メデューサの執念

メデューサの執念
2017年10月29日
今月に入ってPectabenaria Wow’s ‘White Fairies’が咲きました。2年前に台湾から導入した5株の内3株の開花です。草丈110cm15輪花と95cm10輪花はselfしました。昨年も播種しましたので2回目です。一株は自宅で鑑賞中です。草丈85cm8輪花です。食卓の蛍光灯の下で見ると不思議な事に気づきました。花弁の一部をまげて花粉の方向に突き刺しているのです。まるで自分で交配を行っているかのようです。8輪中3輪が2本の触手を伸ばし1輪は1本です。下から3,4,5,6番目の花です。他の2株については開花後すぐに交配したのでわかりません。
本種はPectailis susannae とHabenaria medusa の交配種です。花弁はmedusaの影響が強いです。まるでメデューサが執念で自らの遺伝子を残すための交配を行っているようです。実際、Pectabenaiaは葯のすぐ下に柱頭があるので花粉が柱頭に届きやすいです。自然交配が容易な構造だと思います。この4輪に種子が出来るか観察してみます。室内ですから虫や風の影響は少ないでしょう。Pecta1

通常の花:10月16日に交配に使った花

 

 

 

 

 

pecta2最下部の細い弁を葯の近くに折り曲げています。まるで何かを捕えて口に運んでいるかのようです。

pecta3w8輪中4輪で不思議な動きをしています。

私の栽培用土はボラ土、鹿沼土、ヤシハスクの混合です。落葉後は時々、用土を湿らせて完全乾燥はしません。春の発芽を確認してから植え替えます。5号プラ鉢で灌水は多めです。今年の15輪が最多花です。

 

 

2017年10月29日 | カテゴリー : 雑記帳 | 投稿者 : nakamura

厦門(アモイ)の旅

厦門(アモイ)の旅 (1)

台湾に暮らす友人に秦という男がいる。祖父の代に台湾の西に位置する中国福建省から移り住んだらしい。台湾で言う本省人である。中国の南部は広東語圏であり台湾を含む東南アジアへの移住者が多い。ベトナム、タイ、マレーシア、シンガポールの友人たちの母国語以外のコミュニケーションツールである。日本語と少しの英語しか使えない私には羨ましい限りだ。私は沖縄方言も話せるが如何せんポピュラーな言語とは言えない。秦とは蘭に関する仕事での付き合いである。秦は桃園国際空港の近くに300坪程の蘭温室を持っているがラン栽培が本業ではない。彼の収入源は台北市内にある数軒の貸しビルの家賃収入である。数年前から秦に誘われてボルネオ島やタイ、台湾国内を旅行する機会があった。暇人で旅行好きの秦は東南アジアの蘭展示会に頻繁に出品していた。彼は福建省の厦門に友人が出来たらしく、2年前のマレーシアのジョホールバル国際蘭展示会で林という中国人を私に紹介した。それ以来、何度か林の会社のある厦門市への旅行に私を誘った。今年の2月に開催された沖縄国際洋蘭博覧会に林が参加したことで彼の会社とランの取引を始めた。厦門国際空港花卉園芸公社(シャーマン・インターナショナル・エアポート・フローラ公社)が正式名称である。3月、4月、6月と3度の取引を行った。那覇空港ビル内の展示に使う蕾付のコチョウランを総額150万円で3千株程輸入した。台湾産よりも幾らか安いが品質では台湾産に及ばない。取引を始めたことで厦門への関心が高まったが、秦の誘いには乗り気でなかった。それと言うのも6月の輸入で粗雑品が入荷したので、シャーマンカンパニーとの取引に嫌気がさしていたのだ。彼らの商法は1回目に優良品を送り、2度目に少し質が落ち、3度目はかなり質が悪くなるのだ。そろそろ取引を切り上げるべき時期かなと考えていたのだ。世に聞こえる中国商法の典型のような気がしていた。 p1那覇空港 - コピー (2)シャーマンカンパニーより導入してなは空港出発ロビーに展示してあるコチョウラン Dtps.Acker’s Sweetie ‘Dragon Tree Maple’ 7月の中旬にラン栽培仲間の仲里と二人で2泊3日のスケジュールで台湾に出かけた。共通の友人である陳先生の奥様の告別式に参列したのだ。沖縄からは僕らの他に別の便で2名が参列した。無論、共通の友人である。 夜の便で空港に着くと秦が迎えに来ていた。海鮮バーベキューレストランで遅い夕食を取った。2時間で食べ放題、飲み放題である。火鉢を囲んで座り、魚介類をカウンターから自由に取ってきて焼いて食べるのだ。生ビールのサーバーを操作して自由に注いで飲むことが出来る。紹興酒は別料金だ。 秦はこのレストランのシステムを説明しながら僕らを厦門の旅行に誘った。仲里が私の顔を見て言った。 「仲村さんどうします」 「うん、何度か誘われているんだ」 「仲村さんが行くなら同行しますよ。私もシャーマン・カンパニーから少しばかり輸入しているから。それに少しトラブル発生していて、10万円分の商品の回収が残っているのだ」 「僕の方も6月にツボミ付のコチョウランを輸入しらノン・ステムだったよ」 「ひどいね。値段は同じだろ」 「うん、それでメールで文句を言ったらなんと返信してきたと思う」 「なんて」 「ノー・プロブレム。1週間後にステムが出て来からだとさ。確かにクーラー温室に入れて2週間後にステムが出て来たけど、電気代のロスと出荷工程も遅れるしうんざりしたよ。台湾商法も未だ納得できないけど、中国商法は要注意事項だらけだね。」 「そうだね、一度はシャーマン・カンパニーを訊ねて組織の状況を確認しておく必要があるね」 「秦の話に乗ってみることにしよう」 僕らの会話を聞いていた秦は 「オーケー、8月4日出発、フライトをチェックする。2時間後に迎えに来るから」そう言って立ち上がると、精算カウンターで料金を払って出て行った。 海鮮レストランの店名は「FLOG」、点灯した看板に蛙の絵が描かれていた。通りに面した部分と駐車場側の壁が無く、店内の様子が覗けるようになっていて、当然のごとくバーベキューの香ばしい煙が屋外に流れている。日本の焼鳥屋の商法と同じで香りで客を誘うという考えであろう。むろん店の賑わいの喧騒も屋外へと流れていくのだ。4人掛けのテーブルが20台も並んでいて6割ほどが既に埋まっていた。 秦が料金を払うと男の店員が火のついた木炭をテーブルの中央にある火鉢に放り込んだ。海鮮バーベキューの開始である。氷を敷き詰めた台の上には魚、カニ、イカ、貝などの鮮魚の他にナス、玉ねぎ、ピーマン、キノコ、タケノコ、白菜、軽く茹でたジャガイモなどの野菜類もふんだんにあった。火鉢の上には網が敷かれておりその上で焼くのである。網の端に丸い穴があり、そこにステンレス製のスープ椀を置くと熱いスープが楽しめる仕掛けとなっていた。セルフサービスの生ビールをサーバーから注いできて飲んだ。久しぶりに紹興酒を1本買って飲んだ。 十分に夕食を楽しんだ頃に秦が戻って来た。火鉢の火種も消えかかっていた。火種が制限時間の2時間で消えるだけの炭火が投入されているのである。中々賢い商法である。 ホテルまでの車中で厦門の旅のスケジュールを説明した。8月4日に出発して8日に帰る計画だ。台北・厦門間のチケット代3万円とパスポートを渡した。 告別式を終えた翌日、台北から桃園国際空港へ向かう秦の車の中でパスポートと厦門へのフライト予約券のコピーを渡してくれた。手回しの良い男である。ともあれ秦の計画に乗って厦門の旅が始まったのだ。

(2)8月3日(火)

私は一昨日の日曜日に、妻に明後日の火曜日から日曜日まで台湾経由で中国に行くと話した。81歳の義母が体調を崩して入院しており、妻は月曜から金曜日まで実家に宿泊する生活が3カ月ほど続いていた。私は妻と一緒に国内を旅行したのは4度程度しかない。妻は飛行機に弱く旅行があまり好きでは無いようだ。娘や孫が東京、名古屋から訪ねて来ると喜ぶが、自ら訊ねたことは1度しかない。私は出張の2日前に行き先を妻に告げるのが常であった。 「あ、そう。四日間も自宅が空き家になるわね」と答えただけである。 「現地の蘭生産業者に会う」と話しても、妻には遊びと思われてしまうのだ。旅先の細かいことは行く前も帰ってからもほとんど話さない。只、海外から帰宅した私の衣類を洗濯する際に決まって言うのは、 「なんて臭い衣類でしょう。何を食べるからこんな匂いのする汗を掻くのですか。私は海外なんて御免だわ」 「そうかな、毎日美味いモノを食べてるぜ。国内の中華料理なんて紛い物だよ」 「ゲテモノ食いでしょう。日本人は日本食が一番よ。こんな体臭の汗を掻く食べ物は私の体質に合わないわ」 妻の口癖だ。それ故、私の海外みやげは現地の特産品を止めてチョコレートが定番となっている。 私は30歳で初めての海外旅行で東南アジアへ行った。ヤシ油やタイの香草パクチーを使った料理に違和感があったが、翌年から今に至るまで食べ物の違和感あるいは拒絶反応を感じたことがない。今日まで東はミクロネシア、西はマダガスカルまで旅をする機会があったが、現地の食事と酒を楽しむことが旅の原則だ。旅の途中で下痢や腹痛に悩まされたことは無い。むろん、胃薬や整腸剤、頭痛薬などの常備薬は持参するのであるが。 那覇から台湾の桃園国際空港への最終便は午後8時10分である。私は6時半に空港に着いた。仲里はまだ来ていなかった。とりあえず構内に設置してある自動改札の旅行保険を掛けてクレジット決済をした。しばらくすると仲里が奥さんと共にやって来た。仲の良い夫婦である。僕らはチェックインカウンターで搭乗チケットの交換を済ませてレストランに入った。未だ出発まで時間があるので夕食を取ることにした。3人でソーキソバを食べていると、このシーンが3週間前と全く同じであることに気付いた。陳先生の奥様の告別式に参加した旅の初日とである。ビデオの再生シーンのようであるが、今日からの旅はあの日から始まったのは確かである。 午後7時30分に仲里夫人に別れを告げてセキュリティーチェックの列に並んだ。台湾への最終便は何時も混雑している。ほとんどが台湾人であるが欧米人と日本人も1割程度が混ざっている。桃園国際空港からは東南アジアと南米・北米諸国の主要都市に便が出ており、東南アジアのハブ空港としての機能が高いのだ。 台湾時間の午後8時30分に桃園国際空港に着いた。私は携帯電話を台湾モードに切り替え小さなスーツケースを手にイミグレーションに向かっていた。 「先輩、今どこですか」秦からの電話である。 「イミグレーションの前だ」 「20分後に車で迎えに行きます。外の5番乗り場で待っていてください」 桃園国際空港のNO CITIZNのイミグレーションは昼の時間は混んでいるが、夜間は空いている。台湾人の旅客が多く、外国人は少ないのだ。イミグレーション・カードの滞在先の欄にはゴールデン・チャイナ・ホテルと書いた。入国目的は観光である。宿泊先と目的は適当なホテル名と観光で十分である。台湾の入国時の手荷物検査はほとんどフリーだ。日本の通関のように、やれ税金の申告だの植物検疫だのとうるさい係員はいないのだ。ゴールデンチャイナ・ホテルは実在するホテルで、20年来の台北での私の宿泊先だ。多少の予約ミスがあっても泊めてくれる。私のパスポートナンバーが控えられているのだ。ごく普通のホテルが上級ホテルに変身してしまい宿泊料金も値上がりしてしまったのは少し残念だ。 仲里がバゲッジクレームで荷物を受け取るのを待って外の5番乗り場に向かった。 「5日の旅にしては偉く大きな荷物だね。僕は機内持ち込みが可能なサイズの手荷物だけだよ」と仲里に尋ねると 「何だか知らないが、1kgの味噌を10袋も買わされたよ。それにゴーヤーの種もだ」 「ゴーヤーなんて台湾にもあるぜ」 「だけど沖縄のゴーヤーが好きらしい」 「確かにこちらの白ゴーヤーは淡白な味がしてあまり美味くないね」 「秦も沖縄ゴーヤーの味を覚えたのだろう」 5番乗り場で待つとすぐに秦のワゴン車がやって来た。 「先輩、go, go」と僕らを急き立てた。 僕らが乗り込むと急いで車を出した。この場所はタクシー専用の乗り場であり、一般車両の待機は原則禁止である。空港警察官が絶えず巡回しているのだ。彼らは駐車違反を調べるというより、運転手のアルコール探知をしているのである。秦は頻繁に飲酒運転をしているので警察官への警戒を怠らないのだ。 「Did you booking hotel」 「No,problem,大丈夫」 予約をしていないだろうと思いながら訊ねただけだ。予約をしていないということである。 「先輩、eating OK」 「那覇空港でソバを食べた」 「では、少しだけ食べましょう」と言って桃園の市街地に向かった。 秦は英語と日本語をチャンポンで話す。私は英語を多少話すが中国語は話せない。僕らの会話は英語、日本語、中国語のごちゃ混ぜの可笑しなコミュニケーションであるが、取り立てて困ることもない。会話は所詮、気持ちの持ち方で通じるものだ。 小さな食堂の前に車を寄せた。店員が出てきて店の前のバイクを移動して車の駐車スペースを空けてくれた。明日空港まで送ってくれる林さんと今の店で合流するのだ。 店は台湾特有の造りで、氷が敷かれた台の上に魚介類が並べられており、肉類はガラスケース中に下処理したものが吊るされている。野菜は無造作に台の上に置かれている。こじんまりした店内には6人掛けのテーブルが2台と4人掛けのテーブルが2台だけである。僕らが奥の4人掛けのテーブルに着くと、女主人が奥の冷蔵庫から青島ビールとグラスを持ってきて栓を抜いて僕らのテーブルに置いた。仲里が私のグラスにビールを注いで早速乾杯した。秦は立ち上がって女主人と共に店の入り口で何やら料理を注文して戻って来た。その後ろに林さんが付いていた。 「ニーハオ」「ニーハオ」と僕らは笑顔で挨拶して握手を交わした。 昨年の11月に彼の家に泊めてもらい、3週間前にも海鮮バーベキュー店からの帰りに仲里と共に彼の家で3時間ほど飲んだのである。人は親しくなると共通の言語を持たずとも何とか意思の疎通を図れるものだ。大きな体だが控えめな話し方をする律儀な男である。空港の貨物を扱う仕事を受けているらしい。秦は海外へ出かける度に彼の事務所に自分の車を駐車しているのだ。僕らは何度も乾杯を繰り返した。林は勝手に店の冷蔵庫から青島ビールを取り出して栓を抜いた。馴染みの店らしく女主人はニコニコして見ているだけだ。

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電飾のパレード車両

地元産の小さな牡蠣をアヒルの卵でとじたチジミ風の料理を摘みながらビールを飲んでいると、表通りから騒々しい音楽が流れて来た。通りが明るい光を放っているので不思議に思って店先に出てみた。電飾を施した大型トラックにショートパンツの令嬢と張りぼての仏像を乗せて大音量で走っている。20台、30台と続き時折爆竹を飛ばしている、爆竹が道路わきのビルの2階の壁に当って弾けるが全く気にする様子もない。この辺りの何かの祭りであろうかと秦に尋ねるも台東県から来た車であるが何のパレードか知らないらしい。一行は200m程先の交差点で旋回して戻って行った。静かになった通りに爆竹の硝煙の臭いだけが残った。僕らは再びテーブルに戻って食事をした。 ・イカの口の揚げ物:イカの口に衣を絡めて揚げたものだ。輸入品らしく新鮮さに欠けた。数年前に桃園の漁港近くの海産物店で食べたのはとても美味く土産に持ち帰った程であった。最近は地元産が少ないと秦が嘆いた。 ・蛙の香草煮:むき身の蛙を2㎝程に刻んで香草と空炊きした物だ。肉は少ないが鶏肉に似た淡白な味がする。小骨を取り出してテーブルに積んだ。庶民の食堂には骨入れの器が無い。必然的にテーブルの上が食べカスで散らかってしまうのだ。 ・淡水魚の煮付け:魚の種類は解らないがだし汁で煮込んである。細長く刻んだネギをちりばめてあるので川魚の臭みは無い。淡白な白身で小骨の多い魚だ。台湾の中南部は淡水魚とアヒルの養殖が盛んである。 ・茹でたカニ:溶き卵を絡めてある。インド南部からの輸入品である。腹に赤い卵を抱えていた。奇妙な色合いであったが違和感のある味では無かった。マングローブガサミに似た形だが、握り拳より大きく成長しない種類らしい。沖縄のガサミよりくどくない味であった。 台湾時間の午後11時にお開きとなった。4人でビールを10本に紹興酒を2本空けていた。林さんにお土産を渡して今夜の宿のモーテルに向かった。むろん予約の必要のない1泊千3百元(約3千円)と格安のホテルだ。空港に近いようで飛行機に離発着の音が頻繁に聞こえた。秦は仲里と私を降ろして林と共に帰って行った。林の家に止まるのであろう。台湾の田舎で時々泊まるカーモーテルと異なり1階の部屋であった。あまり頑丈にも思えないドア1枚を隔てて即屋外であった。私は少し不安になり就寝中の不意の侵入者に備えてドアの後ろに椅子を2脚並べて用心した。ベットの横の高窓のカーテンを開けると格子の無い窓である。モーテルの敷地はブロック塀で囲まれており、出入り口はホテルのスタッフが料金精算所のゲートを開閉しているのであるが、何ともセキュリティ対策の無いホテルで寝ることになったものである。しかし案ずる暇もなく眠りの中に落ちてしまった。何しろ日本時間の午前0時30分であった。

(3) 8月4日(水)

午前5時半、セットしていた携帯電話のベルが鳴り、ゆっくりと起きだして目覚ましのシャワーを浴びた。歯ブラシ、髭剃り等良品が備えられており、沖縄県内のモーテルよりもはるかに良い。備え付けのミネラルウォーターで湯を沸かしてコーヒーを入れた。テレビのスイッチを入れると日本人が出演したポルノが映った。しばらくコーヒーを飲みながら見ていると電話が鳴った。秦からの電話かと思ったが単なるモーニングコールであった。コーヒーを注ぎ直してテレビを消して荷物の確認をしていると携帯電話が鳴った。 「先輩、空港に行きます」秦からの電話である。 入り口の椅子をどけて外に出ると、林の運転するワゴン車が目の前にあった。 「ニーハオ」と声を掛けて車に乗り込んだ。午前6時45分であった。 午前7時に第二ターミナルのチェックインカウンターで搭乗手続きをした。秦と仲里は荷物を預けたが私は機内持ち込みとした。チケットは3名が横1列のシートナンバーである。 「先輩、change money」秦が中国元への両替を促した。 「How much we need」 秦は少し考えてから 「二万円。OK」 二万円を空港内のマネー・イクスチェンジに出すと。千4百中国元と331台湾元を返金した。二万円を台湾元に交換して、更に中国元に交換するのである。手数料の100台湾元を差引いて半端な金額を台湾元で戻したのである。何だか狐に騙された気がした。秦はクレジットカードで現金を引き出して戻って来た。 セキュリティーチェックを難なく済ませて厦門行きの待合室に向かった。秦は私にVIP用のチケットを渡して朝食を取ってくるように勧めた。チケットは1枚しかないとのことだ。私は彼らと分かれて地下のVIPルームに一人で降りて行った。VIPルームではインターネットサービスや軽食が無料であった。私はヌードルスープとシュウマイで朝食を取った。この部屋の利用者は東洋人、西アジア人、欧米人と様々であったが、身なりがしっかりした裕福な階層であり、私はその部類からかなり外れていたと思う。ただ、朝食のヌードルの注文引換券の番号呼び出しを中国語で呼び出すので、中国語に不慣れな外国人には親切とは言えない。アジアの国際ハブ空港と言われているが完全な国際空港であるとも言えないようだ。 朝食を済ませて待合室に向かう途中で秦と仲里に会った。彼らも近くのファーストフードショップで軽食を取ったようだ。VIPルームもファーストフードショップも私にとって同じようなものである。旅先で気取ることもないだろうし、気取るほどのステータスも持ち合わせていないのだから。 8時45分、EX-0991は厦門向けに定刻通りに飛び立った。便名のEXはEXAMEN(シャーマン)厦門の中国語発音から取ってある。航空会社はチャイナエアラインの完全子会社である。1日1往復のフライトで7割の乗客であった。機内の飛行ルートモニターによると飛行機は台湾の西海岸を南下して台南付近から西に向かって飛行している。桃園から直線で厦門へ向かうルートを取らない何らかの軍事的な航空事情があるのかもしれない。p3-1厦門空港の花 - コピー 厦門空港内の飾花 10時30分に厦門国際空港に到着した。那覇・台北間より飛行時間が少しだけ長い。新しい空港ビルの中を進みイミグレーションをスムーズに通過した。イミグレーション・カードは秦が前もって記入してあった。秦は僕らと異なる中国人専用のイミグレーションカウンターから国内線並みの特別のチェックを受けずに早々と通過した。 「秦、Are you chinese」と尋ねると 通常の台湾行政府発行のパスポートより小さなサイズの緑色の手帳を見せた。中国外省人専用と表記された中国への出入国専用の特別なパスポートである。秦の説明によると、中国の特別行政区である香港、マカオ、台湾の住民がこの特別な出入国手帳を持てるらしい。入国スタンプも我々パスポートの印と異なる丸い形状である。秦は誇らしげに説明した。彼の祖先は福建省の出身であり、彼の中には中国人としての誇りがあるのかも知れない。ただ、陳先生のような戦前の日本教育を受けた知識人は中国本土の行政手法に良い感情を持っていない人が多数だ。知識人の子弟は米国留学者が多く、米国の市民権を取得した者も少なくない。陳先生の弟や息子もロスアンゼルスに暮らしている。 バゲッジクレームにシャーマン・カンパニーの林が待っていた。秦と仲里の荷物をカートに積んで出口に向かった。手荷物チェックの女子職員が笑顔で林に挨拶をした。林は片手を上げて笑いながら何かを言った。彼は空港職員に顔が効く立場のようである。林は背が高くアスリートのような体格をした30台の男だ。白のナイキのマーク入りTシャツにチノパンツ。足元はスニーカーの遊び着の装いだ。その姿で空港内の制服を着用した女子職員と砕けた話をしているのは少し違和感があるも、この組織での立場は悪くないようだ。 林の車で空港に近い彼の事務所に向かった。オフィスには彼の上司である劉さんが待っていた。色白で小太りの40代の男だ。声が大きく豪快に笑う典型的な中国人である。林の所属する部門を仕切っている男らしく、英語で話してくれた。林は福建省の銘茶鉄観音を入れてくれた。中国も台湾も来客には茶を入れて歓迎するのが習わしだ。鉄観音茶は烏龍茶と少し異なる。1回分ずつ真空パックで小分けされているのだ。茶の入れ方は烏龍茶と同じだが香りがとても強い。日本茶を好む人にはきつい香りであろう。香りを保存するために真空パックで封じ込めてあるようだ。茶器は烏龍茶と同じで4回程度湯を継ぎ足して飲める。僕らは劉さんの豪快な笑いを聞きながら1時間ほど談笑した。仲里は来年1月に開催される海南島国際蘭展に参加するので、その時に出品する展示ブースで使用するラン類及び観葉植物をシャーマン・カンパニーに供給してもらうことで商談を成立させた。未納となっている蘭代金を相殺したのである。仲里は小声で「現金を返してもらった方がベストだが回収できないよりマシだ」と沖縄方言で私に言った。 「仲里さん、グッドアイデアです。問題ありません」劉さんは手を叩いて大きな声で笑いながら言った。仲里も笑顔で劉さんと握手した。 林の車で劉さんと共に少し早い昼食に出かけた。空港職員が利用するレストランらしく林と劉さんに挨拶する者が何人かいた。クーラーの効いた個室に案内され、10人掛けのテーブルにゆったりと座った。林は半ダースのビールをボックスごと持ってきてテーブルの上に置きポンポンと栓を抜いてグラスに注いだ。そして劉さんの乾杯の音頭でビールを飲み干した。台湾で主流の青島ビールと異なる中国の別のメーカーのビールでアルコール分3.5%の水っぽい味であった。しかし、暑い最中のビール程美味いモノは無い。林、秦と続く乾杯で空き瓶が次々と増えていった。林は何処で覚えたのか日本語で「一気、一気」と声を掛けて僕らがビールを飲み干すのを急かせた。まるで学生寮の新入生歓迎コンパである。中国滞在の週末までこのスタイルの飲み方が続きそうな予感がした。 程無く料理が出てきた。 アサリの酒蒸し:ジューシーで臭みの無い柔らかな肉質だ。 淡水魚と白菜のスープ:白身魚のあっさりと味だ。 豚の皮付きバラ肉と豆腐の煮付け:バラ肉は予め煮込んでから醤油と香辛料で味付けされている。香港料理の逸品に似ている。沖縄の島豆腐より少し柔らかい食感だ。豚肉の味が浸みこんでいて旨い。 渡り蟹の塩茹:小ぶりの渡り蟹を塩茹でして二つに割ってある。一皿3匹でさっぱりした味だ。 パクチョイ炒め:ごく普通の野菜炒めだが、美味いだし汁の絡みつきとパリッとした食感が抜群だ。単純な野菜炒め料理には店の料理人のレベルが明確に現れるものだ。 深海魚の餡かけ:魚種は知らないが200mの深海から釣り上げた魚という。20㎝程大きさの魚を一度から揚げしてから野菜の餡かけで仕上げている。から揚げによって白身の肉が引締まり、表面がカリッとして美味い。 食材は全て地元産らしい。僕らに次々と料理を勧めるが、自らはマイペースでゆっくりと味を楽しみ、大きな声で快活に話し、且つ、愉快に笑い頻繁に酒を勧める。豪快な食事風景である。以前、陳先生が話していたが、「中国人は美味いモノを食べるために金を稼ぐのである」との説は本当であろう。中国人の料理に対する感性は見た目よりも旨味を優先する。日本料理の器を含めた美しく繊細な味は重宝されないだろう。以前、広州市の市場を案内してくれた友人が言ったのであるが、中国人は椅子テーブル以外の四つ足は何でも料理する。この市場には蛇、狸、猫、犬等、野生動物及び家畜の様々な生き物が食材として取引されている。私はと言えば、以前、京都の庭園鑑賞会の帰りに鴨川沿いの日本料理店で食べた懐石料理よりも東南アジア各地で食べ歩いた中華料理に軍配を上げる。料理とは見て楽しむものでは無く、食べて満足する物なのだと私は思うのだ。 1時間ほどゆっくりと食事を楽しんでからホテルに向かった。シャーマン・インターナショナル・エアポート・ガーデンホテルという長い名の空港系列のホテルだ。中国語では厦門国際空港花卉園芸飯店である。林にパスポートを渡してチェックイン手続きをする間にロビーの茶室で劉、秦、仲里、私の4人でのティータイムとなった。茶室には小柄の丸坊主の男が茶の係りとして常駐している。この道のプロである。穏やかな表情をした無口な男で、日本の茶人に似た風情であった。テーブルは古木を彫り込んだ重厚な逸品である。茶は右手のガラス張りの冷蔵庫に保管してある。鉄観音は低温保存によって風味を保つと説明してくれた。茶係の入れたお茶は芳醇な香りがして、劉さんの事務所で飲んだお茶とは私でさえも味の違いが分かった。劉さんは快活に話し笑って僕らをリラックスさせてくれた。カンフー映画に出て来る豪放磊落なボスという感じだ。 林がパスポートを持って戻って来た。ポーターに荷物を預けて11階へエレベータで移動した。1106号が私でその隣が仲里、秦と続いた。私の部屋の鍵が壊れており、修理が終わるまで仲里の部屋に荷物を置いてお土産だけを持ってロビーに降りた。秦の言う四つ星ホテルにしては少し怪しいグレードである。 p3厦門空港 - コピー   ホテルから見た厦門空港 午後のスケジュールはシャーマン・カンパニーの温室見学である。林にお土産 を渡して秦と劉さんを事務所に残した。代わって江という背の高い社員が同行 した。彼らの温室は空港のフェンス沿いに建てられており、蘭温室と観葉植物 の温室群に分かれていた。蘭温室は台湾の施設と同じのパットエンドファンシ ステムムである。外気温35度でも温室内は30度に保たれていた。フラスコか ら出されたばかりのコチョウランの1.5“ポット苗が生産されていた。 この施設では3.5”のサイズまで成長させてから山上げして花芽分化を促すコチ ョウランの生産システムとなっている。2か月前に導入したコチョウランもこの施設で生産されたのであろう。   P5園芸公司 - コピー             施設を一巡してから事務所に戻った。事務所のある建物ではフラスコの生産がなされていて、その生産施設を見せてもらった。               p4パットエンド - コピーパット これからは開花株の生産よりもフラスコ苗の生産を主力にするとのことである。P6フラスコ群 - コピー 来年には年間30万本のフラスコの生産を計画しており、既に生産拠点となる4 階建ての中古ビルを買収済みとのことであった。鉢植えにすると450万本のを どのような販路で捌くのか気になったがあえて質問する気にはなれなかった。 事務所の応接室に戻ると厦門市の湖里区の警察署長の務める蓮氏が待ってい た。厦門市は空港のある厦門島に2区と対岸の中国本土の4区で区分されている。蓮氏は空港のある地区の警察署長である。厦門市では強大な権力者の一人であるようだ。自分の組織を持たない秦は権力者に迎合することを好む男だ。練氏と親しげに話していたが室内は煙草の煙で充満した。それに林が加わったものだから火事場のような室内となり、劉さんが慌てて窓を開けた。中華人は友人同士で煙草を勧める習慣があるのだ。仲里も私も既に煙草を止めていたのでこの煙には閉口した。秦によると中国ではタバコの値段がバカにならないと言う。仲里がそれを聞いて秦に言った。 「では、お土産はタバコがイイね。次からはタバコにしよう」 「彼らは中国製のタバコしか吸わないから駄目だ」 「タバコは味噌より軽いから楽だと思ったのだが残念だネ」 値段の安い味噌でも彼らに味噌の味等解らないが、10袋も頼まれると重くて叶わないとこぼした。彼らが中国産のタバコを吸うのは国策に関わる立場の人間であるからだろう。とりわけ高い地位の者は外国産のタバコを人前で吸うこと危ういことであろうか。何処の国でもタバコは税金の塊である。 4時にホテルに戻り6時まで仮眠の時間となった。秦と旅行する時の毎度ののスタイルだ。部屋の電子ロックは既に修理されていて、ダブルベットの上に横になってこの先の旅の行程について考えた。秦の旅は植物観察などへの興味はなく、只その地域の友人たちとの飲食の交友だけである。今夜も蓮署長が持参する4本のブランデーを飲み干そうと言った秦の言葉が気になった。彼との旅は飯代、宿代は要らないが体力だけは相当に必要である。とりわけ酒に強いことが要求されるのだ。仲里が私と同行するならと秦の誘いに乗ったのもそのあたりが本音である。それに体力のある林の「一気、一気」酒飲みスタイルは私の好みではないのだ。そのようなことを考えているうちに旅の軽い疲れから眠りに落ちていた。 秦からの電話でロビーに降りると劉さんが待っていて、ホテルの中二階あるレストランの特別室が歓迎パーティの場所であった。このホールは1階フロアからだけ入ることが出来た。私と劉さんが上座で、私の左に仲里、劉さんの右に秦、一つ席を空けてその隣に蓮署長、林と続いた。林と仲里の間も一つ席が空いていた。秦の隣には太めの女友達、仲里の隣には林の弟が遅れてやって来た。全員で8名のディナーである。 ブランデーがグラスに3分の1ほど注がれた。 「仲村さん、仲里さん、welcome 乾杯」一斉に飲み干して再びブランデーを注いだ。 「Thank you very much for inviting us 乾杯」と答えてディナーが始まった。 乾杯は蓮署長、林と続いた。のど越しの良い良質なブランデーである。 料理は茹でた小海老に始まり、ホテル特有の豪華な料理が次々と出てきた。ホテ ルの中華料理は何処でもあまり変わり映えがなくて面白みがない。食材の品質 が多少良くなっているだけである。私は沖縄が150年前まで琉球と呼ばれた独 立王国であり、東南アジア貿易が盛んであった。中国との貿易の窓口は福建省の 厦門であった。丁度、我社とシャーマンカンパニーのような関係だったと話した。 劉さんは満足して乾杯を促した。乾杯が続くのでグラスに氷を入れて酒の量を 少なくして対応したが、多勢に無勢で酔いが回ってしまった。 ディナーの後でカラオケバーに寄ったがあまり記憶に残っていなかった。カラオケが嫌いではないが中国語のカラオケでは楽しめないのは仕方のないことである

(4) 8月5日(木)

午前7時、シャワーを浴びて荷造りをした。このホテルに今夜も泊まること思い出してズボン、シャツ、パンツ、靴下をクリーニングに出した。大抵の旅行ではズボンだけをクリーニングに出すのであるが、ゲストの僕らは全てがフリーなのである。 8時半に朝食を取りに1階のレストランに降りていくと、秦が見知らぬ2人の女とコーヒーを飲んでいた。昨夜の太った女とは別であった。朝食はバイキングスタイルである。私はお粥と卵焼き、ハム、野菜炒めを軽めに取ってオレンジジュースで胃袋を落ち着かせた。 秦が私のテーブルにやってきて言った。 「今日は別行動です。仲里と一緒にシャーマンカンパニーの農場見学をして下さい。私は彼女たちと観光に行きます」 「オーケー、仲里に連絡する」 「9時にロビー、林さんが一緒」そう告げて彼女たちの席に戻った。 仲里と二人でロビーに降りて待っていると小柄な青年が声を掛けてきた。 「ミスター、ナカムラ。アイアム、ヨーキン」 「オー、ミスター・ヨーキン、ユーセント・イーメール・トゥ・ミー」 「イエス、ナイス・ミーツユウ」 「ナイス・ミーツユウ」 お互いに紹介しあった。仲里と私にメールを送ってくれるシャーマンカンパニーの窓口の男である。 「ヨーキンとは女生と思ったが男だったね」と仲里が言った。 「僕も一応Mr,Yokinと書いたが自信は無かったよ。それでも前回の輸入トラブルで直接電話があったので、声に質から男と分かったのさ」 ヨーキンの英語は何処で習ったのだろうか。まったく理解しがたい発音で懸命に話してくるので鬱陶しくなってくる。水木しげるの漫画「ゲゲゲの鬼太郎」に出て来るネズミ男に似た印象である。厦門島の説明で「アモイ・イズ・アィズランド」話したので仲里が「アイズランドとは何のことですか」と尋ねる始末だ。中国に北欧のアイスランドが在ってはたまらない。更にRとLをでたらめに舌を転がすように発音するので全く手におえない会話である。林はヨーキンの会話を補正することはしないのだ。 昨日農場を案内してくれた江さんが合流して5名で出かけることになった。彼らの農場は厦門市の北方60kmの同安区の山中にある。標高900mの農場で開花誘導処理を行っているようだ。いわゆるコチョウランの山上げ栽培による自然の低温処理を行っているのだ。電力の供給不足からクーラーによる冷房処理栽培が困難であるのだろうか。 午前9時20分ホテルを出発した。小柄なヨーキンが一緒だが後部座席の3名は窮屈である。私も仲里も体重85kgを軽くオーバーしているのだから。 車は厦門島に架かる3本の端のうちの最も長い7kmの橋を渡って対岸に向かった。厦門空港が右手に見えた。浅い泥の海に橋脚が立っており、交通量の多さがこの経済特別地区の繁栄を物語っている。建設中の高層ビルがいくつも見えた。厦門工業大学の横を通過して集美区に入ると次第に商業施設が少なくなり20分ほどで農村の同安区に入った。広大なリュウガンの果樹園が続いた。レイシ畑は全く見当たらない。果樹としてはレイシの方が市場価値は高いはずだがどうしてリュウガンなのであろうか。台湾の青果物ではレイシが主流でありリュウガンはほとんど見かけない。中国のリュウガンは青果物ではなく加工品の原料であるかもしれない。 何処までも続くリュウガンの農園である。p7-1リュウガン農場 - コピー リュウガン農園 やがて車は自然保護区の坂道を登り始めた。曲りくねった狭い道路をエンジンの音を響かせて登った。時折放し飼いのジャージー種に似た赤牛がのんびりと道路を占有して歩いていた。林がクラクションを鳴らすとゆっくりと道路脇に寄って道を譲ってくれた。牛の持ち主の姿が見えない穏やかな農村である。大きな花崗岩を積んだ大型車両がすれ違った。近くに採石場があるのだろうか。林はクラクションを鳴らして次々と車両を追い越して山を登った。対向車が近づいても意に介せずに加速していった。仲里は交通事故に遭遇せぬかと心配した。私もこの国のドライバーの運転マナーが近隣諸国とあまりに異なっていることに心配した。P7森林保護区 - コピー山頂近くの風景 道路脇の山林は自然林ではなく、ユーカリ、松、杉の人工林である。自然保護区は何処であろうかと車窓から遠くを眺めたが良く分からなかった。山頂に近づくにつれて茶畑が広がりやがて集落が現れた。あまり大きな集落ではなくレンガ造りの平屋が点在した。民家の周辺に自家菜園と思しき畑が小さな畑があった。時折老人の姿を菜園の中に見かけたが若者の姿を見ることは無かった。 P8山頂の民家 - コピー 山頂近くの集落から少し下って更に10分ほど登った場所にシャーマン・カンパニーの農場があった。2000坪のパイプハウスの周辺は全て茶畑である。車を降りると空気が乾いてしのぎやすい気温である。ハウス内の温度計が28度を示していた。パットエンドファンの装備されたハウス以外は空である。この時期は気温が高いので8月末から秋の山上げを始めるとヨーキンが説明した。パットエンドファンの温室には花芽の上がったランが並んでいた。私は10月に出荷できる品種のリストを送ってくれとヨーキン言った。単なる社交儀礼である。 P9山頂の温室 - コピーP10OX fire bird - コピー 農場とコチョウラン Dtps.OX Fire Birdのメリクロンであるがオリジナルはスプラッシュが中央まである。メリクロンによってスプラッシュが小さくなる。私が台湾からフラスコで導入した株はさらにスプラッシュが小さかった。 温室を一回りした後に作業員休憩所で施設の管理人と共にお茶となった。この辺りでとれた茶で製造された紅茶である。後で知ったのであるが正式名称は野茶である。ジッパーのついたビニール袋に無造作に保管してある。ヨーキンが茶漉しピストン式の紅茶専用の器具で手際よく入れてくれた。茶碗は鉄観音と同じ小杯である。味は英国の紅茶よりも渋みが強くややワイルドな味で赤みが強い。小屋の中に人の気配がするので覗いてみると8歳くらいの女の子がテレビに見入っている。この時期は中国でも夏休みであろうか。私が見つめても意に介せずテレビに夢中だ。山中の集落には子供が少ないのか。初老の施設の管理人の孫であろうか。仲里が何かを見つけたようで私を呼んだ。きれいな冷水の流れる小川の土手に何かの花を見つけたようである。 「この花は何ですか」 「ノボタンだね」 「沖縄にもありますか」 「いや、ほふく性のヒメノボタンに似ているが、少し矮性の傾向がある品種だ。おそらくここの固有種だろう。こんな田舎の畑の土手に園芸種があるはずも無いからね。沖縄県への導入は未だ無いだろうね」 僕らが写真を取っていると林が近づいてきて言った。 「何か珍しいモノでも見つけたか」 「この品種をあまり見たことが無い。増やしてから送ってくれないか」 「どの位だ」 「1.7インチポットで1000鉢」 「オーケー、ヨーキンに任せよう」P11ノボタン - コピー 匍匐性のノボタン 午前11時30分に農場を後にして山を下った。林は相変わらず危うい運転で次々と車を追い越して行った。午後1時を過ぎた頃に平地の街に降りた。道路の幅員が広くなり街路樹のベンガルボダイジュが整然と続く落ち着いた地区である。林は町はずれの食堂に車を停めた。昼食時間が過ぎており客は少なかった。店の入り口に鉢植えの大きな徳利状のガジュマルがあった。ガジュマルは実生で育てると幹が徳利状膨らむ布袋型の樹形のなるのだ。僕らはトックリガジュマルと呼んでいる。幹の大きさから20年以上の年月が経っているのであろうか。   P12ベンガル - コピー 手前がヨーキン、右が江、前方のtシャツが林 P13トックリ - コピー トックリガジュマルの盆栽 店の中はクーラーが効いており狭い車中から解放されて心地よかった。しかし、私の体調は快調には程遠い状態であった。昨夜のブランデーによる乾杯疲れが未だ回復せず、3名の中国人のタバコの煙も気分を悪くしていた。 昼食は毎度のように乾杯で始まった。運転手の林は砂糖入りの烏龍茶のボトルを飲み、江とヨーキンがしきりにビールを勧めた。田舎町の料理店には地域特有の美味い物が多いのは確かだ。 川魚のフライ・・・ヤマメと思しき胴体に斑点のある川魚に軽く粉をふったフライである。コショウを軽くまぶしてあるがあっさりとした非中国的料理だ。 タケノコ炒め・・・サクサク感と軽めの味付けが嬉しい。今朝採って来たような鮮度である。 蟹のスープ・・・脱皮したばかりの蟹のゼラチン質の甲羅の周辺部も美味いが痛んだ胃袋にスープが心地よい。 エンサイの炒め物・・・沖縄のエンサイ料理と同じだが味に深みがある。調味料のダシの成分が異なるようだ。野菜を食べる機会が少ないので消化の為に少し多めに食べた。 豚の骨の塩茹風・・・豚の膝関節付近を塩茹でしたものであるがあまり肉は付いていない。ストローが付いており、骨の中にストローを挿してゼリー状の髄液を吸い出す変わった料理だ。 アヒルの炒め物・・・台湾では冷たいアヒルの肉が定番だがここでは暖かい肉である。味が浸みて美味い。ビールが美味いと感じて来た。胃袋が回復し始めて来たようだ。 2時過ぎに昼食を終えてホテルに向かった。中国の交通事情はかっての自転車交通からオートバイ、乗用車の社会へと変化している。都市における自転車の稼働率は日本より少ないかも知れない。只、オートバイは3人乗り、4人乗りはごく普通だ。対向車線の路肩部分を平気で走ってくるのには驚いた。この国のマナーはあらゆる面で日本と異なっているようだ。歴史・文化の違いという事であろうか。もちろん私の商取引でも同じ傾向があるのだから困ったものである。 P14バイク - コピー一家4名でドライブ中 林は僕らをホテルに降して6時に迎えに来ると言って帰って行った。シャワーを浴びてすぐにベットで横になった。5時半までに体力の回復を図るためである。今夜も乾杯の嵐に巻き込まれるのは必然と思われたからだ。5時半の携帯電話のアラームで目覚めた。洗面して歯を磨くとスッキリとした。体が夜の仕様に戻ったようである。6時にロビーで仲里と共に待っていると林がやって来た。林の事務所で長身の奥さんを乗せて市街地に向かった。江とヨーキンは同行しないようだ。途中の大きなマンションで劉さんを乗せて市内の古いレストラン着いた。林の奥さんが車を運転して帰って行った。秦は未だ外出先からの途中のようであった。僕らは店の一角で鉄観音を飲んで秦を待った。茶はその店の調達品で昨日の茶師の鉄観音ほど美味くはなかった。鉄観音にも様々なグレードがあるようだ。 外はいつの間にかスコールが雷を伴ってやって来た。スコールはそれ程激しいものでは無く30分ほどで通り過ぎた。そして涼しさと共に夕暮れとなった。ディナーに程よい時間である。 林が厨房を覗いて戻って来た。 「ナカムラさん、キャン・ユウ・イイトゥ・リトルタイガー」と言って携帯電話の画像を見せた。 「イッツ。キャット」 「ノー、デファレント、イッツ・ア・リトルタイガー。ベーリー・テイスティ」と言って笑った。 今夜は猫料理となるのかと気が滅入って額に手を当てた。 「オーケー、チェンジ、スネーク」と言って厨房に戻って行った。今夜のメインディッシュが猫から蛇に変わったことに安堵した。 蓮さんが3名の部下を伴ってやって来た。箱入りの紹興酒を運ばせている。円卓の横のサイドテーブルに10数箱が積み上げられた。 「ベーリグッド。13年物の古酒だ」と言って劉さんが親指を立てた。蓮さんが満足そうに目を細めて軽く頷いた。 秦が四川省から来た女性二人とやって来た。林の弟の優男も一緒である。口数の少ない色男だ。40歳前後の年上の女は四川省の小学校の教頭らしい。秦が気を使っているのが分かる。30歳前後の痩せた女の素性は分からないが、林の弟に気があるらしく時々視線を送っているのが見て取れた。秦には素性の知れない女が良く現れる。二人の女のどちらかがIDカードを紛失したらしく飛行機のチケットが取れないらしい。明日いっぱい遊ぶ予定が一日がかりで四川省まで電車で帰る羽目になったと秦は笑っていた。いずれにせよ私には勝手が分からない事情が発生したようだ。 夕食会は蓮署長の部下2名が加わって11名の宴会となった。紹興酒は700ミリリットル壺に入っていてコルクの栓がしてあった。林は栓を抜くのに躍起となって唸っていたが店の女がやってきて栓抜きで次々と栓を抜いてくれた。ぐったりした林を見て劉さんが豪快に笑い一同もつられて爆笑した。今夜の宴会は紹興酒の乾杯で始まった。 定番の茹でた小エビの皮をむきながら口に放り込んでは乾杯をする。 上海ガニに似た小ぶりの茹でた蟹。 鮎に似た川魚のフライ 豚バラ肉の角煮。沖縄のラフテーとほぼ同じだ。ラフテーの元祖だろう。 エンサイの炒め物。沖縄ではウンチェーと呼ばれているが何とも中国語的な発音である。沖縄の夏場の葉野菜の定番である。 アサリの酒蒸し スッポンのスープ。かなり大きなスッポンが料理されたようだ濃厚なスープで精が付きそうである。むろん肉も美味い 蛇のスープ。今夜の特別料理だ。香草と共に煮てある。少しピンクがかった白身の肉だ。硬めの棒状の肉を前歯で噛んで肉をむしり取ると蛇特有の細い骨が現れた。背骨を軸にゆっくりと湾曲している。魚の骨よりも弾力性があり、髭のようにしなやかである。淡白で細かい肉質は鶏肉に似ている。手づかみで肉を咥えてゆっくりと蛇の肋骨から肉片を剥がしていくのである。肋骨は簡単に千切れることがなく、最後まで背骨に付いている。劉さんが日本語で「美味しいですか」と尋ねた。親指を立てて「ベーリグッド」と答えると、破顔して豪快に笑った。蓮署長が穏やかに笑って乾杯を促した。僕らは何度も乾杯を重ねた。中国の乾杯は完全に杯を飲み干すことだ。この国の簡潔な礼儀作法である。ゲストにとって1対1なら楽な作法であるが、10対1ではかなり苦しい礼儀作法でもある。 林の弟が500ミリリットルのミネラルウォーターに何か袋状の実を爪楊枝で突き刺してその汁を流し込んでいる。かなり苦戦していたがやがてその袋から緑色に液体が滴り落ちた。袋の汁をすべて絞り出すとテーブルの上に放り出した。それを見て私はその小さな袋が蛇の胆嚢であることを即座に見抜いた。林の弟がペットボトルのふたを閉めて揺さぶるとミネラルウォーターが透明なグリーンに変わった。そして僕らのグラスに少しずつ注いでくれた。女性は嫌がったが秦が何やら説得している。きっと美容に良いとでも言っているのだろう。僕らは一斉に乾杯とグラスを掲げて飲み干した。少し青臭く苦みがあったが気にするほどの味でもなかった。中国の友人たちは彼らが準備した食材を僕らが旨そうに食べるのに満足しているようだ。いつの間にか蓮署長の持ち込んだ古酒を全て飲み干し、更に店にあった普通の紹興酒を取り出して飲んだ。ディナーが終了する頃には林の椅子の後ろの土間に紹興酒の空の箱と空き瓶が無造作に放り出されていた。秦が空き瓶を数えて18本だと笑った。蓮署長、劉さんも大いに満足げな表情でごみの山を見下ろした。中国の食事マナーは日本と異なり、テーブルの上に食べカスを散らかすことや宴席の周りにごみを投げ散らかすことに全く抵抗感が無い。むしろ食べ散らかすほど大いに飲んで食べて賓客をもてなしたことに満足を覚えるようだ。国が変われば文化も異なりマナーも変わるものらしい。私は彼らの文化を否定しないが、食べカスの魚の骨や貝殻をテーブルの周りに無造作に散らかすことに慣れそうにもなかった 酒と食事で腹が充分に満ちて宴会が終了したのが午後10時半であった。蓮署長と劉さんと林は帰って行った。秦の案内で林の弟、四川省の女性、僕らの6名で近くのカラオケバーに入った。この頃から私の記憶は途切れ途切れになっていた。確か男4名で一人500元の割り勘で料金を払ったこと。ホステスが4名ついてビールと摘みとカラオケ代がフリーであったこと。大音響の中国語のカラオケは騒音にしか聞こえず、テッシュペーパーをちぎって丸めて耳栓をして、うたた寝をしていると秦に頭を小突かれたこと。年増の女教頭と秦が休みなく歌い続けたこと。連れの若い女がカラオケバーで出されたスイカを猛烈な勢いで食べまくっていたことが記憶に残っていた。何時に散会したかは定かでないが、ホテルのロビーに据えてある大きな柱時計が午前1時前後を指していたことだけは覚えている。

(5) 8月6日(金)

午前8時30分、胃の調子が未だ回復しないまま1階のレストランで朝食をとった。私は連日の夜更かしから朝食に仲里を誘わないことを伝えていた。互いの体調を気遣ってのことである。1日の行動が始まるのは午前9時からであり、それまでは互いに干渉しないことにしてあるのだ。尤も、仲里は私より4歳若いだけあって、私より早く朝食を済ませているようだ。秦は既に昨夜の女性と朝食を済ませていた。私の席にコーヒーカップを手に一人の男を伴ってやって来た。中肉中背で眉毛の薄い典型的な中国人タイプの男だ。40歳前後に思えた。蓮署長の弟で建築設計士だと紹介された。 「ビジネスは昨日で終わり。今日は観光です。別の場所に泊まります。明日の着替えだけ持ってください。カバンはマイルーム1109に置いてください」 「オーケー、部屋の鍵を貸してくれ」 「ノーニード。肥った女がいるから大丈夫」 私がいぶかしげな顔をするのに構わず 「ナイン・サーティ、スタート」と言って蓮と何やら話し始めた。 私は部屋に戻り仲里の部屋に電話してから荷造りをした。下着にシャツ、靴下を部屋に備え付けのランドリー専用のビニール袋に詰めてカバンを閉じた。 仲里の部屋をノックして合図して、その隣の部屋をノックすると一昨日宴席で一緒だった肥った女がドアを開けた。「ニーハオ」と言ってカバンを渡した。女は一瞬はにかんだ表情を見せた。仲里も続けてカバンを渡した。ロビーに降りて秦に女にカバンを預けたと話した。 「彼女はコンピューター・フレンド。一日中部屋にいる」とあまり興味無さそうに答えた。日本で言うメル友で、北朝鮮の近くの町からやって来たらしい。単なるメル友が同じ部屋で過ごすことも無いだろうが秦とその女との濃密度については詮索する気はなかった。何しろ昨晩のディナーに彼女は同行しなかったのだ。 蓮の車はトヨタの4輪駆動車ランドクルーザー(通称ランクル)だが仕様が少し異なっている。中国での現地生産車であろうか。車にナンバープレートが無く、運転席のフロントガラスの前に登録証があるだけだ。それも有効期限が本日までとなっている。秦がそれを指差して笑った。ランクルのバックドアを開けると広いトランクに木箱がぎっしりと詰め込まれていた。その隙間に秦の荷物と僕らのビニール袋を押し込んだ。秦が全て洋酒だと笑いながら言った。「今夜は此の酒で乾杯するのではないよね」と仲里が沖縄弁で言った。「勘弁してくれよ」と私も沖縄弁で答えた。僕らは秦に聞こえるとまずい内容は沖縄弁で話しているのだ。蓮の副業であろうか、かなりの金額の高級洋酒であることは間違いない。車は車高が高いわりにクッションが良く快適なドライブであった。只、車が揺れるたびに酒瓶のカランコロンと鳴る音が私の胃袋を不快に刺激した。 車は厦門島に架かる3本の端の中央を渡って右折して高速道路に乗った。秦の説明によると、この高速道路324号は南の香港から厦門、上海、青島を通って北京へと海岸線を通る陸上物流の幹線道路らしい。左側に高速鉄道が並行して走っている。厦門・上海間を走る高速鉄道車両で中国製だという。中国技術の素晴らしさを強調していたが、後年この列車が転落事故を起こして物議を醸しだすとはこの旅では想像も出来なかった。未だ運行本数が少ないようで福州市に着くまで列車を見ることは無かった。人家が少なくなった頃、工事中の2本のトンネルを抜けた。ここから泉州市の区域との道路標識があり、泉州市市街地まで70キロ、福州市まで205キロと表示されていた。高速道路は中央分離帯の右側だけが開通した片側通行であるが、それでも片側2車線である。全面開通となれば片側4車線の基幹道路になるだろう。至る所で高架橋の工事が行われている。コンクリートミキサー車とポンプ車が並び、象の鼻に似たホースから吐き出すコンクリートの周りに労働者がひしめき合っている。日本国内で見られる工事現場の風景と変わらない。少し違和感があるとすれば労働者の作業着、ヘルメット、安全靴など国内で見かける○○会社ですとの統一性のある現場環境ではないことだ。P15ポンプ車 - コピー 高架橋工事 一方、工事現場の活気と異なり、農村で働く人々の姿を見かけることが少ない。かっての集団営農団地なるものは見かけない。民家の周りに家庭菜園規模の農地を見るだけだ。或いは小規模な自作農家の菜園ばかりである。大規模農園はリュウガンの果樹園だけだ。その果樹園でも農業者の姿を見ることは無い。リュウガンの果実がたわわに実っているが収穫労働者は何処へいるのだろうか。不思議な農村風景である。1990年頃に広州、深圳、成都、昆明、西双版納と旅する機会があったがその頃の農村風景は全く見られない。中国は大きく変化しているようだ。高速道路脇には一定間隔で広告塔が立っている。高さ15mの柱の上に3m×5m程の表示パネルが乗っている。電化製品、薬剤、飲料水、ワイン、石材、茶等である。デザインが洗練されており、経済力の力強さが感じられるものばかりだ。この地の特産品であろうかワイン、石材、お茶の宣伝広告が最も多い。P16ワイン看板 - コピー時折、山手に石切り場が見えた。灰色の花崗岩の石切り場である。私の友人の造園業を営む丸喜緑化の喜屋武さんも福建省から石灯篭などの石材加工品を輸入していると話していたことを思い出した。もしかすると彼に作ってもらった自宅の庭の池に架けた2m程の花崗岩の石橋や沓脱石はこの地から持ち込まれているのかもしれない。 町はずれに新築或いは建築中の2階建ての小綺麗な民家が時々見られた。突然秦がその家を指差して言った。 「先輩、あの家には老人が住んでいます」 「ほう、この辺りには金持ちの老人が多いのだね」 秦が笑いながら言った。 「子供が日本に出稼ぎネ。密航して」 中国経済は中々多様性に富んでいるようだ。 P22老人宅 - コピー やがて右手の遠くに街並みとその先に広がる海が見えてきた。蓮はランクルの速度を落としてインターチェンジを右に降りて行った。インターチェンジの料金所近くの路肩の植え込みは、芝生、灌木、高木が整然と植栽されており管理も行き届いていた。500m程離れた丘の上に、馬に跨る武人の巨大な石像が立っていた。 p22-2アヒル池 - コピーアヒルの養殖池 泉州市の中心部を流れる橋を渡って右折して川下に向かって1kmほど進んで石橋の前で車を停めた。蓮はこの町で建築設計の仕事をしているらしい。僕らを降ろして一人で出かけた。銀行に用事があるらしく僕らに休憩しろとの事らしい。今日は金曜日で明日の週末は銀行が休みである。午前11時半となっていた。小腹の空く時間であるが辺りに雑貨店は無く、ただ大きな石像と川を横切る長い石橋があるだけだ。 秦が石橋の入り口の石碑を指差して、この洛陽橋は千年の歴史があると言った。石橋は幅4m程で僅かにカーブしながら800m先の対岸まで続いている。 P17千年表示 - コピー 一般車両の通行は禁止との表示がされていた。川岸の車道よりも低くなっており3段の階段が付いている。車の往来は出来ないがバイク通行は可能なようだ。親子連れのミニバイクがやってきて階段の前で二人の子供を降ろして親父が階段を苦も無く登った。一般道で再び子供を乗せて何処かへ去って行った。               P18橋 - コピーP19漁民 - コピー 橋脚の根元は舟形の台座となっており、船の切っ先が川の上流に向いて河川の流れを切るようになっている。船の艫はボートのようにストンと切られている。まるで上流に向かう小舟を浮き足場にして橋脚を乗せている形状だ。河川は大雨になると水切りが必要になるほどの急流と変わるのであろう。今は干潮時で辺りは干上がっており、水切り土台の効果を見ることは出来ない。むろん、川の中央部まで行けば水の流れが分かるだろうが暑いさなかに石橋を300mも歩く気にはなれない。石橋は何度も修復を繰り返したようで、路面の石を取り換えた跡がある。60cm角に8mの長さで新しい石が据えられていた。この地域で産出する花崗岩であろうか。花崗岩の角柱を組み木細工のようにして橋の路面を繋いでいた。干上がった川の岸辺では漁師が船の手入れをしていた。のどかな地方の漁村の風景である。橋の川下には広大なマングローブが広がっていた。白い花を着けた1m程の高さのメヒルギが主な樹林である。P20マングローブ - コピー 端の左手の休憩広場には数メートルの石像があった。石碑には蔡譲翁と記されその功績も書かれていた。未熟な私の漢字解読力によると、若くして官吏となり多くの治世と書物を記したらしい。また700里に及ぶ松の並木を作ったらしい。琉球王府の偉人祭温翁は此の福建省に学び中国名祭温を拝命して琉球に戻った宰相である。農林業に功績を残した偉人であり、祭温松と呼ばれる沖縄を縦断する街道の松並木は有名である。松並木は大戦の戦火や敗戦後の米軍基地整備でほとんどが消滅した。僅かに残った本島北部の松も日本本土復帰に伴う他府県から侵入したマツノザイセンチュウの被害をうけてほぼ消滅した。私はこの石碑の文章の中に祭温公の影を見た気がした。石像の横に小さな洗い場があり、地元の漁師が魚介類を捌いているようだ。洗い場の後ろの雑木の根元に甲イカの骨や貝殻が散らばっていた。備え付けの水道の古い真鍮の蛇口を捻ると冷たい水が勢いよく噴き出した。P21蔡譲 - コピー 1時間ほどで蓮が戻って来た。秦が蓮に代わってランクルを運転して再び高速に戻って福州市に向かった。 「レンさん、ノースリピング・エスタディ。チェンジドライバー」秦が言った。 「ドゥ・ユウ・ハブ・ライセンス」と問うと 「ノー、バット・ノーポリス・オーケー」笑った 中国も台湾も右側通行であり、交通量の多い台湾に比べて泉州の田舎の道のドライブは気楽なようだ。秦はケラケラと笑いながら次第に加速していった。蓮は秦の横で完全に寝入ったしまった。 「秦、ノースピード」仲里が秦の肩を叩いて言った。 「ダイジョウブ、ノープロブレム」笑いながら楽しそうにハンドルを握った。 私も仲里も台湾中央高速での秦のクレィジードライイブをよく知っているのだ。途中で高速道路高架橋のPCコンクリートを運ぶトレーラーがエンジントラブルを起こしたらしく、マフラーから白煙を吐きながらゆっくりと進んでいる。片側1車線となっている数キロの工事区間が交通渋滞となった。僕らは空腹を伴って次第にイライラしてきた。その時、秦は道路右側の道路建設用の仮設道路を見て右にハンドルを切った。そして砂塵を巻き上げて1km余りの渋滞を一気に抜き去った。僕らはシートを叩いて大笑いした。 「秦、ユーアー・グレイト」と秦を褒め上げてストレスと発散した。福州市に着いたのが空腹のピークを過ぎた午後2時であった。 福州市は関江という河川の河口に古くから栄えた町だ。琉球王府の中国交易の中継地でもあり、琉球人が移り住み中国文化を琉球に送り込んだ土地柄である。沖縄県の那覇市には福州市との交流を示す中国南部式庭園の福州園がある。 泉州よりも豊かな水量を湛えた川を渡って市内に入った。人通りの多い市中で車を停めて蓮が運転を代わった。市街地を抜けるまで10分ほどスコールとなった。街はしっとりとして人間の喧騒を洗い流してくれた。P23福州市 - コピー街角で30代の二人の女性を拾った。「マイフレンドの奥さん」と秦は説明した。車内が窮屈になった。背の高い細身の女性と背の低い美人の女性だ。高層ビル街を抜けてレストラン街の前で車を停めた。「オーケー・イーティング」と秦が言われて車から降りた。仲里と二人で背伸びをしてどちらからともなく「疲れた」とつぶやいた。この時間は昼食と夕食の間で何処のレストランもスタッフの休憩時間である。麺類を扱う小さな食堂に入ってみると親父が椅子を並べてその上で寝ていた。秦が親父を起して料理の相談をしていると蓮が厨房を覗いて戻って来た。そして手招きして僕らを外に追い出した。 「中が汚いからダメ」と秦が言った。 僕らは再び市中をさ迷った挙句、客家料理専門店に入った。その店は二階建ての立派な店であったが、やはり昼食と夕食の合間のスタッフの休憩時間のようであった。2階の個室を要求したがクーラーが故障中であり1階の大広間の奥に席を取った。大広間には4台の円卓があり、店のスタッフが昼食時の喧騒を終了した安堵感と脱力感を伴って休憩していた。僕らがやってきてもうつろに見ているだけである。今はただ、休息して再びやって来る夜の喧騒に備えているようでもあった。大広間と言っても客は僕らだけであり、周囲に遠慮する必要は無かった。壁には客家料理の写真が貼られており値段も付いている。安い物で200円、高い物でも1500円程度だ。大きなアヒルを丸ごと蒸したスープが最も高価であった。小ぶりのアヒル700円である。秦はあれこれと注文してビールの栓を抜いた。蓮は睡眠不足だと言って食事もそこそこに仮眠を取りに車に戻った。二人の女性は秦と親しいようで何のこだわりもなくビールの乾杯を繰り返した。二人とも秦の友人の奥さんと言うが詳細は分からない。背の高い女がしきりと乾杯を勧めた。 アサリに似た2枚貝の炒め物、 竹の子の炒め物 苦みのある葉野菜の炒め物。葉の裏側が紫色をしており沖縄のハンダマという野菜に似ている。皿に紫色の色素が染み出ていた。 川魚のフライ。厦門の田舎町で食べた種類と異なる。 鶏肉のスープ バリバリした細い焼きソーメン タロイモ澱粉のビーフン アヒルのスープ。アヒルが丸ごと入ったスープである。 最後にアヒルのスープの土鍋がぐつぐつと煮えたぎる音を立ててテーブルの中央に運び込まれた。蓋を取ると大きなアヒルが土鍋の中にすっぽりと浸かり、スープの中に香草がたっぷりと入っていた。アヒルの頭は尻の方に曲がって鍋の中に収まり、嘴を少し開いて目をしっかりと閉じて短い人生を儚んでいるかのようであった。しかしアヒルの滋養がたっぷりとしみ出した茶褐色スープは日々の生活に疲れた人間の為に存在しているかのようである。僕らは客家料理の特性スープを繰り返して飲んだ。しかしアヒルの肉を取り出して食べるには十分に満腹していた。しばらくすると再び同じ料理の小ぶりのアヒル料理が出て来た。僕らがキョトンとしていると秦は困った顔をしてテーブルに置くようにと指示して苦笑いした。女どもが「どうするのよ」と言ったように声を出したが、お前たちが持って帰ればよいと伝えたようだ。どこかでコミュニケーションの行き違いがあったらしくアヒル料理の大小を注文してしまい後で彼女たちのお土産になってしまった。秦の見栄っ張りは女性の前でははなはだ顕著である。結局、食べきれないほど注文してしまい閉口した。 店の中の壁掛けの小さなスピーカーから賑やかな音楽が流れ始めた。仲里が「ナイトタイムの始まりかな」と私に言った。夜のディナータイムの準備に入るようだ。時計を見ると午後4時を回っていた。かなり遅い昼食が終わった。仲里が「もう夕飯は要らないな」と言った。私も「全くだネ」と答えた。秦はというと、相変わらず上手い食事の取り方をしており、ビールをタイミングよく飲みながら料理は軽くつまんでいるだけだ。客に勧め上手な遊び人の典型である。2匹のアヒルをプラスチックのスープ用の容器に入れ、ビーフンやその他の料理を別の容器に詰めて女性に渡した。 外に出て街路樹のガジュマルの下で体を解した。長時間のドライブと食べるだけの行動では体の筋肉が膠着してしまい思考がおかしくなるのだ。背伸びをして体を解している私の横に信号待ちのバイクが止まった。学生風の青年が咥えタバコで生意気な顔をしてこちらを見た。何処の国でも大人になったばかりの青年はエネルギーを持て余し、無遠慮な視線を往来の人々に投げつけて虚勢を張って我が道を探しているようだ。 車で寝ていた蓮を起して僕らは客家料理店を後にした。女性たちは5分ほどで車を降りた。秦の話では今晩の泉州でのカラオケバーで合流する予定であったが、都合が付かなくなったようだ。僕らが福州市に来たのは彼女たちを誘う目的であったのだが頓挫したようだ。秦の行動に目的はあっても計画は無い。僕らは今日の行動は200㎞のドライブをして年増女と遅い昼食を取っただけの結果になったようだ。 午後5時、僕らは再び退屈なドライブで150km先の泉州市に向かった。交通量が増えだして途中で暗くなった。道路工事はライトをつけて続けられていた。軽装の作業員達がのんびりとエアコンプレッサーの削岩機で岩石を割り、それをトラックに積み込んでいた。中国大陸の人々の労働ペースは日本の労働環境とは異なる様だ。泉州市に着いた時には陽が落ちて市街地は既に夜の顔に変化していた。街角で二人の男を拾った。 「先輩、此処の海鮮料理は美味しいです。何を飲みますか。ビール、紹興酒?」 「海鮮料理なら白ワインだね」と仲里が言った。 「オーケー、今日は白ワイン」 「良かった、ワインならがぶ飲みはしないだろう」と仲里が沖縄弁でささやいた。 「そうだね、一気飲みは勘弁だよ」と私も沖縄弁で返事した。 15分ほど走って家並みが途切れた場所で車を停めた。蓮が何やら秦に話している。 「先輩、蓮さんここに大きなアパートを建てる。政府のオーケー貰った」 車のライトに照らされた先には作業小屋と小型のショベルカーがあり、その先に原野が広がっていた。あたりに明かりは全くなく周辺のロケイションは判断できなかった。ただ、潮の香りをわずかに含んだ穏やかな風が絶え間なく雑草を揺らしており、海岸からあまり離れていないような気がした。 車は再び走り出して街灯の無い古い家並みを縫うようにして進んだ。時折、民家の庭先のベンチに座って談笑する老人達の姿がライトに浮かんだ。民家の室内から漏れて来る薄明かりの下で夕涼みをしているようだ。この辺りは想像以上に電力事情が良くないようだ。対向車を避けながら海岸の防波堤の横を走る狭い道路しばらく進んで止まった。車が4,5台停まった古ぼけた2階建ての食堂である。街灯に照らされた道向かいの空き地にはたくさんの貝殻が捨てられていた。それこそ中型ダンプで何台もこぼしたような小さな盛土が点在していた。防波堤の方向から浜風に乗って潮の臭いが流れて来た。海藻の臭いでなく泥を含んだマングローブ特有の臭いである。市街地から遠く離れているようで辺りは完全な闇の中に沈んでおり、地元の人々だけが知る海辺の海鮮料理店のようだ。蓮が店と交渉して2階の個室に入った。この辺りのレストランでも個室はトイレを備えており、厦門の四つ星ホテルと同様である。日本と異なる感性だ。先ほど車に乗り込んで来た二人は泉州市の検察官の高さんと蓮の代わりをする運転手だ。さらに地元の警察官二人が同席した。右腕にギブスをした若い丸刈りの男は小柄であるが、精悍な顔つきと引き締まった体をしており、如何にも公安員という印象である。 台湾の料理店でよく出て来る摘みの焼きピーナッツがテーブルに載ると、運転手がビールの栓をポンポンと抜いて僕らのグラスに注いだ。自らは甘い烏龍茶だ。蓮さんの音頭で乾杯をすると料理が運ばれてきた。 「チェンジ・ホワイトワイン○○○○」秦が広東語で女店員に伝えた。 「仲村さん、今晩はワインだから一気飲みは無いね」と仲里が笑顔で言った。 しかし、女店員の代わりに男子の店員がワインをビールケースに入れて持ってきた。 「なんてこった。仲村さんお願いだから私の分も飲んでください」仲里が下を向いて言った。 「ワインの一気飲みは翌日頭に残るぜ」と私も顔をしかめた。 中国全土か南中国の習慣であるかわからないが、彼らには優雅なディナーという感染が欠落しているようだ。中国のカンフー時代劇の映画のシーンでは豪快に食らいかつ一気に酒を飲むのが習慣の如く描かれているが、あれは映画の世界ではなく来客をもてなす現実の習慣なのである。僕らは観念してこの習慣に従うしかなかった。 泉州市は普江川の河口に栄えた港町である。大きな河川に近い海は山から運ばれてきた自然の養分で魚介類の豊富な漁場を形成すると言われている。陸地の養分が海に流れ出て微生物を養い、微生物はカニ、貝、エビ、小魚を養う。そして海の食物連鎖は豊かな漁場をけいせいするである。海鮮料理店の食材は全て地元産とのことだ。P24海鮮料理 - コピー 最初に出てきたのは岩場に生息する人差し指の先程大きさの巻貝の空炊きした料理だ、爪楊枝でほじくり出して身を食べるのだ。話しながら食べるのに丁度よい。食前酒の摘みのようなものだ。メインディッシュが出来るまでの繋ぎでもある。 小エビの炒め物。オキアミほどの大きさのエビのピリ辛味付け炒めでビールに合う。 細長い二枚貝の炒め物。小指大の細長い白い貝が高温の油で炒められた新鮮な食味だ。 茹でたタコ。鶏卵程の大きさの茹でたタコは柔らく美味い。 茹でたイカ。15㎝程の小イカでタコ同様に美味い。 ハゼの煮付け。ムツゴロウに似たトビハゼの煮付けである。骨まで煮えており頭ごと食える。泥臭みは全く無い。 苦瓜炒め。沖縄のゴーヤーチャンプルーより水っぽい。沖縄のゴーヤーチャンプルーには及ばない。 アジの煮付け。手のひら大のアジの煮付け。唐辛子の効いた煮付けだ。 茹でた蟹。地元産のマングローブガサミを香草と共に茹でてある。握り拳大で新鮮だ。台湾で食べたインド産の蟹より数段美味い。 若い警察官同士が指ジャンケンで遊び始めた。P25中国ジャンケン - コピー地元の酒の座での遊びらしい。よく見ると沖縄でも古い時代に流行った遊びに似ている。海洋博公園近くの本部町備瀬集落の祭りの酒席で見たことがある。福建省から琉球に伝わった遊びであろうか。互いに片方の手の指を1本、3本、4本と出すと同時に双方の指の合計を交互に発声するのだ。合計が合った方の勝ちである。合計が合うまで連続して続けるのだが、指を出し発声する速さが次第に早くなり、声も大きくなって白熱してくる遊びだ。大声を出す割には勝敗が簡単に決まらない。やる側は興奮するも見る側はそれ程面白くもない遊びである。私はその遊びを見て言った。 「この遊びは複雑でさっぱり勝負がつかない。ジャンケンポンの方が簡単だ」 彼らが一斉に顔を上げてそれではジャンケンをしようと言い出した。ジャンケンは中国でもポピュラーなようだ。私が立ち上がって「レッツ・プレイ、秦」と秦を指差した。 「ジャンケンポン」秦の勝ちである。 「先輩、一気」とワインを指差した。私は一気にグラスを空にした。それを見て皆が立ち上がってジャンケンを始めた。勝った者同士、負けた者同士のオールラウンドでジャンケンを繰り返すのであるから僕らの部屋は騒々しくなった。 P26ジャンケンポン - コピー右から秦、蓮、一人置いて高さん 暫くすると地元の名士である高さんを訪ねて他の部屋から挨拶をしに来た者までジャンケンに加わった。この部屋のワインが空になってワインがどんどん追加された。僕らはなにが何だか解らなくなった。 気がつくと午後11時である。ワインを注ぐ係となった運転手の後ろに空き瓶がケースからあふれていた。アルコール分が低いのであろうか飲んだ割には酔いが回っていなかった。テーブルの上もイスの周りにも料理の残骸が散乱していた。私も仲里もいつの間にかこの地のテーブルマナーに染まってしまっていた。 「オーケー、先輩、ホテルに行きます」 仲里が「やっと眠ることが出来る。今日はありがたいね」と小さく呟いた。 暫く走るとホテルに着いた。秦がフロントからカードキーを受け取って僕らに渡してエレベーターに乗り込んだ。そして最上階の7階のボタンを押した。 「先輩、カラオケタイム、オーケー」とニヤリと笑った。 カラオケバーには数名の美人ホステスと蓮、運転手、若いギブスの警察官が待っていた。蓮が「ウエルカム」と言って若いホステスの横のシートを指差した。本日も歌えぬカラオケタイムの始まりである。秦、蓮、警察官が歌っているうちに仲里が日本の演歌を探し出してマイクを私に渡した。石原裕次郎の歌を2曲連続で歌ったが酔いの為に音程が何処かに吹き飛んでいた。それでも拍手喝さいであった。其処から私の脱線が始まった。 事の始まりは定かでないが、私は上半身裸で空手の形を演じることになった。剛柔流空手の形「転掌」と「クルルンファー」を演じて見せた。おぼつかない足さばきで何とか演じると蓮が立ち上がって地元の武道の形を演じて見せた。それが終わると蓮と約束組手のまねごとを始めた。すると警察官が加わって捕縛術に似た形を演じた。やがて僕ら3名は上半身裸で腕を組んで踊り出した。まるでコサックダンスさながらである。秦の歌うリズミカルな曲に乗り、ホステスも加わって舞踏会のように盛り上がった。泉州市の夜がゆっくりと更けていった。二日酔いの片頭痛のお土産を伴ってである。 毎日が不覚の連続であり、異郷の地に自らの居場所を見つけることなど出来ぬと承知で夜になると舞い上がってしまうのだ。私は人生のストレスの根源が何であるかを探り出せぬままに異郷の大地の回廊を歩き続けている。遠い日にモーリシャスの海辺のバンガローのウッドデッキに立ち、ココヤシの群生の遥か遠くのリーフの白波を眺めて、自らの心に巣くう異形を探そうと試みたが眩しい陽光が作り出す陽炎を見るだけであった。只、旅という非日常の世界に入り込み、人生の本質に繋がる扉を開けることもせず無秩序に真理の社の壁の周りを彷徨い続けているようだ。朝を迎える度にいたずらに胃薬を消費する旅を続けている気がした。既に持参した胃薬は半分に減っていた。

(6) 8月7日(土)

午前8時、シャワーを浴びて備え付けの鉄観音を飲みながらガラス越しに町並みを眺めた。整然と並んだ街路樹の下を地元の人々がせわしく歩いている。未だ明瞭にならぬ頭でそこに住む人々の営みを見ていると何の生産性も目的も持たぬ自分の時の浪費に少しばかりの恥ずかしさを覚えた。P27朝の泉州 - コピー 泉州市に入ると目に付く銀色の丸いタワー 午前9時、運転手がドアをノックして迎えに来た。言葉は通じないが朝食への誘いである。隣室の仲里に声を掛けて4階の食堂に降りて行った。何処のホテルでも朝食はバイキングである。私は朝食の定番となった粥に少しばかりの野菜の炒め物とゆで卵である。仲里はしっかりと朝食を取っている。日ごろから体を動かして働いている男は頑強な回復力を持っているようだ。秦が疲れた顔でやって来て少しばかりの朝食を取った。 「先輩、今日はローカルの観光です」 「オーケー」 僕らは着替えの入ったビニール袋を持ってロビーに降りて部屋のキーを秦に渡した。このホテルの精算は蓮がしてくれたようだ。昨夜の運転手と別れて蓮が車を運転してホテルを後にした。 午前10時、ホテルを後にして再び蓮さんのマンション建設予定地を見に行った。 其処は埋め立て地の湾岸道路に面した広々とした都市開発計画地の一角であった。未だ大型建築工事は始まっておらず数年後の新興都市の予定らしい。既にパイル打ちが始まっている場所も幾つかあって活気が一気に噴出する予感が漂っていた。 蓮は事務所に戻り、新しい運転手と現地ガイドの男を乗せた。後部座席が窮屈になった。湾岸道路は片側1車線であるが幅広い植栽スペースを設けてあり、都市開発の進行に伴って片側2車線に増幅できるようになっていた。植栽マスの中のアラマンダの黄色い花を咲かせていた。開発と景観作りが並行してなされておりこの国の経済力が着実に伸びているのを感じた。 30分ほど走って海岸近くの集落に入った。道路の突き当りの公園に車を停めた。宗武古城風景公園と表示されていた。入園料と観覧車の代金を払って公園の中に入った。P28石像公園 - コピーこの地区の民族衣装を着た女性運転手が観覧車を運転して園内を回った。チャイニーズハットにカラフルなスカーフとスカートである。P29観覧車ガイド - コピー この地域は福建省のなかでも独特な服装をした民族が暮らしていると秦が説明した。尤も若い世代は既にこのローカル衣装を着用しないらしい。情報化の時代の若い世代のファッション感覚を虜にする衣装ではないのだろう。この地は花崗岩の産地であり公園内には様々な動物や人物の石像が立っていて面白い景観を構成している。海上の岩石までも亀の形に彫り込まれている。西遊記の三蔵法師一行の石像も海岸の岩場に立っている。海岸は海水浴場へと続いている。この海の向こうは幻の琉球王国だろうか。P30亀 - コピー 公園を後にしてこの地域の未だ開発の進んでいない町に入った。町の店先には先ほどの公園の観覧者の運転手のユニフォームより少しだけ地味なローカルの衣装をまとった女性がごく普通にいた。男性は何らの特徴もない地味な服装であるが女性はカラフルな衣装で働いている。何処か異国の文化の影響を受けているのだろうか。只、ローカル衣装の女性は全て中高年であり、若くてこの衣装を引き立てる程の美女に出会うことが無かったのは残念である。p31ローカル市 - コピーp32民族衣装の母子 古い集落を抜けて海岸道路を走った。通りでは若い男が往来の車に駆け寄って刀剣に似た土産を売っている。観光客の姿の見えないこの辺りの情景に似合わぬ男の行動である。時折理解できない光景が中国には出現する。牡蠣の殻が3mの高さに野積された捨て場の横の悪路を抜けて護岸沿いの養殖場の管理道路走った。水面にカキ養殖のブイが延々と続いている。p34カキ養殖水深はそれ程深く無いようだ。この辺りも干拓事業が進むだろうと秦が説明した。蓮のマンション建設予定地は対岸にあると指差した。途中に牡蠣専門のレストランがあったが閉店日らしくゲートが閉まっていた。僕らは牡蠣の産地の恩恵を受けずにこの地を去ることになった。 午前11時40分、現地ガイドを降ろして厦門に向かった。道路脇には石材店が数多く並んでいる。烏龍茶を専門とするお茶屋もある。泉州市は石材と茶とワインの産地である。高速料金所の入り口の路肩で車を停めて秦と運転手がダッシュボードからナンバープレートを取り出して針金で取り付け始めた。料金所の中から警察官らしき男が出てきて運転手に質問した。昨日の書類を見せると立ち去った。料金所の制服を着たスタッフが右上の建物から金庫に似た箱を抱えて降りてきて料金所の中のスタッフと交代した。時計を見ると12時である。小腹が空いてきた。厦門まで75㎞の距離である。昼飯は午後1時過ぎだろう。私はポケットからのど飴を取り出して一粒を仲里に渡した。少しばかりの腹の足しになるだろう。p33石像販売所高速道路を南下して厦門に向かった。秦は運転せず助手席で眠り始めた。帰りの景色は単調であったが偶然にも中国高速鉄道車両とすれ違った。通過場所によるのかもしれないが日本や台湾の新幹線よりも高速では無かった。退屈なドライブで仮眠を取っているうちに厦門島の対岸に着いた。目の前に新築の駅が現れた。紫禁城のような威風堂々の建築物である。この程度の鉄道にお城に似た駅の建物が必要であろうかと仲里が呆れ顔で呟いた。私も同感であったが中国の鉄軌道の発展を予測しての構築物であるのか、あるいは中国政府特有の権力誇示政策の一環であるのかは不明であった。私は後者であろうと思った。 工事中の高速道路のインターチェンジは幾重にも複雑に絡み合い、運転手は2度も方向を変えてやっと厦門島の西の橋に繋がる道路に降りて行った。このインターチェンジはどれほどの物流を予測して建設しているのだろうか。 橋を渡って厦門の市街地に入ったのが午後1時過ぎである。ホテルで2度目のチェックインを済ませた後、秦のメル友の肥った女性を伴って昼食に向かった。色白で丸顔に眼鏡をかけ黒いドレス姿ではにかんだ笑顔の彼女は昨日の福州市の二人の女性よりもはるかに上品だ。きれいな発音の英語を話し控えめな態度にも好感を覚えた。コミュニケーションが取れると自然とチャームポイントが見つかるものである。街角の海鮮料理店の前に車を停めた。大きなギランイヌビワの樹冠が穏やかな影を作って昼間の暑さを和らげている。見上げると何かがぶら下がっている。よく見ると下着やらタオルやらだ。店の3階以上がアパートになっているらしく洗濯物が風で飛ばされてきたようだ。発展途上の街の   雑居空間の象徴であろうか。 p36魚種類p35貝の種類

店先には蟹、エビ、貝、魚の囲み水槽があり、エアーポンプで生きたまま展示されていた。活魚の他に氷の上に並べられた魚もあるが、日本の魚屋の店先に見られる大きなタイ、ヒラメ、カツオ等大型魚は無く、手の平より少し大きなサイズが最大である。随分前になるが広州市で2kg近い淡水魚の餡かけを食べたことはある。しかし福建省での3日間では大型魚を食べていない。小型魚の方が味の浸透が良く福建省の料理の基本であるかもしれない。 「先輩、何食べますか」 「このエビはどうだ」と元気に泳ぎ回っているシャコを指差すと 「これ美味しくない」と言ってその隣の囲みの中のエビを注文した。その他にも貝類と魚を注文して2階の個室に入った。 1階の鮮魚店に似合わず、いくつもの円卓が並ぶかなり大きなレストランだ。1階の3店舗分を賄っているようだ。1階は肉や野菜の店舗が並列してあったのを思い出した。この時間帯はランチタイムとディナータイムの中間である。ウエイターたちが僕らの個室の横から丸テーブルを転がして夜の宴会の準備を始めている。夜の喧騒までは十分な時間があるのでのんびりと働いている。 僕らはピーナッツを摘まんでビールを飲んだがあまり美味いとは思わなかった。酒浸りの日々が続いてビールを美味いと思う程の良い汗をかいていない証拠である。 巻貝の油炒め。殻が透明なカタツムリに似た小指の先の大きさの巻貝だ。手に取って口で軽く吸うと中身が出て来る。味は確かに海の貝である。一つ、二つと口にしてはビールを飲む。 秦と仲里と私の3名での一気飲みはない。正しいビールの飲み方だ。酒は自分のペースで飲むにかぎる。運転手は甘い烏龍茶だ。飲酒運転はご法度のようだ。 茹でたエビ。この地方の定番で確かに美味い。 二枚貝の油炒め。割りばしほどの太さで3㎝程の長さだ。強火で揚げたせいか中身が外に飛び出している。2,3個摘まんで身を吸い出す。マングローブの泥の中に棲む貝であろうが上手く処理さていて泥臭さが全く無い。 魚の煮付け。手のひらより小さなアジに似た魚だが魚種は解らない。甘辛く煮付けてある。美味いが辛みが後からやって来る。私には少し辛すぎる。 豚足の煮付け。豚の足を煮詰めて醬油味で仕上げている。油が抜けて軟骨がトロリとしている。2年ほど前にバンコクのドイツ村でドイツ料理と称する豚足の油揚げを食べたが、今日の豚骨は比較にならぬ程美味い。琉球料理の足テビチよりも濃厚な味だ。ビールより泡盛の様な強い酒に合うだろう。 イカとセロリの炒め物。ぶつ切りの小イカとセロリを強火で炒めてある。セロリの緑色が食欲をそそる。あっさり味だ。 エンサイの炒め物。この辺りの野菜炒めはパクチョイでなくエンサイだ。火加減とだし汁の味付けが抜群だ。エンサイは火が通らぬと青臭くて不味くなるので火を通しすぎる料理が多い。この店の料理はエンサイの茎のパリパリ感を楽しめる。 午後2時30分、いつもより軽めの食事を済ませて店を出た。 「先輩200元です。安いね」と秦が言った。日本円で3,000円だ。五名で飲んで食べての料金である。女は運転手がホテルに送って行った。 「先輩、今日は暑い、少し休んで夕方に観光しましょう。足マッサージ、オーケー」 「ベーリグッド」仲里が即座に応えた。 店から少し歩いて本通りでタクシーを拾った。マッサージ店は3階建てのカラオケやらバーやらの入った雑居ビルの2階にあった。入口で秦が案内嬢に金を払った、料金表に90分・・70元、3時間・・110元等中国語で色々と表示されていた。中央のエスカレーターを登っていくとピンクの超ミニスカートの案内嬢が「ニーハオ」と笑顔で出迎えた。秦が何かを話すと部屋の案内嬢に引き継いだ。美形でスタイルの良いニーハオ嬢はマスコットガールのようだ。一人用から4人用までの区切りとなっていて入口に収容人数が記載されたパネルが掛かっていた。近くの部屋の前にフラスコに似たガラス容器がバケツに積み込まれていた。沖縄でも見かける針灸マッサージの吸い出し器具である。 僕らは4人部屋に入った。横1列に並んだリクライニングシートに座って待った。係りの男性店員が20リットルほどの木製の桶を重そうに運んできてそれぞれの足元に置いた。桶の中のビニール袋に液体が入っていた。水ではなく褐色であり何か薬草の煮汁の様である。二十歳位の若いマッサージ嬢が3名やって来た。私の前に小太りの眼鏡の女性が小さな椅子に腰を下ろした。そして靴と靴下を脱がしてズボンの裾をまくり上げて両足を桶の中に入れた。熱めの湯である。 マッサージ譲はシートの横にやってきて頭、肩、腕、背中、太もも、指先とゆっくりと揉み解していった。僕らは缶ビールを飲みながらダランとしてされるままになっていた。体のマッサージが終わると足元に座った。お湯で足がふやけるのを待っていたようだ。桶から片足を取り出して足枕の上に置いて足マッサージを始めた。香油を何度も塗って足の甲も足裏も丁寧に揉み解していく。木製のスティックで足の裏を押して刺激していくのだが、時折ツボにハマるのか痛みが走る。「アガ、アガ、ヨーンナシーヨ」(痛い、痛い、ゆっくりとして)と仲里と私が沖縄方言で交互に叫ぶと女どもが大声で笑った。秦もつられて笑った。 秦のメル友を送った運転手が戻ってきて秦の横でマッサージを受け始めた。薄暗い部屋の中に4人で寝そべってマッサージタイムである。運転手は寡黙な男で咥えタバコで人懐っこい笑顔を見せる。蓮の会社の職員が週末の時間を手伝っているのだろう。ちなみに私はマッサージなるものをあまり好まないし、肩こりに無縁である。肩が凝るのはバーベルシュラッグで僧帽筋を鍛えた後の筋肉痛だけだ。 運転手のマッサージ嬢が突然「ギャッ」と奇声をあげた。何事と右側を見ると女が運転手の腿を叩いてダダをこねている。秦が笑いながら言った。 「彼女の飲んでいる烏龍茶の缶にあいつがタバコの吸い殻を入れ、それを知らずに彼女が飲んでしまったのさ」 僕らも他のマッサージ嬢も大笑いになった。 1時間余り過ぎた頃、彼女たちは休憩に立って行った。私は枕もとの2本目の缶ビールを飲みながらぼんやりとしていた。 「先輩、夕食まであまり時間がない。観光は中止、オーケー」 「オーケー」正直なところ今朝の石像観光で十分な気がしていた。 「マッサージ3時間」秦はそう言ってスリッパをつっかけて部屋の外に出て行った。 「観光はどうでもいいよ。少し休みたい」仲里がつぶやいた。 暫くして秦が弁当らしき包みを抱えて戻って来た。そして再びやって来た女たちに渡した。仲里の横のマッサージ用具を置くテーブルの後ろに隠れるように弁当にむしゃぶりついた。まるで朝から飯も食わずに働き続けてきたかのような仕草が奇異に映った。 再びマッサージが始まった。足から始まってふくらはぎ、太腿、臀部、背筋、肩、頭へとゆっくりと進んでいった。 マッサージは5時半に終了した。秦が靴下を履きながら言った。 「先輩、take out lady ok,大丈夫」 「no need tonight」私は秦の本音ともつかぬ言葉に笑いながら答えて靴下を履いた。 立ち上がると体も足がとても軽くなっている。3時間のマッサージはそれなりに効果があるようだ。マッサージ譲たちが屈託のない笑い声をあげながら部屋を出て行った。僕らはマッサージ店のキャンペーンガールに見送られてエスカレーターを降りて行った。 雑居ビルを出てランクルで夕食の会場に向かった。宿泊ホテルと異なるホテルに着いた。このホテルにも茶房があり、茶坊主が来客をもてなしていた。古木の根に彫り込まれた虎の彫刻に感心していると林がやってきて僕らを2階の個室に案内した。シャーマンホテルと同じ大きさの部屋でトイレと洗面化粧台を備えていた。室内のインテリアも落ち着いた造りである。しばらくして劉さんと蓮署長がやって来た。今日は劉さんと蓮署長が上座である。その隣に秦とメル友だ。僕らは主賓から離れて下座に就いた。上座に近いと乾杯の催促に合うのを警戒したのだ。蓮署長の部下が2本の大瓶のワインを持ってやって来た。先日の二人だ。厦門警察署の幹部なのであろう。 「今日は10リットルボトルのフランスワインを飲もう」と蓮署長が宴席の座を仕切った不思議な笑みを浮かべて言った。 「エッ、これを全部乾杯するの」仲里が小声で言った。 林がコルクの栓を抜くとまたもや苦戦してコルクのカスを瓶の中に落としてしまった。劉さんがそれを指差して大笑いして何かを言った。給仕が差し出したステンレスの水差しにワインを移し替えて皆のワイングラスに注いで回った。私はワインソムリエの真似をしてワイングラスを手に取ってゆっくりと回した。そしてグラスを顔に近づけて香りを嗅ぐ仕草をした。ワインは高級な逸品らしく芳醇な赤ワインの香がした。昨夜の泉州市のジャンケンポンの一気飲み白ワインとは物が違う正真正銘の上物のフランスワインである。私は大きく頷いてグラスをテーブルに置き、蓮署長と劉さんの方を見て親指を立てた。そして一言「Good」と言った。蓮署長が満足そうに頷いた。 蓮署長の乾杯の音頭で宴会が始まった。当然のごとくワインを一気に飲み干した。確かに一気飲みには勿体無い本当に美味い赤ワインであった。この日もホテルの定番の上品な中華料理であった。それでもメインディッシュに一抱えもある大きな伊勢海老が出たのには驚いた。「オオー、グレイト」と私が言うと劉さんが英語で私に尋ねた。 「ミスター、ナカムラ、沖縄にもエビはいるかな」 「もちろん、エビは沢山いますよ」そう言うと劉さんの顔がすこしひきつった。私はそれを確認してからおもむろに答えた。 「沖縄のエビはこれくらいだ」と両手を20cmほど広げて示した。そしてさらに付け加えて言った。 「沖縄のエビがこのサイズになるには100年はかかるな」と肩をすぼめて言った。 劉さんが満足げな表情に変わり豪快に笑った。そして「食べてくれ」給仕を呼んで身を取り分けさせた。私のささやかな接遇が彼を満足させたようだ。 少し遅れて蓮署長の弟が運転手と共にやって来た。大阪城に似た高速鉄道駅で迎え来たようだ。私の隣に座ったのでワインを勧めると少しだけ飲んでしかめ面をしてグラスを置いた。昨夜の酒がまだ残っているようだ。会話が少し落ち着くと蓮は兄の蓮署長にカラー刷りのアパートの鳥瞰図を見せて何やら意見を求めている。署長はその図面を見て不満げに小言を言っている。この計画が気に入らないような雰囲気である。蓮が黙っていると劉さんが図面を見ながらアドバイスしている。蓮は神妙に聞いていたが、蓮署長が何やら図面を指差して穏やかな表情で蓮に話してから図面を返した。少しばかり図面を引き直して完成ということらしかった。蓮は図面をケースに戻してホッとした表情で席に戻って来た。アパートの実質的なオーナーは蓮署長のようだ。宴席は再び騒々しくなった。 林が私に向かって言った。 「仲村、昨日はジャンケンとカラオケとタイ式ボクシングで騒いだそうだな」 「エッ、もう知っているの」 「俺は何でも知っている、君のパスポートの情報もな。俺はホテルのマネージャーでもあるのだ」 「そりゃないぜ」と私が言うと、林は立ち上がってジャンケンポンを促した。 僕らは立ち上がって誰彼となくジャンケンポンで一気飲みを重ねた。蓮署長がニコニコとその様子を見ている。このホテルの別の部屋で警察関係の宴会があるらしく二人の部下は既に席を立っている。蓮署長はこの宴席が気に入っているらしくホテルの給仕が2度、3度と呼びに来てやっと席を立って予定の宴席に移って行った。部屋の入口のサイドテーブルには2本の空のワインの大瓶が乗っていた。 蓮署長が出てしばらくして台湾の蘭業者という二組の男女がやって来た。秦の話では60代のオヤジと30代の息子の夫婦連れらしい。親父の妻らしき女は息子やその嫁より若い。「おい、親父の女は随分と若いな」と秦に問うと秦が笑って答えた。 「ワイフが死んで若い女を妻に迎えたのさ」 「息子よりも若いみたいだな」 「そうだ、夜が大変だろうな」秦が笑いながら言った。秦はその若妻と親しいのかしきりとからかうような様子で声を掛けていた。広東語で何を言っているか知らぬが女はうるさいと言うような表情で口をとがらして反論しながら乾杯を重ねていた。親父はあまり飲まないようだ。息子は名刺を手に挨拶周りをしている。後妻より随分と年上に見えた。息子の妻は食事に夢中だ。 台湾の客が合流した頃からワインを飲みつくしてビールに代わっていた。厦門の長い夜が永遠に続く気がした。

(7)8月8日(日)

午前7時半、朝のシャワーを浴びると頭が少しずつ明瞭になり、昨夜のことを思い出した。確か秦が帰りの日程を1日遅らせると話しており、既に台湾行の便を月曜日に変更したと話していた気がする。沖縄記念公園の植物課の依頼で桜の木の調査をすると言っていた。秦に出来る調査がどうか知らぬが手伝ってやらねばなるまいと思っていた。延泊して困る仕事上の事情もないことだから。 午前8時過ぎに1階のレストランで朝粥を食べていると秦がやってきて言った。 「先輩、桜の調査ダメ。日曜日は公園の事務所休み。ノースタッフ」 「で、今日のスケジュールは」 「トゥデイ、ゴーバック」 「オーケー」 結局のところ、桜の木を調査する予定の公園が休園日のため、公園のスタッフに会えないとのことだ。日曜日が休みの公園は日本では珍しいがこの国ではそうなっているようだ。私は内心ホッとしていた。疲れが少しずつ溜まり始めていたのだ。仲里が食事に降りて来たのでそのことを話した。 「良かった」とホッとした顔で答えた。彼も疲れてきていたのだろう。 「オーケー、9時30分ロビー」と言って運転手と何かを話し始めた。 私は運転手に声を掛けて昨日トランクに放り込んでいた着替えを取り出して部屋に戻った。p37ファレ仕立て ホテル内の飾花:コチョウランの仕立て方が日本と異なる。ステムが横向きで日本の様に下垂仕立てでない。 荷物を持ってロビーに降りると林と秦がチェックアウトをしていた。3日分の宿泊代は取引相手のシャーマンカンパニーの植物部門が負担してくれた。しばらくソファーで待っていると蓮がお土産の鉄観音茶を持ってやって来た。僕らは抱き合って肩を叩いて別れを惜しんだ。蓮は運転手付きのランクルで泉州に帰って行った。チェックアウトを済ませた林がやはり鉄観音茶のお土産をくれた。 「先輩、これ値段高いよ」と秦が笑いながら言った。 「秦、10時だぜ、フライトは11時だ」 「ダイジョウブ、エアポート近い、5分」 結局10時30分に林の車でホテルを出た。確かに5分で空港に着いた。私は林と抱き合って別れを惜しんだ。離れ際に林が私の右胸を指先で突いて来たので大胸筋をキュッと硬くした。林は驚いた顔で笑った。私はいつの間にか彼らの間で武道家としてのうわさが立っているのかも知れない。何だか気恥ずかしく思ったが旅先の酒の席での噂で捨て置こうと思った。遥か彼方の沖縄の田舎町の道場の館長や道場仲間に迷惑が掛かるわけでもないだろうしと思った。 秦との旅行は慌ただしさと退屈な時間の浪費の混在したものである。日本人の時間に関する感覚との誤差が大きいのだ。この日も登場10分前に手荷物を預けて列に並んだ。秦はVIPルームのチケットを1枚渡して「先輩、チョット休憩して下さい」と渡した。旅行好きの彼はチャイナエアラインのマイルサービスでVIPルームの利用チケットを入手しているようだ。秦は一人で洒落た行為をすることが得意ではないようだ。彼は品位よりも猥雑な喧騒が好きな男の典型である。私は旅行メモを書きながらオレンジジュースを飲んでいたが、空港スタッフの女性が搭乗者の呼び出しにやって来た。私は10分も休まぬうちにVIPルームを出た。これまで桃園とクワラルンプルの国際空港でon timeの時間を間違えて搭乗者の呼び出しを受けたことがある。機内でイライラして待っていた乗客から白い目で見つめられる中を席に着くのはとても気恥ずかしいものである。チケットを手に既に短くなった登場者の列の最後尾に並んだ。秦はチラリと私を見て言った。 「先輩、まだ大丈夫だよ」確かにまだ大丈夫だが、5分後には間違いなく館内放送で呼び出される状況だ。秦にとっては呼び出されることなどさしたることも無い。飛行機は乗客を置いてきぼりにしないことを理解しているのである。機内アテンダントのクレームなど酒場のホステスの小言程度にしか思わない男なのだから。未だサラリーマンの経験が無く、台湾国軍の高名な上級将校の故人を父にもつ賃貸ビルのオーナーにとって日本人的な時間の概念など生活の中に存在しないのだ。 チャイナエアラインは定刻通りに厦門空港を飛び立った。おそろいの制服を着た小学校高学年らしい団体旅行生が機内で騒いでいた。中国の富裕層の子供たちであろうか、あどけない顔の中に旅立ちの興奮が見て取れた。子供の発する無邪気なエネルギーは何処の国でも同じだ。 台風17号が近づいているらしく機体が少し揺れた。その度に子供たちが楽しそうに笑って騒いだ。飛行機の揺れを気にするのは大人だけだ。飛行機は桃園国際空港の滑走路に向かって降下しながら着陸態勢に入りガタンと車輪を出した。そして車輪が滑走路に一度接地した後に再びエンジンの回転を上げて上昇した。乗客の大人が一斉にどよめいた。飛行機は20分ほど桃園の上空を旋回した。台風の影響による着陸のやり直しである。2度目はごく普通にランディングした。飛行機は離陸よりも着陸に弱いようだ。エンジンの出力を落として滑空しながら着陸する際の横風に弱いようだ。 秦とは第1ターミナルの乗り継ぎカウンターの前で別れた。彼との別れは何の惜別感も無い。無表情で片手をあげてムービングウォークの上を移動していくだけだ。まるで一日の仕事を終えた社員同士がそれぞれの自宅に向う駅のホームで「またな」と別れの合図をする程度である。4日間の夜の狂騒曲を演奏した跡など微塵も感じさせない。 僕らは乗り継ぎカウンターでCI-122のチケットを交換し、第2ターミナルまでの長い通路を移動した。途中で少しばかりの土産を買い、軽食のサンドイッチで昼食を済ませた。そして搭乗までの3時間を未だ乗客の少ない登場待合室で仮眠を取って過ごした。 4時10分、台湾人、日本人、アメリカ人の混ざった旅客共に台湾を飛び立った。機内では日本語が飛び交うようになり、沖縄が近くなったのを知った。定刻通り日本時間の午後6時30分に那覇空港に到着した。仲里はいつもの様に奥さんが迎えに来ていた。 「お疲れ様」と奥さんが言った。 「少し疲れましたね」と私が答えると 「秦と旅行するといつも疲れるよ。仲村さんがいて良かったよ」と仲里が笑いながら疲れた声で応えて奥さんと二人で出て行った。私は職員に電話して空港内の自社契約駐車場に止めてあった車を届けさせた。社員にお土産のチョコレートを1箱渡して帰路に就いた。 午後7時、夕暮れの那覇市内は日曜日とあって交通混雑も無く、私はゆっくりと那覇空港自動車道を北上した。高架橋の上から左手に夕日に染まった那覇の市街地が見えた。既に私の頭からは厦門の夜の舞踏会で狂騒曲に踊らされた不思議な旅の感覚が消えて、明日から淡々と続く退屈な日常の予感が占めていた。只、喉の痛みだけが今週の無節操な旅の余韻を残すだけであった。 追記 9月に入りヨーキンからメールが入った。ノボタンの増殖が上手くいかないとのことであった。結局ノボタンは諦めることにしてコチョウランの1.7”ポット苗の2,000鉢を導入することにした。この旅の宿代・飯代の返礼である。いわゆる一宿一飯の仁義としての付き合いだ。しかしシャーマン・カンパニーとの付き合いは次第に希薄になって行った。旅の後に台湾国際蘭展示会を訪れた際に、秦の車で劉さんとベトナムの女性蘭業者と共に阿里山に登り、終日を愉快に過ごしたのを最後に関係が途絶えた。変わらないのは秦との奇妙な交友関係である。

2017年10月29日 | カテゴリー : 旅日誌 | 投稿者 : nakamura