琉心会・備忘録

(1)新しい日常

その頃の私は趣味のゴルフに熱中していた。ゴルフを始めたのは30代で造園業界に転職してからだ。40歳の頃、バブル景気で会社の事業が軌道に乗りだし接待ゴルフに明け暮れていた。ゴルフは基本的に個人競技であり、私の性格「和すれど同ぜず」に合っていたのが熱中する原因であったのだろう。週3回は近くのゴルフ練習場に通い、400球1500円の会員料金でボールを打っていた。右手は空手の拳ダコならぬゴルフダコが出来て風呂上りにカッターナイフで削り取っていた。気がつくと会社に近い本部町内のゴルフクラブの会員権を150万円で買って入会し、オフィシャルハンディキャップが11となっていた。毎月のゴルフコンペは私が幹事を務めるニライ会、海洋博公園コンペ、造園協会主催の金曜みどり会、所属クラブの月例会やクラブ選手権、沖縄本島北部地区造園業者会の植木職人が参加する緑花会コンペの5件が毎月の定例ゴルフコンペである。その他にも飲み屋の女将が主催する不定期のゴルフコンペ、遊び仲間からの誘いのゴルフだ。毎月6回ほどゴルフをしていただろう。何しろ職場から車で10分の距離にパー72、65、57のゴルフ場があるのだから。各ゴルフ場の何処かのホールから職場が見えるのだ。自宅から車で1時間以内なら11か所もある。営業と称して会社の経費で毎月4、5回のゴルフをしていただろう。沖縄にはゴルフ場が20ケ所以上もあり、プレー代も格安である。プロのトッププレイヤーも宮里藍を筆頭に優作、聖志兄弟、美香、新垣、真美子、しのぶ等と多い。シーズンオフにゴルフ場で見かけると気軽に声を掛け合う選手たちである。沖縄では草野球やテニスよりもはるかに身近な遊びのスポーツだ。他府県で言われる金持ちの趣味ではない。仕事仲間と暇つぶしにショートコースのゴルフ場に行くのが日常となっていた。夏場は午後4時から所属クラブのアウトのハーフをキャディーなしのセルフで回ることも多かった。プレー代はカートの使用料のみの2,500円である。ゴルフ場にいる友人から電話でメンバーが足りないから15分で来てくれと呼び出されることも度々であった。ひどいときは台湾を旅行中に携帯電話に呼び出しが入ったこともあったのだ。車にはゴルフバックとシューズ、会社のロッカーにはゴルフウェアが常にぶら下がっていた。私だけでなく職場が近い10名ほどのゴルフ仲間は皆そうであった。僕らの仲間は米軍基地内のゴルフ場を除くほぼ全てのゴルフ場でゴルフをしていた。

ある時事務員が真顔で言った「専務と部長は年間200万円近くのゴルフがらみの交際費を使っています。多いと思いませんか」。私は専務の顔を見て「分かった、ゴルフのプレー代だけにしてその後の飲み代は自分持ちにしよう」答えた。それでも非常勤役員や発注元企業の役員接待ゴルフもあって交際費が倹約できることも無かった。毎年の決算は僅かであるが剰余金を出し続けており、専属契約の税理事務所から指摘されることはなかった。その代り毎月一度はゴルフクラブのレストランで二人の女性事務員を伴って昼食会議を開いてご機嫌を取っていた。

とある夏の日の午後のことだ。造園協会の定例コンペが職場近くの私が所属するベルビーチゴルフクラブで開催されたので必然的に参加した。スコアはアウトが3オーバー、インが7オーバーのトータル82のごくありきたりのスコアであった。ゴルフの話題はもっぱら先月の山口県に遠征したゴルフ旅行のことであり、懇親会でフグ料理を食べすぎて翌朝顎が痛かったとか。フグ料理よりミーバイ(ハタ)、タマンが美味いとかである。夏の本州は暑いので来年は北海道に行こうという意見まであった。最後に幹事が来月は第3金曜日に大京カントリー俱楽部にて開催しますと宣言して散会した。私は右わき腹肋骨付近に軽い痛みがあるのが少し気になっていた。クラブを引き下ろすときに右わきを締めすぎて肋骨を圧迫しているのかも知れない。それでアウトの5番打ち下ろしのパー5とインの16番右ドックレッグで強いフックボールが出てOBを出したのだろう。それが無ければ久しぶりに80を切っていただろうとタラレバの反省をしながら自宅に向かっていた。琉球セメント工場の前を通過する時に携帯電話が鳴った。着信表示を見ると自宅からだ。

「帰宅は遅いの」妻からである。

「いや、山入端集落を過ぎたから10分で帰宅出来るよ」

「お婆さんが北部医師会病院に入院したそうよ。身内は面会した方が良いとの連絡が兄さんからあったの」

「分かった。夕食前に面会に行って様子を見ることにしよう」

帰宅すると長女で中学2年の紗香が既に帰宅しており、3名の娘の面倒と留守番を頼んですぐに妻と家を出た。病院までは5分の距離である。

病室は6階の内科病棟であった。既に母と兄夫婦がいて、二人の叔父がベットの横に立っていた。祖母は寝ており腕にはリンゲルの管が繋がっていた。どうしたのだと叔父に訊ねた。

「呼吸が荒くなって眩暈がするというので救急車を要請して入院となったのだ」と言った。レントゲン検査で肺に結核の兆候があることが分かり中部の結核専門の病院へ転院する手続きをしているところらしい。救急車で運ばれたが命に別状はないとのことだ。

「大騒ぎになって済まない」と94歳の祖母と同居している叔父が謝った。皆口々に「危篤の呼び出しかと思ってびっくりしたよ」と安堵した顔で笑った。

「カズ、忙しいのではないかい」と叔父が言った。

「忙しいのは接待ゴルフのせいさ。ゴルフ場から帰ったばかりです」

「遊びで給料がもらえるなんていい職場ね」と妻が皮肉った。

「どうも右脇腹が痛いので僕もレントゲンを撮ってもらおうかな」と言うと

「ゴルフで肋骨を骨折する人もいるらしいよ」と兄が言った。

「カズの体格では骨折はしないだろ」叔父が笑った。

「肋骨は意外と骨折する場所なのよ」と元看護婦の兄嫁が言った。

「遊び過ぎを反省することね」と妻が言ったので皆が笑った。祖母の緊急入院も大事に至らなかったことが皆を気楽にしていた。私は脇腹の痛みが少し増している気がした。「子供たちの夕飯があるでしょう」と母に促されて僕らは引き上げた。帰りの車でも痛みは少し増した感があった。

帰宅すると6時を回っておりテレビを見ていた子供達がソファーから振り返って一斉に「おなかすいたー」と合唱して声を上げた。妻が夕飯は「コロッケとトンカツデース」と言うと「やったー!」声を上げてはしゃいだ。私は妻に「北部病院の隣の救急診療室で診てもらってくる」と言ってテレビの横のサイドボードから健康保険証を取り出して玄関に向かった。紗香が「お父さんどこか悪いの」心配そうに尋ねた。「少しわき腹が痛いので暗くならないうちに薬を貰って来る」と言って玄関を出た。

6時30分に県立北部病院の敷地内にある救急センター棟の前に車を停めて待合室に入った。一般病棟受付から救急センターへ替わったばかりで2名の老人がいるだけだ。救急車で運ばれる患者は県立北部病院の救急室に搬送されるのだ。症状の軽い患者を診断して入院の必要があれば病棟へ運ぶようだ。カウンターで受付をするとすぐに診察室に案内された。医師の白衣には白百合の刺繍があった。その下に北部医師会と記名されていた。夜間診療は北部地区の内科・外科・小児科等の個人病院の医師が交代制でこの施設を管理しているとの新聞記事を思い出した。受付カウンターには午後5時から10時までの受付(10時以降は北部病院の救急室受付)と表示されていた。紗香が子供の頃この受付に来た記憶はなく、夜中に発熱して北部病院に駆け込んだ時は10時を回っていたのだと思い出した。県立北部病院の医師の当直交換時間の補充なのだろうと思った。

「昼間にゴルフをしたのですが、その後に肋骨の辺りが痛くなりました。もしかして肋骨にヒビでも入ったのでしょうか」と医師に話した。

「ではレントゲン検査で見てみましょう」と言ってレントゲン技師に引き継いだ。

レントゲン写真を撮り待合室に戻って待った。痛みは次第に増していった。ほどなく呼ばれて問診に入った。血圧を測り、レントゲン写真を見ながら説明した。

「肋骨に問題はありません。軽い炎症でしょう。血圧が190-160です。高血圧症の傾向がありますね。何か治療を受けていますか」

「いえ、特にありません」

「土日は市内の病院が休みですから月曜日にでも内科医院で血圧の検査を受けるようにしてください。それ以外は問題ないです。念のためにわき腹を固定するコルセットを着けましょう」といって棚から取り出してビニールを外して私の肋骨を締め付けるように取り付けてくれた。

「どうですか」と問われて「痛みが軽くなった気がします」と答えた。

「明日には痛みも軽くなっているでしょう。お大事に」と言って診断書類に何かを記録していた。

「ありがとうございました」そう言って診察室を出て会計カウンターで治療費を払って帰宅した。

帰宅すると夕食が始まるところであった。子供たちと一緒に食卓に就いた。少し遅めの夕食に子供たちははしゃぎながら箸を動かしていた。私は食欲がなくコロッケを半分だけ食べて残りを4人の子供に分け与えた。

「何だか疲れたから先に寝る」と言って半ズボンに着替えて寝室のベットに横になった。痛みは次第に増していった。痛みの発生源がはっきりとしない。肋骨ではなく体の深い部分の何処か、まるで胸の内側全体が圧迫感を伴って痛むのである。呼吸が浅く早くなっているのを感じた。私はベットから起き出して外出用のスラックスとポロシャツに着替えて寝室を出た。妻に「もう一度病院へ行くからタクシーを呼んでくれ」と言ってソファーに座った。タクシーを呼ぶのが億劫になっていたのだ。横になるより座った方が楽であった。しばらくすると玄関の呼び鈴が鳴った。妻が「兄さんが迎えに来たわ。連れていてくれるそうよ」と言った。

私は兄の車で再び救急センターに入った。ひどく呼吸が荒れていた。待合室の長椅子に腰掛けている間に兄が診察の手続きしてくれた。

「今日の急患は終わりだそうだ。北部病院の救急室に移動だ」と兄は言った。

私の様子を見た看護師が車椅子を持って来た。私は恥も外聞も抵抗もなくそれに座った。そして3時間前の診察記録を携え、兄の押す車椅子で北部病院の救急室に向かった。50mも移動せずに北部病院の救急室に着いた。

救急センターから連絡があったのか直ぐに医師の診察があった。担当医はレントゲン写真を見て写真の肺の下部を指差し「急性の胸膜炎だな。白くなっているでしょう。専門外の医者が見落としたようだな。今日の当直はだれだったかな」と看護婦に尋ねた。

「確か市内の皮膚科医院の平山先生です」と答えた。

「皮膚科の先生では見落としてしまうな、胸膜は肋骨と肺の間にあって肺を保護しているのだ。胸膜が炎症を起こすと呼吸で肺が膨らむたびに痛みを生じるのです。呼吸が浅くなり心拍数と血圧が上昇するのだ。それで高血圧症と診断されているのだな。エコー検査でもっと詳しく確認しよう」と指示を出した。

「仲村さん、最近飲みすぎてひどく嘔吐したことは無いですか」

「いえ、もう若くもないので大量に酒を飲むこともありません」

「何らかの原因で胸膜が傷つくと炎症が発生するのです」

「そうなのですか」

「胸膜炎は原因が解らないことが多いです。現在は炎症を抑える良い治療薬が開発されているので回復困難な病ではないですよ。安心して下さい」

「ありがとうございます」

私は痛みの原因が分かってホッとした半面、高血圧症と判断した皮膚科の当直医に診断されたことを不運に思った。看護師が痛み止めの注射を打ち、リンゲルの針を手の甲に打ち込んだ。エコーによる診断画面を見ながら医者が穏やかな表情で言った。

「仲村さんラッキーでしたね。2時間後なら開腹手術が必要でしたよ。まあ、2週間ばかりの入院でしょう。看護師さんが入院に関する必要事書類を準備しますので、今夜から4階の内科病棟に入院です」私はまな板の鯉よろしく簡易担架の上で天井を見ていた。10分ほどして看護師が入院手続きの書類を持って来て兄に渡した。「家族の方にこれを渡してください。あとはこちらで行いますから付き添いは必要ないですよ。明日は4階のナースセンターを訪ねて下さい」と言った。兄は入院手続き書類封筒を受け取って言った。

「俺は帰って嫁さんにこれを渡すからお前は大人しくしていな」

私が「ありがとう。頼むよ。ついてない一日だった。お婆さんが笑っているかも知れないな」そう言うと、兄は「そうかもな、じゃあな」と言って出て行った。

30分ほど救急室で待機して4階に移動した。そしてナースセンター横の集中治療室の入院患者専用ベットに移った。ナースセンターからガラス越しに見渡せる部屋である。この日は私一人だけであった。痛み止めが効いているのだろうか意識が朦朧として忽ち霧の中に溶け込んでしまった。

何時か知らぬが誰かに呼び起こされた。意識が朦朧としている中でスタンドの明かりに浮かぶ若い看護師がいた。

「リンゲルを取り換えます。針を差し替えますので少し痛みますが我慢して下さい」といった。

「はい」と霧中の思考の中で答えた。私が体を動かした際に針が抜けたらしく差し替えるつもりのようだ。新米の看護師であろうか血管を探して二度、三度と針を差し替えた。その度に「すみません」と謝った。5度目にやっと血管を探し当ててうまく注入した。看護師の作業が何か他人事のように感じており、注射嫌いの私にしては痛みを感じていなかった。

「終わりました」と看護師が安堵した声で言って出て行った。この部屋に移って初めての看護師である。酸素が足りないのだろうか頭の回転が鈍く現在の状態を理解できていないようであった。

当直の医者が別の看護師を伴って回診にやって来た。4階に運ばれて1時間後か2時間後か知らぬがあまり時間が経過していなかったと思う。何か話しかけるが良く分からない。酸欠を起して脳が判断力を失っていたのだろう。看護師が枕もとで何やら捜査して鼻にチューブを固定した。鼻腔から酸素が注入された。頭脳が急速に目覚めるのを感じた。酸素がこんなにも美味いと初めて知った。

「仲村さん、痛み止めの他に胸膜の炎症を抑える薬を投与します。毎日レントゲン写真を撮って回復の様子を見ることにしましょう。2週間程度で回復できるでしょう」と言って看護師に何やら支持して別の部屋の患者の回診に出て行った。私は酸素が肺に行き渡り脳細胞が少しずつ活性化するのが分かった。次第に目が冴えていった。そして先ほどリンゲルの針の交換をした状況を思い出した。人間は脳が何かの原因で酸欠状態になり、意識が肉体から飛び出しそうになると自らの意思の力が低下してしまい、知的な判断力を失ってしまう。大病や事故で生と死の間の穴に落ち込んでしまい、肉体から精神が遊離して死線をさまようとはこれに近い状況なのかもしれない。死の恐怖とは脳細胞が活性化した状態で確かな理性と判断力を備えている場合にのみ起こるものであろうとも思った。私は病棟の廊下から漏れて来る明かりの中で酸素注入チューブから押し出される酸素の流れを感じつつ天井を見つめていた。今の状況について何一つ思いを巡らすことは無かった。未だ現実の中に意識が戻って来ていなかった。

朝になり、看護師が持ってきた病院のガウンに着替えた。そして4人部屋の一般病室に移動した。9時過ぎに訪ねて来た妻に入院時に付けていたズボンやポロシャツを渡した。これでその他一般の入院患者の一員になった。

「お医者様はなんておっしゃったの」と妻が訊ねた。

「胸膜炎だとさ、医者も原因が解らぬらしい。2週間はお泊りだ」

「そう、何か必要な物はない」

「電気髭剃りと書斎に建設白書があるから持って来てくれ。退屈な日が続きそうだ」

「食事はどうなっているの」

「特に食事の制限はないらしいが、今日の昼飯から出るらしい。俺は元気だ、痛みもないし心配するな」

「バカね、元気じゃないから入院しているのでしょう」

「子供たちに大丈夫、元気だと言ってくれ。用事があるなら電話するから毎日は来なくても良いから。お前も月曜日から仕事があるだろう」

「入院手続きを済ませたらしたら帰るわ」

「入院中だと、人に言うなよ。みっともないから、会社へは自分で電話するから」

妻は私の着替えを持参した袋に入れて出て行った。

毎日午前中にレントゲン検査があり、看護師が車椅子で1階の処置室まで運んでくれた。車椅子で移動していると重病人なった気がして気持ちが滅入った。会社に連絡すると、専務はとんだ災難だったな、心配せずに治療に専念してくれ、後で金城君を見舞いによこすからと言った。50名程度の組織にとって私の不在など問題外のようであった。組織で最も必要なのは末端の労働者である。彼らが欠けると忽ち稼働力が低下するが、実労の乏しい幹部が欠けても短期的には影響が出ないのである。

肺の周りに白く映っていた靄は日々薄くなって消えて行った。1週間後には霞が消えたように見えた。私には見分けがつかぬが医者は少し残っていると言って、2週間の入院を短くすることは無かった。退屈な日々が続いた。技術士試験対策として建設白書を読むも文字を眺めるだけで記事は記憶の隅にも残らなかった。只、閉口したのは見舞いの老人達が血色もよく健康そうでガタイの大きな男が、リンゲルをぶら下げたローラー付のスタンドを引いて娯楽フロアに座っているのを奇異な目で見ることであった。一度老女に方言で尋ねられた。

「兄さんは何処が悪いの、大きな丈夫そうな体をしているのに」と

「胸膜炎」だ。

「何ねー、それは」

「昔で言う、肋膜炎だ」

「なんだ、怠け者が罹る病気だね」と言って、心配して損したという表情で不満そうに立ち去った。急性胸膜炎はとても痛いのだぜ、一度婆さんも罹ってみるかいと言いたくなった。テレビの置かれた休憩フロアで退屈を紛らわすのを止めて7階の食堂でコーヒーを飲んで過ごすことが多くなった。クーラーの効いた部屋から名護湾が見渡せた。夏の海は明るい青色に輝いており、遠く残波岬を境に東シナ海の水平線が広がっていた。この様にのんびりとしながら一抹の不安を抱えて名護湾を眺めたのはいつのことだっただろうか。遥か以前、現在の職業に着く前の若い20台の後半にあった気がした。店員の若い女の子と顔見知りになったが病名を訪ねることは無かった。2度目の週末に海洋博公園の花火大会があった。屋上に上って西の方角を見た。音も花火も見えなかったが、時折嘉津宇岳の山際が明るくなった。会社では例年通り課長以下の男子社員は夜中の12時近くまで交通誘導をしているなと思った。公園内は昼間から音楽コンサートが開催されており、県内外からの来園客で賑わうのだ。県内最大の花火イベントである。例年なら私は交通混雑に巻き込まれないように少し離れた場所から子供たちと花火を楽しんでいたのだと少し心が沈んだ。

県立病院の契約満了日はしっかりと2週間後にやって来た。妻が持ってきた衣類に着替えて1階の精算ロビーにあるキャッシュコーナーで5万円を引き出して支払いを済ませた。2週間分の三度の食事、投薬、宿泊代で5万円からお釣りが出ることに驚いた。健康保険の有難さがしみじみと分かった。それ以降健康保険料が高いと愚痴ることはしなくなった。

帰宅して居間の籐のソファーに座ってテレビのスイッチを入れた。目に映るもので変わったものは何もなかった。保育所から早めに帰宅した末娘が大喜びで私の膝の上に座って体を揺すった。体は何処も痛くなかった。しかし私を取り巻く気配が僅かに変わっていた。否、私の感性が変わっていたのだろう。会社に電話して専務に見舞いの礼を述べ明日から出社すると伝えた。夕方なって日が落ちてから自宅近くの国道沿いを体馴らしに歩いてみた。わき腹に痛みはなくなったが、少し早足になると呼吸が乱れ、足がふらついた。僅か2週間の入院生活で人の体は機能の低下に陥ることを思い知らされた。体の機能回復の為、日常の生活スタイルを代えねばと思った。

それから1年間、ウォーキングから始まり、ジョギングに移り、1年後には21世紀公園のラグビー場の周りを毎日1時間もノンストップで走れるようになった。職場の定期人間ドックのレントゲン検査で胸膜炎の跡が完全に消えた頃から筋トレを始めた。手製のバーベルでベンチプレス、スクワット、デッドリフト、ベントオーバーローイングで筋力の強化を図った。次第に筋力がついてベンチプレス75kgを上げられるようになっていた。入院以前よりも確実に体力が向上していた。ゴルフも熱が冷めることも無く、コンスタントに80台の依然と同じスコアで回れるようになっていた。そんな時に通勤途中で目に就いたのが剛柔流・琉心会屋部道場の看板だ。

私が中高校生の頃、隣の家に沖縄拳法を習っている天久佐吉さんが住んでいた。私より10歳程年上の元自衛隊員で絵を描く共通の趣味から始まり、夏の夕方に浜辺で相撲を取り、近くの大石の小島までの遠泳をしたり、空手の手ほどきをしてくれた。4人兄弟の末っ子の彼は、私を実の弟の様に可愛がってくれた。小柄だが良く引き締まった体をしており、WBC,WBA元世界チャンピオンボクサーの藤猛に似た風貌であった。佐吉さんは私が空手に興味があると知り、裏庭に松の丸太を削って巻き藁を立ててくれた。沖縄拳法の名護道場にも何度か伴ってくれた。随分後に知ったのであるが今は亡き沖縄拳法の創始者は私の一族と遠い血族であったらしい。佐吉さんとの付き合いは短い期間であったが多感な少年期の不思議な体験を作ってくれた。彼が自衛隊勤務の頃の後遺症で那覇市内の精神科病院に入院し、私が大学受験にしくじって家を離れて浪人生活をした頃から付き合いが途切れたようだ。それに詳しくは知らないが入院中に別の患者に就寝中のベットの中で刺されて死んだと聞いている。そして彼の一家が住んでいた借地は、地主が借金絡みで誰かに売却してしまい立ち退いてしまった。それ以来彼の一家との付き合いも完全に途絶えてしまった。彼の義姉が実家の近くのソバ屋に務めており、時折見かけたが今は知らない。私は拳勝会道場の看板を見てふと遠い日の思い出が蘇り、空手の修行に取り組むのも悪くないと思った。体力も回復したことだし、遊びと酒に明け暮れるゴルフの趣味から少し離れるべきかもしれない。人生の中間点の40歳を既に過ぎており、体と心を新しい日常に切り換える頃だろうと感じていた。

(2)入門

空手を習いたいと思ってから直ぐに自宅裏に巻き藁を立てることにした。巻き藁を突いてみてやる気が失われなければ空手道場の門を叩くことにしようと考えたのだ。巻き藁は20年前と同じ方法で立てようと考えた。他に方法を知らなかっただけである。知り合いの造園会社のヤードから幹回り30cm、長さ2mの間伐材のフクギを1本貰って来た。山鉈で樹皮を剥ぎ取り、先端が2cm厚で根元が太くなるように120㎝程の長さを削った。70㎝程地中に埋めて固定した。古いゴム草履を挟んで藁縄を2重に巻き付けた。藁縄の隙間をハンマーで叩いて均した。早速巻き藁を突いてみると、拳が痛くなった。それを我慢して突くと薄皮が剥ける。傷が治るまで中断して再び突き始める。2カ月ほどで拳にタコが出来た。巻き藁突きがサマになって来た気がしたので道場を訪ねることにした。

6月の梅雨が明けた頃、帰宅途中に道場を訪ねた。私が入社した頃に住んでいたアパートから300m程離れた場所で、国道から海岸に向かって中通りを一つ隔てた建物であった。国道脇の民家のブロック塀から3mの高さの鉄柱に琉心会空手道場のパネルがポツンと立っていた。私は道場入り口の通りを一つ過ぎた場所にある公民館前に車を停めた。駐車場の横は砂浜に続いており、広い砂浜と穏やかに打ち寄せる波が目に入った。車を降りて50m程歩くと2階建ての白い建物があった。敷地の横は海岸である。ハスノハギリ、オオハマボウの防風林が続いていた。その防風林のトンネル状の隙間から砂浜に降りていく小道があった。コンクリートブロックで仕切られた塀に2か所の門があった。手前が住宅用の格子の門扉となっていて、その隣の車庫との間にアルミ製の扉があった。琉心会空手道場の大きな表札が掛けられていた。私が立ち止まって表札を見ていると左手のトンネルの中から人影が現れた。

「こんにちわ」と挨拶した。

「こんにちは、何か用ですか」とその男が訊ねた。160㎝程の身長で胸板が厚く胴体が太い丸太を思わせる体格である。髪はパンチパーマをかけた短い縮れ毛で黒のトレナーズボンに白いTシャツ姿であった。

「こちらの方ですか。空手を習いたいと思いまして尋ねました」

「そうですか、どうぞ」ニコニコしながらドアを開けて招き入れた。中庭を横切ってもう一つのドアを開けて言った。

「道場は2階です。ご覧になってください」

鉄製の階段を登って道場に案内された。広間に入る前に一礼して上がった。私もそれに倣って一礼して上がった。古い黒光りする板の間であった。

「私は館長の岸本です。そちらのお名前は」

「仲村です」

「お住まいは何処ですか。どうしてこの道場を知ったのですか」

「市内の宮里です。15年ほど前にこの近くの教員住宅に住んでいました」

「学校の先生ですか」

「いえ、家内が先生で、私はサラリーマンです」

「空手の経験はありますか」

「高校生の頃に体育の授業で空手の形を習っただけです。空手に興味が沸いて来たので最近巻き藁を突いています」

「では、ここの巻き藁を突いてみますか」

4本ある巻き藁の1本を指差して言った。

私は少し身構えてぎこちない動きで2度3度と突いた。私の巻き藁よりも細身でバネがあった。そして突く部分は革で出来ていた。

「いいでしょう。来月からの入門にしましょう。其処にある道着を着けてみてごらんなさい」着替え棚の横の壁に掛けられたくたびれた空手着を指差した。

空手着なるものに初めて袖を通してみた。それを見て岸本館長が言った。

「4.5号だな。道場の練習日は毎週月・水・金の午後8時から10時までだ。入門費と月謝はそこの壁に書かれている通りだ。チョット待ってくれ、入門申請書類を取ってくるから」そう言って道場内のドアを開けて中に入った。館長に指差した壁には「全沖縄空手道場連盟・剛柔会公認道場、入会金、月謝」と表記されたプラスチックのパネルが貼られていた。館長はドアの内側で何やらゴソゴソとしていたがすぐに戻って来て書類を渡して言った。

「次来るときに書類を持参してくれ。道着は私が立て替えて買って準備しておくから」館長は振り返って壁に掛けられているカレンダーを指差して言った。「来月の水曜日が入門日だな。師範代のノリさんが待っているから彼の指示に従ってください」

「よろしくお願いします」

「そうだ、連絡先の電話番号を聞いておこう」

私はポケットから名刺入れを取り出して名刺を一枚渡した。

私は土間に降りて館長に一礼した。館長も一礼して返した。私は安堵と不安の混ざった気持ちで階段を下りて行った。

7月の最初の水曜日、私は午後8時10分前に道場の前の小さな駐車場に車を停めて門人の来るのを待った。直ぐに軽トラックが止まり小柄な男が作業着姿で脇に道着を抱えて降りて来た。

「こんばんわ。今日からお世話になる仲村です」

「館長が話していた新人だな。高良です。行きましょう」

その男の後に付いて中庭を横切った。

「ここに道場の鍵があります。ドアを開けてこのスイッチを入れて下さい。2階の道場の電気が点きます」そう言ってカンカンと音を立てて鉄製の階段を登って行った。私も後ろから付いて行った。確かに2階の道場は電気が灯っていた。道場入り口のカギを開け、アルミ製の引き戸を左に寄せて中に入った。高良さんは上がり框に跪いて「お願いします」と一礼して中に入った。私もそれに倣った。

「本部の海洋博公園で働いているそうだね。僕も本部に住んでいる。よろしく。先ずは掃除から始めよう」そう言って入口の外にあるバケツに水をためた。入口は150cmに200cmのスペースがあり、一方に手洗いと水道、一方の壁にトイレがあった。

「水はバケツの半分程度で良いです。そこのモップで道場の床を拭きます。拭き掃除が終わったら残った水で土間を洗います。では始めましょう」

私は高良さんを真似てモップで床を擦って掃除を始めた。途中で一人、また一人と門人がやって来た。皆同じように跪いて「お願いします」とおじきをしてから着替え棚に道着を置いた。そして床の掃除を始めた。道場は矩形になっており、広い場所が空手の練習場所でもう一方の3分の1ほどの広さにウエイトトレーニング機材のベンチプレスベンチ、スクワットラック、シットアップベンチ、プルダウンマシン、レッグカールマシン等が整然と配置されていた。広間の壁には高さ200cmの鏡が大小6枚据え付けられていた。玄関の正面奥が神棚で左側の壁に武道具掛けられており、その上に門人の名札が上下2列で掛かっていた。上段右から館長、顧問、上段者の順で並んでいた。私の名札はまだ無かった。

10分ほどで掃除を終えた。私は先輩たちに入門の挨拶と自己紹介をした。8時20分に師範代がやって来た。この日はノリさん、シゲさん、ノブさん、クニさんと呼ばれる高良さん、そして私より1カ月早く入門したヤスシであった。他に4名ほど門人がいるとのことである。

「さて、準備運動を始めようか。新人は見様見真似で出来る範囲でやってくれ」師範代のノリさんが声を掛けた。

準備運動はストレッチに似た動作に始まり、突き、蹴りと移って行った。道場内に「エイ」の掛け声が大きく響いた。

準備運動が終わってしばらくすると館長が広間の木戸を空けて入って来た。

「こんばんわ」門人が一斉に館長に向かって挨拶をした。

「おお、来たか。準備運動は済んだようだな。これが道着だ。着けてみなさい」そう言ってビニール袋に梱包された道着を渡した。私は真新しい空手着を着けてみた。少し広めだが違和感なく体に合った。

「何号ですか」とノリさんが訊ねた。

「4.5号だ、ノリさんと同じサイズだ」と館長が答えた。

「幾らしました」とノリさん

「入門者用で6,500円だ。黒帯を締める頃に一つ上の上質な道着を買うと良いだろう。4,5回洗うと縮んで落ち着くからその後に名護市場通り入口にある長山洋服店で道場のマークを刺繍させると良いな。1,000円でやってくれるだろう」

「ありがとうございます」と礼を言った。

「ノリさん、サンチン立ちと運足を教えてやってくれ」そう言って館長は他の門弟に声を掛けて指導を始めた。形の練習をする者、突き蹴りをする者、筋トレの部屋に行く者等それぞれの練習に取り掛かった。

「よし、始めよう。手を腰に当てこの足型に立ちます。そして足を上げずに円を描きながら足の裏を滑らせて前の足型の位置に進みます。そこで足の裏で床を掴むようにギュッと締めます」床がギュッと鳴った。

「次に左足を前に進めます。これを繰り返して前進します。」ノリさんはキュッキュッと音を立てながら進んでいった。

「ここまで来たら同じ要領でバックします」そう言って元の位置に戻って来た。

私はノリさんの指示に従い床に描かれた足跡をなぞるように進み、引き返す動作を繰り返した。

「サンチンの練習では誰でも足の親指の皮が一度は剥けるものだ。家に帰っても毎日続けなさい。剛柔流の基本中の基本の動きだ」ノリさんは言った。

この動作は簡単なようで難しい。初心者の私にとって足元を気にすると体幹が安定しないのだ。ノリさんに何度も指摘されながら繰り返した。

「おお、頑張ってるな。ノリさん手をサンチン(三戦)の構えにして練習させなさい。その方が次に進みやすいから」

「そうですね。では、両手をこの構えにして両脇を締めます。肘と体の間に拳一個分の隙間を空けます」ノリさんが構えて見せた。

「三戦は体全体を締めあげるのだが、とりあえず下半身だけを練習しなさい」館長はそう言って私の動きを見つめていた。

「顎を引いて正面を見なさい。足元を見る空手の動作はないよ」館長はそう言って再び別の門弟の指導に向かった。

10時を過ぎた頃、館長が「終わりましょう」と声をかけた。

「新人は一番前だ」ノリさんの指示で全員が2列に並んで神棚に向かって正座した。ヤスシと私が最前列でノリさんとシゲさんの師範代が最後尾である

「黙想」館長が合図した。1分ほど黙想した後

「目を開けて下さい。神殿に礼」

「ありがとうございました」と全員で頭を下げて唱えた。

館長が振り返り「ご苦労様でした」

「ありがとうございました」と館長に向かって頭を下げた。

「お互いに」と館長が言った。

互いに向かい合って「ありがとうございました」と言って頭を下げた。そして立ち上がった。

これで本日の練習が終了である。皆が道場の窓を閉めてブラインドを降ろした。

「みんなに紹介しよう。新しく入門した仲村さんだ。皆で教えてくれ」

「仲村です。名護市内の宮里に住んでいます。よろしくお願いします」と挨拶した。館長の指示でノリさんが仲間を紹介した。皆が着替えをしている間に館長に入会申請書と共に入会金、月謝を払った。そして道着代は次に持ってきますと話した。かくして私の入門初日が終わった。軽い興奮を覚えながら階段を下りて駐車場に向かった。小さな駐車場で車を出す順番を待っていた師範代のノリさんが声を掛けた「新人、金曜日も出て来いよ。頑張れば黒帯が取れるから」そう言って車を出した。浜風が潮の香を運んできた。防風林に空いたトンネルを通して潮騒が近くに聞こえた。大きく息を吐きだして車に乗り込んだ。何とかやれそうな気がした。私は駐車場から最後に車をだした。バックミラーに電灯の明かりが消えた道場が満月の明かりで映っていた。

(3)初心者の手習い

琉球王府の頃は空手のことを「手」(ティー)と呼んでいた。空手家のことを手使う者(ティーチカヤー)呼んでいた。今でも畏敬の念を込めてティチカヤーと方言で呼んでいる。あの人はティチカヤーだと呼ぶときは尊敬よりも恐れの意味が強いようだ。やばい男だから迂闊なことを言たり、不用意な応対してはいけないと警戒しているのが本音だろう。青少年が空手を習ってもスポーツの一部と見るのであるが、40歳を過ぎても手習い(ティーナレー)をしている者は奇異に見られることが少なくない。それ故、昔も今も手習いをしていることを公言する年配者はいない。私も平素は極力に人に知られないように心がけている。館長の指示で演武会に出て武芸を見せる以外は手を使う者(ティチカヤー)の気配を全く見せぬように注意し、常に温厚で論理的に誰とも平等に接するよう心掛けている。論語の中の「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」を肝に銘じて日常を送ることが空手家(ティチカヤー)の現代社会で穏やかに暮らすための手段であると信じている。ともあれ中高年の分別ある年齢になると多くの人は心に潜む武闘派のエネルギーが放出され切ってしまい、手習い(ティーナレー)止めてしまうものである。60歳を過ぎても巻き藁を突いて拳を鍛え、筋トレで体力の衰えに抗う者は武道の魔力に染まり切った者共であり、病で倒れない限りその道から抜け出ることは無いだろう。

無印の道着を着けて2週間ほど道場に通った。道着が少しだけ縮んで落ち着いたので指定された長山洋服を訪ねて拳勝会のマークの刺繍を依頼した。2代目の30代の職人は「岸本先生の道場の刺繍ですね。コンピューターに入力してあるので明日には仕上がりますよ」とニコニコして道着を受け取った。翌日の夕方、会社帰りに立ち寄ると仕上がっていた。刺繍は左胸に拳勝会、左袖の上腕部に丸いロゴマークである。初心者用の道着の上着は洗濯後に皺が寄ってアイロンを当てる始末であった。私は練習が終って帰宅すると家族の洗濯物とは別に自分の道着と下着類だけを洗濯機で洗い、水分を含んだ状態の道着をパンパンと叩いて伸ばして皺が入らぬように干した。

道場のマークが入った道着を着けて練習を始めるとノリさんが言った。

「おお、カズさんやっと俺らの仲間になったな。無印だと何処の輩か分からなかったからな。頑張れよ」その頃から私はカズさんと呼ばれていた。

県内には剛柔流、少林流、上地流、沖縄拳法など幾つかの空手の流派があり、それぞれの流派の形を持っている。剛柔流では三戦(サンチン)、撃砕に始まり12種の形がある。三戦と転掌は単なる形では無く体の鍛錬を基本としている。剛柔流は三戦に始まり三戦に終わると言う空手家もいる。確かに三戦の演武を見るとその道場の門弟の力量が現れる。私も三戦と共に撃砕第一を教わっていた。

三戦は一歩前進して下半身を締めて固定する。次に上体は突きの動作で息を吐きつつ体を締めあげる。突き切る時にハッと強く息を吐きながら体を締める、手を引いて受けの動作の間は体を緩めては息を吸う。そして受けの動作の最後にハッと小さく息を吐いて体を締める。前進して反転、そして前進して反転して元の位置まで前進して戻る。その動作の間に体を締めた状態を確認するために館長、師範代が手の平で僧帽筋の横の肩を叩き、拳で腹筋を突き、足で大腿四頭筋を蹴って体の締まり具合を確かめる。館長が両手で肩を叩くと体が沈み込む感じがする。この鍛錬によって打たれることへの恐怖は消えてしまう。私は元来、殴られることへの恐怖が殆ど無いのであるが、館長が叩くと本当に体が締まって行くのが分かった。本物の武道家に巡り合えたと思った。三戦は体作りの鍛錬であり、単純な動作であるが本当に奥が深い。練習を怠けると体幹が緩んでいくのがはっきりと現れる。今日まで二十数年も道場に通っているが未だに指摘を受けるのである。

さて、最初に覚える形が撃砕第一だ。受けは上段、中段、下段受けがあり、攻撃は中段突き、中段両手突き、手刀、中段前蹴りがある。それを前後、左右に動く動作の組み合わせである。攻撃の気合の発生は4回だ。準備運動で行っている動作が殆どであり戸惑うことは無い。しかし形の中に含まれる意味を理解しての動作は容易ではない。

最初の左上段受けを見てノリさんが言った。

「そのままの形でストップ」武道具棚から竹刀を持って来て軽くポンと叩いた。

「ほら、竹刀がアンタの頭を叩くだろ。もっと腕を上げて上から振り下ろしてくる攻撃に対して頭を守らなければいけない。次にその攻撃の威力を弱めるために受ける腕は斜めにして相手に攻撃を受け流さなければアンタの腕が折れるよ」

私は意識して上段受けをした。前腕を捻り込み突くような動きである。

「今の手の位置を覚えなさい」とノリさんが言った。

次の動作で中段突きをした。ノリさんが笑いながら言った。

「カズさん、空手はボクシングではない。アンタの突きはフック突きだ。確かにパワーはあるが空手の正拳突きは上段、中段、下段とも脇を締めて真っ直ぐに拳を捻りながら突くのだ」近くで腿上げの練習をしていたシゲさんが言った。

「サンチンの突きも脇が開いているよ」館長が近づいてきて言った。

「正拳突きの基本から教えないと初心者は解らないよ。私が君たちに教えたようにカズさんにも教えなさい。しっかりしてよ、師範代の兄さんたちよ」

「わかりました」とシゲさんノリさんが館長に頭を下げた。

中段突きは両手を水月の高さに持っていき、両こぶしの間を拳1個分の開けた位置を突くのである。脇を締めて拳突き出す。肘が胴体を過ぎた頃から拳を捻り込む。拳は胴体の乳首の横の位置から突き始める。力を込めるために拳を後ろに引きすぎると肩が上がってしまい突きのスピードが遅くなるだけでなく波打って進んでしまう。右中段突きで両肩の線が並行の位置でなく、右肩を後ろに引いた状態から突きの動作に入ると拳が移動する距離が長くなるのでパンチ力は増すがフック撃ちなってしまう。突き終わった時に右肩が前に出てもいけない。両肩の線は前後に動いてはいけないのだ。足の裏で床を掴み、三戦立ちで下半身をしっかりと床に固定されていないと上体はぶれてしまうのである。

次の動作は四股立ち下段受けである。私の左下段受けの状態を止めさせてノリさんが言った。

「下段受けは相手の前蹴りを受ける動作だが、金的だけの攻撃ではないぞ、払ったつもりでも左わき腹に足先が届いてしまうだろ、ほら」確かにノリさんの前蹴りの足先がわき腹に届いた。

「蹴りは突きよりも力強いからしっかりと大腿の外側まで払い出す必要があるのだ」

私は左腕を少しだけ腿の外側に沿って動かした。

「うん、その位置だ。あまり外にはみ出すと前ががら空きになるから駄目だ。腕を少しだけ外側に捻りなさい。そうすれば蹴りのパワーを受け止めることが出来るだろう」ノリさんが太い前腕を捻って見せた。

四股立ち右下段受けから左中段受け、右中段受けと続く動作となる。ゆっくりとした動作で左右の前腕を交差させて一方を受け手、他方を引いて突く体制に移る。受け手は半円を描いて相手の突きを払いつつ拳の親指側と前腕とで作る矩形で相手の拳を引き寄せるように肘を引いて締めるのだ。肩と肘が前腕をしっかりと支える動きである。

その次に中段前蹴と続く。前蹴りで距離を出すには尻を送り込むのであるが、形の場合、尻を基本立ちの位置で蹴って足を元の位置に引き戻す。次の動作をスムーズにするためだ。最後の諸手突きは相手の水月と肋骨の下の肝臓に打ち込むのである。

道場通いも2か月が過ぎた頃のことだ。

「カズさん、敬老会まで2カ月あるから撃砕第一と三戦はしっかりと覚えておきなさいよ。拳勝会は全員舞台の上で演武するからな。大勢のお客さんの前で間違うと恥ずかしいぞ。ヤスシも同じだ」ノリさんがそう言って笑った。

「敬老会ですか。名護市の老人ホーム厚生園でやるのですか。それともどこかの老人会の慰問ですか」

「そうかアンタたちは未だ経験していないな。公民館で開催されるのだが、大兼久区や宮里区の豊年祭みたいなものだ」

「踊りや組踊などもあるのですか」

「ああそうだ。演目は20くらいで市長や地元の市会議員さんたちも来るぜ。拳勝会も20分程度の演武時間があるぞ」

「舞台に上がるのですか。若い頃に妹や同級生の結婚披露宴の余興以来だな」

「2か月は短いぞ、心して練習しなさいよ」

「はい、頑張ります」ヤスシと私は返事した。

「皆さん終わりましょうか」館長の声で神棚の前に整列して跪いた。館長の「黙想」「神殿に礼」で本日の練習が終了した。

道場の高窓を閉めてブラインドを降ろしていると門弟表札を観ながら館長がノリさんに言った。

「カズさん、ヤスシからノリさんまで敬老会に参加できるのは10名かな」

いつの間にか私の表札が掛かっていた。表札と黒帯の先輩門人の姓名を較べてみた。その中に上間譲の表札があった。

「ノリさん、私は上間センパイには未だ会っていませんね」

「そうだね、本部町新里の出身の男だが、4年前から浦添市の運送会社に勤めている。妻子ともそこで暮らしているので道場に来ることはなくなっているね」

「ノリさん、譲の兄の新築祝いに招待されてシゲさんが祝いの舞を踊り、ノブが形を一つ見せたことがあったね」館長が言った。

「そうでしたね。新里集落の西の外れでしたね。そのすぐ後に譲は浦添に転勤したんですね。確かノブさんが連れて来た男でしたね」

「俺らのオリオンビール工場の下請け運送会社に勤める男だった」ノブさんが言った。

私もその新築祝いに参加したのであるが琉心会の門人と出会った記憶はなかった。そして私がその新築祝いに参加したことをノリさんに言わずに話を閉じて着替え棚にむかって歩いた。皆それぞれに着替えて道場に礼を言って階段を降りて行った。

私は帰路の車のハンドルを握りながら顔も知らぬ門人上間譲の兄のことを思い出していた。私が空手道場の門を叩いたもう一つの本当の理由を考えていた。

仙蔵は譲のすぐ上の兄で自社の部下社員である。新築して人生が順風満帆に進んでいるかに思えた矢先、娘が酒気運転でひき逃げ事故を起こしたのだ。死んだ男が隣村の初老の男であった。娘は九州の某交通刑務所に収監された。仙蔵の集落近隣での評判はひどく悪くなって酒におぼれるようになった。無断欠勤が頻繁に発生して所属現場の同僚からの苦情が発生した。現場の不具合は必然的に私が納めることになるのである。

ある時、上司の専務から仙蔵を注意するように頼まれた私は、彼の持ち場を訪ねて語気を強くして彼の日頃の行動を嗜めた。下を俯いて選定鋏で屑枝を刻んでいた。見かねた渡した少し言葉を荒げて行った。

「聞いているのかね。仙さん。貴方は社内で一番の年長者で皆の見本となるべき立場ではないかね。無断欠勤が多く現場が困っているようだ。しっかりしてくれ」そう言った。

「何を言うか、アンタ如きに言われる筋合いはない」そう言って血走った眼をして立ち上がり、剪定鋏を握って私を威嚇するように対坐した。

「なんじゃい」私は強く睨み付けて作業着の上着を脱いで左手に持って構えた。彼が剪定鋏で攻撃してくると上着を投げつけて怯ませた隙に蹴り又は拳を叩きこむつもりであった。

近くで作業をしていた3人の職員が口々に言った

「仙さん、やめて下さい。落ち着いてください」

「お前、いつか殺してやるからな」捨て台詞を残して退社して行った。

青ざめた顔の社員が言った。

「部長注意して下さい。仙さんは家庭の事情で精神的に不安定になっています。僕らは彼が何を言ってもハイ、ハイと受け流して彼に不満を起させないように注意しています。会社の現場の大将気取りで日常生活のストレスを解消しているみたいです。」

「部長だけが彼の唯一の自由の効かない存在です」と別の社員が言った。

「そうか、彼の家庭は娘さんのことでゴタゴタがあるみたいだからね。専務の指示で注意しに来たのだが悪い結果となってしまったね」

「天下りの専務になんて現場のことは解りませんよ」別の職員が吐き捨てるように言った。

「うん解った。一度奥さんに会って精神科の治療が必要でないか話し合ってみよう。確か奥さんは海水浴ビーチの売店に勤めていたね」

「部長、一人で仙が入っていて、僕らに見せびらかしていましたから」

「そうか、良くないね。君たちも彼の言動には十分気をつけてくれ。何とか解決手段をさがすことにするから」私はそう言って車に乗り込んで現場を後にした。

私は一連の出来事で彼に対する恐怖心は起こらなかった。しかし、私の中に潜在意識としてに埋もれている狼にも似た理性を失った残虐性、平気で何もかも叩き潰してしまう容赦の無さが表面化しないかを恐れていた。今日はその不穏なエネルギーが噴出しなかったが、そのエネルギーが充満してある瞬間に誰かが安全弁を外さないかと懸念していた。そして入社してすぐに猟銃のレミントンM870を警察に返納していることにも安堵していた。

私はこの日の出来事を仙さんは精神的に不安定であり、近くの精神科病院ノーブルクリニックで治療を受けさせる必要があるみたいだとだけ専務に報告した。その後専務と私、仙さんの奥さんと近くに住む宣さんの長兄を交えてホテルのレストランで話し合った。奥さんと長兄は口々に私が宣さんに狙われている言った。私はそうですかとだけ答えた。何か彼らの意見が他人事のように私の頭からすり抜けて行った。私は自分が狙われているとの恐怖心は起こらなかったが、私の中に悪しきエネルギーが充満する事が気がかりであった。私の空手道場への入門の真の理由は不純なエネルギーを飛散させることであった。国道を右折して自宅の明かりが見えた頃、上間譲という男と奇妙な関りがあることに不思議な縁を感じていた。そして道場での鍛錬は確かに私の不純なエネルギーを燃焼させてくれるようであった。奇妙な成り行きは岐路の選択の必然性が起こらない限りそのままに進行するのが私の基本的な生き方である。

(4)敬老会演武

1970年、名護町、屋部村、羽地村、屋我地村、久志村が合併して名護市となった。大戦前の宇茂佐集落は旧屋部村字屋部集落の一部であった。大戦後の人口の増加と共に屋部区から独立した行政区分になり、宇茂佐公民館設置されたのである。現在では集落の裏手の丘陵が宅地整備されて名護市で最も多くの住民が住んでいる。2010年から地籍も旧集落の宇茂佐と住宅土地改良区の宇茂佐の森に分かれているが、名護市の行政区分は以前からの宇茂佐公民館が統括している。居住地面積、居住者とも宇茂佐の森区が圧倒的に多いが、地域活動の拠点は宇茂佐区である。新興住宅地の住民は旧居住者との交流をあまり好まない。賃貸マンション、アパートの住人は短期居住者であり、地域の交流よりも個人のプライバシーを優先しているのだ。県内、県外からやって来た居住者はそれぞれの故郷を持っており、この地区が自分の故郷になるには何回かの世代交代が必要となるのだろう。屋部川を隔てた王府時代から続く集落の屋部区は集落の共同体意識が今でも強く残っている。150年以前から毎年開催されている豊年祭「八月十五夜祭り」で演じられる組踊は沖縄県の無形文化財に指定されているくらいである。

さて、宇茂佐集落の敬老会は9月の敬老の日に開催されるのではない。屋部区の八月十五夜祭りが終わってから一月後に開催されるのである。名護市の屋部、宮里、大兼久、城、その他の古い集落では旧暦八月十五夜の祭りが今でも行われている。宇茂佐区の敬老会はその祭りが終わって余韻が醒めた頃に開催されるのである。師範代のノリさんが敬老会開催のいきさつを教えてくれた。宇茂佐区は砂浜と100m後方の丘陵地に挟まれた中通り3本の世帯数のとても少ない地域で屋部区とは大きな河口を持つ屋部川で隔てられた屋部区の飛び地であった。大戦後に県立北部農林高等学校が設立されてから住民数が増えていったのである。そして行政区分も宇茂佐区として独立したのだ。大戦前は屋部区の伝統的な八月十五夜祭りにも区民は参加していたのだが行政的に独立区分したことで参加が出来なくなってしまった。そうなると区民の秋の楽しみが消えてしまった。むろん屋部区の十五夜祭りを見物出来るが、ご馳走の弁当が配られる地元区民とは異なるよそ者としての見物である。これは面白くないと宇茂佐区民は不満を募らせるようになった。

大戦後しばらくして景気が良くなりはじめると郷土芸能が復活して商業劇団が活発になった。乙姫劇団、仲田幸子劇団、与座兄弟劇団などが県内各地で公演するようになった。宇茂佐区民はその地方回りをする小さな劇団を呼び寄せて公民館で演劇を楽しむようになったのである。開催時期は周辺地域の十五夜祭りが終わってしばらく経ってからだった。宇茂佐区民の中にはかって屋部の十五夜祭りで演舞していた舞踊好きもいたので、小劇団員に混ざって出演するようになった。

いつしかこの小劇団とのコラボレーションが地区のイベントとして活況を呈して行った。しかし時代が移りテレビが普及するにつれて沖縄芝居は衰退してゆき、付き合いの深かった小劇団も他の劇団に吸収されてしまった。そして小劇団とのコラボレーションも消えることになった。そこで区民自らで演劇会を開催する事になったのである。屋部区の八月十五夜祭りも終わっているので屋部区の踊りの師匠から指導も受けることが出来た。劇は伝統的な組踊でなく、小劇団と共演した創作組踊演目で首里城建立の木材を国頭村から引いて奉納する「クンジャンサバクイ」と現代劇である。踊りに関してはどの地区も同様なものである。古典、現代芸能などだ。次第に区民の中に連帯感が生まれて完全な独立した宇茂佐区民意識を形成していったのである。小劇団の名称を使った演劇会は敬老会と名称を変えた。豊年祭のシーズンはとっくに終わっていることも敬老会と称した所以である。

流心会空手道場と宇茂佐区敬老会との関りは1977年に公民館の近くに道場が開設されたことに始まる。その後に敬老会への出演の依頼があり参加する事になったのだ。門弟の増加と共に演武種目も増えていった。やがて20分の演武時間となった。近隣の村では大兼久が沖縄拳法の演武を取り入れていたが現在は道場の閉鎖で途絶えている。豊年祭で空手の演武を取り入れている村は皆無である。只、沖縄県内には伝統の棒術が保存されている村があるも古武道の武術のレベルではなく儀式的な演武である。年に一度の豊年祭で武術が伝承できるものではない。私も入門以来20回以上は参加している。

9月の黒帯会で敬老会出演の話題が出る。黒帯会は毎月第三水曜日に開催される。出演時間が決まっているので演目数は毎年ほぼ同じだ。合同演武2種目、空手の形4種目、古武道4種目、組手1種目、試し割りで構成される。門人は合同演武を除き一人2種目を演武するのだ。

「各自演武したい種目は何かな」館長が門弟に問う。誰も手を上げない。

「クニさんとカズさんとヤスシは四向鎮、ガンさんとシゲさんとアキは十八、ノブとツヨシとヨシノリはクルンファ、最後にノリさんがスーパーリンペー」

としましょうか。次に古武道と組手だが

「サイはカズ、ノブ、アキ、ガンさん。棒組手はクニさんとシゲさん。ナイフ取りの組手はツヨシとヤスシだ。エーク手はノリさん。ノリさんどうかな」と尋ねた。

「そんなところでしょうかね。今年はセーサン、トゥンファは無しですね」

「うん、それを入れると時間がオーバーする。昨年トゥンファとセーサンをしたので今年は変えよう」

「試し割はどうしますか」ノリさんが訊ねた

「カズとアキは巻き藁をよく突いているようだから瓦割をしてくれ。外の階段の下に赤瓦とセメント瓦があっただろう。赤瓦10枚はカズさん。セメント瓦5枚はアキがやってくれ。枚数が少ないと不満かも知れないが最近は古い赤瓦が探せなくてな」

「赤瓦の木造建築の解体現場は無いですね」とノリさんが言った。

「来年からは武道具専門店の守礼堂から試し割用の瓦を買って来るか」

「幾らするのですか」

「10枚束で3,000円位かな。割れやすく焼かれているようだが赤瓦でなく、黒い大和瓦だ」

「一瞬で叩き割るにはもったいない値段ですね」とノリさんが言った。

「バットはツヨシが足で、私が腕で折ることにしようか。シゲさん板を割ってみるかい」

「どんな感じで割りますか」とシゲさんが言った。

「そうだな。正拳、肘、横蹴りだとお客さんから見えるだろう」

「久しぶりにそこに在る練習板でタイミングを取る練習をしてみましょうか」

「素早く一気に割らないと面白みがないからな。板を持つ係を決めて練習しておかねばいけないな」とノリさんが言った。

「練習方法はノリさんに任せる。板とバットは私が買ってくるから」

「皆、敬老会まで一カ月半だ。二人又は三名の合同演武だからきちんと呼吸を合わせる練習をしてくれ。号令をかける者を決めて練習しましょう」ノリさんが全員にハッパをかけた。

「最初は三戦から始めて最後は試し割だ。演武の順番は私が考えておくから。一度演武の時間計測をしようと思うが来月の黒帯会頃で良いだろう。何しろ20分の持ち時間内に収めないといけないから」

「館長の鎌の演武はどうしますか」

「それだがな、公民館に投書があったらしい」

「何ですか」

「鎌は危険で見ていて怖いから演じないでほしい。子供が真似をしたら大変だとさ」

「何処のバカが言ったのですか」

「誰かは想像がつている。本土からやって来た出しゃばりの口やかましい女だ」

「アイツか。鎌の手は他府県には無い沖縄独自の古武道です。やるべきでしょう。県内でも鎌の手を使える空手家はほとんどいなくなったし、拳勝会の演武以外では見られないのですから」

「そうか、君がそう言うなら練習しておこう。演武するか否かは様子を見て判断しよう」と館長は言った。

「みんな、休まず道場に来て練習に励みましょう。合同演武をする者はだれが号令をかけるか決めて練習してくれ。自分のペースで演舞すると動作がバラバラで見苦しいぞ」と師範代のノリさんが言った。

「残り1カ月と少しだ。皆さん頑張って協力して下さい」

会費の千円を納めて黒帯会を終了した。

合同演武の場合、動作のどの部分で号令を掛け、どの部分は一挙動にするかで団体演武の美しさが決まる。動作の切り替えし点全てで号令を掛けると演武に流れが失われ、一挙動を多くすると全員の動作が合わなくなってしまう。僕らの練習にも次第に熱がこもるようになっていくのである。

宇茂佐区公民館は300名の観客が収容できるフラットなホールと舞台を備えている。健康診断、税務申告、小規模な区民の為のスポーツ、レクリエーションなどが開催できる。むろん舞台を使った祝いのイベントも可能だ。調理室や畳の広間も備えている。かなり細長く中学校の教室を3棟合わせたよりも広いだろう。この村出身の前岸本建夫市長が現職の頃に熟慮して市内で最後に建設した公民館である。海岸に面しており夏の浜風がよく通り、冬は北の後背地が季節風を遮ってくれる一等地だ。

夕方から集落内を練り歩いた旗頭は日が落ちた頃に公民館に帰って来て、祭りが始まる。道場から60m程の距離にある公民館へ旗頭が入っていくのが2階の窓から良く見える。歴史の短い集落は伝来の旗頭を持たない。宇茂佐集落の旗頭は村の有志が考案してあつらえたものである。電飾が施されてさながら広告塔の様である。伝統的な畏敬の雰囲気はなく完全なお祭りのぼり旗である。

「ノリさん。旗頭が返ってきましたよ。そろそろ舞台が始まりますね」

「では、演武に出る手順と団体演武の並ぶ位置を確認してから出かけよう」

僕らはノリさんの呼び出しで舞台の左裾から出る順番を実際に行って確認した。

「OK、皆体をほぐして自分の演武する形を練習したな。自分の使う武道具だけを持って出てくれ。帰る時も公民館に忘れるなよ。瓦は手分けして持ってくれ、割れた瓦を入れるカマスも忘れるな」

6尺棒、エーク、サイ、バットを持って玄関に向かった。

「カズさん演武順を書いたプログラムは2枚あるな。1枚は司会へ渡し、1枚は控えの場所に張るから」

「太字で書いて持っています。読み仮名も付けています」

「上等だ、少し早いが出かけよう」

カランカランと音を立てて階段を降りて公民館に向かった。

午後7時、琉球古典舞踊のカギヤデフウの祝いの踊りで舞台演目が開始され、公民館長が開会を宣言する。僕らの出番は10種目程終わってから市長、議会議長、あるいは警察署長が来賓あいさつをして2種目後が通例だ。

幕の降りた舞台に上半身裸で整列し、館長の合図で幕が上がる。三戦(サンチン)で演舞が始まるのだ。舞台上から演武者の「ハー」という腹から絞り出す長い息吹が広い客席の隅々まで届く、そして館長と師範代のノリさんが演武者の体を叩いて締めていく音が響く。僧帽筋を平手でたたく乾いた音、胸や腹や広背筋を拳で突く鈍い音、回し蹴りで大腿四頭筋を叩く重たい音に観客は固唾をのんで凝視している。観客の恐怖心を湛えた視線が見て取れる。来賓の渡久地市長、大城議会議長や顔見知りの視線がある。大腿四頭筋を内側に締めて立ち、館長が股間に蹴りを入れる動作が観客には金的を蹴られているように見えるらしい。ひきつった表情で舞台を見ている。実際は足先ではなく脛で蹴るので股間の奥の金的まで届かずに蹴りが内股で止まるのだ。三戦は随分と時間を要する。三戦が終わると三戦に参加せずに次の演武に備えて待機していた者が舞台に躍り出て直ぐに演武を始める。そして切れ目なく予定の手順で演目が続いていく。演武者と形の紹介は館長の奥さんがマイクで話すのだ。

最後の演武である館長の「鎌の手」は鎌でキュウリを試し切りすることで本物の刃物であることを実演してから演武が始まる。3尺のロープで柄の根元に繋がった鎌が回転して首に巻き付く、頭上で旋回していた鎌が腕に巻き付き手に戻る。研ぎ澄まされた鎌の刃が舞台の照明を浴びてキラキラと不気味に光る。鎌の鋭い刃先が演武者の体に突き刺さらぬか観客は恐怖の眼で凝視している。やがて演武が終了すると大きな拍手が響き同時に観客の安堵の溜息が聞こえるのだ。門弟も客と同様に安堵の拍手を送る。鎌の演武が終了して試し割となる。私の瓦割から始まる。瓦を2枚のブロックの間に乗せて上から拳を落とすのだ。拳は捻らずに縦拳で瓦に体重を乗せるように圧を掛けるのだ。ノリさんが言った。

「ブロックは床板の梁の角材の上に置け、板の上では拳の圧が逃げてしまうから。足で床を軽くたたけば梁の部分が分かるはずだ」

ヤスシとツヨシがブルーシートを広げその上にブロックを並べて10枚の琉球瓦を置いた。舞台の左端にアキが同じようにセメン瓦5枚を置いた。

所々に白い漆喰の残った古い琉球瓦はアーチが一定でなく、重ねた瓦に隙間が少なく大きな煉瓦の塊である。私は懐から重ね折りしたタオルを瓦の上に置いた。そして両足の立ち位置を拳に全体重が載るように決めた。1、2、の3の呼吸で瓦に拳を打ち込んだ。瓦はゴンと音を立てて1枚目が5、6、片に割れた。テレビの空手ショーの様にガラリと音を立て縦に綺麗に割れることは無かった。只砕けただけである。瓦のかけらを取り除くと8枚が割れて2枚が残っていた。それを掌底打ち抜いた。カランと乾いた音がして数枚に砕けた。

アキはセメント瓦5枚に挑むも割れなかった。彼は怒って足で踏みつけて粉砕した。背丈の低いアキにとって拳と瓦の間隔が狭くて十分に体重を乗せることが出来なかったようである。それに大戦後の沖縄で独自に発達したセメン瓦はとてつもなく強度が高い。人が上に載ったぐらいで割れることは無い。そもそも波状のセメン瓦は、的確に割るためのヒットポイントが何処であるか私も良く分からない。私が子供の頃の実家は木造セメン瓦葺きの家であった。台風で飛んできた小枝を取り除くために何度も屋根に上ったが、瓦が割れるなど考えたことも無かったのだから。試し割で砕けた瓦はブロックを取り除きブルーシートごと舞台から移動する。杉板の試し割はシゲさんが軽快なフットワークで見事に打ち抜いた。私とノブさんで膝の高さに支えたバットをツヨシが回し蹴りで難なく蹴り折った。

ノブさんが胸の高さでグリップを握って立てたバットを館長の右前腕が鈍い音立てて折った。前腕バットを折るのはスピードと骨の強さが必要だ。僕らの道場の試し折り用のバットは少年野球用のバットであり、試し割の直前に観客の前で新品バットの表面を覆うビニールをカッターで取り除き新品であることを証明する所から始まるのだ。武道具店で入手できる細く長い試し割用のバットではない。私もいつか折ってみたいと思うも未だ足の脛で折ることが出来るだけだ。今のところ館長以外に前腕で競技用の木製バットを折ることが出来る門弟はいない。以前に組手の指導を受けた時の館長の前腕は自動車のゴムタイヤで覆われたような感触がした。試し割りが終わると舞台の床を丁寧に観察して瓦やバットの木の屑が残っていないか確認するのだ。次なる舞台演劇者に気を遣う演武でもあるのだ。試し割が終わると全員が舞台に出て館長の号令で撃砕第一を通常よりも早い動き演武して退場する。

(5)市民劇

宇茂佐集落の敬老会が終わった翌週のことだ。館長が練習の終了後に門弟に言った。

「役場からの頼みがあってな。名護市民で古武道の演武が出来る者が欲しいと頼まれたのだ」

「役場からですか」とノリさんが言った。

「名護市市民劇に出演する古武道の使い手を探しているらしい」

「市民劇ですか。一度見たことがあります」とシゲさんが答えた。

「名護市内で古武道を教えている道場はうちだけだ。区長さんを通して私に頼み込んで来たのよ」

「出演日は何日ですか」

「11月の最後の週末だと言っていたな」

「私は製糖期が始まっていて具志川市まで毎日収穫されたサトウキビを運搬するので無理ですね。運行スケジュールは工場任せですから」

「何時からですか」とノブさんが訊ねた。

「日曜日の3時からと6時からの昼夜の2回公演らしい」

「ノブ、シゲ、カズで出演したらどうですか」

「私は会社で主催する恩納村の県民の森で駅伝大会がありますが、1時半には終わる予定です」と私は言った。

「うん、明後日の晩に顔合わせがあるそうだからノブ、シゲ。カズで見てこようか。内容が良くなければ断っても良いだろう」

「琉心会を代表するスター軍団だから頑張れよ」ノリさんが笑いながらけしかけた。

金曜日の晩、午後8時に市民会館の劇場棟の別棟の多目的研修室を館長と共に訪ねた。道着は着用せずスラックスに拳勝会のマークの入った特製の黒いTシャツ姿で武具も持たずにだ。

30畳ほどの室内には既に多くの出演者らしき男女がいて台本を手に何かを話していた。

「こんばんは、琉心会空手道場の岸本です。責任者はどなたですか」

会場内の人々が館長の大きな声に動作を止めて振り返った。中年の女性が立ち上がってやって来た。「演出を担当している座長の安次富です。よくお越しくださいました」

「3名の武道家が必要と聞いたので連れてきました。何をすればよろしいのですか」

「劇中では護衛官の配役で劇の最後に3名それぞれの演武をしてほしいのです」

「では、棒、サイ、トゥンファーという沖縄の代表的な古武道を演武しましょうか」

「どんな形の動きですか」

「ノブ、シゲ、カズ、少しだけ素手で演武してみて見せなさい」

シゲさんが棒、ノブさんがトゥンファー、私がサイ、実際に武具を持っている動きで3分の1ほど演じて見せた。

「よろしいでしょう。出演をお願いします」

「衣装はどうしますか。普段は下が白の道着で上が古武道用の黒い道着です」

「良いですね。劇中の役者の姿に似合いますね」

「実際の手合わせは何日にしますか」

「皆様は武道の専門家ですから11月22日のリハーサルに来て下さればよろしいです」そう言ってリハーサルと本番の日程表を渡してくれた。

僕らは他の劇団員の練習風景を見ることなく会場を後にした。

「何だか大層な女座長だな」と階段を降りながら館長が言った。

「以前は小さな劇団に所属していたが、現在は県内各地の沖縄芝居の演劇指導をしているようです」とシゲさんが言った。

「シゲさん、沖縄演劇に詳しいのですね」と私が言った。

「うん、以前に県立郷土劇場で屋部の8月15夜祭りの組踊を演じたことあって、その時に見かけたのさ」

「そいえば、屋部の組踊は沖縄県の無形文化財に指定されたそうだね」

「うん、そのお披露目で出演したのさ」

「シゲさんも出演したのですか」

「シゲさんは既に村の演劇指導者だから出演しなさ」ノブさんが笑いながら言った。私はふとクニさんの家の新築祝いの席でのことを思い出した。

宴席で祝いの歌「かぎやで風」を三味線で弾く者がいた。シゲさんがすっと立ち上がり、古典舞踊に使う金色の祝い扇子の代わりに配膳の中にあった紙皿を手にして悠然と踊って見せた。私も館長の指示で撃砕の形を演じたが勢い余って床板をミシリ踏みしめた記憶がある。クニさんは中座して近くにいなかったが来客者がギョッとした顔をした。その場に合わせて力を抜いて演じるのは十分な修行を経る必要があるのだ。

「あの女座長は専門家の意見と称して何かと僕らの伝統的な組踊の演劇に口を挟んで来たので、小うるさい女だとの記憶が残っているな」とシゲさんが言った。

「芝居は専門でも武道は素人だ。君たちは拳勝会の武道を見せれば良い」と館長が釘をさした。

本番の1週間前の土曜日の午後3時からリハーサルがあった。僕らの出番は午後4時からであり、それまでに来ればよいとの連絡が館長宛に入っていた。市民会館の東側の関係者入口から劇場に入った。腕に関係者との腕章を付けた男に用件を話して、彼の案内で通路を進んだ。劇場ホールと平行に続く通路の一番奥の舞台近くに楽屋があった。20畳ほどの部屋が2部屋あり男女別となっていた。僕らは持参した古武道用の道着に着替えた。ゆっくりと体を解して動ける準備を終えた。控室にいた出演者達が奇異な視線を送って来るのが解った。武道に親しむ者は普段着から道着に着替えると体に自然とアドレナリンが発生してしまい、視線が鋭くなり顔つきが別人へと変化するのだ。僕らは15年、20年の歳月で互いに慣れてしまって感じないが、他人から見ると殺気に近い気配をまとっているのかもしれない。

台本を手にしたアシスタント・ディレクターらしき男が入って来た。

「進行係をしている名護市役所の市民劇担当の平安山です。市民劇へのご協力ありがとうございます」そう言って名刺を渡した。総務係長である。

「剛柔流琉心会宇茂佐道場の比嘉、岸本、仲村です」と挨拶した。

「早速ですが、出演の説明をしますのでついてきてください」

僕らは平安山の後に付いて通路横の登場口に向かった。舞台には緞帳の左右後方からの出入り口と舞台に向かって客席の左側から伸びた9m程の細い通路がある。客はその通路から舞台へ向かう出演者が見えるのだ。歌舞伎などによくある登場通路だ。

「貴方達は主演のモーイ親方の護衛役として後ろから3m程離れて付いて行きます。では参りましょう」

僕らは平安山の後ろから登場通路を進んで舞台に出た。

「舞台の左横に並んで片肘突いて控えます。モーイ親方の芝居が終わると、薩摩の殿様が琉球の武術を見せてくれと言います。そこで三人が順番に演武して元の位置に戻ります」

僕らは平安山の指示通りに片肘突いて控える動作をした。

「よろしいでしょう。幕が下りると劇の終了です。退場の動作はありません」

舞台の右側に舞台の様子が見える控えの部屋があり座長、音響照明その他の舞台装置係、三味線、太鼓、笛の演奏者が控えている。舞台進行の要である。舞台の裏側はかなり広くこの舞台監視部屋からぐるりと回って楽屋へと続いている。

「ではモーイ親方が終わってこちらに退きます。薩摩の役人は右端に退きます。舞台中央が空きましたので武道を演じて下さい」そう言って監視部屋に向かって指差した。「琉球の武術を見せてみよ」と平安山が台本を読んで薩摩の殿の口上を言った。

始めにノブさんがトゥンファー、次にシゲさんが棒、そして私がサイを演舞した。僕らは舞台の広さを意識しながら前後左右への移動の歩幅を注意深く確認して演武した。そして古武道の演武の最後に極めの気合を「キェーイ」と腹の底から発して演武を終了。一礼して元の控えに何事もなかったように戻った。

「素晴らしい、ありがとうございます。幕が下りたら右側から退場です」平安山が驚きで顔を紅潮させて言った。

僕らは右側の幕尻に歩いて行った。すると監視部屋の中から安次富座長が出てきて言った

「貴方達の今の空手の演武では客席が盛り上がりません。武の踊りとしての演出をしたいと思います。三味線の音楽に合わせて演じてもらえませんか」

座長が三味線引きを指差すとトンチンテンテンと軽やかなリズムでエイサーの曲を弾きだした。

「この曲に合わせて道具を使って見せてくれませんか」そう言った。

三味線奏者たちは座長のご意見が始まったとニヤニヤしながら座長と僕らの応対を眺めていた。

「わしらは空手家であって芝居人ではないです。棒もサイもトゥンファーも三味線の音階なんぞに合わせること出来ません。それを望むならどこからか芝居人を探してください」シゲさんがキッパリと返事した。安次富女座長がムッとした顔でこの場の仕切り役は自分だと言わんばかりに僕らを見つめた。ノブさんと私は座長とその後ろでからかうような不遜な笑みを浮かべている音楽奏者に向かって本気になって殺気を込めた視線を送った。「舐めちゃいけないぜ、芝居人ごときが。俺らは4段、5段、6段合わせて15段の武芸者だ」とのプライドが表情に出たのだろう。知らず知らずのうちに人を刺すようなキツイ眼つきで一人一人に視線を移しながら見据えていた。居合わせた者達に漂っていた市民劇に飛び入り参加した者への不遜な雰囲気が一瞬で凍り付いた。演武の最後に発した極めの「キェーイ」と言う掛け声が耳によみがえり、叩き潰される恐怖が彼らの心に生じたのだろう。私は引きつった者たちの表情を見て口元に僅かな嘲りの笑みを作った。蛇に睨まれた蛙がそこに居た。平安山がその場を察して慌てて座長の前にやって来た

「座長、武の場面は彼らに任せて他の場面をもう一度やりましょう」と言った。

僕らは軽く頭を下げ「では本番で」と一礼してゆっくりとその場から離れて舞台裏に回っ楽屋に向かった。

後ろから安堵のため息と「武芸者は恐ろしくて芝居には使いたくないね」と女座長が方言で言うのが聞こえた。シゲさんは県立郷土劇場での不快感を此処で晴らしたのかも知れない。翌週の練習日にこの件をノブさんが館長に話すと

「シゲの言うとおりだ、芝居人の分際で武道家を舐めるな」と真顔で言った。

沖縄県民の森は恩納村にあり、県農林水産部林務課の管轄である。県民が沖縄の自然に親しめるようにとの目的で整備された公園だ。森林遊歩道、キャンプ場、広い芝生の運動広場、児童向け遊具、林業学習館等が設置されている。公園管理は指定管理者制度を実施している。私が勤務する造園会社は2年契約の指定管理者事業で管理を行っていた。入札のプロポーザルでは県民の健康増進を図るイベントを開催すると提示した。イベントは「絆駅伝」と称する家族4人によるリレーを企画したのだ。1.5km2名、3km2名の構成だ。協賛企業を恩納村内から募って商品を準備した。私は大会委員長として11時にスタートとさせ12時前にすべての参加者の完走を確認して表彰式を行った。雨上がりの公園内道路は滑りやすく気がかりであった。念のために沖縄記念公園に勤務する友人の内間看護師を有給休暇で休ませて待機していたが杞憂に終わって安堵した。35組の参加者は直ぐに引き上げず、木陰で持参した弁当を広げて談笑し、園内の遊具で遊ぶなど家族の団欒を楽しんでいた。

午後1時30分、私は社員に会場の片づけを頼み名護市民会館に向かった。市民劇は午後2時半開演の昼の部と午後6時開演の夜の部の2回公演である。市民劇と銘打っているが、市内のアマチュア・コーラスグループや養護施設職員の演芸、琉球舞踊、日本舞踊、歌三味線、フラダンスまであり市民の舞台芸能活動の披露の機会である。市民劇は名護市にて活動する企業団体の幹部が参加する顔見世ボランティア活動だ。稲嶺進名護市長、県内3銀行の北部地区支店長、新聞社の北部支社長、郵便局長、琉球セメント、オリオンビール、ホテルの役職員など多彩だ。面白いのは市長が劇の主役をするのではなく端役である。尤も市長が主役を演じるための練習時間などあろうはずもないのだ。

ノブ、シゲさんと2時15分の待ち合わせで楽屋に向かった。派手な衣装でフラダンスを演じた年若くない女性の一団が上気した顔で通路を舞台方向から賑やかにやって来た。その中の一人の女性が「あら、常務も出演なさるのですか」と声を掛けて来た。以前に非常勤で1年ほど雇用した北海道からやって来た大柄な女性だ。「うん、市民劇にチョイ役で参加する」

「すごーい、これですか」とボクシングの真似をして拳を構えて見せた。

「ま、そういうところだ」と曖昧に答えた。

「頑張ってください」と言って仲間と女性用の楽屋に入って行った。

楽屋には既にシゲさんとノブさんが来ていた。

「お疲れ様です。県民の森の駅伝大会を終わらせてすっ飛んできたよ」

「僕らの出番はもっと先だよ。着替えて待つことにしようか」シゲさんが言った。

着替えて体をほぐしていると副座長兼進行係の平安山係長がやって来た。

「今日は本番です、宜しくお願いします。衣装とメイクの係を紹介します。名渡山さんです」

中年の女性を紹介した。

「ビール工場の近くで美容院をしています。毎年お手伝いをさせていただいております」そう言った。ノブさんの目じりが笑っている。見知っているようだ。

「昼の公園が終わると夕食の軽い弁当をお持ちしますので、後で召し上がってください」そう言って出て行った。

沖縄の伝統芸能エイサー踊りで青年が頭に着けるサージと呼ばれる紺色の布を巻き付け、白黒縦縞の脚絆だ。メイクの女性が僕らの眉を太く塗った。

「おっ、カズさん強そうに見えるぜ」とノブさんが言った。

「サージを巻くとノブ兄さんの頭も照明で反射しないので良かったね」とシゲさんが笑いながら言った。黒い道着の胸と左肩に縫い付けた道場の紋章が目立ち、いかにも王府の護衛官らしく見えた。

劇の内容は史実である。モーイ親方は琉球王府時代の役人で童話の一休さんの頓智に類する知恵者である。モーイ親方が薩摩役人の押し付けた三つの難題を解く物語だ。一つ目は「琉球一の山を薩摩まで運べ」の問いに、「山を運ぶ大きな船を貸してくれ」と答え。二つ目は「雄鶏の卵を持参せよ」との問いに、「その役目の父が産気づいて那覇港で泊まっています」。薩摩の役人が「バカを申すな」怒ると「雄鶏が卵を埋めますかい」と返答した。最後の灰で編んだ縄を出せには、持参した藁縄をその場で焼いて見せ「どうぞと差し出した」。原型を留めた灰の藁縄が出来上がった。この粗筋を面白おかしく喜劇にまとめたのが廃藩置県後の大衆演劇である。むろん、僕らが出演する琉球古武道の演目は名護市民劇のアレンジである。

僕らにとって舞台演武は特段緊張することも無かった。これまでも沖縄市民会館、豊見城市民会館、宜野湾市民会館、県立武道館など様々な状況で演武してきたのだ。ただ、私は演武の最後に後方に反転してサイを敵の足に打ち込む動作で、打ち込む先に薩摩の殿様が座しており、反転を大きくして殿様の斜め横の方角に打ち込んだ。昼の部が終わって楽屋に戻ると携帯電話が鳴った。着信を見ると館長からである。「シゲはいるかい。代わってくれ」私はシゲさんに携帯を渡した。

何やら館長から怒鳴られている様子である。演武自体はいつもの通りの出来だったと思った。シゲさんが携帯を返して言った。

「舞台に出る順番を俺、ノブさん、カズさんの順に進めとのことだ」

「何のことだ、平安山は特に何も言わなかったぜ」

「背丈の小さい順に登場してくれとさ。登場する時に締まりが無いように見たそうだ」

「げぇ、館長がしっかりと見ていたのだ」

「演武は問題ない。慌てずに極めをしっかりとしろとのことだ」

「館長は細かいところを見るものだね」

「まあ、俺らは琉心会の代表だからな」ノブさんが笑いながら言った。

「館長は夜の部は見ないそうだ」範士10段の武道家にはこだわりがあるのだ。

腹がくちくならないように弁当を少しだけ摘まんで雑談をして夜の部の出番を待っていた。退屈まぎれに舞台を覗きに廊下に出ると「先輩」呼ばれて振り返った。門弟の具志堅君である。高齢者専門の勝山病院で介助の仕事をしている男だ。頭の回転と動作が人並に少し足りなくてノブさんもシゲさんも指導にお手上げの青年だ。「おお、具志堅君どうした。その恰好は市民劇に出演かな」

「名護学院の後輩を引き連れて出演しています」

「何という演目だ」

「種取り祭りの踊りです。私が責任者です」

「そうか、後で見せてもらうよ。頑張ってくれ」

具志堅君は他の仲間と出演の為の舞台裾に歩いて行った。私は引き返してノブさんに言った。「道場の具志堅が出るそうだぜ」

「はあ、形の一つも覚えきれないのに彼の出来る演目があるのかい。どれ見物しようか」ノブさんとシゲさんが畳部屋から出て来た。

具志堅の出演は直ぐに始まった。総勢40名ほどの男女が古い時代の農民姿で稲刈りの収穫の喜びを演じていた。

「具志堅も特殊学級出身の仲間ではリーダーだね。しかし、この程度の動作が限度かも知れないね」シゲさんが言った。

「一年たっても撃砕第一が覚えられないのだから、教える側もお手上げだぜ」

「館長も区長さんから頼まれたので断り切れなかったらしい。向き不向きがあるのだが、本人はそれにも気づかないのだから」ノブさんが言った。

確かに人間は出来ること、出来ないことの分かれ目はある。本人がそれに気づいて出来る能力の分野を向上させる努力をすることが望ましいことには違いないのだが。人は自分のことはよく見えないものだ。

1年後に彼は自分の能力を知ったのか退会することになった。私は館長に頼まれて空手免状の雛形をインターネットからダウンロードして一級の免状を作成した。剛柔流琉心会道場としての認可である。館長の精いっぱいの恩情であっただろう。僕らの道場では初段から免状が貰える。剛柔会本部と全沖縄空手道連盟からの認可だ。

夜の部の公演が終わると出演者全員で市長を中心に各界の幹部が前列に並んで集合写真を撮って終了だ。私の手元に写真が届くことは無かったがくたびれた1日が終了したことに安堵した。楽屋で着替えて会場を出たのが午後9時過ぎであった。喉の渇きを覚えたので缶ビール求めてコンビニに入った。釣銭を貰う時に店員が奇妙な表情をしたのが気になったが帰りを急いだ。

帰宅した私を見た妻がプッと吹き出し「顔を洗っていらっしゃい。夕飯を温めます」と言った。

トイレで用を済ませ洗面台で手を洗い、ふと顔を上げると勇ましい眉の警護の武士の顔があった。コンビニの店員の表情の意味が解った。石鹸で丁寧に顔を洗った。一日の雑多な出来事がゴロゴロと洗面台の排水溝に流れ落ちて行った。

出張演武はその他にもあった。若い門人本人や門人の子息の結婚披露宴の余興、那覇市内のホテルでの旧屋部村出身者郷友会祝賀会での舞台演武、名護市商店街の活性化イベントでの招待演武など様々だ。只、あちらこちらで演武したがそれがきっかけで新しい入門者が来ることは無かった。

(6)空手団体の演武会

沖縄の空手は発祥の過程で分類すると首里手、那覇手、その他の手と大別される。首里手の少林流系列、那覇手の剛柔流、その他の開祖からなる上地流、劉衛流などである。そして現在では開祖の門弟が分派して多くの流派別集団を形成している。僕らは宮城長順先生を開祖と剛柔流の一派で剛柔会という空手家の団体に所属している。剛柔流でもいくつかの派閥に分かれているが首里手、泊手、上地流でも大小さまざまな団体を形成している。武道家は自分が一番と思うのが当然であろうが、大きな組織に迎合しない沖縄の県民性にも起因しているのだろう。この琉球王府を起点とする地域では、寄らば大樹の陰とか、村八分等の言葉は意味を成さないようだ。その代わり「イチャリバ、チョウディ(出会えば兄弟)」と、来る者を拒まずの大らかさがある。亜熱帯の海洋民族の習いだろう。民俗学者柳田国男の海上の道にも示されている。幸運は南の海からやってくるとの土着思想に通ずるものだろう。

全沖縄空手道連盟には少林流、上地流、剛柔会、沖縄拳法の道場が加盟している。2年毎、3年毎、そして今では5年毎に合同演武会を開催している。2月から3月にかけての開催だ。大抵は市民会館で開催している。

各道場の演武が1種目又は2種目で代表館長の演武でプロブラムが構成されている。琉心会はサンチンと試し割をすることが通例であった。沖縄市民会館での演武のことである。

サンチンと角材の試し割をすることになった。サンチンは館長とアキが叩き役でいつもの様に終わった。試し割はノリさん脛、ノブさんが前腕、クニさんとガンさんが腹、ヨシノリと私が大腿筋、アキが背筋であった。角材は館長が安売りをする建材店から50cm角の杉材を買ってきて150cmの長さに切って角材の角をグラインダーで面取りをしてある。会場に入る前にワゴン車につんで持ってきた角材を自ら選んで持っていくのだ。会場内の控え室でも他の道場の人間には絶対に触れさせないようにする。他の道場の人間と会話することも無い。試し割は自分で選んだ角材を担いで舞台の中央に進み出て一礼し、館長に渡すのだ。折った角材は自分で拾って幕尻に退散する流れだ。ノリさん、ノブさん、アキと小気味よく折れて後方に飛んでいく、そしてガンさんの番が来た。ガンさんの角材は持参した中で唯一の正目でいかにも柔らかそうあった。しかし腹を叩くと大きく撓って折れない。太腿に切り換えた。館長はこれまでより強く叩いた。角材はポキリと折れるではなく70㎝程の長さで裂けて折れて床に当り跳ね返ってはるか後方の分厚い緞帳の裾付近に当って止まった。僕らはホッとした。そしてその後はヨシノリまで順調に試し割を終了した。僕らは帰りの車の中で試し割の角材のことを話題にした、ノリさんが館長に話した。

「試し割の角材は節の多いほうが割れやすいですね。今度初めて知りました」

「安い角材だから正目の材はめったに無いのだがね。ガンさんすまなかったね」

「いえ、腹は面積が広いので衝撃を吸収したかのも知れないです」

「うむ、勉強になった」館長が言った。

しかし角材の試し割の件はこれで終わりではなかった。後日沖縄市の関係者からクレームが付いたのだ。角材の試し割で1枚200万円以上もする緞帳を傷つけられてはたまらん。今後沖縄市民会館を利用する時は許可しないと連盟に申し入れがあったそうだ。3本1,000円の安い角材で出来た試し割は中止となった。それに小学校の少年少女も参加する演武会にはそぐわないとの保護者の意見もあったそうだ。それ以来全沖縄空手道連盟の演武会では試し割が演目に出なくなった。僕らの道場では「形・組手・鍛え」を空手の基本としている。形で空手の動きを学び、組手で実践応用を試し、鍛えで空手を使える体を作るのだ。尤も最近の空手道場では上地流と剛柔流の一部の道場が試し割を行うだけである。強靭な武器としての体の鍛錬は人気が無いようである。武術としての空手より格好の良いスポーツとしての空手が人気であるから仕方のない社会風潮である。しかし、私の拳とて何に使うために巻き藁を突いて鍛錬するのかと問われると答えを探し難い。

演武会が終わると北谷漁港隣のステーキハウス金松に立ちよるのがいつものパターンだ。250gのステーキにA1ソースとおろしニンニクをたっぷりと乗せて食べるのだ。

連盟の演武会は沖縄市民会館、豊見城市民会館、宜野湾市民会館、県立武道館と移り、現在は県立空手会館で5年に1度の開催となっている。一般社会人の演武会は少なくなっている。沖縄県の空手人口は多いと報道されるがそれは青少年のスポーツとしての空手愛好者である。武術家としての空手家は年々老い減少の一途である。沖縄本島の本部半島は上地流、沖縄拳法、劉衛流の開祖を輩出した地域であるが、今日ではその系列の道場を見かけない。東京からやって来た剛柔流を学んだ大山倍達先生を開祖とする実践空手を名乗る極真流空手道場の看板を市内で見かけるだけだ。時代が変化していくのを感じる日々である。

2020年7月7日 | カテゴリー : 武道日誌 | 投稿者 : nakamura

一族の由来を訪ねて(北部編)

一族の由来を訪ねて(北部巡り)

10月の最後の土曜日、私は遅い夕食を一人で取っていた。夕食と言っても公民館から支給された弁当と缶ビールが2缶である。家内は実家の母が入院中で父の世話に出かけており不在である。いつもは会社帰りにスーパーマーケットで自分の好きな食材を求めて簡単に調理しているのだが、この日は村の豊年祭があり、出演の返礼の弁当と酒が振る舞われたのだ。公民館の近くに空手道場があり、25年ばかり手習いをしている。門人と共に空手・古武道の演武と赤瓦、木製バットの試し割りを行ったのだ。公民館長の岸本さんは舞踊や寸劇など区民の舞台演目を楽しんでくれと勧めたが、素人の田舎芝居に興味が沸かず、礼を言って引き揚げてきた。道場の館長だけは村の有志に義理立てして会場に残り、門人は引き上げてきたのだ。シャワーを浴びて弁当を開いた。昼食弁当と異なり祝いの酒の褄を意識して作られていて中々気が利いていた。テレビを見るともなく眺めて冷蔵庫から2缶目のビールを取り出して栓を抜いてグラスに注ぎ足したところで携帯電話のベルが鳴った。1-1空手村祭りでの空手演武(剛柔流・砕破の形)

「カズか、明日の今帰仁巡りは参加するのかい」兄からである。私は一族の7年巡りの件を思い出した。3週間前に南部巡りが終わって、2週間後の先週の日曜日が今帰仁巡りであったが台風18号の影響で1週間遅れたのである。私は気乗りしなかったのであるが兄からの電話で行くことにした。

「ああ、そのつもりだ」と答えた。

「じゃあ、車を出してくれないか。家内が車を使う予定があるから」

「いいですよ9時前に迎えにいくから」

兄は半年前に定年退職して実家に戻り両親と暮らすようになっていた。

午前8時50分、実家の門前に車を停めた。既に兄は熱帯果樹ピタンガの生垣で仕立てられたヒンプンの前に立っていた。ヒンプンの斜め後ろには母がタイル張りの濡れ縁に立っていた。いつものように鼻から細長いチューブを引いている。肺の機能が低下しており酸素濃度を上げる機械に繋がっているのだ。15m程の細い透明なチューブを引いて家の中を歩き回っている。濡れ縁までが行動範囲である。私は車から降りて右手を上げ「おはよう」と声をかけた。母は目を細めて誰かを確認する仕草で言った。

「カズーか?」

「ああ、今帰仁巡りに行ってくる」そう言って笑顔で答えた。

「行きましょうか」と言って運転席のドアを開けた。兄は「会社の車か」と尋ねて助手席に乗り込んだ。「ああ」とだけ答えてエンジンスイッチを押した。エンジンモニターが点灯し、プリウスは小さく震えてモーターが作動した。アクセルを踏んで車を発進するとモニターがカーナビに変わった。兄は珍しそうにそれを見ていた。「テレビも見ることができるよ。でも朝のこの時間の番組には面白いものは無いね」と言った。兄はモニターから視線を外した。兄には私が小さな造園会社に勤めていると話しているだけで役員車両を持つ会社での役職については一切話していなかった。むろん彼の退職時の会社での役職について尋ねたことも無い。兄は最近まで県内随一の建設資材を製造する企業の試験室に勤めていたらし。私の会社はその企業の100分の1以下の規模である。それでも私は常々牛の尾になるより鶏の鶏冠でありたいと思う主義であり、大企業に属する一員としてのステイタスより自分の個人の力を頼りに生きるのが好きだ。

公民館までは500m程だ。公民館広場のガジュマルの下に車を止めると、すでに多くの親族が集まっていた。宏幸叔父が弁当を片手にゆっくりと歩いてやってきた。自宅は公民館の近くである。私が夕方に21世紀公園をジョギングしていると、時折自転車で散策している姿を見かける叔父である。腕の良い大工であったと父が話していた。父より5歳ほど年下であったはずだ。

「叔父さんこれに乗りなよ」と声をかけた。

「おお、カズか。良い車だな、新車だな、お前のか」

「俺のじゃないよ、会社の車だ。これで行こうぜ」そう言って車の後部ドアをあ開けた。叔父が車に乗り込むと一族の当主である宏春叔父の元に行って今日の道順を尋ねた。

「毎回の通り、初めに運天港の近くの百按司墓を訪ねよう。私の車の後ろを追いかけてきてくれ」そう言った。

私が公民館の自販機でさんぴん茶のペットボトル3本を買って戻ってくると宏春叔父は「皆さん出発しましょう」と言って車に乗り込んだ。20名ほどの参加者である。私は車に乗り込んで叔父と兄にペットボトルを渡した。叔父に「ビールでなくてごめんね」と言うと

「馬鹿たれ、俺はもう酒は飲まないよ」苦笑いした。

宏幸叔父公民館の近くにある建設会社神山組でも一番腕の良い職人であったらしいが酒が過ぎるのが欠点だったなと父が言ったことを思い出して叔父をからかったのだ。今朝、父の姿を見なかったが、既に150坪ほどの菜園に出かけた後のようであった。宏幸叔父には父のような野菜作りの趣味は無く、もっぱら飲むことのようである。

宮里公民館前を出発した一行は、5台の車列で58号線に出てゆっくりとした速度で北上した。程無く伊佐川交差点にさしかかり左折して今帰仁村に向かう国道505号を進んだ。

「この頃は街でも田舎でも軽自動車が多くなったね。税金が安く、取得時の車庫証明が必要ないからかな」と兄に言った。

「それもあるかもな。今度4輪駆動のパジェロを下取りに出して、軽自動車のワゴンタイプを注文したよ」

「新車は結構な値段がするだろう」

「ああ、100万円を超えるから嫌になっちゃうよ」少し自慢げに言った。

兄は父母の病院への送迎に乗り降りが便利なスライドドアの低床のワゴン車に替えたのだと思った。釣り好きの兄は長い間オフロード車のパジェロのショートタイプを愛用していたが、車体が高く80歳を過ぎた老人には乗り降りが難しいのだ。奥さんが普通乗用車を所有しているが、車検が満了するのを機会に1台の自家用車にするつもりのようだ。私は兄が父母との暮らしに次第に慣れてきたように感じて安堵した。30年以上も夫婦だけで暮らした生活から父母との暮らしになれるのには心の切り替えが必要で神経がくたびれるのだろう。私は叔父が退屈していないかと思い、カーナビをテレビ画面に切り替えた。

「叔父さん、近頃の車はテレビ付きだぜ」と信号待ちの交差点で後ろを振り返って話しかけた。叔父が身を乗り出して画面を見つめた。

「おお、大したもんだ。高級車に乗っているな。お前は会社で社長をしているのか」

「よせやい、今時その辺のガキの車にも付いているぜ」と笑った。

1-2トンネル

車列は羽地内海沿いをしばらく走って湧川の坂道を上った。大きな道路標識に矢印で直進は仲宗根、右折は運天港とあった。僕らは右折して村道を進んだ。ししばらく進むと右折運天港の表示がある集落に入った。港に向かう県道72号を横切って集落の中に入った。旧道である。500mほど進むと運天トンネルが見えた。大正13年に作られて平成9年に改修工事がなされている。中型8トンのダンプトラックが通行できる間口だ。トンネルの向こう側に運天集落の港がある。新港が出来るまでは地元漁民の漁港と古宇利島への艀の港を兼ねていた。琉球王朝の尚巴志が三山を統一するまでは、北山城主の中国王朝との貿易港として利用されていたとの歴史を持っている。源為朝伝来伝説の港でもある。現在は新港が整備されて県道72号線が名護市まで続いている。那覇空港までのシャトルバスの起点であり、午前11時30分那覇空港発のバスに乗れば伊平屋、伊是名へ向かう午後3時発のフェリーの最終便に間に合う。トンネルの手前を左折して細く曲がりくねった坂道を上って頂上近くの広場に車を停めた。

1-3運天港公園

沖縄海岸国定公園・運天港園地の立派な表示板が立っていた。看板には環境庁・沖縄県と附則されていた。拝所の入り口には真新しい表示板があり百按司墓と矢印があった。その下の石柱に運天港散策道・田園空間整備事業と彫り込まれていた。管理者は今帰仁村との表示も見えた。沖縄本島北部地区町村の活性化事業である。私の職場からそう遠くない本部町具志堅集落の農耕放置湿田地帯でもこの事業が行われていて、レンタル農園、農産物販売所、集会研修施設などが整備されているのを思い出した。立派な親水公園として整備されているが人影は少なく活性化事業の効果はどうであろうか。国の箱物行政の典型的な一例であろう。

拝所の途中までコンクリートの石段と歩道が続いており、老齢の親族には有難いものだ。以前に来たときは崖の急斜面に造られた藪の中の小道を足元を気にしながらそろりそろりとあるいた記憶がある。今でも倒木が歩道に横たわった場所もあり、細かい手入れはなされていないようだ。箱物行政は管理予算が不足気味であるのは何処でも同じである。

2ムムジャナハカ百按司墓

百按司(ムムジャナ)墓は首里王府から派遣された北山城監守役の武将の遺骨が納められた風葬墓だ。実際に三山統一以前の今帰仁城は内紛によって3度の火災を起こしている。口伝から作られた村の豊年祭に演じられる歌劇には、城主をだまし討ちにした謀反人を城主の子息が仇討の本懐を遂げて城主に返り咲く物語が演じられている。集落に残る口伝は歴史書から漏れた史実の形跡の一部である。それ故、三山を統一した尚巴志は配下の武将を北山城に派遣して地方豪族の反乱に備えていたのである。我が一族の始祖と言われる尚泰久も城を守った時期があり、今帰仁巡りの原点がそこから始まるのだ。王族の身内が北山城の責任者を廃したのは200年後の第二尚氏の7代目からだ。この墓は任期を終えて故郷の首里に戻ることを夢みながら無念のうちに果てた武将の亡骸が眠っているのだ。眼下に運天港が望め、港からは第一尚氏の発生地伊平屋へ運航するフェリーいへや300人乗りの寄港地だ。古宇利島と屋我地島に挟まれて風雨を遮る場所であり、水深が深く1万トン級の貨物船でも入港できるのだ。戦時中は哨戒艇が港のさらに2km奥の現在の湧川マリーナの近くに係留されていたらしい。

3名護連山名護岳を望む

拝所の墓は岩山の岩石の突き出た部分の根元に石を積んで作られていた。突き出た岩が雨除けの庇となっており、あちらこちらに豆粒ほどの小さな鍾乳石が下垂していた。この場所は本部半島の嘉津宇岳と本島北部の連山の一つ多野宇岳の間のなだらかな陸地を隔てて名護岳の中腹が望める。北山城址までは直線で5km、古道を歩けば10㎞だろうか。北山城で謀反があれば名護城に狼煙で知らせることが可能である。運天港から船を出して王府へ連絡することもできる。尚巴志が北山王を攻めた時の協力者が名護城の豪族であった。名護岳から読谷村の座喜味城までは海路の見通しが効く連絡体系である。座喜味城から越来城、中城城、首里城と狼煙が伝わるのである。北山城は南に本部半島嘉津宇岳、八重岳がそびえており緊急の連絡は東回りの運天集落経由、あるいは西回りの本部町備瀬崎経由の狼煙である。名護岳から恩納岳へと続く稜線は故郷の首里に思いを馳せる場所であっただろう。この場所は1420年代に始まった琉球王統の行政の下で、遠く首里城から派遣されて故郷に戻ることなく逝った武将たちの思い籠る場所でもあったに違いない。長い年月の間に岩から染み出る石灰質の雫は王府の按司(武将)の涙にも似て小さく垂れ下がって白い鍾乳石に変わっていた。

当主の宏春叔父の音頭でそれぞれに配られた平線香を手にして最初の御願をした。前回の南部巡りの御願の様に私はどこそこの誰であるとは言わなかった。ただ祈るだけであった。

4為朝碑為朝碑

この園地には源為朝が上陸した記念碑が建っている。口伝によると為朝が運を天に任せて上陸したのがこの地であり、故に運天という集落名がついたとのことだ。沖縄県には運天という姓もあり、確かなことは分からない。為朝上陸は確かでないが、この運天港からマツノザイセンチュウが本土から侵入して、沖縄県の琉球松に甚大な被害を与えているのは研究者の報告で証明されている。米軍統治下の沖縄県は本土各県からの原木、土砂の移入が制限されていたが、本土復帰後に整備された運天新港から赤松の原木が移入されており、運天港周辺から琉球松を枯死させるマツノザイセンチュウが上陸したのである。眼下を「フェリーいぜな尚円」が出航していく。1日2往復の1便目の戻り船である。伊平屋島とその隣の伊是名島には平家の落人が来島したとの口伝がある。伊是名島は第二尚氏王統の初代尚円金丸の出身地である。郷土歴史家の亀島靖先生の説によると第一尚氏も第二尚氏の金丸も平家の落ち武者であろうとのことだ。体格に恵まれ新しい知識が豊富で日本語を話すことから琉球の豪族に日本国との貿易上の才覚を認められて出世したのだと。尚巴志の父尚思紹や金丸が村から追い出されたのは、出来すぎる者への嫉妬から来る村八分の意味を指しているのだ。柳田邦夫の学説「黒潮の道」は、日本列島から台湾、フィリピン、シャム、マラッカ海峡へと続く交易文化の基礎となる黒潮の海流が作った歴史のロマンである。

5ティラガマティラガマ拝所

百按司墓の御願を済ますと近くの丘にあるティラガマ(洞窟)に移動した。宏春叔父が歩いて行こうとすると宏幸叔父が「歩くには少し骨が折れるから車で移動しよう。ちょっとした広場があるから」と言って車に乗り込んだ。私は前回来た時のことを思い出して確かだと思った。しかし、宏幸叔父は前回の御願には参加していないはずだが妙に詳しいなと不思議に思った。200mほど車で移動すると宅地造成地の広場があり、そこに車を停めた。

藪の中の小道を進むと洞窟の前に出た。地面にぽっかりと開いた洞窟の前に香炉があった。洞窟は地下に続いており人が下りることが出来そうだ。以前は人の出入りがあった形跡があった。この洞窟はミルクガーと呼ばれていて中には豊かな水源があると秀明さんが得意げに説明した。そのあとでチラリと奥さんの幸子さんのほうを向いた。物知りの幸子さんの受け売りに違いない。若いころから運動は得意であったが知識の方はあまり得手との印象は無い男だ。宏幸叔父が「このガマは4km先の仲宗根集落まで続いているそうだ」とボソリと私に言った。ガマの前の香炉に線香を立てて皆で拝んだ。宏春叔父はこのガマではなくてこの近くに御先祖の武将の屋敷跡がありそこを拝むのが筋であると言って、新品の鎌を手にして藪の中に入って行ったが、何も見つけることは出来ずに引き上げて来た。産婦人科医という彼の職業柄からメスやピンセットの扱いは得意でも農耕具の鎌は不慣れのようであった。一緒に藪の中に入った息子の宏樹とて外科医であり鎌を手にすることは無いだろう。早々に引き上げてきて言った。

「前回来た時には探せたがもう分らなくなってしまった。この辺りに見当をつけて拝むことにしましょう」僕らも叔父の指示に従って手を合わせた。

6-1古宇利古宇利島

車を停め広場に戻ってあたりを見回すと別荘が数軒立っていた。ピザハウスの看板を上げた家もある。向かいの古宇利島がすぐ手前に見えた。まるで陸続きのような感である。古宇利島の高台にはかって狼煙を上げた場所が記念碑と共に残されている。琉球列島を結ぶ海上のランドマークとしての島々の頂に同じ場所が残っている。奄美大島、徳之島、与論島、沖縄本島の最北端辺戸岬、伊平屋島、伊是名島を中継する古式通信手段の跡である。琉球王府は北から来る日本武士団への警戒を怠っていなかったのだ。南へは門戸を開き中国王朝、日本の海賊倭寇とは友好関係を保っていたのだ。島の端にはリーフが連なっており白い波が立っていた。その向こうは未だな夏の色を残した透明なブルーの海が広がり、そのはるか向こうに伊平屋島と伊是名島が浮かんでいた。島の上には雨を予感させる厚い雲が低く流れており、秋特有の抜けるような青空ではなかった。右手の森の陰から突然にフェリーが出てきた。船首に書かれたフェリーいへやⅢの船名がはっきりと読み取れる距離である。伊平屋島から出た朝の第1便が帰るのである。1日2往復で午後2時に2便目が入るようだ。古宇利島のリーフを過ぎると煙突から黒い煙を吐いた。エンジンの出力を上げたようだ。本部半島と伊是名島、伊平屋島の間はとても水深が深く北から南へと強く速い海流が流れている。為朝、尚巴志一族、尚円金丸を北の日本から運んだ黒潮の反転海流だ。島へ向かう船はエンジンの出力を上げ、右に舵を切ってやや北向き船艇を保って斜めに滑るように進んでいくのだ。船首を島に向けると横からの強い流れに持っていかれるのだ。その代わり運天港に向かう船は海流に押されて滑るように進むのである。島と本島を結ぶ船の往復の航行時間が異なっている。ただし運賃は同じである。誰も声を出さずに船を見送っていた。船は僕らの視線を振り切るように点になって島影に染まって消え去った。

6-2帰港するフェリー帰港に向かうフェリーいへやⅢ

「次は大井川の昔墓に行きます」宏春叔父の声につられるように皆は車に乗り込んだ。

7昔墓昔墓

大井川の河口に昔墓がある。現在は「かりゆしばし」のたもとであるが、20年程前は湿地の中の藪を通って墓参りに行く難儀な場所であったらしい。

8-1今帰仁酒造今帰仁酒造と酒の貯蔵タンク群

川向には今帰仁酒造の工場がある。大きなステンレス製の貯蔵タンクがある。昨年の春先に北部地区安全管理協議会役員として10名ほどで工場点検業務の名目で訪れたことある。ISO9001の認定をうけた企業は点検項目の一つとして協議会の役員を接待代わりに施設案内してくれるのだ。沖縄県の酒造所は先の大戦で多くの零細工場が被災によって消滅したのだが未だかかなりの数がある。県内市町村の7割には酒造所があるだろう。現在本島北部12市町村に10社が存在するのだ。今帰仁酒造の工場長の咲村さんが言ったのを思い出した。「うちの会社には古酒貯蔵用の150トンタンク6基があります。これだけの量の酒を誰が飲むのでしょうかね。それでも毎日製造しているのですよ。沖縄県民はほんとに大酒のみばかりですね。ありがたいことです」と笑っていた。ちなみに泡盛の原料であるコメはインディカ種の輸入タイ米である。これを発酵して造る蒸留酒である。日本酒よりウイスキーに似た製法である。地元の沖縄県産米はジャポニカ種でもっぱら食用である。大戦前の古酒造りの貯蔵壺は東南アジア産の南蛮瓶であった。現在でも個人の古酒貯蔵は瓶である。今帰仁酒造ではウイスキーの製法を真似て樽仕込みの泡盛も製造されている。工場の倉庫に酒樽が整然と寝かせられていた。その横のガラス張りの部屋で若くもない女性たちがボトルにラベルを手作業で張って段ボール箱に詰めていた。私が「琥珀色の泡盛は手作業するほど貴重品なのですね」と話すと、咲村さんが答えた。「樽で寝かせて質のより古酒にするとウイスキーのような濃い色の泡盛になるのです。樽のエキスが出すぎるのですよ。そうなれば日本の酒税法では泡盛の分類から外れてウイスキー並みの課税となります。ウイスキー並みの税金では採算が取れません。だからオートメーション化せずに酒の色をチェックしながらの少量生産の色付き泡盛に留めているのです」

原材料や酒の濃度でもなく酒の色が酒税法に関わるとは強い酒を好まぬ軟弱な国家官僚の考えそうなことだと思って可笑しくなった。土産に今は手に入りが難い平瓶の1合ボトルを貰った。何年か前に台湾とマレーシアの友人たちとタイのラン生産者を訪ねたことがある。夜の飲み会ではタイ米で作られた蒸留酒は見当たらずジョニーウォーカーの黒ラベルを飲んでいたのを思い出した。必ずしも主食の炭水化物で酒を造るとは限らないようだ。私も五升壺を二個と金箔入り2升瓶を2本押し入れに保存しているが10年以上も忘れたままになっている。朝鮮人参を漬けた泡盛もあったはずだが、一度仕舞うと失念するようだ。

墓は川沿いのビーチコーラルで出来た岩場に彫り込まれて作られていた。ここに葬られているのは1416年の北山城滅亡の戦で死んだ者やあまり位の高くない侍とのことらしいが定かではない。入り口が小さな四角の穴墓が幾つもある。宏春叔父はどれを拝むべきか良く分からないらしく、全体が見渡せる場所に線香を並べて御願した。僕らもそれに倣った。マングローブ林の潮だまりで釣り糸を垂れている人が珍しそうにこちらを見ていた。僕らは長居せずに次の拝所に向かった。

9湧水池湧水の拝所

大井川の上流に湧水地が拝所である。沖縄では多くの古い湧水地が拝所である。干ばつが起こりやすい島嶼文化圏では湧水地は人の生活の基盤となってきたのだ。現在の様な浄水施設や水道設備の無い時代には枯れることのない湧水地は神々の宿る信仰の対象地であったのだ。沖縄本島で干ばつによる断水騒ぎが亡くなったのは、灌漑ダム整備が充実した僅か10年前である。県内のほとんどの民家は貯水タンクか飲料水として使える井戸を備えていたのだ。私の自宅も現在では使っていないが、ステンレス製の2トンタンクを備えている。この拝所は、王府へ献上するターウムと呼ばれる湿地で育つ里芋の1種が栽培されていたと伝わっている。最近まで養鰻場があったらしくコンクリートの囲いがされていた。現在は廃墟となっている。水面を覆ったホテイアオイが淡い紫の花を咲かせていた。それでも湧水の利用者はいるようで取水ポンプが断続的に作動していた。湧水は取水で変化することなくこんこんと湧き出て養鰻場のコンクリート壁に沿って下流に流れ出ていた。

10ホテイアオイ養鰻場跡と今帰仁村の文化施設

先ほどの汽水域の湿地と異なり山手の湿地は藪蚊が多い。皆で祈願して早々に車を停めてある県道脇へ向かう坂道を上った。私は宏幸叔父に話しかけた。

「今でもウナギの需要は多いだろうに、ウナギ商売は儲からないのかね。これだけの水量があるのだがね」

「養鰻場跡地の向かいに今帰仁村の中央公民館があっただろう」

「田舎にしては立派な施設だね」

「この場所は大昔からの湿地だろう。建築用パイルをたくさん打つ必要があるのさ」

「そうだろうね。県道79号の下り坂の右側はこの辺りから湿地が広がっていたであろうから」

「それでさ、パイルを打つと振動でウナギがえさを食わなくなるそうだ。町役場の改築に始まって、中央公民館、学習センター、物産センターと10年近く工事が連続したのよ。人間には感じない振動だがウナギには致命的だったそうだ。その当時はだれも知らなかったのだ。ただウナギの食欲が低下したことで成長が遅くなり採算が取れなくなって廃業したそうだ」

「確か、製糖工場の出資会社であったと覚えているが」

「ま、本業の製糖業に専念したわけだ。それで原因を深く追及しなかったのだろう」

「叔父さん物知りだね。見直したよ」

「ああ、大先輩を尊敬しなよ」

「御見それしました」そう言って褒めると叔父さんは頭を搔いて言った。

「実は桃源の里のお楽しみ見学会で今帰仁村の名所を2度ばかり回ったのさ。その中の物知り男の説明で勉強したわけよ」

「なるほどね」私はそう言って相槌を打った。宏幸叔父が老人福祉法人「桃源の里」のディケヤサービスに通っているのは、アルコール依存症の改善のためだと父から聞いた記憶があった。一人息子夫婦が手続したのであろう。酒で悪さをする人ではないが健康管理に不安を感じたのかもしれない。

11植物群落諸志の植物群落

一行は諸志の植物群落保存区の広場に車を停めた。この場所は古くからの拝所であり、ノロ(女神)等地位の高い人々の風葬墓があった場所だ。このような人々は一般庶民の様にない近くの風雨にさらされた荒れた場所に葬られたのではないようだ。畑地や宅地としての開発から免れて植物群落として残ったのは、神々の祟りを恐れた住民がこの地の植物を採取することなく今日まで至ったのだろう。幹回りが60cmあるクロキが生えている。三味線の竿に使うと1本30万円以上の品が何本取れるだろうかと思うが、祟りもその分だけ子々孫々に伝わるだろう。沖縄で三味線の絶品となる竿の材料が残っているのは、波照間島の風葬墓の周辺に生えるハマシタンの古木など誰もが恐れる場所だけである。三味線は古くから人の思いを奏でる楽器であり、祟りと縁が深いのは確かだろう。琉球古典音楽の三味線は古人の思いが強く表れる音色である。前々回の御願では林の中の拝所まで入って線香をあげたが、小道が分からなくなるほど草木が茂っており、林の入り口で線香を上げた。そして道向かいの小川でも線香を上げた。其処も拝所となっているらしく古いコンクリートの小屋が設えてあった。

12カー拝所のカー

13諸志のフクギフクギの屋敷林

僕らは国道を横切って集落の中を歩いて次の拝所に向かった。諸志集落は古い歴史があるようだ。海岸に程近く砂交じりの土地である。屋敷林としてフクギが植えられていた。フクギは防風林としての機能が高く海岸に近い古い集落では今でも見かけるがコンクリート住宅の普及で少なくなりつつある。この集落は北側が海岸になっておりフクギは冬季の季節風から集落を守っているのだろう。目的の家は海岸に近い場所にあった。敷地の右端に2坪ほどの小さな拝所が設えてあった。宏春叔父は家主に挨拶をして拝所の木製の引き戸を開いた。祭壇の右端に模造品と思しき古刀が立て飾られていた。誰かが刀があるねと話すと宏春叔父と同年配の宏政さんが言った「昔僕らが中学生の頃であったが、あの刀を祭壇から降ろして宏春さんと二人で手に取って見ていたらハサマの大祖父にひどく怒られたことがあったな」

「そうだったね、刀を手にして鞘を抜きはらい村の豊年祭で演じられる按司の真似をしたのだったね」

二人が懐かしそうに笑っていると、いつの間にか家主の女性が微笑みながら話しかけてきた。

「尚泰久王様から拝領した本物の刀は小太刀だったのですよ。戦時中に金属の拠出指令で軍に提供してしまったのです。その刀は戦後に仲宗根集落の鍛冶屋に頼んで作ってもらったのですよ」老婆は情けなさそうに話してくれた。

14セリキヨ世利久の祭壇と右端の刀

僕らは皆で合掌してその拝所を離れて車に向かって歩き出した。

私は物知りの幸子さんに話しかけた。

「刀が尚泰久王からの贈り物だとすると、あの家は世利久の実家ということですかね」

「あら、貴方はそれも知らずに御願していたの。車を停めた向かいの拝所も世利久がノロとして活動した拝所なのよ。困った人ね」そう言って笑った。

「幸子姐さんは一門の祭り事に詳しいですね」

「私の初孫は未熟児で生まれたの。それで祖先の元を訪ねて孫が健康に成長してくれるように祈ったのよ。7年廻りとは別に秀明と二人でね。中南部の御先祖と少しでも縁のある拝所は全て廻ったわ。伊波城址、読谷村の尚巴志の墓、添石の拝所などもね」

「1日では回れないでしょうね」

「丁寧に御願したので4日は必要だったわ。おかげで孫は元気に成長してくれたわ。いまでは少年サッカーのチームに入って真っ黒に日焼けしているのよ」そそう言って嬉しそうに笑った。

「念ずれば御先祖は我々を守ってくれるのですね」

「そういう事、信心が一番よ」

僕らは車で今泊集落の民家に移動した。この家は北山城に上る役人の逗留場所であったそうだ。北山城の監守に謁見する前に身だしなみを整えて城からの呼び出しを待つ宿舎のような役割の場所である。大学ノートに礼拝者の記録があった。本日は我々で4件目である。丁度12時を回ったところであるから午前中に訪れた人たちだ。那覇市、糸満市等南部からの来訪者だ。前日の土曜日の記録もある。皆御先祖が行ったようにこの家で礼拝して北山城の上るのだ。1416年に北山城主樊安知が尚巴志に滅ぼされてから600年を経て尚、北山城を参拝する琉球王府の士族の末裔がいるのだ。尚泰久もこの北山城に関わり、我がハサマ一族御先祖の誰かも何らかの役割でこの城に関わってきたのかもしれない。郷土史家によると「元は今帰仁城」と言われる口伝があり、北山城をめぐる5度の戦の敗残者が沖縄各地に離散して行った。北山城は千年前の平安時代から存在していたのだ。そして尚巴志が三山を統一するまでは支配地の面積が琉球に群雄割拠する武士団の城主の中で最も大きな領地を支配していたのだ。北山城に関わる末裔が長い歴史の中で全県下に流れて行ったとの説である。

この屋敷は北側が10m程の盛土になっており防風林のフクギが植えられている。庭にはリュウガンの古木が生えていて棒蘭(Luisia teres)と呼ばれる沖縄の野生ランが着生していた。沖縄県では古くからリュウガンの木は由緒ある家に植えている。中国南部から伝わった果樹である。果実は皮を剥くと竜の眼に似た実があり、食することが出来る。漢方薬としての薬効もあるらしい。中国南部の広東省にはリュウガンの果樹園が大きく広がっている。ムクロジ科でレイシの近縁種であるがレイシほど美味しくは無い。木造住宅の一室が礼拝所として使われていた。年配の方数名が線香を立てて座して祈願した。僕らは軒下から祭段に向かって祈願した。この家の主人も愛想がよかった。ただ神棚の近くに販売用の守護神札や祈願飾りが並べられており、南部巡りの拝所のような荘厳な雰囲気は無かった。ご先祖を頼みにする拝所としては違和感が残った。

15リュウガン

16ランリュウガンの古木と着生ラン

表に出ると国道が騒がしかった。高校駅伝らしい。白バイに先導されて地元の北山高校を先頭に、中部工業高校、八重山農林高校が競り合って駆け抜けた。県内の公認駅伝コースで男子の6区アンカーだろう。この先3kmに今帰仁村運動公園があるのだ。優勝校が12月に京都で開催される全国高校駅伝に選抜されるのである。団子鼻の宏政さんが言った。「ヨシ坊は走ったかな」

「宏吉は2区と言っていたから、走り終わっているね。ここはアンカーの6区だから」と誰かが言った。「残念だな。せっかく今帰仁まで来たのに」

皆は車に向かって歩き出した。午後1時である。

北山城址公園の駐車場に着くとそれぞれのファミリーでの昼食となった。本家の一族、分家の秀仁ハサマグァーの秀明さんのファミリー、そしてマガイハサマグァ-の僕らだ。それぞれのファミリーが弁当を持参していたが僕らは食堂に向かった。

北山城址は来るたびに整備が進んでいる。とりわけ世界文化遺産に登録されてからは駐車場整備とその周りに、売店、食堂、記念館が建っていた。この部分は歴史上の遺産発掘の範囲に含まれていないのだろう。駐車場の向こう側から文化遺産の敷地のようで発掘作業の表示板が立っていた。私と兄は宏幸叔父を伴ってソバ屋に入った。ソーキそば定食を注文した。ソーキそばにジューシー飯が付いているのである。宏幸叔父の弁当は小さく仕切の付いた器に巻きずし、チキンのから揚げ、サラダ、煮物、スパゲッティ、卵焼き、野菜炒め、酢の物など10種類の品が美しく並んでいた。

「上品で美味しそうな弁当だね」と私が言うと

「嫁が何処からか買ってきたのよ」と嬉しそうにはにかんで答えた。

食事が終わると外に出て隣の待合室に入って休んだ。私は地元の「おっぱ牛乳」が出店しているアイスクリーム店でターウム(里芋)を原料にした紫色のムベを3個買って兄と叔父さんに渡した。

「個々の名産らしいよ、デザートにどうぞ」と言った。

「紫色しているから紅芋が原料かな」と叔父が言った。

「いや、ターウムらしいよ」と言うとしげしげと眺めてから口にした。

「おお、美味しいな。甘いものはあまり食べないが、食後にはいいな」と笑った。

「辛い、酒のつまみだけでなく、たまには女子供が食べるアイスクリームもいいだろう。健康にも良いのだぜ」

「馬鹿野郎」と言って笑った。

休憩所で転寝をしていると宏樹が呼びに来た。城址の御願に出るらしい。外に出ると雲が厚みを増して早く流れ出していた。

2時30分、入場者には御願割引という奇妙な制度がありそれを利用した。300円割引の150円の入場券を宏樹が配って回った。

17北山城北山城址の石垣と門

城址の入り口には大きな松の木があり、その横に改札口があった。城門を潜り石灰岩で出来た石段をゆっくりと歩いて頂上に向かった。いつの頃に植えたのか知らぬが寒緋桜が並木となっていた。すでに落葉しており年明け2月の開花まで静かに北風の襲来に備えているようだ。現在残っている北山城の城郭はあまり広くない。首里城に次ぐ広さと言われているが確かな資料がなく復元が困難なようである。本丸部分が600年の風雨に耐えて残っているようだ。

18桜並木落葉した桜並木、毎年2月に桜祭りがある。

最初の御願は火の神を祀った祠である。隣に見事なフクギ立っている。巨木というほどの高さは無いが、太い幹はデコボコとしており、飛来物に叩かれて生き延びてきたのだろう。北に面したこの場所は台風、北風をまともに受けるだろう。太くこれ以上伸びないだろうという姿で威風堂々と立っている。フクギの大木は金武町の観音堂、久米島の琉球王府の交易所跡にもあるがいずれも平地の敷地内でまともに風雨に晒されてはいない。私は6年に一度の御願の度にこのフクギを眺めるが全く変わらない。まるで剛柔流空手の武人が三戦立で構えているように見える。鳥肌が立つほど見事だ。太くゆったりとしていて全く隙が無く、断崖の要塞に空を背にして立っている。この城は何度か火災に見舞われている。本当の吹き曝し城塞の頂上で幾百年の歳月を過ごしたのであろうか。岩石を積み上げて造られた要塞の地中にどれだけ深く根を下ろせばこの場所で自然の猛威に耐えることが出来るのだろうか。王者とは、真の武人とはかくあるべきだとこのフクギが語っているようであった。私は火の神に祈る一族の祈願と共にフクギの精霊にも祈りを捧げた。

19福木火の神の拝所とフクギの巨木

城址内では5か所で祈願する。次の場所は男子禁制の場所である。僕らは女性たちが祈るのを後ろで見守っていた。その次に伊平屋島に向かってお通しをするために城塞の北側に移動した。ただ雨雲は北の海を覆いつくし島影を消してしまっていた。宏春叔父は線香に火を付けて言った「北はあの方向だね。伊平屋島に向かって皆で祈りましょう」

僕らはそれに倣って合掌した。線香が消えぬ間に大粒の雨が落ちてきた。私は兄と宏幸叔父を誘って城址内の管理棟へ移動して雨が上がるのを待った。雨は15分ほどで止んだ。僕らは残り2か所で線香を上げて礼拝を終了した。そして雨でぬれた石畳を踏んでゆっくりと駐車場に向かった。

20伊平屋島雨雲に隠れた伊平屋島

坂道を下りながら本家の良子叔母が私に話しかけてきた。宏春叔父の妹で独身である。ハサマ本家は長男が那覇の県立2中で勉学中に肺結核で亡くなり、叔母も結核の影響で嫁ぐのを諦めたと聞いている。次男である宏春叔父が医学の道を志したのは長兄の病死に起因しているのだろう。敗戦後の沖縄から本土の大学で医学を学んだことや、産婦人科の開業費用の捻出によって本家は随分と資産を処分したとの噂である。

「カズ君、貴方たちの曾祖母のウシお婆さんのことで謝らなければいけないことがあるのよ。戦時中に亡くなったから貴方は知らないだろうけど」

「家に遺影がありますよ。戦前にハサマ一族の集合写真が残っていて、それからとトリミングした写真を飾っていますよ」

「ああそれね、戦前の南洋移民がはやったころの写真ね。一族の人間が南洋群島に出稼ぎに行くので集合写真を撮って皆に配ったのよ。一族の人間がバラバラに分かれていくのをお爺さんが心配したのよ」

「すごく気性の強そうな顔立ちの方に見えますが」

「私のお爺さんと同じくらいの歳で、シパマタ屋の7人兄弟の一番上の姐さんだったわ」

「シパマタ屋の恵一兄さんが昨年の衆議院議員選挙前に訪ねてきて、従妹の奈津美が国会議員に立候補するからよろしくと言っていましたね」

「彼女のお父さんはシパマタ屋の3男の息子で現在はコザに住んでいるわ」

「私の父と宏次叔父を残して一家が南洋群島のテニアン島に移民したのでウシお婆さんに中学まで育てられたと親父が言っていましたね。ウシお婆さんはテニアン島には行かずに沖縄で亡くなったらしいですね」

「そうなのよ。戦争が激しくなってウシお婆さんも私たちもシパマタ屋の後ろの森の防空壕に避難していたの。お婆さんはその頃マラリア性のひどい下痢を罹っていてその防空で亡くなったの。亡くなる前にお婆さんから書類らしきものが入った布袋を預かったの。それを家の仏壇の下の引き出しに収めていたのだけどね。米軍の空襲で家が焼けたので消失してしまったのですよ。戦争が激しくなっていたので中身を確認する間もなかったのですよ。今でも心残りなのです」

「お婆さんはとてもキチンとした人であった父は言っていました」

「そうね、お出かけの時は芭蕉布の着物をパリッと糊付けしていたわ。ウシお婆さんが通るとパリッ、パリッと布ずれの音がすると村の噂だったのよ」そう言ってほほ笑んだ。写真を思い出してさもありそうなことだと思った。

「お婆さんは何か本土の宗教の信徒であるらしく手紙のやり取りをしていたみたい。預かった書類に手紙も混ざっているようだったわ。戦争のせいではあるが貴方のお父さんの宏兄さん渡せなかったことがとても心残りなの」

「戦争は色々なことを消してしまうのですね」と返事した。私はふと母が話したことを思い出した。母が嫁いできて1年目の旧盆の頃のことである。

白装束の10名ほどの人々が訪ねてきたらしい。明らかに他府県の宗教団体らしき人々で、たくさんの倶物を備えて1時間ほども供養をして引き上げたといいう。その人たちの師と思しき人がここは仲村ウシさんの家ですか母に訪ねたそうだ。その日は母だけが在宅で何も分らぬまま様子を眺めていたらしい。夕方に畑から戻ってきた義母にそのことを話すと「お婆さんは変わった宗教を習っていたからね」だけ言ってその人々が置いていた倶物をキツイ眼差しで見つめたらしい。義母のウタさんは祖母のウシさんに劣らず気性の激しい人であったらしい。とりわけテニアンで夫を失い、幼子を抱えて戦火を逃げ回った気力は現代人には理解できないであろう。祖母一家の住むテニアン島から出撃したB52爆撃機が父の所属する海軍があった長崎県に原爆を投下したのも不思議な因果である。父のいた大村海軍基地に原爆が投下されずに長崎市内に投下されたので今の私がいるのだ。ただ、沖縄県平和記念公園の平和の礎に戦没者として記名された祖父は、行方が分からぬまま遺骨として帰郷することもなくテニアン島のジャングルで眠ったままだ。私は石畳を踏みしめながら千キロ以上も離れたテニアン島に一人で眠る祖父と6百年前に武士の勤め故に異郷で死んだ百按司の影を重ねていた。

僕らは日差しが天使の梯子となって降り注ぐ中を最後の訪問地本部町伊野波集落の並里家に向かった。僕らは伊野波公民館の前に車を停めて100m程の坂道を登り、満名殿地と呼ばれる家まで歩いた。最後の訪問地である。宏幸叔父さんは私に小声で言った。ハサマの大祖父はこの地はハサマ一門が拝むべき場所ではないと並里家の頭首から言われたそうだ。その場所は定かではないが伊野波集落の別の場所らしい。しかし宏春叔父はそのことを気にせずに本宅と離れの拝所を礼拝した。僕らもそれに倣った。これにて本日の御願は全て終了した。並里家は私の高校、大学の後輩で若くして事故で夭折した並里君の実家である。皆が休憩している間に本宅を訪ねた。線香を上げようと思って玄関の呼び鈴を押すも不在であった。彼とはタイのパタヤで開催された熱帯果樹の国際会議に同行した記憶があり、何度もゴルフを楽しんだ中であった。当時のオフィシャルハンディキャップ11の私が滅多に勝つことが出来なかった好青年であった。豪快な笑いと繊細な気配りを持つリーダー気質の男だった。本部町の町長を務めることが出来る器であり、地域の青年団期からもそれを期待されていた人物であったが、時の流れは彼を忘却の海へと一気に押し流してしまった。それでも彼が情熱を傾けて育成した熱帯果樹の栽培とその果実の加工品は一つの地場産業として一定の成果を上げ、今なお新しい事業展開を見せている。

21満名満名殿地の拝所

僕らは満名殿地の展望休憩所で少し休んで今年の南部・北部の7年廻りの終了を宏春叔父から告げられて散会した。そして坂道を下って公民館の駐車場に向かった。南部廻りに比べて見知った場所であり、移動距離も短く前回のような疲労感は無かった。私は帰宅途中で渡具知漁港に近い儀間鮮魚店の前で車を停めた。義父と宏春叔父の旧制第三中学の同窓生の弟の店である。店主は商工会の集まりで親しくなった間柄で馴染みの店でもある。店主頼んで大きめのカツオ1本を刺身にして3分割にしてパックしてもらった。3,500円を払って車に戻った。車に乗り込むと宏幸叔父に「夕飯時の晩酌のつまみだ。今朝釣れたばかりの近海カツオだ。本部まで来てカツオを買わないで帰ることもないだろう」そう言って1パックを渡した。

「おう、ありがとう。カツオ漁の本場の渡具知漁港で水揚げされたカツオはうまいだろうな」と叔父は喜んだ。

「晩酌で飲み過ぎないようにね」と言うと叔父はバカ野郎とは返答せずにはにかんで頭を搔いた。クスクスと笑う兄に1パックを渡して車を発進した。

6年後には宏春叔父は93歳である。その時まで7年巡りの習慣が残っているだろうかとふと思った。今の時代の時の流れが6年後まで同じリズムで続く保証と理屈は何処にもないのだから。

「完」

2020年6月27日 | カテゴリー : 旅日誌2 | 投稿者 : nakamura

一族の由来を訪ねて(南部編)

一族の由来を訪ねて(南部巡り)
1、(プロローグ)
10月初旬の午後3時、事務員の入れてくれたコーヒーを飲みながらゴルフ雑誌「アルバ」のページを退屈まぎれにめくっていた。2日前に品質管理システムISO9001の審査が終わって一息ついていた。従業員45名の造園工事を主な事業とする会社における工事部門の品質管理システムISO 9001の取得は実質的な経営上のメリットなどほとんどないのが現状である。現場職員に煩わしい数値目標やデータの収集を押し付けているが、仕事上の出来高が上がるわけでは無い。安全管理に多少のメリットがあるだけだ。品質管理マネージャーの私は、各工事の現場責任者に審査のポイントを説明して審査官からの質問に対応できるようにするのだ。品質管理上の不具合が発生する案件については私から審査員へ改善計画を提出して審査合格となるのである。毎年A4-100枚前後のファイルが追加されていくのである。水族館案内業務、植物リース業、フラワーショップ部門についてもISO 9001の対象に入れてはどうかと審査員は提案するが、これ以上の煩雑な事務処理はごめんである。工事部門だけはプロポーザル方式の入札に対応しており、ISO9001の取得は僅かに評価ポイントが上がる程度だ。落札の成否は入札価格が絶対的な要素である。総事業費が年間3億円に満たない会社にとってのメリットは少なく、名刺にISO9001の認証マークを刷り込むことで営業上のスティタスが得られるだけだろう。
ゴルフ雑誌には相変わらず様々なクラブのメリットが載っている。ゴルフはクラブの価格でなく練習量だけがハンディを減らす絶対条件である。2週間後の月例会で80を切るスコアを目標にしており、所属コースのレイアウトをシュミレーションしていた。ISO審査の準備で4日前の開催された造園業者会の定例ゴルフコンペをキャンセルしたせいでストレスがいくらか溜まっていた。
事務所のスライドドアがガラガラと開いので顔を上げると、フラワーショップの女子店員が顔をのぞかせた。事務所の横にフラワーショップを併設してあるのだ。
「失礼します。常務を訪ねてお客様がお見えです」
「どなたですか」
「年配の方でナカムラとおっしゃっています」
私は店員の後からショップに入った。色とりどりにラッピングされたコチョランの贈答用商品に囲まれた休憩スペースに初老の男性が腰かけていた。テーブルには買い求めたばかりのオンシジュウムの小鉢が置かれていた。
「こんちわ、叔父さんご無沙汰しています」
「カズ君元気そうだね。勤め先の病院のロビーに君の会社の花屋がリニューアルオープンとのポスターが張られていてね、それでこの場所を知ったのだよ」
「花を買っていただきありがとうございます」
町内の病院、公民館、食堂等、人の出入りのある場所にポスターを掲示してあったのだ。ハサマと呼ばれる本家の宏春叔父は近くのノーブル・クリニックに非常勤で勤めている。長い間那覇市内で産婦人科を開業していたが、施設の老朽化と一人息子が外科医になったことで閉業したのだ。80歳を超えたことも主な原因の一つである。クリニックでは婦人科と内科を診ているらしい。先の大戦中は義父の旧制中学の同窓生である。
「お義母さんの具合はどうかね」
「中頭病院の集中治療室から屋宜原病院に移っています。容態は安定しているようですが、意識もなく機械任せの生活を送っています」
「充君も大変だな。彼の体調はどうかね。以前に大動脈瘤の手術をしたはずだが」
「血圧は相変わらず高めですが体調に問題もなく、毎日母の面会に通っているようです」
「食事の世話や家の掃除等は嫁がしているのかい」
「いえ、私の妻が月曜から金曜日まで住み込みで面倒をみています」
「そうか。君も大変だね」
「子供たちも成人して家を出ていますし、単身赴任みたいにのんびりと暮らしていますよ」と笑った。
「ところで、2週間後の第三日曜日だがナ。7年巡りを予定しているのだよ。参加できるかな」
私はポケットから手帳を取り出した日程を調べた。所属するゴルフクラブのメンバー月例会が入っている。少し残念な気もしたが
「大丈夫です。何とか都合を付けます」
「そうか、良かった。その日は午前8時に宮里公民館前を出発だ。これが訪問先の道順だ」そう言ってカバンから茶封筒を取り出して中の紙を広げた。
「名護を出て最初に読谷を訪ね、それから越来、中城、佐敷、玉城、首里城と巡るのですね」
「そうだ、6年前と同じだ。25名ぐらい乗れるバスを手配したので奥さんが在宅なら一緒にどうぞ」そう言って立ち上がった。
「わざわざありがとうございます」私はオンシジュウムの小鉢を手に持って駐車場まで叔父を見送った。7年巡りと称するが、旧暦の歳勘定と同じで6年毎の一族の由来を訪ねる旅である。いつの頃から始まったか定かでないが、大戦以前の明治の頃から続いており、自動車交通の無い時代には米を持参して徒歩で幾日もかけて巡ったと言われている。沖縄本島北部の名護間切りの裕福な本家であり、馬車ぐらいは使ったかもしれない。分家筋の私には7年巡りの意義は理解できないが、50年余の人生で3度ばかり参加した記憶がある。大抵は我々分家の当主がその役を引き受けていたのだろうと思う。遥かに遠い日々の小学校高学年頃に、本家の爺様に連れられて一度だけバスで越来を訪問した微かな記憶が残っている。宏春おじは足腰の衰えた父の代わりとして私に参加してほしいと考えたのだろう
「完」

一族の由来を訪ねて(南部巡り)
2、(平田家)
10月の第三日曜日の午前7時30分、宮里公民館のガジュマルの老木の近くにプリウスを駐車した。このガジュマルの大木は私が幼稚園児として見上げた頃と全く変わらぬ大きさだ。否、幼稚園児の私が大木と感じた樹形と大人の私が大木と感じる感覚は同じでない。ガジュマルは50年の時を経て大きく成長しているのだろう。この場所は井戸があるも湿度が低いのであろうか

ガジュマル特有の気根の発生が見られない。 3宮里のガジュマル

公民館の南、100m程離れてこんもりと緑の繁る「前の宮」拝所が見える。樹高20以上のハスノハギリが数十本も繁る拝所は周辺の2階建ての民家よりはるか上に突き出ている。丸く大きな葉で覆われた樹冠は夏の日の海から立ち上がる入道雲にも似ている。私が幼稚園児の頃は公民館が公立幼稚園であり、拝所は夏の日差しを避けて幼児を遊ばせる最適な場所であった。幹回り5m以上で巨大な樹冠を作る巨木の間は20m以上も離れており、鬼ごっこや遊戯に興じる格好の広場であった。広場の端は海辺となっており、水遊びや砂遊びで子供たちがはしゃぎまわっていた。遠浅の海は奇跡的なエメラルドグリーンの美しさで広がり、名護湾の対岸の恩納岳の低い山並みが水平線の切れ目まで連なっていた。その風景は三十数年前までのことで、今では埋め立てられて運動公園に変わり、拝所の前を新たな国道58号が走っている。そして観光客のレンタカーが朝夕の交通混雑を引き起こしている。

公民館の2軒隣りに根神屋と呼ばれるノロの家がある。現在はノロのなり手がおらず木造建築の拝殿は公民館の女性事務員が管理をしている。男子の立ち入りが禁じられているのだ。ハスノハギリが繁る「前の宮」の一角には女人禁制の藁縄を張り巡らした結界の拝所がある。その拝所の手入れは区長さんの仕事である。
1ハスノハギリ

古い時代の名護間切りは東から東(アガリ)、城(グシク)、大兼久(ポーガニク)、宮里(ミャーザトゥ)の4集落で形成されていたようだ。集落の歴史家によると宮里は名護間切りの西の端を流れる屋部川の中流域の湊と称する場所を起源としており、湊(ミナト)ナントゥ、ナーザトゥと訛ってミャーザトゥの呼び名に落ち着いたとのことだ。台風の影響を受けやすい砂の原野に村人が落ち着くまでは随分と時が経ったことであろう。人々の棲家は水の利用が便利な川辺から始まったと理解するのが正しいと思う。私が中学の頃まで耕作していた田畑はヒルギ原、ナザキ原と称する地名である。ヒルギとはマングローブ林の樹木の一種であり、ナザキとは雑草のチガヤのことである。要するにマングローブの生い茂る湿地帯が水田に変わり、陸地化した原野が畑地になったのだ。農耕が盛んになるにつれて農地に適さないが、湿度が低く居住地に適した砂地に集落が移動したのであろう。古くからある屋敷は海浜植物のオオハマボウが防風林として屋敷の周りに植栽されており、僅かに塩分の混ざった井戸を備えていた。私の実家にも水量が豊富な井戸があり、広葉樹であるオオハマボウの新梢は田んぼの緑肥として利用していた。村はずれに歌碑があって「名護の大兼久、馬走らちいしょしゃ、船はらちいしょしゃ、わ浦泊」と方言の琉歌が刻まれていた。日本語訳にすると「名護の大兼久、馬走らせて楽しいことよ、船走らせて楽しいことよ」の意味だ。この地での草競馬は消えたがサバニと呼ぶ小型船の手漕ぎボートレース(ハーリー)は現在でも盛んだ。名護市長杯の全島選手権があるくらいだ。ちなみに旧暦の5月4日に県内の漁師町で開催されるハーリーの銅鑼が鳴ると梅雨が上がると言われている。大兼久(ウフガニク)とは広い砂地の意味である。海岸近くの砂交じり土地を兼久地(カニクジー)と名護市周辺の方言で称する。歌碑の記録では幅8間(15m)、長さ120間(220m)の馬場であったようだ。父に歌碑と馬場の話をしたことがある。母が気管支炎で入院中であり、父と二人だけで夕食を取っているときのことだ。箸を止めて遠くを見るような目で話し始めた。
確かあったようだ。ワシが子供の頃にもその痕跡が残っていた。「前の宮」のさらに東側で大兼久集落との境だったと覚えている。当時の小中学校が大兼久集落と城集落の間にあったので馬場の跡地に出来た砂交じりの道を通って通学していた。学校の帰りに本家の前を通ると本家の爺様に呼び止められ家の縁側でふかし芋とひとかけらの黒糖を食べさせてくれた。「美味いか、チュウバー(猛者)になれよ」と言った。そして納屋に連れて行って壁に吊るした馬の鞍を見せて言った。「ワシが青年の頃は馬場で馬を走らせる競争をしたものだ」言った。爺様は明治の少し前の生まれで。紐で結ばれた丸い眼鏡をかけて新聞を読んではワシの知らない世間の話をしてくれた。ワシの子供の頃は新聞などというものは何処にも無かった。ワシにとって学校の先生よりも位の高い雲の上の存在であった。爺様は明治の断髪令に反抗して未だにカンプゥ(髷)を結っていた。村の人は爺様に合うと誰もが頭を下げて挨拶していた。父は汁椀を手に取って味噌汁を一口飲んでから少し顔をほころばして話を続けた。爺様の話には続きがあってナ。親戚の叔父さんからこんな話を聞いた事がある。爺様の若い頃は家で書物を読んでばかりいて、畑の見回りに積極的に行かなかったそうだ。たまに親父に叱られて見回りに出ても、一刻もしないうちに帰宅したそうだ。婆さまが問いただすと「暑いし、脚は痛いし一里も先の小作人の田畑まで回る気がしない。近くの小作人が頑張っているから遠くの小作人も同じく真面目に働いているだろう。ワシは学問が好きだ。田畑の管理は親父殿に任せとけば良いでしょう」と口答えしたそうだ。母親を早くに亡くした爺様は祖母に育てられたらしい。そこで婆様は馬を何処からか探してきて、これに乗って田畑を回っておくれと言ったそうだ。爺様は馬に鞍を着けて昼飯のイモを持って朝から小作人の田畑を回って夕方に帰宅したそうだ。日に焼けて帰宅する爺様は次第に体つきもがっしりしてきたので婆様はひどく喜んだそうだ。父は言った。幾ら遠い田畑でも馬で行けば1日中かかることは無いだろう。ほれ、今の為又集落の奥地でも大した距離ではないのだから。爺様は確かに小作人の田畑を回ったのではあるが、昼食後は馬場に行って馬を走らせて遊び、夕方に馬を水浴びさせてから帰宅したそうだ。確かに体は頑丈になっただろうさ。いつの時代でも婆様は孫に甘いのさ。ワシも子供の頃に弟と二人は祖母に育てられて小中学校を卒業したのだ。その頃は国の政策で南洋群島開拓団が流行っており、両親や多くの親戚が南洋群島のテニアン島、ポナペ島に出稼ぎに出ていたのだ。沖縄県民は貧乏人が多かったから沖縄より暮らし易い南洋群島に生活の糧を求めたのだ。そのことを知っている本家の爺様はワシらの生活を気にしていたのだろう。父は少し寂し気に笑って食事を続けた。
2馬場

1970年名護町、屋部村、羽地村、屋我地村、久志村が合併して名護市となった。

ハサマ一族の本家の現在の当主である宏春叔父は一族が集う祭事の度に我一族がこの地に住み着いたのは1500年代であると家系図をみせて説明した。我が一族は湊と称する時代からこの地に住んでいた土着民ではなく、外来転入者の一族ということになるのだ。家系図なるものを持つ外来者故に一族の由来を訪ねる礼拝地所お参りの旅を定期的に行っているのであろう。宗教的ない色合いを持たず、琉球列島伝統の祖先崇拝として一族の繁栄と自らの心の安寧を求めて、一族を繋ぐ礼拝地所を巡る旅をするのである。
公民館の広場には沖縄県農業協同組合北部地区本部と書かれたマイクロバスが停まっていた。三菱自動車の27名乗りである。フロントガラスの上部に「ハサマ一門様」と書かれた紙が貼られていた。このバスで拝所地巡りのツアーにでるようだ。バスの周りには既にバスツアーに参加する親族が集まっていた。本家のヨシ叔母さんの顔が見えたので声を掛けた。
「今日の参加費はどうすればよいでしょうか。参加は私一人ですが6名家族です」
「ハサマの一族の者一人に付き500円です。貴方の奥さんの分は要りませんよ。血縁者ではないから」
私は父と娘4名と自分の分を含めて3000円を納めた。叔父の嫁が会計役をしていた。参加費は訪問先のお布施として使われるのである。次々と参加者が会費を納めてバスに乗り込んだ。私は皆が席を取ってから最後に乗り込むためバスの外で待った。叔母に参加者の人数を尋ねると総勢29名ということである。但し名護市から参加するのは20名で那覇市在住の者9名は最初の訪問地である読谷村で合流するとのことである。バスは補助席を使わずとも乗れるようだ。一族の構成はハサマ本家が8名、私のマガイハサマ小(グワー)から8名、スージンハサマ小(グワー)から5名、コーブンハサマ小(グワー)5名、宏春叔父の従弟家族が3名である。分家筋には小(グワー)の敬称が付いている。本家が大(ウフヤー)で分家が小(グワー)らしい。沖縄県では良く見られる家の呼び名だ。私の実家はコーブンハサマ小の家の角を曲がったその先の家という意味らしい。曲がり角の先の家、曲りを方言でマガイと言うのだ。私の実家が一族の中では集落の最も西はずれに位置している。それでも本家との距離は400mも離れていないのだ。
午前8時、運転手がやってきて叔父に声を掛けた。
「皆さんおそろいですか」
見覚えのある男だ、私の顔を見てほほ笑んだ。高校の同窓生上間君である。高校の2年次に腎臓を悪くして1年遅れで卒業した男だ。その後、私と同じ大学の経済学部に進学して卒業後に沖縄県農業協同組合名護支店の経理部門で働いていたはずである。
「久しぶりだね。今は何処の農協に勤めているのかい」
「北部地区本部だ。資材センターの運営に関わる部署だ」
「今日はどうしたの」
「休みの日にボランティアで運転手をしているのさ。老人会の視察旅行などで県内をくまなくドライブしているよ。今回は職場の知人を介して宏春さんからの依頼を引き受けたのさ」
「そいつはありがたいな」
「おかげさまで大学にいた頃より中南部の道路事情に詳しくなったよ」
「俺は今でも大学のあった首里城の周りぐらいしか知らないよ」
「門中御願の拝所巡りは初めてだ。ハサマ一門は首里からやって来た由緒ある一族だってね」
「由緒あるかどうか知らないが、一族の絆を深める行事には違いないな。今日一日よろしくお願いします」そう言ってバスに乗り込んで後方の席に座った。バスの中は家族同士が対になって座っていた。6年前には兄と父の弟の三男叔父が私と並んで座っていたのを思い出した。今回は叔父も兄も不参加で叔父の次男夫婦が参加していた。奥さんは他府県から嫁いでおり妊婦であった。マガイハサマ小からは昨年亡くなった四男叔父の奥さんと長男次女、そして父の妹の二人の叔母が参加していた。門中御願の拝所巡りは老人会の慰安旅行とは随分と趣が異なる旅である。
8時20分:宮里公民館を後にして国道58号を南下した。許田から高速道路に入った。家族連れの年配の叔母さんたちは菓子類をカバンから取り出して皆に分け合っていた。まるでピクニックのようである。私も喉飴を1個貰った。バスの車窓から見る風景はいつもの乗用車からの視界と少し異なり、普段気付かぬものが見えて面白いものだ。しかしすぐに慣れてしまい眠気を誘った。気がつくと高速道路を降りて国道58号読谷村多幸山の長い上り坂に差しかかっていた。バスのエンジン音が高くなったので目が覚めたのである。目的地の伊良皆集落の手前の喜名交差点を右折して旧読谷米軍飛行場の跡地の荒涼としたススキが原の中を進んだ。右手の小高い松林の中に護佐丸の最初の居城座喜味城址ある。さらに進むと右前方の真新しい赤瓦の読谷村役場あり、そこに続く交差点を左折した。ススキの原野の中にアスファルト舗装の滑走路跡が長く伸びていた。その中を緩やかに左に旋回して進むと伊良皆集落の民家が見えて来た。目的の拝所付近が一方通行の為に大きく迂回して集落に向かったのである。大戦前の豊かな農耕地と集落は米軍に接収され軍事施設に変わり、日本復帰まで利用されてきた。返還後も土地利用が中々進まないでいる。一度アスファルトで固められた土地は以前の豊かな耕作地に容易には戻らない。数百年の時代を積み重ねて耕作に適した土地に作り上げた農地をブルトーザーで剥ぎ取り、コーラル砂利を敷きつめてアスファルトで被覆してしまったのだ。先祖伝来の農地は農作物の生産能力を失ってしまった。その代り軍用地料という新たな換金収入源を発生させた。大戦後の半世紀の間に住民と土地との関りを一変させてしまった。人工的な荒廃地が出現した今日、住民は土地本来の能力を再現するエネルギーを見いだせないでいるのかもしれない。集落の消滅は村人を散逸させてしまい、農村としての土地利用に関する世代間の継承が途絶えてしまっているのだろう。それでも米軍が去った後には新たな文化が芽生え始めている。座喜味城址の周辺に「やちむんの里」が形成されている。読谷村の政策の成果である。琉球王朝時代に城下町の壺屋に島内の陶工が集められて壺屋焼きという琉球独特の陶芸が発達してきた。しかし大戦後の那覇市の爆発的な人口の集中は焼き物工場の存在を圧迫してしまった。大量の薪を燃やし、住宅街に煙を吐き出す壺屋焼き独特の登り窯は都会の空気に馴染むわけにはいかなかったのである。私の友人で沖縄県立芸術大学元教授のSさんも30数年前まで壺屋でガス窯を使って焼き物をしていたが読谷村の募集に応じて「やちむんの里」に移って来た。現在ガラス工芸などを含む60余の工房があり、一つの文化村を形成している。緑の中に点在する工房と作品の展示即売所は観光客の往来が絶えない。壺屋焼き独特の伝統的な技法から斬新な若手陶芸家の作品まで多彩な焼き物を鑑賞できる地域である。ガラス工芸の体験工房も幾つかあって土産品の購入以外でも楽しめる地域である。
私は15年前に友人のSさんの紹介で宮城敏徳氏のシーサー1対を求めたことがある。自宅を立て替えた際に門柱に据える為である。50㎝程の高さであるが伝統的な表情をしたシーサーで威風堂々としている。今年に入って愛知県でマンションを買った長女に頼まれて玄関に据えるシーサー1体を探しにやちむんの里を訪れた。宮城氏の工房は代が変わり既に以前の面影のある作品は消えていた。最近の観光客に威風堂々は好まれぬようだ。私はSさんの穏やかな性格が滲み出た優しい表情の逸品を求めた。屋外に置くシーサーは威風堂々でも良いが玄関の内側に置くシーサーは穏やかな表情で帰宅した家族を迎える方が良いとも考えた。ちなみに壺屋焼きの伝統的な食器は最近の西洋料理は相性が良いとは言えない。米国式の食生活が他府県より早くに普及した沖縄県では、洋風と地元料理の混合料理が普及していて、伝統的な器は料理とのマッチングがあまりよろしくない。私は大学の先輩が復元した名護市羽地の古我知焼の工房を時折訪ねて湯飲みなどの小品を求めるのであるが、実用品としては長く使用できないでいる。観賞用としての存在になってしまうのは残念である。
最初の訪問地である平田家の前でバスを降りた。既に那覇からの一族が待っていた。平田家は尚巴志の祭壇を祭っているのだ。祭壇は本宅と別棟で10畳程の広さのコンクリート造りの平屋である。宏春叔父が本宅へ挨拶に行くも不在らしく戻って来た。祭壇のある建物は鍵が掛かっておらず勝手にガラス戸を開けて中に入った。祭壇の中央にはお布施を投入するポストにも似た穴が開いており、お布施口と紙が貼られていた。部屋の左隅に水道付きの流し台があり、「水道の閉め忘れと火の元にご注意ください。ウチカビはご遠慮ください」と張り紙があった。現在の平田家の管理者は頻繁に訪れる拝観者に対応出来ないのであろう。1400年代の初頭、三山を統一して琉球国の初代王に付いた尚巴志という琉球のスーパースターは、今日でも平田家に関わっているのである。国道58号を隔てて約600mの場所に尚巴志の墓があるようだ。尚巴志は沖縄の歴史上の偉人であり今でも名前だけが独り歩きをしている。この祭壇に線香をあげるのは、ハサマ一族だけでなく立身出世を願う財界人、政治家が頻繁に参るそうだ。とりわけ政治家にその傾向が強いと言われている。尚巴志に我が身を投影して世の中を治めたいとの自負心があるのだろう。
平田家が守っている祭壇には右端に火の神(ヒヌカン)の香炉、中央に尚巴志、平田之子、屋比久之子と並んでいる。平田氏、屋比久氏は第一尚氏に代わって第二尚氏が台頭した折、第二尚氏の手を逃れて尚巴志親子の遺骨をこの地に移動したとの伝承がある。第二尚氏の始祖金丸は自ら尚円王と名乗るも血族ではない。内乱の隙に乗じて王になったのである。当時の琉球国は中国の認可の元に交易を行っており、首里城近くにある尚巴志親子の墓の存在は目障りであったのだろう。何しろ中国の冊封子と呼ばれる紫禁城からの官僚が定期的に首里城を訪問して文化交流をしていたのだから。平田氏と屋比久氏は第二尚氏が采配を振るう前に骨壺を移したのである。平田氏は座喜味城址の北20kmにある伊波城址の出と言われている。宏春叔父より前の党首は伊波城址も御願の対象としていたらしい。叔父は実家と遠く離れた那覇市内の産婦人科病院の経営に追われて実家の祭りごとは先代に任せきりであったと口にしたことがあった。ハサマ一族は尚巴志の五男である尚泰久王を始祖としており、その親を奉る意味での参拝である。火の神、尚巴志、平田氏、屋比久氏の順に参拝するのだ。
お祈りの口上をスージンハサマ小の英明さんの奥さんの幸子さんが説明した。
「私は名護間切りのハサマ一門の誰それです。どうぞ私の家族の子々孫々まで繁栄させてください」と心で唱えて祈るのである。何度も線香を立て、水酒を取り換えての祈りは手間がかかるものである。さらに線香が燃え尽きるまではこの場所から離れられないのである。一連の御願は宏春叔父の長男の宏樹とその奥さんが行い、年長者の幸子さんがアドバイスをして儀式を進めた。10畳程の部屋が忽ち線香の煙で充満し、衣服が沖縄独特の平線香の香に染まった気がした。
35分ほどで儀式が終わり、バスに向かう途中で幸子さんが言った。
4平田家

「この先の米軍基地の近くに尚巴志のお墓があるのよ。どうして其処にお参りしに行かないのかしら」
「この近くに尚巴志の墓があるのですか。幸子姉さん詳しいですね」
「私は読谷高校の出身ですよ」と笑って答えた。
「そうですか、宮里の方だと思っていました」
「お墓は本通りからあまり遠くなく、今では楽に歩ける道があるのよ。その近くを比謝川の支流が流れていて佐敷川と呼ばれているの。私が思うに佐敷出身の屋比久氏を偲んで地元の村人が名付けたのでしょうね」
この地に屋比久氏の祭壇があるということは、故郷の佐敷に戻ることなく骨を埋めたのであろう。屋比久姓は中・北部に少なく佐敷町に多い一門である。
僕らは上間君の誘導でファミリーマートの駐車場に止めてあるバス向かって歩き出した。嘉手納基地からやって来たと思しき3機の戦闘機が爆音を響かせて頭上を飛び去った。閑静な北部の田舎町で暮らし爆音に慣れていないハサマ一族が一斉に空を見上げた。
「完」

一族の由来を訪ねて(南部巡り)
3、(嘉手納基地)
10時10分、平田家の近くのファミリーマートの駐車場からバスは次の礼拝場所に向かった。国道58号を喜名交差点でUターンして南下した。ゆっくりと下って比謝橋を渡った。17世紀の琉球王朝の女流歌人吉屋チルーの歌碑が橋の近くのポケットパークにあるはずだ。読谷村山田の貧しい農家の生まれで、8歳で花街に売られていく途中の比謝橋を渡る際に歌った歌がある。
「恨む比謝橋や、情け無い人の、我身渡さと思て、架けて置きやら」
美女薄明で身分の違う恋に破れて18歳で命を絶ったと言われている。悲恋の女流歌人である。レンタカーナンバーの車が行き交う現在の比謝橋を眺めて、吉屋チルーはどう歌うだろか。比謝橋を過ぎるとゆっくりと上り坂となっていて嘉手納ロータリーに入る。正面は嘉手納飛行場で国道58号はその横を南下して那覇市まで続く。バスは左折して県道74号に入り米軍基地のフェンス沿いを沖縄市に向かって進んだ。米軍戦闘機ファントムの発着は見られず、格納庫の前で日向ぼっこをしている。遠くに黒い機体のB-52大型爆撃機が羽を広げている。格納庫に収まらず、駐機場に停まっているのだろう。台風の後に飛来するグンカンドリ似て異様な黒褐色の機体を駐機場に晒している。これだけ大きな機体が空を飛ぶのか、この大きさの機体はどれ程多くの爆弾を投下出来るのだろうか、そしてどれだけ多くの人民を殺傷するのだろうか思うと不快になった。父を除く兄弟姉妹は南陽群島のテニアン島で戦争に巻き込まれ、皆で難儀して育てたサトウキビ畑を無造作に均して作られた飛行場からB-29爆撃機が連日飛び立つのを見ていた。そして本土の都市を爆撃して広島、長崎には新型大量破壊兵器の原爆を投下したことを大人の噂話から知った。父は長崎大村の海軍基地で潜水艦乗りとして終戦を迎えた。むろん長崎の原爆被災地の状況を知っていただろうが、僕らにその惨状を話すことは無かった。
5-1嘉手納基地2

あまり高さの無い建物には星条旗と日の丸が初秋の西風を受けて翻っていた。沖縄が日本復帰した頃から自衛隊の交流があるのだろう。嘉手納ロータリーにはいつの間にか防衛局の沖縄事務所の建物が居座っている。戦争に負けて米国の支配下に安住することへの羞恥心を失い、武士道を忘れた日本人の哀しい姿である。もっとも武士道は日本帝国軍が天皇を狡賢く利用した時点で死語となっていたのだろう。正義の無い侵略戦争を隣国や東南アジアに広げて自国を崩壊させてしまったのだ。日の丸の旗は沖縄県民の歴史観が日の丸に対する憧れと悲哀が重なって複雑な思いとなって風に翻っているのだ。まして星条旗と並んで秋風に翻っていると尚更である。私には広大な米軍基地の中にはためく日章旗は虎の威を借りる狐が虎に化けるための呪い用の木の葉にも思えるのだ。農耕民族が狩猟民族に迎合していつまでも続いてくれる平和の白昼夢を見ているように思える。
農耕民族である日本人は本物の戦(イクサ)を身近に体験してこなかった。長い武家社会の歴史の中の戦は国民の6%に過ぎない武家の戦いであり、国民の意思で戦いに参加することは無かった。日露戦争の戦勝に沸きたった余韻で二次大戦へと突入していった。天皇を頂点とする神の国の選ばれし国民という訳のわからぬ理屈は、西欧列強への劣等感の裏返しであったのだろう。過去の愚かな戦争の歴史を反省する者は多いが、今日のお愚かな国防行動を反省する者は少ない。今日の日米同盟によって自らの平和な暮らしを守ってもらっているとの錯覚に気づかずにいるのだ。日米安保条約は米軍人の治外法権を容認して彼らの良心に基づく行動を期待してきた。米国軍人による犯罪行為を見ないふりしてきた日本の知識人すら多いのだ。米国軍人を羊の皮を被った狼とも知らずに平和の使者と歓迎する愚かな思想から抜け出せずにいる日本国民に悲壮感を覚えるのは私だけではあるまい。日本人は武家社会と変わらぬ発想のままであり、武士が庶民を守ってくれるとの歴史認識のままで戦後の70年を過ごしてきた。自衛という観念が育たぬ中で自衛隊なる集団を作り、多くの思いやり予算で米国軍を雇ったつもりになっている。自衛隊は所詮的撃ちの公務員に過ぎず、米国軍人のような殺戮の戦場を這いずり回る殺人集団には育っていない。農耕民族は狩猟民族の歴史を好まない。今日ある農作物は明日もそこに実っているだろうが、今日撃ち取った獲物が明日もそこに現れると思う狩猟者は皆無だろう。自らの命の危険と引き換えに今日の糧を得るのが狩猟民だ。米国は膨大な農産物を生産する国であるが農耕民族ではなく狩猟民が作った国であり、いまだにその狩猟民族としての思想が国民の基礎になっているのだ。農耕民族で形成された自衛隊が狩猟民族の米国軍と対等な能力を持つことは出来ない。幸か不幸か日本は幕末の開国で西洋列強に侵略されず、英米に比べて国民が異国の人種と混在することが無かった。それを国粋主義者は神が与えた純潔国民と自負するが遺伝学的には南北海洋民族の混血種である。ユーラシア大陸の極東の小国が300年の眠りに就いていただけだ。西欧諸国に産業革命と略奪紛争の吹き荒れる中で揺り篭に安眠をむさぼっていただけだ。明治の開国依頼100年の騒乱の時代を経て日本は本来の農耕民族の形態に戻ってしまった。自力で防衛する能力を育てる術を米国の虚言によって放棄したのだ。国家の自己防衛とは個人の生死の間にあるであって政治家の机上にあるのではない。
私は遠く青年期の終り頃、果樹園管理の仕事を兼ねて射撃と狩猟に明け暮れた日々があった。その時に射撃と狩猟が同じ火器を扱うも似て異なることを知った。
例えば的撃ちのライフル射撃では、照星の先でクルクル回る黒い標的が止まるのを待ってゆっくりと引き金に圧力をかければ良い。引き金は絞るのではなく押すのだ。その方が無意識の行動に入りやすい。心臓の鼓動さえもがと止まる気配の中に身を置けば良い。禅の世界に近い空間に身を置くのだ。一方、スキーと射撃では、プールから飛び出したクレービジョンを照星に乗せて引き金を引き、銃身を反転してマークから飛んできたクレービジョンを追い抜きざまに引き金を絞ればよい。何も考えずにただ素早く正確なレミントンM1,100の銃床の頬付けと機敏で正しい軌道での銃身の切り返しだけだ。
ところが狩りは的撃ちとは全く異なる。肉体と精神を融合させる行動である。例えば12月の夕暮れ時、稲刈りの終わった名護市の北の羽地集落の水田地帯の片隅のキビ畑の陰に隠れ、近くの農業用ダムから飛来するカモを待つ。やがて山影から十数羽のカモが編隊を組んでやってくる。ゆっくりと旋回しながら上空を舞い、次第に高度を下げて降り場所を確認している。レミントンM-870の30インチ銃身に込めた4号弾の射程に入るのを待って先頭の一羽目を撃つ、そして荒れた隊列の次の一羽を打つ、それが外れると3発目のマグナム3号弾を発射する。回収犬を使わずカモの落下地点を目で追っての狩猟では2羽が限界だ。ルアーフィッシングで2キロのガーラ(ロウニンアジ)を釣り上げるほどの興奮もなくゲームが終了する。そして銃を肩に担いで田んぼの稲の刈り株の間に落ちたカモを回収して肥料の空き袋に入れる。今しがたまで羽ばたいていたカモは未だ生暖かく生命の名残を残している。狩人の心に生き物の命を取り去ったことへの奇妙な寂寥感にも似た感傷が僅かに芽生えるのだ。
5-2羽地水田羽地米として人気の銘柄の春の田植え直後

大型獣の猪撃ちの場合はもっと明確だ。4月の早朝。果樹園の防風林イスノキの下に茂るススキの陰に隠れてリュウキュウバライチゴの茂みに意識を集中する。前日に果樹園のフェンスの金網が腐食して破れた部分からイノシシの出入りしている跡を見つけておいたのだ。足跡が新しく近くのイチゴの実を毎朝食べに来ているのだろう。イノシシは熟した果実しか食べない。イチゴに限らず温州ミカンやタンカンもそうである。特にうまい果実の実る木を知っているようだ。グルメな動物である。野イチゴ狩りを山鳥と競って早朝にやってくるのだ。私はレミントンM870の銃身に照星と照門を取り付けて猪撃ち用に改造してあった。1発目にライフルスラグ弾、その次に9粒弾を3発込めてあった。煙草をじっと我慢して1時間ほど待った。朝日が昇る直前になっても気配が無く、米軍野戦ジャケットのポケットの煙草に手を伸ばそうとしたとたんに30m先のフェンスが揺れた。ススキとチガヤとシャリンバイの幼木が入り混じって生えた場所がカサカサと揺れた。ゆっくりとこちらに向かっている。姿は見えないがイノシシ以外にあのように草木を大きく揺らす動物はいない。膝撃ちの姿勢をとってススキの間からイチゴの茂みに体を向けて待った。銃を担ぐ革のスリングを左腕の前腕に巻き付け銃身のブレを抑える工夫をして息を殺してイチゴの茂みの動きを見つめた。イノシシは低い枝のイチゴを食べているらしく中々姿を見せない。しかしイチゴの樹冠は1m近くあり、下枝の実を食べつくすと上の部分の実を食べるだろう。その時に顔を出して私に正確な体形の位置を示すだろう。フェンスに沿って15m程の長さで広がるイチゴの茂みの一か所だけが揺れている。そこにいるのは分かっている早く顔を出して高い位置のイチゴを食え。私の心臓は初夏の爬龍船競争の銅鑼鐘の様に高速に打ち鳴らされている。血流が全身を駆け巡った。そしてついにイノシシの鼻先が見えた。人差し指で引き金の手前にある安全ボタンをはずした。パチンと音を立てて安全ボタンが赤色に変わった。いつもは意識しない安全ボタンの開錠音がひどく大きく聞こえた。イノシシがこの音に反応することは無かった。喉が無性に乾いた。唾を飲み込むと銃身が僅かに動いた。イノシシはしきりにイチゴをむしっていた。時折イチゴの葉の間から鼻をのぞかせた。小さな舌先が鼻を舐めた。やがて前足を上げて後ろ足立ちで体を持ち上げた。イノシシの横顔がほんの少しイチゴの葉の間から覗いた。可愛い目をした若いイノシシである。照星を胴体と思しき位置に向けた。イノシシは無防備な状態で私のレミントン照星の先にいる。私は一瞬引き金に圧を加えるのを躊躇った。イノシシの顔がイチゴの葉の中に消えた。私はフーと息を吐いた。イチゴの茂みが僅かに揺れている。その上にイチゴの実が多数残っている。もう一度立ち上がってそれを取るはずだ。私は銃床から頬を離し手のひらを開いて指を屈伸して握りなおした。そして再び茂みの一点に焦点を合わせた。イノシシが背伸びをするように後ろ足で大きく立ち上がった。私はイノシシの腹の辺りに照星を少し降ろして引き金を絞った。文字通り右手を握りしめるように絞った。右肩と頬にライフルスラグ弾特有の強い衝撃が走った。キジバト撃ちの7号半やカモ撃ちの4号弾と比較にならない衝撃である。イチゴの茂みの中でピーとイノシシが甲高い悲鳴にも似た鳴き声を上げて野イチゴの枝葉を激しく揺さぶった。私はすぐさまススキの陰を飛び出して揺れる茂みの5m前からM870のスライドレバーを操作して3発の9粒弾をその中に連射した。イノシシの鳴き声はすぐに止んだ。イノシシのもがきで茂みが割れてイノシシの姿が見えた。その頭部に向けて止めの引き金を引いた。カチンという撃鉄の乾いた音がした。レミントンの弾倉は空になっており弾を撃ち尽くしていた。既にイノシシはピクリとも動かなかった。背骨の部分が大きくえぐり取られた若いイノシシが横たわっていた。一発目のライフルスラグ弾がタンブリングして背骨と背筋を直径10㎝程弾き飛ばしイノシシの動きを無能にしたようだ。私は銃を肩から降ろして脇に抱えたまま茫然とイノシシの死体を眺めていた。時の流れを見失っていた。ふと首筋に日の光の温かさを感じて振り返ると普久川の谷間にある安波集落の向かいの林から朝日が顔を出していた。散弾銃の引き金の後ろの安全ボタンを押すと、パチンと音がして赤い目印が消えた。銃を肩にかけ煙草を取り出して火をつけた。朝凪の森に煙草の煙がゆっくりと広がった。イノシシを果樹園の管理道路まで引きずりだしてから100mほど先の防風林のイスノキの脇に止めてあるダットサンピックアップに向かって歩き出した。2本目の煙草に火をつけてからトラックのエンジンをかけた。爬龍船競争の終わった心臓は心拍数をいつもの調子で叩いていた。30㎏程のイノシシを荷台に積み込み果樹園の管理棟に向かった。猪撃ちの興奮は消えて若イノシシの優しい瞳とぼろ毛布の如く草むらに横たわる姿が私の脳裏に繰り返し交錯した。高揚感の代わりに疲れを伴った寂寞した感情が残ってしまった。大きな躯体と感性を備えた表情を持つ生き物の命を奪う行為の報いのような気がした。的撃ちと狩猟の違いがそこにあった。その後も何頭かのイノシシを撃った。狩猟を止めて二十数年も経つがスラグ弾を撃つ衝撃と硝煙の臭いは未だに忘れることが出来ない。それは私が小心者故か、誰もが抱える人間の本性であるかの区別は解らない。
5-3やんばるの森国頭村の原生林、猟師が消えてイノシシが増えている。

ベトナム戦争、中東戦争と容易に大義名分を掲げて人間を狩っては覇権を争う米国軍と何かを御旗にして狂気に陥らねば人間狩りをできない日本国軍の違いは確かにある。そしてそれを認識できない現代の日本人の民族としての哀しさが嘉手納基地に翻る日章旗に存在している気がした。

「完」

一族の由来を訪ねて(南部巡り)
4、(川端家)
バスは嘉手納基地のフェンス沿いを走り、松本交差点で左折して沖縄市美里(南)交差点近くで停まった。バスを降りると越来3丁目の2の表示板が電柱に固定されていた。我々はファミリーマート越来店の横の路地をぞろぞろと下って行った。人通りもなく閑散とした古ぼけた住宅がひしめき合っていた。20年ばかり前にタイムスリップした感があった。300mほど下ったくぼ地に川端家があった。谷間の始まりに似た場所で川端家からさらにゆっくりと谷間が西の方角に続いていた。おそらくこの谷間は比謝川の支流の起点となっているのであろう。敷地の一角にトタン屋根の倉庫に似た建物とその横に古い鉄製の大きな煙突か立っていた。煙突には錆が浮いており長い間使われた形跡がない。この施設は風呂屋であったのだろう。
川端家も平田家と同様に母屋と拝所が別棟となっていた。只、平田家ほどの来訪者は無い様だ。川端家の90歳近い女主人が母屋の仏間に我々を招き入れてくれた。全員で仏壇に手を合わせてその次に隣の棟の配所を全員で祈願した。6川端家

川端家の始祖は第一尚氏の6代国王となる尚泰久王子とノロの世利久の間に生まれた子供である。ハサマ一族は川端家の6代目の次男を始祖としている。宏春叔父は正月の初祈願に系図を開いて分家の我々に説明するのが常である。首里王府勤めの役人が何故に王府から遠く離れた本島北部の田舎やんばる地の名護間切に移り住んだか定かでないが、系図では読み取れない何らかの事情があったのであろう。庭の一角には尚泰久王子が我子の誕生を記念して植えた白椿がある。越来白玉という一重咲きの品種である。現在の株は高さ1.5m程で、実生で続いた何代目かの株であろう。私の小学生の頃に訪れた記憶では幹回り30㎝で3m余りの老木であった。半世紀の間に代替わりしたのであろう。越来白玉は純白で貴婦人のような気品のある花である。成長が遅く育てにくい品種でもある。私も6年前に訪れた際に種子を採取して育成しているが未だ開花に至っていない。ツバキの盆栽マニアの間でも幻の名花と呼ばれているらしい。家主の老女は気さくな方で我々に炭酸飲料のオロナミンCを配ってくれた。宏春叔父が訪問のアポイントを取るために訪れた際に十分な謝金を渡したのであろうと推察した。叔父は一族の当主として幾日か前に必要個所を事前訪問しているのである。離れの配所は世利久を祭ってあり、川端家の直系の縁者以外の来訪もあるらしく、平田家の離れの配所と同じ造りである。7白椿3

川端家の向かいは石ガーと呼ばれる湧水地がある。分水嶺の谷の始まりである。白椿の他に水の利権を与えたのである。川端家はその水を利用して風呂屋を営んでいたようだ。尚泰久王は越来王子の頃、首里と沖縄北部との交通の要であるこの地を治めている。そのころに第二尚氏の初代王となる金丸を側近として登用している。尚巴志、尚泰久、金丸(尚圓王)は琉球王国の誕生初期の頃に最も大きな変革をもたらした人物達である
8井戸

我々はこの石ガーを拝んだ。井戸には手漕ぎポンプが設置されており、ハンドルを上下させると勢いよく水が出てきた。井戸の周りは100坪程のポケットパークとなっており、多くの椿が植栽されていた。ただ品種は園芸種らしく樹形や樹勢が越来白玉と全く異なっていた。越来白玉は貴婦人らしく庶民の園芸品種に混ざって育つことは出来ないようだ。僕らは緩やかな坂道を登ってバスに向かった。あまり立派とは言えない民家の表札には吉田、田端、山本、中村、石原など沖縄には少ない姓が目立った。那覇から参加した秀栄さんにそのことを話すと、「戦後、大和風に改名したのだろう」と吐き捨てるように言った。
私は少しだけ可笑しくなった。僕らだって戦後、仲村渠から仲村に改名したのだから。秀栄さんはそのことも含めて不快に感じているのかもしれない。私より一世代前の先輩は祖先への尊敬の念が強いのだろう。
世利久の墓はコザ中央霊園の中にあった。石灰岩をくり抜いて作られた墓は戦火にも耐えて石壁は苔むしていた。この周りは霊験が高いのだろう。樹木は手入れがなされず自然に生えていた。アカギ、ガジュマル、ホルトノキ、クロツグ、トウズルモドキが無造作に自然の摂理に任せて存在している。尚泰久が覇権を示したの頃から悠久の時を経て存在しているのである。墓の庭は岩をくり抜いて作られており、周りより窪んでやたらと湿度が高くなっている。藪蚊がたちまち集まってきて僕らの血で栄養補給をするために活動を始めた。宏春叔父が蚊取りスプレーを噴射するも蚊の数には及ばない。僕らは手早く線香あげて手を合わせて立ち上がった。隣に大戦後に造られたコンクリート製の墓があり、川端家と表示されたていた。
宏春叔父が立ち上がって言った。
「この先にもう一か所お参りすべき墓があったはずだが、地形が変わってよく分からない」
指さす方向の崖の上にはブロックが積まれており、「中の町建材資材置き場、立ち入り禁止」の表示板があった。
「名護墓と呼ばれていて、名護から来る人達だけが拝んでいたそうだ」
ブロック塀の左端の崖下に小さな古い墓が3基並んでいた。そこに続く小道はブロック壁の手前で崩落していた。
「私たちの直接のご先祖も知れないのでお通しだけでもしておこう」宏春叔父の合図で手を合わせた。
参拝者はそれぞれにパチン、パチンと手をたたいて藪蚊を追い払いながらバスに戻った。私は近くに誰かがいる場合は不思議と蚊が寄り付かない。一人で藪に入ると蚊も不本意ながら私の血を求めるようだ。私の血は蚊の好みに合わないようだ。小道を下りながら気づいたのは誰か小道の周りのクワズイモやススキ葉を刈り払って通り易くしていた。宏春叔父の一人息子の宏樹に「叔父さんは下見に来たのかい」と尋ねた。
「先週の日曜日に川端家に挨拶に行ったようだ」返事した。
「そうかい、ここの小道も手が入っているね」と言って笑った。
「オヤジはマメな人ですから」そう言ってはにかんだ。
9世利久墓

コザ中央霊園を出て、コザ十字路横切り国道329号を南下した。中城村渡久地の公民館前でバスを降りて、公民館の向かいにある配所で手を合わせた。宏春叔父は何らの説明もしなかった。中城城址が近くにある場所だ。尚泰久王の義父護佐丸と勝連城主安麻和利の戦いに由来する場所かもしれない。昼時の空腹のためか誰もこの地の配所に関する質問をするものはいなかった。一行の直接のご先祖にかかわる場所とも思われなかった。皆は拝み疲れと空腹感で会話の余裕もなかった。
12:35、昼食を大西ゴルフクラブのレストランでバイキングスタイルの食事を取った。年寄、子供交じりの30名近い人間が食事をとれる場所は少ない。一人1,000円を払って好きなものを好きな量取れば短時間で昼食が済むのである。上間君と並んで30分ほどで昼食を済ませて外に出た。テラスの向こうには中城湾が秋の澄み切った空気の中で青く広がっていた。左手のはるか彼方に勝連半島が続いていた。半島の小高い丘に安麻和利の居城であった勝連城址があるはずだ。この地で戦国武将の護佐丸が安麻和利に滅ぼされ、安麻和利は逆賊として首里王府に滅ぼされた。戦国時代の実力者を排斥する為の尚泰久王と側近金丸の策略であろうが、側近として金丸を迎え入れたことで尚泰久没後に第一尚氏が10年を待たずに側近の金丸(尚円)を始祖とする第二尚氏変わるのも皮肉な歴史の変化である。日本の戦国時代の織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康の時代になって武家社会の安定期を迎えたのに似ている。いつの時代でも人間の個の力は集合して大きなエネルギーを生じ、それが終息するには攻防によるエネルギーの放出が必要なのであろう。中国、中東諸国、西洋とて同じだ。国土の大きさによってエネルギーの規模が異なるだけである。
10大西ゴルフ2

私はゴルフを始めた頃、この大西ゴルフ場で何度かナイターゴルフをしたことがある。ここから見るゴルフ場のロケーションは素敵だが、夜のゴルフ場は少し異なっている。ゴルフ場内には幾つもの古い墓があり。沖縄の亀甲墓は広い庭を備えている。ティショットを曲げてボールを墓の庭に入れると必然的にロスとボールだ。墓の庭からチップショットをするには墓の主に申し訳が立たない。一打罰で近くから打つことになる。スコアが100を切る頃からは大西ゴルフクラブでのナイターコンペは遠慮した。ちなみに沖縄出身の有名な世界的女子ゴルファーの父君も初心者の頃はこのゴルフ場のナイタープレーで腕を磨いたらしい。
「完」

一族の由来を訪ねて(南部巡り)
5、(月代の宮から首里城まで)
午後1時10分、上間君の運転するマイクロバスが駐車場にやってきた。午後の巡礼の始まりである。県道146号を下り、添石の交差点で右折して国道329号を南下した。
「添石の拝所には行かないのですか」幸子さんが宏春叔父に尋ねた。
「そこには行かない」素っ気なく答えて車窓に目をやった。中城は護佐丸、安麻和利、そしてその戦の仕掛人である尚泰久王の覇権が交錯した場所である。琉球の歴史の要のひとつではあるも仲村渠一族との関りは希薄だ。560年も前のことであり宏春叔父が気に留める要素は無いのであろう。宏春叔父にとって直近の血族である川端家が家系図の原点であり、その先の尚泰久王の活動の足跡は御威光を拝むだけの実像の乏しい礼拝でしかないのであろう。拝所としては奈良の大仏や伊勢神宮のレベルであるのかもしれない。
与那原町の交差点を左折して国道331号に入った。しばらく行くと佐敷小学校の横の通りに大きな鳥居がありその下を潜って山手に少し上ると月代の宮の拝所に着いた。馬天港を望む丘陵地である。佐敷城のあった場所で、尚巴志の父尚思紹が父の鮫川大主と共に伊平屋島から流れ着き地勢を固めた最初の拠点である。一介の流れ者の子に過ぎなかった尚巴志が地域の豪族の婿となり、琉球国の三山の統一の祖となったからには人並み外れた才覚の持ち主であったのだろう。歴史の分岐点に忽然と登場する英傑の一人である。
僕らは50段ほど階段を上って最上段の小さな祠と敷地内の一角を礼拝した。5度目の礼拝である。何度も礼拝すると集中力も薄れてしまいただ手を合わせて「ウートートゥ」と唱えてしまった。三山を統一した王の御威光を示すものは無く小さな祠が侘しく存在しているだけである。
11月代2

礼拝が終わって帰るときに祠の手前の鳥居型の拝殿の中の記名版を指さして宏春叔父が言った。「大戦後にこの月代の宮を再興したとき僕らの叔父も寄進したのだよ。私も叔父とともに落成式に参列したが、中々名誉なことであった」。叔父の指さす方角には厚板の上に献上者の名前が記載されており、金00ドルと記載されていた。かなり劣化しており仲村渠宏までは読み取れるがその次の一字は読み取れなかった。この姓名は他にはなく、確かに僕らの一族の一人だろうと推察した。その方は県内随一の日曜大工センターの創業者の祖父である。
僕らはゆっくりと階段を下りた。このあたりのホウオウボクは地際が板根状に立ち上がっていた。地下水位が高く根が土壌の表面を走っているのであろうか、まるでサキシマスオウノキの変異種かと思しき景観である。眼下に馬天港とその先の太平洋の青い海の上に久高島がポツリと浮かんでいた。この高台は琉球の神々の島に最も近い屋代に違いないと思った。
12板根

バスは県道137号を南下して琉球ゴルフクラブの横から脇道を抜けて富里の集落に入った。尚泰久王の墓参りである。墓は国道331号の改修工事で敷地の一部が削り取られた急な斜面の上部に位置していた。墓地の入り口の石碑には第一尚氏王統、第6代尚泰久王陵墓と刻まれていた。石碑の裏側には1985年1月建立、月代の宮奉賛会と刻まれていた。道路拡張工事に伴い月代の宮に関わる一族が整備に普請したのであろう。墓は尚泰久とその長男安次富氏が並んで配置してあった。石灰岩をくり抜き正面は石灰岩をブロック状に積み上げた現代の石組み工法である。
13-1

13-2尚泰久墓2

儀式通りの祈りをささげた後で、墓地の入り口横の太平洋が見える場所に移動した。青い海原の先に浮かぶ久高島に向かって礼拝するのである。久高島は琉球の王府に関わる神々の原点である。穏やかな秋の日差しの中で僕らは素直な心で血族の家内安全を無心に祈った。僕らはゆっくりと歩いて安次富家の離れにある拝殿に向かった。崖下から墓地に上り、今度は周回するようにキビ畑の細い道の歩いた。宏文ハサマ小(グワー)の喜美子が話しかけてきた。私より一つ年上の気の強い女である。浅黒い顔は変わらぬが血色が優れない気がする。内臓に不安があるのかもしれない。

「奥さんは元気。喘息気味で退職したでしょう」
「宜野座村の漢那タラソ通って、蒸気サウナで治ったみたいだ」
「そう、良かったわね」
「市民講座の太極拳教室に通い、名護市の婦人コーラスグループ茜雲にも所属しているみたいだ。派手なドレスで発表会に出かけているよ」
「貴方が働かせすぎたのよ。お嬢様育ちだから」
「書道塾は今でもやっている」
「忙しくて止めたわ、旦那の病気もあったし」
喜美子は小学校の事務職である。そろそろ定年だろう。妻が教職中は同じ小学校で同僚であった。3年前に夫を亡くしている。成人した息子と孫を同伴している。私は妻の言葉を思い出して苦笑した。
「貴方の従姉に喜美子さんという方がいるでしょう」
「ああ、宏文屋の三女で僕より一つ年上だ」
「先日、小学校の学習発表会の準備をしているときに校長先生が彼女に仕事を頼んだのよ」
「何を」
「舞台の上に掲げる平成00年度学習発表会の表示を書いてほしいとお願いしたのよ」
「確か喜美子は書道教室を開いていたはずだ」
「そうしたら彼女が校長先生にピシャリと言ったのよ『私の書はそんなものを書くためのものではありません』とね。校長先生はポカンとしていたが、そのまま事務の仕事を続けていたわ。書家としてのプライドが表に現れていたわ」
「そうかもしれないな、俺も子供の頃から彼女は苦手だった」
喜美子の顔に以前の覇気は見当たらない。苦労が彼女からある種のエネルギーを奪い穏やかな暮らしに埋没することを望んでいるのだろう。
私の前をとぼとぼと歩く女性は私より2歳上だが、10歳以上も年長に見える。父の末弟の嫁で昨年夫を亡くしている。二人の子供と一緒だ。亡くなった宏光叔父は大戦中にミクロネシア連邦のテニアン島で生まれた。戦火がひどくなって極端な食糧難の中で赤子が生き延びたのが不思議だと叔母たちが葬儀の時に話していた。体力に恵まれなかったのは赤ん坊の頃の栄養失調が影響したのだろう。幼稚園、小学校と私の母が育てたこともあり実家によく顔を出した。何とも言えない優しい笑顔の叔父であった。アルミサッシ工場を経営していて、私の最初の家のアルミ建具一式は叔父が作ったものであった。玄関には叔父から送られた畳大の姿見があり、贈・名護アルミと金文字で書かれていた。この姿見は2度目の自宅を建築した時に、古い家から取り外してウォークインクローゼット内に取り付けてある。厚みのある丈夫な逸品で叔父の形見になってしまった。この巡礼の旅は本家への義理で参加しているのではなく、心に何かを抱えている者達が参加しているのだ。はるか昔のご先祖の墓参りで心の重石を軽くする。あるいは光の届かぬ井戸の闇に蓋をかぶせたいのかも知れない。550年以上も前のご先祖の英傑を訪ね、自分の家族の繁栄を祈ることに現実的なご利益は無いだろうが。しかし、誰もが何かにすがって今の不安を解消したいのだ。宗教上の神のような高尚な存在でなくとも心の闇に僅かな明かりを灯す術が欲しいのである。自分の存在を明日へ導く何かが欲しくてその対象をご先祖の霊力に託すのは、沖縄に生まれた者の根底に流れる土着の宗教的な心の拠り所である。
安次富家の祭壇は平田家や川端家と同様に本宅の隣に建っている。尋ね人が気兼ねなく礼拝できるようにとの配慮である。尚泰久とその息子の安次富氏の位牌があり、香炉には三つ巴の紋が入っている。尚泰久の遺骨は明治になってから石川市の墓地からこの地に移されたらしい。第2尚氏の影響が亡くなってから血族の許に戻ったようである。月代の宮奉参会が尽力したのであろうか。仏壇には尚泰久の香炉の他に安次富家と関わる小さな香炉が並んでいた。宏春叔父は尚泰久の香炉に3本の線香を立て、他の香炉には1本ずつ立てて祈願した。はハサマ一族は安次富家との直接の繋がりは薄いようである。拝所には瞬天王統から尚圓王統までの系図が書家によって表示されて額に飾られていた。そして系図の余白の下部に走り書きの様に記された文字が私の心を捉えた。琉歌調で「祖先崇拝」祖先(モトヂ)タズネラン 道マユラ故(ユイ)カ 祖先道アキテ 栄テイカナ」 と書かれている。書体からして、この系統図を描いた書家が詠んだ歌であろうと推察した。自分は何処からきて何処へ行こうとしているのかは2千年前の孔子の時代からの人間の哲学的命題である。孔子ですら論語の最後の章に「命を知らざれば、以て君子たることなし」と証している。我々の日常は些細な不安の連続である。せめて偉大なご先祖にすがって不安を軽減してもらうは庶民のささやかな願いであろうし、先達の偉大な「気」を心に取り込みたいと願うは本人の心次第だから。
14安次富家

15王代記2

4時半を回ると日差しが少し傾いて来た。バスは国場十字路を右折して首里城に向かった。首里城での拝所は守礼の門近くの園比屋武御嶽である。この御嶽は城主が旅に出る際の安全祈願所であったと言われている。観光客の行列の先には朱塗りの首里城が建っていた。第二次世界大戦で日本軍の駐屯地であった首里城は米軍の艦砲射撃で完璧に破壊され、戦後は琉球大学が立てられて多くのリーダーを輩出して沖縄復興に貢献した。しかし今は四十数年前に私が学んだ学舎の影は無く、本土復帰直後の学生運動で賑わったセクトの隊列の旗頭の代わりに観光ガイドの誘導旗だけが幾つも観光客の列を先導していた。琉球大学が西原町に移転して首里城が再び沖縄の歴史の縮図である那覇の町を見下ろしている。琉球王国の象徴的場所である首里城は、中国王朝、薩摩、明治以降の日本政府、米国政府、そして戦後の日本政府と歴史の変遷に翻弄された沖縄の庶民の暮らしを静かに鎮座して眺めている。歴史に善悪の基準は無く、ただ結果としての記録が存在するだけである。首里城は幾度か焼失しては再建されてきた。この地を拝所として訪れる者たちにとって、城の威風堂々とした城郭は視覚的な感動を促すも心の拠り所ではない。幾世代か前の祖先が関わった場所としての城址その物が祖先との魂の交差を誘うのである。私はハサマ一族の旅が一族の歴史の中で途絶えることなく続いてきたのは、庶民の暮らしの中に存在する心の拠り所としての祖先への回帰思想が人間の根源的ものであるからだと思うのだ。
16園比屋

この場所での礼拝は、世界文化遺産であるがゆえに線香に火を付けずに水と酒と倶物を備えて祈願した。首里城の警備員の監視付きである。無作法な観光客の一人が僕らの一行の間に割って入ってカメラを構えた。私は威嚇するように睨みつけて手で制した。私は疲れが体の表に出てきて、無礼な者への嫌悪感から不覚にも強い殺気を放ったのかもしれない。カメラを向けた観光客は顔を背けて退いた。警備員がそれを察して手を広げて観光客の一群を制してくれた。御嶽での礼拝を終えると門の裏手のアカギ林の中に入った。ここから沖縄本島北部の西の海に浮かぶ伊平屋島に向かってお通しのお祈りをした。南部巡りの巡礼の旅の終わりの報告である。第一尚氏は伊平屋島から始まったのである。
17アカギ林

18守礼門2

僕らはアカギ林を抜け、守礼の門を潜り、バスの待つ首里城公園管理事務所前に向かって坂道を下った。午後5時半を回っていた。バスに乗り込む前に宏春叔父が言った。「再来週の日曜日に今帰仁巡りをします。その時は各自の車で行きます。宮里公民館からの出発時間は午前9時です。今日はお疲れさまでした」
僕らはバスに乗り込んだ。宏春叔父は息子夫婦の車で那覇市内の自宅へと引き上げていった。上間君の運転するバスは鳥堀の交差点へ向かって首里の坂道を下って行った。一族の南部めぐりの小さな旅が終わった。二週間後の一族の旅の後編については考えないことした。終日漂った線香の香りは私をひどく疲れさせたようでバスのエンジン音に誘われるままに眠りに落ちていった。
「完」

2022年9月 川畑家より種子を採取して育てた越来白玉を自宅に植栽。10年目ににして蕾が付いているのを確認した。開花は年明け早々だろうか。尚泰久の声を聴きたいと思う。

2020年3月17日 | カテゴリー : 旅日誌2 | 投稿者 : nakamura