磯の騒めき

メモ:2021年11月28日

KIMG1740イワシの群れ

初冬になると沖縄県名護市の海浜公園にイワシの群れがやって来る。黒い影は数万匹のイワシの群れだ。ドーナツホールはダツがアタックした跡だ。ダツやロウニンアジ等の攻撃でイワシの群れの喧騒が始まる。砂浜の向こう側は市営球場だ。1月の下旬にプロ野球団日本ハムファイターズのキャンプが始まる。今期は監督ビッグボスの登場で喧騒が始まるだろう。海も陸も群れる者たちの喧騒のシーズン入りだ。

2021年11月28日 | カテゴリー : 雑記帳 | 投稿者 : nakamura

Phaius系の増加

メモ:2021年11月23日

毎年Phaius系の育種を続けていると,ネズミ算方式で品種が増えてきました。現在、Calanthe,Phaius系で57品種に増えてきました。来春に初花を迎える品種も多く、来年の夏にはさらに多くの品種の交配がフラスコの中に生まれるでしょう。さて、如何に処理しようかと迷っています。

KIMG2769 2021年11月のフラスコ出し品種19種1,600本、早いものは2023年3月の開花。遅くとも2024年には全てが咲く

KIMG27702021年3月のフラスコ出し品種、2023年にはすべての交配種が開花します。

KIMG2771既に蕾が出た、来春2022年2月からの開花予定株

2021年11月23日 | カテゴリー : 雑記帳 | 投稿者 : nakamura

PhaiusとClantheの交配種

メモ:2021年11月19日

2019年3月に友人からCalanthe rubensの開花ステムを貰ったのでPhaius2品種に交配しました。同年7月に播種を依頼して、2020年9月にフラスコ出ししました。来春2月の開花予定です。Phaiocalanthe特有のラッキョウ形のバルブです。Phaius系の交配は受粉から3年で花の確認が出来ます。コンクール用の満作株を作るには4年以上が必要です。100株のフラスコ出し株の半分程度は咲くので善しとします。原種同士ですから花色・形は同じでしょう。株の変異は今のところ無いです。葉の斑入りが0.5%程度出現します。

KIMG2732 2021年11月19日現在

tankervilleae alba 花 (2)Phaius tankervilleae var.alba 母株

may greenPhaius tankervilleae May Green 母株

Cal.rubenseCalanthe rubens 花粉株(同種のwebよりの写真)

 

2021年11月19日 | カテゴリー : 雑記帳 | 投稿者 : nakamura

モンパノキとミーカガン

メモ:11月16日

名護市の21世紀の森海浜公園を散歩しているとモンパノキが開花していた。大戦前の沖縄の漁師はこの木で水中メガネを作っていたらしい。FM本部ラジオを聞いているとこんな話をしていた。当年90歳の伝説の漁師仲村さんの会話だ。素潜りの選手権で数々の記録を出したり、海難事故への協力で表彰を受けた方だ。映画グランブルーのジャックマイヨールと素潜りを競ったらしい。ジャックは仲村さんの水中眼鏡に興味を持ち、沖縄県産の水中眼鏡(方言名:ミーカガン)を数点を仲村さんはプレゼントとした。その次にジャックに会う機会があり、ジャックは言ったそうだ。「ミスター仲村の水中眼鏡を参考に競泳用ゴーグルを考案して特許を取りました。儲かりました、ありがとう」私も中学の頃まで使っていました。難点は長時間使うと目に吸着して目が痛くなることです。今は素潜りをすることも無く、専ら市営プールでジャックの考案したゴーグルで泳いでいます。

KIMG2745砂浜に生えるモンパノキ

KIMG2746モンパノキの花

h190362274.1沖縄県の海人の水中メガネ:ミーカガン

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2021年11月16日 | カテゴリー : 雑記帳 | 投稿者 : nakamura

コウトウヒスイラン

メモ:2021年11月14日

CM21'1114コウトウヒスイラン:Vanda lamellata

コウトウヒスイランの開花時期は2月が一般的だ。沖縄国際洋蘭博覧会、東京国際等への出展も2月が多い。八重山の友人の保有するランも2月咲きである。この株は台湾から導入して数年たつが毎年10月咲きだ。台湾の業者は尖閣より採取と言うが良く分からない。とりあえず今年も交配した。1昨年の交配種子を昨年5月に播種依頼した。結実熟するまで半年です。フラスコ出しまで更に1年と10カ月だ。フラスコ苗が届くのが来年の3月らしい。バンダ類は気長に待つしかない。加齢と勝負です。写真の種がフラスコ苗として仕上がるのが3年後である。

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2021年11月14日 | カテゴリー : 雑記帳 | 投稿者 : nakamura

リュウキュウハギ

メモ:2021年11月14日

DN21'1114

庭の滝口の石組みに咲いたリュウキュウハギもそろそろ終わりだ。他府県に多いミヤギノハギの亜種とのことだ。沖縄の在来種ではなく、古い時代に中国から持ち込まれたとの見解もある。よく成長して過繁茂するので適度に間引き剪定が必要だ。

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2021年11月14日 | カテゴリー : 雑記帳 | 投稿者 : nakamura

サキシマフヨウ

メモ:2021月11月13日

沖縄でも早朝の気温が20℃まで下がって来た。この時期になると初冬の花、サキシマフヨウが目立つようになる。沖縄本島北部名護市の国道58号脇の植え込みに咲いていた。初冬の花かと思いきや、初夏にもチラチラと見かける。この植物の開花生理はどうなっているのだろうか。

KIMG1494純白の花から淡いピンクまである。

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2021年11月13日 | カテゴリー : 雑記帳 | 投稿者 : nakamura

Phaiusの挿し木増殖

メモ:2021年11月13日

Phaius系(カクチョウランの仲間)は挿し木で増殖できます。花が終了したステムを容器に入れた水に差して発根させる方と、鹿沼土に伏せて発根させる方法があります。今回はステムを伏せる方法で増殖しました。Phais系だけでなくガストロファイウス属も可能です。ステムを3節程度に切って鹿沼土に伏せます。4カ月程度で単鉢に鉢上げ出来ます。上手く行けば翌年に開花します。私の場合は、Phcal.Krypronite で3輪を咲かせました。ステムの下部が発芽しやすいです。カクチョウランをお持ちでしたらお試しください。

KIMG0170Phaius tankervilleae Rabin’s Raven 花径14cmです。通常リップの外側が白ですが本種は赤です。台湾からの輸入株に1株だけ混ざっておりました。

KIMG2640ステムから発芽、伏せ茎4カ月目

KIMG2641発根状態、茎が付いています。

KIMG264310月上旬の状態、この株は来春の開花は難しい

KIMG1906Phcal.Kryptonite 2020年4月挿し木、2021年4月開花

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2021年11月13日 | カテゴリー : 雑記帳 | 投稿者 : nakamura

WOC旅日誌

WOC旅日記

プロローグ
2011年11月12日~20日までシンガポールにおいて国際蘭会議(WOC : World Orchid Conference)が開催された。ランに関する国際レベルの技術者会議であるがランの展示会も同時に開催される。概ね環太平洋諸国での国際レベルの展示会と併用して開催される場合が多い。東京国際蘭展示会や台湾国際蘭展示会、タイ、マレーシア等の主要ラン生産国が持ち回りで開催しているようだ。最近は中国も名乗りを上げている。国際蘭会議は展示会を伴うので観光需要も喚起されるのだ。私のもとには台湾の友人秦からWOCではなく、同時期に開催される中国福建省の三並国際蘭展示会への誘いがあった。ところが我社と交流がある近隣の造園会社の暇を持て余した社長共が、WOCのことを聞きつけて見学に行きたいと言い出したのだ。造園建設業協会主催の海外都市緑化事情調査が前年に終了したことで、海外に出る機会が減ったことにも起因していた。国際蘭会議の視察であることからラン管理を生業にしている我社に世話役の依頼が来たのである。専務と社員一人が世話役として参加する予定であったが、直前になって常務の私も参加する事になった。専務と常務の役員2名が会社に不在のことは前例が無いのであるが、私のゴルフ仲間でもある社長連中のからの依頼があったらしい。彼らは我社の株主でもあるのだ。結局のところ台湾の遊び仲間との予定をキャンセルしてこのツアーの中に組み込まれてしまった。
さて、シンガポールであるが、これまで3度の訪問があった。1982年、シンガポールを見ずして亜熱帯沖縄の都市緑化は語れないと言う造園仲間15名で、香港島、シンガポール、バンコク、パタヤと旅行したのが初めだった。その翌年は、沖縄県が企画した中小企業間の異業種交流事業の一環として海外視察研修に参加した。「青年の翼」称する総勢36名のメンバーであった。フィリピン、シンガポール、タイに駐在するジェトロ(日本貿易振興機構)の現地所長の案内で日本と現地の合弁企業を訪ねた。その次が2001年にマダガスカルの都市緑化事情調査の帰りに立ち寄ったのだ。丁度アメリカ貿易センタービル破壊テロ事件の1か月後であった。飛行機のフライトスケジュールが世界的に不穏な状態になった頃だ。マダガスカルからの帰国便の予定が大きく狂ってしまい、2日遅れでマダガスカルを発ちモーリシャス、クアラルンプル、シンガポール、関西空港を経由して沖縄の那覇空港に戻った旅であった。シンガポールから関西空港に向かうまでに6時間の乗り継ぎ待ち時間があったので、植物園や開発中のウォターフロントを見学して夜の便で関西空港に向かったのである。シンガポールは小さな国土である。3度も訪れると感動する体験は無理であろうと考えていた。まして4度目の団体旅行である。私は台湾の親友秦の誘いを断ったことで、いささか落胆していた。成り行きで旅の世話役を任された心配性の専務が、海外旅行に慣れた私をトラブル解消役として引き込んだのである。
20名の参加者に旅行社の女性添乗員が1名付いた男性15名女性6名の大名行列である。メンバーは夫婦者が4組、造園関係者が10名、ホテル関係者が3名で、4名ほど面識の無い人々が加わっていた。旅の日程は11月17日(木)の午前11時55分に那覇を発って20日(日)の午後6時半に帰ってくる3泊4日の旅だ。移動に2日を要するので僅か2日間のシンガポール見学である。
元来、私は団体旅行が好きではない。知り合いとはいえ、必ずしも感性の波長が合うとは言えない人々と、窮屈な旅をすることが嫌いなのだ。それに日本の団体旅行の定番となっている2人相部屋が耐え難く嫌いだ。大人の男性同士の相部屋は日本人だけの特有の旅行形態である。終戦直後の出張ではあるまいし、宿代を倹約した貧乏臭い旅をしなければならぬ理由はない。欧米人から見るとホモの気があると邪推されるのがおちである。私はマイペースが保てない相部屋がどうしても嫌で、わがままを通して1人だけシングルの部屋にしてもらった。1泊5千円ほど割高でも快適な旅行には欠かせぬ条件である。結局のところ私一人がシングルで添乗員はホテル関係者の女性役員との相部屋となった。
私は4日間の不在に備えて現在手がけている国の雇用促進事業として受注したグリーンコミュニティ支援事業の管理を仲地君に依頼した。この旅は仲地君が同行する予定であったが、奥方の体調不良を理由に農場担当の上間君が行くことになったのである。仲地君は出張をキャンセルした責任を感じたのか快く引き受けてくれた。これにより不在中の仕事の手配が整い、10年ぶりのシンガポールへの旅が始まることになった。妻には出発の2日前に「シンガポールの国際蘭展示会の視察に出る。全くツマラナイ20名の添乗員付きの団体旅行だ。俺が行く理由がないのだが」と落胆した口調で話した。
「あら、今度は珍しく一人旅ではないのね」と愉快そうに言った。
「ああ、爺共と4組の夫婦者が一緒だ。全くガイドツアーじゃあるまいし」
「世話役の務めがあるのでしょう。誰かの役に立つ仕事も大切よ。遊びの旅行はお預けネ」と笑った。
「シンガポールなんて4度目だぜ。名古屋よりもよく知っているよ」
「そう、行ってらっしゃい」妻は珍しく私に楽しそうに答えた。私が海外での夜遊びが出来ないことに溜飲を下げているのであろう。

11月17日(木曜日)
午前8時10分、予定より10分早く上間君が私を迎えに来た。沖縄記念公園管理の同業者である本部造園の仲井間君を伴っていた。社長の仲宗根さんが所用で旅に参加出来ないので社員の仲井間君を寄こしたのである。上間君の車を私の家の駐車場に停めて私のプリウスで空港に向かった。沖縄自動車道を通って那覇空港国際線旅客ターミナルに着いたのが午前9時30分であった。集合時間は10時であるが既に数名のメンバーが到着していた。今回の旅行を取り仕切っているエアー沖縄のツアーガイド崎浜女史が会釈して近づいてきた。
「おはようございます。よろしくお願いします。10時になりましたらチケットをお配りしますのでしばらくお待ち下さい」
私は自分の荷物を上間に預けてオープンカウンターの空港レストランで300円のコーヒーを貰った。直ぐに旅行メンバーで普段からのゴルフ仲間の新垣、仲本さんがやって来て雑談となった。新垣さんは「4日間の旅で18万円の旅費は高い」と不平を漏らした。それを年下の仲本さんが「添乗員付きだから仕方ないでしょう」と慰めた。相部屋で同業者の仲良しコンビである。
集合時間の午前10時までにホテル関係者の3名を除く全員が集まったところで、崎浜さんが日程の説明をした。その間に彼女に同行したスタッフが搭乗チケットの予約用紙を配った。一通りの説明を受けた後に崎浜さんに先導されてチケットカウンターに向かった。彼女の右手にはヒマワリツアーの旗が掲げられており、私は生まれて初めて御のぼり旅行に参加することになった。国内の行楽地でよく見る風景であるが、自らが参加すると何だか気恥ずかしくなってしまった。
台湾までとシンガポールまでの二枚のチケットを受け取って磁気検査の列に並んだ。いつものように手荷物を預けずに検査を受けて出国手続きを済ませた。混雑した搭乗待合室から4名の娘達に旅に出る旨のメールを送った。毎度の旅のパターンだ。立ち上がって背伸びをして振り返ると、ホテル関係者の3名も到着していた。
定刻の11時55分より10分遅れてCI-121は飛び立った。機内で旨くもないサンドイッチを食べて仮眠する間に桃園国際空港に到着した。1時間20分のフライトであった。
崎浜女史に引率されてトランジットゲートに入ると再び磁気検査を受けることになった。これまでの体験から台湾出国時の磁気検査はとても簡便であると思ってポケットに財布を入れたまま検査を受けると検査ゲートのブザーが鳴った。検査員は「ベルト、ベルト」と指さしてズボンのベルトを取るようにと指示した。ベルトを外してチェーン付きの財布と共に籠に入れて再びゲートを潜った。今度は無事にパスした。ベルトを締め直し、財布をポケットに納め、携帯電話ケースをベルトに挿して第1ターミナルへと続くエスカレータに乗って3階へ上がった。桃園国際空港ではターミナル間を移動する際に磁気検査をするシステムがあるようだ。私は古い記憶の中に同じ光景があったことを思い出せなかった。
シンガポールへ向かう便の出発時刻は午後4時である。未だ出発まで3時間もあるのだ。旅行仲間は暇つぶしに小グループに分かれて土産品店やスナックへ向かって散っていった。私は空港内の植物展示が気になって少し散策してみた。台湾は世界最大の胡蝶蘭の生産国であるが、空港内での展示は殆ど見られない。土産品店の室内装飾に僅かに見られる程度だ。私の会社が管理する那覇空港ビルの室内装飾では、台湾から輸入した胡蝶蘭を数多く使用しているのだ。桃園国際空港は観葉植物配置がベースである。前回訪れた時は窓辺と通路の仕切ボックスに配置してあったが、通路の植栽枡を無くしてムービングウォークと並行した通路を広くしてあった。そして窓辺と壁面に緑化を施してあった。施設内の歩行空間が広がると共に植物による空間の被覆面積が拡大することである種の癒し効果が現れている。プラグ方式の壁面緑化自体は以前から屋外で実施されていた技術である。工事現場の安全フェンスの代用やイベント広場のモニュメントに使われており園芸資材店で入手できる製品である。しかしながら空港内の上質な壁面に少し気取ったデザインで設置することで、屋外とは異なる趣があり空港利用者を楽しくさせてくれる。この空港は訪れるたびごとに少しずつ変化している。最近の傾向が経費節減を目的に室内園芸植物を排除した無味乾燥な空間への変化に転じていただけに今回の変化に心が和んだ。

少しだけ空腹感を覚えてスナックの前に戻って来た。店の向かいの椅子に平地夫妻が座っていた。
「何か摘まんでビールでも飲みませんか」と誘うと笑顔で立ち上がって同行した。
私は120元の生ビールと180元のビーフシチューを注文して手持ちの台湾元で支払った。海外旅行用の財布には、釣具店で買った磯釣りで使うためのタックル紛失防止用の細いスプリングワイヤーを取り付けてある。パスポートも同じだ。一方をベルトに取り付けて置けばスリ取られることはない。財布には海外専用のキャッシュカード、日本円、米ドル、台湾元を入れてある。平地夫人はビールとサンドイッチを頼んで日本円で支払って台湾元の小銭を貰った。夫妻は八重山から参加である。名刺を見ると八重山蘭趣味の会と記載されていた。私は次女婿が八重山出身であることを話すと、婿の実家の池田家のことを良く知っており、先月、池田夫人が大動脈乖離で緊急入院したことまで知っていた。さらに私の大学の同窓である唐真盛光君と中学、高校の同期であると話した。私は平地夫妻に親近感を覚えた。私と同年の平地氏がNTTを定年退職して趣味のラン栽培に意欲を燃やしていることや、奥さんが夫の趣味に共感していることを羨ましく思った。スナックの客が次々と入れ替わる中で僕らはビールを二杯飲んで一時間ほど過ごした。
スナックの外に出ると旅のメンバーが次々と戻って来た。添乗員の崎浜女史が人数を確認して搭乗待合室のA-8 ゲートへの移動を促した。私は搭乗前に何度かトイレに立って先ほど飲んだビールを放出することに努めた。このところ前立腺の機能が弱くなった気がしているのだ。午後四時、CI-751はほぼ満席の乗客を乗せて桃園国際空港を飛び立った。4時間45分の退屈な旅が始まった。いつもの様につまらない機内食を口にして、ワインを二杯飲んでトイレに立ち、英語圏への会話対策として持参した英文のマークトゥエインの小説を読みながら眠りに落ちて行った。
ランディングのショックと逆噴射の騒音で目的のシンガポールのチャンギ国際空港に着いたことが分った。未だ覚めやらぬ頭を何度も左右前後に振って、あくびをくり返しながらふらつく足取りでバゲッジクレームに辿り着いた。通路の横に四角形の大きな花鉢が4鉢並んで配置されており、その中に濃紫色のデンファレが寄せ植えされていた。太いバルブは赤道直下の熱帯地域に育つ特有の品種であり、沖縄の清楚なデンファレとは異なる野生の力強さを鼓舞していた。私はこのデンファレを見た途端マレー半島の先端に位置するシンガポールに到着したことを理解した。那覇空港の2倍もある長い荷物送り出しレールの続くバゲッジクレームの中央カウンターには、見馴れたアグラオネマと熱帯のデンファレが混色してアレンジされていた。我社の受注する那覇空港ビル内の植物展示技術とあまり変わらぬレベルである。只、ボリューム的にはこのシンガポール・チャンギ国際空港ビルが勝っているのは否めない。

僕らは崎浜女史の先導旗に従って空港の外に出た。タクシー乗り場は10年前と変わらずに南国特有のある種の重たい空気の混濁した匂いがした。何故だか私はその記憶に安堵感を覚えた。その横をすり抜けて大型バスの待機所に向かう途中、右手の植え込みの中に見事なタビビトノキがあった。270度の円形で葉を展開する姿に圧倒され慌ててデジタルカメラを取り出してシャッターを切るも、この土地の高湿度にレンズが曇って撮影不能となってしまった。諦めてバスに向かう途中でレンズを拭いて何度かシャッターを切った。そしてインドシタンの下垂した枝葉がセピア色の街灯の中で、夜のビル風になびく様をかろうじてデジカメの記憶媒体に収納した。インドシタンのカサカサと風に舞う音を耳にしたときから熱帯の空気の重さが私の五感に沁みて来た。

機内で煙草を我慢していた国吉と仲井間が駐車場の隅にある喫煙所でニコチンを補充して満足な顔で車内に戻って来た。現地添乗員のミス・ペン女史が「全員そろいましたのでホテルに向かいます」と車載マイクで呼びかけた。42歳の独身で小太りのペン女史は美人ではないが、それを補うだけの笑顔と日本語の話術に長けていた。日本の大学を卒業した彼女はシンガポールの公用語である英語とチャイナ系の人々が常用語とする北京語、それに東南アジアの中華系が方言として話す広東語と日本語が話せると言う。彼女の最近のシンガポール事情の説明が終わる頃にホテルに着いた。フラマ・シティ・センターである。チャイナタウンを横切るユウ・ラン・ロードから50m程路地に入った中規模の4つ星評価のホテルである。
2階のロビーで部屋割をしてカード式のルームキーを受け取ると相部屋の仲間同士が連れだって部屋に向かった。私は少しだけビールが欲しくなってホテルの入り口に向かって歩き出した。
「仲村さん何処へですか」聞きなれた声に振り向くと仲本さんである。
「うん、外へ出てコンビニでビールを買ってから部屋に行こうかと思いましてね。ガイドの話では近くにコンビニがあると言っていましたから」
「では、一緒に行きましょう」
相部屋の新垣さんと私の社員とその相棒の仲井間君が付いて来た。
私は階下の手荷物カウンターでルームキーを見せルームナンバーを告げて5名分の荷物を預けた。ボーイはコンピュータが荷物に入っていないかと心配そうに尋ねた。私が「ノー」と答えると手荷物と引き換えにチケットを渡した。「サンキュー」と言ってコンビニを探して表通りに出た。5名で辺りを見渡してコンビニのネオンサインを探すも見つからない。私は歩行者の女性にコンビニの所在を尋ねると「アイアムソーリー、アイアム・ビジター」と返事が返って来た。此の街の歩行者は地元の人とは限らないようである。ホテルに引き返してドアボーイに尋ねると僕らの歩いてきた方向の反対側を指示した。「サンキュウー」と言ってその方向に少し歩くとセブン・イレブンの特徴ある赤と緑の横縞の表示が現われた。中に入ると10坪もない店内のスペースに飲み物の冷蔵庫と菓子類の棚があった。僕らはバスの中でペンさんが用意した1万円ごとに両替した袋からシンガポールドルを出して、1缶2ドル20セントのタイガービールを好きなだけ買った。私はツマミとして小さなピスターチョを1袋加えた。僕らがホテル前の歩道を横切っているとホテルから仲間が10名程ぞろぞろと出て来た。私は彼らに向かって「ディスウェィ、ユウ・キャンシー・セブンイレブン・コンビニエンスストア、レフトハンド」とコンビニの方向を指差して言った。キョトンとしている仲間をしり目に手荷物預かり所に向かった。交換札を見せると係りが5個のバッグを次々と持って来た。私がチップの米ドル2枚を渡すとボーイは嬉しそうに「サンキュー、ハブ・ア・グッドナイト」と笑顔で応えた。私がチップをあげた動作を連れの仲間は誰も見ていなかったようで、何も言わずにフロントの前を横切って其々の部屋に向かった。このホテルのエレベータはルームキーを挿しこまないとスイッチが押せない仕組みとなっている。不法侵入の防犯対策と売春婦の勝手な客引きを抑制しているのである。
私の部屋は1022号室でメンバーの中で最も高い階にある。2枚貰ったカードの一枚を財布に入れてもう一枚で部屋を開けた。相部屋のつもりで2枚を渡したようだ。広いダブルベットの部屋である。予想していたシングルの部屋ではない。この旅が快適に始まる予感がして嬉しくなった。只、日本や台湾のホテルのベットに比べてマットの位置がすこぶる高いことだけが気がかりであった。欧米人客好みのベッドであろうかと思った。シャワーを浴びるついでに薄手のシャツと肌着を洗った。幸いにもバスタブの上にバネ付きのロープがありシャワーの後にそれを張って先ほど洗った肌着とシャツを干した。備え付けのバスローブを着け、ピスターチョを摘まみながらビールを飲み、何故か放送されていたNHKのテレビニュースを見て、ベットに潜ったのが午前0時30分(日本時間の午前1時30分)であった。一人部屋の気楽さと室内の静寂が団体旅行であることを忘れさせてくれた。それでも久しぶりの旅行による緊張感が多少は残っていたのか2時間毎に眼が覚めては腕時計の時間を確認していた。

11月18日(金曜日)
午前6時に目覚めてベットを降りた。日本との時差は1時間だ。隣のマレーシアも1時間だ。地球の経度かからすればタイ、ベトナムの2時間が妥当だと思うのだが、それぞれの国の事情だろう。バスローブの紐を締めなおして備え付けのポットで湯を沸かした。ポットの電源スイッチが上手く入らず何度か手の平で軽く叩くとランプが点灯して電源が入った。旅先では上級ホテルといえどもよくあることだ。200ボルト電源はたちまちお湯を沸騰させてくれた。備え付けのインスタントコーヒーをカップに入れ沸騰したばかりのお湯を注いだ。いつもは砂糖無しのいわゆるブラックコーヒーを飲むのであるが、旅先では砂糖とクリームを入れるのが常である。コーヒーに手をつけずに洗面台で髭をそって濡らした髪にヘヤーリキッドを少量撫で付けて髪を整えた。シャワールームから戻るとコーヒーは適度に冷めていて飲みやすくなっていた。コーヒーのほろ苦さと砂糖の甘さが私の脳細胞をゆっくりと目覚めさせてくれる。コーヒーカップを手にしたまま窓の外を眺めると曇り空である。夜間に雨の多い国であるが、短時間の通り雨が日常でさして気にもならない。むしろ雨の無い灼熱の日が旅行者にとって疲れる天気だ。この時期は大陸のタイでは乾季であるが赤道直下のこの国はそうでも無いようだ。私はいつもの旅の習慣で朝の町並みをホテルの窓から写した。ガラス窓に埃がへばりついており曇り空の中の風景が一層薄暗く写った。カップの中の最後の一滴を飲み干すとコーヒーのカスがざらついて舌の上に残った。私は備え付けのペットボトルのミネラルウォーターで口を漱いでそれを飲み込んだ。未だ十分に目覚めてはいなかったようだ。ガウンを脱いで剛柔流空手の予備体操でストレッチをして体を完全に目覚めさせた。新しいズボンとアロハシャツに着替えて二階のロビーにあるレストランに降りていった。ロビーのソファーに上間と仲井間君が待っていた。レストランの受付に部屋番号と三名だと告げるとウエイトレスが奥の席に案内した。その席に向かう途中で旅行仲間と挨拶を交わした。僕らよりも早く朝食を取った者が多いようである。朝食のテーブルに着いた者の顔ぶれで旅の仲間同士が明らかになっていくようだ。
私は大皿にオムレツ、野菜の煮物、ジャガイモの揚げ物、ベーコン、ハムをひと摘みずつ取り、パン、オレンジジュース、デザートの果物としてパパイア、パイン、スイカを一切れずつ取った。朝は出来るだけ消化の良いものを少量ずつ取るようにしている。上間と仲井間は大盛で朝食を取っている。
「朝から元気が出るね」と言うと
「折角の外国旅行だから旅費の分だけ食べなきゃ損ですよ」上間が笑いながら答えた。仲井間君は恥ずかしそうに肩をすくめて私をチラリと視た。
「良い心がけだ」私は笑いながら相槌を打った。
私はオレンジジュースをお代わりして朝食を済ませた。午前8時を少しだけ過ぎていた。

8時30分、ホテルを発ってシンガポール植物園に向かった。この国は一方通行や乗車規制などの市街地への通行規制がなされており、この時間帯にしては交通混雑が起きていなかった。ペンさんよると時と場所によっては著しく混雑する場合があるらしい。バスの車窓から見る都市景観は緑が多くて気持ちが良い。近代ビルと緑地が調和した都市計画の見本である。かってジェトロのシンガポール所長にシンガポールの造園技術は素晴らしいと話したことがある。すると彼は「この国に造園技術なんてものは無いですよ。太い枝を無造作に切ってもすぐに再生しますから。自然の豊かさですよ。日本の街路樹の高度な剪定技術などと較べようも無いですよ」と笑ったのを思い出した。確かに最近植栽されたばかりの樹木を見ると日本では発注者が許可しないお粗末な支柱である。ホテルを出て20分ほどでシンガポール植物園に着いた。この植物園には幾つものゲートがあり、特定施設以外は入場無料である。バスはジンジャーガーデン入り口のゲートに車を停めて僕らを下ろして去っていった。石張りの園路の脇にはショウガ科のヘリコニア類と葉柄の赤いショウジョウヤシが植栽されていた。池には南米産のオオオニハスやアフリカ産のチホノドルムが植栽されていた。植物園のほぼすべての植物が海外からの収集品である。この国の国民すらも原住民はおらず、中華系を中心にした移入者たちである。特に珍しい植物ではないが下草や枯れ葉が丁寧に取り除かれており、高いレベルの植物維持管理がなされていた。5mほどの高さの水量が豊富な人口滝の前に橋が掛っており、その横の小さな小道は滝の裏側を通り抜ける通路となっていて来園者を楽しませる構造となっていた。この植物園は3ヵ所に大きな池を配しており小川や滝は池の水を利用して循環しているとのことである。私が最初に訪れた1982年には植物園としての機能が明確で、世界有数の植物収集が評価されていたのでるが、今日ではアミューズメント・ボタニカル・パークとしての機能を優先してあるようだ。24時間稼働するチャンギ国際空港は世界一のハブ空港であり、トランジットの観光客への憩いの空間を提供する事がこの国の国策だろう。外国人の移動はトランジット客だけでなく、コーズウェイの橋を通過して毎日数万人の労働者がマレーシアのジョホールバルから出入りするし、スリランカ人の低賃金労働者も期間雇用で滞在しているのが現実だ。一方では中国の富裕層が高級マンションを買い漁っている現状もある。流動化の最も激しいアジアの1等国である。ジンジャーガーデンを過ぎるとナショナル・オーキッド・ガーデンの広場に出た。オーキッド・ガーデンの入り口広場の中央には直径5m程のロックガーデンが造られており、石組みの頂上にグラマトフィルム・スペシオキムが植栽されていた。頂上から四方に流れ落ちる清水が適度な清涼感を醸し出していた。広場の緑陰樹の周りにはベンチが設えてあり地元の公園利用者の適度な休憩場所としての機能を有していた。事実、クロのラブラドール犬を連れて散歩する初老の婦人やトレーニングウェアの女性がベンチに腰掛けて休憩していた。広場の回りは15m以上の熱帯樹木が茂っており植物園の外に広がる高層ビル群を目にすることは出来ない。此の植物園は緑化植物の機能性を最大に発揮する都市公園でもあるのだ。オーキッド・ガーデンは2001年に訪れた時には工事中で、確か日本人の造園家が設計したと聞いた記憶があったが定かでない。

ペンさんから入園チケットを貰って園内に入った。入園料は大人5ドル(325円)で午前8時半開園、午後6時入館締め切りの7時閉園となっている。入り口と出口が同じで小さな施設はお土産品店を兼ねている。私は今日が妻の誕生日であることを思い出してシンガポールの国花である蘭のバンダの金細工のネックレスを90ドルで求めた。散水されたばかりの園路は爽やかな朝風が流れて、時折蘭の花の香りを運んで来た。園内のラン類はアランダ・モカラ類を中心に植栽されている。コンポストはカンナ屑を使い、開花株を鉢ごと植え込んであるようだ。デンファレ、オンシジュームも数多く使われている。マレーシアからの移入品であろう。開花株のみを植えこんで次々と植え替えているようだ。すぐ隣にマレーシアの広大なランの生産地を控えている所以である。公園管理の作業員がヘゴ板を繋ぎ合わせたアーチにカトレア類の着生作業を行っていた。プルメリアの枝にはカトレアのマイカイ・マユミが数多く着生されており、幾つかの株には花が咲いていた。この品種は赤道直下でも沖縄県と同じ時期に開花するようだ。開花生理は良く理解できないが多数の根が密生して着生していた。観葉植物で特に珍しい新品種は無かったが、沖縄県で見られる品種と微妙に異なる改良品種である。10年前にこの植物園を訪れた頃には気がつかなかった園芸品種が植栽されていた。シンガポール植物園は時代を経て様々に変化する機能性がある。此の植物園の魅力を堪能するには植物に関する豊富な知識と十分な観察時間を必要とするのだろうと思った。私はこの旅行の目的が明確でないままやって来たことを残念に思うと共に、はたして私と同じ思いをする者がこの旅行メンバーにいるだろうかとも思った。花に囲まれたオーキッド・ガーデンをひと廻りして、1時間半の森林浴を楽しんでから再びバスに乗った。

バスは交通混雑が始まったシンガポールの繁華街オーチャード通りを経て東岸のウォーターフロントの一角にあるシンガポール・フライヤーに向かった。通りは次週から始まるイベントに向けて電飾が始まっていた。この国は様々なイベントで海外の観光客を勧誘しているようである。日立電気や高島屋等日本でも馴染みの企業の電飾文字が目に付いた。オーチャード通りを抜けると交通量が少なくなり、海岸通りに大観覧車が見えてきた。直系160mの観覧車の真下の広場にバスが止まった。ロータリーの植え込みにウエルカム・トウ・シンガポール・フライヤーと表示されていた。
この広場は単に観覧車に乗って市内の風景を見るだけの施設では無く。スーパーカーによるF1グランプリコースのドライブ体験(228ドル/15分)、市内観光用の二階バス乗り場、ショッピングセンター、レストラン、足の老化皮膚を熱帯魚に食べさせるセラピー、三輪車の観光等の娯楽案内所を兼ねていた。私がドライビングショップの店頭のポスターを眺めていると、店員が出て来てパンフレットをくれた。私は退屈紛れに店員に英語で話しかけた。
「F1グランプリのコースを走るのかい」
「そうだ」
「車種なんだい」
「フェラーリとランボルギーニだ」
「私のドライバーライセンスでもオケーか。日本人だが」
「もちろんだよ、インターネットで申し込んでくれ、手配するから」とパンフレットのホームページアドレスを指差した。
「サンキュー」と言ってその場を離れた。
店の看板を見るとアルテメット・ドライブとある。究極の走りという意味か。その下にスーパーカーを提供とある。面白い商売もあるものだが15分で14,000円とは少し高いと思った。たかだか車を運転するだけである。しかもシンガポールの交通事情では時速100㎞の速度は絶対に無理である。

ペンさんが観覧車の搭乗券を配った。ボーディング・パスとある。まるで飛行機の搭乗券だ。確かにフライヤーに載るのだから正解である。座席指定の無い29ドル50セントのチケットである。僕らはペンさんに誘導されて二階の乗り場からゆっくりと回転するフライヤーのバケットに早足で飛び乗った。筒状の大きな容器に全員が楽に乗り込むことが出来た。観覧車は退屈なぐらいゆっくりと空中に舞い上がっていった。遠く川向うにゴルフ場、高層マンション、来年の秋に開園予定のフラワードームの工事現場が見えた。その横にマリナ・ベイ・シティホテルの空中庭園がホテルの上部に載っていた。ホテルの上部に載った鯨を模した庭園の高さは200mらしくこの観覧車からは見下ろすことが出来なかった。その横のベイシティ・コンプレックスが国際ラン博覧会の展示会場である。ハスの花を模した巨大なモニュメントが一際目に付いた。観覧車はボートレース場の見える方向に次第に降りていった。この水域は淡水とのことだ。堤で海と仕切られているそうだ。浄化設備を備えており飲料水としても利用可能であるが、現在は工業用水として使われている。飲料水はマレーシアのジョホールバルから送水管で送られてきており、シンガポール政府は水の使用料金を支払っているとのことだ。マレーシアから水の使用料金の値上げ交渉が繰り返されてきているが、今後の成り行き次第では送水を中断しても構わないとのシンガポール政府の方針らしい。私はふと、対岸のジョホールバルの蘭展示会で同行した台湾の陳先生の言葉を思い出した。第二次世界大戦で日本軍が英国軍をタイ、マレーシアからシンガポールに追い詰めた折、日本軍の山下将軍は英国軍に通達した。「即時降伏すべし、さもなくばマレーシア・ジョホールバルからの送水を停止する」この通達によって不要な銃火が避けられたとのことだ。戦時中に台北で日本式の中等教育を受けた陳先生が愉快そうに笑ったのを思い出した。大戦後65年の時を経た今日、日本の水質浄化技術の導入によって山下将軍が用いた水利権を消滅させたのである。あらためて湖面を見ると、あちこちに抜気の渦が見えた。この国の強かな英知が見え隠れしていた。

ペンさんの説明やパンフレットによるとこの観覧車のベストな楽しみ方は、パートナーと共に食事をしながらシンガポールの夜景を観賞することらしい。この施設の屋上緑化に面白い植物を見つけた。ウエデリアとグンバイヒルガオである。ウエデリアは沖縄県の道路植栽や屋上緑化で一時期に利用されるも既に排除された植物である。熱帯ドリームセンターの屋上緑化ではチガヤ、ススキ等に淘汰されてしまった。シンガポールでは未だにいたるところでグランドカバー植物として利用されている。沖縄県のそれよりも葉が少しだけ小さいようであるが同一品種である。混入雑草の除去作業や定期的な刈り込みで過繁茂を抑える作業を行っているのであろうと推察された。安価な外国人労働者による維持管理で成り立っているのではなかろうかと邪推してみたくなる美しい緑の景観であった。僕らは観覧車を降りてから昼食を取るため港に近いレストランに向かった。少し早目の昼食である。

途中の海岸線は、埋め立てが進んでおり50基以上ものクレーンが数キロ先まで続いていた。この国は海岸を飽くことなく埋めて国土を次第に拡大しているようである。私が10年前の2001年10月に訪れたときよりも海岸のモニュメントであるマーライオンの位置が陸地側に移動しており陸地化が進んでいることが判った。さらに18年前に訪れた頃、この当たりは完全な海上であり、マーライオンは浅瀬の海上にポツリと立っていた。如何にも海の守り神の風情があった。飲茶を主体にした中華料理の昼食を済ませてマリナ・ベイ・コンプレックスで開催中の国際ラン博覧会の展示場に入った。入場チケットが20ドル(1,300円)で仮オープン中のフラワードームの入館券が対となっていた。展示場の開催期間は11月14日から20日迄で、午前10時から午後9時までの入場時間となっていた。
地下一階の会場への導入部は白を基調にしたデンファレとコンパクトなコチョウランでトンネル状に装飾されていた。会場のアレンジは生け花、ディスプレー、植物販売、飲食店と休憩所に分かれていた。出品蘭の品種別の表彰ブースは設けられておらず、ディスプレーブースの中に展示されていた。個別審査の入賞蘭の鑑賞が判り難く今回のツアー参加メンバーからは不評であった。ディスプレーに用いられた蘭は近隣のマレーシア・タイから持ち込んだバンダ、アランダ、モカラ、デンファレなどの品種で熱帯地域のラン展示会の特徴的な展示手法であった。台湾のブースは多彩なコチョウランの品種を用いており、会場内で異彩を放っていた。日本国内の展示と異なるのはカトレア類の展示が少ないことであった。ボリュームのあるディスプレーであるにもかかわらず、地下1階の会場は採光が不十分で展示物を上手く表現できずにいた。熱帯のブルー系のバンダ類は明るい光の中でこそその魅力が発揮できるのである。東京ドームで開催される展示会のような十分な明るさがあればもっと素晴らし観賞価値を演出できただろう。私はカメラの電池が消耗するまで展示ブースを撮影し続けた。美ら島財団の展示ブースもあったが、あまり評価に値する作品では無かった。彼らの目的は二年後のアジア蘭会議(APOC)の宣伝であり、良質な作品の作成ではなくあくまでも協力出展を目的としていたのである。私は植物販売ブースを巡回してシダ植物を二鉢買った。日本に持ち帰るからと店の者に言ってポットを取り去り簡単なパッキングをしてもらった。台湾の蘭生産者のブースを回って顔見知りの店主に挨拶した。清華、台大、佳和、鮮、珍などが出店していた。販売コーナーの一角で輸出用のサイテスを申請するブースがあったが混雑した様子も無く、一組の利用者が書類に記入しているだけで海外からの購入者は少ないようであった。この国では蘭のビジネスは未だ発達していないようである。この国は貿易国であり、蘭の消費国ではあっても生産国ではないのだ。

我々は一時間半の見学時間をもてあました後に会場を後にした。私は似たようなディスプレー作品を多く見たせいか、色彩の食中毒にも似た目眩を覚えて屋外に出た。雨雲が立ち込めて今にも降りそうな空の下を通り向かいのマリナ・ベイ・シティ・ホテルに向かって歩いた。ホテルの屋上に携帯電話会社ソフトバンクのコマーシャルで有名な空中庭園がある。
ペンさんがエレベーターの利用チケット配った。スカイパーク・マリナベイ・サンズとある。料金は記載されてなく今日の日付と営業時間が午前9時から午後11時までのツアー旅行者用・成人とだけだ。高速エレベーターは一気に200メートルの屋上展望台まで駆け上がった。台北スカイタワーのエレベーターよりは遅いらしく、急速な気圧差が引き起こす不快な耳鳴りに悩むことはなかったが、屋上の景観は僕らをがっかりさせた。僕らは屋上庭園への観覧許可が得られず、ただ高い位置からのシンガポールの遠景を見ただけである。それも午前中に見たシンガポール・フライヤーより僅かに四十メートル高い位置から近隣の同じ風景を眺めただけである。緑化事業に関わる人間の満足には答えてくれなかった。ペンさんの説明によると空中庭園を利用出来るのはホテルの宿泊客のみらしい。私は残り少ないカメラの電池を気にしながら僅かに見える屋上庭園に向かってシャッターを2回だけ押すにとどめた。眼下に建設中のフラワードームの全景が鳥瞰図のように見えたのが唯一僕たち造園家を満足させる景観であった。40分ほど過ごして再びエレベーターで降りた。そしてホテルに隣接したカジノを覘いた。2年前にソウルのヒルトンホテルで覗いたカジノよりも数倍も大きな施設である。シンガポールにはカジノが2ヶ所あり、世界1位に肉薄した2位の売上があるという。現在建設中の3か所目が開設されると世界一の賭博収入国に転じるらしい。パスポートを提示して施設の中に入ると映画で見る華やかなシーンが出現した。僕らの様な素人の部外者には無縁の世界が広がっている。デーラーがサイコロを振り、ルーレットを回し、トランプを配っている。客が真剣な眼差しでデーラーの手元を注視している。ゲームが一区切りするたびにため息が漏れる。時折緊張と安堵の入り混じった面持ちでゲームコインを手元に引き寄せる客がいるのだが、その表情も長くは続かない。歓喜よりも落胆の吐息が漂う空間が果てしなく続く場所である。ゲームのルールが分からない私にとって取り立てて興味のある施設ではない。元来私は賭け事が得意ではなく、この種のゲームにのめり込む事が出来ないタイプである。私がパチンコに興じたのは、記憶が定かでないくらい過去の学生の頃だ。私は予定の30分を待たずに施設を後にした。集合場所に戻ると既に他のメンバーも戻っていた。私は仕事の事が気になって携帯電話で仲地君に電話した。
「仲地君、3名のオッサンたちは休まずに出勤しているかい」
「常務お疲れ様です。草花の植え付けは今日で完了します」
「そうかい、それなら明日、明後日の土・日は休ませると良いな」
「そうですね。そうさせます」
「では、月曜日に戻るから」そう言って電話を切った。
新垣さんが横から私に言った。
「仲村、お前がいなくても現場は動くよ。たまにはお前がいない方が職員はリラックスするんだヨ」そう言って笑った。
「仲村さんの携帯は沖縄に繋がるのかい。僕のはさっぱりだ」
「機種によりますよ。これを使ってみて下さい。電話番号は」そう言って仲本さんの言う電話番号を押して発信音を確認して携帯を渡した。
「もしもし、・・・・・。ありがとう、片付いた。」そう言って携帯電話の返した。
「オイオイ、シンガポールまで来て仕事の話をするなよ。お前たちはバカか。それよりも飯が不味くていかん」
「仲村さん何処かいい所は無いですか」と仲本さんが言った。
「仲村、前に此処に来たことがあるか」と新垣さんが訊ねた。
「今度で4回目です。夕飯が済んでからタクシーでニュートン・サーカスという屋台村に一杯飲みに行きますか。飲み物、食べ物、何でもありますよ。ホステス以外はね」そう言った。
「そうしよう、今晩は決まりだな」仲本、新垣さんが喜んで手を打った。
フラワードームにはバスで移動した。この施設は来年の秋にオープン予定の新しい植物園である。WOCに合わせて仮オープンした施設の一部を見学するのである。WOCチケットには半券が2枚付いており、その1枚がフラワードームの入館券となっていた。貝を伏せたような2基のドームが隣接して建設され、その周辺にバオバブの大木を模したモニュメントを多数配置した公園広場で構成されている。全長500m程の敷地に池や広場を配置している。私は迫力ある施設規模よりも次々と新しい施設を開設して、これらの施設に観光客を誘導するこの国の活力にこそ驚きを感じた。

僕らは1つのドームを見学した。このドームは熱帯の乾燥地を再現した植栽空間となっていた。バオバブの林、サボテンの庭、オリーブの植えられた地中海性気候の庭等である。プレオープンするには未完の状態であるが熱帯雨林の国シンガポールでは体験できない空間には違いない。植栽が終了していない場所にコチョウランやポインセチア、ハイビスカスなどの鉢物が押し込まれているのにはいささか閉口した。いつの日か完成したこの施設を見たいと思った。バス駐車場の横は緑化樹のストックヤードとなっており、これから植栽される緑化樹が大型コンテナで栽培されていた。日本の造園会社が関わっているらしい。

携帯電話の万歩計の表示を見ると1万歩以上も歩いていた。この日のスケジュールを全て終了して夕暮れのベイシティを後にした。そしてシーフードレストランの並ぶ東部海岸へ向かった。
この日の夕食は海に面したシーフードレストランであった。郊外の広い駐車所の一角に数軒の海鮮レストラン並んでいた。この駐車場は市街地への車両の乗り入れを抑制するための公共駐車場だ。料理は茹でたエビとマングローブガサミのカレーで煮である。カレー煮はガサミ特有の泥臭さ押さえるための調理法だ。マレーシアの料理のような強い辛味ではなく、日本人の味覚にも抵抗が無い。ビール、白ワイン、紹興酒を飲みながら一時間半ほどの食事を楽しんだ。台湾の新竹、マレーシアのペナン、コタキナバル、タイのパタヤ、中国の厦門等、海沿いの町の海鮮料理は当たりはずれが無く美味いのが特徴だ。
バスの中で誰ともなく2次会を開いて少しばかり飲もうということになり屋台に立ち寄ることになった。女性2名をホテルの前で降ろして屋台に向かった。ペンさんが携帯電話で予約を入れて到着した場所がニュートン・サーカスである。シンガポールは屋台が多い国であるがこの場所がもっとも有名で大きい。私も3度目の訪問である。最初に訪れた25年前は砂利交じりの土間で不潔なイメージであった。その時の添乗員がリョービ・ツーリストの呉屋さんであった。八重山出身で私より一つ先輩であった。両親とも台湾出身で、帰化する前の姓は呉であったとのことだ。当然のごとく中国語は堪能であり、屋台の店主と交渉して新鮮なブラックタイガーを腹一杯食べた記憶があった。「貴方、日本語が上手いね」と店主に言われたと呉屋さんが笑って言っていた。翌年の「青年の翼」の旅も彼が引率してくれた。現在では整然と並ぶ店舗の前庭はセメント舗装され、雨避けのビニールテントの下にテーブルが設えてあった。僕らは2組のテーブルに分かれてタイガービール、キリンビールなどを次々と注文して、訳も無く祝杯を挙げて旅の交流を楽しんだ。
只、料理は以前と較べるべくもなくありふれた品と味だ。台北の士林夜市やペナンのテント村には全く及ばない特徴の無い屋台となっていた。多数の外国人が訪れると自ずと平均化した料理が好まれるのだろう。観光客相手のレストランの特性である。定かではないが10時過ぎにニュートン・サーカスを後にした。添乗員の崎浜さんが運転手の時間外手当として参加者から千円を徴収した。運転手に割高な時間外手当を払ったが仕方の無いことであった。明日からは運転手が代わるらしく皆の拍手で労をねぎらった。
私はホテルの部屋に戻ると服を脱ぎ棄て、直ぐにベットにうつ伏せになって眠りに落ちた。2時間ほどして目覚めて携帯電話とカメラのバッテリーを充電機に差し込んで再び深い眠りに落ちた。誰かが呼び出しの電話を鳴らしたかもしれないが、旅に出てまでメンバーの誰かの1室で飲むことは私の趣味に合わない。旅は異国の風情を楽しむことであって、身近な生活の話題に落ち込むこと程馬鹿げたことはないのだから。

11月19日(土曜日)
朝のシャワーを浴びて2階のレストランに入ったのが午前8時30分である。上間に朝食時間の約束をしていなかったのが気になったが彼らは既に昨日と同じ席に着いて朝食を取っていた。
「おはよう」と声をかけると顔を上げた。
「おはようございます」と返した顔の瞳が睡眠不足で赤くなっていた。
「夕べはホテルに帰ってからも飲んだのかい」
「ええ、善孝さんの部屋に呼ばれまして1時過ぎまで飲んでました」
「若いね、いい体力をしているね。僕はバタン、キューで寝入ったよ」
私は笑いながら立ち上がって食事を取りにカウンターに向かった。昨日と似たようなメニューである。このレストランはオムレツが旨い。しかしデザートの果物は質が落ちる。
上間と仲井間は先に立ち上がって部屋に戻った。私はゆっくりとマイペースで朝食を楽しんでから部屋に戻った。今日は終日のんびりと行楽地の観光だけである。9時過ぎにバスに乗り込んでホテルを後にした。
土曜日の朝は交通量が少なく、バスは深い緑陰の中をスムーズに走った。此の街の街路樹はバスよりもはるかに高く、車窓からは見える樹木の緑が街ゆく人を穏やかな気持ちにさせてくれる。時折高層ビルが緑の中から姿を見せるが、視界に占める割合が少なく高層ビル特有の圧迫感は無い。樹木の幹には大型のシダやシンガポール植物園で見たグラマトフィルム・スペキオスムが着生している。国営沖縄記念公園の植物管理を生業とする者としてはまことに羨ましい限りである。

9時40分に橋を渡ってセントーサ島に着いた。バスを降りると巨大なマーライオンが見えた。シンガポールには数か所に大小のマーライオンがあるらしい。地元の中学生や日本からの高校生の団体旅行者の姿が目に付いた。セントーサ島は回転展望台、歴史博物館、4D映画館、人口ビーチ、その他の31もの施設をもつシンガポール最大の行楽地である。それらの施設が緑に囲まれた中に散在しており、第1級の行楽地である。僕らは歴史博物館、スカイタワー、4D映画館で時間を潰して園内のレストランで昼食を取った。日本の幕の内弁当に似たつまらない昼食であった。新垣さんが真っ先に不平をこぼした。確かに今少し気の利いた食事を提供できぬものかと不満に感じた。しかし、時間に制限のある団体旅行では致し方ないだろう。ここでの収穫と言えば、スカイタワーからの絶景と園内からナガラッパバナを採取したことだけだ。ナガラッパバナは毎年11月になると自宅の裏庭で花を咲かせている。

昼食後はアラブストリートのお土産品店通りを散策した。店先に出されたテーブルでティタイムを楽しむ人々の姿が目に付いた。これまでの私の旅なら、その椅子に腰かけて同行者と他愛もない会話で異国情緒を満喫していただろう。ホテルのフロントで現地ガイドとドライバーを頼めば何とでもなることである。以前はラン展示会に同行した友人達が展示作業で忙しく働いる頃に、時間を持て余した部外者の私は気軽な1日だけの一人観光をしてきたのだ。クアラルンプル、ジョホールバル、コタキナバルではそうしてきたのである。この地区には大きなモスクがあり、イスラム教の宗徒が礼拝に訪れる。私は昼食時のビールが効いたのか小用をしたくてトイレを探した。ペンさんに教わったとおりにモスクの中のトイレに行くと其処の入り口では靴やサンダル等の履物が無造作に置かれていた。モスクには裸足で礼拝すると聞いていたが、トイレもそうかと不思議に思いつつ素足になり靴を手に持って中に入った。靴を手に持ったのは、旅行用の安物の私の靴でさえ上等に見える汚い履物の中に置くと盗まれると思ったからだ。階段を10段ほど下りると広いシャワー室にも似た水場があり、教徒が身を清めていた。足だけを洗う人や頭から水をかぶる人もいた。そのさらに奥にトイレがあり素早く用を足して出口に向かった。私は何かこの中にいることが不謹慎であるような視線を教徒から向けられているような気がした。しかしそれは異教徒の私の思い過しであり、彼らは誰とも雑談することなくなにやらつぶやきながら身を清めていた。コーランの一節を唱えているのかもしれない。彼らは礼拝の前から既にイスラムの神と一体となっているのだ。私は素早く靴下を履いて靴を突っ掛けてそこを離れた。モスクのゲートを出てから振り返るとモスクの黄金色の丸い屋根がヤシの葉の向こうに光って見えた。あの中は僕らの知らない荘厳な別世界なのである。


アラブストリートはアラブ系商店、土産品店、レストランが並んでいた。ペンさんによるとこの辺りではアラブの香水が有名である。香水よりも特徴のある形をした容器の小瓶に人気があるらしい。平地婦人らが店内を覗いていたが手ぶらで戻ってきた。この種の香りは西洋人好みであり日本人には余り馴染みがない香りである。私は孫の為に変わったデザインの駒を3個買った。この種の土産品店はじっくりと見て回ると中々面白いものが見つかるのだ。バスに戻ったのは私が最後であった。今回の旅行メンバーは異国情緒を楽しむ感性を持たないようであった。

僕らはマーライオン公園とラッフルズ卿上陸地点に立ち寄って記念写真を撮った。英国出身のラッフルズはシンガポールの初代統治者である。世界最大の花ラフレシアはラッフルズが発見して、彼の名前から名付けられた。私はこの場所のマーラインオンを見るのは四度目であるが、その都度陸地から沖へ向かって移動している。今では人造湖の前に立っている。正面にスカイパーク・マリナベイ・サンズが見える。このマーライオンが海へ向かってこれ以上前進することも無いだろう。国内各地にマーライオンが既に立っているのだから。この国が埋め立て事業によって国土を拡張している証拠でもある。私の家にもマーライオンのマークが入った錫製のジョッキが2個ある。何度目かにシンガポールを訪れた際に買った土産品である。錫は熱伝導率が高く、冷えたビールの冷たさを保つのでジョッキに最適だ。只、柔かい金属故に今ではジョッキのふちが変形してしまったのが残念だ。マレーシアは錫の産地であり良質なスズ製品が入手できたが、今は鉱山が枯渇してしまった。自宅の食器棚にはワイングラスなど9点のスズ製品がある。

私がウーロン茶の専門店はないかとペンさんに尋ねると、これから向かうチャイナタウンで1時間の自由行動時間があるので探せると教えてくれた。私は市場の一角で茶器を数点と鉄観音の茶を専門店で買った。茶器は良かったが鉄観音は失敗であった。鉄観音茶は福建省で買うべき茶である。輸入品を外国で買う愚かさであった。寺院前のチャイナタウン・コンプレックスは中華系の住民の公共市場である。生鮮食料売り場が地下にあるのだが、観光ガイドブックにあるとおりに異様な悪臭が立ち込めていた。私は地下の庶民の市場に降りる階段の途中で引き返した。私は東南アジアの数多くの市場を見てきたつもりであるが悪臭の漂う市場に出合ったことはない。市場を見ることが好きな私にとって些か残念であったが、疲れた足を引きずり悪臭に耐えてまで覗いてみる覚悟は無かった。集合場所で仲間が帰って来るのを待っている間にペンさんから砂糖入りの紅茶を奢ってもらった。以前マレーシアのコタキナバルでよく飲んだホットティだが香りが少なかった。ここはお茶の産地ではないのだから仕方がない。グラスの底に砂糖が溜まっておりスプーンでかき混ぜて好みの甘さにするのである。
午後4時、バスはチャイナタウンを出てオーチャード通りにある免税店の地下駐車場で僕らを降ろした。夕食までの間の2時間だけ自由行動にするとの計らいである。1982年に初めてシンガポールで泊ったホテルがこの通り沿いの一角であった。緑に囲まれた静かな通りはオーチャード(果樹園)の名の通りであった。その時同行した友人は現在マンゴー農園を経営しており、その名を「オーチャード比嘉」と称している。現在のオーチャード通りは喧騒に満ちた商業施設が立ち並びオーチャードの気配すら残っていない。オーチャード通りはいつの間にか降ってきたスコールで濡れていた。私は松田、国吉の3名で地下街をぶらついたが歩きつかれてしまい、地下の一角にある食堂に入った。セルフサービスで魚、鶏肉、野菜とビーフンを注文してビールを飲んで時間を潰した。庶民向けの食堂は安くて美味いのが中華系の商店街の特徴である。この地下街は沖縄県の牧志公設市場の雰囲気に似ている。庶民の日用雑貨からキーホルダー等の安価な観光土産品まで揃っている。
地下街を出ると雨は既に上がっており、僕らは人ごみの中をDFS免税店あるビルに向かって歩いた。この街を歩く人々は観光客が少なくない。東洋系、西洋系、インド系、イスラム系と様々である。キャノンの一眼レフカメラを首からぶら下げた男性が目に付いた。土曜日の夕方に繁華街をブラブラと観光するのは何処の国でも同じかも知れない。30年前には首からカメラをぶら下げたのが日本人観光客の標準的なスタイルと言われた頃があったが、今日のシンガポールの街角では普通のスタイルだ。むしろキャノンのカメラをぶら下げることはステイタスかもしれない。この辺りの雑踏では中国語、英語以外の言葉が飛び交っている。本当にアジアの人種の坩堝である。大きな体躯をしたアングロサクソン系の白人やアフリカ系の黒人は少なく、近隣のマレー系、中華系、インド系の人々が多いのが特徴である。私が以前に訪れたことのあるシドニーやハワイの多民族国家の都市の雑踏とは異なっている。欧米人がオリエンタルの旅を楽しむにはタイのパタヤ、マレーシアのペナン、インドネシアのバリ島だろう。シンガポールは30年前から始まった都市計画によって古い中華街を撤去して近代な商業ビルへの切り換えしまい、欧米人にとっての魅力を失ってしまったようだ。私は最初に訪れた1982年に既に都市計画が始まった中で、未だ残った伝統的な中華街の一角を訪れたことがあった。赤を基調にした雲型模様のデザインが施された中華街特有の表情に満ちていた。
オーチャード通りの雑踏を後にして夕食会場に向かったのが午後6時であった。夕食はホテルから程近い繁華街の中にある海鮮鍋の専門店であった。食べ放題の鍋物は何処でも食材の質を落としているものである。わずかばかりのエビと魚にソーセージ、カマボコ、鶏肉、豚肉、牛肉と野菜が混入している不思議な海鮮料理である。お世辞にも海鮮料理とは言えない。ただ腹が満ちるのを待つだけの夕食である。新垣さんが相変わらず料理の不平を並べながら食べている。1時間足らずで食事を済ませて外に出ると中庭に丸テーブルが並べられ架設ステージが準備されている。なにやらディナーショウが始まるらしい。中庭は幾つかのレストランで囲まれている。ディナーショウの食事や飲み物は周りのレストランから運ばれてくるようである。ショータイムに遭遇できずに少し残念ではあったが僕らはバスに乗り込んでホテルに向かった。
ホテルの部屋に戻るとクリーニングに出したズボンが戻ってきていた。税込みで98ドルであった。安くは無いが必要な旅の経費で仕方ないと思っている。同じホテルに連泊する場合はズボンとシャツをクリーニングに出すのが私の旅の習慣だ。
私は顔を洗って髪を整えてから再び外に出た。夜のチャイナタウンを見たいからである。地図を見るとホテルから昼間訊ねたチャイナタウン・コンプレックスまで歩いていける距離である。私は一人で夜の街の見学に出かけた。
ホテルの前の路地を左に少し進むと幹線道路のニューブリッジ・ロードに出た。そこを右折して200mほど歩くと道向かいにチャイナタウンのネオンサインが輝いて見えた。陸橋を渡ってチャイナタウンに降りていくとそこは土産品店や小さな屋台の連続する祭りの夜店群であった。雑踏の多くは欧米人である。日本人らしい顔つきの人も見かけるが中国語で話している。私は茶店と古物商を覗いて回った。気に入った茶器もあったが何か紛い物の気がして買わずに見てまわった。古物商店では武神の像を探した。中国南部拳法の原点である風神像を探したが三国志の項羽や長雲、劉備の像ばかりであった。私はチャイナタウン・コンプレックスの広場の前で引き返した。時計を見ると午後10時である。夜市から離れた場所は既にシャッターを閉じており、時折店じまいのためのシャッターを閉める音が聞こえてきた。私は重たくなった足を引きずりながらホテルに向かった。途中のマッサージ店のガラス越しに松田がマッサージを受けているのが見えた。さらにホテルに近づくと雑貨店で旅行仲間のホテルのスタッフがお土産品を買い込んでいた。私は片手を上げて合図を送り、声をかけることも無くそのまま通り過ぎた。ホテルの近くの雑貨店で缶ビールを3缶とピスタチオを求めてホテルに帰った。シンガポールの滞在は今晩で終わりである。私はふとシンガポールで何を観たのだろう思った。熱帯の珍しい植物だろうかそれともこの地の特徴ある文化だろうか、何かを探したようで何も得ていないような気がした。シンガポールは特定の伝統文化を取り払って、利便性を備えた独自の社会文化を進化させている国だ。私の居住地の周りにありそうな上質の都市空間を展開している。しかし、それは全く未知の自然や文化では無いだけに、私の中に強烈な非日常の感動をもたらすことは不可能であった。自ら再生し続ける自然とそこに暮らす人々が延々と築いて来た地域特有の空間、他の地域と異なる歴史の重みを形成した痕跡を全て取り除いた社会空間を持った国がシンガポールである。車窓や遠見台から見た景色は既に記憶の何処かに保管された残像の再生であり、そのことが全くの真新しい感動を呼び起こすことが出来ない原因であろう。この国そのものがアミューズメントパークのような気がした。1820年にラッフルズ卿がシンガポールを自由貿易港としての統治を始めてから一貫して人の往来の空間としての機能を高めてきたのである。それが歴史的事実であるが故に主を持たない行きかう人々の為の場所になったのであろう。私がこの国の風物にのめり込むような感動を得られなかった原因が見えた気がした。缶ビールを片手に窓の外を眺めると、そこに暮らす住民が生活の痕跡を積み重ねて歴史を刻んでいくという空間の重みを欠いた夜景が広がっている気がした。

11月20日(日曜日)
6時30分に朝食を取ってからフロントでクリーニング代の精算を済ませた。7時30分の出発である。バスに乗り込む前にホテル周辺の風景をカメラに収めて座り馴れた席に着いた。バスの席はいつの間にか自分の座る席が決まっているのである。おかしな事だが事実である。人はテリトリーを確保することで落ち着きを取り戻すのだろうか。

明るい光の中で見るチャンギ国際空港は何年も変わらずにブーゲンビレア生垣の花で飾られている。見覚えのある懐かしい景色である。到着ロビーが1階で出発ロビーが2階である。24時間運航で発着本数が多い東南アジア最大級のハブ空港の一つであるが、チェックインカウンターを見る限りそのような雰囲気は無い。私は重くなったバックを預けて割れ物注意の張り紙を付けてもらった。張り紙の効果がないことを承知ではあったが無いよりはましである。昨日買ったばかりの茶器が気になったからだ。定刻の午前10時、チャイナエアラインCI-752はチャンギ空港を飛び立って午後2時40分に台湾の桃園国際空港に着いた。空港で携帯電話の電源を入れるとすかさず呼び出し音が鳴った。発信ネームを見ると仲里である。
「仲里ですが、今、桃園の空港待合室にいます。仲村さんは今日帰るのですか」
「今、シンガポールから着いたところだ。4時の便で帰る予定です」
「同じ便ですね、搭乗待合室で待っています」
「では後ほど」
仲里は中国福建省のラン展示会からの帰りらしい。私もプライベートでその展示会に行きたかったのであるが残念だと思っていた。僕らの団体旅行ののぼりを何処かで見たのか、造園関係者を見かけたのかも知れない。
乗り継ぎはカウンターで再び次期検査を受けてターミナルⅡに移動した。なぜだか知らぬが台湾の次期検査は空港入り口より乗り継ぎカウンターの検査がシビアである。CI-122を待つ搭乗待合室は既に混雑していた。帰りの便も満席のようである。階段を下りていくと客の中から手を上げて仲里が合図した。彼の側に小柄な奥さんが座っていた。僕らは近況を説明しあった。福建省三並の展示会は楽しかったようである。次回は私をアシスタントとして使ってくれと笑った。台湾の友人秦は未だ三並にいるらしい。タイ国の生産者が1カ月前の洪水の影響を受けて不参加のようであった。ただし、秦が彼らの代行でディスプレーをしているので表立ってはタイ国も参加したことになっている。トングロオーキッドは未だ10メートルの水面下らしい。僕らはそんなことを話しながら搭乗時間を待った。
CI-122は定刻どおり何事もなく桃園国際空港を飛び立っていつもの時刻に那覇空港に到着した。僕らは手荷物受け取り広場で簡単な解散式を行って散会した。新垣さんが途中で一杯飲もうかと声をかけてきたが、連れの運転手がいることを理由に誘いをはぐらかして帰路に着いた。彼の誘いに乗ると日常の話題を酒の肴にすることで旅の記憶が掻き消されてしまう気がしたのだ。
大抵の旅は疲れた体で車を運転して帰路に着くための難儀な仕事が残っているのだが、幸いにも今回は上間君がプリウスを運転してくれたのが嬉しかった。名護に着いたのが午後9時過ぎである。上間君が私の車を片付け「お疲れさまでした」と告げて自分の車で仲井間君と二人で本部の自宅に向かって帰っていった。
私は旅の衣類を洗濯かごに放り込み、自宅の冷蔵庫から市内の工場で生産された純地元産のオリオンビールの缶を取り出してプルトップのリングを引いた。プシュッという軽い音がした。この音を聞いた時、旅が完全に終了したことを知った。そして飲み下したビールの炭酸と共に疲れが胃袋の底から湧きあがって来るのを感じた。

エピローグ
団体旅行は気苦労の割に記憶に残ることが少ない。シンガポール植物園は随分と改修されており、造園に携わる人間にとって見るべき修景が多いのであるが、部外者には単なる緑の集合体に過ぎないであろう。植物好きにとっては改修されていない古い場所こそが興味の対象である。100年前にシェイシェル諸島から導入された、あの双子ヤシはどうなっているだろうか。果皮の付いたヤシの実の形状はどうだろうか。植物好きなら人工物のオーキッド・ガーデンは直ぐに飽きてしまう修景である。アラブストリートの街角でティタイムを取ると素敵であっただろう。夕食は最初からニュートン・サーカスで自由選択の食事がベストである。自分の美味いと思う料理で酒を飲むのが旅の楽しみである。或いは夜のチャイナタウンで談笑するのも楽しかっただろう。旅は総勢5名までが限度である。シンガポールにはアジアの様々な文化が流入しており、この地での軽妙な形態に変化してそこに暮らす人々の遥かな故郷を連想させる存在となっている。しかし本物ではなく、通り客に便利な模倣としての存在だ。シンガポール模倣を独自に視点で高度化することに存在意義を見出している国だ。私にとって1982年に訪れた頃が最も輝いていた。あの豪奢な中華街は跡形もない。近代建築のマンション群に変わってしまっていた。シンガポールはトランジットの時間つぶしに街を探索するだけの存在である。私にとってタイやマレーシアのように幾度も訪れて、土地の文化に触れて時を過ごすだけの価値はない。いわゆる現代の宿場町である。宿場町を旅の目的地に設定しては得る物が少ないことが良く分かった旅であった。

2021年11月10日 | カテゴリー : 旅日誌2 | 投稿者 : nakamura