ソウル

「ソウル」

「芙蓉亭」:ユネスコ文化遺産に指定されている昌徳宮の池の畔にある施設。芙蓉亭とは貴賓室の意味があり、来賓をもてなす施設である。韓国の国の花は木槿(ムクゲ)だ。何故、木槿亭と名付けなかったか不明だが、木槿と芙蓉(フヨウ)の花はとても良く似ており見分けがつきにくい。芙蓉の花が華やかな品種が多いだろう。

プロローグ

ソウルは大韓民国(韓国)の首都である。テレビニュースで見る韓国の人々の反日感情を見ていると、熱しやすいソウル(魂)をもつ人々だと納得した。ところがある時、英語の表記を見て、韓国の首都はSeoulで、魂はSoulである。首都をすごい名称にした民族だと感心した感情が少し萎んでしまった。「徐羅伐」という外来語の日本語表記方法に起因するだけのことである。我々沖縄県に暮らす人間にとって、日本の隣国であるにも関わらず馴染みの薄い国だ。本州から南に遠く離れた台湾に近い離島県であり、東京、大阪、福岡に比べると、身近に韓国籍の人を見ることは極端に少ない。米国人は広大な米軍基地があるゆえにごく普通に巷にあふれている。中華系の人々は台湾に近いことや、琉球王府時代の文化交流から今日でも生活の風習に中国文化の痕跡が残っており、違和感はほとんど無いだろう。一方、韓国の人々やハングル文字の看板を巷で見ることはほとんど無い。韓国の人々は近年における観光客としての存在くらいだ。それ故、テレビで伝えられる韓国と日本の対立は沖縄の人々にとって心情的に理解の範囲を超えている。歴史的な事実として豊臣秀吉の朝鮮出兵、第二次世界大戦時の侵略戦争による理不尽な行為があったことは知られている。それでも身近に韓国の人々が暮らしていなければ、その被害を身近な出来事として理解することは出来ない。戦中戦後も沖縄に韓国の人々が暮らしたとの話題を祖父母や父母の口から聞いたことは無かった。沖縄に暮らす人々にとって、日本国民から与えられた韓国人の辛苦は解るはずもない。ユダヤ人のホロコーストのレベルの遠い世界の歴史にしか思えないだろう。只、戦争が厳しくなった頃に招集された沖縄の民間人、いわゆる若年者・初老の日本軍従事者は、奴隷並みの扱いを受けている朝鮮人従軍労働者や慰安婦の姿を見た人もあったようだ。日本軍の管理下にあった従軍朝鮮人と沖縄県民との接触は禁じられていたようだ。父母が受けた戦前の皇民教育では朝鮮人、志那人は3等国民と呼ばれていたらしい。もっとも日本軍は沖縄県民(琉球人)を純日本国民より下位の2等国民として扱ったらしく、自らの身の保全に腐心した県民にとって朝鮮人従軍者のことなど意識の外であったのだろう。琉球王府時代の唐(中国)の世、廃藩置県後の日本の世、敗戦後の米国支配の世、日本復帰後の日本の世、過去150年の歴史で4度の社会システムの変遷があった沖縄である。日本と韓国の間に政治的な軋轢があった時代は、沖縄県民にとって米軍基地のフェンスの内側ほども関心が無かった。現在の日本と韓国の関係は、政治的な対立は解決の方向が見えないが、経済的には深く絡み合っているようだ。しかし沖縄の人々にとっては、テレビニュースで知るだけの日常生活に関わらない海外の世界に過ぎない存在である。私にとってもオーストラリア旅行の際にトランジットで立ち寄り、時間つぶしに4時間の市内観光をしただけの存在でしかなかった。只、大韓航空機は運賃が安い分だけ、シドニーに到着するまで狭い座席で8時間の苦痛を強いられた記憶は残っていた。今回の旅で韓国の生の姿を見たいと思って参加したのである。

旅の始まり

私は仕事がらみの付き合いで「旅行友の会」なるものに加入していた。毎月幾らかの積立金を口座引き落としで納めていたが、見知らぬ会員と旅行する目的ではなく、単なるヘソクリのつもりであった。私を旅行友の会に誘った幹事から旅行の誘いがあったのが八月の上旬である。何やら団体旅行に必要な頭数が足りないとのことである。「週末の3日間だから穴埋めに協力してくれ、アンタなら海外旅行に慣れているし国内旅行と変わらないだろう」と口説かれた。

日程を尋ねると9月下旬とのことだ。タイ出張の1カ月後なら海外旅行のほとぼりも冷めているだろうし、週末の3日間なら妻の不平もかわせるだろうと思った。それに、9年間の積み立て金もそれなりに貯まっていたのである。電話で参加可能との返事をした2日後に、九月の末頃に金・土・日の2泊3日でソウルに行くとのFAXが事務所に届いた。参加者や詳細な旅行スケジュールは出発の1週間前に届けるとの内容であった。

8月23日にタイより帰国後、農業法人設立に関する法務局との事務調整、コチョウランの開花処理設備を導入するため、大型空調機メーカーのダイキン工業との打ち合わせ、個人的には一級小型船舶免許の取得認定講習などに忙殺される日々が続いた。9月22日に沖縄ツーリストから郵便物が届いた。開封してみると「満喫ソウル三日間」と表題のついた旅行パンフレットと日程表、参加メンバーに関する書類が入っていた。パンフレットを読んでいると韓国旅行が現実味を帯びてきた。

さて、韓国そしてその首都ソウルとは如何なる所であろうか。韓国に対する私の印象は、熱し易く素朴で強烈な反日感情を持つ国民。南北分断の国。以前、日本が植民地として搾取した国。現在は日本にライバル意識を強く持つ国。キムチ料理発祥の地。12年程前にオーストラリア出張の際、乗り継ぎの合間に四時間ほど市内観光をしたが、豊かな国という印象は残っていない。私の中に好意的なイメージが湧いてこない国でもある。それでも出発の3日前までにはインターネットで日程表に載っている見学地や料理などを調べた。さらに千円のソウルガイドブックを書店で求めて雑学を増やすなどと旅行の基本準備を整えた。

9月30日(金)

一昨日の晩に造園業者会の懇親会で痛飲したことから、昨夜は体調回復のために午後九時に床についたのだが、午前3時頃から眠りが浅くなった。仕方なく午前五時にベットを抜け出しシャワーを浴びて朝刊を読んだ。スポーツ欄では日本女子オープンゴルフで宮里美香が3アンダーのトップタイと大きく報じられていた。お茶漬けでも食べようと炊飯器を覗くと空である。食器棚の横のワゴンの上のカゴを覗くと日清のチキンラーメンが一個だけ残っていた。卵を一個落としてポットジャーのお湯を注ぎ、五分間待つと出来上がりである。ネギを加えると完璧だが冷蔵庫のどこにも見あたらなかった。具の無いわびしいラーメンは貧乏学生の頃に食べた懐かしい味がした。

午前6時30分、音を立てずに玄関を開けて門前で軽くストレッチをした。妻と末娘は未だ床の中だが起こす必要もない。二泊三日の旅の荷物はショルダーバッグ一つで十分である。ほどなく社員の玉城君がコンテナ車で迎えにきた。我が社は那覇空港の植物展示業務を請負っているので、毎日展示用の植物をコンテナ車で運んでいるのだ。通常の運行時間より1時間30分ほど早いのだが空港までの移動を引き受けてくれた。私は車中で先日届いた旅行者名簿に目を通した。11名の参加者で知らない顔ぶれは3名ほどであった。その他の7名は概ね面識のある人達である。

7時40分に那覇空港国際線ターミナルに到着した。指定の集合時間より25分遅れである。沖縄ツーリストの女性職員から航空チケットを受け取り、世話役の旅行友の幹事から小遣いの55,000円を受け取った。今回の旅費として旅行友の会の私の積立金より15万円が引き出され、旅行社へ76,800円、旅行障害保険が4,000円、空港税が4,900円、供託金(共通の酒代)が9,300円、残り55,000円が小遣いとなっていた。その場で渡された部屋割り表では、私と同じ造園業界の友人松田氏(通称:松チャン)が相部屋であった。空港内のレストランで松チャンとコーヒーを飲んでいると、沖縄ツーリストの女性職員がやって来て搭乗手続きを促した。彼女の仕事はここまでである。韓国の空国には現地添乗員が待っているとのことだ。

午前8時20分、搭乗手続きの列に並んだ。世界的なテロ対策の影響でエックス線チェックは厳しくなっていた。先月の出国時よりかなり厳しく混雑の原因となっていた。ズボンのベルトまで外すのである。松チャンは女性の係員に「ベルトを外すとズボンがずり落ちるのだがどうしましょう」とからかっていた。結局、ショルダーバッグ、時計、財布、携帯電話、デジタルカメラ、ベルトをトレイに置いて金属探知機を通過した。搭乗待合室で待機している間に、娘たちにメールを入れた。「韓国に行く」と短い文面だけだ。「今月もネー」と反発した返事だ。

9時15分、チケットゲートを通過して飛行機に向った。その頃の那覇国際空港はボウディングブリッジがなく、バスで飛行機の前まで行ってタラップを上るのだった。建物から百メートルも離れていないのでバスで移動する距離でもないのだが。なんとも田舎の空港の感は否めない。7年後には新空港に変わると聞いていた。座席番号は24-Aで後方の席である。室内の装飾から判断すると新しい飛行機ではないだ。直ぐに飛行機が動き出した。機体後方の外側からグォー、グォーと数回、ワイヤーのこすれる音がした。松チャンが「アィヤー、ちゃんと飛んでくれるかネー」言った。さらに一度不可解な音を立てて飛行機は加速を始めた。そしてガタン、ガタン胴体を揺さぶると僕らを収めた金属性の箱は沖縄の大地を蹴って舞い上がった。

しばらくしてスチュワーデスが食事を配り始めた。彼女たちのユニフォームは薄いグレーの上下に赤いストライプのあるネッカチーフが印象的である。品のある装いで落ち着いた雰囲気の美形で大柄な女性たちだ。食器のふたをとると幕の内弁当である。白米にゴマをまぶした伝統的なスタイルだ。キムチ弁当を期待したが機内は未だ韓国ではないようだ。軽い仮眠をしばらくとった後、午前11時30分、何事もなく韓国の仁川国際空港にランディングした。ペンキの臭いがかすかに残る新しい空港だ。日韓ワールドカップ・サッカーに間に合わせて2001年に開港したと聞いている。イミグレーションを通過して出迎えの人々の待つ境界柵に向かった。プラカードを持つ人々がいて山田電機様御一行、近畿ツーリスト様などと書かれている。沖縄ツーリスト様と書かれたプラカードを見つけて合図を送った。20代後半の中肉中背の可愛い女性がにこやかに話しかけてきた。待合室のイスに腰掛けて彼女の説明を聞いた。仁川国際空港は永宗島に建設されており京仁高速道路を通ってソウル市内まで旅行社のバスで約70分・50kmの距離という。沖縄から来た中年女性の四人組が相乗りするらしい。

外に出るとあいにくの雨である。バス乗り場には25名乗りの黄色いバスが待っていた。ソウルまでの車中で彼女は旅行スケジュールの説明をした。ガイド嬢の名前は亭志蓮・チョンさんである。日本の京都の大学に1年間程留学した経験のある30歳の独身女性である。現地の日興旅行社に勤めて5年目で、沖縄からの客が8割以上を占めているという。日本語が上手くてよく笑う楽しいガイドである。化粧を控え見えにしてあるが中々の美人である。社員旅行で沖縄を訪れたことがあると話していた。しかし、彼女に取り付く男はかなりの勇気がいるだろう。笑顔と会話の結び目に緩みを見せない女は世の東西を問わずいるようだ。自立した女性の持つプライドが彼女を凛とさせているのだ。バスは空港のある永宗島と本国を結ぶ海中道路を走っているようだが窓の外は雨で景色はさっぱり見えない。この海は干満の差が5mほどあるらしい。干潮時には赤い海草が辺り一面に浮き出てきて不思議な景観を形成するという。彼女は曇りガラスで閉ざされた車中に退屈した我々に韓国の成り立ちを話した。

昔、この国には虎と熊がいて人間になりたいと願っていた。神様にこのことを話すと神様は2頭に告げた。これから100日間洞穴にこもってヨモギの葉を食べて過ごしなさい。さすれば人間に生まれ変わるであろう。2頭はお告げに従い洞穴にこもったが、虎はヨモギの葉が嫌いで100日を待たずに逃げ出してしまった。熊はやがて美しい乙女に変身して洞窟から出てきて神様と夫婦になり子供を授かった。その子孫が今日の韓国の人々であると言う。何やら日本の地方のどこかにありそうな昔話である。しかし突き詰めれば儒教の教えは韓国を経由して日本の武家社会に浸透したのだ。思想信条の原点である昔話に類似点があっても不思議ではない。

マンドウ

最初のキムチ

バスはいつの間にかソウル市内に入り仁寺洞(インサドン)の街角に停車した。気晴らしと軽い運動を兼ねての自由散策をするのだ。バスに備え付けの安物の傘を手に40分の散策に出かけた。この町は王宮に仕える人々の居住区として発達したという。通りのたたずまいは落ち着いており、骨董品店、書道用品を扱う専門店、おかしなお面を店頭に飾った土産店、洒落た喫茶店があり、通りの少し奥に入ると民家を改装したような専門料理店が軒を連ねている。どこからともなく漂ってくる食べ物の臭いを嗅ぐと空腹を感じた。時計を見ると午後2時である。軽い機内食のため少し腹が空いている。相合傘で歩いていた6名でレストランに入った。1階が混雑していて2階に案内された。メニューの写真はどれも美味しそうである。夕食が五時と聞いていたので一人前の料理は遠慮して6個入りのマンドウ(餃子)を2皿とビール4本を注文した。テーブルにはキムチの入った容器が置いてあり、好きなだけ食べてよいようだ。マンドゥは丸い形の蒸し餃子で、日本のそれの2個分はある。挽肉、豆腐、ネギの入ったあっさりした味で酢醤油を付けて食べるのだ。キムチの付け合わせと相性がよい。マンドゥをさらに1皿とビール2本を追加した。初めての韓国料理だが胃袋に良く馴染んだ。おやつとしては十分である。後で知ったのだがこの店は有名なマンドゥのチェーン店という。店の一階が混雑していたのもうなずける。雨の中を再びバスに戻った。強い雨脚ではないが止む気配のない雨である。

その次にバスが止まったのはナムサンゴルハノクマウル(南山谷韓屋村)である。王朝時代の貴族階級や豪族の邸宅を復元したテーマパークである。オンドルという床下暖房設備があり、零下20度にもなるこの地域の冬の厳しさが理解できた。戸主の生活する建物と嫁、舅、娘の部屋は別棟となっており男尊女卑の儒教の教えが如実に現れた建築様式である。もっとも、一般庶民の家屋にはこれほどの格式はなかったであろう。雨は相変わらず降り続いている。園内は花崗岩の風化した砂を敷きつめて転圧してあるので足元が泥で汚れることはない。

韓国風タイ焼き

バスに戻ると誰かが韓国風たい焼き(プンオッパン)を近くの屋台から買ってきたらしく袋ごと配っていた。製法が日本と異なり油で揚げてある。パリッとした食感で中に餡が少し入っている。魚の形のほかに蟹の形もある。谷韓屋村の門前には幾つかの屋台があり、焼き栗、菓子、綿あめ、おでん、蚕のサナギ煮などが売られていた。蚕のサナギは醤油で煮てあり、鍋から150ccほどの紙コップに取り分け爪楊枝を添えて売っている。イナゴの佃煮の感覚であろうか。私にとっていささか抵抗のある食べ物である。

夕食の5時まで少し間があり2カ所の免税店を訪ねた。1ヵ所は東和免税店という高級舶来品のデパートである。一方は紫水晶のトパーズ、革製品、国産土産の専門店である。韓国は冬の寒さが厳しいので革製のジャンパーは安くて良質とのことだ。滑らかな手触り黒い革ジャンは、網走番外地の高倉健さんなら似合うだろうが、沖縄の短い冬に着ける機会も無いだろうと思った。この手の店に男共は興味を示さないがメンバーの女性二人は熱心である。とりわけ、那覇市内で居酒屋を営むロコさん(ひろ子)は、今度の旅行に中型のスーツケースを持ってくるほどの買い物好きのようだ。当然のことながら最後にバスに乗り込むのはロコさんと添乗員である。私はお土産として一箱750円の韓国産海苔を4箱買った。韓国は良質の海苔を生産することで有名である。

プルコギ

プルコギの付け合わせキムチ

木の小鍋

夕食のレストランに着いたのが午後5時であった。雨のためか辺りは既に薄暗くなっていた。夕食はプルコギ(韓国風すき焼き)である。ヤンニョム(独特のたれ)に漬け込んだ牛肉を平たい鉄鍋で焼くのだ。刻んだ玉ねぎと長ネギが入っている。焼けたころあいを見て野菜に包んで食べるのだ。肉の上にコチュジャンを少し乗せると味が引き立つ。テーブルには幾つかの付け合わせがあり、お代わり自由である。肉を包む葉野菜、定番のペチュキムチ(白菜)、豆腐にキムチのたれをのせた一品、もやしの炒め物(キムチ味)、細切り昆布の炒め物、コチュジャン、細長く切った大根の甘酢漬け、生にんにくのスライスである。鍋の肉が半分に減った頃、スライスしたキノコを一皿注文して肉汁と共に煮た。キノコの名前は知らないがとても美味しかった。ご飯はステンレス製の蓋付の椀に入っている。金属製のため熱くて容器を持つことは出来ない。この国では日本のように左手に椀を持って食事をする習慣はないという。この店はニラチジミが美味しいと紹介されたので、2皿を追加注文して試してみた。細かく切ったニラがたっぷりと入った沖縄のヒラ焼チーである。コチュジャンを塗って食べると美味い。おやつに良い食べ物である。汗をかき、地元産のOBビールを飲み、騒ぎなら夕食に舌鼓を打つことで必然的に旅の連帯感が養われた。追加の料金を払ってレストランを出たのが午後6時30分であった。

《ソウルの夜-1》

ソウルの夜の楽しい過ごし方が幾つかある。昼間の疲れをとるマッサージ・エステ、ホテルのディナーシショー、地下酒場のステージショー、カラオケハウスなどが主流である。日本で流行の居酒屋のように、夕食を兼ねて食べて飲んで談笑する場所は少ないようだ。文化の違いであろうか。

さて、この夜のスケジュールはロコさんがエステ、残りの一〇名がウォーカーヒルショーへ向った。ソウルのエステはかなり本格的である。もちろん男子より女子のコースが多彩だという。料金は8,000円程度の基本料金に、追加料金で各種のオプションを選択することできる。基本コースは緑茶風呂、人参風呂、泥風呂、サウナ、あかすり&全身オイルマッサージ、顔パックとなっており、オプションで特殊マッサージ、特殊顔パック、カッピング、アートメイク、ネイルアートなど多種である。

ウォーカーヒルの韓国民族ショー

アストリア・ホテルにチェックインして荷物を解き、午後7時30分にロビーに集合した。ショーが公演される米国資本のシェラトン・ウォーカーヒル・ホテルまでは約30分、タクシーで14,500ウォン(1,450円)の距離である。我々は交通費とショーの代金として8,500円を添乗員に納めた。ホテルはソウル市内が一望できる丘の上にあり、雨でなければ美しい夜景が見えたはずである。このホテルは朝鮮動乱が終結した頃、米軍将校の保養と社交場として建設された経緯がある。

ショーはホテルの地下一階、座席数720席のKAYAGUM HALLで毎日2回、年中無休の公演がおこなわれている。ショーの見学料金はワイン一杯とショー観賞が6千円、コースディナーとショー観賞が8,500円、特別コースディナーとショー観賞が9,900円となっている。料金が高いほど食事の質が良く観賞に適した座席である。我々はワインコースで舞台に向って右端の二列目に座った。

さてショーの内容は2部構成となっていて、最初が韓国伝統民族公演で後半がラスベガスショースタイルのミュージカルレビューショーである。ショーは8時45分に始まり10時25分に終了した。伝統民族公演の題名は「LOVE OF BEAUTY」(美しき愛)内容は韓国のおとぎ話を現代風に演出したもので、男女が出会い愛し合うまでを民族舞踊で表現している。見所は艶やかで美しいチマチョゴリ(民族衣装)着たお姉さんたちの優雅な扇の舞、床の上を滑るように踊る躍動感あふれる団体舞踏、民族楽器の競演など初めて見る韓国伝統芸能の公演である。朝鮮の民族衣装が質素で素朴あるという私の概念を改めさせた公演であった。

第二部は外国人ショー「オデッセイ」である。制作費50億ウオン、キャスト33名、スタッフ70名が参加する大規模なショーである。翌年の6月まで公演する予定らしい。物語は大航海時代に英国の帆船オデッセイ号の乗組員がモロッコ、スペイン、ローマ、アフリカと幻想的な旅をするのだ。各国の特色あるダンス、女性ダンサーの艶やかな衣装、大仕掛けのステージ、ミュージカルダンサーのアクロバティックな競演、スタイル抜群の女性ダンサーによるトップレスダンスは男性客にはたまらないであろう。私はハンズフリーのマイクでバックコーラスを従えて、歌って踊る女性ボーカリストの伸びやかで豊かな声量に圧倒された。ショーの合間には中国・南京芸団の中国コマの演技、客席の頭上で披露されるスリル満点のロシア人男女ペアによる空中ブランコのアクロバットショーが演じられた。8,500円の経費に充分な観賞料金であった。

このホテルには「パラダイスウォーカーヒル」という外国人専用のカジノがある。当然のことだが入場するには身分証明書(パスポート)が必要である。我々は旅行社が準備した入場カードを貰って中に入った。入り口には日本語のゲームガイドパンフレットがあり、案内デスクでは日本語の説明もしてくれるので簡単に遊べるシステムとなっている。日本人のカモが金のネギを背負ってやって来るというシステムでもある。500坪はあろうかと思う広いフロアでゲームに興じるのは日本人観光客がほとんどである。壁にはスロットマシンがずらっと並んでいる。直径2mのビッグホィール、サイコロゲームのダイダイ、カラカラと乾いた音を立てて回転するルーレット、トランプゲームのバカラ、ブラックジャック、ポーカー(カリビアン・スタッド)。ディラーは白の長袖ワイシャツに金の刺繍が施されたベストをきちんと着こなしている。シャープな目つきの美女ディラーもいてゲームに熱中した各テーブルを見て回るだけでも楽しい。ただ、フロアには腰に小型の拳銃を装着した警備員が巡回しており、普通の遊技場とは明らかに雰囲気が異なっている。たしかに客の中には血走った目つきでブラックジャックに興じる日本人客も見られた。私はこの手のゲームが不得手で雰囲気を味わうだけにしたが、メンバーの中にはスロットマシンに興じて10万ウオンを勝ち取った強者もいたようだ。カジノで40分ほど時間を潰した我々は小雨の中をタクシーに分乗してホテルに戻った。タクシー代金は添乗員が今夜のショー代金の中から返してくれた。

ホテルの部屋で缶ビールを2本空けて、デジタルカメラと携帯電話の充電を完了して眠りに落ちたのが午前0時であった。

10月1日(土)

午前8時、一階のレストランで朝食を取った。食事は洋食と韓国風があり、私は必然的に現地の習慣に従って韓国風朝食を選んだ。メニューはご飯にキムチ入り味噌汁。揚秋刀魚の半分、白菜のキムチ、インゲン豆とニンニクのキムチ、海苔、シラウオのキムチ風味佃煮、キムチ風味の薄蒲鉾、薄切り大根の酢漬けキムチ風味など朝から韓国キムチ風味のオンパレードである。食事のたびに汗をかくことになるのだ。ご飯一椀でキムチのおかずを完全に食べきれるものではない。たいていの人が一番辛い白菜のキムチを残していた。

昌徳宮の正門

広い石張りの中庭の持つ儀式殿

美しい彩色の天井

朝から雨である。午後には上がるという予報だが、安物の傘をホテル近くの雑貨店で求めた。最初に訪ねたのがユネスコの世界文化遺産に登録されている昌徳宮である。1,405年、第3代王太宗の離宮として約6万坪の敷地に幾つもの建造物が建立されている。入場料は3,000ウオンで日本語、英語、韓国語等の専属ガイド嬢が団体客を引き連れて公園内を案内する。個人の自由閲覧を禁じている。日本語は午前中3回、午後2回の一日5回である。ガイド嬢は流暢な日本語で時々ユーモアを混ぜて丁寧に説明しているのだが、笑いのネタが古く笑う客はほとんどいない。韓国訛りのチャ、チュ、チョの音が日本人には耳障りに聞こえるのかもしれない。御影石をふんだんに使った構造物である。群青色の屋根瓦が泰然と鎮座する正殿とその屋根の内側の青を基調にしたデザインが興味を引いた。この群青色の気品のある瓦は民間の建築には使うことが許されず、王府の建築物の象徴であったという。敷地内にはブナ科の植物が多く、参道にはドングリや栗のイガが落ちていた。藪の中を行きかうリスも頻繁に見かけた。冬に備えて木の実を拾っているのかもしれない。私も来園の記念にドングリと栗の実を少しばかりポケットにしまった。公園内を一巡して駐車場に戻る頃に雨は上がっていた。

大統領府迎賓館

その次に訪ねたのが大統領府である。官邸の周りの建物は高さの建築規制があり二階建てが限界である。その理由はテロリストによる高い建物からの狙撃を警戒しているとの説明であった。迎賓館前のロータリーには平和記念像と国の象徴である鳳凰のモニュメントが建立されていた。大統領府は屋根に群青色の瓦を使っていることから別名青瓦台とも呼ばれている。その後方には北岳山がそびえているのだが霧でほとんど隠れている。中腹に展望台があり、晴れた日にはソウルの街が一望できるという。我々は展望台に向ったのだが山肌に向けての写真撮影が禁じられている。藪の中には大統領府を警護する兵隊の監視小屋がいくつも配置されていた。10年以上前のことだが、この山中に北朝鮮の兵隊が大統領府を狙って侵入していた事件があったという。韓国と北朝鮮は終戦状態でなく休戦状態であり、再度の開戦に対する備えを怠っていないのだ。我々日本人には理解できない臨戦態勢の緊張感がこの国にはある。

花崗岩で形成された山の中腹にレストランを備えた展望台があった。あいにくの霧で眺望は望めない。王朝時代の韓国はこの山を基点にソウル市内を城壁が取り囲んでいたという。ソウルとは「都」という意味であり、英語の「魂」の意味ではない。その都への出入りは東西南北の四方の大門から日中のみ可能であったという。近代の都市整備の進行で城壁は取り除かれ南大門だけがその景観をとどめている。大門の周辺には必然的に市場が形成され現在でも南大門市場と東大門市場はソウル最大の庶民市場として活況を呈している。霧の展望台に厭きた我々一行は山を下って市内のレストランへと向った。

「青紗草龍」という名の韓国レストランに着いた。看板を見ると宮廷料理専門店のようであるが、本日の昼食は庶民的な石焼ビビンバである。ビビンバ料理の始まりは、豪族の家に嫁いだ嫁が目上の家族の食事の世話で自分の食事が満足に取れないので、その日の食事の具を少しずつ取って自分の椀の上に載せておいて、家族の世話が終わったのを見計らって椀の具とご飯を混ぜて食べたこと由来するという。混ぜご飯という意味があるそうだ。男尊女卑の儒教の教えから発生した習慣の一つでもある。もっとも、レストランで食べるビビンバは惣菜の残り物で作っているのではない。img009 (2)ビビンバ丼

img009 (3)ビビンバ丼の付け合わせ

最初に出てきたのが白菜のキムチ、大豆モヤシの炒め物、小松菜に似た野菜の炒め物、何れもキムチ風味である。この辛口前菜が出るとビールを飲まずにはいられない。しばらくするとジュウジュウと音をたてて石焼のどんぶりに入った料理が出された。熱した石丼にご飯が盛られその上に野菜と肉片と卵が載っている。野菜は大豆モヤシ、玉ねぎ、人参、シイタケ、青野菜である。その上にコチュジャンを好みの量のせてかき混ぜるのである。石焼丼はとても熱く、焦げご飯が香ばしい。ビビンバは有名な韓国料理だが取り立てて旨いとは思えない。メンバーの松チャンがこれよりは那覇市の泊漁港内食堂のビビンバがはるかに美味いと言った。団体旅行者の食べるビビンバは調理コストを抑えた単なる体験食事でしかないだろう。店の中はほとんどが日本人旅行者である。添乗員に案内されて本場モドキの石焼ビビンバをありがたがって食べているのが可笑しい。それぞれの楽しい旅の思い出を笑う権利は私にはないのだが、東南アジアの友人たちに伴われて現地の純粋な郷土料理に親しんで来た私にとって、外国人歓迎の店に入って現地料理だと思って満足する日本人団体旅行者の光景を見るのが可笑しいのである。

img010 (3)雨霧に霞む北朝鮮

食後はバスで1時間程の行程で韓国統一展望台へと向かった。食後の昼寝にちょうど良い按配だ。10分もすると添乗員の解説を聞く者は見あたらず、彼女自身も頭を垂れ始めた。40分ほどするとバスはイムジン川沿いを走っていた。右側は収穫前の稲穂が延々と金色の頭をたれている。左側の河川敷は鉄条網が続きおよそ100m間隔で監視小屋が設置されている。高さ4mほどの監視棟で小さな窓がついており2人の兵士の姿が確認できた。気温が零下20度にも下がる冬になると川は凍り付いてしまい、対岸の北朝鮮から徒歩で侵入して来る不審者の監視だという。両国の国境は川の中心である。川は途中から韓国側へ蛇行しており、国境線は陸地へと続いている。陸地の境界は両側に2kmの緩衝地帯としての非武装地帯(DMZ)が設置されている。非武装地帯は立ち入り禁止であるが、朝鮮戦争前の居住者が厳重な監視のもとに暮らしており、稲作を中心に農作物を生産している。この地域は農薬の使用が禁じられており、自然農法の米はDMZ米として高値で取引されているようだ。

統一展望台は小高い丘の上にあり、見学には3,000ウオンの施設入場料が必要である。3階建ての施設は、3階がビデオホール兼展望台となっており、朝鮮分断の歴史を韓国語と日本語と英語のいずれかで聞いた後に対岸を見ることが出来る。対岸の景色は雨霧のためはっきりとしないが、田園風景が広がっている。共同作業所や共同住宅らしい3階建ての比較的大きな施設があり、豊かな暮らしのように思える。添乗員の説明によるとこの展望台の完成により、北朝鮮の貧しい農村生活が覗かれるのを恐れた当局が実態のない張子の建造物を作ったという。2階が資料館で1階が土産品店となっていた。添乗員は韓国の歴史を丁寧に説明しているようであったが、私はこの国の近代史に興味がなく外の風に20分ほど吹かれていた。元韓国軍人の団体や韓国、中国の旅行者がバスで乗りつけた。

img010 (2)有事には戦闘機の滑走路に変わる自動車道

img011 (2)分断家族の寄せ書き

この次に訪れたのは自由の橋と呼ばれる国境記念公園である。広場には離散家族のモニュメントや、特別の日に南北を行き来する列車の線路が続いている。レールは使用頻度が少ないようで赤く錆びついていた。朝鮮動乱により、この橋の中央で家族が北と南に引き裂かれた歴史がある。南に住む人々は正月や盆にこの広場に集まって北に残った親戚に思いを馳せて涙を流すという。橋の先端は鉄条網で遮られており、風雨にさらされたタオル、シャツ、布切れに書かれた多くの寄せ書きが掛かっていた。ハングル文字の読めない私にも書き手の悲痛な叫びや嗚咽が聞こえる気がした。この公園は普段から来園者が多く、レストラン、土産品店、遊園地を備えている。ソウルからの国道も片側6車線となっており市民のドライブコースでもある。しかし、ひとたび有事になるとこの幅広い直線道路は戦闘機の滑走路に早変わりするとのことだ。この公園から数キロ先の地点に有名な板門店の南北共同監視所があり、外国人のみの見学が許されているらしい。公園の建物の一角にはDMZ(非武装地帯)見学コースなるチケット売り場があった。

img012 (2)南大門(後年焼失した)

img012 (3)南大門市場

img012 (4)粉唐辛子の量り売り

img013 (2)各種キムチの量り売り

img013 (3)蟹のキムチ

午後3時、バスはソウルに引き返した。雨は完全に上がり雲間から光が漏れている。南大門の市場見学に向った。南大門は現在でも保存されていて市民の憩いの広場になっている。2重屋根の巨大な石門は、当時の朝鮮半島最大の都の繁栄を物語っていた。南大門の市場にはキムチの材料が全て揃っている。挽き唐辛子、魚介類、野菜類、既に完成したキムチも売られている。ビビンバ丼が積み上げられた雑貨屋、衣類、装飾品、漢方薬などあらゆる商品が入手できる。見て回るだけで楽しい市場である。私は添乗員の紹介で朝鮮人参のカプセルを買い求めた。更年期障害が出始めた妻への贈り物である。1粒50円、1日朝晩に2粒づつ服用するので安い買い物ではないが、八月、九月と海外旅行に出た後ろめたさが少しは和らぐ気がしたのだ。1瓶120粒入りの4瓶(4ヶ月分)である。2ヵ月以上服用しないと効果がないという添乗員の話を信じた。私につられたのか3名が2瓶ずつ買い求めた。店の売り上げに大いに貢献したようで店主は愛想よく我々を送り出した。添乗員のバックマージンも少なくないだろう。市場の雑踏を抜けてバスに戻った頃には日が落ちかけていた。ソウルの夕暮れの空気は冷気を帯び始めており秋の始まりを感じた。

img014 (2)海鮮鍋

夕食のレストランは昼食をとったレストランの道向かいで海鮮鍋の専門店である。今夜もキムチの皿が出てきた。白菜のキムチ、大根の角切りキムチ、大豆モヤシのキムチ風味、茹でたパクチョイの胡麻和え、カマボコキムチ、黒豆である。海鮮鍋は簡易ガスコンロで煮ながら食べるのであるが、鍋に特徴がある。鍋の中央が五センチほどへこんでおり、その中に麺を入れてある。鍋の具が煮えた頃には麺にだし汁がしみこむ仕掛けである。鍋の具は蟹、イカ、エビ、豆腐、餅、ネギ、シイタケ、白菜、人参、エンサイである。だし汁はキムチ風味である。11名で3つの鍋を囲んだ。雑談を交わしながらの食事はいつもより箸が進みどの鍋も完食である。この店の人気メニューの海鮮チジミを試してみた。シーフードミックスピザに似ているがパリパリ感はなくモッチリとしている。ネギと細切れのタコが入っていて、すこし辛めの醤油をつけて食べるのである。タコのプチプチとした食感が面白いが特別に変わった味ではない。タコは日本のマダコよりも小さな独特の種類で店によっては水槽に飼っている。南大門市場の鮮魚店でもキムチの具として売られていた。食事が終わると居酒屋で飲みなおすグループとこの店の地下にあるショー見学のグループに分かれた。那覇市内で居酒屋を営むロコさんは韓国居酒屋の雰囲気と料理に興味があるらしい。結局、男女の四名と男だけの七名のグループに分かれて散会した。

《ソウルの夜 二》

夕食をとった店の地下にある「ディアブロ」(中国ゴマの意)という名前の観光ショークラブは2時間の見学で6,000円の料金である。ビール、地酒、ウーロン茶の飲み放題でパイン、ブドウ、ミカン、バナナ、りんご等のフルーツ山盛りセットがついている。7時半に添乗員のチョンと共に席に着いた。彼女はこの店の営業部長ペックを紹介した。彼は我々のグラスにビールを注いで回った。我々が返杯すると仕事中の無礼をわびてウーロン茶を貰った。そして顔をひょいと後ろに向けて飲み干して「ごゆっくりお楽しみ下さい」と言って席を離れた。我々は一同にはっとした顔でうなずきあった。これが韓国流の目上の人の前での酒の作法なのだ。噂には聞いたが目上の人の前でグラスに口をつけるのを見せまいとする粋な心得である。もっとも彼の流れるような隙のないしぐさは、彼の商売で身に着けたある種の技であり、常人にそこまでの所作はないだろう。

img015 (2)一輪車乗りの吹き矢の芸、風船を加えた旅行メンバー

酒の飲み放題となると沖縄の酒飲み共の行動は決まっている。早速回し飲みの始まりである。開演まで20分もあるのだ。明日のソウル10kmマラソンに参加するというガイドの亭を引き止めて飲み較べが始まった。テーブルの上のビールが一気に消えた。何せ6,000円を払った飲み放題である。遠慮する気はまったくないのだ。しかし店の係りも5回目の注文をしたショーの後半には酒を持ってこなくなった。ビールの他に地酒の焼酎があった。360ml入りで商品名「眞露」というポピュラーな酒である。竹の炭でろ過してあるらしくラベルには竹の図柄がある。商品の説明がハングル文字では詳細はわからない。糖分を加えてあるらしく甘みがあって飲みやすい。メンバーの中の長老で3年前に那覇市役所を定年退職した福サンと呼ばれる御大の口に合うらしくビールの代わりに飲んでいた。ステージは高さ50cmで5m四方程度である。ステージの三方が客席で8名掛のボックスシートである。シートの数は12,3席ほどである。白いシャツに黒いベストを着用した客席対応マネージャーが数箇所に立っている。人目でタフな男たちと判る雰囲気を持っており、客のトラブルをいさめる役割も兼ねているのだろう。

ショーが始まったのは午後8時であった。男3名女2名によるアクロバットショーから始まった。メンバーのクニさんが舞台に呼ばれて両手と口と股間に風船を持たされた。すると一輪車に乗った軽業師が吹き矢で見事にその風船を割った。客席から拍手が起こった。辺りを見渡すと8席ほどが埋まっていて40名ほどの客がいるようだ。工夫(カンフー)組手、居合抜刀術、石弓(ボウガン)、タコ男の穴抜け技、吹き矢、マジック、乞食の漫才トーク、2名の女性のストリップショー、美形で豊満な女性の体躯をしたオカマのストリップショー(声は男性であった)、筋肉ムキムキ男のストリップショーと続いた。客席に下りてくる演技者にチップを与えるのがこの店のマナーらしい。我々の席もストリッパーの豊満な胸に圧倒されたのか6,000円ほど献上してしまった。福さんはビキニ姿の美人オカマ・ストリッパーに抱きつかれ、彼女の股間に手を導かれて目を丸くした。ドモリながら「あの娘、ナニが付いていた」と言った。「先輩、ソウルまで来た甲斐がありましたね。でも血圧に気をつけてくださいよ」と皆ではやし立てた。この店の人気役者は乞食姿の漫才師らしいが彼のトークは私の感性には合わなかった。ショーの後半になると店のオーナーという50代のマダムが我々の席に挨拶に来た。律儀な店だと思いきや「女の子を紹介します」としきりに誘った。誰も興味を示さないので少し不満そうな顔をして男性客だけの隣のボックスに挨拶に向った。男性ストリッパーの登場で我々は席を立った。午後10時である。営業部長のペックが我々を店の外まで見送り、手配した車でホテルに送ってくれた。ウォカーヒルの豪華ショーも素晴らしいが、この手の怪しげな地下酒場のショーも見知らぬ国で退屈な夜を過ごすのには悪くない。

10月2日(日)

午前8時30分、朝食のためにホテルを出た。歩いて5分の距離に松竹という名のお粥の専門店があった。昨夜のうちに予約を入れておいたのだが、日本人に人気の店らしく20名ほどの日本人観光客がバスで乗り付けていた。韓国語でお粥のことをチュクという。この店には鶏、松の実、アワビの三種類のチュクがあった。12,000ウオン(1,200円)と朝食にしては少し値段が高いが一番人気のアワビ粥を注文した。いつものように大豆モヤシ、白菜キムチ、海鮮キムチのキムチセット、スープが付いているが塩味に大根の切り身が四個入っただけでお世辞にも美味いといえない。茶碗にはお湯が入っている。この国にはお茶の習慣がないのだろうか。そしてごく普通のスプーンとステンレスのお箸である。

さて、本命のアワビ粥であるが、かなり深めのスープ皿に入っており、生卵を一個落としてあった。アワビのダシが効いていて味は申し分ないがとても熱い。キムチの辛さと合わさって口の中が茶釜のようだ。食べるのに必死で口をきくものもいない有様だ。この国の食事はどれも汗をかくのものらしい。

img016 (2)韓国の花嫁

ホテルに戻ると沖縄コンベンションビューロー・ソウル支局の夫(プー)副長が待っていた。日曜日であり小学4年生の一人息子を伴っていた。旅のメンバーで彼の上司である吉彦氏が案内を依頼したのだ。今日は午後3時までのフリータイムの設定である。我々は昨夜の夕食後に配られた市内地図の手に、明洞(ミョンドン)の街を歩いて探索することにした。ホテルの裏手に南山谷韓屋村があることをプーさんが教えてくれたのでそこを起点に歩くことにした。初日に雨の中を見学した場所で南山公園の一部である。公園の一角で結婚記念写真の撮影が行われていて、白いウェディングドレス姿の女性が石組みの庭園で晴れやかな笑顔でポーズを取っていた。私も一枚撮らせてもらった。韓屋村の施設の中で韓国伝統の古式の結婚式が行われるらしく天幕の中にイスが並べられていた。先ほどの一組の結婚式であろうか。

img016 (3)明洞の街角

一昨日の見学で施設の内容をガイドから丁寧に説明を受けていたので早々に引き上げ、明洞の街に向った。アストリアホテルの前を左に向って20分ほど歩くと明洞の繁華街に入った。この街の名称は植民地時代に日本人が料亭を作って「明治町」と呼んだことに由来するという。有名ブランド店、衣料品店、高級レストラン、ファーストフード店、衣料品や食べ物の屋台、安価な食堂などが同居する活気に満ちた街である。東京の渋谷に似た雰囲気があり若者の姿が目立つ街である。午前10時半という時間帯のためか人の往来は少なく開店前の静けさといった感じである。それでも女性用の派手な下着類を店頭の通りにはみ出して並べた庶民向け衣料品店や何かのイベントのチケットを求める若者の行列があり、通りを歩くだけでも楽しい街である。南大門路の地下商店街を抜けて表に出るとロッテの百貨店の前に出た。この一角はロッテ一番街と呼ばれる韓国の大企業ロッテの支配地である。高級百貨店、免税店、高級ホテルが200m四方を独占している。我々はショッピンググループとぶらり歩きグループに分かれて行動した。百貨店には韓国の二枚目俳優で日本人に大人気のペ・ヨン・ジュ(ヨン様)の大きなグラビア写真が目立った。この企業のイメージキャラクターとして活躍しているが、たぶんに日本の婦人客を意識しているようだ。韓国でのヨン様の人気は日本ほどではないようである。特別に買うものもない私は5名で連れ立って市庁舎の近くの広場まで歩いていった。今日はソウルの市民マラソンがあり、ガイドの亭さんが10kmの部にエントリーしているという。彼女の応援でもしようかと考えたのである。市庁舎の広場に着いたのが午前11時30分である。競技は既に終了したようで木陰で休憩して昼食の弁当を開く人々の姿があった。亭さんに携帯電話で連絡を取ると、無事完走して自宅に戻ったところだという。午後3時に我々を空港まで送ることになっていて午前中はソウル市の行事に参加したのだ。歩き疲れて空腹を感じたので百貨店前の集合場所に戻ることにした。

img017 (2)サムゲタン

img017 (3)サムゲタンの付け合わせ

ソウル市庁舎前からソウル中央郵便局に向う小公路の途中に沖縄県コンベンションビューロー・ソウル支局がある。その近くに参鶏湯(サムゲダン)の専門店があり昼食はそれにした。薬鶏と呼ばれる若鶏の中に朝鮮人参、もち米、ナツメなどの漢方藥食材を詰めてじっくりと煮込んである。大きなどんぶりに白濁した汁と共に丸ごと入っている。あっさり味でいかにも滋養がありそうな料理である。鶏肉をほぐしてもち米と混ぜてお粥のようにスプーンで食べるのである。テーブルには粗塩が準備されているので好みの塩加減を調整すればよい。大根の角切りキムチ、パクチョイに似た野菜のキムチ、鶏の砂肝炒め、スライスにんにくを軽く炒めたもの、コチュジャンの小皿などの付けあわせが出た。鶏肉は簡単に骨から外れるのでコチュジャンにつけて食べるのも良い。小指大の朝鮮人参が鶏の中から出てきたので噛んでみると特有の生臭さが口中に広がった。体が火照ってきて生気を取り戻したような気になった。食事のたびに体が熱くなる料理ばかりである。やはりこの国の冬の寒さは特別なのであろうと思った。

img018 (2)清渓川のオープンフェスティバル

img018 (3)屋台の豚の丸焼き

昼食後は今日のソウルのメインイベントである清渓川オープンフェスチバルを見に行った。日本の植民地時代に市内を流れていた清渓川が埋められたが、親水河川公園として整備されたのである。ソウル市民にとって旧日本帝国からの復活を意味するものでもある。イベントは9月30日から10月3日まで開催されて数十万人の参加が見込まれているという。約2kmの河川公園と両側の道路は歩行者に解放されており大変な人だかりである。路地には屋台が立ち並び、さながら日本国内の夏祭りの雰囲気を演出していた。ただ、群衆は僕らが日本人と知ってか、日本の祭り会場で出会うような和やかで楽しげな視線を送る者は無く、全くの異邦人として人の群れの中をうろつくばかりであった。半日の散歩で歩き疲れた頃、誰かが「ソウルは満喫したね」と言うと、誰もが「満喫ソウル三日間の旅」と旅行社の宣伝文句を口々に言い出した。そしてぼくらはホテルへのなだらかな坂道をゆっくりと歩き出した。

ホテルのレストランでコーヒーを飲んで雑談している間にガイドのチョンさんがやってきた。空港へ送ってくれる約束の午後3時である。午前中に10kmの市民マラソンを走ってきた割には元気である。本人は「もう足がパンパンだわ」といいながらも笑顔で話しかけてきた。来たときと同じイエローバスで空港に向った。今日は晴れていて海中道路から見える海は、潮が退いて赤い色の海草が浮かび上がり不思議な景観である。空港に向かう途中の埋立地に建設された新町という名の問屋街で降りて土産を少しばかり求めた。この区域は大規模な臨空都市計画が進んでおり、外国人向けのカジノなど外貨獲得産業の誘致が計画されているそうだ。

img019 (2)赤い海藻の海

img019 (3)夕暮れの空港

ホテルを出発して2時間ほどで空港に着いた。チョンさんは出国チケットの手続きを済ませ、我々を出国ゲートに案内した。笑顔で一人ひとりに握手して僕らを送り出した。混雑したイミグレーションを通過して48番ゲートの待合室に着いたのが午後6時少し前であった。滑走路は既にオレンジ色の誘導灯が点灯されていて夕闇が迫っていた。離陸の時間まで残り1時間40分である。私はゲート近くのカウンターバーで一杯4ドルのビールを飲みながら空港が闇に包まれていく様を眺めた。そして3日間の少し窮屈な旅を振り返っていた。私にとってこの国は複雑すぎて好感を持てるようになるには、プライベートな友人を見つけて何度か訪問する必要があるだろうと思った。

エピローグ

タイのバンコクで会った韓国のラン貿易商ヤンのことをすっかり忘れていた。「ソウルにきたらぜひ連絡してくれ」と言われていたが、思い出したのは帰りの空港の待合室でビールを飲んでいる時であった。バンコクでの通り客であり、深く繋がる人物ではなかったようだ。人の繋がりは酒を酌み交わし、本心が見えるような付き合いが必要である。私が好きな台湾、タイ、マレーシア、シンガポールは、何度か訪れてその土地の人々の暮らしの中に笑顔を見つけることが出来たからである。そしてその地は黒潮の海流で繋がる暖流の海の道の沿線であるからだろう。食べ物や気質が同じ源泉から湧き出ている気がする。言語は異なるもすぐに打ち解けることが出来るのは、遥か昔は親族であったとの感性を互いに持っているのだ。残念ながら生粋の南方系の人間にとって、ソウルの景観や僅かな滞在時間で一般大衆から受けた触感は、この地の文化・交友関係に馴染むにはかなり高いハードルをクリアする必要を感じた。南大門市場の中や清渓川オープンイベント人混みの中を歩いても「ウエルカム」「ウエアフロム」の声や興味深々の視線を受けることは無かった。地元の人々のバカ笑いの声すら僕らの前から消えていた。あの東南アジアの屋台や土産店、雑貨屋から発する笑い声をこの地で見つけることが出来なかった。ソウルの人々は日常生活の中で笑いを押し殺して暮らしているのだろうか。バンコクで会った陽気なヤンもこの地では無口で礼儀正しくひっそりと暮らしているのかも知れない。北の国の文化は容易に理解できる気がせず、ましてや馴染むことなど不可能な気がした。我々南方系の民族は沖縄の方言で「イチャリバ、キョウディ」(出会えば兄弟)との感性が文化として染みついており、北の国の人々と義兄弟になるには限界があると感じた旅であった。そして普段の遊び仲間以外の人達との団体旅行の窮屈さをしみじみ知らされた。旅行友の会の旅は今回を最初で最後にして退会した。積立金は私の旅行用通帳に払い戻してもらった。どのような旅でも心に残る良い風景、良い交友、良い文化習慣に接しなければ疲れてしまうものである。しかし、海外の旅は容易に非日常の景観、空間、体験を提供してくれる。それは日々の自分の生活空間だけが現実であるとの錯覚を、否応なしに是正してくれる効果的な手段でもあるのだ。

「完」

2021年10月22日 | カテゴリー : 旅日誌2 | 投稿者 : nakamura