ミジュンの群れ

午前8時30分、私はファーマーズマーケットにコチョウランの鉢植えの納品を済ませて名護市営21世紀の森公園にやって来た。久しぶりに朝のウォーキングをしようと思ったのである。定年退職後に始めたラン栽培の成果品をJAファーマーズマーケットの店内に納品しているのだ。納品時間は午前7時から午後6時までだが、開店前の午前9時までに納品と簡単な手入れを済ませている。朝食後の軽い運動で老化が進行中の体を少しばかり活性化したいのだ。
ファーマーズマーケットに納品する農産物生産者は、専業農家よりも少量生産の農家モドキが多い。私の様な定年退職後の暇人の小遣い稼ぎにも似た生産者達である。自ら管理できる範囲の農地で生産した農作物を少量出荷しているのだ。生産者の表情にはサラリーマンのストレスにも似た影は見つからない。それぞれが自慢の農産物を持ち込み、自らの評価で値段を決めて出荷するのである。上司も部下もいない一人親方としての自信に満ちている。私の所属する店舗には、若くもない年齢の人々が1,400名も会員登録されているが、常時活動する会員は400名程度である。老いが進みすぎた生産者は離脱しているのかもしれない。次々と参入してくる世代との更新リセットがなされているのだろう。しかし農協口座から自動的に引き落とされる年会費1,000円を止めることもせず払い続けているのだ。人間の生産活動のエネルギーにも限界があるのは否定できない。それでも農産物生産の喜びを知る人々にとって、ファーマーズマーケットは老いてなお僅かなエネルギーで社会との繋がりを保つことが出来る場所なのだ。それ故に体調や気力が整えば市場に出荷したいとの思いが脱会を思い留まっているのだろう。10年ほど前に出現したこの市場は、農家の血を吸って成り立っている日本農業協同組合の数少ない社会貢献の一つだと私は思っている。
私は三十数年に渡り造園建設業界に携わってきたが、退職後は造園業界から完全に離脱して農業という異なる業界を垣間見ている。造園建設業も植物を扱う仕事であるが庭師の共同作業による成果品の作出だ。農業には一人で植物に向き合って成果品を作出する楽しみがある。とりわけ私の様な農業入門者にはその感覚がたまらなくうれしくてモノづくりに自然と熱がこもるのである。私の場合、冬から春にかけての洋ランの開花期に作業のピークを迎え、5月の母の日セールで一段落となる。気がつくと沖縄の「うりずん」と呼ばれる短い春が過ぎて雨季が来ているのだ。
21世紀の森公園のラグビー場横の駐車場に車を停めた。冬の間落葉していたコバテイシは既に若葉から青葉に変わって豊かな樹冠を作っていた。梅雨空の厚い雨雲が日差しを遮って大気が湿っている。私は浜風を求めて公園の南の海岸に向かって歩き出した。21世紀の森公園は野球場、ラグビー場、200mのショート・トラックの競技場、シャワー室を備えた海水浴場、雨天練習ドーム、体育館等の運動施設と児童センター、大小のコンサートホールと幾つかの研修室を備えた中央公民館とそれらの施設を取りまく緑地帯で構成されている。施設を連結するように遊歩道が設けられており、ジョギングやウォーキングを楽しめる造園修景となっている。この公園は1972年頃、名護湾の遠浅の海岸を埋めて作られた。海岸線は東西にW字型に三つの突堤が作られていて、その内側に広い砂浜を持つ美しい入り江が形成されている。

私は中央の突堤に続く遊歩道を歩き始めた。歩道の両脇が松並木となっていて左側がラグビー場、右側が野球場である。野球場はプロ野球日本ハムのキャンプ場としても利用されている。1月、2月は野球選手と観客で賑わうが今はオフシーズンである。

松の枝をわずかに揺らして緑陰の中を磯の香りを含んだ浜風が通り抜けていく。200mほど歩くと浜辺に出た。正面に恩納岳の山並みが右肩下がりで緩やかに連なっている。砂浜に降りて波打ち際を歩くとサンゴの細長い枝片が打ち上げられ、波形に積もって続いている。その上を歩くとジャリ、ジャリと靴底から軽やかな音が伝わってくる。サンゴの砂利のことを沖縄の古い言葉ウルウと呼ばれていて、琉球の別名うるま島はウルウから派生した名前だと94歳の父が話していたことを思い出した。この浜辺を歩くのは4カ月ぶりだろうか、もっと前であっただろうか。ミーニシと呼ばれる晩秋の北風が吹いていた頃だ。このW字型の突堤に挟まれた西の入り江には、ミーニシと共にミジュンが群れでやって来る。

直径20m程の不安定な円形の魚影が入り江の中をゆっくりと移動する。ミジュンの到来と共に暇を持て余した釣り好きな老人共が集まって来る。この時期だけ魚釣りをする老人達である。安物の振出竿にリールと300円前後の疑似餌のグルクンサビキがあれば遊べるのだ。釣ったミジュンは塩コショウと軽く小麦粉をまぶして、油を薄く敷いたフライパンで焼けば晩酌の肴となるだろう。同じ顔ぶれの4,5人の老釣り師が毎日のように夕暮れの日差しを浴びて竿を振っている。時々高級ルアー竿を手にミジュンの群れを追ってやって来るガーラ等の大型回遊魚を狙う若者を見かけるが多くはない。仕事持ちのシーハンターは老釣師程の暇を持ち合わせていないのだ。老人釣師が2度、3度と竿を振ると、竿を少しだけしならせて巻き取った糸の先にミジュンが1匹、あるいは2匹と食いついてくる。夕日を浴びてミジュンの銀色の腹がキラキラと光って跳ねる。老釣り師の顔が輝いて子供の笑顔のように弾けている。数十万匹のミジュンの群れはは幾ら釣っても減ることは無く彼らの楽しみを叶えてくれる。只、時折やって来るガーラ(オニヒラアジ)、イケカツオ、シジャー(ダツ)はミジュンの群れを蹴散らして浜辺から沖へと追いやってしまう。老釣師のキャスティングで届かぬ距離へと去ってしまうのだ。活力に満ちていた老人のエネルギーは一気に萎んでしまい、砂浜に座り込んでしまう。老人が本来の姿に小さくまとまってしまうのだ。老人の期待するミジュンは容易には戻ってこない。やがて陽が西に傾いた頃、縮めた振出竿を杖代わりにして歩き出し、自転車で浜辺を去って家路に着くのだ。ルアーフィッシングを楽しむ友人によると、昼過ぎから毎日のように4時間近くも釣っている老人もいるようだ。彼らは釣果を近隣の知り合いに配って回り、名を上げているのだろう。日頃は家計の戦力外の老人にとっての数少ない名誉挽回の機会かもしれない。今日の5月の梅雨空の下の浜辺には、老いた強者どもの夢の欠片さえ残ってはいない。足元から伝わって来る砂利の音と寄せては返す波だけが変わらぬ風景である。

砂浜の西の入江の端に岩山がある。埋め立て前は砂浜から100m程離れた海中に佇んでいた異形の岩礁だ。名護間切りの住民は畏敬の念を込めて岩礁のことを大石(プーイシ)呼んでいた。ところが現在は陸続きになってしまいネコ捨て山となってしまった。呼び名もネット上で猫島と呼ばれているらしい。心優しい愛猫家或いは寂しさを紛らわす孤独な人々の持ち込む餌に引き寄せられた野良猫が増える一方である。遠い日にこの島に向かって何かの思いを祈願した故人には如何に映るだろうか。この岩山の陸地に面した部分は既にアコウ、クロツグ、オオハマボウ、モクマオ等の潮風に比較的に強い海浜植物が繁っている。しかし南側の海水を被る岩礁にはハマボッス、ウコンイソマツ、野芝等が生えている。未だ人間の悪癖に染まらない植物群が残っているのだ。只、この岩礁が陸続きになる前に群生していたヒレザンショウは盆栽ブームによって盗掘されて消えてしまった。

私は岩礁の脇から続く西の突堤の先端で折り返して海岸の遊歩道を東に向かって進んだ。東の入り江は遠浅で海岸中央部に位置する公園管理事務所と海水浴場がある。クラゲフェンスの周りをビーチ監視員が泳ぎながら始業点検を始めている。ハブクラゲ、オニオコゼ、ゴンズイなどの危険生物の除去作業である。ハブクラゲはいつの頃から現れたのだろうか。私がこの海辺で泳ぎ回っていた頃には存在しなかった生物である。まるで人間社会の悪しき慣習に誘われてマリアナ海溝の海底深く沈んでいたパンドラの箱から抜け出して来たようだ。
ビーチの利用時間は午前9時半から午後6時までだ。地元の利用客は少なく県外や台湾からの観光客が殆どである。そもそも最近の沖縄県民は海水浴に馴染まない傾向がある。私が子供の頃は、夕方になると遠浅の海岸は海水浴をする子供達のはしゃぎ声に満ちていた。あの頃、この辺りの庶民の生活は、子供の海水浴が風呂代わりになっていた気がする。湯を沸かす五右衛門風呂は短い冬の間のことであった。湯の出るシャワーなど想像もできない半世紀も前のことである。

管理事務所の後ろから東西に管理用車道が続いている。車道の南側に歩道がありコバテイシの並木が続いている。私は歩道ではなくコバテイシの植え込みに広がる芝生地の上を歩いた。洋芝のセントオーガスチンの上に一条の獣道にも似た踏み跡が続いている。高麗芝だと歩行者の踏圧で枯れてしまうが、セントオーガスチンはわずかに踏み跡が残るだけである。太くて硬い茎が踏圧に耐えるのだ。この芝は日陰にも強く、高麗芝の広場に侵入を許すと、たちまち凌駕してしまう勢いがある。まるで欧米から移入した文化に容易に染まってします日本人社会の様である。少し明るくなった空から注ぐ陽光が暑さを運び始めたのでコバテイシの木陰となっている芝生の上を歩くことにしたのだ。靴底から心地よい芝生地特有のクッションが伝わって来た。

コバテイシの木陰の下を500m程歩いた所で、東の突堤と護岸に沿って直進する遊歩道の交差点に着いた。右に行けば突堤の先端へと続き、護岸に沿って直進すると港川の河口に至るはずだ。私は立ち止まって背伸びをして護岸の1m程の高さのコンクリートの堤防に足を掛けてストレッチをした。久しぶりの散歩でふくらはぎに重みを感じていたのである。深呼吸をして市内のアパート群から名護岳へと続く爽やかな朝の景色を眺めた。穏やかな名護湾の海面に深い緑の名護岳の山並みが映って落ち着いた景観を成している。絵筆を取りたくなるような爽やかな朝の風景である。私は見慣れたはずの名護漁港のドックの手前に橋らしきものを見つけた。早足で歩いていると見落とす僅かな構造物だ。私は気になってその方向に歩き始めた。東の突堤を折り返して戻るのがこれまでの散歩道であったが、ドックに向かって真っ直ぐに伸びる防波堤に沿って進んだ。
400m程進むと港川の河口に着いた。その川向うは名護漁港である。確かに河川の最先端部に橋があった。こちら側の港地区と名護漁港を繋ぐ橋である。港地区は元来漁師の集落であった。名護湾の埋め立て地は名護岳の麓の東江集落から城、港、大南、そして西の外れの宮里集落まで直線で造成されている。埋め立て地を幸地川、港川の二本の河川が横切って名護湾へと流れている。この二本の河川に挟まれて名護漁港がある。埋め立て地に宅地が配分されたのは港区だけだ。漁民の入会権が関わっているらしい。国道と港川が交差する埋め立て地の一角に港区公民館が建っている。

橋は集落の路盤より3m程高くなって建設されている。防波堤から橋に向かって緩やかなカーブとなっている坂道を登った。橋の欄干を見ると橋の名前が刻印されていない。橋の上で立ち止まり川面を眺めた。満潮の上げ潮に載って数十匹の若いボラの群れが上流の昭和橋に向かってゆっくりと泳いでいく。ふと橋脚に目をやると平成13年大米建設施工と名版が埋め込まれている。十数年も経っているのだ。150m先の国道に架かる昭和橋を何度も通過しているが気付かなかったのだ。国道58号のフクギ並木を高速で走り抜けると、川下の景観の少しばかりの変化には気付かないものだ。

名の無い橋を渡るとそこに漁船用のドックがあり、船底を塗装中の漁船があった。船底に付着した貝を取り除いて塗装するのだ。貝が付着すると船足が鈍くなり燃費が悪くなるらしい。船を遊ばせて係留期間が長くなると貝が付着するのだろう。人間もロクな働きもせずに世間に漂っていると心身に余分なものが付いて動きが鈍くなって来る。桟橋にはロープで係留された漁船が退屈そうにプカリ、プカリと浮いている。人の気配がなく貝の付着を誘っているようだ。幾艘も並んだ漁船の舳先の向こうに競り市の建物がある。人の動きがあるので競り市が開かれているのかもしれない。少しのぞいてみようと思ってそこに向かってゆっくりと橋を下って行った。

鮮魚店のワゴン車や○○水産と書かれた海産物仲卸業者の車が並び、競り子威勢の良い声が聞こえた。競りは既に終盤に入っていて競り落とされた魚介類に紙が貼られていた。サンドイッチ、おにぎり、天ぷら等の総菜を小さなテーブルに並べて売っている者もいる。競り場の隅で競りの様子を眺める私の様な野次馬もいて中々活気がある。小腹が空いたのでおにぎりを買って食べながら様々な種類の魚介類を眺めていた。銀色の腹をしたアジ、イワシ等の青物から赤色、緑色をした熱帯魚のグルクン、アオブダイや10kg程のシビマグロ、タコ、セーイカ、シャコガイ、カニ等、さながら近海の海洋生物の標本箱である。ほんの半日前までは自然界の一部として躍動していた彼らは、既に競り市のベッドに横たわる海産物としての食品の一部に変わっている。口を半開きにしたシビマグロの顔を見ていると「死んだ魚の目」の意味が良く分かる。瞼の無いシビマグロの目は淀んだ霞が掛かっていて、生命体としての活力が失せた脱力感が漂っている。大型魚には失われた命の哀れさが如実に表れるようだ。競り市の魚やセリの活気を眺めていると、突然後ろから怒鳴り声が聞こえた。
「爺さん、台車に寄り掛かるんじゃないよ。危ないじゃないか」
振り向くと80歳前後の男が頭を掻きながら怒鳴った男に向かってペコペコと頭を下げている。台車の縁がその男の足に軽くぶつかったらしくふくらはぎを擦っている。漁港の制服を着た青年が近づいてきて笑いながら穏やかな口調で爺さんに言った。
「また、アンタかよ。あぶねーから向こうへ行って遊んできな。セリ場は滑るから気を付けて歩きなよ」
周辺にいた人々が声を出さずに苦笑した。私もその老人の服装を見て苦笑いした。紺色のズボンにTシャツ、その上から冬物の背広を着け、ヤンマー船外機と書かれたキャップを被り、黄色い手ぬぐいを首に巻いている。足元は薄汚れたスニーカーだ。蓄えた無精ひげと同じく全体が垢じみた風体である。何ともこの場所と初夏の季節に似合わない格好だ。この市場によく来る人物であるようだが、そのアンバランスな存在が奇妙な景色となって馴染んでいる。若い頃に漁師をしていたのだろうか。
爺さんを怒鳴った男に見覚えがあった。
「よう、タツ兄さん久しぶりだな」と声をかけた。以前住んでいた住宅の近くで冷凍機器の整備や重機のオペレーター等をしていた男だ。日に焼けた顔に丸刈りのギョロ目が特徴の男だ。突き出た腹を擦りながらニコニコして私に近づいてきた。
「どうして此処にいるのかい」と言った。
「散歩の途中さ、あんたは」
「魚を買いに来たんだよ。カツオが未だにキロ800円もしては高くて買えないよ」
「アンタ、セリで魚を買えるのかい」
「いや、知り合いの競り子に頼んで落としてもらうのさ。少しばかり手間賃を払ってな」
「ほう、そんなことが出来るのか」
「家内の食堂で使う魚の仕入れとな、友達の家の祝い事に使う刺身用の魚を探しに来たのさ」タツオはそう言って連れと思しき男のところに戻り、小さめのシビマグロを指差して何やら話し始めた。競り子の威勢の良い声は消えて競りは終わったようである。漁協の職員が伝票を手に競り落とした者と魚に張られた荷札の照合を始めている。
「ヨウ、カズさん」と声をかけた者がいた。振り向くとゴルフ仲間のカツジがいた。手にはトロ箱を引っかけるギャフを持っている。
「アラ、友利プロそんな恰好で何をしているのですか。仕事を替えたのかい」
「バカ言え、これが俺の本業だよ。女房が鮮魚店をしているので仕入れに来たのさ」と小指を立ててはにかんだ笑い顔で答えた。カツジは大京カントリークラブ所属のハンディキャップ2の男だ。私が幹事をするコンペに時々参加しているのだ。
「へぇー、大京のクラチャンでゴルフ工房が仕事だと思っていたがな。髪結いならぬ魚屋の亭主かい」そう言うと、カツジは笑いながら答えた。
「このギャフだがな、ドライバーの古いカーボンシャフトに鈎を差し込んだのさ。ボールは飛ばせないが軽くて便利だぜ。ちなみにフジクラのスピーダーシャフトXだ」
「なんだよ、相変わらずクラブ工房の真似事をしてるじゃないか」
カツジはゴルフ場の臨時職員として、カートの手入れや客のキャディーバッグ積み下ろしをしていた。そしてゴルフ場の工房で何処からかダンロップ社の無印のアイアンヘッドを入手しては、友人の好みに応じたカーボンシャフトを差し込んで安価で売りさばいていた。ゴルフ仲間の技量を読み取ってシャフトのフレックスやしなりの調子を選択していたので彼の仕立てるクラブは人気があった。おまけにヘッドに持ち主のイニシャルまで刻印してくれた。ゴルフが上手く穏やかなで控えめな性格はゴルフ仲間から評判が良かった。
「ところでカズさん、さっきの腹の出た男と知り合いかい」
「ああ、市内にある実家が4軒隣りでガキの頃から知っている。俺より一つ年上だ」
「何をしている男だ」
「確かアイツの兄貴が冷凍機器の販売や修理をしていてそれを手伝っていたが、最近はダンプや重機のオペレーターの真似事をしているようだ。良く分からいな。そうだ、嫁さんがバスターミナルの近くで食堂をしているらしい。嫁さんは愛想のよい働き者だがタツの奴は定職を持たない遊び人かな」
「そうかい」
「働き者の女房持ちはアンタと似ているかな。紹介しようか」
「よせやい、俺と比べるなよ。あいつは食わせ物だぜ」
「アンタ、タツのことを知っているのかい」
「ああ、噂だけだがナ」
「何だよ」
「名護漁協は埋め立て地の入会権で相当な収入があっただろ。この漁港の敷地は県の所有だが管理者は漁協だ。消波ブロックを作る業者からのブロック置き場の賃料や名護市の催事やプロ野球球団のキャンプ時の来客用駐車場としての利用料金収入などがあるらしいぜ。そんな訳で名護の古くからの漁師はあまり働かないのさ。この競り市の魚介類もほとんどが伊江島、本部町、今帰仁村、屋我地、羽地等の漁協からの持ち込みだ」
「へぇ、そうかい、俺もそんな噂を聞いたことがある。そう言えば俺の中学の同級生も家業の漁師を継いだ奴はいないな」
「それに今度は、辺野古基地の埋め立てで再び莫大な収入が入る予定だ。既にかなりの金が防衛庁から漁業組合に流れ込んでいるらしいぜ」
「かなわんな。だけどタツの奴とどんな関係があるのさ」
「跡継ぎのいない漁師も齢を取るわな。年金以外の小遣いも必要だろ。ところが休み馴れた年寄り漁師は船があっても漁には出る気力がないのだ。そこにあいつが目を付けたのよ。定置網の権利を買って船の名義もあいつの物だそうだ」
「へぇ、そんなことが出来るのかな。漁協は規制しないのかい。俺の知り合いで市内に住む城間と言う漁師がいるがな、彼は定年後に12トンのセーイカ漁の船を買って名護漁協の組合員になろうとしたが拒否されたらしい。それで親父のつてで生れ故郷の本部町漁協に加入したと聞いたぜ」
「それは当然だ。良いかい、辺野古基地の利権の旨味がぶら下がっているときに組合員を増やして分け前を減らすバカはいないだろ」
「それもそうだな」と私が答えるとカツジは話しを続けた。
「しかしだな、年寄り漁師共が働かなると漁協の水揚げ高が減るだろう。そうすれば県の評価や防衛庁からの補償費の額に響くのよ。補償費の金額は水揚げに応じて査定されるらしいからな」
「名護漁協の競り市は他の町村の漁民の水揚げに頼っているが、自らの組合員の水揚げ金額も確保する必要があるのだな」
「そういう事なのよ。それであいつのような隠れ網元がいても見て見ぬふりするのさ。表立った不正行為として官公庁からの指摘も受けないのよ。それに定置網は水産資源保護の政策から誰でも新規設置が出来るわけでは無いのさ。漁協を中心にした権利の存在だけが継続するのよ。名護漁協は埋め立てによって近代的な漁港へと変貌したのだが、漁師は釣果を上げるより楽をして暮らせる味を覚えてしまったようだな。」
「そうかい、雲の動きや潮の流れを読んで漁の成果を探る力の代わりに、世の中の政治の流れを読み取り、金の臭いに腐心するようになったわけだ」
「そうなのよ。アンタの友達のタツ兄貴が競り市に顔を出すのは、あいつの定置網の水揚げの日だけだ。臨時雇いの観光ダイバー人夫達が漁獲量のごまかしをしないか見張っているのよ。まったく食えないやつだぜ。陸にいる遊び人が漁師の真似事をしやがって、潮に揉まれて働く本物の漁師を舐めてるぜ」不愉快な口調で言った。
「おはようございます」
声のする方を見ると上間鮮魚店のサブが立っていた。
「ようサブ、今日も那覇漁連からの帰りかい」とカツジが声をかけた。
「ええ、本マグロは此処の競り市では買えませんから。伊江島漁協や本部漁協のマグロ漁師は那覇漁港に直接入港して水揚げするのですよ。大型の高級品は本土に空輸もできますからね」
「ご苦労さんだな。後で俺にも少し分けてくれよ」
「ハイ分かりました」
「来週のコンペだがカツジさんがハンディ15をあげるそうだ。参加できるかい」と私は声をかけた。
「大丈夫です。魚の配達を済ませてから行きますので最後のパーティに組んでください」
「ああ、そうするよ。待ってるぜ」私はそう言って競り市を後にした。
いつの間にか雲が割れて隙間から天使の梯子の光が漏れ始めていた。私は漁港のドックの横から緩やかな坂を登って名無し橋の上で立ち止まって海を眺めた。心地よい海風が河口から市街地に掛かる昭和橋の方向に流れていた。名無し橋の上から護岸を取り巻く消波ブロックの辺りを見下ろすと十数匹の小魚がフラフラと泳いでいる。ミジュンである。産卵を終えたミジュンが大きな群れを失い、満潮の流れに抗いながら懸命に体を振って力尽きそうに泳いでいる。梅雨が明けてカーチベーの風が吹くころには、リセットされた新しい幼魚の群れに変わっているだろう。老いて命が尽きたミジュンは海の滋養となって新しい命を育んでいくのだ。太古の時代から自然界の動植物は変わらぬ輪廻で更新を繰り返している。ミジュンは1年のサイクルでリセットを繰り返す勢いのあるライフスタイルだ。人も又、地球という器の中で生命体としてのリセットを繰り返しながら歴史を刻んでいるが、身勝手な文明の利器を求めて悪しき知恵を身に着け、節操のないサイクルが加速しながら進んでいる気がする。名の無い橋を降りると雨雲が去って日差しが強くなった。私は首筋に不快な暑さを感じてポロシャツの襟を立て、21世紀の森海浜公園の緑陰に向かって早足で逃げるように進んだ。

「完」

2017年11月29日 | カテゴリー : 短編小説 | 投稿者 : nakamura

秋のらん展示会

北部らん友会・第27回秋のらん展示会を平成29年11月24日~26日まで開催した。会員27名中15名が出品して105点の展示となった。今年の夏の猛暑を考えると十分な出品数と言える。秋の展示会は春の展示会より出品数が少ないのは仕方のないことである。展示会と同時に即売会を行っている。会員の持ち込んだランをは販売して15%の手数料を会の収入源としているのだ。会員の余剰株を持ち寄るように呼び掛けているも5名の会員のみだった。趣味家はバックバルブを販売に回すことをしないのである。そもそも、ラン栽培の趣味家は偏屈な者が多い。しかも年寄りが多いので偏屈の度合いが増しているのだ。沖縄の片田舎の展示会でも入賞にこだわるご老体もいて、展示会の事務処理一切を取り仕切る私としては些か閉口している。地方の展示会でも市長、議会議長、新聞社支社長、北部地区市町村振興会長等7つの団体の長からの後援を受けているのだ。協賛、後援依頼状、表彰式案内状、お礼状などの他に賞状の作成、押印依頼、副賞の準備、さらには表彰式に参加した団体長への記念品のランの鉢物の準備など一苦労である。ご老体共は会場設営と出品で我が物顔である。さして若くもない定年退職者の私としては、ご高齢のラン栽培の先輩へのささやかなプレゼントとして多くの時間を浪費しているのだ。それでも今回のように2年前に入会した若い趣味家が3名も入賞すると嬉しいものだ。いずれの日にか消えゆくご老体の趣味家との更新リセットが図られる気がして展示会を締めくくっているのだ。次回の展示会は来年3月末の第49回春の展示会である。新人の出品者を少しでも増やしたいと考えている。

H29秋展示会場 H29秋入賞株

展示会場は「道の駅」許田道路情報ターミナル 3日間の入館者は891名であった。

 

2017年11月29日 | カテゴリー : 雑記帳 | 投稿者 : nakamura

ナガラッパバナ(Solandra longiflora)

ナガラッパバナ

2017年11月4日 ナガラッパバナ:Solandra longifloraが今年も咲きました。数年前にシンガポールのテーマパークにて採取した枝から育成した株です。3年目の開花です。沖縄県内で一般的に見られるラッパバナはウコンラッパバナ:Solandra maxmaで、12月頃からの開花です。ナガラッパバナはウコンラッパバナよりコンパクトで樹勢も弱いです。尺鉢の行灯仕立てでも開花すると思います。花が比較的に密に咲くのでウコンラッパバナより観賞価値が高いです。昨年の花に自然交配で種がついたので7月に撒いてみました。実はナス科の特徴でトマトの形状で種子も似ていました。今年は人口交配をしました。昨年は挿し木繁殖を試みましたが大失敗でした。時期が悪かったのかもしれません。開花期は10月から11月でそろそろ終わりです。苗が10株程ありますので1株1,000円で譲ります。連絡方法はshop@tropic-flora.jp、送料等はネットショップのページを参考にして下さい。

苗 longiflora longiflira12mの高さから下垂しています。路地植えです。開花期間は3日程度。花色は白色から黄色へと変わっていきます。

2017年11月4日 | カテゴリー : 雑記帳 | 投稿者 : nakamura

メデューサの執念

メデューサの執念
2017年10月29日
今月に入ってPectabenaria Wow’s ‘White Fairies’が咲きました。2年前に台湾から導入した5株の内3株の開花です。草丈110cm15輪花と95cm10輪花はselfしました。昨年も播種しましたので2回目です。一株は自宅で鑑賞中です。草丈85cm8輪花です。食卓の蛍光灯の下で見ると不思議な事に気づきました。花弁の一部をまげて花粉の方向に突き刺しているのです。まるで自分で交配を行っているかのようです。8輪中3輪が2本の触手を伸ばし1輪は1本です。下から3,4,5,6番目の花です。他の2株については開花後すぐに交配したのでわかりません。
本種はPectailis susannae とHabenaria medusa の交配種です。花弁はmedusaの影響が強いです。まるでメデューサが執念で自らの遺伝子を残すための交配を行っているようです。実際、Pectabenaiaは葯のすぐ下に柱頭があるので花粉が柱頭に届きやすいです。自然交配が容易な構造だと思います。この4輪に種子が出来るか観察してみます。室内ですから虫や風の影響は少ないでしょう。Pecta1

通常の花:10月16日に交配に使った花

 

 

 

 

 

pecta2最下部の細い弁を葯の近くに折り曲げています。まるで何かを捕えて口に運んでいるかのようです。

pecta3w8輪中4輪で不思議な動きをしています。

私の栽培用土はボラ土、鹿沼土、ヤシハスクの混合です。落葉後は時々、用土を湿らせて完全乾燥はしません。春の発芽を確認してから植え替えます。5号プラ鉢で灌水は多めです。今年の15輪が最多花です。

 

 

2017年10月29日 | カテゴリー : 雑記帳 | 投稿者 : nakamura

厦門(アモイ)の旅

厦門(アモイ)の旅 (1)

台湾に暮らす友人に秦という男がいる。祖父の代に台湾の西に位置する中国福建省から移り住んだらしい。台湾で言う本省人である。中国の南部は広東語圏であり台湾を含む東南アジアへの移住者が多い。ベトナム、タイ、マレーシア、シンガポールの友人たちの母国語以外のコミュニケーションツールである。日本語と少しの英語しか使えない私には羨ましい限りだ。私は沖縄方言も話せるが如何せんポピュラーな言語とは言えない。秦とは蘭に関する仕事での付き合いである。秦は桃園国際空港の近くに300坪程の蘭温室を持っているがラン栽培が本業ではない。彼の収入源は台北市内にある数軒の貸しビルの家賃収入である。数年前から秦に誘われてボルネオ島やタイ、台湾国内を旅行する機会があった。暇人で旅行好きの秦は東南アジアの蘭展示会に頻繁に出品していた。彼は福建省の厦門に友人が出来たらしく、2年前のマレーシアのジョホールバル国際蘭展示会で林という中国人を私に紹介した。それ以来、何度か林の会社のある厦門市への旅行に私を誘った。今年の2月に開催された沖縄国際洋蘭博覧会に林が参加したことで彼の会社とランの取引を始めた。厦門国際空港花卉園芸公社(シャーマン・インターナショナル・エアポート・フローラ公社)が正式名称である。3月、4月、6月と3度の取引を行った。那覇空港ビル内の展示に使う蕾付のコチョウランを総額150万円で3千株程輸入した。台湾産よりも幾らか安いが品質では台湾産に及ばない。取引を始めたことで厦門への関心が高まったが、秦の誘いには乗り気でなかった。それと言うのも6月の輸入で粗雑品が入荷したので、シャーマンカンパニーとの取引に嫌気がさしていたのだ。彼らの商法は1回目に優良品を送り、2度目に少し質が落ち、3度目はかなり質が悪くなるのだ。そろそろ取引を切り上げるべき時期かなと考えていたのだ。世に聞こえる中国商法の典型のような気がしていた。 p1那覇空港 - コピー (2)シャーマンカンパニーより導入してなは空港出発ロビーに展示してあるコチョウラン Dtps.Acker’s Sweetie ‘Dragon Tree Maple’ 7月の中旬にラン栽培仲間の仲里と二人で2泊3日のスケジュールで台湾に出かけた。共通の友人である陳先生の奥様の告別式に参列したのだ。沖縄からは僕らの他に別の便で2名が参列した。無論、共通の友人である。 夜の便で空港に着くと秦が迎えに来ていた。海鮮バーベキューレストランで遅い夕食を取った。2時間で食べ放題、飲み放題である。火鉢を囲んで座り、魚介類をカウンターから自由に取ってきて焼いて食べるのだ。生ビールのサーバーを操作して自由に注いで飲むことが出来る。紹興酒は別料金だ。 秦はこのレストランのシステムを説明しながら僕らを厦門の旅行に誘った。仲里が私の顔を見て言った。 「仲村さんどうします」 「うん、何度か誘われているんだ」 「仲村さんが行くなら同行しますよ。私もシャーマン・カンパニーから少しばかり輸入しているから。それに少しトラブル発生していて、10万円分の商品の回収が残っているのだ」 「僕の方も6月にツボミ付のコチョウランを輸入しらノン・ステムだったよ」 「ひどいね。値段は同じだろ」 「うん、それでメールで文句を言ったらなんと返信してきたと思う」 「なんて」 「ノー・プロブレム。1週間後にステムが出て来からだとさ。確かにクーラー温室に入れて2週間後にステムが出て来たけど、電気代のロスと出荷工程も遅れるしうんざりしたよ。台湾商法も未だ納得できないけど、中国商法は要注意事項だらけだね。」 「そうだね、一度はシャーマン・カンパニーを訊ねて組織の状況を確認しておく必要があるね」 「秦の話に乗ってみることにしよう」 僕らの会話を聞いていた秦は 「オーケー、8月4日出発、フライトをチェックする。2時間後に迎えに来るから」そう言って立ち上がると、精算カウンターで料金を払って出て行った。 海鮮レストランの店名は「FLOG」、点灯した看板に蛙の絵が描かれていた。通りに面した部分と駐車場側の壁が無く、店内の様子が覗けるようになっていて、当然のごとくバーベキューの香ばしい煙が屋外に流れている。日本の焼鳥屋の商法と同じで香りで客を誘うという考えであろう。むろん店の賑わいの喧騒も屋外へと流れていくのだ。4人掛けのテーブルが20台も並んでいて6割ほどが既に埋まっていた。 秦が料金を払うと男の店員が火のついた木炭をテーブルの中央にある火鉢に放り込んだ。海鮮バーベキューの開始である。氷を敷き詰めた台の上には魚、カニ、イカ、貝などの鮮魚の他にナス、玉ねぎ、ピーマン、キノコ、タケノコ、白菜、軽く茹でたジャガイモなどの野菜類もふんだんにあった。火鉢の上には網が敷かれておりその上で焼くのである。網の端に丸い穴があり、そこにステンレス製のスープ椀を置くと熱いスープが楽しめる仕掛けとなっていた。セルフサービスの生ビールをサーバーから注いできて飲んだ。久しぶりに紹興酒を1本買って飲んだ。 十分に夕食を楽しんだ頃に秦が戻って来た。火鉢の火種も消えかかっていた。火種が制限時間の2時間で消えるだけの炭火が投入されているのである。中々賢い商法である。 ホテルまでの車中で厦門の旅のスケジュールを説明した。8月4日に出発して8日に帰る計画だ。台北・厦門間のチケット代3万円とパスポートを渡した。 告別式を終えた翌日、台北から桃園国際空港へ向かう秦の車の中でパスポートと厦門へのフライト予約券のコピーを渡してくれた。手回しの良い男である。ともあれ秦の計画に乗って厦門の旅が始まったのだ。

(2)8月3日(火)

私は一昨日の日曜日に、妻に明後日の火曜日から日曜日まで台湾経由で中国に行くと話した。81歳の義母が体調を崩して入院しており、妻は月曜から金曜日まで実家に宿泊する生活が3カ月ほど続いていた。私は妻と一緒に国内を旅行したのは4度程度しかない。妻は飛行機に弱く旅行があまり好きでは無いようだ。娘や孫が東京、名古屋から訪ねて来ると喜ぶが、自ら訊ねたことは1度しかない。私は出張の2日前に行き先を妻に告げるのが常であった。 「あ、そう。四日間も自宅が空き家になるわね」と答えただけである。 「現地の蘭生産業者に会う」と話しても、妻には遊びと思われてしまうのだ。旅先の細かいことは行く前も帰ってからもほとんど話さない。只、海外から帰宅した私の衣類を洗濯する際に決まって言うのは、 「なんて臭い衣類でしょう。何を食べるからこんな匂いのする汗を掻くのですか。私は海外なんて御免だわ」 「そうかな、毎日美味いモノを食べてるぜ。国内の中華料理なんて紛い物だよ」 「ゲテモノ食いでしょう。日本人は日本食が一番よ。こんな体臭の汗を掻く食べ物は私の体質に合わないわ」 妻の口癖だ。それ故、私の海外みやげは現地の特産品を止めてチョコレートが定番となっている。 私は30歳で初めての海外旅行で東南アジアへ行った。ヤシ油やタイの香草パクチーを使った料理に違和感があったが、翌年から今に至るまで食べ物の違和感あるいは拒絶反応を感じたことがない。今日まで東はミクロネシア、西はマダガスカルまで旅をする機会があったが、現地の食事と酒を楽しむことが旅の原則だ。旅の途中で下痢や腹痛に悩まされたことは無い。むろん、胃薬や整腸剤、頭痛薬などの常備薬は持参するのであるが。 那覇から台湾の桃園国際空港への最終便は午後8時10分である。私は6時半に空港に着いた。仲里はまだ来ていなかった。とりあえず構内に設置してある自動改札の旅行保険を掛けてクレジット決済をした。しばらくすると仲里が奥さんと共にやって来た。仲の良い夫婦である。僕らはチェックインカウンターで搭乗チケットの交換を済ませてレストランに入った。未だ出発まで時間があるので夕食を取ることにした。3人でソーキソバを食べていると、このシーンが3週間前と全く同じであることに気付いた。陳先生の奥様の告別式に参加した旅の初日とである。ビデオの再生シーンのようであるが、今日からの旅はあの日から始まったのは確かである。 午後7時30分に仲里夫人に別れを告げてセキュリティーチェックの列に並んだ。台湾への最終便は何時も混雑している。ほとんどが台湾人であるが欧米人と日本人も1割程度が混ざっている。桃園国際空港からは東南アジアと南米・北米諸国の主要都市に便が出ており、東南アジアのハブ空港としての機能が高いのだ。 台湾時間の午後8時30分に桃園国際空港に着いた。私は携帯電話を台湾モードに切り替え小さなスーツケースを手にイミグレーションに向かっていた。 「先輩、今どこですか」秦からの電話である。 「イミグレーションの前だ」 「20分後に車で迎えに行きます。外の5番乗り場で待っていてください」 桃園国際空港のNO CITIZNのイミグレーションは昼の時間は混んでいるが、夜間は空いている。台湾人の旅客が多く、外国人は少ないのだ。イミグレーション・カードの滞在先の欄にはゴールデン・チャイナ・ホテルと書いた。入国目的は観光である。宿泊先と目的は適当なホテル名と観光で十分である。台湾の入国時の手荷物検査はほとんどフリーだ。日本の通関のように、やれ税金の申告だの植物検疫だのとうるさい係員はいないのだ。ゴールデンチャイナ・ホテルは実在するホテルで、20年来の台北での私の宿泊先だ。多少の予約ミスがあっても泊めてくれる。私のパスポートナンバーが控えられているのだ。ごく普通のホテルが上級ホテルに変身してしまい宿泊料金も値上がりしてしまったのは少し残念だ。 仲里がバゲッジクレームで荷物を受け取るのを待って外の5番乗り場に向かった。 「5日の旅にしては偉く大きな荷物だね。僕は機内持ち込みが可能なサイズの手荷物だけだよ」と仲里に尋ねると 「何だか知らないが、1kgの味噌を10袋も買わされたよ。それにゴーヤーの種もだ」 「ゴーヤーなんて台湾にもあるぜ」 「だけど沖縄のゴーヤーが好きらしい」 「確かにこちらの白ゴーヤーは淡白な味がしてあまり美味くないね」 「秦も沖縄ゴーヤーの味を覚えたのだろう」 5番乗り場で待つとすぐに秦のワゴン車がやって来た。 「先輩、go, go」と僕らを急き立てた。 僕らが乗り込むと急いで車を出した。この場所はタクシー専用の乗り場であり、一般車両の待機は原則禁止である。空港警察官が絶えず巡回しているのだ。彼らは駐車違反を調べるというより、運転手のアルコール探知をしているのである。秦は頻繁に飲酒運転をしているので警察官への警戒を怠らないのだ。 「Did you booking hotel」 「No,problem,大丈夫」 予約をしていないだろうと思いながら訊ねただけだ。予約をしていないということである。 「先輩、eating OK」 「那覇空港でソバを食べた」 「では、少しだけ食べましょう」と言って桃園の市街地に向かった。 秦は英語と日本語をチャンポンで話す。私は英語を多少話すが中国語は話せない。僕らの会話は英語、日本語、中国語のごちゃ混ぜの可笑しなコミュニケーションであるが、取り立てて困ることもない。会話は所詮、気持ちの持ち方で通じるものだ。 小さな食堂の前に車を寄せた。店員が出てきて店の前のバイクを移動して車の駐車スペースを空けてくれた。明日空港まで送ってくれる林さんと今の店で合流するのだ。 店は台湾特有の造りで、氷が敷かれた台の上に魚介類が並べられており、肉類はガラスケース中に下処理したものが吊るされている。野菜は無造作に台の上に置かれている。こじんまりした店内には6人掛けのテーブルが2台と4人掛けのテーブルが2台だけである。僕らが奥の4人掛けのテーブルに着くと、女主人が奥の冷蔵庫から青島ビールとグラスを持ってきて栓を抜いて僕らのテーブルに置いた。仲里が私のグラスにビールを注いで早速乾杯した。秦は立ち上がって女主人と共に店の入り口で何やら料理を注文して戻って来た。その後ろに林さんが付いていた。 「ニーハオ」「ニーハオ」と僕らは笑顔で挨拶して握手を交わした。 昨年の11月に彼の家に泊めてもらい、3週間前にも海鮮バーベキュー店からの帰りに仲里と共に彼の家で3時間ほど飲んだのである。人は親しくなると共通の言語を持たずとも何とか意思の疎通を図れるものだ。大きな体だが控えめな話し方をする律儀な男である。空港の貨物を扱う仕事を受けているらしい。秦は海外へ出かける度に彼の事務所に自分の車を駐車しているのだ。僕らは何度も乾杯を繰り返した。林は勝手に店の冷蔵庫から青島ビールを取り出して栓を抜いた。馴染みの店らしく女主人はニコニコして見ているだけだ。

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電飾のパレード車両

地元産の小さな牡蠣をアヒルの卵でとじたチジミ風の料理を摘みながらビールを飲んでいると、表通りから騒々しい音楽が流れて来た。通りが明るい光を放っているので不思議に思って店先に出てみた。電飾を施した大型トラックにショートパンツの令嬢と張りぼての仏像を乗せて大音量で走っている。20台、30台と続き時折爆竹を飛ばしている、爆竹が道路わきのビルの2階の壁に当って弾けるが全く気にする様子もない。この辺りの何かの祭りであろうかと秦に尋ねるも台東県から来た車であるが何のパレードか知らないらしい。一行は200m程先の交差点で旋回して戻って行った。静かになった通りに爆竹の硝煙の臭いだけが残った。僕らは再びテーブルに戻って食事をした。 ・イカの口の揚げ物:イカの口に衣を絡めて揚げたものだ。輸入品らしく新鮮さに欠けた。数年前に桃園の漁港近くの海産物店で食べたのはとても美味く土産に持ち帰った程であった。最近は地元産が少ないと秦が嘆いた。 ・蛙の香草煮:むき身の蛙を2㎝程に刻んで香草と空炊きした物だ。肉は少ないが鶏肉に似た淡白な味がする。小骨を取り出してテーブルに積んだ。庶民の食堂には骨入れの器が無い。必然的にテーブルの上が食べカスで散らかってしまうのだ。 ・淡水魚の煮付け:魚の種類は解らないがだし汁で煮込んである。細長く刻んだネギをちりばめてあるので川魚の臭みは無い。淡白な白身で小骨の多い魚だ。台湾の中南部は淡水魚とアヒルの養殖が盛んである。 ・茹でたカニ:溶き卵を絡めてある。インド南部からの輸入品である。腹に赤い卵を抱えていた。奇妙な色合いであったが違和感のある味では無かった。マングローブガサミに似た形だが、握り拳より大きく成長しない種類らしい。沖縄のガサミよりくどくない味であった。 台湾時間の午後11時にお開きとなった。4人でビールを10本に紹興酒を2本空けていた。林さんにお土産を渡して今夜の宿のモーテルに向かった。むろん予約の必要のない1泊千3百元(約3千円)と格安のホテルだ。空港に近いようで飛行機に離発着の音が頻繁に聞こえた。秦は仲里と私を降ろして林と共に帰って行った。林の家に止まるのであろう。台湾の田舎で時々泊まるカーモーテルと異なり1階の部屋であった。あまり頑丈にも思えないドア1枚を隔てて即屋外であった。私は少し不安になり就寝中の不意の侵入者に備えてドアの後ろに椅子を2脚並べて用心した。ベットの横の高窓のカーテンを開けると格子の無い窓である。モーテルの敷地はブロック塀で囲まれており、出入り口はホテルのスタッフが料金精算所のゲートを開閉しているのであるが、何ともセキュリティ対策の無いホテルで寝ることになったものである。しかし案ずる暇もなく眠りの中に落ちてしまった。何しろ日本時間の午前0時30分であった。

(3) 8月4日(水)

午前5時半、セットしていた携帯電話のベルが鳴り、ゆっくりと起きだして目覚ましのシャワーを浴びた。歯ブラシ、髭剃り等良品が備えられており、沖縄県内のモーテルよりもはるかに良い。備え付けのミネラルウォーターで湯を沸かしてコーヒーを入れた。テレビのスイッチを入れると日本人が出演したポルノが映った。しばらくコーヒーを飲みながら見ていると電話が鳴った。秦からの電話かと思ったが単なるモーニングコールであった。コーヒーを注ぎ直してテレビを消して荷物の確認をしていると携帯電話が鳴った。 「先輩、空港に行きます」秦からの電話である。 入り口の椅子をどけて外に出ると、林の運転するワゴン車が目の前にあった。 「ニーハオ」と声を掛けて車に乗り込んだ。午前6時45分であった。 午前7時に第二ターミナルのチェックインカウンターで搭乗手続きをした。秦と仲里は荷物を預けたが私は機内持ち込みとした。チケットは3名が横1列のシートナンバーである。 「先輩、change money」秦が中国元への両替を促した。 「How much we need」 秦は少し考えてから 「二万円。OK」 二万円を空港内のマネー・イクスチェンジに出すと。千4百中国元と331台湾元を返金した。二万円を台湾元に交換して、更に中国元に交換するのである。手数料の100台湾元を差引いて半端な金額を台湾元で戻したのである。何だか狐に騙された気がした。秦はクレジットカードで現金を引き出して戻って来た。 セキュリティーチェックを難なく済ませて厦門行きの待合室に向かった。秦は私にVIP用のチケットを渡して朝食を取ってくるように勧めた。チケットは1枚しかないとのことだ。私は彼らと分かれて地下のVIPルームに一人で降りて行った。VIPルームではインターネットサービスや軽食が無料であった。私はヌードルスープとシュウマイで朝食を取った。この部屋の利用者は東洋人、西アジア人、欧米人と様々であったが、身なりがしっかりした裕福な階層であり、私はその部類からかなり外れていたと思う。ただ、朝食のヌードルの注文引換券の番号呼び出しを中国語で呼び出すので、中国語に不慣れな外国人には親切とは言えない。アジアの国際ハブ空港と言われているが完全な国際空港であるとも言えないようだ。 朝食を済ませて待合室に向かう途中で秦と仲里に会った。彼らも近くのファーストフードショップで軽食を取ったようだ。VIPルームもファーストフードショップも私にとって同じようなものである。旅先で気取ることもないだろうし、気取るほどのステータスも持ち合わせていないのだから。 8時45分、EX-0991は厦門向けに定刻通りに飛び立った。便名のEXはEXAMEN(シャーマン)厦門の中国語発音から取ってある。航空会社はチャイナエアラインの完全子会社である。1日1往復のフライトで7割の乗客であった。機内の飛行ルートモニターによると飛行機は台湾の西海岸を南下して台南付近から西に向かって飛行している。桃園から直線で厦門へ向かうルートを取らない何らかの軍事的な航空事情があるのかもしれない。p3-1厦門空港の花 - コピー 厦門空港内の飾花 10時30分に厦門国際空港に到着した。那覇・台北間より飛行時間が少しだけ長い。新しい空港ビルの中を進みイミグレーションをスムーズに通過した。イミグレーション・カードは秦が前もって記入してあった。秦は僕らと異なる中国人専用のイミグレーションカウンターから国内線並みの特別のチェックを受けずに早々と通過した。 「秦、Are you chinese」と尋ねると 通常の台湾行政府発行のパスポートより小さなサイズの緑色の手帳を見せた。中国外省人専用と表記された中国への出入国専用の特別なパスポートである。秦の説明によると、中国の特別行政区である香港、マカオ、台湾の住民がこの特別な出入国手帳を持てるらしい。入国スタンプも我々パスポートの印と異なる丸い形状である。秦は誇らしげに説明した。彼の祖先は福建省の出身であり、彼の中には中国人としての誇りがあるのかも知れない。ただ、陳先生のような戦前の日本教育を受けた知識人は中国本土の行政手法に良い感情を持っていない人が多数だ。知識人の子弟は米国留学者が多く、米国の市民権を取得した者も少なくない。陳先生の弟や息子もロスアンゼルスに暮らしている。 バゲッジクレームにシャーマン・カンパニーの林が待っていた。秦と仲里の荷物をカートに積んで出口に向かった。手荷物チェックの女子職員が笑顔で林に挨拶をした。林は片手を上げて笑いながら何かを言った。彼は空港職員に顔が効く立場のようである。林は背が高くアスリートのような体格をした30台の男だ。白のナイキのマーク入りTシャツにチノパンツ。足元はスニーカーの遊び着の装いだ。その姿で空港内の制服を着用した女子職員と砕けた話をしているのは少し違和感があるも、この組織での立場は悪くないようだ。 林の車で空港に近い彼の事務所に向かった。オフィスには彼の上司である劉さんが待っていた。色白で小太りの40代の男だ。声が大きく豪快に笑う典型的な中国人である。林の所属する部門を仕切っている男らしく、英語で話してくれた。林は福建省の銘茶鉄観音を入れてくれた。中国も台湾も来客には茶を入れて歓迎するのが習わしだ。鉄観音茶は烏龍茶と少し異なる。1回分ずつ真空パックで小分けされているのだ。茶の入れ方は烏龍茶と同じだが香りがとても強い。日本茶を好む人にはきつい香りであろう。香りを保存するために真空パックで封じ込めてあるようだ。茶器は烏龍茶と同じで4回程度湯を継ぎ足して飲める。僕らは劉さんの豪快な笑いを聞きながら1時間ほど談笑した。仲里は来年1月に開催される海南島国際蘭展に参加するので、その時に出品する展示ブースで使用するラン類及び観葉植物をシャーマン・カンパニーに供給してもらうことで商談を成立させた。未納となっている蘭代金を相殺したのである。仲里は小声で「現金を返してもらった方がベストだが回収できないよりマシだ」と沖縄方言で私に言った。 「仲里さん、グッドアイデアです。問題ありません」劉さんは手を叩いて大きな声で笑いながら言った。仲里も笑顔で劉さんと握手した。 林の車で劉さんと共に少し早い昼食に出かけた。空港職員が利用するレストランらしく林と劉さんに挨拶する者が何人かいた。クーラーの効いた個室に案内され、10人掛けのテーブルにゆったりと座った。林は半ダースのビールをボックスごと持ってきてテーブルの上に置きポンポンと栓を抜いてグラスに注いだ。そして劉さんの乾杯の音頭でビールを飲み干した。台湾で主流の青島ビールと異なる中国の別のメーカーのビールでアルコール分3.5%の水っぽい味であった。しかし、暑い最中のビール程美味いモノは無い。林、秦と続く乾杯で空き瓶が次々と増えていった。林は何処で覚えたのか日本語で「一気、一気」と声を掛けて僕らがビールを飲み干すのを急かせた。まるで学生寮の新入生歓迎コンパである。中国滞在の週末までこのスタイルの飲み方が続きそうな予感がした。 程無く料理が出てきた。 アサリの酒蒸し:ジューシーで臭みの無い柔らかな肉質だ。 淡水魚と白菜のスープ:白身魚のあっさりと味だ。 豚の皮付きバラ肉と豆腐の煮付け:バラ肉は予め煮込んでから醤油と香辛料で味付けされている。香港料理の逸品に似ている。沖縄の島豆腐より少し柔らかい食感だ。豚肉の味が浸みこんでいて旨い。 渡り蟹の塩茹:小ぶりの渡り蟹を塩茹でして二つに割ってある。一皿3匹でさっぱりした味だ。 パクチョイ炒め:ごく普通の野菜炒めだが、美味いだし汁の絡みつきとパリッとした食感が抜群だ。単純な野菜炒め料理には店の料理人のレベルが明確に現れるものだ。 深海魚の餡かけ:魚種は知らないが200mの深海から釣り上げた魚という。20㎝程大きさの魚を一度から揚げしてから野菜の餡かけで仕上げている。から揚げによって白身の肉が引締まり、表面がカリッとして美味い。 食材は全て地元産らしい。僕らに次々と料理を勧めるが、自らはマイペースでゆっくりと味を楽しみ、大きな声で快活に話し、且つ、愉快に笑い頻繁に酒を勧める。豪快な食事風景である。以前、陳先生が話していたが、「中国人は美味いモノを食べるために金を稼ぐのである」との説は本当であろう。中国人の料理に対する感性は見た目よりも旨味を優先する。日本料理の器を含めた美しく繊細な味は重宝されないだろう。以前、広州市の市場を案内してくれた友人が言ったのであるが、中国人は椅子テーブル以外の四つ足は何でも料理する。この市場には蛇、狸、猫、犬等、野生動物及び家畜の様々な生き物が食材として取引されている。私はと言えば、以前、京都の庭園鑑賞会の帰りに鴨川沿いの日本料理店で食べた懐石料理よりも東南アジア各地で食べ歩いた中華料理に軍配を上げる。料理とは見て楽しむものでは無く、食べて満足する物なのだと私は思うのだ。 1時間ほどゆっくりと食事を楽しんでからホテルに向かった。シャーマン・インターナショナル・エアポート・ガーデンホテルという長い名の空港系列のホテルだ。中国語では厦門国際空港花卉園芸飯店である。林にパスポートを渡してチェックイン手続きをする間にロビーの茶室で劉、秦、仲里、私の4人でのティータイムとなった。茶室には小柄の丸坊主の男が茶の係りとして常駐している。この道のプロである。穏やかな表情をした無口な男で、日本の茶人に似た風情であった。テーブルは古木を彫り込んだ重厚な逸品である。茶は右手のガラス張りの冷蔵庫に保管してある。鉄観音は低温保存によって風味を保つと説明してくれた。茶係の入れたお茶は芳醇な香りがして、劉さんの事務所で飲んだお茶とは私でさえも味の違いが分かった。劉さんは快活に話し笑って僕らをリラックスさせてくれた。カンフー映画に出て来る豪放磊落なボスという感じだ。 林がパスポートを持って戻って来た。ポーターに荷物を預けて11階へエレベータで移動した。1106号が私でその隣が仲里、秦と続いた。私の部屋の鍵が壊れており、修理が終わるまで仲里の部屋に荷物を置いてお土産だけを持ってロビーに降りた。秦の言う四つ星ホテルにしては少し怪しいグレードである。 p3厦門空港 - コピー   ホテルから見た厦門空港 午後のスケジュールはシャーマン・カンパニーの温室見学である。林にお土産 を渡して秦と劉さんを事務所に残した。代わって江という背の高い社員が同行 した。彼らの温室は空港のフェンス沿いに建てられており、蘭温室と観葉植物 の温室群に分かれていた。蘭温室は台湾の施設と同じのパットエンドファンシ ステムムである。外気温35度でも温室内は30度に保たれていた。フラスコか ら出されたばかりのコチョウランの1.5“ポット苗が生産されていた。 この施設では3.5”のサイズまで成長させてから山上げして花芽分化を促すコチ ョウランの生産システムとなっている。2か月前に導入したコチョウランもこの施設で生産されたのであろう。   P5園芸公司 - コピー             施設を一巡してから事務所に戻った。事務所のある建物ではフラスコの生産がなされていて、その生産施設を見せてもらった。               p4パットエンド - コピーパット これからは開花株の生産よりもフラスコ苗の生産を主力にするとのことである。P6フラスコ群 - コピー 来年には年間30万本のフラスコの生産を計画しており、既に生産拠点となる4 階建ての中古ビルを買収済みとのことであった。鉢植えにすると450万本のを どのような販路で捌くのか気になったがあえて質問する気にはなれなかった。 事務所の応接室に戻ると厦門市の湖里区の警察署長の務める蓮氏が待ってい た。厦門市は空港のある厦門島に2区と対岸の中国本土の4区で区分されている。蓮氏は空港のある地区の警察署長である。厦門市では強大な権力者の一人であるようだ。自分の組織を持たない秦は権力者に迎合することを好む男だ。練氏と親しげに話していたが室内は煙草の煙で充満した。それに林が加わったものだから火事場のような室内となり、劉さんが慌てて窓を開けた。中華人は友人同士で煙草を勧める習慣があるのだ。仲里も私も既に煙草を止めていたのでこの煙には閉口した。秦によると中国ではタバコの値段がバカにならないと言う。仲里がそれを聞いて秦に言った。 「では、お土産はタバコがイイね。次からはタバコにしよう」 「彼らは中国製のタバコしか吸わないから駄目だ」 「タバコは味噌より軽いから楽だと思ったのだが残念だネ」 値段の安い味噌でも彼らに味噌の味等解らないが、10袋も頼まれると重くて叶わないとこぼした。彼らが中国産のタバコを吸うのは国策に関わる立場の人間であるからだろう。とりわけ高い地位の者は外国産のタバコを人前で吸うこと危ういことであろうか。何処の国でもタバコは税金の塊である。 4時にホテルに戻り6時まで仮眠の時間となった。秦と旅行する時の毎度ののスタイルだ。部屋の電子ロックは既に修理されていて、ダブルベットの上に横になってこの先の旅の行程について考えた。秦の旅は植物観察などへの興味はなく、只その地域の友人たちとの飲食の交友だけである。今夜も蓮署長が持参する4本のブランデーを飲み干そうと言った秦の言葉が気になった。彼との旅は飯代、宿代は要らないが体力だけは相当に必要である。とりわけ酒に強いことが要求されるのだ。仲里が私と同行するならと秦の誘いに乗ったのもそのあたりが本音である。それに体力のある林の「一気、一気」酒飲みスタイルは私の好みではないのだ。そのようなことを考えているうちに旅の軽い疲れから眠りに落ちていた。 秦からの電話でロビーに降りると劉さんが待っていて、ホテルの中二階あるレストランの特別室が歓迎パーティの場所であった。このホールは1階フロアからだけ入ることが出来た。私と劉さんが上座で、私の左に仲里、劉さんの右に秦、一つ席を空けてその隣に蓮署長、林と続いた。林と仲里の間も一つ席が空いていた。秦の隣には太めの女友達、仲里の隣には林の弟が遅れてやって来た。全員で8名のディナーである。 ブランデーがグラスに3分の1ほど注がれた。 「仲村さん、仲里さん、welcome 乾杯」一斉に飲み干して再びブランデーを注いだ。 「Thank you very much for inviting us 乾杯」と答えてディナーが始まった。 乾杯は蓮署長、林と続いた。のど越しの良い良質なブランデーである。 料理は茹でた小海老に始まり、ホテル特有の豪華な料理が次々と出てきた。ホテ ルの中華料理は何処でもあまり変わり映えがなくて面白みがない。食材の品質 が多少良くなっているだけである。私は沖縄が150年前まで琉球と呼ばれた独 立王国であり、東南アジア貿易が盛んであった。中国との貿易の窓口は福建省の 厦門であった。丁度、我社とシャーマンカンパニーのような関係だったと話した。 劉さんは満足して乾杯を促した。乾杯が続くのでグラスに氷を入れて酒の量を 少なくして対応したが、多勢に無勢で酔いが回ってしまった。 ディナーの後でカラオケバーに寄ったがあまり記憶に残っていなかった。カラオケが嫌いではないが中国語のカラオケでは楽しめないのは仕方のないことである

(4) 8月5日(木)

午前7時、シャワーを浴びて荷造りをした。このホテルに今夜も泊まること思い出してズボン、シャツ、パンツ、靴下をクリーニングに出した。大抵の旅行ではズボンだけをクリーニングに出すのであるが、ゲストの僕らは全てがフリーなのである。 8時半に朝食を取りに1階のレストランに降りていくと、秦が見知らぬ2人の女とコーヒーを飲んでいた。昨夜の太った女とは別であった。朝食はバイキングスタイルである。私はお粥と卵焼き、ハム、野菜炒めを軽めに取ってオレンジジュースで胃袋を落ち着かせた。 秦が私のテーブルにやってきて言った。 「今日は別行動です。仲里と一緒にシャーマンカンパニーの農場見学をして下さい。私は彼女たちと観光に行きます」 「オーケー、仲里に連絡する」 「9時にロビー、林さんが一緒」そう告げて彼女たちの席に戻った。 仲里と二人でロビーに降りて待っていると小柄な青年が声を掛けてきた。 「ミスター、ナカムラ。アイアム、ヨーキン」 「オー、ミスター・ヨーキン、ユーセント・イーメール・トゥ・ミー」 「イエス、ナイス・ミーツユウ」 「ナイス・ミーツユウ」 お互いに紹介しあった。仲里と私にメールを送ってくれるシャーマンカンパニーの窓口の男である。 「ヨーキンとは女生と思ったが男だったね」と仲里が言った。 「僕も一応Mr,Yokinと書いたが自信は無かったよ。それでも前回の輸入トラブルで直接電話があったので、声に質から男と分かったのさ」 ヨーキンの英語は何処で習ったのだろうか。まったく理解しがたい発音で懸命に話してくるので鬱陶しくなってくる。水木しげるの漫画「ゲゲゲの鬼太郎」に出て来るネズミ男に似た印象である。厦門島の説明で「アモイ・イズ・アィズランド」話したので仲里が「アイズランドとは何のことですか」と尋ねる始末だ。中国に北欧のアイスランドが在ってはたまらない。更にRとLをでたらめに舌を転がすように発音するので全く手におえない会話である。林はヨーキンの会話を補正することはしないのだ。 昨日農場を案内してくれた江さんが合流して5名で出かけることになった。彼らの農場は厦門市の北方60kmの同安区の山中にある。標高900mの農場で開花誘導処理を行っているようだ。いわゆるコチョウランの山上げ栽培による自然の低温処理を行っているのだ。電力の供給不足からクーラーによる冷房処理栽培が困難であるのだろうか。 午前9時20分ホテルを出発した。小柄なヨーキンが一緒だが後部座席の3名は窮屈である。私も仲里も体重85kgを軽くオーバーしているのだから。 車は厦門島に架かる3本の端のうちの最も長い7kmの橋を渡って対岸に向かった。厦門空港が右手に見えた。浅い泥の海に橋脚が立っており、交通量の多さがこの経済特別地区の繁栄を物語っている。建設中の高層ビルがいくつも見えた。厦門工業大学の横を通過して集美区に入ると次第に商業施設が少なくなり20分ほどで農村の同安区に入った。広大なリュウガンの果樹園が続いた。レイシ畑は全く見当たらない。果樹としてはレイシの方が市場価値は高いはずだがどうしてリュウガンなのであろうか。台湾の青果物ではレイシが主流でありリュウガンはほとんど見かけない。中国のリュウガンは青果物ではなく加工品の原料であるかもしれない。 何処までも続くリュウガンの農園である。p7-1リュウガン農場 - コピー リュウガン農園 やがて車は自然保護区の坂道を登り始めた。曲りくねった狭い道路をエンジンの音を響かせて登った。時折放し飼いのジャージー種に似た赤牛がのんびりと道路を占有して歩いていた。林がクラクションを鳴らすとゆっくりと道路脇に寄って道を譲ってくれた。牛の持ち主の姿が見えない穏やかな農村である。大きな花崗岩を積んだ大型車両がすれ違った。近くに採石場があるのだろうか。林はクラクションを鳴らして次々と車両を追い越して山を登った。対向車が近づいても意に介せずに加速していった。仲里は交通事故に遭遇せぬかと心配した。私もこの国のドライバーの運転マナーが近隣諸国とあまりに異なっていることに心配した。P7森林保護区 - コピー山頂近くの風景 道路脇の山林は自然林ではなく、ユーカリ、松、杉の人工林である。自然保護区は何処であろうかと車窓から遠くを眺めたが良く分からなかった。山頂に近づくにつれて茶畑が広がりやがて集落が現れた。あまり大きな集落ではなくレンガ造りの平屋が点在した。民家の周辺に自家菜園と思しき畑が小さな畑があった。時折老人の姿を菜園の中に見かけたが若者の姿を見ることは無かった。 P8山頂の民家 - コピー 山頂近くの集落から少し下って更に10分ほど登った場所にシャーマン・カンパニーの農場があった。2000坪のパイプハウスの周辺は全て茶畑である。車を降りると空気が乾いてしのぎやすい気温である。ハウス内の温度計が28度を示していた。パットエンドファンの装備されたハウス以外は空である。この時期は気温が高いので8月末から秋の山上げを始めるとヨーキンが説明した。パットエンドファンの温室には花芽の上がったランが並んでいた。私は10月に出荷できる品種のリストを送ってくれとヨーキン言った。単なる社交儀礼である。 P9山頂の温室 - コピーP10OX fire bird - コピー 農場とコチョウラン Dtps.OX Fire Birdのメリクロンであるがオリジナルはスプラッシュが中央まである。メリクロンによってスプラッシュが小さくなる。私が台湾からフラスコで導入した株はさらにスプラッシュが小さかった。 温室を一回りした後に作業員休憩所で施設の管理人と共にお茶となった。この辺りでとれた茶で製造された紅茶である。後で知ったのであるが正式名称は野茶である。ジッパーのついたビニール袋に無造作に保管してある。ヨーキンが茶漉しピストン式の紅茶専用の器具で手際よく入れてくれた。茶碗は鉄観音と同じ小杯である。味は英国の紅茶よりも渋みが強くややワイルドな味で赤みが強い。小屋の中に人の気配がするので覗いてみると8歳くらいの女の子がテレビに見入っている。この時期は中国でも夏休みであろうか。私が見つめても意に介せずテレビに夢中だ。山中の集落には子供が少ないのか。初老の施設の管理人の孫であろうか。仲里が何かを見つけたようで私を呼んだ。きれいな冷水の流れる小川の土手に何かの花を見つけたようである。 「この花は何ですか」 「ノボタンだね」 「沖縄にもありますか」 「いや、ほふく性のヒメノボタンに似ているが、少し矮性の傾向がある品種だ。おそらくここの固有種だろう。こんな田舎の畑の土手に園芸種があるはずも無いからね。沖縄県への導入は未だ無いだろうね」 僕らが写真を取っていると林が近づいてきて言った。 「何か珍しいモノでも見つけたか」 「この品種をあまり見たことが無い。増やしてから送ってくれないか」 「どの位だ」 「1.7インチポットで1000鉢」 「オーケー、ヨーキンに任せよう」P11ノボタン - コピー 匍匐性のノボタン 午前11時30分に農場を後にして山を下った。林は相変わらず危うい運転で次々と車を追い越して行った。午後1時を過ぎた頃に平地の街に降りた。道路の幅員が広くなり街路樹のベンガルボダイジュが整然と続く落ち着いた地区である。林は町はずれの食堂に車を停めた。昼食時間が過ぎており客は少なかった。店の入り口に鉢植えの大きな徳利状のガジュマルがあった。ガジュマルは実生で育てると幹が徳利状膨らむ布袋型の樹形のなるのだ。僕らはトックリガジュマルと呼んでいる。幹の大きさから20年以上の年月が経っているのであろうか。   P12ベンガル - コピー 手前がヨーキン、右が江、前方のtシャツが林 P13トックリ - コピー トックリガジュマルの盆栽 店の中はクーラーが効いており狭い車中から解放されて心地よかった。しかし、私の体調は快調には程遠い状態であった。昨夜のブランデーによる乾杯疲れが未だ回復せず、3名の中国人のタバコの煙も気分を悪くしていた。 昼食は毎度のように乾杯で始まった。運転手の林は砂糖入りの烏龍茶のボトルを飲み、江とヨーキンがしきりにビールを勧めた。田舎町の料理店には地域特有の美味い物が多いのは確かだ。 川魚のフライ・・・ヤマメと思しき胴体に斑点のある川魚に軽く粉をふったフライである。コショウを軽くまぶしてあるがあっさりとした非中国的料理だ。 タケノコ炒め・・・サクサク感と軽めの味付けが嬉しい。今朝採って来たような鮮度である。 蟹のスープ・・・脱皮したばかりの蟹のゼラチン質の甲羅の周辺部も美味いが痛んだ胃袋にスープが心地よい。 エンサイの炒め物・・・沖縄のエンサイ料理と同じだが味に深みがある。調味料のダシの成分が異なるようだ。野菜を食べる機会が少ないので消化の為に少し多めに食べた。 豚の骨の塩茹風・・・豚の膝関節付近を塩茹でしたものであるがあまり肉は付いていない。ストローが付いており、骨の中にストローを挿してゼリー状の髄液を吸い出す変わった料理だ。 アヒルの炒め物・・・台湾では冷たいアヒルの肉が定番だがここでは暖かい肉である。味が浸みて美味い。ビールが美味いと感じて来た。胃袋が回復し始めて来たようだ。 2時過ぎに昼食を終えてホテルに向かった。中国の交通事情はかっての自転車交通からオートバイ、乗用車の社会へと変化している。都市における自転車の稼働率は日本より少ないかも知れない。只、オートバイは3人乗り、4人乗りはごく普通だ。対向車線の路肩部分を平気で走ってくるのには驚いた。この国のマナーはあらゆる面で日本と異なっているようだ。歴史・文化の違いという事であろうか。もちろん私の商取引でも同じ傾向があるのだから困ったものである。 P14バイク - コピー一家4名でドライブ中 林は僕らをホテルに降して6時に迎えに来ると言って帰って行った。シャワーを浴びてすぐにベットで横になった。5時半までに体力の回復を図るためである。今夜も乾杯の嵐に巻き込まれるのは必然と思われたからだ。5時半の携帯電話のアラームで目覚めた。洗面して歯を磨くとスッキリとした。体が夜の仕様に戻ったようである。6時にロビーで仲里と共に待っていると林がやって来た。林の事務所で長身の奥さんを乗せて市街地に向かった。江とヨーキンは同行しないようだ。途中の大きなマンションで劉さんを乗せて市内の古いレストラン着いた。林の奥さんが車を運転して帰って行った。秦は未だ外出先からの途中のようであった。僕らは店の一角で鉄観音を飲んで秦を待った。茶はその店の調達品で昨日の茶師の鉄観音ほど美味くはなかった。鉄観音にも様々なグレードがあるようだ。 外はいつの間にかスコールが雷を伴ってやって来た。スコールはそれ程激しいものでは無く30分ほどで通り過ぎた。そして涼しさと共に夕暮れとなった。ディナーに程よい時間である。 林が厨房を覗いて戻って来た。 「ナカムラさん、キャン・ユウ・イイトゥ・リトルタイガー」と言って携帯電話の画像を見せた。 「イッツ。キャット」 「ノー、デファレント、イッツ・ア・リトルタイガー。ベーリー・テイスティ」と言って笑った。 今夜は猫料理となるのかと気が滅入って額に手を当てた。 「オーケー、チェンジ、スネーク」と言って厨房に戻って行った。今夜のメインディッシュが猫から蛇に変わったことに安堵した。 蓮さんが3名の部下を伴ってやって来た。箱入りの紹興酒を運ばせている。円卓の横のサイドテーブルに10数箱が積み上げられた。 「ベーリグッド。13年物の古酒だ」と言って劉さんが親指を立てた。蓮さんが満足そうに目を細めて軽く頷いた。 秦が四川省から来た女性二人とやって来た。林の弟の優男も一緒である。口数の少ない色男だ。40歳前後の年上の女は四川省の小学校の教頭らしい。秦が気を使っているのが分かる。30歳前後の痩せた女の素性は分からないが、林の弟に気があるらしく時々視線を送っているのが見て取れた。秦には素性の知れない女が良く現れる。二人の女のどちらかがIDカードを紛失したらしく飛行機のチケットが取れないらしい。明日いっぱい遊ぶ予定が一日がかりで四川省まで電車で帰る羽目になったと秦は笑っていた。いずれにせよ私には勝手が分からない事情が発生したようだ。 夕食会は蓮署長の部下2名が加わって11名の宴会となった。紹興酒は700ミリリットル壺に入っていてコルクの栓がしてあった。林は栓を抜くのに躍起となって唸っていたが店の女がやってきて栓抜きで次々と栓を抜いてくれた。ぐったりした林を見て劉さんが豪快に笑い一同もつられて爆笑した。今夜の宴会は紹興酒の乾杯で始まった。 定番の茹でた小エビの皮をむきながら口に放り込んでは乾杯をする。 上海ガニに似た小ぶりの茹でた蟹。 鮎に似た川魚のフライ 豚バラ肉の角煮。沖縄のラフテーとほぼ同じだ。ラフテーの元祖だろう。 エンサイの炒め物。沖縄ではウンチェーと呼ばれているが何とも中国語的な発音である。沖縄の夏場の葉野菜の定番である。 アサリの酒蒸し スッポンのスープ。かなり大きなスッポンが料理されたようだ濃厚なスープで精が付きそうである。むろん肉も美味い 蛇のスープ。今夜の特別料理だ。香草と共に煮てある。少しピンクがかった白身の肉だ。硬めの棒状の肉を前歯で噛んで肉をむしり取ると蛇特有の細い骨が現れた。背骨を軸にゆっくりと湾曲している。魚の骨よりも弾力性があり、髭のようにしなやかである。淡白で細かい肉質は鶏肉に似ている。手づかみで肉を咥えてゆっくりと蛇の肋骨から肉片を剥がしていくのである。肋骨は簡単に千切れることがなく、最後まで背骨に付いている。劉さんが日本語で「美味しいですか」と尋ねた。親指を立てて「ベーリグッド」と答えると、破顔して豪快に笑った。蓮署長が穏やかに笑って乾杯を促した。僕らは何度も乾杯を重ねた。中国の乾杯は完全に杯を飲み干すことだ。この国の簡潔な礼儀作法である。ゲストにとって1対1なら楽な作法であるが、10対1ではかなり苦しい礼儀作法でもある。 林の弟が500ミリリットルのミネラルウォーターに何か袋状の実を爪楊枝で突き刺してその汁を流し込んでいる。かなり苦戦していたがやがてその袋から緑色に液体が滴り落ちた。袋の汁をすべて絞り出すとテーブルの上に放り出した。それを見て私はその小さな袋が蛇の胆嚢であることを即座に見抜いた。林の弟がペットボトルのふたを閉めて揺さぶるとミネラルウォーターが透明なグリーンに変わった。そして僕らのグラスに少しずつ注いでくれた。女性は嫌がったが秦が何やら説得している。きっと美容に良いとでも言っているのだろう。僕らは一斉に乾杯とグラスを掲げて飲み干した。少し青臭く苦みがあったが気にするほどの味でもなかった。中国の友人たちは彼らが準備した食材を僕らが旨そうに食べるのに満足しているようだ。いつの間にか蓮署長の持ち込んだ古酒を全て飲み干し、更に店にあった普通の紹興酒を取り出して飲んだ。ディナーが終了する頃には林の椅子の後ろの土間に紹興酒の空の箱と空き瓶が無造作に放り出されていた。秦が空き瓶を数えて18本だと笑った。蓮署長、劉さんも大いに満足げな表情でごみの山を見下ろした。中国の食事マナーは日本と異なり、テーブルの上に食べカスを散らかすことや宴席の周りにごみを投げ散らかすことに全く抵抗感が無い。むしろ食べ散らかすほど大いに飲んで食べて賓客をもてなしたことに満足を覚えるようだ。国が変われば文化も異なりマナーも変わるものらしい。私は彼らの文化を否定しないが、食べカスの魚の骨や貝殻をテーブルの周りに無造作に散らかすことに慣れそうにもなかった 酒と食事で腹が充分に満ちて宴会が終了したのが午後10時半であった。蓮署長と劉さんと林は帰って行った。秦の案内で林の弟、四川省の女性、僕らの6名で近くのカラオケバーに入った。この頃から私の記憶は途切れ途切れになっていた。確か男4名で一人500元の割り勘で料金を払ったこと。ホステスが4名ついてビールと摘みとカラオケ代がフリーであったこと。大音響の中国語のカラオケは騒音にしか聞こえず、テッシュペーパーをちぎって丸めて耳栓をして、うたた寝をしていると秦に頭を小突かれたこと。年増の女教頭と秦が休みなく歌い続けたこと。連れの若い女がカラオケバーで出されたスイカを猛烈な勢いで食べまくっていたことが記憶に残っていた。何時に散会したかは定かでないが、ホテルのロビーに据えてある大きな柱時計が午前1時前後を指していたことだけは覚えている。

(5) 8月6日(金)

午前8時30分、胃の調子が未だ回復しないまま1階のレストランで朝食をとった。私は連日の夜更かしから朝食に仲里を誘わないことを伝えていた。互いの体調を気遣ってのことである。1日の行動が始まるのは午前9時からであり、それまでは互いに干渉しないことにしてあるのだ。尤も、仲里は私より4歳若いだけあって、私より早く朝食を済ませているようだ。秦は既に昨夜の女性と朝食を済ませていた。私の席にコーヒーカップを手に一人の男を伴ってやって来た。中肉中背で眉毛の薄い典型的な中国人タイプの男だ。40歳前後に思えた。蓮署長の弟で建築設計士だと紹介された。 「ビジネスは昨日で終わり。今日は観光です。別の場所に泊まります。明日の着替えだけ持ってください。カバンはマイルーム1109に置いてください」 「オーケー、部屋の鍵を貸してくれ」 「ノーニード。肥った女がいるから大丈夫」 私がいぶかしげな顔をするのに構わず 「ナイン・サーティ、スタート」と言って蓮と何やら話し始めた。 私は部屋に戻り仲里の部屋に電話してから荷造りをした。下着にシャツ、靴下を部屋に備え付けのランドリー専用のビニール袋に詰めてカバンを閉じた。 仲里の部屋をノックして合図して、その隣の部屋をノックすると一昨日宴席で一緒だった肥った女がドアを開けた。「ニーハオ」と言ってカバンを渡した。女は一瞬はにかんだ表情を見せた。仲里も続けてカバンを渡した。ロビーに降りて秦に女にカバンを預けたと話した。 「彼女はコンピューター・フレンド。一日中部屋にいる」とあまり興味無さそうに答えた。日本で言うメル友で、北朝鮮の近くの町からやって来たらしい。単なるメル友が同じ部屋で過ごすことも無いだろうが秦とその女との濃密度については詮索する気はなかった。何しろ昨晩のディナーに彼女は同行しなかったのだ。 蓮の車はトヨタの4輪駆動車ランドクルーザー(通称ランクル)だが仕様が少し異なっている。中国での現地生産車であろうか。車にナンバープレートが無く、運転席のフロントガラスの前に登録証があるだけだ。それも有効期限が本日までとなっている。秦がそれを指差して笑った。ランクルのバックドアを開けると広いトランクに木箱がぎっしりと詰め込まれていた。その隙間に秦の荷物と僕らのビニール袋を押し込んだ。秦が全て洋酒だと笑いながら言った。「今夜は此の酒で乾杯するのではないよね」と仲里が沖縄弁で言った。「勘弁してくれよ」と私も沖縄弁で答えた。僕らは秦に聞こえるとまずい内容は沖縄弁で話しているのだ。蓮の副業であろうか、かなりの金額の高級洋酒であることは間違いない。車は車高が高いわりにクッションが良く快適なドライブであった。只、車が揺れるたびに酒瓶のカランコロンと鳴る音が私の胃袋を不快に刺激した。 車は厦門島に架かる3本の端の中央を渡って右折して高速道路に乗った。秦の説明によると、この高速道路324号は南の香港から厦門、上海、青島を通って北京へと海岸線を通る陸上物流の幹線道路らしい。左側に高速鉄道が並行して走っている。厦門・上海間を走る高速鉄道車両で中国製だという。中国技術の素晴らしさを強調していたが、後年この列車が転落事故を起こして物議を醸しだすとはこの旅では想像も出来なかった。未だ運行本数が少ないようで福州市に着くまで列車を見ることは無かった。人家が少なくなった頃、工事中の2本のトンネルを抜けた。ここから泉州市の区域との道路標識があり、泉州市市街地まで70キロ、福州市まで205キロと表示されていた。高速道路は中央分離帯の右側だけが開通した片側通行であるが、それでも片側2車線である。全面開通となれば片側4車線の基幹道路になるだろう。至る所で高架橋の工事が行われている。コンクリートミキサー車とポンプ車が並び、象の鼻に似たホースから吐き出すコンクリートの周りに労働者がひしめき合っている。日本国内で見られる工事現場の風景と変わらない。少し違和感があるとすれば労働者の作業着、ヘルメット、安全靴など国内で見かける○○会社ですとの統一性のある現場環境ではないことだ。P15ポンプ車 - コピー 高架橋工事 一方、工事現場の活気と異なり、農村で働く人々の姿を見かけることが少ない。かっての集団営農団地なるものは見かけない。民家の周りに家庭菜園規模の農地を見るだけだ。或いは小規模な自作農家の菜園ばかりである。大規模農園はリュウガンの果樹園だけだ。その果樹園でも農業者の姿を見ることは無い。リュウガンの果実がたわわに実っているが収穫労働者は何処へいるのだろうか。不思議な農村風景である。1990年頃に広州、深圳、成都、昆明、西双版納と旅する機会があったがその頃の農村風景は全く見られない。中国は大きく変化しているようだ。高速道路脇には一定間隔で広告塔が立っている。高さ15mの柱の上に3m×5m程の表示パネルが乗っている。電化製品、薬剤、飲料水、ワイン、石材、茶等である。デザインが洗練されており、経済力の力強さが感じられるものばかりだ。この地の特産品であろうかワイン、石材、お茶の宣伝広告が最も多い。P16ワイン看板 - コピー時折、山手に石切り場が見えた。灰色の花崗岩の石切り場である。私の友人の造園業を営む丸喜緑化の喜屋武さんも福建省から石灯篭などの石材加工品を輸入していると話していたことを思い出した。もしかすると彼に作ってもらった自宅の庭の池に架けた2m程の花崗岩の石橋や沓脱石はこの地から持ち込まれているのかもしれない。 町はずれに新築或いは建築中の2階建ての小綺麗な民家が時々見られた。突然秦がその家を指差して言った。 「先輩、あの家には老人が住んでいます」 「ほう、この辺りには金持ちの老人が多いのだね」 秦が笑いながら言った。 「子供が日本に出稼ぎネ。密航して」 中国経済は中々多様性に富んでいるようだ。 P22老人宅 - コピー やがて右手の遠くに街並みとその先に広がる海が見えてきた。蓮はランクルの速度を落としてインターチェンジを右に降りて行った。インターチェンジの料金所近くの路肩の植え込みは、芝生、灌木、高木が整然と植栽されており管理も行き届いていた。500m程離れた丘の上に、馬に跨る武人の巨大な石像が立っていた。 p22-2アヒル池 - コピーアヒルの養殖池 泉州市の中心部を流れる橋を渡って右折して川下に向かって1kmほど進んで石橋の前で車を停めた。蓮はこの町で建築設計の仕事をしているらしい。僕らを降ろして一人で出かけた。銀行に用事があるらしく僕らに休憩しろとの事らしい。今日は金曜日で明日の週末は銀行が休みである。午前11時半となっていた。小腹の空く時間であるが辺りに雑貨店は無く、ただ大きな石像と川を横切る長い石橋があるだけだ。 秦が石橋の入り口の石碑を指差して、この洛陽橋は千年の歴史があると言った。石橋は幅4m程で僅かにカーブしながら800m先の対岸まで続いている。 P17千年表示 - コピー 一般車両の通行は禁止との表示がされていた。川岸の車道よりも低くなっており3段の階段が付いている。車の往来は出来ないがバイク通行は可能なようだ。親子連れのミニバイクがやってきて階段の前で二人の子供を降ろして親父が階段を苦も無く登った。一般道で再び子供を乗せて何処かへ去って行った。               P18橋 - コピーP19漁民 - コピー 橋脚の根元は舟形の台座となっており、船の切っ先が川の上流に向いて河川の流れを切るようになっている。船の艫はボートのようにストンと切られている。まるで上流に向かう小舟を浮き足場にして橋脚を乗せている形状だ。河川は大雨になると水切りが必要になるほどの急流と変わるのであろう。今は干潮時で辺りは干上がっており、水切り土台の効果を見ることは出来ない。むろん、川の中央部まで行けば水の流れが分かるだろうが暑いさなかに石橋を300mも歩く気にはなれない。石橋は何度も修復を繰り返したようで、路面の石を取り換えた跡がある。60cm角に8mの長さで新しい石が据えられていた。この地域で産出する花崗岩であろうか。花崗岩の角柱を組み木細工のようにして橋の路面を繋いでいた。干上がった川の岸辺では漁師が船の手入れをしていた。のどかな地方の漁村の風景である。橋の川下には広大なマングローブが広がっていた。白い花を着けた1m程の高さのメヒルギが主な樹林である。P20マングローブ - コピー 端の左手の休憩広場には数メートルの石像があった。石碑には蔡譲翁と記されその功績も書かれていた。未熟な私の漢字解読力によると、若くして官吏となり多くの治世と書物を記したらしい。また700里に及ぶ松の並木を作ったらしい。琉球王府の偉人祭温翁は此の福建省に学び中国名祭温を拝命して琉球に戻った宰相である。農林業に功績を残した偉人であり、祭温松と呼ばれる沖縄を縦断する街道の松並木は有名である。松並木は大戦の戦火や敗戦後の米軍基地整備でほとんどが消滅した。僅かに残った本島北部の松も日本本土復帰に伴う他府県から侵入したマツノザイセンチュウの被害をうけてほぼ消滅した。私はこの石碑の文章の中に祭温公の影を見た気がした。石像の横に小さな洗い場があり、地元の漁師が魚介類を捌いているようだ。洗い場の後ろの雑木の根元に甲イカの骨や貝殻が散らばっていた。備え付けの水道の古い真鍮の蛇口を捻ると冷たい水が勢いよく噴き出した。P21蔡譲 - コピー 1時間ほどで蓮が戻って来た。秦が蓮に代わってランクルを運転して再び高速に戻って福州市に向かった。 「レンさん、ノースリピング・エスタディ。チェンジドライバー」秦が言った。 「ドゥ・ユウ・ハブ・ライセンス」と問うと 「ノー、バット・ノーポリス・オーケー」笑った 中国も台湾も右側通行であり、交通量の多い台湾に比べて泉州の田舎の道のドライブは気楽なようだ。秦はケラケラと笑いながら次第に加速していった。蓮は秦の横で完全に寝入ったしまった。 「秦、ノースピード」仲里が秦の肩を叩いて言った。 「ダイジョウブ、ノープロブレム」笑いながら楽しそうにハンドルを握った。 私も仲里も台湾中央高速での秦のクレィジードライイブをよく知っているのだ。途中で高速道路高架橋のPCコンクリートを運ぶトレーラーがエンジントラブルを起こしたらしく、マフラーから白煙を吐きながらゆっくりと進んでいる。片側1車線となっている数キロの工事区間が交通渋滞となった。僕らは空腹を伴って次第にイライラしてきた。その時、秦は道路右側の道路建設用の仮設道路を見て右にハンドルを切った。そして砂塵を巻き上げて1km余りの渋滞を一気に抜き去った。僕らはシートを叩いて大笑いした。 「秦、ユーアー・グレイト」と秦を褒め上げてストレスと発散した。福州市に着いたのが空腹のピークを過ぎた午後2時であった。 福州市は関江という河川の河口に古くから栄えた町だ。琉球王府の中国交易の中継地でもあり、琉球人が移り住み中国文化を琉球に送り込んだ土地柄である。沖縄県の那覇市には福州市との交流を示す中国南部式庭園の福州園がある。 泉州よりも豊かな水量を湛えた川を渡って市内に入った。人通りの多い市中で車を停めて蓮が運転を代わった。市街地を抜けるまで10分ほどスコールとなった。街はしっとりとして人間の喧騒を洗い流してくれた。P23福州市 - コピー街角で30代の二人の女性を拾った。「マイフレンドの奥さん」と秦は説明した。車内が窮屈になった。背の高い細身の女性と背の低い美人の女性だ。高層ビル街を抜けてレストラン街の前で車を停めた。「オーケー・イーティング」と秦が言われて車から降りた。仲里と二人で背伸びをしてどちらからともなく「疲れた」とつぶやいた。この時間は昼食と夕食の間で何処のレストランもスタッフの休憩時間である。麺類を扱う小さな食堂に入ってみると親父が椅子を並べてその上で寝ていた。秦が親父を起して料理の相談をしていると蓮が厨房を覗いて戻って来た。そして手招きして僕らを外に追い出した。 「中が汚いからダメ」と秦が言った。 僕らは再び市中をさ迷った挙句、客家料理専門店に入った。その店は二階建ての立派な店であったが、やはり昼食と夕食の合間のスタッフの休憩時間のようであった。2階の個室を要求したがクーラーが故障中であり1階の大広間の奥に席を取った。大広間には4台の円卓があり、店のスタッフが昼食時の喧騒を終了した安堵感と脱力感を伴って休憩していた。僕らがやってきてもうつろに見ているだけである。今はただ、休息して再びやって来る夜の喧騒に備えているようでもあった。大広間と言っても客は僕らだけであり、周囲に遠慮する必要は無かった。壁には客家料理の写真が貼られており値段も付いている。安い物で200円、高い物でも1500円程度だ。大きなアヒルを丸ごと蒸したスープが最も高価であった。小ぶりのアヒル700円である。秦はあれこれと注文してビールの栓を抜いた。蓮は睡眠不足だと言って食事もそこそこに仮眠を取りに車に戻った。二人の女性は秦と親しいようで何のこだわりもなくビールの乾杯を繰り返した。二人とも秦の友人の奥さんと言うが詳細は分からない。背の高い女がしきりと乾杯を勧めた。 アサリに似た2枚貝の炒め物、 竹の子の炒め物 苦みのある葉野菜の炒め物。葉の裏側が紫色をしており沖縄のハンダマという野菜に似ている。皿に紫色の色素が染み出ていた。 川魚のフライ。厦門の田舎町で食べた種類と異なる。 鶏肉のスープ バリバリした細い焼きソーメン タロイモ澱粉のビーフン アヒルのスープ。アヒルが丸ごと入ったスープである。 最後にアヒルのスープの土鍋がぐつぐつと煮えたぎる音を立ててテーブルの中央に運び込まれた。蓋を取ると大きなアヒルが土鍋の中にすっぽりと浸かり、スープの中に香草がたっぷりと入っていた。アヒルの頭は尻の方に曲がって鍋の中に収まり、嘴を少し開いて目をしっかりと閉じて短い人生を儚んでいるかのようであった。しかしアヒルの滋養がたっぷりとしみ出した茶褐色スープは日々の生活に疲れた人間の為に存在しているかのようである。僕らは客家料理の特性スープを繰り返して飲んだ。しかしアヒルの肉を取り出して食べるには十分に満腹していた。しばらくすると再び同じ料理の小ぶりのアヒル料理が出て来た。僕らがキョトンとしていると秦は困った顔をしてテーブルに置くようにと指示して苦笑いした。女どもが「どうするのよ」と言ったように声を出したが、お前たちが持って帰ればよいと伝えたようだ。どこかでコミュニケーションの行き違いがあったらしくアヒル料理の大小を注文してしまい後で彼女たちのお土産になってしまった。秦の見栄っ張りは女性の前でははなはだ顕著である。結局、食べきれないほど注文してしまい閉口した。 店の中の壁掛けの小さなスピーカーから賑やかな音楽が流れ始めた。仲里が「ナイトタイムの始まりかな」と私に言った。夜のディナータイムの準備に入るようだ。時計を見ると午後4時を回っていた。かなり遅い昼食が終わった。仲里が「もう夕飯は要らないな」と言った。私も「全くだネ」と答えた。秦はというと、相変わらず上手い食事の取り方をしており、ビールをタイミングよく飲みながら料理は軽くつまんでいるだけだ。客に勧め上手な遊び人の典型である。2匹のアヒルをプラスチックのスープ用の容器に入れ、ビーフンやその他の料理を別の容器に詰めて女性に渡した。 外に出て街路樹のガジュマルの下で体を解した。長時間のドライブと食べるだけの行動では体の筋肉が膠着してしまい思考がおかしくなるのだ。背伸びをして体を解している私の横に信号待ちのバイクが止まった。学生風の青年が咥えタバコで生意気な顔をしてこちらを見た。何処の国でも大人になったばかりの青年はエネルギーを持て余し、無遠慮な視線を往来の人々に投げつけて虚勢を張って我が道を探しているようだ。 車で寝ていた蓮を起して僕らは客家料理店を後にした。女性たちは5分ほどで車を降りた。秦の話では今晩の泉州でのカラオケバーで合流する予定であったが、都合が付かなくなったようだ。僕らが福州市に来たのは彼女たちを誘う目的であったのだが頓挫したようだ。秦の行動に目的はあっても計画は無い。僕らは今日の行動は200㎞のドライブをして年増女と遅い昼食を取っただけの結果になったようだ。 午後5時、僕らは再び退屈なドライブで150km先の泉州市に向かった。交通量が増えだして途中で暗くなった。道路工事はライトをつけて続けられていた。軽装の作業員達がのんびりとエアコンプレッサーの削岩機で岩石を割り、それをトラックに積み込んでいた。中国大陸の人々の労働ペースは日本の労働環境とは異なる様だ。泉州市に着いた時には陽が落ちて市街地は既に夜の顔に変化していた。街角で二人の男を拾った。 「先輩、此処の海鮮料理は美味しいです。何を飲みますか。ビール、紹興酒?」 「海鮮料理なら白ワインだね」と仲里が言った。 「オーケー、今日は白ワイン」 「良かった、ワインならがぶ飲みはしないだろう」と仲里が沖縄弁でささやいた。 「そうだね、一気飲みは勘弁だよ」と私も沖縄弁で返事した。 15分ほど走って家並みが途切れた場所で車を停めた。蓮が何やら秦に話している。 「先輩、蓮さんここに大きなアパートを建てる。政府のオーケー貰った」 車のライトに照らされた先には作業小屋と小型のショベルカーがあり、その先に原野が広がっていた。あたりに明かりは全くなく周辺のロケイションは判断できなかった。ただ、潮の香りをわずかに含んだ穏やかな風が絶え間なく雑草を揺らしており、海岸からあまり離れていないような気がした。 車は再び走り出して街灯の無い古い家並みを縫うようにして進んだ。時折、民家の庭先のベンチに座って談笑する老人達の姿がライトに浮かんだ。民家の室内から漏れて来る薄明かりの下で夕涼みをしているようだ。この辺りは想像以上に電力事情が良くないようだ。対向車を避けながら海岸の防波堤の横を走る狭い道路しばらく進んで止まった。車が4,5台停まった古ぼけた2階建ての食堂である。街灯に照らされた道向かいの空き地にはたくさんの貝殻が捨てられていた。それこそ中型ダンプで何台もこぼしたような小さな盛土が点在していた。防波堤の方向から浜風に乗って潮の臭いが流れて来た。海藻の臭いでなく泥を含んだマングローブ特有の臭いである。市街地から遠く離れているようで辺りは完全な闇の中に沈んでおり、地元の人々だけが知る海辺の海鮮料理店のようだ。蓮が店と交渉して2階の個室に入った。この辺りのレストランでも個室はトイレを備えており、厦門の四つ星ホテルと同様である。日本と異なる感性だ。先ほど車に乗り込んで来た二人は泉州市の検察官の高さんと蓮の代わりをする運転手だ。さらに地元の警察官二人が同席した。右腕にギブスをした若い丸刈りの男は小柄であるが、精悍な顔つきと引き締まった体をしており、如何にも公安員という印象である。 台湾の料理店でよく出て来る摘みの焼きピーナッツがテーブルに載ると、運転手がビールの栓をポンポンと抜いて僕らのグラスに注いだ。自らは甘い烏龍茶だ。蓮さんの音頭で乾杯をすると料理が運ばれてきた。 「チェンジ・ホワイトワイン○○○○」秦が広東語で女店員に伝えた。 「仲村さん、今晩はワインだから一気飲みは無いね」と仲里が笑顔で言った。 しかし、女店員の代わりに男子の店員がワインをビールケースに入れて持ってきた。 「なんてこった。仲村さんお願いだから私の分も飲んでください」仲里が下を向いて言った。 「ワインの一気飲みは翌日頭に残るぜ」と私も顔をしかめた。 中国全土か南中国の習慣であるかわからないが、彼らには優雅なディナーという感染が欠落しているようだ。中国のカンフー時代劇の映画のシーンでは豪快に食らいかつ一気に酒を飲むのが習慣の如く描かれているが、あれは映画の世界ではなく来客をもてなす現実の習慣なのである。僕らは観念してこの習慣に従うしかなかった。 泉州市は普江川の河口に栄えた港町である。大きな河川に近い海は山から運ばれてきた自然の養分で魚介類の豊富な漁場を形成すると言われている。陸地の養分が海に流れ出て微生物を養い、微生物はカニ、貝、エビ、小魚を養う。そして海の食物連鎖は豊かな漁場をけいせいするである。海鮮料理店の食材は全て地元産とのことだ。P24海鮮料理 - コピー 最初に出てきたのは岩場に生息する人差し指の先程大きさの巻貝の空炊きした料理だ、爪楊枝でほじくり出して身を食べるのだ。話しながら食べるのに丁度よい。食前酒の摘みのようなものだ。メインディッシュが出来るまでの繋ぎでもある。 小エビの炒め物。オキアミほどの大きさのエビのピリ辛味付け炒めでビールに合う。 細長い二枚貝の炒め物。小指大の細長い白い貝が高温の油で炒められた新鮮な食味だ。 茹でたタコ。鶏卵程の大きさの茹でたタコは柔らく美味い。 茹でたイカ。15㎝程の小イカでタコ同様に美味い。 ハゼの煮付け。ムツゴロウに似たトビハゼの煮付けである。骨まで煮えており頭ごと食える。泥臭みは全く無い。 苦瓜炒め。沖縄のゴーヤーチャンプルーより水っぽい。沖縄のゴーヤーチャンプルーには及ばない。 アジの煮付け。手のひら大のアジの煮付け。唐辛子の効いた煮付けだ。 茹でた蟹。地元産のマングローブガサミを香草と共に茹でてある。握り拳大で新鮮だ。台湾で食べたインド産の蟹より数段美味い。 若い警察官同士が指ジャンケンで遊び始めた。P25中国ジャンケン - コピー地元の酒の座での遊びらしい。よく見ると沖縄でも古い時代に流行った遊びに似ている。海洋博公園近くの本部町備瀬集落の祭りの酒席で見たことがある。福建省から琉球に伝わった遊びであろうか。互いに片方の手の指を1本、3本、4本と出すと同時に双方の指の合計を交互に発声するのだ。合計が合った方の勝ちである。合計が合うまで連続して続けるのだが、指を出し発声する速さが次第に早くなり、声も大きくなって白熱してくる遊びだ。大声を出す割には勝敗が簡単に決まらない。やる側は興奮するも見る側はそれ程面白くもない遊びである。私はその遊びを見て言った。 「この遊びは複雑でさっぱり勝負がつかない。ジャンケンポンの方が簡単だ」 彼らが一斉に顔を上げてそれではジャンケンをしようと言い出した。ジャンケンは中国でもポピュラーなようだ。私が立ち上がって「レッツ・プレイ、秦」と秦を指差した。 「ジャンケンポン」秦の勝ちである。 「先輩、一気」とワインを指差した。私は一気にグラスを空にした。それを見て皆が立ち上がってジャンケンを始めた。勝った者同士、負けた者同士のオールラウンドでジャンケンを繰り返すのであるから僕らの部屋は騒々しくなった。 P26ジャンケンポン - コピー右から秦、蓮、一人置いて高さん 暫くすると地元の名士である高さんを訪ねて他の部屋から挨拶をしに来た者までジャンケンに加わった。この部屋のワインが空になってワインがどんどん追加された。僕らはなにが何だか解らなくなった。 気がつくと午後11時である。ワインを注ぐ係となった運転手の後ろに空き瓶がケースからあふれていた。アルコール分が低いのであろうか飲んだ割には酔いが回っていなかった。テーブルの上もイスの周りにも料理の残骸が散乱していた。私も仲里もいつの間にかこの地のテーブルマナーに染まってしまっていた。 「オーケー、先輩、ホテルに行きます」 仲里が「やっと眠ることが出来る。今日はありがたいね」と小さく呟いた。 暫く走るとホテルに着いた。秦がフロントからカードキーを受け取って僕らに渡してエレベーターに乗り込んだ。そして最上階の7階のボタンを押した。 「先輩、カラオケタイム、オーケー」とニヤリと笑った。 カラオケバーには数名の美人ホステスと蓮、運転手、若いギブスの警察官が待っていた。蓮が「ウエルカム」と言って若いホステスの横のシートを指差した。本日も歌えぬカラオケタイムの始まりである。秦、蓮、警察官が歌っているうちに仲里が日本の演歌を探し出してマイクを私に渡した。石原裕次郎の歌を2曲連続で歌ったが酔いの為に音程が何処かに吹き飛んでいた。それでも拍手喝さいであった。其処から私の脱線が始まった。 事の始まりは定かでないが、私は上半身裸で空手の形を演じることになった。剛柔流空手の形「転掌」と「クルルンファー」を演じて見せた。おぼつかない足さばきで何とか演じると蓮が立ち上がって地元の武道の形を演じて見せた。それが終わると蓮と約束組手のまねごとを始めた。すると警察官が加わって捕縛術に似た形を演じた。やがて僕ら3名は上半身裸で腕を組んで踊り出した。まるでコサックダンスさながらである。秦の歌うリズミカルな曲に乗り、ホステスも加わって舞踏会のように盛り上がった。泉州市の夜がゆっくりと更けていった。二日酔いの片頭痛のお土産を伴ってである。 毎日が不覚の連続であり、異郷の地に自らの居場所を見つけることなど出来ぬと承知で夜になると舞い上がってしまうのだ。私は人生のストレスの根源が何であるかを探り出せぬままに異郷の大地の回廊を歩き続けている。遠い日にモーリシャスの海辺のバンガローのウッドデッキに立ち、ココヤシの群生の遥か遠くのリーフの白波を眺めて、自らの心に巣くう異形を探そうと試みたが眩しい陽光が作り出す陽炎を見るだけであった。只、旅という非日常の世界に入り込み、人生の本質に繋がる扉を開けることもせず無秩序に真理の社の壁の周りを彷徨い続けているようだ。朝を迎える度にいたずらに胃薬を消費する旅を続けている気がした。既に持参した胃薬は半分に減っていた。

(6) 8月7日(土)

午前8時、シャワーを浴びて備え付けの鉄観音を飲みながらガラス越しに町並みを眺めた。整然と並んだ街路樹の下を地元の人々がせわしく歩いている。未だ明瞭にならぬ頭でそこに住む人々の営みを見ていると何の生産性も目的も持たぬ自分の時の浪費に少しばかりの恥ずかしさを覚えた。P27朝の泉州 - コピー 泉州市に入ると目に付く銀色の丸いタワー 午前9時、運転手がドアをノックして迎えに来た。言葉は通じないが朝食への誘いである。隣室の仲里に声を掛けて4階の食堂に降りて行った。何処のホテルでも朝食はバイキングである。私は朝食の定番となった粥に少しばかりの野菜の炒め物とゆで卵である。仲里はしっかりと朝食を取っている。日ごろから体を動かして働いている男は頑強な回復力を持っているようだ。秦が疲れた顔でやって来て少しばかりの朝食を取った。 「先輩、今日はローカルの観光です」 「オーケー」 僕らは着替えの入ったビニール袋を持ってロビーに降りて部屋のキーを秦に渡した。このホテルの精算は蓮がしてくれたようだ。昨夜の運転手と別れて蓮が車を運転してホテルを後にした。 午前10時、ホテルを後にして再び蓮さんのマンション建設予定地を見に行った。 其処は埋め立て地の湾岸道路に面した広々とした都市開発計画地の一角であった。未だ大型建築工事は始まっておらず数年後の新興都市の予定らしい。既にパイル打ちが始まっている場所も幾つかあって活気が一気に噴出する予感が漂っていた。 蓮は事務所に戻り、新しい運転手と現地ガイドの男を乗せた。後部座席が窮屈になった。湾岸道路は片側1車線であるが幅広い植栽スペースを設けてあり、都市開発の進行に伴って片側2車線に増幅できるようになっていた。植栽マスの中のアラマンダの黄色い花を咲かせていた。開発と景観作りが並行してなされておりこの国の経済力が着実に伸びているのを感じた。 30分ほど走って海岸近くの集落に入った。道路の突き当りの公園に車を停めた。宗武古城風景公園と表示されていた。入園料と観覧車の代金を払って公園の中に入った。P28石像公園 - コピーこの地区の民族衣装を着た女性運転手が観覧車を運転して園内を回った。チャイニーズハットにカラフルなスカーフとスカートである。P29観覧車ガイド - コピー この地域は福建省のなかでも独特な服装をした民族が暮らしていると秦が説明した。尤も若い世代は既にこのローカル衣装を着用しないらしい。情報化の時代の若い世代のファッション感覚を虜にする衣装ではないのだろう。この地は花崗岩の産地であり公園内には様々な動物や人物の石像が立っていて面白い景観を構成している。海上の岩石までも亀の形に彫り込まれている。西遊記の三蔵法師一行の石像も海岸の岩場に立っている。海岸は海水浴場へと続いている。この海の向こうは幻の琉球王国だろうか。P30亀 - コピー 公園を後にしてこの地域の未だ開発の進んでいない町に入った。町の店先には先ほどの公園の観覧者の運転手のユニフォームより少しだけ地味なローカルの衣装をまとった女性がごく普通にいた。男性は何らの特徴もない地味な服装であるが女性はカラフルな衣装で働いている。何処か異国の文化の影響を受けているのだろうか。只、ローカル衣装の女性は全て中高年であり、若くてこの衣装を引き立てる程の美女に出会うことが無かったのは残念である。p31ローカル市 - コピーp32民族衣装の母子 古い集落を抜けて海岸道路を走った。通りでは若い男が往来の車に駆け寄って刀剣に似た土産を売っている。観光客の姿の見えないこの辺りの情景に似合わぬ男の行動である。時折理解できない光景が中国には出現する。牡蠣の殻が3mの高さに野積された捨て場の横の悪路を抜けて護岸沿いの養殖場の管理道路走った。水面にカキ養殖のブイが延々と続いている。p34カキ養殖水深はそれ程深く無いようだ。この辺りも干拓事業が進むだろうと秦が説明した。蓮のマンション建設予定地は対岸にあると指差した。途中に牡蠣専門のレストランがあったが閉店日らしくゲートが閉まっていた。僕らは牡蠣の産地の恩恵を受けずにこの地を去ることになった。 午前11時40分、現地ガイドを降ろして厦門に向かった。道路脇には石材店が数多く並んでいる。烏龍茶を専門とするお茶屋もある。泉州市は石材と茶とワインの産地である。高速料金所の入り口の路肩で車を停めて秦と運転手がダッシュボードからナンバープレートを取り出して針金で取り付け始めた。料金所の中から警察官らしき男が出てきて運転手に質問した。昨日の書類を見せると立ち去った。料金所の制服を着たスタッフが右上の建物から金庫に似た箱を抱えて降りてきて料金所の中のスタッフと交代した。時計を見ると12時である。小腹が空いてきた。厦門まで75㎞の距離である。昼飯は午後1時過ぎだろう。私はポケットからのど飴を取り出して一粒を仲里に渡した。少しばかりの腹の足しになるだろう。p33石像販売所高速道路を南下して厦門に向かった。秦は運転せず助手席で眠り始めた。帰りの景色は単調であったが偶然にも中国高速鉄道車両とすれ違った。通過場所によるのかもしれないが日本や台湾の新幹線よりも高速では無かった。退屈なドライブで仮眠を取っているうちに厦門島の対岸に着いた。目の前に新築の駅が現れた。紫禁城のような威風堂々の建築物である。この程度の鉄道にお城に似た駅の建物が必要であろうかと仲里が呆れ顔で呟いた。私も同感であったが中国の鉄軌道の発展を予測しての構築物であるのか、あるいは中国政府特有の権力誇示政策の一環であるのかは不明であった。私は後者であろうと思った。 工事中の高速道路のインターチェンジは幾重にも複雑に絡み合い、運転手は2度も方向を変えてやっと厦門島の西の橋に繋がる道路に降りて行った。このインターチェンジはどれほどの物流を予測して建設しているのだろうか。 橋を渡って厦門の市街地に入ったのが午後1時過ぎである。ホテルで2度目のチェックインを済ませた後、秦のメル友の肥った女性を伴って昼食に向かった。色白で丸顔に眼鏡をかけ黒いドレス姿ではにかんだ笑顔の彼女は昨日の福州市の二人の女性よりもはるかに上品だ。きれいな発音の英語を話し控えめな態度にも好感を覚えた。コミュニケーションが取れると自然とチャームポイントが見つかるものである。街角の海鮮料理店の前に車を停めた。大きなギランイヌビワの樹冠が穏やかな影を作って昼間の暑さを和らげている。見上げると何かがぶら下がっている。よく見ると下着やらタオルやらだ。店の3階以上がアパートになっているらしく洗濯物が風で飛ばされてきたようだ。発展途上の街の   雑居空間の象徴であろうか。 p36魚種類p35貝の種類

店先には蟹、エビ、貝、魚の囲み水槽があり、エアーポンプで生きたまま展示されていた。活魚の他に氷の上に並べられた魚もあるが、日本の魚屋の店先に見られる大きなタイ、ヒラメ、カツオ等大型魚は無く、手の平より少し大きなサイズが最大である。随分前になるが広州市で2kg近い淡水魚の餡かけを食べたことはある。しかし福建省での3日間では大型魚を食べていない。小型魚の方が味の浸透が良く福建省の料理の基本であるかもしれない。 「先輩、何食べますか」 「このエビはどうだ」と元気に泳ぎ回っているシャコを指差すと 「これ美味しくない」と言ってその隣の囲みの中のエビを注文した。その他にも貝類と魚を注文して2階の個室に入った。 1階の鮮魚店に似合わず、いくつもの円卓が並ぶかなり大きなレストランだ。1階の3店舗分を賄っているようだ。1階は肉や野菜の店舗が並列してあったのを思い出した。この時間帯はランチタイムとディナータイムの中間である。ウエイターたちが僕らの個室の横から丸テーブルを転がして夜の宴会の準備を始めている。夜の喧騒までは十分な時間があるのでのんびりと働いている。 僕らはピーナッツを摘まんでビールを飲んだがあまり美味いとは思わなかった。酒浸りの日々が続いてビールを美味いと思う程の良い汗をかいていない証拠である。 巻貝の油炒め。殻が透明なカタツムリに似た小指の先の大きさの巻貝だ。手に取って口で軽く吸うと中身が出て来る。味は確かに海の貝である。一つ、二つと口にしてはビールを飲む。 秦と仲里と私の3名での一気飲みはない。正しいビールの飲み方だ。酒は自分のペースで飲むにかぎる。運転手は甘い烏龍茶だ。飲酒運転はご法度のようだ。 茹でたエビ。この地方の定番で確かに美味い。 二枚貝の油炒め。割りばしほどの太さで3㎝程の長さだ。強火で揚げたせいか中身が外に飛び出している。2,3個摘まんで身を吸い出す。マングローブの泥の中に棲む貝であろうが上手く処理さていて泥臭さが全く無い。 魚の煮付け。手のひらより小さなアジに似た魚だが魚種は解らない。甘辛く煮付けてある。美味いが辛みが後からやって来る。私には少し辛すぎる。 豚足の煮付け。豚の足を煮詰めて醬油味で仕上げている。油が抜けて軟骨がトロリとしている。2年ほど前にバンコクのドイツ村でドイツ料理と称する豚足の油揚げを食べたが、今日の豚骨は比較にならぬ程美味い。琉球料理の足テビチよりも濃厚な味だ。ビールより泡盛の様な強い酒に合うだろう。 イカとセロリの炒め物。ぶつ切りの小イカとセロリを強火で炒めてある。セロリの緑色が食欲をそそる。あっさり味だ。 エンサイの炒め物。この辺りの野菜炒めはパクチョイでなくエンサイだ。火加減とだし汁の味付けが抜群だ。エンサイは火が通らぬと青臭くて不味くなるので火を通しすぎる料理が多い。この店の料理はエンサイの茎のパリパリ感を楽しめる。 午後2時30分、いつもより軽めの食事を済ませて店を出た。 「先輩200元です。安いね」と秦が言った。日本円で3,000円だ。五名で飲んで食べての料金である。女は運転手がホテルに送って行った。 「先輩、今日は暑い、少し休んで夕方に観光しましょう。足マッサージ、オーケー」 「ベーリグッド」仲里が即座に応えた。 店から少し歩いて本通りでタクシーを拾った。マッサージ店は3階建てのカラオケやらバーやらの入った雑居ビルの2階にあった。入口で秦が案内嬢に金を払った、料金表に90分・・70元、3時間・・110元等中国語で色々と表示されていた。中央のエスカレーターを登っていくとピンクの超ミニスカートの案内嬢が「ニーハオ」と笑顔で出迎えた。秦が何かを話すと部屋の案内嬢に引き継いだ。美形でスタイルの良いニーハオ嬢はマスコットガールのようだ。一人用から4人用までの区切りとなっていて入口に収容人数が記載されたパネルが掛かっていた。近くの部屋の前にフラスコに似たガラス容器がバケツに積み込まれていた。沖縄でも見かける針灸マッサージの吸い出し器具である。 僕らは4人部屋に入った。横1列に並んだリクライニングシートに座って待った。係りの男性店員が20リットルほどの木製の桶を重そうに運んできてそれぞれの足元に置いた。桶の中のビニール袋に液体が入っていた。水ではなく褐色であり何か薬草の煮汁の様である。二十歳位の若いマッサージ嬢が3名やって来た。私の前に小太りの眼鏡の女性が小さな椅子に腰を下ろした。そして靴と靴下を脱がしてズボンの裾をまくり上げて両足を桶の中に入れた。熱めの湯である。 マッサージ譲はシートの横にやってきて頭、肩、腕、背中、太もも、指先とゆっくりと揉み解していった。僕らは缶ビールを飲みながらダランとしてされるままになっていた。体のマッサージが終わると足元に座った。お湯で足がふやけるのを待っていたようだ。桶から片足を取り出して足枕の上に置いて足マッサージを始めた。香油を何度も塗って足の甲も足裏も丁寧に揉み解していく。木製のスティックで足の裏を押して刺激していくのだが、時折ツボにハマるのか痛みが走る。「アガ、アガ、ヨーンナシーヨ」(痛い、痛い、ゆっくりとして)と仲里と私が沖縄方言で交互に叫ぶと女どもが大声で笑った。秦もつられて笑った。 秦のメル友を送った運転手が戻ってきて秦の横でマッサージを受け始めた。薄暗い部屋の中に4人で寝そべってマッサージタイムである。運転手は寡黙な男で咥えタバコで人懐っこい笑顔を見せる。蓮の会社の職員が週末の時間を手伝っているのだろう。ちなみに私はマッサージなるものをあまり好まないし、肩こりに無縁である。肩が凝るのはバーベルシュラッグで僧帽筋を鍛えた後の筋肉痛だけだ。 運転手のマッサージ嬢が突然「ギャッ」と奇声をあげた。何事と右側を見ると女が運転手の腿を叩いてダダをこねている。秦が笑いながら言った。 「彼女の飲んでいる烏龍茶の缶にあいつがタバコの吸い殻を入れ、それを知らずに彼女が飲んでしまったのさ」 僕らも他のマッサージ嬢も大笑いになった。 1時間余り過ぎた頃、彼女たちは休憩に立って行った。私は枕もとの2本目の缶ビールを飲みながらぼんやりとしていた。 「先輩、夕食まであまり時間がない。観光は中止、オーケー」 「オーケー」正直なところ今朝の石像観光で十分な気がしていた。 「マッサージ3時間」秦はそう言ってスリッパをつっかけて部屋の外に出て行った。 「観光はどうでもいいよ。少し休みたい」仲里がつぶやいた。 暫くして秦が弁当らしき包みを抱えて戻って来た。そして再びやって来た女たちに渡した。仲里の横のマッサージ用具を置くテーブルの後ろに隠れるように弁当にむしゃぶりついた。まるで朝から飯も食わずに働き続けてきたかのような仕草が奇異に映った。 再びマッサージが始まった。足から始まってふくらはぎ、太腿、臀部、背筋、肩、頭へとゆっくりと進んでいった。 マッサージは5時半に終了した。秦が靴下を履きながら言った。 「先輩、take out lady ok,大丈夫」 「no need tonight」私は秦の本音ともつかぬ言葉に笑いながら答えて靴下を履いた。 立ち上がると体も足がとても軽くなっている。3時間のマッサージはそれなりに効果があるようだ。マッサージ譲たちが屈託のない笑い声をあげながら部屋を出て行った。僕らはマッサージ店のキャンペーンガールに見送られてエスカレーターを降りて行った。 雑居ビルを出てランクルで夕食の会場に向かった。宿泊ホテルと異なるホテルに着いた。このホテルにも茶房があり、茶坊主が来客をもてなしていた。古木の根に彫り込まれた虎の彫刻に感心していると林がやってきて僕らを2階の個室に案内した。シャーマンホテルと同じ大きさの部屋でトイレと洗面化粧台を備えていた。室内のインテリアも落ち着いた造りである。しばらくして劉さんと蓮署長がやって来た。今日は劉さんと蓮署長が上座である。その隣に秦とメル友だ。僕らは主賓から離れて下座に就いた。上座に近いと乾杯の催促に合うのを警戒したのだ。蓮署長の部下が2本の大瓶のワインを持ってやって来た。先日の二人だ。厦門警察署の幹部なのであろう。 「今日は10リットルボトルのフランスワインを飲もう」と蓮署長が宴席の座を仕切った不思議な笑みを浮かべて言った。 「エッ、これを全部乾杯するの」仲里が小声で言った。 林がコルクの栓を抜くとまたもや苦戦してコルクのカスを瓶の中に落としてしまった。劉さんがそれを指差して大笑いして何かを言った。給仕が差し出したステンレスの水差しにワインを移し替えて皆のワイングラスに注いで回った。私はワインソムリエの真似をしてワイングラスを手に取ってゆっくりと回した。そしてグラスを顔に近づけて香りを嗅ぐ仕草をした。ワインは高級な逸品らしく芳醇な赤ワインの香がした。昨夜の泉州市のジャンケンポンの一気飲み白ワインとは物が違う正真正銘の上物のフランスワインである。私は大きく頷いてグラスをテーブルに置き、蓮署長と劉さんの方を見て親指を立てた。そして一言「Good」と言った。蓮署長が満足そうに頷いた。 蓮署長の乾杯の音頭で宴会が始まった。当然のごとくワインを一気に飲み干した。確かに一気飲みには勿体無い本当に美味い赤ワインであった。この日もホテルの定番の上品な中華料理であった。それでもメインディッシュに一抱えもある大きな伊勢海老が出たのには驚いた。「オオー、グレイト」と私が言うと劉さんが英語で私に尋ねた。 「ミスター、ナカムラ、沖縄にもエビはいるかな」 「もちろん、エビは沢山いますよ」そう言うと劉さんの顔がすこしひきつった。私はそれを確認してからおもむろに答えた。 「沖縄のエビはこれくらいだ」と両手を20cmほど広げて示した。そしてさらに付け加えて言った。 「沖縄のエビがこのサイズになるには100年はかかるな」と肩をすぼめて言った。 劉さんが満足げな表情に変わり豪快に笑った。そして「食べてくれ」給仕を呼んで身を取り分けさせた。私のささやかな接遇が彼を満足させたようだ。 少し遅れて蓮署長の弟が運転手と共にやって来た。大阪城に似た高速鉄道駅で迎え来たようだ。私の隣に座ったのでワインを勧めると少しだけ飲んでしかめ面をしてグラスを置いた。昨夜の酒がまだ残っているようだ。会話が少し落ち着くと蓮は兄の蓮署長にカラー刷りのアパートの鳥瞰図を見せて何やら意見を求めている。署長はその図面を見て不満げに小言を言っている。この計画が気に入らないような雰囲気である。蓮が黙っていると劉さんが図面を見ながらアドバイスしている。蓮は神妙に聞いていたが、蓮署長が何やら図面を指差して穏やかな表情で蓮に話してから図面を返した。少しばかり図面を引き直して完成ということらしかった。蓮は図面をケースに戻してホッとした表情で席に戻って来た。アパートの実質的なオーナーは蓮署長のようだ。宴席は再び騒々しくなった。 林が私に向かって言った。 「仲村、昨日はジャンケンとカラオケとタイ式ボクシングで騒いだそうだな」 「エッ、もう知っているの」 「俺は何でも知っている、君のパスポートの情報もな。俺はホテルのマネージャーでもあるのだ」 「そりゃないぜ」と私が言うと、林は立ち上がってジャンケンポンを促した。 僕らは立ち上がって誰彼となくジャンケンポンで一気飲みを重ねた。蓮署長がニコニコとその様子を見ている。このホテルの別の部屋で警察関係の宴会があるらしく二人の部下は既に席を立っている。蓮署長はこの宴席が気に入っているらしくホテルの給仕が2度、3度と呼びに来てやっと席を立って予定の宴席に移って行った。部屋の入口のサイドテーブルには2本の空のワインの大瓶が乗っていた。 蓮署長が出てしばらくして台湾の蘭業者という二組の男女がやって来た。秦の話では60代のオヤジと30代の息子の夫婦連れらしい。親父の妻らしき女は息子やその嫁より若い。「おい、親父の女は随分と若いな」と秦に問うと秦が笑って答えた。 「ワイフが死んで若い女を妻に迎えたのさ」 「息子よりも若いみたいだな」 「そうだ、夜が大変だろうな」秦が笑いながら言った。秦はその若妻と親しいのかしきりとからかうような様子で声を掛けていた。広東語で何を言っているか知らぬが女はうるさいと言うような表情で口をとがらして反論しながら乾杯を重ねていた。親父はあまり飲まないようだ。息子は名刺を手に挨拶周りをしている。後妻より随分と年上に見えた。息子の妻は食事に夢中だ。 台湾の客が合流した頃からワインを飲みつくしてビールに代わっていた。厦門の長い夜が永遠に続く気がした。

(7)8月8日(日)

午前7時半、朝のシャワーを浴びると頭が少しずつ明瞭になり、昨夜のことを思い出した。確か秦が帰りの日程を1日遅らせると話しており、既に台湾行の便を月曜日に変更したと話していた気がする。沖縄記念公園の植物課の依頼で桜の木の調査をすると言っていた。秦に出来る調査がどうか知らぬが手伝ってやらねばなるまいと思っていた。延泊して困る仕事上の事情もないことだから。 午前8時過ぎに1階のレストランで朝粥を食べていると秦がやってきて言った。 「先輩、桜の調査ダメ。日曜日は公園の事務所休み。ノースタッフ」 「で、今日のスケジュールは」 「トゥデイ、ゴーバック」 「オーケー」 結局のところ、桜の木を調査する予定の公園が休園日のため、公園のスタッフに会えないとのことだ。日曜日が休みの公園は日本では珍しいがこの国ではそうなっているようだ。私は内心ホッとしていた。疲れが少しずつ溜まり始めていたのだ。仲里が食事に降りて来たのでそのことを話した。 「良かった」とホッとした顔で答えた。彼も疲れてきていたのだろう。 「オーケー、9時30分ロビー」と言って運転手と何かを話し始めた。 私は運転手に声を掛けて昨日トランクに放り込んでいた着替えを取り出して部屋に戻った。p37ファレ仕立て ホテル内の飾花:コチョウランの仕立て方が日本と異なる。ステムが横向きで日本の様に下垂仕立てでない。 荷物を持ってロビーに降りると林と秦がチェックアウトをしていた。3日分の宿泊代は取引相手のシャーマンカンパニーの植物部門が負担してくれた。しばらくソファーで待っていると蓮がお土産の鉄観音茶を持ってやって来た。僕らは抱き合って肩を叩いて別れを惜しんだ。蓮は運転手付きのランクルで泉州に帰って行った。チェックアウトを済ませた林がやはり鉄観音茶のお土産をくれた。 「先輩、これ値段高いよ」と秦が笑いながら言った。 「秦、10時だぜ、フライトは11時だ」 「ダイジョウブ、エアポート近い、5分」 結局10時30分に林の車でホテルを出た。確かに5分で空港に着いた。私は林と抱き合って別れを惜しんだ。離れ際に林が私の右胸を指先で突いて来たので大胸筋をキュッと硬くした。林は驚いた顔で笑った。私はいつの間にか彼らの間で武道家としてのうわさが立っているのかも知れない。何だか気恥ずかしく思ったが旅先の酒の席での噂で捨て置こうと思った。遥か彼方の沖縄の田舎町の道場の館長や道場仲間に迷惑が掛かるわけでもないだろうしと思った。 秦との旅行は慌ただしさと退屈な時間の浪費の混在したものである。日本人の時間に関する感覚との誤差が大きいのだ。この日も登場10分前に手荷物を預けて列に並んだ。秦はVIPルームのチケットを1枚渡して「先輩、チョット休憩して下さい」と渡した。旅行好きの彼はチャイナエアラインのマイルサービスでVIPルームの利用チケットを入手しているようだ。秦は一人で洒落た行為をすることが得意ではないようだ。彼は品位よりも猥雑な喧騒が好きな男の典型である。私は旅行メモを書きながらオレンジジュースを飲んでいたが、空港スタッフの女性が搭乗者の呼び出しにやって来た。私は10分も休まぬうちにVIPルームを出た。これまで桃園とクワラルンプルの国際空港でon timeの時間を間違えて搭乗者の呼び出しを受けたことがある。機内でイライラして待っていた乗客から白い目で見つめられる中を席に着くのはとても気恥ずかしいものである。チケットを手に既に短くなった登場者の列の最後尾に並んだ。秦はチラリと私を見て言った。 「先輩、まだ大丈夫だよ」確かにまだ大丈夫だが、5分後には間違いなく館内放送で呼び出される状況だ。秦にとっては呼び出されることなどさしたることも無い。飛行機は乗客を置いてきぼりにしないことを理解しているのである。機内アテンダントのクレームなど酒場のホステスの小言程度にしか思わない男なのだから。未だサラリーマンの経験が無く、台湾国軍の高名な上級将校の故人を父にもつ賃貸ビルのオーナーにとって日本人的な時間の概念など生活の中に存在しないのだ。 チャイナエアラインは定刻通りに厦門空港を飛び立った。おそろいの制服を着た小学校高学年らしい団体旅行生が機内で騒いでいた。中国の富裕層の子供たちであろうか、あどけない顔の中に旅立ちの興奮が見て取れた。子供の発する無邪気なエネルギーは何処の国でも同じだ。 台風17号が近づいているらしく機体が少し揺れた。その度に子供たちが楽しそうに笑って騒いだ。飛行機の揺れを気にするのは大人だけだ。飛行機は桃園国際空港の滑走路に向かって降下しながら着陸態勢に入りガタンと車輪を出した。そして車輪が滑走路に一度接地した後に再びエンジンの回転を上げて上昇した。乗客の大人が一斉にどよめいた。飛行機は20分ほど桃園の上空を旋回した。台風の影響による着陸のやり直しである。2度目はごく普通にランディングした。飛行機は離陸よりも着陸に弱いようだ。エンジンの出力を落として滑空しながら着陸する際の横風に弱いようだ。 秦とは第1ターミナルの乗り継ぎカウンターの前で別れた。彼との別れは何の惜別感も無い。無表情で片手をあげてムービングウォークの上を移動していくだけだ。まるで一日の仕事を終えた社員同士がそれぞれの自宅に向う駅のホームで「またな」と別れの合図をする程度である。4日間の夜の狂騒曲を演奏した跡など微塵も感じさせない。 僕らは乗り継ぎカウンターでCI-122のチケットを交換し、第2ターミナルまでの長い通路を移動した。途中で少しばかりの土産を買い、軽食のサンドイッチで昼食を済ませた。そして搭乗までの3時間を未だ乗客の少ない登場待合室で仮眠を取って過ごした。 4時10分、台湾人、日本人、アメリカ人の混ざった旅客共に台湾を飛び立った。機内では日本語が飛び交うようになり、沖縄が近くなったのを知った。定刻通り日本時間の午後6時30分に那覇空港に到着した。仲里はいつもの様に奥さんが迎えに来ていた。 「お疲れ様」と奥さんが言った。 「少し疲れましたね」と私が答えると 「秦と旅行するといつも疲れるよ。仲村さんがいて良かったよ」と仲里が笑いながら疲れた声で応えて奥さんと二人で出て行った。私は職員に電話して空港内の自社契約駐車場に止めてあった車を届けさせた。社員にお土産のチョコレートを1箱渡して帰路に就いた。 午後7時、夕暮れの那覇市内は日曜日とあって交通混雑も無く、私はゆっくりと那覇空港自動車道を北上した。高架橋の上から左手に夕日に染まった那覇の市街地が見えた。既に私の頭からは厦門の夜の舞踏会で狂騒曲に踊らされた不思議な旅の感覚が消えて、明日から淡々と続く退屈な日常の予感が占めていた。只、喉の痛みだけが今週の無節操な旅の余韻を残すだけであった。 追記 9月に入りヨーキンからメールが入った。ノボタンの増殖が上手くいかないとのことであった。結局ノボタンは諦めることにしてコチョウランの1.7”ポット苗の2,000鉢を導入することにした。この旅の宿代・飯代の返礼である。いわゆる一宿一飯の仁義としての付き合いだ。しかしシャーマン・カンパニーとの付き合いは次第に希薄になって行った。旅の後に台湾国際蘭展示会を訪れた際に、秦の車で劉さんとベトナムの女性蘭業者と共に阿里山に登り、終日を愉快に過ごしたのを最後に関係が途絶えた。変わらないのは秦との奇妙な交友関係である。

2017年10月29日 | カテゴリー : 旅日誌 | 投稿者 : nakamura

ウサギは満月の夜に跳ねる

     (一)

 立秋とは名ばかりで、相変わらず猛暑が続いている。お昼のニュースでは、昨日埼玉県熊谷市で最高気温38度を記録したらしく、熱中症予防が全国ネットで流れている。本日の名護市の最高温度は33度の予報だ。沖縄は東シナ海に点在する島々からなり、風の通り抜けが良く、内陸地的な蒸し暑さはない。しかし真夏の太陽は凄まじい紫外線を放出して、地表面でうごめく生命体を焼き焦がす勢いだ。既に海も陸も十分に過熱されている。旧盆の祭事はこの頃にやって来るのだ。

沖縄の三大祭事は正月、清明祭、旧盆だろう。正月には本家に集まって一族の開祖に祈願する神御願、初夏には分家の一族がそれぞれの墓に集まって祈願する清明祭、そして初秋には仏壇に先祖の霊を迎えて祝う旧盆がある。これらの祭事は血族の絆を保つための古くからの慣習しだ。三大祭事の他にウマチー、アブシバレー、豊年祭等、生活に密着した地域祭事もあるが、既に途絶えた祭事も少なくない。都市化の進展はコミュニティの形態を変化させ、利便性と言う名の新しい神器によって、地域の神々と住民とを繋いでいた穏やかで情緒に満ちた暮らしをも風化させていくようだ

 さて、旧盆の作業は、七夕の日に墓掃除を行うことから始まる。私も昼間の強い日差しを避けて午後3時頃から墓掃除を始めた。草刈機で墓の周りの雑草を刈り払い、墓の庭に溜まった落ち葉を掃き取るのだ。密生したチガヤの刈り払いは難儀な作業であるが、根茎が赤土をしっかりと掴んでくれるので土砂の流出を防いでくれる。この辺りの地形は、地質学的に見ると屋部川の周辺に広がる湿原の一部である。集落の形成に伴い水田地帯となり、集落の後背地の農耕に適さない雑木の繁る丘陵が墓地となったのだろう。集落からそう遠くない場所に自然発生的に形成された場所で現在は公有地となっている。それ故、人口の増加と共に墓も必然的に増えてしまい、現在この丘陵地に墓敷地を求めることはできない。都市に流入した多くの住民は、新しい墓を民間の墓地公園に求め、あるいは臨済宗やら日蓮宗等の他府県から布教した寺に永代供養を依頼することも増えている。辛いことだが、人間は己の身の始末を誰かに委ねるという宿命を背負って世に生まれて来る。この宿命は血族によって完結されるのだ。血族の絆の原点がそこ存在する。

 それにしても真夏の墓地は暑い。かつて、先人が湿原を開いてできた水田は、青々とした二期作米の緑地を育て、稲田を渡って来る真夏の風を冷やして穏やかな涼風をもたらしていた。しかし、今では秋茜の如く無作法に流入した人々によって、水田は食い散らかされてしまい、半世紀も経ずに消えてしまった。顔の無い人々の発する喧騒は、彼らの暮らす無機質な構造物に反射してすべての空間を過熱している。もはやこの地に点在して残った僅かな墓地や拝所の森に涼風が届くことは無い。

 七夕の墓掃除の次に、13日の午後に仏壇を掃除して花や果物を供え、ご先祖を迎えるウンケー(お迎え)の行事をとり行う。果物はバナナの上にミカン、リンゴ、ブドウ等を載せる。バナナを手の平に見立てて果物を載せる形だ。スイカとパイナップルを脇に置き、サトウキビを仏壇の両サイドに立て掛ける。サトウキビは80㎝程の長さで、ご先祖様がお帰りの際に使う杖の意味らしい。以前は山野の果実であるサルナシの実、グァバの実、ヒメユズリハの実を採取して供えた記憶がある。夕暮れにウンケージューシィ(沖縄風炊き込みご飯)を供えてご先祖のお迎えをする。仏壇のお供え物は、全てスーパーマーケットで調達できるのも時代の利便性のおかげだろう。

中日の14日には、3食の他におやつのアマ菓子(ゼンザイ)供える。夕食にはソーメンの汁物を供えるのが定番だ。そして、午後から中元の品を携えて直近の親戚に線香を上げに行くのが一般的である。私の場合は、妻の実家、母の実家、父の弟である叔父の仏前、それに本家である。本家へは脚力が衰えてしまった93歳の父の名代として行くのだ。

本家の屋号はハサマと呼ばれる。琉球の三山を統一した尚巴志の五男尚泰久王の次男から6代目の分家筋を始祖とする。そして今から約300年前に王府から名護間切り(現在の名護市)に派遣された豪族らしい。私の実家の屋号はマガイハサマグァー(曲がり角にあるハサマ小)と呼ばれている。分家筋にはグァー()と言う呼び名が付くのがこの辺りに習わしのだ。本家の頭領である叔父によると、私の実家は4代前に分家した頃、本家から二つの通りを隔てた曲がり角の土地を分け与え、一家を構えさせたことからその呼び名が付いたとのことだ。私の一族は父の代まで宏の名がついている。宏友、宏春、宏正、宏秀等だ。一代目はコウと読み二代目はヒロと読む呼び名を繰り返すのだ。必然的に同じ名前が世代を超えて名付けられる。沖縄県内ではよく見られる命名様式だ

 本家の仏前に線香をあげ、出された冷たいゴーヤージュースを飲みほした。

「ご馳走さま、適度な苦みがあってさっぱりしています。暑い夏には嬉しい飲み物ですね」とお礼を言うと、頭領の叔父が言った。

「今年は7年巡りの年に当たるので心得ていてくれ。涼しくなる10月頃に予定するから」

「ついこの間、ヘーカタマーイ(南部巡り)したと思いましたが、もう6年が経ちましたか」

「うん、月日が経つのは早いものだ。僕が老いてしまうのも仕方ないな。ところで満君は元気かな」

「はい、義父は毎日元気にウォーキング出かけ、時折老人会のグランドゴルフを楽しんでいるようです。」

「そうか、元気で何よりだ。僕らは三中学徒兵として徴兵され、本部町の八重岳周辺の山中でずいぶん苦労したよ。多くの学友が戦死した中で、自分たちが生き残ったのが不思議だよ」

義父は叔父より1歳年下で戦前の旧制沖縄県立第三中学(現名護高校)の同窓生である。大戦後の混乱の時代に叔父は産婦人科医、義父は沖縄県警察の警視となって一家を養ってきた。異なる人生の航路を歩み既に現役を退いている。70年後の現在でも互いの近況を案じる朋友である。私も旧制三中(現在は名護高校)の出身であるが、彼らの様な同窓生の強い絆は無い。最近届いた25期生同窓会の案内ハガキを見ても卒業時の同級生の顔を多くは思い出せない。

 叔父の弁では、「自分たちは第一尚氏に由来する一族である。私には頭領として一族を束ねて先祖の足跡を訪ね、子孫の繁栄を祈願する務めがある」。この行事がいつの頃から始まったか定かでないが、自動車の無い時代に米・味噌等の食料を携え、徒歩で数日間の参拝旅行をした記録がある。相当古くから続いているようだ。叔父は人口の多い那覇市で開業したこともあり、実家の祭事に積極的に関わらなかった負い目があるようだ。両親の死後は自費で大型バスをチャーターして、先代の残した資料を基に拝所巡りを企画している。人は老いてくると先祖の事がことさら気になるようだ。自分のルーツが気になるのは人としての根源的な性分であろうか。ただ、私の子や孫の代までその慣習が現状の形で残るかは定かでない。

 最終日の15日がウークイ(見送り)である。夕暮れには仏間のテーブルにお重、餅、菓子、オードブルを並べて儀式の準備を整えた。日が落ちてから叔母と叔父がやってきた。今年のウークイのメンバーは私の娘と妹の息子を加えた7名である。以前は襖を外した6畳の3部屋に20数名の一族が集っていたのであるが、今年は寂しい人数である。2人の叔父が亡くなりそれぞれの家の新しい仏壇に収まった。7人兄弟の私の4人の妹はそれぞれの亭主の実家でこの夜の行事に参加する。兄と弟は家を出て他府県で居を構えており、沖縄の三大祭事に帰郷することもない。市内に住む私が年間の祭事を仕切る役割を担っているのだ。妻も実家の母が病に伏してからは、他府県に暮らす男兄弟に代わって年間の祭事を仕切っている。血族の慣習の価値観が少しずつ変化を始めている。

 旧盆のしきたりは、早めにご先祖をお迎えして遅めに送るのが良いとされている。それでも最近では8時ごろにはウークイを済ませる家が多いようだ。参加者の翌日の仕事に差し支えない配慮が生じているのだ。もはや旧盆の15日と翌日が休みの企業などは存在しない時代である。

 沖縄独特の平線香に火をつけて参加者に渡す。各自の家庭の繁栄をご先祖に祈る。それを集めて仏壇の香炉に立てて全員で再び祈る。お供えの重箱から豚肉、蒲鉾等数品を取り出ししてご馳走の上に置き「どうぞ召し上がって下さい」と祈る。餅も同じようにする。ウチカビと呼ばれるあの世の銭を金盥の上で燃やしてその灰に酒を掛ける。線香が燃え尽きる前に「ウークイサビラ」と仏前に手を合わせてから線香を取り出して金盥の中に入れる。先ほどの豚肉、蒲鉾、花瓶の花も入れる。その金盥を持って門の外に出て、塀のそばに小石を枕にして線香を置いて皆で祈る。

「お土産のご馳走も沢山持ち帰ってください。来年もお越しください。お待ちしております。足元にお気を付けてお帰り下さい」と祈り、皆で「ウークイ」と声を掛け、金盥の品を線香の上に伏せてご先祖を見送る。

 ウークイの後は、皆でご馳走を分け合って食べながら世間話をして過ごすのだ。午後9時過ぎにお開きとなり、残ったご馳走は皆で分け合って持ち帰る。毎年同じ儀式をするのであるが、参加者が少なるたびにお供えの重箱やオードブルの品数が少なくなっていく。何やら一族の勢いが失われていく気がして少し寂しくもある。

 タクシーを呼び、叔父たちを門前で送り出して空を見上げた。大気は未だ昼間の猛暑の名残を含んで生温いが、初秋の深い天空の中に満月が浮かんでいる。遠く公民館広場の辺りからエイサーの太鼓と三線の音色が微かに聞こえた。ウークイを終えた青年たちが沖縄独特の盆踊りの形態であるエイサーを踊るために集まり始めたのだろう。青白い光を放つ満月の中のウサギと呼ばれる奇妙な影が私を見下ろしていた。幼い頃に私を悩ませた不思議な影は、変わらずにそこにあった。大人になった私は、いつしか満月を注視することも無く過ごしてきたようだ。会社勤めの頃に毎年繰り返された観月会でも、満月を横目で捉え、グラス片手に乾杯に興じる日々であった。組織を退き久しぶりに注視したこの日の満月は、遠い日々と同じ青白い光を放ち、その中の奇妙な影が私の記憶の深い場所に沈んでいたものを呼び戻した。

         (二)

 大学1年生の夏休みはアルバイトと読書、それに自宅前の浜辺での投げ釣りで退屈な時間を消費していた。左官業を営む父の下で力仕事のある時だけ格安賃金で働き、それ以外の日は自宅でゴロゴロしているのが日課となっていた。携帯電話もマイカーも無い時代の夏休みは、学友との繋がりが途絶え、さりとて大人の遊びも未だ出来ない青臭い青春を送っていた気がする。

 そんなある日の夕暮れが近い午後、屋敷を取り巻くオオハマボウの大木が影を落とす2番座敷で横になり、小梢を抜けて来る涼しい風にあたりながら、暇つぶし五木寛之の小説「青春の門」を読んでいるうちに寝入ってしまった。ふと気が付くと台所から人の話し声が聞こえた。母の弟の武史が祖母を伴って来ているらしい。祖母の甲高い声とひどいドモリの武史の声は、私の昼寝を妨げるには十分であった。私は方言で話す親子の親しい会話に割り込む気にもなれず、眠ったふりをしていた。

「カズは家に居るのかい。学校は夏休みかい」祖母は方言で母に問いかけた。明治生まれの祖母は、小学校を少し通っただけで読み書きが十分でない。日本語を聞くことはできるが話すことにはかなり無理がある。外国人が話す不可解な日本語である。その代り人並み外れた体力と男口調で話す激しい気性は男勝りだ。祖父が早くから病で床に就いており、昨年亡くなった祖父の分まで田畑の手入れする必要があったのも事実だ。

「昨日までお父の下でアルバイトをしていたので疲れて寝ているみたい」

「ダ、ダ、・・大学生は休みが長いみたいだね。小中学校の授業は始まっているけどね」武史がドモリながら言った。

「タケ、慌てないでゆっくりし喋りな」祖母が叱りつける。

「タケ坊はドモリがいつまでも治らないね。30歳にもなって彼女はいないの」

「ドモリが治らないから女に逃げられてばかりさ、この阿保が」祖母は容赦なく息子を叱りつける。

「お母さん、何処かに良い娘がいないかね。武政に相談してみたら。あれはタクシー会社を経営しているから顔が広いでしょう」母の4歳下の弟が8年前に小さなタクシー会社を設立していた。

「ニ、ニ、・・兄さんの会社の従業員は男ばっかりで、女は50過ぎの叔母さんが一人だけだ」

「うん、先ほど武政の家に寄って来たので、妻の正子にこれの嫁のことを頼んできたよ」

「ト、ト、・・年寄りが余計なことをしゃべらないでくれ。みっともないから」

「お前は黙っとけ。この役立たずが」祖母が叱る

「お母さん、この子をあまり叱らないで、ドモリがひどくなるだけだから」

戦後生まれの武史は長女である私の母と15歳も年齢が離れており、共に暮らした期間が短い。それだけに可愛いのかもしれない。

「姉さん、こないだ不思議な事があった」武史がドモルことなく言った。

「またその話かい」祖母がうんざりした声で言った。

「お母さんは黙っていて」母が祖母をたしなめて武史を促した。

「夜中に外に出て小便を済ませると急に足が勝手に歩き出して東江集落の近くまで行ったのだよ。世冨慶川の河口の浅瀬を渡ろうとすると、急にお父さんに呼び止められた。それで気が変わって引き返したのさ。気がついたら家で寝ていた」

「何を言うか、お前が戸を開けて小便に出たのを覚えている。でもすぐに戻って寝たじゃないか。戸も閉めずにな。それに東江までは1里半もあるんだよー。ハハハハハ」祖母は甲高い声で笑った。

「でもね、お母さん。人は夢の中で神がかりに遭って、一瞬にしてひと山超えて戻ってきた話があるじゃない。本当のことかも知れないね」

「お前は子供のころからコウモリの鳴き声や夜の暗がりをひどく怖がる子だったね。時々、神がかったことを言う子だったが、タケに変なことを教えないでよ」

「お父さんがタケを呼び止めなかったら向こうの世界へ渡ったかもしれないね。お父さんに感謝しなければね」

「バカバカしい」祖母が甲高い声で笑った。座の奇妙な緊張感が吹き飛んだ。

「オ、オ、・・お父さんの1周忌の手配を兄さんにお願いしてきた。兄さんから連絡があるはずだから」

「確か来月の15日が命日だったわね。今から準備しなければね」

「おい、おい、タケのバカ話を聞いていて遅くなった。早く帰ってヤギに草を与えねば。遅くなるとヤギが鳴きだして隣家の勝三の奴から苦情が来るから。」

祖母が武史を急かせた。

 私は頃合いだと思って目を擦りながら台所へ回って祖母に挨拶をした。

「お婆ちゃんは相変わらず声が大きくて元気だね」

「カズ、元気そうだね。アルバイトを頑張っているみたいね。色が黒くなっているさー」と方言で言った。

「ダ、ダ、・・大学生、勉強しているか」

「ま、適当にね、タケさんも今日は休みですか」

「た、た、た、たまには休まないと体がもたないよ。大学生はいい身分だね」

「カズ、後でタケにカーブチーミカンを持たすから食べてね」

「家の前の庭のカーブチーですか。あの木のミカンは何処の物よりも美味しいね」

「今年も沢山実っているから」

祖母はそう言って武史を急かせてバイクの後ろにまたがり、背中に買い物袋を背負って去っていった。騒々しい祖母とタケさんが帰ると何だか空気が一気に変わったような気がした。私は大きなあくびを一つして母に言った。

「眠りすぎて頭がすっきりしないからちょっと浜を歩いてくる」と言って草履をつっかけて外に出た。門から砂浜まではキビ畑を挟んで100mもない距離だ。夜が更けると浜風に乗って潮騒が聞こえるのだ。

「夕飯に遅れないでよ」母の声を背に庭を横切った。既に夕日は集落の西の外れにある大石の森に迫っていた。私は武史の不思議な話を未だ霧がかかった頭の中で反芻しながら砂浜をしばらく歩いた。波が砂浜に寄せて引くたびに白い泡が残り、泡が消えるときに砂浜はブツブツと何かをつぶやいていた。湿った海風が首筋にまとわりついた。夕日が大石の森の松の大木の後ろに隠れたのを機に引き返した。

埋め立て前の名護湾、浜辺のサバニ、大石の小島(名護市の資料より)

     

          (

 その日の夜も沖縄特有の熱帯夜が続く寝苦しい夜であった。旭川集落は嘉津宇岳の東の谷間を流れる西屋部川に沿って数軒ずつ民家が点在している。熱帯夜で風が止まるとひどく暑い夜となってしまう。武史はひどく喉の渇きを覚えて目が覚めた。台所に行かずガラス戸を開けて外の水道に向かった。簡易水道は川向こうの山腹の湧水を引いており、いつでも冷たい水が流れているのだ。しばらく水を流して配管の中に溜まったぬるい水を捨て去り、水が新鮮で冷たくなったのを確かめてから腰をかがめて水を飲み、冷たい水で首筋を濡らした。暑さが少し引くと同時に尿意を覚えた。屋敷を出て芋畑の端で立ち小便をしながら空を見上げた。天頂から少し西に傾いて丸い月が輝いていた。小便をしながら昨日の出来事を思い出していた。

 武史はプロパンガスを扱う山源商事に勤めていた。プロパンガスのボンベを各家庭に配達する係である。その頃の台所の火器は石油コンロからガスコンロへと変わっていた。住宅事情が未だ十分でなくガスボンベの配達は中々難儀な仕事である。車が横付け出来ない細い路地はボンベをカートに乗せて運ぶのだ。田舎の斜面地に建てられた民家の細い路地の階段は、50kgボンベを担いで登るしか配達の手段はなく、ひたすら脚力の鍛錬でしかなかった。満タンのボンベを供給して空のボンベを担いで帰るときに考えるのは、行と帰りのボンベの重量が逆であればと考えるのが常であった。山源商事はプロパンガスの販売事業では後発の参入である。社長の山入端源蔵は配達の便の悪い辺地の家庭を対象に商売を勧めざるを得なかった。市中の新築の家庭は、大手のガス会社が住宅資金融資の銀行と提携して押さえられていた。

 昨日の武史の仕事は近場の配達ばかりで、午後3時過ぎに事務所に戻っていた。年増の事務員と冗談を言いながらコーヒーを飲んでいると、社長の源蔵が突き出た腹をポンポンたたきながら入ってきた。60歳を超えた白髪交じりの短髪で肩幅の広い色黒の男だ。

「タケ、今日は早かったな」

「社長、ボンベ30本の配達なんか片足ケンケンで終わっちゃいますよ」軽いドモリで返事した。

「そうかい、来週は国頭方面を配達してもらうからな」

「全然オーケーですよ」とおどけて答えると

「タケさんは若いわね」と事務員が笑いだした。

「タケ、お前、名護地区体協の駅伝メンバーらしいな。20km区のエースだと昭和スポーツ店の長嶺さんが言っていたぜ」

「社長が長嶺さんの店で買う品物があるのですか。大和相撲の褌の特注とか」

「バカ言え、孫のバスケットシューズを買ったのよ。しかし、お前が長距離選手だとは知らなかったな」

「毎日ガスボンベの配達で鍛えられていますからね。手ぶらのランニングなんてスイスイですよ。」両腕を横に広げてクラゲが泳ぐようにブラブラとフラダンスの真似をした。

「タケ、今日はよほど体力が余っているようだな。名護城址の階段を登ってみるかい」

「社長、名護城址の階段なんて坂道では無いですよ。国頭村安波集落のガスボンベ配達に比べると平地と同じですよ」

「そうかい、それならばうさぎ跳びで登れるかい。一番上の拝所まで登れたら体協のトロフィーの代わりに10ドルの賞金を出そう」

「待ってました。社長」

「タケ、お前が負けたら当分の間、田舎周りだぜ」源蔵の目が笑っていた。

「オーケー、問題ないです」武史は反発するように真顔で答えた。

「カツ、お前はタケの監視役だ。ズルを手伝うとお前も明日から配達組へ配置換えだぜ」

「ヘイ、がんってんです」

「ヘイ、じゃねーよ。標準語を使え。いつまでも大阪訛りを出すな」

「ヘイ」

勝次は大阪で暮らす源蔵の姉の次男である。遊び癖が抜けない末息子を源蔵のもとによこしたのである。口が達者な色男だが体力がなく、ガス器具の販売を担当している。

 名護城址は古くから桜の名所として知られている。城址と言うがその名残を留めてはいない。西暦650年、尚巴志が三山を統一して琉球王朝を築いた頃、この地を支配していた小規模豪族の居住地であったらしい。尚巴志に加担して北山城を陥落させたとの記録があるも、多くの住民は知らないだろう。地元の城(ぐすく)集落の祭事の拝所として整備されているのだ。石段の両側に桜が植えられ地元の有志が寄進した石灯籠が並んでいる。最上部の拝所以外にも幾つかの祠が点在しており、県指定の文化財でもある。1月の最後の週末に桜祭りが開催されて町は賑わいを見せる。沖縄県では最も古い桜の名所である。

桜祭りで賑わう名護城址入口の階段

武史はトレパンにTシャツ姿で軽くストレッチをして、振り向いて右手をまっすぐに上げ、源蔵に向かって深くお辞儀をしてからうさぎ跳びで石段を登り始めた。駅伝競技の1区のランナーになったつもりだ。勝負のお目付け役の勝次が5段ほど後ろから付いて行った。源蔵は「上で待っている」と言ってバイクでう回路の管理道路を登って行った。

石段はなだらかな勾配でゆっくりと山肌に沿って曲がりながら登っている。駆け上がりは4インチブロックの厚み程度でところどころ階段でなくスロープとなっている。低い駆け上がりが続く石段は2段跳びで上がることが出来た。

「タケさん。ここからしばらくは歩こうぜ。オジキも見ていないし」

「いや、俺も走って登ったことは何度もあるが、うさぎ跳びで登ったことは無い。一度は試してみたいと思っていたので完走するぜ」

 程無く323段の階段を登り切って管理道路に出た。源蔵が煙草をふかして待っていた。鳥居の横のコンクリートの柵に海抜50mと小さな表示板がはめ込まれていた。

「タケ、息が上がっていないな。カツ、お前はちゃんと監視したか。途中で歩いたのではないだろうな」

「社長、タケさんの馬力にはあきれましたよ。おいらがくたびれちゃったよ」

武史は膝関節を伸ばすストレッチを繰り返し、次の急勾配の階段上りに備えていた。

「タケ、半分の5ドル出すからここで引き分けしようぜ。お前が途中でくたばって明日からの仕事を休むと困るからな」

「俺は大丈夫です」

「タケさんもうひと踏ん張りお願いします。さっきの話通り10ドル稼いで東屋食堂の2階でビールを飲もうよ」

「俺が難儀してお前が飲むのかい」

「俺だって、あんたの応援係だし、号令もかけているぜ。イチ、ニ、イチ、ニとさ」

武史は思わず笑いだした。未だ体内にはエネルギーが十分に充填されているし、何度か駆け上った経験から階段の数は前半より少ないことを知っていた。見上げると拝所の鳥居と赤瓦の屋根が見えた。武史は再びうさぎ跳びで登り始めた。

「オーケー、上で待っている」源蔵は二人が20段ほど登るのを見てからバイクのスターター・クランンクをキックした。

 急こう配の階段は駆け上がりが6インチブロックの厚みより少し高くなっている。武史は登り始めて気付いた。前半の階段は段数こそ多いが勾配が緩く平地の運動とあまり変わらない。しかし後半の急勾配は得意の有酸素運動では無く、短距離走の筋力を必要とした。少しずつ呼吸が乱れ始めた。カンヒザクラは既に休眠期に入り、夏の落葉を済ませていた。8月の午後4時過ぎの日差しは衰えを知らず、武史の左頬と後頭部を容赦なく焦がしていた。武史の心臓と肺はフル稼働で下半身の筋肉に血液を送り続けた。しかし酸素補給が不十分となって目の前を昼間の蛍が飛び始めた。階段は60段毎に緩い勾配の平場があり、3枚の平場は6畳、4畳、2畳と上にいくにつれて狭くなっていた。武史は平場で小さなジャンプを繰り返して呼吸を整えた。それでも最後の平場にたどり着いた時には膝関節と心臓が悲鳴を上げてギブアップする寸前になっていた。

武史は呼吸を整えるためジャンプを止めて階段の上部に目をやった。残り7段である。源蔵が鳥居にもたれてこちらを見ていた。武史は大きく息を吸い込んで一気に階段を駆け上がった。そして最後のジャンプを終えると勢い余って両手を前に突き出して石畳の上に手を付き反転して尻もちをついた。立ち上がると源蔵の顔があった。源蔵の目は悲しげに武史を見ているように思えた。その眼は決して武史のうさぎ跳びの結果に対する感嘆の思いを含んではいなかった。武史の脚力は驚嘆に値するのであったが、親子ほども年長で組織の長である源蔵の目には、武史が既に若者の特権である無尽蔵のエネルギーを失い始めているのが見て取れた。武史は振り返り階段を喘ぎながら登って来る勝次を見た。その向こうに夏の日を浴びて輝く名護湾と、白い帆を掛けて港に向かうサバニが一艘だけ見えた。「カツ兄ちゃん遅いぜ」と声を掛けようとしたが、乾いた喉からは声が出なかった。意識に体の疲労がついていけないのを知った。「ひゅっ」小さく息を吐き、源蔵から少し離れて屈伸運動を繰り返した。自分の疲れを源蔵に悟られまいとしたのだ。しかし、源蔵は既に武史から視線を外して嘉津宇岳のなだらかな稜線を見ていた。稜線が海になだれ込む手前に若い女の乳房にも似た小さな安和岳があった。あの山の麓に源蔵の村があったのだ。敗戦後に建設された広大な嘉手納米軍基地は、工事に必要なコンクリートやアスファルトの骨材として琉球石灰岩を採取した。米資本によるセメント工場の建設は琉球石灰岩の採掘を加速した。村は巨大な採石場と化して消滅した。海岸から陸地に向かって広がる採石場の無残なアバタの中に源蔵の家があったはずだ。敗戦の痛みも癒えぬ間に先祖伝来の故郷を失った。源蔵は悲しくはなかった。只、奇妙な人生の変化に戸惑っただけだ。故郷の消滅の代償で得た立ち退き代金を元に今の商売を立ち上げた。人は生きていると幾多の予期せぬ変化に出会う。それをトラブルとみるか新しい展開の始まりと見るかで人生観が変わる。変化を自分の裁量で切り開くだけだ。今日の自分の立ち位置を明日も保てるか誰も知らない。人は時と共に変化するものだ。源蔵は武史の中にそれを見たのかもしれない。変わらずにあるのは採石場の先に広がる東シナ海の深い蒼さだけだ。源蔵は西日を浴びながらぼんやりと丸みを帯びた水平線を眺めていた。

勝次が鳥居の前にたどり着くと源蔵が言った。

「タケ、お前の勝ちだ。降りようぜ」自虐的な笑い声で言ってバイクにまたがった。

 三人は管理道路をゆっくりと歩いて登り口に向かった。下りの階段は疲労が溜まった膝関節に堪えるのである。クスの大木が作る木陰が心地良かった。三名は何も話すことなく下って行った。

入口の鳥居の前で3名の仕事仲間が待っていた。勝次が親指を立てて合図すると、仲間たちが指笛と拍手で迎えてくれた。

「タケさんの完走を記念して乾杯と行こうぜ。社長のおごりだ。東屋食堂へレッツ・ゴー」勝次が仲間に呼びかけた。

「分った、分った。俺の負けだ。今日は夏の慰労会としよう。お前ら先に行って始めておけ。俺は事務所を閉めてから戻って来る」

 武史は久しぶりに聞く仲間からの称賛の声に舞い上がり、何杯もジョッキを空けた。そして何時に帰宅したかも覚えていなかった。

 

       (四)

武史は小便を済ませ、軽く身震いをして再び空を見上げた。月が青く不思議な光を放っており、丸い器の中のウサギに似た影が揺れて見えた。自分の体の深部で何かが騒ぎ出すのが解った。家の中からボーンと柱時計の音が1回だけ聞こえた。その音が長距離走の合図のように聞こえた。足が勝手に動き出した。母がトマトかエンドウ豆の支柱に使うつもりで束ねてあった1m程の竹を一本抜き取るとひょいと肩に置き、ゴム草履のままゆっくりと、谷間の川に沿って続く県道を川下に向かって歩き始めた。県道112号、屋部・仲宗根線は未だアスファルト舗装が施されておらず、琉球石灰岩を敷き詰めた道路は、月の光を浴びて暗闇に白く浮いていた。西屋部川は本流の屋部川に比べて水量は少ないが急流となっており、小さな段差を繰り返す砂防ダムは暗闇の中で騒々しく水しぶきを放っていた。川向の馬小屋からブルン、ブルンという息吹が聞こえた。敏感な馬の聴力が武史の足音に驚いたのだろう。道路脇の急斜面は時折月光を遮り、道路を闇の中に引きずり込んでいた。武史は無意識にハブを警戒して竹の杖で地面を軽く叩きながら前方に見える月の光を浴びた白い道路を目指して進んだ。暗闇の中で梟がコウホー、コウホーと鳴いた。武史は何も考えずにただ足を運んでいるだけだった。田イモ畑の横を通るとウシガエルがモー、モーと重低音で合図してきた。空を見上げたが雨雲の気配はない。今夜はウシガエルも暑くて一雨欲しくくて雨乞いの祈りをしているのかもしれない。

 谷間を抜けると視界が開けた。この先が屋部集落である。海に面した集落の東を屋部川が流れ、西の谷間から流れてきた西屋部川が河口で合流している。県道を左に曲がって勝見橋を渡った。フクギの屋敷林で囲まれた集落は、月明かりの中で一つの森に見えた。集落の中に進むとフクギは月明かりを完全に遮断して真っ暗である。只100mほど先の交差点の地面が月明かりで奇妙に白く浮かびあっているだけだ。武史はそこを目指して歩いた。久護家の前を通ると誰かに呼び止められた気がして立ち止まった。王府の時代に栄えた旧家で、この辺りを仕切っていた豪族である。現在は縁者が途絶えてしまい、県指定の歴史的木造家屋を集落で管理している。赤瓦の上をコウモリが小さな羽音を立てて横切った。フクギの実が地面にポトンと音を立てて落ち、足元に転がってきた。コウモリの食べ残しだろう。武史はフクギのトンネルの向こうに見える明かりに向かって歩いた。

トンネルを抜けると屋部川の川べりの道路に出た。対岸まで100m程の距離があり、河口が近い。メヒルギの群生した近くに開閉式の水門の残骸が残っており、河口に向かって開いていた。屋部小学校の横を歩いて屋部橋のたもとに出た。右前方にトワヤの物見塔が見えた。橋のたもとの護岸は王府時代の山原船の船着き場の名残だ。久護家の支配のもとに年貢米や薪燃料が泊の港に運ばれたらしい。トワヤは船の出入りを見守る遠見台であった。船着き場のあった石組みの隣の広場には、白塗りのカトリック教会が静かに鎮座している。敗戦後の米国による占領政策の中でキリスト教が急速に布教された。「隣人に愛を、富める者は貧しきものに分け与えよ」と、唱える神の言葉は、敗戦で深く傷ついた住民の心を捉えたに違いない。実際、米軍関係者は教会を通した物資の配給を頻繁に行っていた。この地域には住職の住む寺よりキリスト教会の数がはるかに多い。この地のキリスト教は祖先崇拝の慣習を排除しない。その寛容さが地域に浸透した原因のひとつかも知れない。あるいは、イエスは天地自然の神々の頂点に位置する存在であるとの理念かも知れない。もっとも、部外者が様々な宗教の神々を推察することは不謹慎の誹りを免れない。

県道117号、城・渡久地線に架かった屋部橋を渡り、宇茂佐公民館の横から砂浜に降りた。潮の香りが濃くなった。平らで穏やかな海を挟んで遠くに恩納岳の山並みがなだらかに右勾配で続いていた。潮が引いて広くなった砂浜が月の光で輝いていた。武史はグンバイヒルガオに足を取られながら砂浜を水辺に向かって降りて行った。塩水を含んだ砂浜は硬く締まって歩きやすかった。天頂から少し西に傾いた月を背に東に向かって歩き始めた。北部農林高校グランド横を通ると左からの風が吹き抜けた。風向きは既に昼間の海風から夜の陸風に変わっていた。ツキイゲの穂が陸風に乗って転がってきてくるぶしに当たった。微かな痛みと痒みを覚えた。目を凝らすと時折陸地から転がって来る。足元に目をやると不意の侵入者の足音に驚いたツノメガニが高速で走り去っていく。

気が付くと目の前に大石の離れ島が黒い海面に浮かび上がっていた。50m先の島の間を海水が小さな音を立てて流れていた。20m四方に満たない小島の岩礁は琉球石灰岩からなり、潮の干満と波浪によって基部が浸食されてキノコ状になっている。岩礁の上部は風化して砕砂が溜まって海浜植物が生えている。突然、女神の乱れ髪に似た草木を風が強く揺らした。この岩礁には海中から上部に向かって大きな亀裂が走っており、浅い洞窟にドブリ、ドブリと海水が出入りしていた。暗く湿った洞窟は女性の陰部にも似た禍々しさを備えていた。武史は立ち止まってしばらく眺めていたが心を揺らすものは無かった。

大石の離れ島から少し離れてタッチュー石が意味ありげに海面からそびえ立っている。この石は海水に浸食されることなくまっすぐに10mほど切り立っている。琉球石灰岩とは異なる硬い岩石であろう。まるで大石の女陰の洞窟と対比する男根にも似ていた。この辺りは満潮時に海水が入り込み、砂浜が途切れて歩けない場所だ。干潮で干上がった海底の上を歩いて渡り、再び砂浜に出た。

夜の海上に点々と漁り火が見える。海上をゆっくりと漂っている。夏の夜の海は干潮が弱く、温んだ浅い海中に獲物の姿は少ない。漁りは冬の厳寒の新月の晩が適している。それ故夏の夜に漁りをする者はいない。海上に漂っているのは狐火である。武史はそのかがり火に心動かすことも無く歩みを進めた。20kmレースの時に起こるランニングハイにも似た感覚である。ただひたすら砂浜に足跡を刻んだ。やがて左手にこんもりとした森が現れた。宮里集落の「前の宮ハスノハギリ群落」である。幹回り10m、樹冠と樹高が20mの巨木が十数本生えている。女人禁制の拝所だ。この森の向こう側に姉さんの家があるはずだと考えながら歩いた。武史は振り返ることなく何かに憑かれたように歩いた。

やがて砂浜にサバニの並んだ場所に出た。漁民の住む集落の船置き場だ。サバニを係留する桟橋は無く、漁を終えたサバニは砂浜に引き上げて保管するのだ。木製のサバニを海上に係留して保管することは少ない。サバニの横を通ると嫌な臭いがした。サメの肝油を船体に塗ってあるのだ。船の防腐剤であろうか。

この海岸がイルカ狩りを行う場所である。コビレゴンドウクジラを浅瀬に追い込んで捕獲するのである。ピートゥドオーイ(イルカが来たぞー)との声が集落に響くと漁民だけでなく周辺の集落のにわか漁民も船を出した狩りに参加するのだ。義兄を手伝って一度だけ参加したことがある。クジラを浜に引き上げるロープを引く等、少しでも漁を手伝うと肉の一部が貰えるのだ。小さなクジラとは言え1,500kgはあるのだ。肉は幾らでもある。100m四方の海が赤く染まる。人々は血の海を見て心を震わすのだ。狩りに参加する者は白装束である。黒い衣装だとクジラと間違えて銛を撃ち込まれる危険性があるのだ。赤い血の海にクジラがのたうち回り、狩り人が銛を撃ち込みロープをかけて砂浜に引き上げるのだ。黒いクジラが大鉈で切り分けられ、赤い肉が血に染まった砂浜の波打ち際に並ぶ。狩り人も砂浜で肉を求めて待っている人々も、殺戮の光景に興奮の奇声をあげて目の色を変えるのだ。

イルカ狩り1980年頃まで行われた。(名護市の資料より)

クジラの肉は食料の乏しい時代の安価で貴重な蛋白源であった。油身は鍋で溶かしててんぷら油として使われた。武史は月の光にざわめく海面にイルカが断末魔の潮を吹きながら浮き沈みする姿を見た。

 港橋を渡るとクジラ工場の前に出た。工場の前には専用の桟橋が長いスロープを伴って伸びていた。20トンクラスの小型捕鯨船で仕留めたザトウクジラを引き挙げるスロープだ。工場ではクジラを解体冷凍保存して肉をブロックで販売している。解体は思わず見とれてしまう程壮観である。牛の20倍もの大きさの肉の塊が分別されるのだ。ヒートゥと呼ばれるコビレゴンドウクジラはイルカの仲間で臭気の強い肉であるが、ザトウクジラは臭みが無く本当に美味い。

桟橋のスロープを引き上げるザトウクジラと見物人

クジラ工場の前を抜けると製材所の前に出た。山から切り出した松材を使ってホークリフト専用の盤木を作っているのだ。サメ肝油の後で嗅ぐ木の香りが鼻腔を刺激して穏やかな気持ちにした。只、武史の足は相変わらず何かに憑かれたように歩みを止めず再び砂浜に降りてさらに進んだ。しばらく進むと町はずれに出て世冨慶川が行く手を遮った。川の水量が少なく干潮時に河口の浅瀬を渡るのは容易い。武史は立ち止まって向こう岸を見た。世冨慶集落の墓地が海岸沿いの崖下に並んでいた。満月の光は墓地を明るく浮き上がらせていた。武史の目には見知らぬ新しい集落の広がりに映り、彼の来訪を待っている気がした。乾いた砂浜に腰を下ろしてズボンの裾をまくり上げた。そして川の水が海に流れ込む浅瀬に向かって歩き出した。川の水がチャリ、チャリと楽しげに何かのリズムを奏でて海に飲み込まれていた。武史はもう一度ズボンの裾を手で引き上げるために腰をかがめた。その時、背中に誰かの気配を感じて振り返った。誰かが月を背にして護岸の上に立っていた。顔は見えぬが見覚えのある懐かしい影だ。

「タケ、お前は一人で何処に行くつもりか。そこはお前の行くところではない。行ってはならぬ」方言で話しかける父の声だ。聞き覚えのある腹に響く太くて低い声である。

「ウー、ワカイビタン(ハイ、分かりました)」

何故か深く頭を垂れて丁寧に返事をした。そしてやおら顔を上げるとそこに父はおらず、青い光を放つ満月があるだけだった。

武史は月を背に砂浜に腰を下ろして両手で顔を覆った。俺は何をしているのだろう。亡き父に呼び止められなかったらどこまで行くつもりであったのだろうか。只やみくもに進んでもその先には何もないことが解る齢になっていたはずだ。

中学を卒業してから昨日まで、若いエネルギーに頼って人混みの中を走り抜けた。何度も仕事を替え、女友達を替え、周りの誰かの生きざまを肯定出来ずに生きてきた。過ぎ去った時間の中で、自分の手の中に残った確かな物は何ひとつもない気がした。自分は変わるべき人生の節目に来ている。自分が好むと好まずにそれはやってくるのだ。既に別れた女のこと、今の仕事のこと、走ることの意味さえも失い始めている。武史は人生の潮目がはっきりと変わり始めたことを悟った。若さだけで駆け上がった峠の先にも次なる峠の坂が続くだけだった。自分の望む物は見つからなかった。若さを失いつつある中で得たのは、自分が誰かの下で同僚と歩調を合わせて働けるタイプの人間ではないという確信だけだった。自らの選択で新しい道を歩まねばと思った。蓄えた金で兄貴の会社のタクシーの権利を買って一人親方になるのも良いだろう。母の手におえず荒れてしまった裏山の畑を耕し、パインとミカンを植えて大地からの恵みを得るのも良い。地に足をつけて穏やかに確実に自分の力だけで歩ける道を探そうと思った。

武史は立ち上がって防波堤を駆けあがった。砂浜を離れて城十字路から県道117号線の住宅街を駆け足に近い急ぎ足で進んだ。そして嘉津宇岳入口を右折して西屋部川に沿って続く県道112号を北上した。ほどなく旭川集落の最初の民間が見えた。夜明けには未だ間があるというに、近くの家で鳴き声を競う鶏のチャーンが甲高く、そして長い尾を引きながらひと声鳴いた。月は天頂からかなり西に傾いていた。仕事が終わってから毎日のように20kmを駆ける長距離走の練習に比べると、3里の歩行は何らの疲れも残らなかった。武史は何事もなく部屋に戻って寝た。

朝になって母が言った。

「タケ、酒もたいがいにしなさいよ。昨日は酔って帰ってきて夕飯も食べずに寝たよ。おまけに夜中に起きて外で小便をして、戸を閉めずに寝ただろう。わたしは蚊に刺されて睡眠不足だよ。お父さんが生きていたら何と言うかね」

武史は黙って外に洗面に出た。

「このアホ、さっさと朝飯をたべて会社に行きなさい」母の声が後ろから飛んできた。

母がいつものようにまくしたてるのを聞くと昨夜の出来事は夢であったのだと思った。昨晩水を飲んだ水道で顔を洗うと水しぶきがズボンの裾に跳ねた。首にかけたタオルで裾を払った。裾の折り返しから海砂がはじけ飛んだ。裾に乾いた白い塩の帯がぐるりと巻いていて微かに潮の匂いがした。立ち上がって背伸びをすると庭のミカンの梢を通して朝日が目を射した。武史は手をかざして指の間から川向の山を見上げた。見慣れたはずの朝の景色が僅かに異なって見えた。武史は人生の潮目が確実に変わり始めたのに気付いた。

 

 

 

2017年8月16日 | カテゴリー : 短編小説 | 投稿者 : nakamura

Authorized on Base

Authorized on Base(オーソライズド・オン・ベース)

            (1)

 平成19612日、午前11時の沖縄自動車道の南向け車線の交通量は少なく、私は未だアルコールの抜けきらぬ頭で許田インターから南下していた。昨日は自らが執行役員を務める造園会社の株主総会が開催され、その名残が二日酔いである。総会といっても特段の疑義の出ることもなく、執行役員と非常勤役員の懇親パーティでしかない。私は3月の事業年度終了後、決算書の作成、事業監査、取締役会、そして昨日の株主総会と株式会社の決算に関わる一連の作業を仕切り終わったのだ。社内おける私の仕事の繁忙期は3月から6月までである。この時期を過ぎると退屈な日々が続くことになる。

私は昭和578月に現在の会社に入社した。建設業関連の社団法人の出資による設立2年目の会社であった。入社時の社員数は6名で国営公園の植物維持管理を細々と受注する年商3千万円の零細企業であった。第2次オイルショックで冷え込んでいた沖縄県の経済は、海邦国体の開催に向けての公共事業で次第に回復していった。更にその後に続いた平成バブル経済によって我が社の事業量は格段に拡大していった。年間受注金額はバブル崩壊時に35千万円にまで拡大していった。しかしバブル崩壊後に公共工事が減少して倒産する弱小造園会社が続出した。わが社の受注金額も28千万円まで減少した。それでも一般造園会社と異なる小規模の随意契約を主体とする事業形態であったことや、業界団体の出資で設立された故に同業者間の一般競争入札に馴染まぬ会社に変貌したことで生きながらえて来た。そして6年毎に会社の代表取締役を官公庁からの天下りで迎えることで業界団体とのバランスを保っていた。

 私は一般職員からの生え抜きの役員として同業他社との調整役を担っていた。調整役と言っても接待ゴルフと繁華街の付き合いが主であった。むろん、業界団体の事業開発委員、造園施工管理技士会の役員や青年部組織の世話役等も引き受けていたが、何らの責任も要しない立場であった。

営業と称して同業者との折り合いをつけるための接待ゴルフと繁華街の出入りで退屈な日々を紛らわせていた。

私は名護市内のみどり街と呼ばれる繁華街のネオンの下から帰宅の途に就く時、酒場の店内の喧騒を振り払うようにゆっくりとみどり街の外れまで歩いた。いつの頃からか酒に酔うことを失っていた。傍らを通過する空車のタクシーを拾うこともせずに歩いた。場末の街灯が照らす薄暗い歩道を進みながら何か忘れていたもの思い出そうとしていた。この業界に身を置いて25年、少しは顔を知られる存在となっただろう。しかし私は何を成したのだろうか。少しのチャンスを捉えて事業を発展させたてきたが、それは私だけ成果ではない。私は組織の中の多くの歯車の一つに過ぎず、ただ歯車が他の職員より少しばかり大きかっただけの事だった。何か自分の目指すものを探し出せぬまま今日にいたっている気がしていた。既に夢を探せぬまま若さを失ってしまった寂寥感と、安定した餌場に居座り続けている自分への自嘲感だけが溜まっていた。天は私にこの程度の命を与えたのであろうか。それとも新たな潮目を待てと言っているのであろうか。答えを探せぬままみどり街の外れで、タクシーを拾って帰宅する日々が続いていた。

 私のプリウスの横をグリーンのマツダ・ロードスターが一気に駆け抜けていった。雨上がりの路面から霧のような飛沫が舞い上がった。ワイパーを作動させてスピードメーターを見ると時速80kmを切っている。私は苦笑した。何ともだらけた運転をしていることが可笑しかった。確かに酔いが醒めきっていないようだ。自動車道路の周辺の森が雨水を吸って落ち着いた濃い緑色に変化していた。その緑の中にイジュの白い花がひと塊となって次々と車窓から後方に飛び去って行った。沖縄の古い言い伝えでは、イジュの花が咲くとその毒気に当ったハブが巣穴から這い出て来ると言われている。しかし此のところハブが出没したとの話を聞かない。人間の愚かな営みによって自然の生態系が少しずつ衰退しているのかも知れない。私は窓を開けて雨の香りの残った風を車内に取り込んだ。そしてゆっくりとアクセルを踏み込んだ。フロントパネルのガソリン消費表示が一気に上昇して車体が加速を始めた。

 宜野座インターで降りて少し進むと、三叉路の交差点の左側に宜野座村運動公園の表示板が立っていた。その向こうに野球場の照明スタンドと雨天練習場の巨大なドームの屋根が見えた。5,000人足らずの村民には過ぎた施設のような気もする。国内のプロ野球阪神球団のキャンプに一カ月ほど使われているようだが、普段はどの様に利用されているのだろうか。村の西に広がる米軍演習地の賃貸料の恩恵のひとつであろう。沖縄自動車の西側の山林は、北の久志岳から南の恩納岳まで広大な米軍の軍事演習エリアである。旧久志村(現在は名護市の久志、豊原、辺野古地区)、宜野座村、恩納村、金武町には莫大な軍用地賃料収入が入っており、地域の行政資金を潤しているのだ。緩やかな上り坂を進むと国道329号宜野座村惣慶の交差点に出る。左に行くと宜野座村から名護市の東海岸へと続き、右に行くと金武町、うるま市石川へと続いている。

1B惣慶宮

琉球松の残っている惣慶宮の杜

私はハンドルを右に切って南下した。左手に惣慶宮の松林と宜野座中学校の白い校舎が見えた。緩やかな下り坂の途中の左手にかんな病院の白い建物があった。不正経理で新聞を賑わした東海病院は北部病院、かんな病院と2度も名称を変えている。改名すれば組織の体質が変わるとも思えぬが、臆面もなく真新しいシーツを掛け直している。緩やかなカーブを減速しながら下った。二つ目のカーブで左にハンドルを軽く切った時、右手の斜面から懐かしい花の香りが車内に入ってきた。目をやると季節遅れのソウシジュの花が斜面に黄色の塊をなしていた。1㎝程のパフに似た花だが遠目には樹冠を黄色に染めて見える。この甘い香りが私の古い記憶の何かを刺激しているようだが、二日酔いの頭には特別の意味を成さなかった。坂を下りきるとゆっくりと左折して車を恩納タラソの構内に車を載り入れた。漢那小学校の跡地にふるさと創生事業で建設された健康増進施設である。ドイツ製の設備が導入されており、海水プール、温水ジャグジー、ミストサウナ、健康食レストラン、等を備えていた。利用者の多くは村内の老人であった。何しろ村民の利用料金がバスタオル代の200円では銭湯よりも安いのだ。むろん、村民以外の利用者は1,600円の利用料金が必要である。5千人程の村民の施設としては採算の合わぬ施設であるが、潤沢な軍用地料の成せる施設管理であろうか。私がこの施設を利用するのは、妻がこの施設の利用者メンバーであり、彼女からメンバー特別割引優待券を貰っているからである。3年前に喘息が悪化して教職を辞した妻は、毎週3回ほどこの施設のミストサウナとジャグジーを利用して次第に体力を回復している。メンバーでない私も妻のおかげでバスタオルとロッカー利用料金800円で施設が利用できるのだ。私は25mプールを数往復してジャグジーで筋肉を解し、ハーブミストのサウナで汗を流す。このサイクルを2時間ほど繰り返すと酒は殆ど完全に抜き取れるのだ。毎月12度、深酒の翌日に利用している。

雨上がりの広い駐車場を横切って施設の地下駐車場へと降りて行った。地下駐車場は村内の老人以外の客が利用するスペースだ。夜の仕事をする女性や深酒の翌日の私の類だ。人目を避けて施設内に移動できるのである。私は地下駐車場の隅にスペースを見つけてプリウスを滑り込ませた。そして気怠さを振り払うために目を閉じて頭を後ろに反らし、さらに左右に振ってから前方に向かってゆっくりと目を開いた。その刹那、前方の駐車スペースに止まっていた黒塗りの乗用車がエンジンをふかして点灯した。私は一瞬放たれた閃光と排気音で視界を奪われ現実の空間を見失った。そしてその閃光は私の古い記憶を鮮明に蘇らせた。あのソウシジュの香りが何であったかをはっきりと思い出した。

あの頃、私は深夜の国道329号を時速100キロでタクシーを走らせていた。街灯も無く、只、自分の運転する車のライトに浮かぶセンターラインの白線だけが、瞬きもしない私の瞳孔から後頭部に向かってモールス信号の如く突き抜けていった。寝ているのか醒めているのか判らない意識の中で、漆黒の闇の中から漂ってくるソウシジュの香りだけが未だ命ある世界にいるのを教えてくれた。あのソウシジュの香りは20数年の時を経て、再び人生の潮目の変わり時を告げているような気がした。

1Dソウシジュの斜面

国道58号から名護市の市街地に入る斜面地のソウシジュの群生

      (2)

昭和572月上旬、私は那覇市西町の公安委員会の自動車運転免許試験場にいた。4度目の普通自動車二種免許の実技試験を受けに来たのだ。大学の農学部を卒業して6年目、既に結婚して2歳になる娘がいた。3年ほど勤めたサラリーマン生活に見切りをつけ、友人3名で始めた農業にも挫折して自由人となっていた頃だ。友人と袂を別ったきっかけは既に記憶の中から消えてしまったが、私の深層に巣くっている風来坊としての育ちから来る、堪え性の無い不徳によるものであったに違いない。

その頃の私は養父母を失い、子供が成長するにも関わらず農業生産法人設立の目途も立たず、次第に生産活動エネルギーの消耗だけが加速していた。私のモチベーションの欠落を見抜いた友人が共同経営からの離脱を促し、私は糸の切れた凧のようにゆらゆらと早春の風に流され、緑の農耕地から遠ざかって行ったのだった。

当時の我が家の家計は妻が県立特別支援学校の教師をしており、家賃6千円の新築の教員宿舎に住んでいた。妻の給料でそれなりの生活が出来ていた。私はサラリーマン時代の蓄えが未だ残っており、タバコ代に不自由することも無かった。只、農機具の購入資金として実家から25万円ほど借りており、学生時代に借りた日本育英会の奨学資金の返済も23万円ほど残っていた。今日、明日の返済が要求されるものでは無いが返済は必要であった。平成景気が始まる前のこの時代に学卒の就職先は多くなかった。無論、職安での仕事探しを怠っていたわけでは無いが、さりとて熱心でもなかった。元来の風来坊癖が影響していたのであろう。

娘の彩夏をカトリック系保育園エデンの園に送って、その帰りに実家の母を訪ねた。彩夏の風邪が治って保育園に元気に通い始めたことを伝えるためだ。それに久しぶりに実家に備え付けてある大型スピーカーのステレオで、ジョン・コルトレーンのブルートレインを聞きたいと思ったからだ。あの暗闇の中から何かを送り出してくる響きが気に入っていた。しかし、コルトレーンの重低音のテナーサックスはアパートでは持て余すのだった。

実家には母の弟の武松叔父が来ていた。

「松さん、久しぶりだね」

「おう、カズか、農民を廃業したらしいな」

松さんは以前のひどいドモリが消えたなめらかな口調で話しかけた。

「農業も嫌いではないが、売れ残りのキュウリばかりを食べるのにも厭きたのさ。それによ、俺は親父に似てトマトの若葉の奇妙な臭いが我慢できなかったのよ」

「そうかい、だいたい学卒の農民なんて流行らないぜ。それで、姉さんに聞いたが農協に就職するための履歴書を出したのだろ、返事があったのかい」

「それがさ、新卒が優先で俺らの様な再就職者は6月の総会が終わってから採用を検討するそうだ。俺の方が農業に詳しいのによ。農協もどうかしているぜ、全く」

「相変わらず減らず口を叩くな。お前らしいや」

「そうでもないさ。一応、職安にも通ってはいるけどな」

「ところで、俺のところのタクシー会社で乗務員が一人必要だが小遣い稼ぎにやってみるかい」

「そいつは面白そうだな」

「只よ、二種免許が必要だぜ。お前が持っているのは普通一種免許だろ」

「何だか知らねえが、一種より2種の方が偉いのかい」私は冗談で答えた。

「お前のことだから学科試験は易しいだろうが、実技試験は難しいぜ。4回でパスすれば御の字だ」

「そうかい、やってやろうじゃないか」

「名護自練に具志堅さんという運転教師がいるから習ってきな。元久志タクシーの乗務員だ。実技試験の要領を教えてくれるはずだ。学科試験のテキストは会社にあるから後で姉さんに渡しておくよ。

「ありがとう。明日にでも名護自練に行ってみるよ」

2種免許を取ったら会社に回って来な。社長の政兄さんに伝えておくから」

松さんは会社の位置を新聞のチラシの裏に書いて渡した。

「お前、タクシーの乗務員等せずに武政の下で事務をしたらどうかい。あれは前からお前を欲しがっていたよ。男の子がいないし、本人の体も丈夫じゃないからね」母が言った。武政叔父は母のすぐ下の弟である。

 翌日、名護自練に出かけて具志堅さんを訪ねた。武政叔父の身内だとは告げずに2種免許の実技講習を50分ほど受けた。確かに1種免許より運転技術が細かいようだ。外周の直線で十分に加速すること、鋭角の切り返し、並列駐車、左折時の左への幅寄せ等、1種免許試験ではなかった技能があった。

 午前9時、那覇市西町の公安委員会の2階で学科試験を受け、合格書類をもって1階の受験申請窓口で実施試験の申し込みをした。試験日は2日後の午後2時からである。私は学生の頃にこの試験会場で普通1種免許を取得した。仮免許の学科試験、仮免許の構内実技試験、本免許の学科試験、本免許の路上実技試験と4回の試験を受けたのである。構内実技試験にてこずった記憶がある。

 左隣の実技受験者待機室に入って受験コースの張り紙を探した。コースは6種類あり、受験の20分前に試験官からどのコースで試験を実施するかが伝えられるのである。AからFまでのコースを覚えないといけない。私は学科テキストに添付された場内試験図に6種類のコースを書き込んだ。先日具志堅さんに教わった運転操作技術をシュミレーションしながらコースを記憶することに務めた。そして構内実技受験場の風景を眺めていると、8年前にタイムスリップしているような緊張感に包まれた。

 最初の受験日は1時間前に受験者控室に入った。大型2種免許の実技試験が既に始まっていた。琉球バスと表示されたままの路線バスの中古車での試験である。車体に錆が浮いており、かなり古い年式のようだ。

「7番、安村君」

「ハイ」と大きく返事して30歳くらいの男がバスに乗り込んだ。試験官が左後方の席に着くとドアが閉まり発車のウインカーが点滅してバスは動き出した。ギアが2速,3速と切り替わり加速していく、しかしトップギアに切り替わることが出来ずガリガリとギアチェンジの音がして、トップスピードに達せずに減速した状態で第一コーナー入った。そして減速した状態でコースの外周を1周した。バスは左のウインカーを点滅してスタート地点戻って来た。バスのドアが開いて試験官が降りてきた。続いて受験者も降りてきた。試験官は「もっと練習してくるように」と言って受験票から写真を剥がして渡した。その写真を次の受験申請に使うのである。

「8番、高山君」、「ハイ」次の受験者がバスに乗り込んだ。バスがスタートすると安村と呼ばれた男が歯ぎしりするように言った。

「ちくしょう、あのポンコツバスはギヤが入り難いのよ。自動車練習所のバスよりも相当古くておまけに整備不良だよ」大きくため息をついて出て行った。

 私は普通2種のコース図を指でなぞりながら場内のコースと比較するように記憶を整理しながら試験に備えた。しばらくすると大型2種の試験が終了して試験官が引き上げた。最後まで残って試験を見ていた受験生がぽつりと言った。「今日も合格者は一人かよ」10名中1名の合格者だ。

 午後2時、普通2種免許の試験開始の時間となった。試験官がやってきて言った。

「受験番号の1番から8番まではBコース、9番から15番まではDコースです。20分後に試験を開始しますので準備をして下さい。

 私はDコースの5番目であった。

「お願いします」そう言って車に乗り込んだ。

ウインカーを出してスタートするとすぐに加速してトップスピードに達してからシフトダウンして第1コーナーを回り、周回して中のコースに入って鋭角、クランク、並列駐車等を次々とクリアして終了した。

「試験場はサーキットではない。早く回る試験をしているのでは無いですよ」

写真を剥がしながら試験官が抑揚のない声でポツリと言った。

 2回目の試験を二日後に受けた。Cコースであった。私はスピードを抑えて丁寧に運転した。そしていくらか自信をもって全工程を終了して戻ってきた。

「上手な運転だが安全第一とは程遠いな」と言って写真を剥がして渡した。

3回目の試験を週明けの月曜日に受けた。Bコースであった。しかし不合格である。

「安全確認が不十分ですね」試験官は写真を渡した。

私は不合格の原因が分からなくなって次の試験日を4日後にした。その間に再び名護自練に具志堅さんを訪ねてみようと考えたのだ。

 名護自練に電話を入れて具志堅さんへの教習予約を入れた。水曜日の午前10時に予約が取れた。

教習所に行くと事務所で具志堅さんが新聞を見ながら待っていた。

「よう、君か。未だ合格できていないようだな」笑いながら話しかけてきた。

「よろしくお願いします」

「こんな年寄りを指名するのはよほどの物好きだな。どれ、試験のつもりで見てみよう」

「それでは先日のBコースを回ります」

「ハイどうぞ」

私は何時もより慎重に運転してコースを回った。

「うむ、不合格だな、これなら絶対に合格できない」

「え、どうしてですか」

「試験官は運転のうまさを見るのでなく、安全確認をチェックしているのだよ」

「安全確認をしていますが」

「試験官が分かるように行うのだ。良いかい。発進時は左良し、右良し、後方異常なし、発進しますだ」

「ハイ、声に出すわけですか」

「声だけではなく、顔も素早く動かして確認している動作を試験官に認知させるのです。それでは、別のコースを練習してみよう」

私はC、Dコースを練習した。3コースのうちのどちらかに当たる確率は半分だ。

 4回目の試験日も1時間前に着いた。受験者控室に向かう途中で見知った男に出会った。大学の同窓生宮城茂光である。

「よう、久しぶりだね」と声を掛けてきた。

「おう茂光、何の試験を受けたのかい」

「大型2種だ。外周回って終了さ。全然ダメ。大型1種に変更だ」

「ダンプでも運転するつもりかい」

「姉が経営する保育園の送迎バスの運転手さ」

「カズ、お前はどうして」

「農業では食って行けそうもないので、叔父のタクシー会社のアルバイトさ。ところで、君は今でもバイオリンをやっているかい。君の所属していた沖縄交響楽団の話題が新聞に載っていたけど」

「ああ、今でもメンバーさ、俺のささやかな趣味だ。園児の御昼寝タイムにも演奏しているよ」

「良い趣味だ。そのうちに演奏会を聴きに行くよ」

「お前の空手は今でも続いているかい」

「いや、館長がハワイに行ってしまった」私は人差し指を顔の前で上に向けて言った。

「ハワイ?」

「ああ、3年前に亡くなった。息子さんが道場を継いだが、手習い無しの素人だ。結局は休館日が続いているのさ」

「そうか、残念だな」

「所詮、空手なんぞは暇な学生のお稽古ごとさ。俺も暇だがな」私は自嘲気味に言った。

「俺は落ちたがお前は頑張ってな」そう言って茂光は出て行った。

 受験者控室に入って実技試験コースを指でなぞり運転操作のポイントを確認して過ごした。試験開始の25分前に緊張を解くためにトイレに入った。

 用を足していると試験官らしき男が入ってきた。制服ですぐに分った。私の隣で用を足しながら話しかけてきた。

「受験生かい」

「ええ、普通2種を受けます」

「どこから来た」警察官特有の命令調で尋ねた。

「名護からです」

「名護か、私も名護署勤務の若い頃に住んでいたな。宮里の海岸に大木の生えている拝所があるだろう。あの近くだ」

「私の生まれた村です」

「君、名は何というのだ」

「仲村です」

「仲村君か、仲村宏郎さんを知っているかい。その家に下宿していたのだ」

「宏郎さんは父の従弟です」

「宏郎さんは元気かな。随分とお世話になったからな。彼の経営する名護鉄工所はオリオンビール工場の建設を手掛けていて景気が良かったな。新任警察官の私に美味いものを食べさせてくれたよ。もっともヒートクジラの肉だけは苦手だったな」

「先月、正月の一門祝いで会いましたよ。長く胡坐をかくと膝が痛いと言っていましたがいたって元気でした。浦添市の本社の経営を娘婿の岸本さんに任せていると話していました」

「そうか、元気でいらっしゃるのですか。処で何回目の受験かな」

4回目です」

2種免許はそれぐらいが普通だな。落ち着いて自信をもって臨みなさい」

「ありがとうございます。がんばります」

私は試験官がトイレから出ていくのを軽く頭を下げて見送った。

2Aハスノハギリ

樹高20m、幹回り4mのハスノハギリの巨木に囲まれた拝所、女人禁制である。

 実地試験は定刻通りに始まった。試験は二組に分かれて実施された。試験官は私の淡い期待通りに先ほどの方あった。胸に町田義男と書かれたプレートがあった。今回はCコースであった。2度目の試験コースであり、名護自練でも繰り返し練習したコースである。私は具志堅さんの指導を思い出しながら自信をもって操作した。最後に駐車して車を離れるまで安全確認を声に出して行った。結果は16名中3名の合格者に入っていた。町田試験官が合格者の名前を読み上げ「以上の3名です。おめでとう」言った。

私はすかさず少し大きめの声で「ありがとうございました」頭を下げた。他の二人も私につられて頭を下げた。顔と上げると町田試験官の顔がほほ笑んでいるようであった。

 免許証の更新手続きの申請書を手にして窓口に向かっていると声を掛けられた。

「カズ君、何してるの」振り返ると義父の弟の芳邦叔父である。

2種免許に合格したので更新申請をしているところです」

「農業をしていると聞いたが廃業かい」

「すみません、針路が不安定で」

「若い時はそれでも良いさ。書類を貸しなさい、今日中に受け取れるようにするから」芳邦叔父は事務所の中に入って行ってすぐに出てきた。

1時間もすれば出来るだろう。それまでソバでも食べよう。まだ昼飯を食べていないのだよ。付き合ってくれ」

「忙しいのですね。いつから運転免許課に配属されたのですか」

「糸満署の少年課だけどな。少年事件の後始末で来たのよ。最近の高校生は無免許運転で検挙されると、仲間の免許保持者の名義で不携帯申告をするのだよ。今の若い者の仁義なんて嘘っぱちだよ」

「不義理の時代ですね」

「武政さんの会社でアルバイトするのかい」

「ええ、次の仕事が見つかるまで」

「去年だったかな。乗務員の期限切れ免許証更新の件で世話したことがあったよ。タクシー乗務員はスペアが少ないので経営が厳しいらしいね」

私はソバの小を御付き合いで食べた。程無くして免許証が出来たらしく取ってきてくれた。

「タクシー乗務員なんて長くするものじゃないよ。早く新しい仕事を見つけることだな」

「ありがとうございました」と言って別れた。

             (3)

 普通2種運転免許証の交付を受けた翌日、私は久志タクシーの代表者である武政叔父を訪ねた。事務所は国道329号の辺野古集落の谷を流れる小さな川沿いを、国道から海に向かって200mほど下った場所にあった。事務所の前をさらに500mほど進むと辺野古漁港である。名護市の東海岸は15年前まで久志村であった。名護町、久志村、羽地村、屋我地村、屋部村が合併して名護市になったのである。旧久志村の辺野古集落から南に向かって米軍の広大な演習エリアがあり、辺野古集落の北側と国道の東側に米軍基地のキャンプシュワーブがある。ベトナム戦争の頃には野戦訓練で多くの米軍兵士がシュワーブの兵舎に収容されていた。この基地で訓練を受けてベトナム兵士(通称ベトコン)と戦うのである。小さな繁華街は殺気立った米兵であふれ沢山のバーが営業をしていた。明日の命を知らぬ兵士が紙切れの様に米ドルをばら撒いていた。当時の沖縄の通貨は米ドルであった。しかし、ベトナム戦争の喧騒が終わり、未だ第1次中東戦争が始まらぬこの頃は兵士の数も少なく、閉鎖したバーの錆びついたトタンの看板だけが目立っていた。それでもバー街の入り口には鉄骨で出来た辺野古社交街のアーチ型の看板が威風堂々ウェルカムと表示されていた。今でも十数軒のバーは残っており、基地内から米兵が遊びに通っていた。

「こんにちわ」とあいさつして開いたままのドアから事務所を覗くと、政叔父さんがニコニコして私を迎えた。

「カズ坊、乗務員のアルバイトをしたいのかい」

「すみませんお願いします」

「会社は人手不足だが、経理を覚えながら。私の仕事を手伝っても構わないよ。幾つかの建設会社の会計帳簿も預かっているから」

「いえ、とりあえず乗務員からやってみます」

「そうか、それも経験だな」相変わらずニコニコしながら言った。色白で痩せて眼鏡をかけたオールバック髪型が似合う優男である。名護市を中心とした北部地区法人会の代表幹事の一人であり、見かけによらず胆力のある人物として知られていた。

 私は女性事務員に言われるままに書類に住所、氏名、年齢、学歴を日本語とローマ字で記入した、学歴は高校までとした。米軍施設の通行パスの申請書類らしい。提出先のオフィスはキャンプ瑞慶覧にあるようだ。事務所の壁に貼られた沖縄地図で教えてくれた。

「当分はピンク色の仮パスだが5カ月後に写真入りの本パスに更新できるだろう。但し不用意なトラブルを起こさなければな」

私はほとんど読めない申請書類の英文を見ていた。

「ああ、それからもう一つ言っておく、そのオフィスで親戚や友人に日本共産党員がいないかと質問されるはずだ。いないと答えなさい」

「変わった質問をするのですね」

「米軍は赤旗を極端に嫌うのさ。カズ坊は学生運動をしなかったのかい」

「革マル派と中核派がゲバ棒をもって争っていけど、僕らの頃は既に下火になっていました。僕の趣味にも合わなかったですね」

「革マルとか中核とか学生運動も色々だね」

「僕の友人にはそのような物騒な輩はいなかったけど、民青という共産党の下部組織に似た学生集団が活動をしていました。高校の同級生に熱心な男がいたけど僕には馴染まなかったです」

「仮パスを取ったら事務所に寄ってくれ、勤務割を考えておくから」

「お願いします」

「ああ、紹介しよう。こちらが事務の栄子さん。あちらが無線係の清造さんだ」

私は改めて挨拶した。

「よろしくお願いします」

「社長の自慢の甥っ子さんか、よろしな」ニコニコと挨拶した。

恐縮する私に栄子さんが言った。

「米軍オフィスは明日まで休みです。月曜日の10時までに受付を済ませば1時間程度でパスが貰えます」

「分かりました、月曜の午後にもう一度伺います」

私は叔父に挨拶して事務所を出た。事務所の隣の乗務員休憩室でたむろしている乗務員に会釈して駐車場に向かった。背中に複数の視線を感じた。彼らの目には学卒の乗務員希望者が奇異に映ったのかもしれない。或いは将来自分たちのボスになる存在かも知れないと感じたのかもしれない。

 月曜日の朝、彩夏をエデンの園保育園に送る準備をしながら妻に言った。

「キャンプ瑞慶覧まで行ってくる。夕方の彩夏の迎えの時間までには戻るから」

「何しに行くの、米軍施設でしょ」

「先週、普通2種免許を取ったと話しただろう。しばらく久志タクシーで働くことにした。米軍施設への通行許可証を貰いにさ」

「タクシー乗務員に米軍施設の通行許可証が必要なの」

「ああ、久志タクシーは米兵を乗せてベースの出入りが出来るタクシーらしい。乗務員に必要なパスだ」

「米兵相手に危なくないの」

「ベトナム戦争が終わって随分と経っているし。気の荒い米兵はいないさ」

「いつから勤務するの」

「今週中には始まるだろう。俺はスペアの乗務員だから週に3回くらいかな」

「あら、意外と少ないのね」

「うん、ただし、勤務は一昼夜だ。午前8時から翌朝の8時までの24時間勤務だ」

「噓でしょう。労働基準法違反だわ。体を壊してしまうわよ」

「俺より年上の、松さんがやっているぐらいだ。翌日は一日中休みだから平均すると君の勤務と変わらないぜ」

「難儀な仕事ね、どうせ長続きはしないわ。農協からの返事は無いの」

「採用の決定は、JA沖縄の総会後の7月頃の予定だ」

「それまでのアルバイトなのね。一生の仕事には出来ないわね」

「ああ、タバコ代と日本育英会の奨学資金の返済に充てるつもりだ」

「幾らなのよ」

23万円が残っている。借金を返済して新しい車の購入費用も少しは稼ぎたいし」実家からの借金の件は話さなかった。

「学生の頃の酒場のツケを今頃返すのね。バカな話ね」妻は不機嫌な顔で言った。『人生なんて所詮馬鹿な行動の積み重ねで成り立っているのだ』と口にしそうになり、振り向いて腰を落として彩夏を抱き上げて言った。

「さあ、行こうか。お母さんにバイバイして」

妻が不機嫌な顔を押し隠した笑顔で彩夏に手を振った。

3A嘉手納基地

広大な嘉手納エアベース。50mmのキャノンで1/4の範囲しか写せない

国道58号を南下して広大な嘉手納飛行場を過ぎ、キャンプ桑江の陸軍病院近くの北谷交差点を左折した。道路の両サイドは米軍基地だ。右がキャンプフォスター、左がキャンプ瑞慶覧である。広い芝生地の中にポツポツと平屋のオフィスと体育館よりも大きな倉庫が点在している。倉庫の前の駐車場には多数の大型軍用運搬車両が駐車していた。しばらく進むと左手に栄子さんが教えてくれた施設があった。蒲鉾状のトタン屋根の簡易施設である。終戦直後は小中学校の仮設校舎として使われたこともあるようだ。ゲートのガードマンは日本人であった。

通行証の申請に来たと伝えるとB棟に行くようにと言われた。建物の入り口にA,B,C,D,E,と表示されている。20台ほどが駐車できるあまり広くない駐車場に車を停めて施設に向かった。施設前の4段の階段を上ってふと振り返ると、広い芝生地とフェンスを隔てたはるか向こう側の斜面地に、ひしめき合って建つ屋宜原集落の家並みが見えた。第2次大戦の敗戦後に日本帝国陸軍に代わってやって来た米軍は、普天間、北谷、美里、越来、嘉手納村に住む人々の故郷も歴史も全ての存在を大型ブルドーザで地表からはぎ取り、深い土中の闇へと埋め込んでしまった。その痕跡を隠すように芝生の穏やかな緑で包み込んでいるのだ。私はフェンスを境に切り変わる空間のマジックに少なからぬ不快感を覚えた。

3Bフォスター

この地の人々は平地を追われ、基地の後背地にひしめき合って居住する

受付で書類を渡してその前のベンチに腰掛けた。分厚い米松の板で作られた頑丈な5人掛けの長椅子だ。私の村のキリスト教会にも同じ作りの椅子があった。確かウドラフと言う米国人の牧師が家族で住んでいて熱心な布教活動を行っていた。広い芝生庭を持つ海に面した教会であった。典型的なアメリカンスタイルの教会であった。硬いベンチに腰掛けると、遠い日々にクリスマスの時だけ讃美歌を歌って菓子やらを貰った記憶がよみがえった。教会の道向かいが名護鉄工の宏郎さんの実家でもあった。もっとも、その教会施設は、沖縄が日本復帰をした年に、屋根の上の十字架を取り外して外観を残したままソバ屋に変身している。教会はその隣の小さな敷地に日本人牧師によって開設されている。娘は牧師の妻が経営する保育園に通っているのだ。

ベンチの端には子供連れのフィリピン人らしい中年女性が腰かけていた。少し不安げな表情が気になった。このオフィスは軍人以外の軍関係者の施設への出入りを管轄しているのかもしれないと思った。

30分ほど待って呼び出された。幾つかの質問があったが、いずれも一昨日教えてもらった通りであった。只、予想しなかったのは両手の指先の指紋を丁寧に取られたことであった。私は犯罪者として扱われているような錯覚に陥り、軽い眩暈にも似た感覚を覚えた。トイレで指先のインクを洗い落として戻ってくるとピンク色のパスが出来あがっていた。パスと受取証にローマ字でサインしてパスを受け取った。Austhorized on base. Only Taxiと記載されていた。

オフィスの外に出て車に乗り込む前にあたりを見回した。緑の芝と鉄条網を眺めていると、私は既に一般社会人と異なり、米軍関連のある種の利権を持つ特権階級の仲間入りを果たしたような不可解な高揚感を覚えた。心なしかこの緑の芝生さえにも好感を覚えつつあった。

3C宮里ソバ

屋根から十字架が消えてソバ店に変身した。樹齢70年のガジュマルは全てを知っている。

帰りは国道330から国道329に入り、石川市で昼食のソーキソバを食べた。金武町のキャンプハンセンゲート前を通り、宜野座村、名護市久志地区へと東海岸を北上して午後2時過ぎに辺野古集落の久志タクシーの事務所に着いた。

この日は政叔父も清造さんも不在で事務の栄子さんが出てきた。出来立てのパスを渡すと許可番号を記録して返した。

「明後日の午前8時に事務所に来てください。車の準備をしておきますから」

「よろしくお願いします」と言って外に出た。

「おい、カズではないか」

振り向くと中学の同級生イサオがタクシーから顔を出して笑っていた。

「おお、懐かしいね。此処で働くことになったのでよろしくな」

「おい、おい、タクシー運転手なんてロクな仕事じゃないぜ。他に仕事は探さなかったのかよ」

「ああ、不景気で仕事も金も無いし、あるのは借金ばかりさ、全く泣けて来るぜ」

二人して声を上げて笑った。

イサオは無線機を掴んで言った

6号車これから向かいます」そう言って窓から手を振って車を発進した。

 保育園で彩夏を引き取って帰宅した。二人で風呂に入り洗濯機を回していると妻が帰って来た。彩夏が裸のまま「お帰りなさい」と言って妻に抱き着いた。「彩夏、寒いからパジャマを着けましょう」と言って妻から彩夏を引き取って着替えをさせながら言った。

「明後日の水曜日から仕事に出る」

「あら、早速仕事なの」

「政叔父さんが俺の為にスペアを採用せずにいたのさ。車を遊ばすわけにもいかないのさ」

「彩夏の送迎を考えないといけないわね」

「勤務日の夕方と勤務明けの朝はエデンの園に行けないな。多分、一日おきの勤務になるはずだ」

「分かった。エデンの園は午前7時から午後6時半まで職員がいるので何とかなるわ」

「すまんな、頼むよ」

「でも、貴方の居ない夜は彩夏に何と言えばいいの」

「お父さんは夜も仕事だと言えばいいさ。毎日朝の送りか夕方の迎えのどちらかに僕がいるのだから」

「そう言う問題ではないでしょう。貴方の居ない夜はあの子が怖がって寝付かないのよ」

「そのうち慣れるさ、お仕事だもんネ、彩夏」

「お仕事、お仕事」と言って彩夏は胡坐をかいた私の膝の上に立って、私の頬を両手でパチパチと叩いた。妻はふっと大きくため息をついて台所に出て行った。食器を洗う音が聞こえた。私は彩夏を抱き上げてベランダに出た。北の空に北斗七星を探しているうちに彩夏がいつの間にか私の胸に顔をうずめて寝息を立てていた。物事は何かを中心に移ろうものだ。不規則に動いているようでいて一つの秩序からはみ出すことも出来ずに。

 

               (4)

 水曜日の午前8時、運行管理者で無線係の清造さんから乗務員の業務内容と手順についての説明を受けた。

「貴方は正社員ではないアルバイト扱いですから売り上げを会社と折半とします。ただし、燃料代は貴方持ちです」

そして記録用紙のファイルを示して言った。

「スタート時の走行数値を此処に記入、その隣に納車時の数値を記入します。この欄に客の乗車時間と場所、同じく下車時の時間と場所だ。

このスイッチを押すと本日の売り上げが円で示されます。ドルで売り上げを払う場合は、その日の為替相場で栄子さんが算出して請求します」

「すごいですね毎日の為替相場が分かるのですか」

「この先の国道329号辺野古橋のたもとに久志農協があるでしょう。入口の看板にその日のレートが載っています。土日は金曜日のレートを使います」

「分かりました」

「ところでつり銭はありますか」

「いいえ」

「それでは、今日は立て替えておきますので、明朝の売り上げから差し引きます」アルミ製の四角い手のひらサイズの弁当箱にも似た箱を渡した。10円玉、100円玉、に交じって25セント玉が数多く混ざっていた。二十歳の頃まではドルが沖縄県の通貨であったので違和感はなかった。ドルと円の札入れも渡してくれた。

「つり銭入れはどこかで気に入ったものを探すと良いでしょう。其処の灰皿の上がつり銭箱を置く台座です。」

引き出された灰皿の上が上手く加工されていてアルミ製の釣銭箱が入るようになっていた。釣銭箱は蝶番で開閉できるようになっていた。一寸目にはシガレットケースにも似ていた。

「タクシーの操作方法は松さんから習うと良いでしょう。松さんチョット来てくれ」乗務員控室に向かって呼びかけた。

短く刈り込んだ白髪交じりの頭と陽に焼けた浅黒い顔は老獪な漁師にも似た風貌があった。只、その大きな眼だけはこの地域の変化に揉まれて生き延びてきた者だけが持つ強さと優しさを湛えていた。

松さんが助手席に乗り込んできて装備を説明した。

「後部座席の左側のドアは運転席の右下にあるレバーを引けば開き、下ろすと締まる」操作してみるとテコの原理が作用しているらしく軽い上下で開閉した。

「客が載ったのを確認してからレバーを降ろしてドアを閉めること。車を発進してから料金レバーを右に倒すこと。目的地に着いたらこのボタンを押して料金メーターの作動を停止する。タクシー代金を貰ってからドアを開いて客を送り出すこと。『ありがとうございました』の返事も忘れずに言うことにしろ。このボタンをもう一度押すとメーターがリセットされて空車の表示レバーが立ち上がる。ここまでが客の乗降の操作だ。簡単だろ」

「ああ、分かった」

「それから右ひざの前にあるスイッチを入れると車外の小さなタップが点滅する。緊急事態発生の合図だ。走行中の全てのタクシーがお前の車に注目するだろう。不慮の事故に遭遇した場合のタクシー同士の緊急信号だ。もちろん他社のタクシー乗務員も注目する。一人で働く者同士の安全対策だ」

「覚えておきます」

 「さて無線機だが。このボタンを押して通話する。離せばこちらからの通信は止まる」

「CB無線と同じ要領ですね」

「そうだな、簡単な操作だ。例えば名護に向かう時にはこう言うのだ。

6号車から本部どうぞ』『本部です、6号車どうぞ』『実車で名護に向かいます』『安全運転で行ってください』『了解です』で交信終了だ。必ず了解を入れて交信を終了することだ」

「了解です」

「それからお前はスペアの乗務員だから毎回異なる車両を運転するだろう。だから何号車かを間違えないことだ」

「分かった」

「そうだ、無線の交信範囲だが、西海岸は全く交信不能だ。南は石川までかな。FM電波だから直進方向のみの交信なのだ。無線アンテナを辺野古の一番高い場所である赤羽屋の屋根の上に設置してあるが、名護岳や恩納岳を超えることは出来ない。その方面に実車で行くときは必ず事務所と交信することだ」

「そうします」

「うちは車が7台しかないからトラブルは皆で対応しなければいけないのだ」

7台とは少ないな」

「最後に、仕事が終わったらガス補給して洗車機を通して室内のごみを拾って7時半までに納車だ。栄子さんが7時には出勤しているから。ガススタンドだが名護は宮里と大北にある。金武町は伊芸だ。石川市内の国道沿いにもある。5時を過ぎたらガスを入れて帰る準備をすることだ。どうせ客のいない時間帯だから。ガス充填するときはトランクを開けろ。燃料バルブを閉めてからガスを充填するから。ガス充填の操作はスタンドの係り員がするからお前はトランクのレバーを引くだけだ。そうそう、燃料代は自分持ちだからな」

「ガススタンドは意外と少ないのだね」

「ガス車自体が少ないのさ。それから車を離れるときはキーと釣銭は必ず持って出ることだ。そうだ、24時間勤務だから昼間の暇な時間帯に仮眠をとることも忘れずにな」

「武松先生、新米にキチンと指導したかな」暇な連中が車中を覗き込んで勝手にアドバイスを付け加えた。

「客が多い時には飯など食わずにノンストップでぶっ飛ばせ」

「休まずに走れば客は拾えるぜ。寝る暇など無いぜ、どうせ明日は一日中寝ることが出来るからな」

「車をぶつけて壊すなよ。この車の相棒が泣くぜ。全車が二人一組だからな」

最後に松さんが言った

「今日は練習日だ。名護でも何処でも好きなところを流してきな。まぁ、明日は間違いなく船酔いしているだろうが。誰でも最初はそうだ。頑張ってきなさい」

私は船酔いの意味が良く分からなかったが、それは確かに翌朝にやって来た。

 久志タクシーは名護市内の他の4社のタクシーとは少し変わっていた。フロントガラスには米軍基地に入ることを許される通行許可証のステッカーが貼られていた。米軍基地のゲートにある標識を模した15㎝程の円形の黄色い鳥居マークのデザインである。トランクのハッチの下部には長さ1m、幅15cmでAUTHORIZED ON BASEと目立つように書かれている。この文字はキャンプ・シュワーブの出入りを中心に営業する久志タクシーと、キャンプ・ハンセンを中心に営業する金武タクシーだけに許されていた。久志タクシーは白とブルーのストライプを基調にした車のデザインである。一方、金武タクシーはレンガ色に黄色のストライプを基調にしたデザインだ。どちらかと言えば久志タクシーの方があか抜けたデザインあると私は思った。

 久志タクシーが他社の車と大きく異なるのは米軍キャンプの通行許可だけではない。車種はトヨタコロナの2,000㏄エンジンを搭載していることだ。他社は1,6001,800㏄のトヨタコロナあるいは日産ブルーバードである。他社がノーマルタイヤを装着しているのに対し、久志タクシーは前輪に185サイズ、後輪はアルミホイルに205サイズのラジアルタイヤを装着している。高速走行仕様の装備である。運転席と助手席はセパレートされており、サイドブレーキレバーの上に左肘を置く肘立てを拵えてある。無論、一般車両の装備品ではなく車の内装工に特別注文して装着してあるのだ。まるでレーシングカーの運転ボックスのような仕様である。ハンドルは革のハンドルカバーで滑り止めとグリップ感を良くしてある。私の自家用車日産バイオレット1,6002ドアハードトップよりも明らかに馬力のありそうな車だ。私がこの車の仕様の意味を知るのは次回の勤務からであった。

 私は再び座席の右下の後部座席側のドアの開閉レバーを操作してドアの開閉具合を確認した。少しぎこちないが苦も無く作動した。そして4段ミッションのギアを1に入れてゆっくりと発進した。事務所の乗務員控室でたむろしている先輩乗務員に右手で敬礼して事務所を後にした。後ろから指笛の音が2度、3度と聞こえた。多分、小僧頑張れの意味であったのだろう。老獪な連中にとって既に失って久しい職業運転手としての新鮮な何かを、私の中に見たのかもしれない。時の流れは小さな感動を押し流し、退屈な日々に埋没することの虚しささえも忘れさせてしまうのだ。それが生きることの不安を隠してくれる人間の本能なのだろう。

辺野古社交街入口のウェルカムタワー

車を発進させて事務所前の急な坂道を辺野古社交街に向かった。赤羽屋前の交差点を左折してバー街の緩やかな坂を更に上ると、辺野古社交街のウエルカムアーチが見えた。その下を通り抜け、右折して国道329号を北上した。私は自分の居住地の名護市街地を流してみようと思ったのだ。本部半島の地理はある程度知っているが、辺野古から金武町にかけての東海岸を通る機会は少なく、この辺りの地理に疎かった。100mほど進むとキャンプ・シュワーブのゲートがあった。守衛の黒人兵に手を振ると白い歯を見せて手を上げた。久志タクシーを知っているようだ。シュワーブの第2ゲートを右に見ながら下っていくと辺野古ダムがあった。キャンプ・シュワーブの水がめである。左側の米軍フェンスに沿って進むと二見の交差点に出た。右へ行くと旧久志村の大浦、瀬嵩、丁間集落があり、その次が東村である。東村慶佐次集落には慶佐次ロランの電波基地がある。船舶用の長波の送受信基地だ。細く高い鉄塔から長いアンテナケーブルがいくつも張り巡らされている。米軍が管理しているが世界中の船が定期発信されている電波を利用して船の航行に利用しているようだ。長波は地球の電離層に反射して地球上をどこまでも飛び跳ねていくらしい。久志タクシーのFM無線とは異なる種類の電波だ。その先は国頭村の広大な原生林が広っている。東村高江集落と国頭村安波集落の境界に米軍の熱帯雨林演習場入口がある。ヘリポート、軍用車両駐車場、簡易宿舎、事務所を備えた陸上競技場程度のあまり広くもない敷地がフェンスで囲まれている。しかし、ベトナム戦争の頃は数千、数万人の兵隊がこの施設をベースにして野戦訓練に出ているのだ。追うものと追われるものとの二手に分かれた実践訓練も頻繁に行われた。その頃は安波、安田、楚洲集落を繋ぐ県道70号線は民間車両よりも軍事車両の往来が激しかったらしい。無論アスファルト舗装も無く、むき出しの赤土道路キャタピラ戦車が走ることも珍しくはなかったはずだ。

 三叉路を名護向けに進むとやがて曲がりくねった下り坂が続いた。私はブレーキを踏んでハンドルを切り返し、加速と減速を繰り返してブレーキ性能を確かめながら下って行った。キャタピラー重機の修理工場の辺りから平坦な道路となり世冨慶集落が現れた。国道58号との交差点で国道329号は終わる。そこを右折してドライブインA&Wの前を市街地に入った。名護市のシンボルツリー樹齢300年のガジュマルの下を通って名護十字路を横切った。左側が名護市公設市場でその端から西へ300mほどの歓楽街、通称みどり街が一本道を挟んで続いている。市場の朝の活気と相反して今は眠りについているようだ。その通りから出て来る者はいない。日の出と共に活動を始める者と落日と共に目を覚ます人種が住み分けている一角だ。繁華街に繋がる路地は人の気配が消えて空気が停滞しており、干潮と満潮の変わり目の潮止まりの感がしていた。私は目をキョロキョロと動かして道路の両サイドを絶えず観察しながらタクシーに合図する人を探した。乗客を拾うのである。心がワクワクした。まるで潮干狩りの浅瀬で銛を持って獲物を探すにわか漁師の心境である。しかし、潮干狩りと同様に容易に獲物に出会うことがない。道路脇に立つ人を見かけるとその手前で減速して私のタクシーの存在をアピールする。その人が反応しなければ加速して次の客を探すのだ。潮干狩りでも獲物と思って銛で突いても、むなしく海藻が絡みつくのはよくあることだ。そこら中に獲物が転がっているような楽な商売など無いのである。私は十字路の商店街から名護高校の横を抜け、白銀橋交差点を左折して再び58号線に入った。名護市営野球場の前から城十字路に向けて左折した。左手に私の実家の屋根の上の丸いブルーの水タンクが見えた。母は父と兄を仕事に送り出した後だろう。洗濯機を回しながらコーヒーを入れて、ニコチンの強い古い銘柄のバイオレットを吸っている姿を思い浮かべた。宮里ソバ店を過ぎてハスノハギリ大木が繁る拝所の木陰を通過する時に、拝所の向こう側の明るい場所に二人の女性が立っているのが見えた。近づくと一人の女性が手を上げた。私は減速して車を客の前で止めた。レバーを引いて開けた後部座席に年老いた女性が乗り込み、その後から付き添いと思しき若い女性が乗り込んだ。

「どちらまでですか」

「名護病院までお願いします」

「分かりました」

私は車をゆっくりとスタートさせた。

「兄さん、ちょっと、ちょっと、ドアが開いています」

若い女性がびっくりした声で言った。

「あら、あら」と苦笑いしながらドアを閉めた。

「開閉ドアのレバーの調子が悪くてすみません」

私は初めての客を拾ったことに緊張してレバーを降ろすのを忘れてしまったのだ。チラリと後部座席を振り向いた時にドアの隙間からアスファルトの路面が見えた。バックミラーに映ったハスノハギリの大木の緑の一群が次第に遠ざかって行った。

 料金メーターが二度反転して県立名護病院に着いた。360円を受け取り、本日の初乗り客を降ろした。人生で初めての客商売の仕事が始まった瞬間であった。メーターを元に戻して大きく息を吸い込み「フー」と長く吐き出した。

 名護病院の構内から出るとすぐに客がいた。客は連鎖するものらしい。後日、客がツキを呼ぶと乗務員仲間から聞くことになったがそうかもしれない。飽きずに雑魚と拾っているとやがて大物がやって来る。それは仕事でも遊びでも同じだ。人生の根底に流れている運・不運と呼ばれるものなのだろう。

 中学生を頭に二人の小学生らしき子供の3人連れだ。ドアを開いて3人を乗せた。水曜日の朝だ。休日でもないので身内が入院しているのかも知れない。

「何処までだい」

「仲宗根まで」

「伊差川廻りが近いと思うのでそれでよいかな」

年長の少年が小さくうなずいた。私は落ち着いてドアレバーを降ろして後部ドアを閉じた。そしてゆっくりと発進した。伊差川、我部祖河、湧川を経て今帰仁村仲宗根に着いた。

「仲宗根に着いたけど、どの辺りだい」

「その先の橋を渡って左に曲がってください」

大井川に架かる橋を渡って左折して二つ目の交差点近くで停めた。闘牛場の近くである。

980円です」と言った。

少年が千円札をポケットから出した途端、メーターがカチリと音を立てて料金表示を切り替えた。1,030円の表示となった。少年はびっくりした顔をした。そしてすぐに悲しそうな表情に変わった。

「あ、ゴメン、ゴメン、メーターが変わったけど980円だからね」

私は千円札を受け取り、お釣りの20円を渡してドアを開けた。子供たちは闘牛場と反対側の路地に急ぎ足で消えて行った。私は少年の表情に心が少し痛んだ。彼らはタクシーの運賃が千円未満であることを知っていて、誰か大人から千円札を渡されたのかもしれない。彼らの手持ち金の全てであったのだろう。子供3人がタクシーを利用することは稀なことだ。バスの運行が少ない本部半島廻りの路線で仕方なく利用したのだろう。私が料金停止ボタンを押し忘れたおかげで子供たちに余計な心配をさせてしまったのである。タクシー料金は走行距離の他に混雑時の待機時間にもメーターが作動して料金が加算されるのだ。私は本日営業を始めたばかりの無知で未熟なタクシー運転手であった。

 昼間は名護十字路を起点に名護病院前、市役所前からバスターミナル前を回り、那覇行きのバス乗り場前を8の字を描く経路で流した。昼飯に沖縄ソバを食べ、農道で立ちションベンをした以外は休みなく流し続けた。昼間の客は少なく、無意味に燃料のLPガスを燃やし続けているだけの気がした。それでも夕方4時半頃から客が少し増えた。買い物帰りの主婦である。220円区間を何度か乗せた。日が陰ってきたころまで続いた買い物客も午後6時過ぎには急に途切れてしまった。昼間の客は終了したようである。国道58号沿いのドライブインA&Wに立ちよりチーズバーガーとルートビアで夕食を取った。外に出ると夜気が既に冷たくなっており、街は暗闇と街灯の明かりのコントラストでデザインされた新しい景観に変わろうとしていた。昼間の総天然色のスクリーンが白黒の色彩変化の乏しい世界へと移り始めていた。それでいてこの世界こそが人の本性が露わになる世界のような気がした。昼間の太陽の光は強く乱反射して人の目を眩ませてしまい物事の本質を隠してしまうのだ。一方、夜は灯りと闇、白と黒、真実と虚構の二者択一を迫って来るのだ。もう少しすれば昼間の明かりでストレスを溜め込んだ浪人共が、目覚めたばかりのみどり街のゲートをこじ開けて盛り場をうろつき始めるだろう。街が新しい姿に代わるのは間もなくだ。

 私は夜の運転に備えてドライブイン駐車場の端に車を移動して仮眠をとった。

40分ほど寝ただろうか、午後7時半に車から降りて屈伸運動を繰り返して膝関節を解した。続いて腰、肩、首、肘とストレッチして車に乗り込んだ。眠気が消えて夜の運転モードに切り替わっていた。財布の中身を確認すると7千円余りの昼間の水揚げであった。

昼寝中の飲み屋街

 エンジンを始動して昼間の8の字コースを少し大回りで周回した。居酒屋から帰宅する客、住宅地からみどり街へ出かける客と少しずつ客の動きが始まった。昼間の動きと異なるパターンである。私は周回コースの半径を次第に小さくしていった。深夜営業のスーパーマーケット・オキマートの横からみどり街の直線に入り、名護市公設市場の前で右折して名護十字路を回って再び入口にも戻るコースをベースにした。周回距離が2㎞にも満たない一方通行路である。タクシー以外の車は酒、氷を配達する酒屋のワゴン車だけだ。この300m程のみどり街のメイン通りには細い路地が川の支流の様に幾つも流れ込んでいて、夜のショッピングモールの本流となっているのだ。名護市内には名護タクシー、八重タクシー、北部観光タクシー、屋部タクシーの4社があるが、夜になるとすべてのタクシーがこの無限回路に集中するのである。

 ローギアでゆっくりと回路に乗って定速で進む。幸運にも酔っ払い客を拾った運転手だけがこの回路から脱出できるのだ。この回路のタクシーはパチンコ台の玉と似ている。回路に侵入したパチンコ玉は運よくチュウリップのポケットに吸い込まれると金になるが、大抵の場合一番下の回収口に吸い込まれて再び入口へと発射されていくのだ。

 私は腹が空くと屋台で買ったフライドチキンを齧りながらひたすら無限軌道を周回した。みどり街の最後の客が帰路につくまでだ。みどり街の酔い客は雨上がりのカタツムリにも似て次々と暗い路地から這い出してきた。それを拾っては全速力で自宅に送り届け、みどり街の軌道に戻るのだ。午前2時を過ぎると客足は少なくなり、タクシーがあちらこちらで停まって仮眠を取り始めた。私も午前2時半に拾った大宜味村塩屋集落までの客を最後にみどり街から離れた。無限回路から脱出して那覇行きのバス停の近くの路肩に車を停めて仮眠を取ることにした。未だ夜と昼の選手交代が始まらぬ繁華街の外れの静けさの中に、ヒンプンガジュマルの巨大な樹冠が月の光をうけて周辺の建物と不思議なコントラストを成して浮かび上がっていた。私は四方のドアをロックしてシートを後ろに倒して目を閉じた。瞼の向こう側で繁華街のネオンサインが幻影となって点滅しており、深い眠りに落ちることも無くただ体を横たえていた。

 意識が完全に闇の中に埋もれてしまう前に誰かがドアガラスを叩いていた。反射的に飛び起きた。すぐ前にタクシーが止まっており、その車から降りてきたらしき男が私を覗き込んでいた。ガラス窓を空けると男が話しかけてきた

「タップが点滅しているがどうかしたのかい」

「えっ、すいません。膝でスイッチを押してしまったらしい」

私は眠気眼で頭を掻いて謝った。

「そうかい」と私より一回り程も年上のその男が笑いながら車に戻っていた。私が新米運転手だとすぐに見抜いたのだろう。それに名護市内ではあまり見かけない久志タクシーということも気になったのかもしれない。名護タクシーとタップに表示されていた。

名護市のシンボルツリー、樹齢300年のガジュマル

 私はシートを元に戻してエンジンを掛けた。東の空がわずかに明るくなり名護岳の輪郭が見え始めていた。ヒンプンガジュマルはしっかりと存在を浮かび上がらせていた。その下を通過して東江十字路を右折して商店街を周回して名護十字路に戻って来た。夜が鳴りを潜めて朝が立ち上がり始めているようであった。私は初仕事が終わったのを理解して大北ガススタンドに向かった。街並みがおぼろげに姿を現した。既に昼が夜の背中を押して立ち上がる儀式が始まっていた。

 私はスタンドのガス注入ボックスに車を横付けして、釣銭箱を手にトイレに立った。数歩進むと体がふらついた。トイレから帰って来るとふら付きが治まっていた。ガス料金を払って車を構内の隅に移動して、トランクから雑巾を出して車体とシートを拭いた。ハンドルを握って車を発進すると完全に意識がはっきりとして先ほどのふらつきは消えていた。あれが松さんの言った船酔いかもしれないと思った。私は乗客を拾う視線を歩道に送ることも無く名護市街地を通り抜け、世冨慶集落から国道329号の坂道を登って行った。そして20時間ぶりに事務所に戻った。

 事務所で水揚げを計算すると32千円で、走行距離は320㎞であった。記録用紙と釣銭箱を栄子さんに渡した。そして水揚げの半分を貰った。

「お疲れ様、明後日もお願いね」と彼女は言った。事務所の外では仕事が終わった乗務員が車を磨いていた。松さんが近づいてきて言った。

「どうだった」

「うん、あんたが言ったように、先ほど給油していると軽く船酔いがした」

松さんが大声で笑った。走行距離や水揚げを話すと

「名護市内ではその程度だろう。次は外人相手に運転すると良いだろう。久志タクシーは外人相手のベースタクシーだから」そう言って再び笑った。

帰り支度をしていたイサオが言った。

「おいおい、久志タクシーが名護市内を一日中流すと他の会社のタクシー運転手から睨まれるぞ。お前も怖いもの知らずだな。次は昼だけにしときなよ」

イサオは大きなあくびをして「お先に」と言って気怠そうに歩いて行った。私もつられるようにその後に続いて歩き出した。朝の無垢な光は私の瞳の中に無造作に入り込んで来た。視界が不鮮明な黄色の明かりで遮られ、慌ててポケットからサングラスを取り出した。私はふと自分が未だ夜の世界に馴染んだままでいる様な感覚を覚えた。

愛車の日産バイオレットのエンジンキイを回すとガソリンに点火してエンジンが穏やかに回転を始めた。24時間ぶりに目覚めたエンジンはファンベルトをキュルキュルと鳴らした。アクセルを二度、三度と踏んでエンジンを吹かすとタコメーターが跳ね上がった。濃厚なガソリンの臭いを含んだ排気ガスが辺りに広がり、その臭いが私を現実の世界に戻してくれた。ゆっくりとギアを入れて赤羽屋の坂を登り始めた。この仕事のオンとオフが入れ替わるのを感じてホッとした。ふと彩夏は何事もなく保育園へ行っただろうかと心が疼いた。

 

              (5)

 この日の車は5号車である。記録用紙に発車前の必要事項を記入していると、松さんがやってきて早速外人相手のレクチャーを始めた。

「タクシーメーターの料金をドルに換算する場合は1ドルを200円で換算すること。正式ルートの1ドル280円で換算すると5セント単位でお釣りを渡すことになる。面倒くさくてかなわん。300円前後は1ドル50セントのダーラー・フィフティだ」

「随分とアバウトだね」

「相手が何か言ったらこの紙を見せるとよい」

運転席の日よけからラミネート加工した書類を取り出した。キャンプシュワーブの司令官と取り交わした覚書の写しである。交換レートを1ドル=200円とすると英文で書かれているらしい。

「シュワーブのゲートを入ってしばらく下っていくと僕らのタクシー待機場所がある。そこがスタート場所だ。

「ああ、分った。後で行ってみよう」

「オット、ベース内は時速20k以下の走行だぜ」

「ほう、随分とゆっくりだね」

「奴らもネズミ捕りレーダーを使うぜ。あのプロ野球で使っているハンディタイプのスピードガンだ。大抵はUSOを過ぎてからの下り坂で計測するから」

「何だかせこいね」

1度捕まると1カ月間のシュワーブへの出入り禁止だ」

「分かった。覚えておくよ」

「僕らの場合、ベースの外でもネズミ捕りの場所を無線で知らせている。『浄水場付近無線感度1です。注意してください』とな。パトカーが巡回している場合は感度2だ」

「それは嬉しいな」

「それとそのフロントの小さな計測器はネズミ捕りセンサーだ。警察のネズミ捕りの電波は随分離れた距離からキャッチしてピッとなるから。但しベース内のスピードガンには反応しないからな」

「一昨日、名護市内でも鳴ったぜ」

「ああ、店の自動ドアにも反応するのが欠点だ。そんな場所では高速走行しないから大丈夫だ」

「オーケー、無線交信に注意するよ」

「最近開通した金武大橋と久志の浄水場前の直進はちょくちょくネズミ捕りをしているから昼間の走行は要注意だ」

「そうかい、後でチェックしてみるよ」

「土、日以外の日は午後4時以降にベースに入ると良いだろう。普段の日は訓練があるから昼間にタクシーを利用する兵隊はいないからな。国道329を流したり、名護市内をぶらついたり、適当に昼寝をして無理せずに夜の運転の為の体力を温存するのさ」

「それでベテランのオジサンたちはモクマオの木陰で寝ているのだね」

「そんなところだ。昼間は適当に稼いでくれ」そう言って松さんは釣銭箱を手に自分の車に向かって歩いて行った。

ブーメランと呼ばれる坂道(現在は迂回路の橋が架かっている)

 私は辺野古川沿いの谷間にある事務所から集落内の狭い路地を駆け上がり、辺野古社交街のアーチの下を通って国道329に出た。大半が漁師と軍作業員で構成される人々の集落は閑散としている。左折して国道329号を南に向い、ブーメランと呼ばれる辺野古坂を下った。坂の頂上と谷底の高低差が50mもあるのだ。谷底に信号機があり、青になるタイミングを見計らってアクセルを踏み込むのだ。そして一気に豊原集落の坂の頂上に向かうのである。そうすればギヤチェンジをせずにトップギアで何とか駆け抜けることが出来る。ブーメラン坂と言われる所以である。荷物を満載したダンプトラックは坂の上で減速して青で走り抜けるタイミングを計るのが常だ。不用意に谷底で信号待ちをすると、急坂で黒煙を上げながらローギアで必死に登る羽目になるのだ。もっとも深夜の信号は黄色の点滅に変わるのでノンストップで駆け抜けることになる。豊原、久志の集落の外れにある浄水場を右に見てさらに進むと潟原の交差点に出た。右の県道71号に進むと本島西海岸を南北に走る国道58号だ。私は赤茶けた潟原の広大な浅瀬を左に見て更に南下した。敗戦前の豊かな浅瀬の漁場は、国道329の西側に広がる米軍の戦車訓練場から流れ込んだ土砂で赤く染まっている。米軍の水陸両用艇は陸と海を往来して、トライアルサーキットの如く走り回るのだ。踏み鳴らした大地から噴き出した血潮が清楚な海を赤く染めるのである。此処は紛れもなく殺し屋達の為の訓練場なのだ。

水陸両用車が干潟を出入りするための登坂道

 潟原から宜野座村松田の集落までは緩やかなカーブが続く登り坂である。アクセルを踏み込んで駆け上がった。おそらく逆コースでは高速で一気に駆け抜けるラインだろうと思った。帰りのコースは相当にスピードが出るだろう。松田集落の端から緩やかに下り坂となり、やがて急勾配の窮屈なS字カーブが連続した。私はギアを落としてエンジンブレーキを効かせ、ブレーキとアクセルを小刻みに踏み分け、減速を極力抑えるコーナリングのタイミングを確かめた。ハンドルを左に切って谷底の宜野座川に架かる橋に車体を突っ込むと一気にアクセルを踏み込んだ。後輪が悲鳴を上げてアスファルトを噛んだ。登りの直線ではアクセルを幾ら踏み込んでも車の尻がスライドすることはない。後輪にエンジンの駆動を伝えるワイドラジアルタイヤを装着しているからだ。

s字カーブ坂の入り口(現在は右方向に直線の橋が架かり国道ではない)

宜野座川の橋からの登り坂の頂点を少し下ると道路のすぐ右に宜野座高校がある。ゆっくりと下って再び登った頂上が高速道路の宜野座インターの出口だ。左に惣慶宮の松林と宜野座中学の白い校舎が見える。そこから緩やかなカーブを下る途中の左側に真新しい東海病院がある。その下り坂を降りると漢那小学校のモクマオ並木が続く。600m程の僅かにカーブした直線から福地川を渡り、L字型の急カーブとなった緩やかな坂を登ると金武町中川集落に出る。アップダウンのコースの終わりだ。億首川の谷間に最近開通したばかりの金武大橋がかかっていて、キャンプハンセンまでは丘陵地帯を進むのである。

金武大橋

橋を渡ると県道104号との交差点があり、右へ行くと喜瀬武原を通って西海岸の国道58号へと続く。橋を渡ってしばらく進むとキャンプハンセンの第二ゲートがある。その辺りから金武町の集落が密集している。敗戦直後に集落の西側の平地は米軍に接収されてしまい、追い出された人々が東側のブルービーチの海水浴場へと続くなだらかな丘陵地帯に居住地を構えているのだ。両側に商店の続く金武町のメインストリートを1㎞ほど進むと第一ゲートが現れ、そこから伊芸集落へと下って行き、国道329号は平坦な砂浜の海岸沿いを石川市へと続いている。

 第二ゲートから集落に向かって200m程進むと、右側に辺野古社交街と同じ形状の看板が小さな路地の入口に建っている。牛庭社交街と書かれている。牛庭(ウシナー)とは闘牛場の意味である。この辺りの古い地名で闘牛の盛んな地域である。宜野座村から金武町に住む地元民の歓楽街だ。米軍人は第一ゲート向かい歓楽街を利用している。第一ゲートの向かいの歓楽街には質屋、洋裁店、ビリヤード、タコス、ハンバーグの軽食店、バー、キャバレーがひしめいており、中でもサングリアという大きなクラブがこの一帯の中心的享楽場所となっている。

昼寝中のクラブ・サングリアとその周辺の繁華街

 私はゲートを過ぎて消防署の前を左折し、歓楽街の路地へゆっくりと車を進めた。雑多な異物を飲み込んだクジラの胃袋の中のようなこの一角は、未だ眠りについたばかりであった。私はパンドラの箱を空けぬように静かにクジラの口から外に出た。石川警察署金武派出所の横を右折して辺野古に向かった。キャンプハンセンからシュワーブまでの間の道路の形状を確かめながらゆっくりと走った。漢那小学校前から宜野座村役場まで一人の客を乗せた。帰りのコースは比較的に運転が楽であった。宜野座川から松田集落にかけての急カーブも登りは苦にならないのである。

 潟原の交差点で初老の女性4名を拾った。

「兄さん、本部の海洋博公園までお願いします」

5号車潟原から海洋博まで実車で向かいます」

「了解」昼間の無線係を兼ねている栄子さんの声がした。

県道71号を許田集落に向かって走った。

「水族館とイルカショーの見物ですか」

「そうですよ。兄さん、こないだテレビでイルカの番組を見たけど、イルカって頭がいいのね」

「ほら、フリッパーというテレビさー」

「ああ、人気のあるドラマですね」

「人間の言っていること全部分かるのだよ。すごいねー」

県道71号を右折して国道58号を名護市内に向けて進んだ。

ご婦人の一人が言った。

「名護の人って野蛮人だねー」

「どうしてですか」私は面白そうに尋ねた。

「だってさ、あの頭の良いフリッパーを殺して食べるのでしょう」

「名護の人はヒートゥの肉と言っているらしいですね」

「なによ、人(ヒート)の肉と言ってるの。本当に野蛮ね。兄さん何処の人ねー」

「屋部の旭川集落生まれです」雲行きが怪しくなりそうで母の実家の地名を言った。

「旭川って何処ねー」

「ほら向こうに見える一番高い山、嘉津宇岳の麓ですよ」

「兄さん、名護の人と友達したら駄目よ。野蛮人になるから」

ハハハと私は力なく笑った。ちなみに名護の漁師が捕獲するのはオキゴンドウクジラである。イルカは賢くて捕獲が難しい上、肉が不味いので漁の対象では無いそうだ。

採石場の横を通るとご婦人方は珍しそうに岩肌のむき出した採掘跡を指差して何やら話していた。30分ほどで海洋博公園の中央ゲート駐車場に着いた。

「帰りはあそこに本部タクシーが止まっているからそれに乗って帰るといいですよ」

「ありがとう。午後1時に娘がここに迎えに来るから本部のソバを食べて帰るさー。兄さんバイバイ」元気なご婦人方だ。私は苦笑して車を出した。料金は4名で500円ずつ出し合って払った。バス代よりも安くついたはずである。

 日差しが強くなり始めた。ポケットからレイバンのサングラスを取り出して掛けた。黄色いレンズのシューティング用だ。私の以前の会社勤めは国頭村の果樹園の管理であった。出没するイノシシの駆除にレミントンM870を使っていた頃の名残だ。退職してからは秋の羽地水田の収穫後にカモを撃っていた。このサングラスをタクシー運転に使うとは夢にも思わなかった。

 名護市内を午後3時まで流して事務所に引き上げた。事務所前の水道で雑巾を洗って採石場前の道路で付いた泥をふき取っていると、細い目をした小柄な義信さんと大柄な賢雄さんが近づいてきた。

「海洋博まで行ったのか」

「採石場の前を通ると砕石粉を巻き上げてダンプとすれ違うので車が汚れてしまうね。県道84号の伊豆味周りにしたいけど、お客さんが採石場周りを望むから仕方ないね。」

「どちらも走行距離は同じだがな」と賢雄さんが言った。今帰仁村に住んでいるので道路事情に詳しいのだ。

「賢雄、モクマオの下で休んでばかりでは客が来ないぜ、タクシーは走らせて金を稼ぐ道具だから」ビーバーのようなおどけた顔で笑いながら言った。

「分かりました先輩、赤羽屋経由でキャンプシュワーブまで巡回します」

「了解、カズさん俺らもシュワーブの待合場所に移動するか。此処にいてもしょうがない」

「車を拭いてから行きます」

私はしばらくしてからシュワーブのゲートに向かった。ゲートでは小柄な黒人兵がカービン銃を持って立っていた。私は少し緊張したが右手を軽く上げて何気なくゲートを通過した。通行パスは運転免許証と一緒に尻のポケットにしまってある。トラブルでもない限りパスを見せることは無いのだ。門衛にとっても見慣れた久志タクシーであるし、フロントガラスの右上の通行ステッカーも目立っているのだから。

キャンプシュワーブのゲーと(現在は基地内の埋め立て工事の都合で出入りする民間工事車両のチェックの都合上から、国道への出入り口は日本の警備会社が請け負っている。基地内のゲートは米兵がガードしている)

 ゲートからは50m近い幅の道路が下り勾配で海まで続いている。道路は水平に近く道路の両サイドへの排水勾配が全くない。まるで緊急時の滑走路の様だ。センターラインの遥か先に砂浜が見え、その先の沖のリーフで白波が立っていた。USOと呼ばれる基地内スーパーマーケットの近くからゆっくりとした下り坂となり左側に3階建ての兵舎が並んでいた。途中に80mサークルの広場があり、ブラックフォークと呼ばれる野戦用ヘリから、5人の兵士が一本のロープで宙吊りになって訓練を受けていた。その先の右側の砂浜に近い場所に体育館、映画館、カジノやらの娯楽施設が立っていた。僕らはその近くに車を並べて停めた。隣の建物はウエイトトレーニングジムらしく、時折バーベルを取り換える際の乾いたカランという音が聞こえた。

 宙吊りの兵士の訓練を見て、

「あれは落ちないものかね」と私が言いうと

「以前にあれが落ちてな。1週間ばかり僕らはシュワーブへの出入りが止められたことがあったな」と松さんが言った。

「そういえば、随分前にあったな。ベトナム戦争の終わり頃の事だったな」と賢雄さんが言った

 最後尾に停めた私の車に近づいてきて義信さんが言った。

「アメリカーが、『班長、ハウマッチ、ハンセン』と言うから、『テンダーラー、オッケー』と答えるのだ」

「それだけですか、メーターは関係ないのですか」

「もちろんウチナンチュ(沖縄)客と同じくメーターは作動させるさ。アメリカーにレートは解らないし、みんな統一した料金だ」

「了解、そうします」

「ゲートまではゆっくりと走って、国道に出たらアンタが飛ばせるだけアクセルを踏んだらよいさ。前の車に追突しない程度にな」

「了解です」

12分では金武のバー街に着くから、そこで客が居れば拾って、いなければ此処に戻って待つのさ。午後10からは金武のバー街で待機。シュワーブに戻る兵隊を乗せるのさ。その繰り返しさー」

賢雄さんがそばから口を挟んだ。

「金武のバー街からハンセンの部隊の中までは1ドル50セント、ダーラー・フィフティだ。簡単な料金だろ」

5セント、10セントのお釣りは要らないのですね」

「あたりまえだよ、計算機をもって運転が出来るかよ。大抵はキープ・チャージと言って釣銭の50セントを受け取らないから。アンタのチップだ」笑いながら言った。

陽が陰り始めた頃、一人の婆さんが僕らの前を横切った。義信さんが声を掛けた。

オバアサン、相変わらず元気だね」

「オバアサンとは誰ね」と周囲を見渡し、僕らを睨み付けてゲートに向かって去って行った。

「あのお婆さんは娯楽施設の床掃除を終わると、ゲームセンターのスラグマシンで遊んでから帰るのさ。タクシーはめったに乗らないぜ」

70歳過ぎと聞いたぜ。孫の世話とか他にやることは無いのかね」賢雄さんが沈んだ声で言った。

戦闘ヘリ・ブラックホークでの宙吊り訓練は既に終わったのであろうかホバリング音は消えていた。久志岳に夕日が隠れると東の海岸から潮騒がはっきりと聞こえ始めた。

 あたりがすっかり暗くなった頃、Tシャツにジーンズ姿の若い兵士が次々とやって来た。いつの間にか私の後ろに付けていた松さんが言った。

「ほれ、お前の番だ。賢雄さんについて行きな」

私は義信さんのアドバイス通り「テンダーラー、オーケー」と言って3名の若い兵士を乗せエンジンを始動した。久志タクシーが隊列となってシュワーブの坂をゲートに向かって登り始めた。まるでF1レースのスタート前の予備走行に似ていた。その中に私の5号車も混ざっていた。

 客の若者たちは兵士の気配がせず、そこいらの学生寮から飛び出してきた健康的なヤンキーである。ベトナム戦争が終結して既に7年が経っており、米兵が派遣される国際紛争は発生していなかった。紛争の火種は既に発生しているだろうが、プロの殺し屋集団が大挙して参加するお祭りは、大火となって米国の身勝手な大義名分が発令されてからだ。この時期の新兵達を見ていると米国内の失業対策によって入隊したかのようであった。ゲートを出るときに若者たちは窓から手を振って歩哨の兵士に奇声を飛ばした。英語の解らない私でもこれから遊びに行く者たちの優越感がその奇声から聞き取れた。

 ゲートを左折して辺野古川の谷底まで下り、そこから豊原集落まで登っていく直線である。向かいの豊原側の丘の上から点灯を始めた幌付きの大型軍用トラックが次々と姿を現して降りてきた。目を光らせたカーキ色のカブトムシはギアをシフトダウンする度に運転席の屋根の上まで伸びたマフラーの排気口から黒煙を吐き出した。夜がゆっくりと目覚め始めたようだ。タクシーは時速60㎞の穏やかな速度で南下していた。「急ぐことは無い」。夜は始まったばかりだと先輩車両が私に語り掛けている気がした。私は車間距離を30m以内に保ち、一般車両が割り込まぬように付かず離れずに追いかけた。宜野座川に降りる曲りくねった坂道も気にすることもなくゆっくりと通り抜けた。帰宅を急ぐ車両で国道329号は珍しく賑わっていた。時折石川警察署のパトカーが警告灯を点滅させてすれ違った。タクシーをキャンプハンセン第一ゲート向かいの繁華街の交差点で停めた。助手席の若者が10ドルを渡した。左奥のシャングリアのネオンが点滅しており、卑猥なクジラが口を大きく開いて夕食をねだっていた。繁華街は目覚めのカーテンを開けて客を迎え始めたばかりだ。米兵の姿は疎らである。私は最初の餌をサングリアの女王様とその取り巻きの女たちに運んだのだ。僕らは餌の運搬を始めたばかりだ。私は先輩車両を追って右折してキャンプシュワーブに引き返した。

 僕らはせっせとキャンプシュワーブから餌を運んだ。白い者、黒い者を別々に運んだ。白人と黒人を取り混ぜて運ぶことは無かった。夜の色が濃くなるころから僕らの配送速度は速くなった。午後8時を過ぎると通行車両が少なくなり、集落の住宅地を抜けると一気に加速した。対向車は久志タクシーのタップを屋根に載せた車だけだ。フロントの空車を示す赤い表示と実車を示す緑のランプが奇妙に目立った。片側1車線の直線で同僚の車とすれ違うたびにブンという高速走行車両の風圧にも似た音が響いた。スピードメーターが時速90㎞を指していたが。私はスピードを感じることも無く、只、先導車両についているだけだった。片道12分の運搬時間が10分に縮まっていた。午後9時まで僕らは女王様の餌をひたすら運び続けた。

 午後9時から10までが潮止まりで僕らの休憩時間だ。ベース内の米兵は出尽くして、今はこの辺りのバーやディスコで騒いでいる時間帯である。僕らは近くの屋台からフライドチキンやハンバーガーを買ってで夜食とした。ハンバーガーに人気があった。分厚いひき肉に輪切りの玉ねぎとチーズを挟んだだけの単純な作りであるが、米兵好みのスパイシーな味とボリュームは名護市内のドライブインA&Wでは味わえない美味さである。12ドル50セントのハンバーガーと缶コーラで私の胃袋は十分に満足して翌朝まで何も要求しなかった。

 午後10時を過ぎると金をむしり取られて店から放り出された若造共が通りをうろつき始めた。しばらく仲間同士でふざけあっているがタクシーでベースに帰るのが常である。キャンプハンセンの宿舎に歩いて帰る者は少ない。1ドル50セントで帰ることが出来るのだ。一人50セントのワリカンである。ハンセンは広大な敷地である。ハンセンと金武の繁華街の往復は金武タクシーが専属の如くに配送していた。僕らの仲間はベース内での低速走行を得意としていなかったし、車自体も低速域よりも高速域でのエンジンの回転がスムーズであった。新車の頃から高速運転を日常にしている車の特徴である。トップギアの回転がスムーズになるのは時速60㎞を過ぎてからである。車は2か年ごとに交換していた。一日450km以上を走らせると1年では16万キロ以上を走るのである。

自家用車両の一生分を2年で走るのだ。見た目以上に足回りやエンジンが摩耗してしまうのである。

 僕らは夕方から空車で走ったラインの逆コースを今度は実車で走るのだ。酔っ払いの帰宅コースである。酒の入った若造共はテンションが上がっており、一般車両を追い越すたびに奇声をあげた。とりわけ米軍のMPジープを見ると「班長ゴー、ゴー」と言って追い越しを促した。私が短い直線でアクセルを踏み込んで時速100㎞で一気に追い越す瞬間に、窓から手を出して中指を一本立て何やら罵声にも似た雄叫びを上げた。そして私の左胸のポケット1ドル札を押し込んだ。

 私は米兵を相手にすることなくひたすらハイライトのビームに浮かぶセンターラインの先の変化を注視した。未だ光届かぬ先の闇の中からいつ飛び出すか分からない魔物の出現に意識を集中する必要があった。白いセンターラインが見開いた両眼の瞳孔から後頭部へ途切れることなく通過していった。私は今朝出がけに松さんが言ったことを思い出した。

「僕らの会社の運転手が事故で怪我をすることはめったに無い」

「ほう、安全運転優良者の集まりとも思えませんが」

3名ばかり大きな事故を起こしたが、怪我ではなく即死だった」

「はあ・・・」

「お前もハンドル操作が出来る範囲でアクセルを踏むことだな」

「はい」

「本当の事だぜ」と声を落として義信さんが言って続けた。

「最後に死んだのが辰雄さんだったな。確か松田の谷底の宜野座川を飛び越えて向かい川岸のコンクリートに激突だったさ」

「こないだ3年忌だった。タクシーが20mは飛んだな」

「気をつけろよ、兄さん」義信さんが細い目を更に細くして私を脅すように言った。

 私は対向車の発するライトに注意しつつ、高速で狭く感じる道路のセンターラインを少し跨いで不意な障害物に対応できるように走行ラインを取った。片側1車線では車のコントロールに余裕がなかった。それでも松田から宜野座川の川底かけてのカーブが連続する下り坂では、205の後輪ラジアルタイヤがジリッ、ジリッと滑るのがハンドルに伝わった。その度に股間がキュッと縮み上がった。米兵を降ろすたびにシート下からタオルを取り出して、ハンドルと手のひらに付着した脂汗を丁寧にふき取った。信号機が点滅に変わる深夜には、配送時間が片道8分まで短縮していった。

 午前1時ごろから客足が減り始めて午前2時半を過ぎると手持ちぶたさで仮眠をとるのが常のようだ。私はホステスを石川市と金武町の境界に近い市営団地に送った後、伊芸のガススタンドで給油と洗車を済ませてから繁華街に戻った。仲間の車両は既に去っていた。繁華街のネオンは既に消えていて眠りの時刻を迎えていた。私はゆっくりとクジラの胃袋にも似た雑多な看板の下を通り抜けた。フロントパネルの時計は午前5時を少し過ぎていた。国道329号を北上して辺野古の事務所に向かった。タクシーメーターを回送表示にして宜野座の集落を通過した。村々に人影は無いが、確かな人の気配がうごめき始めていた。既に夜の喧騒が闇の寝床に吸い込まれてしまい、新たな光の乱舞が始まろうとしていた。私は豊原集落の丘から急ぐこともなくゆっくりと下って辺野古橋を渡って右折した。2階建ての久志農協ビルは未だ眠りの中にいた。その横を抜けると久志タクシーの瓦葺の小さな事務所である。駐車場には運転手の居ないタクシーが寝ぼけた顔つきで並んでいた。私は7台目の最後の車をその隣に並べた。7台の車を15名の乗務員で乗り回すのである。事務所には清造さんが待っていた。事務所で売上金を清算した。メーター料金が42,530円、走行距離470㎞であった。売上金額が6,530円と210ドルであった。米兵相手のタクシードライバーの初めての業務が終了した。辺野古坂を登ると東海岸はるか先の太平洋の水平線が赤く染まり始めて新しい一日が動き始めていた。私は朝の景色が前回と少し変化しているのを知った。

                 (6)

 午前8時、私は雑貨店赤羽屋の前から女子高生を乗せての名護高校に向かっていた。前に一人、後ろに4人の5名の乗り合いだ。一人当たり200円でバス料金の合計より少しばかり安いようだ。尤も彼女たちは予定のバスに乗り遅れただけにすぎない。タクシーを利用することはめったに無いのだ。大抵は定期券で通学するか、知り合いの大人の車に便乗しているのが常だ。二見交差点をから世冨慶集落に続く下りの急なカーブで車体が揺れるたびに奇声を上げた。若い女の子の体臭いが車内に漂った。高校生ともなると立派な大人である。洗い髪のシャンプーの香りに混ざって若い雌の匂いを発散している。女生徒は集団の勢いで私に突っかかって来る。

「この兄さんの運転怖いさー」等と勝手なことを大声で話して楽しんでいる。何しろ箸が落ちても笑い転げる年ごろの女の子達である

右折して58号線から市内に入った。東江十字路の信号機の前に警察官が立っている。東江小学校の子供たちの登校時間に合わせて交通指導をしているようだ。

「警察官が交通誘導をしている。誰か後ろの一人は伏せておきな。定員は4名だから捕まっちまうぜ」

「ええ、うっそー」

「捕まったら遅刻だぜ。俺も罰金だしな」

小柄な一人が他の生徒の膝に伏せた。その上にカバンを乗せて隠した。

「ついでに息も止めておきな」私は冗談を言いながら警察官の横をすり抜けた。バックミラーに映った警察官の姿が十分に小さくなったのを見届けてから言った。

「もういいぜ」

「はぁ、死ぬかと思った、息が止まって呼吸困難になったじゃない」車内が爆笑に包まれた。名護高校の100m手前で車を停めて200円ずつ受け取り、20円の釣銭を助手席の女の子に渡した。

「ありがとうございました」と丁寧に頭を下げて出て行った。私はUターンするために後続車両が通過するまで女生徒を眺めていた。遅刻しそうだと話していた割には急ぐでもなくお喋りをしながら校門に入って行った。10年と少し前には私もあの門から通学していたはずだが、退屈な日々であった記憶しか残っていなかった。若い女の子の体臭が社内に残っていた。普段の夜間走行ではシャングリア帰りの黒人兵の体臭に耐えられず、窓を開けて走行するのが常であったが、今朝はその必要もなかった。

 朝の市街地は活気があり、4回ほど近距離の客を運んで10時に世冨慶の坂道を登って事務所前に戻った。坂の途中に事故車があった。左カーブの壁に接触してた車は、排水溝に脱輪してフェンダーが潰れていた。事故処理は終わっており大事に至った様子でもなかった。

「名護迄お客さんを運んだのか」

「女子高生を5名乗せたが、騒々しい連中で全くかなわんぜ」

「定員オーバーだが、女子高校生なら6人まで乗るさ」

「世冨慶の坂で事故があったよ」

「あの下り坂は注意しないとな。山陰で陽当りがわるいだろう。雨が上がっても路面が乾き難いのだよ。」

不意に事務所のガラス窓が開いて栄子さんの声がした。

「義信さん電話があったわよ」

「なんだ」

20分後に名護市内のレストラン大阪屋の前でお客さんが待っているって」

「カズさん、アンタが名護の話をしたのから、僕に運が回って来たみたいだ。ありがとよ」と言って車を出した。

「あれは長距離客ね。義信は名護市内に年寄りの知り合いが多いから。それに知り合いには割引料金で載せているだろうから」

私が怪訝そうな顔をすると隣から松さんが言った。

「どうせ昼間は暇だし、3割引きで那覇まで行っても元は取れるさ」

「へぇ」

8,000円の約束をすると料金メーターをそこで解除して回送に切り換えるのさ。まぁ、違法ではあるがな」

「そりゃそうだよ」

「でも、あのタクシーはあいつが400万円で権利を買っているのさ。ある意味でオーナーの特権だな」

「個人タクシーでもないのにタクシーの権利が買えるのかい」

「会社と彼との共同経営と言うことかな。これも法律違反だがナ」

「彼は特別ですか」

「そんなことは無い、7台の全車両に持ち主がいるのさ。俺も政兄さんもそれぞれ1台のオーナーさ」

「そんな仕掛けもあるのか」

「なんだったらお前も1台買っておけば。増車の申請中だから」

「考えておくよ。その前に奨学資金を返さなくてはネ」

「そうだな、借金は返さなくては」

再び栄子さんが声を掛けてきた。

「松さん、あなたの好きな千代さんが赤羽屋の前で待っているってサー」

「あの博打バーさん、今日もスラグマシンで遊びに行くつもりだな」

「大した金持ちにも見えないが」

「あのバーさんはシュワーブ内に沢山の土地を持っているそうだ。亡くなった旦那が市会議員をしていたので未だにシュワーブ内の将校に顔が効くのさ。子供がいないので唯一の楽しみらしいぜ」

「松さん、千代さんが待ってるヨー」栄子さんが大きな声で促した。

「はい、ただ今出勤します」

松さんは笑いながら車に乗り込んだ。

「おい、今日はペィデーから最初の週末だ。米兵共は金を持っているぜ。昼間は体力温存だ」

「オーケー」

 兵隊の給料日のペィデーは毎月、1日と15日である。この頃の兵士は戦力としての兵士では無く、兵力としての兵士の数合わせであった。米国は兵士の数を兵力として世界にアピールしているのである。一定量の兵士の数を保つために失業対策並みに兵士を募集しているきらいがあった。地域紛争に派遣される機会もなく、訓練で命を落とす確率は一般社会の建設労働者の業務上過失致死の確率並であろうか。彼らはベースにいる限り衣食住は無料だ。おまけに給料を貰っている。ベース内の日用雑貨を扱う雑貨店USOの商品は全て免税品だ。その他にレストラン、映画館等の娯楽施設まで全て揃っているが高級品ではないだけである。兵士として質実剛健な生活ではあるが、雄狼を集めた集団がおとなしく群れるわけがない。息抜きの金を手にする給料日が毎月2回もあるわけだ。サラリーマンの毎月1回の給料日と本質が異なるのである。金を手にすると女を求めて夜の繁華街で羽目を外し、ベース内のレストランではなく市内のレストランで神戸ステーキを注文するのだ。半月の給料を使い果たすとベース内でおとなしく過ごし、次の給料日を待つのである。本国から遠く離れた異国の小さな島で暮らすストレスを、半月ごとに放出する術を彼らなりに心得ているのだ。その恩恵に与るのが兵隊相手の社交街と運搬係のベースタクシーである。兵隊は食うのに困らないのでペィデーの週内で給料の殆どを使い切ってしまうようだ。それ故、金曜日がペィデーだと日曜日の晩までにそのほとんどを散財してしまう。次の週からはタクシー利用者がガタ落ちするのだ。毎度のパターンだ。

 米兵のタクシー利用の多いペイディ直後の週末は、7台の久志タクシーで多くの兵士を運ぶことは出来ない。シュワーブとハンセンの間には黄色い車体の米軍専用バスが運行しているが昼間の間だけだ。僕らは7台の車を駆使して往復25分で21名の客しか運べないのだ。僕らのタクシーからあふれた客はゲートの前で名護市内からやって来た屋部タクシー、名護タクシーを利用するのである。彼らのタクシーはAUTHORIZED ON BASEの表示が無い。いわゆるベースタクシーではないのであるが、この日は通行許可証を持たない他社のタクシーが僕らの獲物のおこぼれをかっさらっていくのだ。但し行きだけである。帰宅する時に他社のタクシーに乗ることは無い。ほろ酔い気分のままゲート前で降りて広いベース内を歩いて宿舎まで帰る兵士はいないのだ。他社のタクシーも心得ていて午後8時以降は名護市内の繁華街へ移動していくのである。週初めのペィデーは小出しではあるが断続的に僕らに仕事を出してくれるのである。今日はペィデー最初の週末である。若造共が一気にエネルギーと金の放出する夜だ。

 午後630分、太陽が久志岳に隠れた頃、ジーンズにTシャツ姿の若者たちがタクシー乗り場に集まって来た。

僕らは次々と彼らを運んだ。それでも彼らは次々と兵舎からやって来た。最後の久志タクシーが出てしまうとゲートに向かって歩き始めた。他社のタクシーを拾うためである。3階建ての白い兵舎が規則正しく配置されたベースの一角はまるでスズメバチの巣である。30m間隔で兵士を乗せた3社のタクシーが金武町の繁華街目指して走った。僕らは競い合うでもなく淡々と往復を繰り返した。次第に夜が深くなっていった。そしていつもの様に運搬作業は一時停止した。つかの間の休息の後にキャンプシュワーブへの返却運搬が始まるのだ。金武タクシーと久志タクシー以外の車両は既に消えていた。

 僕らはハンバーガーやフライドチキンをコーラで胃袋に流し込みながら雑談にふけって潮止まりを過ごすのだ。今は夜の満潮時だ。やがて引き潮になって潮が動き出す。それまでは釣果が望めない時間帯である。やがてサーキットにサイレンが鳴り響き、チェッカーフラッグ振られるだろう。それまではレーサーの束の間の休憩時間だ。

 クラブサングリアに通じる交差点の角にビリヤードのゲームセンターがある。僕らはゲームセンターのシャッター前の駆け上がりに座って時の過ぎるのと待った。ボールのカンとぶつかる乾いた音が私の神経を穏やかにしてくれた。

金武町中川集落から久志タクシーに通っている仲田さんが私に言った。

「カズよ、お前も座ったままでは隣のアメリカーと同じ高さだぜ」

隣の若者をちらりと見て言った

「ああ、チビの兵隊だな」

「ヨォ、メン、スタンダップ、プリーズ」

童顔の若者が立ち上がった。

「カズ、立ってみなよ」

立ち上がった私と若者を見て、手のひらで高さを比較しながら言った。

「カズ、おめー、そのアメリカーより背丈が5寸は低いぜ」

「そうかい」

「うん、何だな。座ると高さが同じで、立つとあいつが5寸高いということはだ。座高は同じで足があいつは5寸ばかり長いと言うことだな。つまり、お前は胴長短足の純粋な沖縄人だな」

仲間が一斉に笑った。私が若者の前で足の長さを比べる真似をすると、外人共にも僕らの会話の意味が分かったのか一斉に笑った。若者が何か話しかけてきたので中川さんに言った。

「中川さん、このヤンキーが何か言っているぜ。相手して下さいよ」

「バカ言え。俺はアメリカーが嫌いだよ」

真っ黒に日焼けして禿げ頭を丸刈りにした小太りの姿は、繁華街の暗がりの中に紛れ込んだプエルトリコ系の兵士さながらである。私は彼の言動の中に潜む少し棘のある意図を知りながら先輩の顔を立てて笑いを誘ったのだ。

義信さんが口を開いた。

「こないだ乗せたパンパン女から聞いた話だがヨ。アメリカーは女の股ぐらに顔を突っ込んで女の穴を舐めるのが好きだとヨ。俺は気持ち悪くて絶対できない」

「義信兄さん、母ちゃんに試してみなよ。母ちゃんが泣いて喜ぶかもしれないぜ。アメリカー女も沖縄女も女の持ち物は変わらないはずだぜ」

イサオがニヤニヤしながら言った。

「バカ言え、若くもない母ちゃんの股ぐらなんかに興味ないよ」

「そうかい、では今日の稼ぎで若い女を買って試してみるか」

皆がどっと笑った。

義信さんはまるで小学校の先生に注意された子供のような顔で頭を掻いた。

路地の街灯の下で外人相手に空手の組手で遊んでいる男がいる。髪を短く刈り込んだ肩幅の広い少し腹の出た50歳前後の男だ。

「イサオ、あいつは誰だい」

「金武タクシーの宜保さんだ。剛柔流2段らしいぜ。お前相手してみるかい」

「バカ言え、年寄り相手につまらぬ遊びはごめんだね」

学生の頃にかじった沖縄拳法の組手と少し変わっているようである。もう少し練習に熱を入れておけば黒帯を閉めたかもしれないと思った。そして、最近から住み始めた宇茂佐集落の公民館の近くに、沖縄剛柔流空手道場の看板が立っていたのを思い出した。しかし今更空手を習うこともなかろうとおもった。私の様な堪え性のない男が武道の修行などに耐えられるわけがないし、流派を代えても黒帯にたどり着けないだろうという気がした。

僕ら停めたタクシーの前で3人組が運転手を探して呼んでいる。

「班長、ハンセン、ハンセン」

あいにく金武タクシーの姿が無い。

「カズさん、アンタ運んでくれ」

「仲田さんの車が先頭で、俺の車はその後ろだぜ」

「仲田やつは何処に行ったのかな。1ドル50セントの短距離だし、アンタ難儀してくれ」

「分かった」

私はのろのろと立ち上がって3号車に向かった。3名の白人を乗せるとゲームセンターの前からゲートに向かった。バックミラーを見ると仲田さんが両手を腰に当て、口をポカンと開いた間抜けな顔をしてこちらを見ていた。私は彼のアライグマにも似たその顔がいっそう可笑しくみえた。そしてノロノロ運転で客を兵舎まで運んだ。退屈な仕事であるが金武タクシーの乗務員はこの単純な仕事でペイディの週末には50万円ほどの水揚げがあるらしい。彼らの車には無線機が無く、短距離運送が中心である。町内客は会社への電話連絡で会社に待機したタクシーが対応するらしい。この地域独特の営業形態である。

 私は繁華街に戻る途中の事務所前で兵士を一人拾った。この時間に軍服姿である。車に乗り込むと兵士が言った。

「キャンプコートニー」

「イェス・サー」きちんとした身なりに誘われて丁寧に答えた。

3号車から本部へ、ハンセンからキャンプコートニーに向かいます」と事務所に連絡した。ゲートを出てから再び事務所に無線を入れた。

「3号車から本部へ、キャンプコートニーへの道順を教えて下さい」

「本部から3号車へ。石川市の東恩納交差点から500m程行くと三叉路があります。そこを左に曲がってください。天願方面への標識があるはずです。5㎞ほど行くと左手にフェンスがあります。そこがアメリカ海軍のキャンプコートニーです」

「了解」私はキャンプコートニーの位置を知っていたがわざと会社に無線を飛ばしたのだ。繁華街で油を売っている同僚に見栄を切ったのだ。この基地には海に面したクレー射撃場があり、鉛玉による海藻ヒジキ漁の汚染が新聞に載っていたのだ。私のサラリーマン時代の射撃仲間が時折利用していた。利用料金と弾代が格段に安いらしい。只、海に向かって撃つのでクレービジョンが風に煽られてヒットが難しいと話していたのを思い出した。

キャンプコートニーのゲート付近は工事中であり、泥んこ道を通って大きな事務所の前で車を停めた。料金は3,600円を示していた。200円換算で18ドルを請求した。その軍人は20ドル札を渡して「キープ・チャージ」と言ってバックを掴んでドアに向いた。

私は「サンキュー」と言ってドアを開いた。私は見慣れぬ夜景の中を注意して引き返した。ゲートから県道75号に出るとタイヤの溝に挟まっていた泥がフェンダーの内側にパラパラと跳ねる音がした。車を加速すると次第に音が消えて行った。キャンプコートニーのフェンスが次第に遠ざかって行った。

 40分のドライブを終えて金武町の繁華街に戻った。未だ潮止まりで引き潮に移ってはいなかった。私は何事もなかったかのようにゲームセンターの駆け上がりに腰を下ろし、マールボロを取り出して火を付けた。

仲田さんが近づいてきて私を睨み付けて言った。

「カズさん、アンタ先頭に停めた私の車を差し置いて客を拾っただろう」

「兄さんが見えなかったので、ほかの先輩に断って1ドル50セントでハンセンの中まで運んだよ。それが何か」

「冗談じゃないぜ。その後アンタはキャンプコートニーまでの客に当たっただろう」

「それが何か」私は立ち上がって仲田さんを見た。

「客商売は運だよ。順番を守ってくれよ」

私は咥えていた煙草をアスファルトの上に落とし、腰を落としながら靴底でもみ消して顔を上げ、冷めた目で仲田さんを見た。彼の後ろに松さんが立っていて私に目配せした。私は沸き上がってこようとした冷やかな古い感覚がすっと引いて行くのを悟った。

それでも僅かにスッと右足を引いてから言った。

「気が付かなくてすみません、先輩」

「気を付けてくれ。まったく、運が逃げちまったぜ」そう言って立ち去った。

「先輩面して舐めたこと言いやがる。車を離れるやつは運も逃げるぜ」いつの間にか私の後ろに立っていたイサオが言った。

「まぁ、そうだが先輩と立てなきゃナ。それにこの辺りは金武の連中の縄張りだし」

「宜保のオッサンがいるからと言って、仲田の狸までがデカい面しやがって腹が立つぜ」

「あの空手2段のオジサンか」

「お前も手習いをしていただろ。あいつに勝てるかい」

「さあな、館長が死んでから道場通いは止めたよ」と苦笑した。

「あの野郎、いつか潰してやろうぜ」

「おい、おい、気合の入りすぎだぜ。ほれ客が待ってるぜ」顎で促すとイサオは自分の車の横に立っている3人組に向かって手を上げた。

「何かあったら真っ先に声を掛けてくれ」そう言ってイサオは急ぎ足で車に戻って行った。

「ありがとう、覚えておくよ」

イサオが本気で話すときは瞳孔が大きく開いて、瞬きもせずに相手を威嚇する。僕らが中学の頃にやんちゃした頃と全く変わらぬ男である。私はフーと大きく息を吐いて腰を下ろした。

 一部始終を見ていた松さんが私の側に腰を下ろして話かかけてきた。

「お前、イサオと同級生と言っていたが親しいのか」

「中学の時の悪さ仲間だ」

「あいつは酒が入ると野蛮になるぞ」

「ああ、そういう事ばかりしていたガキのころの遊び仲間の一人だ」

「仲田さんはこの辺りの人間だ。この辺りは仲間意識が強いから下手な真似は出来ないよ」

「そうらしいですね」

「ま、仲田さんはこのところの稼ぎで、お前に負けていることが気に入らないのさ」

「そうですか」

「それと、さっきの目つきで人を見てはいかんな。イサオもお前も同類の目をしていたぜ。子持ちが不良少年の真似でもないだろ」

「すみません」

「俺は行くぜ、とにかく政兄貴に迷惑をかけてはいけないよ」諭すように言った。

私はおどけた顔で肩をすくめて「ホッ」大きく息を吐きだした。松さんがそれを見て笑いながら車に戻って行った。私は再び煙草に火を付けて煙を吐き出した。そしてはっきりと気がついた。自分がたまたま乗り合わせた人生の旅路の連絡船の中で、指定席を持たぬ自由席の側の人間であることに。

 背の高い黒人が3号車の前に立って「ハロー、班長」と呼んでいた。あたりを見渡すと久志タクシーの仲間は既に引き潮の流れの中で新しい獲物を釣り上げて移動を始めていた。

「シュワーブ」と言ってその男は助手席に乗り込んだ。膝がダッシュボードにつっかえた。「キープ・バック・シート」言って座席下のレバーを引いた。シートが目いっぱい後ろにスライドした。それでも少し窮屈であった。米兵の兵卒は前のシートに乗りたがり、将校クラスは後ろの席に乗るのが普通であるようだ。Tシャツ姿の黒人の体からヤギとゴンドウクジラの肉を煮込んだシチューのような不快な体臭が車内に籠った。私は窓を開けて外の空気を取り込んだ。磯の匂いが流れてきた。この辺りは宜野座村漢那小学校に近い海岸沿いの道路であろう。

 午後11時の小学校の周辺に人影は無い。やがて迫りくる上り坂に備えてアクセルを踏み込んだ。エンジンが快適な音に変わってスピードメーターが120㎞まで跳ね上がった。僕らは休む間もなく次々と帰還兵を兵舎に運んだ。ハンセン行は金武タクシーに譲って、もっぱらシュワーブ行きのみである。夜の闇が深くなるにつれてアクセルを強く踏み込んだ。ブレーキとシフトダウンで高速幌馬車の車輪をギリギリと軋ませながら中川集落からs字カーブを下る。漢那集落入口の最後のカーブをすり抜けるとアクセルを一気に踏み込む。僕らにとって直線に近い緩やかなカーブの漢那小学校のモクマオ並木を時速120kmで東海病院前の急坂に突っ込むのだ。丘の頂上の宜野座小学校前を一気に駆け上がると宜野座高校前を通り抜けて宜野座川の川底の闇にすいこまれる。S時カーブを駆け上がり松田集落を抜けると緩い下り坂の右側に潟原の広い空間が現れる。明かりの乏しい丘の遠くにキャンプシュワーブの明かりが山際をおぼろに浮かび上がらせていた。残り2分でチェッカーフラッグが降られるだろう。私は片道15㎞のサーキットを9分で駆け抜けて行った。闇の中でヘッドライトの一灯を頼りに異国人を運び続ける。日常の生活と乖離したこの空間でブレーキとアクセルとハンドルのバランスを保つことにのみに神経を集中する。時が止まり、まとわりつく闇の中でヘッドライトに浮かんで迫りくるセンターラインだけを凝視し続けるのだ。私は陽光の下で働く人間には感じえないこの不思議な感覚が気に入り始めていた。この日の走行距離は580km、水揚げが日本円4,530円と米ドル355ドルだった。

         (7)

 ペィデー明けのキャンプシュワーブのタクシー乗り場は、辺りが薄暗くなっても閑散としている。僕らはくだらない世間話をしながら米兵が金武の繁華街に行くのを待っていた。私はトレーニングジムの横の自動販売機でマールボロ2箱とスニッカーズのチョコレート2本を買った。1ドル50セントだ。肘宛の下のボックスに放り込んだ。翌朝までの必需品である。夜明け前にチョコレートを齧り、コーラで流し込んで目を覚ます。煙草は深夜の目覚ましである。私が退屈まぎれに仲間を待っている若者にたばこを勧めた。

「ヘーイ、班長カウボーイ」と言っておどけた声を出した。彼らにしてみれば、アメリカのワイルドライフのシンボルである赤と白のパッケージのマールボロを吸う日本人は奇異に見えたかもしれない。私の仲間はほとんどがウインストンを吸っている。米兵に人気のタバコはラッキーストライク、ウインストン、キャメルである。マールボロは比較的に新しい英国のフィリップモリス社のオリジナルである。私はキャメルの香りと味わいも好きだがその両切りのタバコは口の中にたばこの刻み葉が残ってしまい、時々車の窓から唾と共に吐き出さねばならないのだ。ウインストンは馴染めない味だ。ラッキーストライクは何やら不幸を呼びそうな不吉な名前が嫌いである。ハッカの入ったセイラムは論外だ。女性かオカマ用だ。いずれも50セントである。

 いつものペースでシュワーブからハンセンに客を運び、9時頃まで休憩して繁華街からハンセンに何度か客を運んだ。ゲートを出るとすぐに小柄なラテン系と思しき若者3名を乗せた。シュワーブまでと言った。辺野古坂を下っている途中でドラッグストアへ行けという。そしてブロンを買うという。

私は事務所に無線を入れて薬局は何処かとブロンとは何かを訊ねた。

「赤羽屋の隣に薬局があるからそこに行ってください。そこのオヤジが万事対応するから」

「了解」

赤羽屋の隣の薬局は既に締まっていた。

「ヘーイ、クローズ」と言うと、二人の若者が車を降りて店のドアをドンドンと叩いた。しばらくすると50代と思しき白衣の男が出てきた。何やら話していたが若者は何かを買って戻って来た。

「班長、ゴーバック・ハンセン」と言った。

私は社交街のアーチを通り抜け辺野古坂を下ってハンセンに向かった。彼らは奇声を上げながら袋の中から栄養剤に似た藥瓶を取り出してラッパ飲みを始めた。チラリとみると咳止めシロップのブロンである。風邪の咳き込みを止める効果があるはずだ。但し、1回あたり備え付けの小さなカップの半分程度だと思う。以前、妻が服用しているのを見たことがある。やがて彼らは何やら興奮して騒ぎ出し始めた。私にも勧めてきた。

「ノーサンキュー、アイアム、ナオ、ドライバー」と断った。

咳止め薬ブロンには人間の感覚を麻痺させる作用があるようだ。彼らは麻薬代わりにブロンを飲んでいるのだ。ゲートから入ってUSOの前で降りた。10ドル札を2枚渡して暗がりの中に千鳥足で肩を組んで消えて行った。キャンプハンセンの中ではあるが、小柄なラテン系の若者が陽気なハイスクールボーイに見えた。この若者たちが兵士である限り世界のどこかで米軍が関わる戦争など勃発するわけがない。兵士の行動の中に見る緊張感の無さが平和な現実の証だろう。私は奇妙な安堵感に苦笑するだけだった。

 6回目の客をシュワーブの兵舎まで運んだ。東の海岸から押し寄せてきた霧が街灯を包み込み、ぼんやりとした明かりを放っていた。普段は軍用車両が駐車しているキャンプシュワーブの風景を霧がゆったりと包みこんでしまい、映画の中の霧に包まれたサンフランシスコ郊外の坂道の多い住宅地にも似た幻想的な景観を演出していた。梅雨がそこまでやって大気が潤んできているようだ。フロントパネルの時計を見ると午前1時半である。そろそろ金武の繁華街も眠りに着くころだ。回収作業も終わりだなと考えながらゆっくりと坂道を登っていった。

 ゲートボックスの外に小柄な男が立っていた。ゲートの街灯を背にしてシルエットなっていた。頭の形や体つきから黒人兵であることが解った。黒いズボンに紫色の長そでシャツ、左手にアタッシュケース程の大きさのラジカセを持っているのがやっと見えるだけだ。逆光で男の表情は全く読めなかった。彼らが道向かいの雑木林の陰に入ると完全に闇の中に溶け込んでしまうだろう。それ程遠くない歴史の中でアフリカ大陸から米国に輸入されるまで、熱帯雨林の原生林の中で暮らしてきた遺伝子が、逆光の中に浮かんだこの男に息づいている気がした。この男が久志岳に向かって「ホゥ」と合図を送ると、森の精霊と夜行性の動物が一斉に「ホゥ」「ホウ」と返事をするかもしれない。特に今日のような客の少ない退屈な夜には何かが起こりそうな気配があった。或いは海からやって来た夜霧は、既に何か不測の事態を密かに窓の隙間から車の中に積み込んでいたのかもしれない。

3号車、普天間までクロンボーを配達します」

「了解、普天間は電波が届きにくいので気を付けて下さい」

「了解です」

霧がゆっくりと辺野古川の谷間を通って久志岳に向かって流れていた。ハイライトのビームが霧の中で細く長く反射していた。私は何時もより速度を落としてブーメランの坂道を豊原集落まで駆け上がった。私は急ぐでもなく時速60kmで潟原海岸通り、宜野座高校前を走り抜けた。金武町の繁華街を左に見て通過すると久志タクシーが一台客待ちをしていた。消防署前の坂を下って高速伊芸インターを右に見て海岸通りを南下した。伊芸のガススタンドで久志タクシーがガスを充填していた。今日の稼ぎを諦めて帰り支度をしているのだろうか。石川市を抜けて知花十字路を右折して進み、諸見里から国道330号に合流した。プラザハウス前をキャンップフォスターに向かって下って行った。左手に不夜城の屋宜原モーテル街のネオンが煌めいていた。左右の米軍施設フェンスの間を抜けて信号待ちをした。右手にリージョンクラブ、その200m奥がキャンプフォスターのゲートだ。左に行けば国道329号北中城村の渡口交差点だ。1kmもない下り坂の前方に普天間の繁華街の明かりが瞬いていた。私はフッと小さく息を吐いた。そしてギアを入れ替えて青に変わった信号を直進した。時刻は午前2時を既に過ぎていた。

「ヘイ、ルック、フテンマ」と振り向いて黒人客を見た。

「イェス」と言いながらラジオの音楽に合わせて手のひらで軽くラジカセを叩いてリズムを取っていた。

夕暮れの普天間神宮

深い眠りに就いた普天間神宮とその横の交番所の前をゆっくりと通過した。交番所には二人の警察官がいた。一人が電話を片手に何やらメモを取っていた。もう一人は入口の街灯の下で通りすがる車に目をやりながら煙草を吸っていた。

300mほど進んだ時に黒人客が身を乗り出して助手席のシートの肩を叩いた。

「班長、ストップ、ヒャ」黒人客が停車を命じた。私は路肩に車を停め、料金メーターを指差して「30ドル」と言った。

黒人客は「フレンド・・」、「ウェイト・・」と何かをまくしたてたが私には全く聞き取れなかった。私は只「ワッツ、ワッツ」聞き返した。黒人客は諦めたようにラジカセを掴んで出て行こうとした。

「おまえ、どこへ行くつもりだ。マネー」と言ってラジカセを掴んだ。二人で引き合いになった。私が左手の小指に痛みを感じて手を放すと黒人客はドアから外に転がり落ちた。私はすかさず外に出て黒人客のところに回った。彼は立ち上がり、ラジカセを左腕に抱えて走り出した。私より少し背丈が低く小太りである。足はそれ程速くなかった。「ドロボー」と私は叫びながら路地を追いかけた。三つ目の路地で追いついて襟に手を掛けたとたんクルリと急反転して私の手を振り切って右の路地に飛び込んだ。私はたたらを踏んだがすぐに右に反転して追いかけた。20mも走らぬうちに黒人兵がもんどりうって地面に転がった。右側にステテコ姿の男が立っており、足払いを入れたようだ。黒人客は地面に右手を付いて尻を持ち上げて立ち上がろうとしていた。私は近づくと手加減せずに下段回し蹴りを男の左大腿二頭筋に叩き込んだ。パーンと言う乾いた小気味よい音が響いた。尻もちをついて振り向いた黒人兵の縮れた髪を左手で鷲掴みにして右手を脇に引き付けて二本貫手を撃ち込む構えで言った。

「サノバビッチ・キル・ユウ・ボゥイ」殺気を込めて睨み付けた。

「ヘルプ・ミー」ラジカセから手を放して両手を上げた。

「どうしたのだ」と先ほどの男が強い普天間訛りの方言で尋ねた。

「キャンプシュワーブで拾ったが乗り逃げしようとしたのさ」

「そいつは許せないな。ワシが話してあげよう」

「ヨウ、メン・・・・・・・」やはり訛りのある英語で叱りつけるでもなく、ただ口元に冷たい笑いを浮かべて低く沈んだ声で言った。

「ヘルプミー、コール・ポリース」と両手を合わせて泣き出した。

ひどい訛りの英語で良く分からないが、『このドライバーは琉球空手マンだ。お前の目をくり抜いて、そこの溝に捨てると言ってるぞ。ここで死ぬかポリスを呼ぶかどうする』と言ったようだ。

「十分に脅しておいたから、そこの交番に突き出すと良いだろう」

「ありがとう、兄さん」と言うと

「タクシーも難儀な仕事だな」と言って古い民家の屋敷の中に戻って行った。ステテコの袖口から刺青が覗いていた。裏通りに人影は無く。街灯の下で路面がきらきら光っていた。黒人客を引き立てて歩き出すと路面がジャリ、ジャリと音を立てた。交通事故の跡であろうか路面に細かいガラス片が散らばっていた。

 タクシーを止めてある場所に戻るとパトカーが1台停まっていた。二人の警察官が車の中を覗いていた。野次馬が数人いたが私の姿を見るとすぐに散って行った。大した事件でもないと判断したのだろう。私にとっても面白い事件ではなかった。

「どうしたのですか」と一人の警察官が訊ねた。

「キャンプシュワーブから乗せましたが、タクシー賃を払わずに逃げたので捕まえたのです」

「バカなクロンボーだ。ご苦労ですが署まで来てください。パトカーの後についてきてください」

黒人客はパトカーに乗せられ、私は非常用タップを点滅させながらその後に従った。普天間交番所に行くのかと思いきやキャンプフォスターのフェンス沿いに下って行った。伊佐交差点を左折して国道58号線沿いの真志喜にある真新しい宜野湾警察署に誘導された。これで今日の仕事は終わったなと感じた。この距離からは電波は届かぬと思いならも念のために会社に無線を飛ばした。

3号車から本部どうぞ」

「本部です3号車どうぞ」少しばかり雑音が入るも返事があった。

「普天間でトラブル発生、乗り逃げのクロンボーを宜野湾署に引き渡します。処理が終わったら引き上げます」

「了解、気を付けて戻ってください」

電波の不思議である。普天間、嘉手納エアベースの広大な滑走路の平地が上手く作用し、コザの街並みの狭い空間を通して無線が届いたのである。尤もタクシー仲間の間では予想もしない場所から交信した例を時々聞いてはいた。

 宜野湾署の取調室に入ると初老の英語の達者な男が質問を始めた。首から渉外担当者と記載された古ぼけた身分証明書カードをぶら下げている。警察官の制服ではなく、しわの入った地味なアロハシャツ姿ある。随分と砕けた身なりであった。如何にも非常勤ですという身なりだ。調書は別の警察官が記入している。定年退職した英語教師のアルバイトであろうか、それとも米軍勤めの退職者だろうか。壮年期をとっくに過ぎた少しうらぶれた男が、このような時間まで警察署に待機するとは仔細のある人生を送っているのかもしれない。

「彼の目は充血しているが、君が殴ったのかね」

「二日酔いじゃないですか」

「髪にガラス片が混ざっているが、君が投げ飛ばしたのかね」

「転んだ場所にガラスが散らばっていただけですよ。彼は何と言っているのですか」

「君に殺されると怯えているよ」

「タクシー運転手如きが殺せるわけがないでしょう。こいつはアメリカーの兵隊さんでしょう」

「まぁ、そう言いなさんな。今の兵士はベトナム戦争の頃の殺し屋共とは違うから」

「ところで、先生。私のタクシー代30ドルは払ってもらえますかね」

「彼の話では友人のアパートによって借りる予定だったそうだ」

「では、これからそのアパートに借金取りに行くのですか」

「先ほどパトカーから連絡があったが、そのアパートに彼の友人らしき人は不在だそうだ。まあ、悪い夢を見たと諦めるんだな」

「それは無いぜ。それならそのラジカセを預かっておきますよ。30ドル持ってくれば返すとその兄ちゃんに言って下さいよ」

「ま、一応言っておくが無理だな。MPに引き渡すので、こいつは懲罰で営倉行だろうよ」

「全く悪夢だな」

「帰っていいよ。兵隊さんは僕らがMPに引き渡して一件落着とするよ。お疲れさんです」

「では、失礼します」

ラジカセを取り上げると黒人兵に言った。

「兄ちゃん預かっておくぜ」

丸い充血した目をした黒人兵は悲しそうな顔で私を見た。私は腹が立ってラジカセを振り上げてぶん殴るぞと見せかけた。彼は両手で頭を隠すように体を丸めた。

「おい、おい、辺野古は遠いのだろう。さっさと帰ってくれ」渉外担当者は苦り切った顔で手を振って私を追い払う仕草をした。

私は振り返りもせずに閑散とした警察署から外に出た。外はベタつくような湿気を含んだ闇が広がっていた。ラジカセを持つ左手の小指の付け根がチリチリと痛んだ。ラジカセを右手に持ち替えて左手を見ると、小指の付け根が2cm程の擦り傷となって血が滲んでいた。先ほどのラジカセの奪い合いの時に切ったのであろう。タクシーに乗り込み備え付けのティシューで血のりをふき取って窓から捨てた。フウーと大きく息を吐きだし、一呼吸おいてエンジンを始動して駐車場から車道に出た。午前三時過ぎの国道58号は車の往来が途絶えており、時折深夜料金の青い料金表示メーターの明かりをつけたタクシーとサイレンを鳴らして走り抜けるパトカーだけだった。

私は先ほど来た道を通らずに車線が広くて交通量の少ない国道58号を北上し、恩納村仲泊集落を右折して石川市から国道329号に入った。午前4時前に金武町伊芸のガススタンドでガスを充填して洗車した。

 金武町の消防署の前から繁華街に車を乗りいれた。不夜城は既に落城したようで物音一つしなかった。金武タクシーが2台、くたびれた乗務員を抱えて穏やかに眠っていた。僕らのスピードウェイは既にレースが終了していた。観客もドライバーもどこかへ消えていた。私は車から降りてゲームセンター前の自動販売機で缶コーラを買った。自動販売機からガランと大きな音を立ててコーラが取り出し口に落ちてきた。喧騒の消えた繁華街の闇の中に不釣り合いな音響が跳ね上がって吸い込まれていった。私は肘宛の下のボックスから昼間にキャンプ・シュワーブで買ったチョコレートを取り出した。ゲームセンターの階段に座ってシャングリアに続く闇を見つめながらチョコレートを齧りコーラで流し込んだ。歯がコーラの強い炭酸で磨かれてカリカリと鳴った。何も考えてはいなかった。ただ暗い闇の向こう潜むなにかがこちらを見ている気配を探しているだけだった。眼底のさらに後ろ側がジンジンと痛み始めていた。私は立ち上がって背伸びをした。そして車に乗り込んでエンジンを掛けた。アクセルを踏み込んでエンジンを吹かし、ギアを入れてゆっくりと発進した。ライトに黒い犬が浮かび上がってこちらを振り返った。そして迷惑そうにバーの看板の横の細い路地に入って行った。ゲート前に出ると灯りの消えた街灯の下で、街路樹のガジュマルの樹冠がうっすらと浮かんでいた。夜が終わりを告げていた。金武大橋の右手に太平洋がおぼろげに見え始めていた。金武大橋の深い谷間を流れる億首川には昨夜の霧が跡形もなく消えていた。私はマールボロを取り出してジッポのスリムなオイルライターで火を付けた。ライターの蓋をパチンと閉じるとケロシンの匂いがした。夜が朝に変わる微妙な景色の中を事務所に向かっていた。ほんの3時間前の出来事は記憶のくずかごの中に放り込まれて現実味を失っていた。只、小指の微かな痛みと助手席のラジカセが安っぽいメタル色の光を反射しているだけだった。

       (8)

 乗り逃げ事件で傷ついた小指は黴菌が入ったのか炎症を起こしてしまい左肘まで痺れが出た。仕方なく予定の乗務をキャンセルして病院で診察する羽目となった。ラジカセは事務所に置かれて料金30ドルと交換との紙が貼られていた。

乗務員の目に留まる存在となった。皆が私のことを少しだけ意識し始めた気がした。4日ぶりに社長の政叔父さん会った時に注意された。

「カズ坊、兵隊が乗り逃げしても無理に追いかけてはいけないよ。あいつらはナイフや銃を持っていることもあるのだから。日本人とは違う生き物だからな」

「はい、注意します」

「以前、私がベースの中の自動販売機からタバコを取り出そうと腰をかがめた時、大きな石が飛んできて販売機の上の方に当たったことがあるよ。振り返ったら少し離れたところにクロンボーが立っていたよ。かがむのが遅ければ大けがしていたかもしれないよ。あいつらは時々人間でなくなるから」清造さんが不快な顔で言った。

「そうですか、用心します」

「うん、30ドルごときで怪我してはたまらんからな」政叔父は穏やかな口調で言って笑った。内心は甥の気丈な行動が乗務員への暗黙の自慢の種となっているのかもしれない。それに松さんは私が休んだ日に何やら自慢話をしたらしい。そのことを栄子さんが話していた。

「あいつは俺の姉さんの子供だがナ。名護のハサマ・一族の人間だ。ガキの頃から本家筋の空手道場に出入りしていたようだ。イサオの中学の同級生で悪ガキ仲間だと言っていたぜ。イサオに聞いてみな」

イサオも調子に乗って言ったようだ。

「こないだ、ほれ、アイツがキャンプコートニーへ客を運んだ晩のことだ。金武タクシーの宜保さんの組手を見て『年寄りの遊びだ』と笑っていたぜ。誰かさんがイチャモン付けていたが、あと半歩近づいていたらその狸腹に蹴りが入っていたと思うぜ。俺はすぐ後ろで見ていたからな。アイツが腰を落として攻撃の構えに入ったのを俺は知っていたぜ。ま、素人相手にアイツが技を使うことも無いと思うがな。お互い言葉使いには気を付けようぜ」

 1回の欠勤を挟んで出勤してきた私の小指にまかれた包帯が噂の種を助長してしまったのも事実である。いずれにせよ、事件の後らから仲田さんの存在が遠のいたのは気楽なことであった。しかしツキが落ちるとそれはしばらく元に戻らないのも事実のようだ。それどころかアンラッキーを呼ぶことさえあるのだ。

雨季に入ってから、辺野古から名護市内へ客を運ぶことが以前より多くなった。私は名護に出たついでに午後3時ごろまで名護市内を流すのが常であった。この年の梅雨はカラ梅雨気味で一日中雨になることは少なかった。

私は北行きのバス停留所がある東屋食堂の手前でタクシーを止めて客待ちをしながら休憩をするのが常であった。東屋の一階は日用雑貨店、二階は食堂であった。羽地、屋我地、今帰仁村、大宜味村、東村、国頭村向けのバスがこのバス停で停まるのである。名護市の公設市場まで100mの場所でもある。田舎に住む人々が公設市場で肉類やら日用雑貨を買い求め、このバス停から帰宅するのだ。バス会社の都合もあり田舎に向かうバスの本数は少ない。日本国中の赤字路線の常だろう。多くのバス利用者が2階の食堂で軽食を取って帰路に就くのであるが、路線バスの到着を待てない客が時折タクシーを利用するのだ。タクシーの待機場所になりそうなものであるがそうでもない。何しろ東屋の道向いは名護警察署である。駐車禁止場所に長居は出来ないのだ。コーラを1本飲んで煙草を吸い終わると県立名護病院前経由で市内を巡回するのである。

人口6万人の名護市の中心市街地

私は午前中の客が途切れたので、いつもの様に車を停めて自動販売機でコーラを買って車に戻った。コーラのプルトップを引き、一口飲んでからドリンクホルダーに立てた。肘宛の下のボックスから新しいタバコを取り出そうと窓の外に出していた右腕を引いて体を左に体を傾けた。その時、新しいトラブルが発生した。右側に何か黒い影が迫ったと感じたとたん、バーンと大きな音を立てて後方から走って来た軽トラックが右前方のフェンダーに接触した。フェンダーミラーが折れて道路に転がった。フェンダーは見事につぶれている。私が窓から右腕を出していたなら怪我は免れなかったであろう。ショックでコーラが泡を吹きだして私の右足の太ももに滴ってきた。私はコーラを手に取ってグッと一口飲んで泡の吹き出るのを止めて外に出た。バス停の客がこちらを見ている。軽トラックは少し前の路肩に止まった。私は車から降りてフェンダーミラーを拾い上げ、凹んだフェンダーを一瞥して軽トラックに向かって歩いて行った。軽トラックから70歳前後の白髪頭の男が麦わら帽子を手に「すみません、すみません」とペコペコしながら降りてきた。

「爺さん、どこに目をつけて運転してるんだよ」と少し声を荒げて言った。

あまり見かけない黄色のサングラスにタクシー運転手らしからぬ派手なアロハシャツ姿に驚いたのか、顔色を変えてペコペコするだけであった。

道向かいの名護警察署からすぐに警察官がやって来た。事故処理は簡単に済んだ。エンジンにトラブルが発生する程の被害では無いが、フェンダーがひしゃげてミラーのとれた車で営業することは出来ない。東屋の前の公衆電話から会社に電話した。そして会社からの支持をその爺さんに伝えた。

「車の修理代は持ってもらいますよ。警察官の話した通り全てあなたの責任ですからね。それとこの車はタクシーですから修理期間中の営業補償をしてもらいます。よろしいですね」

「はい、分かりました」

私はその男の住所、氏名、連絡先をメモした。名護市瀬嵩集落の区長をしているらしい。私は修理代が取れそうでほっとした。

 会社に戻って事情を詳しく説明すると、清造さんが渋い顔をして言った。

「営業補償は無理だな。その男は久志郵便局の元局長さんで、社長の古くからの知り合いだ。これから名護トヨタに納車すれば明日の昼までには仕上がるだろう。乗務員の具志堅が元トヨタの職員だし、毎年3台の新車を購入しているから修理を優先してくれるだろう。次の乗務は明後日だな。お疲れさん」

「すみません。とんだトラブルに巻き込まれてしまって」

「いいってことよ。タクシーに事故はつきものさ。それよりお祓いでもしてゲン直しをした方が良いな。こないだの乗り逃げ事件からツキが逃げているぜ、兄さん」と言って穏やかに笑った。

「すみません、お先に失礼します」私は清造さんのように笑う気にはなれなかった。乗務員控室にいた松さんが慰めるように言った。

「軽い事故で良かったな。これでお前に憑きかけた悪い憑き物は逃げただろうよ。悪い憑き物は大きく溜まる前に逃がした方が良いのだ。昼飯にフリッパーのサーロインステーキでも食って元気を付けなよ」

私は言われたように、自宅から少し離れた海辺のファミレス・フリッパーで250gのステーキと生ビールで遅い昼飯を取った。既に午後3時半であった。

漁港内の桟橋で暇をつぶす釣り人

 退屈な昼間と狂気の夜がいつの間にか体に馴染んできていた。一昼夜働いて朝帰りである。その足で娘を送って一人で朝食を取って一眠りする。3時頃に目覚めて遅い昼飯を食べに出かける。大抵の場合、未だ客のいない割烹「十八番」に立ちより、少しばかりの握り寿司とビールを飲んだ。暇つぶしに3軒隣りの書店で立ち読みし、漁港に係留された漁船を見ながら潮風に吹かれて煙草をふかして時間を潰した。暇つぶしの老釣り師の姿を眺めるも、自ら釣糸を垂れる気にはなれなかった。ほんの半年前までは羽地内海の浅瀬や護岸でキス、チヌ、太刀魚等を釣っていたのだ。ルアーロッド、チヌ釣り竿、ルアー、タックルケース、たも網などの釣り道具は納戸の中に押し込んだままだ。これまでの日常が何処かへ去ってしまって、日常なるものが分からなくなっていた。私の一日は48時間サイクルである。24時間ハンドルを握り続け、勤務明けの24時間を空虚にさまよっている。結局のところ私は自分自身の立ち位置を見ることもせず、ただ時間だけを食いつぶしているのであった。ちょうど深夜の国道を高速で走り抜けるときに、センターラインの白線がモールス信号のようにが前方から私に向かって飛び込んできて、どこか得体のしれない闇の中に消えて行くのに似ていた。一日48時間の世界に体が馴染み始めたが、本心は失われていく自分の何かに抗っているような気がした。既に実家からの借金と奨学金の返済は終わっており、タクシー稼業を続ける確かな理由を欠いていた。明日の見えない日常。否、明日への目的を探そうとしない私の根源的な癖が日々の活動を支配していた。唯一、朝夕の娘の送迎だけが私の中に日常を復活させてくれた。それも毎日ではなく1日越しのことであった。

 勤務を終えて午前7時半に帰宅すると妻が言った。

「彩夏の耳が少しおかしいの。耳垂れの匂いがするわ。耳の下が少し腫れているみたいだし、病院で診てもらってくれないかしら」

「ああ、構わないよ」

「名護病院の耳鼻科がいいわね」

「分かった。シャワーを浴びてから出かけよう」

「母が一緒について行ってくれるわ」

「そうかい」

妻は私一人で娘の診察に行かせるのが心配らしい。シャワーを急いで浴びて着替えていると、玄関の呼び鈴が鳴って義母がやって来た。本部町からタクシーでやって来たようだ。

「おばぁちゃん」と言って彩夏が飛びついて行った。

「おはようございます」

「お仕事は今終わったの」

「ええ」

「一晩中働いて大変ね」

「なぁに、今日は一日中暇ですから。彩夏の子守が出来ますよ」と言って彩夏の頭を撫でた。

「お母さんお願いね」と言って、妻はアパートの近くの職場に出て行った。僕らもすぐに病院に向かった。

 午前9時の県立名護病院耳鼻咽喉科は予想以上に混んでいた。一階の奥に位置する眼科と耳鼻咽喉科は非常勤医師が診療しており、火曜日と木曜日だけの診療日だった。診療室前の長椅子は何処も満席状態であった。待合室の中ほどの右端に席を見つけて、義母を奥に彩夏を挟んで椅子の右端に私は座った。診察受付窓口で手続きをして順番カードを貰って来た。

25番だから結構待ちそうですね」と義母に言った。

「そう、県立病院はこんなものよ」と言って彩夏と綾取りで遊び始めた。

義父は4月から隣町の本部警察署の署長に就任していた。妻は私が留守の週末に彩夏を連れて頻繁に署長官舎に出かけているようだ。彩夏は義母になつき始めていた。彩夏が義母と楽しそうに綾取りで遊んでいるのを見ると、夜勤の疲れから眠気に襲われ始めた。この3カ月のタクシー稼業で1日のリズムが48時間サイクルに慣れてきていた。この時間は私にとっての睡眠時間である。病院内でタバコを吸うわけにもいかず、私は何度もあくびをして首筋をストレッチしたがついに眠りの中に落ちてしまった。何度か頭が垂れては、ビクッと頭を持ち上げる動作を無意識に繰り返した後、ついに前のめりにぐらりと体が傾いて長椅子から滑り落ちていた。うまい具合に尻と右肩が体重を受け止めてくれたので頭を打つことはなかった。

「ふぅ、寝入ってしまったか」と小さく呟いて、何事もなかったかのような態度で起き上がった。そして椅子に座り直して大きく深呼吸した。待合室の女性たちがクスクスと小さく笑うのが聞こえた。私は赤面することも無く大きく首を回して後頭部の付け根を右手で軽く揉んだ。彩夏が義母と遊ぶのをやめて私を見上げて心配そうに言った。

「お父さん、大丈夫」

私は左手で彩夏を抱き寄せて頭を撫でながら言った。

「大丈夫だよ。スッテンコロリしちゃったネ」と苦笑いした。彩夏はほっとしたように再び義母と綾取りを始めた。義母は困った顔をしたこちらを見ていたが、私は知らんぷりをした。眠気は完全に治まっていた。眠りのリズムが変化したのであろう。

 いつの間にか待合室の人の群れが数名になっていた。

25番、ナカムラ・サヤカさん」看護婦が問診表を手に呼び出した。

「ナカムラ・サヤカさんだって、行こうか」

「お父さん、抱っこ」彩夏が不安そうに私に抱き着いた。

「彩夏ちゃん赤ちゃんみたいね」と義母が少しやきもち声で言った。彩夏は私に抱き上げられて自慢げに義母を見下ろして手を振った。

 彩夏の病状は夏風邪にから来る疑似中耳炎であった。病院内の薬局で抗生物質を1週間分だけもらった。病院を出たのが昼過ぎの12時半であった。病院の隣のファミリーレストランで遅い昼食を取った。窓辺の席から外を見ると名護岳の稜線が南北に連なっていた。私はふと彩夏が生まれた日のことを思い出した。あの日も実母と二人でこの席で遅い昼食を取っていた。あの日の初めての子供を授かった時の心地よい感動は既に失せてしまい、夢見るべき明日は単なる昨日の焼き直しに変わってしまっていた。3カ月後には20代が終わる人生の岐路が迫っていた。

 帰宅後は彩夏が義母と二人で絵本や積み木で遊んでいた。私はそれを見ているうちに寝入ってしまっていた。玄関の鍵がカチリと開く音で目覚めた。予期せぬ物音が私の神経を脅かす習性が私には付いていた。5歳まで里子に出されていた時の幼児体験がある種の警戒心を深層に染みつかせているようだった。窓から指す光が消えかけており、昼は既に幕を引き始めていた。意識が未だ朦朧として霞の中を漂っていて、先日の霧の晩が続いている気がした。

彩夏の「ただいま」の声で立ち上がり玄関に向かった。飛びついてきた彩夏を抱き上げた。妻は義母の買い物に付き合ってから隣町の警察署の官舎まで送ったようである。彩夏は私の顔をペタペタと叩いて

「お父さんが病院でスッテンコロリしたのよネー」と妻に言ってはしゃいだ。私が椅子からの転げ落ちたのが子供心には印象的であったようだ。

「お母さんからその話を聞いたわ。大勢の人前で恥ずかしいわね」

「眠くてしょうがなかっただけさ」

「タクシー運転手なんてろくな商売じゃないわね。こないだはアメリカ兵と喧嘩して怪我をして通院するし、交通事故には巻き込まれるし、本当にろくな仕事じゃないわね」

「オイ、オイ、畑仕事でも鎌で指を切るし、自家用車でも事故に遭うことはあるぜ。何処にでもある些細な出来事さ」

「そうかしら、人様の仕事と随分かけ離れている気がするけど」

「そうかな」と小さく答えた。トラブルの詳細を話しても彼女の理解の範囲外であり、普段から日々の仕事の中身を話すことは無かった。只、指を怪我して病院で治療した件と事故で早退した件は、妻を刺激しない範囲で話したのだった。

「借金は返済したのでしょ。新しい仕事を探したら」

「ああ、借金はとっくに返済した。職安も通っているぜ」

「そうかしら」

「ほんとだよ。こないだも佐敷町の水産研究所の所長に誘われたがよ。俺にミーバイ(ヤイトハタ)やタマン(ハマフエフキ)の餌やりは向かないよ。魚釣りと素潜り漁は得意だけどな。それに君も俺が魚臭い男になるのは嫌いだろ」

「あら、私は魚料理が好きよ。魚を捌くのと生魚の匂いが苦手なだけよ」

「そうかい」私は妻と議論するのがうっとうしくて彩夏を抱いてベランダに出た。妻はエプロンを手に台所に向かった。宇茂佐集落の北側の森は闇の中に沈み込み山際に星が瞬いていた。当たり前のように北斗七星が現れ、その柄杓の少し先に北極星があった。北極星は特別に光り輝くのでもなく、それでいて天空の群れ星の回転軸の中心にある。私は自分の人生の歯車の回転軸がどこにあるか、あるいは自ら回転軸の芯をどこに据えるべきかについて全く見当もつかない日々を送っていた。タクシー稼業に体が馴染む一方で明日の行方が見えない焦りと不安が澱となって心の底に溜まり始めていた。私は青春時代と言う言葉が既に穴の開いた靴にも似て、履き替えるべき頃になっていることにとっくに気付いていた。

                                   (9)

 梅雨明けが近づいており初夏の日差しになっていた。時折降る雨は通り雨であり大雨となることはなかった。国道58号からの名護市内入り口のソウシジュの群生は黄金色の衣を捨て去り、濃い緑に変わった樹冠が浜風を受けて揺れていた。私はソウシジュの下を毎朝通っていた。早朝にソウシジュを左手に見て出勤し、翌朝に右手に見て帰宅するのである。往復に2日がかりの奇妙な生活が続いていた。

 私は売り上げのドルが溜まると市内の銀行で日本円に両替した。3,000ドル単位で出来るだけドルが高くなった日を見計らって交換するのである。私と会社の売り上げの配分は折半である。例えばタクシーの最終売上げメーターが¥40,000とする。会社に返すのは半分の¥20,000だ。ところが僕らは米兵から1ドル¥200換算でドルを貰う。シュワーブとハンセンの区間は¥2,000であるから10ドルだ。メーター料金の¥40,000200ドルを手にする。むろん地元客も乗せるので200ドルには至らない。仮に手取りの200ドルを¥280換算すると¥56,000である。会社へ料金メーター表示の半額の¥20,000、ドル換算の場合は72ドルを返すのだ。私の取り分は差引¥36,000となり、正規の取り分より¥16,000が多くなるのだ。いわゆる闇のチップである。2万円の売り上げ配分に16千円のチップが付くのだから大した商売である。尤もベトナム戦争の頃は1ドル360円のレートで利ザヤはさらに大きく、本物のチップもふんだんにあったそうだ。明日をも知れない命を賭けた本物の戦争があった頃、コザ、金武、辺野古の街は狂気の米兵で賑わっていたのである。

 夏の光が濃くなるこの頃から、米兵共は週末の昼間にブルービーチへ出かけることが多くなった。ラジカセとビールを担いでビーチでの健康的な遊びを楽しんでいた。黒人は紫、赤、黒の原色のシャツにバカでかいラジカセを担いでガンガン音を響かせてゲートから出てきた。彼らのステイタスでもあるかのような大音量に体全体でリズムを取りながら歩いてきた。軍用施設のブルービーチは、水陸両用艇の訓練ビーチであるが、夏の間は米兵のビーチパーティの憩いの場所でもある。僕らは週末の昼間にうるさい奴らを2ドル50セントで運んだ。ビーチの空気はねっとりとした粘り気のある潮風を含んでいた。アヒルの頭にも似た金武岬を取り巻くリーフには白波が立っていた。正面に勝連半島の先端から平安座島、宮城島、伊計島が海中道路で連なっていた。夏の陽光は遠浅の海を透明感の淡いエメラルドグリーンに変え、沖に向かって濃いマリンブルーへと導いていた。私は米兵を降ろすと護岸に腰を下ろしてマールボロに火を付けた。私の好きな夏の海の色だが、無感動にサングラスを通して眺めるだけだった。ジッポのライターの蓋を開けては閉めを繰り返し、そのカシャ、カシャと鳴る音を聞いていた。この白波を立てるリーフの遥か彼方に、先ほど運んだ黒人兵の故郷アメリカ合衆国があるのだろう。ベトナム戦争が終結した平和な世界で白波の向こうに望郷の念を呼び起こす若者はいないだろう。海藻の匂いを含んだ浜風に身を晒しながら漠然と考えていた。昼間の目の眩む輝きと夜の暗闇の中の喧騒とのギャップの中に身を置き、私は何を探しているのだろう。ただ漫然と潮目の変わるのを待っているのだろうか。時は確かに動いているが、それはレコードのターンテーブルの上の針ように周回コースを進んでいるような気がした。それでも、今の自分に似合った日常だ。抗うべき事態が起こるまで前に進み続けるのも悪くないと納得させていた。ジッポのライターをズボンのポケットに押し込み、タバコを砂浜に弾き飛ばして車に戻った。

 日が暮れるといつもの様にキャンプハンセンとシュワーブを往復して米兵を運ぶ作業を始めた。午後8時、ハンセンのゲート前からアタッシュケースを持った軍服姿の男を拾ってシュワーブへ向かった。週末に働く軍人もいるようだ。松田の坂を登り切った時に無線が鳴った。

7号車から本部どうぞ」

「本部ですどうぞ」

「車をぶっつけられました。あっ、逃げました。追いかけます」

「本部から7号車、事故の場所と相手の車両番号を教えて下さい。警察に通報します」

「牛庭前でトラブルです。冲55 さ の1390 ブルーの日産サニーです」

「了解、車の破損状態はどうですか」

「左フェンダーと接触しました。運転に支障はありません」

「空車の久志タクシーは7号車の応援に回ってください」

「ただいま金大橋を通過しました」

7号車は非常用タップを点滅させてください。警察への通報は完了しました。無理な追跡で事故を誘発しないで下さい」

「了解です」

かくして夜の大追跡が始まった。私は無線機から聞こえる追跡交信に耳を傾けながらシュワーブへ急いだ。

3号車、7号車をキャッチしました」

4号車合流しました」次々と同僚の合流合図が聞こえた。私はアクセルと踏み込んでシュワーブへと急いだ。慌ただしく聞こえる無線機の声に「班長、何かトラブルか」と将校らしき男が訊ねた。

「会社のスタッフが小さなクラッシュ事故です」と答えた。

「オゥ、マイガッド」とだけ答えて首をすくめた。しかし、それ以上の会話はなかった。軍人には無縁の世界であろう。

「漢那から宜野座中学向けに右折しました」

「宜野座村役場前を漢那に向かいます」

「中川から喜瀬武原に向かいます」

「喜瀬武原から林道を名嘉真方面に向かいます」

それを最後に交信が途絶えた。私は米兵をシュワーブの第2ゲートの中の平屋が点在する単独施設のひとつに降ろした。第2ゲートの中の建物は米軍の迎撃ミサイル、ナイキホークを発射する施設だとの噂があった。普段から兵卒の姿はなく将校のみが出入りしているようだ。金武の繁華街と無縁の施設であった。こんな時に手間のかかる客を乗せたものだと思いながら金武町へ向かった。メーターを回送に切り換えた。

 私は中川から喜瀬武原に抜けた。タクシーの気配はない。

「全車通常業務に就いてください。容疑者を確保しましたとの連絡が石川警察署からありました。ご苦労様でした」

 私は残念な思いで繁華街に引き返した。ビリヤードセンターの階段に腰掛けて煙草を吸っていると仲間が次々に帰って来た。皆楽しそうな顔で車から降りてきた。

「何処に行っていた。楽しかったぜ」と松さんが言った。

「丁度アメリカーを乗せてシュワーブの第2ゲートに向かっていた」

「そうか、残念だったな」

「宜野座まで戻って来たら交信が途切れてしまった。念のために喜瀬武原まで行ったが、警察が捕獲したとの無線があったので引き返したのさ。何処で捕まえたの」

「喜瀬武原の林道から名嘉真に下りて、58号を南に進み安冨祖の農道に入ったのさ」

58号を走ったのだ。道理で無線が途絶えたのか。それで」

「林道に進むつもりが田んぼに脱輪。ジ・エンドさ」

「俺を除く6台のタクシーに追われて逃げ切れるものかね。アホな奴」

「いや5台だ、仲田はいなかったぜ。犯人が金武の人間だと思ったのだろ」

「で、何処のアホだった」

「瀬良垣のガキだった。田んぼ道から林道に入って瀬良垣に抜けるつもりだったようだ」

「そいつを殴ってボコボコにしたんじゃないだろな」

「お前じゃないよ」イサオが笑いながら言った。

「車をロックして中で震えていたよ」

「あんたらのことだ。車をゆすぶって脅しただろう」

「まあ、警察が来るまで楽しんださ」

「こんな夜中に安冨祖の村中を騒がした不届き者だな。これで喜瀬武原、名嘉真、安冨祖、瀬良垣の客は取れないな」と私は笑った。

「事故に遭った7号車のトヨタさんには悪いが、たまにはハプニングでの息抜きも良いぜ」

「ベースタクシーがジャパニー客を気にすることもないか」と私が言うと皆がどっと笑った。僕らのささやかで奇妙な息抜きと連帯感がそこに在った。

トヨタさんとは乗務員の他に時折無線係を務める具志堅さんの事である。以前トヨタ自動車名護支店に勤めていた辺野古在住の男だ。久志タクシーは本部町、今帰仁村、名護市、宜野座村、金武町と近隣の市町村から転げ込んできた一癖も二癖もある乗務員で構成されている会社である。

 夜はいつもと変わることなく深く沈んでゆき、僕らもいつもと同じペースで運搬家業に務めた。日付が変わろうとする頃、ハンセンの中で一人の軍人を拾った。胸に幾つかの染め分けのあるバッチがあった。大きなカーキ色の野戦用バックをトランクに押し込んだ。全ての米兵がこの大きな野戦バックひとつで戦地を転戦するらしい。ある意味で彼らの命の大きさだ。

「嘉手納エアベース」と一言だけ言った。

軍雇用員の車の出入りが多い嘉手納第3ゲート

 石川市を過ぎて東南植物楽園入口の看板を右に見て、知花弾薬庫前を過ぎて沖縄市白川の第3ゲートから嘉手納空軍基地に入った。兵士の指示通りにゆっくりと走った。やがて暗闇を抜け、滑走路だけが昼間のように明るく輝いて浮かび上がった場所に出た。その近くの平屋の事務所の前で停止を命じた。料金の25ドルを請求した。尻のポケットから財布を取り出して10ドル札2枚と5ドル札1枚を渡した。そして胸のポケットから胸のポケットから2ドルを追加で渡した。ニコリと笑って外に出た。トランクのレバーを引きながら「サンキュー・サー」と答えた。

兵士はトランクからバックを引き出すと明るい事務所の明かりの中に足早に消えて行った。私はトランクのロックを確認するために外に出た。トランクを押してロックを確認して運転席に振り向いた途端、いきなり爆音が空から降って来た。真っ暗な空から黒い戦闘機が滑走路に下りてきた。鉄工所のガスバーナーにも似た、巨大な青白い炎を噴射して滑走路を滑って行った。そして着陸する間も見せず再び飛び上がって嘉手納町の西の海上に去って行った。深夜のタッチ・エンド・ゴーの訓練である。私は方向変換して第3ゲートに向かった。戦闘機が次々とタッチ・アンド・ゴーを繰り返していた。嘉手納基地では昼夜の区別なく戦闘訓練が行われている。この島は間違いなく極東アジアの最前線基地である。キャンプハンセンやキャンプシュワーブで見られる数合わせのような軟弱な若者も兵士の一員であるが、この闇の中に潜んでいるのは殺人兵器を操る本物の得体の知れない悪魔の手先である。アジアで紛争が勃発すれば瞬時に戦争に介入できる体制が出来上がっているのだろう。ある意味、米国の軍需産業と軍隊は定期的に戦争装備品の放出先を模索している気がする。沖縄の不幸は130年前にペルリの琉球王府来訪から既に始まっていたと思う。米国のアジア侵略の拠点形成に沖縄が選ばれた起点であろう。米国の開発途上国侵略の野望は、時代に即した迷彩色に身を包んで、姿を変えながら色濃くなっていくだけである。この界隈は殺戮者たちの不夜城である。先ほどの将校らしき軍人の笑顔はこの前線基地から撤退できる安堵感であったように思えた。今夜の軍用輸送機のグァム島経由で本国に戻るのかもしれない。

                 (10

 暑い日が続いていた。ソウシジュの花が終わり、イジュの白い花も盛りを過ぎつつあった。沖縄気象台は梅雨明け宣言を2日前に出していた。僕らはいつものパターンでタクシーを飛ばし、ハンバーガーとコーラで夜食を取りながらビリヤードセンターの前でたむろっていた。私の隣で甲子園と呼ばれている比嘉が何やら薄い生地に野菜やら挽き肉やらを詰めたものと食べていた。ドライブインA&Wで見かけるホットドックとも異なっていた。比嘉は私と同じ高校の出身で、高校野球で甲子園に出場したメンバーの一人だ。私よりは4歳年下である。色の黒い小柄な男でショートのポジションであったらしい。私は大学生の頃にテレビで彼らのプレーを見ていたはずだが彼の姿の記憶はない。尤も20代半ばにもなって高校球児に面影を残すわけもない。とりわけ米兵相手のタクシー運転手を生業にしている者である。

「よう、甲子園の兄さん珍しいものを食ってるな。それは何だい」

「先輩、知らないのですか。タコスですよ」

「聞いたことも、食べたこともないな。タコの入った料理かい。あのタコ焼きみたいな」

「タコ焼きではないですよ。タコス。メキシコ料理で今流行りですよ」

「タコスね。何処で買ったのだ」

「その先の最近できた屋台ですよ。辺野古の赤羽屋の3軒隣のハンバーガーショップでも売っていますよ」

「そうか、タコスの事だったのか」私が手を叩いて言った。

「先輩どうしたんですか」

「いやな、こないだの事だが。シュワーブの門衛のクロンボーに頼まれたのよ」

「何を」

「そいつがさ、タコスを買ってきてくれと俺に頼んだのよ。兵隊を辺野古のバー街に運ぶ途中さ。金は払うからと言っていた」

「買ってきたのかい」

「俺はタコ焼きの事かと思ってさ。ゲートに入るときにタコは売り切れだと言ったのよ。腹が減っていたのだろう、悪いことをしたな。お前が食っている物とは知らなかった」

「先輩古いね。ま、タコスは20代の若者に人気の食べ物だから仕方ないか」

「そんなもん、食いたくもねぇよ」と側からイサオが言った。

「辛いだけで美味いのかね、甲子園」と義信さんが奇異な目をして訊ねた。

甲子園は笑いながら最後の一切れを口に放り込んだ。そしてコーラで流し込んで言った。

「うん、最高だネ」

「テツよ、少し離れて座っていた仲田さんが哉哲に言った。哉哲は私よりも随分年下で22歳だと聞いた。宜野座村漢那から通う若い乗務員である。コーラを手に自分の車の方向を見ていたが仲田さんを振り向いた。

「お前の彼女、ほれ、あのいい尻をしていたクロンボーハーフのネーチャン。あの娘に今日の昼過ぎに会ったぜ」

「昔の話だよ、今は彼女じゃねーよ」

「そうかい。良かったな」

「それで、マリーに何処で会ったのさ」

「なんだお前、知らないのかい。その坂の下のアパートでガス爆発があってな。俺も暇だから行ってみたのよ」

「そういえば、消防車が走っていたな。2時半ごろだったかな」義信さんが言った。

「ああその頃よ。女が一人焼け死んだのよ。そいつがお前の彼女のマリーって言うじゃないか。びっくりしたよ」

「ガス自殺かな」と誰かが言った。

「そうかもしれないな。それがよ、真っ黒に焼けて髪がチリチリになっていたぜ」と仲田さんが素っ頓狂な身振りで言った。

「それでアンタはマリーを見たのかい」とテツが聞いた。

「ああ、担架で運ばれるのをチラッとな」

「かわいそうに、そこのスナックに勤めていたが可愛い子だったな」と義信さんが言った。

「ああ、可愛い子だったな」と賢雄さんが沈んだ声で言った。

僕らはテツによく声を掛けていたマリーの事を思い出して暗い気持ちになっていた。すると仲田さんが突然言い出した。

「ああそうか。マリーの奴はクロンボーだから焼けなくても肌は黒いし、髪も普段からチリチリの天然パーマか」一人で高笑いした。まるで落語の落ちを皆が期待しているかのように言った。

「おい、テツの前でそんな話をするなよ」と体の大きい賢雄さんが睨み付けた。

「あれ、本当の事だぜ」仲田さんが笑いを期待するかのように言った。

テツは黙って車に戻って行った。その場に気まずい空気が流れた。仲間はそれぞれの車に戻って行った。私は一人残ってポケットからマールボロを取り出して火を付けた。煙がゆっくりと闇に吸い込まれていった。気がつくと私の周りに誰もいなくなっていた。この暗くて湿った空間には、人のまっとうな感性を失わせる何かが沈殿している気がした。所詮、刹那的な米兵相手の繁華街である。ここは米兵、ホステス、そして米兵相手の運送業で日々の生業を得ている不謹慎なベースタクシー・ドライバーが集うだけの空間である。米兵相手の僕らに正規の運賃規定が無いように、この空間にうごめく者たちには世間の常識は欠落しているのかもしれない。私もいつの間にかその空間の発する不条理な空気に取り憑かれ始めていた。

 深夜の国道をひたすらシュワーブに向けて走る私の肩を誰かが揺さぶった。

「班長、ウェイクアップ」

ハッとして前を見るとセンターラインを大きくはみ出して走っている。対向車のライトが私の脳内で爆発して黄色い閃光を放った。無意識にハンドルを左に切った。パ、パーンと対向車のクラクションが尾を引いて通り過ぎた。ほんのコンマ数秒足らずであった。目を開いたまま眠りに落ちて意識を失っていたようだ。

スピードメーターは時速90㎞を指していた。私はブルッと頭を振った。そして窓を空けて外気を取り込んだ。海風が漢那小学校の校庭を横切って流れてきた。海藻にも似た磯の香りが私の鼻腔を強く刺激した。私は死の影を振り払うように更にアクセルと踏み込んだ。後輪が路面を蹴り上げて東海病院前の上り坂に120㎞で侵入した。もはやアクセルを踏み込むことでしか神経を刺激して眠気を振り払うことが出来ないような気がした。

漢那集落前の直線道路、アクセルが床に着くまで踏める場所だ

 キャンプシュワーブの兵舎前に米兵を降ろし、車を反転してハンセンゲート前の繁華街に向かった。既に日付が昨日と明日の峠を越えていた。潟原から宜野座に至るまでに1台の久志タクシーとすれ違っただけである。今夜の米兵相手の運送業は閉店時間が迫っているようだ。もう1回ぐらいは配送したいと車を飛ばした。東海病院前の下り坂で窓を開けて夜気を取り込んだ。定期的な眠気覚ましの換気である。未だ夜気は新鮮な酸素を含んでおり、大気が重たく淀んでしまう不快な熱帯夜が始まるのは1カ月先の事だ。夜気は思いがけずソウシジュの香りを運んできた。季節外れの遅れ花だろうか。私の中に懐かしく初々しい遠い記憶を呼び覚ましてくれた。私は最後のカーブを抜けるとアクセルを踏み込んだ。スピードメーターが一気に100㎞を越えて跳ね上がった。午前1時の漢那小学校前のバス停留所に人影がポツリと浮かんで手を振っていた。地元客だ。私は車が反転しないようにブレーキをポンピングしながらタイヤを軋ませて必死で減速した。停車して振り返ると80m程後ろに人影があった。再びタイヤを軋ませてバックして客の前に戻って後部ドアを開いた。

「バカ野郎。何処のタクシーだ。俺は漢那の自治会長だ。村内をなんてスピードで走るのだ」少し酒が入っている声で怒鳴った。

「すみません」私は素直に謝った。

「牛庭に行け」

私は時速60kmで車を走らせた。夜景がゆったりと後ろへ流れた。まるで時間が止まっているかのような錯覚に包まれたまま牛庭のアーチの下で車を停めた。

「安全運転しろよ」と自治会長さんは車を降りた。

「分かりました以後気を付けます」つとめて朗らかな声で返事した。米兵相手にタクシーを飛ばしていると、地元客を拾う視線など持ち合わせていなかったのだ。夜間走行は米兵オンリーになっていたのだろう。それにしてもゲート前の米兵相手の繁華街は閉店時間と言うに、地元の繁華街は営業真っ盛りである。奇妙なギャップを覚えながらビリヤードセンター前に向かった。

地元客の社交街うしなー

 繁華街に人の気配は無くタクシーは順番待ちの列を作らずそれぞれ離れて停まっていた。乗務員は仮眠を取っているようだ。私も交差点から少し離れて車を停めた。ドアをロックしてシートをすこし倒して仮眠をとることにした。瞼を閉じると眩い光の中でセンターラインの白線がアスファルトから剥がれて私の眼球を突き刺し後頭部から突き抜けていく感覚が付きまとった。それがいつもの眠りに入るときのパターンとなっていた。

 2時間近く目を閉じていただろうか。助手席のガラス窓を叩く音で目覚めた。私は駐車違反の摘発かと思って飛び起きた。夜気で曇りガラスに変わった窓の外に女が立っていた。窓ガラスを空けると女が言った。

25ドルでコザの高原交差点まで行ってくれないかしら」

車の時計が午前240分を指していた。「どうぞ」私はレバーを引き、後部ドアを開けて女を乗せた。夜が更けており、行き先を事務所に告げずに車を出した。この頃は夜間走行で事務所に無線連絡する気も失せていた。

客は美人ではないが肉付きの良い何処にでもいる女である。年の頃は40歳くらいだろうと思ったがもっと若いかもしれない。体つきよりもやけにくたびれた顔をしていた。日暮れの顔はもっと輝いていたのかも知れないが既にその面影は失せていた。丁度、夏の夕暮れの月見草は宵が迫る頃、晴れやかに化粧をして我が物顔で夜の帳を開ける役を演じるのだが、朝の薄明を待たずに色あせてしまう一夜の恋女に似ていた。女は夜の深まりの中で輝きを失って帰るべき棲家に向かっているのかもしれない。国道329号伊芸の海岸を走るタクシーの窓を開けてぼんやりを浜風に浸っていた。セイラムを立て続けに2本吸って指先で器用に吸殻を窓の外に弾き飛ばした。革製の細身のシガレットケースと銀色のガスライターをハンドバックに放り込んでパチンと音を立てて閉めた。私はこの時間にタクシーに乗る女性客のことが気になってバックミラーを何度も見た。女がうつろな目つきで私の方に視線を向けた。私は退屈まぎれに女に話しかけた。

「今日は随分と遅かったですね」と穏やかな口調で言った。

「そうね、今日は何時もより遅かったわね」

「随分と稼いだでしょう」

「冗談じゃないわよ。あの白人は舐めまわすだけで中々入れないのさ。さっさと入れて出してくれたら仕事も早く片付くのに、まったく帰りが遅くなったじゃない」

私は年増女の剣幕に圧倒されそうになった。

「高原から田舎の金武町まで通うのは大変でしょう。コザの街の方が華やかで景気も良いのではないですか」

「家から近いコザのセンター通りでパンパンすると、知り合いに会いそうでいやなのよ」

「そうですか、姐さんは中部訛りがないですね」

「私は元々、喜瀬武原育ちなの」

「どうりで、金武町界隈の方かと思いましたよ」

「ハンセンで働いていた旦那と一緒になって高原の近くの住んだのだけどね。アイツがサッサと逝っちまってさ。仕方なく元の仕事に戻ったのよ。でも地元でこの商売すると噂になるから昔の仕事場に通っているのよ」女はつまらなそうな顔で言った。

「出張でのお仕事ですか」

「アンタ、面白いこと言うわね」と言って女が笑った。女の顔から暗さが消えて何処にでもいるおばさんの表情に変わっていた。私は奇妙な安堵感を覚えた。

知花交差点で信号待ちをするとパトロールカーが右側に止まった。助手席の若い警察官がこちらを見た。私はさりげなく視線を合わせてから正面を向いた。後部座席の女をバックミラーで覗くと寝たふりをしていた。信号が変わると直進した。パトカーは右折してコザの八重島町の繁華街の裏手に向かって行った。コザ辺りで見かけない久志タクシーが気になったのかもしれない。

料金メーターが5,050円を指したところで回送表示に切り換えた。コザ高校の前を通って大里の坂を下る途中で女に声を掛けた。

「姐さん、もうすぐ高原です」

「もう少し先まで行って」いつの間にか本当に寝ていた女が顔を上げて言った。

女はハンドバックから煙草を取り出して火を付けた。セイラムのハッカの香りが車内に漂った。私もマールボロを取り出して火を付けて窓を開けた。闇の深さは変わらぬが既に夜が終わる気配に満ちていた。

 高原交差点を過ぎて北中城村の境界の手前で左折した。二つ目の交差点を右折して農道に入った。未だ十分に伸びきらぬキビ畑の中を少し進むと、ブロック塀で囲まれた木造瓦葺きの民家があった。街灯も無く民家に明かりもない。人の気配は全くなく闇の中でサラサラとキビの葉だけが揺れていた。

「兄さん、タクシー代の分だけ遊んでいくかい。たっぷりサービスするから」と女が言った。

「今日はやめとくよ。車を洗って会社に納車する時間だから。この次に会ったらな」

「そう、残念だわ。アンタ男前だし女にもてるでしょう」そう言って、胸元から紙幣を取り出し25ドルを渡した。

「お疲れ様です」と女に礼を言った。

「アンタ、この仕事は最近からでしょう」

4カ月チョイですかね」

「ろくな商売じゃないわね。体に染みつく前に昼間の仕事を探しなさいよ。長くやると昼の仕事が出来なくなるから。アタシみたいにね」

女は気怠そうにシートから腰を上げて出て行った。私は屋敷の角の交差点で車を切り返して本通りに向かった。バックミラーに映る女の家から明かりが漏れることはなかった。時計は既に4時を過ぎていた。キビ畑の上を流れて来る風は微かに潮の匂いがあった。中城湾の海岸が近いようである。琉球王朝時代には遠浅の海岸で塩田が営まれていたらしいが、今では埋められてキビ畑が広がっている。時代の変化は風景も人間の営みも成り行き任せで変えていくようだ。

 石川市でガスの充填と洗車をして会社に向かった。嘉芸小学校の前を通過する頃には恩納岳がおぼろげに輪郭を現していた。ハンセンのゲート前を通過する時にヘッドライトを消した。時速60㎞でゆっくりと未だ目覚めぬ町内を通過した。普段と異なった地元客が絡んだおかしな夜が終わり、15分後に納車すれば全てが夢の中に沈むはずだと思ってアクセルを踏み込んだ。

 回送に切り換えようとメーターに手を伸ばした途端、牛庭のアーチから3名の青年がおぼつかない足取りで出てきた。二人が肩を組みもう一人が手を上げて車を停めた。ひどく酔った二人組が後ろに乗り、もう一人が前に座った。

「中川まで」と前に乗った男が言った。あまり酔っていないようである。

私はホッとした。今度も石川、コザまでと言われるとどうしようと思ったのだ。

金武大橋を渡るとすぐに集落内に入った。100mほど進んで助手席の男がフクギに囲まれた家の前で停車を命じた。

「ちょっと家に寄って取ってくる物がある」と言ってドアを開いたまま車を降りてスタスタと屋敷に入って行った。私はタクシー代が無いのであろうと思って

「はい、どうぞ」と言って送り出した。その男が荒れた中庭を通って古い赤瓦の住宅の玄関の雨戸を空けて中に入るのが見えた。

「兄さん、車を出してくれ」と後部座席の男がひきつった声で言った。

今まで酔っぱらっているとばかり思っていた二人の男が、おびえたように先ほど出て行った男の方角を見ている。男が玄関に姿を現した。「急げ」二人の男は興奮して同時に言った。私は急発進してその反動を利用して助手席のドアを閉めた。タイヤが軋んでゴムの焼ける匂いがした。70m程走ってバックミラーを見た。男が門から出て追いかけてきたが、すぐに立ち止まってこちらを見ていた。追いつかないと諦めたようである。だらりと下げた男の右手に包丁らしき物が光っていた。男の姿が視界から消えると二人の男はこちらに振り返り、肩をすぼめてポロリと言った。

「殺されるところだった」二人の男は途中下車の男を油断させるために泥酔しているふりをしていたのだ。路地は国道329号に続いていた。

「何方に行きますか」と尋ねた。左を指差して「もう少し先だ」と言った。

中川集落の外れの下り坂に差し掛かった場所で一人を降ろした。国道でUターンして少し戻って海岸に向かって下って行った。途中の小さな売店の前で残った男が言った。

「ちょっと待ってくれ」後部座席のドアを開けたまま未だ開店前の店先から何かを取ってきて再び車に乗り込んだ。ほんの少し前に配達されたばかりの湯気の立っている豆腐である。4丁ほど木箱に詰められたセットだ。私が怪訝そうな顔で車に乗り込んできた男を見ると

「夜が明けたら金を払いにいくから、兄さんは心配しないで」と言って手づかみで豆腐を食べ始めた。

夜はとっくに空けており水平線にたなびく雲は既に赤く染まって日の出を待っていた。坂を下りきって水田の広がった億首川の河口に近いトタン屋根のさびれた一軒家の前で停車を命じた。男は料金メーターを見て無言で千円札を渡して車から降りた。左手で豆腐箱を抱えて屋敷の中に歩いて行った。

 私はメーターを回送表示に切り替えてからギアを入れて車を発進した。この車は≪AUTHORIZED ON BASE≫のベースタクシーだ。地元客を乗せるとロクなことがないと思った。坂を上り切って国道329号に戻って北にむかった。今度こそ本当に本日の業務終了だと自分に言い聞かせてアクセルを踏み込んだ。日の出が始まっていた。

事務所に戻って運賃を精算して車を拭いていた。最後の客の豆腐の食べカスを丁寧にふき取っていると怒鳴り声が聞こえた。車から出て声の方向を見ると2台前の車で宮城さんが怒鳴っている。

「甲子園のアンちゃんよ。一昨日の乗車後の掃除をしないで帰っただろう」

「いつも通りにきちんと拭き掃除をしたぜ」

「冗談じゃネーヨ。後部座席の枕の後ろにフライドチキンの食べカスの骨が残っていたぜ。お客さんの頭のすぐ後ろだ。客を乗せる前に俺が気付いたから良いものを。万座ビーチホテルのフロントに知れたら俺は首だぜ」

「悪かったな。朝は視力が悪くなって見落としたのよ」

「全く困った相棒だぜ」

「アンタも万座ホテルの専属をクビになったらアメリカー相手に商売したらよいだろう。ジャパニー相手より儲かるぜ」

「俺はアメリカーが嫌いだ。クロンボーの匂いよりはヤギ小屋の方がよっぽどマシだぜ。いつも言ってるだろ。クロンボーを乗せるんじゃネーヨ」

「そうかよ。日が暮れたら白・黒と言っていられるかよ」

二人は険悪な雰囲気のまま離れていった。甲子園はトヨタ・セリカの暴走族仕様にも似た愛車で爆音と土ぼこりをまき上げて帰って行った。

「あのバカが、いつまでもガキの真似していやがる」

宮城さんは怒りが収まらぬ様子で私に向き直って言った。

「おい、国立大卒の兄さんよ、いつまでもつまらぬ奴らと遊んでいるじゃないぜ。アメリカー相手に小銭を稼がずにサッサと本職を探しな」そう言ってトランクにタオルを放り込むと車に乗り込んだ。

 宮城さんだけは久志タクシー仲間と異質な雰囲気を持っていた。こざっぱりしたアロハシャツ姿で、如何にも本土からの新婚さん相手の観光タクシーの乗務員ですという身なりだ。車もグレードがワンランク上で兵相手ではもったいない仕様である。それでも彼自身の体の奥から染み出て来る気配は、辺野古川河口の潮だまりに集まっている久志タクシーの乗務員特有の色が滲み出ていた。私はというと、このベースタクシー乗務員の仕事が嫌いではないが、彼らと同じ色には染まりようがないと感じ始めていた。水彩絵具と油絵具を混ぜ合わせても上手く色が乗ってこないのだ。何かを表現するための基礎となる具材が異なるからである。幾ら混ぜ合わせても分離してしまい本物の色を成さない。そろそろ自分らしい景色を描くために適した絵の具を探しに行かねばという思いが頭をもたげ始めていた。

              (11)

 潮目はいきなり変わるものである。変わるには何らかの兆候があるのだろうが、それはいつも突然にやって来るものだ。

勤務明けでいつも通りに自宅で寝ていると電話が鳴った。

「もしもし、ナカムラさんのお宅ですか」

「そうですが、どちら様ですか」私は不機嫌な声で応えた。

「ヤスカズさんいますか」

「私ですが、何かご用ですか」

「ナカムラさん、今日の午後1時から面接の予定ではなかったですか」

私は義父の紹介で履歴書をとある会社に提出してあり、その会社の代表者からの面接を受ける予定日であったのだ。時計を見ると午後3時である。

「申し訳ありません。夜勤明けで寝過ごしてしまいました。1時間後に伺いますが宜しいでしょうか」

「よろしいでしょう。では、午後4時に待っています」不機嫌そうな声で電話が切れた。

私は採用が無理だなと考えながら面接を受けに向かった。背広にネクタイの姿ではなく、少し地味なアロハシャツ姿で面接を受けた。代表取締役は流郷という聞きなれない姓の70歳過ぎの短髪白髪の男であった。後で知ったのだが建設省の上級官僚出身で、定年を沖縄総合事務局の主席調整官で終えた男であった。

「お前、いい度胸しているな。3時間も遅刻して面接を受けるとは」

「すいません。仮眠のつもりが充分に寝てしまいました」悪びれずに答えた。どうせ採用は無理だろうと思っていたからだ。ベースタクシーの乗務員稼業で世間擦れした度胸だけが育っていたのだろう。

「造園協会の副理事長の紹介だから面接をしたのだ。親父は本部警察署の署長だって」

「ええ、義理のオヤジです」

「お前の実のオヤジは何をしているのだ」

7名ばかりの職人を使っている大工の頭領です」

「ほう、それでは、作業人夫の扱いに慣れているな」

「ええ、まぁ。中学、高校、大学と休みのたびに親父の下で仕事を手伝っていましたから。実家では人夫が頻繁に出入りしていましたし、仕事柄の酒の席が多く、父の代わりに世話役も手伝っていましたので」

「そうか、うちの職員は男子6名と、女子の事務員が一人の所帯だ。君なら仕切れそうだな。」

「私でよろしければ、お手伝いさせていただきます」

「では、来月1日付での採用としよう。今は小さな会社だが、いずれ必ず大きくなる性質の会社だ。給料はその都度上げてやるからしばらく我慢しろ」

「分かりました、よろしくお願いします」

可笑しな成り行きであったが、私はこの会社の代表取締役の気に入られたらしく採用と決まった。どうやら潮目が確実に変わったようだ。その新しい潮流に乗ってみるのも悪くない気がした。

 梅雨が上がりイジュの花が散って、ホウオウボクのオレンジの花が咲き始めた7月の終わりに政叔父さんに暇乞いをした。義父の紹介が功を奏して新しい仕事に就くことになったことを告げた。「お前は私のところで事務をするより、体を動かして仕事をする方が向いているようだ」と残念そうに言った。

深紅のホウホウボク、この花が咲くと夏本番だ

 造園協会の副理事長は義父の旧制第三中時代の同窓の学徒兵とのことであった。その協会が出資して作った新会社は未だ小規模の公園管理工事をするに過ぎなかったが、動き始めた新しい潮の流れに乗るのもよしとした。以前に義母を伴って出かけた県立名護病院での一件が転職の引き金になったのだろう。私の日常は24時間サイクルに変わった。妻は私の就職に安堵して機嫌が良くなり、あれこれと新しい職場の事を訊ねた。私はのんびりした業務だとだけ答えた。実際、公園管理工事の現場責任者に就いた私は、目立った活動をすることもなかったのである。職員は全員が北部農林高校卒で素直な後輩であった。あの久志タクシーの乗務員に比べると全くのお坊ちゃんに見えた。職場は国営公園の植物維持管理を生業にしており、米兵相手の緊迫感は何処にも存在しない別世界であった。

 ともあれ、あの闇を切り裂くカーレースの日々から解放されたことに、私自身が一番の安堵感を覚えたのかもしれない。潮目が変わると次々と変化が現れるものだ。入社1週間後に農協から営農指導員の採用通知が届いた。農学科出身の私に相応しい仕事かもしれないし、これまでの知識と経験が生かせる職業であろう。しかし私はその採用通知を断った。大学の農学科を卒業して、多少の農業経験があるも技量の底は知れている。新しい流れから乗り換える程のこともない。農家という大地に根を張って粘り強く生きている人々と付き合うことは私には無理である。造園建設業界という絶えず変化する受注工事が連続する見知らぬ世界の方が性に合っていると思ったのだ。人の甲斐性は容易には変わらないし、自らの天命を知るにはそれなりの出会いと時の蓄積を経るべきものである。

 新しい仕事に就いて二月ばかりして実家で松さんに会った。

「新しい仕事はどうだい」

「毎日定時にベットで寝られるだけがお得かな。給料は半分になっちまったし」

「幾ら貰っているんだ」

「月給14万円さ」

「俺の半分以下か」

「久志タクシーの仲間は元気かい」

「ああ、皆相変わらずだ。テツは消防士の学校に入学した」

「あのガス爆発の後で落ち込んでいたからな」

「甲子園の比嘉は万座交通ハイヤーに転職だ」

「へぇ、観光タクシーは嫌いじゃなかったかい」

「結婚して母ちゃんに泣きつかれたのさ。一日越しに帰宅する仕事に新婚女房殿が怒ったのさ」

「女は強いね。俺も母ちゃんが義父に泣きついたおかげで、乗務員を廃業したのさ」

「ところで、金武タクシーの宜保さんを覚えているかい。剛柔流2段の男だ」

「ああ、年甲斐もなくサングリアの前の通りでで米兵をからかっていた男だな」

「ハンセンの中で刺されて死んだよ。後ろからアーミーナイフでブスリさ。金武タクシーは無線が無いだろ。発見が遅れて出血多量死だとさ」

「武道家でも危ないのだね」

「やったのはプエルトリコ系兵士のガキどもさ。咳止めのブロンでラリっていたらしいよ。あれは一種の興奮剤だからな」

「そうか、俺もそいつらをハンセンから赤羽屋の隣の薬局まで往復で乗せたことがある。ブロンを飲んだ途端にテンションが上がったぜ」

「お前も危ないところだったな。転職して良かったな。兄さんよ」

松さんが乾いた声で笑った。

「お前が置いて行ったラジカセな。俺が貰ってもよいかい。家のラジオが壊れちまってよ」

「ああ構わないよ。どうせあのクロンボーが取りに来るとも思えないし、タクシー代も会社が損金処理していて俺の損失は無いから」

「政兄さんはお前を本気で跡継ぎにしたいと考えていたがそれもチャラだな」

「政叔父さんには悪いことしたな。紹介してくれた農協の採用通知も断ったし」

「仕方ないさ。タクシー稼業でもあっただろ。運の潮目が変わることはよくあることさ。潮目が変われば新しい流れ乗ることが仕事の鉄則だ。しばらくすると新しい潮の流れが次の運を運んでくれるものさ。コロコロ乗り換えても良い運気は来ないぜ」

「そうだな」

「お前の給料も次の潮目が変われば俺よりも高給取りになるってことよ」

「そう願いたいね」

松さんが大きな声で笑った。

 松さんの高笑いを聞いていると、久志タクシーの日々の記憶が離岸流に乗って遠のいたことをはっきりと知った。僕らは別々の潮の流れに乗って次第に遠ざかっていくのだ。

 それから数年後に久志タクシーは行政処分されて丸金タクシーに吸収された。政叔父さんは丸金交通の経営管理者の一人になり、松さんは八重タクシーに移った。他の乗務員もそれぞれ転職していった。その頃から米国経済は停滞を始め、日本経済は平成景気を迎えた。ドルのレートは1ドル110円台に下落していった。ハンセン前の繁華街は潤いを失い。ベースタクシーの利用者がいなくなってしまった。久志タクシーの潮だまりはあたかも辺野古川から流れ込んだ土砂で干上がってしまったかのようになった。時の流れは無造作にそこに住む人々生活を変えてしまうのである。

 入社後10年目を迎えた頃、組織は大きく成長して従業員数も30名を越えていた。平成景気の中で営業と称する乱費がはびこっていた。私は毎月45回のゴルフコンペと繁華街通いに明け暮れていた。意味のない営業活動のおかげで胸膜炎を患い、2週間余り入院した。ただ、入院に伴う体力の低下は思いのほか重症であった。体力を取り戻すために再び空手を始めたのがせめてもの救いであった。空手道場はあの頃住んでいたアパートの近くにあった。あの頃は何とも感じなかった道場の看板をどうして思い出したのか不思議だが、体と心が鍛錬の必要を感じたのであろう。人は必要になって始めて見落としていたものを拾い出し、不要になると無造作に記憶の外に追い出してしまうのだ。

平成バブルはやがて消滅して、不景気の波が業界に押し寄せた。誰もが予感しながら対策も立てなかった波であった。私は組織も規模縮小を余儀なくされたが、事業形態をすこしずつ変えることで生き残った。

私が中東湾岸戦争を知ったのはベルビーチゴルフ場のクラブハウスのテレビニュースであった。東アジアのベトナム戦争が終結して20年、アメリカの軍需産業は西アジアへと商売の拠点を移していった。西アジアでは次々と節操のない喧騒が始まっていた。沖縄の全ての基地が再び熱を帯びて動き始めたのである。ベトナム戦争の頃と同じように沖縄の県民を大きく巻き込むことはないだろうが、潮目の変化は無造作にそこに関わる人々の暮らしを変えてしまうのが常である。

 太陽は遥か彼方の太陽系の中心に座り、誰の目にも明らかに時の移ろいを示してくれる。しかし、本当に人間と深くかかわっているのは月だ。地球のごく近くにあって、夜陰に紛れて地球と引力の引き合いをしているのだ。古い時代の漁師も農民も月の満ち欠けによって自然の変化を読み取っていた。潮目の変化を引き起こすモノは遠きに在る大きな変化ではない。誰もが近くにある≪既に起った未来≫を見落としているのだ。身近にあるモノが夜陰に紛れてゆっくりと変化しているのである。そして変化は度が過ぎると壊れた堤のように一気に新しい流れを作るのだ。その流れに抗って流れが収まるのを待ちつつ朽ちていくか、新しい流れを受け入れて変化の中に自分の航路を探すか、人それぞれの生き方だ。人は宿命を背負って人生を歩み始め、天命を求めて命を運ぶのである。たどり着く先など誰も知らないのが、せめてもの神のご慈悲であろうか。

                         「完」

 

 

2017年8月14日 | カテゴリー : 短編小説 | 投稿者 : nakamura