屋部地区から本部半島の山間部伊豆味集落に移動する計画であった。屋部集落は海岸から後背地の丘まで1kmも離れていないのだ。ゲリラ戦を想定して地形の複雑な伊豆味集落に移動を始めていた。西屋部川をさかのぼり旭川、中山から谷に沿って伊豆味集落まで山道を通った。嘉津宇岳、八重岳は石灰岩が隆起した山であり、多くの鍾乳洞があった。宇土部隊の指揮官は夜間ゲリラ作戦に最適と判断したのである。既にいくつかの小部隊が合流しており、朝鮮人労働者も伴っていた。伊豆味小学校は野戦部隊本部と変わっていた。

昭和20年4月6日の朝、戦艦からの一斉射撃が始まった。砲弾は集落の海岸線に落ちて防風林を消滅させ、次に集落の屋敷林フクギの上と飛び越えて後背地の丘の上部に次々と着弾した。村人は一斉に家から飛び出し、裏山の防空壕へと走り出した。清吉は母と共に急いで家を飛び出した。

「清吉、隣のウシ婆さんをオブって来い」母が促した。

「おう」と返事して清吉は屋敷林のフクギのヒコバエの間から敷地内に飛び込んでウシ婆さんを呼んだ。「ウシおばー、ウシおばー、何処だ」耳の遠くなったウシおばーは縁側に腰掛けてフクギの間から覗く空を見上げていた。

「おばー、アメリカーが来るぞー。早く背中に乗って」そう言って腰を下ろして背を向けた。

「ありがとう」そう言って清吉におぶさった。清吉は裏門から出るとすぐ後ろの四つ角で待っていた母親と合流して加間良原の避難豪に急いだ。避難豪には既に先着の仲間がいた。避難豪は集落の隣組ごとに取り決めがされており逃げ遅れがないか確認が出来るようになっていた。砲弾は豪のはるか上を飛んで丘のてっぺんに着弾した。着弾の度に豪の壁が揺れた。しばらくすると砲弾が止んだ。

「清吉、かまどの火の始末を見て来てくれ。ウシおばーの台所もついでに覗いてきてくれ」母がそう言って清吉を急かした。

「分かった、ついでに前田原の軍隊豪も見て来る。村上少尉は今日中に伊豆味の宇土部隊に合流すると言っていた」

「アイツらと一緒に行くのじゃないよ」母がヒステリックに言った。

「分かっている。おばー達を放り出しては行けないよ」そう言って豪を飛び出した。

フクギ林の向こう側に煙が立ち上るのが見えた。名護町屋部支所の方角である。

台所に入るとかまどの中に火かき棒を差し込んで灰を引き出した。親指大の小さな火種が5,6粒出て来た。ゴミ取り箱に履き入れ井戸端の水たまりに放り込みウシおばーの家に入った。ばーさんの家のかまどに火種は無かった。清吉は軍隊豪にむかって走った。近道をする為に西屋部川の浅瀬を渡り始めた。ズボンの裾をめくらずにジャブジャブ膝まで浸かって中ほどまで来た時、ヒューと何かが空気を切り裂く音がしたかと思った瞬間に凄まじい爆発音が轟いた。清吉は驚いて浅瀬に尻もちをついた。立ち上がって川向こうを見ると軍隊豪の方向で土煙が上がっていた。再びヒューと音がした。今度は自ら浅瀬に突っ伏した。爆発音が2度連続して聞こえて小さな土塊がポチャ、ポチャと清吉の周りの浅瀬の流れに降って来た。しばらく伏せていたが爆発音は止んだ。清吉は浅瀬から立ち上がり上着の前裾を絞って水を落とした。浅瀬をゆっくりと渡り、土手のススキを掴んで向こう岸の道路に這い上がった。50m先の軍隊豪の前に停まったトラックがエンジン部分から黒煙を噴き出して燃えていた。荷台は跡形もなく吹き飛んでいた。清吉は辺りを気にしながら近づいた。燃料が燃え尽きたのかタイヤだけが燃えて煙は小さくなっていた。豪の穴を直撃したようで入り口は大きな落石で塞がれていた。2回目の砲弾はトラックを直撃したらしく積み込まれた弾薬が爆発したのだ。清吉の周りまで飛んできた土塊は弾薬の爆発によるものであった。荷台の周りは大きなくぼ地となっていた。豪の入り口横の岩壁の裾に数名の兵士が転がっていた。爆風で岩壁に叩きつけられたらしく腕、脚、頭が尋常ならぬ形に折れ曲がっていた。既に生体反応を確認する範囲を超えて肉塊に近い物体であった。自分を可愛がってくれた村上少尉の姿を探す気にはなれなかった。清吉は壁の前の遺体に合掌して名護町屋部支所に急いで引き返した。

 役場は既に焼け落ちており、ススにまみれた職員が呆然と立っていた。清吉は顔見知りの総務課の職員に声をかけた。

「隣近所の婆さんたちを防空壕に避難させて艦砲射撃が治まったので外に出ると前田原の自分の畑の近くから煙が出ていたので行ってみた。物置小屋が燃えているかもしれないと思って行ってみたら、軍用トラックが川向こうの軍隊豪の近くで燃えていた」そう告げた。

「現場まで行かなかったのか」

「いえ、軍の豪には兵隊さんの指示がないと近づくなと区長さんから言われていたので、急いで報告に来ました。公民館に区長さんがいませんでしたので」そう言うと横から区長の辰雄さんが顔を出した。役場の消火活動に来ていたようだ。

「清吉、婆さんたちのところへ帰りなさい。後は私たち大人で確認するから。夜になったら家に帰って逃げる準備をしなさい」

「ハイ、分かりました」そう言ってその場を離れた。現場の惨状の事は一言も告げなかった。小隊長と懇意であることを知られると、後で怨みの対象となると思ったからだ。「面倒な事になりそうですね。役場が焼けて大ごとだと言うに」

「誰に確認させて伊豆味の本部に状況を報告させよう」総務課の職員同士の会話が聞こえた。フクギ並木を抜けて豪の前の水田地帯から屋部川にそそぐ小川の橋を渡ろうとすると「お父さん、お父さん」と呼びかける小学生の声が川の中から聞こえた。川の中を覗くと腹を抱えた男に少年が寄り添っている。川幅は4m程だが土手が急で1,5m程の高さがある。土手には滑り落ちた跡が残っている。防空壕に避難する時に滑り落ちたのだろ。男には病の気配が染みついている。「おい、大丈夫か」声を掛けた。

顔を上げた少年が「清吉兄さん」と少し怯んだような声を出した。

「お前は重弘兄さんの子供か」声を掛けると小さく頷いた。

男はチョロ、チョロ流れる水に膝をついたままだ。

清吉は土手の草を掴んで川底に降りると子供を抱きかかえて土手の上に放り上げた。そして「重弘兄さん大丈夫ですか」声を掛けた。

男の襟と腰の帯を掴むとひょいと土手の上に持ち上げた。男は土手の上でゴロリと横になった。清吉は草むらのチガヤを鷲掴みにして一気に土手の上に駆け上がった。男は荒い息をして膝を立てていた。清吉は男の左わきに肩を入れ右手で男の腰の帯を掴むと避難豪に向かって歩き出した。男が薄眼を開けて清吉を見た。

「すまんな清吉、一月ばかり前から体の調子が良くないのだ」

「防空壕までは近いから頑張ってください」そう言って励ました。そして未だ小さくしゃくるように鼻水を流して泣き面をしている少年に向かって言った。

「お前は何という名前だ。アメリカーが攻めて来る時にこの程度で泣くな」と叱ってギョロ目で睨み付けた。少年はビクッとして引き攣った顔に変わって泣き止んだ。「国民学校6年2組、比嘉義男です」

「ヨシ、義夫君防空壕へ案内しなさい」そう言うと、少年は清吉の前を歩いて防空壕に向かった。清吉は少年の案内した防空壕に男を降ろすと隣組の女性に引き渡して自分の豪に戻った。豪では母が心配顔で待っていた。村役場が焼け落ちたこと。宇茂佐や宇茂佐森の向こう側の名護町辺りでも山火事のように広い範囲で煙が上がっており、役場職員が名護の町は焼け野が原になっていると話していたと伝えた。軍隊豪の惨状は話さなかった。この日は散発的に艦砲射撃が繰り返されて日暮れを迎えた。砲撃はピタリと止んだ。防空壕の住人は豪から自宅に戻り芋を大量に煮た。そして明日からの避難に備えた。既に日本兵の姿は屋部集落から消えており、兵隊さんが村民を守ってくれると言う者はいなくなっていた。「アメリカーの大砲は命中精度がわるいね」負け惜しみを言う者がいるくらいであった。アメリカ軍は制空権を確保してからは偵察機で日本軍の駐屯状況を確認し、高射砲の有無を確認するために艦砲射撃を繰り返したのである。自宅に一時帰宅した住民は嵐の前の静けさをひしひしと感じており、アメリカ軍という得体の知れない物量を備えた軍隊を恐れ始めていた。もはや「神風がやって来る」と言う教育勅語の言葉が神話の世界であると誰もが理解していた。

 4月7日、朝日が昇る頃、公民館の鐘が集落中に激しく鳴り響いた。昨夜のうちに準備した食料・衣類・その他を天秤棒の両側に吊るしてそれを担いで豪に向かった。ウシおばーは清吉の家に泊まっており、清吉におぶされること無く自分の足で豪に向かった。

許田集落から上陸した米軍、日本軍の抵抗は無く、戦車に乗ってピクニック気分で前進
(昭和20年4月)

 名護湾の許田集落と屋部の兼久砂浜から水陸乗用艇で上陸した米軍は見かけた住民を容赦なく銃殺しながら何らの抵抗も受けることなく名護の市街地に進軍し、

上陸時に銃殺した住民が腐食すのを嫌い、死体を民家に集めて家ごと焼いた。骨は家の焼却物ごとブルトーザーで敷きならして幕舎や車両駐車場とした。

人影の消えた屋部集落に駐屯した。既に伊江島を制圧しており、日本軍が造成し、米軍の上陸を恐れて自ら破壊した滑走路を簡単に整備して北部地区の制空権を確保していた。北部地区すべての航空偵察を済ませており空からの攻撃で米軍の被害も無く鎮圧した。前田原の丘に設置した高射砲で八重岳方面に向けて乱射した。結局のところ宇土部隊は10日後の4月18日には制圧された。

古島の高台より八重岳の日本軍へ砲弾を撃ち込む米兵

その後もゲリラ兵の散発的な攻撃があったが、沖縄に派遣されていた日本軍の牛島総司令官の自決でもって実質的な戦闘は終結した。

白石大尉以下183名の白石部隊の降伏式(昭和20年9月3日)

沖縄の激戦地区は司令部のある中南部に集中していた。北部地区には南部からの避難民が押し寄せていた。米軍は避難民の移動の推移を見て上陸作戦を開始したようだ。日本軍が破壊した屋部川の河口に架かる屋部と名護を結ぶ屋部橋は1日で架け替え工事が終わり、軍用車両が通行出来るようになった。米軍は橋の破壊を知っており、橋梁用骨材をストックしていたのだろう。この鉄骨製の橋は頑丈にできており、15年後の昭和35年頃まで利用された。

制圧された屋部集落、中央に四角に点在するのは、屋部小学校グランドに配置された米軍の幕舎
右はフクギに囲まれ焼失を免れた住居

 名護町の住民はあっけなく捕虜となって羽地村の田井等、川上集落に収容された。南部からやって来た避難民は辺野古にも収容された。清吉の近隣の住民は何らの抵抗もせずに捕虜となって羽地の収容所に収監され10月に屋部村に戻って来た。フクギに囲まれた村は何事もなく残っていた。しかし勝美橋を越えた前田原の西側の家々は焼き払われてブルトーザーで敷きならされて軍用車両の待機場になっていた。屋部小学校と国民学校は米軍の駐屯地になっていたが、翌年には辺野古や読谷、嘉手納に引き上げた。清吉は18歳になっていた。米軍が上陸して戦争が終結して日本政府の支配が終了した。そして米国の支配下の世の中に変わった。清吉の見える風景が変わってしまった。ブーゲンビル島で戦死した父親の仇を撃つという米兵への敵愾心が完結しないまま時代が変化した。心の拠り所を失った青年特有の苛立ちがはけ口を探せぬままに鬱積して時が流れて行った。

      (4)

 昭和21年5月20日、屋部川から西の集落は王府時代の屋部間切りと同じ区分で屋部村として名護市から分離した。戦争で焼け落ちた屋部支所跡地に敗戦で不要となった国民青年学校の校舎を解体移設して屋部村役場とした。米軍によって焼き払われた家々は地域住民の協力で茅葺屋根の住宅が建てられた。人々は米国の配給米で飢え凌いだ。畑に芋を植え、水田に稲作が始まると大戦末期よりも人々は飢えから解放されていった。やがて住宅建築に必要な木材は日本本土からLCという輸送船団で沖縄に入って来た。21歳となった清吉は畑仕事を母にまかせて地元の土木建築会社「屋部土建」で働いていた。琉球民政府は米国の軍事政策の中で幹線道路の整備を進めた。辺野古、金武、勝連、読谷、嘉手納,普天間と軍事施設が急速に整備された。若く体力のある若者は屋部土建のトラックの荷台に乗り込み辺野古、金武まで土木工事の肉体労働で汗を流した。ダンプカーで道路にこぼしたビーチコーラルを会社が米軍から払い下げて来たブルトーザーで押し広げてキャタピラーで踏みつけて均すのだ。道路脇のブルトーザーが上手く均すことが出来ない部分や排水溝を人力で作るのだ。夕方には服も帽子も髪も眉毛さえもビーチコーラルの白い埃で真っ白になった。戦時中の緊迫した虚構の影を消し去るには体内に溜まった未消化のエネルギーを汗と共に流してしまうのが一番だと思えた。ひょろりとした手足が肉体労働で次第に太く強靭な筋肉に変わって行った。昭和22年に屋部村青年会が結成された。清吉は青年会に入って大戦を生き延びた若者達と共に活動した。名護町、羽地村、屋我地村、久志村、屋部村の沖縄相撲対抗戦にしばしば参加しては入賞した。祝勝会の宴席で酒が入って盛り上がると内に残っていた悪しき影が表に出た。父親譲りの酒癖の悪さとなって誰彼なく絡んでいくのである。気がつくと宴席で一升瓶を枕に一人で寝ていた。清吉の酒の入り具合を見て飲み仲間が去っていくのだった。

 県道1号線の名護市世冨慶から数久田・許田へと続く通称七曲りと称する曲りくねった海岸線の道路工事に出ていた時のことだ。岸から100m程離れたサンゴ礁の先端付近に停泊している作業船の近くで爆発音と共に大きな水柱が上がった。土木作業者はスコップの手を止めて冲を見つめた。爆発音と水柱は少し間をおいて3度ほど起きた。「何だいありゃー」作業員は口々に言った。

「リーフのふちに沈んだ米軍の上陸用艇を深場に落とすためにサンゴ礁を爆破処理したのだろう」現場監督が言った

「なんだよ、脅かしやがって」

「おお、あの作業船は南洋土建の比嘉宏の船だ。ほれ公民館の隣の宏真さんの長男だ。戦前に九州大学の土木建築を卒業して海軍に入隊していたが、那覇で海洋土木の会社を立ち上げたと聞いている」

「海洋土木という仕事もあるのか」誰かが水筒から水を飲みなら言った。

「ほれ、作業を続けろ。30分したら休憩だ。夕飯のおかずを配るからな」笑いながら現場監督の前田義二が言った。屋部土建の次男である。作業員は怪訝な顔でスコップを握って砂利を道路の窪みに投げ込んで地均しの作業に戻った。

額に手をかざし傾いた日差しに反射する波打ち際を見ていた監督が笛を吹いて作業を中断した。「作業止め」集まって来た作業人に砂浜の波打ち際を指差して笑いながら言った。

「急いで波打ち際に行ってみろ。30分の休憩だ」

清吉たちは砂浜に広がるグンバイヒルガオを踏みつけて潮の満ちて来た波打ち際に降りて行った。先頭を歩いていた男が急ぎ足で緩やかに打ち寄せる波に足を踏み入れた。

「魚だ」最初の男の声に誘われるように、他の男たちも浜辺を急ぎ足で歩き回り打ち上げられた魚を拾い集めた。笑いながら様子を見ていた監督が再び笛を吹いて作業員を浜辺から呼び戻した。男たちはグンバイヒルガオのツルを引きちぎり魚を鰓から口に通してぶら下げてやって来た。

「監督、これはどうしたことですか」年かさの男が言った。

「さっきの爆破処理の衝撃で魚が死んだのよ。満潮の波で打ち上げられたのさ。魚が砂浜まで潮に乗ってやって来るのと待っていたのよ」物知り顔で得意そうに言った。

「そうか、どうりでこの魚は中骨が折れてブラブラしているのか。監督は良く分かりましたね」

「先月、測量関係の業務の応援で八重山・石垣に行って向こうで知ったのさ」

「ああ、それでしばらく姿が見えなかったのですね」監督の補助をしている男が言った。

「石垣の宿屋の夕飯にイラブチャーの煮付けが出てきたのだが、身が妙にふやけているので女将に訊いたのよ。何でも漁師がリーフでダイナマイト漁をして獲った魚だったらしい。安かったので煮付けしたと言っていた」

「ダイナマイト漁ですか。今時ダイナマイトが手に入るのですか」

「多分、日本陸軍の手榴弾だろ。この漁は禁止されているがな」

「密漁ですか。日本軍の置き土産としては危険な代物ですね」

「ああ、大けがをした者もいるらしい。ロクな土産ではないな。ほれ、作業の続きだ、残り1時間で引き上げるぞ。夕飯は魚料理が食えるぞ」監督が笛を鳴らした。男たちは魚を道路脇のオオハマボウの木陰の枝に吊り下げ、スコップを持って散っていった。清吉は監督が言った日本陸軍の手榴弾のことが頭に残っていた。夕日は瀬底島をシルエットにして辺りを赤く染めながら沈み始めた。七曲りをトラックはタイヤを軋ませながら荷台を揺らして屋部へ向かって帰路に就いた。日に焼けた仲間の顔を夕日が赤く染めていた。清吉は夕焼けの中に大戦末期に陸軍豪の前でごうごうと炎と黒煙を上げて燃える軍用車両と、爆風で岩壁に叩きつけられて頭や手足があらぬ方向にねじ折れている兵士の姿を見ていた。清吉の中で何かが動き始めているのか無意識に拳を固く握りしめていた。

 (5)

その年の秋に台風14号がやって来た。米軍は台風情報を早めに出すので沖縄の住民は台風対策を戦前より早めに行うことが出来た。清吉は既に稲刈りを終えており、自宅も10m近いフクギに囲まれているおかげで家の中にいれば台風など気にすることは無かった。ただ体を動かすことがなく、たいくつなだけであった。この時の台風は風が比較的に弱く、雨と雷を伴っていた。低地以外は被害が少ないのが通例であった。板の間でうたた寝をしていた清吉の耳に雷の音が遠くに聞こえた。やがて雨脚が強くなり閃光がり、走村役場の方向から爆音が聞こえた。村役場の裏手の小高い岩山の上に在る遠見台の渡波屋の避雷針であろうか、2度、3度と鳴り響いたが雨脚が弱まると雷は去って行った。清吉は起き出して板の間に胡坐をかいて遠く聞こえる雷の音に大戦末期の光景を思い出していた。

清吉は立ち上がって米軍払い下げの戦闘靴を履き、軍払い下げのポンチョの雨合羽を羽織って母親に言った。

「オカアー、雨風が納まって来たから前田原のヤギ小屋を見て来る」

「西屋部川が溢れて勝美橋が流されていないかねー」

「畑は橋の手前にあるから問題ないよ」

「気を付けてよー」

「ああ、」そう言って家を出た。ポケットには懐中電灯が入っていた。

前田原のヤギ小屋は屋根のカヤが所々に飛び散っていたが、急いで補修する程のことも無い程度であった。3頭のヤギが清吉の姿を見て「メ―、メ―」と鳴き出した。台風に備えて小屋の奥に積んでおいた濡れていない刈草をヤギ小屋に投げ入れた。「台風でもお前らは腹が減るんだな」と清吉は笑いながら言って小屋から離れた。小屋から出てそのまま自宅に引き返すのでなく勝美橋に向かって歩き始めた。勝美橋は日本軍が破壊した後、米軍が鉄骨を2本渡してその上に板を並べただけの欄干も無い構造であった。勝山、旭川、中山集落の小学生の通学路として利用されていた。勝美橋を渡って川に沿って続く小道を進んだ。清吉は200m程進んだ場所で立ち止まって後ろを振り返った。台風の風と雨が未だ納まりきらぬ川沿いに人影は無かった。その場所はかって日本陸軍の武器貯蔵豪の入り口付近であった。今ではススキが繁っており、豪の入り口の形跡は全くなかった。清吉はそこからさらに20m程進んだ。そこで道は途切れてしまい沖縄在来種のヤシの一種であるクロツグが繁った場所に来た。クロツグは地際から武者立ちに茎葉が繁っていてその後ろの岩壁の根元を完全に隠していた。清吉は岩壁に縦に亀裂が走っている場所に向かってクロツグをかき分けて入っていた。岩壁の前に落石と思しき2m程の高さの岩があり、その後ろに人間がやっと滑り込める縦長の亀裂があった。清吉は再び後ろを振り返り人気の無いことを確認して穴の中に滑り込んだ。ポンチョの下から懐中電灯を取り出し、薄明りの中を蟹の横歩きで岩の亀裂に沿って10m程進むと広い場所に出た。高さが5m程で幅が10m程の洞窟が続いていた。見覚えのある旧日本軍の弾薬保管豪である。幾度も弾薬の運搬で入ったことがあり、地元住民であるが故にこの横穴の存在を知っていたのである。壁には白地に黒字の番号が書かれた杉板が打ち付けられていた。弾薬保管の整理番号である。石組の土台が壁に沿って点在しており、所々に弾薬箱が取り残されていた。捨てた空箱か或いは弾薬を完全に運び出す前に米軍の艦砲射撃で玉砕したのだろうかと思った。ふと雨の臭いと空気の流れを感じて懐中電灯を向けるとトンネルを塞いだ巨大な落石が目に入った。落石の前に立って懐中電灯で照らして出口を探すも明かりは全く見えなかった。ただ、空気は落石の隙間から流れてくるようで雨の臭いを含んでいた。足元はぬかるんでおり、入り口から奥に向かって僅かに雨水が流れ込んでいるようであった。清吉は引き返して弾薬箱を調べた。弾薬箱は湿っており屋根から雫が落ちた跡があった。艦砲射撃の衝撃で岩盤に亀裂を生じトンネル内に雨水が染み出てきたのであろう。最初の弾薬箱の蓋を開けると側面が剥がれて機関銃の銃弾がこぼれ落ちた。懐中電灯に照らしだされ弾薬箱はどれも空で砲弾は既に運び出された後のようだ。次々と開いて最後のひと箱を開けると20本の紙の筒が出て来た。紙の筒を取り出すと筒の底から2個の鉄の塊がゴロリと箱の中に落ちた。日本軍の97式手榴弾である。紙の筒はほとんどが湿気を帯び底の部分がふやけていた。手榴弾を取り出して懐中電灯の灯りに照らすと、既にピンの部分が錆びて膨らんでいた。指で押すとポロリと取れて中から火薬がこぼれ落ちた。清吉は次々と紙筒を取り出し筒の底が破れていない物だけをベルトとズボンの間に挟み、そしてポンチョの内側のポケットにも差し込んだ。紙筒は6本ばかりあっただろう。体が急に重くなった。懐中電灯であたりを照らし出したが朽ちた弾薬箱以外は何もなかった。懐中電灯の灯りは弱くなっており入り口付近の崩れた岩石まで届かなくなっていた。ポンチョの帽子を脱いだ頭に冷たい雫が落ちた。過去の何かに取り囲まれている不穏な気配を感じて身震いした。この空間は4年前の大戦末期と未だ繋がっている気がして謂れのない血の騒ぎが湧きたってきた。清吉は闇の誘いを振り切るように再び蟹の横歩きで岩の割れ目を進んだ。今度は直ぐに表に出た。クロツグの枝の間から辺りを伺うも人の気配はなかった。風雨は相変わらず強弱をつけて南の川下から谷合を吹き抜けていた。清吉は自分の通った後を残さぬようにクロツグの枝を自然に見えるように整えながら小道に出た。小道を勝美橋に向かって歩いた。途中で陸軍豪入り口を通過したが来た時と変わらぬ佇まいをしており、大戦があったことなど少しも残さずに台風の余波を受けてススキが大きく揺れているだけであった。清吉はポンチョの中に大戦末期の幻影を抱えてフクギに包まれた集落の中を進んだ。集落内の道路は手の平大のフクギの葉が重なり合って落ちており、清吉の戦闘靴はミシャ、ミシャと音を立てて遠い日の凄惨な記憶をフクギの精霊に語りかけていた。

「清吉、畑の小屋はどうなっていたかい」母が訪ねた

「カヤが少し落ちていたが、次の休みに直すから」

「勝美橋は大丈夫だったかい」

「ああ、アメリカーの鉄橋は丈夫だねー」そう言って物置小屋に向かった。

清吉はポンチョを脱いで物置小屋の壁に掛けた。ポンチョのポケットから手榴弾を取り出し、工具箱に収めてカギの代わりに小さな釘を打ち込んだ。フクギの間から見える空が台風の影響で薄赤く染まっていた。清吉は体の置く深い場所で遠い日の記憶の中に埋もれていた狂気に似た何かが目を覚ますのの感じていた。

 (6)

 清吉は休みの日には決まって朝からヤギ小屋に出かけた。4日分のヤギの餌となる青草を刈り取って小屋の隅に積み上げておくのである。普段は母親がその草をヤギに与えるのだ。餌が無くなった頃に早起きをして青草を刈り取って保管していた。この頃には大抵の家の大人が中古の自転車を持っており、清吉も少し前に名護町の大城自転車商会から頑丈な一台を購入していた。既に宮田自転車の中古品が本土から大量に流入していた。荷台には工具箱が括りつけられていて普段は大工道具一式が入っていた。清吉はスコップとつるはしを使う力仕事の他に、少し前から盛んになって来たコンクリート工事の型枠組立にも携わるようになっていた。道路工事は機械化が進みスコップを持つ作業は少なくなり、側溝や小川に橋を架けるコンクリート工事が増えていた。若者は土方人夫から型枠大工、運転手、重機のオペレーター、そして木造建築の大工へと転職成長していた。その頃自転車の後ろに木製の箱を積んでいるのは大工のシンボルであった。只、今朝の清吉の自転車の後ろに積んだ木箱の中身は麻袋に入った手榴弾であった。大工道具は自宅の納屋の壁にぶら下がった麻袋に入れ替えられていた。台風の日に陸軍豪から持ち出した手榴弾を麻袋に入れて納屋の壁に掛け、その上にポンチョを掛けてあったので母親の目に留まることなく1カ月が経っていた。朝晩に秋の気配が漂い、空気が乾き始めていた。

 清吉は道具箱から麻袋を取り出しヤギ小屋の後ろに回った。紙の筒を麻袋から取り出すと筒は完全に乾いて所々ひび割れを生じていた。筒をねじると蓋が外れた。中から2個の97式手榴弾が出て来た。筒の下に入っていた手榴弾は撃針の根元近くに錆が噴き出していた。麻袋からプライヤーレンチを取りだし、安全弁キャップの根元を挟んで回してみた。突起部分がぐにゃりと曲がってそして折れた。中には折れないものもあったがネジを外してみると導火線部分のパイプが腐食して火薬がポロリとこぼれた。着火能力が失われてしまった手榴弾の本体火薬を抜き取った。全部で12個の手榴弾の中で導火線分が腐食を免れた完全な形状の手榴弾は7個であった。2個は雷管部分は何とか錆びを免れていたが導火線部分が錆びで欠損していた。この2個は爆発部分の火薬を抜き取ってネジを閉め込んだ。見た目は健全な品であった。5個は撃針を抜いて本体の火薬部分を乾燥させるためセメント袋の紙で丁寧に包んだ。旧日本軍の手榴弾開発者は南洋戦線の高い湿度を想定していなかったのであろう。中国戦線の広くて乾いた風土でより遠くまで投げる為の軽量にすることを念頭に九七手榴弾を改良したのであろう。清吉は使えそうな手榴弾の安全弁の紐をセメント袋の端を縫っている開封用の細い紐を4本束ねて撚り戻し、手榴弾の安全ピンに結んであった腐った紐と取り換えた。完全に機能が失われたモノが5個、撃針の底部が壊れたものが2個、使えそうな物が5個であった。5個はヤギ小屋から流れて来る排尿溜めの穴に放り込んだ。不良品はセメント袋で包んで麻袋に入れ、正常品は紙筒に入れてから麻袋に戻して工具箱に収めた。

清吉は母から芋を少し掘り取って来るように言われていたことを思い出し、ヤギ小屋の壁に掛けていた鍬を取り出して芋を掘った。イモはヤギ小屋の軒下に挟んでいた麻袋に取り込んで工具箱の上に括り付けた。夕日が嘉津宇岳の南の安和岳に降り始めていた。太陽は南に傾いた軌道を取りながら日夜の割合を夜に引き渡して一日の時を刻んでいた。やがてミーニシと呼ばれる北風が吹きだし、南向きの名護湾は沖に向かって風が流れて波を押し返し、広い湖面にも似た穏やかな海岸となる季節が近づいていた。清吉は乾いた空気の中を汗もかかずに自転車のペダル踏んでフクギの繁る村へと下って行った。夕日が秋茜のトンボをいっそう赤く染めていた。穏やかな夕暮れの景色が闇に取り込まれる中で工具箱に潜む危うい気配が出番を待ち望んでいた。

 「平助お父さん」清吉は自転車を止めて声を掛けた。道路より低くなった畑の小道から荷車を出せずに奮闘している初老の男がいた。清吉の父と同じ年齢と思しき農夫である。

「おう、清吉、ヤギ小屋からの帰りか。腹が減って力が出ないや」そう言って荷車の取っ手棒から手を離して額の汗を拭った。

清吉は自転車のスタンドを立て畑の中に降りて行った。

「お父、荷車棒をしっかり掴んで舵取りをしなよ。畑に荷車を落とさないでよ」そう言って荷車の後ろに回った。両手にペッと唾を掛けパンパンと手を叩いてから言った。

「行くぞ」

「あいよ」前から返事が返って来た。

荷車の車輪がジャリ、ジャリと砂を噛みながら進んだ。やがてガタンと音を立てて本通りに上がった。

「おう、上がったぞ」平助父さんの嬉しそうな声が返って来た。

清吉は荷車の前に来て言った。

「お父、元気だね。荷車が動かないくらいたくさんのイモを掘ってしまって」

「俺はお前のオヤジより二つしか年上じゃないのだからまだ若いのさ」

「力仕事が必要なら言ってくれ。仕事が休みの日曜日なら少しは手を貸すぜ」

「お前は親父よりも力持ちだな」そう言ってポケットから煙草を取り出し、ポンと手の平に叩いて中のタバコの端を出して清吉にすすめた。清吉は1本を摘まんで取り出して口に咥えた。ポケットからマッチを取り出して平助父さんの咥えた煙草に火を付けて残り火で自分のタバコに火を付けた。

「ウルマか、最近できた琉球煙草会社の新製品だな」清吉が言った。

「アメリカ製のラッキーストライクが手に入らなくなったのでこれにしたのさ」

「いつまでもアメリカーでもないさ、ウチナー製が良いさ」

「清吉、おしゃべりしていたら日が暮れるから行くぜ」咥えタバコで荷車を引いてフクギ並木に向かって下って行った。清吉は自転車に戻って煙草の最後の一口を吸い煙を長く吐き出すと足元に落として草履でもみ消した。自転車に跨り坂道の右方向を眺めると既に陽は落ちてスンジャガーの坂道のコーラル敷の道路が森蔭の暗さの中に一条の白い帯となって続いていた。坂の左側の海の水平線が残照を受けて赤く染まりスンジャガーの岬から少し離れたアダン岩が黒いシルエットになっていた、波に根元を削られた2個のアダン岩は大戦末期に見た陸軍豪前の軍用車両の爆発黒煙にも似ていた。危うい気配は確実に清吉に取り憑き始めていた。それは夜を待って清吉を誘いだそうとしていた。

スンジャガーの坂道と海に浮かぶアダン岩

 (7)

 1948年8月31日に米国西海岸のポートランドを出港したジョン・ウォーエン号は550頭の豚を積み込み7名の世話役と共に沖縄に向けて出港した。沖縄県への種豚の供給が目的であった。その年の2月に沖縄系二世のハワイ人比嘉太郎は従軍レポートをハワイ新聞に掲載していた。レポートには灰燼と化した沖縄の町や村の写真の他、沖縄の食文化の一つである豚が壊滅しており、フールと呼ばれる豚小屋に豚を見ることは出来なかったと書いていた。ハワイには沖縄戦の捕虜が多数収容されていた。日本兵に交じって沖縄人捕虜もいた。沖縄県出身の移民1世は沖縄人捕虜に会って事情を確認して比嘉レポートが真実であることを理解した。ハワイには沖縄の海外移民の父と呼ばれる当山久三の海外移民活動の第1団として多くの人々が暮らしていた。県人会が豚を沖縄に送る活動を始めた。寄付金は5万ドルが集まり、7名の世話役が選出され、米国本土から豚を買い集めて、米国のポートランドから出向したのである。3度の嵐を乗り越えて幾頭かの豚を失いつつも9月27日にうるま市勝連の軍港ホワイト・ビーチに入港した。豚は県内の市町村に均等に分配され3年後には10万頭に増えて沖縄の食糧事情の改善と食文化の回復につながった。今ではうるま市民劇場入口の広場に数頭の豚のモニュメントと解説碑文が建っている。

市町村では豚の繁殖活動と共に養豚の奨励が始まった。現在の豚専用の濃厚飼料による飼育は普及しておらず、豚の飼料を生産できる芋畑と水田を持つ農家に養豚が推奨された。家畜小屋建設の助成金は無く、自ら飼育小屋を確保せねばならなかった。農業関連の助成金が交付されたのは沖縄県農業協同組合が活性化してからだ。

雄の種豚、農耕馬、肉用牛

 清吉は母にせがまれて豚小屋建設に取りかかった。屋部土建の監督に事情を話して土、日の週2日の休みを確保した。日曜日に会社のトラックで建築資材を運び、ヤギ小屋に並列して建設を始めた。床に大きなグリ石を敷きならしセメントを流した。ブロックを3段積んだ囲いを2舛にして角をブロックで天井まで積み上げた。台風に備えてトタン屋根の天井の高さを2mと低くした。壁は吹き抜けで風圧がかからぬように工夫した。最大6頭の豚を飼育できる構造であった。併設して豚の餌のイモを煮る窯も作った。米6升が炊けるシンメーナベを据えた。蓋は以前の藁作りではなく、軽いブリキ製に替えた。屋部村と本部町の境界付近の岩山には採石場が乱立して沖縄県内各地に建築用石灰岩が供給されていた。砕石が量産されると二次製品のコンクリートブロック工場、セメント瓦工場も名護町内に建設されていた。屋根に使う波トタンも出回り、ブリキの工作所も開店した。ブリキはハンダ付け工作が容易で、大なべの蓋や石油トーチ、ジョーロ等様々な日用品を生産した。鍬や鎌を制作する鍛冶屋と同じ一人親方の工作所である。鍛冶屋とブリキ屋は名護、屋部、本部、今帰仁等本部半島の町村各地に各々1軒程度があった。清吉は仕事先の集落で見つけた荷台の壊れた荷車を鉄くずの値段で買い求めて帰宅時のトラックに積み込んで自宅に持って来た。荷台を新しい木材に取り換えた。豚の餌入れは戦火で幹が折れた松の大木を1mの長さに切って丸太船のように中をノミでくり抜き、底を平らに削って座りを良くした。古い松は年輪に油を蓄えており水物の餌を入れても腐れ難いのだ。地元でトーニーと呼ばれる餌入れだ。それを2基作って2か所の飼育マスに入れた。釜土の横には雨除けのトタンを斜めに張って薪置き場を併設した。豚小屋を新設するとヤギ小屋がみすぼらしくなったので新しい豚小屋にヤギを移し、ヤギ小屋も解体して改築した。20m先に僅かに水の湧き出る場所があり、そこを1mばかり掘り下げブロックで囲って水くみ場を作った。コンコンと湧き出るのではないが半日もせずに1㎥程の水が溜まってチョロチョロ外に流れ出た。炊き出し小屋の前には丸いコンクリート製のタンクを専門業者から買い求め、荷車で運んで据えた。そのコンクリートタンクへ手製の1斗缶桶2個を天秤棒に吊るして湧水井戸から運んだ。コンクリートタンクには杉板で蓋をして柄杓を置いた。3日に一度は湧水を継ぎ足すので飲み水としても使えた。

 清吉は家畜小屋が完成すると荷車を引いて山から枯木を集めた。村有地の松の枯木が簡単に手に入った。ただ、枯木はどれも戦火の残した遺物で、大抵は太く幾つかに切り分けて担ぎ出す必要があった。薪に出来る手ごろな枯木は女子供の手で持ち去られていた。清吉のような豪の者にしか扱うことが出来ない太い枯木だけが残っていた。この頃の薪の需要は五右衛門風呂の炊き出し、養豚業の餌の炊き出しが主体であった。大戦による灯油の規制は米軍支配下の沖縄では既に解除されており、灯油コンロが各家庭の調理器具となっていた。清吉は鍛冶屋で求めた山鋸で枯木を2尺の長さに切りそろえ、斧で割って薪置き場に整然と積んで保管した。豚を飼う準備が整ったのは年が明けてからであった。

 家畜は博労と呼ばれる屠畜中間業者がヤギ、豚、牛、鶏を買い求めて屠畜会社に持ち込み、解体して肉屋が引き取っていた。ヤギは自家繁殖で増えるが、豚の場合子豚飼育農家は母豚を飼育して博労に子豚の販売を委託する。子豚を出荷するとしばらくして雄の種付け豚を博労が車で運んできて種付けをする。その頃には人工授精師は存在しなかった。種付け豚はすごく大きく如何にも精力的で良質な遺伝子を持っているように見えた。事実そうであったのだろう。

 博労は去勢した豚を飼育農家に引き渡して約6か月後に引き取りに来た。定期的に農家の畜舎を廻り、豚の成育状態を確認してから回収時期を決めてトラックでやって来た。そして2,3日後には再び子豚を供給した。農家は豚の飼育代金を博労から貰うのである。ヤギの場合は博労も買い取るが、地元の祝い事でも頻繁に消費された。その場合、祝いの仲間達で屠殺していた。大抵は川原や海岸で手足を縛って木に逆さに吊るし、首の頸動脈を切るのだ。ヤギはメー、メーと哀しく長い声で泣き続けた。頸動脈から滴り落ちた血は容器に溜めた。その地に塩を加えて固めて血イリチャーという郷土料理に使うのである。血抜きはヤギの食味を向上させる効果もあった。ヤギが死ぬと体毛を藁で燃やして内臓を流水や海水で洗った。養豚農家は正月用の肉として博労から豚肉を分けてもらうことが出来た。むろん出荷した豚の飼育費からの相殺である。現金のやり取りに疎い農家にとって嬉しい取引であった。

 清吉の豚小屋に子豚がやっていたのは正月の騒ぎが収まった頃である。清吉の母は新しい釜土に火を入れた。芋を炊き自分の水田から取れた米の糠を混ぜて子豚に与えた。時には冬の水田裏作のソラマメを青い状態で茎葉ごと芋と共に煮込んで子豚に与えた。清吉の3カ月に及ぶ週末のDIY(日曜大工)が終了した。充実感のある日常が一段落した。刈り取ったヤギの草を小屋の置き場に積み、水くみ場から一斗缶で水をタンクに運び、豚小屋に芋のツルを放り込むと子豚がクチャクチャと音を立てて食べた。清吉は体の中から何かが抜け落ちていくのを感じた。敗戦後に護郷隊がなし崩し消えてしまった感触にも似ていた。人は溜めていたエネルギーを適切な方法で放出しなければ、次の扉を開いて過去を荷物を清算して新しい風景に踏み込めないのだろう。溜め込んだエネルギーの多い者ほど脱皮して変化するためには、エネルギーを十分に放出せねば過去が燻ぶったままに残ってしまい苛立ち中に佇むのだろう。清吉は畜舎を出て自転車のペダルを踏み込み緩やかなカーブを曲がって農道の小道右に折れ、集落に向かう広くなった下り坂に入った。右前方のスンジャガーの森の上に下弦の月が架かっていた。残照が暗闇と入れ替わっていく中で、森はシルエットから闇に溶け込みはじめ、その南側の海上に二つのアダン岩が静かに海上に浮かんでいた。清吉の中に残っていた釜土の中の燃えカスにも似た何かが灰の中からパチンと跳ね飛んだ。集落は既に新月が引き起こす闇に呑み込まれつつあった。

 (8)

遠浅の海に浮かぶアダン岩

 屋部村から名護町にかけての海岸線は遠浅となっており、夏場は潮干狩りを楽しむ女性、冬は灯火を手に漁火(イザイ)と呼ばれる夜の漁を楽しむ男性のささやかな素人漁場であった。沖縄の海岸の特徴は、夏場は昼間の正午頃に大潮の干満が大きく遠くまで干上がり、冬は夜間深夜頃である。潮干狩りでは砂を掘り返してアサリを拾い、膝まで海水に使ってウニや高瀬貝を拾っていた。旧暦の3月3日は浜下りと称する女性だけの潮干狩りの祭り行事も古い集落には残っている。冬場の漁火は膝まで海水に使ってザブザブ歩き回ってシガイと呼ばれる蛸、眠りこけて動きの鈍い魚を銛で突いて捕るのだ。ジャリ交じりの海底では1kg未満のシガイダコが多く捕れた。新月の夜は魚の動きが鈍く漁果多かった。シガイダコは何故か水中で赤く変色しており岩と容易に区別出来た。シガイダコは砂の中に潜むハマグリやアサリを好んで食べた。8本の足の付け根に固い歯を備えており、貝類を噛み砕いて貝の中身を容易に食べるのだ。それ故、人の足などに絡みつくと噛みつく習性があった。漁火の漁果は針金の後ろに3m程の長さの太い釣糸を取り付け最後に浮き球(浮力の大きな木片)に括り付け、獲物は釣糸に突き刺して引きずって海中を歩き回るのが常であった。漁火に夢中になって引きづっていたシガイダコは噛まれた男の噂が稀に聞こえた。

 清吉はブリキのトーチ、鍛冶屋で求めた銛、そして手製の獲物通しの浮き球を持って漁火に出た。屋部中学の横から砂浜を下って、干上がった海底を70m程歩き、海中に踏み込みざぶざぶと歩いた。膝の高さまで来ると西に向かった。東側は屋部川の河口が沖へと伸びており深くなっているのだ。東側の川向こうの宇茂佐の海岸に松明の灯りが2つ見えた。屋部側の海にも2つの灯りが見えた。清吉はアダン岩に向かって歩いた。途中でシガイダコを3匹突いた。アダン岩の向こう側は深くなっており進むことが出来なかった。この先の山入端集落の海岸は遠浅となっておらず、引き返すしかなかった。アダン岩の裏手に回ると灯りの全くない空間が広がっていた。完全な闇が水平線と北の本部半島、南の残波岬の区別を失わせていた。天頂に流れる天の川だけが唯一の明かりであった。時折アダン岩の草木が北風を受けてヒューと鳴った。

清吉は漁火の引き上げ時だと思った。アダン岩の周りの浅くなった岩場の上をゆっくりと移動した。その時魚の跳ねる音がした。ブリキトーチの明かりを音のした方角に向けた。トーチの弱い明かりの中で70㎝程のダツが1匹、2匹と連続して飛び跳ねた。その周りに小魚のミジュンが群れているようであった。時折数十匹のミジュンが一斉に跳ねて水しぶきを上げた。しばらく明かりを当てていたがやがて騒ぎは収まって暗闇だけの空間に戻った。清吉は大きく深呼吸をしてアダン岩を後にしようとした。その時ふくらはぎに強い痛みが走った。トーチで照らすとシガイダコがズボン裾をめくった場所に絡みついていた。ふくらはぎにかみついたのだ。急いで浮き球を掴んで獲物を引きがした。ふくらはぎに10セント玉程の丸く皮の引きちぎられた跡が残り、血が海中に流れていた。傷に海水が浸みてヒリヒリと痛みが走った。深く肉を噛みちぎられてはいないようだと安堵した。

アダン岩の草木が再びヒューと鳴った。帰りを促している気がして屋部中学の方向を見た。二つあった漁火は既に消えていた。清吉は400m先の屋部中学を目指して歩き始めた。アダン岩を離れて少し歩くと後ろでダツの飛び跳ねる音が聞こえたが振り返ることなく歩き続けた。砂浜に上がる前にシガイダコを2匹突いた。

 翌日、茹でたシガイダコを隣のカマド婆さんと父の幼馴染の平助父さんに届けてから会社に向かった。汗を掻くとふくらはぎのタコの噛み傷が痛くなった。清吉はふくらはぎの傷が痛むたびに昨夜のダツのジャンプのことを思い出していた。噛みついたシガイダコではなくダツのことを思い出すのが清吉の尋常でない精神の持ち主である所以であった。漁火に出た2日後は午後から雨となり3時過ぎに帰宅した。清吉はポンチョを羽織って家畜小屋に向かった。自転車の荷台の道具箱には麻袋が入っていた。家畜小屋に着いた頃に雨は上がり、嘉津宇岳の山頂付近に霧がかかっていた。自転車を炊き出し小屋の入り口に停め、麻袋を取り出して窯の前の椅子に腰かけた。袋の中からしばらく手にしていなかった紙筒を取り出した。紙筒の中から取り出したのは手榴弾である。セメント袋の紙を解くと雷管と本体が分離された状態のセットが出て来た。手榴弾の穴に鼻を近づけて臭いを嗅ぐと既に湿った臭いはしなかった。雷管の筒を手榴弾本体にねじ込んだ。5個の手榴弾を組み立てた。今夜は漁火の出来る最後の日だ。しばらくはアダン岩に渡れるほどの潮は引かないだろうと思った。そして干潮の時間は遅くなっているだろうし、漁火に出る者は少ないと考えていた。

 清吉は夕飯を食べると仮眠をした。11時に起き出すと「海を見て来る」と言って漁火の準備をして家を出た。ポンチョの下に手榴弾3個を忍ばせていた。屋部中学の校舎の横から浜に出た。直ぐに海に入るのでなく砂浜を歩いてスンジャガーに向かった。スンジャガーの先端からアダン岩に向かって歩いた。岩と陸地の間は岩の両側から潮が流れ込むので周りより浅くなっており、大潮の終わりごろまで歩いて渡ることが出来るのである。清吉は屋部集落の海岸を見渡した。この時間に漁火をする者はいなかった。昼間の雨で空気が冷え込み、誰もが海に入る気がしなくて当然であった。清吉とて漁火が目的ではなかった。ただ手榴弾を投げてみたかったのだ。何もせずに終戦を迎えた青年の憤りが未だに燻ぶっており、手榴弾を爆発させることで大戦を完結出来る気がしただけだった。清吉はアダン岩の陸地の反対側の外海に面した場所に回った。潮が引いて浮きあがった岩場に浮き球とトーチを置き、銛を岩場に立て掛けた。再び岩陰から見える陸地に視線を向けた。陸地には何らの灯りも見えなかった。トーチの灯が陸地からは見えない岩陰に入っていることを確認した。清吉はポンチョの内側から手榴弾を3個取り出しトーチの横の岩の窪みに置いた。目を閉じて既にセピア色に変色しつつある戦時下の風景を思い出した。

ある時、軍事物資をトラックから豪の中に運ぶ作業が終わった後で、村上少尉は手榴弾を手にして言った。

「清吉君、君もいつかこの手榴弾を使う日が来るかもしれないので使い方を覚えておきなさい」

「ハイ」と言って村上少尉の手にした手榴弾に目をやった。

「君はキャッチボールでどのくらい遠くまで投げることが出来るかな」

「だいたい80mくらいだと思います」

「強い肩をしているね。この97式手榴弾の重さは445gだ。君なら50mは投げることが出来るかもしれないね」そう言って手榴弾を渡した。直径5cm、長さ10cm足らずの黒い鉄の塊が思いの他重く感じた。手で握って手首を捻って感触を確かめて少尉に渡した。

「先ず、投げる方句を定めてからこの紐の輪に指を入れてピンを引き抜く。それだけでは爆発しない。その次に筒を被った突起を固い物に打ち付けるのだ。そうすればこの突起の内側にある雷管が発火して導火線に火が付く、4秒後に手榴弾本体まで火が走り爆発する仕掛けになっているのだ」

清吉がうなずくと村上少尉は続けて言った。

「雷管が発火するとこの突起部分から煙が出るが、ほんの少し熱くなるだけで手が火傷する程ではない」

清吉は右手に手榴弾を持ち左手でピンを抜き取り、雷管の突起を壁に打ち付け遠くに投げる仕草を2度、3度と繰り返した。

「うん、その要領だ。手榴弾はお国の大切な武器の一つだ。今君に実物を使った訓練をさせるわけにはいかないが、いざ米兵が上陸してきたら手榴弾を渡すこともあるだろう。しっかりと覚えておきなさい。ピンを抜き、雷管を何かに撃ちつけ着火してなげる。一、二、三の三つの要領だ。解ったね」村上少尉が穏やかな視線を清吉に向けて弟に教えるように言った。

「分かりました。お役に立てるように忘れずにいます」そう答えた。未だB29の爆撃も米軍の艦砲射撃の音も聞こえない頃の記憶である。

 清吉はパッと目を見開いて岩の上の手榴弾を見た。そしてあの時の村上少尉の言葉通りにピンと抜き雷管を岩に撃ちつけ、振りかぶって遠くに投げるシュミレーションを2,3度繰り返した。その次に手榴弾を1個手に取った。実際に手榴弾を使うつもりで手に取ると、ずっしりとした手榴弾の重みを右手に感じた。岩陰から山入端集落と屋部中学の方向に目をやった。雨上がりの海上には暗闇が広がっているだけで何らの物音も聞こえなかった。時折アダン岩に生えた草木が北風に揺れて騒ぐ音だけであった。清吉は右側のアダン岩の前方に向かい、右足を引いて雨靴を濡れた岩場に踏みしめて足場を固めた。そして少し腰を落として右手に握った手榴弾の突起から垂れ下がった糸の輪に左手の人差し指を入れた。フンと息を吐きだし、糸を引くとピンが抜けた。一瞬、恐怖と期待の混ざった感情の高ぶりが全身を走り抜けた。その興奮が治まらぬうちにトーチに照らされた岩の角に手榴弾の突起部分を撃ちつけすかさず左手を投的方向にかざしつつ右手を後ろに引いた。そして左手を体に引き付けながら体を前方に全屈して渾身の力で右手の手榴弾を投げつけた。手榴弾は闇の中に吸い込まれ遠くの海上にドボンと音を立てて落下した。清吉の心臓の高まりとは裏腹に辺りに静けさが戻って来た。30秒、1分、5分と待ったがアダン岩の草木が風に騒ぐ音が聞こえるだけであった。清吉は村上少尉の言葉を思い出した。「雷管を撃ちつけると導火線に火がついて突起部分から煙が噴き出し熱を発する。しかし火傷する程ではないからそのまま遠くへ投げろ」確かそう言ったはずだ。今投げた手榴弾は雷管が腐食して点火しなかったのだ。洞窟で4年も寝ていたのだから劣化はあるのだろう。負け戦の日本軍の遺留品なのだ。清吉は妙な理屈で納得して2個目の手榴弾を取った。今度は左前方に向かい手榴弾を投げる構えを取った。一投目の興奮状態が消えて淡々と投球動作に入った。足場を固め、雷管を撃ちつける岩を確認し、左手の中指で糸を引っかけてピンを抜くと岩に手榴弾の突起を撃ちつけ、体重を後方かけてその反動で手榴弾を空中に投げつけた。やがて闇の中からドボンと音がして水中に落ちた。投球動作で前のめりになった体を起こした瞬間前方の海中に閃光が走った。そしてくぐもった音と共に2m程の水柱が上がった。艦砲射撃のりゅう弾砲が炸裂するような空気を引き裂いて振動が体に伝わる衝撃波は無かった。しかし一瞬だが海中の閃光は周りの海底の岩礁の光景を昼間よりも鮮明に映し出した。清吉は自分の体が震えるのが分った。そして陸軍豪前の軍用車両の爆発の光景が鮮明に蘇り、呆然とその場に立ちすくんだ。それは5分、或いは10分であったかもしれない。闇が辺りを包みこみ閃光の残影は何処にも残っていなかった。清吉は3個目の手榴弾を手にした。手榴弾の重みが軽くなった気がした。3投目は1投目と同じ方向に投げた。2投目と同じ要領で同じリズムで投げた。体を立て起し手榴弾が水中に落下する音と同時に水中に閃光が走った。清吉の中に勝利にも似た感情が沸き起こるのを感じた。それが何を意味するものか分らぬが、護郷隊で無意味な竹槍訓練を繰り返した後、アメリカ軍の鉄の防風に抗う術も、戦う機会さえも無く敗戦というみじめな日常を迎えたことを払拭してくれる気がした。清吉は満潮の波に寄せられて来た根魚のミーバイ、イラブチャーを拾って浮き球付きのテグスに刺した。手の平より小さい魚は放置して30㎝程の魚を5匹だけ回収した。浮き球を銛の柄に巻き付けポンチョを上から被せて獲物が何かわからぬように隠してアダン岩を離れた。干上がった海底を足早に歩き既に潮が満ちていた屋部中学校前の海岸から砂浜に上がった。誰かに出会ったら屋部川河口で漁火をしていた話すつもりであった。しかし、午前0時を過ぎた時刻には、浜辺でも集落内でも誰にも会わずに帰宅した。翌朝、隣んウシ婆さんと平助父さんにミーバイを1匹ずつ届けていつもと同じ時間に屋部土建に向かった。

  (9)

渡波屋の物見台と角柱の戦争忠魂碑

 3月の終わりごろには季節が冬の気配を失い、漁火のシーズンが終わった。ミジュンの魚影は少なくなっていたが魚は成魚となり屋部川河口に満潮に合わせて入って来た。産卵の季節であった。浅瀬で産卵して成魚は沖の深場へ移動して一生を終わるのである。5月には浅瀬で1㎝程の稚魚が霞のような集団となって動き回り、やがて夏場になると沖に移動して姿を消していくのだ。そして冬になると再び繁殖の為に群れを成して押し寄せるのだ。屋部川河口に群れて押し寄せる魚はミジュンの他に太刀魚、ボラ、小型のガーラだ。ミジュンを狙って大型のガーラやダツがやって来た。大型魚がミジュンの群れを襲うとミジュンは水面に群れて飛び上がりバシャ、バシャと波を立てる。ダツはミジュンの群れの周りを飛び跳ねて長い嘴でミジュンを襲う。ミジュンは満潮時に屋部川と西屋部川が合流する渡波屋の前まで寄せてきて干潮と共に海に戻っていく。

 屋部村には漁業で生活する漁民はいない。大戦前にカツオ漁の組合を立ち上げて活動するも失敗して解散していた。この村は漁業に向いていなかったのであろう。隣の名護町の城集落は漁民の村だ。そこの漁民が屋部川に船を出して漁をすることは無い。屋部川に漁船を入れると河口の狭い部分で村民から石を投げられることを知っているからだ。何しろ屋部乱暴とのあだ名を持つ村民の気性である。海の生き物に人間社会の気性など分かるはずもないが魚の習性で河口を利用しているのだ。屋部集落の住民の楽しみは漁火、潮干狩り、河口での蟹網漁程度であった。

 清吉が工事現場に向かう幌付きの運送トラックの中で仕事仲間の誰かが話した。「屋部川に昨日もミジュンの群れが入っていたぜ。それを1m近いシジャー(ダツ)が追いかけるわけよ。ミジュンが散っては集まりして大暴れよ」

「村には海人(漁師)いないから獲れないなー」

「名護の漁師が屋部川の外の海で待ち構えて獲るわけだ」

「癪にさわるねー」

「群れの中に手榴弾でもぶち込めば村中の人の夕飯が獲れるけどな」

「半年前に数久田の海岸で魚を拾った時のようにか」

「ハハハ、今時手榴弾など残っているもんかね」

「名護の海人のアンマー(嫁さん)売りに来るのを買うしかないか」

「そうだな。魚代金を今日も稼ぐとするか」

車が止まると大工は次々と工具袋を肩にかけて車から降りた。清吉は納屋に手榴弾が2個残っているのを思い出していた。

2日後のことだ。その日の仕事を終え幌付きトラックが屋部橋を渡っている途に最後尾に座っていた男が言った。

「今日もミジュン渡波屋の前まで入っているぜ。シジャーが3匹も飛んでいた」

「チェッ」と誰かが舌打ちした。清吉は黙って聞いていた。

帰宅を急ぐ清吉が自転車で駐在所の前を通ると入口に張り紙があった。明後日(月)迄、那覇市の県警本部にて出張研修中です。緊急の場合は名護警察署までご連絡ください。駐在所員安村警部補より

清吉は張り紙を見て、今日がチャンスだと思った。清吉は自転車から工具箱を降ろし、工具箱の中から作業現場に持ち込む作業袋を取り出した。中からハンマー、折尺、差し金、墨ツボなどの普段使いの工具を取り出し工具箱の中に入れた。そして袋には麻袋から手榴弾2個の入った紙筒を取り出して入れた。工具袋の口を麻ひもで括って自転車のハンドルにぶら下げた。会社に忘れ物をしたと母に告げて家を出た。県道を横切って渡波屋の前で自転車を降りた。工具袋をぶら下げて渡波屋の裏の護岸に回った。屋部中学の裏手の海岸からスンジャガーの坂道にかけてモクマオの防風林が続いていた。その西の端があかね雲にモクマオ並木の先端が影を作ってた。清吉は護岸と渡波屋の間に生えたテリハボクの大木の後ろに回って海に続く屋部川の河口を眺めた。風は既に冬の北風から夏の南風に変わり、河口の先の名護湾から南風に乗って潮の臭いを運んでいた。テリハボクはカタカナのトの字を逆さにしたように清吉の肩の高さの少し下からV字型に太い枝が伸びていた。清吉はその枝の付け根から宇茂佐と屋部中学の校庭の間から海へと続く河口に注視していた。黒い魚影が右に左に移動しながらゆっくりと屋部川を遡上していた。時折ガーラなどの大魚に襲われるのか2,3㎡の塊で水面に飛び跳ねた。清吉は袋から紙筒から取りだし、中の黒い鉄の塊を作業上着の左右のポケットに押し込んだ。工具袋はテリハボクの枝にぶら下げた。夕暮れのこの時間に渡波屋を訪れる物好きはおらず、200m先の屋部橋の上を自動車や自転車がブレーキ音を軋ませて渡るだけであった。対岸の屋部中学の校庭に人影は無かった。魚影はゆっくりと近づいて来た。清吉は自分の投球範囲まで魚影が近づくの待った。

やがて魚影は清吉の投球範囲の60mまで近づいてきた。清吉はポケットから手榴弾を取りだした。魚影が50mを切って近づいた。清吉はテリハボクの後ろから前に出て手榴弾の糸引いて安全ピンを引き抜いた。魚影が黒い円形の塊となって止まった。清吉は既にアダン岩で試した通りに雷管をテリハボクの太い幹に叩きつけて魚影の中心に向けて投げた。手榴弾は放物線を描いて魚影の真ん中に落ちた。魚影は落下物に驚いたように散ってドーナツ状に丸い輪を描いた。そしてしばらくして元の黒い塊に戻った。爆発能力を失った不発手榴弾はただの落下物となって川底に沈んだ。魚影は何事もなかったように右に移動を始めた。清吉は左のポケットから最後の手榴弾を取りだした。そして大きくゆっくりと肩を回して筋肉を解して深く息を吸い込んだ。40mまで近付いた魚影が再び動きを止めた。沖へと動く気配を見せた。清吉は左の人差し指を糸の輪に掛けて安全ピンを抜き取った。魚影はゆっくりと沖へ動き出した。清吉は後ろを振り返りテリハボクの幹に再び手榴弾の突起を撃ちつけた。手榴弾の突起の付け根の空気穴から僅かな煙と熱が外に吹き出た。今度は確かに雷管が発火して本体の火薬へ繋がる導火線に火力が伝わった。その時ミジュンの群れの方向で何かが跳ねた。振り向くと数匹のダツが次々とミジュンの群れを右側から襲っていた。群れは左に急速に移動した。清吉は体を左側に精いっぱい開いて手榴弾を持った右手を大きく後方に引いて投げる姿勢をとった。その時手榴弾を握った拳がテリハボクのV字型に開いた枝の間にスポリ挟まってしまった。体は完全に左に開いて伸びきっており、挟まった握り拳を枝の間から抜くには、一度左に開き切った体の軸を右後方に戻さねばならなかった。しかし意識はダツに追われて左に逃げるミジュンの黒い群れに向かっており、左に伸びきった体幹の筋肉を右に戻すには神経と筋肉の連携を解除するために一拍子のタイムラグ必要であった。その為に小さく息を吸って体幹を右に戻したときに災難が清吉を襲った。手榴弾は凄まじいエネルギーを伴なって爆発した。太いテリハボクもろとも清吉の手の平を吹き飛ばした。清吉の災難を少しだけ軽減したのはテリハボクが爆発の遮蔽物となってくれたことだ。それでも手榴弾は清吉の右の手の平をもぎ取り右耳の鼓膜を破り、右頬に火傷を与え、左の大殿筋を破片が貫通した。

 凄まじい爆発音に驚いて駆け付けた村人は、折れたテリハボクの下で血だらけの顔をしてうずくまり、左手で右手首を握っている清吉を見つけた。駆け付けた村人の一人で清吉の仕事仲間が自転車に乗せて屋部診療所の具志堅医師の元に運び込んだ。具志堅医師は簡単な血止めをして車で名護町の照屋病院に運んだ。戦前は北山病院と称し、大戦で焼け落ちるまで北部随一の総合病院であった。戦時中は多くの負傷兵を手当てした病院である。大戦後は北山病院の医師が北部地区の診療所に派遣されていた。具志堅医師もその一人であった。照屋医師は一目見て「手榴弾の爆発事故か」と言った。「せっかく戦争で生き延びた手を捨てやがってこの馬鹿者が」と言いながら手当てをした。血管を閉じ、手首の先でヒラヒラ残っていた皮を丸めて縫い合わせ包帯をした。

「警察へは届けたのか」との問いに

「駐在の安村警部補は那覇に出張研修に出かけて明後日まで不在です」と清吉は答えた。

「お前はもっと手榴弾を持っているのか」と照屋医師が訊いた。

「いえ、最後の1個でした。不覚でした」と清吉が答えると

「この馬鹿者が、草刈り最中の被爆事故とカルテに記入しておく」と照屋医師が怒った声で言った。

「1匹の魚も取らずに密漁の真似事で手を無くすとは、大バカ者だな」具志堅医師が清吉の頭を平手で叩いた。具志堅医師も照屋医師と同じように診療所のカルテに記入するつもりでいた。

「すみません」清吉がうなだれて頭を下げた。

「警察への届けは止めておきましょう。右手を失い。鼓膜が破れ、おそらく左足には不具合が残るだろう。天罰はこのくらいで十分だろう」

「有難く思え清吉」

「はい、ありがとうございます」

「密漁絡みの手榴弾事故は米軍が出て来るのでややこしくなる。草刈り中の事故で処理しましょう。後は具志堅さんにまかせます。帰ってよし。麻酔が切れると痛むぞ、覚悟しなさい」

「すみません」清吉はうなだれて礼を言って立ち上がった。

「そこのドアの横にあるツッパリ棒を杖にしたらよかろう」

「ありがとうございます」

「清吉君、名護町には両手首から先を失った男が一人で生活しているぞ。その方はお前の様に悪ふざけで怪我したのではなく、サトウキビの圧搾機の歯車に挟まれて失ったのだ。左手が残った分はご先祖の情けだと思って親孝行しなさい。良いな」

清吉は血の気を失い、左耳から顎にかけて白い包帯をした顔で深々と一礼して病院を出た。病院の横を流れる幸地川で魚の跳ねる音がした。川幅は広くないが水かさを増した川は海に近くボラが遡上してきたのであろう。清吉は屋部川でダツの跳ねた光景を思い出してゾッとした。清吉の戦後処理は今日を起点にして始まろうとしていた。

 (10)

 月曜日の朝、安村警部補が自転車で清吉を訪ねて来た。

「清吉、手榴弾の密漁で手を吹っ飛ばしたらしいな。村中で噂になっているぞ。訳を教えてくれ」

「ヤギの草を刈っているとき、古い手榴弾を前田原の陸軍豪の岩の下で見つけて家に置いていたのだ」

「何個だ」

「紙筒2本だ。その中から2個づつ出て来たが2個はぼろぼろに錆びていて火薬が抜け出たので川に捨てた」

「それで他の2個はどうした」

「こないだの夕方仕事帰りに仲間の誰かが言ったのよ。ミジュンが渡波屋の前に群れている。手榴弾でも投げ込むと村人中の夕飯のおかずが獲れるとな」

「バカな考えだ」

「前田の義二兄さんが八重山で聞いたというダイナマイト漁の話を思い出したわけよ」

「それで真似た訳か」

「はい、最初の1個は爆発しなかった。それで2個目の手榴弾の雷管をを2回、3回と叩いたら煙が出たので慌てて投げようとしたらヤラブの木(テリハボク)の幹に手が引っかかって爆発したわけよ」

「密漁のつもりが小魚一匹他捕らずに手を吹き飛ばしたのだな」

「全く引き合わない難儀仕事だったさー」

「バカ者が、お前は護郷隊のや屋部支部に所属していたはずだがアメリカ兵は一人も倒さずに渡波屋の前ヤラブの木1本を倒したわけだな」

「はあー」清吉がため息をついた。

「ヤラブの木を倒してお国のために尽くしたのか」安村警部補の言葉に清吉はうなだれたままだった。

「ヨシ、調書が出来た。具志堅先生の話した通りだ。渡波屋前で草刈り中に見つけた旧日本軍の錆びついた手榴弾を、鎌で叩いたところ発煙したので投げ捨てようとするといきなり爆発して右手を失った。そう言うことにしよう。良いな清吉」

清吉は小さく頷いた。

「ここに署名して拇印を押しなさい」

清吉は生まれて初めて左手で自分の名前を書いて安村警部補が持参した朱肉に左手親指を押して署名の上に指紋を付けた。

「小魚の1匹も獲っていないから密漁には値しないだろう。それにしても汚い字だ。まるで幼稚園生以下だな。人の読める字が書けるまで練習しな。」

清吉は手の無い右手で頭を掻いた。傷口が擦れて痛みが走り、顔をしかめた。

安村警部補は自転車に跨ると言った。

「今度俺のメンツをつぶす真似をしたら刑務所へぶち込むぞ。解ったな」そう言って睨みつけた。清吉が神妙な顔をして頷くのを見て笑いながら言った。

「お前も護郷隊の傷痍軍人の一人になったようだな。しかし利き手を失うと苦労するぞ。左手をうんと鍛えることだ。困ったことがあったら駐在に来な」そう言ってフクギ並木の中に去って行った。清吉は安村警部補が言った護郷隊の傷痍軍人という言葉が奇妙に心地よい響きとなって心の中に沁み込んでいくのを感じていた。

 夕方に屋部土建に挨拶に行った。現場監督の前田義二が出て来た。

「手榴弾で手を飛ばしてしまったか」渋い顔をして言った。

「この手では土木工事は無理だな。俺がダイナマイト漁の話をお前たちに言ったのも悪かったな。危ないと言ったはずだぜ」

「すみません」清吉が頭を下げた。

前田監督は机の引き出しから封筒を出して清吉の前のテーブルに置いた。

「先週までの給料と俺からの餞別が少しばかり入っている。お前はお前らしく片腕での働き方を工夫してこの先を生きていきなさい」

「ありがとうございます」清吉は深々と頭を下げた。

「お前は社員の中で誰よりも根性のある男だった。片手でも一人前にやれるさ」

清吉はもう一度深々と頭を下げて事務所を後にした。春が足早に過ぎようとしていた。

 清吉は平助父さんを訪ねて稲の1期作目の小作を頼んだ。傷が完治しないままでは水田の稲作は無理であった。平助父さんが沈んだ声で清吉に言った。

「俺は2か月前にお前が漁火でミーバイを獲ったと持って来た時に分かっていたのだよ。中骨が折れているし肉が少し柔らくなっていたのでこれはダイナマイト漁で獲った魚であるとな。その後はシガイダコだけを持って来たのでダイナマイト漁は1回きりだと安心してお前に注意しなかったのだ」

「知っていたのですか」

「俺も南洋のポナペにいた時に兵隊がリーフの内側でダイナマイト漁をするのを見たし、魚も食べたので直ぐに分ったさ」

「すみません」

「俺は病気で目が悪くなり除隊され、俺と入れ替わるようにお前のオヤジ清市はブーゲンビル島に飛ばされたのさ。友達の息子だと気にしていたが残念だな」

「すみません」清吉は頭を下げた。

「何、お前のとことの田んぼは500坪ぐらいだろ。どうにもなるさ。2期作の終わる10月迄は俺が管理するから」

「手が治り次第手伝います」

「それよりも豚は手間暇が掛かるから止めてヤギを増やしなさい。ヤギは草を食べるだけで飼育に金は掛からない」

「そうですね。豚は飼料代が必要ですね」

「左手でも草を刈ることは出来るだろ。右手の傷が完全に治って鍬を扱えるようになってから田んぼもすればよい」

「すみません。迷惑を掛けます」

「田んぼの使用料としてお前とおっかさんが食べるだけの籾は届けるから心配するな。田んぼは半年耕さないと草が生えて二度と使えなくなるから大変だよ。任せておきなさい」

「お世話になっております」そう言って清吉はヤギ小屋に向かって農道の坂道を歩いて行った。何か少しだけ明かりが見える気がした。そして安村警部補が言った「お前も護郷隊の傷痍軍人の一人になったな」の言葉を再び思い出して奇妙に心に心地よい響きとして残った。

 1週間後に姉の良子がやって来た。清吉の姿を見るなり「そこに座りなさい」そう言うと庭帚の柄で清吉を殴りつけた。清吉は左手でそれを受けながら黙って打たれた。やがて箒の柄がバラバラ割れて折れた。母は黙ってそれを見ていた。母が「良子、もういいでしょう」と言うと良子は顔を真っ赤にして荒い息づかいで「この親不幸者の罰当たりが、お父さんに何と言い訳するつもりだ」と言った。

「すみません」清吉は小さな声で言った。良子は7歳上の姉でコザ市に暮らしている。隣の宇茂佐集落の岸本正治と結婚して中学生の男の子が二人いた。

「母さん、今後の生活はどうするの。清吉の働きはあてに出来ないし。私の所に来て一緒に暮らす」良子が言った。

「俺は構わないよ。一人で生活できるから」

「あたり前でしょう。病院の治療費は払ったの」

「屋部土建から今月分の給料を貰ったので診療所に行って払ってきた」

「良子、私は屋部で暮らしたいサー。友達もいるしお前のところでは働くことも出来ないから」

「そーねー、コザの街はお母さんには騒がし過ぎるかもしれないね。分ったわ、これからは毎月1回は帰って来て様子を見ることにするわ。清吉早く傷を治して働きなさいよ」

「はい」うつむいたまま返事した。

良子は1泊して帰った。母に生活の足しになるように金の入った封筒を渡して「清吉には黙っておいてよ」と念を押した。

清吉の傷は次第に塞がり1年後には擂粉木の棒の様に固くなった。包帯をした清吉を哀れに思って何も言わなかった村人であったが、棒になった右手を意に介さないように人前に晒して歩く清吉のことを「片手清吉」「手切れ清吉」等と罵るように陰口を言った。それは清吉が他人に弱みを見せず、村の誰よりもよく働き、手足の満足な者を小ばかにしたような態度を見せたからである。誰よりも手際よく田畑を耕し、たくさんのヤギを飼い、左手で上手な文字を書いた。それだけなら皆が清吉の努力に1目置いただろうが清吉は一言多かった。二本の手を使っても片手者程も畑を耕すことが出来ない。右手で書いても左手で書いた文字よりも汚い字だと人前で笑い飛ばした。根が強情者のである清吉の健常者へのひがみの裏返しであった。

実際、清吉は20頭のヤギを飼い、自分の水田と隣のカマドお婆さんから借りた水田を合わせて1,000坪の耕作をしていた。毎朝ヤギの乳を搾って自分で飲み、誰か求めがあれば売って小銭を稼いでいた。清吉の右腕には脚絆にも似た米軍払い下げの硬いテント生地が巻かれていた。強い左手の握力で鍬の柄の付け根を握り右手の前腕の表の陽の部分で鍬を上に上げ、裏側の陰の部分で鍬の柄の中ほどを上から押さえるように土に打ち込むのである。乳製品の乏しい頃、ヤギの乳を好きなだけ飲める清吉の筋肉はすさまじい速さで肥大していった。とりわけ左右の前腕は太く固くなっていった。清吉の使う鎌は鍛冶屋で特注したもので、柄が長く柄の根元に輪がついており、そこから腕を差し込み上腕に引っかけて捻じり、鎌の柄を平たいベルトで固定して使った。右手で鎌を操る感覚で扱えた。稲刈り、ヤギの餌の草刈り等何らの不具合も生じなかった。清吉が健常者を小ばかにする口調にはある種「お前たちは怠け者」だとのニュアンスを込めていたので、聞く者の感情を苛立たせたのだ。いつの時代でも健常者は障害者を持つ者の苦労・苦痛・隠れた努力を理解できないし、理解する必要がないのだ。清吉は健常者の活動の成果を追い越すことで自分の自尊心を満足させていた。いつの間にか集落の婦女子共は屋敷林のフクギの間だの薄暗い通りを、肩を揺すって軽いびっこを引きながら通り抜ける大男とすれ違うのを避け、恐怖と侮蔑の感情を持ってフクギの影から見送っていた。

 昭和28年4月沖縄にも本土政府から遺族年金が支給されるようになった。ブーゲンビル島で戦死した清吉の父の妻である母へ、そして父が戦死した時に14歳であった清吉が18歳になるまでの期間の遺族年金が支給される手続きが開始された。清吉の家の生活は幾らか楽になった。2年後の昭和30年には沖縄戦で負傷した障害者を対象にした援護金の調査が日本政府の厚生省の要請を受けて県内各市町村役場で実施された。屋部村でも各集落単位で護郷隊等の軍属を対象に調査が実施された。

 清吉はその日の調査受付ギリギリの午後の時間に村役場の福祉課の窓口に行った。そして護郷隊の隊員であった旨の申告をした。戦時中に14歳から18歳までの年齢であった男は全て護郷隊に所属していた。そして右手を手榴弾の爆裂で失った旨の診断書を提出した。治療した医師は具志堅医師となっており、発行者は後任の現職で宜野座村出身の若い山里医師となっていた。原本の治療日時の部分が虫食いで消えていたので山里医師が清吉に訊いた。清吉は考え込んでから「確か昭和20年の6月10日だった」答えた。山里医師は清吉の言葉通りに記入して渡した。女子事務員が戸籍、氏名、年齢、そして障害の程度を記入して「後日、日本政府から連絡があります。その時に必要書類が同封されているので内容を確認して自ら返送して下さい。こちらでの調査はここまでです」そう言って帳簿を閉じた。すると福祉課の奥の総務課の席に座っていた若い男が出て来て清吉の側に立って言った。

「比嘉清吉さんですね」

「そうだが君は誰かな」清吉はその男の胸元の名札を見た。比嘉義男と書かれていた。清吉の中に微かな記憶が蘇った。

「総務課の比嘉です」

「私は総務課の職員に用はないよ。今日の目的は済んだのだが、何か用があるのかな」清吉はギョロ目で見下ろすように鋭い視線を送った。その若い男は恐怖を打ち消すように言った。

「私は村の噂を知っているのですよ。貴方がその右手を失ったのは戦争によるものではないでしょう。ダイナマイト漁で手を吹き飛ばしたと聞いていますが」

「ほう、この診断書にダイナマイト漁で手を怪我したと書かれていたかな。受付の事務員さん」と横の席に座った先ほどの女性に尋ねた。

「いいえ、治療を直接行った具志堅医師の診断書には昭和20年6月10日、草刈り中の手榴弾事故とあります」と女性事務員が返事した。

「おい、若い者、戦争末期に日本軍が米軍に追われてあちらこちらに手榴弾を放置したから俺のような被害者が出たのよ。お前は誰の噂話を聞いたか知らぬが、俺がダイナマイト漁をした証拠はあるのかい。あの時の駐在所の警官は確か安村警部補だった。調書にも草刈り中の爆発事故と書かれているし、署名と拇印を押してあるぜ。今でも名護署の記録にあるはずだ、調べてみろ」清吉が凄みを効かせて言い放った。

「しかし、戦争に直接従軍した結果の怪我ではないでしょう清吉さん。それはある種の詐欺の一つでは無いですか」若い男は興奮して言い返した。

「バカヤロー、敗戦の責任も取らずに沖縄をアメリカ合衆国に売った日本国政府に味方するのか。非国民野郎が、お前は琉球政府でなく日本政府から給料を貰っているヤマトの犬か。そもそも日本帝国が米国にバカな戦争を吹っかけて負けちまったから俺のような戦争被害者が出るのよ。だから日本政府に責任を取ってもらって当然だろ。戦争を知らない若造が出しゃばるんじゃないぞ」殺気にも似た目付きで睨み付けて言った。

「清吉さん屁理屈を言わないで下さい」

「おい、やっと思い出したぞ。お前は重弘兄さんの息子だな」

「うちの父は確かに重弘ですが、父と何の関係もないでしょう」

「君は物忘れが早いようだね。昭和20年4月6日午前10時、君は何処に居たのかね」

「確か防空壕の中です」

「その前だ。村の裏を流れる川に膝をついた親父さんのそばで泣いていたのは誰かな。その泣き虫少年と親父さんを川から引き上げたのは誰かな。親父さんをおぶって避難豪まで運んだのは誰かな。鼻水垂らして泣いていたのを俺に叱られ、直立不動の姿勢で「屋部尋常諸学校6年2組比嘉義男です」と言いたのは誰かな。」清吉が言い放った。清吉と義男のやり取りを緊張して眺めていた事務員たちがクスクスと隠し笑いする声が聞こえた。

「今日の手続きと関係ないでしょう」顔を赤くして若い男が言った。

「バカヤロー、俺があの時お前と親父を見捨てて防空壕に走っていたら、今のお

前も親父さんも生きてはいないはずだ。戦争に負けて人の情けも捨てたのか。お前のオヤジからもお前からも未だにあの時の借りを返してもらっていないぞ。アメリカ世になると武士の魂も捨てちまって、情けない若造だけが出世する世の中になっちまったものだ。戦争で死んだ先輩たちが浮かばれないな」

「そんなの屁理屈です」義男が顔を真っ赤にして清吉に突っかかった。

義男の言葉が終わるや否や、清吉の手の無い右手が男の左頬に飛んだ。平手なら手加減も出来たが丸太と変わった前腕がもろに顎を叩いた。義男が吹っ飛んで尻もちをついた。

「米軍の艦砲射撃の最中に陸軍豪の前で爆死した村上少尉達兵隊のグチャグチャになった遺体を村役場に一番に届けたのもワシだ。日本政府から感謝されても詐欺呼ばわりされる筋を無いぜ。お前はぴいぴい無くことしか出来なかったくせに」そう言ってから立ち上がって来た義男の腹に尖った右腕を叩きこんだ。義男はよろめいて待合の長椅子にへたり込んだ。

「傷痍軍人年金の手続きはこれで終わりかな、事務員さん」清吉は振り返り、ギョロ目であたりを威圧するように見回した後で女性事務員に言った。

「はい、確かに完了しました。治療カルテの証明書もありますので間違いなく日本政府に受理されるでしょう。確実に届くようにします」声を震わせて返事した。

「ありがとう。よろしくお願いいたします」慇懃にお礼を言って女性事務員に背を向けた。義男は未だに待合室の椅子に座ってうつむいたまま肩で息をしていた。清吉は火傷の残った右頬でニヤリと笑って出口に向かって歩き出した。その横顔を福祉課の職員は恐怖に顔を引き攣らせて見送った。

 この日の出来事はたちまち村中に広まった。これまでのダイナマイトの火遊びで手を失った可哀そうな男のイメージから、ダイナマイト密漁で手を失い、日本政府の戦争負傷者への弔慰金を不正受給した男、手の付けられない乱暴者へ変貌した「ならず者の片手男」へと変わった。そしてこの乱暴者はいつでも片手に凶器の棍棒をぶら下げているのだと噂した。婦女子と子供達は益々清吉を避けて歩くようになった。清吉は村人からの評価を不快に或いは寂しく思うことはなく、むしろこの変化を楽しんでいるようであった。そこがこの男の特異な本性であるかに見えた。

  (11)

 大戦前に名護町に設置された北部農業学校が嘉手納村に移り、嘉手納農学校として開校されたが、戦後に再び名護試験場と共に名護町に移り、昭和24年2月に屋部村宇茂佐に北部農林高等学校として開校された。この頃に第三中学と第三女子中学校が合併されて県立名護高校として再出発した。北部農林高校からは市町村の農政課、農林土木技師、農協職員、製糖業、農業試験場などへ農林関係の指導者を輩出した。広い農場を備えており、果樹、野菜、林業、畜業等実践的な教育がなされていた。沖縄県の食糧事情の改善を図る若者の育成が急務であったのだ。秋には農業祭と称する先進農業の展示会が開催されるようになり、現在でも継続されている。屋部川から東に1㎞の海に近い場所で宮里集落の境界である。

 清吉の家からは自転車で10分もかからない距離だ。開校6年目の昭和30年には農産品の展示が充実するようになっていた。パイン缶詰の製造工程、サトウキビの新品種、温州ミカン、測量器具を使った実践リハーサル、新しい養鶏方法と品種の紹介、乳牛ホルスタイン種からの搾乳、加工品の製造過程のパネル展示と加工乳製品の展示、和牛、豚の新品種の育成方法の紹介と牛、豚の見本展示などが2日間の日程で開催された。清吉は牛舎の前で立ち止まった。ヤギ小屋と異なる牛小屋特有の臭いがした。牛はヤギの数倍以上の大きな肉の塊であり、その尻、肩、腹そして顔が清吉の心を捉えた。とりわけその黒く大きな眼は清吉を捕えて離さなかった。清吉は牛舎の横に置いてある草をひと掴み引き抜いて牛に与えた。牛はゆっくりと顎を左右に揺すって草を食んだ。清吉は牛の横に回って肩、背中、尻を擦った。黒い皮膚の下の肉の塊が何とも言えぬ喜びを伝えて来た。清吉は感動して何度も牛の背中を擦った。

「牛は好きかね」後ろから人の声がして振り返った。白いシャツに紺のネクタイを締め、作業上着を着用して足元は長靴である。高校の先生のようである。

「牛に触れるのは初めてです。大きくて気持ちの良い肌触りですね」

「動物を養うのが好きなようですね」

「ハイ、ヤギを20頭ばかり飼っています」

「ほう、ヤギを20頭ね。君この近くに住んでいるのかね」

「ハイ、屋部です」

「沖縄県も次第に食糧事情が改善されていくので、これからの畜産は牛と豚が本命ですよ」

「ヤギと豚を飼ったことはありますが、牛はありません。牛の飼育は難しいですか」

「うん、ヤギは野生に近いのでその辺りの草を食べさせればよいのですが、牛は大きいし品種改良が進んでいるので良質の飼料としての草を与える必要があるね」

「良質の飼料とは何ですか。芋ですか」

「ハハハ、芋ではないですよ。イタリアンライグラス、ローズグラス、ソルガム、トウモロコシなどかな」

「そんな草は聞いた事も原野で見たことも無いです。トウモロコシは米軍の配給食糧で見たことがあります」

「何さんかな」

「比嘉清吉です。皆から清吉と呼ばれています」

「のう、清吉君。牛の飼料は畑で栽培するのだよ」

「村の牛飼いは野原の草を食べさせているみたいですが」

「それでは優秀な牛は飼育できないよ。それに畜産農家としてやっていくには数頭の牛の飼育が必要だよ」

「そうですね、数頭でしたら私のヤギの何十倍も餌を食べますね」清吉は左腕で頭を掻きながら言った。

「君、右腕はどうしました」

「ブーゲンビル島で死んだ親父の肩を揉むために置いてきました」左手の人差し指で空を指した。

「山川先生、パネルの説明の時間です」生徒が駆けてきて言った。そして清吉を見て、怪訝そうに言った「清吉兄さん」清吉はその生徒を見て言った。

「君は平助父さんの家の近くの宜保さんの息子さんかな」

「ハイ」答えた。

「清吉君、失礼するよ。畜産の授業で牛の講義のある時は聴講しても構わないよ。後で宜保君に教えておくから」

「ありがとうございます」清吉は深々と頭を下げた。村上少尉に頭を下げて以来であった。しばらく牛背中を撫でていたがヤギの餌やりを思い出して引き上げた。何か心の中に沸き立つものがあった。

 日曜日の夕方、宜保君が清吉のヤギ小屋を訪ねて来た。山川先生からの手紙を届けてくれた。

「有難い、来週から火曜日と木曜日に畜産の指導を受けることが出来る。空を見上げて清吉が喜んだ。

「清吉兄さん牛を飼うのですか」

「こないだの農業祭で牛を見て背中を触った時に震えるものがあったのさ。あの牛の目がたまらないね。もちろんヤギも可愛いけどね」

「清吉兄さんは動物が好きなんですね。人を見るときは怖い目をしているけどヤギを見る目は優しいですから」宜保君が可笑しそうに笑った。

「そうかもしれないね」

「ヤギも牛も飼うと大変ではないですか」

「分からない。先ずは勉強だ。君は3年生だろ。卒業後は役場に勤めるのかい」

「いえ、進学しようと考えています。沖縄にも大学が出来ましたし、民政府の奨学資金で本土の大学へも行ける制度が出来ましたから」

「うらやましいね、俺が18歳の頃は戦闘訓練ばかりでね、戦争が終わってもヤンチャして手を失ってしまった。今思うと全く嫌な時代だったな」

「そうですか。僕らはこの時代に学校に行けることをご先祖に感謝しないといけないですね」

「そうだな。君は君の道をしっかりと歩くといいね。俺は俺の道を行くから。山川先生に伺いますと伝えて下さい。わざわざありがとう」

「では清吉兄さん、来週は学校で会いましょう」そう言って自転車で坂道を下って行った。清吉は西のスンジャガーの方向を見た。嘉津宇岳に近づいた夕暮れの日差しに浮かぶアダン岩のシルエットに暗い影はなく単なる黒い岩が点在しているだけだった。

 3月になると宜保君は東京の農業大学へ進学した。清吉は毎週2回の牛の飼育実習を受けた。飼料作物についての知識は山川先生よりの指導を受け、牛の世話の実際については農業実習助手職員の野原さんに教わった。種まきの時期や方法、刈り取りと保管、牛の健康状態の点検、糞尿の処理方法など飼育の全てを学んだ。子牛の入手方法を考えていると山川先生が言った。

「清吉君のヤギは誰が引き取っているのかな。自分で買い手を探すのは難しいだろう。20頭も飼育しておれば」

「与儀さんという博労専門の畜産業者に頼んでいます」

「与儀君か。伊江島の人だな」

「そうかもし知れません。伊江島訛りがある男です」

「私の門下生だと言えば良い子牛を売ってくれるだろう。掛け売りで買わずに現金で買うと確かな牛が手に入るはずだ。何頭か育てると子牛の競り場も覗いて現状を知ると良い。しかし先ずは1頭からだ」

「分かりました」

「ああ、それと牛が病気になった場合、農業試験場の山本獣医を尋ねると良い。私の門下生と言えば色々と教えてくれるだろう」

「何から何までありがとうございます」

「山川塾の卒業生だ。おめでとう清吉君、今後の活躍を期待している」

清吉は宜保君と同じ3月末をもって北部農林高校の畜産課程を卒業した。卒業証書の交付は無かったが満足であった。

 清吉は豚小屋であった1棟を牛小屋に使うことにした。牛を買う前に既に200坪の畑にソルガム、青刈りトウモロコシ、イタリアンライグラス等を栽培していた。牧草栽培の実践として山川先生から種を貰っていたのだ。牧草地にはヤギの糞を撒いていたので生育はすこぶる良好で遠目にはキビ畑に見える程であった。清吉はかねてから以前は博労と呼ばれていた畜産仲卸業者の与儀さんに子牛の手配を頼んでいた。与儀も牛の需要が伸びることを予想していたので喜んで引き受けた。出身地の伊江島は水資源に乏しく養豚には不向きで牛の生産が盛んになりつつあった。とりわけ出荷期間の短い子牛の生産に力を入れていた。200坪の畜舎の敷地は軍払い下げの鉄条網を張り巡らした。子牛の運動用である。牧草が適当に伸びた頃に子牛を買った。豚3頭を飼っていた桝は子牛には少し広い飼育スペースであった。土間には稲わらを撒つめ、子牛がセメントの土間からの湿気で病気にならぬか心配したからだ。清吉が子牛の頭を撫で優しい眼差しで見つめる姿を見た与儀が言った。

「清吉よ、お前は人よりヤギ、牛などの生き物が好きらしいな。村人はお前を恐れるがこいつらはお前になついているな。今日連れて来た子牛までがお前になつくのだから」

「ヤギは腹が減らぬ限り泣かないが、人は自分の力の無さを棚に上げて文句ばかり言うからさ」

「ハハハ、神様はお前の馬力のありすぎるのを見て、人に悪させぬかと片手を取り上げたのかも知れないは」

「いやさ、親父の肩こりがひどいと夢の中で言ったので右手を送ったのさ」

「左手はお袋さんの為に使っているのだな」

清吉が頭を掻きながら大声で笑った。

「清吉、お前は村の年寄りからの評判は悪くないぞ。畑仕事やら力仕事を手伝っているらしいな」

「爺、婆の手伝いなんざ左手1本で十分さ。それに若い者は土木仕事に出て昼間はいないので自然にそうなるのさ」

「言えてるな。来週はヤギの注文があるから1頭貰いに来るよ。子牛の代金は何時でもいいぜ」

「ありがとうございます。親父の援護金があるので準備しておきます」

与儀は荷台を家畜運搬用に改造した1トン車で引き上げて行った。清吉は畜舎の糞尿を片付けて引き上げた。途中で牛を飼ったことを報告するために平助父さんの家に寄った。いつもの様に茶を入れて縁側に座って雑談を始めた。

「牛を飼うのか。牛は大飯食らいで大変だろ。ヤギの何倍も食うんじゃないか」

「ええ、それで前もって牛用の飼料作物を植えてあります」

「あのトウモロコシがそうか。食用にしては小さいなと思った」

「他にもソルゴー、ライグラスも植えました」

「そうか、畑が足りなくなったら貸してやろうか。隣の貞子姉さんも名護に住む次男に一緒に暮らそうと言われているらしいが、親から預かった畑を草ボウボウにして出て行くわけにもいかないし、どうしようかと言っていたね。あれの旦那も戦争で死んだので援護金で小遣いぐらいはあるらしい。不便な場所の畑だが手放せないとこぼしていた」

「そうですか半年後にもう1頭増やしますから早速借りて牧草を植えたいですね。お願いします。子牛がもう少し育てば小型の鋤を引けるので何とかなるでしょう」

平助父さんが立ち上がって奥の部屋から何かを持って来た。三味線であった。

「お前、これをやってみないか。牛小屋で練習すれば誰にも聞こえないから気分転換になるよ。少しは遊び事も始めなさいよ。お前の親父は上手かったぜ。多分押し入れの中に在るはずだ」

「ええ、多分あるはずです」

「明日にでも持ってきなさい。弦を張り替えてやるから」

「しかし、弦を弾く爪は握れませんよ」

「バカだね。お前の棍棒腕では弾けないさ。お前のヤギ小屋の納屋に大きな雄ヤギの角が掛けてあっただろ。あれを工夫して右手に固定すればよいさ。何でも頭を働かすことだ。出来ないと思えば何も出来ないさ」

「俺は歌三味線はやったことが無いけど大丈夫かな」

「ワシがお前のヤギ小屋で教えるから大丈夫だ。習い事の一つぐらい身に付けろ」

「分かりました。後でヤギの角と三味線を持ってきます」

翌朝、清吉は以前使っていた大工道具を入れた工具箱に三味線を入れ、ヤギの角2本と共に平助父さんの家に届けてからヤギ小屋に向かった。

牛の世話が忙しく1週間ほどして仕事帰りに平助父さんの家を訪ねた。

「そろそろ来る頃だと思っていた」そう言って三味線を奥の部屋から持って来た。

「お前の親父さんは中々良い三味線を持っていたようだな。良い音がでるぞ」

そう言って弦を弾いて見せた。

「これが練習本の工工四だ、見たことぐらいあるだろ」

「ええ、家にもあったと思います」

「これを右手にはめてみろ」そう言って竹筒の先にヤギの角を固定した道具を渡した。清吉は一目見て右手に固定して三味線の弦をはじく爪だろと分かった。

右手にはめてみた。少し緩いがあとで微調整すればしっくりと固定されるだろうと思った。「中々都合が良いですね」そう言うと平助父さんがニヤリと笑った。

「では工工四の読み方を教えよう」そう言って三味線の持ち方と指で弦を押さえる基本の動作を教えた。1時間ほどで日が暮れた。「よし、今日は初めての日だからこのくらいにしておこう」そう言って終わった。清吉の体から汗が滲み出て頭がクラクラした。

「三味線をバカにしたらいかんぞ。習い事は何でも奥が深く難しいにきまっておる。特にお前の様に手でなく腕で弦を弾くのは難しいだろう。習い勝手があると言うものだ」

清吉は神経が切れてしまった感がする頭でブーゲンビル島に出征する前に三味線を弾いていた父を思い出していた。

三味線は歌と並行して習得するものである。昔から歌三味線と言う所以だ。西洋音楽のように楽譜に沿ってリズム、音階があり、その上に歌詞が乗っているのではなく、歌の調子に三味線の音色が被さって琉球音楽の真骨頂が表現されるのである。清吉はまず三味線の音階をしっかりと奏でることを練習し、歌は小声で発声した。2週間ほど仕事帰りに平助父さんの指導を受けると何とか三味線の音を出すことが出来るようになった。

「よし、明日からはヤギ小屋で大きな声で練習しなさい。歌の節回しが解らない部分を習いに来なさい。ワシが畑仕事の帰りにお前のヤギ小屋の前を通る時に寄るからその時に教えよう。お前の大きな図体でワシの家で大声を出して歌われると近所の婆さん共は腰を抜かすわい」そう言って笑った。清吉が頭を掻きながらハニカミ笑いをすると

「お前の親父の練習本は全部が村の8月踊りの曲だからお前も覚えているだろう。かぎやで風、登り口説き、伊野波節、好きな歌から声に出して練習したらよい」

昭和26年の豊年祭、仮設の舞台で祭りを執り行った。

清吉は父の記憶とたどりながら三味線を練習した。自分の歌が上手いのか下手であるかは問題で無かった。国民学校中等部に在籍した時にブーゲンビル島で戦死した父と三味線を通して同化して行けることが楽しかった。

平助父さんは4、5日に一度の割合でヤギ小屋を訪ねては清吉の三味線を指導した。清吉の三味線には哀愁とある種のやりきれない怒りが籠っており、聞く者を深い谷間に引きずり込む侘しさだけが強く出ていた。これは人前で歌うのには向いていない声だと解った。「カチャーシー、唐船ドーイ」などエイサーのハイテンポのお囃子曲でも暗さや哀しみが潜んでいた。

「お前のエイサー曲は上手でないね」そう言うと

「何故かあまり上手く引けないですね」清吉はそう答えた。

「三味線は自分の好きな曲を弾いて歌って楽しむものだ。三味線で飯を食うわけでもないからな」自分の声音に潜む真実の知らないのであろうと平助父さん思っていった。

清吉は土木工事に従事していた頃と同じように自転車の荷台に工具箱を乗せ、その中に三味線を潜ませて畜舎に通った。村から離れた夕暮れ時の家畜小屋から清吉の太く重く哀愁に満ちた声が西屋部川に流れ落ちるのを聞く者はいなかった。

 (12)

通称屋部寺の凌雲寺

 屋部村屋部集落は琉球王朝時代から年貢米の集積場所で積み出し港でもあった。集落内には幾つもの御嶽があり、毎月何らかの祭事があった。とりわけエイサーと八月踊りは村人の大きな娯楽ともなっていた。昭和63年1月12日に「八月踊り」が沖縄県の無形民俗文化財に指定された。清吉もその風習の中で育った一人である。今では彼の畜舎には20頭のヤギと5頭の牛が飼われていた。傷痍軍人年金の支給を受けて生活が幾分楽になった清吉は酒を飲むようになっていた。酒に溺れるわけでは無いがさりとて酒が入ると誰でも多少のタガが外れるものである。清吉は牛とヤギの世話が終わると三味線を弾き、小屋の中の今は使っていないカマドの前に小さなテーブルと長椅子を作り、少しばかり早めの晩酌をして帰路に就くのが日課であった。薄暗くなったフクギ林の路地を自転車で帰るのであるが、自転車は真っ直ぐに走らず、S字曲線を描きながらゆっくりと走った。村人は清吉の自転車に衝突するのを避けてフクギの影に隠れた。清吉の通り道は決まっており清吉が来るのは誰もが直ぐに分った。それは清吉が大きな声で歌いながらやって来るからであった。清吉は酔っているわけでは無く村人をからかうためにS字運転をしており、流行りの歌謡曲の音程をわざと外して歌っていたのだ。家畜小屋で歌う琉球古典音楽の重厚な歌を自分一人で楽しんだ後は、ふざけて歌謡曲を歌うことで新たな楽しみを見つけていたのである。清吉は通りの先に子供集団を見つけると、自転車のs字運天を止め、歌うのも止めこっそりと子供の集団の通り道に待ち伏せた。そして交差点のフクギの影から姿を現し、「ウォー」と叫んで驚かした。子供たちは心底驚き鳴き出す子もいたがクモの子を散らすように逃げて次の交差点から振り返って「手切れセイキチー」と罵った。清吉は棍棒の右腕を振り回して追いかける真似をした。子供たちは「ワー」と言って再び逃げ出した。シゲさんが小学校5年生の頃だろうか、フクギのヒコバエの茂みで立ちションベンをして振り返ると清吉がいつの間にか立っていた。「ワッ」驚いて逃げようとすると襟首をつかまれて持ち上げられた。「お前もあのガキ共の仲間か」そう言ってギョロ目で睨み付けた。シゲさんは「違うわい」そう言ってバタついた。清吉が手を離した。シゲさんは一気に駆けだした。50mほど駆けだして振り返り「清吉のバカヤロー」と捨て台詞を残して家まで駆けだした。清吉の笑い声が後ろで聞こえた。清吉は子供が好きであった。それ故子供からかっていたのである。

 年が明けて正月2日に公民館で村の戸主の集まりがあった。前年の村の出来事の反省と今年の行事の計画についての打ち合わせを毎年行っているのだ。午後4時に凌雲寺に集まり、公民館長と長老の音頭で神祈願を済ませてから公民館に戻って祝いの酒宴が始まるのであった。多くの者が正月の親戚回りを済ませた後で参加しているので大抵は酒が入っており、饒舌になっている者も少なくなかった。公民館の広間に茣蓙が敷かれ座卓の上には婦人会が準備したご馳走と酒が配置されていた。区長の与儀紀夫が挨拶に立った。

「昨年は秋の台風16号が接近して田畑や住宅の被害がありました。今年は台風がないことを願っています。さらに毎月の村行事も皆さんの協力をお願いします。特にエイサー、八月踊りは練習時間も長いので青年会も含めて親御さんのご協力をよろしくお願いいたします」そういてグラスを持ちあげ「カンパイ」と発声した。座に就いた40名ほどの戸主がグラスを上げて「カンパイ」合唱した。

区長、踊りの師匠、教育部会長、運動部会長、18歳~30歳未満の青年会長・副会長が横1列の最前列でそれ見向かって縦4列の座卓が充分な間を取って並んでいた。清吉は区長さんに近い場所に席を取っていた。この日は珍しく普段より酒が多く入っていた。村の面々は次々とグラスを持って区長や村の世話役の前に進んで正月の挨拶をしていった。清吉は隣の家の男と牛舎の台風被害について話していたが、話が止まったところでグラスを手に区長の前に進み出た。

「紀夫兄さん、明けましておめでとうございます」

「おお、清吉おめでとう。お前の畜舎は台風の被害はなかったか」

「私の所は少し山陰になっているので大丈夫でした」

「それは良かった。お前も村の行事には出来る範囲で良いから手伝ってくれよ」

「ハイ、私は片手しかなく村のことは何もできないのでせめて安全祈願だけでもと思って、年の暮れ、正月一番に、そして今日の合同祈願と3日間続けて御願してきました」

「そうか、ご苦労さんであった」区長の岸本さんは苦笑いで清吉を労った。

確かに清吉は3日連続で凌雲寺を訪ねて祈願したが、村の安全ではなく、ヤギがたくさん生まれますように、牛が元気に早く成長するようにと祈ったのである。清吉にとって村の行事は関心がなく、ただ酒とご馳走に有りつける場が欲しかっただけである。清吉は右手を失ってから村の行事を避けるようになっていた。踊りが盛んな村であるが片手の踊りは存在しなかったのである。清吉が得意げに席に戻り隣の男と酒を酌み交わしていると誰かの話し声が聞こえた。清吉の席から離れ縦列の最後尾付近からであった。その声は声を潜めた物言いであったが明らかに清吉の耳に届くように話していた。座は既に酒に酔った村人の集団に変わり雑談が飛び交っていた。

「毎日酒を食らって村中をブラブラしている男の祈願が通ると思うかい」

「村のことは何一つしないで酒の座で偉そうなことを言っていやがる」

「アイツが出来るのはバカな歌を大声で歌って自転車でブラブラ走り回るぐらいだ」

「歌が上手ければ我慢できるがな。あの歌が聞こえると俺の家の番犬のシロは小屋の中に避難するぜ」

「お前のところのシロにとっては空襲警報かよ、言えてるな」「ハハハ、・・・」と4,5名が大声で笑った。

清吉は手酌で飲んでいた。区長は清吉の様子とチラリと見た。乱暴者が鳴りを潜めているのが見て取れた。青年会の若者を呼んで清吉の話をするなと伝えさせた。しかしその男ども酒で気持ちが大きくなっており次第に声が大きくなっていった。区長は苦り切った顔で成り行きを見ていた。話好きな酒飲み共は清吉が黙って酒をのんでいるのに調子を出して悪口を言い続けた。その中の赤ら顔の男が言った。

「大体よ、片手でお祈りして神様に願い事が通るかよ。片手で出来るのはちょっと失礼と飲み屋の女の尻を触る時ぐらいだぜ」

「そりゃあ、お前の得意技だな。アハハ!」

「俺んちの猫のタマ公は毎朝真剣に片手でお祈りしているぜ。美味しい朝飯が出ますようにとな」

「そりゃあ、お祈りではなく顔を洗っているのだよ」

「エッ、そうかよ。知らなかった。ちげぇねーや。」「ハハハ、・・・」座が次第に盛り上がって行った。

清吉が立ち上がって笑いの渦の席にやって来た。

「何を笑っているのか」清吉が言った。

「なに、こいつの家の猫が上手に顔を洗うと話していたのさ」と一人が言った

「その前だよ、片手がどうのと話していただろ」

「ああ、こいつの家の猫は片手てで顔を洗うと話していたのさ、アンタと何か関係あるのかい」

「おまえら、俺が片手だとバカにしているな」

「チェッ、片手だとヒガミぽくなって行けねぇーや」

「誰だ、今、片手だと言ったな」

「さーな、片手は片手さ、トカゲの尻尾じゃあるまいし今更生えて来るものじゃないぜ。いい加減片手がどうのこうのと人に絡むのは止めてくれんかね。祝いの酒が不味くなるぜ」子供たちが恐れていることで、日頃から怨みを持った男が酒の勢いで言い切った。

「この野郎、ぶん殴るぞ」清吉がその男に向かって言った。

「やってみなよ片手野郎」その男が立ち上がって顔を突き出して言い返した。

清吉の右手の棍棒と化した前腕がその顔を張り飛ばした。男が頭を抱えて尻もちをついた。近くの男たちが一斉に飛びかかった。清吉は次々と酒飲み共を右手の棍棒でなぎ倒した。酒飲み共は座卓の上に転がり正月ご馳走が辺りに散らかった。清吉が仁王立ちになって当りを見渡した。その瞬間後ろにいた青年が茣蓙の端を強く引いた。清吉は床の上にもんどり打ってひっくり返った。青年は茣蓙を清吉に被せて自分の席に逃げ帰った。悪口を言って張り倒されていた男どもが一斉に立ち上がり清吉を蹴り飛ばし、茣蓙に丸め込み公民館の外へ押し転ばした。

「皆で寄って集って殴りやがって卑怯だぞ」

「やかましい。大酒飲みめ、家に帰って寝ろ」区長の紀夫が清吉の草履を投げつけた。

「ふん、クソッタレ共め」捨て台詞を残してびっこを引きながら音程の外れた流行り歌を大声で歌いながら出て行った

「青年たち其処を片付けてくれ」区長の紀夫は元の場所に座ってコップの酒を一気に飲み干した。殴られた男どもが頭や腹を擦りながら言った。

「アイツの腕は棍棒と同じだな。素手で向かうには勇気がいるぜ」

「全くだ。手無し清吉、片手清吉ではなく。棍棒持ち清吉と呼ばねばいけないな」

「おい、立っていないで座りなさい」区長に促されて皆が座った。元の穏やかな宴席に戻った。区長の紀夫は踊りの三味線で地唄を指導している平助父さんに言った。

「平助兄さん。あの暴れ牛の清吉はアンタの前では大人しいと聞いているが何とか意見して下さいよ」

「あれは殴られても本気で怒らないよ。あれが本気で怒ると病院に行く者が出るよ。フフフ・・」と笑った。

「そのようだな。しかし、あいつの歌はどうにかならぬかね。夕暮れ時の悪い時報だがね」

「ハハハ、確かにな。後で言っておくよ」

「アイツの親父も爺様も村でも評判の三味線引きで良い声をしていたがな。親父の酒癖の悪さだけを受け継ぎやがって。全くしょうもないな」そう言ってグラスを手にした。

平助父さんは悲しそうな眼をして窓の外に視線を移してボソリと言った。

「あれの唄三味線は私と較べられないよ。親父とも比べられないし、幸地名人を思い出すよ」

「うん、何か言いましたか」区長は誰かの酒を受けたらしく聞き逃したらしい。

「いやいや、わしが後で強く言っておくからゆるしてやれ」

「分かっていますよ。あれでも村の年寄りには優しい男だ。爺さん婆さんの畑仕事などを手伝っていると聞いている。手を失って拗ねているだけだ。根が悪い男ではないさ」そう言って次々とやって来る村人の杯を受けていた。

平助は清吉の中に先の戦争で有り余るエネルギーを処理しそこなった男が、時代の変化を受け入れることが出来ずにもがいている姿を見ていた。

この騒ぎで清吉が変わるわけもなく、村人は暴れ牛にも似た男が村内に居ることを改めて思い知らされただけだった。ただ、清吉への陰口が「棍棒持ちの清吉」と呼ばれることに変わったのであった。

 (13)

 清吉の7歳年上の姉良子は大戦前に隣村の岸本正治と結婚して那覇で暮らしていた。夫は金物店で働き、良子も子育ての合間に雑貨店で働いていた。二人の男の子が中学校に上がった頃に戦火がひどくなり夫の実家に疎開してきたが、たちまち米軍の捕虜となり終戦を迎えたのである。正治は軍属であったが妻子を実家に送り届けるため、所属する小隊長から1日の許可を得て帰郷したとたん米軍の上陸をうけて捕虜となったのである。11月に羽地の収容所から解放された後は那覇には戻るも、住んでいた賃貸住宅は焼け野が原の瓦礫の中に埋もれていた。その頃は中部地区が軍作業で活気を見せており実家に妻子を残して軍作業に従事した。金物店で働いていた知識を生かして雑貨の仕分けをする部署に配属された。1年後に妻子を呼び寄せた。良子も正治の職場の上司のツテで米軍の売店USOに勤務することが出来た。長男が高校を卒業して日本本土に就職すると、良子は自ら雑貨店を始めた。商品は米軍からの払い下げ品が中心であった。正治が米兵の小遣い稼ぎとして未使用の在庫整理品を安く引き取って来たのである。戦闘靴からカバン、帽子、サングラス、ジッポライター、ライター油、缶詰類、衣類まで米軍の日用品が並べられていた。店はBC通りからコザ十字路に向かって少し下った場所にあった。1階が店で2階が倉庫であった。自宅は店から歩いて10分のコザ中学の近くの未だ住宅が多くない場所で米軍将校が一時住んでいた中古住宅を土地付きで買った。コンクリートブロック造りで押し入れの無いやたらと広い間取りの5部屋にシャワー室と洋式トイレが付いていた。米国人の住まいは何もかも大ざっぱであり、日本人には相性が合わず安値で手に入ったのだった。見晴らしがよい敷地だけが取り柄であった。正治は酒が入ると金を貯めて建て替えたいと度々妻の良子に言っていた。

 通称BC通りは嘉手納エアベース・センター・ストリートの略称であった。ゲート前から400m程の幅広い道路が県道に突き当たっていた。突き当りがコザ警察署である。警察所の2階からBC通りが一望出来た。基地の検問ゲートを出ると100m程は基地警戒エリアの見通しの黙認耕作地とバラック小屋があり、BC通りの看板の横から繁華街の表通りが警察署の道路向かいまでの両側に続いていた。道路に面した路地にも酒場が点在していた。片側1車線の道路だが路肩は車線同様の幅があり。歩道も広く大王ヤシが列をなして植栽されていた。ライブハウス、ステーキハウス、カウンターバー、ハンバーガーショップ、イタリアンレストラン、外人向けのTシャツや沖縄土産品専門店、質屋、洋裁店、楽器店など赤、黄色を基調とした色とりどりの店舗が並んでいた。完全に米国の歓楽街であった。路地に入ると小さなバーが両側に50mほど続いていた。この歓楽街が本格的に目を覚ますのは日曜日を除く午後5時を過ぎてからであった。インド人の経営する洋裁店以外は大戦後に県内各地からやって来た特異な人々であった。正治夫婦が経営する岸本商店は質屋との取引があった。1950年に朝鮮戦争が始まると兵隊共は活気づき金遣いが荒くなった。BC通りは一気に活気づいた。BC通りにおける質屋の役割は、日本の貧乏人の詰め所と異なり、米兵が金目の物を質屋で換金して飲み屋に繰り出す両替所の役割であった。米国から持って来た腕時計、ライター、帽子、サングラス、靴など捨て値で一夜の享楽の資金源に替えて遊び、戦地に向かうのであった。朝鮮動乱が終結するとすぐにベトナム戦争が起こり、BC通りは衰えることなく夜の帝国を繫栄させていったのである。基地内でも安い米国産のステーキが食えるが、極上の沖縄県産のステーキを米兵は食べるのだった。インド人の洋裁店はスラックスの注文を受けて翌日には仕上げた。スラックスに派手な柄のTシャツ姿で夜の町に繰り出すのが米兵の流行りとなっていた。軍服を着用したまま繁華街での飲食が禁じられていたのだ。夜の繁華街は警棒に軍用大型拳銃コルトを携帯した米軍憲兵MPが二人一組で巡回警備していた。喧嘩や不良行為はたちまち警棒で殴られ手錠を掛けられて基地内の営倉ぶち込まれた。但し米兵相手の喧騒だけであった。米兵の沖縄人相手の喧騒はコザ署員が立ち会うも収拾するだけで米兵はおとがめなしの無法地帯であった。

 正治は基地内の仕事帰りに高良勝造の経営する質屋に立ちより売れそうな小物を引き取っていた。代金は翌日か翌々日に妻の良子が昼間に支払いに行っていた。勝造の「PAWNSHOP・TAKATA 宝質店」昼間は日本人相手の販売店で夜は米兵相手の買取り店であった。昼間は女子事務員が客対応をして午後5時以降は勝造が店に座った。勝造は大抵3時過ぎに店にやって来て店の奥の部屋で買い付けた商品の手入れをしていた。良子は毎月2回程度、宝質店に3時過ぎにやって来て支払いをした。店に入るとレジの前に立っている女性に声を掛け、店の奥の接客室で支払いをしてコーヒーを1杯飲んで引き上げるのが常であった。自分の店には「只今外出中、3時半に戻ります」の表示をしていた。

良子は50歳中半に見える勝造に好感を持てなかった。禿が半分進んだテカテカ光ったオールバックの頭、セリ出した腹、脂ぎった顔に二重顎、短く太い右手の薬指にグリーンの石が入った金細工の施された大きな指輪、成金主義を見せびらかした態度が育ちの卑しさを放出している気がした。しかしコーヒーだけは美味く、気の進まぬ支払いの30分を我慢できたのだ。

 昼間のレジ係の女は25歳程度であろうか。「オヤジはいるかい」。「社長は奥です。岸本さんがお見えです」以外の会話をしたことは無かった。勝造が「幸子コーヒーを入れてくれ」と指示することから女の名が幸子であることを知っていた。そして勝造の態度から勝造の色女であると容易に推察できた。女が日本人客と対応する時の声から本島北部の訛りが僅かに残っているのを感じた。

8月の暑い日の昼下がり、良子は支払いの為勝造の質屋を尋ねた。店番の女は勝造は那覇まで出ており今日は5時閉店だと困った顔で言った。良子が帰ろうとすると女が言った。「この暑い中を直ぐ戻るのは大変でしょう。コーヒーを入れますから少し休んでから帰って下さい」そう言って接待室のドアを開けて勧めた。良子はありがたいと思い言われるままに部屋に入った。女はいつもの様にコーヒーをトレーに入れて持って来た。小振りなケーキが添えられていた。

「姉さん、やんばる北部の方ですよね。屋部村あたりかしら」女が言った。

「ええそうよ。随分前に旦那と二人で村を出て那覇で働いていたけど、戦後は軍作業員でコザに来て居座っているのさ。アンタもやんばる訛りが少しある気がするけど」

「ええ、戦後に中学を出て直ぐに屋部村を出て那覇の街を転々としていたけど勝造さんに拾われて此処にいるの」

「村には帰っていないの」

「うん、父は避難中に羽地の収容所で死んで、母も私が中学を卒業する少し前に病気で死んだので肉親はいませんわ」

「戦争で肉親を失った人が多いからね。でも親戚はいるでしょう」

「ええ、父さん母さんは本部から来たので近い親戚は誰もいないの。それに」そう言って幸子は言葉を詰まらせた。

「それに、どうしたの」良子が気になって問い返した。

「母が病気したことで、実家の近くの久護家の叔母さんから借金して逃げて来たの」

「そう、それで借金は返したの」

「ええ、その借金を肩代わりしたのが勝造さんってわけです。」

「そう、苦労したのね」

「勝造さんの子供を産めと言われているけど、こればかりは神様が決めることだし」

「そうかね。屋部の人だったんだね。ねぇ、幸子さん、仕事が終わったら夕飯の買い物のついでに私の店に来なさいよ。お喋りをしたら気も紛れるわよ」

「勝造さんに叱られるは、ヤキモチ焼きだから」

「私の店に寄ったと言えば大丈夫さ。うちは勝造の品物を買って上げているから。お得意さんだし」

「ええ、有難うございます。私も夜は大抵インド人の店で裁縫の手伝いをしているの。僅かな賃金ですがね。気が紛れるから」

「良いことよ。女も手に職を持つべきよ。私なんか雑貨屋の女将しか能が無いから」良子がケラケラと笑った。幸子もクスクス小声で笑った。

店の扉に付けた呼び鈴がカランカランと鳴った。幸子は「ハーイ」と言って立ち上がった。良子も「御馳走さま。明日又来るわね」そう言って照屋質店を後にした。熱気がBC通りのアスファルトに跳ね返って押し寄せて来た。陽炎が昼寝中の歓楽街に包むように揺れ動き、現実と狂気の世界の境界を見失わせていた。

 幸子はインド人の洋裁店が休みの日曜日の夕方に良子の店を訪れることがあった。コーヒーと菓子を持って来て良子と雑談を楽しんでいた。時には良子の代わりに店番を手伝った。尤も良子の店は午後8時には閉店するので、幸子の帰りが遅いと勝造に怒鳴られることも無かった。それも2週間に一度の程度であっただろう。

 その日の6時頃、幸子がやって来た。店に出ていた良子が店裏の控えの間に戻って来るとコーヒーを入れて幸子が座っていた。良子が椅子に座ると幸子が顔を両手で押さえて泣き出した。「私、あの男の元に居たくない。死にたい」と肩を震わせてすすり泣いた。「どうしたの、訳を言いなさい」と良子が言うと

幸子は立ち上がってブラウスを脱ぎ去り、背中を良子に向けた。幸子の白い肌にいく筋もの鞭で打たれた跡があった。幸子は激怒した。同じ村の若い女を虐待したことへの怒りである。「勝造の奴、私の村の娘になんてことをするんだ。ただでは済まさないからね」怒りに声を震わせて小さく言いきった。

「幸子、あの勝造の元から逃げる度胸はあるかい」

「ええ、もうどうなっても構いません」

「よし、分かった。私に策がある。後戻りは許されないよ」

「ええ、姐さんの言う事なら何でも聞きます」幸子が震える声で返事した。

良子は商品棚から軍用の小型のスーツケースを持って来た。

「これに普段着を1週間分だけ詰めなさい。家を出たことが解らないように洗面道具も残して気付かれない程度の化粧品だけにしてね。フッと消えてしまった様子にするのです。まるで神隠しにあったと思わせるのよ」

幸子はブラウスのボタンを閉めて身づくろいしながら言った。

「姐さん、何か村芝居のヒロインになったみたいね」嬉しそうに言った。

「こら。泣き虫は今日までにしてよ。後は何かあっても後戻りせずに前だけむくのよ」

「はい。荷造りの後はどうすればよいのですか」

良子は手招きして幸子に耳打ちした。幸子は意を決した顔で大きく頷いた。

「良いですか。今日は私の所に来たことは誰にも言わないでよ。何か買い物をして帰りなさい」

「はい」幸子は明るい声で言った。

「だめ、もっと落ち込んだ顔をして、お芝居の幕は今開いたのよ。客席から皆が見ているのですよ」

幸子はハッとして表情を硬くした。「その調子、裏戸から出て行って」良子が言った。幸子は紙にくるまれたスーツケースを手に帰って行った。

 質屋に戻ると幸子は咳き込みながら勝造に言った

「風邪を引いたみたいですから休みます。お帰りになる時にお店の戸締りをお願いします。一晩ゆっくりと寝ると治るとおもいます」2階に上がるとガチャリと内カギを掛けた。その音が階下の勝造に聞こえたのだろう。「役立たずの女が一人前に風邪を引きやがって」と言って手に持っていた貴金属を磨く布をテーブルに放り出して店に出た。勝造はいつもの通りに午後10時に店を閉めてBC通りから路地に入り、馴染みのスナック『バロン』でキープしていたウイススキー、ホワイトホースのダブルを2杯飲んだ。スナックのマスターに役立たずの女給に難儀しており、そのうち換えようかと思っていると愚痴をこぼした。ピーナッツを一粒ずつ口に運び、ちまちま酒を飲んでいる勝造には予期せぬ事態が既に始まっているとわかるはずも無かった。

 問題の起きた朝、幸子はいつもの様に照屋質店を午前10時に開店した。そして12時になると「昼食と所要の為午後3迄閉店致します」の張り紙を内側から張った。張り紙は初めての出来事であった。裏口から一人の女が出て来た。麦わら帽子を深めに被り、強い日差しを避けるよう麦わら帽子を折り曲げて顔までぬぐいを巻き付けていた。作業着に似た長そでのグレーの上着に長ズボン、踵の低い靴、そして布袋は箱にも似た荷物を入れて手にぶら下げている。袋から小さな箒の柄が飛び出しており、今しがた宝質店の掃除を終えたばかりの掃除婦のおばさんに見えた。女は店の表のBC通りに出ず、路地に消えて行った。

良子の岸本商店には本日法事があり、閉店します。明日から平常通りに営業いたしますと張り紙がしてあった。良子は夫の正治にも父の兄弟の法事があり、久しく線香を上げていないので実家に行って来る。ついでに母の様子も見て来ると話してあった。12時30分、岸本商店から少し離れたバス停留所に那覇発名護行の東回りの琉球バスがやって来た。麦わら帽子の女が一人で乗り込んだ。停留所前の商店主と立ち話をしていた良子がバスの運転手にクラクションで促されてバスに向かって足早に歩きだした。商店主が「気を付けてね」と後ろから声を掛けた。良子はバスに乗り込む前に振り返って商店主に手を振った。手にしたバスケットには先ほど買い求めたアンパン2個ととオレンジジュースが2本が入っていた。幸子と共に乗車していないことを示す良子の巧妙なアリバイ作りであった。BC通り界隈の業者は幸子と良子が同じバスに同乗していると思う者はいなかった。幸子はこのBC通り界隈から忽然と消えてしまった。

 バスは具志川村の平良川から栄野比の交差点を左折して石川市の東恩納を右折した。幸子は後ろの席で麦わら帽子をかぶったままであったが手ぬぐいだけをを取って濃く大きめのサングラスを掛けた。石川の市中を過ぎると乗客は幸子と良子を除いてすべてが入れ替わった。恩納村の伊芸集落に入ってから良子は席を立って幸子の隣に座った。そして右手でポンポンと幸子のギュッと固く握りしめた手を優しく叩いた。幸子が初めて安堵した様子で大きく息を吐いた。良子はバスケットからアンパンとオレンジジュースを取り出して幸子に渡して言った

「言われた通りに店を出たかい」

「ハイ」幸子が小さく頷いた。

「この格好だと、お前が店から出たとは誰も気づかないね。何処から見ても掃除婦のおばさんね」良子がクスクスと小さく笑った。そして真顔になって言った。

「幸子、お前を助けたのには理由があるのさ。私には7歳下の弟が村に残って母と暮らしている。図体ばかりデカくて30歳を過ぎても独り身の暴れ牛みたいな男だ。お前を弟の嫁にすればあの勝造も手出しは出来ないと思うのさ。母も年老いて来たし器量の良いお前がいると安心だからだ。どうか受けてくれないか」

良子は両手を合わせて拝むように言った。

「ハイ、勝造から逃げられるなら贅沢は言いません」と幸子小さく頷いた。

「ありがとう。私が毎月1回里帰りするのも母を心配してなのだよ」

「良子姉さんの弟さんはどんな方なのですか。会う前に少しでも教えてくれないかしら。闘牛場の暴れ牛の嫁さんでは困ります。人間でしょうね」幸子は真剣なまなざしで言った。

「ハハハ、闘牛場の喧嘩牛ではないよ。でも牛みたいに力持ちで本当の牛飼いだよ」

「ああ、良かった」幸子が初めて穏やかに笑った。

「幸子は早くに村を出たらしいから知らないだろうね。名前は清吉と言うのだ」

幸子は清吉と言う名に微かな覚えがあった。

「私は戦前に結婚して那覇に出ていて清吉の若い頃の事はよく知らないけどね。何でも戦時中は護郷隊の屋部支部青年部の会長をしていたらしい。当時屋部に駐屯していた陸軍の部隊長の小間使いをしていたらしけど、私たち夫婦が那覇から逃げて来た時は既に部隊は全滅していて清吉が何をしていたの分からないのだよ」そう言って幸子を見ると真赤なった顔をして肩を震わせていた。

「幸子どうしたのかい」良子が不思議な顔をして訊いた。

「清吉兄さんのことは覚えています。私たち小学、中学の女生徒との憧れの方でした。私みたいな汚れた女に相応しくないわ」赤くなった顔からポタポタと涙を落した。

良子は幸子の肩を抱いて言った。

「ばかな子ね。今の清吉は昔の清吉と違うわよ」

自分の憧れの人を馬鹿にした幸子に向かってキッとした眼差しを向けた。

「ハハハ、清吉はね。手榴弾で密漁をするつもりが自爆して右手が無いのよ。

右の頬には火傷の跡が残っているし、左足にも被弾して少しビッコ引くのよ。あれは度胸だけは相変わらず村一番で、おまけに生まれつきの頑固者と来ている。片手になって余計に腕力が強くなってしまい、屋部乱暴と言われる村でもあれに喧嘩を売る者はいないと区長さんが嘆いていたよ。だから暴れ牛と言われるのだよ」

幸子の目は既に宙を漂っており憧れの恋人に会える喜びに震えているようだった。良子は現実とのギャップが心配になっていた。

「幸子姉さん。私こんな婆さんの格好で清吉兄さんに会っていいかしら」

まるでスターに会う前の少女に戻った幸子にあきれてしまったが、後戻りは出来ない成り行きになったことを諦めるしかなかった。

バスを名護町のバスターミナルで乗り継ぎ、屋部村役場前で二人は降りた。時刻は4時を過ぎていた。良子の実家へ向かうフクギ並木は真夏の暑さを遮るように長い影を作っていた。

屋部の集落を台風から守るフクギの屋敷林(樹齢100年以上)

 幸子は10年ぶりに故郷を訪れたことになる。フクギ並木は何も変わっていなかった。幸子の家は村の西の兼久と呼ばれる砂地にあったので古くからあるフクギの屋敷林の中で生活したことは無かった。ただ学校の行き帰りに村のフクギ並木の中を通学しただけであった。清吉の家は屋部川に近い完全にフクギに囲まれた地域の中程にあった。うっそうとしたフクギに囲まれた屋敷の門を入ると広い屋敷と古ぼけた赤瓦のさほど大きくもない家があり、トタン屋根の納屋が少し離れてあった。

「お母さん、今帰りました」良子の呼びかけに60歳過ぎの女性が縁側に出て来た。

「お帰り良子、正治と子供たちは元気かい」

「はい、相変わらずです。今日は前から頼まれていた清吉の嫁さんを連れてきました」そう言うと幸子を母の前に進めて紹介した。

「幸子です。10年前まで兼久に住んでいた具志堅正一の娘です」

「正一さんの娘さんねー。お父さんたちは本部から来たんだよね」

「はい、中学を出て那覇に働きに出ていました。コザに仕事で来てから良子姉さんと知り合いました」

「そうねー、良子、外で立っていてもだめだから家に入ってもらいなさい。もうじき清吉も帰って来るから」

「幸子さん、家の中に入って」良子に促されて家の中に入った。

清吉の家は土間と板の間が半々となった台所と床の間、仏壇の間、その裏に2部屋の裏座敷があり、4部屋の居間の造りであった。古い家の基本的な構造であった。しばらくすると音程の外れた歌謡曲の歌声と共に誰かがやって来て、納屋の近くで自転車を止める音が聞こえた。

「オカア、今帰ったよ」そう言って大男が台所からノソリと現れた。

「あい、姉さん帰っていたの」そう言ってタオルを手に、今しがた井戸端で洗った足を拭きながら居間に入って来た。そして姉のそばに座っている女を見た。

「姉さん、美人のお客さんは誰だい」と言った。

「兼久の具志堅幸子です。清吉兄さんが護郷隊の会長をしていたときは中学1年生でした」手を床について丁寧に頭を下げた。

清吉は古い記憶を探り出すように幸子を見ていたがパチンと右腕を左手の上に当てて言った「思い出した。あの泣き虫の幸子か。確か勝美橋から落ちて浅瀬でワアワア泣いていたのを土手引き上げて、ワシが家まで送ったことがあったな。お前の親父は俺が泣かせたと勘違いして棒で追いかけて来たぞ」

「すみません」幸子は真赤になってうつむいた。

「まあ、昔のことだ気にするな。お前も早くに親父が無くなって那覇に出て苦労したんだろうな。中々美人になったが今はどうしているのかな」

「はい、幸子姉さんと同じコザで働いていました」

「清吉、立っていないでそこにきちんと座りなさい」良子が言った。

清吉は姉に睨み付けられてタオルを首にかけて床に座った。

「清吉よく聞け、幸子はコザで仕事をしていたが悪党のスケベ爺に追われて困って私の所に逃げて来たのさ。それでお前の嫁にするからこの子を守ってあげなさい。30歳を過ぎても村内からバカ歌をして歩き回るのを止めて人助けの一つでもしなさい。幸子さんこのバカで良ければここで暮らしたら良いですよ。嫌ならコザに帰ってもいいんだよ」

「清吉さん、お母さんここに置かせて下さい。お願いします。他に行くところはありません」すすり泣くような声で言った。

「清吉、幸子さんはお前にもったいない嫁だよ。私の齢も考えておくれ、私も嫁がほしいのだから」母親の敏子が言った。

困った顔で3名の女を代わる代わる見て戸惑っている清吉にしびれを切らした良子が強い口調で言った。

「清吉、お前のような片手で不細工な顔の男に美人の幸子さん以上の嫁が来ると思うか。ハイと返事しなさい」良子床をパンと叩いた。

「ハイ、有難くお受けいたします」清吉が正座して姉に頭を下げて言った。

「清吉兄さん、それは私が言う言葉ですわ」幸子が笑顔で笑うと清吉が

「ちげぇねーや」大声で笑った。座が一気に和んだ。良子は安堵した。乱暴者の清吉を幸子が受け入れてくれるか心配であったのだ。

 良子は幸子を残して翌朝のバスで帰って行った。清吉の母敏子は新しい嫁の幸子を伴なって公民館やら売店やら親戚筋の挨拶に回った。清吉は付いて行かなかったが母の敏子は全く気にしなかった。何しろ暴れ牛の息子に天から降って来た天女のような垢抜けた飛び切りの美人嫁が来たのだから。

 敏子は3時過ぎに幸子を連れて芋堀に出た。夏の日差しは未だ衰えず、畑に着く前に平助の家に立ち寄った。幸子を紹介しながら茶飲み話で日差しの和らぐのを待つためでもあった。既に豚を手放しており、芋はおやつ用の甘みが強いが収量の少ない品種に切り替えてあった。日暮れ前の1時間で済む作業であった。普段は清吉が畜舎の帰りに掘って来るのだが、幸子の退屈しのぎに連れていたのである。青年期を繁華街で暮らしてきた幸子から、敏子の知らない幾つかの芋料理の話を聞いており、それを調理してもらうつもりだった。

平助は茶を勧めながら、最近のコザの街の話や良子の店の話などを聞いていた。そして、幸子は清吉が調子はずれの歌謡曲を歌って帰って来ることを話すと、平助は大笑いして言った。

「敏子さんよ、アンタの旦那は村一番のエイサーや豊年祭の三味線引きだったな」

「ええ、みんなから褒められて私も鼻が高かったよ。清吉は大酒飲みの所だけお父さんに似てしまって困ったものです」

平助はタバコの煙を長く吐き出しながら言った。

「幸子さん、私が清吉に三味線を教えたのだが、もう私は清吉に及ばないよ。

アイツはヤギと牛の前だけで唄三味線をするので誰も知らないだけだ」

「お父さんの三味線が無いと思ったら清吉が家畜小屋でヤギと牛に聞かせていたのかい。あの三味線は親代代から受け継いで来た楽器でお父さんのお気に入りだったわ」

「ああ、確かに良い音が出ていた」

「でもさー、清吉の声ではヤギも牛も後ろを向いて耳を押さえていないかねー。ハハハ、」敏子は笑った。

「お母さん」と幸子が敏子の肩を軽く叩いて一緒に笑った。

「ま、幸子さん一度聴いてみると良いでしょう」平助がニコニコしながら言った。

「平助兄さん、お茶御馳走さん。芋を少し掘ってこなくちゃ」敏子が立ち上がった。幸子も一礼して鍬を担いで敏子の後に続いた。

 坂道をしばらく登って畑に着いた。少し先に清吉のいる家畜小屋のトタン屋根が見えた。幸子は2,3日前に清吉に連れて来てもらい知っていた。

畳1枚ほどの面積のイモの蔓を鎌で刈り払い、敏子が鍬で芋をほり、幸子が芋に付着して土を手で捻りながら落としてカマスに入れた。一抱え程の芋ズルは丸めて棕櫚縄で作ったモッコに入れた。太陽はようやく嘉津宇岳の尾根にすり寄って来て昼と夜の当番を交代するための打ち合わせを始めていた。

「幸子さん。このモッコを家畜小屋に持って行って、清吉にこのカマスの芋を自転車に積んで家に持ち帰って来るように言って」そう言って手に着いた土をパンパンと叩いて払い、エプロンで丁寧に拭いた。

「私は先に帰っているから。ヤギに芋の蔓を食べさせるといいさ」そう言って鍬を担いで畑から小道に向かった。幸子もモッコを担いで小道に出て敏子と反対方向の家畜小屋に向かった。一抱えもあるモッコは見かけほど重くはなく直ぐに家畜小屋に着いた。清吉は牛専用のブラシで牛の体を擦っていた。

「清吉兄さん、お母さんが帰りに畑で掘った芋を自転車で運んでと言っていました」

「分かった。モッコはそこのヤギの草置き場に置いてくれ、すぐ行くから」

幸子はモッコを降ろして自転車に近づいた。いつも自転車の荷台に乗っている工具箱が今では茶飲み場所となった、豚の餌を炊くカマドある小屋のテーブルの上に無造作に置かれていた。セメントの丸タンクの蓋を開け、柄杓で水を汲んで手を洗い、乾いた喉を潤した。テーブルの前の長椅子に座るには工具箱の端がジャマになり、両手で持ち上げてテーブルの中央に動かした。工具箱は空箱の様に軽かった。

幸子は予期せぬ軽さに驚き、箱の蓋をスライドして開けてみた。中身は大工道具ではなく、三味線と奇妙な形をした筒にヤギの角を加工したらしい爪に似た一品が付いていた。幸子があっけに取られて見つめていると、いつの間にかすぐ後ろに清吉がニヤニヤして立っていた。

「清吉兄さん、三味線を弾くの。平助父さんが言っていたのは本当のことなのね」

「なに、ヤギと牛に聞かせているだけだ。こいつらが夜泣きせぬように寝かせつけるためにな」

清吉が牛のたわしを小屋の棚に置いてタンクの前に来た。幸子は柄杓で水を汲んで清吉の手にかけた。そして腰から手ぬぐいを取って清吉に渡した。清吉は手を丁寧に拭いて幸子の差し出した柄杓からごくごくと喉を鳴らして水を飲んだ。

「清兄さん今日は私が夜泣きしないように三味線を引いて」上目遣い言った。

清吉は工具箱から三味線を取り出して長椅子に座った。

「お前もそこに座りな」そう言って長椅子を跨いで斜めに座り、尻をずらして幸子の座る場所を開けた。幸子は清吉の持つ三味線の竿に邪魔にならぬように座った。短い長椅子に二人は寄り添うように腰かけた。残照が嘉津宇岳から安和岳の上にたなびく雲を赤く染めていた。スンジャガーの森がシルエットになり始めていた。清吉はチンダミ(調弦)をしてから言った。

「伊野波節を知ってるかい」

「ええ、村の豊年祭でも歌われるでしょう。好きな唄だわ」

「そうか、ではお前の為に歌うことにしよう」そう言って歌い出した。

『伊野波坂の石くびり、無蔵ぬ・・・・・』清吉の声は低く、重く、幅が広く、腹の奥から響き出るように西屋部川に降りて行った。(唄の意味は、伊野波の石くびり坂を、愛しい女性と一緒に上ると、もっとこの坂が遠くまで続いて欲しいと思うのである)屋部集落の豊年祭の組踊の忠臣仇討の劇中の唄の無い劇中挿入曲としても使われている。親を討たれた幼き主人公が復活を期して田舎に落ち延びる哀しいシーンで使われている。朗々とした低く長い息継ぎを必要とする歌い手の力量が試される唄だ。清吉の6尺余りの体躯は誰にもまねできぬ重低音を薄れゆく残照の中に流し続けていた。幸子は清吉の唄は単に声の良さから来るのでは無く、何処かで空いてしまった心の空洞、或いは迷い込んでしまって出口を未だ探せない洞窟の深い闇から助けを求める声に聞こえた。幸子は両親を亡くして中学を卒業してすぐに那覇の街に出て、手に職もない女が通る夜の繁華街に迷い込み、桜坂通り、栄町の繁華街を転々として、借金の肩代わりとして勝造の女になり、コザのBC通りまで漂流して来たのだ。幸子は自分と同じ闇の中を手探りで明かりを求めてさ迷い歩く人間が他にもいること知った。しかも偶然にも闇の中で出会い、すぐ隣に寄り添って肌を接していることをひしひしと感じていた。この大きな男の背中の後ろを歩き、腰のベルトをしっかりと掴んで離さずに歩めば、いつか暗いトンネルの先に明かりが見えてくる気がした。幸子は清吉の背中にポロポロと涙を流した。清吉は演奏を止めずに2度、3度と弾いた。スンジャガーの上り坂が白く浮き立ったころ演奏を止めた。

「牛を寝かせる唄でお前が夜泣きしてはいかんぜ、幸子」そう言って三味線をテーブルの上に置き、体の向きを変えると幸子の小さく震える肩を抱き寄せた。

「ごめんなさい」と言ってひとしきり泣いた。

「どれ、母さんが心配するから帰ろうか」立ち上がり、ひょいと幸子の体を持ち上げギュッと抱きしめた。幸子が泣き笑いをして「だって」とだけ言った。

「ほれ、顔を洗いな」柄杓を取って水をすくい、幸子の前に差出した。

幸子はジャブジャブと顔を洗って手ぬぐいで葺いた。

「泣き虫娘、帰ろうか」そう言うと幸子が清吉の胸を両手でピンポンと叩いて笑った。「二度と俺の前で泣くんじゃないぞ」

「ハーイ」と嬉しそうに返事した。二人は家畜小屋を後にして芋畑に立ちより荷台に芋の入った麻袋を積んで夕闇が迫る集落のフクギ並木に消えた。

 良子は次の週に宝質店に支払いに立ち寄った。レジ係は新しい女に変わっていた。派手でハスッパな女に見えた。

「社長はいるかい」

「はげ親父なら中だよ。社長お客さんでーす」甲高い声で奥の部屋に声を掛けた。

「入るよ」そう言いて応接間に入った。この女既に勝造と出来ているなと思った。

「レジ係の女を替えたのかい。えらく元気で派手な子だね。前の無口な女子はどうしたんですか」

勝造が眉間にしわを寄せて引き出しから封筒を出してテーブルに置いた。

「読んでみなよ。頭にくるぜ」全く。

良子は辞表届けと書かれた封筒を取って中から1枚の紙を抜いた。

『拝啓、高良勝造社長殿、一身上の都合で本日をもって退職させていただきます。私事で恐縮ですが遠縁にあたる叔父から息子の嫁にとの誘いがありました。私も若くはないので申し出を受けることに致しました。社長様には本当に親身にお世話頂き感謝しております。また、かねてから私が嫁ぐ折には嫁入り支度金を出してあげるとの果報な申し出もありましたので、喜んで頂戴させていただきます。甚だ突然ですが叔父の迎えが参りましたのでこれにてお別れといたします。過分な支度金を有意義に使い倖せになりなます。社長もお体をご自愛くださいませ。  草々   

幸子より。』読み終えて良子は言った。

「ほう、ケチで有名な勝造さんだが持参金も出してあげたのね。見直したよ」

本心から感心したように言った。

「冗談じゃねーよ。あのアマ、レジの金をみんな持ってドロンだぜ」

「ハハハ、大人しい顔してあの娘やるもんだね。それで嗜好を変えて明るい娘に替えたという訳かねー」

「チクショウ、探し出してぎゃふんと言わせてやる」

「まあ、新しい女が入って気分転換になったし、善しとしなさいよ。コーヒーも出ないし帰りますよ」

「良子姉さん、幸子の噂を聞いたら教えておくれよ」片手を立てて拝むふりをした。

「ああ、分かりました。頭に入れとくよ」笑いを押し殺してソファーから立ち上がった。店を出ると冷や汗がどっと出た。それでも勝造が自分と幸子の関係を知らないことに安堵した。

 勝造はいつもの様に仕事が終わるとスナック『バロン』に立ち寄った。BC通りの場末あるうらぶれたスナックはバロン(男爵)とはかけ離れた店の佇まいをしていた。マスター勝造に言った。

「あの無口な女の子に厭きてハスッパな別の女を店番にしているみたいだな。アンタの趣味は分からないな」グラスを布で磨きながら言った。

「そうじゃねーよ。あのアマ、店の釣銭を持ってトンずらしたのよ。腹立つぜ」

「そいつは災難だったな」

「書き置きの手紙に結婚しますので持参金を頂きますだとさ」

「ハハハ、そいつは笑えるぜ」

「チクショウ、フン捕まえて尻を思いきり叩いてやりたいぜ。嘘だと思うがそいつの男がいたら腹に拳の一つでもぶち込みたいぜ」

「アンタの気持ちは分かるぜ。それであの娘何処の出だい」マスターが言った。

「それが那覇で拾ってきたのだが南部訛りが無かったのよ」勝造が首を傾げた。

勝造の近くで笑いながら話を聞いていたBC通りの土産店の男が言った。

「勝造さん、俺の生まれはやんばる羽地だがな。あの女は名護方面の出かな。うーん、そうだ確かに名護より西の屋部村方面だ。本部、今帰仁ではないな。ほんの僅かだが屋部村の訛りがあった気がする。」

「屋部村と言っても広いぜ、探せないがな」

「勝造さん、各村々には公民館があるだろ。そこの区長に訊けば分かるはずだ。

結婚した従業員にご祝儀を渡したいと言えば新婚さんの所在くらい直ぐに分かるぜ」マスターが言った。

「仕事を休んでやんばるの山の中の村々を歩くのかい。芝居の忠臣仇討じゃあるまいし」と勝造が嘆くと土産物店の店主が言った。

「コザの役場の総務課で聞けばよいのよ。各市町村の公民館の電話番号ぐらいすぐに分るさ」

「そうか、ありがとうよ。早速仕掛けてみる。ありがとうよ」そう言って土産物屋の親父とマスターのグラスに酒を注いだ。勝造の目に獲物を狙う獣の目の光りが灯った。

 勝造は翌日、早速コザ市役所の総務課を尋ねた。案ずることも無く屋部村地区の公民館の電話番号が分かった。BC通りの土産店に立ち寄り沖縄地図を買ってオヤジに礼を言った。「昨日はありがとよ。アンタの言う通り電話番号を調べたぜ。早速仕掛けてみるよ」そう言ってウキウキと質屋に向かった。

 先ず、屋部公民館に電話した。2度ばかり話し中であり、他の村の公民館に電話した。7つの公民館を1巡したが目的の新婚さんはいなかった。最後に屋部公民館に再び電話した。今度は電話の呼び出し音が鳴ったて男の声で「ハイ、屋部公民館です」の返事があった。

「もしもし、コザで土産店をしている宮城と申しますが、家の女性店員が屋部の方に嫁いだと聞いたのですがいらっしゃるでしょうか。私が出張中でご祝儀を渡していないものですから」そう言った。本名を名乗ると警戒されると思って偽名を使ったのである。

「ああ、先日お袋さんと挨拶に見えていましたよ。中々良い子でしたよ」

「そうですか、有難うございます」

「いずれ仕事の折を見て伺いたいのですが、旦那様はどんな方ですか。予備知識を持っておきたいものですから」勝造は慇懃に相手の機嫌を取るように話した。

区長は電話口で少し間を置いてから話した。

「よろしいですか、区民のことを悪く言うわけではありませんが、旦那さんは少し変わっておられて気性の荒い方です。暴れ牛とのあだ名があります。くれぐれも言葉使いにお気をつけて下さい。これ以上は申し上げられません。いらっしゃるときは村の者に尋ねて下さい、彼の住宅は誰でも知っていますから」電話から公民館への来客者の声が聞こえた。「失礼します」と電話が切れた。

勝造はいわれのない不安を覚えたがすぐに打ち消した。BC通りの酔っぱらった黒人兵に比べると赤子の喚き声程度だろう。所詮沖縄本島北部の山原の片田舎の元気な兄ちゃんだろうと思った。それでも幸子を尋ねるときには運転手を兼ねた腕っぷしの強そうな青年を頼むことにした。コザはエイサーの盛んな街であり、元気な若者は幾らでもいた。少し駄賃を弾めば雇えるだろうと思っていた。勝造の仕事が暇になり運転手兼ボディーガードの手配が付いたのは2週間後であった。幸子が消えて1カ月近く経っていた。

 幸子は清吉との暮らしに新鮮なものを見出していた。誰かと肌が合うとはこのことかと思った。とりわけ清吉の太い腕の中で眠ると過去の出来事が全て悪夢であると思えた。勝造のことを思い出すと吐き気すら覚えた。父母を早くに亡くしたことから母と呼べる人と暮せる嬉しさに毎日が楽しかった。それに田舎ではコザの街に溢れている不良米兵相手の警戒心を持たずにただ母の後ろについていれば何事も起こる心配がなかった。清吉の畜舎でヤギを見るのも楽しかった。清吉が刈り取った草を運ぶのも、母と芋堀に出るのも何もかもが新鮮な頃であった。田舎はゆったりと時間が流れており、コザの街の喧騒も不用意な出費も無かった。

そして清吉の三味線と唄を聞く度に清吉への情が深くなるのを知り、自分の居場所が見つかった喜びが湧いてきていた。

 (14)

 幸子が母に頼まれて夕食の食材を鮮魚店で求めて納屋の横の裏木戸から入り自宅の台所に向かった時である。2本フクギの幹の間から黒い車の屋根が見えた。角向かいの小さな空き地に見慣れぬ車が止めてあった。買い物かごを戸棚に納めてフクギの影から車の様子を見た。車の助手席に黒いパナマハットの小太りの男が座っていた。顔は見えないがあの男である。男の用件は一つしかないと解っていた。母は用事で川向こうの宇茂佐集落の良子の夫正治の実家に出かけてまだ帰っていなかった。最近は幸子が夕食の準備をすることがほとんどであった。幸子はフクギのヒコバエの間をすり抜け畜舎の清吉の元に走った。清吉はヤギに餌を与えて帰り支度をしていた。そこへ幸子が飛び込んで来た。息を切らして喘ぎ何も言えずに青い顔で清吉の前に座り込んだ。清吉は抱きかかえて貯水タンクの前に連れて行き柄杓で水を飲ませた。

「どうした」

「あの男が私を連れ戻しに来た。家の前に黒い車を停めて中に座って煙草を吸っていました。どうしましょう」涙目で清吉を見上げた。

「そうかい」清吉が何でもないように言った。そして自転車のスタンドを外した。

「後ろに乗って、落ちないように俺に掴まりなさい」

「大丈夫、子分らしき男が車の横に立っていたわ」

「牛小屋のハエみたいなものだ。叩き潰さねば何度でも飛んでくるから潰さねばいけないね」清吉の目が冷たく冷めた目で遠くを見つめていた。幸子は護郷隊の青年会長にしがみつく幼い中学1年生の女生徒のような気持になっていた。

 清吉は自宅の一つ裏の通りを廻って幸子を自宅裏のフクギの前で降ろして言った。

「そこのフクギの影に隠れておけ。俺がいつもの様に歌って納屋に自転車を入れてから台所に入りなさい。俺が呼ぶまで出て来るな」小さく言って穏やかに目配せした。幸子は清吉の静かで落ち着いた態度にこの人に全てを任せようと思った。フクギのヒコバエは幸子の体をスッポリと包んだ。フクギのヒコバエの枝の中は薄暗く長い沈黙が流れた気がした。やがて清吉のひどい歌声が聞こえて来た。そして清吉が自転車を納屋に納める音がした。幸子は言われた通りに台所に隠れた。清吉は納屋に掛けたカマスの中から黒い鉄の塊を取り出して左ただの上着の作業ポケットに押し込んだ。台所に向かう途中で「幸子今帰ったぞ」普段は言わぬ言葉で大きく呼びかけた。台所から「ハーイ」と甲高い声がした。台所の入り口の土間で手足を洗って幸子の渡した手ぬぐいで濡れた足を拭いていると二人の男が門から入って来た。一人は小太りでオールバックの頭の前半分が剥げていた。その横に黒いTシャツに黒ズボン、髪を短く刈り上げた肩幅の広い若者が立っていた。若者は清吉を威嚇するように鋭い目を向けていた。清吉は手ぬぐいを肩にかけゆっくりと歩いて二人の男に近づいた。そして台所の軒の柱の前で二人を待った。二人が清吉の4m程前に来た時に口を開いた

「どなた様かな。何か用事でも」穏やかで重く静かな口調で声を掛けた。

「お前に用事は無い。すっこんでろ片手野郎が。用事があるのはその女郎だ」

「ほう、俺の女房に女郎だと」清吉は悪魔が人に囁くような重低音でゆっくりと言った。脅すでもなくいきなり沸き上がった大きな波が呑み込むような気配と暗い洞窟から湧き出る殺気を含んでいた。勝造は一瞬怯んだが若い連れの男に言った。

「こいつを叩きのめして女を捕まえろ」

若い男は喧嘩馴れしているようで清吉の力を見抜いて動けなかった。

「社長、こいつは化け物です」

「ばか野郎、コザの中の街青年会の一番の暴れ者がビビるんじゃねぇよ、行け」そう言って腰を押した。押された青年が殴りかかった。清吉は棍棒と変わった右手で青年の腕を叩き、手を返して棍棒の先端を水月に打ち込んだ。青年はうめき声を上げて座り込んだ。

「幸子、お前をイジメていたのはこの禿オヤジかい」

「清兄さん、この男を吹き飛ばして」ヒステリックに叫んだ。

「そうか、可愛い俺の女房に飛んでくるハエは吹き飛ばすことにするか。こいつはなんて名前だ」

「高良勝造という質屋の親父ヨ」幸子が清吉の後ろで怯えるように言った。

清吉は左のポケットから黒い塊を取り出して言った。

「勝造さんこれが何か解るかい。手榴弾だよ。この俺の右手を吹っ飛ばした残りだ。女房の望みどおりに吹っ飛ばしてやるぜ。お前たち二人の血肉が飛び散って後片付けが面倒だが、惚れた女房の頼みだ」そう言って手榴弾をはっきりと見せて右腕の前腕と力こぶの間に挟んでピンを抜いた。勝造と若者が頭を抱えて地ベタに伏せた。清吉が大声で笑った。「勝造さんこれは爆発しないよ安心しな」

「脅かしやがってばか野郎が」勝造が言って立ち上がろうとした。

清吉は穏やかにバカにした口調で言った。

「戦争を知らないやつはこれだからいけねぇや。旧日本陸軍の手榴弾はピンを抜いただけでは爆発しないのだよ。信管を柱に叩いて雷管に火を付けてから爆発するんだよ」

勝造と若者が本気で恐怖の中に落ちた。「待ってくれ」勝造が言った。

「嫌だね。吹っ飛びやがれ」清吉が手榴弾の信管を柱に叩いて二人の前に放り投げた。手榴弾から白煙が噴き出していた。二人は本当に爆発すると思って両側に飛びのいて伏せた。10秒ほどの時間が立った。二人が顔を上げた。清吉は2個目の手榴弾を持っていた。

「不発かよ。幸子納屋の中に袋が下がっているから獲ってきな。爆発するまでこいつらに投げてやるから」

「分ったわ」幸子が納屋から重そうに工具袋を持って来た。

「清兄さんこれでいいの」

「古い手榴弾には不発弾もあって困ったもんだ」

勝ち戦さと知った女は強い。強い男の側に立つと弱い昔の男には少しの情も残さず全く容赦がない「ハハハ、」と高笑いして勝造に言った「ハゲ親父、不発弾なんてアンタみたいなもんだ。私の腹には清兄さんの爆弾が入っているのよ。アンタが護郷隊青年部の清吉会長に勝てると思っている、バカが。ションベン漏らして這いつくばっているんじゃないよ」冷たく突き放した。

「聞いただろ。勝造さんよ。アンタの質屋如きは何度でも爆破できるだけの弾薬がこの袋の中にあるぜ。試してみるかい」冷たい目で二人を見つめた。清吉は村上少尉の遺体を見たときの目をしていたのかも知れない。二人は本当に震え上がった。大戦の記憶をこの辺りの村の人々は忘れつつあるが、コザの街に住む勝造たちは、絶えず死体の周りを這いつくばって生きいる米兵が、繁華街で酔って見せるうつろな眼差しをよく知っているのだった。

「清兄さんが村内で暴れ牛と言われる意味が解ったでしょう。今ではアタシはその女房さ」勝ち誇ったように幸子が言い放った。勝造は女の変わり身の早さと恐ろしさを味わった。

「勝造さん、この手榴弾も不発かどうか試してみるかい」そう言って右腕に挟んだ手榴弾の安全ピンの紐を引き抜いた。青年が最初に「悪かった、俺はごめんだ帰るぜ、命がけの手間賃は貰っていないから。すいません」そう言って後ずさりしながら門に向かった。勝造も不満そうに立ち上がった。それを見て清吉が言った。

「せっかくだ、勝造さん、これも貰いな」そう言って手榴弾の信管を柱に打ち付けた。手榴弾から白い煙が出た。勝造が脱兎も如く門に走り出した。清吉が大きな声で「お土産だ」といって門の脇のフクギの根元に投げつけた。手榴弾はプシュッと音がしただけであった。清吉の屋敷の角向かいから高いエンジン音を響かせ、辺りに砂埃を振りまいて黒い車が走り出した。夕暮れのフクギ並木を帰宅中の村人は、砂埃を巻き上げて走り去る見慣れぬ黒い車を呆然と見ていた。

清吉は幸子の腹を触って言った「俺の爆弾がそこに入っているのか」

幸子は顔を赤くして「これから入るといいわね。ねえ、この袋危なくない」

清吉は笑いながら言った「これはただの工具袋だ。さっきの手榴弾も俺が本体の火薬を抜いていたのさ」

幸子は清吉の後ろから抱き着いて小さく言った「私の強いナイトの旦那様、惚れ直したわ。ドンドン手榴弾を私の中に打ち込んで下さい」

清吉は幸子から袋を受け取ると「お母さんが帰って来るぞ。夕飯を作りな」

「ハーイ」と幸子が嬉しそうに台所に向かって入って行った。古い柱時計がゆっくりと時を刻み始めた。

 この件はたちまち狭い集落に広まった。幸子は村人に聞かれるたびに言った。自分を連れ戻しにやって来たコザの街の高利貸しの爺とその子分の若いヤクザ者を清吉がさんざんに叩きのめして追い返したと自慢した。村人は清吉の手榴弾事件、村役場の弔慰軍人年金の件、村の集会で酒を飲んで暴れた事件などを再び思い出した。やはり清吉の暴れ牛のような荒々しさは消えていなかったのだと再認識した。幸子の自慢話は清吉の恐ろしさを助長しただけであった。ただ、幸子が手綱を握っておれば暴れ牛は暴走しないだろうとの期待が生じていたのも確かであった。

 (15)

 良子は勝造の質屋を尋ねた。店に来た客から勝造が若い男を運転手に雇い、山原を尋ねたとの噂を聞いたからである。むろん支払いが主な目的である。

「いるかい」とレジ係の女に訊くと「ハゲ親父は中でーす。社長、岸本の女将さんでーす」奥に声を掛けた。

良子は支払いを済ませてから「先週は山原に言ったんだって。こないだ店に中の町青年団の若いのが3名ばかりやって来て山原で騒ぎがあったと話していたけど例の女の件かい」

「女は見つかったさ。それが片手の暴れ牛の色女になっていたよ」

「それで諦めて素直に帰って来たのかい」

「それがよ、その6尺余りの大男が中の町の元気な青年団長を一発吹っ飛ばしやがった。それでも俺は文句の一つぐらいは言おうと思ってのよ」

「アンタのことだから一応の礼儀を教えたのだろ」

「ところが幸子の奴が闘牛のような大男の前にしゃしゃり出て喚き散らすのよ」

「まさか、あのおとなしかった幸子が」

「まさかもねえよ、あの女め。俺が那覇の栄町でみつけ、借金で苦しんでいるのを拾い上げて、借金の肩代わりまでしたのを全く忘れてさ、ボケだのハゲだのわめき散らしたのよ。興醒めしちまって引き上げたのよ。女は化け物だぜ。全く」

「そうかい、あの幸子がね」

「良子姉さんも山原と聞いたが何処だい」

「北部農林高校のある名護町に近い宇茂佐ですけど何か」

「そうかい、屋部の大きな川を越えると乱暴者がいるみたいだね」

「そうでしょう、あそこの村は昔から『屋部乱暴』と言って気性が荒いのさ。自分の所は名護町に近いので少しは垢抜けているけど、川の向こう側は田舎根性で怖い人が多いみたいね。私もうちの旦那も滅多にいかないよ」

「そうだろうな、正治さんとはえらい違いだ。難儀したけどあの女は片手の暴れ牛がお似合いさ。闘牛男にくれてやるよ。運転手の手間賃を損したぜ。女の件はおさらばだ」清吉に手榴弾で脅されてションベンを漏らした噂が立つと面目が潰れて商売に響くと恐れたのも確かである。

「そうかえ、くたびれ損でしたね。私は山原を出て20年近いが、里帰りしても川向こうの村には絶対に行かないことにするわ」そう言って良子は立ち上がった。今度の休みに実家に行ってみようと考えた。

 次の週に良子と朝早く経って実家に帰った。昼前に着くと幸子が洗濯物を干していた。まるでこの家の主婦の気配であった。良子が声を掛けると、

「あら、お姉さん」と言って振り返った。そして「どうぞ上がって待っていらして」と言った。良子はこの家の実権を幸子に奪われたことを理解した。おそらく清吉も幸子の尻に敷かれているに違いないと可笑しくなった。幸子が洗濯物を干して部屋に入って来た。台所でヤカンを掛けて石油コンロを点灯する音が聞こえた。

「どうだい、新婚生活は」

「清兄が何もさせてくれないので退屈しているわ」幸子はいつの間にか清吉兄さんから清兄と呼んでいた。

「籍は入れたのかい」

「ええ、今では比嘉幸子です。素敵な名前でしょう。フフフ」と顔を赤らめてエプロンで顔を隠した。

「何をはにかんでいるのか、25歳も過ぎた女が」と良子が言った。

「お茶を入れるわ」幸子が立ち上がった。

幸子が戻って来ると幸子に尋ねた。

「勝造の奴が訪ねてこなかったかい」

「ええ、うちの清兄が若い運転手と一緒にホイとやっつけたわ。禿げ頭がションベンを漏らして腰を抜かして、見っとも無かったわ。全く、ボケ老人がうちの清兄に敵うとおもったのかしら。ハハハ、」と口元を押さえて笑った。

良子は一月前にバスの中で震えていた同じ女かと唖然とした。それにしても幸子は見違えるような美人に変貌し、しかも女の臭いをプンプンと発生しており、勝造の影は微塵も残っていなかった。女は男によって変わるものだ。幸子は完全に弟清吉の女房に納まっていた。

「ねえ、良子姉さん、お願いがあるの」真剣な顔で幸子が言った。

「なにかしら、私にできることかしら」

「姉さん、ミシンが手に入りませんか。中古で良いですから。うちの清兄が何も手伝わせてくれないの。私はヤギの世話は好きなのですよ。でも、手が被れるだの、日焼けで黒くなるなど愚痴ばかりで直ぐに家に追い返してしまうの。だから以前インド人の洋裁店で習った洋裁で仕立て直しをしてみようと思うの」

幸子は少し考えてから「大丈夫よ、近くに洋裁学校が出来たから中古ミシンは手に入ると思うわ。ミシン業者か出入りしているから」

「ミシンが手に入れば姉さんの所で扱う古着も頂戴、アメリカ人の大きな服を仕立て直して日本人向きのサイズに直すわ。姉さんの店で売れば一石二鳥でしょう」

良子は賢い嫁を貰ったと思った。

「そうね、来週までには手に入るわ。古着も軍の横流しの反物も持ってくるわ」

「ありが等ございます」幸子がポッと赤くなるのを見逃さなかった。

「幸子、貴女何か考えているみたいね」

「だって、うちの清兄を人並みにカッコよく仕立てたいじゃない。村の皆さんにうちの清兄を自慢したいの」エプロンを胸に抱えて天井を見て言った。

「分ったわ。貴女は確かに畑仕事には向いていないね。4,5日で手配できるからは正治に運ばせるわ」

「姉さん、うちの清兄だけど、あの映画カサブランカの主役のアメリカ人俳優ハンフリー・ボガードにそっくりよね」

「ハア、何処が、ハンフリー・ボガードじゃなくて、泣く子も黙る暗黒街のボスジャン・ギャバンでしょう。貴方はインクリッド・バーグマンに少し似ているけど」

「まあ、お姉さんてみる目がないのね。私でなくて清兄よ」拗ねた声で幸子が言った。恋は女を盲目にすると誰かが言ったのは確かな気がした。女学生に戻ったような幸子の口ぶりに良子はバカバカしくなって立ち上がり

「そこにお土産のお肉を持って来たからお昼を作りましょう。私は午後のバスで帰るから」そう言った。

「あら残念、色々お話ししたかったのに」

「お前と清吉がいちゃつくのを見たくはないわ。お前、私の前で清兄と何度言ったのあほらし」

幸子の愚痴は幸子の耳には入らないみたいで台所に降りて行った。

良子は昼飯を食べるとすぐに帰って行った。そして幸子との約束通り中古のミシンと古着や米軍横流しの反物を正治の運転するトラックで3日後に持って来た。

清吉と正治で道具を床の間の部屋に配置すると部屋は洋裁店の形に整った。

「どう、気に入った。これが私の新婚プレゼントよ」良子が言った。幸子は飛びついて「お姉さんありがとうございます」といって喜んだ。

「お姉さん、清兄の靴だけど12文だから店に米兵の中古品がないかしら。この辺の人間はチビだから大きい靴は無いのよ。村の祝いの席にゾウリ履きでは良くないでしょう。白と黒のツートンカラーなら最高ね」

「いいわよ」良子は肩をすくめて返事した。

 しばらくして清吉の家の門のフクギに『仕立て直し引き受けます。子供服仕立てます』の看板が掛かった。達筆な筆使いであったが誰も清吉が左手で書いた文字だとは思わなかった。

(16)

幸子の『仕立て直し屋』は少しずつ名が知れてきた。屋部村は7つの村からなり、名護町の様に繁華街があるのではなく、映画館もレストランも無い。まして気の利いた背広を仕立てる本格的なテーラーなど有るはずも無かった。中学校、高校の女生徒の制服は名護町内の指定店が受注していた。幸子は小学生の学校行事の時に着る白い上着と紺色のスカート、半ズボン等を仕立てた。学校指定の服ではないが田舎の子供達でも洒落て垢抜けて見えた。中高年の男性、女性の仕立て直しもポツポツ持って来た。幸子は特に金が必要と言うのでもなく義姉の良子が持ってくる仕立て直しと村人の依頼で仕立てる子供服の駄賃で小遣いが手に入れば十分であった。義母の弔慰軍人年金も生活の足しになっていた。幸子の『仕立て直し屋』にはおしゃべり好きな村のご婦人方が集まりだした。喫茶店の無い田舎の井戸端会議の場所となっていった。床の間の作業部屋前にトタンの軒を出して注文を受けた服の展示場兼待合場所を作ってもらった。清吉は門から幸子の作業場まで浜砂利を敷いた。サンゴが死んで砕けた白い砂利である。客が幸子の作業場に向かって歩くとジャリッ、ジャリッと心地よい音を立てた。その音で幸子は来客を知ることが出来た。

清吉の家の庭には3本の藤棕櫚が生えていた。祖父が棕櫚の樹皮で強い縄を撚って棕櫚縄を作り、ヤギ草や芋を運ぶモッコを編むために植えてあったのだ。樹高が4m程あったが既に棕櫚縄を編む時代では無かった。清吉は2.5m程の高さに太い竹を渡して格子組んだ。その上に山から集めて来たクバの葉を集めて来て紐で結んだ。その下に良子が運んできた軍払い下げ品の折り畳み式テーブルと椅子を並べた。門から幸子の作業場、そして屋外の待合場所の藤棕櫚の東屋へと白いサンゴジャリのアプローチが続いていて、フクギに囲まれた屋敷の中に奇妙な非日常的空間が出現していた。何処にでもある材料を組み合わせただけの東屋に魔法瓶のお湯、茶葉、茶碗が置かれており、女性客は自分たちで芋菓子や手作りのおやつ等を持参して茶会を楽しめた。茶碗も使った客が自分で台所の外の洗い場で洗ってから籠に戻して帰ったので幸子の手を煩わすことは無かった。幸子の客は暴れ牛の清吉と顔を合わせることはめったに無く平穏な日々が過ぎて行った。

 梅雨が明け、空気が淀むとフクギに囲まれた家屋の中は蒸し暑さがひどくなった。幸子は清吉を誘って東屋にでて夜気にあたった。灯油ランプの僅かな灯りの下で清吉に三味線を弾いて歌ってもらった。最初は三味線を教えてくれとせがみ手本をお願いしたのだ。はなから三味線を習うつもりはなく、ただ清吉の歌声を聞きたかっただけであった。清吉も幸子のもくろみを知っていたが三味線を弾いて歌った。家畜小屋で幸子の為に歌ってから一度も三味線を手にしていなかった。『伊野波節』を歌い始めた。清吉の声が東屋の微かな灯油ランプの灯りの中からフクギの間を抜けて暗闇へ流れて行った。清吉の声には暗い洞窟の中で反響しながら人の心を闇の中に引きずり込む気配を失っていた。その代り愛しい女を包み込む低く穏やか響きに変わっていた。幸子は長いトンネルの先に1点の丸い明かりに似た物が見えた。その明かりは明日、明後日と確実に近づいて来る信じることが出来た。清吉は幸子にせがまれるままに穏やかな琉球古典の恋歌の名曲を唄った。ただ、清吉は一晩1曲だけを歌い、幸子もそれで満足であった。清吉は幸子の為にだけ歌い、幸子も清吉の歌声は自分だけのものであり誰にも渡したくなかった。それ故二人は1曲で十分に満足することができた。村人も闇に沈んだフクギの中を流れて来る古典民謡の歌い手を知るとは出来なかった。ましてや片腕の暴れ牛の清吉であるとは想像することが無理であった。誰もがこの頃から流行して来たポータブル・レコードプレーヤーだろうと思っていた。

 晩秋になり、半袖から長袖へと衣替えの頃となった。清吉の身なりは知らぬ間に小奇麗になり、一目で牛飼いと思えない服装となっていた。畜舎からの帰りに可笑しな歌謡曲を歌うことも無くなっていた。誰もその変化に気づかなかった。人は楽しく嬉しい恒常的な出来事が無くなると気がかりとなるが、不快な日常が消えても気にならずに忘れるものである。誰もが不快な日常を避けて穏やかな日常を好むからだ。幸子は清吉をゆっくりと自分の好む男に変身させていった。清吉もまた、幸子のさりげない気遣いを好ましく感じており、変化を拒否する理由があるはずも無かった。

 11月の第4週の月曜日の朝、朝食を母と清吉によそおいながら幸子が清吉に言った。

「清兄、今日の午後何か急ぎの作業がある」と聞いた。

「別にいつもの様に牧草地の刈込があるけど明日でも明後日に伸ばしても構わないよ」

「良かった。ねえ、私がこの家に来てから二人で一緒に出かけたことが無いでしょう」

「そうだな、一人で出来ないことでもあるのかい」

「清兄と一緒に出掛けたいことがあるのです。お母さん、夕方までに帰るので清兄と一緒に名護町まで出かけても構わないかしら。帰りに夕飯の材料を買ってきますから」

「そうかい、遊びに来る小母さん共の為にお湯とお茶を準備しておくから二人で行って来なさい」

「有難うございます」そう言って幸子は清吉の茶碗にお茶を注いだ。

 昼過ぎに畜舎から帰って来た清吉は井戸から水を汲み頭から被った。空気は冷えていたが井戸水は暖かく感じた。五右衛門風呂で湯を沸かすのはもう少し寒くなってからであった。石鹸で頭も体も泡立てて再び水を被り、手ぬぐいを腰に巻いて台所から部屋に上がった。手ぬぐいを首にかけ、ステテコ姿で昼食を食べてから幸子に言った。

「今日の仕事は片付けたからお前に付き合えるよ」

「お茶碗を片付けるまで少し待って」そう言って食器を持って流し場に立った。

清吉がうたた寝をしていると幸子がやって来て言った。

「清兄、これに着替えて下さい」そう言って風呂敷を広げた。

ワイシャツ、紺色の背広、薄いグレーのスラックス、黒い薄手の靴下が出て来た。

「畑仕事の服装で名護町に行けないでしょう。さあ、変身するのです」スラックスの腰の部分を広げて着用を促した。清吉は言われるままスラックスを履き、ワイシャツを着けた。幸子は紺地に赤のストラップが斜めに入ったネクタイを清吉のワイシャツに結んだ。ミシンの椅子を出して言った。

「私が着替えるまでそこに座っていて。そう言って来客用に仕切ってあった試着室に入ってカーテンを閉じた。清吉は始めて締めたネクタイをいじくり少し苦しくなった襟首を察すった。幸子がカーテンを開けて出て来た。紺のスカートに薄いピンクのブラウス、その上にベージュのカーディガンを羽織っていた。

清吉が初めて見る幸子の若々しい姿であった。幸子は戸棚から風呂敷を取り出して言った。

「清兄の秘密兵器です」風呂敷を解くと白い手袋をした義手が出て来た。

「なんだこれは」清吉が怯んだ声で言った。

「だから、私が作った秘密兵器です。爆発物ではありませんので心配しないで下さい」

呆然とした清吉の右手のワイシャツをまくり上げ義手を取り付けた。義手と言っても手作りの長い手袋に綿を詰めただけの物だ。

「さあ、立ってください。背広を羽織りましょう」そう言って背広を清吉の後ろから被せて袖を通した。

「清兄にぴったりだわ」

清吉の手を引いて縁側に立った。沓脱石の上に黒に白のストライプの入った革靴が置いてあった。左の靴の靴底には詰め物がされており清吉のビッコ緩和されるようになっていた。幸子は靴ベラを清吉に渡した。清吉は素直に靴を履いた。幸子は真新しい箱からピンヒールの黒いハイヒールを取り出して履いた。

「最後の仕上げね」と言って清吉の頭に濃いグレーのパナマハットを乗せて少し右に傾けてバランスを取った。そしてレイバンのパイロットサングラスを渡した。幸子はブーケをあしらったベージュの大きなハットに薄茶色トンボ眼鏡を掛けた。清吉の右手をスーツの中に入れベルト間に挟んだ。片腕の清吉が姿を消した。日に焼けた大柄な凄みのある男が現れた。

「行きましょう。私たちは今日一日映画のドラマの中にいるのよ」そう言って清吉の右手に腕を組んで歩みを促した。清吉の中に奇妙なワクワク感が湧いて来た。「映画の中に入り込んだみたいだ。幸子この次はどうする」

「先ずはバスで名護町に出て映画を見ましょう。国営館では『ローマの休日』、琉映館の『嵐を呼ぶ男」が上映されているらしいわ」

「何だか自分でないみたいで恥ずかしいな。知り合いに会ったらどうしよう」

「だめ、知らんぷりして。私たちは変身したのですよ。帰宅して服を脱ぐまで別人でいましょう」

「面白いな。了解です。女小隊長殿」

「いざ出陣です。清吉護郷隊会長殿」

2人は含み笑いをしてサンゴジャリの上を歩きだした。フクギ並木を歩く見慣れぬ二人連れに村人は道を譲って見送った。二人は村人に悟られぬように小さく口元に笑いを堪えてバス停に向かって歩いた。

 その頃の名護町には映画館が2軒あり、洋画を中心に供給する国営館、邦画を供給する琉映館が道を挟んで立っていた。邦画は石原裕次郎が若い男女の人気で中高年にはチャンバラ活劇が人気であった。洋画は字幕映画でヘップバーン、エリザベステイラー、グレゴリー・ペッグ、ハンフリー・ボガード等が銀幕を飾っていた。二人はバスターミナルで降りて国営館に入った。月曜日の昼下がりの映画館の来客者は少なく中央の階段を降りて中程の右側の席に座った。映画は公民館で半年に1度の割合で放映されたが児童物が多く退屈なストーリーであった。清吉は映画の字幕に戸惑っていたが次第に慣れて画面に食い入るように見入った。幸子は暗がりの中で清吉の左手を握り、体を清吉に寄せた。やがて映画の終了のベルが鳴り、二人は劇中の主人公の心持で映画館の外に出た。日差しは未だ陰っておらずサングラスを掛けて名護町の本通りに出た。目の前に東写真館の真新しい看板が目に付いた。

「ねえ、清兄、記念写真を撮らない。私早くに家を出たから、写真を1枚も持っていなの」

「そうだな、俺も護郷隊の集合写真だけだ。あれは見る気もしないよ」

2人は写真館の扉を開けた。中には退屈そうな若い男が写真関連の雑誌を広げて座っていた。

「いらっしゃいませ」

「記念写真を撮ってもらえますか」幸子が言った。

「新婚さんですか」

「そうです」幸子がはにかみながら言った。

「そうですか。お二人とも素敵な服をお召しですが、結婚記念の写真を撮るには少し地味ですね」両手で四角いアングルを作って二人を眺めた。

「どうです、今度貸衣装を始める予定ですが試してみませんか」

「貸衣装は幾らぐらいするんですか」

「う~ん、どうです。モデル写真として使わせてもらいませんか。写真を店のショーウインドウに飾らせてもらえば料金は要りません」

「この顔でも良いのかい」清吉が言った。

「大丈夫です。写真のアングル設定でカバー出来ます。奥様はお美しいですし、旦那様は精悍で良い体格をしていますから写真映えします」

「任せるとするか、幸子構わないかい」

「ええ、よろしいですわ」幸子も同意した。

東技師は奥に向かって「頼子来てくれ」と声をかけた。白いエプロンをかけた女性が出て来た。「こちらへどうぞ」そう言って後ろの部屋に案内した。

「私は撮影の準備にかかりますので、着替えたらこちらに来てください」そう言って撮影スクリーンのある場所に歩いて行った。

程なくして二人が出て来た。幸子は白いレースのウエディングドレスに着替えて髪を軽く肩に掛かるようにセットされていた。清吉は黒のダブルの背広に着替え、白いネクタイに白いハンカチを上着のポケットに覗かせていた。

「私の期待以上のカップルモデルです」パチンと指を鳴らして満足そうに言った。幸子の後ろで東の嫁らしいアシスタントの頼子が満足そうに微笑んでいた。

イスに腰掛けた幸子左側に清吉が立ち、右手を幸子の肩に軽く置き、白のパナマハット手にぶら下げていた。カメラを覗き込んでいた東が言った「少し表情が硬いね」すると頼子が言った。「お二人は映画『ローマの休日』を見たかえりらあしいわよ」「オッ、それいいね!オードリーとグレゴリーになったつもりでこちらを向いてください」幸子が笑った。

「そう、それです。オードリーの天真爛漫さとグレゴリーの寛大で包容力のある表情です」東はオーケストラの指揮者の様に手を上げて言った

「この指先を見て下さい。奥様は私の右手、旦那様は私の左手です」

幸子は正面を向き、清吉は少し顔を右向きにした。そして言った。

「良いポーズですよ。目だけをカメラに向けて下さい。ハイ」と言ってシャッターを切った。二人は幾つかのポーズで単独の写真を撮った。衣装を替えハットをかぶりカメラの前に立った。さながらローマの休日に出演した気分になった。

撮影が終わると東が言った。いつ来られますか。

「『麗しのサブリナ』が2週間後に上映されるとポスターが張られていたわ。その時にお寄ります」幸子がそう言った。清吉は後ろに立ってほほ笑んでいた。

「お待ちしています。写真は先にショーウインドウに飾らしてもらいますよ。私も久々に良い写真が取れました。色白の美しい奥様もさることながら、旦那様は外国人並みの体格で実に写真映えが致します」東がそう言って自ら写真館の入り口のドアを開けて2人を送り出した。その後、写真館のショーウインドウで人気が出たのは椅子に片足を乗せ、その上に肘をつき、パイロットサングラスの端を唇に当て、パナマハットを目深にかぶり、少し右に顔を向けて鋭い目つきの男のポートレートであった。実際、街のヤンチャな若者は石原裕次郎の人気もあって、このクールなポーズで写真を撮りに来る者が少なくなかった。

幸子は名護十字路近くの書店で三味線の楽譜である工工四を買った。清吉に琉球古典以外の曲も弾いて欲しかったのだ。二人の住まいには有線放送の親子ラジオが設置されており、裁縫中に頻繁に琉球民謡が流れて来たのであった。放送元の琉球放送はその頃から活発になった沖縄芸能活動を盛んに流していた。二人は書店の裏の市場の中で沖縄そばを食べ、母の為に巻きずしを1本買って通りに出た。陽が少し陰って来た。清吉はサングラスを背広のポケットに納めて人通りの増えて来た街の本通りを歩いた。幸子は清吉の背広の左肘の部分を掴んで寄り添うように歩いた。正面から来る人々は清吉の前で道を開けた。まるで大海を進む大型船が何事も無いように波を切り分けて進むかのようであった。二人は本部半島南回りのバス停留所に立ち止まってバスを待った。幸子は長い間手探りで歩いたトンネルの暗闇を抜け出たと感じていた。

 清吉と幸子は2週間後に2度目の映画を見た。「麗しのサブリナ」である。映画館を出ると幸子は清吉のパナマハットを取って帽子の鍔を右よりに傾けた。ハットを渡して言った。「清兄、被ってみて。もう少し右に傾けて」清吉は言われた通りに帽子に手をやった。

「似合うわ、ボガード見たいよ。私もサブリナみたいに髪を短くしょうかしら」

「よせよ、お前はオードリーでなく、イングリッド・バーグマンが似合うぜ。俺もオードリーよりもバーグマンのお前が好きだ」

「清兄、初めて私のことを好きと言ってくれたわね」そう言って清吉の右腕に体を寄せて清吉の顔を見上げた。清吉の右頬の傷が自分の体の一部に見えて嬉しかった。写真を受け取るために東写真館に立ち寄った。画用紙程の大きさの額縁入りの結婚記念写真がショーウインドウに飾られていた。清吉の気取った写真もハガキの2倍サイズで飾られてあった。映画を見た後の余韻でショーウインドウに飾られた写真を見ても恥ずかしく思わなかった。日常から抜け出た空間にいる幸せに浸ることの出来る喜びだけが幸子を包んでいた。二人は2週間に一度の割合で映画館に通った。レストランや割烹で食事を楽しみ、母への夕食の土産を買って帰った。二人の唯一の楽しみであった。二人の結婚記念写真は幸子の作業場の後ろの棚に飾り、幸子は仕事の合間に眺めた。

 幸子は親子ラジオから流れる琉球民謡の中で、大戦直後に作られた二見情話が好きであった。哀愁を帯びた曲を男女が交互に歌うのも気に入っていた。夕食後にラジオから流れた二見情話を聞いた後で清吉に尋ねた。

「清兄、この曲が弾ける。」

「二見情話だな。戦争に追われて与那原町から逃げて来た照屋朝敏が、戦後になって二見から引き上げる時に村の人たちにお礼のつもりで作った歌だ。古典音楽に比べると簡単な節回しただが哀愁があって良く出来た歌だな」

「この歌がどうした」

「私の好きな唄です」

「三味線を持って来なさい。2,3度聞いたから弾けるだろ」清吉はお茶で口を漱いで呑み込むと幸子に言った。幸子は譜面台に工工四の二見情話のページを開いて固定して三味線と共に持って来た。

「歌詞を覚えているかい。1番を男が歌い、2番を女と交互に歌う恋歌調子の民謡だ」

清吉が歌詞と曲の調子を確認するように小さな声で歌った。幸子も誘われるように小さく歌った。

「うん、歌えているな。外に出て歌ってみるか」そう言って立ち上がった。

2人はランプに火を灯して寄り添って折りたたみイスに座った。

三味線は二見情話の前奏曲に始まり、清吉が「二見美童やだんじゅ肝美らさ・・・」と最初に歌い出し、続いて幸子が「二見村嫁やないぶしゃやあしが・・・」と交互に歌って最後は二人で「戦場ぬ哀れ何時か忘り・・・」の合唱で歌い終わった。幸子は赤い顔で息が上がった口調で言った。「何とか歌えたわ。清兄どうだった」「うん。初めてにしては上出来だ」ニコニコしながら言った。幸子は晴れ晴れしい心地になっていた。清吉の言う初めてにしてはの意味など分かるはずも無かった。清吉はさらに1曲歌って三味線を置いた。いつもの様に夜がフクギに囲まれた集落を闇で包み込んでいった。

 翌日のことである。3時を過ぎてから村内の4名の主婦が幸子の東屋で夕食前の井戸端会議を開いていた。その中の一人は仕立て直しの客であった。幸子は客の持参した風呂敷に仕立て直しの女性用スラックスを入れて東屋にやって来た。

風呂敷を解いて中身を客に確認させて料金の1ドル紙幣を受け取ってエプロンのポケットに入れた。別の主婦が持参した芋を二つに折って一方を隣の主婦に渡して言った。

「ねえ、みんな、夕べのことだけどさぁ。二見情話の歌声を聞かなかったかい」

「ええ、聞こえたわよ。誰かの蓄音機かしら」

「それがさぁ、男の唄は上手に聞こえたけど、女の唄がどうしようもないのよ。蓄音機の針かレコードの溝が割れていたみたいに聞こえたわ」

「うん、私も、あんなにひどい声は初めて聴いたわ。今日は蓄音機で別の曲をかけて欲しいわ」

「私もそう思うわ」

幸子が顔を真っ赤にして言った。

「私の声はそんなに酷かったかしら」

「エッ、」と声をそろえて4名が一斉に幸子を見上げた。

幸子はハッとして片手で口を押えた。

「アンタ、変なことを言うわね。アンタが歌ったのであれば男歌は清吉さんかね」

「まさか、最近は聞かなくなったけど、あの無茶苦茶な唄声で村中を自転車で走っていた暴れ牛の清吉がねー」皆が一斉に「ハハハ、」と腹を抱えで笑いこけた。

「それに片腕でどうしてあんな上手に三味線を弾くのよ」再びみんなで大笑いした。幸子は顔を真っ赤にして声を震わせて言った。

「貴女たちは清吉兄の本当の姿が見えていないのょ。清吉兄が貴方達をからかってワザと音を外して歌って歩いただけのことヨ、平助父さんが清兄さん三味線を教えたと言っていたわ」

井戸端会議の主婦たちがあっけに取られて幸子を見た。誰かが言った。

「でも、無くなった右手でどうして三味線を弾くのさ」

「何もかも言うわ。平助父さんが清兄の右手にはめるバチを作ってあげたと言っていたわ。清兄は私だけの為に1曲だけ毎晩弾くのよ。後はヤギと牛に聴かせているのよ」皆が黙って幸子を見上げた。幸子は涙声になっていた。

「分かった。悪かったね。幸子お願いがあるわ」幸子はすすり泣きながら皆を見た。

「私たちも清吉さんの唄をもっと聞きたいわ」そう言って皆が両手を合わせてお願いのポーズをした。幸子は家の中に戻って工工四の本を持って来た。

「一人1曲だけよ。」そう言って近くにある桜の葉をちぎって渡した。

「好きな曲のページに挟んで。清兄に頼んであげるわ」幸子がニコッと笑って言った。4名はそれぞれ好きな曲に桜の葉を挟んだ。

「今夜が楽しみね」主婦たちはニコニコしながら席を立った。

「旦那衆には黙っておいてね。清兄がへそを曲げたら歌わないわよ」

主婦たちは人差し指を唇の前に立てて笑った。その日から夜の民謡リクエスト番組が始まった。尤も100m四方の家々がその注文者となっただけだ。フクギに囲まれた集落は風の通りが少なく、清吉の声はフクギの太い幹の間を何処までも突き抜けて言った。清吉と幸子の穏やかな時間が過ぎて行った。

 (17)

 清吉と幸子の生活に新しい変化の波が寄せて来たのは幸子が清吉のテリトリーに迷い込んで7年目の初夏であった。幸子は映画館の中で急に気分が悪くなり上映中の途中で外に出た。映画館の外のベンチでしばらく休んでから母と3人分の惣菜を買ってタクシーで帰宅した。幸子は夕食を取らずに床に就いた。

翌朝幸子が清吉に言った。「清兄、手榴弾がお腹に入ったみたい」そう言ってはにかんだ。清吉はただ「うん、うん、うん」言って家の中を歩き回った。幸子が可笑しそうに笑いながら言った「清兄落ち着いて明日生まれるわけでは無いから」清吉は幸子の横に座って幸子のお腹を擦った。幸子は清吉の胸に頭を預けて言った。「生まれるのは来年の春だわ」清吉の人生の時計が加速しながら時を刻み始めた。

 翌年の2月の初めに清吉、幸子夫婦に女の子が生まれた。庭の桜が咲いていた。二人はその子に『さくら』と名付けた。色白で髪の毛は少し赤みがかってカールしていた。一番喜んだのがお婆さんとなった敏子であった。20年ぶりの孫の誕生である。老いが進み白内障の症状が出始めていた。屋外の強い日光下の外出を控えていた敏子は孫の世話が似合っていた。33歳の初産で体調を崩しがちとなっていた幸子にとって義母の存在は頼もしかった。実母が死んで20年の歳月が流れており赤子の世話は義母の敏子が頼りであった。義姉の良子も次男息子の正義の車で月に1度は里帰りして母の様子を見に来ていた。良子も40歳を前にして子供に恵まれた清吉のことでやっと肩の荷が降りた感じがしていた。何事もない日々が2年程続いた。赤子の成長が時の針を早く進めるのは誰にとっても同じことである。ただ、変わったことと言えば78歳となった母に僅かな認知症の傾向がみられたことだ。それでも田舎の単調な生活の中では何らのトラブルも生じなかった。敏子は孫のさくらがそばにいれば満足であった。

 梅雨が明けると凄まじい熱さがやって来た。沖縄には春が無く一気に猛暑がやって来る。夏に慣れるまでに体調を崩す者も少なくない。幸子はさくらが生まれた後から梅雨明けに体調を崩していた。それでも8月のエイサー、9月の豊年祭の頃には元気を取り戻していた。その日の朝、幸子は朝食を取らずに青白い表情をしていた。清吉が問うと何やら動悸がして少し体調が良くないと言った。清吉は今日はミシンを踏むなと言って畜舎に出た。昼前に帰宅すると幸子は何でもない風に昼食の準備をしていた。母はさくらとお手玉で遊んでいた。いつもと変わらぬ日常に清吉は安堵した。幸子の青白い顔も消えていつもの顔に戻っていた。清吉は昼食を取ると幸子に言った。「午後から熱くなりそうだ。俺が帰るまで外に出るんじゃないぞ」

「ええ、特に急いで出かける用事もないですし、清吉兄こそ気を付けてね」幸子は食器を台所の洗い場に運んだ。食器洗いの桶に水を溜めるため水道の蛇口を捻ると生暖かい水が流れてきた。砂地に埋設された水道管さえもが熱せられていた。「行って来る」と幸子に言って、納屋から自転車を取り出して家畜小屋に向かった。太陽で熱せられた牛小屋はアンモニア臭が漂っていた。清吉はタンクから水を汲み土間を流した。ヤギ小屋は糞尿で踏み散らかった草を取り除き新しい草を放り込んだ。暑さは治まる気配が無かった。一通りの作業を片付けると、タンクに水を追加して汲んで来たばかりの冷たい水を柄杓から飲んだ。畜舎の周りに陽炎が揺れていた。清吉は休憩所となっている炊き出し釜の淵に腰掛けて休んだ。暑さのせいだろうか瞼が重くなり眠りに落ちて行った。

「清吉、清吉」と誰かの呼ぶ声がした。見上げると見覚えのある体格の男が清吉を見下ろしていた。陽炎を背にしてシルエットとなっており、顔は見えなかった。

その声は村上少尉に違いなかった。

「村上少尉殿、ご無沙汰しております」そう言って立ち上がろうとすると手を前に出して制した。

「相変わらず働き者のようだな。その手は手榴弾で失ったのだな。ワシが教えて通りにしなかったのだね」

「すみません」そう言って頭を下げた。

「ところで嫁さんを貰って子を儲けたそうだな」

「ハイ、おかげさまで」

「この暑い中で、嫁さんも休まずに働いているようだね。感心だ。二人で頑張り給え」そう言うと村上少尉のシルエットは陽炎の中に吸い込まれるように消えて行った。清吉はパッと目が覚めた。背中が汗で濡れていた。背筋がゾクッとした。清吉は危険な気配に捉われた。立ち上がると自転車に跨り自宅に向かって走り出した。陽炎がネットリと清吉にまとわりつき、自転車は右に左に揺れて速度が上がらなかった。清吉はフクギに囲まれた自宅の北側の裏門から自転車を乗り入れた。白い砂利の上に幸子が横たわっていた。手には洗濯物が握られていた。清吉は自転車を放り出して幸子を抱え上げた。幸子はだらりと手を提げたまま清吉に抱きあげられた。幸子の抱えていた洗濯物がジャリの上に落ちた。清吉は幸子に呼びかけた。しかし、何らの反応も見せなかった。清吉は幸子を家の中に寝かせると自転車で山里医師を迎えに診療所に走った。頭の中が真っ白で何も考えなかった。山里医師を自転車の後ろに乗せて自宅に戻った。往復600mの距離である。家の中では幸子が横たわったままで昼寝をしているようであった。隣の部屋では敏子が孫のさくらと昼寝の最中であった。清吉が帰宅して10分も経っていなかっただろう。清吉は山里医師が幸子の死亡を確認する前に既に結果を知っていた。村上少尉が清吉を昼寝から起こした時点で、事は終わっていたのだと悟っていたのだ。山里医師が説明した。「心筋梗塞だな。30分ほど前に発作を起こして心臓が止まっている。おそらく洗濯物を取り込む際に立ち眩みが起きて心臓に負担がかかったのだろう。最近、動悸がすると言っていただろう。」清吉は頷いた。

「産後に体調が変化する女性もいるのだ」山里医師の言葉が空中に流れて行った。

「清吉、お前にもう一つ悪いことを告げねばならない。婆さんのことだが、白内障と認知症が相当進んでいる。幸子の死が引き金になって浮世のことを全て忘れてしまってもおかしく無いぞ。気を付けて様子を見なさい。何かあれば力になってあげるから」

「分かりました。コザにいる姉に連絡して来てもらいます」

「ああ、それが良い。先ずは布団を敷いて幸子さんを寝かせてやりなさい。交番へと公民館の区長さんには帰りながら私が伝えておくから。気を確かにな」そう言って山里医師は幸子に両手を合わせて帰って行った。山里医師の踏む砂利の音が奇妙に大きく聞こえた。清吉は3軒隣りの売店に行って姉に電話をした。程なく区長の仲本さんがやって来て葬儀屋の手配をすると言ってくれた。村人の利用する葬儀屋は決まっていた。日暮れ前に姉の良子が次男の正義の車でやって来た。何もかもが淡々と進んだ。幸子の『仕立て直し屋』に集う主婦たちが全てを取り仕切って葬儀が進められた。敏子と言えば昼寝から目覚めて布団に横たわった幸子の額に触って涙をポロリと落とした瞬間から世間の出来事から乖離してしまった。山里医師の言った通りになった。初七日の繰り上げ法要が終わると清吉の中の時計は新しいリズムに変わる準備を始めていた。敏子は幸子と良子の区別がつかなくなり、心が大戦前の風景を捉えているようであった。山里医師の紹介で1年前に出来た名護町の宮里集落の裏手の丘に建設された琉球政府管轄の老人ホーム『厚生園』に入所した。息子は障害者で嫁が亡くなり、本人も認知症で面倒を見る者がいないと山里医師が推薦してくれたのだ。夫が大戦中にブーゲンビル島で戦死した戦争未亡人であり、遺族年金を受給していることなど施設に入所に必要な用件を満たしていた。何よりも村に診療所があり医師の推薦を受けることが出来たのが幸いした。そして新しい施設には入居者の収容に未だ余裕があったことも幸いであった。さくらは良子がコザの自宅に連れて行っていた。女の子のいない良子は実家に来るたびにコザの街でおもちゃを買ってきてさくら与えることが多く、幸子が健在の頃からよくなついていた。さくらには母親がお婆ちゃんの世話に行っていると知らされていた。

 四十九日の法事が終わった日に良子は清吉と改まった話を切り出した。

「清吉、お前にさくらを育てるのは無理だ。分っているね」

「ああ、姉さんに頼めれば安心だと思っている」

「幸いにもあの子は未だ物心がついていないから、私のもとで健やかに育つと思うわ。もしもお前が後添えを貰って、さくらを引き取りたいと言うならさくらを返すから」

「いや、俺は新しい女房を貰う気はない。幸子で十分であった」

「そうか、お前に異論がなければそうするよ。本当に良いのだね」

「姉さん、そのことでお願いがある」

「何だい。何でも言ってみなさい。但し、さくらの為になることなら」

「姉さん、さくらを正治兄さんと姉さんの養女にして俺の籍から抜いて育ててくれないだろうか」清吉が幸子の位牌の安置されている仏壇の前で、畳に額を擦り付けて頼んだ。

「本当にいいんだね。幸子の忘れ形見だよ」

「ああ、幸子が去った今となっては、俺と幸子の引きずって来た過去の影をあの子に負わせたくないのだ」

「そうかい、幸子さんが納得すると思うかい」良子は仏壇の幸子の位牌を見て言った。

「幸子も納得するさ、幸子の月命日にはさくらに会いに行くから。姉さんの弟としてな」

「さくらは私の40歳過ぎの子と言うことだね。ハハハ、」と泣き笑いにも似た声で清吉に言った。

「俺にもしもの事があったなら、この家屋敷も田畑も全て売り払ってさくらの養育費に当てて下さい。これからは女子でも大学に行ける時代だから」

「ハハハ、お前よりも私たち夫婦は金持ちだから心配しないでいいよ。贅沢をしなければ人並み以上の学問を受けさせることが出来るから」

「それよりもお前、幸子がいなくなったからと言って酒に溺れちゃいけないよ」

「分かってるよ、幸子の月命日以外は酒を口にしないよ」

「寂しくなるね、さくらに会いたくなったら毎月1度と言わず会いに来るんだよ。お前は私とさくらの唯一の血を分けた姉弟で親子だからね」

「ああ、そうするよ。それから姉さん。俺がバカな真似して早くに死んでもさくらが二十歳になる前に幸子と俺のことを話さないでくれ。さくらが俺たちのことを訊かない限り何も話さないで構わないから」

 清吉の新しい日常が始まった。毎週1度は自転車で母に面会に行った。母は清吉の顔を見ると、自分の亡父の清市の名前を呼んだ。清吉の周りで時が淡々と少しづつ加速しながら流れて行った。

 清吉は毎月コザの岸本商店に立ち寄った。さくらは清吉の膝の上に座るのが好きだった

「さくらは清吉叔父さんが好きなのね」と良子が言うと

「だって、清吉叔父さんの膝の上はお座りし易いの」と言って両手をパチパチと叩いてはしゃいだ。良子は黙ってそれを眺めていた。そしてこの子は清吉の右頬の傷跡を全く気にしないことを不思議に思った。幸子の子供だからだと思った。

 清吉は幸子の月命日には晩酌のついでに三味線を取り出して幸子の好きだった伊野波節と二見情話を唄った。村人は暴れ牛の清吉がただの大人しい牛に変わったことを悟った。区長は清吉の唄三味線を惜しく思い、豊年祭の歌い手に呼びこみたいと声を掛けたが清吉は自分の過去の悪い虫が顔を出したらいけないと固辞した。清吉の沈んだ目の色を見ると亡き妻の思いから抜け出ることが出来ないのだ悟って諦めた。清吉は再び牛とヤギに唄三味線を聴かせていた。

 ある日の夕方清吉は家畜小屋から帰って縁側でお茶を飲んでいると小学校5年生くらいの女の子が小さな籠持って訪ねて来た。

「どうしたのかな」そう言うと

「お母さんが夕飯の足しにしてッて」

「有難う」と言いて受け取ると

「中にメモが入っているわ」と言った。

「恩納節をリクエストします」書かれていた。清吉は女の子の持って来た品を突っ返すことも出来ず返事した。

「では、土曜日の晩に放送しますとお母さんに言ってください」そう言った。

女の子はキョトンとした顔をしていたが「ハーイ」と言って駆けて行った。

清吉は苦笑いして仏壇の幸子の位牌を見上げた。

 清吉の民謡番組が再スタートした。1回の夕食の品で1曲である。清吉は家畜小屋で練習して土曜日の晩の午後8時から歌った。週末に10~15曲を歌った。清吉はラジオから流れる新しい曲にも耳を傾けて家畜小屋で練習した。幸子が残してくれたささやかな楽しみであった。近隣の主婦は必ず子供たちを通してリクエストをした。夫のヤキモチを持ち込みたくなかったからである。清吉もリクエストした主婦とフクギの通りですれ違ってもただ会釈をするだけで立ち話をすることは無かった。そもそも清吉は幸子以外の女性と会話をする機会が無かったし不得手であった。村の男衆は清吉兄さん、清吉さんと挨拶するだけで一定の距離を取っていた。元来無口な性格の清吉はその方が気軽であった。幸子を失った清吉は再び暗いトンネルに迷い込んだでしまったが、幸子とさくらというランタンを手にしており、行く先に不安を抱えていなかった。闇の暗さは清吉にストレスを与えることは無かった。

 清吉はアミ籠を作り夏のウナギ漁とマングローブガサミ漁、秋の毛ガニ漁、そして冬は漁火を楽しむようになっていた、シガイダコが捕れると自分の食べる分を残し近隣の一人暮らしの老人に分けてあげた。その為、相変わらず年寄りから人気があった。畜舎の行きかえりに呼び止められて茶飲み話の相手をした。月に一度はコザの街に出かけるので街の出来事も話して聞かせた。老人達は清吉が毎週母親に会いに隣村迄自転車で通っていることを知っていた。清吉には次第に居場所が出来て行った。爆発的なエネルギーを放出した時代が過去のものに変わって行った。

屋部青年会のエイサーの踊り手たち

清吉は村の行事にも出来る範囲で参加した。酒が出てもグラス2,3杯だけで退席した。村人も過去の清吉を知っているので引き留めることはしなかった。何しろ清吉の右頬の傷も片手も昔のままであったのだから。それでも、「屋部乱暴」と呼ばれる青年会の若者たちは、青年会の一大行事であるエイサーで隣村の青年会のエイサー組と揉め事を生じることがあった。エイサーは村の交差点で男女が踊るのであるが、村堺の交差点に来るまでには少しづつ酒が入り、両方の村の青年会の若者のトラブルの導火線に誰かが着花するのである。小競り合いから始まるも互いの感情の収拾がつかぬと清吉が呼び出された。大男の清吉の一喝で騒ぎが治まらぬ時は右手の棍棒が容赦なく若者達の体に炸裂した。「棍棒持ちの清吉」の名は容易に忘れられることは無かった。

村の交差点でエイサーを踊る青年会の踊り手と村の見物人

 幸子が去って3度目の冬がやって来て新しい年を迎えた。さくらは5回目の誕生日を終えていた。2月の新月の夜に清吉は漁火に出た。いつもの様に屋部中学校の横から浜に降り、膝まで水に浸かって西のアダン岩まで歩いて引き返した。漁火の灯火が5点、6点と海上を漂っていた。シガイダコを5匹突いたところで浜に上がった。午前0時を回っており、家々の灯りはすべて消えていた。街灯などある時代では無く、暗い夜道をブリキの灯油トーチの灯りで歩いた。屋部中学校の横の橋を渡りきったところで灯油が切れ灯火が消えた。この道を真っ直ぐ行けば自宅である。星明りだけで帰ることが出来る直線だ。清吉が又吉商店の横から県道の中央部分まで渡った時だ。右から閃光にも似た車のライトが現れ、清吉を跳ね飛ばした。車は又吉商店の斜め向かいのフクギに突っ込んで止まった。周りの家々から人々が出て来た。誰かが言った「清吉さんだ。漁火の帰りに車に跳ね飛ばされたみたいだ。山里医師がやって来た。「清吉しっかりしろ」と声を掛けた。清吉は右足に酷い痛みを感じていた。清吉は消えゆく意識の中でつぶやいた「幸子、わしの右足にシガイダコが噛みついている。右手が届かない早く引きはがしてくれ」山里医師が「何だ」と尋ねたが清吉の意識は戻らなかった。清吉は意識の戻らぬまま2日後に息を引き取った。葬儀は良子が取り仕切った。四十九の法要が終わると清吉に頼まれていた通りに財産の処分に取りかかた。遺品の中にさくら名義の預金通帳があった。清吉の弔慰軍人障害年金が振り込まれていた。その他にはさしたる遺品は無く、幸子と清吉の結婚記念写真だけを引き取って処分した。位牌は寺に預けて家を賃貸に出した。母の敏子は3年後の夏に厚生園で天寿を全うした。良子は遺骨を一族の墓に納め位牌はコザの安慶寺に納めた。良子は母が没したのを待って比嘉家の財産を処分した。右手に棍棒を持つ暴れ牛の清吉の跡形は屋部の村から消えた。そして幾年かの歳月が流れた。昭和45年、屋部村は久志村、羽地村、屋我地村、名護町と合併して名護市となった。

良子は母の13年忌を期に幸子と清吉共々33年忌の終わり法事を執り行った。シゲさんは区長の依頼で村の代表として参列したのだ。区長が清吉の法事に村の代表者を出したのは、清吉の亡き後、良子が村の豊年祭の度に人並み以上の祝儀を出していたからだ。清吉が作った様々な悪評を払しょく出来ればとの思いからであった。区長も不出来な弟を持った良子の意を汲んで村から代表を送ったのである。法事が終わると屋部集落との繋がりが薄くなったこと感じた。それでも夫の宇茂佐集落との縁が残っており旧屋部村民であることに違いは無かった。

(19)

さくらは本土の大学の医学部に通っており、この年に成人式を終えていた。大学は夏休みであったが、授業は専門科目の履修に入っており、法事の為にやむなく帰って来ていた。1週間ほどの骨休めをしてから戻る予定であった。正治は既に店に出ており、良子とさくらはキッチンのテーブルに向かい合って朝食のトーストを食べてコーヒーを飲んでいた。

「ねえ、お母さん、昨日の清吉叔父さん、幸子叔母さんはどんな方だったのですか。お婆ちゃんが老人ホームで亡くなったのは覚えているわ。私も小学校の3年生だったし」

「そうかい、清吉と幸子の事を聞きたいなら教えてあげるわ、お前も既に成人式を終えた大人だからね」そう言って後ろの部屋に行って紙袋を持って来た。

「これが清吉と幸子の結婚写真とポートレートよ」とさくらの前に額縁に入った写真を出した。

「あら、叔母さんは凄い美人、叔父さんはなんとも気取ったポーズのモノクロの写真ね」

「清吉の話では貸衣装の宣伝写真で店のショーウインドウに飾った写真の縮小版らしいわ。その為に代金はただだったと言って自慢していたわ」

「何だか以前に何度も会ったことがあるような懐かしい感じがするわ。初めて見る写真なのに」

「そうかい」良子は鼻が詰まった涙声にも似た声で言った。

「どうしたの、お母さん」

「教えてあげるわ。その二人がお前の両親さ」

さくらが目を丸くして良子を見つめた。

「45歳を過ぎた婆さんがお前を生める訳がないでしょう。医学生ならわかるでしょう。お前が2歳の時に幸子が死んでしまったの。それで清吉に頼まれてお前を養女として引き取ったの」

「そうね正義兄さんと齢が離れすぎているものね。それに私、知っていたわ。海外研修でパスポートの申請が必要となって、戸籍謄本を取った時に養女と分かったの。二人はどんな人だったの」

良子は大きく息をして遠くを見つめて口を開いた。

幸子は色白で目鼻立ちの整った美人だったわ。貴女の肌が白いのは幸子から貰ったものよ。私も正治も色白とは言えないわ。貴女の少しウェーブかかった栗色の髪は清吉からね。その茶色がかった瞳もそうね。そして背が高いのもね。清吉は6尺、180cmの上背があったわ。父も祖父も普通の男であったから、はるか遠くのオランダ人の血が混ざっていると母が言っていたわ。沖縄では時々変わった男の子が生まれたものさ」

「ええ、聞いたことがあるわ」

「それよりも、あなたが清吉に一番似ているところは、その頑固で度胸の良さかしら」

「私はそれ程頑固でも度胸も無いわ。ただ男の子に負けたくないだけよ」

「それよ、旧屋部村で『暴れ牛の清吉』と呼ばれていた男の血を引いているからよ。あなたが女の子で良かったわ」

「あの写真を見る限り只のクールな男よ」

「それは写真屋におだてられてのポーズなのよ。幸子が言っていたわ。ローマの休日の映画を見た後だったから、私はオードリーで清兄はグレゴリーの気持ちにさせらてしまった」とね

「オードリーとグレゴリーね。チョット違うわね」

「幸子はイングランド・バーグマンとハンフリー・ボガードだと言っていたわ」

「叔母さんは美人で似ているけど、清吉叔父さんはどうかしら」

「私が暗黒街のボス、ジャン・ギャバンだと言ったら、すごく怒りだしたわ」

「ハハハ、」さくらが笑った。

「この写真のポーズでは分からないけどね。清吉の右手の手袋は義手なのさ。それと右の耳の下から顎にかけてひどい傷があったんだよ」

「写真では分からないわ。プロの技ね。どうしてそうなったの」

「先の大戦時にあいつは護郷隊青年部の屋部支部長だったの。その時の手榴弾事故で右手を失い顔と左足にケガをしたらしい。私と正治は結婚して那覇で仕事をしていたからはっきりしたことは分からない」

「戦争負傷者だったのね」

「ああ、傷痍軍人年金を貰っていたわ」

「どうしてまた、美人の幸子叔母さんが顔に酷い傷を持ち、右手の無い男と結婚したのかしら」

「私が母に頼まれて清吉の嫁探しで苦労している時に、幸子が私の店に飛び込んできたのさ。そこで幸子が清吉に惚れちまったのさ。幸子の気持ちは今でも分からないね」

「どういう事」

「その時の幸子は借金を抱えてその道の男から追われて、同郷の私のもとへ飛び込んできたのさ。それで幸子を連れて私の弟『暴れ牛の清吉』に預けに行ったの。アイツならヤクザ如きなんとも思わないからね」

「清吉叔父さんは豪傑だったんだ」

「あれは国頭郡区の沖縄相撲で優勝したことがあると母が言っていたわ。幸子は清吉に会ったとたん舞い上がっちまってさ。私の出る幕など無かったよ。

清吉の何処に惚れたのかね」

「そのヤクザはどうなったの」

「どうもこうも無いよ。一月後にヤクザ者が幸子の居場所を探し出して2,3人の子分と一緒に押しかけたらしい。ところが幸子は清吉をけしかけてそいつらを散々叩きのめさせて追い返したと自慢していたわ。確かに日本陸軍の護郷隊青年部の屋部支部長を務めた6尺の大男が暴れると手が付けられないと思うよ。何しろ『屋部乱暴』と言われる村の『右手に棍棒を持つ暴れ牛の清吉』だからね」

「幸子叔母さんのナイトね」

「ナイトなもんかね。幸子は暗黒街のボス、ジャン・ギャバンの女だよ」

「この写真を見ていると、幸子叔母さんの気持ちが分かる気がするわ」

「ふーん、やっぱり親子だね。お前はまだ幼くて覚えていないだろうけど。清吉は幸子の月命日には必ずお前に会いにやって来たのだよ」

「覚えていないわ」

「お前が5歳の時に清吉は車にはねられて死んだのさ」

「残念ね」

「清吉が店にやって来ると、お前はアイツの膝の上に好んで座ったのさ。それだけでなく、誰もが怖がる清吉の右頬をパチパチと小さな手で叩いて嬉しがっていたね。清吉も平気で頬を叩かせて二人でじゃれ合っていたけど、それが出来るのは世の中でお前だけだったのよ。清吉の右頬を叩くなんて闘牛の鼻を扇子で叩くようなものだからね。私はつくづく血のつながった親子だねと思ったよ」

「お母さん、私の神様の正体が今日初めて分ったわ」

「お前の神様って何だい」

「私が物心ついた頃から決まってみる夢があるの。私が何かに行詰って悩んでいる時に見る夢なの。幼い私は胡坐を組んだ大男の膝の上に座っているの。その人は右手に白い手袋をしていて私を抱いているの、そして大きな左手で優しく頭を撫でながら言うの。低く何処までも通り抜けていくような声で『さくら、後ろを見ちゃいけないよ。前だけを見て歩きなさい』その人顔を見ようと顔を上げると肩から上は霧に包まれて見えないの。そして再び優しく低く私に呼びかけるの『さくら、後ろを見てはいけないよ。前だけを見て歩きなさい』。やがて私は穏やかな眠りの中に落ちて行けるの。朝になると悩みは消えてエネルギーが体に満ちているの。それと不思議な事に決まって乾草の臭いが残っているの」

「フフフ、」と笑って良子が言った。

「清吉の本業は牛飼いだったのさ。お前は清吉に抱かれて乾草の臭いを覚えていたのだろうよ。それに清吉は右の義手に特殊なバチを取り付けて三味線を弾いていた。村一番の古典民謡の歌い手でね、夜になると村の叔母さんたちのリクエストに応えて遠くまで通る声で歌っていたそうだ」

「あの声が心に響くのはその為なのね」

「さくら、お前の神様だという清吉が『後ろを見ずに前だけを見て歩きなさい』と言う言葉はね。大戦で輝くことの出来なかった青春の影から抜け出す前に世を去ることになった夫婦の無念さを、お前に抱えさせたくない親心かも知れないね。お前は清吉の膝の上で何度もその言葉を聞いていたのだろうよ」

「そうかもしれない」

「それにね、清吉は傷痍軍人年金や実家の屋敷、田畑の全てをお前に渡してくれと遺言していたのだから」

「私には強くて優しい神様が付いているのね」

「そうですよ。神様のご期待に応えてあげてね」

「分かりました。神様のことをもっと知るためにビデオショップでカサブランカのCDを借りてきます」屈託のない笑顔でさくらが立ち上がった。

良子は清吉との約束を果たした安堵感から自然と笑顔がこぼれた。

「完」

2023年11月30日 | カテゴリー : 長編小説 | 投稿者 : nakamura