探索日誌
ブログ一覧
一族の由来を訪ねて(南部編)
一族の由来を訪ねて(南部巡り)
1、(プロローグ)
10月初旬の午後3時、事務員の入れてくれたコーヒーを飲みながらゴルフ雑誌「アルバ」のページを退屈まぎれにめくっていた。2日前に品質管理システムISO9001の審査が終わって一息ついていた。従業員45名の造園工事を主な事業とする会社における工事部門の品質管理システムISO 9001の取得は実質的な経営上のメリットなどほとんどないのが現状である。現場職員に煩わしい数値目標やデータの収集を押し付けているが、仕事上の出来高が上がるわけでは無い。安全管理に多少のメリットがあるだけだ。品質管理マネージャーの私は、各工事の現場責任者に審査のポイントを説明して審査官からの質問に対応できるようにするのだ。品質管理上の不具合が発生する案件については私から審査員へ改善計画を提出して審査合格となるのである。毎年A4-100枚前後のファイルが追加されていくのである。水族館案内業務、植物リース業、フラワーショップ部門についてもISO 9001の対象に入れてはどうかと審査員は提案するが、これ以上の煩雑な事務処理はごめんである。工事部門だけはプロポーザル方式の入札に対応しており、ISO9001の取得は僅かに評価ポイントが上がる程度だ。落札の成否は入札価格が絶対的な要素である。総事業費が年間3億円に満たない会社にとってのメリットは少なく、名刺にISO9001の認証マークを刷り込むことで営業上のスティタスが得られるだけだろう。
ゴルフ雑誌には相変わらず様々なクラブのメリットが載っている。ゴルフはクラブの価格でなく練習量だけがハンディを減らす絶対条件である。2週間後の月例会で80を切るスコアを目標にしており、所属コースのレイアウトをシュミレーションしていた。ISO審査の準備で4日前の開催された造園業者会の定例ゴルフコンペをキャンセルしたせいでストレスがいくらか溜まっていた。
事務所のスライドドアがガラガラと開いので顔を上げると、フラワーショップの女子店員が顔をのぞかせた。事務所の横にフラワーショップを併設してあるのだ。
「失礼します。常務を訪ねてお客様がお見えです」
「どなたですか」
「年配の方でナカムラとおっしゃっています」
私は店員の後からショップに入った。色とりどりにラッピングされたコチョランの贈答用商品に囲まれた休憩スペースに初老の男性が腰かけていた。テーブルには買い求めたばかりのオンシジュウムの小鉢が置かれていた。
「こんちわ、叔父さんご無沙汰しています」
「カズ君元気そうだね。勤め先の病院のロビーに君の会社の花屋がリニューアルオープンとのポスターが張られていてね、それでこの場所を知ったのだよ」
「花を買っていただきありがとうございます」
町内の病院、公民館、食堂等、人の出入りのある場所にポスターを掲示してあったのだ。ハサマと呼ばれる本家の宏春叔父は近くのノーブル・クリニックに非常勤で勤めている。長い間那覇市内で産婦人科を開業していたが、施設の老朽化と一人息子が外科医になったことで閉業したのだ。80歳を超えたことも主な原因の一つである。クリニックでは婦人科と内科を診ているらしい。先の大戦中は義父の旧制中学の同窓生である。
「お義母さんの具合はどうかね」
「中頭病院の集中治療室から屋宜原病院に移っています。容態は安定しているようですが、意識もなく機械任せの生活を送っています」
「充君も大変だな。彼の体調はどうかね。以前に大動脈瘤の手術をしたはずだが」
「血圧は相変わらず高めですが体調に問題もなく、毎日母の面会に通っているようです」
「食事の世話や家の掃除等は嫁がしているのかい」
「いえ、私の妻が月曜から金曜日まで住み込みで面倒をみています」
「そうか。君も大変だね」
「子供たちも成人して家を出ていますし、単身赴任みたいにのんびりと暮らしていますよ」と笑った。
「ところで、2週間後の第三日曜日だがナ。7年巡りを予定しているのだよ。参加できるかな」
私はポケットから手帳を取り出した日程を調べた。所属するゴルフクラブのメンバー月例会が入っている。少し残念な気もしたが
「大丈夫です。何とか都合を付けます」
「そうか、良かった。その日は午前8時に宮里公民館前を出発だ。これが訪問先の道順だ」そう言ってカバンから茶封筒を取り出して中の紙を広げた。
「名護を出て最初に読谷を訪ね、それから越来、中城、佐敷、玉城、首里城と巡るのですね」
「そうだ、6年前と同じだ。25名ぐらい乗れるバスを手配したので奥さんが在宅なら一緒にどうぞ」そう言って立ち上がった。
「わざわざありがとうございます」私はオンシジュウムの小鉢を手に持って駐車場まで叔父を見送った。7年巡りと称するが、旧暦の歳勘定と同じで6年毎の一族の由来を訪ねる旅である。いつの頃から始まったか定かでないが、大戦以前の明治の頃から続いており、自動車交通の無い時代には米を持参して徒歩で幾日もかけて巡ったと言われている。沖縄本島北部の名護間切りの裕福な本家であり、馬車ぐらいは使ったかもしれない。分家筋の私には7年巡りの意義は理解できないが、50年余の人生で3度ばかり参加した記憶がある。大抵は我々分家の当主がその役を引き受けていたのだろうと思う。遥かに遠い日々の小学校高学年頃に、本家の爺様に連れられて一度だけバスで越来を訪問した微かな記憶が残っている。宏春おじは足腰の衰えた父の代わりとして私に参加してほしいと考えたのだろう
「完」
一族の由来を訪ねて(南部巡り)
2、(平田家)
10月の第三日曜日の午前7時30分、宮里公民館のガジュマルの老木の近くにプリウスを駐車した。このガジュマルの大木は私が幼稚園児として見上げた頃と全く変わらぬ大きさだ。否、幼稚園児の私が大木と感じた樹形と大人の私が大木と感じる感覚は同じでない。ガジュマルは50年の時を経て大きく成長しているのだろう。この場所は井戸があるも湿度が低いのであろうか
公民館の南、100m程離れてこんもりと緑の繁る「前の宮」拝所が見える。樹高20以上のハスノハギリが数十本も繁る拝所は周辺の2階建ての民家よりはるか上に突き出ている。丸く大きな葉で覆われた樹冠は夏の日の海から立ち上がる入道雲にも似ている。私が幼稚園児の頃は公民館が公立幼稚園であり、拝所は夏の日差しを避けて幼児を遊ばせる最適な場所であった。幹回り5m以上で巨大な樹冠を作る巨木の間は20m以上も離れており、鬼ごっこや遊戯に興じる格好の広場であった。広場の端は海辺となっており、水遊びや砂遊びで子供たちがはしゃぎまわっていた。遠浅の海は奇跡的なエメラルドグリーンの美しさで広がり、名護湾の対岸の恩納岳の低い山並みが水平線の切れ目まで連なっていた。その風景は三十数年前までのことで、今では埋め立てられて運動公園に変わり、拝所の前を新たな国道58号が走っている。そして観光客のレンタカーが朝夕の交通混雑を引き起こしている。
公民館の2軒隣りに根神屋と呼ばれるノロの家がある。現在はノロのなり手がおらず木造建築の拝殿は公民館の女性事務員が管理をしている。男子の立ち入りが禁じられているのだ。ハスノハギリが繁る「前の宮」の一角には女人禁制の藁縄を張り巡らした結界の拝所がある。その拝所の手入れは区長さんの仕事である。

古い時代の名護間切りは東から東(アガリ)、城(グシク)、大兼久(ポーガニク)、宮里(ミャーザトゥ)の4集落で形成されていたようだ。集落の歴史家によると宮里は名護間切りの西の端を流れる屋部川の中流域の湊と称する場所を起源としており、湊(ミナト)ナントゥ、ナーザトゥと訛ってミャーザトゥの呼び名に落ち着いたとのことだ。台風の影響を受けやすい砂の原野に村人が落ち着くまでは随分と時が経ったことであろう。人々の棲家は水の利用が便利な川辺から始まったと理解するのが正しいと思う。私が中学の頃まで耕作していた田畑はヒルギ原、ナザキ原と称する地名である。ヒルギとはマングローブ林の樹木の一種であり、ナザキとは雑草のチガヤのことである。要するにマングローブの生い茂る湿地帯が水田に変わり、陸地化した原野が畑地になったのだ。農耕が盛んになるにつれて農地に適さないが、湿度が低く居住地に適した砂地に集落が移動したのであろう。古くからある屋敷は海浜植物のオオハマボウが防風林として屋敷の周りに植栽されており、僅かに塩分の混ざった井戸を備えていた。私の実家にも水量が豊富な井戸があり、広葉樹であるオオハマボウの新梢は田んぼの緑肥として利用していた。村はずれに歌碑があって「名護の大兼久、馬走らちいしょしゃ、船はらちいしょしゃ、わ浦泊」と方言の琉歌が刻まれていた。日本語訳にすると「名護の大兼久、馬走らせて楽しいことよ、船走らせて楽しいことよ」の意味だ。この地での草競馬は消えたがサバニと呼ぶ小型船の手漕ぎボートレース(ハーリー)は現在でも盛んだ。名護市長杯の全島選手権があるくらいだ。ちなみに旧暦の5月4日に県内の漁師町で開催されるハーリーの銅鑼が鳴ると梅雨が上がると言われている。大兼久(ウフガニク)とは広い砂地の意味である。海岸近くの砂交じり土地を兼久地(カニクジー)と名護市周辺の方言で称する。歌碑の記録では幅8間(15m)、長さ120間(220m)の馬場であったようだ。父に歌碑と馬場の話をしたことがある。母が気管支炎で入院中であり、父と二人だけで夕食を取っているときのことだ。箸を止めて遠くを見るような目で話し始めた。
確かあったようだ。ワシが子供の頃にもその痕跡が残っていた。「前の宮」のさらに東側で大兼久集落との境だったと覚えている。当時の小中学校が大兼久集落と城集落の間にあったので馬場の跡地に出来た砂交じりの道を通って通学していた。学校の帰りに本家の前を通ると本家の爺様に呼び止められ家の縁側でふかし芋とひとかけらの黒糖を食べさせてくれた。「美味いか、チュウバー(猛者)になれよ」と言った。そして納屋に連れて行って壁に吊るした馬の鞍を見せて言った。「ワシが青年の頃は馬場で馬を走らせる競争をしたものだ」言った。爺様は明治の少し前の生まれで。紐で結ばれた丸い眼鏡をかけて新聞を読んではワシの知らない世間の話をしてくれた。ワシの子供の頃は新聞などというものは何処にも無かった。ワシにとって学校の先生よりも位の高い雲の上の存在であった。爺様は明治の断髪令に反抗して未だにカンプゥ(髷)を結っていた。村の人は爺様に合うと誰もが頭を下げて挨拶していた。父は汁椀を手に取って味噌汁を一口飲んでから少し顔をほころばして話を続けた。爺様の話には続きがあってナ。親戚の叔父さんからこんな話を聞いた事がある。爺様の若い頃は家で書物を読んでばかりいて、畑の見回りに積極的に行かなかったそうだ。たまに親父に叱られて見回りに出ても、一刻もしないうちに帰宅したそうだ。婆さまが問いただすと「暑いし、脚は痛いし一里も先の小作人の田畑まで回る気がしない。近くの小作人が頑張っているから遠くの小作人も同じく真面目に働いているだろう。ワシは学問が好きだ。田畑の管理は親父殿に任せとけば良いでしょう」と口答えしたそうだ。母親を早くに亡くした爺様は祖母に育てられたらしい。そこで婆様は馬を何処からか探してきて、これに乗って田畑を回っておくれと言ったそうだ。爺様は馬に鞍を着けて昼飯のイモを持って朝から小作人の田畑を回って夕方に帰宅したそうだ。日に焼けて帰宅する爺様は次第に体つきもがっしりしてきたので婆様はひどく喜んだそうだ。父は言った。幾ら遠い田畑でも馬で行けば1日中かかることは無いだろう。ほれ、今の為又集落の奥地でも大した距離ではないのだから。爺様は確かに小作人の田畑を回ったのではあるが、昼食後は馬場に行って馬を走らせて遊び、夕方に馬を水浴びさせてから帰宅したそうだ。確かに体は頑丈になっただろうさ。いつの時代でも婆様は孫に甘いのさ。ワシも子供の頃に弟と二人は祖母に育てられて小中学校を卒業したのだ。その頃は国の政策で南洋群島開拓団が流行っており、両親や多くの親戚が南洋群島のテニアン島、ポナペ島に出稼ぎに出ていたのだ。沖縄県民は貧乏人が多かったから沖縄より暮らし易い南洋群島に生活の糧を求めたのだ。そのことを知っている本家の爺様はワシらの生活を気にしていたのだろう。父は少し寂し気に笑って食事を続けた。

1970年名護町、屋部村、羽地村、屋我地村、久志村が合併して名護市となった。
ハサマ一族の本家の現在の当主である宏春叔父は一族が集う祭事の度に我一族がこの地に住み着いたのは1500年代であると家系図をみせて説明した。我が一族は湊と称する時代からこの地に住んでいた土着民ではなく、外来転入者の一族ということになるのだ。家系図なるものを持つ外来者故に一族の由来を訪ねる礼拝地所お参りの旅を定期的に行っているのであろう。宗教的ない色合いを持たず、琉球列島伝統の祖先崇拝として一族の繁栄と自らの心の安寧を求めて、一族を繋ぐ礼拝地所を巡る旅をするのである。
公民館の広場には沖縄県農業協同組合北部地区本部と書かれたマイクロバスが停まっていた。三菱自動車の27名乗りである。フロントガラスの上部に「ハサマ一門様」と書かれた紙が貼られていた。このバスで拝所地巡りのツアーにでるようだ。バスの周りには既にバスツアーに参加する親族が集まっていた。本家のヨシ叔母さんの顔が見えたので声を掛けた。
「今日の参加費はどうすればよいでしょうか。参加は私一人ですが6名家族です」
「ハサマの一族の者一人に付き500円です。貴方の奥さんの分は要りませんよ。血縁者ではないから」
私は父と娘4名と自分の分を含めて3000円を納めた。叔父の嫁が会計役をしていた。参加費は訪問先のお布施として使われるのである。次々と参加者が会費を納めてバスに乗り込んだ。私は皆が席を取ってから最後に乗り込むためバスの外で待った。叔母に参加者の人数を尋ねると総勢29名ということである。但し名護市から参加するのは20名で那覇市在住の者9名は最初の訪問地である読谷村で合流するとのことである。バスは補助席を使わずとも乗れるようだ。一族の構成はハサマ本家が8名、私のマガイハサマ小(グワー)から8名、スージンハサマ小(グワー)から5名、コーブンハサマ小(グワー)5名、宏春叔父の従弟家族が3名である。分家筋には小(グワー)の敬称が付いている。本家が大(ウフヤー)で分家が小(グワー)らしい。沖縄県では良く見られる家の呼び名だ。私の実家はコーブンハサマ小の家の角を曲がったその先の家という意味らしい。曲がり角の先の家、曲りを方言でマガイと言うのだ。私の実家が一族の中では集落の最も西はずれに位置している。それでも本家との距離は400mも離れていないのだ。
午前8時、運転手がやってきて叔父に声を掛けた。
「皆さんおそろいですか」
見覚えのある男だ、私の顔を見てほほ笑んだ。高校の同窓生上間君である。高校の2年次に腎臓を悪くして1年遅れで卒業した男だ。その後、私と同じ大学の経済学部に進学して卒業後に沖縄県農業協同組合名護支店の経理部門で働いていたはずである。
「久しぶりだね。今は何処の農協に勤めているのかい」
「北部地区本部だ。資材センターの運営に関わる部署だ」
「今日はどうしたの」
「休みの日にボランティアで運転手をしているのさ。老人会の視察旅行などで県内をくまなくドライブしているよ。今回は職場の知人を介して宏春さんからの依頼を引き受けたのさ」
「そいつはありがたいな」
「おかげさまで大学にいた頃より中南部の道路事情に詳しくなったよ」
「俺は今でも大学のあった首里城の周りぐらいしか知らないよ」
「門中御願の拝所巡りは初めてだ。ハサマ一門は首里からやって来た由緒ある一族だってね」
「由緒あるかどうか知らないが、一族の絆を深める行事には違いないな。今日一日よろしくお願いします」そう言ってバスに乗り込んで後方の席に座った。バスの中は家族同士が対になって座っていた。6年前には兄と父の弟の三男叔父が私と並んで座っていたのを思い出した。今回は叔父も兄も不参加で叔父の次男夫婦が参加していた。奥さんは他府県から嫁いでおり妊婦であった。マガイハサマ小からは昨年亡くなった四男叔父の奥さんと長男次女、そして父の妹の二人の叔母が参加していた。門中御願の拝所巡りは老人会の慰安旅行とは随分と趣が異なる旅である。
8時20分:宮里公民館を後にして国道58号を南下した。許田から高速道路に入った。家族連れの年配の叔母さんたちは菓子類をカバンから取り出して皆に分け合っていた。まるでピクニックのようである。私も喉飴を1個貰った。バスの車窓から見る風景はいつもの乗用車からの視界と少し異なり、普段気付かぬものが見えて面白いものだ。しかしすぐに慣れてしまい眠気を誘った。気がつくと高速道路を降りて国道58号読谷村多幸山の長い上り坂に差しかかっていた。バスのエンジン音が高くなったので目が覚めたのである。目的地の伊良皆集落の手前の喜名交差点を右折して旧読谷米軍飛行場の跡地の荒涼としたススキが原の中を進んだ。右手の小高い松林の中に護佐丸の最初の居城座喜味城址ある。さらに進むと右前方の真新しい赤瓦の読谷村役場あり、そこに続く交差点を左折した。ススキの原野の中にアスファルト舗装の滑走路跡が長く伸びていた。その中を緩やかに左に旋回して進むと伊良皆集落の民家が見えて来た。目的の拝所付近が一方通行の為に大きく迂回して集落に向かったのである。大戦前の豊かな農耕地と集落は米軍に接収され軍事施設に変わり、日本復帰まで利用されてきた。返還後も土地利用が中々進まないでいる。一度アスファルトで固められた土地は以前の豊かな耕作地に容易には戻らない。数百年の時代を積み重ねて耕作に適した土地に作り上げた農地をブルトーザーで剥ぎ取り、コーラル砂利を敷きつめてアスファルトで被覆してしまったのだ。先祖伝来の農地は農作物の生産能力を失ってしまった。その代り軍用地料という新たな換金収入源を発生させた。大戦後の半世紀の間に住民と土地との関りを一変させてしまった。人工的な荒廃地が出現した今日、住民は土地本来の能力を再現するエネルギーを見いだせないでいるのかもしれない。集落の消滅は村人を散逸させてしまい、農村としての土地利用に関する世代間の継承が途絶えてしまっているのだろう。それでも米軍が去った後には新たな文化が芽生え始めている。座喜味城址の周辺に「やちむんの里」が形成されている。読谷村の政策の成果である。琉球王朝時代に城下町の壺屋に島内の陶工が集められて壺屋焼きという琉球独特の陶芸が発達してきた。しかし大戦後の那覇市の爆発的な人口の集中は焼き物工場の存在を圧迫してしまった。大量の薪を燃やし、住宅街に煙を吐き出す壺屋焼き独特の登り窯は都会の空気に馴染むわけにはいかなかったのである。私の友人で沖縄県立芸術大学元教授のSさんも30数年前まで壺屋でガス窯を使って焼き物をしていたが読谷村の募集に応じて「やちむんの里」に移って来た。現在ガラス工芸などを含む60余の工房があり、一つの文化村を形成している。緑の中に点在する工房と作品の展示即売所は観光客の往来が絶えない。壺屋焼き独特の伝統的な技法から斬新な若手陶芸家の作品まで多彩な焼き物を鑑賞できる地域である。ガラス工芸の体験工房も幾つかあって土産品の購入以外でも楽しめる地域である。
私は15年前に友人のSさんの紹介で宮城敏徳氏のシーサー1対を求めたことがある。自宅を立て替えた際に門柱に据える為である。50㎝程の高さであるが伝統的な表情をしたシーサーで威風堂々としている。今年に入って愛知県でマンションを買った長女に頼まれて玄関に据えるシーサー1体を探しにやちむんの里を訪れた。宮城氏の工房は代が変わり既に以前の面影のある作品は消えていた。最近の観光客に威風堂々は好まれぬようだ。私はSさんの穏やかな性格が滲み出た優しい表情の逸品を求めた。屋外に置くシーサーは威風堂々でも良いが玄関の内側に置くシーサーは穏やかな表情で帰宅した家族を迎える方が良いとも考えた。ちなみに壺屋焼きの伝統的な食器は最近の西洋料理は相性が良いとは言えない。米国式の食生活が他府県より早くに普及した沖縄県では、洋風と地元料理の混合料理が普及していて、伝統的な器は料理とのマッチングがあまりよろしくない。私は大学の先輩が復元した名護市羽地の古我知焼の工房を時折訪ねて湯飲みなどの小品を求めるのであるが、実用品としては長く使用できないでいる。観賞用としての存在になってしまうのは残念である。
最初の訪問地である平田家の前でバスを降りた。既に那覇からの一族が待っていた。平田家は尚巴志の祭壇を祭っているのだ。祭壇は本宅と別棟で10畳程の広さのコンクリート造りの平屋である。宏春叔父が本宅へ挨拶に行くも不在らしく戻って来た。祭壇のある建物は鍵が掛かっておらず勝手にガラス戸を開けて中に入った。祭壇の中央にはお布施を投入するポストにも似た穴が開いており、お布施口と紙が貼られていた。部屋の左隅に水道付きの流し台があり、「水道の閉め忘れと火の元にご注意ください。ウチカビはご遠慮ください」と張り紙があった。現在の平田家の管理者は頻繁に訪れる拝観者に対応出来ないのであろう。1400年代の初頭、三山を統一して琉球国の初代王に付いた尚巴志という琉球のスーパースターは、今日でも平田家に関わっているのである。国道58号を隔てて約600mの場所に尚巴志の墓があるようだ。尚巴志は沖縄の歴史上の偉人であり今でも名前だけが独り歩きをしている。この祭壇に線香をあげるのは、ハサマ一族だけでなく立身出世を願う財界人、政治家が頻繁に参るそうだ。とりわけ政治家にその傾向が強いと言われている。尚巴志に我が身を投影して世の中を治めたいとの自負心があるのだろう。
平田家が守っている祭壇には右端に火の神(ヒヌカン)の香炉、中央に尚巴志、平田之子、屋比久之子と並んでいる。平田氏、屋比久氏は第一尚氏に代わって第二尚氏が台頭した折、第二尚氏の手を逃れて尚巴志親子の遺骨をこの地に移動したとの伝承がある。第二尚氏の始祖金丸は自ら尚円王と名乗るも血族ではない。内乱の隙に乗じて王になったのである。当時の琉球国は中国の認可の元に交易を行っており、首里城近くにある尚巴志親子の墓の存在は目障りであったのだろう。何しろ中国の冊封子と呼ばれる紫禁城からの官僚が定期的に首里城を訪問して文化交流をしていたのだから。平田氏と屋比久氏は第二尚氏が采配を振るう前に骨壺を移したのである。平田氏は座喜味城址の北20kmにある伊波城址の出と言われている。宏春叔父より前の党首は伊波城址も御願の対象としていたらしい。叔父は実家と遠く離れた那覇市内の産婦人科病院の経営に追われて実家の祭りごとは先代に任せきりであったと口にしたことがあった。ハサマ一族は尚巴志の五男である尚泰久王を始祖としており、その親を奉る意味での参拝である。火の神、尚巴志、平田氏、屋比久氏の順に参拝するのだ。
お祈りの口上をスージンハサマ小の英明さんの奥さんの幸子さんが説明した。
「私は名護間切りのハサマ一門の誰それです。どうぞ私の家族の子々孫々まで繁栄させてください」と心で唱えて祈るのである。何度も線香を立て、水酒を取り換えての祈りは手間がかかるものである。さらに線香が燃え尽きるまではこの場所から離れられないのである。一連の御願は宏春叔父の長男の宏樹とその奥さんが行い、年長者の幸子さんがアドバイスをして儀式を進めた。10畳程の部屋が忽ち線香の煙で充満し、衣服が沖縄独特の平線香の香に染まった気がした。
35分ほどで儀式が終わり、バスに向かう途中で幸子さんが言った。

「この先の米軍基地の近くに尚巴志のお墓があるのよ。どうして其処にお参りしに行かないのかしら」
「この近くに尚巴志の墓があるのですか。幸子姉さん詳しいですね」
「私は読谷高校の出身ですよ」と笑って答えた。
「そうですか、宮里の方だと思っていました」
「お墓は本通りからあまり遠くなく、今では楽に歩ける道があるのよ。その近くを比謝川の支流が流れていて佐敷川と呼ばれているの。私が思うに佐敷出身の屋比久氏を偲んで地元の村人が名付けたのでしょうね」
この地に屋比久氏の祭壇があるということは、故郷の佐敷に戻ることなく骨を埋めたのであろう。屋比久姓は中・北部に少なく佐敷町に多い一門である。
僕らは上間君の誘導でファミリーマートの駐車場に止めてあるバス向かって歩き出した。嘉手納基地からやって来たと思しき3機の戦闘機が爆音を響かせて頭上を飛び去った。閑静な北部の田舎町で暮らし爆音に慣れていないハサマ一族が一斉に空を見上げた。
「完」
一族の由来を訪ねて(南部巡り)
3、(嘉手納基地)
10時10分、平田家の近くのファミリーマートの駐車場からバスは次の礼拝場所に向かった。国道58号を喜名交差点でUターンして南下した。ゆっくりと下って比謝橋を渡った。17世紀の琉球王朝の女流歌人吉屋チルーの歌碑が橋の近くのポケットパークにあるはずだ。読谷村山田の貧しい農家の生まれで、8歳で花街に売られていく途中の比謝橋を渡る際に歌った歌がある。
「恨む比謝橋や、情け無い人の、我身渡さと思て、架けて置きやら」
美女薄明で身分の違う恋に破れて18歳で命を絶ったと言われている。悲恋の女流歌人である。レンタカーナンバーの車が行き交う現在の比謝橋を眺めて、吉屋チルーはどう歌うだろか。比謝橋を過ぎるとゆっくりと上り坂となっていて嘉手納ロータリーに入る。正面は嘉手納飛行場で国道58号はその横を南下して那覇市まで続く。バスは左折して県道74号に入り米軍基地のフェンス沿いを沖縄市に向かって進んだ。米軍戦闘機ファントムの発着は見られず、格納庫の前で日向ぼっこをしている。遠くに黒い機体のB-52大型爆撃機が羽を広げている。格納庫に収まらず、駐機場に停まっているのだろう。台風の後に飛来するグンカンドリ似て異様な黒褐色の機体を駐機場に晒している。これだけ大きな機体が空を飛ぶのか、この大きさの機体はどれ程多くの爆弾を投下出来るのだろうか、そしてどれだけ多くの人民を殺傷するのだろうか思うと不快になった。父を除く兄弟姉妹は南陽群島のテニアン島で戦争に巻き込まれ、皆で難儀して育てたサトウキビ畑を無造作に均して作られた飛行場からB-29爆撃機が連日飛び立つのを見ていた。そして本土の都市を爆撃して広島、長崎には新型大量破壊兵器の原爆を投下したことを大人の噂話から知った。父は長崎大村の海軍基地で潜水艦乗りとして終戦を迎えた。むろん長崎の原爆被災地の状況を知っていただろうが、僕らにその惨状を話すことは無かった。

あまり高さの無い建物には星条旗と日の丸が初秋の西風を受けて翻っていた。沖縄が日本復帰した頃から自衛隊の交流があるのだろう。嘉手納ロータリーにはいつの間にか防衛局の沖縄事務所の建物が居座っている。戦争に負けて米国の支配下に安住することへの羞恥心を失い、武士道を忘れた日本人の哀しい姿である。もっとも武士道は日本帝国軍が天皇を狡賢く利用した時点で死語となっていたのだろう。正義の無い侵略戦争を隣国や東南アジアに広げて自国を崩壊させてしまったのだ。日の丸の旗は沖縄県民の歴史観が日の丸に対する憧れと悲哀が重なって複雑な思いとなって風に翻っているのだ。まして星条旗と並んで秋風に翻っていると尚更である。私には広大な米軍基地の中にはためく日章旗は虎の威を借りる狐が虎に化けるための呪い用の木の葉にも思えるのだ。農耕民族が狩猟民族に迎合していつまでも続いてくれる平和の白昼夢を見ているように思える。
農耕民族である日本人は本物の戦(イクサ)を身近に体験してこなかった。長い武家社会の歴史の中の戦は国民の6%に過ぎない武家の戦いであり、国民の意思で戦いに参加することは無かった。日露戦争の戦勝に沸きたった余韻で二次大戦へと突入していった。天皇を頂点とする神の国の選ばれし国民という訳のわからぬ理屈は、西欧列強への劣等感の裏返しであったのだろう。過去の愚かな戦争の歴史を反省する者は多いが、今日のお愚かな国防行動を反省する者は少ない。今日の日米同盟によって自らの平和な暮らしを守ってもらっているとの錯覚に気づかずにいるのだ。日米安保条約は米軍人の治外法権を容認して彼らの良心に基づく行動を期待してきた。米国軍人による犯罪行為を見ないふりしてきた日本の知識人すら多いのだ。米国軍人を羊の皮を被った狼とも知らずに平和の使者と歓迎する愚かな思想から抜け出せずにいる日本国民に悲壮感を覚えるのは私だけではあるまい。日本人は武家社会と変わらぬ発想のままであり、武士が庶民を守ってくれるとの歴史認識のままで戦後の70年を過ごしてきた。自衛という観念が育たぬ中で自衛隊なる集団を作り、多くの思いやり予算で米国軍を雇ったつもりになっている。自衛隊は所詮的撃ちの公務員に過ぎず、米国軍人のような殺戮の戦場を這いずり回る殺人集団には育っていない。農耕民族は狩猟民族の歴史を好まない。今日ある農作物は明日もそこに実っているだろうが、今日撃ち取った獲物が明日もそこに現れると思う狩猟者は皆無だろう。自らの命の危険と引き換えに今日の糧を得るのが狩猟民だ。米国は膨大な農産物を生産する国であるが農耕民族ではなく狩猟民が作った国であり、いまだにその狩猟民族としての思想が国民の基礎になっているのだ。農耕民族で形成された自衛隊が狩猟民族の米国軍と対等な能力を持つことは出来ない。幸か不幸か日本は幕末の開国で西洋列強に侵略されず、英米に比べて国民が異国の人種と混在することが無かった。それを国粋主義者は神が与えた純潔国民と自負するが遺伝学的には南北海洋民族の混血種である。ユーラシア大陸の極東の小国が300年の眠りに就いていただけだ。西欧諸国に産業革命と略奪紛争の吹き荒れる中で揺り篭に安眠をむさぼっていただけだ。明治の開国依頼100年の騒乱の時代を経て日本は本来の農耕民族の形態に戻ってしまった。自力で防衛する能力を育てる術を米国の虚言によって放棄したのだ。国家の自己防衛とは個人の生死の間にあるであって政治家の机上にあるのではない。
私は遠く青年期の終り頃、果樹園管理の仕事を兼ねて射撃と狩猟に明け暮れた日々があった。その時に射撃と狩猟が同じ火器を扱うも似て異なることを知った。
例えば的撃ちのライフル射撃では、照星の先でクルクル回る黒い標的が止まるのを待ってゆっくりと引き金に圧力をかければ良い。引き金は絞るのではなく押すのだ。その方が無意識の行動に入りやすい。心臓の鼓動さえもがと止まる気配の中に身を置けば良い。禅の世界に近い空間に身を置くのだ。一方、スキーと射撃では、プールから飛び出したクレービジョンを照星に乗せて引き金を引き、銃身を反転してマークから飛んできたクレービジョンを追い抜きざまに引き金を絞ればよい。何も考えずにただ素早く正確なレミントンM1,100の銃床の頬付けと機敏で正しい軌道での銃身の切り返しだけだ。
ところが狩りは的撃ちとは全く異なる。肉体と精神を融合させる行動である。例えば12月の夕暮れ時、稲刈りの終わった名護市の北の羽地集落の水田地帯の片隅のキビ畑の陰に隠れ、近くの農業用ダムから飛来するカモを待つ。やがて山影から十数羽のカモが編隊を組んでやってくる。ゆっくりと旋回しながら上空を舞い、次第に高度を下げて降り場所を確認している。レミントンM-870の30インチ銃身に込めた4号弾の射程に入るのを待って先頭の一羽目を撃つ、そして荒れた隊列の次の一羽を打つ、それが外れると3発目のマグナム3号弾を発射する。回収犬を使わずカモの落下地点を目で追っての狩猟では2羽が限界だ。ルアーフィッシングで2キロのガーラ(ロウニンアジ)を釣り上げるほどの興奮もなくゲームが終了する。そして銃を肩に担いで田んぼの稲の刈り株の間に落ちたカモを回収して肥料の空き袋に入れる。今しがたまで羽ばたいていたカモは未だ生暖かく生命の名残を残している。狩人の心に生き物の命を取り去ったことへの奇妙な寂寥感にも似た感傷が僅かに芽生えるのだ。
羽地米として人気の銘柄の春の田植え直後
大型獣の猪撃ちの場合はもっと明確だ。4月の早朝。果樹園の防風林イスノキの下に茂るススキの陰に隠れてリュウキュウバライチゴの茂みに意識を集中する。前日に果樹園のフェンスの金網が腐食して破れた部分からイノシシの出入りしている跡を見つけておいたのだ。足跡が新しく近くのイチゴの実を毎朝食べに来ているのだろう。イノシシは熟した果実しか食べない。イチゴに限らず温州ミカンやタンカンもそうである。特にうまい果実の実る木を知っているようだ。グルメな動物である。野イチゴ狩りを山鳥と競って早朝にやってくるのだ。私はレミントンM870の銃身に照星と照門を取り付けて猪撃ち用に改造してあった。1発目にライフルスラグ弾、その次に9粒弾を3発込めてあった。煙草をじっと我慢して1時間ほど待った。朝日が昇る直前になっても気配が無く、米軍野戦ジャケットのポケットの煙草に手を伸ばそうとしたとたんに30m先のフェンスが揺れた。ススキとチガヤとシャリンバイの幼木が入り混じって生えた場所がカサカサと揺れた。ゆっくりとこちらに向かっている。姿は見えないがイノシシ以外にあのように草木を大きく揺らす動物はいない。膝撃ちの姿勢をとってススキの間からイチゴの茂みに体を向けて待った。銃を担ぐ革のスリングを左腕の前腕に巻き付け銃身のブレを抑える工夫をして息を殺してイチゴの茂みの動きを見つめた。イノシシは低い枝のイチゴを食べているらしく中々姿を見せない。しかしイチゴの樹冠は1m近くあり、下枝の実を食べつくすと上の部分の実を食べるだろう。その時に顔を出して私に正確な体形の位置を示すだろう。フェンスに沿って15m程の長さで広がるイチゴの茂みの一か所だけが揺れている。そこにいるのは分かっている早く顔を出して高い位置のイチゴを食え。私の心臓は初夏の爬龍船競争の銅鑼鐘の様に高速に打ち鳴らされている。血流が全身を駆け巡った。そしてついにイノシシの鼻先が見えた。人差し指で引き金の手前にある安全ボタンをはずした。パチンと音を立てて安全ボタンが赤色に変わった。いつもは意識しない安全ボタンの開錠音がひどく大きく聞こえた。イノシシがこの音に反応することは無かった。喉が無性に乾いた。唾を飲み込むと銃身が僅かに動いた。イノシシはしきりにイチゴをむしっていた。時折イチゴの葉の間から鼻をのぞかせた。小さな舌先が鼻を舐めた。やがて前足を上げて後ろ足立ちで体を持ち上げた。イノシシの横顔がほんの少しイチゴの葉の間から覗いた。可愛い目をした若いイノシシである。照星を胴体と思しき位置に向けた。イノシシは無防備な状態で私のレミントン照星の先にいる。私は一瞬引き金に圧を加えるのを躊躇った。イノシシの顔がイチゴの葉の中に消えた。私はフーと息を吐いた。イチゴの茂みが僅かに揺れている。その上にイチゴの実が多数残っている。もう一度立ち上がってそれを取るはずだ。私は銃床から頬を離し手のひらを開いて指を屈伸して握りなおした。そして再び茂みの一点に焦点を合わせた。イノシシが背伸びをするように後ろ足で大きく立ち上がった。私はイノシシの腹の辺りに照星を少し降ろして引き金を絞った。文字通り右手を握りしめるように絞った。右肩と頬にライフルスラグ弾特有の強い衝撃が走った。キジバト撃ちの7号半やカモ撃ちの4号弾と比較にならない衝撃である。イチゴの茂みの中でピーとイノシシが甲高い悲鳴にも似た鳴き声を上げて野イチゴの枝葉を激しく揺さぶった。私はすぐさまススキの陰を飛び出して揺れる茂みの5m前からM870のスライドレバーを操作して3発の9粒弾をその中に連射した。イノシシの鳴き声はすぐに止んだ。イノシシのもがきで茂みが割れてイノシシの姿が見えた。その頭部に向けて止めの引き金を引いた。カチンという撃鉄の乾いた音がした。レミントンの弾倉は空になっており弾を撃ち尽くしていた。既にイノシシはピクリとも動かなかった。背骨の部分が大きくえぐり取られた若いイノシシが横たわっていた。一発目のライフルスラグ弾がタンブリングして背骨と背筋を直径10㎝程弾き飛ばしイノシシの動きを無能にしたようだ。私は銃を肩から降ろして脇に抱えたまま茫然とイノシシの死体を眺めていた。時の流れを見失っていた。ふと首筋に日の光の温かさを感じて振り返ると普久川の谷間にある安波集落の向かいの林から朝日が顔を出していた。散弾銃の引き金の後ろの安全ボタンを押すと、パチンと音がして赤い目印が消えた。銃を肩にかけ煙草を取り出して火をつけた。朝凪の森に煙草の煙がゆっくりと広がった。イノシシを果樹園の管理道路まで引きずりだしてから100mほど先の防風林のイスノキの脇に止めてあるダットサンピックアップに向かって歩き出した。2本目の煙草に火をつけてからトラックのエンジンをかけた。爬龍船競争の終わった心臓は心拍数をいつもの調子で叩いていた。30㎏程のイノシシを荷台に積み込み果樹園の管理棟に向かった。猪撃ちの興奮は消えて若イノシシの優しい瞳とぼろ毛布の如く草むらに横たわる姿が私の脳裏に繰り返し交錯した。高揚感の代わりに疲れを伴った寂寞した感情が残ってしまった。大きな躯体と感性を備えた表情を持つ生き物の命を奪う行為の報いのような気がした。的撃ちと狩猟の違いがそこにあった。その後も何頭かのイノシシを撃った。狩猟を止めて二十数年も経つがスラグ弾を撃つ衝撃と硝煙の臭いは未だに忘れることが出来ない。それは私が小心者故か、誰もが抱える人間の本性であるかの区別は解らない。
国頭村の原生林、猟師が消えてイノシシが増えている。
ベトナム戦争、中東戦争と容易に大義名分を掲げて人間を狩っては覇権を争う米国軍と何かを御旗にして狂気に陥らねば人間狩りをできない日本国軍の違いは確かにある。そしてそれを認識できない現代の日本人の民族としての哀しさが嘉手納基地に翻る日章旗に存在している気がした。
「完」
一族の由来を訪ねて(南部巡り)
4、(川端家)
バスは嘉手納基地のフェンス沿いを走り、松本交差点で左折して沖縄市美里(南)交差点近くで停まった。バスを降りると越来3丁目の2の表示板が電柱に固定されていた。我々はファミリーマート越来店の横の路地をぞろぞろと下って行った。人通りもなく閑散とした古ぼけた住宅がひしめき合っていた。20年ばかり前にタイムスリップした感があった。300mほど下ったくぼ地に川端家があった。谷間の始まりに似た場所で川端家からさらにゆっくりと谷間が西の方角に続いていた。おそらくこの谷間は比謝川の支流の起点となっているのであろう。敷地の一角にトタン屋根の倉庫に似た建物とその横に古い鉄製の大きな煙突か立っていた。煙突には錆が浮いており長い間使われた形跡がない。この施設は風呂屋であったのだろう。
川端家も平田家と同様に母屋と拝所が別棟となっていた。只、平田家ほどの来訪者は無い様だ。川端家の90歳近い女主人が母屋の仏間に我々を招き入れてくれた。全員で仏壇に手を合わせてその次に隣の棟の配所を全員で祈願した。
川端家の始祖は第一尚氏の6代国王となる尚泰久王子とノロの世利久の間に生まれた子供である。ハサマ一族は川端家の6代目の次男を始祖としている。宏春叔父は正月の初祈願に系図を開いて分家の我々に説明するのが常である。首里王府勤めの役人が何故に王府から遠く離れた本島北部の田舎やんばる地の名護間切に移り住んだか定かでないが、系図では読み取れない何らかの事情があったのであろう。庭の一角には尚泰久王子が我子の誕生を記念して植えた白椿がある。越来白玉という一重咲きの品種である。現在の株は高さ1.5m程で、実生で続いた何代目かの株であろう。私の小学生の頃に訪れた記憶では幹回り30㎝で3m余りの老木であった。半世紀の間に代替わりしたのであろう。越来白玉は純白で貴婦人のような気品のある花である。成長が遅く育てにくい品種でもある。私も6年前に訪れた際に種子を採取して育成しているが未だ開花に至っていない。ツバキの盆栽マニアの間でも幻の名花と呼ばれているらしい。家主の老女は気さくな方で我々に炭酸飲料のオロナミンCを配ってくれた。宏春叔父が訪問のアポイントを取るために訪れた際に十分な謝金を渡したのであろうと推察した。叔父は一族の当主として幾日か前に必要個所を事前訪問しているのである。離れの配所は世利久を祭ってあり、川端家の直系の縁者以外の来訪もあるらしく、平田家の離れの配所と同じ造りである。
川端家の向かいは石ガーと呼ばれる湧水地がある。分水嶺の谷の始まりである。白椿の他に水の利権を与えたのである。川端家はその水を利用して風呂屋を営んでいたようだ。尚泰久王は越来王子の頃、首里と沖縄北部との交通の要であるこの地を治めている。そのころに第二尚氏の初代王となる金丸を側近として登用している。尚巴志、尚泰久、金丸(尚圓王)は琉球王国の誕生初期の頃に最も大きな変革をもたらした人物達である

我々はこの石ガーを拝んだ。井戸には手漕ぎポンプが設置されており、ハンドルを上下させると勢いよく水が出てきた。井戸の周りは100坪程のポケットパークとなっており、多くの椿が植栽されていた。ただ品種は園芸種らしく樹形や樹勢が越来白玉と全く異なっていた。越来白玉は貴婦人らしく庶民の園芸品種に混ざって育つことは出来ないようだ。僕らは緩やかな坂道を登ってバスに向かった。あまり立派とは言えない民家の表札には吉田、田端、山本、中村、石原など沖縄には少ない姓が目立った。那覇から参加した秀栄さんにそのことを話すと、「戦後、大和風に改名したのだろう」と吐き捨てるように言った。
私は少しだけ可笑しくなった。僕らだって戦後、仲村渠から仲村に改名したのだから。秀栄さんはそのことも含めて不快に感じているのかもしれない。私より一世代前の先輩は祖先への尊敬の念が強いのだろう。
世利久の墓はコザ中央霊園の中にあった。石灰岩をくり抜いて作られた墓は戦火にも耐えて石壁は苔むしていた。この周りは霊験が高いのだろう。樹木は手入れがなされず自然に生えていた。アカギ、ガジュマル、ホルトノキ、クロツグ、トウズルモドキが無造作に自然の摂理に任せて存在している。尚泰久が覇権を示したの頃から悠久の時を経て存在しているのである。墓の庭は岩をくり抜いて作られており、周りより窪んでやたらと湿度が高くなっている。藪蚊がたちまち集まってきて僕らの血で栄養補給をするために活動を始めた。宏春叔父が蚊取りスプレーを噴射するも蚊の数には及ばない。僕らは手早く線香あげて手を合わせて立ち上がった。隣に大戦後に造られたコンクリート製の墓があり、川端家と表示されたていた。
宏春叔父が立ち上がって言った。
「この先にもう一か所お参りすべき墓があったはずだが、地形が変わってよく分からない」
指さす方向の崖の上にはブロックが積まれており、「中の町建材資材置き場、立ち入り禁止」の表示板があった。
「名護墓と呼ばれていて、名護から来る人達だけが拝んでいたそうだ」
ブロック塀の左端の崖下に小さな古い墓が3基並んでいた。そこに続く小道はブロック壁の手前で崩落していた。
「私たちの直接のご先祖も知れないのでお通しだけでもしておこう」宏春叔父の合図で手を合わせた。
参拝者はそれぞれにパチン、パチンと手をたたいて藪蚊を追い払いながらバスに戻った。私は近くに誰かがいる場合は不思議と蚊が寄り付かない。一人で藪に入ると蚊も不本意ながら私の血を求めるようだ。私の血は蚊の好みに合わないようだ。小道を下りながら気づいたのは誰か小道の周りのクワズイモやススキ葉を刈り払って通り易くしていた。宏春叔父の一人息子の宏樹に「叔父さんは下見に来たのかい」と尋ねた。
「先週の日曜日に川端家に挨拶に行ったようだ」返事した。
「そうかい、ここの小道も手が入っているね」と言って笑った。
「オヤジはマメな人ですから」そう言ってはにかんだ。

コザ中央霊園を出て、コザ十字路横切り国道329号を南下した。中城村渡久地の公民館前でバスを降りて、公民館の向かいにある配所で手を合わせた。宏春叔父は何らの説明もしなかった。中城城址が近くにある場所だ。尚泰久王の義父護佐丸と勝連城主安麻和利の戦いに由来する場所かもしれない。昼時の空腹のためか誰もこの地の配所に関する質問をするものはいなかった。一行の直接のご先祖にかかわる場所とも思われなかった。皆は拝み疲れと空腹感で会話の余裕もなかった。
12:35、昼食を大西ゴルフクラブのレストランでバイキングスタイルの食事を取った。年寄、子供交じりの30名近い人間が食事をとれる場所は少ない。一人1,000円を払って好きなものを好きな量取れば短時間で昼食が済むのである。上間君と並んで30分ほどで昼食を済ませて外に出た。テラスの向こうには中城湾が秋の澄み切った空気の中で青く広がっていた。左手のはるか彼方に勝連半島が続いていた。半島の小高い丘に安麻和利の居城であった勝連城址があるはずだ。この地で戦国武将の護佐丸が安麻和利に滅ぼされ、安麻和利は逆賊として首里王府に滅ぼされた。戦国時代の実力者を排斥する為の尚泰久王と側近金丸の策略であろうが、側近として金丸を迎え入れたことで尚泰久没後に第一尚氏が10年を待たずに側近の金丸(尚円)を始祖とする第二尚氏変わるのも皮肉な歴史の変化である。日本の戦国時代の織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康の時代になって武家社会の安定期を迎えたのに似ている。いつの時代でも人間の個の力は集合して大きなエネルギーを生じ、それが終息するには攻防によるエネルギーの放出が必要なのであろう。中国、中東諸国、西洋とて同じだ。国土の大きさによってエネルギーの規模が異なるだけである。

私はゴルフを始めた頃、この大西ゴルフ場で何度かナイターゴルフをしたことがある。ここから見るゴルフ場のロケーションは素敵だが、夜のゴルフ場は少し異なっている。ゴルフ場内には幾つもの古い墓があり。沖縄の亀甲墓は広い庭を備えている。ティショットを曲げてボールを墓の庭に入れると必然的にロスとボールだ。墓の庭からチップショットをするには墓の主に申し訳が立たない。一打罰で近くから打つことになる。スコアが100を切る頃からは大西ゴルフクラブでのナイターコンペは遠慮した。ちなみに沖縄出身の有名な世界的女子ゴルファーの父君も初心者の頃はこのゴルフ場のナイタープレーで腕を磨いたらしい。
「完」
一族の由来を訪ねて(南部巡り)
5、(月代の宮から首里城まで)
午後1時10分、上間君の運転するマイクロバスが駐車場にやってきた。午後の巡礼の始まりである。県道146号を下り、添石の交差点で右折して国道329号を南下した。
「添石の拝所には行かないのですか」幸子さんが宏春叔父に尋ねた。
「そこには行かない」素っ気なく答えて車窓に目をやった。中城は護佐丸、安麻和利、そしてその戦の仕掛人である尚泰久王の覇権が交錯した場所である。琉球の歴史の要のひとつではあるも仲村渠一族との関りは希薄だ。560年も前のことであり宏春叔父が気に留める要素は無いのであろう。宏春叔父にとって直近の血族である川端家が家系図の原点であり、その先の尚泰久王の活動の足跡は御威光を拝むだけの実像の乏しい礼拝でしかないのであろう。拝所としては奈良の大仏や伊勢神宮のレベルであるのかもしれない。
与那原町の交差点を左折して国道331号に入った。しばらく行くと佐敷小学校の横の通りに大きな鳥居がありその下を潜って山手に少し上ると月代の宮の拝所に着いた。馬天港を望む丘陵地である。佐敷城のあった場所で、尚巴志の父尚思紹が父の鮫川大主と共に伊平屋島から流れ着き地勢を固めた最初の拠点である。一介の流れ者の子に過ぎなかった尚巴志が地域の豪族の婿となり、琉球国の三山の統一の祖となったからには人並み外れた才覚の持ち主であったのだろう。歴史の分岐点に忽然と登場する英傑の一人である。
僕らは50段ほど階段を上って最上段の小さな祠と敷地内の一角を礼拝した。5度目の礼拝である。何度も礼拝すると集中力も薄れてしまいただ手を合わせて「ウートートゥ」と唱えてしまった。三山を統一した王の御威光を示すものは無く小さな祠が侘しく存在しているだけである。

礼拝が終わって帰るときに祠の手前の鳥居型の拝殿の中の記名版を指さして宏春叔父が言った。「大戦後にこの月代の宮を再興したとき僕らの叔父も寄進したのだよ。私も叔父とともに落成式に参列したが、中々名誉なことであった」。叔父の指さす方角には厚板の上に献上者の名前が記載されており、金00ドルと記載されていた。かなり劣化しており仲村渠宏までは読み取れるがその次の一字は読み取れなかった。この姓名は他にはなく、確かに僕らの一族の一人だろうと推察した。その方は県内随一の日曜大工センターの創業者の祖父である。
僕らはゆっくりと階段を下りた。このあたりのホウオウボクは地際が板根状に立ち上がっていた。地下水位が高く根が土壌の表面を走っているのであろうか、まるでサキシマスオウノキの変異種かと思しき景観である。眼下に馬天港とその先の太平洋の青い海の上に久高島がポツリと浮かんでいた。この高台は琉球の神々の島に最も近い屋代に違いないと思った。

バスは県道137号を南下して琉球ゴルフクラブの横から脇道を抜けて富里の集落に入った。尚泰久王の墓参りである。墓は国道331号の改修工事で敷地の一部が削り取られた急な斜面の上部に位置していた。墓地の入り口の石碑には第一尚氏王統、第6代尚泰久王陵墓と刻まれていた。石碑の裏側には1985年1月建立、月代の宮奉賛会と刻まれていた。道路拡張工事に伴い月代の宮に関わる一族が整備に普請したのであろう。墓は尚泰久とその長男安次富氏が並んで配置してあった。石灰岩をくり抜き正面は石灰岩をブロック状に積み上げた現代の石組み工法である。

儀式通りの祈りをささげた後で、墓地の入り口横の太平洋が見える場所に移動した。青い海原の先に浮かぶ久高島に向かって礼拝するのである。久高島は琉球の王府に関わる神々の原点である。穏やかな秋の日差しの中で僕らは素直な心で血族の家内安全を無心に祈った。僕らはゆっくりと歩いて安次富家の離れにある拝殿に向かった。崖下から墓地に上り、今度は周回するようにキビ畑の細い道の歩いた。宏文ハサマ小(グワー)の喜美子が話しかけてきた。私より一つ年上の気の強い女である。浅黒い顔は変わらぬが血色が優れない気がする。内臓に不安があるのかもしれない。
「奥さんは元気。喘息気味で退職したでしょう」
「宜野座村の漢那タラソ通って、蒸気サウナで治ったみたいだ」
「そう、良かったわね」
「市民講座の太極拳教室に通い、名護市の婦人コーラスグループ茜雲にも所属しているみたいだ。派手なドレスで発表会に出かけているよ」
「貴方が働かせすぎたのよ。お嬢様育ちだから」
「書道塾は今でもやっている」
「忙しくて止めたわ、旦那の病気もあったし」
喜美子は小学校の事務職である。そろそろ定年だろう。妻が教職中は同じ小学校で同僚であった。3年前に夫を亡くしている。成人した息子と孫を同伴している。私は妻の言葉を思い出して苦笑した。
「貴方の従姉に喜美子さんという方がいるでしょう」
「ああ、宏文屋の三女で僕より一つ年上だ」
「先日、小学校の学習発表会の準備をしているときに校長先生が彼女に仕事を頼んだのよ」
「何を」
「舞台の上に掲げる平成00年度学習発表会の表示を書いてほしいとお願いしたのよ」
「確か喜美子は書道教室を開いていたはずだ」
「そうしたら彼女が校長先生にピシャリと言ったのよ『私の書はそんなものを書くためのものではありません』とね。校長先生はポカンとしていたが、そのまま事務の仕事を続けていたわ。書家としてのプライドが表に現れていたわ」
「そうかもしれないな、俺も子供の頃から彼女は苦手だった」
喜美子の顔に以前の覇気は見当たらない。苦労が彼女からある種のエネルギーを奪い穏やかな暮らしに埋没することを望んでいるのだろう。
私の前をとぼとぼと歩く女性は私より2歳上だが、10歳以上も年長に見える。父の末弟の嫁で昨年夫を亡くしている。二人の子供と一緒だ。亡くなった宏光叔父は大戦中にミクロネシア連邦のテニアン島で生まれた。戦火がひどくなって極端な食糧難の中で赤子が生き延びたのが不思議だと叔母たちが葬儀の時に話していた。体力に恵まれなかったのは赤ん坊の頃の栄養失調が影響したのだろう。幼稚園、小学校と私の母が育てたこともあり実家によく顔を出した。何とも言えない優しい笑顔の叔父であった。アルミサッシ工場を経営していて、私の最初の家のアルミ建具一式は叔父が作ったものであった。玄関には叔父から送られた畳大の姿見があり、贈・名護アルミと金文字で書かれていた。この姿見は2度目の自宅を建築した時に、古い家から取り外してウォークインクローゼット内に取り付けてある。厚みのある丈夫な逸品で叔父の形見になってしまった。この巡礼の旅は本家への義理で参加しているのではなく、心に何かを抱えている者達が参加しているのだ。はるか昔のご先祖の墓参りで心の重石を軽くする。あるいは光の届かぬ井戸の闇に蓋をかぶせたいのかも知れない。550年以上も前のご先祖の英傑を訪ね、自分の家族の繁栄を祈ることに現実的なご利益は無いだろうが。しかし、誰もが何かにすがって今の不安を解消したいのだ。宗教上の神のような高尚な存在でなくとも心の闇に僅かな明かりを灯す術が欲しいのである。自分の存在を明日へ導く何かが欲しくてその対象をご先祖の霊力に託すのは、沖縄に生まれた者の根底に流れる土着の宗教的な心の拠り所である。
安次富家の祭壇は平田家や川端家と同様に本宅の隣に建っている。尋ね人が気兼ねなく礼拝できるようにとの配慮である。尚泰久とその息子の安次富氏の位牌があり、香炉には三つ巴の紋が入っている。尚泰久の遺骨は明治になってから石川市の墓地からこの地に移されたらしい。第2尚氏の影響が亡くなってから血族の許に戻ったようである。月代の宮奉参会が尽力したのであろうか。仏壇には尚泰久の香炉の他に安次富家と関わる小さな香炉が並んでいた。宏春叔父は尚泰久の香炉に3本の線香を立て、他の香炉には1本ずつ立てて祈願した。はハサマ一族は安次富家との直接の繋がりは薄いようである。拝所には瞬天王統から尚圓王統までの系図が書家によって表示されて額に飾られていた。そして系図の余白の下部に走り書きの様に記された文字が私の心を捉えた。琉歌調で「祖先崇拝」祖先(モトヂ)タズネラン 道マユラ故(ユイ)カ 祖先道アキテ 栄テイカナ」 と書かれている。書体からして、この系統図を描いた書家が詠んだ歌であろうと推察した。自分は何処からきて何処へ行こうとしているのかは2千年前の孔子の時代からの人間の哲学的命題である。孔子ですら論語の最後の章に「命を知らざれば、以て君子たることなし」と証している。我々の日常は些細な不安の連続である。せめて偉大なご先祖にすがって不安を軽減してもらうは庶民のささやかな願いであろうし、先達の偉大な「気」を心に取り込みたいと願うは本人の心次第だから。

4時半を回ると日差しが少し傾いて来た。バスは国場十字路を右折して首里城に向かった。首里城での拝所は守礼の門近くの園比屋武御嶽である。この御嶽は城主が旅に出る際の安全祈願所であったと言われている。観光客の行列の先には朱塗りの首里城が建っていた。第二次世界大戦で日本軍の駐屯地であった首里城は米軍の艦砲射撃で完璧に破壊され、戦後は琉球大学が立てられて多くのリーダーを輩出して沖縄復興に貢献した。しかし今は四十数年前に私が学んだ学舎の影は無く、本土復帰直後の学生運動で賑わったセクトの隊列の旗頭の代わりに観光ガイドの誘導旗だけが幾つも観光客の列を先導していた。琉球大学が西原町に移転して首里城が再び沖縄の歴史の縮図である那覇の町を見下ろしている。琉球王国の象徴的場所である首里城は、中国王朝、薩摩、明治以降の日本政府、米国政府、そして戦後の日本政府と歴史の変遷に翻弄された沖縄の庶民の暮らしを静かに鎮座して眺めている。歴史に善悪の基準は無く、ただ結果としての記録が存在するだけである。首里城は幾度か焼失しては再建されてきた。この地を拝所として訪れる者たちにとって、城の威風堂々とした城郭は視覚的な感動を促すも心の拠り所ではない。幾世代か前の祖先が関わった場所としての城址その物が祖先との魂の交差を誘うのである。私はハサマ一族の旅が一族の歴史の中で途絶えることなく続いてきたのは、庶民の暮らしの中に存在する心の拠り所としての祖先への回帰思想が人間の根源的ものであるからだと思うのだ。

この場所での礼拝は、世界文化遺産であるがゆえに線香に火を付けずに水と酒と倶物を備えて祈願した。首里城の警備員の監視付きである。無作法な観光客の一人が僕らの一行の間に割って入ってカメラを構えた。私は威嚇するように睨みつけて手で制した。私は疲れが体の表に出てきて、無礼な者への嫌悪感から不覚にも強い殺気を放ったのかもしれない。カメラを向けた観光客は顔を背けて退いた。警備員がそれを察して手を広げて観光客の一群を制してくれた。御嶽での礼拝を終えると門の裏手のアカギ林の中に入った。ここから沖縄本島北部の西の海に浮かぶ伊平屋島に向かってお通しのお祈りをした。南部巡りの巡礼の旅の終わりの報告である。第一尚氏は伊平屋島から始まったのである。

僕らはアカギ林を抜け、守礼の門を潜り、バスの待つ首里城公園管理事務所前に向かって坂道を下った。午後5時半を回っていた。バスに乗り込む前に宏春叔父が言った。「再来週の日曜日に今帰仁巡りをします。その時は各自の車で行きます。宮里公民館からの出発時間は午前9時です。今日はお疲れさまでした」
僕らはバスに乗り込んだ。宏春叔父は息子夫婦の車で那覇市内の自宅へと引き上げていった。上間君の運転するバスは鳥堀の交差点へ向かって首里の坂道を下って行った。一族の南部めぐりの小さな旅が終わった。二週間後の一族の旅の後編については考えないことした。終日漂った線香の香りは私をひどく疲れさせたようでバスのエンジン音に誘われるままに眠りに落ちていった。
「完」


2022年9月 川畑家より種子を採取して育てた越来白玉を自宅に植栽。10年目ににして蕾が付いているのを確認した。開花は年明け早々だろうか。尚泰久の声を聴きたいと思う。
ミジュンの群れ
午前8時30分、私はファーマーズマーケットにコチョウランの鉢植えの納品を済ませて名護市営21世紀の森公園にやって来た。久しぶりに朝のウォーキングをしようと思ったのである。定年退職後に始めたラン栽培の成果品をJAファーマーズマーケットの店内に納品しているのだ。納品時間は午前7時から午後6時までだが、開店前の午前9時までに納品と簡単な手入れを済ませている。朝食後の軽い運動で老化が進行中の体を少しばかり活性化したいのだ。
ファーマーズマーケットに納品する農産物生産者は、専業農家よりも少量生産の農家モドキが多い。私の様な定年退職後の暇人の小遣い稼ぎにも似た生産者達である。自ら管理できる範囲の農地で生産した農作物を少量出荷しているのだ。生産者の表情にはサラリーマンのストレスにも似た影は見つからない。それぞれが自慢の農産物を持ち込み、自らの評価で値段を決めて出荷するのである。上司も部下もいない一人親方としての自信に満ちている。私の所属する店舗には、若くもない年齢の人々が1,400名も会員登録されているが、常時活動する会員は400名程度である。老いが進みすぎた生産者は離脱しているのかもしれない。次々と参入してくる世代との更新リセットがなされているのだろう。しかし農協口座から自動的に引き落とされる年会費1,000円を止めることもせず払い続けているのだ。人間の生産活動のエネルギーにも限界があるのは否定できない。それでも農産物生産の喜びを知る人々にとって、ファーマーズマーケットは老いてなお僅かなエネルギーで社会との繋がりを保つことが出来る場所なのだ。それ故に体調や気力が整えば市場に出荷したいとの思いが脱会を思い留まっているのだろう。10年ほど前に出現したこの市場は、農家の血を吸って成り立っている日本農業協同組合の数少ない社会貢献の一つだと私は思っている。
私は三十数年に渡り造園建設業界に携わってきたが、退職後は造園業界から完全に離脱して農業という異なる業界を垣間見ている。造園建設業も植物を扱う仕事であるが庭師の共同作業による成果品の作出だ。農業には一人で植物に向き合って成果品を作出する楽しみがある。とりわけ私の様な農業入門者にはその感覚がたまらなくうれしくてモノづくりに自然と熱がこもるのである。私の場合、冬から春にかけての洋ランの開花期に作業のピークを迎え、5月の母の日セールで一段落となる。気がつくと沖縄の「うりずん」と呼ばれる短い春が過ぎて雨季が来ているのだ。
21世紀の森公園のラグビー場横の駐車場に車を停めた。冬の間落葉していたコバテイシは既に若葉から青葉に変わって豊かな樹冠を作っていた。梅雨空の厚い雨雲が日差しを遮って大気が湿っている。私は浜風を求めて公園の南の海岸に向かって歩き出した。21世紀の森公園は野球場、ラグビー場、200mのショート・トラックの競技場、シャワー室を備えた海水浴場、雨天練習ドーム、体育館等の運動施設と児童センター、大小のコンサートホールと幾つかの研修室を備えた中央公民館とそれらの施設を取りまく緑地帯で構成されている。施設を連結するように遊歩道が設けられており、ジョギングやウォーキングを楽しめる造園修景となっている。この公園は1972年頃、名護湾の遠浅の海岸を埋めて作られた。海岸線は東西にW字型に三つの突堤が作られていて、その内側に広い砂浜を持つ美しい入り江が形成されている。

私は中央の突堤に続く遊歩道を歩き始めた。歩道の両脇が松並木となっていて左側がラグビー場、右側が野球場である。野球場はプロ野球日本ハムのキャンプ場としても利用されている。1月、2月は野球選手と観客で賑わうが今はオフシーズンである。

松の枝をわずかに揺らして緑陰の中を磯の香りを含んだ浜風が通り抜けていく。200mほど歩くと浜辺に出た。正面に恩納岳の山並みが右肩下がりで緩やかに連なっている。砂浜に降りて波打ち際を歩くとサンゴの細長い枝片が打ち上げられ、波形に積もって続いている。その上を歩くとジャリ、ジャリと靴底から軽やかな音が伝わってくる。サンゴの砂利のことを沖縄の古い言葉ウルウと呼ばれていて、琉球の別名うるま島はウルウから派生した名前だと94歳の父が話していたことを思い出した。この浜辺を歩くのは4カ月ぶりだろうか、もっと前であっただろうか。ミーニシと呼ばれる晩秋の北風が吹いていた頃だ。このW字型の突堤に挟まれた西の入り江には、ミーニシと共にミジュンが群れでやって来る。

直径20m程の不安定な円形の魚影が入り江の中をゆっくりと移動する。ミジュンの到来と共に暇を持て余した釣り好きな老人共が集まって来る。この時期だけ魚釣りをする老人達である。安物の振出竿にリールと300円前後の疑似餌のグルクンサビキがあれば遊べるのだ。釣ったミジュンは塩コショウと軽く小麦粉をまぶして、油を薄く敷いたフライパンで焼けば晩酌の肴となるだろう。同じ顔ぶれの4,5人の老釣り師が毎日のように夕暮れの日差しを浴びて竿を振っている。時々高級ルアー竿を手にミジュンの群れを追ってやって来るガーラ等の大型回遊魚を狙う若者を見かけるが多くはない。仕事持ちのシーハンターは老釣師程の暇を持ち合わせていないのだ。老人釣師が2度、3度と竿を振ると、竿を少しだけしならせて巻き取った糸の先にミジュンが1匹、あるいは2匹と食いついてくる。夕日を浴びてミジュンの銀色の腹がキラキラと光って跳ねる。老釣り師の顔が輝いて子供の笑顔のように弾けている。数十万匹のミジュンの群れはは幾ら釣っても減ることは無く彼らの楽しみを叶えてくれる。只、時折やって来るガーラ(オニヒラアジ)、イケカツオ、シジャー(ダツ)はミジュンの群れを蹴散らして浜辺から沖へと追いやってしまう。老釣師のキャスティングで届かぬ距離へと去ってしまうのだ。活力に満ちていた老人のエネルギーは一気に萎んでしまい、砂浜に座り込んでしまう。老人が本来の姿に小さくまとまってしまうのだ。老人の期待するミジュンは容易には戻ってこない。やがて陽が西に傾いた頃、縮めた振出竿を杖代わりにして歩き出し、自転車で浜辺を去って家路に着くのだ。ルアーフィッシングを楽しむ友人によると、昼過ぎから毎日のように4時間近くも釣っている老人もいるようだ。彼らは釣果を近隣の知り合いに配って回り、名を上げているのだろう。日頃は家計の戦力外の老人にとっての数少ない名誉挽回の機会かもしれない。今日の5月の梅雨空の下の浜辺には、老いた強者どもの夢の欠片さえ残ってはいない。足元から伝わって来る砂利の音と寄せては返す波だけが変わらぬ風景である。

砂浜の西の入江の端に岩山がある。埋め立て前は砂浜から100m程離れた海中に佇んでいた異形の岩礁だ。名護間切りの住民は畏敬の念を込めて岩礁のことを大石(プーイシ)呼んでいた。ところが現在は陸続きになってしまいネコ捨て山となってしまった。呼び名もネット上で猫島と呼ばれているらしい。心優しい愛猫家或いは寂しさを紛らわす孤独な人々の持ち込む餌に引き寄せられた野良猫が増える一方である。遠い日にこの島に向かって何かの思いを祈願した故人には如何に映るだろうか。この岩山の陸地に面した部分は既にアコウ、クロツグ、オオハマボウ、モクマオ等の潮風に比較的に強い海浜植物が繁っている。しかし南側の海水を被る岩礁にはハマボッス、ウコンイソマツ、野芝等が生えている。未だ人間の悪癖に染まらない植物群が残っているのだ。只、この岩礁が陸続きになる前に群生していたヒレザンショウは盆栽ブームによって盗掘されて消えてしまった。


私は岩礁の脇から続く西の突堤の先端で折り返して海岸の遊歩道を東に向かって進んだ。東の入り江は遠浅で海岸中央部に位置する公園管理事務所と海水浴場がある。クラゲフェンスの周りをビーチ監視員が泳ぎながら始業点検を始めている。ハブクラゲ、オニオコゼ、ゴンズイなどの危険生物の除去作業である。ハブクラゲはいつの頃から現れたのだろうか。私がこの海辺で泳ぎ回っていた頃には存在しなかった生物である。まるで人間社会の悪しき慣習に誘われてマリアナ海溝の海底深く沈んでいたパンドラの箱から抜け出して来たようだ。
ビーチの利用時間は午前9時半から午後6時までだ。地元の利用客は少なく県外や台湾からの観光客が殆どである。そもそも最近の沖縄県民は海水浴に馴染まない傾向がある。私が子供の頃は、夕方になると遠浅の海岸は海水浴をする子供達のはしゃぎ声に満ちていた。あの頃、この辺りの庶民の生活は、子供の海水浴が風呂代わりになっていた気がする。湯を沸かす五右衛門風呂は短い冬の間のことであった。湯の出るシャワーなど想像もできない半世紀も前のことである。

管理事務所の後ろから東西に管理用車道が続いている。車道の南側に歩道がありコバテイシの並木が続いている。私は歩道ではなくコバテイシの植え込みに広がる芝生地の上を歩いた。洋芝のセントオーガスチンの上に一条の獣道にも似た踏み跡が続いている。高麗芝だと歩行者の踏圧で枯れてしまうが、セントオーガスチンはわずかに踏み跡が残るだけである。太くて硬い茎が踏圧に耐えるのだ。この芝は日陰にも強く、高麗芝の広場に侵入を許すと、たちまち凌駕してしまう勢いがある。まるで欧米から移入した文化に容易に染まってします日本人社会の様である。少し明るくなった空から注ぐ陽光が暑さを運び始めたのでコバテイシの木陰となっている芝生の上を歩くことにしたのだ。靴底から心地よい芝生地特有のクッションが伝わって来た。

コバテイシの木陰の下を500m程歩いた所で、東の突堤と護岸に沿って直進する遊歩道の交差点に着いた。右に行けば突堤の先端へと続き、護岸に沿って直進すると港川の河口に至るはずだ。私は立ち止まって背伸びをして護岸の1m程の高さのコンクリートの堤防に足を掛けてストレッチをした。久しぶりの散歩でふくらはぎに重みを感じていたのである。深呼吸をして市内のアパート群から名護岳へと続く爽やかな朝の景色を眺めた。穏やかな名護湾の海面に深い緑の名護岳の山並みが映って落ち着いた景観を成している。絵筆を取りたくなるような爽やかな朝の風景である。私は見慣れたはずの名護漁港のドックの手前に橋らしきものを見つけた。早足で歩いていると見落とす僅かな構造物だ。私は気になってその方向に歩き始めた。東の突堤を折り返して戻るのがこれまでの散歩道であったが、ドックに向かって真っ直ぐに伸びる防波堤に沿って進んだ。
400m程進むと港川の河口に着いた。その川向うは名護漁港である。確かに河川の最先端部に橋があった。こちら側の港地区と名護漁港を繋ぐ橋である。港地区は元来漁師の集落であった。名護湾の埋め立て地は名護岳の麓の東江集落から城、港、大南、そして西の外れの宮里集落まで直線で造成されている。埋め立て地を幸地川、港川の二本の河川が横切って名護湾へと流れている。この二本の河川に挟まれて名護漁港がある。埋め立て地に宅地が配分されたのは港区だけだ。漁民の入会権が関わっているらしい。国道と港川が交差する埋め立て地の一角に港区公民館が建っている。

橋は集落の路盤より3m程高くなって建設されている。防波堤から橋に向かって緩やかなカーブとなっている坂道を登った。橋の欄干を見ると橋の名前が刻印されていない。橋の上で立ち止まり川面を眺めた。満潮の上げ潮に載って数十匹の若いボラの群れが上流の昭和橋に向かってゆっくりと泳いでいく。ふと橋脚に目をやると平成13年大米建設施工と名版が埋め込まれている。十数年も経っているのだ。150m先の国道に架かる昭和橋を何度も通過しているが気付かなかったのだ。国道58号のフクギ並木を高速で走り抜けると、川下の景観の少しばかりの変化には気付かないものだ。

名の無い橋を渡るとそこに漁船用のドックがあり、船底を塗装中の漁船があった。船底に付着した貝を取り除いて塗装するのだ。貝が付着すると船足が鈍くなり燃費が悪くなるらしい。船を遊ばせて係留期間が長くなると貝が付着するのだろう。人間もロクな働きもせずに世間に漂っていると心身に余分なものが付いて動きが鈍くなって来る。桟橋にはロープで係留された漁船が退屈そうにプカリ、プカリと浮いている。人の気配がなく貝の付着を誘っているようだ。幾艘も並んだ漁船の舳先の向こうに競り市の建物がある。人の動きがあるので競り市が開かれているのかもしれない。少しのぞいてみようと思ってそこに向かってゆっくりと橋を下って行った。

鮮魚店のワゴン車や○○水産と書かれた海産物仲卸業者の車が並び、競り子威勢の良い声が聞こえた。競りは既に終盤に入っていて競り落とされた魚介類に紙が貼られていた。サンドイッチ、おにぎり、天ぷら等の総菜を小さなテーブルに並べて売っている者もいる。競り場の隅で競りの様子を眺める私の様な野次馬もいて中々活気がある。小腹が空いたのでおにぎりを買って食べながら様々な種類の魚介類を眺めていた。銀色の腹をしたアジ、イワシ等の青物から赤色、緑色をした熱帯魚のグルクン、アオブダイや10kg程のシビマグロ、タコ、セーイカ、シャコガイ、カニ等、さながら近海の海洋生物の標本箱である。ほんの半日前までは自然界の一部として躍動していた彼らは、既に競り市のベッドに横たわる海産物としての食品の一部に変わっている。口を半開きにしたシビマグロの顔を見ていると「死んだ魚の目」の意味が良く分かる。瞼の無いシビマグロの目は淀んだ霞が掛かっていて、生命体としての活力が失せた脱力感が漂っている。大型魚には失われた命の哀れさが如実に表れるようだ。競り市の魚やセリの活気を眺めていると、突然後ろから怒鳴り声が聞こえた。
「爺さん、台車に寄り掛かるんじゃないよ。危ないじゃないか」
振り向くと80歳前後の男が頭を掻きながら怒鳴った男に向かってペコペコと頭を下げている。台車の縁がその男の足に軽くぶつかったらしくふくらはぎを擦っている。漁港の制服を着た青年が近づいてきて笑いながら穏やかな口調で爺さんに言った。
「また、アンタかよ。あぶねーから向こうへ行って遊んできな。セリ場は滑るから気を付けて歩きなよ」
周辺にいた人々が声を出さずに苦笑した。私もその老人の服装を見て苦笑いした。紺色のズボンにTシャツ、その上から冬物の背広を着け、ヤンマー船外機と書かれたキャップを被り、黄色い手ぬぐいを首に巻いている。足元は薄汚れたスニーカーだ。蓄えた無精ひげと同じく全体が垢じみた風体である。何ともこの場所と初夏の季節に似合わない格好だ。この市場によく来る人物であるようだが、そのアンバランスな存在が奇妙な景色となって馴染んでいる。若い頃に漁師をしていたのだろうか。
爺さんを怒鳴った男に見覚えがあった。
「よう、タツ兄さん久しぶりだな」と声をかけた。以前住んでいた住宅の近くで冷凍機器の整備や重機のオペレーター等をしていた男だ。日に焼けた顔に丸刈りのギョロ目が特徴の男だ。突き出た腹を擦りながらニコニコして私に近づいてきた。
「どうして此処にいるのかい」と言った。
「散歩の途中さ、あんたは」
「魚を買いに来たんだよ。カツオが未だにキロ800円もしては高くて買えないよ」
「アンタ、セリで魚を買えるのかい」
「いや、知り合いの競り子に頼んで落としてもらうのさ。少しばかり手間賃を払ってな」
「ほう、そんなことが出来るのか」
「家内の食堂で使う魚の仕入れとな、友達の家の祝い事に使う刺身用の魚を探しに来たのさ」タツオはそう言って連れと思しき男のところに戻り、小さめのシビマグロを指差して何やら話し始めた。競り子の威勢の良い声は消えて競りは終わったようである。漁協の職員が伝票を手に競り落とした者と魚に張られた荷札の照合を始めている。
「ヨウ、カズさん」と声をかけた者がいた。振り向くとゴルフ仲間のカツジがいた。手にはトロ箱を引っかけるギャフを持っている。
「アラ、友利プロそんな恰好で何をしているのですか。仕事を替えたのかい」
「バカ言え、これが俺の本業だよ。女房が鮮魚店をしているので仕入れに来たのさ」と小指を立ててはにかんだ笑い顔で答えた。カツジは大京カントリークラブ所属のハンディキャップ2の男だ。私が幹事をするコンペに時々参加しているのだ。
「へぇー、大京のクラチャンでゴルフ工房が仕事だと思っていたがな。髪結いならぬ魚屋の亭主かい」そう言うと、カツジは笑いながら答えた。
「このギャフだがな、ドライバーの古いカーボンシャフトに鈎を差し込んだのさ。ボールは飛ばせないが軽くて便利だぜ。ちなみにフジクラのスピーダーシャフトXだ」
「なんだよ、相変わらずクラブ工房の真似事をしてるじゃないか」
カツジはゴルフ場の臨時職員として、カートの手入れや客のキャディーバッグ積み下ろしをしていた。そしてゴルフ場の工房で何処からかダンロップ社の無印のアイアンヘッドを入手しては、友人の好みに応じたカーボンシャフトを差し込んで安価で売りさばいていた。ゴルフ仲間の技量を読み取ってシャフトのフレックスやしなりの調子を選択していたので彼の仕立てるクラブは人気があった。おまけにヘッドに持ち主のイニシャルまで刻印してくれた。ゴルフが上手く穏やかなで控えめな性格はゴルフ仲間から評判が良かった。
「ところでカズさん、さっきの腹の出た男と知り合いかい」
「ああ、市内にある実家が4軒隣りでガキの頃から知っている。俺より一つ年上だ」
「何をしている男だ」
「確かアイツの兄貴が冷凍機器の販売や修理をしていてそれを手伝っていたが、最近はダンプや重機のオペレーターの真似事をしているようだ。良く分からいな。そうだ、嫁さんがバスターミナルの近くで食堂をしているらしい。嫁さんは愛想のよい働き者だがタツの奴は定職を持たない遊び人かな」
「そうかい」
「働き者の女房持ちはアンタと似ているかな。紹介しようか」
「よせやい、俺と比べるなよ。あいつは食わせ物だぜ」
「アンタ、タツのことを知っているのかい」
「ああ、噂だけだがナ」
「何だよ」
「名護漁協は埋め立て地の入会権で相当な収入があっただろ。この漁港の敷地は県の所有だが管理者は漁協だ。消波ブロックを作る業者からのブロック置き場の賃料や名護市の催事やプロ野球球団のキャンプ時の来客用駐車場としての利用料金収入などがあるらしいぜ。そんな訳で名護の古くからの漁師はあまり働かないのさ。この競り市の魚介類もほとんどが伊江島、本部町、今帰仁村、屋我地、羽地等の漁協からの持ち込みだ」
「へぇ、そうかい、俺もそんな噂を聞いたことがある。そう言えば俺の中学の同級生も家業の漁師を継いだ奴はいないな」
「それに今度は、辺野古基地の埋め立てで再び莫大な収入が入る予定だ。既にかなりの金が防衛庁から漁業組合に流れ込んでいるらしいぜ」
「かなわんな。だけどタツの奴とどんな関係があるのさ」
「跡継ぎのいない漁師も齢を取るわな。年金以外の小遣いも必要だろ。ところが休み馴れた年寄り漁師は船があっても漁には出る気力がないのだ。そこにあいつが目を付けたのよ。定置網の権利を買って船の名義もあいつの物だそうだ」
「へぇ、そんなことが出来るのかな。漁協は規制しないのかい。俺の知り合いで市内に住む城間と言う漁師がいるがな、彼は定年後に12トンのセーイカ漁の船を買って名護漁協の組合員になろうとしたが拒否されたらしい。それで親父のつてで生れ故郷の本部町漁協に加入したと聞いたぜ」
「それは当然だ。良いかい、辺野古基地の利権の旨味がぶら下がっているときに組合員を増やして分け前を減らすバカはいないだろ」
「それもそうだな」と私が答えるとカツジは話しを続けた。
「しかしだな、年寄り漁師共が働かなると漁協の水揚げ高が減るだろう。そうすれば県の評価や防衛庁からの補償費の額に響くのよ。補償費の金額は水揚げに応じて査定されるらしいからな」
「名護漁協の競り市は他の町村の漁民の水揚げに頼っているが、自らの組合員の水揚げ金額も確保する必要があるのだな」
「そういう事なのよ。それであいつのような隠れ網元がいても見て見ぬふりするのさ。表立った不正行為として官公庁からの指摘も受けないのよ。それに定置網は水産資源保護の政策から誰でも新規設置が出来るわけでは無いのさ。漁協を中心にした権利の存在だけが継続するのよ。名護漁協は埋め立てによって近代的な漁港へと変貌したのだが、漁師は釣果を上げるより楽をして暮らせる味を覚えてしまったようだな。」
「そうかい、雲の動きや潮の流れを読んで漁の成果を探る力の代わりに、世の中の政治の流れを読み取り、金の臭いに腐心するようになったわけだ」
「そうなのよ。アンタの友達のタツ兄貴が競り市に顔を出すのは、あいつの定置網の水揚げの日だけだ。臨時雇いの観光ダイバー人夫達が漁獲量のごまかしをしないか見張っているのよ。まったく食えないやつだぜ。陸にいる遊び人が漁師の真似事をしやがって、潮に揉まれて働く本物の漁師を舐めてるぜ」不愉快な口調で言った。
「おはようございます」
声のする方を見ると上間鮮魚店のサブが立っていた。
「ようサブ、今日も那覇漁連からの帰りかい」とカツジが声をかけた。
「ええ、本マグロは此処の競り市では買えませんから。伊江島漁協や本部漁協のマグロ漁師は那覇漁港に直接入港して水揚げするのですよ。大型の高級品は本土に空輸もできますからね」
「ご苦労さんだな。後で俺にも少し分けてくれよ」
「ハイ分かりました」
「来週のコンペだがカツジさんがハンディ15をあげるそうだ。参加できるかい」と私は声をかけた。
「大丈夫です。魚の配達を済ませてから行きますので最後のパーティに組んでください」
「ああ、そうするよ。待ってるぜ」私はそう言って競り市を後にした。
いつの間にか雲が割れて隙間から天使の梯子の光が漏れ始めていた。私は漁港のドックの横から緩やかな坂を登って名無し橋の上で立ち止まって海を眺めた。心地よい海風が河口から市街地に掛かる昭和橋の方向に流れていた。名無し橋の上から護岸を取り巻く消波ブロックの辺りを見下ろすと十数匹の小魚がフラフラと泳いでいる。ミジュンである。産卵を終えたミジュンが大きな群れを失い、満潮の流れに抗いながら懸命に体を振って力尽きそうに泳いでいる。梅雨が明けてカーチベーの風が吹くころには、リセットされた新しい幼魚の群れに変わっているだろう。老いて命が尽きたミジュンは海の滋養となって新しい命を育んでいくのだ。太古の時代から自然界の動植物は変わらぬ輪廻で更新を繰り返している。ミジュンは1年のサイクルでリセットを繰り返す勢いのあるライフスタイルだ。人も又、地球という器の中で生命体としてのリセットを繰り返しながら歴史を刻んでいるが、身勝手な文明の利器を求めて悪しき知恵を身に着け、節操のないサイクルが加速しながら進んでいる気がする。名の無い橋を降りると雨雲が去って日差しが強くなった。私は首筋に不快な暑さを感じてポロシャツの襟を立て、21世紀の森海浜公園の緑陰に向かって早足で逃げるように進んだ。
「完」
秋のらん展示会
北部らん友会・第27回秋のらん展示会を平成29年11月24日~26日まで開催した。会員27名中15名が出品して105点の展示となった。今年の夏の猛暑を考えると十分な出品数と言える。秋の展示会は春の展示会より出品数が少ないのは仕方のないことである。展示会と同時に即売会を行っている。会員の持ち込んだランをは販売して15%の手数料を会の収入源としているのだ。会員の余剰株を持ち寄るように呼び掛けているも5名の会員のみだった。趣味家はバックバルブを販売に回すことをしないのである。そもそも、ラン栽培の趣味家は偏屈な者が多い。しかも年寄りが多いので偏屈の度合いが増しているのだ。沖縄の片田舎の展示会でも入賞にこだわるご老体もいて、展示会の事務処理一切を取り仕切る私としては些か閉口している。地方の展示会でも市長、議会議長、新聞社支社長、北部地区市町村振興会長等7つの団体の長からの後援を受けているのだ。協賛、後援依頼状、表彰式案内状、お礼状などの他に賞状の作成、押印依頼、副賞の準備、さらには表彰式に参加した団体長への記念品のランの鉢物の準備など一苦労である。ご老体共は会場設営と出品で我が物顔である。さして若くもない定年退職者の私としては、ご高齢のラン栽培の先輩へのささやかなプレゼントとして多くの時間を浪費しているのだ。それでも今回のように2年前に入会した若い趣味家が3名も入賞すると嬉しいものだ。いずれの日にか消えゆくご老体の趣味家との更新リセットが図られる気がして展示会を締めくくっているのだ。次回の展示会は来年3月末の第49回春の展示会である。新人の出品者を少しでも増やしたいと考えている。
展示会場は「道の駅」許田道路情報ターミナル 3日間の入館者は891名であった。
ナガラッパバナ(Solandra longiflora)
ナガラッパバナ
2017年11月4日 ナガラッパバナ:Solandra longifloraが今年も咲きました。数年前にシンガポールのテーマパークにて採取した枝から育成した株です。3年目の開花です。沖縄県内で一般的に見られるラッパバナはウコンラッパバナ:Solandra maxmaで、12月頃からの開花です。ナガラッパバナはウコンラッパバナよりコンパクトで樹勢も弱いです。尺鉢の行灯仕立てでも開花すると思います。花が比較的に密に咲くのでウコンラッパバナより観賞価値が高いです。昨年の花に自然交配で種がついたので7月に撒いてみました。実はナス科の特徴でトマトの形状で種子も似ていました。今年は人口交配をしました。昨年は挿し木繁殖を試みましたが大失敗でした。時期が悪かったのかもしれません。開花期は10月から11月でそろそろ終わりです。苗が10株程ありますので1株1,000円で譲ります。連絡方法はshop@tropic-flora.jp、送料等はネットショップのページを参考にして下さい。
メデューサの執念
メデューサの執念
2017年10月29日
今月に入ってPectabenaria Wow’s ‘White Fairies’が咲きました。2年前に台湾から導入した5株の内3株の開花です。草丈110cm15輪花と95cm10輪花はselfしました。昨年も播種しましたので2回目です。一株は自宅で鑑賞中です。草丈85cm8輪花です。食卓の蛍光灯の下で見ると不思議な事に気づきました。花弁の一部をまげて花粉の方向に突き刺しているのです。まるで自分で交配を行っているかのようです。8輪中3輪が2本の触手を伸ばし1輪は1本です。下から3,4,5,6番目の花です。他の2株については開花後すぐに交配したのでわかりません。
本種はPectailis susannae とHabenaria medusa の交配種です。花弁はmedusaの影響が強いです。まるでメデューサが執念で自らの遺伝子を残すための交配を行っているようです。実際、Pectabenaiaは葯のすぐ下に柱頭があるので花粉が柱頭に届きやすいです。自然交配が容易な構造だと思います。この4輪に種子が出来るか観察してみます。室内ですから虫や風の影響は少ないでしょう。
通常の花:10月16日に交配に使った花
最下部の細い弁を葯の近くに折り曲げています。まるで何かを捕えて口に運んでいるかのようです。
8輪中4輪で不思議な動きをしています。
私の栽培用土はボラ土、鹿沼土、ヤシハスクの混合です。落葉後は時々、用土を湿らせて完全乾燥はしません。春の発芽を確認してから植え替えます。5号プラ鉢で灌水は多めです。今年の15輪が最多花です。








