拳勝会・備忘録

(1)新しい日常

その頃の私は趣味のゴルフに熱中していた。ゴルフを始めたのは30代で造園業界に転職してからだ。40歳の頃、バブル景気で会社の事業が軌道に乗りだし接待ゴルフに明け暮れていた。ゴルフは基本的に個人競技であり、私の性格「和すれど同ぜず」に合っていたのが熱中する原因であったのだろう。週3回は近くのゴルフ練習場に通い、400球1500円の会員料金でボールを打っていた。右手は空手の拳ダコならぬゴルフダコが出来て風呂上りにカッターナイフで削り取っていた。気がつくと会社に近い本部町内のゴルフクラブの会員権を150万円で買って入会し、オフィシャルハンディキャップが11となっていた。毎月のゴルフコンペは私が幹事を務めるニライ会、海洋博公園コンペ、造園協会主催の金曜みどり会、所属クラブの月例会やクラブ選手権、沖縄本島北部地区造園業者会の植木職人が参加する緑花会コンペの5件が毎月の定例ゴルフコンペである。その他にも飲み屋の女将が主催する不定期のゴルフコンペ、遊び仲間からの誘いのゴルフだ。毎月6回ほどゴルフをしていただろう。何しろ職場から車で10分の距離にパー72、65、57のゴルフ場があるのだから。各ゴルフ場の何処かのホールから職場が見えるのだ。自宅から車で1時間以内なら11か所もある。営業と称して会社の経費で毎月4、5回のゴルフをしていただろう。沖縄にはゴルフ場が20ケ所以上もあり、プレー代も格安である。プロのトッププレイヤーも宮里藍を筆頭に優作、聖志兄弟、美香、新垣、真美子、しのぶ等と多い。シーズンオフにゴルフ場で見かけると気軽に声を掛け合う選手たちである。沖縄では草野球やテニスよりもはるかに身近な遊びのスポーツだ。他府県で言われる金持ちの趣味ではない。仕事仲間と暇つぶしにショートコースのゴルフ場に行くのが日常となっていた。夏場は午後4時から所属クラブのアウトのハーフをキャディーなしのセルフで回ることも多かった。プレー代はカートの使用料のみの2,500円である。ゴルフ場にいる友人から電話でメンバーが足りないから15分で来てくれと呼び出されることも度々であった。ひどいときは台湾を旅行中に携帯電話に呼び出しが入ったこともあったのだ。車にはゴルフバックとシューズ、会社のロッカーにはゴルフウェアが常にぶら下がっていた。私だけでなく職場が近い10名ほどのゴルフ仲間は皆そうであった。僕らの仲間は米軍基地内のゴルフ場を除くほぼ全てのゴルフ場でゴルフをしていた。

ある時事務員が真顔で言った「専務と部長は年間200万円近くのゴルフがらみの交際費を使っています。多いと思いませんか」。私は専務の顔を見て「分かった、ゴルフのプレー代だけにしてその後の飲み代は自分持ちにしよう」答えた。それでも非常勤役員や発注元企業の役員接待ゴルフもあって交際費が倹約できることも無かった。毎年の決算は僅かであるが剰余金を出し続けており、専属契約の税理事務所から指摘されることはなかった。その代り毎月一度はゴルフクラブのレストランで二人の女性事務員を伴って昼食会議を開いてご機嫌を取っていた。

とある夏の日の午後のことだ。造園協会の定例コンペが職場近くの私が所属するベルビーチゴルフクラブで開催されたので必然的に参加した。スコアはアウトが3オーバー、インが7オーバーのトータル82のごくありきたりのスコアであった。ゴルフの話題はもっぱら先月の山口県に遠征したゴルフ旅行のことであり、懇親会でフグ料理を食べすぎて翌朝顎が痛かったとか。フグ料理よりミーバイ(ハタ)、タマンが美味いとかである。夏の本州は暑いので来年は北海道に行こうという意見まであった。最後に幹事が来月は第3金曜日に大京カントリー俱楽部にて開催しますと宣言して散会した。私は右わき腹肋骨付近に軽い痛みがあるのが少し気になっていた。クラブを引き下ろすときに右わきを締めすぎて肋骨を圧迫しているのかも知れない。それでアウトの5番打ち下ろしのパー5とインの16番右ドックレッグで強いフックボールが出てOBを出したのだろう。それが無ければ久しぶりに80を切っていただろうとタラレバの反省をしながら自宅に向かっていた。琉球セメント工場の前を通過する時に携帯電話が鳴った。着信表示を見ると自宅からだ。

「帰宅は遅いの」妻からである。

「いや、山入端集落を過ぎたから10分で帰宅出来るよ」

「お婆さんが北部医師会病院に入院したそうよ。身内は面会した方が良いとの連絡が兄さんからあったの」

「分かった。夕食前に面会に行って様子を見ることにしよう」

帰宅すると長女で中学2年の紗香が既に帰宅しており、3名の娘の面倒と留守番を頼んですぐに妻と家を出た。病院までは5分の距離である。

病室は6階の内科病棟であった。既に母と兄夫婦がいて、二人の叔父がベットの横に立っていた。祖母は寝ており腕にはリンゲルの管が繋がっていた。どうしたのだと叔父に訊ねた。

「呼吸が荒くなって眩暈がするというので救急車を要請して入院となったのだ」と言った。レントゲン検査で肺に結核の兆候があることが分かり中部の結核専門の病院へ転院する手続きをしているところらしい。救急車で運ばれたが命に別状はないとのことだ。

「大騒ぎになって済まない」と94歳の祖母と同居している叔父が謝った。皆口々に「危篤の呼び出しかと思ってびっくりしたよ」と安堵した顔で笑った。

「カズ、忙しいのではないかい」と叔父が言った。

「忙しいのは接待ゴルフのせいさ。ゴルフ場から帰ったばかりです」

「遊びで給料がもらえるなんていい職場ね」と妻が皮肉った。

「どうも右脇腹が痛いので僕もレントゲンを撮ってもらおうかな」と言うと

「ゴルフで肋骨を骨折する人もいるらしいよ」と兄が言った。

「カズの体格では骨折はしないだろ」叔父が笑った。

「肋骨は意外と骨折する場所なのよ」と元看護婦の兄嫁が言った。

「遊び過ぎを反省することね」と妻が言ったので皆が笑った。祖母の緊急入院も大事に至らなかったことが皆を気楽にしていた。私は脇腹の痛みが少し増している気がした。「子供たちの夕飯があるでしょう」と母に促されて僕らは引き上げた。帰りの車でも痛みは少し増した感があった。

帰宅すると6時を回っておりテレビを見ていた子供達がソファーから振り返って一斉に「おなかすいたー」と合唱して声を上げた。妻が夕飯は「コロッケとトンカツデース」と言うと「やったー!」声を上げてはしゃいだ。私は妻に「北部病院の隣の救急診療室で診てもらってくる」と言ってテレビの横のサイドボードから健康保険証を取り出して玄関に向かった。紗香が「お父さんどこか悪いの」心配そうに尋ねた。「少しわき腹が痛いので暗くならないうちに薬を貰って来る」と言って玄関を出た。

6時30分に県立北部病院の敷地内にある救急センター棟の前に車を停めて待合室に入った。一般病棟受付から救急センターへ替わったばかりで2名の老人がいるだけだ。救急車で運ばれる患者は県立北部病院の救急室に搬送されるのだ。症状の軽い患者を診断して入院の必要があれば病棟へ運ぶようだ。カウンターで受付をするとすぐに診察室に案内された。医師の白衣には白百合の刺繍があった。その下に北部医師会と記名されていた。夜間診療は北部地区の内科・外科・小児科等の個人病院の医師が交代制でこの施設を管理しているとの新聞記事を思い出した。受付カウンターには午後5時から10時までの受付(10時以降は北部病院の救急室受付)と表示されていた。紗香が子供の頃この受付に来た記憶はなく、夜中に発熱して北部病院に駆け込んだ時は10時を回っていたのだと思い出した。県立北部病院の医師の当直交換時間の補充なのだろうと思った。

「昼間にゴルフをしたのですが、その後に肋骨の辺りが痛くなりました。もしかして肋骨にヒビでも入ったのでしょうか」と医師に話した。

「ではレントゲン検査で見てみましょう」と言ってレントゲン技師に引き継いだ。

レントゲン写真を撮り待合室に戻って待った。痛みは次第に増していった。ほどなく呼ばれて問診に入った。血圧を測り、レントゲン写真を見ながら説明した。

「肋骨に問題はありません。軽い炎症でしょう。血圧が190-160です。高血圧症の傾向がありますね。何か治療を受けていますか」

「いえ、特にありません」

「土日は市内の病院が休みですから月曜日にでも内科医院で血圧の検査を受けるようにしてください。それ以外は問題ないです。念のためにわき腹を固定するコルセットを着けましょう」といって棚から取り出してビニールを外して私の肋骨を締め付けるように取り付けてくれた。

「どうですか」と問われて「痛みが軽くなった気がします」と答えた。

「明日には痛みも軽くなっているでしょう。お大事に」と言って診断書類に何かを記録していた。

「ありがとうございました」そう言って診察室を出て会計カウンターで治療費を払って帰宅した。

帰宅すると夕食が始まるところであった。子供たちと一緒に食卓に就いた。少し遅めの夕食に子供たちははしゃぎながら箸を動かしていた。私は食欲がなくコロッケを半分だけ食べて残りを4人の子供に分け与えた。

「何だか疲れたから先に寝る」と言って半ズボンに着替えて寝室のベットに横になった。痛みは次第に増していった。痛みの発生源がはっきりとしない。肋骨ではなく体の深い部分の何処か、まるで胸の内側全体が圧迫感を伴って痛むのである。呼吸が浅く早くなっているのを感じた。私はベットから起き出して外出用のスラックスとポロシャツに着替えて寝室を出た。妻に「もう一度病院へ行くからタクシーを呼んでくれ」と言ってソファーに座った。タクシーを呼ぶのが億劫になっていたのだ。横になるより座った方が楽であった。しばらくすると玄関の呼び鈴が鳴った。妻が「兄さんが迎えに来たわ。連れていてくれるそうよ」と言った。

私は兄の車で再び救急センターに入った。ひどく呼吸が荒れていた。待合室の長椅子に腰掛けている間に兄が診察の手続きしてくれた。

「今日の急患は終わりだそうだ。北部病院の救急室に移動だ」と兄は言った。

私の様子を見た看護師が車椅子を持って来た。私は恥も外聞も抵抗もなくそれに座った。そして3時間前の診察記録を携え、兄の押す車椅子で北部病院の救急室に向かった。50mも移動せずに北部病院の救急室に着いた。

救急センターから連絡があったのか直ぐに医師の診察があった。担当医はレントゲン写真を見て写真の肺の下部を指差し「急性の胸膜炎だな。白くなっているでしょう。専門外の医者が見落としたようだな。今日の当直はだれだったかな」と看護婦に尋ねた。

「確か市内の皮膚科医院の平山先生です」と答えた。

「皮膚科の先生では見落としてしまうな、胸膜は肋骨と肺の間にあって肺を保護しているのだ。胸膜が炎症を起こすと呼吸で肺が膨らむたびに痛みを生じるのです。呼吸が浅くなり心拍数と血圧が上昇するのだ。それで高血圧症と診断されているのだな。エコー検査でもっと詳しく確認しよう」と指示を出した。

「仲村さん、最近飲みすぎてひどく嘔吐したことは無いですか」

「いえ、もう若くもないので大量に酒を飲むこともありません」

「何らかの原因で胸膜が傷つくと炎症が発生するのです」

「そうなのですか」

「胸膜炎は原因が解らないことが多いです。現在は炎症を抑える良い治療薬が開発されているので回復困難な病ではないですよ。安心して下さい」

「ありがとうございます」

私は痛みの原因が分かってホッとした半面、高血圧症と判断した皮膚科の当直医に診断されたことを不運に思った。看護師が痛み止めの注射を打ち、リンゲルの針を手の甲に打ち込んだ。エコーによる診断画面を見ながら医者が穏やかな表情で言った。

「仲村さんラッキーでしたね。2時間後なら開腹手術が必要でしたよ。まあ、2週間ばかりの入院でしょう。看護師さんが入院に関する必要事書類を準備しますので、今夜から4階の内科病棟に入院です」私はまな板の鯉よろしく簡易担架の上で天井を見ていた。10分ほどして看護師が入院手続きの書類を持って来て兄に渡した。「家族の方にこれを渡してください。あとはこちらで行いますから付き添いは必要ないですよ。明日は4階のナースセンターを訪ねて下さい」と言った。兄は入院手続き書類封筒を受け取って言った。

「俺は帰って嫁さんにこれを渡すからお前は大人しくしていな」

私が「ありがとう。頼むよ。ついてない一日だった。お婆さんが笑っているかも知れないな」そう言うと、兄は「そうかもな、じゃあな」と言って出て行った。

30分ほど救急室で待機して4階に移動した。そしてナースセンター横の集中治療室の入院患者専用ベットに移った。ナースセンターからガラス越しに見渡せる部屋である。この日は私一人だけであった。痛み止めが効いているのだろうか意識が朦朧として忽ち霧の中に溶け込んでしまった。

何時か知らぬが誰かに呼び起こされた。意識が朦朧としている中でスタンドの明かりに浮かぶ若い看護師がいた。

「リンゲルを取り換えます。針を差し替えますので少し痛みますが我慢して下さい」といった。

「はい」と霧中の思考の中で答えた。私が体を動かした際に針が抜けたらしく差し替えるつもりのようだ。新米の看護師であろうか血管を探して二度、三度と針を差し替えた。その度に「すみません」と謝った。5度目にやっと血管を探し当ててうまく注入した。看護師の作業が何か他人事のように感じており、注射嫌いの私にしては痛みを感じていなかった。

「終わりました」と看護師が安堵した声で言って出て行った。この部屋に移って初めての看護師である。酸素が足りないのだろうか頭の回転が鈍く現在の状態を理解できていないようであった。

当直の医者が別の看護師を伴って回診にやって来た。4階に運ばれて1時間後か2時間後か知らぬがあまり時間が経過していなかったと思う。何か話しかけるが良く分からない。酸欠を起して脳が判断力を失っていたのだろう。看護師が枕もとで何やら捜査して鼻にチューブを固定した。鼻腔から酸素が注入された。頭脳が急速に目覚めるのを感じた。酸素がこんなにも美味いと初めて知った。

「仲村さん、痛み止めの他に胸膜の炎症を抑える薬を投与します。毎日レントゲン写真を撮って回復の様子を見ることにしましょう。2週間程度で回復できるでしょう」と言って看護師に何やら支持して別の部屋の患者の回診に出て行った。私は酸素が肺に行き渡り脳細胞が少しずつ活性化するのが分かった。次第に目が冴えていった。そして先ほどリンゲルの針の交換をした状況を思い出した。人間は脳が何かの原因で酸欠状態になり、意識が肉体から飛び出しそうになると自らの意思の力が低下してしまい、知的な判断力を失ってしまう。大病や事故で生と死の間の穴に落ち込んでしまい、肉体から精神が遊離して死線をさまようとはこれに近い状況なのかもしれない。死の恐怖とは脳細胞が活性化した状態で確かな理性と判断力を備えている場合にのみ起こるものであろうとも思った。私は病棟の廊下から漏れて来る明かりの中で酸素注入チューブから押し出される酸素の流れを感じつつ天井を見つめていた。今の状況について何一つ思いを巡らすことは無かった。未だ現実の中に意識が戻って来ていなかった。

朝になり、看護師が持ってきた病院のガウンに着替えた。そして4人部屋の一般病室に移動した。9時過ぎに訪ねて来た妻に入院時に付けていたズボンやポロシャツを渡した。これでその他一般の入院患者の一員になった。

「お医者様はなんておっしゃったの」と妻が訊ねた。

「胸膜炎だとさ、医者も原因が解らぬらしい。2週間はお泊りだ」

「そう、何か必要な物はない」

「電気髭剃りと書斎に建設白書があるから持って来てくれ。退屈な日が続きそうだ」

「食事はどうなっているの」

「特に食事の制限はないらしいが、今日の昼飯から出るらしい。俺は元気だ、痛みもないし心配するな」

「バカね、元気じゃないから入院しているのでしょう」

「子供たちに大丈夫、元気だと言ってくれ。用事があるなら電話するから毎日は来なくても良いから。お前も月曜日から仕事があるだろう」

「入院手続きを済ませたらしたら帰るわ」

「入院中だと、人に言うなよ。みっともないから、会社へは自分で電話するから」

妻は私の着替えを持参した袋に入れて出て行った。

毎日午前中にレントゲン検査があり、看護師が車椅子で1階の処置室まで運んでくれた。車椅子で移動していると重病人なった気がして気持ちが滅入った。会社に連絡すると、専務はとんだ災難だったな、心配せずに治療に専念してくれ、後で金城君を見舞いによこすからと言った。50名程度の組織にとって私の不在など問題外のようであった。組織で最も必要なのは末端の労働者である。彼らが欠けると忽ち稼働力が低下するが、実労の乏しい幹部が欠けても短期的には影響が出ないのである。

肺の周りに白く映っていた靄は日々薄くなって消えて行った。1週間後には霞が消えたように見えた。私には見分けがつかぬが医者は少し残っていると言って、2週間の入院を短くすることは無かった。退屈な日々が続いた。技術士試験対策として建設白書を読むも文字を眺めるだけで記事は記憶の隅にも残らなかった。只、閉口したのは見舞いの老人達が血色もよく健康そうでガタイの大きな男が、リンゲルをぶら下げたローラー付のスタンドを引いて娯楽フロアに座っているのを奇異な目で見ることであった。一度老女に方言で尋ねられた。

「兄さんは何処が悪いの、大きな丈夫そうな体をしているのに」と

「胸膜炎」だ。

「何ねー、それは」

「昔で言う、肋膜炎だ」

「なんだ、怠け者が罹る病気だね」と言って、心配して損したという表情で不満そうに立ち去った。急性胸膜炎はとても痛いのだぜ、一度婆さんも罹ってみるかいと言いたくなった。テレビの置かれた休憩フロアで退屈を紛らわすのを止めて7階の食堂でコーヒーを飲んで過ごすことが多くなった。クーラーの効いた部屋から名護湾が見渡せた。夏の海は明るい青色に輝いており、遠く残波岬を境に東シナ海の水平線が広がっていた。この様にのんびりとしながら一抹の不安を抱えて名護湾を眺めたのはいつのことだっただろうか。遥か以前、現在の職業に着く前の若い20台の後半にあった気がした。店員の若い女の子と顔見知りになったが病名を訪ねることは無かった。2度目の週末に海洋博公園の花火大会があった。屋上に上って西の方角を見た。音も花火も見えなかったが、時折嘉津宇岳の山際が明るくなった。会社では例年通り課長以下の男子社員は夜中の12時近くまで交通誘導をしているなと思った。公園内は昼間から音楽コンサートが開催されており、県内外からの来園客で賑わうのだ。県内最大の花火イベントである。例年なら私は交通混雑に巻き込まれないように少し離れた場所から子供たちと花火を楽しんでいたのだと少し心が沈んだ。

県立病院の契約満了日はしっかりと2週間後にやって来た。妻が持ってきた衣類に着替えて1階の精算ロビーにあるキャッシュコーナーで5万円を引き出して支払いを済ませた。2週間分の三度の食事、投薬、宿泊代で5万円からお釣りが出ることに驚いた。健康保険の有難さがしみじみと分かった。それ以降健康保険料が高いと愚痴ることはしなくなった。

帰宅して居間の籐のソファーに座ってテレビのスイッチを入れた。目に映るもので変わったものは何もなかった。保育所から早めに帰宅した末娘が大喜びで私の膝の上に座って体を揺すった。体は何処も痛くなかった。しかし私を取り巻く気配が僅かに変わっていた。否、私の感性が変わっていたのだろう。会社に電話して専務に見舞いの礼を述べ明日から出社すると伝えた。夕方なって日が落ちてから自宅近くの国道沿いを体馴らしに歩いてみた。わき腹に痛みはなくなったが、少し早足になると呼吸が乱れ、足がふらついた。僅か2週間の入院生活で人の体は機能の低下に陥ることを思い知らされた。体の機能回復の為、日常の生活スタイルを代えねばと思った。

それから1年間、ウォーキングから始まり、ジョギングに移り、1年後には21世紀公園のラグビー場の周りを毎日1時間もノンストップで走れるようになった。職場の定期人間ドックのレントゲン検査で胸膜炎の跡が完全に消えた頃から筋トレを始めた。手製のバーベルでベンチプレス、スクワット、デッドリフト、ベントオーバーローイングで筋力の強化を図った。次第に筋力がついてベンチプレス75kgを上げられるようになっていた。入院以前よりも確実に体力が向上していた。ゴルフも熱が冷めることも無く、コンスタントに80台の依然と同じスコアで回れるようになっていた。そんな時に通勤途中で目に就いたのが剛柔流・拳勝会宇茂佐道場の看板だ。

私が中高校生の頃、隣の家に沖縄拳法を習っている天久佐吉さんが住んでいた。私より10歳程年上の元自衛隊員で絵を描く共通の趣味から始まり、夏の夕方に浜辺で相撲を取り、近くの大石の小島までの遠泳をしたり、空手の手ほどきをしてくれた。4人兄弟の末っ子の彼は、私を実の弟の様に可愛がってくれた。小柄だが良く引き締まった体をしており、WBC,WBA元世界チャンピオンボクサーの藤猛に似た風貌であった。佐吉さんは私が空手に興味があると知り、裏庭に松の丸太を削って巻き藁を立ててくれた。沖縄拳法の名護道場にも何度か伴ってくれた。随分後に知ったのであるが今は亡き沖縄拳法の創始者は私の一族と遠い血族であったらしい。佐吉さんとの付き合いは短い期間であったが多感な少年期の不思議な体験を作ってくれた。彼が自衛隊勤務の頃の後遺症で那覇市内の精神科病院に入院し、私が大学受験にしくじって家を離れて浪人生活をした頃から付き合いが途切れたようだ。それに詳しくは知らないが入院中に別の患者に就寝中のベットの中で刺されて死んだと聞いている。そして彼の一家が住んでいた借地は、地主が借金絡みで誰かに売却してしまい立ち退いてしまった。それ以来彼の一家との付き合いも完全に途絶えてしまった。彼の義姉が実家の近くのソバ屋に務めており、時折見かけたが今は知らない。私は拳勝会道場の看板を見てふと遠い日の思い出が蘇り、空手の修行に取り組むのも悪くないと思った。体力も回復したことだし、遊びと酒に明け暮れるゴルフの趣味から少し離れるべきかもしれない。人生の中間点の40歳を既に過ぎており、体と心を新しい日常に切り換える頃だろうと感じていた。

(2)入門

空手を習いたいと思ってから直ぐに自宅裏に巻き藁を立てることにした。巻き藁を突いてみてやる気が失われなければ空手道場の門を叩くことにしようと考えたのだ。巻き藁は20年前と同じ方法で立てようと考えた。他に方法を知らなかっただけである。知り合いの造園会社のヤードから幹回り30cm、長さ2mの間伐材のフクギを1本貰って来た。山鉈で樹皮を剥ぎ取り、先端が2cm厚で根元が太くなるように120㎝程の長さを削った。70㎝程地中に埋めて固定した。古いゴム草履を挟んで藁縄を2重に巻き付けた。藁縄の隙間をハンマーで叩いて均した。早速巻き藁を突いてみると、拳が痛くなった。それを我慢して突くと薄皮が剥ける。傷が治るまで中断して再び突き始める。2カ月ほどで拳にタコが出来た。巻き藁突きがサマになって来た気がしたので道場を訪ねることにした。

6月の梅雨が明けた頃、帰宅途中に道場を訪ねた。私が入社した頃に住んでいたアパートから300m程離れた場所で、国道から海岸に向かって中通りを一つ隔てた建物であった。国道脇の民家のブロック塀から3mの高さの鉄柱に拳勝会空手道場のパネルがポツンと立っていた。私は道場入り口の通りを一つ過ぎた場所にある公民館前に車を停めた。駐車場の横は砂浜に続いており、広い砂浜と穏やかに打ち寄せる波が目に入った。車を降りて50m程歩くと2階建ての白い建物があった。敷地の横は海岸である。ハスノハギリ、オオハマボウの防風林が続いていた。その防風林のトンネル状の隙間から砂浜に降りていく小道があった。コンクリートブロックで仕切られた塀に2か所の門があった。手前が住宅用の格子の門扉となっていて、その隣の車庫との間にアルミ製の扉があった。拳勝会空手道場の大きな表札が掛けられていた。私が立ち止まって表札を見ていると左手のトンネルの中から人影が現れた。

「こんにちわ」と挨拶した。

「こんにちは、何か用ですか」とその男が訊ねた。160㎝程の身長で胸板が厚く胴体が太い丸太を思わせる体格である。髪はパンチパーマをかけた短い縮れ毛で黒のトレナーズボンに白いTシャツ姿であった。

「こちらの方ですか。空手を習いたいと思いまして尋ねました」

「そうですか、どうぞ」ニコニコしながらドアを開けて招き入れた。中庭を横切ってもう一つのドアを開けて言った。

「道場は2階です。ご覧になってください」

鉄製の階段を登って道場に案内された。広間に入る前に一礼して上がった。私もそれに倣って一礼して上がった。古い黒光りする板の間であった。

「私は館長の岸本です。そちらのお名前は」

「仲村です」

「お住まいは何処ですか。どうしてこの道場を知ったのですか」

「市内の宮里です。15年ほど前にこの近くの教員住宅に住んでいました」

「学校の先生ですか」

「いえ、家内が先生で、私はサラリーマンです」

「空手の経験はありますか」

「高校生の頃に体育の授業で空手の形を習っただけです。空手に興味が沸いて来たので最近巻き藁を突いています」

「では、ここの巻き藁を突いてみますか」

4本ある巻き藁の1本を指差して言った。

私は少し身構えてぎこちない動きで2度3度と突いた。私の巻き藁よりも細身でバネがあった。そして突く部分は革で出来ていた。

「いいでしょう。来月からの入門にしましょう。其処にある道着を着けてみてごらんなさい」着替え棚の横の壁に掛けられたくたびれた空手着を指差した。

空手着なるものに初めて袖を通してみた。それを見て岸本館長が言った。

「4.5号だな。道場の練習日は毎週月・水・金の午後8時から10時までだ。入門費と月謝はそこの壁に書かれている通りだ。チョット待ってくれ、入門申請書類を取ってくるから」そう言って道場内のドアを開けて中に入った。館長に指差した壁には「全沖縄空手道場連盟・剛柔会公認道場、入会金、月謝」と表記されたプラスチックのパネルが貼られていた。館長はドアの内側で何やらゴソゴソとしていたがすぐに戻って来て書類を渡して言った。

「次来るときに書類を持参してくれ。道着は私が立て替えて買って準備しておくから」館長は振り返って壁に掛けられているカレンダーを指差して言った。「来月の水曜日が入門日だな。師範代のノリさんが待っているから彼の指示に従ってください」

「よろしくお願いします」

「そうだ、連絡先の電話番号を聞いておこう」

私はポケットから名刺入れを取り出して名刺を一枚渡した。

私は土間に降りて館長に一礼した。館長も一礼して返した。私は安堵と不安の混ざった気持ちで階段を下りて行った。

7月の最初の水曜日、私は午後8時10分前に道場の前の小さな駐車場に車を停めて門人の来るのを待った。直ぐに軽トラックが止まり小柄な男が作業着姿で脇に道着を抱えて降りて来た。

「こんばんわ。今日からお世話になる仲村です」

「館長が話していた新人だな。高良です。行きましょう」

その男の後に付いて中庭を横切った。

「ここに道場の鍵があります。ドアを開けてこのスイッチを入れて下さい。2階の道場の電気が点きます」そう言ってカンカンと音を立てて鉄製の階段を登って行った。私も後ろから付いて行った。確かに2階の道場は電気が灯っていた。道場入り口のカギを開け、アルミ製の引き戸を左に寄せて中に入った。高良さんは上がり框に跪いて「お願いします」と一礼して中に入った。私もそれに倣った。

「本部の海洋博公園で働いているそうだね。僕も本部に住んでいる。よろしく。先ずは掃除から始めよう」そう言って入口の外にあるバケツに水をためた。入口は150cmに200cmのスペースがあり、一方に手洗いと水道、一方の壁にトイレがあった。

「水はバケツの半分程度で良いです。そこのモップで道場の床を拭きます。拭き掃除が終わったら残った水で土間を洗います。では始めましょう」

私は高良さんを真似てモップで床を擦って掃除を始めた。途中で一人、また一人と門人がやって来た。皆同じように跪いて「お願いします」とおじきをしてから着替え棚に道着を置いた。そして床の掃除を始めた。道場は矩形になっており、広い場所が空手の練習場所でもう一方の3分の1ほどの広さにウエイトトレーニング機材のベンチプレスベンチ、スクワットラック、シットアップベンチ、プルダウンマシン、レッグカールマシン等が整然と配置されていた。広間の壁には高さ200cmの鏡が大小6枚据え付けられていた。玄関の正面奥が神棚で左側の壁に武道具掛けられており、その上に門人の名札が上下2列で掛かっていた。上段右から館長、顧問、上段者の順で並んでいた。私の名札はまだ無かった。

10分ほどで掃除を終えた。私は先輩たちに入門の挨拶と自己紹介をした。8時20分に師範代がやって来た。この日はノリさん、シゲさん、ノブさん、クニさんと呼ばれる高良さん、そして私より1カ月早く入門したヤスシであった。他に4名ほど門人がいるとのことである。

「さて、準備運動を始めようか。新人は見様見真似で出来る範囲でやってくれ」師範代のノリさんが声を掛けた。

準備運動はストレッチに似た動作に始まり、突き、蹴りと移って行った。道場内に「エイ」の掛け声が大きく響いた。

準備運動が終わってしばらくすると館長が広間の木戸を空けて入って来た。

「こんばんわ」門人が一斉に館長に向かって挨拶をした。

「おお、来たか。準備運動は済んだようだな。これが道着だ。着けてみなさい」そう言ってビニール袋に梱包された道着を渡した。私は真新しい空手着を着けてみた。少し広めだが違和感なく体に合った。

「何号ですか」とノリさんが訊ねた。

「4.5号だ、ノリさんと同じサイズだ」と館長が答えた。

「幾らしました」とノリさん

「入門者用で6,500円だ。黒帯を締める頃に一つ上の上質な道着を買うと良いだろう。4,5回洗うと縮んで落ち着くからその後に名護市場通り入口にある長山洋服店で道場のマークを刺繍させると良いな。1,000円でやってくれるだろう」

「ありがとうございます」と礼を言った。

「ノリさん、サンチン立ちと運足を教えてやってくれ」そう言って館長は他の門弟に声を掛けて指導を始めた。形の練習をする者、突き蹴りをする者、筋トレの部屋に行く者等それぞれの練習に取り掛かった。

「よし、始めよう。手を腰に当てこの足型に立ちます。そして足を上げずに円を描きながら足の裏を滑らせて前の足型の位置に進みます。そこで足の裏で床を掴むようにギュッと締めます」床がギュッと鳴った。

「次に左足を前に進めます。これを繰り返して前進します。」ノリさんはキュッキュッと音を立てながら進んでいった。

「ここまで来たら同じ要領でバックします」そう言って元の位置に戻って来た。

私はノリさんの指示に従い床に描かれた足跡をなぞるように進み、引き返す動作を繰り返した。

「サンチンの練習では誰でも足の親指の皮が一度は剥けるものだ。家に帰っても毎日続けなさい。剛柔流の基本中の基本の動きだ」ノリさんは言った。

この動作は簡単なようで難しい。初心者の私にとって足元を気にすると体幹が安定しないのだ。ノリさんに何度も指摘されながら繰り返した。

「おお、頑張ってるな。ノリさん手をサンチン(三戦)の構えにして練習させなさい。その方が次に進みやすいから」

「そうですね。では、両手をこの構えにして両脇を締めます。肘と体の間に拳一個分の隙間を空けます」ノリさんが構えて見せた。

「三戦は体全体を締めあげるのだが、とりあえず下半身だけを練習しなさい」館長はそう言って私の動きを見つめていた。

「顎を引いて正面を見なさい。足元を見る空手の動作はないよ」館長はそう言って再び別の門弟の指導に向かった。

10時を過ぎた頃、館長が「終わりましょう」と声をかけた。

「新人は一番前だ」ノリさんの指示で全員が2列に並んで神棚に向かって正座した。ヤスシと私が最前列でノリさんとシゲさんの師範代が最後尾である

「黙想」館長が合図した。1分ほど黙想した後

「目を開けて下さい。神殿に礼」

「ありがとうございました」と全員で頭を下げて唱えた。

館長が振り返り「ご苦労様でした」

「ありがとうございました」と館長に向かって頭を下げた。

「お互いに」と館長が言った。

互いに向かい合って「ありがとうございました」と言って頭を下げた。そして立ち上がった。

これで本日の練習が終了である。皆が道場の窓を閉めてブラインドを降ろした。

「みんなに紹介しよう。新しく入門した仲村さんだ。皆で教えてくれ」

「仲村です。名護市内の宮里に住んでいます。よろしくお願いします」と挨拶した。館長の指示でノリさんが仲間を紹介した。皆が着替えをしている間に館長に入会申請書と共に入会金、月謝を払った。そして道着代は次に持ってきますと話した。かくして私の入門初日が終わった。軽い興奮を覚えながら階段を下りて駐車場に向かった。小さな駐車場で車を出す順番を待っていた師範代のノリさんが声を掛けた「新人、金曜日も出て来いよ。頑張れば黒帯が取れるから」そう言って車を出した。浜風が潮の香を運んできた。防風林に空いたトンネルを通して潮騒が近くに聞こえた。大きく息を吐きだして車に乗り込んだ。何とかやれそうな気がした。私は駐車場から最後に車をだした。バックミラーに電灯の明かりが消えた道場が満月の明かりで映っていた。

(3)初心者の手習い

琉球王府の頃は空手のことを「手」(ティー)と呼んでいた。空手家のことを手使う者(ティーチカヤー)呼んでいた。今でも畏敬の念を込めてティチカヤーと方言で呼んでいる。あの人はティチカヤーだと呼ぶときは尊敬よりも恐れの意味が強いようだ。やばい男だから迂闊なことを言たり、不用意な応対してはいけないと警戒しているのが本音だろう。青少年が空手を習ってもスポーツの一部と見るのであるが、40歳を過ぎても手習い(ティーナレー)をしている者は奇異に見られることが少なくない。それ故、昔も今も手習いをしていることを公言する年配者はいない。私も平素は極力に人に知られないように心がけている。館長の指示で演武会に出て武芸を見せる以外は手を使う者(ティチカヤー)の気配を全く見せぬように注意し、常に温厚で論理的に誰とも平等に接するよう心掛けている。論語の中の「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」を肝に銘じて日常を送ることが空手家(ティチカヤー)の現代社会で穏やかに暮らすための手段であると信じている。ともあれ中高年の分別ある年齢になると多くの人は心に潜む武闘派のエネルギーが放出され切ってしまい、手習い(ティーナレー)止めてしまうものである。60歳を過ぎても巻き藁を突いて拳を鍛え、筋トレで体力の衰えに抗う者は武道の魔力に染まり切った者共であり、病で倒れない限りその道から抜け出ることは無いだろう。

無印の道着を着けて2週間ほど道場に通った。道着が少しだけ縮んで落ち着いたので指定された長山洋服を訪ねて拳勝会のマークの刺繍を依頼した。2代目の30代の職人は「岸本先生の道場の刺繍ですね。コンピューターに入力してあるので明日には仕上がりますよ」とニコニコして道着を受け取った。翌日の夕方、会社帰りに立ち寄ると仕上がっていた。刺繍は左胸に拳勝会、左袖の上腕部に丸いロゴマークである。初心者用の道着の上着は洗濯後に皺が寄ってアイロンを当てる始末であった。私は練習が終って帰宅すると家族の洗濯物とは別に自分の道着と下着類だけを洗濯機で洗い、水分を含んだ状態の道着をパンパンと叩いて伸ばして皺が入らぬように干した。

道場のマークが入った道着を着けて練習を始めるとノリさんが言った。

「おお、カズさんやっと俺らの仲間になったな。無印だと何処の輩か分からなかったからな。頑張れよ」その頃から私はカズさんと呼ばれていた。

県内には剛柔流、少林流、上地流、沖縄拳法など幾つかの空手の流派があり、それぞれの流派の形を持っている。剛柔流では三戦(サンチン)、撃砕に始まり12種の形がある。三戦と転掌は単なる形では無く体の鍛錬を基本としている。剛柔流は三戦に始まり三戦に終わると言う空手家もいる。確かに三戦の演武を見るとその道場の門弟の力量が現れる。私も三戦と共に撃砕第一を教わっていた。

三戦は一歩前進して下半身を締めて固定する。次に上体は突きの動作で息を吐きつつ体を締めあげる。突き切る時にハッと強く息を吐きながら体を締める、手を引いて受けの動作の間は体を緩めては息を吸う。そして受けの動作の最後にハッと小さく息を吐いて体を締める。前進して反転、そして前進して反転して元の位置まで前進して戻る。その動作の間に体を締めた状態を確認するために館長、師範代が手の平で僧帽筋の横の肩を叩き、拳で腹筋を突き、足で大腿四頭筋を蹴って体の締まり具合を確かめる。館長が両手で肩を叩くと体が沈み込む感じがする。この鍛錬によって打たれることへの恐怖は消えてしまう。私は元来、殴られることへの恐怖が殆ど無いのであるが、館長が叩くと本当に体が締まって行くのが分かった。本物の武道家に巡り合えたと思った。三戦は体作りの鍛錬であり、単純な動作であるが本当に奥が深い。練習を怠けると体幹が緩んでいくのがはっきりと現れる。今日まで二十数年も道場に通っているが未だに指摘を受けるのである。

さて、最初に覚える形が撃砕第一だ。受けは上段、中段、下段受けがあり、攻撃は中段突き、中段両手突き、手刀、中段前蹴りがある。それを前後、左右に動く動作の組み合わせである。攻撃の気合の発生は4回だ。準備運動で行っている動作が殆どであり戸惑うことは無い。しかし形の中に含まれる意味を理解しての動作は容易ではない。

最初の左上段受けを見てノリさんが言った。

「そのままの形でストップ」武道具棚から竹刀を持って来て軽くポンと叩いた。

「ほら、竹刀がアンタの頭を叩くだろ。もっと腕を上げて上から振り下ろしてくる攻撃に対して頭を守らなければいけない。次にその攻撃の威力を弱めるために受ける腕は斜めにして相手に攻撃を受け流さなければアンタの腕が折れるよ」

私は意識して上段受けをした。前腕を捻り込み突くような動きである。

「今の手の位置を覚えなさい」とノリさんが言った。

次の動作で中段突きをした。ノリさんが笑いながら言った。

「カズさん、空手はボクシングではない。アンタの突きはフック突きだ。確かにパワーはあるが空手の正拳突きは上段、中段、下段とも脇を締めて真っ直ぐに拳を捻りながら突くのだ」近くで腿上げの練習をしていたシゲさんが言った。

「サンチンの突きも脇が開いているよ」館長が近づいてきて言った。

「正拳突きの基本から教えないと初心者は解らないよ。私が君たちに教えたようにカズさんにも教えなさい。しっかりしてよ、師範代の兄さんたちよ」

「わかりました」とシゲさんノリさんが館長に頭を下げた。

中段突きは両手を水月の高さに持っていき、両こぶしの間を拳1個分の開けた位置を突くのである。脇を締めて拳突き出す。肘が胴体を過ぎた頃から拳を捻り込む。拳は胴体の乳首の横の位置から突き始める。力を込めるために拳を後ろに引きすぎると肩が上がってしまい突きのスピードが遅くなるだけでなく波打って進んでしまう。右中段突きで両肩の線が並行の位置でなく、右肩を後ろに引いた状態から突きの動作に入ると拳が移動する距離が長くなるのでパンチ力は増すがフック撃ちなってしまう。突き終わった時に右肩が前に出てもいけない。両肩の線は前後に動いてはいけないのだ。足の裏で床を掴み、三戦立ちで下半身をしっかりと床に固定されていないと上体はぶれてしまうのである。

次の動作は四股立ち下段受けである。私の左下段受けの状態を止めさせてノリさんが言った。

「下段受けは相手の前蹴りを受ける動作だが、金的だけの攻撃ではないぞ、払ったつもりでも左わき腹に足先が届いてしまうだろ、ほら」確かにノリさんの前蹴りの足先がわき腹に届いた。

「蹴りは突きよりも力強いからしっかりと大腿の外側まで払い出す必要があるのだ」

私は左腕を少しだけ腿の外側に沿って動かした。

「うん、その位置だ。あまり外にはみ出すと前ががら空きになるから駄目だ。腕を少しだけ外側に捻りなさい。そうすれば蹴りのパワーを受け止めることが出来るだろう」ノリさんが太い前腕を捻って見せた。

四股立ち右下段受けから左中段受け、右中段受けと続く動作となる。ゆっくりとした動作で左右の前腕を交差させて一方を受け手、他方を引いて突く体制に移る。受け手は半円を描いて相手の突きを払いつつ拳の親指側と前腕とで作る矩形で相手の拳を引き寄せるように肘を引いて締めるのだ。肩と肘が前腕をしっかりと支える動きである。

その次に中段前蹴と続く。前蹴りで距離を出すには尻を送り込むのであるが、形の場合、尻を基本立ちの位置で蹴って足を元の位置に引き戻す。次の動作をスムーズにするためだ。最後の諸手突きは相手の水月と肋骨の下の肝臓に打ち込むのである。

道場通いも2か月が過ぎた頃のことだ。

「カズさん、敬老会まで2カ月あるから撃砕第一と三戦はしっかりと覚えておきなさいよ。拳勝会は全員舞台の上で演武するからな。大勢のお客さんの前で間違うと恥ずかしいぞ。ヤスシも同じだ」ノリさんがそう言って笑った。

「敬老会ですか。名護市の老人ホーム厚生園でやるのですか。それともどこかの老人会の慰問ですか」

「そうかアンタたちは未だ経験していないな。宇茂佐公民館で開催されるのだが、屋部区や宮里区の豊年祭みたいなものだ」

「踊りや組踊などもあるのですか」

「ああそうだ。演目は20くらいで市長や地元の市会議員さんたちも来るぜ。拳勝会も20分程度の演武時間があるぞ」

「舞台に上がるのですか。若い頃に妹や同級生の結婚披露宴の余興以来だな」

「2か月は短いぞ、心して練習しなさいよ」

「はい、頑張ります」ヤスシと私は返事した。

「皆さん終わりましょうか」館長の声で神棚の前に整列して跪いた。館長の「黙想」「神殿に礼」で本日の練習が終了した。

道場の高窓を閉めてブラインドを降ろしていると門弟表札を観ながら館長がノリさんに言った。

「カズさん、ヤスシからノリさんまで敬老会に参加できるのは10名かな」

いつの間にか私の表札が掛かっていた。表札と黒帯の先輩門人の姓名を較べてみた。その中に上間譲の表札があった。

「ノリさん、私は上間センパイには未だ会っていませんね」

「そうだね、本部町新里の出身の男だが、4年前から浦添市の運送会社に勤めている。妻子ともそこで暮らしているので道場に来ることはなくなっているね」

「ノリさん、譲の兄の新築祝いに招待されてシゲさんが祝いの舞を踊り、ノブが形を一つ見せたことがあったね」館長が言った。

「そうでしたね。新里集落の西の外れでしたね。そのすぐ後に譲は浦添に転勤したんですね。確かノブさんが連れて来た男でしたね」

「俺らのオリオンビール工場の下請け運送会社に勤める男だった」ノブさんが言った。

私もその新築祝いに参加したのであるが拳勝会の門人と出会った記憶はなかった。そして私がその新築祝いに参加したことをノリさんに言わずに話を閉じて着替え棚にむかって歩いた。皆それぞれに着替えて道場に礼を言って階段を降りて行った。

私は帰路の車のハンドルを握りながら顔も知らぬ門人上間譲の兄のことを思い出していた。私が空手道場の門を叩いたもう一つの本当の理由を考えていた。

仙蔵は譲のすぐ上の兄で自社の部下社員である。新築して人生が順風満帆に進んでいるかに思えた矢先、娘が酒気運転でひき逃げ事故を起こしたのだ。死んだ男が隣村の初老の男であった。娘は九州の某交通刑務所に収監された。仙蔵の集落近隣での評判はひどく悪くなって酒におぼれるようになった。無断欠勤が頻繁に発生して所属現場の同僚からの苦情が発生した。現場の不具合は必然的に私が納めることになるのである。

ある時、上司の専務から仙蔵を注意するように頼まれた私は、彼の持ち場を訪ねて語気を強くして彼の日頃の行動を嗜めた。下を俯いて選定鋏で屑枝を刻んでいた。見かねた渡した少し言葉を荒げて行った。

「聞いているのかね。仙さん。貴方は社内で一番の年長者で皆の見本となるべき立場ではないかね。無断欠勤が多く現場が困っているようだ。しっかりしてくれ」そう言った。

「何を言うか、アンタ如きに言われる筋合いはない」そう言って血走った眼をして立ち上がり、選定鋏を握って私を威嚇するように対坐した。

「なんじゃい」私は強く睨み付けて作業着の上着を脱いで左手に持って構えた。彼が選定鋏で攻撃してくると上着を投げつけて怯ませた隙に蹴り又は拳を叩きこむつもりであった。

近くで作業をしていた3人の職員が口々に言った

「仙さん、やめて下さい。落ち着いてください」

「お前、いつか殺してやるからな」捨て台詞を残して退社して行った。

青ざめた顔の社員が言った。

「部長注意して下さい。仙さんは家庭の事情で精神的に不安定になっています。僕らは彼が何を言ってもハイ、ハイと受け流して彼に不満を起させないように注意しています。会社の現場の大将気取りで日常生活のストレスを解消しているみたいです。」

「部長だけが彼の唯一の自由の効かない存在です」と別の社員が言った。

「そうか、彼の家庭は娘さんのことでゴタゴタがあるみたいだからね。専務の指示で注意しに来たのだが悪い結果となってしまったね」

「天下りの専務になんて現場のことは解りませんよ」別の職員が吐き捨てるように言った。

「うん解った。一度奥さんに会って精神科の治療が必要でないか話し合ってみよう。確か奥さんは人工ビーチの売店に勤めていたね」

「部長、一人で宣さんに会うことは絶対に避けて下さい。彼の持参している通勤バックには短刀が入っていて、僕らに見せびらかしていましたから」

「そうか、良くないね。君たちも彼の言動には十分気をつけてくれ。何とか解決手段をさがすことにするから」私はそう言って車に乗り込んで現場を後にした。

私は一連の出来事で彼に対する恐怖心は起こらなかった。しかし、私の中に潜在意識としてに埋もれている狼にも似た理性を失った残虐性、平気で何もかも叩き潰してしまう容赦の無さが表面化しないかを恐れていた。今日はその不穏なエネルギーが噴出しなかったが、そのエネルギーが充満してある瞬間に誰かが安全弁を外さないかと懸念していた。そして入社してすぐに猟銃のレミントンM870を警察に返納していることにも安堵していた。

私はこの日の出来事を仙さんは精神的に不安定であり、近くの精神科病院ノーブルクリニックで治療を受けさせる必要があるみたいだとだけ専務に報告した。その後専務と私、宣さんの奥さんと近くに住む宣さんの長兄を交えてホテルのレストランで話し合った。奥さんと長兄は口々に私が宣さんに狙われている言った。私はそうですかとだけ答えた。何か彼らの意見が他人事のように私の頭からすり抜けて行った。私は自分が狙われているとの恐怖心は起こらなかったが、私の中に悪しきエネルギーが充満する事が気がかりであった。私の空手道場への入門の真の理由は不純なエネルギーを飛散させることであった。国道を右折して自宅の明かりが見えた頃、上間譲という男と奇妙な関りがあることに不思議な縁を感じていた。そして道場での鍛錬は確かに私の不純なエネルギーを燃焼させてくれるようであった。奇妙な成り行きは岐路の選択の必然性が起こらない限りそのままに進行するのが私の基本的な生き方である。

(4)敬老会演武

1970年、名護町、屋部村、羽地村、屋我地村、久志村が合併して名護市となった。大戦前の宇茂佐集落は旧屋部村字屋部集落の一部であった。大戦後の人口の増加と共に屋部区から独立した行政区分になり、宇茂佐公民館設置されたのである。現在では集落の裏手の丘陵が宅地整備されて名護市で最も多くの住民が住んでいる。2010年から地籍も旧集落の宇茂佐と住宅土地改良区の宇茂佐の森に分かれているが、名護市の行政区分は以前からの宇茂佐公民館が統括している。居住地面積、居住者とも宇茂佐の森区が圧倒的に多いが、地域活動の拠点は宇茂佐区である。新興住宅地の住民は旧居住者との交流をあまり好まない。賃貸マンション、アパートの住人は短期居住者であり、地域の交流よりも個人のプライバシーを優先しているのだ。県内、県外からやって来た居住者はそれぞれの故郷を持っており、この地区が自分の故郷になるには何回かの世代交代が必要となるのだろう。屋部川を隔てた王府時代から続く集落の屋部区は集落の共同体意識が今でも強く残っている。150年以前から毎年開催されている豊年祭「八月十五夜祭り」で演じられる組踊は沖縄県の無形文化財に指定されているくらいである。

さて、宇茂佐集落の敬老会は9月の敬老の日に開催されるのではない。屋部区の八月十五夜祭りが終わってから一月後に開催されるのである。名護市の屋部、宮里、大兼久、城、その他の古い集落では旧暦八月十五夜の祭りが今でも行われている。宇茂佐区の敬老会はその祭りが終わって余韻が醒めた頃に開催されるのである。師範代のノリさんが敬老会開催のいきさつを教えてくれた。宇茂佐区は砂浜と100m後方の丘陵地に挟まれた中通り3本の世帯数のとても少ない地域で屋部区とは大きな河口を持つ屋部川で隔てられた屋部区の飛び地であった。大戦後に県立北部農林高等学校が設立されてから住民数が増えていったのである。そして行政区分も宇茂佐区として独立したのだ。大戦前は屋部区の伝統的な八月十五夜祭りにも区民は参加していたのだが行政的に独立区分したことで参加が出来なくなってしまった。そうなると区民の秋の楽しみが消えてしまった。むろん屋部区の十五夜祭りを見物出来るが、ご馳走の弁当が配られる地元区民とは異なるよそ者としての見物である。これは面白くないと宇茂佐区民は不満を募らせるようになった。

大戦後しばらくして景気が良くなりはじめると郷土芸能が復活して商業劇団が活発になった。乙姫劇団、仲田幸子劇団、与座兄弟劇団などが県内各地で公演するようになった。宇茂佐区民はその地方回りをする小さな劇団を呼び寄せて公民館で演劇を楽しむようになったのである。開催時期は周辺地域の十五夜祭りが終わってしばらく経ってからだった。宇茂佐区民の中にはかって屋部の十五夜祭りで演舞していた舞踊好きもいたので、小劇団員に混ざって出演するようになった。

いつしかこの小劇団とのコラボレーションが地区のイベントとして活況を呈して行った。しかし時代が移りテレビが普及するにつれて沖縄芝居は衰退してゆき、付き合いの深かった小劇団も他の劇団に吸収されてしまった。そして小劇団とのコラボレーションも消えることになった。そこで区民自らで演劇会を開催する事になったのである。屋部区の八月十五夜祭りも終わっているので屋部区の踊りの師匠から指導も受けることが出来た。劇は伝統的な組踊でなく、小劇団と共演した創作組踊演目で首里城建立の木材を国頭村から引いて奉納する「クンジャンサバクイ」と現代劇である。踊りに関してはどの地区も同様なものである。古典、現代芸能などだ。次第に区民の中に連帯感が生まれて完全な独立した宇茂佐区民意識を形成していったのである。小劇団の名称を使った演劇会は敬老会と名称を変えた。豊年祭のシーズンはとっくに終わっていることも敬老会と称した所以である。

拳勝会空手道場と宇茂佐区敬老会との関りは1977年に公民館の近くに道場が開設されたことに始まる。その後に敬老会への出演の依頼があり参加する事になったのだ。門弟の増加と共に演武種目も増えていった。やがて20分の演武時間となった。近隣の村では大兼久が沖縄拳法の演武を取り入れていたが現在は道場の閉鎖で途絶えている。豊年祭で空手の演武を取り入れている村は皆無である。只、沖縄県内には伝統の棒術が保存されている村があるも古武道の武術のレベルではなく儀式的な演武である。年に一度の豊年祭で武術が伝承できるものではない。私も入門以来20回以上は参加している。

9月の黒帯会で敬老会出演の話題が出る。黒帯会は毎月第三水曜日に開催される。出演時間が決まっているので演目数は毎年ほぼ同じだ。合同演武2種目、空手の形4種目、古武道4種目、組手1種目、試し割りで構成される。門人は合同演武を除き一人2種目を演武するのだ。

「各自演武したい種目は何かな」館長が門弟に問う。誰も手を上げない。

「クニさんとカズさんとヤスシは四向鎮、ガンさんとシゲさんとアキは十八、ノブとツヨシとヨシノリはクルンファ、最後にノリさんがスーパーリンペー」

としましょうか。次に古武道と組手だが

「サイはカズ、ノブ、アキ、ガンさん。棒組手はクニさんとシゲさん。ナイフ取りの組手はツヨシとヤスシだ。エーク手はノリさん。ノリさんどうかな」と尋ねた。

「そんなところでしょうかね。今年はセーサン、トゥンファは無しですね」

「うん、それを入れると時間がオーバーする。昨年トゥンファとセーサンをしたので今年は変えよう」

「試し割はどうしますか」ノリさんが訊ねた

「カズとアキは巻き藁をよく突いているようだから瓦割をしてくれ。外の階段の下に赤瓦とセメント瓦があっただろう。赤瓦10枚はカズさん。セメント瓦5枚はアキがやってくれ。枚数が少ないと不満かも知れないが最近は古い赤瓦が探せなくてな」

「赤瓦の木造建築の解体現場は無いですね」とノリさんが言った。

「来年からは武道具専門店の守礼堂から試し割用の瓦を買って来るか」

「幾らするのですか」

「10枚束で3,000円位かな。割れやすく焼かれているようだが赤瓦でなく、黒い大和瓦だ」

「一瞬で叩き割るにはもったいない値段ですね」とノリさんが言った。

「バットはツヨシが足で、私が腕で折ることにしようか。シゲさん板を割ってみるかい」

「どんな感じで割りますか」とシゲさんが言った。

「そうだな。正拳、肘、横蹴りだとお客さんから見えるだろう」

「久しぶりにそこに在る練習板でタイミングを取る練習をしてみましょうか」

「素早く一気に割らないと面白みがないからな。板を持つ係を決めて練習しておかねばいけないな」とノリさんが言った。

「練習方法はノリさんに任せる。板とバットは私が買ってくるから」

「皆、敬老会まで一カ月半だ。二人又は三名の合同演武だからきちんと呼吸を合わせる練習をしてくれ。号令をかける者を決めて練習しましょう」ノリさんが全員にハッパをかけた。

「最初は三戦から始めて最後は試し割だ。演武の順番は私が考えておくから。一度演武の時間計測をしようと思うが来月の黒帯会頃で良いだろう。何しろ20分の持ち時間内に収めないといけないから」

「館長の鎌の演武はどうしますか」

「それだがな、公民館に投書があったらしい」

「何ですか」

「鎌は危険で見ていて怖いから演じないでほしい。子供が真似をしたら大変だとさ」

「何処のバカが言ったのですか」

「誰かは想像がつている。本土からやって来た出しゃばりの口やかましい女だ」

「アイツか。鎌の手は他府県には無い沖縄独自の古武道です。やるべきでしょう。県内でも鎌の手を使える空手家はほとんどいなくなったし、拳勝会の演武以外では見られないのですから」

「そうか、君がそう言うなら練習しておこう。演武するか否かは様子を見て判断しよう」と館長は言った。

「みんな、休まず道場に来て練習に励みましょう。合同演武をする者はだれが号令をかけるか決めて練習してくれ。自分のペースで演舞すると動作がバラバラで見苦しいぞ」と師範代のノリさんが言った。

「残り1カ月と少しだ。皆さん頑張って協力して下さい」

会費の千円を納めて黒帯会を終了した。

合同演武の場合、動作のどの部分で号令を掛け、どの部分は一挙動にするかで団体演武の美しさが決まる。動作の切り替えし点全てで号令を掛けると演武に流れが失われ、一挙動を多くすると全員の動作が合わなくなってしまう。僕らの練習にも次第に熱がこもるようになっていくのである。

宇茂佐区公民館は300名の観客が収容できるフラットなホールと舞台を備えている。健康診断、税務申告、小規模な区民の為のスポーツ、レクリエーションなどが開催できる。むろん舞台を使った祝いのイベントも可能だ。調理室や畳の広間も備えている。かなり細長く中学校の教室を3棟合わせたよりも広いだろう。この村出身の前岸本建夫市長が現職の頃に熟慮して市内で最後に建設した公民館である。海岸に面しており夏の浜風がよく通り、冬は北の後背地が季節風を遮ってくれる一等地だ。

夕方から集落内を練り歩いた旗頭は日が落ちた頃に公民館に帰って来て、祭りが始まる。道場から60m程の距離にある公民館へ旗頭が入っていくのが2階の窓から良く見える。歴史の短い集落は伝来の旗頭を持たない。宇茂佐集落の旗頭は村の有志が考案してあつらえたものである。電飾が施されてさながら広告塔の様である。伝統的な畏敬の雰囲気はなく完全なお祭りのぼり旗である。

「ノリさん。旗頭が返ってきましたよ。そろそろ舞台が始まりますね」

「では、演武に出る手順と団体演武の並ぶ位置を確認してから出かけよう」

僕らはノリさんの呼び出しで舞台の左裾から出る順番を実際に行って確認した。

「OK、皆体をほぐして自分の演武する形を練習したな。自分の使う武道具だけを持って出てくれ。帰る時も公民館に忘れるなよ。瓦は手分けして持ってくれ、割れた瓦を入れるカマスも忘れるな」

6尺棒、エーク、サイ、バットを持って玄関に向かった。

「カズさん演武順を書いたプログラムは2枚あるな。1枚は司会へ渡し、1枚は控えの場所に張るから」

「太字で書いて持っています。読み仮名も付けています」

「上等だ、少し早いが出かけよう」

カランカランと音を立てて階段を降りて公民館に向かった。

午後7時、琉球古典舞踊のカギヤデフウの祝いの踊りで舞台演目が開始され、公民館長が開会を宣言する。僕らの出番は10種目程終わってから市長、議会議長、あるいは警察署長が来賓あいさつをして2種目後が通例だ。

幕の降りた舞台に上半身裸で整列し、館長の合図で幕が上がる。三戦(サンチン)で演舞が始まるのだ。舞台上から演武者の「ハー」という腹から絞り出す長い息吹が広い客席の隅々まで届く、そして館長と師範代のノリさんが演武者の体を叩いて締めていく音が響く。僧帽筋を平手でたたく乾いた音、胸や腹や広背筋を拳で突く鈍い音、回し蹴りで大腿四頭筋を叩く重たい音に観客は固唾をのんで凝視している。観客の恐怖心を湛えた視線が見て取れる。来賓の渡久地市長、大城議会議長や顔見知りの視線がある。大腿四頭筋を内側に締めて立ち、館長が股間に蹴りを入れる動作が観客には金的を蹴られているように見えるらしい。ひきつった表情で舞台を見ている。実際は足先ではなく脛で蹴るので股間の奥の金的まで届かずに蹴りが内股で止まるのだ。三戦は随分と時間を要する。三戦が終わると三戦に参加せずに次の演武に備えて待機していた者が舞台に躍り出て直ぐに演武を始める。そして切れ目なく予定の手順で演目が続いていく。演武者と形の紹介は館長の奥さんがマイクで話すのだ。

最後の演武である館長の「鎌の手」は鎌でキュウリを試し切りすることで本物の刃物であることを実演してから演武が始まる。3尺のロープで柄の根元に繋がった鎌が回転して首に巻き付く、頭上で旋回していた鎌が腕に巻き付き手に戻る。研ぎ澄まされた鎌の刃が舞台の照明を浴びてキラキラと不気味に光る。鎌の鋭い刃先が演武者の体に突き刺さらぬか観客は恐怖の眼で凝視している。やがて演武が終了すると大きな拍手が響き同時に観客の安堵の溜息が聞こえるのだ。門弟も客と同様に安堵の拍手を送る。鎌の演武が終了して試し割となる。私の瓦割から始まる。瓦を2枚のブロックの間に乗せて上から拳を落とすのだ。拳は捻らずに縦拳で瓦に体重を乗せるように圧を掛けるのだ。ノリさんが言った。

「ブロックは床板の梁の角材の上に置け、板の上では拳の圧が逃げてしまうから。足で床を軽くたたけば梁の部分が分かるはずだ」

ヤスシとツヨシがブルーシートを広げその上にブロックを並べて10枚の琉球瓦を置いた。舞台の左端にアキが同じようにセメン瓦5枚を置いた。

所々に白い漆喰の残った古い琉球瓦はアーチが一定でなく、重ねた瓦に隙間が少なく大きな煉瓦の塊である。私は懐から重ね折りしたタオルを瓦の上に置いた。そして両足の立ち位置を拳に全体重が載るように決めた。1、2、の3の呼吸で瓦に拳を打ち込んだ。瓦はゴンと音を立てて1枚目が5、6、片に割れた。テレビの空手ショーの様にガラリと音を立て縦に綺麗に割れることは無かった。只砕けただけである。瓦のかけらを取り除くと8枚が割れて2枚が残っていた。それを掌底打ち抜いた。カランと乾いた音がして数枚に砕けた。

アキはセメント瓦5枚に挑むも割れなかった。彼は怒って足で踏みつけて粉砕した。背丈の低いアキにとって拳と瓦の間隔が狭くて十分に体重を乗せることが出来なかったようである。それに大戦後の沖縄で独自に発達したセメン瓦はとてつもなく強度が高い。人が上に載ったぐらいで割れることは無い。そもそも波状のセメン瓦は、的確に割るためのヒットポイントが何処であるか私も良く分からない。私が子供の頃の実家は木造セメン瓦葺きの家であった。台風で飛んできた小枝を取り除くために何度も屋根に上ったが、瓦が割れるなど考えたことも無かったのだから。試し割で砕けた瓦はブロックを取り除きブルーシートごと舞台から移動する。杉板の試し割はシゲさんが軽快なフットワークで見事に打ち抜いた。私とノブさんで膝の高さに支えたバットをツヨシが回し蹴りで難なく蹴り折った。

ノブさんが胸の高さでグリップを握って立てたバットを館長の右前腕が鈍い音立てて折った。前腕バットを折るのはスピードと骨の強さが必要だ。僕らの道場の試し折り用のバットは少年野球用のバットであり、試し割の直前に観客の前で新品バットの表面を覆うビニールをカッターで取り除き新品であることを証明する所から始まるのだ。武道具店で入手できる細く長い試し割用のバットではない。私もいつか折ってみたいと思うも未だ足の脛で折ることが出来るだけだ。今のところ館長以外に前腕で競技用の木製バットを折ることが出来る門弟はいない。以前に組手の指導を受けた時の館長の前腕は自動車のゴムタイヤで覆われたような感触がした。試し割りが終わると舞台の床を丁寧に観察して瓦やバットの木の屑が残っていないか確認するのだ。次なる舞台演劇者に気を遣う演武でもあるのだ。試し割が終わると全員が舞台に出て館長の号令で撃砕第一を通常よりも早い動き演武して退場する。

(5)市民劇

宇茂佐集落の敬老会が終わった翌週のことだ。館長が練習の終了後に門弟に言った。

「役場からの頼みがあってな。名護市民で古武道の演武が出来る者が欲しいと頼まれたのだ」

「役場からですか」とノリさんが言った。

「名護市市民劇に出演する古武道の使い手を探しているらしい」

「市民劇ですか。一度見たことがあります」とシゲさんが答えた。

「名護市内で古武道を教えている道場はうちだけだ。区長さんを通して私に頼み込んで来たのよ」

「出演日は何日ですか」

「11月の最後の週末だと言っていたな」

「私は製糖期が始まっていて具志川市まで毎日収穫されたサトウキビを運搬するので無理ですね。運行スケジュールは工場任せですから」

「何時からですか」とノブさんが訊ねた。

「日曜日の3時からと6時からの昼夜の2回公演らしい」

「ノブ、シゲ、カズで出演したらどうですか」

「私は会社で主催する恩納村の県民の森で駅伝大会がありますが、1時半には終わる予定です」と私は言った。

「うん、明後日の晩に顔合わせがあるそうだからノブ、シゲ。カズで見てこようか。内容が良くなければ断っても良いだろう」

「拳勝会を代表するスター軍団だから頑張れよ」ノリさんが笑いながらけしかけた。

金曜日の晩、午後8時に市民会館の劇場棟の別棟の多目的研修室を館長と共に訪ねた。道着は着用せずスラックスに拳勝会のマークの入った特製の黒いTシャツ姿で武具も持たずにだ。

30畳ほどの室内には既に多くの出演者らしき男女がいて台本を手に何かを話していた。

「こんばんは、拳勝会空手道場の岸本です。責任者はどなたですか」

会場内の人々が館長の大きな声に動作を止めて振り返った。中年の女性が立ち上がってやって来た。「演出を担当している座長の安次富です。よくお越しくださいました」

「3名の武道家が必要と聞いたので連れてきました。何をすればよろしいのですか」

「劇中では護衛官の配役で劇の最後に3名それぞれの演武をしてほしいのです」

「では、棒、サイ、トゥンファーという沖縄の代表的な古武道を演武しましょうか」

「どんな形の動きですか」

「ノブ、シゲ、カズ、少しだけ素手で演武してみて見せなさい」

シゲさんが棒、ノブさんがトゥンファー、私がサイ、実際に武具を持っている動きで3分の1ほど演じて見せた。

「よろしいでしょう。出演をお願いします」

「衣装はどうしますか。普段は下が白の道着で上が古武道用の黒い道着です」

「良いですね。劇中の役者の姿に似合いますね」

「実際の手合わせは何日にしますか」

「皆様は武道の専門家ですから11月22日のリハーサルに来て下さればよろしいです」そう言ってリハーサルと本番の日程表を渡してくれた。

僕らは他の劇団員の練習風景を見ることなく会場を後にした。

「何だか大層な女座長だな」と階段を降りながら館長が言った。

「以前は小さな劇団に所属していたが、現在は県内各地の沖縄芝居の演劇指導をしているようです」とシゲさんが言った。

「シゲさん、沖縄演劇に詳しいのですね」と私が言った。

「うん、以前に県立郷土劇場で屋部の8月15夜祭りの組踊を演じたことあって、その時に見かけたのさ」

「そいえば、屋部の組踊は沖縄県の無形文化財に指定されたそうだね」

「うん、そのお披露目で出演したのさ」

「シゲさんも出演したのですか」

「シゲさんは既に村の演劇指導者だから出演しなさ」ノブさんが笑いながら言った。私はふとクニさんの家の新築祝いの席でのことを思い出した。

宴席で祝いの歌「かぎやで風」を三味線で弾く者がいた。シゲさんがすっと立ち上がり、古典舞踊に使う金色の祝い扇子の代わりに配膳の中にあった紙皿を手にして悠然と踊って見せた。私も館長の指示で撃砕の形を演じたが勢い余って床板をミシリ踏みしめた記憶がある。クニさんは中座して近くにいなかったが来客者がギョッとした顔をした。その場に合わせて力を抜いて演じるのは十分な修行を経る必要があるのだ。

「あの女座長は専門家の意見と称して何かと僕らの伝統的な組踊の演劇に口を挟んで来たので、小うるさい女だとの記憶が残っているな」とシゲさんが言った。

「芝居は専門でも武道は素人だ。君たちは拳勝会の武道を見せれば良い」と館長が釘をさした。

本番の1週間前の土曜日の午後3時からリハーサルがあった。僕らの出番は午後4時からであり、それまでに来ればよいとの連絡が館長宛に入っていた。市民会館の東側の関係者入口から劇場に入った。腕に関係者との腕章を付けた男に用件を話して、彼の案内で通路を進んだ。劇場ホールと平行に続く通路の一番奥の舞台近くに楽屋があった。20畳ほどの部屋が2部屋あり男女別となっていた。僕らは持参した古武道用の道着に着替えた。ゆっくりと体を解して動ける準備を終えた。控室にいた出演者達が奇異な視線を送って来るのが解った。武道に親しむ者は普段着から道着に着替えると体に自然とアドレナリンが発生してしまい、視線が鋭くなり顔つきが別人へと変化するのだ。僕らは15年、20年の歳月で互いに慣れてしまって感じないが、他人から見ると殺気に近い気配をまとっているのかもしれない。

台本を手にしたアシスタント・ディレクターらしき男が入って来た。

「進行係をしている名護市役所の市民劇担当の平安山です。市民劇へのご協力ありがとうございます」そう言って名刺を渡した。総務係長である。

「剛柔流拳勝会宇茂佐道場の比嘉、岸本、仲村です」と挨拶した。

「早速ですが、出演の説明をしますのでついてきてください」

僕らは平安山の後に付いて通路横の登場口に向かった。舞台には緞帳の左右後方からの出入り口と舞台に向かって客席の左側から伸びた9m程の細い通路がある。客はその通路から舞台へ向かう出演者が見えるのだ。歌舞伎などによくある登場通路だ。

「貴方達は主演のモーイ親方の護衛役として後ろから3m程離れて付いて行きます。では参りましょう」

僕らは平安山の後ろから登場通路を進んで舞台に出た。

「舞台の左横に並んで片肘突いて控えます。モーイ親方の芝居が終わると、薩摩の殿様が琉球の武術を見せてくれと言います。そこで三人が順番に演武して元の位置に戻ります」

僕らは平安山の指示通りに片肘突いて控える動作をした。

「よろしいでしょう。幕が下りると劇の終了です。退場の動作はありません」

舞台の右側に舞台の様子が見える控えの部屋があり座長、音響照明その他の舞台装置係、三味線、太鼓、笛の演奏者が控えている。舞台進行の要である。舞台の裏側はかなり広くこの舞台監視部屋からぐるりと回って楽屋へと続いている。

「ではモーイ親方が終わってこちらに退きます。薩摩の役人は右端に退きます。舞台中央が空きましたので武道を演じて下さい」そう言って監視部屋に向かって指差した。「琉球の武術を見せてみよ」と平安山が台本を読んで薩摩の殿の口上を言った。

始めにノブさんがトゥンファー、次にシゲさんが棒、そして私がサイを演舞した。僕らは舞台の広さを意識しながら前後左右への移動の歩幅を注意深く確認して演武した。そして古武道の演武の最後に極めの気合を「キェーイ」と腹の底から発して演武を終了。一礼して元の控えに何事もなかったように戻った。

「素晴らしい、ありがとうございます。幕が下りたら右側から退場です」平安山が驚きで顔を紅潮させて言った。

僕らは右側の幕尻に歩いて行った。すると監視部屋の中から安次富座長が出てきて言った

「貴方達の今の空手の演武では客席が盛り上がりません。武の踊りとしての演出をしたいと思います。三味線の音楽に合わせて演じてもらえませんか」

座長が三味線引きを指差すとトンチンテンテンと軽やかなリズムでエイサーの曲を弾きだした。

「この曲に合わせて道具を使って見せてくれませんか」そう言った。

三味線奏者たちは座長のご意見が始まったとニヤニヤしながら座長と僕らの応対を眺めていた。

「わしらは空手家であって芝居人ではないです。棒もサイもトゥンファーも三味線の音階なんぞに合わせること出来ません。それを望むならどこからか芝居人を探してください」シゲさんがキッパリと返事した。安次富女座長がムッとした顔でこの場の仕切り役は自分だと言わんばかりに僕らを見つめた。ノブさんと私は座長とその後ろでからかうような不遜な笑みを浮かべている音楽奏者に向かって本気になって殺気を込めた視線を送った。「舐めちゃいけないぜ、芝居人ごときが。俺らは4段、5段、6段合わせて15段の武芸者だ」とのプライドが表情に出たのだろう。知らず知らずのうちに人を刺すようなキツイ眼つきで一人一人に視線を移しながら見据えていた。居合わせた者達に漂っていた市民劇に飛び入り参加した者への不遜な雰囲気が一瞬で凍り付いた。演武の最後に発した極めの「キェーイ」と言う掛け声が耳によみがえり、叩き潰される恐怖が彼らの心に生じたのだろう。私は引きつった者たちの表情を見て口元に僅かな嘲りの笑みを作った。蛇に睨まれた蛙がそこに居た。平安山がその場を察して慌てて座長の前にやって来た

「座長、武の場面は彼らに任せて他の場面をもう一度やりましょう」と言った。

僕らは軽く頭を下げ「では本番で」と一礼してゆっくりとその場から離れて舞台裏に回っ楽屋に向かった。

後ろから安堵のため息と「武芸者は恐ろしくて芝居には使いたくないね」と女座長が方言で言うのが聞こえた。シゲさんは県立郷土劇場での不快感を此処で晴らしたのかも知れない。翌週の練習日にこの件をノブさんが館長に話すと

「シゲの言うとおりだ、芝居人の分際で武道家を舐めるな」と真顔で言った。

沖縄県民の森は恩納村にあり、県農林水産部林務課の管轄である。県民が沖縄の自然に親しめるようにとの目的で整備された公園だ。森林遊歩道、キャンプ場、広い芝生の運動広場、児童向け遊具、林業学習館等が設置されている。公園管理は指定管理者制度を実施している。私が勤務する造園会社は2年契約の指定管理者事業で管理を行っていた。入札のプロポーザルでは県民の健康増進を図るイベントを開催すると提示した。イベントは「絆駅伝」と称する家族4人によるリレーを企画したのだ。1.5km2名、3km2名の構成だ。協賛企業を恩納村内から募って商品を準備した。私は大会委員長として11時にスタートとさせ12時前にすべての参加者の完走を確認して表彰式を行った。雨上がりの公園内道路は滑りやすく気がかりであった。念のために沖縄記念公園に勤務する友人の内間看護師を有給休暇で休ませて待機していたが杞憂に終わって安堵した。35組の参加者は直ぐに引き上げず、木陰で持参した弁当を広げて談笑し、園内の遊具で遊ぶなど家族の団欒を楽しんでいた。

午後1時30分、私は社員に会場の片づけを頼み名護市民会館に向かった。市民劇は午後2時半開演の昼の部と午後6時開演の夜の部の2回公演である。市民劇と銘打っているが、市内のアマチュア・コーラスグループや養護施設職員の演芸、琉球舞踊、日本舞踊、歌三味線、フラダンスまであり市民の舞台芸能活動の披露の機会である。市民劇は名護市にて活動する企業団体の幹部が参加する顔見世ボランティア活動だ。稲嶺進名護市長、県内3銀行の北部地区支店長、新聞社の北部支社長、郵便局長、琉球セメント、オリオンビール、ホテルの役職員など多彩だ。面白いのは市長が劇の主役をするのではなく端役である。尤も市長が主役を演じるための練習時間などあろうはずもないのだ。

ノブ、シゲさんと2時15分の待ち合わせで楽屋に向かった。派手な衣装でフラダンスを演じた年若くない女性の一団が上気した顔で通路を舞台方向から賑やかにやって来た。その中の一人の女性が「あら、常務も出演なさるのですか」と声を掛けて来た。以前に非常勤で1年ほど雇用した北海道からやって来た大柄な女性だ。「うん、市民劇にチョイ役で参加する」

「すごーい、これですか」とボクシングの真似をして拳を構えて見せた。

「ま、そういうところだ」と曖昧に答えた。

「頑張ってください」と言って仲間と女性用の楽屋に入って行った。

楽屋には既にシゲさんとノブさんが来ていた。

「お疲れ様です。県民の森の駅伝大会を終わらせてすっ飛んできたよ」

「僕らの出番はもっと先だよ。着替えて待つことにしようか」シゲさんが言った。

着替えて体をほぐしていると副座長兼進行係の平安山係長がやって来た。

「今日は本番です、宜しくお願いします。衣装とメイクの係を紹介します。名渡山さんです」

中年の女性を紹介した。

「ビール工場の近くで美容院をしています。毎年お手伝いをさせていただいております」そう言った。ノブさんの目じりが笑っている。見知っているようだ。

「昼の公園が終わると夕食の軽い弁当をお持ちしますので、後で召し上がってください」そう言って出て行った。

沖縄の伝統芸能エイサー踊りで青年が頭に着けるサージと呼ばれる紺色の布を巻き付け、白黒縦縞の脚絆だ。メイクの女性が僕らの眉を太く塗った。

「おっ、カズさん強そうに見えるぜ」とノブさんが言った。

「サージを巻くとノブ兄さんの頭も照明で反射しないので良かったね」とシゲさんが笑いながら言った。黒い道着の胸と左肩に縫い付けた道場の紋章が目立ち、いかにも王府の護衛官らしく見えた。

劇の内容は史実である。モーイ親方は琉球王府時代の役人で童話の一休さんの頓智に類する知恵者である。モーイ親方が薩摩役人の押し付けた三つの難題を解く物語だ。一つ目は「琉球一の山を薩摩まで運べ」の問いに、「山を運ぶ大きな船を貸してくれ」と答え。二つ目は「雄鶏の卵を持参せよ」との問いに、「その役目の父が産気づいて那覇港で泊まっています」。薩摩の役人が「バカを申すな」怒ると「雄鶏が卵を埋めますかい」と返答した。最後の灰で編んだ縄を出せには、持参した藁縄をその場で焼いて見せ「どうぞと差し出した」。原型を留めた灰の藁縄が出来上がった。この粗筋を面白おかしく喜劇にまとめたのが廃藩置県後の大衆演劇である。むろん、僕らが出演する琉球古武道の演目は名護市民劇のアレンジである。

僕らにとって舞台演武は特段緊張することも無かった。これまでも沖縄市民会館、豊見城市民会館、宜野湾市民会館、県立武道館など様々な状況で演武してきたのだ。ただ、私は演武の最後に後方に反転してサイを敵の足に打ち込む動作で、打ち込む先に薩摩の殿様が座しており、反転を大きくして殿様の斜め横の方角に打ち込んだ。昼の部が終わって楽屋に戻ると携帯電話が鳴った。着信を見ると館長からである。「シゲはいるかい。代わってくれ」私はシゲさんに携帯を渡した。

何やら館長から怒鳴られている様子である。演武自体はいつもの通りの出来だったと思った。シゲさんが携帯を返して言った。

「舞台に出る順番を俺、ノブさん、カズさんの順に進めとのことだ」

「何のことだ、平安山は特に何も言わなかったぜ」

「背丈の小さい順に登場してくれとさ。登場する時に締まりが無いように見たそうだ」

「げぇ、館長がしっかりと見ていたのだ」

「演武は問題ない。慌てずに極めをしっかりとしろとのことだ」

「館長は細かいところを見るものだね」

「まあ、俺らは拳勝会の代表だからな」ノブさんが笑いながら言った。

「館長は夜の部は見ないそうだ」範士10段の武道家にはこだわりがあるのだ。

腹がくちくならないように弁当を少しだけ摘まんで雑談をして夜の部の出番を待っていた。退屈まぎれに舞台を覗きに廊下に出ると「先輩」呼ばれて振り返った。門弟の具志堅君である。高齢者専門の勝山病院で介助の仕事をしている男だ。頭の回転と動作が人並に少し足りなくてノブさんもシゲさんも指導にお手上げの青年だ。「おお、具志堅君どうした。その恰好は市民劇に出演かな」

「名護学院の後輩を引き連れて出演しています」

「何という演目だ」

「種取り祭りの踊りです。私が責任者です」

「そうか、後で見せてもらうよ。頑張ってくれ」

具志堅君は他の仲間と出演の為の舞台裾に歩いて行った。私は引き返してノブさんに言った。「道場の具志堅が出るそうだぜ」

「はあ、形の一つも覚えきれないのに彼の出来る演目があるのかい。どれ見物しようか」ノブさんとシゲさんが畳部屋から出て来た。

具志堅の出演は直ぐに始まった。総勢40名ほどの男女が古い時代の農民姿で稲刈りの収穫の喜びを演じていた。

「具志堅も特殊学級出身の仲間ではリーダーだね。しかし、この程度の動作が限度かも知れないね」シゲさんが言った。

「一年たっても撃砕第一が覚えられないのだから、教える側もお手上げだぜ」

「館長も区長さんから頼まれたので断り切れなかったらしい。向き不向きがあるのだが、本人はそれにも気づかないのだから」ノブさんが言った。

確かに人間は出来ること、出来ないことの分かれ目はある。本人がそれに気づいて出来る能力の分野を向上させる努力をすることが望ましいことには違いないのだが。人は自分のことはよく見えないものだ。

1年後に彼は自分の能力を知ったのか退会することになった。私は館長に頼まれて空手免状の雛形をインターネットからダウンロードして一級の免状を作成した。剛柔流拳勝会道場としての認可である。館長の精いっぱいの恩情であっただろう。僕らの道場では初段から免状が貰える。剛柔会本部と全沖縄空手道連盟からの認可だ。

夜の部の公演が終わると出演者全員で市長を中心に各界の幹部が前列に並んで集合写真を撮って終了だ。私の手元に写真が届くことは無かったがくたびれた1日が終了したことに安堵した。楽屋で着替えて会場を出たのが午後9時過ぎであった。喉の渇きを覚えたので缶ビール求めてコンビニに入った。釣銭を貰う時に店員が奇妙な表情をしたのが気になったが帰りを急いだ。

帰宅した私を見た妻がプッと吹き出し「顔を洗っていらっしゃい。夕飯を温めます」と言った。

トイレで用を済ませ洗面台で手を洗い、ふと顔を上げると勇ましい眉の警護の武士の顔があった。コンビニの店員の表情の意味が解った。石鹸で丁寧に顔を洗った。一日の雑多な出来事がゴロゴロと洗面台の排水溝に流れ落ちて行った。

出張演武はその他にもあった。若い門人本人や門人の子息の結婚披露宴の余興、那覇市内のホテルでの旧屋部村出身者郷友会祝賀会での舞台演武、名護市商店街の活性化イベントでの招待演武など様々だ。只、あちらこちらで演武したがそれがきっかけで新しい入門者が来ることは無かった。

(6)空手団体の演武会

沖縄の空手は発祥の過程で分類すると首里手、那覇手、その他の手と大別される。首里手の少林流系列、那覇手の剛柔流、その他の開祖からなる上地流、劉衛流などである。そして現在では開祖の門弟が分派して多くの流派別集団を形成している。僕らは宮城長順先生を開祖と剛柔流の一派で剛柔会という空手家の団体に所属している。剛柔流でもいくつかの派閥に分かれているが首里手、泊手、上地流でも大小さまざまな団体を形成している。武道家は自分が一番と思うのが当然であろうが、大きな組織に迎合しない沖縄の県民性にも起因しているのだろう。この琉球王府を起点とする地域では、寄らば大樹の陰とか、村八分等の言葉は意味を成さないようだ。その代わり「イチャリバ、チョウディ(出会えば兄弟)」と、来る者を拒まずの大らかさがある。亜熱帯の海洋民族の習いだろう。民俗学者柳田国男の海上の道にも示されている。幸運は南の海からやってくるとの土着思想に通ずるものだろう。

全沖縄空手道連盟には少林流、上地流、剛柔会、沖縄拳法の道場が加盟している。2年毎、3年毎、そして今では5年毎に合同演武会を開催している。2月から3月にかけての開催だ。大抵は市民会館で開催している。

各道場の演武が1種目又は2種目で代表館長の演武でプロブラムが構成されている。拳勝会はサンチンと試し割をすることが通例であった。沖縄市民会館での演武のことである。

サンチンと角材の試し割をすることになった。サンチンは館長とアキが叩き役でいつもの様に終わった。試し割はノリさん脛、ノブさんが前腕、クニさんとガンさんが腹、ヨシノリと私が大腿筋、アキが背筋であった。角材は館長が安売りをする建材店から50cm角の杉材を買ってきて150cmの長さに切って角材の角をグラインダーで面取りをしてある。会場に入る前にワゴン車につんで持ってきた角材を自ら選んで持っていくのだ。会場内の控え室でも他の道場の人間には絶対に触れさせないようにする。他の道場の人間と会話することも無い。試し割は自分で選んだ角材を担いで舞台の中央に進み出て一礼し、館長に渡すのだ。折った角材は自分で拾って幕尻に退散する流れだ。ノリさん、ノブさん、アキと小気味よく折れて後方に飛んでいく、そしてガンさんの番が来た。ガンさんの角材は持参した中で唯一の正目でいかにも柔らかそうあった。しかし腹を叩くと大きく撓って折れない。太腿に切り換えた。館長はこれまでより強く叩いた。角材はポキリと折れるではなく70㎝程の長さで裂けて折れて床に当り跳ね返ってはるか後方の分厚い緞帳の裾付近に当って止まった。僕らはホッとした。そしてその後はヨシノリまで順調に試し割を終了した。僕らは帰りの車の中で試し割の角材のことを話題にした、ノリさんが館長に話した。

「試し割の角材は節の多いほうが割れやすいですね。今度初めて知りました」

「安い角材だから正目の材はめったに無いのだがね。ガンさんすまなかったね」

「いえ、腹は面積が広いので衝撃を吸収したかのも知れないです」

「うむ、勉強になった」館長が言った。

しかし角材の試し割の件はこれで終わりではなかった。後日沖縄市の関係者からクレームが付いたのだ。角材の試し割で1枚200万円以上もする緞帳を傷つけられてはたまらん。今後沖縄市民会館を利用する時は許可しないと連盟に申し入れがあったそうだ。3本1,000円の安い角材で出来た試し割は中止となった。それに小学校の少年少女も参加する演武会にはそぐわないとの保護者の意見もあったそうだ。それ以来全沖縄空手道連盟の演武会では試し割が演目に出なくなった。僕らの道場では「形・組手・鍛え」を空手の基本としている。形で空手の動きを学び、組手で実践応用を試し、鍛えで空手を使える体を作るのだ。尤も最近の空手道場では上地流と剛柔流の一部の道場が試し割を行うだけである。強靭な武器としての体の鍛錬は人気が無いようである。武術としての空手より格好の良いスポーツとしての空手が人気であるから仕方のない社会風潮である。しかし、私の拳とて何に使うために巻き藁を突いて鍛錬するのかと問われると答えを探し難い。

演武会が終わると北谷漁港隣のステーキハウス金松に立ちよるのがいつものパターンだ。250gのステーキにA1ソースとおろしニンニクをたっぷりと乗せて食べるのだ。

連盟の演武会は沖縄市民会館、豊見城市民会館、宜野湾市民会館、県立武道館と移り、現在は県立空手会館で5年に1度の開催となっている。一般社会人の演武会は少なくなっている。沖縄県の空手人口は多いと報道されるがそれは青少年のスポーツとしての空手愛好者である。武術家としての空手家は年々老い減少の一途である。沖縄本島の本部半島は上地流、沖縄拳法、劉衛流の開祖を輩出した地域であるが、今日ではその系列の道場を見かけない。東京からやって来た剛柔流を学んだ大山倍達先生を開祖とする実践空手を名乗る極真流空手道場の看板を市内で見かけるだけだ。時代が変化していくのを感じる日々である。

2020年7月7日 | カテゴリー : 武道日誌 | 投稿者 : nakamura