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マレーシア・蘭と食の探索
「マレーシア・蘭と食の探索」

マレーシアの行政区にある王宮。イスラムの伝統的建築様式を取り入れた近代建築
プロローグ
マレーシアに謝華生:Cheah Wah Sang(チャー・ワー・サン)をという友人がいる。謝華生胡姫園:Cheah Wah Sang Orchid Farmのオーナーである。小太りで明るい人好きのする顔立ちの男だ。我々沖縄の友人はチャーワンさんと敬愛を込めて呼んでいる。4月上旬に彼の農場から1,000株のランを輸入していた。我社は那覇空港ターミナルビルの植物展示業務を受注しており、常時2,000株のランを展示している。バンダ類は自社生産、コチョウランは自社生産で足りない分を台湾のミンタイ・エンタープライズより輸入している。デンファレはタイのS・オーキッドから輸入していたが、今年に入ってチャーワンから2度ばかり輸入していた。チャーワンのランは品質が良くて展示期間が長いことに起因していた。
チャーワンは2月に開催される沖縄国際洋蘭博覧会に毎年参加しており、彼と同行する友人達や台湾の取引先の仲間を接待するのが私の例年の仕事だ。台湾や東南アジアの友人達は酒好きが少ないのが特徴だ。社員の運転する18名乗りの自社の送迎バスで名護市内の居酒屋まで案内し、目いっぱい騒いでも5、6万円程度で収まるのだ。店のおススメメニューと刺身の盛り合わせ等を取って宴席に適当に配膳して、後は写真付きの豊富なメニューから彼らの好きな物を自ら注文させればよい。社員を運転手兼世話役で伴うと手際よくゲストの接待が出来るのだ。社長の歓迎の挨拶を私のいい加減な英語の通訳でごまかして宴会が始まる。東南アジアの友人達は日本式の高級定食スタイルの会席を好まないようだ。そもそも定食の食味が彼らの口に合うか否かは我々日本人には分からないだろう。その点居酒屋のメニューは、揚げ物、焼き物、炒め物、煮物など多様である。そっくり同じ品を彼らの国で食べることは出来ないが、メニューの写真から自分の好みかどうかの想像は出来るのだ。社員はゲストの注文を取る係である。メニューの写真を指差すだけで英会話を必要としないのだ。時折、料理について質問があるも、私が簡単に英語で説明するだけで事足りるのだ。居酒屋の料理は量が少なくスピーディーにオーダーに応えるのでゲストの食味を大いに満足させてくれるのだ。気に入った料理であれば追加注文すれば良いのである。彼らも久しぶりに会うラン生産仲間との会食で盛り上がる。招待者である我々に気を使うことなく懇親を深めているようだ。この関係は日本人の接待宴会の接待者とゲストの間に必ず生じる奇妙な力関係のバランスに配慮した雰囲気は全く無いのだ。最初に代表者が歓迎の乾杯を擦ればゲスト同士で盛り上がるので僕らの気遣いは無用である。只、気を使うのは畳座席を出来るだけ避けて掘り炬燵の席が良い。テーブルに慣れた彼らの膝の負担が無く、日本風の雰囲気も味わえるからだ。ミンタイの陳先生と会食した際に、中華系の人々は美味い物を食うために稼いでいると話していた。台湾、中国、タイ、マレーシアの中華系の友人達と会食していると良く分かることだ。台湾の親友秦とは何度も旅行して悪遊びを繰り返していた。東南アジアへの出張は、トランジットの都合で台湾に一泊する事が多く、その度に夜遊びとなるのだ。沖縄で再会して宴席でその夜遊びを話題に酒を飲むことになる。チャーワンはその話題に参加できないことが不満らしく会うたびにマレーシアに来てくれと言われていた。4月上旬にチャーワンからデンファレを輸入したことがきっかけで彼の誘いに乗ることになった。マレーシアには東京ガスの子会社でグリーンテック・トウキョウというランの取引農園があったが、本社の意向で現地法人に経営を渡してしまった。東京ガスは本業のガスの取引の代償として現地補助事業を行っていた。補助事業の完了と共に東京ガスから出向していた渡辺氏が本社に引き上げてしまい、我社との取引システムが停止してしまっていた。そのこともあって、以前からの知り合いであったチャーワンとの取引が始まったのである。
1年前のことであるが市立図書館の案内掲示板で英会話教室の案内を見つけた。カースティン・儀間という南アフリカ共和国出身の女性が講師である。儀間という姓から沖縄嫁だろうと思った。それに自宅での英会話教室というのも実践的であろうと思って参加することにしたのである。毎週1回で自宅から15分の距離であり、成人を対象にした90分のレクチャーは負担にならなかった。ログハウスの自宅の居間で5名の生徒であったが、1カ月ほどして今帰仁村のログハウスから名護市内の福祉センターの市民講座教室に移動した。カースティン夫妻の引っ越しによるものであった。カースティンに最初の指摘されたのは、
「ナカムラさんは何処で英語を覚えたのですか?」
「一応中学、高校、大学まで英語の授業はありました。英会話のCDも少し聞きました」
「文法が全く駄目です」
「英語の成績はダメでした。数学が得意でした」
「私たち英国系の人間は間違った文法で話されると、とても気になります」
「教えて下さい。頑張ります」と答えた。「東南アジアの友人とは何とかコミュニケーションが取れています」とは言えなかった。女性への反論で良いことが無いのは万国共通であるのだから。
英会話塾では日本語はほとんど使わずに英国のテキストを利用して授業が行われた。週1回の授業でもネイティブの英語を聞くと自信がつくものである。実力は別としてのことだが。英語が第2公用語のマレーシアでもなんとかなるだろうと思ってチャーワンの誘いに乗ることにした。私は旅の道連れとして部下の玉城政隆次長を頼んだ。自社は国営沖縄記念公園が保有する75,000株のラン管理業務を受注しており、彼はその管理部門の責任者である。ラン園の調査には申し分なく、唯一の上司である専務も了解してくれた。彼は私より一歳若いが、入社は3年程早い。カトレアの育種で有名な東京の青木蘭園で2年の研修をうけ、その後15年以上のラン管理の責任者を務めている。沖縄県におけるラン栽培の最高のエキスパートであると私は評価している。実際、彼は定年後に沖縄国際洋蘭博覧会において、最高賞の内閣総理大臣賞の受賞実績を残すことになる人物だ。私が入社して間もない頃、関東一円の蘭業者の調査と挨拶周りに同行してもらったこともある。無口で仕事に妥協しない性格は、私よりも社員から一目置かれた存在であっただろう。しかし私にとって心強いのは、彼が酒をほとんど口にしないことである。酒好きの私にとっての安全装置の役割を果たしてくれるに違いないのだ。マレーシアには何度か訪問していた。ジョホールバルの国際蘭展示会、クアラルンプルの国際蘭展示会、タイ・マレーシアのラン生産者訪問、ボルネオ島サバ州での国際蘭展示会などである。東洋一広大なクアラルンプル国際空港を利用するのは今度で4回目である。ゴールデンウイークが明けて、台湾・沖縄間の観光客による混雑が終わった頃に旅のスケジュールを設定した。私は出発の2日前に土曜日から次の週の金曜日まで出張でマレーシアに出かけると妻に伝えた。妻は特段の返事をしなかった。いつもの事である。
平成21年5月16日(土)
午後3時30分、那覇空港ビル内植物展示業務のスタッフの一人、玉城豊君が玉城次長を伴って自宅に私を迎えに来た。予定より30分ほど早いが準備は既に整っていたので車に乗り込んだ。近くの佐川急便名護営業所に立ち寄り、アマゾンで注文していた旅行記録のロディア革手帳と小型の予備のボールペンを受け取って空港に向った。玉城と申し合わせて荷物は機内持ち込みが可能なサイズのバッグにした。トランジットを伴う個人旅行では手荷物受取の手間が省けてスピーディーに行動できるからである。
国道58号許田インターより自動車道に入り、西原ジャンクションを抜ける時に500円の表示が出ていた。政府の景気対策処置で土・日・祝祭日はETC利用料金が半額設定になっているようだ。この時間は未だ夕方の交通混雑が始まっておらず、国際線ターミナルビルには午後4時50分に着いた。私は早速ビル内のレンタルショップで海外使用の携帯電話のレンタル手続きをした。私の携帯電話は台湾、タイ、シンガポールでは海外通話が出来るが、マレーシアは圏外であった。1日650円で通話料金は返却時に別途に請求するとの契約である。契約書にサインして電話と充電器の入ったケースを受け取って戻ってくると、植物展示班の親川君が待っていた。
「気をつけて行ってください。今日は豊君が泊まりです。私は常務の車レガシーで会社に引き上げます」と言って豊君と二人で去っていった。
僕らは直ぐにチケットカウンターに向った。荷物のX線検査のコンベアーに乗せようとすると、係員が手荷物は必要ないと言った。その検査機械の脇を通り抜けてチケットカウンターに向った。チケットは沖縄―台北、台北―クアラルンプルの二枚を渡してくれた。チェックインはまだ始まっておらず、空港内のレストランにて少し早めの夕食をとることにした。親川君が夕食を取るなら国内線1階にある「琉球村」が安くて美味いですよと紹介してくれた場所だ。私は注文カウンターのボードに手書きされた「本日のお薦めメニュー」を注文した。本日最後の一品であった。玉城はカツ丼である。「本日のお薦めメニュー」はどんぶり飯の上にキャベツと牛肉の炒め物を被せ、さらにその上に目玉焼きがのっていた。味噌汁にサラダ付きである。600円では安いセットメニューだろう。そしてこの食事がこれから1週間続く旅の最後の沖縄料理だと思った。
午後6時10分、X線による手荷物検査を受けるためにチェックインの列に並んだ。アメリカの航空機テロ事件の影響から機内持ち込みが厳しく制限されるようになった。100CC以上の液体は全て廃棄される。シャンプー、化粧水、幼児のミルクにいたる全てだ。X線検査も感度が高くなりパソコンや電子辞書に影響が出るようだ。この手の検査は日本が最も丁寧で、靴やズボンのベルトを脱がされることもあって全く不愉快千万である。特段のトラブルも無く通過して、出入国検査官が先月更新したばかりのパスポートに初めての出国スタンプを押した。3名の出入管理官に義兄の姿は無かった。この日は休みか或いは事務所内にて勤務しているのかも知れない。この先からは法律上の外国扱いである。もっとも免税店は日本人のスタッフであり外国の感覚は全くない。しばらくすると場内アナウンスが流れ、CI-122の到着が遅れており、我々の乗る予定の台湾・沖縄折り返し便CI-123が1時間ほど遅れることを伝えた。私は会社の事務所に出発前の連絡を取っていないことを思い出して電話をした。事務主任の上間さんが電話に出たので状況を話し、マレーシアで通信可能なレンタル携帯電話の電話番号を教えた。そして、旅のルーチンとして4名の娘に「5月22日までマレーシアへ行く」とメールを送った。「行ってらっしゃい、気を付けて」の返事を確認して旅の準備を完了した。
8時10分、機内への案内バス2台が到着した。身体的弱者、ビジネスクラスに続いてエコノミークラスの順に待合室を後にした。飛行機が待機する場所までは約150mであるが、バスに乗ってゆくのである。ボーディングデッキが無く、なんとも寂れた空港のイメージは拭えない。新ビルの建築計画はどこまで進んでいるのであろうかと思った。
8時20分、機内放送で携帯電話の電源オフにした。緊急時の説明等を終えるとCI-123は那覇空港を離陸した。機内では夜食のつもりであろうか、軽食が配られた。チーズとサラダを挟んだサンドイッチ、オレンジジュースのパック、チョコレートビスケット(キットカットと呼ばれる商品)、それに熱いウーロン茶又はホットコーヒーである。国際線にしては物足りない食事であるが、1時間半のフライトでディナーを期待するのは無理である。
8時40分(日本より1時間遅れの現地時間)、1時間20分のフライトで桃園国際空港に着陸した。いつもより速度を上げてフライトしたようだ。飛行機は第二ターミナルのボーディングブリッジに接続されて旅客を空港ビルへと誘導した。私は衣類の入ったカバンとお土産の入った小さめのショルダーバッグを、頭上の格納トランクから降ろしてボーディングデッキを渡った。周囲の雑音から日本語は全く聞こえない。完全な外国語圏内に移動したのである。
ボーディングデッキを出て人の流れは右折した。私はその交差点に立ってトランジット案内のプラカードを持った男子係員に
「Excuse me. Where is transfer counter」(すみません。乗り継ぎカウンタは何処ですか)と尋ねた。
「Go straight and left side」(真直ぐ行って左だ)と左手で指差してくれた。
「Thank you」と言って玉城と共にムービング・ウォークの上を少し早足で歩いた。
二つ目のムービング・ウォークを過ぎると左手にトランスファー・カウンターがあった。近くに休憩イスや軽食コーナーも備えていた。既に9時前のせいであろうか、カウンター内は二人の職員だけで対応をしていた。手続き中の旅客は大柄な欧米系の外国人が7名であった。私はこの日のトランジット用の宿を紹介してもらうため、オーストラリアのパスポートを持った金髪の女性の後ろに並んだ。一人の職員が12歳前後の女の子の3名組にてこずったおかげで随分と時間がかかった。その間に携帯電話の位置情報を台湾モードに切り替えた。私はエアー沖縄からの紹介状を渡してスタンプを押してもらい宿泊予定のホテルのバッジを胸に付けた。出迎えのロビー右端にホテル案内所があるのでそこを訪ねるように指示された。バッジは普通のステッカーと同じ裏糊で出来ており、アロハシャツの胸のポケットから落ちないよう念のためにボールペンのクリップで挟んでおいた。
広い入国検査用の広場に行くと入国審査待ちの旅客は少なくなっていた。それでも外人専用のボックスには2人の係員しかおらず、やはり時間がかかりそうであった。
審査官は私の胸ステッカーを見て、
「City suites hotel ?」(シティ・スィート・ホテルか?)
「Yes, beside the airport」(ハイ、空港の隣の)
「Very near」(とても近いよ)
そう言ってパスポートを返してくれた。
「Thank you」(ありがとう)
「Your welcome」(どういたしまして)
人の好さそうな入国検査官に出会ってホッとした。
玉城の入国審査が済むとバゲッジ・エリアに降りていった。那覇空港からの荷物受け取りのバゲッジレーンは既に停止しており、旅客の人影は無かった。このエリアから外に出るときに再び手荷物のX線の検査を受けた。既に出迎えの人々が少なくなったロビーの中を、トランスファー・カウンターの係員の説明したとおりに広いロビーの右側に向かって進んだ。しかし右の突き当りまで探したがそれらしき案内所を見つけることは出来なかった。再びロビーの中央部まで戻って両替所の女性係員にホテル案内所を尋ねた。すると今度は左方向の総合案内所に行くように言われた。到着ロビーの左端まで歩いていくとホテルの案内所があった。そこの係員に声を掛けるとすぐ隣を指差した。その隣のカウンターに顔を出すと男性の係員が出てきて私の胸のバッジを見て「Follow me」(ついて来て)と言って歩き出した。歩きながら携帯電話で何処かに連絡を取っていた。外のタクシー乗り場で車を待つ間、私はトランスファー・カウンターの係員の説明を思い出していた。彼の説明は彼の側からの右で私の側からは左の意味であったと理解した。
大きなベンツのリムジンが私たちの前に止まった。私は誰かVIPが来るのかと思い後ろを振り返ると、案内所の係員の男性がどうぞと手で誘導した。運転手が降りてきて私たちのカバンをリムジンの大きなトランクに運んだ。リムジンのトランクに収納するには余りに小さい手荷物である。運転手と案内所の係員が車の後部ドアを開けてくれたので、僕らはVIPになったような気分で革張りのシートに腰を沈めた。リムジンは空港の雑音を遮断してゆっくりとホテルに向った。
空港を出るとすぐに屋上に『CITY SUITES HOTEL』 という電飾あるホテルが見えた。英字の表示に続いて『城市商旅―航空館』の台湾名が表示されていた。リムジンの快適な移動は10分足らずで終了した。ホテルの入り口には空港往復のリムジンバスが2台止まっており、我々が他の旅行者より多少遅れたせいで、バスの代わりにリムジン乗用車をよこしたのであろうと推測した。どう考えても僕らが特別待遇を受ける訳は無いのだから。
ホテルのフロントでチェックインの手続きをした。係りの男性は「二人一部屋でよいか」といって一枚のチェックインシート差し出してサインを求めたが、私がエアー沖縄の宿泊クーポンを指差して「シングルルーム2部屋」言うと、しぶしぶさらに一枚のシート出してサインをそれぞれに求めた。部屋は私が8階で玉城が9階であった。男二人の数時間の乗り継ぎに2部屋はもったいないと考えたのかもしれない。
部屋の入り口に立ってドアノブ辺りにカードキーの差込穴を探すも見当たらない。どこにも穴が開いていないのだ。私は困ってしまった。エレベータの近くまで引き返して、その近くの電話からフロントを呼び出した。
「部屋の鍵穴を探せないのだが」と言うと、フロントの女性係員は笑いながら「カードをドアノブの上部にタッチしてください」と告げた。私も笑いながら「OK,試してみましょう」と受話器をおいた。少し恥ずかしくなって一人で赤面して顔が火照ってしまった。彼女の言うとおりカードをノブの上部のプラスチックの部分にタッチするとドアの鍵が外れる音がした。ノブを回すとドアが開いた。素直にホッとした。午後10時20分を過ぎていた。
私は見知らぬ部屋の中に入る時に常にある種の緊張感を伴う。長年、空手古武道の道場に通って身に着いた警戒心からだろう。それが国内のホテルであれ、公園の公衆トイレであれ同じである。シャワールームを覗き、カバンを荷物置き専用の台の上において部屋を観察するのが常である。この部屋は入り口の右側にシャワールーム兼洗面台、その次にWベッドの部屋、さらに左側の部屋に1対のソファーセットとテレビがある。二つ目の部屋の入り口に湯沸かしポットがあるのも面白い間取りである。8時間ほどのトランジットの部屋としては出来過ぎた部屋である。ベンツのリムジンに乗った旅客への特別待遇ではなく、単純にこの部屋しか空いていなかったのだろう。僕らをツインの部屋に泊めようとしたフロント係の思惑が理解できた気がした。私は湯沸しポットに備え付けのペットボトルから水を注いでスイッチを入れた。電圧が高いのか直ぐに沸騰した。備え付けのコーヒーを入れてお湯を注ぎ、普段は入れないステック砂糖を半袋加えてからシャワールームに入った。熱いコーヒーが苦手でシャワーが終わった頃に飲み頃となると思った。
シャワールームはバスタブが無くガラス張りのシャワー室と洗面台、洋式トイレのセッティングである。シャワー室のシャワーはビーチのシャワー仕様に似た大きなヒマワリ状のシャワー口からお湯が頭上に降ってくる。洗面台は私にとっては高すぎて西洋人のサイズである。身長172cmの私にとって洗顔は不都合であったが下着と靴下を洗うには好都合である。洋式トイレは私にとっても低い便器が取り付けられており、西洋人にとっては膝を抱えて座るほど低いだろう。全くチグハグな造りのシャワールームであった。
少しぬるくなったコーヒーを一口飲んで、この日の行動を今朝受け取ったばかりの新しいメモ帳に記した。洗い物はいつもの旅の心得で、よく絞って隣の部屋の行灯の傘に掛けて乾きを促す工夫をした。マレーシアで使うレンタル携帯電話の充電をした。持参の携帯電話のアラームを寝過ごしに備えて午前4時半と5時の2段階にセットしてベッドにもぐった。玉城とは5時50分にロビーで会う約束である。明日の行動をもう一度シュミレーションしているうちに眠りに落ちた。
5月17日(日)
午前5時、ホテルから見た桃園市の夜明け
午前4時30分、飛行機の爆音で目が覚める。このホテルは飛行場に極めて近い場所である。乗り継ぎの利便性の代わりに爆音が伴うことに気づいた。それでもしばらくベッドの中でまどろんでいたが携帯電話のアラームが5時を告げたのをきっかけにベッドから起きだしてアラームの2段回セットを解除した。湯沸しポットの電源を入れてから歯磨き始めた。歯ブラシを咥えたままで備え付けの2本目のネスカフェをコーヒーカップに入れて湯を注いだ。シャワールームには上等な髭剃りが備え付けてあった。髭を剃り、ヘアオイルで髪型を整えた。備え付けの歯ブラシ、髭剃り、櫛を洗面用の自分の袋に詰めて朝の一連の行動を完結した。この先のマレーシアのホテルに使い捨ての歯ブラシ、髭剃りがあるとは限らず、予備として確保したのだ。コーヒーは適度の温度に冷めていた。猫舌の私に十分な温度である。昨夜洗濯した下着と靴下は幾らか湿り気を含んでいたが、ビニール袋に入れてバックの2番目の仕切りに押し込み他の衣類に湿り気が移らぬようにした。窓の外は少しだけ明るくなり始めており、旅の慣わしに従ってこの部屋から見える屋外の風景を撮影した。そして部屋の中をゆっくりと点検した。忘れ物が無いことを確認してから部屋を出てエレベータに向った。
1階のロビーでは既に玉城君が待っていた。「おはようございます」言って私を迎えた。我々はチェックアウトのためにフロントのカウンターに向った。フロントではインド系と思われる中年男性が、フロント係りの男性に何やら甲高い声で怒鳴っていた。フロントの係りの男性は苦りきった顔をしていた。インド人は訛りの強い英語でまくし立てていたが、為替レートのことについて抗議しているようであった。インド訛りの英語は凄まじい発音であり、私の初級英語では全く理解出来なかった。少し長引きそうであったので、私はそばから割り込んでチェックアウトをしたいと告げた。係りの男性はインド人を無視して直ぐに私に対応してくれた。チェックアウトのペーパーにサインしながら「クアラルンプル行きのターミナル1まで送ってくれるね」と確認した。係員は運転手らしき男性に声を掛け「クアラルンプル、ターミナル1」と告げた。運転手は私のバッグを受け取って車へと案内した。今朝の車はベンツのリムジンではなく台湾のイエローキャブであった。私はシンデレラの銀馬車が夜明けと共に黄色いカボチャのタクシーに変わったことを理解して苦笑した。玉城に「今日はベンツではないね」と言うと「そうですね」と笑った。
6時10分にターミナル1の出発ロビーに着いた。私はチャイナエアラインのチェックインカウンターで搭乗券を見せて言った。「私は何かチェックすることがありますか。空港税を払う必要ありますか」質問した。係員はチケットのボーディングデッキ欄にD7と記入して、中央のエスカレータを登るようにと指差した。エスカレータを登るとガラスの仕切りがあり、その向うにイミグレーションがあった。数箇所の入り口があったがこの時間帯は左側の1箇所が開いていて係員にパスポートと搭乗チケットを見せてゲートをくぐってイミグレーションに向った。出国の手続きはいたって簡単であった。左側にD7の表示板を見つけてその方向に歩いていった。少し歩くと搭乗のためのX線チェックがあった。X線の精度を上げていないのかスムーズに通過できた。この検査所を過ぎて50mほどいくとT字路に出た。右方向にD5、D6、D7と表示が続いていた。D7の搭乗ロビー前の表示には、未だに香港行きの表示が示されており、クアラルンプル行きCI-721の表示に30分ほど早い午前6時30分であった。飛行場はかなり明るくなっており日の出が近くなっていた。
我々は引き返して朝食をとることにした。振り返るとちょうどT字路の近くにナイフとフォークの絵柄のレストランの看板が見えたので其処に向かった。その店は軽食専門の喫茶店風であった。通路とは腰の高さの壁で仕切られているだけである。私の旅行用財布には米ドル、台湾元はいつでも入っている。150元(435円)のサンドイッチと90元(261円)のホッとコーヒーを2人分注文した。サラダ、ハム、卵焼き、チーズが挟まれており悪くない味である。コーヒーもインスタントではない。
30分ほど時間を潰してレストランを後にした。T字路の正面付近のカウンターに15名ほどの人が列をなしている。それぞれペーパーを手にして並んでいるのだ。カウンターの上部の表示にDFS-SHOPとある。台北市内にDFSの店があり、空港のこの場所で商品を受け取っているのである。この手の商売は世界各国の国際空港にて行われているようである。ボーディングエリアに引き返す途中で免税店を覗いてみたが、あまり安いとも思えない価格のような気がした。もっとも、私は免税店で販売されているような高価なウイスキーを購入することはめったに無く、価格についての判断は出来ない。
午前七時、階段を降りて登機待合室のイスに腰掛けて搭乗時間を待った。トラブルが無ければ午前7時50分にCI-721に乗り込めるはずである。しばらくすると中華系の旅客がぞろぞろとやって来た。彼らは声が大きく誠に騒々しい。活発・陽気な国民性と言えるが私は好まない。私は耳障りな雑音から逃れるため最前列の席に移動したが、其処でも中華系の男性が欧米系の男性相手に休むことなしに英語で話し続けている。欧米人の男性は表情も変えずに時々うなずいているだけだ。話好きな人種であることは確かなようだ。何気なく左側の壁に目をやると赤色の警告表示が目に入った。中国語と英語で『警告:薬物を持ち運ぶものは死刑に処する』とある。日本と異なりダイレクトな表現である。欧米人の旅行客の一人がものめずらしいげにカメラに収めていた。私も気になる表現であったので一枚撮っておいた。CI-721は定刻どおりの搭乗案内があった。私は「これからマレーシアに発つ」妻に電話をして携帯電話の電源を切った。この電話は週末まで使うこともない。4時間半後のマレーシアではレンタルの携帯電話を使うことになる。既に完全に日本語圏外であり、唯一玉城のみが日本語と沖縄方言の話し相手である。私は外国において日本人と見られることに少しばかり抵抗感があり、お互いの会話は努めて沖縄方言を使うことにしている。8時20分、台湾の朝日を浴びながら桃園国際空港を離陸した。
桃園空港搭乗待合ロビーの警告表示
午前9時、朝食とも昼食とも言えぬ時間に機内食が出た。チキンと魚のいずれかの料理を選ぶことが出来た。私はチキンを選んだ。小さな弁当箱にカレー煮の鶏肉、ご飯、塩茹でのインゲンマメとニンジンが3等分で詰められていた。丸いパンが1個、バター、デザートにスイカ、パパイヤ、オレンジが一切れ、スポンジケーキ、プリンである。私は飲み物に白ワインを取った。二口で飲み干す程度の少量である。昨今の経費削減策によるものか国際線の食事も質の低下が年々進んでいる。旅の楽しみが少しづつ減っていくのは残念である。
食事の後に入国カードが配られた。個人旅行の場合は自分で記入する必要があるのだ。Embarkationという見慣れぬ単語が出てきた。バックから電子手帳を出して引いてみると搭乗という意味である。Where from と書かれている入国カードが一般的である。Taipeiと書く。以前の一人旅でexpiryの単語が分からずに悩んだことがあり、電子辞書は身近に置くことにしている。国によって入国カードの表示が少し異なることもあるのだ。マレーシアは空路だけでなく陸路でも外国と繋がっているのだ。スチュワーデスがウーロン茶お代わりを注いで回っているがとてもまずくて飲む気になれない。
機内には様々な人々が載り合わせている。私の右前でいびきを掻く男性は無呼吸症候群のように「ズズズー・・」と来てしばらく息を止めて「フッ・・ツ」と急に吸い込む。耳障りないびきだ。その横で何気なく雑誌をめくっているのが妻らしい。縮れ毛に大きな蝶の形の髪飾りをしている。彼女はその耳障りな音にも免疫力を得ているらしい。トイレの周りはいつも人だかりで、使用中ランプが点灯している。乱気流と着陸態勢に入ると使用禁止である。その着陸態勢に入ったときにトラブルが起きた。からだの大きい赤毛に西洋人の女性がトイレを利用しようとしたが、客室乗務員に止められすごすごと席についた。機長がランディングの説明を始めた。乗務員は客席を見渡してから彼女ら専用の席についてシートベルトを着用した。その隙に先ほどの女性がダッシュしてトイレに駆け込んでロックした。女性乗務員はトイレの外から何やらヒステリックに話しかけた。一人が電話で何かを話し始めた。男性のチーフパーサーがやってきて彼女らと話している。慌てた様子はない。男性はゆっくりとトイレをノックしてなりやら話しかけた。飛行機が車輪格納庫からタイヤを出す音がガクン、ガクン響いた。機首が次第に傾いて降下しているのが分かった。エンジン音が高くなった。私はトラブル発生かと少し緊張した。するとトイレから女性が何事もない様子で出てきた。前屈した通路を女性が足早にもとの席に向っていった。左腕に帯状の刺青が見えた。乗客には様々なタイプがいるようだがテロリストでなくて良かったと本気で安堵した。女性乗務員の苦笑の中には安堵感が漂っていた。既に窓からは油ヤシの広大な畑が見えた。
機体はがくんと大きく揺れてランディングした。エンジンが逆噴射で大きな音を立てた。そして次第に減速していった。英語とマレー語の機内アナウンスが始まると乗客がざわめき始めた。私の感性は台湾の記憶を払拭してマレーシア圏内に到着したことをはっきりと認識した。この先は蒸し暑いマレーシアである。友人のCheah War Sang (チャー・ワー・サン)が待っているはずだった。時計は午後1時を指していた。
飛行機を降りて乗客の流れに乗って歩いていくと無人電車のエアロトレインが待っていた。KL(クアラルンプル)国際空港は日本語による動線案内があり、日本人旅行者への配慮があって嬉しい。但し空港ビルの国際線だけの話である。2階の国内線でジョホールバルやコタキナバルに向かうには英語とマレー語だけだ。入国審査を受けて出迎えの広場に出る前に両替コーナーに立ち寄った。1万円を370MYR(リンギット)に替えるためにだ。両替は空港が最も適正レートである。パスポートと1万円札を差し出すとスカーフをしたイスラム衣装の女がクスっと笑って「No need PASSPORT」言った。両替所の中で腰に銃をぶら下げた警備員に女は何かを話して再び小さく笑って作業を続けた。警備員はこちらを見たが無表情であった。私はその田舎娘の妙な優越的な態度に少しだけムカついた。玉城も同じく1万円を両替した。出迎えの広場は柵が張り巡らされており旅客との直接の接触が出来ないようになっている。客引きやスリ対策であろうか。出迎えの人々が旅客の名前を書いたプラカードを手にして旅客の品定めをしている。私はチャーワンの姿を見つけることが出来なかったので自動ドアから外に出た。タクシーが待機する通路と旅客がプライベートで乗り降りできる通路が2列並行に走っている。那覇空港の到着通路に似ている構造である。ただ異なるのは猛烈な暑さである。
KL空港の到着出口で迎えを待つ人々
クーラーの効いた建物から出た私は目眩がするほどの暑さを感じた。素早くチャーワンを探すもどこにも見当たらない。カバンからレンタルの携帯電話を取り出して連絡を取ることにした。しかし、今日が日曜日であることに一抹の不安を感じつつ農場の電話番号を押した。《英語表記を中止》
「ハロー、仲村です。ミスター・チャーワンをお願いします」
「オー、ハロー、ミスター仲村、ハワユー」
「今着いた。ナンバー5のゲートの外に待っている」
「OK、すぐ来る、とても近いから」
チャーワンは15分ほどでやってきた。
「ハワユー、ナイスミーツユー」
互いに挨拶を交わした。
「玉城を知っているだろ。うちのスタッフだ。沖縄オーキッドショーで会っているだろ」
「オー、イエス、ハワユー、ミスター玉城」
「こんにちは、チャーワンさん」
チャーワンは素早く車を出した。この場所は車の往来が多く空港ポリスから注意されるようである。
「昼飯はどうだ」
「機内食を食べたが、少し腹が減っているな」
「それでは、其処のドライブインでマレー料理でも少し食べるか」
屋台風のレストランが並んだ一角に車を停めた。
セルフサービスのレストランである。チャーワンが食べ物を取ってきた。
①イカのぶつ切りカレー煮2皿、
②魚のぶつ切りフライ1皿、
③インド風ナン1皿(甘みをつけていた)、
④大きなポテトチップス1皿:カレールーにつけて食べた。
⑤飲み物はアイスコーヒーである。
空調温室内の開花コチョウラン
シリンジによる気温調整機能
食事が済むと空港に近い彼の農場に向った。彼の自宅はクアラルンプルの郊外で農場から75kmほど離れているという。「毎日75kmの通勤だぜ」と笑った。農場は原野と湿地の入り混じった場所で周辺に人家のない場所だた。農場は100m四方の広さで高さ2m余りのフェンスで囲っていた。マレーシアやタイ国のラン園の特徴は、支柱を立ててワイヤーを引っ張り、ネットをフラットに張った構造である。コチョウランのベンチの上だけは屋根に雨よけのビニールが張られていた。さらに冷房設備を供えた50坪の温室が3棟あった。バンダ、カトレア、デンファレ、オンシジュウムなどはネットのみのベンチである。コチョウランのベンチには扇風機、その他のベンチはシリンジで温度を下げる工夫がなされていた。農場は周辺に遮蔽物が無いので風通しがとても良かった。飛行場に近いので人工の遮蔽物が建築出来ないのであろう。その為に自宅から75kmも離れたこの場所に農場を構えているのだろう。我々は暑い盛りの2時半ごろ農場を巡回した。彼がシリンジの効果を見せてくれた。数分の散布で気温の低下を肌で感じることが出来た。昼下がりにシリンジを10分間作動させて湿度の保持と気温を低下させていると説明した。コチョウランはベンチの上で葉の向きが整然と並んでおり、とても良い生育状況であった。気温が幾分高目であるが扇風機で空気を攪拌していた。冷房温室は彼独自の工夫が施されていた。ハウスは6m×25m、高さ3mのかまぼこ型である。厚手のビニールが二重に張られていて断熱効果を図っていた。高さ2mの位置に備え付けられた送風機からの風は25m先の壁に当たってハウスの側面を送風機のところに戻って室内を循環するシステムである。チャーワンの意見では送風機の風の届く距離がハウス構造を決定するという。
冷房システムも特徴がある。我社の空調設備はダイキン工業社製で、日本で一般的な空冷システムであるあるが、彼の場合は水冷システムである。はじめに水を冷やしてタンクに溜め、それを送風機の後ろのラジエターに巡回させるのである。ラジエターから戻った水は再び冷やしてからタンクに戻すのである。彼は「水を暖めると暖房としても利用できるはずだから沖縄でも試してみろ」と言った。「こんなラジエター空調設備を作る会社があるのかい」と問うと
「ラジエターは大型車の部品の改造だ。タイの自動車修理業者から取り寄せたのだ。その他は自分で改造して作ったのさ。グッドアイデアだろ」と自慢げに笑ってこめかみを指差した。開花株をクアラルンプルの市場に出荷しているらしい。コチョウランの苗や水苔は台湾からの輸入品である。玉城は農場で働く作業員を指差して言った。
「マスクもせずにタオルで口元を覆って農薬を散布していますと」
「以前に渡辺の農場にいた作業員はスリランカ人と言っていた。彼らも同じだろう」と返事した。
チャーワンに作業員のことを問うと、「マレー人は農作業に従事しないので海外のスリランカ人を雇っている」と言って、農場内の宿舎を指差した。農場の警備を兼ねているので助かるそうだ。只、2年後の沖縄国際洋蘭博覧会にチャーワンが来沖しないことがあった。その年に特別講演で参加したマレーシアのプラト大学の植物学助教授のルイスさんによると、就労ビザでやって来たスリランカ人が都会に逃げ出してしまい、チャーワンは苦労していると話した。日本国内でも同様な現象が起きているのは確かだ。最近のチャーワンの農場は点滴灌水システムに切り換えて労力の省力化を図っているようだ。
1時間ほどチャーワンのラン園を見学した後、クアラルプル郊外のセレンバン・オーキッドに出かけた。オーナーのリチャードはランの原種の収集家で、痩身で色白の中華系の男だ。彼とは対照的にチャーワンは浅黒い肌をしたマレーと中華の混血タイプで腹が十分に出た愛嬌のある男だ。リチャードの50坪ほどの空調温室はパットエンドファン方式である。台湾に多く見られる冷房方式だ。コチョウランの原種の収集が多い。マレーシアの野生種の収集家である。空調以外の施設の屋根は平張りのビニールで5mピッチの階段状になっている。階段状の隙間から熱気を外に流すような構造である40分ほど見学して引き上げた。チャーワンはリチャードから原種をいくらか買って車に積み込んだ。
近くの食堂で休憩しているとリチャードがやってきて名刺を交換した。コーヒーを飲みながら雑談した。店の前ではトラックから小玉のパインを降ろしていた。ポリスが退屈そうにそれを眺めていた。駐車禁止地区かもしれなかった。町の景観はタイの田舎と似ていたが、生活の為の活動がタイ程活発でなく、極めて穏やかである。タイより南に位置しており、南方系特有の穏やかさが濃くなっているのだろう。
時計を見ると午後5時を過ぎていた。
チャーワンは立ち上がって言った。
「ホテルに送ろう。私の自宅の近くだ」
「7時にロビーに迎えに来る。夕食をSimonの家族と共にしよう」
「オーケー」
我々はリチャードと分かれてクワラルンプルの郊外の新興住宅街にあるホテルに向った。ゴルフ場を備えたリゾートホテルのHOLIDAY INN KUALA LUMPURである。
「明日はキャメロン・ハイランド、その次はイポーに泊まり、そしてクアラルンプルのこのホテルに戻ってくる。OK」と説明した。
私が「オーケー」というとフロントの女性に18日、19日の予約を取り消して20日は再び戻って宿泊するとマレー語で話した。
私は412号室のカードキーを貰ってチャーワンと分かれた。今度の部屋は差し込み式カードキーであった。カードを差し込むと難なくドアが開いた。私は一人で苦笑した。部屋はワンルームでダブルベッド、広いベランダを備えていた。ベランダの向こう側にゴルフ場が広がっていた。
私はシャワーを浴び、下着と靴下と今日着けていた化繊のかアロハシャツ洗った。予備のバスタオルに包んで絞った。こうすると洗濯物の水分を随分と吸い取ることが出来て朝までに乾き易いのである。上着はロッカーに、下着と靴下は行灯の傘に掛けた。そしてクーラーは最大の吐き出しにして洗濯物の乾きを促すのである。財布とパスポートをポケットに入れて花柄のアロハシャツに着替えてロビーに降りた。玉城君がお土産の袋を持って待っていた。チャーワンが長男を伴って7時丁度にやって来た。「ハワユー」と長男に声を掛けると、同じく挨拶を返してきた。彼とは2月の沖縄国際洋蘭博覧会で会っている。陽は既に落ちているが未だ明るい市街地を走った。
15分ほど走ると海鮮レストランに着いた。辺りは既に薄暗くなっていた。サイモンが待っていた。私は「ハロー、ナイスミーツユー、アゲイン」といって握手した。そして玉城君を紹介してお土産を渡した。沖縄の伝統菓子だと言うと喜んだ。店は混んでいてチャーワンは車を片付けに去っていった。私はサイモンに案内されて彼の家族の待つテーブルに向った。彼の自慢の色白の奥さんが笑顔で私を迎えた。サイモンと彼女には2月のラン展示会で会っているのだ。サイモンはチャーワンと似た体格で同じタイプの臭いがする人物である。あごの痣から白い毛が5cmほど生えている。中華系の人々に見られる縁起物であろうか。サイモンの子供は長女が高校を卒業して社会人として働いている、その下の長男がメガネの高校2年生、高校1年生の次女、やんちゃなメガネの小学生の三女である。一方、チャーワンの子供は長男、次男、次女がいた。長女と妻は参加していなかった。理由は知らない。赤ワインの乾杯、さらにウイスキーを別のグラスに注いで宴が始まった。サイモンは私のために特別な海産物の食材を準備していた。彼は海産物の輸出業者である。マレーシアの漁民から買い取った鮮魚を、冷凍コンテナ車でタイ、シンガポールにむけて国際道路を利用した陸上輸送を生業としているのだ。国営沖縄記念公園の水族館を案内した時のことを思い出した。大型水槽の中を泳ぐ大型魚のマグロ、ハタ、タイ、そしてナポレオンフィッシュを見た時である。僕らはいつもの様にあの魚は美味いとか、あれは食えない等と話していた。突然、サイモンがナポレオンフィッシュを指差して言った。
「あれは美味いぞ。今度クアラルンプに来たらご馳走するぜ」
「ほんとかい、滅多に手に入らんぞ。俺は未だ食ったことは無い」
「サイモンは魚の輸出業者だ。彼が手に入らない魚は無いぜ」とチャーワンが言った。
「そうかい。今度クアラルンプル行った時には頼むよ」と笑って応えた。それ以来の再会である。
料理が運ばれてきた。
① 魚のスープ:大きな優勝カップに似た鍋で作られた魚のスープはショウガと椎茸が入っており、体に良い味と香りがした。
② シダの新芽の御浸し:シダの新芽を茹で上げ、ピーナツのあら挽きを振りかけてレモン汁と醤油で味付けした山菜料理だ。
③ マレー風ラフテー:豚肉を醤油と香辛料でたっぷり煮込んだ沖縄のラフテー風味、
④ 川エビのトマトソース煮:(ブラックタイガーサイズ)
⑤ ナポレオンフィシュの皮と胃袋の煮込み:サイモンが持ち込んだ食材でめったに入手できない素材だ。沖縄の水族館で話題にした魚料理だ。
⑥ 細い麺の中華炒め
⑦ キュウリと魚の煮込み:小さなカボチャをくりぬいて魚のすり身ときゅうりを煮込んである、
⑧ デザート:スイカ
我々は何度も「チェース」と言ってグラスを上げた。末娘は私が料理のメモを取るボールペンが珍しいのであろうか、しきりと私の席に回ってきた。私は自分の末娘の幼かった頃を思い出し、昨日入手したばかりの金色の特殊ボールペンをサイモンの末娘にプレゼントした。ペンを手にして皆に見せびらかして得意顔で席に着いた。サイモンがニコニコして私を見て「サンキュー」と言ってグラスを掲げた。私も応えてグラスを掲げた。店の客がまばらになったころオーナーシェフが我々のテーブルにやって来た。サイモンが中国語で私を紹介した。私はこの店の料理は沖縄料理に似たところがあるが、料理の質はより繊細で奥が深くグレードが高いと褒めた。シェフは納得して私と握手をくり返した。事実、この店のシェフは料理のコンテストで州知事から表彰されていて、その表彰式の写真が壁に貼られていた。私も久しぶりに良い気分で少し酔ってしまった。玉城は酒を口にしないのでいたって冷静である。私にとって酒を口にしない同僚との旅は、ある種の安全保障を手にしている気がして心強かった。
再会のディナーが終了してホテルに戻ったのが午後10時半であった。チャーワンは「明朝午前9時30分に迎えに来る」と言ってホテルの玄関で僕らを降ろした。私は「オーケー、サンキュウー、グッドナイト」と言って別れた。ホテルのロビーの一角にあるバーでは女性がピアノを演奏していた。夫婦と思しき欧米人の数組のカップルがそれぞれにグラスを傾けて南国の夜を楽しんでいた。私の感覚は既にマレーシアモード切り替わっており、日本と台湾の記憶が完全に消し飛んでいた。チャーワンは体に似合わず心優しき男である。私の長旅の疲れを癒すため、明朝9時30分という少し遅めの出発時間を設定していた。久しぶりに心地よい疲れの中で眠りに落ちた。いつの間にかマレーシア表示となった私の体内時計が時を刻んでいた。
5月18日(月)
午前5時に目覚めた。しばらくベッドの中でまどろんでいたが次第に意識がはっきりとしてきた。五時半にベッドを出て髭剃りとシャワーで意識を鮮明にした。コーヒーを入れて旅行メモを整理している間に外から芝刈り機の音が聞こえてきた。広いベランダに出て外の様子を眺めると、ゴルフ場のスタッフが朝の管理作業をしていた。私が会員登録している沖縄県本部町のベルビーチゴルフクラブの管理作業と変わらぬ朝の風景である。乗用式芝刈り機の芝刈り跡をこげ茶色の小鳥が何やらついばみながら追いかけている。羽を広げて飛び立つときひし形の白い斑点が際立った。沖縄のヒヨドリに似た甲高い鳴き声で芝刈り機の周りを飛び交った。私は朝の目覚めにはもう少し穏やかな鳥のさえずりが欲しいと思った。
ホテルのゴルフ場。各ホールに向かう競技者
ベランダの木製の丸テーブルでメモを取っていると次第にプレーヤーらしき人々が集まってきた。相当の人数である。どうやらコンペがあるらしい。二人一組のカートでコースに散っていった。各ホール同時にプレーを始めるショットガン方式の競技であろう。このカートは二人乗りで後部のキャディバッグ置き場とステップがあり、キャディはそのステップに立ち、プレーヤーがカートを運転して移動するのだ。ベランダから見えるコースのレイアウトは、高低差の少ないなだらかな丘陵地にマニラヤシが立ち木のブラインドを作り、細長い池のウォーターハザードが続いていた。フェアウエイは余り波打っておらず比較的にやさしいコースに思えた。リゾート地特有のトーナメントを意識しない楽しいコース設計である。遠く500mほど先のマニラヤシの並木の隙間から車が通過するのが見えた。人々の朝の活動が始まっているようである。午前8時15分サイレンが鳴った。スタートホールで写真撮影やらをしていたプレーヤーがティショットを打ち始めた。早朝のゴルフコースは刈り取ったばかりのフェアウエーの芝目がくっきり目立っており特別美しいものである。私は10年前にグリーンテック・トウキョウの渡辺さんに誘われて、KL空港の近くのゴルフコースでプレーしたことを思い出した。早朝の快適なスタートであったがホールアウトする頃の昼前には暑さでバテそうになった。私は心底ゴルフがしたくなり、ゴルフコースでスタート前にするようなストレッチで体をほぐした。
8時30分、玉城君のドアをノックする音を合図に一階のレストランに向った。
ホリデー・イン・ホテルは世界中にチェーンホテルをもっている。朝食は西洋人好みのオーソドックスなバイキングスタイルである。
① オムレツ、
② マメのトマト煮、
③ ハム1枚、
④ クロワッサンと小さな丸いパン、
⑤ 自ら取り分けたチーズ、
⑥ 味噌汁、
⑦ オレンジジュース、
⑧ デザートにパパイヤ、スイカ、パイン
果物容器の前には小さな地元産のレモンの一片があり、指で挟んで絞り汁をパパイヤかけるのである。レモンの香りと酸味はパパイヤの特有の臭いを消して風味を引き立てる。
コーヒーは給仕係が小振りの水筒のようなポットで注いでくれた。ポットをそのまま置いていったので客専用のお代わり用ポットの意味らしい。朝食をとる客の前には同じようにポットがある。コーヒーはやや濃い目だ。私はブラックのアメリカンコーヒーが好きだが、旅行中はミルクと砂糖を常用している。糖分を補給することで疲れが取れる感じがするのだ。
9時15分にチェックアウトのためにロビーに降りた。チェックインの時にチャーワンの会社での予約と彼のクレジットで保障を取っていた。フロント係りの女性が少しいぶかしげに質問したが、私個人のクレジットカードでの支払いで問題ないと告げてチェックアウトを済ませた。ルームチャージ255RM、その他のサービスチャージが38.25RM、合計293.25RM(7,950円)[1MR=¥27.11]だ。円高のせいで2千円ほど安くなっている。
しばらくするとチャーワンがやって来た。助手席にいる男をリーだといって紹介した。
「よく眠れたかい」
「ああ、良いホテルだ。暇があればゴルフがしたいくらいだ」
「今日はKL空港トレーディング・グループのゴルフコンペティションが開催されているね」
車はホテルの構内を出て表通りを進んだ。この辺りはクアラルンプルのベッドタウンで美しい建物が並んでいる。2階建ての建物を指差して100万RM(2,900万円)だという。チャーワンの自宅もこの近くにあるという。トヨタの自動車工場が近くにあり、日系企業の職員や公務員も多く住んでいるらしい。この辺りの一般的な住宅価格は50万RMらしい。ショッピングモール等も増えて住宅都市として拡大しているようである。
車は高速道路へ入った。この高速道路はインターナショナル・ハイウェイである。シンガポールからタイ、カンボジア、ベトナム、中国までと続いている。人や物の輸送が盛んである。昨日、ある乗用車を指差して中国からだと言ったのを思い出した。車は北へ向かって走っている。スピードメーターを覗くと時速120kmを指している。チャーワンの車は、トヨタの最高級ワゴン車アルファードの旧型3ℓ:250PSエンジン搭載車である。どのような経緯かは知らぬが日本仕様車である。いわゆる逆輸入車だ。当然だが標準装備のカーナビが日本使用であり当地では使えない。もちろんモニター表示も日本語である。専らカーステレオ専用となっている。最新の3.5ℓ:280PSには及ばぬが心地よい走りである。この国の長距離ドライブに適している。日本での価格は380万円程度であろう。この国では逆輸入車は外国車扱いでとても高価だという。トヨタ、日産、三菱系列の現地生産車が国産車として売られている。エンジン等の主要な部分は日本で製造されており、装備は日本車レベルのグレードを省いて廉価に仕上げているようだ。
さて、チャーワンが伴ってきたリーさんは彼と同期ぐらいの男で、職業人としての感触が無くいわゆる遊び人風の匂いがした。左目が潰れかけている。先天的か事故によるものかは定かでない。よく喋り乾いた笑いをする人好きのする男である。時々チャーワンが小遣い銭を渡して食べ物の支払いを促していた。台湾の秦にもダンという兵隊崩れで、大酒飲みで気の荒い友人がいたのを思い出した。その男と2日ほど旅をしたが、飲むたびに地元衆に睨みを利かすのには閉口した。沖縄でも二日ほど飲み歩いたがそのときはおとなしくしていた。それに較べればリーはすごく気楽な好人物に見えた。
40分ほど走ってから高速を降りて何処やらの田舎町で軽食をとった。「朝食は十分だったか」と聞くも、私が答える間もなく何やら注文した。
① シュウマイ入り野菜スープ2杯、
② コーヒー各自に、
③ 5個入りの小さな饅頭1袋、
④特性スープ1杯:ステンレスカップに入った特性スープは、屋外の蒸し器の中から取り出してきた1品である。
野菜スープはあっさりした味だったが、特性スープはアヒルの腿肉を多くの香辛料や薬草と共に煮込んであり、とても滋養がつくような味であった。4名で取り分けて飲んだ。
チャーワンは先ほど食した饅頭はこの地域の特産だといって追加で買ってきて、4袋を土産にしろと渡した。街角の果物屋を覗いて回った。数種類のマンゴー、マンゴスチン、バナナ、種無しグァバ、レンブ、ザボン、パンノキの実、ビルマネムノキの実などである。若い娘がネムノキの実の品定めをしていた。チャーワンに訪ねると、その実を炒めて食べると腰痛に良いがとても臭いという。うらぶれた老人がしきりにその剥き身を売りに来たが、チャーワンは取り合わなかった。よほど不味いのであろう。チャーワンはマンゴーやらマンゴスチンを買い込んで車に積んだ。この町にもカメラショップがあり、玉城君のデジタルカメラのメモリーチップを買った。街はイポーに続く旧道沿いにあり、日本の宿場町に似た生活臭のする佇まいであった。道路標識にイポーと矢印がついていた。
車は高速に戻って北へ向った。油椰子のプランテーションが続いた。この農場は外国資本とマレーシア政府のジョイントで構成されているらしい。プランテーションが途切れると高速道路は原生林に似た山林を登り始めた。チャーワンは高い山を指差して3,000m級の山だ。この辺りの標高は1,500mだろう。国内で一番高い山はボルネオのキナバル山で4,000mを越えているといった。沖縄の最高峰は400mだと私が言うと大笑いになった。
午前11時45分、高速道路を降りて狭い幅員の道路に入った。やがて山の斜面に沿って曲がりくねった山道を登っていった。40分ほど上ると耳鳴りがした。気圧の変化を自覚できるほどの高度である。チャーワンはほんの少しでも見通しがあると前の車を追い抜いた。山の右斜面を登っているので追い越す場合は右側に断崖を見下ろすことになるので危険この上ないドライブである。野生のドリアンが握りこぶし大でぶら下がっていた。30mもある高木である。道端脇の小屋でトーチジンジャヤーの株、野生ラン、取れたてのトウモロコシ等が売られていた。2,000mを登りきったところで小さな平地に民家がポツポツと現れた。二つ目の集落で車を停めた。高速道路を出てから1時間20分、キャメロン・ハイランドの街角に降り立った。
キャメロンの街角
少し遅い昼食をとるためにレストランに入った。昼時を過ぎているので客はまばらであった。ミスター・ローが待っていた。菊の大規模生産者だと紹介された。「野菜料理でよいか、肉料理も欲しいか」と聞かれたが、「ベジタブルでオーケーだ」と答えた。この辺りは野菜の産地という。日本の長野県の夏場の高原野菜の産地の類である。只、長野県と異なるのは、一年中安定した気候の高原野菜の産地であることだ。
① 煮込みうどん:もち米で作られた長さ7cmに太さ5mm程の麺である。両端がぶつ切りでなく細く絞られている。細切り野菜、茸と炒められており、ぬるぬるとした中華風うどんを噛むとそのモチモチ食感がたまらない。
② 極細麺の焼きそば:白菜の細切りを加えてさらっと炒めてある。
③ 太め目の新鮮アスパラガス、小型の玉ねぎ、にんじん、刻みネギのピリ辛炒め、
④ クレソンとカマボコ風のスープ、
⑤ キャベツのピリ辛炒め
体に良い新鮮食材の昼食である。この席から英語塾のカーステンに電話をして明日の英語塾を休む旨を伝えた。彼女は「インターナショナルテレホンね」と言った。一瞬だけ沖縄の時間帯に戻った。なんだか知らぬがホッとした。
2時10分、ランチタイムを終えてローの農場を訪ねた。15エーカー(18,400坪)の菊畑を管理しており70名の労働者を抱えている。彼の邸宅の前に車を停め4輪駆動車に乗り込んで農場見学に出かけた。彼の豪邸の庭には斑入りのコバノコバテイシが3本植えられていた。この樹木はマダガスカル原産である。2001年のマダガスカル探索で開花株を見たことがあるも他の国では開花しない。コバテイシの実生苗に接ぎ木で繁殖しているのだ。沖縄県の都市モノレールの空港駅付近で見ることが出来る。但し斑入り種ではない。チャーワンはとても高価であると感心していた。いわゆる菊成金の類かと思った。ガレージにはヨーロッパの外車が2台停められていた。先ほどのレストランで挨拶を交わした老人の息子が栽培するラン生産農場に向った。この辺りは斜面地に多種類の野菜類、菊、ラン類、観葉植物が栽培されている。雨よけのための屋根だけのビニールハウスが続いている。強風が無いので細身の骨材で作られている。沖縄ではとても考えられない簡易な構造である。栽培されている作物はいずれも一級品である。花崗岩が風化した排水良好な土壌、2,000mの高地の冷涼で安定した気候、ダムから供給される十分な水資源、作物にとって最高の適地であろうと推察された。そして山を下ってインターナショナル・ハイウェイを利用すれば、クアラルンプル、シンガポール、バンコックの大量消費地まで陸上輸送で商品を供給できるのだ。平坦で利便性のある広大な農地は確保できないが、技術と資本を投下したことで一大産地が形成されたのである。特にシンガポールという高級市場に商品を供給することで技術力の向上に拍車がかかったのであろう。ローの農場で働く労働者の表情を見ると英語や中国語に反応しない。おそらくスリランカからの出稼ぎ労働者であろう。ローの話では日本のJAからの視察グループもあるらしい。私たちはさらに2か所の観葉植物出荷場とラン園を廻ってローと別れた。
午後5時、小雨のなかを次の集落に向った。峠の頂上付近から左手に山一面の広大な茶畑が見えた。これが有名なキャメロン・ハイランドの茶畑である。尾根の頂上に旅行ガイドブックの写真でよく見る峠の茶屋があった。チャーワンの車は停めてくれと声を掛ける間もなく一気に通過した。山頂近くの雨霧に煙る茶畑の尾根を越えるて10分程下ると道路に面した8階建てのホテルがあった。2週間前にオープンした新築のホテルである。1泊200US$のところをオープンセールの半額であった。部屋の中は未だ新品の家具の匂いがした。最初の部屋がツインのベッド、その裏側がダブルベッドの部屋、そして比較的に広いバスルームという間取りだ。私と玉城、チャーワンとリーで泊まった。私は玉城君がシャワーを浴びる間にチャーワンの部屋でしばらく雑談して備え付けの緑茶を飲んでいた。キャメロン・ハイランドの香りの強い緑茶である。
午後7時にホテル前の坂を車で10分ほど下って街のレストランに向った。太めの女将が親しそうにチャーワンを迎えた。よく利用しているのだろうと思った。そういえば、彼は毎週のように誰かを案内してこの町に来ていると言っていた。話半分でも頻繁に通っているのは間違いないだろう。トヨタの高級ワゴン車を持っている理由のひとつだろう。店は奥に縦長の特別大きい店ではない。10人掛けの丸テーブル4台がカウンターと並行して置かれ、その奥に2台の丸テーブルがある。その2台は少し小さい。カウンターの奥の小さめのテーブルを使った。4台の大きなテーブルには食材が準備されており、30分ほどすると中国系の旅行客らしき一団が食事会を始めた。繁盛した店のようである。客足の多い店ほど美味いのは万国共通の事実だ。
レストランには既にローがいて、その隣のメガネを掛けた色白で背の高い男性を紹介した。ポーという男でケミカルの商売をしているらしい。私は化学工場にでも勤めているのかと思ったが詳しくは尋ねなかった。しばらくして洋酒のヘネシーを抱えた老人が加わった。77歳のリューさんだ。元気な方でトマトの生産者らしい。がっちりした体格の色白で血色の良い顔つきである。カールした髪を後ろに撫で上げたいわゆるオールバックスタイルの髪型だ。農家の親父というより不動産業か社交業界のドンといった感じだ。私がチャーワンに言った。
「grand father look like so young」(親父さんは、随分と若く見えるね)
すると、リーが傍から笑いながら
「no! no! he is young young men. Not young men」といった。
そのときから彼のことを「ヤング・ヤング・メン」と呼ぶことになった。私が帰国するときまで彼の話題が出るとヤング・ヤング・メンと呼んだ。我々は7名でテーブルを囲んだ。酒はヘネシーの他にチャーワンが持参した金粉入りの高粱酒である。この日のディナーパーティは高粱酒のチェース(乾杯)で始まった。食材としてサイモンがプレゼントした食材の冷凍魚、イカ、エビを発泡スチロールの箱に入れてこのレストランに持ち込んであった。ローの農場を去るときにチャーワンが彼に渡してあり、今日のパーティに使うといっていた食材である。この店で既に調理されているのだろう。
①土鍋に入った魚のスープ:昨夜のスープより少し魚くさい。同じく香草が入っていた。リーが取り分けて皆に配った。一人当たり2~3杯の量である。
ハンディ・ガスコンロが持ち込まれた。その上に直径40cmほどの金属製の鍋が載せられており、だし汁が入っていた。だし汁は定期的に女将が継ぎ足してくれた。鍋は真ん中で二つに仕切られており、左右で別々の食材を調理することが出来た。
②魚の切り身:サイモンが渡したものでかなりぬめりがあった。肉質によるものか、コックの下ごしらえに拠るものかは分からなかった。シャブシャブや海鮮鍋と同じ要領で軽く煮立てて食べるのである。小皿にチリソース、醤油、青唐辛子の酢漬けのスライスがあり、それを薬味として使うと味が引き立った。
③エビ:ブラックタイガーと同じだが川エビである。臭みが無くて美味い。チリソースの酸味とピリ辛がマッチする。
④イカ:半透明の薄茶色で3角形に切ってある。イカの触感ではなくコリコリとした歯ごたえがある。味はイカに違いなかったが少し淡白である。
エビとイカを鍋から全てすくい取ってから次の食材を入れた。異なる食材が影響しあって食材本来の味が変化しない工夫である。
⑤油でカリカリに揚げた魚の胃袋:3角形で湯にほぐれると変わった食感となった。
⑥小さな袋上の揚げ物:日本の鍋物に入ってくる高野豆腐の揚げ物とも異なる。中にはシュウマイのような具が入っている。
鍋の中身を取り出してだし汁を追加した。
⑥ 豆腐:三角形の絹ごし豆腐で3cm幅、15mmの厚みだ。
⑦シイタケ:マッシュルームサイズであるが、小さい丸い傘のシイタケだと思った。
⑨平茸:一口大にきってある。
⑨ エノキダケ:鍋物によく使われているものである。
キノコ類は大皿にそれぞれ盛られている。
⑪丸いカマボコ:親指大のこんにゃく風カマボコである。少しだけ弱った臭いがした。こんにゃく特有の臭いであったかもしれない。
⑫春菊:軽く湯を潜らしただけであるが、エグミの無い新鮮で柔らかい新芽の部分である。
⑬クレソン:軽く煮てから食べる。
⑭マメの新芽:大根のモヤシに似て少し辛味がある。だし汁にさっと潜らせてから食べる。さっぱりとした食感だ。
⑮大根:ポーが外に停めた自分の車から大根を持ってきて女将に渡して短冊に切ってもらった。緻密な大根で甘味と歯ごたえがある。
⑯ゆで卵:殻ごとだし汁の中で茹でる。しかし誰もが満腹となっており、ポーが持ち帰った。魚やその他の料理もビニール袋に入れて持ち帰った。汁も加えていた。ローがあれこれと袋に詰めるのをリーが手伝った。
リューさんは余り食事を取らずしきりに酒を勧めた。チェース、チェースの連続である。結局のところヘネシーを全て空にして満足な表情をしていた。笑うと穏やかな好々爺という感じである。食卓のメンバーが一目を置いているのをはっきりと読み取れる程のステイタスを感じた。チャーワンは25年来の友人であると真面目な顔で言った。老人には裏の顔があるのかもしれない。旅行客は既に引き上げて、店のスタッフが奥のテーブルで夜食の鍋を囲んでいた。午後10時になっていた。リーは3分の1ほどになったコーリャン酒を持ち帰った。今日のディナーはポーの支払いであった。それ故、彼が残り物を持ち帰ったのであろう。私はポーに今日の夕食は最高に美味しかったと礼を言って握手した。
外に出ると雨は上がっていた。雨上がりとはいえ高地の夜は沖縄の冬並みの肌寒さを覚えた。ホテルにもどったのは10時20分であった。私はわずかに疲れを覚えており、衣類を脱ぎ捨てるとベッドに入った。シャワーは明日だと思いながら眠りに落ちていった。
5月19日(火)
2時間ごとに目が覚める。昨年秋の人間ドックで指摘された前立腺が旅先で少し悪化しているのかもしれない。午前4時45分ベッドから這い出して外を眺める。5階からの視界に幾つものホテルの明かりが見えるが未だ夜明けに間がある。先ほど電源を切った携帯電話のアラームが鳴った。5時である。携帯のアラームは電源を切っても鳴るものであろうか。それとも眠気眼のせいで電源を上手く切らなかったせいであろうか。シャワーを浴びて荷造りをすませ、昨日の出来事を記録するためにメモを取った。何処からかコーランの音が聞こえた。このような山中の避暑地でもイスラムの信者は存在するのだと少しばかり違和感を覚えて寒気がした。午前七時、玉城は未だ寝ている。彼は言葉の通じない世界に多少のストレスを感じてはいないかと気になった。私はつたない英語であるがコミュニケイション上のストレスは全く無い。カーステン英語塾の効果があるのか、それとも単なる楽天家気質の旅人気質によるものかもしれない。昨日の夕方、妻に電話するも連絡が取れなかったことが少しばかり気になった。名古屋で暮らす長女とは連絡が取れたのでいくらか安心している。旅先で自宅のことを心配すのがナンセンスであることを私は十分に知っているつもりであったのだが。老いが始まりつつあるのかもしれない。
朝霧の立ち込めたキャメロンのアパート群
山の端が少し明るくなってきたので写真を撮るためにベランダのガラス戸を開けた。足元のジュウタンが結露で濡れていた。夜間の気温はかなり下がるのであろう。確かにクアラルンプルのホテルのように25度に自動温度調節したエアコンの送風音が聞こえない。
7時25分、ベランダの左方向の山から朝日が射してきた。谷合の集落は白いアパートが林立している。アパートか賃貸別荘であるかはわからない。昨日下山の途中でゴルフ場を見かけた。日本人らしきグループがプレーしている姿があった。右側の道路では車の往来が激しくなった。タイヤが水を含んだ路面をジャキ、ジャキと噛む特有の湿った音を響かせて行き交っている。山中のホテルらしく小鳥の声が活発になった。ホリデー・イン・ホテルで見た羽に菱形の白い斑の鳥である。私はこの景色にはウグイスに似た鳴き声がふさわしいと思うのであるが、この国の華僑のように騒々しい鳥が繁盛しているようだ。自然生態も国民性に付随するのであろうかと思った。
玉城が起きだした。
「おはようございます」
「8時に食事に行こう。8時30分の出発だ」伝えた。
しばらくしてチャーワンがドアをノックしたので1階のレストランに向った。
バイキング用の鍋が並んだこじんまりしたレストランである。ルームナンバーを告げて鍋の蓋を開けると空である。給仕がテーブルに案内して、チャーワンに広東語で何やら話していた。チャーワンは「朝食のメニューは、焼きそばかマレーフードだ」と言った。
「ここはマレーだ。マレーフードをくれ」と答えた。
リーは相変わらず焼きそばを注文した。
ぎこちなくコーヒーを注ぐ給仕の仕草に新品ホテルだということを改めて感じた。マレー風ランチが出てきた。
皿の中央に丸く盛ったタイ米があり、左に普通のカレールー、右に辛口のカレールー、右上にキビナゴの甘佃煮、ご飯の向こう側に1枚のサラダ菜と薄切りトマト。オレンジジュースが付いている。極めてシンプルである。リーの食事は変哲も無い醤油色した焼きそばである。朝から焼きそばもありかと思った。
8時30分、チェックアウトしてホテルを出た。10分程下ると昨夜の町に着いて給油をした。35ℓの給油で63RMである。日本円の1リットル60円で日本の半額である。車を出してすぐ近くの農業資材店の前に車を停めた。中からポーが出てきた。ケミカルの仕事とは農薬、肥料、その他潅水設備にいたる全ての農業資材を扱う商売のことであった。彼の店から昨夜のレストランは50mの距離である。農業に必要な全ての資材がポーの店で手に入った。大規模生産者はポーの名前でジョイントを組んでオランダ等の海外の園芸先進地からコンテナ単位で農業資材を輸入しているという。ローの栽培する菊の品種はもとより肥料、灌水装置の部品の殆どがオランダからの輸入品である。単なる自然環境の良さと低コストの労働者ではこれだけの高品質の園芸産品は生産できない。オランダから世界最先端の技術が導入されているのだ。店にはマレー人らしい気の利かない店員が商品を並べていた。雇用主と従業員が同じ営業感覚を養う日本の経営スタイルに至っていないのも現実であった。
キャメロンの中心市街地の朝
10分ほど雑談して彼と別れた。車はゆっくりとキャメロン街道を下っていく。通り沿いにやたらとイチゴの看板が目立つ、イチゴ狩り、イチゴの鉢物、イチゴの苗販売などの看板がある大小のガーデンセンター、果てはイチゴの形をした枕やマグカップ等のイチゴグッズを売るお土産品店まである。
YKガーデンセンター
YGガーデンセンターに着いた。キャメロンで最も大きな園芸植物の生産販売業者である。ビニールハウス関連の資材も製作販売している。ここで生産する鉢物は高速道路を通してクアラルンプル、シンガポール、バンコックまで出荷するという。オーナーは50代の中華系である。英語を話せないので直接のコミュニケイションは図れなかったが、代わりに八重歯の可愛い小柄なお嬢さんが英語で丁寧に説明してくれた。この企業の園芸商品の品質は、日本の愛知県知多半島の園芸産地にも劣らないものばかりであった。30分ほど説明を受けてこの店舗を後にした。キャメロンでナンバーワンの生産者を訪ねたことでこの地の調査を終了した。そして、午後の予定であるペナンのラン生産者に会うためにキャメロンを後にした。
国立自然保護林、手前は野生のナリアラン
10時20分、再び峠を登った。今度はワインディングロードではなく比較的に新しい道路である。昨日からの行程は高速道路を右折し、キャメロンハイランドを横断して、さらに高速道路の北側に抜けるルートを走っているようだ。眼下にキャメロンのハウス群が朝日を浴びて光っていた。30分ほど走るとキャメロン特有の園芸団地の光景は姿を消した。道路は切り立った岩盤の斜面を削り取って作られていた。道路わきにナリヤランが群生して花を付けていた。ボルネオのナリヤランより草丈が低い。気温が低いのであろう。壁面にはデンドロビューム、グラマトフィルム等の原種が無造作に着生していた。野生ランの宝庫である。道路が下りにさしかかると右手の遠くに国立公園に指定された原生林が広がっていた。チャーワンはあの地区は全く人手の入らない自然であると説明した。交通量の少ない道路を軽快に下っていった。
マーブルの採石場
下り坂が緩やかになった頃、前方にがけ崩れに似た岩肌が見えた。さらに近づくと採石場であることが分った。マーブル(大理石)の採石場である。石の節理は立ての目をしており奇妙な景観であった。チャーワンの兄弟がその中の採石場のひとつを経営していると話した。必要ならコンテナひと箱分送っても良いと冗談めかして言った。私の庭の園路は沖縄産の大理石を敷いてあるから要らないと断った。実際は大理石では無く、安価なビーチコーラルの石灰岩を門の壁面と園路に張り詰めてあるのだ。ここの大理石はイタリア産と材質が異なるとのことであった。イポーの街に入って右折した。そして高速道路に乗ってさらに北上した。セメント工場が2箇所にあった。大理石はセメントの原料にもなるようだ。
マーブルを原料にしたセメント工場
11時40分、ペラ川を横切った。この川では美味い魚が捕れるとチャーワンが言った。確かに川の水は養分の多い半透明の土色をしており、開口健の旅行記『オーパ!』の写真で見アマゾンの川に似て魚が豊富かもしれないと思った。車は120kmスピードで油椰子のプランテーションの間を走り続けた。チャーワンの長男が今年2月の洋蘭博覧会に訪れた際に買ったというCDを掛けた。車内に沖縄の島唄で喜納昌吉の歌う『花』のメロディーが流れた。ヤシ林の続く異国で聞く沖縄のメロディーに不思議な思いがした。しばらくして日本のポップスにかわった。ヤシ畑が途切れると集落が現れて、再びヤシ畑に変わるという景色の繰り返しである。
油ヤシのプランテーション
高速道路の料金所支払いシステムは、右端の黄色い看板のゲートがETCシステムの[smart TGA]、青い看板のゲートが専用クレジットカードをボックスの読み取り機にタッチする[touch and go]、その左は一般的な現金の直接払い料金所だ。チャーワンは肘掛のコンソールボックスからETC機器を取り出し、ゲートセンサー向かってスイッチを入れてゲートバー上げた。日本では車載であるが、此処でたちまち盗難に遭うそうだ。
12時30分、高速道路を左に折れて古い町並みのタイピンの市街地に入った。旧街道はアンサーナの並木が続く穏やかな町でマングローブの湿地帯が続いていた。昼食のために目的の海鮮レストランの前に車を停めるも閉店であった。別のレストランを求めて古い市街地を走る。高速道路と平行して走る道路は混雑していており、先ほどまでのスピード走行との落差がある。道路わきにマレーの墓が続く道をゆっくりと進む。墓の形状は沖縄の亀甲墓に似た小型タイプが多い。リーがあの店はどうだと指差すがチャーワンはうんと言わない。大型のコンテナトレーラーが行き交い、貿易港が近いことを示している。
マレーシア墓地の亀甲墓
マレー墓の倍以上もある沖縄の亀甲墓
再び高速道路に乗って走り出し、午後1時30分に商業ビルの多い街に降りた。本格的な中華レストランの前に車を停めた。タイピンの街角でレストランを探し始めて1時間が経過していた。
赤塗りの玄関の中華レストランは冷房が効いて気持ちが良かった。ランチタイムの終わった店内は客の入りはまばらであった。丸テーブルに着くと品の良い黒いパンタロンスーツの女性が注文を取りにきた。本格的な中華レストランである。飲茶で始まった。
①海老入りのシュウマイ:海老のぷりぷり感が絶品
②潰しポテトの揚げ物
④ 緑色の袋のシュウマイ
⑤ カリカリ焼きそば:中央にパクチョイ風の野菜炒めがのっている。野菜とその汁と焼きそばとを混ぜて椀に取り分ける。麺は直ぐに汁が浸みて麺全体に旨味が絡みつく。
⑥ 細いインゲンマメの炒め物:マメ臭さが全く無くて美味である。
⑦ アジに似た魚の餡かけ:白身の淡白な味
⑧ 茹でた海老:川エビではない。
⑨ ココナッツの果肉のようで餅に似た炒め物:餅とも異なるねちねちとした食感だ。
⑨海老のカレー煮:スパイスが効いて美味い
⑩アヒルのロースト:中華の定番料理。
⑪ご飯:タイ米を必要なだけ皿に取り分ける。
⑫ウーロン茶は随時注いでくれた。久々に飲む美味い本物のウーロン茶である。
⑬ぜんざい:ぜんざい風味で小豆、ココナッツミルク、グリーンのメロンの細切りが入っていて消化を促すらしい。さっぱりとしている。人気メニューらしく我々以外にも食べている人がいる。
チャーワンにしては珍しい本格的な中華料理であった。
広大なマングローブ
2時20分、レストランの外に出ると乾いた熱気に包まれた。再び高速道路で北に向った。海が近いのであろう川べりにニッパヤシが群生している。水田と所々にマングローブが広がる湿原地帯である。20分ほど走って高速道路降りた。チャーワンがトイレに行ってしばらく待つと友人がやって来た。昨日のセレンバン・オーキッドのリチャードともう一人は見覚えのある男である。「コンニチワ、ヒサシブリデス」日本語で話しかけてきた。少しだけ日本語を話す台湾のJIA-HO ORCHIDウオン(黄)である。3年ほど前に夫婦で沖縄国際洋蘭博覧会に参加したので多くのゲスト共に夕食会に誘ったことがある。彼の農場は台南にあり、コチョウランを始め自作の交配品種を幾つも発表している。とりわけTolmuniaはらん展示会で入賞する人気の品種である。
目的地が同じらしく、2台の車が連なって走った。支線に入ってマングローブの広がる湿地帯の中を走った。片田舎の道路でもアスファルト舗装で快適なドライブである。この国の道路事情は中々優れたものである。やがてマングローブの脇の小さな水路に3m程の幅の私設のコンクリート製の橋を掛けた農場に着いた。前を走るリチャードの車が橋を渡り、その次にチャーワンの車が渡ろうとすると対向車が近づいて来た。チャーワンは急いで左にハンドルを切った。車がガクンと揺れた。30cmの高さしかなく、車の死角となった欄干の角が車の左サイドに接触したようだ。農場の倉庫の前に車を停めて調べてみると、ステップの下のバンパーがずれて落ちかけている。チャーワンとリーはバンパーを剝ぎ取ってトランクに収めた。チャーワンは拳で自分の頭をコツンと叩いて笑いながら言った。「OK!セーフティドライブ」リーがむき出しのシャーシを指差してケラケラと乾いた声で笑った。
チャーワンの傷ついたアルファード
その汽水域の一角の農場がNT オーキッド・ナーセリーである。オーナーは陳さん、(ローレンス・タン)若い男である。原種の収集と販売を手がけている。主な出荷先はヨーロッパだと言った。マレーシアは低地の湿原から2,000mの高地まで様々な野生ランが生育している。NTオーキッドでもデンドロビュームからファレノまで多種類が収集されていた。ファレノの原種は暑さに弱いので扇風機を3台稼動させていた。黄がリチャードと二人で陳と交渉して買い付けている。交渉が終わると陳ははペットボトルの水を僕らに配った。午後3時半の太陽は未だ衰えることを知らず灼熱の日差しを送ってくる。農場の一角にコパラミツの大木があり、果実を椰子の葉で編んだ籠で包んでいる。鳥除けらしかった。コパラミツは根元近くに集中して実っており、熟しても直径15cm長さ30cm程度であるが、パラミツの中では甘くて果汁が多く高値で売られている。ボルネオで食べたことがあるが確かに美味い。包丁を使わずに指で簡単に果肉を掘り出した食べることが出来る。パラミツは沖縄の私の実家にも3本が生えており、毎年5kg程の果実が実る。しかしコパラミツは高温多湿でなければ育たない。タイの市場でも見かけない果物だ。果実は一果ごとに鳥除けを施すだけの価値があるのだろう。それに籠は巧くできている。野鳥が食べる前の小さな幼果に細長い大き目の籠を取り付けておき、果実が成長するにつれて籠の網が伸びて果実にフィットしていくのである。それ故、可変性のヤシの葉で編まれた籠は誠に合理的である。地元住民の優れた知恵だ。

山採りの野生ラン
山採りのコチョウラン
コチョウランの原種。貴重な色彩だ
ナーセリーを後にしてペナンに向った。ペナンにもランの収集家がいるらしい。タイピンから再び高速道路に乗ってパタワースで降りた。大きな貿易港で栄えている町である。高速道路を150kmも北上すれば隣国のタイである。4kmのペナンブ・リッジを渡ってペナン島へ入った。
周囲15kmの島である。ローカルの飛行場が島の中央にあり、クワラルンプル国際空港の2階からローカル線でアクセスで来るのだ。マレーシアの独立前は大英帝国がリゾートとして開発した島であり、多くの外国人観光客の姿を目にする。人種も多様でイスラム、インド、中国、キリストの礼拝所を目にすることが出来る。島の中腹にあるラン収集家ワン・キン・ホーの自宅を訪ねるも不在である。タイから未だ帰ってきていないようだ。来月の第1週に国際ラン展があり、その調整に出かけていると対応した息子が話していた。引き返す途中で小腹が空いたのでチャーワンは車をとめて、露天商の店先にぶら下がった沢山のバナナの中からを1房選んで持って来た。小振りなマレー産のモンキーバナナである。皮が薄く果肉がフィリピン産よりも黄色で、ねっとりとしていた。いつの間にか空いてきた腹に美味いと思った。しかし残りを翌朝食べてみるとそうでもなかった。日本人の味覚と多少のずれがあるようだ。マンゴスチンやドリアンも売られていたがチャーワンはドリアンを食べると車の中に臭いが残ると言って手を出さなかった。チャーワンにとってこのワゴン車は来賓専用の営業車両である。この周辺ではランブータンは未だ流通が少ないようだ。時折、民家の庭先に緑色で未熟のままでぶら下がっているのを見かけた。
この街は古くから開発されおり、道路わきのインドシタン、ビルマネム、マホガニーの巨木が緑のトンネルを作った場所が多く、オリエンタルの風情のある町だ。未だ日没までの時間があるのでペナン植物園に立ち寄った。1884年に造られた30haの敷地である。仕事を終えたビジネスマンや初老の夫婦が暑さを避け、夕方のウオーキングやジョギングを楽しむ姿が目立った。ホウガンボクの巨木に果実がたくさん実っており歴史を感じる植物園だ。島の雑踏から隔離された素敵な空間である。20分ほど園内を散策してホテルに向った。午後6時であった。

植物園を探索する相棒
ペナンの植物園とカジュアルな服装のチャーワン。夕方の散歩楽しむ地元の人々
砲丸木の蕾と実、花は夜咲き
「Many hotels. You can choice. OK」(ホテルがたくさんあるぜ。選び放題だ)
「NO need booking this area」(この辺りのホテルは予約の必要がない)
チャーワンはそう言って海岸線に車を走らせた。海はマングローブの発達した河川が近いのであろうか汽水域特有の濁った色をしていた。沖縄のエメラルドグリーンの浜辺とは較べようもない。海を右に見ながら随分と走ってからUターンした。自身なさそうに「ゴールデン・チャイナ」にしようと言った構内に車を停めた。ホテルの表示には「ゴールデン・コースト」と書かれていた。チャーワンは英語を話すも読み書きは得意ではない。私へのメールは大学卒の息子が対応しているのだ。中級ホテルである。しばらくすると宿泊費が高すぎて話にならないと言って出てきた。リーに何やらこぼしている。リーも仕方が無いという顔をして相槌を打って聞いている。本当に高いのか、ホテルの格式に合わぬ客と敬遠されたのか分からない。Tシャツの上にボタンも掛けずに上品とは言えない柄物のシャツをはおり、半ズボンとゴム草履の風体ではフロントが宿泊を敬遠してもおかしくないだろう。いずれにせよ、マレー語で話す二人の会話は私にとって未知の言語である。しばらく走って「ホリディ・イン・リゾート・ペナン」の構内に車を停めた。クアラルンプル郊外の初日のホテルと同系列だ。今度は交渉成立である。荷物を降ろそうとすると向かいのホテルだと言う。道向かいの別館である。道路を挟んで陸橋で繋がっている。ホテルの部屋は2034号室、20階のツインルームである。7時50分に夕食に出ようといって分かれた。部屋に帰って手足を洗う間もなく呼び出しの電話が鳴った。夕食の誘いである。
表通りは既に街灯が燈り始め、人の往来が多くなっていた。ホテルの右方向に歩いていくと、屋台のお土産品店、レストランが並んでいる。小奇麗なレストランを幾つか通り過ぎた。帆船のマストを屋根に掲げたステーキハウスがあった。「キャプテン・・・」と店の名がネオンに輝いている。沖縄にもキャプテンズ・インという店名のステーキハウスがあったのを思い出した。どこの国の船長もステーキが好きなのであろうかと思って苦笑した。レストランはどこも客の姿が無くウエイターが気のない声で「ハロー」声をかけてきた。チャーワンはそれを無視して歩き続けた。200mほど歩くと人のざわめきが聞こえた。其処は道路に面した屋台村である。一方が海岸に面しているようで潮騒に似た音が風上からわずかに聞こえた。テント張りの広場の両サイドに4mピッチで異なる料理店が並んでいる。魚介類、インドカレー、肉類、汁物、様々なタイプの店がひしめき合っている。ローマ字で鉄板焼きと書かれた店もある。確かに鉄板の上で肉を焼いている。店の前で食材を注文してテーブル番号を言うとその屋台村共通のシャツを着たウエイトレスが調理した料理を持ってくる。テーブルで料理を受け取ってから金を払うシステムだ。ウエイトレスに「ハロー」と呼びかけてビールを注文する。マレーシアのタイガービールだ。あまり美味いビールではないが、ビール無しではこの手の食事は美味くない。玉城君はサイダーやココナッツの生ジュースを注文した。小玉のタイ産ココナッツの青果である。二人の男が柱を押している。よく見ると柱に連結した天井が開いて夜空が現れた。手動の開閉式天井である。空気が通り抜けて涼しくなった。マレーシアはタイと異なり、夜にスコールがやって来ることが珍しくないのだ。夜店のテントは必需品である。食い物店以外の夜店の土産品店でもテントは常備されている。
① 串焼き:牛肉10本、鳥肉10本
②イカの輪切りピリ辛炒め:イカげそは使わないのか見かけない。
③大根の千切り入り春巻き2皿:径4cmで3cmにカットしてある5個だ。美味いので1皿を追加した。
④ホッケ風の魚の炭焼き1皿:開いた魚を炭火で焼いてある。淡白な白身魚だ。醤油ダレで食べる。チリソースを加えると風味が出る。
⑤海老のピリ辛炒め1皿:ハーブと共に炒めてある。ブラックタイガーサイズだ。
⑥マングローブガサミのカレー煮1皿:この料理はどこも同じだ。カレーにはマングローブガサミの泥臭さを取り除く効果あるようだ。
⑦チャーワンが肉団子入りスープ1杯:とるも不味いといって私に回さなかった。
⑦ ビール5本
屋台村は盛況である。欧米人、チャイナ、インド系と多彩だ。日本語は聞こえない。一般的なレストランに客がいないのは、旅人の嗜好が変わったのか不況のせいであるのかは不明だが、この形式のレストランがこの街の風物として似合っているのは確かである。あまり高級ともいえない海浜リゾートに白いテーブルのレストランは似合わないだろう。もっともガラス越しに中が見えた1箇所だけは高級感のするバー風レストランに数組の西洋人がそれらしく談笑していた。午後9時に食事を終えて其処を立った。チャーワンはホテルの本館のビーチサイドにバーがあるので、ルームナンバーを言えば飲めるからと言って互いの部屋に分かれた。彼らは21階である。
部屋に帰って用を足して玉城と再び通りに出た。酒を飲まぬ玉城をホテルのバーに誘うことはできないし、通りの夜店を覗くほうが楽しいと思った。ホテルの前の通りを左に向って歩いた。通りの出店は日本の夏祭りの夜店に似ている。マレーシアの民芸品、偽ブランドのロレックスの時計やモンブランの万年筆、イブサンローランの財布、有名ブランドのポロシャツ等である。玉城がポロシャツを品定めした。中華系の太目の女主人が28RMという。
私は「NO! Expensive」(高い)
「OK,40RM two」と2枚を見せた。
「no need, only one 20RM ,OK」(ひとつでよい、20RMでよいか)
「OK」と言って一枚を袋に入れた。
玉城君20RMを払ってそこを離れた。
水彩画を売る老人がいた。私は妻が水彩画を習っていると彼に話しかけた。彼は日本人かと問い直してきた。中華系の細身の老人である。売れない絵描きのフィーリングがぴったりの初老の人だ。まことに夜店にぴったりの風景である。画用紙は日本製だと表紙を見せてくれた。確かにMARUMANと書かれていた。シンガポールの紀伊国屋で買ったらしい。絵の具は英国製だ。油絵は画かないのかいと聞くと、油絵は重ね塗りが出来るが水彩画はそれが出来ない。水彩画が難しいと屁理屈を言った。私は貴方の推薦する1枚を買おうと言った。6枚ほどだして見せた。3枚の画風が異なるので「少しフィーリングが変わっているね、貴方のか」と聞くと息子のだといった。明るい感じでグリーンをバックに黒い水牛が映えていた。これが良いと勧めたが、私は彼の描いた『ペナンの街角の食堂』を買った。58RMである。50RMでよいかと訊ねると53RMと言った。未だに芸術家の末席にいるのか安売りはしなかった。私も執拗に交渉することも無く53RMを支払った。ただ簡易額縁を施したこの絵のサイズがバックに収まるかが不安であった。もし大きすぎるなら額縁を取り除くつもりで買ったがその必要はなかった。しかしこの絵には新たな顛末が待っていた。帰宅後にDIYセンターで安物の額を買って取り付ける際、少し気になって唾を着けて擦るとコピーであることが解った。老人の勧めた水牛の絵が本物であったようだ。コピーではあるがペナンの特徴が現れた秀作である。
私たちは引き返して反対方向に少し歩くと「スリランカ」という看板の店が目に付いた。夜店ではなく通り3軒ほど入ったところである。革製品を扱っていた。小柄な男性店員はマレー系で、奥のレジの前に座っているのは大柄な欧米人の女性であった。けだるそうな顔をしてこちらをチラッと見た。客に興味がなさそうな気配である。皮製の肩掛けカバンが上等であったが、280RMも出して買う代物ではなかった。
「日本人か?観光か?」
「いや、仕事だ。ランの買い付けだ」
「日本の何処だ?」
「南の方だ。ペナンに似て暑いところだ」
ひとしきり世間話をして店を出た。
インド人の洋裁店があった。8時間仕立て、スーツ100RM、ズボン50RM、ドレス150RMとの立て看板があった。店に人影は無かった。少し前を歩く初老の夫婦が日本語を話していた。日本人も確かにいるのである。セブンイレブンのコンビニでドイツ製のハイネケン・ビールとサイダーを買ってホテルに戻った。チャーワンの車が無かった。二人は繁華街にでも行ったのであろう。
部屋に戻って旅や仕事の話等をしながらビールを飲んだ。タイガービールよりもかなり美味いと思った。私はチャーワンが近くにいるときには、日本語による玉城と二人だけの共通の込み入った会話を全くしない。日本語も英語もチャーワンと共通の話題を話した。3本目の缶ビールを飲み干して午後11時に床についた。わずかではあるが疲れを覚えた。しかし沖縄での生活を思い出すこともなく眠りに落ちていった。何十回も過ごしてきた旅先では当たり前の習慣になっていた。
5月20日(水)
午前6時30分、ホテルのベランダのガラス窓を開けるといつもの騒々しい鳥の声がする。20階まで届く鳴き声である。マレーシアの早起き鳥は威勢が好い。外は凪である。トタン屋根の続く民家の一角から煙が漂っている。朝の食事の準備をしているのであろうか。ゆっくりと広がって朝もやの中に溶けてゆく。少し離れた山すそに新興住宅地の赤瓦屋根の集団が見える。山腹から頂にかけては構築物が無く緑が豊かであり、開発が規制されているのであろうか。
このホテルはガウンと髭剃りがあった。マレーシアでは珍しいことである。7時50分、電話が鳴りチャーワンから朝食の誘いがあった。本館の海岸に面したレストランである。陸橋を渡ってレストランに着いた。彼らは未だ来ていなかった。
ペナンリゾートの朝の家並み
陸橋から見た街路
僕らは2人掛けのテーブルに席を取った。クアラルンプルのホリディ・イン・ホテルと同じバイキングスタイルである。しばらくして二人がやって来て隣のテーブルに着いた。
① クロワッサン、干しぶどう入りパンを自らトーストで焼く。
②スクランブルエッグ
③マメのトマト煮
④ハム2枚
⑤チーズ1切れ(自ら取分け)、ジャム(パック)
⑥レッド・グレープジュース
⑧ パパイヤ(レモン汁をかける)、パイン、メロン
⑨ カレー風味の肉入りポテトのパイ包み揚げ。チャーワンが試してみろと取り分けた一品だ。
チャーワンはマレー粥でリーは飽きもせず今日も焼きそばだ。
少し離れたテーブルにイスラムのアベックが朝食を取っている。細身の男性は半そで半ズボン。女性は黒ずくめのロングドレスにのど元まで垂れ下がるニカーブと呼ばれるベールを着用しており目だけが見える。色白の女性だ。ちらりと見るとパンをマスクの下に持って言って食べていた。あの格好ではスプーンを使うのは困難であろうと思った。食事を終えて引き上げるときに別の席ではおしゃれなヒジャブを着用しただけのイスラム女性がいて、フォークとナイフを使って食事をしていた。イスラム女性の慣習は私には分からない。
9時5分にチェックアウト。ガソリンを補給してから海岸通りを走る。東海岸のショッピングエリアとホテル街が続いた。モクマオのトンネルが続き、その下に屋外レストランが並んでいた。食事中の場所もあったがやはり賑わうのは夜であろう。フェリーポートの横を走った。10人乗り程度の小型ボートで近くの島にレジャー客を運ぶらしい。この辺りの海は透明度が悪く海洋レジャーにはふさわしくないので近隣の小さな島に出かけるようである。港の近くにはフェリー・パーキングという駐車場が多く見られた。
朝の街角の屋台で朝食を取る人々
ホテル街から庶民の街に入った。古い建物が続く街である。街角では朝食を賄う屋台が出ていて、焼きそばやら、雑炊やらをせっせと作っている。地元の住人が朝食を取っていた。街が活動を再開している。アンサーナの大木の下には、にわかレストランが100mほども続いていて、その中の朝食専門の屋台レストランが湯気を立てて何やら調理している。昼、夜の専門店に分かれているのか、人影のないテーブルがほとんどである。車はやがてペナン・ブリッジの上を大陸に向って進んだ。この時間帯はペナン島に向う車が多い。橋を降りて細いモクマオの並木を進んだ。モクマオは3mの高さで3本に分枝しており、ふっくらとしかも細長い樹冠をした糸杉のような樹形に仕立ててあった。
我々は高速道路を昨日の逆コースで南下した。10時45分、途中のインターチェンジで小用を片付けたついでに、収穫が始まったばかりンランブータンの果実、マンゴーのピクルス、蒸したハスの実を買った。マンゴーのピクルスの酸味が蓮の実ととても合う。ランブータンは種の周りの薄皮が果肉についてくるので、口の中で触感が損なわれてしまいレイシほどは美味くない。昨日のバナナも未だ残っていたが食べる気がせず紙袋に入ったままだ。車は120kmのスピードでひたすらイポーの町に向っていた。日本の運送会社のロゴマークを付けたクロネコヤマト、日本通運のトラックを次々と追越していった。やがて小さな峠を下るとイポーの特徴であるマーブルカラーの大理石の岩山が見えてきた。高速道路を下りてキンタ川を渡りイポーの町に入った。この街は4年ほど前にグリーンテック・トウキョウの渡辺に案内されて1泊した町だ。アランダ、モカラの生産者を訪ねたのである。夜のバーで渡辺が地元の生産者に少し絡まれて早々に引き上げた記憶が蘇った。
イポーの園芸資材店
様々な陶器
鉢植えの植木
この街の道路沿いでバンダ類と陶器を専門に扱っているAH CHAT オーキッド・ナーセリー園芸店を覗いた。店主に暑いマレーシアで上手にバンダを育てているねと褒めると、タイからの輸入品だと答えた。夜温の下がらないマレーシアではバンダの栽培は難しいようだ。只、近縁種のアスコセンダは良く育っているのを見かけた。イポーは花鉢をはじめとする陶器類の生産地でもある。磁器の生産は無いようだ。町を離れてイポーの平地を進んだ。いたるところに大小の湿地帯が広がっていた。その中の水草に混じってシンガポールで有名なバンダ・ミス・ジョアキムの交配親であるVanda hookerianaの野生種が咲いていた。スコールの多いシンガポールで交配種のミス・ジョアキムが良く育つ理由が分かった。
Vannda hookerianaの生える湿地
12時40分、小さな町に車を停めて魚市場を覗いた。セリ市は既に終わっていて広い市場の建物の中の洗い場で初老の女性が魚を捌いていた。鯉に似た川魚である。直径3cmで体長が25cmもある淡水産の手長エビがザルの中に横たわっていた。腕の長さは40cm以上もある。ナマズに似た魚が生簀で泳いでいた。セリにはどんな魚が売られているのか見たいものである。
競り市の魚介類
手長エビの一種
市場の向かいのレストランに向った。店に備え付けの水槽には川エビと2種類の魚が飼われていた。チャーワンはエビ6匹とコチに似た顎のせり出した魚、髭の長いナマズの1種を注文した。オーナーは網ですくって調理場に持って行った。
① コチ似た魚の餡かけ風煮付け:白身の魚である。チャーワンは頬骨の周りが美味いと言って私に取り分けてくれた。確かに川魚特有の泥臭さが無くて美味い。
② エビの酒蒸し:皮を剥くと身がプリプリとしてなんともいえない食感である。チリソース入りの醤油だれにつけて頬張るのであるが3口で食べるのがやっとである。未だかってこれだけの味のエビを食べたことが無い。さらに残った汁を中華さじですくって口にすると素晴しい香りと味である。チャーワンは私のびっくりした顔をニヤニヤして見ている。私の喜ぶ姿に満足しているようだ。どうやら私は彼のプライドを満足させたようである。
③野菜炒め:エンサイに似ていて、粗ら引きピーナッツが振りかけてある。生だとエグイが熱を加えると旨みが増す野菜らしい。
④平麺のヌードルスープ:幅1cmに長さ15cmのもち米で出来たヌードルだ。カマボコに似た切り身が入っていた。汁が少なくぬるぬるした淡白な味である。
⑤ナマズの煮付け:チリトマトソースの煮込みである。辛味は少なくトマト風味である。
全部で230RM(6,200円)の食事代だ。海老は70RM/Kg(調理して1,890円/kg)である。このサイズの川海老はここでしか育たないという。養分がたっぷりのこの自然の恵みで育つようである。満足な昼食であった。午後2時にイポーの田舎町を発って高速道路をひたすら南下した。クアラルンプルまで200kmの距離である。
ファンの農場、通路は砂利
点滴灌水装置、後年スリランカ人労働者に逃げられたチャーワンも後導入した
午後3時30分、ファンの農場に着いた。観葉植物をメリクロン苗から育てる農場である。ファンは3年前に洋蘭博覧会に来ていた。彼からメリクロン苗を買ったこともある。農場の中をファンの案内で歩いたが日差しがきつい。彼の農場は点滴潅水設備でポット栽培をしていた。これまで見た他の農場と異なるところである。施設設備が優れているが、自己資金であるか助成金があるのかは不明であった。私の英語力では其処まで質問する能力が無い。果実の赤いパインに面白いものがあった。アグラオネマのフラスコ苗を注文するも在庫が無いとの返事であった。
アランダの路地植え
チャーワンは先を急いだ。ランドスケープの材料に適したナーセリーがあるというのである。UNAITED ORCHID MALAYSIA に着いた。デンファレやアランダ、モカラを中心に多くの品種が栽培されていた。私は様々な品種を撮影した。この農園のラン類で修景してあるレイクランドのオーキッドガーデンまで足を運ぶことが出来なかったのが少しばかり残念であったが、今回の旅ではこの程度の調査が限界であろうと思った。本日の調査を終了してホテルへ向った。
午後5時40分、マレーシア初日の宿泊ホテルHOLIDAY INN についた。チェクインの手続きをして7時にロビーで会おうと言ってチャーワンと分かれた。
私は556号室へ急いだ。前立腺がゴー・ファーストと言っている。急いでカードキーを差し込んで部屋に入った。其処には脱ぎ捨てられた靴と開いた状態のスーツケースがあった。人の気配はなかった。フロントの手違いだと思ったがそのことは後回しである。バストイレに飛び込んで小便をした。無防備な状態の時にこの部屋の主が来ないことをだけを祈った。私は尿を放出して目的を達成した安堵感で「フー」大きく息をついた。急いで部屋を出てフロントへ行った。フロントで部屋のことを説明しているが中々拉致があかない。「どうしましたか」とネクタイ姿でスーツとアタッシュケースを手にした日本人の商社マンらしき男性が声を掛けて来た。私はトラブルの事情を話した。流暢な英語で交渉して新しい部屋のカードキーを渡してくれた。私が礼を言うと、「この国ではよくあることです」と笑ってロビーに向かって歩いて行った。私は安堵すると共に海外でビジネスをするには彼のレベルで英語を使えるべきだろうと思った。今度の部屋は441号室で、無人の部屋であった。シャワーを浴びて着替えて7時にロビーで待った。
チャーワンは市内の交通に詳しいようである。馴れたタイミングで走路を変更しながら混雑を避けて地下道を通過した。クアラルンプルにこのような距離の長い地下道があるとはガイドブックにも記されていなかった。クアラルンプルの中心地に短時間で着いた。頭上に何かの気配を感じて見上げると、都市モノレールが通過した。ゆっくりと音も無くである。間近にKLタワーとツインタワーが見える。ツインタワーは電飾が素晴しくクアラルンプルの夜のランドマーク的な存在である。
ライトアップされたKLのツインタワー
KELANA JAYA SEAFOOD RESTAURANT に着いた。3兄弟で経営している繁盛した店だ。サイモンが既に待っていた。そして長兄と次兄が私たちを待っていた。長兄の彼女、チャーワン、リー、私と玉城、少し遅れてファンがウイスキーを抱えてやってきた。チャーワンが私を紹介して宴会が始まった。店のオーナーは明らかに私を観察している様子であったが、次第に会話が弾んで打ち解けていった。サイモンがこの店に魚を納めているらしい。イポーでの最高に美味いエビのことやマレーシア料理と沖縄の郷土料理を比較して具体的にその味の違いと美味しさの質を褒めて、毎日が驚きの連続だと話すと笑顔に変わって「チェース」「チェース」と何度もグラスを重ねた。私が遠慮せずににこやかにグラスを何度も彼らの求めに応えることに彼らも満足しているようであった。この日の料理は明らかにゲスト用であった。
① 魚のすり身のレタス包み:ツナフレークとも異なる魚の蒸し肉とネギを炒めて絡めてある。それをスプーンで適量をすくってレタスに包んで醤油タレにつけて食べるのである。実に美味い。韓国の焼肉にも似た手法があるも比較にならぬ旨さだ。チャーワンは私たちのために取り分けてくれた。彼らはゲストにそうすることを誇らしい態度で示す。とても好ましいもてなしの文化である。
②空心菜の炒め物:トロフィに似た器に熱い状態持ってくる。(沖縄のウンチェーに似ていると思い、帰国後にネットで調べるとそうであった。ただし、若干の品種の違いや栽培方法の違いはあるかもしれない)
「美味いね、何という野菜だ」と尋ねると、チーフ・ウエイトレスがポケットからメモ用紙を取り出して書いてくれた。空心菜、一翁才、Kang Kong等と呼ばれていると言った。空心菜とは日本語でも呼ばれているだろうとも言った。
③テレピアのから揚げ:炭火で焼いて肉を引き締めてから味をつけてから油で揚げている。揚げるときにあらかじめ胴の部分の皮を剥いである。そして背びれを上にして座った形で皿に乗っている。ピンクのテレピアである。私の国ではこの魚は一般的に泥臭くてとても料理に向かないのであるが、この店の調理は特別だ。私のテレピアのイメージが変わったと話した。オーナーは満足げな顔でグラスを掲げて「チェース」乾杯を促した。私は喜んでグラスを空けた。
④マレー風ラフテー・サンド:この店のラフテーは香辛料が効いた醤油色をしている。沖縄のラフテーよりもしっかりと油分が抜かれている。皮付きである。1cmの厚みで縦横7×5cm程度だ。これをやや小さめの蒸しパンでサンドイッチにして挟んで食べるのである。蒸しパンは肉饅頭と同じ素材である。台湾でも同じものを食べたがこちらのほうがより洗練されている。私がこのことを話すとオーナーはニヤリとした。満足げな表情である。
⑤エビの刺身:生の車エビの殻を剥き、カキ氷を被せて盛りつけてある。ワサビ醤油につけて食べるのである。プリプリとして美味い。生のエビは腹痛の原因にならぬかと少し不安になって1尾に止めた。しかし平気な顔をして美味そうに食べた。翌日、玉城君に聞くと彼は食べたふりをして残したそうである。
⑥マングローブガサミのカレー煮:ガサミの調理法はどこも似ている。ただしカレーの味が異なる。この店はカレー味を抑えて蟹の美味さを強調してある。このこともオーナーに話すと、彼は私を料理評論家のように感心した表情に変わった。
⑦アヒルの照り焼き:店によって香辛料の使い方が少しずつ異なる。ショウガタレをつけて食べる。この料理の評価をせずに専ら会話を楽しんだ。
⑧コーン:チャーワンがキャメロンで入手したコーンである。茹でて輪切りにして食べた。甘味が格段に優れている。やはりキャメロンの野菜は特別である。
話が弾んだ最後にワサビのサンプルを1箱持ってきた。チューブ入りの錬りワサビが20個ほど入っている。醤油皿にひねり出して私に試食してくれと頼んだ。箸で摘んで味を見るとすごく辛い。日本製よりもはるかにスパイシーで天然ワサビと味が随分と異なる。人口製品の傾向が強くワサビ本来の味ではないと正直に話した。上質なワサビの辛みは舌や喉ではなく鼻にツンとくる風味の辛さだ。少し日本語が少し話せる女性チーフにその風味を基準に判断することだと伝えた。彼女が私の意見をオーナーに話すと、オーナーは何度も頷きながら中国製ワサビの品質が未だ信用できないと判断したようだ。ワサビのサンプルを夕食に参加したメンバーに分け与えた。
私はレストランのオーナーと握手して料理の素晴しさを改めて褒めて夕食会を去った。マレーシアの最後の夜である。チャーワンはマレーシアで最高の6星レベルのエジプトホテルを見てから帰ろうと車を出した。この国では酒気運転はさほどの罪では無いようである。チャーワンは酔うほどではないが酒気運転に間違いないのだ。エジプトホテルの玄関は銅製の大きなライオン、ゾウ、ヤシ、バナナ等の造形物が黄金色に輝いており、黄金伝説の光り輝く宮殿の入り口である。ホテルの前の通りは野外バーとなっており、200m以上も続くネオンサインが特殊な雰囲気を醸し出していた。ホテルの地下部分は表参道とおなじグラドレベルとなっており、ショッピングモールが連続していた。ショッピングモールの入り口はスフインクス、ピラミッドの縮小モデルが電飾でデコレーションされていた。この地で何ゆえエジプト伝説なのかは知らないが、マレーシアの国民の購買意欲を掻き立てるものがあるのであろう。チャーワンは「奥さんを連れて遊びに来いよ。このホテルのマネージャーは俺の友人だから安く泊まることが出来るよ」と言ったが黄金伝説は家内の趣味に合わぬと思った。私は夕食を取りすぎたのでリーと共にエクササイズのつもりで少しばかり体を動かしてから車に乗り込んだ。
ホテルに着いたのが午前0時20分である。まぶたがかなり重くなっているのを感じたが、いつものように靴下と下着の乾き具合を確認してからベッドにもぐった。マレーシアでの最後の夜がしだいに深くなっていった。
5月21日(木)
2時半と4時半に目覚めてトイレに立った。5時40分にシャワーを浴びて目を覚ました。ベランダに出るとゴルフコースは静かに朝を迎えていた。今日はマレーシアを発つ日である。チャーワンとの仕事上の交渉事項をメモ帳に書き記した。4日間の成果を集約して組織間の結束を高める必要がある。輸入契約、植物検査の課題等を整理した。
午前8時、ロビーで玉城が待っていた。1階のレストランは4日前の朝よりも混雑していた。団体旅行客がいるのかもしれない。朝食はバイキングスタイルである。オレンジジュース、パン、チーズ、ウインナー、マメのトマトソース煮、ポテトのクラッシュ揚げ、デザートにパパイヤ、パイン、メロン、コーヒーはウエイターが注いでくれた。
9時にチェックアウトを済ませてチャーワンの車で出発した。リーは来なかった。チャーワンは行政区のランドスケープを見て、農場に寄ってから空港に送ると説明した。
行政区の丘に向かう緑のトンネル
コブラヘッドのコンベンションセンター
臨戦態勢で軍用ジェット機の滑走路に変わる行政区の中央道路
官庁職員の住宅地域
池に掛かるつり橋
建築ラッシュの都心
行政区は新しい都市開発区域である。中心部に議会棟、王府、大統領府、コンベンションセンター、航空関連、法律関連、貿易関連等各種の行政センタービルが立ち並んでいる。都市の周辺部に公務員宿舎であるアパートが林立していた。チャーワンが公務員のことをpublic servant と発音するのを聞いて私は苦笑した。日本では既にgovernment officer殿に変わっており、国家権力の権化と化しているのである。懐かしい言葉を聴いた。
全ての建築物がイスラムの影響を受けた特徴のあるデザインを何処かに取り入れており、一見してマレーシアの近代建築だと理解出来た。広大な行政区は大きな人口の池を配置した公園都市としてのランドスケープがなされている。チャーワンは2兆円の国家予算を投じていると話した。ランドスケープについては友人がマネージメントをしているので詳細を知りたいなら紹介すると言った。この池は石組みの堰と植物による堰がフィルターとなって水の浄化を図るシステムとなっている。広場から直線で2km先にコンベンションセンターが見えた。まるでコブラの顔のようであるとチャーワンが教えた。この道路はフラットになっており非常時には軍用ジェット機の滑走路に転用することが可能な造りとなっているようだ。広場の後ろの丘が王宮であり、コンベンションセンターと対面している。この丘はとぐろを巻いたコブラの尻尾であるとも彼は言った。道路は大きな人造湖を横切る巨大な石橋のような造りである。日本では考えられないゆったりした都市構成である。国土の広さが歴然としている行政都市だ。この国の国家予算はどこから捻出しているのであろうかと気になった。
10時45分、チャーワンの農場へ向った。農場の周りは広い原野であり時折草を食むやせた茶色の牛が群がっていた。途中に山羊小屋を見たが地上2mの高床式の小屋である。山羊は風通しのよい場所を好むようである。沖縄でも最近は高床式が流行っている。チャーワンの農場には一昨日会った黄とセルバンオーキッドのリチャードがいた。黄はリチャードの案内でマレーシアを回っていたようだ。同じ便で台湾に向うと言った。私はチャーワンと植物の取引について話し合った。そして植物検査の厳しさとその被害について資料を示してチャーワンに説明した。しかし彼は専ら彼の空調ハウスについての説明を丁寧にした。私は話に食い違いがあるかも知れぬと思ったが全ての資料を彼に渡した。そして来月の第2週から毎月デンファレの輸入を始めようと伝えた。彼も了解した。MIN-TAI ORCHIDから輸入しているデンファレの単価を那覇着で530円だと隠さずに教えた。しかし彼の輸出価格については問わなかった。
11時45分、農場を発った。リチャード、ウォンが一緒である。途中でマレー式ドライブインに立ち寄った。マレーシア到着の日に来た場所である。ひと棟の長屋風の建物に数軒の店が並んでいる。先日とは別の店に入り、5名で昼食を取った。やはりバイキングスタイルである。
①それぞれにライスの皿、
②白ゴーヤーの炒め物1皿:溶き卵が入っている。
② パイン入り酢の物サラダ1皿:キュウリ。キャベツ、大根
③ チキンのから揚げ2皿:ケンタッキーフライドチキン風味
⑤魚のから揚げ2皿:カレー粉をまぶしてあげてある。
⑥カレールー2皿:普通味と辛味でライスに少し混ぜて食べる
残ったものはプラスチックパックでチャーワンが持ち帰った。
12時30分、KL国際空港の4階出発ロビーの前で車を降りた。長時間の駐車が困難な場所であり、この場でチャーワンと別れた。
「Thank you. I will call you again, get back office. OK」(ありがとう。事務所に戻ったら電話するよ)
「Oh! Yes」(ああ、頼む)
私は明日にも会える友人のような気がして簡単な分かれの挨拶を交わしてターミナルビルに向った。リチャードは何処からか荷物カートを探してきて、黄が買い付けたランをパッキングした段ボール箱を積んだ。そしてカート押して黄と共にチェックインカウンターまで運んだ。荷物がベルトコンベヤーに載せられて輸送荷物として送られたのを確認した後、笑顔で黄と握手してから引きあげた。値の張るラン類の取引であったのだろう。チケットカウンターで搭乗手続きを済ますと、それ以後黄と話すこともなくそれぞれの歩みでエアロトレイン乗り場へと向った。チケットはクアラルンプル-台北及び台北-那覇の2枚を貰っていた。この時点で私は旅の工程のほとんどを終了した気がした。台湾でSandy Wu女史と陳先生に会う予定であったが本来の目的ではなくトランジットの為の余分な日程である。
出国審査官に入国カードの半券を渡すのを忘れて何やら文句を言われたが、私にとってマレー語は宇宙人の言葉と変らぬ意味不明の雑音である。急いでパスポートカバーの中に潜んでいた半券を渡すとぶっきらぼうに行けという仕草をした。丁寧にサンキューと言ってゲートを通過した。マレーシアからの出国では、毎回のように何らかの軽いトラブルを引き起こしている。帰国のせいで気持ちが緩んでいるのかも知れない。空港内では時間つぶしにコーヒーショップに入った。チョコレートケーキを一個注文したのであるが、すごく大きな1片が現れてびっくりした。店員はちびのマレー女性である。彼女たちの胃袋が要求する一切れとはこのように大きいのであろうかと不思議に思った。
2時20分、CI-722は離陸した。ヤシ林が眼下に見えたが直ぐに消えて行った。しばらくして機内食が出た。来たときの便と異なる魚料理を選択した。
①メインの弁当は揚げた白身魚のピリ辛トマト煮、ご飯、茹でたインゲンマメが3等分に入っている。
②サラダ:りんご、きゅうり、トマトの角切りマヨネーズ和え
③もち米プリン風:ココナッツミルクで味付け
④パン、バター
⑩ デザート:パパイヤ、スイカ
午後7時、桃園国際空港にランディングした。入国審査を受けて到着ロビーに出るとSandy Wu 女史が待っていた。久しぶりの出会いである。背の低い女性で独身である。ピンク色の爽やかな感じのスーツを着用していた。陳先生の三男のリチャードは不在であった。彼女は車を回しましょうか言ったが、共に歩いて駐車場まで行った。車中で日本や台湾の景気状況や沖縄の観光客の推移について話した。彼女は台北大学の英文科卒業だけあって流暢でしかも綺麗な発音で話した。チャーワンのぶっきらぼうな英語とは雲泥の差である。いわゆる正統派の英語である。私もマレー英語の訛りが自然と影を潜めて丁寧に話した。
彼女は桃園市の日本食レストランに招待した。客はほとんどいなかった。以前、この辺りは桃の産地であり、それ故に桃園の地域名が付いたと説明した。彼女は食べきれないくらいの料理を出した。
①刺身:ガーラ、マグロ
②オオタニワタリの新芽の炒め物
③イモの新芽炒め
④キンメダイ蒸物
⑤竹の子のマヨネーズかけ
⑥豆腐の角煮
⑦客家料理風のスープ:この地域の原住民の薬膳スープ
⑧ご飯
なんだか知らぬがたくさんの料理が出てきた。どのように注文したか分からないが恐縮した。
午後9時45分、レストランを後にした。途中で尿意を感じたので給油所で用を足した。女性の運転する車で小用を依頼するのはとても気が引けた。この旅で前立腺のトラブルが心配になった。
午後10時30分、ゴールデン・チャイナ・ホテルにチェックインした。英語での会話に慣れてしまい。フロントで日本語を話せるかと確認した後にも受付嬢に英語で話している自分に苦笑した。ひどく疲れを感じていた。Sandy Wuへのお礼の挨拶を済ますとベルボーイに引率されて部屋に向った。彼女への土産を持参しなかったことを少し後悔した。気配りの足りないところである。この1年間旅をしなかったことに起因するかもしれないと思った。部屋に入ると直ぐにドアロックを確認してベッドにもぐった。旅の疲れがどっと噴出して一瞬で眠りに落ちた。
5月22日(金)
午前1時、2時、4時と目覚めて台湾モードにした自分の携帯電話の時計を見る。携帯電話がX検査で故障したのだろうかと思った。結局、午前6時に起きてシャワーを浴びる。窓の外を見ると台北市特有の町並みが階下に広がっていた。
朝の台北の街並み
ふと上司の内原専務へのお土産を何にしようかと考えた。先日、出張みやげとして金飾りのついた手相占い師が使いそうな虫眼鏡を貰った手前、何か気の効いたものを求めねばなるまいと考えた。社員、家族へのお土産はいつもチョコレートのセットで済ませることにしている。唯一、妻への水彩画のお土産のみである。旅の終わりはお土産で悩むのが常である。
午前7時45分、陳先生から電話があり、9時に迎えに来るとのことである。玉城を誘って2階のレストランへ朝食をとりに行った。バイキングスタイルである。
①平パン、クロワッサン
②ハム、ソーセージ
③スクランブルエッグ
④パクチョイ
⑤魚フライ(小片)
⑪ 揚げ豆腐の煮込み
⑫ デザートのミカン、グァバ、メロン、スイカ
⑧ジュース、コーヒー
日本人、中国人、欧米人の客である。さすがにマレー系は見当たらない。
午前9時、チェックアウトをしていると陳先生がやって来た。いつものようにお茶をお土産に貰った。3男のリチャードが車を運転していた。陳先生の前ではいつも無口な男である。英語を話すのを見たことがないが、EPOCのアジア蘭会議で世話役を引き受けていたので話せるだろう。花市場と果物市場を見学した。先生は台南から昨夜帰ってきたと話した。私と同じ大学の花城先輩の奥さんの妹を案内したとのことだ。北海道でランを取り扱う仕事をしているおり、ミンタイを通してコチョウランを輸入しているようだ。先生もお疲れ気味であるようだ。台北の卸売業者の市場を覗いてみた。台北市民に供給する花と野菜果物を扱う市場が道を隔てて建っていた。市場の活気はどの国も一緒で気持ちがいい。陳先生が果物市場で初物のレイシを買ってきた。4人で道路わきの木陰のベンチに腰掛けて食べた。玉華宝という品種で種が小さく甘味が強い品種である。台南辺りから運ばれてきているらしい。台北周辺では未だ熟に至っておらず高値である。二十日もすれば暴落するだろうと先生は笑った。先生の笑いには品がある。マレーシアのリーとは両極端にある。果物のエリアには台湾国内を初め、南のニュージーランド産のキューイーフルーツ、北の日本の静岡メロン、東の米国産チェリーまで並んでいる。市場を出て昼食に向った。
市場の花卉コーナー
青果市場
高速道路から見た丸山大飯店
高速道路から見える朱塗りのホテルが古くて由緒ある台北丸山大飯店である。このホテルの建設には台湾の初代大統領夫人将美麗が尽力したようである。それ故、彼女の有名な外交手腕の中でこのホテルが何度となく利用されている。先生はゲストをこのホテルのレストランに招待することが常である。未だ午前11時15分であった。上海料理で有名なレストランである。他に客は見当たらず我々がこの日の最初の客のようである。
①キュウリの塩もみ:5cm程の長さに縦割りに切ったキュウリを塩もみしてニンニクの香りを付けた上品な味だ。
②ショウロンポー:汁の入ったシュウマイで汁が熱い。中華さじですくって食べる。
③蒸しシュウマイ:上品な味の海老が美味い。マレーシアと異なる調理である。
④春巻き:
⑤餅と竹の子とシイタケの炒め物:直径2cmの円筒のもちを斜め輪切りにしてシイタケと竹の子を加えて中華炒めにしてある。
⑥ゴマ入りお汁粉:もちは入っていない。ゴマ風味が変わっている。
⑩ 甘菓子:蒋介石の奥さん将美麗が好きであったという有名なカルカン風味の菓子だ。小豆入り菓子の中にあんこが入っている。この店だけの定番メニューだ。以前にもこのレストランで陳先生から御馳走になった。
12時20分、ホテルのレストランを立って空港に向った。45分程でターミナル1に着いた。チェックインの2時まで時間があるので中2階のバーガーキングでコーヒーを飲んで雑談した。先生は「来週の水曜日の便でアメリカに住む弟夫婦と従姉夫婦の6名で来沖する計画です」と言った。「迎えの車を出しますので旅行の詳細をFAXでお知らせください」80歳を超えた先生の足取りは少しばかり勢いを失いつつあるが元気な方である。残ったレイシをカバンの隙間に詰めた。違法と知りつつ国内に持ち込む作業をレストランのテーブルの上で行った。
午後2時チェックインカウンターの案内係に搭乗券を見せてボーディングデッキと座席ナンバーを記入してもらった。手荷物検査場入り口で先生に別れを告げた。

台北市の遠景、右端は台北101タワー
手荷物検査でホテルから持ってきた飲用水のペットボトルを捨てた。出国検査もスムーズに抜けて登機場へと歩いた。途中の免税店で内原専務への金粉入り高粱酒のグラスつきセットを買った。何やら祝いようの箱であり彼の72歳のお祝いの意味を込めて買ったのである。二人の事務員には七宝焼きの宝石入れを買った。自宅と社員向けにチョコレートのパックを5箱買った。これにて全ての帰り支度が整った。登機場にて搭乗時間を待っていると思いがけぬ人に会った。名護市内で園芸店を営む普天間夫妻である。タイの植物市場を見ての帰りといった。台北まで来ると知り合いに会うことも珍しくない。帰りの足があるかを問うと車を那覇空港の駐車場に置いてあると言った。もしなければ帰りの足を提供しようと思ったがその必要はなかった。このところ彼の店は事業が低迷しており、我社との取引は途絶えていた。組織が大きくなると小規模の園芸店との取引が少なくなるのは致し方ないことであり、ビジネスとしての弾む会話も失いつつあった。
午後4時10分、予定通りに離陸した。この後那覇空港を出るまで普天間夫妻と顔を合わすこともなかった。
午後6時15分(日本時間)、那覇空港国際線ターミナルにランディングした。新型インフルエンザの影響で入国審査が随分と遅れた。税関検査で仕事ですかと係員に訊かれた。いつも同じように訊かれる。私の旅姿は観光客には見えないようである。一人旅の雰囲気が身に付いているのかも知れない。
出迎えロビーで那覇空港ビル展示業務班の仲地茂君と比嘉伸也君が待っていた。私は土産袋からチョコレートの箱を取り出して「空港班への土産だ」と言って仲地君に渡した。伸也君が自宅まで送ってくれるようである。私はレンタルの携帯電話の返却処理をして車に乗り込んだ。全ての日程が終了した。伸也君に「旅は何事もなく安全であった。君が僕たちを自宅まで安全に運んでくれるなら完璧に旅を終了する事ができる。よろしく頼む」と冗談で言うと笑いながら「ハイ」と返事した。車がゆっくりとターミナルビルを離れた。乗り馴れた私の業務車両の排気音を聞きながら旅が終了したことを感じた。
エピローグ
旅は多少の後遺症を残すのが常である。東南アジアの旅は、4日以上滞在すると帰宅してから下痢気味の症状が起こる。私の内臓は強いと自負しているが今回も少しばかり下腹部に違和感があり排便が緩んでいる。現地では快便であったが帰国後に生じるのはどうしてだろうと思う。沖縄の食事に慣れないせいだろうか。玉城は何事も無いようである。病院に行くほどのことでもないが不快感が消えるまで3日ほどを要する。妻は私の汚れた衣類が、出張前と違ったいやな体臭が染みついていると言った。海外出張の度毎に言われる言葉だ。確かに日本では使わない香辛料を使った料理を食べ続けたのだから。私の電子辞書は単語の音声表示が止まってしまった。X線検査の影響かもしれない。さらに旅から帰ると仕事のペースが極端に低下するのも確かである。いわゆる旅ボケというものであろうか。そして、2週間もすると次のたびを夢見ることが始まるのである。次はチャーワンが誘ったインドネシアのスラバヤを訪ねてみたいとか、もう一度マラッカの古い町並みを歩いてみたい等とである。そしてもっと英語力を身につけねばと反省するのが常だ。一ヶ月はそうして旅の思いに浸ることが出来るのである。良い旅をした者には、幸せな記憶をリピートする特権が与えられても良いだろう。それだから旅は止められない。尤も、人生そのものが旅路であると言えなくもない。
陳先生は予定通りに2泊3日で来沖した。1泊目を私が名護市内のホテルに予約を取り、2泊目は先生自ら那覇市内のホテルに予約と取ってあった。初日は自社の農場や海洋博公園、水族館を案内した。2日目は首里城の見学を専務が案内した。陳先生と弟は首里城には行かずに那覇市内のパチンコ店に居座ったとのことだ。80代のパチンコ好きな兄弟である。先生はパチンコの為の馴染みのホテルがあるのだ。真意は知らないが、先生によると台湾のパチンコ店はヤクザが絡んでおり十分に楽しめないらしい。私はギャンブルを好まないのでパチンコ好きな社員を先生のお供に付けることにしている。
1週間後に台北の秦から電話があった。マレーシアのジョホール蘭展示会への誘いである。私がマレーシアの旅のトランジットで台北に立ち寄ったことを知ったらしい。彼に電話しなかったことを詰られた。8月4日のジョホール蘭展示会の後でボルネオのサラワク州クチンに行く計画である。私はつい弾みで「OK、スケジュールを教えてくれ」と返事してしまった。今度の旅の思い出が記憶の揺篭に乗せられる前に次の旅を夢見ることになった。
「完」
ソウル
「ソウル」

「芙蓉亭」:ユネスコ文化遺産に指定されている昌徳宮の池の畔にある施設。芙蓉亭とは貴賓室の意味があり、来賓をもてなす施設である。韓国の国の花は木槿(ムクゲ)だ。何故、木槿亭と名付けなかったか不明だが、木槿と芙蓉(フヨウ)の花はとても良く似ており見分けがつきにくい。芙蓉の花が華やかな品種が多いだろう。
プロローグ
ソウルは大韓民国(韓国)の首都である。テレビニュースで見る韓国の人々の反日感情を見ていると、熱しやすいソウル(魂)をもつ人々だと納得した。ところがある時、英語の表記を見て、韓国の首都はSeoulで、魂はSoulである。首都をすごい名称にした民族だと感心した感情が少し萎んでしまった。「徐羅伐」という外来語の日本語表記方法に起因するだけのことである。我々沖縄県に暮らす人間にとって、日本の隣国であるにも関わらず馴染みの薄い国だ。本州から南に遠く離れた台湾に近い離島県であり、東京、大阪、福岡に比べると、身近に韓国籍の人を見ることは極端に少ない。米国人は広大な米軍基地があるゆえにごく普通に巷にあふれている。中華系の人々は台湾に近いことや、琉球王府時代の文化交流から今日でも生活の風習に中国文化の痕跡が残っており、違和感はほとんど無いだろう。一方、韓国の人々やハングル文字の看板を巷で見ることはほとんど無い。韓国の人々は近年における観光客としての存在くらいだ。それ故、テレビで伝えられる韓国と日本の対立は沖縄の人々にとって心情的に理解の範囲を超えている。歴史的な事実として豊臣秀吉の朝鮮出兵、第二次世界大戦時の侵略戦争による理不尽な行為があったことは知られている。それでも身近に韓国の人々が暮らしていなければ、その被害を身近な出来事として理解することは出来ない。戦中戦後も沖縄に韓国の人々が暮らしたとの話題を祖父母や父母の口から聞いたことは無かった。沖縄に暮らす人々にとって、日本国民から与えられた韓国人の辛苦は解るはずもない。ユダヤ人のホロコーストのレベルの遠い世界の歴史にしか思えないだろう。只、戦争が厳しくなった頃に招集された沖縄の民間人、いわゆる若年者・初老の日本軍従事者は、奴隷並みの扱いを受けている朝鮮人従軍労働者や慰安婦の姿を見た人もあったようだ。日本軍の管理下にあった従軍朝鮮人と沖縄県民との接触は禁じられていたようだ。父母が受けた戦前の皇民教育では朝鮮人、志那人は3等国民と呼ばれていたらしい。もっとも日本軍は沖縄県民(琉球人)を純日本国民より下位の2等国民として扱ったらしく、自らの身の保全に腐心した県民にとって朝鮮人従軍者のことなど意識の外であったのだろう。琉球王府時代の唐(中国)の世、廃藩置県後の日本の世、敗戦後の米国支配の世、日本復帰後の日本の世、過去150年の歴史で4度の社会システムの変遷があった沖縄である。日本と韓国の間に政治的な軋轢があった時代は、沖縄県民にとって米軍基地のフェンスの内側ほども関心が無かった。現在の日本と韓国の関係は、政治的な対立は解決の方向が見えないが、経済的には深く絡み合っているようだ。しかし沖縄の人々にとっては、テレビニュースで知るだけの日常生活に関わらない海外の世界に過ぎない存在である。私にとってもオーストラリア旅行の際にトランジットで立ち寄り、時間つぶしに4時間の市内観光をしただけの存在でしかなかった。只、大韓航空機は運賃が安い分だけ、シドニーに到着するまで狭い座席で8時間の苦痛を強いられた記憶は残っていた。今回の旅で韓国の生の姿を見たいと思って参加したのである。
旅の始まり
私は仕事がらみの付き合いで「旅行友の会」なるものに加入していた。毎月幾らかの積立金を口座引き落としで納めていたが、見知らぬ会員と旅行する目的ではなく、単なるヘソクリのつもりであった。私を旅行友の会に誘った幹事から旅行の誘いがあったのが八月の上旬である。何やら団体旅行に必要な頭数が足りないとのことである。「週末の3日間だから穴埋めに協力してくれ、アンタなら海外旅行に慣れているし国内旅行と変わらないだろう」と口説かれた。
日程を尋ねると9月下旬とのことだ。タイ出張の1カ月後なら海外旅行のほとぼりも冷めているだろうし、週末の3日間なら妻の不平もかわせるだろうと思った。それに、9年間の積み立て金もそれなりに貯まっていたのである。電話で参加可能との返事をした2日後に、九月の末頃に金・土・日の2泊3日でソウルに行くとのFAXが事務所に届いた。参加者や詳細な旅行スケジュールは出発の1週間前に届けるとの内容であった。
8月23日にタイより帰国後、農業法人設立に関する法務局との事務調整、コチョウランの開花処理設備を導入するため、大型空調機メーカーのダイキン工業との打ち合わせ、個人的には一級小型船舶免許の取得認定講習などに忙殺される日々が続いた。9月22日に沖縄ツーリストから郵便物が届いた。開封してみると「満喫ソウル三日間」と表題のついた旅行パンフレットと日程表、参加メンバーに関する書類が入っていた。パンフレットを読んでいると韓国旅行が現実味を帯びてきた。
さて、韓国そしてその首都ソウルとは如何なる所であろうか。韓国に対する私の印象は、熱し易く素朴で強烈な反日感情を持つ国民。南北分断の国。以前、日本が植民地として搾取した国。現在は日本にライバル意識を強く持つ国。キムチ料理発祥の地。12年程前にオーストラリア出張の際、乗り継ぎの合間に四時間ほど市内観光をしたが、豊かな国という印象は残っていない。私の中に好意的なイメージが湧いてこない国でもある。それでも出発の3日前までにはインターネットで日程表に載っている見学地や料理などを調べた。さらに千円のソウルガイドブックを書店で求めて雑学を増やすなどと旅行の基本準備を整えた。
9月30日(金)
一昨日の晩に造園業者会の懇親会で痛飲したことから、昨夜は体調回復のために午後九時に床についたのだが、午前3時頃から眠りが浅くなった。仕方なく午前五時にベットを抜け出しシャワーを浴びて朝刊を読んだ。スポーツ欄では日本女子オープンゴルフで宮里美香が3アンダーのトップタイと大きく報じられていた。お茶漬けでも食べようと炊飯器を覗くと空である。食器棚の横のワゴンの上のカゴを覗くと日清のチキンラーメンが一個だけ残っていた。卵を一個落としてポットジャーのお湯を注ぎ、五分間待つと出来上がりである。ネギを加えると完璧だが冷蔵庫のどこにも見あたらなかった。具の無いわびしいラーメンは貧乏学生の頃に食べた懐かしい味がした。
午前6時30分、音を立てずに玄関を開けて門前で軽くストレッチをした。妻と末娘は未だ床の中だが起こす必要もない。二泊三日の旅の荷物はショルダーバッグ一つで十分である。ほどなく社員の玉城君がコンテナ車で迎えにきた。我が社は那覇空港の植物展示業務を請負っているので、毎日展示用の植物をコンテナ車で運んでいるのだ。通常の運行時間より1時間30分ほど早いのだが空港までの移動を引き受けてくれた。私は車中で先日届いた旅行者名簿に目を通した。11名の参加者で知らない顔ぶれは3名ほどであった。その他の7名は概ね面識のある人達である。
7時40分に那覇空港国際線ターミナルに到着した。指定の集合時間より25分遅れである。沖縄ツーリストの女性職員から航空チケットを受け取り、世話役の旅行友の幹事から小遣いの55,000円を受け取った。今回の旅費として旅行友の会の私の積立金より15万円が引き出され、旅行社へ76,800円、旅行障害保険が4,000円、空港税が4,900円、供託金(共通の酒代)が9,300円、残り55,000円が小遣いとなっていた。その場で渡された部屋割り表では、私と同じ造園業界の友人松田氏(通称:松チャン)が相部屋であった。空港内のレストランで松チャンとコーヒーを飲んでいると、沖縄ツーリストの女性職員がやって来て搭乗手続きを促した。彼女の仕事はここまでである。韓国の空国には現地添乗員が待っているとのことだ。
午前8時20分、搭乗手続きの列に並んだ。世界的なテロ対策の影響でエックス線チェックは厳しくなっていた。先月の出国時よりかなり厳しく混雑の原因となっていた。ズボンのベルトまで外すのである。松チャンは女性の係員に「ベルトを外すとズボンがずり落ちるのだがどうしましょう」とからかっていた。結局、ショルダーバッグ、時計、財布、携帯電話、デジタルカメラ、ベルトをトレイに置いて金属探知機を通過した。搭乗待合室で待機している間に、娘たちにメールを入れた。「韓国に行く」と短い文面だけだ。「今月もネー」と反発した返事だ。
9時15分、チケットゲートを通過して飛行機に向った。その頃の那覇国際空港はボウディングブリッジがなく、バスで飛行機の前まで行ってタラップを上るのだった。建物から百メートルも離れていないのでバスで移動する距離でもないのだが。なんとも田舎の空港の感は否めない。7年後には新空港に変わると聞いていた。座席番号は24-Aで後方の席である。室内の装飾から判断すると新しい飛行機ではないだ。直ぐに飛行機が動き出した。機体後方の外側からグォー、グォーと数回、ワイヤーのこすれる音がした。松チャンが「アィヤー、ちゃんと飛んでくれるかネー」言った。さらに一度不可解な音を立てて飛行機は加速を始めた。そしてガタン、ガタン胴体を揺さぶると僕らを収めた金属性の箱は沖縄の大地を蹴って舞い上がった。
しばらくしてスチュワーデスが食事を配り始めた。彼女たちのユニフォームは薄いグレーの上下に赤いストライプのあるネッカチーフが印象的である。品のある装いで落ち着いた雰囲気の美形で大柄な女性たちだ。食器のふたをとると幕の内弁当である。白米にゴマをまぶした伝統的なスタイルだ。キムチ弁当を期待したが機内は未だ韓国ではないようだ。軽い仮眠をしばらくとった後、午前11時30分、何事もなく韓国の仁川国際空港にランディングした。ペンキの臭いがかすかに残る新しい空港だ。日韓ワールドカップ・サッカーに間に合わせて2001年に開港したと聞いている。イミグレーションを通過して出迎えの人々の待つ境界柵に向かった。プラカードを持つ人々がいて山田電機様御一行、近畿ツーリスト様などと書かれている。沖縄ツーリスト様と書かれたプラカードを見つけて合図を送った。20代後半の中肉中背の可愛い女性がにこやかに話しかけてきた。待合室のイスに腰掛けて彼女の説明を聞いた。仁川国際空港は永宗島に建設されており京仁高速道路を通ってソウル市内まで旅行社のバスで約70分・50kmの距離という。沖縄から来た中年女性の四人組が相乗りするらしい。
外に出るとあいにくの雨である。バス乗り場には25名乗りの黄色いバスが待っていた。ソウルまでの車中で彼女は旅行スケジュールの説明をした。ガイド嬢の名前は亭志蓮・チョンさんである。日本の京都の大学に1年間程留学した経験のある30歳の独身女性である。現地の日興旅行社に勤めて5年目で、沖縄からの客が8割以上を占めているという。日本語が上手くてよく笑う楽しいガイドである。化粧を控え見えにしてあるが中々の美人である。社員旅行で沖縄を訪れたことがあると話していた。しかし、彼女に取り付く男はかなりの勇気がいるだろう。笑顔と会話の結び目に緩みを見せない女は世の東西を問わずいるようだ。自立した女性の持つプライドが彼女を凛とさせているのだ。バスは空港のある永宗島と本国を結ぶ海中道路を走っているようだが窓の外は雨で景色はさっぱり見えない。この海は干満の差が5mほどあるらしい。干潮時には赤い海草が辺り一面に浮き出てきて不思議な景観を形成するという。彼女は曇りガラスで閉ざされた車中に退屈した我々に韓国の成り立ちを話した。
昔、この国には虎と熊がいて人間になりたいと願っていた。神様にこのことを話すと神様は2頭に告げた。これから100日間洞穴にこもってヨモギの葉を食べて過ごしなさい。さすれば人間に生まれ変わるであろう。2頭はお告げに従い洞穴にこもったが、虎はヨモギの葉が嫌いで100日を待たずに逃げ出してしまった。熊はやがて美しい乙女に変身して洞窟から出てきて神様と夫婦になり子供を授かった。その子孫が今日の韓国の人々であると言う。何やら日本の地方のどこかにありそうな昔話である。しかし突き詰めれば儒教の教えは韓国を経由して日本の武家社会に浸透したのだ。思想信条の原点である昔話に類似点があっても不思議ではない。
マンドウ
最初のキムチ
バスはいつの間にかソウル市内に入り仁寺洞(インサドン)の街角に停車した。気晴らしと軽い運動を兼ねての自由散策をするのだ。バスに備え付けの安物の傘を手に40分の散策に出かけた。この町は王宮に仕える人々の居住区として発達したという。通りのたたずまいは落ち着いており、骨董品店、書道用品を扱う専門店、おかしなお面を店頭に飾った土産店、洒落た喫茶店があり、通りの少し奥に入ると民家を改装したような専門料理店が軒を連ねている。どこからともなく漂ってくる食べ物の臭いを嗅ぐと空腹を感じた。時計を見ると午後2時である。軽い機内食のため少し腹が空いている。相合傘で歩いていた6名でレストランに入った。1階が混雑していて2階に案内された。メニューの写真はどれも美味しそうである。夕食が五時と聞いていたので一人前の料理は遠慮して6個入りのマンドウ(餃子)を2皿とビール4本を注文した。テーブルにはキムチの入った容器が置いてあり、好きなだけ食べてよいようだ。マンドゥは丸い形の蒸し餃子で、日本のそれの2個分はある。挽肉、豆腐、ネギの入ったあっさりした味で酢醤油を付けて食べるのだ。キムチの付け合わせと相性がよい。マンドゥをさらに1皿とビール2本を追加した。初めての韓国料理だが胃袋に良く馴染んだ。おやつとしては十分である。後で知ったのだがこの店は有名なマンドゥのチェーン店という。店の一階が混雑していたのもうなずける。雨の中を再びバスに戻った。強い雨脚ではないが止む気配のない雨である。
その次にバスが止まったのはナムサンゴルハノクマウル(南山谷韓屋村)である。王朝時代の貴族階級や豪族の邸宅を復元したテーマパークである。オンドルという床下暖房設備があり、零下20度にもなるこの地域の冬の厳しさが理解できた。戸主の生活する建物と嫁、舅、娘の部屋は別棟となっており男尊女卑の儒教の教えが如実に現れた建築様式である。もっとも、一般庶民の家屋にはこれほどの格式はなかったであろう。雨は相変わらず降り続いている。園内は花崗岩の風化した砂を敷きつめて転圧してあるので足元が泥で汚れることはない。
韓国風タイ焼き
バスに戻ると誰かが韓国風たい焼き(プンオッパン)を近くの屋台から買ってきたらしく袋ごと配っていた。製法が日本と異なり油で揚げてある。パリッとした食感で中に餡が少し入っている。魚の形のほかに蟹の形もある。谷韓屋村の門前には幾つかの屋台があり、焼き栗、菓子、綿あめ、おでん、蚕のサナギ煮などが売られていた。蚕のサナギは醤油で煮てあり、鍋から150ccほどの紙コップに取り分け爪楊枝を添えて売っている。イナゴの佃煮の感覚であろうか。私にとっていささか抵抗のある食べ物である。
夕食の5時まで少し間があり2カ所の免税店を訪ねた。1ヵ所は東和免税店という高級舶来品のデパートである。一方は紫水晶のトパーズ、革製品、国産土産の専門店である。韓国は冬の寒さが厳しいので革製のジャンパーは安くて良質とのことだ。滑らかな手触り黒い革ジャンは、網走番外地の高倉健さんなら似合うだろうが、沖縄の短い冬に着ける機会も無いだろうと思った。この手の店に男共は興味を示さないがメンバーの女性二人は熱心である。とりわけ、那覇市内で居酒屋を営むロコさん(ひろ子)は、今度の旅行に中型のスーツケースを持ってくるほどの買い物好きのようだ。当然のことながら最後にバスに乗り込むのはロコさんと添乗員である。私はお土産として一箱750円の韓国産海苔を4箱買った。韓国は良質の海苔を生産することで有名である。
プルコギ
プルコギの付け合わせキムチ
木の小鍋
夕食のレストランに着いたのが午後5時であった。雨のためか辺りは既に薄暗くなっていた。夕食はプルコギ(韓国風すき焼き)である。ヤンニョム(独特のたれ)に漬け込んだ牛肉を平たい鉄鍋で焼くのだ。刻んだ玉ねぎと長ネギが入っている。焼けたころあいを見て野菜に包んで食べるのだ。肉の上にコチュジャンを少し乗せると味が引き立つ。テーブルには幾つかの付け合わせがあり、お代わり自由である。肉を包む葉野菜、定番のペチュキムチ(白菜)、豆腐にキムチのたれをのせた一品、もやしの炒め物(キムチ味)、細切り昆布の炒め物、コチュジャン、細長く切った大根の甘酢漬け、生にんにくのスライスである。鍋の肉が半分に減った頃、スライスしたキノコを一皿注文して肉汁と共に煮た。キノコの名前は知らないがとても美味しかった。ご飯はステンレス製の蓋付の椀に入っている。金属製のため熱くて容器を持つことは出来ない。この国では日本のように左手に椀を持って食事をする習慣はないという。この店はニラチジミが美味しいと紹介されたので、2皿を追加注文して試してみた。細かく切ったニラがたっぷりと入った沖縄のヒラ焼チーである。コチュジャンを塗って食べると美味い。おやつに良い食べ物である。汗をかき、地元産のOBビールを飲み、騒ぎなら夕食に舌鼓を打つことで必然的に旅の連帯感が養われた。追加の料金を払ってレストランを出たのが午後6時30分であった。
《ソウルの夜-1》
ソウルの夜の楽しい過ごし方が幾つかある。昼間の疲れをとるマッサージ・エステ、ホテルのディナーシショー、地下酒場のステージショー、カラオケハウスなどが主流である。日本で流行の居酒屋のように、夕食を兼ねて食べて飲んで談笑する場所は少ないようだ。文化の違いであろうか。
さて、この夜のスケジュールはロコさんがエステ、残りの一〇名がウォーカーヒルショーへ向った。ソウルのエステはかなり本格的である。もちろん男子より女子のコースが多彩だという。料金は8,000円程度の基本料金に、追加料金で各種のオプションを選択することできる。基本コースは緑茶風呂、人参風呂、泥風呂、サウナ、あかすり&全身オイルマッサージ、顔パックとなっており、オプションで特殊マッサージ、特殊顔パック、カッピング、アートメイク、ネイルアートなど多種である。
ウォーカーヒルの韓国民族ショー
アストリア・ホテルにチェックインして荷物を解き、午後7時30分にロビーに集合した。ショーが公演される米国資本のシェラトン・ウォーカーヒル・ホテルまでは約30分、タクシーで14,500ウォン(1,450円)の距離である。我々は交通費とショーの代金として8,500円を添乗員に納めた。ホテルはソウル市内が一望できる丘の上にあり、雨でなければ美しい夜景が見えたはずである。このホテルは朝鮮動乱が終結した頃、米軍将校の保養と社交場として建設された経緯がある。
ショーはホテルの地下一階、座席数720席のKAYAGUM HALLで毎日2回、年中無休の公演がおこなわれている。ショーの見学料金はワイン一杯とショー観賞が6千円、コースディナーとショー観賞が8,500円、特別コースディナーとショー観賞が9,900円となっている。料金が高いほど食事の質が良く観賞に適した座席である。我々はワインコースで舞台に向って右端の二列目に座った。
さてショーの内容は2部構成となっていて、最初が韓国伝統民族公演で後半がラスベガスショースタイルのミュージカルレビューショーである。ショーは8時45分に始まり10時25分に終了した。伝統民族公演の題名は「LOVE OF BEAUTY」(美しき愛)内容は韓国のおとぎ話を現代風に演出したもので、男女が出会い愛し合うまでを民族舞踊で表現している。見所は艶やかで美しいチマチョゴリ(民族衣装)着たお姉さんたちの優雅な扇の舞、床の上を滑るように踊る躍動感あふれる団体舞踏、民族楽器の競演など初めて見る韓国伝統芸能の公演である。朝鮮の民族衣装が質素で素朴あるという私の概念を改めさせた公演であった。
第二部は外国人ショー「オデッセイ」である。制作費50億ウオン、キャスト33名、スタッフ70名が参加する大規模なショーである。翌年の6月まで公演する予定らしい。物語は大航海時代に英国の帆船オデッセイ号の乗組員がモロッコ、スペイン、ローマ、アフリカと幻想的な旅をするのだ。各国の特色あるダンス、女性ダンサーの艶やかな衣装、大仕掛けのステージ、ミュージカルダンサーのアクロバティックな競演、スタイル抜群の女性ダンサーによるトップレスダンスは男性客にはたまらないであろう。私はハンズフリーのマイクでバックコーラスを従えて、歌って踊る女性ボーカリストの伸びやかで豊かな声量に圧倒された。ショーの合間には中国・南京芸団の中国コマの演技、客席の頭上で披露されるスリル満点のロシア人男女ペアによる空中ブランコのアクロバットショーが演じられた。8,500円の経費に充分な観賞料金であった。
このホテルには「パラダイスウォーカーヒル」という外国人専用のカジノがある。当然のことだが入場するには身分証明書(パスポート)が必要である。我々は旅行社が準備した入場カードを貰って中に入った。入り口には日本語のゲームガイドパンフレットがあり、案内デスクでは日本語の説明もしてくれるので簡単に遊べるシステムとなっている。日本人のカモが金のネギを背負ってやって来るというシステムでもある。500坪はあろうかと思う広いフロアでゲームに興じるのは日本人観光客がほとんどである。壁にはスロットマシンがずらっと並んでいる。直径2mのビッグホィール、サイコロゲームのダイダイ、カラカラと乾いた音を立てて回転するルーレット、トランプゲームのバカラ、ブラックジャック、ポーカー(カリビアン・スタッド)。ディラーは白の長袖ワイシャツに金の刺繍が施されたベストをきちんと着こなしている。シャープな目つきの美女ディラーもいてゲームに熱中した各テーブルを見て回るだけでも楽しい。ただ、フロアには腰に小型の拳銃を装着した警備員が巡回しており、普通の遊技場とは明らかに雰囲気が異なっている。たしかに客の中には血走った目つきでブラックジャックに興じる日本人客も見られた。私はこの手のゲームが不得手で雰囲気を味わうだけにしたが、メンバーの中にはスロットマシンに興じて10万ウオンを勝ち取った強者もいたようだ。カジノで40分ほど時間を潰した我々は小雨の中をタクシーに分乗してホテルに戻った。タクシー代金は添乗員が今夜のショー代金の中から返してくれた。
ホテルの部屋で缶ビールを2本空けて、デジタルカメラと携帯電話の充電を完了して眠りに落ちたのが午前0時であった。
10月1日(土)
午前8時、一階のレストランで朝食を取った。食事は洋食と韓国風があり、私は必然的に現地の習慣に従って韓国風朝食を選んだ。メニューはご飯にキムチ入り味噌汁。揚秋刀魚の半分、白菜のキムチ、インゲン豆とニンニクのキムチ、海苔、シラウオのキムチ風味佃煮、キムチ風味の薄蒲鉾、薄切り大根の酢漬けキムチ風味など朝から韓国キムチ風味のオンパレードである。食事のたびに汗をかくことになるのだ。ご飯一椀でキムチのおかずを完全に食べきれるものではない。たいていの人が一番辛い白菜のキムチを残していた。
昌徳宮の正門
広い石張りの中庭の持つ儀式殿
美しい彩色の天井
朝から雨である。午後には上がるという予報だが、安物の傘をホテル近くの雑貨店で求めた。最初に訪ねたのがユネスコの世界文化遺産に登録されている昌徳宮である。1,405年、第3代王太宗の離宮として約6万坪の敷地に幾つもの建造物が建立されている。入場料は3,000ウオンで日本語、英語、韓国語等の専属ガイド嬢が団体客を引き連れて公園内を案内する。個人の自由閲覧を禁じている。日本語は午前中3回、午後2回の一日5回である。ガイド嬢は流暢な日本語で時々ユーモアを混ぜて丁寧に説明しているのだが、笑いのネタが古く笑う客はほとんどいない。韓国訛りのチャ、チュ、チョの音が日本人には耳障りに聞こえるのかもしれない。御影石をふんだんに使った構造物である。群青色の屋根瓦が泰然と鎮座する正殿とその屋根の内側の青を基調にしたデザインが興味を引いた。この群青色の気品のある瓦は民間の建築には使うことが許されず、王府の建築物の象徴であったという。敷地内にはブナ科の植物が多く、参道にはドングリや栗のイガが落ちていた。藪の中を行きかうリスも頻繁に見かけた。冬に備えて木の実を拾っているのかもしれない。私も来園の記念にドングリと栗の実を少しばかりポケットにしまった。公園内を一巡して駐車場に戻る頃に雨は上がっていた。
大統領府迎賓館
その次に訪ねたのが大統領府である。官邸の周りの建物は高さの建築規制があり二階建てが限界である。その理由はテロリストによる高い建物からの狙撃を警戒しているとの説明であった。迎賓館前のロータリーには平和記念像と国の象徴である鳳凰のモニュメントが建立されていた。大統領府は屋根に群青色の瓦を使っていることから別名青瓦台とも呼ばれている。その後方には北岳山がそびえているのだが霧でほとんど隠れている。中腹に展望台があり、晴れた日にはソウルの街が一望できるという。我々は展望台に向ったのだが山肌に向けての写真撮影が禁じられている。藪の中には大統領府を警護する兵隊の監視小屋がいくつも配置されていた。10年以上前のことだが、この山中に北朝鮮の兵隊が大統領府を狙って侵入していた事件があったという。韓国と北朝鮮は終戦状態でなく休戦状態であり、再度の開戦に対する備えを怠っていないのだ。我々日本人には理解できない臨戦態勢の緊張感がこの国にはある。
花崗岩で形成された山の中腹にレストランを備えた展望台があった。あいにくの霧で眺望は望めない。王朝時代の韓国はこの山を基点にソウル市内を城壁が取り囲んでいたという。ソウルとは「都」という意味であり、英語の「魂」の意味ではない。その都への出入りは東西南北の四方の大門から日中のみ可能であったという。近代の都市整備の進行で城壁は取り除かれ南大門だけがその景観をとどめている。大門の周辺には必然的に市場が形成され現在でも南大門市場と東大門市場はソウル最大の庶民市場として活況を呈している。霧の展望台に厭きた我々一行は山を下って市内のレストランへと向った。
「青紗草龍」という名の韓国レストランに着いた。看板を見ると宮廷料理専門店のようであるが、本日の昼食は庶民的な石焼ビビンバである。ビビンバ料理の始まりは、豪族の家に嫁いだ嫁が目上の家族の食事の世話で自分の食事が満足に取れないので、その日の食事の具を少しずつ取って自分の椀の上に載せておいて、家族の世話が終わったのを見計らって椀の具とご飯を混ぜて食べたこと由来するという。混ぜご飯という意味があるそうだ。男尊女卑の儒教の教えから発生した習慣の一つでもある。もっとも、レストランで食べるビビンバは惣菜の残り物で作っているのではない。
ビビンバ丼
最初に出てきたのが白菜のキムチ、大豆モヤシの炒め物、小松菜に似た野菜の炒め物、何れもキムチ風味である。この辛口前菜が出るとビールを飲まずにはいられない。しばらくするとジュウジュウと音をたてて石焼のどんぶりに入った料理が出された。熱した石丼にご飯が盛られその上に野菜と肉片と卵が載っている。野菜は大豆モヤシ、玉ねぎ、人参、シイタケ、青野菜である。その上にコチュジャンを好みの量のせてかき混ぜるのである。石焼丼はとても熱く、焦げご飯が香ばしい。ビビンバは有名な韓国料理だが取り立てて旨いとは思えない。メンバーの松チャンがこれよりは那覇市の泊漁港内食堂のビビンバがはるかに美味いと言った。団体旅行者の食べるビビンバは調理コストを抑えた単なる体験食事でしかないだろう。店の中はほとんどが日本人旅行者である。添乗員に案内されて本場モドキの石焼ビビンバをありがたがって食べているのが可笑しい。それぞれの楽しい旅の思い出を笑う権利は私にはないのだが、東南アジアの友人たちに伴われて現地の純粋な郷土料理に親しんで来た私にとって、外国人歓迎の店に入って現地料理だと思って満足する日本人団体旅行者の光景を見るのが可笑しいのである。
食後はバスで1時間程の行程で韓国統一展望台へと向かった。食後の昼寝にちょうど良い按配だ。10分もすると添乗員の解説を聞く者は見あたらず、彼女自身も頭を垂れ始めた。40分ほどするとバスはイムジン川沿いを走っていた。右側は収穫前の稲穂が延々と金色の頭をたれている。左側の河川敷は鉄条網が続きおよそ100m間隔で監視小屋が設置されている。高さ4mほどの監視棟で小さな窓がついており2人の兵士の姿が確認できた。気温が零下20度にも下がる冬になると川は凍り付いてしまい、対岸の北朝鮮から徒歩で侵入して来る不審者の監視だという。両国の国境は川の中心である。川は途中から韓国側へ蛇行しており、国境線は陸地へと続いている。陸地の境界は両側に2kmの緩衝地帯としての非武装地帯(DMZ)が設置されている。非武装地帯は立ち入り禁止であるが、朝鮮戦争前の居住者が厳重な監視のもとに暮らしており、稲作を中心に農作物を生産している。この地域は農薬の使用が禁じられており、自然農法の米はDMZ米として高値で取引されているようだ。
統一展望台は小高い丘の上にあり、見学には3,000ウオンの施設入場料が必要である。3階建ての施設は、3階がビデオホール兼展望台となっており、朝鮮分断の歴史を韓国語と日本語と英語のいずれかで聞いた後に対岸を見ることが出来る。対岸の景色は雨霧のためはっきりとしないが、田園風景が広がっている。共同作業所や共同住宅らしい3階建ての比較的大きな施設があり、豊かな暮らしのように思える。添乗員の説明によるとこの展望台の完成により、北朝鮮の貧しい農村生活が覗かれるのを恐れた当局が実態のない張子の建造物を作ったという。2階が資料館で1階が土産品店となっていた。添乗員は韓国の歴史を丁寧に説明しているようであったが、私はこの国の近代史に興味がなく外の風に20分ほど吹かれていた。元韓国軍人の団体や韓国、中国の旅行者がバスで乗りつけた。
この次に訪れたのは自由の橋と呼ばれる国境記念公園である。広場には離散家族のモニュメントや、特別の日に南北を行き来する列車の線路が続いている。レールは使用頻度が少ないようで赤く錆びついていた。朝鮮動乱により、この橋の中央で家族が北と南に引き裂かれた歴史がある。南に住む人々は正月や盆にこの広場に集まって北に残った親戚に思いを馳せて涙を流すという。橋の先端は鉄条網で遮られており、風雨にさらされたタオル、シャツ、布切れに書かれた多くの寄せ書きが掛かっていた。ハングル文字の読めない私にも書き手の悲痛な叫びや嗚咽が聞こえる気がした。この公園は普段から来園者が多く、レストラン、土産品店、遊園地を備えている。ソウルからの国道も片側6車線となっており市民のドライブコースでもある。しかし、ひとたび有事になるとこの幅広い直線道路は戦闘機の滑走路に早変わりするとのことだ。この公園から数キロ先の地点に有名な板門店の南北共同監視所があり、外国人のみの見学が許されているらしい。公園の建物の一角にはDMZ(非武装地帯)見学コースなるチケット売り場があった。
午後3時、バスはソウルに引き返した。雨は完全に上がり雲間から光が漏れている。南大門の市場見学に向った。南大門は現在でも保存されていて市民の憩いの広場になっている。2重屋根の巨大な石門は、当時の朝鮮半島最大の都の繁栄を物語っていた。南大門の市場にはキムチの材料が全て揃っている。挽き唐辛子、魚介類、野菜類、既に完成したキムチも売られている。ビビンバ丼が積み上げられた雑貨屋、衣類、装飾品、漢方薬などあらゆる商品が入手できる。見て回るだけで楽しい市場である。私は添乗員の紹介で朝鮮人参のカプセルを買い求めた。更年期障害が出始めた妻への贈り物である。1粒50円、1日朝晩に2粒づつ服用するので安い買い物ではないが、八月、九月と海外旅行に出た後ろめたさが少しは和らぐ気がしたのだ。1瓶120粒入りの4瓶(4ヶ月分)である。2ヵ月以上服用しないと効果がないという添乗員の話を信じた。私につられたのか3名が2瓶ずつ買い求めた。店の売り上げに大いに貢献したようで店主は愛想よく我々を送り出した。添乗員のバックマージンも少なくないだろう。市場の雑踏を抜けてバスに戻った頃には日が落ちかけていた。ソウルの夕暮れの空気は冷気を帯び始めており秋の始まりを感じた。
夕食のレストランは昼食をとったレストランの道向かいで海鮮鍋の専門店である。今夜もキムチの皿が出てきた。白菜のキムチ、大根の角切りキムチ、大豆モヤシのキムチ風味、茹でたパクチョイの胡麻和え、カマボコキムチ、黒豆である。海鮮鍋は簡易ガスコンロで煮ながら食べるのであるが、鍋に特徴がある。鍋の中央が五センチほどへこんでおり、その中に麺を入れてある。鍋の具が煮えた頃には麺にだし汁がしみこむ仕掛けである。鍋の具は蟹、イカ、エビ、豆腐、餅、ネギ、シイタケ、白菜、人参、エンサイである。だし汁はキムチ風味である。11名で3つの鍋を囲んだ。雑談を交わしながらの食事はいつもより箸が進みどの鍋も完食である。この店の人気メニューの海鮮チジミを試してみた。シーフードミックスピザに似ているがパリパリ感はなくモッチリとしている。ネギと細切れのタコが入っていて、すこし辛めの醤油をつけて食べるのである。タコのプチプチとした食感が面白いが特別に変わった味ではない。タコは日本のマダコよりも小さな独特の種類で店によっては水槽に飼っている。南大門市場の鮮魚店でもキムチの具として売られていた。食事が終わると居酒屋で飲みなおすグループとこの店の地下にあるショー見学のグループに分かれた。那覇市内で居酒屋を営むロコさんは韓国居酒屋の雰囲気と料理に興味があるらしい。結局、男女の四名と男だけの七名のグループに分かれて散会した。
《ソウルの夜 二》
夕食をとった店の地下にある「ディアブロ」(中国ゴマの意)という名前の観光ショークラブは2時間の見学で6,000円の料金である。ビール、地酒、ウーロン茶の飲み放題でパイン、ブドウ、ミカン、バナナ、りんご等のフルーツ山盛りセットがついている。7時半に添乗員のチョンと共に席に着いた。彼女はこの店の営業部長ペックを紹介した。彼は我々のグラスにビールを注いで回った。我々が返杯すると仕事中の無礼をわびてウーロン茶を貰った。そして顔をひょいと後ろに向けて飲み干して「ごゆっくりお楽しみ下さい」と言って席を離れた。我々は一同にはっとした顔でうなずきあった。これが韓国流の目上の人の前での酒の作法なのだ。噂には聞いたが目上の人の前でグラスに口をつけるのを見せまいとする粋な心得である。もっとも彼の流れるような隙のないしぐさは、彼の商売で身に着けたある種の技であり、常人にそこまでの所作はないだろう。
酒の飲み放題となると沖縄の酒飲み共の行動は決まっている。早速回し飲みの始まりである。開演まで20分もあるのだ。明日のソウル10kmマラソンに参加するというガイドの亭を引き止めて飲み較べが始まった。テーブルの上のビールが一気に消えた。何せ6,000円を払った飲み放題である。遠慮する気はまったくないのだ。しかし店の係りも5回目の注文をしたショーの後半には酒を持ってこなくなった。ビールの他に地酒の焼酎があった。360ml入りで商品名「眞露」というポピュラーな酒である。竹の炭でろ過してあるらしくラベルには竹の図柄がある。商品の説明がハングル文字では詳細はわからない。糖分を加えてあるらしく甘みがあって飲みやすい。メンバーの中の長老で3年前に那覇市役所を定年退職した福サンと呼ばれる御大の口に合うらしくビールの代わりに飲んでいた。ステージは高さ50cmで5m四方程度である。ステージの三方が客席で8名掛のボックスシートである。シートの数は12,3席ほどである。白いシャツに黒いベストを着用した客席対応マネージャーが数箇所に立っている。人目でタフな男たちと判る雰囲気を持っており、客のトラブルをいさめる役割も兼ねているのだろう。
ショーが始まったのは午後8時であった。男3名女2名によるアクロバットショーから始まった。メンバーのクニさんが舞台に呼ばれて両手と口と股間に風船を持たされた。すると一輪車に乗った軽業師が吹き矢で見事にその風船を割った。客席から拍手が起こった。辺りを見渡すと8席ほどが埋まっていて40名ほどの客がいるようだ。工夫(カンフー)組手、居合抜刀術、石弓(ボウガン)、タコ男の穴抜け技、吹き矢、マジック、乞食の漫才トーク、2名の女性のストリップショー、美形で豊満な女性の体躯をしたオカマのストリップショー(声は男性であった)、筋肉ムキムキ男のストリップショーと続いた。客席に下りてくる演技者にチップを与えるのがこの店のマナーらしい。我々の席もストリッパーの豊満な胸に圧倒されたのか6,000円ほど献上してしまった。福さんはビキニ姿の美人オカマ・ストリッパーに抱きつかれ、彼女の股間に手を導かれて目を丸くした。ドモリながら「あの娘、ナニが付いていた」と言った。「先輩、ソウルまで来た甲斐がありましたね。でも血圧に気をつけてくださいよ」と皆ではやし立てた。この店の人気役者は乞食姿の漫才師らしいが彼のトークは私の感性には合わなかった。ショーの後半になると店のオーナーという50代のマダムが我々の席に挨拶に来た。律儀な店だと思いきや「女の子を紹介します」としきりに誘った。誰も興味を示さないので少し不満そうな顔をして男性客だけの隣のボックスに挨拶に向った。男性ストリッパーの登場で我々は席を立った。午後10時である。営業部長のペックが我々を店の外まで見送り、手配した車でホテルに送ってくれた。ウォカーヒルの豪華ショーも素晴らしいが、この手の怪しげな地下酒場のショーも見知らぬ国で退屈な夜を過ごすのには悪くない。
10月2日(日)
午前8時30分、朝食のためにホテルを出た。歩いて5分の距離に松竹という名のお粥の専門店があった。昨夜のうちに予約を入れておいたのだが、日本人に人気の店らしく20名ほどの日本人観光客がバスで乗り付けていた。韓国語でお粥のことをチュクという。この店には鶏、松の実、アワビの三種類のチュクがあった。12,000ウオン(1,200円)と朝食にしては少し値段が高いが一番人気のアワビ粥を注文した。いつものように大豆モヤシ、白菜キムチ、海鮮キムチのキムチセット、スープが付いているが塩味に大根の切り身が四個入っただけでお世辞にも美味いといえない。茶碗にはお湯が入っている。この国にはお茶の習慣がないのだろうか。そしてごく普通のスプーンとステンレスのお箸である。
さて、本命のアワビ粥であるが、かなり深めのスープ皿に入っており、生卵を一個落としてあった。アワビのダシが効いていて味は申し分ないがとても熱い。キムチの辛さと合わさって口の中が茶釜のようだ。食べるのに必死で口をきくものもいない有様だ。この国の食事はどれも汗をかくのものらしい。
ホテルに戻ると沖縄コンベンションビューロー・ソウル支局の夫(プー)副長が待っていた。日曜日であり小学4年生の一人息子を伴っていた。旅のメンバーで彼の上司である吉彦氏が案内を依頼したのだ。今日は午後3時までのフリータイムの設定である。我々は昨夜の夕食後に配られた市内地図の手に、明洞(ミョンドン)の街を歩いて探索することにした。ホテルの裏手に南山谷韓屋村があることをプーさんが教えてくれたのでそこを起点に歩くことにした。初日に雨の中を見学した場所で南山公園の一部である。公園の一角で結婚記念写真の撮影が行われていて、白いウェディングドレス姿の女性が石組みの庭園で晴れやかな笑顔でポーズを取っていた。私も一枚撮らせてもらった。韓屋村の施設の中で韓国伝統の古式の結婚式が行われるらしく天幕の中にイスが並べられていた。先ほどの一組の結婚式であろうか。
一昨日の見学で施設の内容をガイドから丁寧に説明を受けていたので早々に引き上げ、明洞の街に向った。アストリアホテルの前を左に向って20分ほど歩くと明洞の繁華街に入った。この街の名称は植民地時代に日本人が料亭を作って「明治町」と呼んだことに由来するという。有名ブランド店、衣料品店、高級レストラン、ファーストフード店、衣料品や食べ物の屋台、安価な食堂などが同居する活気に満ちた街である。東京の渋谷に似た雰囲気があり若者の姿が目立つ街である。午前10時半という時間帯のためか人の往来は少なく開店前の静けさといった感じである。それでも女性用の派手な下着類を店頭の通りにはみ出して並べた庶民向け衣料品店や何かのイベントのチケットを求める若者の行列があり、通りを歩くだけでも楽しい街である。南大門路の地下商店街を抜けて表に出るとロッテの百貨店の前に出た。この一角はロッテ一番街と呼ばれる韓国の大企業ロッテの支配地である。高級百貨店、免税店、高級ホテルが200m四方を独占している。我々はショッピンググループとぶらり歩きグループに分かれて行動した。百貨店には韓国の二枚目俳優で日本人に大人気のペ・ヨン・ジュ(ヨン様)の大きなグラビア写真が目立った。この企業のイメージキャラクターとして活躍しているが、たぶんに日本の婦人客を意識しているようだ。韓国でのヨン様の人気は日本ほどではないようである。特別に買うものもない私は5名で連れ立って市庁舎の近くの広場まで歩いていった。今日はソウルの市民マラソンがあり、ガイドの亭さんが10kmの部にエントリーしているという。彼女の応援でもしようかと考えたのである。市庁舎の広場に着いたのが午前11時30分である。競技は既に終了したようで木陰で休憩して昼食の弁当を開く人々の姿があった。亭さんに携帯電話で連絡を取ると、無事完走して自宅に戻ったところだという。午後3時に我々を空港まで送ることになっていて午前中はソウル市の行事に参加したのだ。歩き疲れて空腹を感じたので百貨店前の集合場所に戻ることにした。
ソウル市庁舎前からソウル中央郵便局に向う小公路の途中に沖縄県コンベンションビューロー・ソウル支局がある。その近くに参鶏湯(サムゲダン)の専門店があり昼食はそれにした。薬鶏と呼ばれる若鶏の中に朝鮮人参、もち米、ナツメなどの漢方藥食材を詰めてじっくりと煮込んである。大きなどんぶりに白濁した汁と共に丸ごと入っている。あっさり味でいかにも滋養がありそうな料理である。鶏肉をほぐしてもち米と混ぜてお粥のようにスプーンで食べるのである。テーブルには粗塩が準備されているので好みの塩加減を調整すればよい。大根の角切りキムチ、パクチョイに似た野菜のキムチ、鶏の砂肝炒め、スライスにんにくを軽く炒めたもの、コチュジャンの小皿などの付けあわせが出た。鶏肉は簡単に骨から外れるのでコチュジャンにつけて食べるのも良い。小指大の朝鮮人参が鶏の中から出てきたので噛んでみると特有の生臭さが口中に広がった。体が火照ってきて生気を取り戻したような気になった。食事のたびに体が熱くなる料理ばかりである。やはりこの国の冬の寒さは特別なのであろうと思った。
昼食後は今日のソウルのメインイベントである清渓川オープンフェスチバルを見に行った。日本の植民地時代に市内を流れていた清渓川が埋められたが、親水河川公園として整備されたのである。ソウル市民にとって旧日本帝国からの復活を意味するものでもある。イベントは9月30日から10月3日まで開催されて数十万人の参加が見込まれているという。約2kmの河川公園と両側の道路は歩行者に解放されており大変な人だかりである。路地には屋台が立ち並び、さながら日本国内の夏祭りの雰囲気を演出していた。ただ、群衆は僕らが日本人と知ってか、日本の祭り会場で出会うような和やかで楽しげな視線を送る者は無く、全くの異邦人として人の群れの中をうろつくばかりであった。半日の散歩で歩き疲れた頃、誰かが「ソウルは満喫したね」と言うと、誰もが「満喫ソウル三日間の旅」と旅行社の宣伝文句を口々に言い出した。そしてぼくらはホテルへのなだらかな坂道をゆっくりと歩き出した。
ホテルのレストランでコーヒーを飲んで雑談している間にガイドのチョンさんがやってきた。空港へ送ってくれる約束の午後3時である。午前中に10kmの市民マラソンを走ってきた割には元気である。本人は「もう足がパンパンだわ」といいながらも笑顔で話しかけてきた。来たときと同じイエローバスで空港に向った。今日は晴れていて海中道路から見える海は、潮が退いて赤い色の海草が浮かび上がり不思議な景観である。空港に向かう途中の埋立地に建設された新町という名の問屋街で降りて土産を少しばかり求めた。この区域は大規模な臨空都市計画が進んでおり、外国人向けのカジノなど外貨獲得産業の誘致が計画されているそうだ。
ホテルを出発して2時間ほどで空港に着いた。チョンさんは出国チケットの手続きを済ませ、我々を出国ゲートに案内した。笑顔で一人ひとりに握手して僕らを送り出した。混雑したイミグレーションを通過して48番ゲートの待合室に着いたのが午後6時少し前であった。滑走路は既にオレンジ色の誘導灯が点灯されていて夕闇が迫っていた。離陸の時間まで残り1時間40分である。私はゲート近くのカウンターバーで一杯4ドルのビールを飲みながら空港が闇に包まれていく様を眺めた。そして3日間の少し窮屈な旅を振り返っていた。私にとってこの国は複雑すぎて好感を持てるようになるには、プライベートな友人を見つけて何度か訪問する必要があるだろうと思った。
エピローグ
タイのバンコクで会った韓国のラン貿易商ヤンのことをすっかり忘れていた。「ソウルにきたらぜひ連絡してくれ」と言われていたが、思い出したのは帰りの空港の待合室でビールを飲んでいる時であった。バンコクでの通り客であり、深く繋がる人物ではなかったようだ。人の繋がりは酒を酌み交わし、本心が見えるような付き合いが必要である。私が好きな台湾、タイ、マレーシア、シンガポールは、何度か訪れてその土地の人々の暮らしの中に笑顔を見つけることが出来たからである。そしてその地は黒潮の海流で繋がる暖流の海の道の沿線であるからだろう。食べ物や気質が同じ源泉から湧き出ている気がする。言語は異なるもすぐに打ち解けることが出来るのは、遥か昔は親族であったとの感性を互いに持っているのだ。残念ながら生粋の南方系の人間にとって、ソウルの景観や僅かな滞在時間で一般大衆から受けた触感は、この地の文化・交友関係に馴染むにはかなり高いハードルをクリアする必要を感じた。南大門市場の中や清渓川オープンイベント人混みの中を歩いても「ウエルカム」「ウエアフロム」の声や興味深々の視線を受けることは無かった。地元の人々のバカ笑いの声すら僕らの前から消えていた。あの東南アジアの屋台や土産店、雑貨屋から発する笑い声をこの地で見つけることが出来なかった。ソウルの人々は日常生活の中で笑いを押し殺して暮らしているのだろうか。バンコクで会った陽気なヤンもこの地では無口で礼儀正しくひっそりと暮らしているのかも知れない。北の国の文化は容易に理解できる気がせず、ましてや馴染むことなど不可能な気がした。我々南方系の民族は沖縄の方言で「イチャリバ、キョウディ」(出会えば兄弟)との感性が文化として染みついており、北の国の人々と義兄弟になるには限界があると感じた旅であった。そして普段の遊び仲間以外の人達との団体旅行の窮屈さをしみじみ知らされた。旅行友の会の旅は今回を最初で最後にして退会した。積立金は私の旅行用通帳に払い戻してもらった。どのような旅でも心に残る良い風景、良い交友、良い文化習慣に接しなければ疲れてしまうものである。しかし、海外の旅は容易に非日常の景観、空間、体験を提供してくれる。それは日々の自分の生活空間だけが現実であるとの錯覚を、否応なしに是正してくれる効果的な手段でもあるのだ。
「完」
The King of Thailand
(ザ・キング・オブ・タイランド)
プロローグ
The Kingdom of Thailand(ザ・キングダム・オブ・タイランド)、英語でのタイの正式名称である。呼び名の通り 立憲君主制度の国家である。2014年に軍部がクーデターによって政権を握っている。仏教が国民の生活に根付いており、軍政と言われるが武力による圧政が全く感じられない市民生活である。仏教と微笑みの国と言われる所以であろう。国民の国王への信頼は特別であり、軍部も国王の認可を得て軍政を執行しているのである。日本ではシャムの国と呼ばれて古くからの交流がある。沖縄の地酒である泡盛はタイ米を原料に醸造されている。近代における西洋列強の影響が少なく、隣国のカンボジア、ベトナム、ミャンマーが内戦に明け暮れた歴史を持つ中で古くから安定した国情が続いている。鉱物資源に恵まれているわけではないが、肥沃で広大な農地を持つ米作を中心とする農業立国である。国民の暮らしは豊かとはいえないが貧富の格差が目立つことは無い。仏教寺院や拝所がとても多く、仏教の礼節が市民生活の中に深く根付いているからだろう。黄色い僧衣をまとった修行僧の姿を街角で見かけることが多く、市民は敬愛の念を込めて接している。広い国土に日本の半分の6,600万人の人口である。穏やかな仏教の国であるが、首都バンコクの交通渋滞と夜の盛り場の喧騒は東京新宿駅東口周辺と変わらない。
私がこの国を訪れたのは、1983年の緑化事情調査に始まり、「青年の翼」と称する沖縄県の異業種交流海外視察研修会、熱帯果樹の国際シンポジューム、自社のラン類輸入先会社の表敬訪問に続く5回目である。埃っぽいバンコクの市街地、対照的に地方の豊かな自然、暑い日中と涼しい夜、辛いが美味なエスニック料理、独特の香りでとろける美味さのドリアン、世界有数のラン類の生産地、様々な種類の観葉植物を次々と出現させる園芸産地でもある。シンガポール、マレーシアとは異なる顔を持つ国であり、訪れるたびに変化を見せる国だ。
旅の始まり
7月下旬の昼飯時、八重瀬町の沖縄そば専門店「しまぶく家」に居た。那覇空港の空港ビル内植物展示業務に関する会議を終えて、仲里園芸の仲里清と昼飯を共にしていたのだ。
「キヨシ、こないだ秦から電話があってサ。君と一緒にタイに行こうと誘われたぜ」
「うん、僕にも電話があった。カズさんと一緒に来てくれ。全てフリーだと言っていた」
「石油大手のシェルカンパニーのオーナーの招待だと言っていたナ。多分台湾・バンコクの航空チケットと宿泊費が無料という意味だろうナ」
「今年の2月に、タイ国シェル石油の社長が秦と一緒に沖縄に来たことがある。海洋博公園を案内した後、牧志公設市場の海鮮理店で沖縄の近海魚のイマイユュ(新鮮魚)料理で接待したことがある。カツオ、イラブチャー(アオブダイ)、シルイチャー(近海イカ)の刺身、タマンのマース煮(塩煮)ミーバイ(ヤイトハタ)の煮付け、アバサー汁等沖縄料理を提供したヨ」
「台湾の桃園漁港近くに、水揚げしたばかりの魚を自ら選んで料理を頼む美味い店があったな」
「沖縄でしか食べられない料理だったので喜んでくれたよ」
「しかし、まあ偉いお方を接待したな。シェル石油の代理店は沖縄にもあるだろう」
「うん、沖縄代理店の幹部連中が空港に勢ぞろいさ。肩透かしを食らった彼らに睨まれたよ」
「それで、どうした」
「僕のワゴン車で、案内して夕方の便で台湾に向かったのさ」
「その縁で誘いがあったのかも知れないな。しかし俺を誘う理由はないぜ」
「秦のことだ、何かしらの計算があるのでしょう。抜け目のない男だから」
「そうかもナ。アンタはオーナーだから旅行の理由は必要ないが、オレの会社は役員とて旅費決済の理由が必要だ」
「株式会社は面倒ですね。何か理由を作れないですか」
「そうだな、バンコクのカリーの農場調査にでもするか。2か月前に安いデンファレを輸入したので現地のラン類栽培事情調査の名目を立てよう。場合によってはSオーキッドの塩谷さんに会っても良いだろう。塩谷さんとの取引はあるかい」
「陳先生の紹介で顔は知っているが取引はないな。眉が薄く目付きが鋭い得体の知れない雰囲気の男で少し怖いね」
「確かだね、軍人や裏社会の人々との付き合いもあるらしい。でもいざとなったらタイでは重宝だぜ」
「そうですか、塩谷さんとのお付き合いはカズさんに任せます。秦の招待に乗りましょう。カズさんと一緒だと女房殿の了解も取りやすいから」
「なんだよ、お前も奥方の決済が必要なわけか」
清が苦笑いしながら最後のソバを口に運んだ。
「秦に連絡して旅行の日程を連絡します。台湾往復のチケットはそれぞれで確保しましょう」
ソーキそばの代金750円を払って店を出た。キヨシは農場に戻り、私は名護向けの高速インター南風原南に向かった。
1週間ほどして仲里から8月17日~23日までの旅行日程だと連絡が入った。私は会社の旅行起案書を「タイ国における蘭生産者の現状調査」とした。タイからの輸入は主にSオーキッドの塩谷勝を仲介していた。塩谷は生産者でなくブローカーである。旅行代理店やタイにおける邦人の会社設立、タイへの輸入品の法的手続きを斡旋する司法書士に似た仕事もしている。よく知らないが日本国内のラン関係団体でトラブルを起こし、国内に居づらくなってタイに飛び込んだとの噂がある正体不明の男だ。仕事が少し荒いので新しい取引先を模索することを起案書に付け加えた。私の唯一の上司であるU専務は塩谷を好ましく思っておらず喜んで同意してくれた。只、台湾往復の航空チケットを購入後で旅行期間が旧盆と重なることに気がついた。次男の私は同じ市内ある実家と離れて暮らしており、ご先祖を祭る実家の仏壇行事に関心が薄かった結果だ。妻に明後日から1週間ばかりタイに出張に出ると伝えた。妻は旧盆を挟んで旅に出ることは不謹慎でしょうと不平を言った。今回面会する予定のタイ国最大手のシェル石油オーナーの都合だ。仕方が無いだろう。タイの国にはお盆が無いそうだ。そう返事しながら荷造りをした。荷造りと言っても泡盛の古酒1本に中華系の人々が好む赤い包装紙の菓子類が5箱で後は着替えが少しだ。機内持ち込みが可能で引いて歩ける小さなコロが付いた手ごろなバックに詰め、寝室裏側のウォークインクローゼットの隅に無造作に置いた。私が大きなスーツケースを使ったのは、公式訪問を伴った数件の旅行だけであった。妻はスーツケースの大きさでこの旅が遊び半分だと判断しているようだ。実家には末娘と二人で参加して私の分まで線香を上げてくれ。父母には仕事の都合で海外にいるとだけ話してくれ。必要なら電話すればよい。電波の届かぬ未開地の山奥でも無いし、長女の暮らす名古屋に出かけるのと大差ないだろ。毎度のありきたりの答弁を言って旅の話題を切り捨てた。妻にとって聞き飽きた言い訳で反論する気も無いのだろう。黙ってテレビのスイッチを入れた。私は飛行機が遅延して帰宅が遅れた時以外は旅先の出来事を話題にしない。それは仕事上の機密だと妻に暗示しているつもりであるが、妻は遊びの延長線上に旅という名の仕事があると理解している気配がする。
出発の前日に1級造園施工管理技士会の道路緑化シンポジュームが宜野湾市のコンベンションセンターで開催された。造園関係者を中心に県内市町村の都市計画に関わる職員を含めて、約300人が参加したシンポジュームであった。私は施工、情報、植物の3部門の技士会の中の植物部会長を務めており、シンポジューム終了後のパネリストの先生方を交えた懇親会まで参加せざるを得ず、帰宅したのが午後10時過ぎであった。リビングルームの照明は既に消えており、音を立てぬように静かに玄関の鍵を開けて室内に入った。ダイニングキッチンの電気を点け、コンビニで買った明日の朝食用のサンドイッチを冷蔵庫に収め、缶ビールをコップに注いだ。外では遠雷の光がダイニングの出窓から見えた。もうすぐ雷雲がやって来そうな気配であった。3本買ったビールの1本を飲み干し、2本は旅から帰った後で飲むことにして冷蔵庫の奥にしまった。大粒の雨がガラス窓を叩き始めた。ズボンとシャツを脱いで洗濯機に放り込み、クローゼットからステテコを取り出して履き替えてベットに横になった。妻の寝息に後ろめたさを覚えながらも雷鳴が大きくなる前に眠りに落ちて行った。
8月17日(水曜日)
いつもの起床時間6時に目覚め、妻を起さぬように静かに寝室を出た。クーラーが止まっており、寝汗がシャツに絡みついていた。シャワーを浴びて下着姿のままキッチンの自分の席に座った。ステックタイプのインスタントコーヒーの封を切り、マグカップに入れて魔法瓶からお湯を注いだ。コーヒーの香りが立ちのぼり目覚めを促してくれた。昨晩買ったサンドイッチを冷蔵庫からとりだして賞味期限を見ると昨夜の午後11時である。パンのパサつきも茹で卵サラダにも違和感はまったくなく、ホッとしてコーヒーで胃の中に流し込んだ。インターネットのニュースは特段の出来事も無かった。私と無関係のごく普通の一日が始まっていた。パソコンの電源プラグを外して落雷対策をして蓋を閉じた。念のためにパスポート、航空チケット、所持金の米ドル、台湾ドル、バーツ、日本円、20万円ほどの残高の旅行用クレジットカード、そして小型デジタルカメラと携帯電話の充電器を確認して玄関に荷物を運んだ。昨夜のうちにリビングのソファーに置いていたチノパンツを履き、かりゆしウェアを羽織って、新聞を取るために玄関を開けて外に出た。玄関ポーチの御影石を境に門へと続くビーチコーラル石灰岩の石畳の園路は、昨夜の雨に濡れて落ち着いた色に変わり、石組みのモルタルの目地がくっきりと表れていた。湿った空気の中に銀香木の花の香りが微かに混ざっていた。本来冬の花のはずだが夏にも2,3輪と咲くことがある。花径3㎜程の淡いクリーム色の目立たぬ花だが、湿った空気の中に自ら存在を示している。園路の横には10坪ばかりの石組みの庭があり、小さな滝を備えた畳5枚ほどの広さの池を設けてある。早春には白梅の花の香りが流れ、ほんの一瞬の沖縄の短い春を飾ってくれる。池の中に白い熱帯スイレンが咲いていた。満月の頃に4日間だけ咲く夜咲きの花である。午前10時ごろまで開いて昼間は閉じて日が暮れると再び開くのである。ふと今日は旧暦の7月13日、ご先祖を仏壇にお迎えする(ウンケー)日であることに気づいた。銀香木の香り、スイレンの白い花が、私の懐の奥深く押し隠していた旧盆行事への不参加の後ろめたさをフツと湧き上がらせた。私は両手を大きく広げて湿った朝の空気を吸い込んだ。そして懺悔という実体のない観念を吐き出した。
自宅前のフクギ通りは右側に下っており、突き当りに屋部小学校がある。いつもと変わらぬ朝の通学時の子供たちの賑やかな声が聞こえてきた。新聞受けから朝刊を取り出して部屋に戻った。新聞の地方ニュースの太字だけを拾い読みしていると携帯電話が鳴った。「5分ほどで着きます」と迎えの社員からの連絡である。柱時計は7時50分を指していた。私はソファーに新聞を放り出し洗面所で歯磨きをしてトイレで用を足した。食卓に残ったコーヒーを飲み干しのマグカップをキッチンの水道で軽く流してシンクに置いた。いつの間にか起きだしてきた妻がソファーの上の新聞を拾上げた。私はかりゆしウェアのボタンを掛けながら「行って来る」とだけ言って玄関に向かった。妻は「そう、いってらっしゃい」と小さく言って新聞を広げながらソファーに座った。いつもの出勤時の一コマ変わりない動作である。カーキ色のテント生地で作られたカバンを手に外に出た。那覇空港に展示するラン類を運ぶ2トンコンテナ車が自宅前に停まっていた。
助手席のドアを開けカバンを放り込みステップに足を掛けて乗り込むと
「常務、おはようございます。どうぞ」と言って缶コーヒーを差し出した。「おお、ありがとう。空港まで頼む」と受け取った。今日の運転手は平安山君である。
「帰りは何日ですか」
「来週の火曜日のCI-122で帰って来る」
「1週間ですか。長いですね。お盆期間中ですが大丈夫ですか」
「俺は次男だ、家内と娘に代理を頼んだ」
「帰りは何時頃ですか」
「CI-122だから通関を終えて外に出るのが8時頃かな」
「そのつもりで手配しておきます」
「すまんな。頼むよ」
国道58号許田インターから自動車道路に入り、豊見城仲地インターから国道331号に降りた。糸満市のあしびなー商業団地からの海浜道路が合流する豊見城警察署の前から朝の混雑が始まっていた。
「常務、時間は大丈夫ですか」
「10時半までにチェックインすれば良いから心配いらないよ」
「那覇は名護・本部の田舎と異なって混雑が半端でないですから」
「お前も那覇の水を飲んで少しは都会人の仲間入りをしたな?」
「そうですね、ハハハ」と頭を掻いた。
9時30分に那覇空港国際線ターミナル前のバス乗り場に停車した。
「ありがとう。助かったよ。来週の火曜日も誰かよこしてくれ。頼む」
「分かりました。手配しておきます。お気を付けて行ってください」
コンテナ車は後続車両を気にしながら急いで離れて行った。
ターミナルの待合室、レストランを覗くも仲里の姿はなかった。私は直ぐにチェックイン・カウンターに行って旅行バッグを預けて座席の予約をした。連れに仲里清がいるからと隣の座席を予約したいと頼むと、乗客予約リストをチェックして押さえてくれた。未だ搭乗手続きの客は少なく、いつもの通り通路側の席が取れた。パスポートに航空チケットを挟み、かりゆしウェアのポケットに入れてロビーに戻った。未だ旅客の姿が閑散としたロビーでゆっくりとストレッチして体を解していると、仲里が奥さんと共にやって来た。台車に大きな段ボールを乗せていた。
「何だいその荷物は」
「オンシジュームだ。タイへのお土産として秦に頼まれたのさ」
「大したサービスだな」
「そうじゃないさ、秦の注文だからしっかりと料金を貰うよ」そう言って奥さんの顔を覗いた。奥さんが笑っていた。
「先にチェックインしてアンタの席を俺の隣に予約してある。カウンターの女性にそう言ってくれ」
「おお、ありがとう」そう言ってチェックイン・カウンターに向かった。重量オーバーの追加料金を取られたようだ。
僕らはレストランに入って時間を潰した。仲里は朝食の沖縄そばを取り、私と奥さんはオレンジジュース頼んだ。
「仲村さん、暫らく日本食を食べられませんよ。沖縄そばを食べておかなくて良いですか」
「出がけにサンドイッチを食べたので満腹です」
「東南アジアの料理は口に合いますか。私は全然ダメです」
「さあ、東南アジアで不味い料理を食べたことは無いですね。海外出張の度に体重が増えますよ。逆に国内出張では何故だか体重が減ってしまいますね。」
「国内出張は無いのですか」
「植物園協会の賛助会員を脱会してからは、定期の国内出張はないですね」
「国内の国際洋蘭展示会の見学行きませんか」
「東京ドーム、名古屋も1度で十分です。皆さんのように出店するわけでもないですから」
「見るだけなら一度で十分ね。でも観光地巡りはしないのですか」
「5年ほど前に長女の結婚の顔合わせで、婿殿の実家である三重県に行ったのが最後かな。特別食べたい日本食も無いですし」
「貴方も清も同類ね。要するに南方系の土人の血筋ね。ハハハ」と声を出して笑った。私はふと思い出した。東南アジアの友人たちから何度も言われるのは「ナカムラ、アンタ日本人か」私はその度に「私の故郷はメインランド・ジャパンから1,000㎞離れた日本の南の外れだ。台湾のすぐ隣の島だ」そう答えると彼らは笑ってうなずくのだ。私が思うに、人類は赤道を挟んだ熱帯、亜熱帯の地域に暮らす人々は、穏やかで物事に固執しない傾向がある。一方寒さの厳しい北の民族には備えを怠ると忽ち生命を奪い去ってしまう自然の脅威がある。イソップ物語の蟻とキリギリスの物語の世界だ。しかし南方のキリギリスに冬の厳しさはやってこない。1年中ギターを演奏して暮らせるだろう。厳しい寒さから身を護るためにガードが固くなる民族と、蓄えの習慣を必要とせず豊かさの意味が異なる文化を形成してきた民族の違いだろう。沖縄は南方系の北限に位置するようだ。南方から来る黒潮の流れによって形成された黒潮文化圏である。民俗学者柳田國男の説によると、ミクロネシア、フィリピンを経由して北上する黒潮の海流に運ばれた文化である。柳田は海上の道が作った文化圏と呼んでいる。柳田の民俗学説はともあれ、北の民族の慣習や気質は私に合わない。とはいえ、関東以南の大きな植物園はほとんど見学し、京都の有名庭園も5度ばかり見学した。私の庭も明治の造園家・植治が作庭した無鄰菴を模したつもりだ。単純に現在では日本文化圏への興味が薄れているだけであろう。
仲里夫妻は損得を共にする同じ事業エリアで暮らすことで、私に欠けつつある夫婦間の大らかさと信頼感などの強い結びつきを備えているのは確かだ。165cm、90kgのキヨシに対して奥方は小柄で痩せている。何事も大雑把なキヨシの手綱を締めているのが彼女で、互いの何かを補完しあっているように見える。
那覇空港ビルの植物展示スタッフ3名がレストランにやって来た。
「常務、お気をつけてお出かけください」と挨拶にきた。
「おお、ありがとう。コーヒーでも飲むか」と言うと
「いえ、仕事が残っていますから、失礼します」と出て行った。
「気持ちの良い子達ね。誰が教育したのかしら」と笑った。
「さあ」と首をすくめた。
清の食事がすむと奥方は引き上げた。僕らはレストランを出てX線磁気検査、イミグレーションと進み搭乗待合室に入った。11時10分であった。私は会社に電話して事務主任の上間女史にこれから台湾に向かうと伝えた。4名の娘にメールを入れ、今から旅に出ると伝え娘からの返信を確認して電源を切った。CI-121は11時45分に那覇空港を飛び立ち、時差が1時間遅れの台湾時間の12時10分にランディングした。いつもながらエンジンの逆噴射の振動音が私は苦手だ。薄っぺらな主翼ぶら下がったエンジンが外れて、機体がキリキリ舞いしそうな不安に襲われるのだ。1時間25分の飛行時間は福岡よりも近い距離である。機内で記入したイミグレーションカードを仲里に渡した。宿泊先はゴールデン・チャイナ・ホテルと記入した。これまで何度も泊まったホテルで、利用客名簿に私の名前が記録されているホテルだが今回も泊まるか否か分からない。単なる記載事項である。長い列の外国人専用の入国審査を受ける間に携帯電話を台湾モードに切り替えて秦に電話をした。
「私、空港迎え行けない。陳先生ロビーで待っています」それだけ言うと電話を切った。
1階で荷物を受け取り、迎えの人々でごった返す広場に出ると、秦の電話通りに陳石舜先生、息子の達寛、そして呉秀美女史(サンディ・ウー)が待っていた。達寛の運転するワゴン車に乗り込み空港を出て桃園市内に向かった。陳先生は那覇空港に展示するコチョウランを輸入する為の取引先である。名臺企業股份有限公司、英語表記:ミンタイ・エンタープライズの代表である。戦前の生まれで台北大学の経済学部卒を卒業したエリートで日本語、英語が堪能である。台北銀行頭取秘書、酒タバコの専売公社役員などを経て、定年後にランの輸出に関する会社を立ち上げている。台湾の蘭生産者を束ねる台湾蘭協会の会長であり、世界蘭会議のアジア地区代表評議員を務める。英国王立蘭協会から功労感謝状を貰うなど世界中の蘭関係者から知られた存在だ。紛れもなく台湾におけるラン業界のキングである。息子は先生の秘書的存在で英語がある程度話せる。サンディは台北大学の英文科卒で英語・スペイン語に堪能で水苔の貿易商をしている。出迎えの人ごみに紛れる程の背丈であるが南米チリ、ニュージーランドまで単身で貿易交渉に出かける強者である。美人とは言えないが笑顔が素敵なビジネスレディだ。陳先生の紹介で付き合いを始めて数年が経つ。毎年コンテナ1台単位でチリ産・ニュージーランド産の水苔を輸入していた。
「秦は旅行の準備で忙しいので迎えに来ることが出来ませんでした。彼の農場の近くのレストランで待っています。食事に行きましょう」先生はそう言った。私は秦に会う前に先生とサンディにお土産を渡した。秦の農場は空港からほど近い場所にあり、グッドウィル・オーキッドと称していた。パット・エンド・ファンを装備した300坪余りの温室であるが、名ばかりの商いである。生活の糧は台北近郊にある数軒の貸しアパートである。東南アジアの蘭展示会に出品して各地のラン仲間との交流を楽しんでいるだけだ。金に不自由しない良い星の下に生まれた男の典型である。秦の父と陳先生は大戦前の日本統治下の旧制中学の同窓生である。台湾国軍の高級将校の一人としてフィリピンの内戦に従軍して2年間投獄されるなど屈強な軍人経歴の人であったらしい。資産家でもあった父を亡くした後は、陳先生が秦をラン業界に引き込んで親代わりに面倒を見ているようだ。おかげで金目あての不良仲間に取り込まれなかった幸運も持ち合わせているようだ。軍人の父親は息子の教育に関わる時間が無かったようで、秦は自由奔放に青少年期を過ごしたようだ。秦の日本人に理解できない日常生活の判断基準は少年期に形成されたのであろう。秦は東南アジアのラン展示会で時として軽度の不始末を引き起こすも、陳先生の後ろ盾があるので不問に付されていることが多々あるのだ。スケジュールに無頓着な性格故に日本国内の蘭関係者からは全くの信用を欠いていた。本人は片言の日本語を話すも、広東語で会話が出来る東南アジアの中華系の蘭生産との交流を楽しんでいた。英語は日本語よりも上手く、私は英語で意思疎通を図っていた。互いの未熟な言語を補完しあいながらコミュニケーションを取るので、同じ言語を持つ日本人よりも親密さが増すことも少なくないのである。
秦は自分の農場の屋根が見える場所のレストランの外で待っていた。レストランの中には秦の友人の洋品店の店主が席を作って待っていた。ほどなくして台南の蘭生産者陳全江が加わった。5年以上前の台湾国際蘭展示会以来の友人であり、その後も何度か飲みあった友人だ。今回の旅の同伴者である。185cmの背丈に120kgの巨体だ。ラグビーのホワードが務まりそうな骨太の体格だ。目が細くいつもニコニコした穏やかな性格で、60度の高粱酒を好む飲兵衛でもある。彼から貰った高粱酒が今でも私のキッチンの一番奥に手つかずに残っている。「ハロー、ナカムラサン」以外の英語は話せない。この日もそう言って握手を求めて来た。仲里との飲み友達ではないようだ。台湾国際蘭展の折、自社職員2名と彼の車で近くの蘭園巡りをしたが意思疎通に不具合は無かった。意思疎通を図るには言語でなく遠慮のない誠意のだけである。
昼食は淡水魚の蒸し物、エンサイと豚バラ肉の炒め物、小エビの炒め物、小さな牡蠣の炒め物、チャーハン、乾燥イカを湯で戻してその切り身をわさび醤油で食する。プリプリした食感がたまらなく嬉しい。小エビの入った淡白なスープで味覚を正常に戻して胃袋を落ち着かせた。久しぶりに飲む青島ビールも淡白で美味かった。陳先生は秦に気付かって昼食後に引き上げた。荷物は秦の車に積み替えた。先生にはタイから帰った翌日にお付き合いをお願いした。仕事の話を少しばかりしたいと伝えた。サンディにもタイから帰ると台北に一泊するのでもう一度会う機会があるでしょうと英語で伝えた。彼女の表情がパッと明るい表情に変わり楽しみに待っていますと答えた。美人でもなく背も低いこの女性は表情の変化が多彩で私の中に好ましい記憶を残す人物である。この宴席は秦の席であり、陳先生、サンディとも自分の宴席を持たねば気のすまぬ気性の民族的慣習の持ち主である。彼らに日本人のような割り勘接待の習慣はない。陳先生一行が引き上げた後も僕らは宴席を閉じるでもなく店のビールを飲みつくし店主の隠し酒の高粱酒も飲みつくして終了した。
レストランを出て秦の友人の洋服店主のオフィスでコーヒーを飲み、1時間のドライブで秦の自宅に近いホテルにチェックインした。雅荘汽車旅館という名の駐車場付きホテルである。宿泊料金は朝食付で1,760元(5,300円)である。私の街のビジネスホテルより少し安くシングルルームにダブルベッドはありがたい。女連れ込み兼用のホテルだ。台湾やタイ、マレーシア、シンガポールではごく普通にある仕様のホテルだ。日本国内のシングルルームは東南アジア仕様に慣れた私にとって窮屈感がある。早速シャワーを浴び、下着を洗顔石鹸で洗ってクーラーの風が当たる場所に吊るした。洗顔石鹼は体の油分が良く落ちるので肌着やアイロンの要らないポロシャツの洗濯には好都合である。ズボン以外はホテルのランドリーサービスを使うことは少ない。しかし、この先洗濯をする機会があるか定かではないので、旅の初日といえども洗濯が出来るときにするのがベターだ。会社に提出した旅行日程表は那覇発と那覇着以外は全く無意味である。旅行日程は秦の頭の中である。2時間ほど昼寝をして備え付けのウーロン茶を飲みながらテレビを観た。何処のホテルでも衛星放送が受信できるのでNHKの7時のニュースを見た。午後6時だが1時間遅れの時差があり日本の夕方のニュースが放送されているのである。ふと国内の地方の安ホテルに宿泊している気分がした。
午後7時、秦に案内されて徒歩でホテル近くの食堂に入った。先客がいて大声で手招きした。テーブルを繋ぎ合わせて席をあつらえてくれた。仲里、秦、陳、私の4名が座った。先に来ていたのは秦の姉の旦那、洋品店主の弟とその友人2名である。話の様子から彼らもタイに出かけるので前祝いを兼ねているらしい。この店はアヒルとガチョウの専門料理店である。彼らはダッグとかグースと言っているが私にその肉の違いは分からない。香草を加えて蒸した冷えた胸肉、ショウガや様々な薬草の入った鶏ガラのスープ、揚げた手羽先、肉を千切りにしてネギを絡めた炒め物、紹興酒に合う料理である。何度となく乾杯を重ねた。
秦の義兄が突然立ち上がって中国語でスピーチしてから錠剤を皆に配った。
「先輩、バイアグラです。旅行で必要です」と秦が大声で笑いながら言った。秦の義兄は輸入代行業だと言ったが、そのようなビジネスがあるのか、本業が何であるかは不明である。尤も秦の友人にはごく普通にいる不可思議な職業の人間たちだ。秦自身ですら自分の本業が何であるかを全く意識している様子がないのだから。最後に出て来た一品はアヒルの血を発酵させた塊の入ったスープである。秦の義兄が私に向いて中指を立て、卑猥な表情をして中国語でまくしたてた。皆がどっと笑った。精力が付く食べ物らしく皆うまそうに食べていたが、私も仲里もその独特な発酵臭と食味には馴染めなかった。天井に扇風機が回り、もうもうと湯気とタバコの煙が立ち込める薄汚い食堂は、客の体臭とアヒル特有の料理臭が混ざり合い、それらが油汗と共に体中にへばりついてしまった。私は何度も額の汗をハンカチで拭った。紹興酒を2本だけ空けた。秦の弟とその友人たちはもっぱら青島ビールである。若者には紹興酒離れが進んでおりビール、ウイスキーを好むようだ。あの独特の薬膳酒にも似た香りは若者受けしないのだろう。午後11時に最後の乾杯で散会した。
陳と仲里と3人でホテルに向かった。陳は途中の屋台で紙コップに入った搾りたてのスイカジュースを僕らに渡した。胃の辺りを擦って親指を立てた。胃の調子を整える効果があるらしい。口に含むとクラッシュ氷に砂糖を少し混ぜた味がした。陳の巨体には優しいだろうが私には少し重たい気がした。少し口に含んだだけで飲み干さずにホテルに持ち帰りトイレに廃棄した。ホテルに戻ると今日3度目のシャワーを浴び、2度目の洗濯をしてベットに横になった。なんの抵抗もないまま睡魔に襲われて朝のモーニングコールを迎えた。
8月18日(木曜日)
午前6時30分、仲里と共にフロントで待っていると秦がやって来た。陳が降りてこないのでフロントから呼び出した。午前7時から始まる朝食をキャンセルして車に乗り込んだ。秦が笑いながら言った「陳さん、ポルノテレビ見て、朝寝坊した」。昨日の洋品店主の運転する秦のワゴン車で空港に向かった。台北の朝は交通混雑が激しく、空港まで1時間20分を要した。着いたのが7時40分である。既にチケットの予約が済んでおり、秦からフライト予約表を受け取った。チケットカウンターで各自のカバンとランを詰めた3箱の段ボールを預け、重量超過料金を払い搭乗チケットを受け取った。沖縄を発つ前に仲里と私のパスポートのコピーをPdfメールで送ってあり、秦がフライトスケジュールを予約してあったのだ。秦は旅行経費として20,000円を要求した。チケットの割引差額であるのか、タイでの飲食代であるのか良く分からない料金の算出であるも安いにこしたことはない。午前8時30分、何らのトラブルもなくイミグレーションを通過した。我々はファーストクラス専用のラウンジで無料の軽い朝食を取った。軽食のラウンジであるがラーメン、うどん、餃子、シュウマイ、サンドイッチと豊富なメニューである。飲み物は缶ジュース、ビール、ブランデーまで揃っている。秦の勧めで早朝からラーメン、蒸し餃子、ブランデーをセルフサービスで取った。
CI-693のファーストクラスの座関はいつものエコノミークラスと異なり、座席が広くゆったりとして心地よい。3時間の旅も苦にならないだろう。離陸して1時間ほどで昼食の機内食である。機内食は定番の弁当箱タイプでなく、食前酒、前菜、メインディッシュ、デザートまで付いている。3種類のメニューからローストビーフを選んだ。エコノミークラスの狭い座席で、隣の席の客人の肩に触れるのを気にしながら食事をするのとえらい違いだ。秦とお喋りをしながらゆっくりと食事を楽しんだ。秦はチャイナエアラインの乗務員の女性を度々呼んでブランデーを3杯注文した。しばらくして乗務員が通路を通りながら免税品の販売を始めた。秦が呼び止めてタイの客人への土産として、ブランデーXOを免税価格の95米ドルで買った。各自1本ずつの負担である。座席に付いた画面で映画を見ながらうたた寝をしているうちに機体はタイのドン・ムアン国際空港に向かって降下を始めた。機内放送で目覚めて、乗務員の指示に従いシートベルトを締め直して窓の外を眺めた。飛行場は樹木でセパレートされた細長い芝の広場が連続する不思議な景観であった。不思議に思って注視していると機体がガクンと揺れてタイヤを出して着陸態勢に入った。ランディングの直前に200ヤード先のティグランドでクラブを振りぬくゴルファーの姿を見つけた。よくもまあ頭上から降り注ぐ旅客機の爆音の中でゴルフが楽しめるものである。国が変わればゴルファーの遊ぶ場所も変わるようである。
ボーディングブリッジを渡り、細長いボックス状の通路を歩いていると、CB無線を手にした空港スタッフの若い男ががやって来て秦に話しかけた。
「先輩、パスポートを出してください」と秦が言った。
僕らのパスポートを持って男はイミグレーションボックス内の入国審査係官に何かを話してパスポートを渡した。肥った女性の入国管理官は眼鏡の奥から僕らをジロリと一瞥して入国審査印をポンポンと押して男に渡した。僕らはパスポートを受け取り、男の後ろに続いて進んだ。長い列となって入国審査を待つ旅客の不審に満ちた視線を感じながらその脇を進んだ。入国審査官は僕らを無視して作業つづけていた。僕らはまるで最慶国の貴族の扱いであったが、今にも入国審査官に呼び止められる気がして振り向かずにボックスの横をすり抜けた。僕らは手荷物やランの入った段ボール箱を台車に積み込み出国検査ゲートに向かった。僕らを引率する男が係員に何かを告げると何らの検査もなしで出迎えのロビーに出ることが出来た。それを確認して引率の男はCB無線で何かを話して引き返して行った。私には信じ難いことであったがこの国の経済界のキング、シェル・カンパニーのオーナーの権力であろう。ロビーにはボルネオのゴメス・シムが若い女性と待っていた。仲里も私も個別にボルネオ島の旅行の際に現地ガイドとしての親交があった。秦の説明にはなかったがこの旅の同伴者らしい。
「ハロー、シム、ウェイティング、ロング」「ドンチュウ、ボーディング」(久ぶりだなシム、待たせて退屈しなかったかい)と話しかけた。「オー・ノープロブレム、ナイス、ミーツユウ」(全然、久しぶりだな)と握手を求めて来た。仲里とも懐かしそうに握手をした。
空港の外の路上は相変わらず訳の分からぬ混雑であった。出迎えの人々なのか客引きの怪しい職業の輩なのか日本や台湾には見られないカオスの空間である。こざっぱりした制服を着た如何にも会社のお抱え運転手らしき40代の男と空港警備員にガードされたトヨタの高級ワゴン・アルファードが待っていた。警備員が見守る中で運転手が手伝って荷物を積み込むとゆっくりと喧騒の空港から脱出した。
ガイドのユイ嬢
運転手の名前は発音が難しく失念したがシェルカンパニーの職員である。ユイと名乗った30歳前後のガイドは社長がよこした女性である。社員か否か問うことも無く旅を続けることにした。くだけた会話から社員ではなく、社外のガイドを生業にした女性のような気がした。
助手席にユイ、2列目に秦と図体のデカい陳、後部座席にシム、仲里、私だ。シムは細身だが私と仲里はそれなりにデカい。多少窮屈なドライブとなった。
小柄で色白の中華系特有の顔立ちとストレートの髪を薄茶に染めたユイ嬢はタイ語、広東語、癖のある英語を話した。日本語は全く駄目である。この国で経済的に豊かな人々は中華系が占めており、とりわけ中国南部地方出身の家系である。それ故広東語圏とも呼ばれているのだ。寒い上海、北京の漢民族系でなく、ベトナム、ミャンマーと国境を接する多民族の人々からなる華南人を先祖とする人々である。秦や陳先生の一族も祖父母の代に広州からやって来たらしい。台湾、広州の男性の話す広東語は騒々しいがタイ、マレーシアの中華系の人々にとっては地域ごとの方言に類する変化を生じたのか、イントネーションが穏やかである。ユイの鼻にかかった話し方は何とも艶めかしく聞こえる。会話の意味が解らぬせいもあるだろうが、私の耳には悪い響きではない。
空港を出たワゴンはバンコクの南東120㎞に位置する海浜リゾート地のパタヤに向かった。バンコクの異常な喧騒を抜けて3時間余りのドライブである。バンコクの渋滞から逃れた頃、高速道路料金所手前の食堂で少し遅い昼食を取った。十分な朝食と活動もせずに機内食を食べたせいで空腹感は無かったが、喉が渇いたのと、僕らは手足を十分に伸ばしてタイの郊外の新鮮な空気を吸い込みたかったのだ。
この国の庶民相手の食堂の造りは壁が無いのが特徴だ。日中はとても暑く風通しが悪くては飯が食えないのだ。尤も閉店後は野盗に備えて雨戸をしっかりと閉じている。壁があるのはクーラーを備えた高級レストランだけだ。そのような店は外国人の味覚に迎合しているので、大抵の場合ホテルのレストランの延長線上の味に似ており、本物のローカルの旨味に出会うことは少ない。
店に入り、シム、ユイ、運転手のテーブルと台湾から来た僕らのテーブルに分かれた。店内の陳列棚にはタイの醬油ベースで煮込んだこげ茶色の豚の足が積まれていた。秦がそれを指差して2皿分を注文した。沖縄のテビチである。テビチは予め7㎝程度に切断してから調理するのであるが。足を膝の部分から下をそっくりそのまま調理されている。テーブルに出されたのは骨を取り除き適度の大きさに切断された皮付きの肉とエンサイの炒め物である。定番の香草パクチーを刻んで振りかけてある。香辛料が効いているが間違いなくテビチである。小皿に取り分けて口にすると、油が適度に抜けた肉とコラーゲンたっぷりの軟骨、そして味が浸みこんだプリプリした皮の部分はたまらなく美味い。刻んで振りかけたパクチーがタイ料理の魅力を存分に引き出している。スープは鶏ガラダシの細麺の入った薄味のヌードルである。濃い豚肉の味で染まった口の中をスープが洗い流してくれる。テーブルにはコショウ、赤唐辛子の粉末、生の青唐辛子の輪切り、シシトウに似た厚肉の唐辛子のピクルス、ナンプラー等、幾つもの香辛料があり、それぞれの好みで辛みを加えるのだ。メンバーはだれも激辛を好まない。現地人の運転手とユイは僕らがラーメンに七味唐辛子を振りかける仕草でごく普通に香辛料を振りかけていた。暑い昼下がりと辛味の効いた昼食にはビールが良く合う。タイのビールは国産のシンハービールとライセンス生産のハイネケンビールが主流である。僕らはこの先つとめてシンハービールを飲むことにした。外国人が地元のビールを注文すると店員の表情が和むのである。
店を後にしてパタヤに向かう高速道路に入った。料金所の道路脇に事故で酷くクラッシュした3台の車両が錆びついた状態で放置されていた。交通事故の恐ろしさを喚起する処置であろうが、極めてダイレクトな表現である。高速道路と言っても、日本の様にガードレールで完全にセパレートされているわけではない。道路下に原野が広がり、道路わきの砂利の広場に食堂やら雑貨屋等がある。無論高速道路に侵入できる脇道は無いのであるが、いたってのんびりした風景が見られるのである。高速道に入る前の街角に肩から赤と黄色のラインの入ったタスキを掛けた上品な女性の写真が数多く見られた。少し気になったのでユイに尋ねると国王の奥方、王妃とのことである。何やら記念事業があるようだ。タイは王室と国民の間に親密な繋がりがあるようだ。何しろ王室を非難すると逮捕されるとのことである。現代の琉球人である私には想像もつかぬが、大戦前の日本の皇室もそうであっただろうか。
ビールのアルコールで私は1時ほどうたた寝をしていたようだ。気がつくと大型のコンテナトレーラーが増えている。パタヤの手前20kmにあるレムチャバン貿易港からバンコクへ荷物を運ぶ車両である。ワゴン車の中は静かで、先ほどまでユイをからかっていた秦も熟睡している。私は秦の横顔に今夜の長い夜の為に充電している不穏な気配を感じていた。
コンテナ車の群れ
タイランド湾に沿って海岸をカンボジア国境まで続く有料の幹線道路3号線を左折してパタヤの街に入ったのは午後5時頃であった。バンコクよりも欧米人の姿が増えていた。大柄な欧米人の男が小柄なタイ女性と連れだって街角に立っているのも少なくない。親子ほども齢が離れた小娘を伴い、半ズボン姿のラフな身なりは落ちぶれた不良外人の姿にも見えた。パタヤビーチリゾートは1960年代から開発が始まった。ベトナム戦争の帰還兵の休息地、あるいはカンボジア内戦に備えたタイ国内の米海軍の駐留地などもあり、次第に近代的なリゾートホテル群が形成されていった。当然のごとく歓楽街も広がって行った。私は1983年に初めて訪れて以来4回目の訪問である。訪れるたびにホテルは近代化されていた。当初の建築ラッシュが治まり、町並みは落ち着いていた。魚介類を焼く煙や麺類、スープの湯けむりにむせる屋台、夜風が吹き抜ける食堂、夏祭りの夜店にも似た雑多な土産物を売る店が並んだ繁華街は、大小のショー劇場や電飾の施されたバー、レストランへと変わり、この時間は小奇麗に化粧して夜が来るのを待っていた。この街の変化は他にもあった。コンビニのセブンイレブン、店の看板が中国語の中華料理店、日本語のすし店、ハングル文字の焼肉レストランが幾つか見られた。アジア極東地域からの旅行者も増えているのだろう。僕らもその仲間に違いないなのだが。
ホテルの前庭、奥はゴルフコース
僕らはダウンタウンの喧騒地帯から少し離れた海岸の低い崖に面したアジア・パタヤ・ホテルにチェックインした。私と仲里、シムと陳、秦と運転手、ユイはシングルルームである。ロビーには欧米人、韓国人の姿があった。ミニゴルフコースを備え、若者の姿はなく年長の宿泊客らしい2,3のカップルがロビーのソファーでくつろいでいた。幾らかハイクラスのホテルのようであった。東南アジアの中級以上のホテルではパスポートの提示を求められるが、このホテルではご丁寧にコピーを取ってから返した。テロ対策の意味があるかも知れないが少し不快感が残った。尤も、宿泊メンバーはタイ人2名、マレー人1名、台湾人2名、日本人らしからぬ浅黒い肌の男2名の不可解な構成であり、巨大企業シェルカンパニーの紹介客である。
段ボール箱を車に残し、バッグだけをカートに乗せた。カートを運ぶベルボーイの後に付いて4階に上がった。秦はカートのバッグを指差しては各部屋の前にバックを降ろさせ、最後にチップを渡した。ボーイは部屋ごとに貰えるはずのチップを1回分しか貰えなかった。ボーイが「サンキュー」と言って去っていくと。
「センパイ、頭イイ」と笑いながら人差し指で自分のこめかみを差して日本語で言った。秦は旅慣れているのかケチなのか良く分からない男である。夜遊びで金遣いが荒いが20バーツ(60円を)倹約する知恵もある。
私は念のためにトイレで便意を片付けてロビーに降りた。午後6時半の明るい時間にダウンタウンに向かった。最初に入ったのがパタヤに多いマッサージ店である。私は肩こりを知らぬ人間である。マッサージが特に好きでもないがお付き合いだd。ユイと運転手殿はコーヒータイムだ。5名は浴依に着替えて広間に並んで横になった。店内は全てが見通せる造りで、韓国系、中華系の客があちらこちらに寝転がっていた。欧米人の姿はなく私と同じで肩こりが無いからであろうか。マッサージ嬢は20代である。8年ほど前に熱帯果樹の国際シンポジュームでパタヤを訪れ、友人4名で会議を抜け出しマッサージを受けたことがあった。その時は額に赤い紅を付けたインド系の女相撲取り並みの女性が力強いマッサージを施し、皆が悲鳴を上げたものである。
マッサージは仰向けに寝て、爪先から体の表面を頭に向かって進み、うつ伏せになって足の裏から頭部に向かって指圧を進めて終了した。ふくらはぎと腰にタイガーパームオイルを擦り込んでおり、エアーサロンパスをスプレーした感があった。マッサージは1時間コースであった。タイに到着してから両替をする機会が無かったので手持ちのバーツを持ち寄って支払った。よく覚えていないが600バーツ程度であっただろう。マッサージ嬢は訓練学校を出ていると話していたが、インド女性ほどは私の筋肉を弛緩させてはくれなかった。車に戻ると辺りはすっかり夜が始まっていた。
夕食のレストランに向かう途中でハングルハン文字の看板に明かりが灯っていた。レストランにカラオケバーである。未だ日本ほど贅沢な街灯の明かりが少ないこの地区では、セブンイレブンの赤とグリーンのラインが目立った。店の中には地元の人間でなく旅行者らしい数人の人影が動いていた。コンビニエンスストアは何処でも旅行者にとって便利な存在である。
レストランは100名程が収容できる割と広い店である。むろん壁となる仕切りはなく屋根を支える柱が立っているだけで店内の端まで見通せる造りである。
ユイと秦が写真付きのメニューから料理を選んでいる間に僕らはビールを注文した。ビールは此処でも冷えておらず、氷の入ったグラスに注いで冷やすのである。ビンをテーブルの上に置くのでなく、テーブルの傍らのワゴンにビール、コーラ、ジュース、氷の入った容器を乗せて各テーブル付きのボーイが次々と注いでくれるのである。グラスのビールは常に満たされている。
タイに来て初めての晩餐である。ワゴンで運ばれてきたパサパサのタイ米をボーイが各自の大きな皿に取り分けてくれた。その皿にメインの料理を取り分けて食べるのだ。コメと料理を適当に混ぜて食べるのである。日本米だと料理から出る油や汁でベチャベチャになって食えないだろう。タイ米でなければこの国の料理には合わないのである
ブー・パッ・ポン・カリー:大ぶりのマングローブ蟹をぶつ切りにして、ネギ、カレーソースに溶き卵を絡めて煮てある。最初は上品にフォークとスプーンで身を解して食べていたが、しだいに手づかみで嚙みついて殻をテーブルに置いた。テーブル付のボーイが時折その殻を片付けてくれた。
チューチー・クン:大ぶりのエビをココナツミルクとカレーで炒めてある。
トム・ヤム・クン:よく知られたタイ料理だ。酸っぱくて辛いスープには刻み葱やショウガが薬味に使われている。大きなドーナツ状の鍋が火にかけられ、この店の具材のエビがごろりと入っている。小ぶりの椀に取り分けて食べるのだ。
プラー・チョーン・ペサ:40㎝程の蒸した白身の魚に酸味のある餡かけ料理だ。あっさりとした味である。この店では生簀で飼っているヤイトハタ(沖縄ではミーバイ)を調理してある。亜熱帯のサンゴ礁に住む高級魚である。テーブルには3種類のトロっとした薬味の醤油が小瓶に入っている。手元の小皿に差して使うのだ。いずれも辛い味だ。
トート・マン・プラー:魚のすり身に千切りのインゲン豆を混ぜて揚げた蒲鉾だ。直径10cm、厚さ1cmの円形蒲鉾である。スプーンをナイフ代わりにして小さく切り取って薬味のたれに浸けて食べるのだ。八重山蒲鉾が数段美味い。すり身の材料である魚の質が異なるのであろう。この辺りで盛んな養殖淡水魚かも知れない。
クン・パオ:クルマエビの大きさのエビを網焼きにした料理だ。緑色の辛めのタレに浸けて食べるのだ。エビの香ばしさが口内に広がって何とも嬉しい気持ちになる。エビは網焼きが一番美味い。子供の頃の川遊びで、手長エビを河原で焼いて食べた記憶が蘇った。
その他に赤貝の網焼き。エンサイ、ツル野菜の炒め物を取り分けて食べた。
デザートはパインとスイカである。この国のパインは本当に美味い。よく食べてよく飲んだ晩餐会であった。
レストランを後にしたのが午後9時半であった。秦は車中から携帯電話で誰かと話していた。セブンイレブン近くのショー劇場の駐車場に車を停めた。広い駐車場の両サイドにショー劇場が建っており、大人子供が楽しめる宝塚歌劇団タイプと男性向けのアダルトショー劇場だ。宝塚劇場タイプは派手な舞台衣装の美女が歌って踊る本格的なタイ式宝塚ショーだ。宝塚ショーと根本的に異なるのはスタイル抜群の美人の踊り子たちが全て元男性であることだ。この国がオカマ天国と言われる所以だろう。劇場前の広場は韓国、中華系の人々で賑わっている。数年前に私がこのショーを見た時は欧米人観光客が多かったが、この国での社会情勢の変化が現れていた。
僕らはユイと運転手を残して秦の友人が待っているという男性向けのショー劇場に入った。入場料金は400バーツでビール又はコーラが1本付いていた。1時間の見学時間でプログラムが1サイクル演じられる仕組みである。舞台には既に踊り子の姿があった。長身で手足の長いスタイル抜群の踊り子が上半身裸でハイテンポなソール系音楽に合わせて体をくねらせている。アメリカ映画に出て来るショーの雰囲気である。ステージは様々な色のライトが動きながら交錯して踊り子の姿をアップしている。踊りが指をパチンと鳴らして手拍子を要求すると、すり鉢状になった会場が踊り子の踊るリズムと一体となった手拍子の響で会場が盛り上がった。踊り子が軽やかな足取りで舞台を降りて幕内に去ると、反対側の間口から両端に火の点いた棒を振り回した筋骨隆々の男が出てきてポリネシア風の火炎の踊りが始まった。その次は裸の美女が観客の男性を舞台に上げて絡みつくお笑いのシャワーショーだ。その次に大きなまな板に乗った裸の美女が男性4人に担がれて舞台に登場した。体の上には料理が盛り付けされており、それを観客の男性が一人また一人と交代で手を使わず口でぱくつくショーだ。次々と観客一体となった愉快なショーが続いた。日本の盛り場の場末に僅かに残ったストリップ劇場で開催される卑猥なショーの雰囲気は無く、観客席には新婚カップルらしき姿も少なくない。僕らは秦の友人を見つけ、ショーが一巡した頃外に出た。秦の友人とは言うのは僕らを空港まで送ってくれた洋品店主の弟で台北の遊び仲間と3人で観光に来ているらしい。僕らはタクシーとワゴン車に分乗して移動した。午後11時を過ぎていた。日本時間の午前1時である。
車から降りたのはカラオケバーの前である。秦は既に彼の友人とカラオケルームの喧騒の中にいた。ユイを含めた客10名とホステス9名の饗宴である。中華系専用のカラオケバーであるらしく、台湾系の歌が多く、日本のポップ系曲もあったが私の好みではなかった。秦のカラオケ好きは有名だ。台湾、中国、日本国内とどこでもカラオケバー探し出して徘徊するのだ。しばらくすると秦はボーイを呼んだ。
「シックス・ダイス、ツー・ヌードルカップ。アンド、スモールグラス」そう言ってサイコロ3個と丼を2セット持ってこさせた。1個のサイコロをテーブルに置き、残りの2個をドンブリの中に転がすのだ。テーブルの上のサイコロの目と丼の中のサイコロの目が一致すると罰ゲームを受けるのである。3個のサイコロが一致する確率は1/6×2の30%以上だ。1個の目が合えば1回、2個の目が合うと2回の罰ゲームが待っている。小さなグラスに氷を1個入れてウイスキーを半分ほど注ぎ、罰の数ごとに1杯、2杯と一気に飲み干すのだ。ゲームは私と陳それに新しい台湾の友人が客チームでそれぞれの席に付いたホステスと対戦するのである。秦、仲里、台湾の友人も別のサイコロで対戦していた。ゲームに参加しないものはカラオケに興じていた。このゲームは言葉によるコミュニケーションを必要としないので、ホステスの嬌声だけで場が盛り上がる。サイコロの目が合うと私の知らないタイの方言らしき言葉で嬌声を上げる。目が合わないと勝ち誇った表情で隣のホステスにサイコロを渡す。ジョニーウォーカーのブラックラベルのボトルがたちまち空になっていく。ホステスたちは時々「ジャスト・モメント・ワン・ミニツ」(ちょっと待って)と言って席を外す。僕らはボトル3本をたちまち空にしてゲームを終えた。サイコロゲームの後でデスコダンスに興じた。踊る相手のホステスには50バーツをチップとして渡すのがこの店のマナーのようだ。私はチップ用にと常に米ドルの1ドル札を10枚程ポケットに突っ込んでいる。2ドルをホステスに渡した。ホステスが困った顔をしたのでボーイを呼んで「イッツOK」と言うと頷いてホステスに何やら話した。ホステスの顔がパッと明るくなった。この時期の為替レートでは50バーツより高いのである。2曲目の音楽が終わり席に戻る時にさらに1ドルを渡すと浅黒い顔の田舎娘が嬉しそうに笑った。国道3号線の東の外れのカンボジア国境にほど近い町トラートから出稼ぎに来て4カ月だと片言の英語で話していた。未だ米ドルを貰ったことが無いのであろう。
カラオケバーを引き上げたのが午前1時過ぎであった。ワゴンの中でシムが寂しい顔で話した。サイコロゲームの途中でホステスが「ジャスト・モメント」と席を立ってトイレに向かったのは、飲んだ酒を無理にやり吐き出す為である。不用意に強い酒を体に吸収させない彼女たちなりの自己防衛手段のようだ。小柄な女性が大男の陳や私と同じように強い酒を飲み干すと体がもたないのであろう。生活を賭けた女たちの哀しくもしたたかな商売根性である。このところの秦の酒場での遊びはスマートさが欠け、いささか品性が低下してきたような気がした。ホテルに着くと秦は「明日の朝食は7時30分です」と言って部屋に消えた。私が仲里のいびきを聞きながら眠りに落ちたのは午前2時頃であろうか。日本時間の午前4時である
8月19日(金曜日)『旧盆の日』
6時30分に起きて仲里と交互にシャワーを浴び、7時30分に1階のレストランに降りた。秦、シム、陳は既に屋外のテラスでコーヒーを飲んでいた。私はクーラーの効いた屋内でゆっくりと朝食を取りたかったが、トレーにパン、目玉焼き、カリカリベーコン、小ぶりのウインナー、サラダとジュース、コーヒーをのせて彼らの隣のテーブル座った。テラスの前の園路を挟んだ小さなプールでは欧米人で肉付きの良い初老の夫人が一人でゆっくりと泳いでいた。シムに向かって「グッドモーニング・ハブ・ア・グッド・スリーピング・ラストナイト」(おはよう。よく眠れたかい)と挨拶した。「ノー・ヒー・スノー・ビッグ」(あいつのいびきがうるさくて)と陳を指差して笑った。客のテーブルを巡回しているボーイにコーヒーを注ぎ足してもらいしばらく談笑した。ユイに誘われて仲里と共に海が見える崖の方に行った。朝の海風が心地よかった。崖はそれほど高くはなく、10m程降りるとプライベートビーチである。干潮らしく黒い砂浜が干上がっていた。この辺りの海岸はビーチコーラルではないようだ。沖縄の白浜とエメラルドグリーンの海の美しさが貴重な自然に思えた。ホテルの従業員らしき男が金属探知機で干上がった砂浜を調べていた。客の遺失物を探しているのかも知れない。
9時にチェックアウトしてホテルを出た。ホテルで1万円札をバーツに両替しておいた。ホテルの両替レートは不利益であるが仕方がない。旅先では円や米ドルが通用しない事態が起こるのが常である。バンコクに通じる国道に合流すると大型コンテナ車が多くなった。やがて高速道路に入り車は120㎞のスピードでコンブリの街を横目に見ながら通過した。しばらくして高速を降りてプランチンブリに向う幹線道路に入った。昨日の予定ではパタヤ近くのデンドロビュームの生産農家を訪ねる予定であった。仲里が少し交流のあるその生産者について秦に尋ねると、「ナーセリーはダウン、訪問は駄目ね」と言った。いつの間にかパタヤの北100kmの地点まで来ている。今日の旅の行く先は秦の気の向くままに動いているようだ。
タイの寺院
しばらくして走ってチャチューンサオの町に停車した。立派なお寺があり、道路を隔てて大きな市場があった。寺の敷地内に拝所があり、老若男女が蓮の花を買って仏様にささげて熱心に祈っていた。ユイが蓮の花を持て来て皆に配った。タイの人々に倣って床に膝をついてお祈りをした。今日は沖縄の旧盆の最終日である。遠くタイからでは私の祈りもご先祖様には届くまいと思ったが家内安全を祈った。只、外国の仏様からのお知らせにはご先祖様もさぞかしびっくりするだろう。沖縄方言に慣れ親しんだご先祖様に、この地の仏様のタイ語は理解できないであろうと少し情けない思いがした。拝所の近くの建物の一角ではタイの女性が伝統的な衣装での独特な舞を披露していた。この踊りは寺だけでなく街角の拝所でも踊っているのを何度か見かけた。見物客が多いのでもなく、投げ銭を求めたショー的な行為でもない。仏教の国の不思議な習慣の一つである。
何でも市場
道を横切って向かいの雑貨市場をブラブラと覗いて回った。小エビ、小さな蟹のカラアゲ、もち米に何やら具を混ぜてバナナの葉に包み、炭火で焼いた食べ物が香ばしい香りを漂わせていた。沖縄では月桃の葉に水で練った餅粉を包んで蒸した逸品があり、ウニムーチーと呼ばれる古くからの冬の慣習が残っている。同じ材料を竹筒に詰めた焼いた一品もある。ミドリガイの剥き身を扱う鮮魚店は6畳間程の海産物食堂も兼ねている。ここでもビンローの実を扱っている店がある。台湾ではウズラの卵より少し小さい実に特殊な石灰ペーストを挟みニッキの葉で包んで売っている。噛んで所構わず唾を吐き出すのである。吐いた唾が赤茶色に変色して見苦しい跡を地面に残す。決して行儀の良い嗜好品ではない。今時の若者の間では流行らない嗜好品となっている。この市場ではスライス乾燥して薬味として利用しているようだ。所変われば嗜好も変わるのが世の常だ。
海老と蟹のフライ
市場はトタン葺きの屋根が連続して100m四方程の広がりがあり、食べ物、衣類、荒物類等、日用品の全てが揃っているようだ。秦と陳は今晩の酒の摘まみ使うつもりかエビ、カニの揚げ物、蒲鉾に似た団子状の食べ物を買って市場を出た。車の近くに宝くじ売りの青年が立っていてしきりに売り込んでいた。私は5枚セット100バーツの券を買ってユイに渡した。「ハブ・ア・グッドラック」と言うと大きな声で笑って「サンキュウー」と言った。4日後にタイを発つので宝くじの当落を知ることは無いだろう。途中の屋台で買った椰子の実ジュースがとても美味かった。スポーツ飲料のポカリスエットに似た味で昨夜の酒盛りでくたびれた体には妙薬であった。表面の皮を削ったソフトボール大の台形で、持ちやすい手ごろの大きさだ。トップの穴にストローが差し込まれて中身をこぼすことなく飲めた。ヤシの実ジュースは300ccぐらいの容量であっただろう。
混雑の無い市街地の道路を1時間ぐらい走ってプランチンブリの町に着いた。軍服に似た制服を着た若者がバイクで行きかう姿が多くなった。80ccクラスのバイクに2人乗りが多い。男女ともカーキ色の制服で肩にワッペンが付いていた。ユイに彼らはミリタリースクールの学生かと尋ねると、農学校の生徒だと答えた。昼食時間には校舎の外に出て昼食を取る学生が多いのであろう。台湾を含む東南アジア諸国は外食産業が盛んである。地方の農村でなければ大抵は屋台で加工された食材を求めて帰宅して食する習慣が普通である。朝の通勤時も同様で早朝から屋台は賑わっている。タイではホワイトカラーの職業を解雇されると、屋台での飲食業に転ずる人は珍しくないのだそうだ。少ない元手で開業できる実践的な商売である。但し味の世界がそれなりに厳しいのは万国共通の現実である。
あまり大きくないレストランを見つけて7名で中に入った。店舗脇に生えたホウオウボクの大木の樹冠が店の屋根を覆って良好な日陰を作っていた。市街地の中でも風が心地よく吹き抜けた。円卓でなく横長のテーブルに向かい合って席を取った。給仕係が運んできたビールは相変わらず氷入りのグラスで飲むスタイルだ。シム、ユイ、運転手はコーラだ。
「センパイ、ボーイはレディね」と秦が言った。
細身で浅黒い肌の中華の血の混ざらない整った顔立ちの純系のタイ人に見えた。中背で手足が長く手の平が女性にしては大きかった。僅かだが喉仏があった。小学生のような未だ蕾の胸でもしっかりとブラジャーを着用している。白いポロシャツから透けて見えた。立ち振る舞いは柔らかくおキャンなユイよりもはるかに女性的である。向かい合った4名で代わる代わる観察しては暇つぶしの話題とした。そのことを知ってか知らずか、取り皿を片付ける際に陳のポーチとズボンに残り汁をこぼしてしまった。秦も僕らもそれ見たことか爆笑した。そのミスターレディが慌てて腰の布を取って陳のズボンを拭いた。それを見て再び笑ったが誰も彼女を罵ることはなかった。なんてことも無いトラブルが僕らを楽しませてくれただけである。
最初に冷えた10cm程の茹エビの一山でビールを飲んだ。味は今一だが次の料理が出て来るまで皮を剝いては香味料を付けて口に運んだ。
ホーイマレン・オブ・モーディン:蒸したミドリガイ
オースアン:小さな牡蠣をカレー風味で炒めた品で新鮮なコショウが房ごと入っている。
カイ・ヤーン:鶏の炙り焼きをぶつ切りにした一品
プラー・カポン・ヌン・シーュ:蒸した白身魚の淡水魚にピーマン、ネギなどの野菜を炒めて絡めてある。
パット・カナー・ムー・グローブ:小指大の豚バラ肉を唐揚げにしてカイラン菜と一緒に炒めた品。豚肉の甘辛味とカイラン菜のポリポリとした歯ごたえが絶妙である。
上げ蒲鉾のトート・マン・プラー:昨夜の夕食でも食べた品と味に差はない。
トム・ヤム・クン:昨夜のスープと酸味、味の濃さが微妙に異なっていた。この料理は店ごとに特徴が明確に現れるようだ。
本日も2,000バーツで十分すぎる昼食を楽しんだ。
午後2時にレストランを後にした。プランチンブリの町から30分ほど走って目的の別荘の入り口に着いた。途中でウオン・タクライ国立自然公園への案内標示板があった。ゲートからサンダンカが小奇麗に刈り込まれて続いた。1km程進むと大きなパラボラアンテナを備えた別荘に着いた。200mほど離れて丘の上に温室群が見えた。別荘は広い池に面した静かな佇まいである。前庭の池の中央には中国風の東屋があり、水面に姿を映し遠くの山並みに溶け込み、中国の山水画を切り取って来た感があった。池は雨季のせいか多少濁っていた。この場所から見える風景は遠くの山並みのウオン・タクライ国立自然公園のすそ野から全て私有地である。72ヘクタールの国営沖縄記念公園の4倍を超える面積だ。オーナーはタイシェル石油の社長ドクター・フーと呼ばれる人物である。この別荘を訪れる人々は彼をドクターと呼んでいるようだ。2階建ての別荘は1階の中央部は風が通り抜ける大広間、両サイドにゲストルームがそれぞれ3部屋でベッドが2台のツインルームで20畳ほどの広さがある。時によってはベットが複数台持ち込める広さである。シャワールームとトイレは部屋の外側の木造である。2階は大柄スクリーンを備えた大会議室とオーナーの部屋らしい。衛星中継を利用した社内会議が可能とのことだ。
ドクターの別荘
管理人は姿を見せぬが既に来客の手配が済んでいるらしく、秦の指示で僕らは荷物を割り当てされた部屋に運んだ。秦は以前も訪れたことがあるらしく、くつろいだ姿勢でソファーに座ってユイと雑談を始めた。私と仲里はオーナーが来るまで1時間ほどの仮眠を取った。クーラーが効いているわけではないが、建物の天井が高くゲストルームの仕切り壁の上から風が抜けていくので涼しかった。広い湿地の草地を渡ってくる風が気温を穏やかにしているようだ。車中でうたた寝をしたとは言え昨夜はベットで4時間足らず浅い眠りだけである。それに台湾で1時間、タイで1時間の時差を強いられて睡眠のバランスが少々綻んでいるようだ。携帯電話のタイマーを4時にセットしてベットに横になった。
池の中の東屋
午後4時過ぎにドクターとマネージャーがやって来た。ドクターは小柄な中華系の人物である。名刺を差し出して挨拶をするとドクターではなく、初老のマネージャーが自分の名刺を渡した。英国貴族の執事の立場であろうか、ドクターの名刺は出さぬことになっているらしい。まさにキングの慣習なのであろう。
ドクターは自ら別荘の周りを案内した。街路樹のアフリカンチューリップの根元周りを直径4m程円形に木枠で囲んでアランダ、モカラがオレンジ、黄色、紫と品種別にカラフルな色彩で配置されていた。花は咲いていなかったが、1m程の草丈のグラマトフィルム・スペシオスムが1m角の植え込みボックスで配置されていた。鳥の飼育施設もあり、4種類の孔雀と様々な色彩の小鳥が広いケージの中で飛び交っていた。白色の孔雀はとても貴重な品種だとのことであった。広い人工池には様々な水鳥が放鳥されていたが、いずれも海外から導入された種類らしい。植物の育成圃場、造成中の育林地など説明を聞きながら温室群に着いた。屋根の高いラスハウスが2棟あり、ヘゴに着生されたラン類、アナナス類、熱帯地域から収集された貴重な植物が育成されていた。1棟500坪程で膨大な植物のコレクションであるが、未だ十分なスペースが残っていた。300坪ほどのビニールハウス2棟は空調設備が設置されていた。台湾で主流のパット・エンド・ファン方式の施設である。コチョウランを中心に栽培されている。今日、仲里と秦が持ち込んだ蘭もこのコレクションに加わるのだろう。空調設備は導入したばかりでうまく作動しないとこぼしていた。陳が屋外のプラントを見て回り、フィルター設備が弱いようだ話した。ドクターは軽く頷いて後で詳しく教えてくれと言った。1万株程のラン類を保有しているらしいが、出荷場らしき施設はなく販売ルートに乗せる様子はない。あくまでもドクターの趣味の世界だ。開花株をどのように扱っているのか少し気になった。日が落ちる前に別荘に引き返した。施設に隣接する200坪程のマグノリアの栽培圃場では、白い花弁が光を失い始めた夕暮れの空間の中で樹冠の表面に競い合うように浮かび上がっていた。
タイガーオキッド
別荘の大広間に戻って雑談をすると、程なく辺りは闇に包まれた。屋外に民家の明かりは全く見えない。あらためて敷地の広さを実感した。闇が深くなるにつれて蛙の鳴き声が大きくなって来た。施設の周りは池である。幾種類もの蛙がそれぞれの縄張りを主張しているのであろう。夕食は市場で買った蟹、エビ、そして蒲鉾に炒め物が少し付いただけである。睡眠不足で胃の調子が少し衰えた私にとって晩餐会形式の食事でないことは好都合である。機内で買ったブランデーを飲みながら雑談を続けた。
「先輩は日本の造園の専門家です。植物の本も3冊書いているので何でも質問して下さい」と言った。秦が私をメンバーに加えた訳が分かった気がした。
「池のオオオニハスの成長が悪い。原産地の葉のように2mくらいにする方法は無いだろうか」ドクターが訊ねた。前庭のオオオニハスを見ていたのでその質問に答えた。
「貴方の池は深すぎる。植え込み鉢を直径2m、深さ60cmにして、水面から30cmの深さが適切です。要するに鉢を上げるのです」ドクターがメモを取った。
「先ほど見た池のオオオニハスは深い場所に植えられています。葉が水面に展開するまでにエネルギーを消耗しているのです。」ドクターは手を叩いて納得した。
「この植物は葉を大きく広げる為にとても多くの肥料を必要とします。たくさん与えて下さい」と言った。肥料という英語が思い出せず漢字で書くとシムがすかさず「ファテライズ」答えてくれた。
陳はパット・エンド・ファンの作動について回答した。
「池の状態からこの辺りは水質が悪いと思う。私のハウスも水田地帯にあるので水質管理に気を付けています。私のパットエンドファンのフィルター設備は5トン、3トン、2トンと3連式を使っています。必要なら業者を紹介します」。マネージャーが名刺のFaxナンバーを示してくれた。シムはボルネオの不思議な野生植物の紹介をした。人の顔よりも大きなアリストロキア、ネズミが落ちる程大きな壺をもつネペンティス、そして世界最大の花プロテアの移植について説明した。ボルネオには不思議なランが沢山あります、収集がお望みなら協力しましょうと答えた。ドクターとマネージャーはメモを取りつつ謙虚に聞きいていた。仲里には今回導入したオンシジュームとカトレアについて明日の午前中に農場で教えてくれと言った。秦はゲストを伴った効果があったとばかりに僕らに提案した。
「センパイ、仲里さん明日もここに泊まります」私はそら来た。秦の独走が始まった。仲里を見ると困った顔でポツリと小声で言った。
「タイに来てランの生産者を会わないなんてどうかしてるぜ」
私は秦に対する不快感を表に出さぬように穏やかに諭すように言った。
「秦、私も仲里もタイには友人がいます。タイに来た場合、彼らの農場を訪問しなければいけません。貴方も知っているミスター・カリーから必ず農場を訪ねてくと言われている。彼に合わずに帰ることは出来ません。来年の沖縄国際洋蘭博覧会で再会した時にクレームがきます。それに今度タイに行くから会おうと伝えてあるのだ。」
「私も彼にそう伝えてあるよ」仲里が相槌をいれた。
「それに、時間に余裕があれば、古い友人のミスター・塩谷にも会いたいしナ」と付け加えた。
「カリーはタイ国蘭協会の副会長、とても忙しいです。会長のサガリック先生が年寄りでカリーが仕切っているから、会えるかどうか分かりません」と秦は言った。
私や仲里も方便だが秦の意見も全くの方便である。
「オーケー秦、僕らは明日の午後カリーに会いに行くから、貴方は此処に泊まってのんびりしてくれ。カリーが忙しいならミスター・塩谷に頼んで幾つかのラン園をチェックしましょう。明後日にバンコクで合流しよう」私は半分本気で秦を脅した。仲里も私の意見に納得したような表情を秦に向け「イエス、アイ・シンク・ソウ」(そうしましょう)と言った。秦はゲッとした表情に変わった。ドクターの前で仲間割れすると秦のメンツが潰れるのを承知で吹っ掛けたのである。仲里はタイでの取引が多いし、私も最悪の場合、何度も取引しているSオーキドの塩谷勝にコンタクトすれば何とかなるだろうとの考えがあった。塩谷は秦の関係はよろしくないが陳先生との関係は良好である。塩谷は秦のことを金持ちのチンピラと見下しており、秦は塩谷のことを、日本を追われたヤクザモドキと敬遠している。私が塩谷と取引があることを秦は知っているのだ。僕らが別行動を出来ることを秦は解っているのだ。ドクターは僕らのやり取りを聞いて携帯電話で何やら話した。
「オーケー、カリーとコンタクトしました。明日の午後は農場いるので訪ねてくれと言っている」
「ありがとうございます。明日の午前中はフリーですから何でもお尋ねください」と礼を言った。
明日のスケジュールが決まった。懇親の場に穏やかな空気が流れた。仲里と陳はユイの通訳で温室管理の現地スタッフに栽培レクチャーをする。私とシム、秦はドクターともに農場を巡回しながら開発とそれに伴う熱帯植物栽培のアドバイスをする。昼食後に別荘を出てバンコクに向かう事になった。私は明日のスケジュールが希望に近い方向で決まったことで安堵したが、僕らを招待してくれたドクターの前で仲間の不協和音を晒したことが少し恥ずかしくなった。
午後7時過ぎに席を外して妻の携帯に電話した。既にご先祖様の見送り(ウークイ)を済ませたようで集まった親戚と雑談しているとのことだ。母に電話を代わると何やら拍子抜けしたことを話した。母にはタイが何処にあるのかも分らず、ただ仕事で旅先に出ており、今日の行事に参加できなかった事実だけを理解しているのである。今年83歳の母は7前から肺気腫を患っており、酸素過給機と繋いだ細いビニールパイプを引きずりながらの生活だ。8部屋、50坪のコンクリート平屋の中を唯一の生活空間としているのだ。現在は父と妹家族の5人暮らしであるが日中の殆どを一人で過ごしている。携帯用小型ボンベで通院する以外はほとんど外出しない生活である。父の兄弟家族、子供、孫を合わせて20名以上が集まる年に一度の親族の集まり、旧盆の最終日に顔を出さなかった懺悔の念が残った。携帯電話の通話スイッチを切るとタイと沖縄の実家の間に2時間の時差があることを不思議な現実として感じた。
僕らは雑談の合間に交互にシャワールームを使った。私がシャワールームに立つとシムが言った。
「ビー・キャフル、コブラスネーク」
「リアリー」と聞き返すと、シムと秦がゲラゲラと笑った。
「サノバ、ヴィッチ」といって笑ってシャワールームに向かった。
シャワールームは広場のフロアより3段ほど下がった壁が板張りのコンクリート土間である。本当にコブラが出そうな湿気の多い場所である。ガラス窓から満月が見えた。この満月が沖縄の実家の天空にも等しく冴えた月光を放っているとは思えなかった。持参したシャンプーと石鹸でサッと汗を流した。お湯は出ないが貯水タンクの水が日中の気温で温まっており気にならなかった。2年前ボルネオ島コタキナバル山の中腹2,000m地点にある山小屋で、震えあがるほどの冷水シャワーに比べると爽快であった。シャワーを浴びて再び雑談の中に戻り、散会したのが午前0時30分であった。少し片頭痛が出始めており酒の量を減らした。それでも土産として持ち込んだブランデー2本目が既に空になっていた。豪傑の陳が同行してラッキーであった。
8月20日(土曜日)
腹の調子は相変わらず今一つである。下痢ではないが何となく重たいのである。正露丸糖衣を飲んでも効果が少ない。自宅の薬箱に残っていた小瓶を持ってきたのだが糖衣錠は女、子供用である。黒く独特の香りがする丸玉がよく効くのだ。それでも私の内臓は今日中にはタイ料理に慣れてくれるだろうと思っていた。旅先で時折生じる僅かな体調の変化である。洗面を済ませて食卓に着くと、有難いことにお粥である。地鶏の茹で卵のスライス、薄味の卵焼き、醤油と香辛料で煮込まれた豚バラ肉の細切れ。それらの具材をお粥に好きな量を混ぜて食べるのだ。日本の梅干し付きのお粥ではないが、毎日続いた濃厚なランチ、ディナーに比べると胃袋に優しい朝食である。これにて正露丸はカバンの奥に押し込むことが出来そうである。
陳は持参したウーロン茶を入れた。ドクターのラウンジ・カウンターには湯沸かし器具、茶器のセットが揃っていた。日頃のおどけた表情を何処かに仕舞って真面目な顔でお茶を入れている。沸かした湯を茶器に注いで温め、腕時計を見ながら正確に茶のエキスを湯の中に絞り出した。美しい梅の浮き絵柄で制作された茶器だ。陳がトレーに並んだ小さな茶碗にウーロン茶を注いだ。急須とセットの梅の絵柄の白い茶碗の中に鮮明なウーロン茶特有の色が現れた。口元に運ぶと何とも言えぬ香りがした。少しだけ口に含むと渋みの中に僅かな甘みを含んだ上質のウーロン茶である。陳が小さな茶袋に取り分けて持参した、この日の朝の為の特級のウーロン茶に違いない。ウーロン茶の作法は、茶を熱いお湯で洗い、その洗い湯を茶碗に注いで温める。洗い湯をこぼした空の茶碗を鼻に近づけて茶の香りを確認する。沸騰中の湯ではなく、少し冷ました湯で茶葉を開いていくのだ。友人によると90~95度の温度で1分間が基本だ。陳が真面目な顔をして腕時計を見ていたのはそのためである。ドクターに台湾産の本物のウーロン茶はこれだと示したかたのだろう。私は彼の自宅やラン温室の休憩所で何度もティータイムを取ったが、その時の一品とは別物である。私も旅の土産に買ったり、プレゼントでもらった茶器セットがあるも、安物の急須と小ぶりのコーヒーカップでウーロン茶を入れて毎朝飲んでいる。私にとって作法に準じた茶の入れ方は些か面倒である。陳の入れたウーロン茶は私の胃袋を復活させてくれた。デザートには冷えたドリアンが出て来た。熱帯果実は食べる直前に少しだけ冷やすのが大切だ。温帯果実の巨峰、桃、リンゴ、ナシとは異なる。久しぶりに食べるドリアンは本当に美味い。目の前に出されると手を出さずにいられない果物のキングである。私にはこの果物には耐え難い果実臭があるという日本人の感覚が理解できない。
朝食が終わると昨夜の予定通りに陳と仲里とユイがランの栽培レクチャーに出かけた。私と秦、シムはドクターと共に植栽地を巡回した。広い丘陵地には様々な導入植物が植栽されていた。この敷地の開発に利用するための養生植物である。棚田には熱帯スイレンが品種ごとに植えられていた。私は熱帯スイレンは水深が深い場所での生育が悪いことや、容易に種子が出来て小苗となって水面を浮いて流れて浅い場所に定着する性質。この辺の土壌であれば施肥の必要は無いことなどを話した。熱帯スイレンには昼咲きと夜咲きの品種があり、夜咲きは夕方から翌日の午前10頃まで咲く。その特性を配慮して昼咲きと夜咲きの植栽場所を決めることが肝要だと説明した。シムはラスハウスに収集された野生植物の生育特性を説明しながらボルネオの野生樹林地に生えている植物を説明した。ラン温室では仲里と陳が農園管理スタッフに植替えの実演指導を熱心に行っていた。
ラン温室を出て水田跡地が湿地となった湿原の中の道路を歩いた。一軒の小さな民家が残っていて人の住んでいる気配があった。あれは何ですかと秦が問うと、老婆が住んでいるが来月にはこちらで準備した新しい住まいに移ると話した。そうすれば家を撤去してこの辺りは広い池に変わるだろうと言った。あまりに広く静かな閑静な景色になるねとシムが話すとドクターが頷いた。私は南米産のアロワナを放すと良いでしょう。僕らも公園の池で飼っており、繁殖力が強く、水面近くを飛ぶ昆虫を狙って50cmも跳ねる大型魚です。熱帯スイレンやオオオニハスの生える静かな池に無作意の動きを発生させます。静寂の中にある種のインパクトをもたらすでしょうと話した。ドクターが2度、3度と頷いた。新しいホテルなどの施設予定地、ゴルフコース、保養林、その他の植物園を設計中だと話した。ラン温室の裏手にも広大な丘陵地がひろがっているらしい。
2時間ほどの散歩で腹の具合が回復していた。運動不足で腸にガスが溜まっていたようだ。別荘の近くにはクチナシ、チューベローズ、イランイラン、ギョクラン、ジャスミン等、香りのある花を咲かせる植物が500坪程植栽されていた。クチナシとジャスミンは刈り込まれており、明らかに花を採取している様子である。ドクターは中華系の人々が好む香りのする芳香植物が好きなようである。ホールに戻ったのは午前11時前であった。仲里と陳は熱心にレクチャーしているようで未だ戻って来ていない。ドクターは何やら調整する事があるらしく2階に上って行った。秦とシムは応接広場で雑談を始めた。私はベランダ近くに置かれた緩やかに傾いた背もたれのある籐椅子に体を投げ出して目を閉じた。湖面を流れ来る風が心地よくスッと軽い眠気に襲われた。旅に出てガツガツと見聞した若い頃のスタイルが消え失せて、睡眠が取れるときに短い仮眠を遠慮なく取るのが常道手段となってしまった。とりわけ秦との旅ではそうしている。此処は異国のタイなのだ。入国と出国の時間だけが決まっていて、組織の制限が一切届かぬ空間である。秦のペースに巻き込まれるのも善しとすべきかと思って朦朧としながら吹き抜ける風を心地よく感じていた。ホールに人の気配を感じて起き上がると陳が戻って来て、ラン管理グループの幹部らしき4名の職員にレクチャーを続けていた。テーブルに置かれた鉢植えのラン類を前にして片手にブランデー持ってしきりに説明をしていた。広東語が分かるスタッフのようである。
広間の奥からドクターの手を叩く合図でレクチャーが終了した。ランチタイムである。昼食は別荘の料理人が腕を振るったようだ。名前の知らない淡水魚を蒸して、炒めた野菜を乗せた餡かけ料理。淡水魚特有の細かい骨があるも淡白な味で胃に優しい。トート・マン・プラー。茹でたエビ。豚肉とエンサイの炒め物。辛みを押さえたトム・ヤム・クン。デザートはソムオー(ザボン)の果肉。この時期のソムオーはとても美味い。旬の果物である。手毬くらいの熱帯系のミカンである。厚みのある果皮をむくと果実の入った大きな袋が出て来る。温州ミカンと同じだ。少し硬い袋をむいて中の果肉を食べるのである。剝いて直ぐにたべるのが肝要だ。乾くと粒状の塊がパサついてしまい食感を損なうのだ。午後1時30分、ドクターとマネージャーに何度も礼を言って別荘を後にした。秦は別荘に泊まり損ねたことに何の未練もないようだ。ケロリとして車に乗り込んで行き先を運転手に指示した。彼の頭にはバンコクの繁華街で遊ぶための青写真が既に焼き直して整理してあるのであろう。昨日の風景を今日風景に被せて引きずることが無い楽観者の典型である。恵まれた星の下に生まれ、その時々の都合の良い時の流れに身を任せて漂う風来坊の典型である。
水郷地帯の水路(左)
予定通りにナコーン・パトム県のカリーの農場に向かった。距離にして150kmであるが、交通渋滞の激しいバンコク市内を横切るので3時間半のドライブである。ナコーン・パトムは水の豊かな地域で郊外は水路が無数に交差した農村である。バンコクから高速道路を使えば1時間の距離だ。湿度が高くバンダ類やデンファレの栽培に適している。ほとんどのラン生産者は水田跡地にベンチや吊り棚を組んだ栽培方法だ。カリーさんの本名はカリアエット・ベジャバットであるが誰もがカリーと呼んでいる。カリーはノボーン氏、ブラナ氏と共同でレイクランド・グループを組んで海外取引を行っている。この地は別名レイクランドとも呼ばれているらしい。ノボーン氏はノボーン・ホワイト、ブラナ氏はブラナ・シャンシャインという日本で人気のデンファレの切り花品種を育成した人物である。
カリーは農場でオランダのバイヤーと話していた。バイヤーは150kgあろうか思われる鏡餅のように太い男で、運転手付のワゴン車で来ていた。助手席には納まらず後部座席を占有していた。カリーはバンダの中間苗を段ボールに詰めさせていた。中々忙しそうであった。秦が呼びかけると振り向いた。私と仲里を見つけると職員にバイヤーとの作業を引き継いでやって来た。2月の沖縄国際洋蘭博覧会で接待して以来である。笑顔で握手を求めて来た。腰にコルセットを締めている。浅黒い顔が妙に泥色に黒くなっていた。私はコルセットを指差していった。「随分儲かっているみたいだな。腰を痛める程に」と言うと「ノー、ノー」顔の前で手を振って笑った。持参した土産を渡すと笑顔で「サンキュー」と再び握手を求めた。カリーの農場は幅60m程で中央の作業棟を境に左側に鉢物のベンチと水際にバンダの吊り棚が70m程の面積であった。コンポストはヤシ殻で様々な品種が小苗の状態から開花株まで整然と並んでいた。通路には建築ブロックを敷いており、その上を歩いて農場を探索した。オランダのバイヤーはいつの間にか引き上げていた。彼の注文品の段ボールに輸出用の書類が張り付けられてあった。明日は国内の趣味家100名ばかりが観光バス2台で訪れる予定が入っているらしい。蘭協会の副会長になると国内各地の展示会に出かけて、審査や表彰式でのスピーチをするし、即売テナントも出店するので顔が売れるのである。この国の蘭協会のキングであるサガリック先生は貴族の出身で大学の元教授である。高齢でもあり一般庶民の蘭愛好家との対応はカリーやその他の若手の理事の役割である。台湾や日本国内のラン展示会でもそのような仕組みだ。ドクター・フーも愛好家の一人であろう。尤もドクターは電話で用件を依頼できる程の特別な存在に違いない。
私は那覇空港ビルの室内展示に利用する明るいピンク系のデンファレ1,000株ばかり調達を頼んだ。カリーは努力するが1,000株は難しいと首を振った。急がないので出荷の目安が付いたらFaxを送れと言うと、納得したようにオーケーと頷いた。彼のグループは海外向けのランを大量に扱う経営スタイルでは無く、趣味家向けの優良な品種を国内外に販売する経営である。
カリーは僕らを夕食に誘った。明日は忙しくてこの地域を案内する事が出来ない。近くの仲間を誘うから一緒に行きましょうと話し、一度事務所に入って戻って来た。運転手とユイにナコーン・パトムの町のレストランの場所を教え、自分の車で先に出て行った。農場は既にうだるような昼間の熱気が失われ、水郷地帯の湿った空気をはらんだ冷気が流れ始めていた。指示されたレストランに着くと仲間が既に席に付いてビール手にテレビを観ていた。テーブルの上には茹でた小エビの皿があった。僕らが隣の席に付くと直ぐに同じような小エビを盛った大皿が追加された。この国は東洋一のエビ養殖の産地である。日本の居酒屋で枝豆が最初に出されるのと同じレベルである。ほどなくカリーがやって来て乾杯が始まった。料理は鶏肉のショウガ炒め、焼いたミドリガイ、白身魚のタイ風ムニエル、豚肉の野菜炒め、それにトム・ヤム・クンである。レストランと言うよりも大衆食堂と言う呼び名が正しいこの手の店にはブランデーもウイスキーもない。もっぱらビールのオンザロックである。陳が店の棚から2合入り程度の茶色の酒瓶を取って来た。何だと聞くとユイがビンのラベルを見てタイ米で作った地酒だと言った。グラスに氷を2個入れて40度の透明な液体を注いで舐めてみた。まろやかな風味に乏しいが紛れもなく泡盛である。沖縄の泡盛もこの地から輸入したタイ米で作られているのだ。琉球王府の400年の薫陶をうけて酒としての醸造技術が格段に高度化している。現在ではフランスの国際酒類コンクールの蒸留酒部門で何度も入賞する品質となっている。泡盛の醸造原料米の生産国であるこの国に優れた酒が生産されないのは不思議である。この国の人々は琉球人に比べるとそれ程酒好きでは無いようだ。中国2,000年の王朝文化が融合して独自の文化へと変化してきた中国各地、台湾、沖縄の人民がアジアの中で特殊なくらい酒好きなだけかもしれない。紹興酒、高粱酒、泡盛は長い歴史の中で品質が高度に発達した酒である所以だ。要するに良い酒は酒好きの人民が作り出す文化の一面である。欧米のワイン、ブランデー、ウイススキーも同様な歴史的背景があるのだろう。
食堂の客はテレビのサッカーの放映に夢中である。タイにはセパタクローという竹製の毬を足で蹴りあって競うバレーボールに似たスポーツがある。タイのサッカーは国際競技として強くはないが、足を使った競技は人気があるようだ。確かにサッカー好きな国民らしく、放課後の学校の校庭でサッカーに興じる少年の姿を見かけることが多かった。
カリーに礼を言って食堂を出るとナコーン・パトムのシンボル的な寺院プラ・パトム・チュディがライトアップされて金色に輝いて闇夜に浮かんでいた。120mの高さと言われている仏教寺院だが、それ程の高さには見えない。この辺りには高層建築や町の灯りが少なく、奥行きのある深い闇の中に威風堂々と存在感を示していた。
バンコク市内に戻ってホテルにチェックインした。チャオプラヤ川沿いのホテルである。別名メナム「母なる河」と呼ばれるタイ国最大級の河川である。ホテル名は「ザ・ロイヤル・リバーサイド・ホテル」、ロイヤルの名が付くだけあって少し上級のホテルと期待した。ホテルの川に面したテラスから遊覧船が出ているようだがこの時間は係留中である。ホテルのフロントでパスポートのコピーを取ることはなかった。嬉しいことに2泊で一人部屋である。仲里のイビキから解放されるのだ。おそらく彼も私のイビキから解放されると思っているだろう。腕時計を見ると午後9時である。シャワーを浴びてルームサービスを頼んで、少しばかりの寝酒のウイスキーをあおれば旅の中休みに丁度良い。私は気分が軽くなってフロント嬢から部屋の鍵を受け取った。エレベータで5階まで上がり、仲里の隣の部屋に入った。荷物を置いて窓からチャオプラヤ川の向こう岸に広がる夜景を眺めて深呼吸をした。ホッとしたとたんテーブルの上の電話がなった。
「ハロー」
「センパイ、カラオケ行きます。カリーが待っています。仲里さんとフロントに直ぐ集合です」秦が使い慣れた日本語のフレーズを言って電話を切った。仲里の部屋に電話した。
「どうする」
「せっかくのカリーさんの誘いだから行きましょう」カリーを待たせては行かねばなるまいと覚悟を決めてロビーに降りた。
カリーの車に4名を詰め込み20分ほどでカラオケバーに着いた。1階は生バンドのセクシーシヨーで2階がカラオケバーであった。中華系の客がほとんどで地元の客も少しばかり混ざっていた。欧米人は皆無である。2階の右側の部屋にビリヤードのテーブルが2台置かれ、店のスタッフらしき青年と一目でホステスと分かる派手な衣装の女達がスティックを手に退屈そうに球を突いていた。スタッフの控室のような部屋であった。トイレを挟んで左側の部屋がカラオケバーである。10名程度が座れる席が2セットのありきたりの部屋だ。客は我々だけであった。1階の喧騒が嘘のような場末の店の感じであった。
真っ赤なソファーに座るとすぐにホステスがやって来た。上手く化粧したスタイルの良いあか抜けた美女たちである。パタヤの田舎娘と随分な違いである。この部屋を仕切っているママは黒のパンタロンに真っ赤なブラウスの少し太めの浅黒い肌の中華系の40前の年増の女だ。秦のことを知っているらしくけんか腰に広東語で詰りあっていた。私の横には背の高いホステスが座った。「センパイ、パタヤの女より美人ですね」「確かにバンコクの女は美人だね」と言うと秦がいつもの卑猥な笑みを口元に浮かべて小さく笑った。巨体の陳の横には可愛いちびのホステスが付いた。そのチビのホステスが陳の太い腕に抱き着くと、秦は二人の大きさを比べて大笑いした。確かにそのアンバランスが可笑しく皆で大笑いした。カリーが初めに歌い、シム、陳と歌った。仲里はカラオケが苦手らしく私にマイクを渡した。私は日本の曲目から石原裕次郎の「北の旅人」を探して歌った。「・・・夜の小樽は雪が肩に舞う」と演歌のサビを聞かせて歌った。くそ熱いバンコクまでやって来て雪が舞うも無いだろうと思った。この店のカラオケは歌手の声が小さくなっているだけで何やら海賊版の感がした。歌うテンポがずれると本物の歌手の声が流れて来るので少々バツが悪い。秦は私の正面に座り歌うでもなくママと何かをやりあうように広東語で話していた。「何だよ秦」と呼びかけると、秦が英語と日本語をミックスして答えた。「このママは前に来た時、酒を飲ませてダウンさせた」と愉快そうに答えた。テーブルの上のジョニーウォーカー・ブラックラベルが半分ほど残っている。秦は左手でボトルを持ち上げて言った。「一気飲みできる奴にこれをやる」アロハシャツのポケットから500バーツを摘まみだしてホステスの面前にチラつかせた。ホステスはボトルに残った酒と見比べてフンとした目線を秦に送った。秦はボトルをテーブルの上に置いてポケットから300バーツを加えた。ホステス視線が興味深げに秦の右手に集まったが誰も反応しない。私に付いているホステスがボトルを取って私のグラスに注いだ。秦はポケットから札束を取り出し1,000バーツ紙幣に取り換えようとしていた。その間に仲里のホステスがシムのグラスと合わせて2個寄こしたのでそれにも注いだ。ボトルの酒が3分の1ほどに減った。秦はボトルの酒の量を見ていなかった。手にした1,000バーツ紙幣をホステスの前に突き出し、口元に卑猥な笑みを浮かべてテーブルの端から皆にぐるりと見せびらかした。ホステスの目が丸くなって秦の手元に集中した。
陳の腕に抱き着いていた小柄なホステスがボトルをひったくり立ち上がった。秦が喜んで手をたたき「ゴー」と言った。
ホステスは上を向いてボトルからウイスキーを一気に喉に流し込んだ。15秒ほどの間を置いて息を整えて再びウイスキーを口の中に注いだ。この国のウイススキーボトルは口に絞りが付いており、ビールのラッパ飲みのようには飲み干せないのである。今度は少し長めに琥珀色の酒を喉に注ぎ込んでからボトルをテーブルの上に戻した。ホステスは荒い息使いで秦に向かって愛嬌のある顔で右手を差し出して金を要求した。皆の視線がボトルに集中した。哀しいかな酒は5分の1程残っている。秦が見逃すわけがない。「ノー、ワンモアトライ」と言って左手で酒瓶を突き返し、ちびのホステスに冷たい視線を送った。秦は女の愛嬌に妥協しないサディスティックな性格である。女は肩で息をしながら怒りに満ちた目で秦を睨みつけた。呼吸を整えると顔を天井に向け、残った150cc余りの酒を口に注いだ。一度息継ぎをして秦を睨んだ。目が潤んでいる。秦は「ゴー」と口元に冷たい笑いを浮かべて女をけしかけた。女は天井に向かってボトルを咥え、残りの酒を全て飲みつくした。そして一度、二度と小さく咳き込み、ボトルを逆さにして空だということを示してテーブルにゴロリと転がした。僕らもホステスも一斉に拍手を送った。秦も目的達成を喜ぶように誰よりも強く拍手した。ソファーに腰を下ろした女の双眸は既に正体を失っていた。女はやおらソファーの下から屑籠を取り出すと吐き始めた。カラオケのバックミュージックが女のうめきを小さくしていた。秦は女を指差したサディスティックに笑いだした。誰も同調して嗤う者はいなかった。ママは秦の手から1,000バーツをふんだくると女のブラジャーに奥に挟み込んだ。既に意識の飛んだ女をボーイがやって来て隣のホステスと二人で抱えて連れ出した。直ぐにジョニーウォーカーの半分入りのボトルをボーイが持ってきた。部屋の中に白けた空気が残った。カリーが困った顔をして私にカラオケのメニュー本を差し出した。カラオケ画面ではタイの人気歌手らしき男女がハイテンポで歌う映像が流れていた。私は「氷雨」を選んで歌った。「酔わせ下さいもう少し、今夜は帰らない、帰りたくない、誰が待つというのあの部屋に、そうよ誰もいないわ、今は・・・・・・」日本で流行った哀愁を帯びた歌のフレーズも仲里以外はだれも知らないだろう。陳の隣に新しいホステスが座った。真赤なミニスカートに肩から背中にかけて花柄のレースが施された黒い薄手のブラウスを着けていた。今度はちびの可愛い子ではなく、中肉中背の落ち着いた美人のホステスだ。陳のそばに座っても違和感が無いバランスだ。秦がびっくりした顔で口元を押さえて女の肩を指差した。室内の薄暗い照明で分からなかったが、花柄に見えたレース模様のブラウスは、肩から背にかけて彫られた刺青が空けて見えたのだった。女は秦の動きを知っているはずだが、何らの反応も見せずに陳に酒を勧めた。この店の年増のママは秦の悪ふざけをけん制するために訳アリの臭いがするホステスを寄こしたのかもしれない。新しいホステスが入ったことで空気が変わり皆はカラオケに興じだ。私に付いたホステスは英語が話せずコミュニケーションが取れないので、しきりにテーブルの上のツマミを私の口に運んだ。ピーナッツ、カシューナッツ、グァバ、パイン、スイカである。果物には砂糖、塩、唐辛子の混ざった薬味を振りかけて食べるのであるが何とも微妙な味である。カラオケを一通り歌って坐が白けて来たところでお開きとなった。午前1時過ぎである。閉店時間でもあるらしい。階段を降りると1階のステージからは音楽が聞こえてきた。駐車場にはコールガールがたむろしてショーが引けるのを待っていた。僕らの姿を見るも彼女らのターゲットでは無く、一瞥するも声すらかけてこなかった。ホテルに戻って枕を抱いたのが午前2時頃であっただろうか。頭の中で「誰が待つというのあの部屋に・・・・・」氷雨のフレーズが壊れたCDプレーヤーのように何度も繰り返して流れる中で眠りに落ちた。
8月21日(日曜日)
窓から差し込む光で目が覚めた。午前6時である。自宅でも旅先でも同じ時間に目が覚める。朝寝をしなくなったのは若さを失いつつある傾向であろうか。それとタイの時差に順応したのであろうか。さすがに頭の回転は未だ正常に戻らず、爽やかなバンコクの朝に馴染めないようだ。昨日の行動を追想しているうちにやっと頭の回転が戻り始めた。窓を開けてテラスに出るとメナムが眼下にゆったりと流れていた。対岸のビル群に朝日が当たり、右手の川上に掛かる橋の上を走る車両の往来が活発になっていた。河はいつも通りに透明度を欠き、浮草や発泡スチロールの欠片やらを浮かべてゆっくりと左の川下へと流れていた。眼下の船着き場ではこのホテルを発着する遊覧船の船員が、デッキの掃除やガラス窓を拭いて出航の準備を始めていた。僕らの昨夜の悪夢にも似た喧騒のかけらは、既に何処にも残っていなかった。目覚めのコーヒーを入れる為の湯沸かし器が沸騰の合図を告げたので部屋に戻った。ベットから不快な酒交じりの体臭が漂ってきた。この空間には昨夜の悪夢の残影が色濃く残っており、シーツ剥ぎ取り枕と一緒に丸めてベットの隅に片付けた。そして枕の横に1ドル札2枚を置いた。メイドに今日も泊まるのでベットメイキングをよろしくとのサインだ。そして悪夢を洗い流すべくシャワールームに向かった。
チャオプラヤ川の朝
シャワーを浴び、ついでの肌着を洗濯してロッカーに吊るした。ズボン1本とかりゆしウェアとポロシャツ3枚をランドリー用のビニール袋に入れて備え付けのシートにルームナンバーとチェックマークを記入してサインした。明日はバンコクを経つので夕方までに仕上がる50%増しのエクスプレスとした。
7時30分、仲里からの電話で地下1階のレストランに降りた。秦の姿は見えなかった。昨日ははしゃぎすぎたのかも知れない。お粥ときざみ菜、スライスした茹卵をトレーに乗せてテーブルに運んだ。飲み物はトマトジュースとお湯で薄めたコーヒーである。ほどなく秦、陳、シムがやって来た。
「ハブ・ア・グッドスリーピング」(よく眠れた)とシムに問うと
「イエス、ノープロブレム。ノーバディ・メイド・ビッグスノー」(ああ、イビキを掻く奴が居なくてな)と首をすくめた。全く元気な奴らである。
秦が今日のスケジュールを説明して「オーケー、ゴーアウト、ナインオクロック」(9時に出ようぜ)の合図で部屋に戻った。
部屋に戻り、荷物を整理してバックをクローゼットの中に置いた。クリーニングの袋をドアの外に出し、フロントに電話して洗濯物の回収を依頼した。室内にあった飲みかけのコーヒーを洗面所にこぼし、歯磨きをしてスタンバイである。
フロントのキーボックスにカギを放り込み外に出るとユイが待っていた。メンバーが集合してホテルを出たのが午前9時である。ホテルを出て最初にダムロンの農場に向かった。ダムロンは昨夜の夕食会で会った大柄な男である。ダムロン・ホンセンヤザムがフルネームだ。カリーと同じような水郷地帯にある農場だが幾分かバンコクに近い場所である。1時間足らずで農場に到着した。栽培されたラン類ではスパソグロティスが最も多く、バンダ、デンファレ、アンスリューム、ホヤが栽培されていた。ホヤは15種類程のコレクションがあるという。ハート形のホヤの葉を発根させ葉面に油性のペイントを用いて花柄の模様を描きLOVEと書いたアイデア商品もあった。沖縄にはホヤ・カルノサという野生種があり、ホヤの栽培は容易である。このアイデアを試してみたくなり、鉢植え50株をカリーのデンファレと混載して送ってくれるように依頼した。ダムロンの農場は増築中であった。ダムロンは英語が全く話せないが息子は英語が話せるので今後の取引が可能だろうと思った。タイ、マレーシアで感心するのは、若者の多くが英語でのコミュニケーションが出来ることである。むろん英米の人間のような流暢な英会話の能力は無いが、英語でのコミュニケーション能力に関しては日本の若者が遠く及ばない。言語の基本はコミュニケーション・ツールである。日本の外国語教育システムが何を目標にしているのか良く分からなくなってしまうのである。ダムロンは農場を一回りした後で僕らをお茶に招待した。近くのローカルホテルのレストランである。メニューの表にはリバー・サイド・ホテルと書かれていた。ロイヤルの名称が付かないだけ僕らの宿泊しているホテルよりもグレードが低い建築物である。ダムロンは食事を勧めたが昼食には間があり、茹でエビでビールを飲んで雑談した。席を立つと空のビール瓶が8本ばかり並んでいた。ダムロンに礼を言って次の蘭園に向かった。
レストランを出て15分ほどでエン・オーキッドに着いた。農園の入り口が濠になっており、コンクリート製の危うい橋を渡って敷地に入った。濠には赤と白の斑入りの熱帯魚が飼育されていた。以前はデンファレの有名な品種であるシャネルを作出した育種家であったらしい。小柄なオーナーと大柄な奥さんが出迎えてくれた。仲里は掘り出して筵に広げてあった球根性の野生ランに興味を示し、しばらく説明を受けてから商談を始めた。奥さんがすかさず計算機で円建ての計算をして3万円だと値段を示した。仲里は現金を払い梱包を頼んだ。台湾まで運び、後日台湾のサイテスを作成して日本に輸入するつもりだ。秦に頼むつもりである。台湾はランの生産農家の育成に力を入れており、ラン類の輸出入には極めて寛容だ。但し、果実生産農家の保護にも積極的で、日本からのリンゴ、ナシ、ブドウ、モモの輸入には高い関税をかけている。エンの農場ではGramatophyllum speciosum(タイガーオキッド)の栽培が主力となっていた。実生株で3バルブ立ちの8号プラスチック鉢サイズまで成長していた。既に70cm程のバルブに育ち開花株もある。1m近い高さのベンチで栽培されているのは、雨季には水かさが増すからだそうだ。仲里の話では、エンのラン園は経営が少々下降気味らしいく、以前訪れた時ほどの勢いは無いらしい。タイガーオキッドで起死回生を狙っているらしく熱心に説明した。しかし、このランにはマレーシア・ボルネオ島の赤道直下の高温多湿地帯が原産地であり、4mにも成長する大型のランである。日本国内では趣味家の需要は少ないだろう。辛うじて国内の国公立熱帯植物園で栽培されるも、開花が話題に上るのは稀である。国営沖縄記念公園の熱帯温室を管理する自社職員も苦労しているのだ。
8月は雨期というに僕らは未だスコールに巡り合っていない。水郷地帯であるも日中の空気はとても乾いている。僕らの行動を避けるようにスコールが何処かを走り抜けているようだ。あのスコールの後の潤いが欲しくなった。昼間の直射日光で睡眠不足の頭がハンバーグになりそうであった。時計に目をやると午後1時である。確かに太陽が一番に吠える時間だ。2時間前に飲んだビールは既に体から蒸発して1滴も残っていないみたいだ。仲里の商談が終了したのでエンの招待で食事に出かけた。
食事の場所はチャオプラヤ川に浮かんだフローティング・レストランである。幅10mに長さ30m程度の屋根付き浮き桟橋のような造りだ。陸地と繋がった橋を渡ってテーブルに着くのだ。橋の入り口で料理を注文するとウエイトレスが席へと案内した。今日は穏やかであるが日によっては水かさが増えて多少揺れるらしい。川面に目をやると50cm~70㎝近い大ナマズが群れている。しばらくするとエンがビニール袋に入ったパンの耳と枕パン1個を持ってきた。パンの耳をひとつかみ川面に投げ込むと、無数のナマズが水しぶきを上げて食いついて来た。凄まじい食欲で見る者が息をのむ行動である。15cmもあるデカイ口で水ごとパンを飲み込むのだ。枕パンは新鮮な感じがしたので食えるのかと尋ねるとユイが「イエス」答えた。パンの耳が少ないのでサンドイッチに使う前のパンを持って来たらしい。我々ゲストに気を使ったのである。僕らはパン千切っては川面に投げてナマズの踊り食いを眺めて騒いだ。
料理は定番の茹でた小エビからである。リバーサイド・ホテルのエビより少し大ぶりで新鮮だ。緑色のソースを付けて食べると味が引き立つ。私もこの国の定番料理に口が慣れてきたようだ。白身魚の煮付け。そして茹でた蟹だ。蟹はカレー煮ではなく単純な塩茹でだ。珍しく泥臭さがない。泥抜きの飼育を施しているのかもしれない。メインは揚げた豚の足だ。7㎝程度に骨ごとブツ切りにしてある。一度塩茹でして脂分を抜き取り、さらに油で唐揚げして皮がパリパリに仕上がっている。ナイフとフォークで身と骨を切り分けて食べるのだ。脂身が少なく軟骨と肉片に塩味と香辛料が染みついて美味い。沖縄の足テビチとは変わった風味の調理法である。大食漢の陳は豚の骨に付いていた肉をしつこくしゃぶっていたが、身が無くなるとそれをポイと川に捨てた。ナマズがそれに飛びついて呑み込んだ。腹が角張って膨らんだ。シムが「陳、ノー、グッドマナー」といって笑った。
残飯に群がる大ナマズ
ウエイトレスがプラスチック製のボールを持って来て、テーブルの上に散らかったエビ殻やカニ殻、豚の骨をその中に片付けた。それを浮きレストランの端に持っていくと無造作にボサッと川の中に放り出した。水面に慌ただしく水しぶきが立ち上がってナマズが群がった。皆が一瞬あっけにとられた後、手を叩いて大笑いした。ナマズも昼食時間のようである。デザートはザボンの剥き身である。豚肉の脂で淀んだ口の中がサッと爽やかになった。
昼食を終えると再びエン氏の農場に戻った。東屋の天井に吊るした大型扇風機の風に当りながら冷えたワンカップのミネラルウォーターを飲み、犬が見つけた蛇を捕えて騒いだりしているうちに午後3時になった。本日のラン園訪問は終了である。
午後4時過ぎにホテルに戻った。部屋は既にベッドメーキングが終了しており、綺麗にパッキングされた洗濯物がテーブルの上に置かれていた。携帯電話のアラームをセットして5時まで仮眠を取った。仮眠をとることに慣れてきていた。シャワーを浴びて約束の5時半にロビーに降りた。秦が今夜はドクターの紹介でドイツ料理を食べに行くと言った。私も仲里も少しだけ期待した。タイ料理にも少々飽きてきたところであった。車はルンピニ公園の駐車場に入った。そこは公園内の一角にあるドイツ村でタイとドイツの国旗が涼しくなった夕暮れの風にはためいていた。園内は灯油のかがり火が炊かれ、屋外テーブルは多くの客にあふれていた。程なくシェルカンパニーの若い男がやって来た。秦はドクターの身内だと話していたが中華系ではなく背が高く細身のインド系の顔立ちであった。運転手が上司に対する接し方をしたのでシェルカンパニーの幹部職員の一人に違いないと思った。そのマネージャーらしき男に案内されて白いコテージの中に入った。四つのテーブルがあり、一つは先客があった。僕らは窓越しに中庭が見える二つの席を使った。クーラーが効いており少しくたびれ気味の私にとって快適な空間である。
先ず、ビールを注文した。トレーにボーイがビールとグラスを乗せてやって来た。
細身のグラスに次々とビールを注いでくれた。シンハービールよりも酸味とコクが強いビールだ。ドイツ製のビールかも知れない。今度は氷付のビールでは無くしっかりと冷えていた。マネージャー氏は車を持っているらしくサイダーである。遅い昼食のおかげで腹は空いていない。秦が話したとおりのドイツ製か知らぬが太めのウインナーが最初に出てきた。その次からはタイの定番料理であるトム・ヤム・クン、大ぶりのエビ、白身魚のムニエルである。そして秦が昨日から自慢していた豚足のドイツ料理が出て来た。何のことはない、お昼にエン氏がご馳走してくれた豚足の揚げ物だ。少し異なるのは足が小ぶりで味付けが上品なことぐらいだ。日本で言えば大衆居酒屋の握り寿司と本格的な割烹の握り寿司の違い程度である。ドイツウインナーが出たところでマネージャー氏の携帯電話が鳴って席を立った。外で何やら話していたが、戻って来て僕らに告げた。
「急な用事が出来たので引き上げます。今夜はゆっくり楽しんでくれ、後はユイに任せる」そう言って部屋付きのボーイに何やら話して出て行った。固苦しいインド系のマネージャー氏が去ったので、僕らはいつもの雑談を始めた。
「センパイ、後ろの席の犬を抱いたレディは男ね」
「確かに大きな女だが美人だぜ」
「ノー、ノー、靴のサイズが大きいです」確かに膝を組んだ右足のハイヒールは女性用にしては大きいと思った。
シムも陳もミスターレディに間違いないと言った。
「おい陳、あんまり見つめると今度は皿が飛んでくるぜ」と私が言うと、秦が大声で笑い出し陳を指差した。皆で一昨日のことを思い出しドッと笑った。ミスターレディは美貌に自信があるのか、3名の男に横柄な態度で優雅に細身のタバコを吸っていた。僅かなハッカの臭いが僕らの席まで漂ってきた。
何ともミスターレディの多い国である。仲里と私はビールを追加注文した。陳は食欲があるもビールをあまり飲まない。彼にとってのビールとは青島ビールなのだろう。僕らは昨日のカラオケバーの話の続きをして盛り上がり、笑い転げて時間を過ごした。8時にタイ風ドイツ料理の夕食会を終了した。外に出るとルンピニ公園の池の水面に屋外レストランのかがり火と遠くの街のネオンが映っていた。広場の客の騒めきと相まって映画の1シーンのようであった。大きく背伸びして夜気を吸い込んで車に乗り込んだ。
車中で秦が明日のスケジュールについて話した。明日は何もすることが無い。ホテルで暇つぶしをして夕方の便で台北に向かうと言った。明日は単純な観光を予定していたが本人が夜遊びで疲れたのか、暑い昼日中に見なれた観光地に行くのが億劫になったのかも知れない。秦の辞書にはもともとスケジュールなる単語が欠けているのは承知のことである。台北向けの便は午後5時である。
「オーケー、明日は仲里と市内観光する。3時にチャイナエアラインのチェックインカウンター前で会おう」
「遅れないでください。センパイ帰れない。第2ターミナルです」と笑った。
「ダイジョウブ、遅れたらシムと昨日のカラオケに行きます」と返事すると、
「オーケー、グッド・アイディア。ゴウトゥゲザー」とシムが大声で笑った。
ホテルに着くとユイと律儀な運転手に「今日でお別れだ。明日は秦と別々に行動します。ありがとう」と言って仲里と代わる代わる握手をしてホテルのロビーに向かった。
僕らは部屋に戻らずにチャオプラヤ川に面したウォーターフロントの野外ラウンジに出た。奥の船着き場に遊覧船が停まり、僅かに揺れて時々桟橋の船止めロープがギィと音を立てていた。河を渡って来る夜風が心地良かった。プラスチック製の丸いテーブルがいくつもあり、その一つに席を取った。少し離れた場所で日本人らしき初老の夫婦と5,6歳の男の子を伴った5人家族一行が夜食の軽食を取っていた。電子ピアノを備えた小さなステージがあり、黒いドレスの女性がバイオリンを弾いていた。聞き覚えのあるクラシック曲だが思い出せなかった。僕らはジントニックを注文した。この時間のメニューにはビールはなくカクテルのみであった。屋外の仮設のバーカウンターからウエイターが酒を届けた頃、バイオリンの演奏は音色を引きずるような胡弓の情緒にも似た曲に変わった。秦が中国の民謡だと言った。ウエイターが僕らを中華系の旅客と配慮してバイオリン奏者に中国民謡をオーダーしたのだろう。静かに流れる大河と遠くにさざめくように点滅する無数のネオン、そして穏やかなバイオリンの調べだ。誰もが静かに人生の足跡を振り返りそうな空間である。少し離れた席の日本人家族の佇まいは確かにそのようにみえた。しかし僕らの席はバイオリンが奏でる物悲しい中国の古謡とは裏腹に、沖縄、台北、厦門、パタヤ、バンコク、ジョホールバル、コタキナバルなど東南アジアの夜の盛り場で羽目を外してきたバカな話題ばかりであった。とりわけ仲里、秦、私は東南アジア各地での国際蘭展示会に出かける度に、その国の友人達を交えた社会秩序に無頓着な夜の宴会を共に過ごしてきたのである。
仲里の携帯が鳴って席を立った。フロントに友人が来ているとのことだ。昨日の夕食前に友人にコンタクトを取っており、カリーから詳細を聞いて訪ねて来たらしい。程なくして背の高いインテリ風の男と一見して韓国人と分かるがっしりとした体格の男を伴ってやって来た。私は立ち上がって二人を迎えた。握手をして名刺を交換して秦達の隣の席を勧めた。テーブルに7名が座るには狭すぎたのだ。ウエイターがこちらを向いていたので手を上げて呼んだ。二人は車を持っているらしくソーダ水を頼んだ。私はジントニックの2杯目を追加した。タイの友人はラン生産者でマヌーと名乗った。もう一人の男は韓国の蘭輸出入業者でヤンと名乗った。ヤンは元軍人のような体格だが目元が優しく笑顔を絶やさぬ商売上手な男に見えた。マヌーとヤンは取引があるらしく親しげであった。偶然ロビーで出会ったらしい。人懐っこいヤンが仲里について来たのである。秦は広東語を使わない初対面の人に容易に打ち解けない、警戒心の強い少し臆病な男だ。秦が動かなければ陳、シムも動かない。挨拶も無しに二つのグループで雑談が始まった。しばらくして秦は立ち上がり「カリーが置いて行ってワインがあるから後で飲もう」と言って立ち去った。ヤンに韓国内のラン栽培事情を尋ねた。コチョウランの栽培は軌道に乗り始め、最近はデンファレの等の熱帯系の蘭の需要も出てきているらしい。洋ラン栽培は国の補助事業のひとつで、今のところ中々旨味のあるビジネスだと話した。私は付き合いで会費を納めている都市緑化旅行友の会の次の旅行先がソウルであることを黙っていた。韓国へはトランジットで2度ばかり立ち寄っただけであり、その国の人間の気質までは分からず、安易に近づく気にはならなかった。1時間ばかりお互いの地域のランの生産事情を話し合って散会した。飲み物代金はマヌーが私を遮ってカードで精算した。明日の9時に職員を寄こすとマヌーとが言ってヤンと二人で帰って行った。僕らはフロントでカギをもらい、秦の部屋に立ち寄った。陳は隠し持っていたコーリャン酒の中瓶を出して飲んでいた。寝酒として持ち込んだのだが毎日の夜遊びで飲む機会がなく今日まで残っていたようである。一昨日立ち寄った市場で買った小エビと蟹の乾物も取り分けておいたようである。僕らはカリーが渡したというミャンマーのワインを飲んで12時前に引き上げた。
8月22日(月曜日)
午前7時30分、仲里からの電話で朝食を食べに地下1階のレストランに降りて行った。秦、陳、シムは未だ姿を見せていなかった。私にとってタイに来てから一番爽やかな朝である。お粥、コーンスープ、目玉焼き、カリカリベーコン、小さな蒸しパンとチーズ。そしてデザートのパインにまでに食欲が沸いた。久しぶり5時間半も寝たことでエネルギーが充填されたようだ。コーヒーを飲んでいる頃に秦、陳、シムがやってきて近くのテーブルに座った。
8時になるとドクターがやって来た。僕らは立ち上がって挨拶した。コーヒーと少しばかりの料理を取って来て、僕らと同じ席に付いて朝食を共にした。豚の乾燥チップだというお土産を付き人が携えており、僕らに配った。私はカリー、エン、ダムロンの農場を見ることが出来たことへの礼を言った。ドクターは満足そうに穏やかにほほ笑んだ。僕らは全員でドクターをホテルの玄関まで見送った。黒塗りのベンツに乗り込むと窓を開き軽く手を上げて去って行った。
私は部屋の中を見渡し忘れ物がないか確認して部屋を出た。フロントでクリーニング代金240バーツを払っただけでチェックアウトである。私と仲里はバック引きずりながら秦と二人の連れのことは忘れたかのようにホテルの玄関に出た。玄関の駐車スペースの端に申し訳なさそうに白いくたびれた旧型の日産自動車のワゴン車バネットが停まっていた。そのわきにヤンが立っており、僕らの姿を見つけて手を振った。車に近づくとあの人懐っこい顔で「グッドモーニング・ミスター」と言った。僕らも「グッドモーニング・ミスター・ヤン」と挨拶した。直ぐに後部座席に乗り込みホテルの前庭から一般道に出た。混雑したバンコクの市街地を15分程で抜け出して農道に出た。車は次第にジョンフォードの西部劇映画「駅場馬車」のように跳ねだした。昨日までの僕らの優待ドライブが嘘のような気がした。跳ねる車中から事務所に電話した。「何か変わったことは無いですか。今日の5時の便で台北に飛ぶ」と伝えた。事務責任者の上間主任は退屈そうな声で「特にありません。お疲れ様です、気を付けてお帰り下さい」と返事した。我社は今日も淡々と不可のない事業を堅実に展開しているようだ。私は自分が何処か異次元の世界を漂っている気がした。尤も私の出張先タイ国の旅は、彼女の夢の中にも出現しない理解不能な現実の中で、アップダウンを繰り返しながら進んでいるのは確かである。ヤンは飛び跳ねる駅馬車を気にもせず、助手席から後ろを振り向いてしゃべり続けた。仲里が仕方なさそうに「イエス、イエス」と相槌を打っていた。1時間足らずでマヌーの事務所に着いた。私は最後のスペアの土産として残していた赤い包装紙で包まれた「ちんすこう」をマヌーに渡した。仲里が「さすがカズさん、準備が良いね」と感心した。
4名で20分ほど朝のティータイムを取った。ヤンは空港に向かう途中のマヌー農場を見学すると言って椅子から立ち上がり、先ほど乗って来た駅馬車に向かった。「ソウルに遊びに来てくれ。その時は電話をしてくれ」陽気な口調で言った。北の国の気さくで騒々しい男である。
マヌーはハワイ大学でランについて学んだとのことである。彼のビジネスのひとつにデンファレの花でレイを作ってハワイに出荷する部門があるのも在学中の経験から立ち上げたものであろう。以前にハワイの空港売店で見た、ランで作られたレイがタイ産とは思いもしなかった。マヌーはデンファレ、コチョウランの育苗の他にコチョウランの開花株の生産も始めたらしい。このオフィスから北西に2時間のカンチャナブリ県の山間部で山上げ栽培を行っているとのことだ。そこは寒暖差が大きくパット・エンド・ファンの施設が無くても花芽を形成するとのことだ。オフィスの事務員がコンピューターで農場の外観や栽培状況、栽培品種を見せてくれた。屋根の雨よけだけで壁は無い。生育状況も良好である。開花株を寄せ植え仕立てにして国内市場に出荷しているとのことだ。大小の規格の苗もオランダ、オーストラリア、韓国などに出荷しているらしい。仲里に花の写真をみせて買わないかとセールスした。只、台湾に比べて輸送コストは割高になってしまうので採算的にはどうかと思った。
マヌーの案内で農場見学に出た。今度はトヨタのランドクルーザーだ。革張りのシートで特注品だろう。ビジネスは順調のようである。
一番目にデンファレの栽培圃場に案内された。カリーやダムロンの農場と同じく水郷地帯の水田跡地の圃場である。少し異なるのは高畝にしてベンチ間に広めの通路を確保して畝の谷間を跨いでベンチが設置されている。作業員の往来が便利な造りとなっている。栽培品種はタイの代表的な品種ソニアである。鮮やかな赤紅色の色彩と花弁が厚く花持ちの良い品種だ。タイの輸出用切り花の主力品種である。日本国内では棺の中に収める葬儀のお見送り用の切り花としての需要も増えている。沖縄で栽培するとステムの途中の花が落ちてしまう傾向があり、営利栽培品種には向いていない。栽培に高温を必要とするので、日本国内での切り花奨励品種ではない。ベンチの上にヤシの実の皮の部分が敷き詰められており、その上にデンファレを植えているのだ。このヤシ殻は水苔に比べるとタダ同然の安価な園芸資材だ。この国ではココナツミルクを採取した後の発生材であり、観葉植物の植え込み材料など様々な植物の園芸資材として利用されている。この圃場ではレイを作るために1輪ずつ採花していた。摘み取られた花は60×90cmの竹籠に広げて入れて乾燥防止のスプレーをして段積みで加工場に運ばれる。そして華やかなレイに加工されハワイの空港に運ばれて、熱烈歓迎の象徴として観光客の首にぶら下がる役目を果たすのだ。ハワイを訪れる観光客にとって歓迎のレイがタイ国産だとは誰も思わないだろう。管理道の十字路の四方に50m×100mの圃場が広がっている。100m四方に黒い遮光ネットが広がっており中々壮観である。マヌーはこの規模の農場を6か所保有していると話した。
レイ作り作業
その次に案内されたのは育苗圃場である。フラスコ苗を単鉢に上げて育成し、開花前の苗として出荷するシステムだ。フラスコから出してしばらく網トレーで外部の環境に馴らし、新根が動くと3cm径のプラスチック製ポットにヤシ殻で挟んで植え込むのだ。それをポットが填まる専用のプラスチック製網に取り付けてベンチに並べるのである。圃場は100mも先まで続いており遮光ネットを支えるコンクリートの柱が整然と並んでいる。苗の運搬が便利なように広い通路を挟んで品種ごとにかれており、生育ステージの違いによって遮光ネットの枚数と生育中のランの草丈が異なっている。出荷先はオランダ、オーストラリア、米国、日本、フィリピン、マレーシアそしでヤンの韓国だ。敷地の広さは陸上競技場をはるかに超える広さだ。
膨大な数のフラスコ
作業棟には順化の為のフラスコ苗が並べられていた。日本や台湾は三角フラスコを使うのが普通だが、プラスチック製のアミ籠に並んでいるのはラベルの無いジョニーウォーカーのボトルだ。本物のウイススキー瓶の再利用では無いだろうが同じ形状である。1本当りの苗数はこの方が多いだろう。チョット目には酒瓶がゴロリと並んでいるみたいで奇妙だ。夜の酒場でジョニーウォーカー・ブラックラベル空けて騒ぎまくっていた一昨日の記憶が蘇った。
作業棟の一角の風通しの良い場所で世話役の男性1人と20名ばかりの女性がペチャクチャと雑談に興じ、時には笑い声を立てて車座で作業をしている。デンファレのレイ作り作業である。細いテグスに花を挿しているのだ。部屋の端に冷蔵庫があり、完成品を段ボールに詰めて保管している。明後日にはハワイを訪れる観光客、或いはどこかの国からやって来る賓客の首に掛かるのだろう。
マヌーは僕らを案内する合間も頻繁に電話をしていた。流暢な英語を明るい声で話していた。一昨日、オーストラリアから帰国したばかりと言う。サガリック先生がタイ国蘭協会という組織のキングであるなら、マヌーはランビジネスを展開する生産者中のキングの一人だろう。マヌーは腕時計を見て言った。
「コチョウランのナーセリーも紹介したいが今日は無理です。食事に行きましょう」
車に乗って近くのレストランを物色したが閉店の食堂が多い。この国でも日本と同じで休日の翌日の月曜閉店が多いようだ。10分程移動してさほど大きくないレストランに入った。マヌーはタイや中華系の訛りが無くアメリカナイズされた流暢な英語を話した。ハワイ大学在籍中に鍛えられたのであろう。中華系の顔つきだが背が高く立ち振る舞いがスマートである。タイ語は話すも広東語は話す気配も見せない。彼の立ち振る舞いに広東語は似合わないだろう。
チキンのカレー煮、エビのカレー煮、白身魚のムニエル、鶏の血を固めた汁物は台北のアヒルの血の発酵食品のような奇妙な臭いが無く抵抗なく食べることが出来た。そして定番のトム・ヤム・クンである。「この魚は」と聞くと「キャットフィッシュ(ナマズ)」だと答えた。
「昨日の水上レストランでデカイ奴を見たぜ」と言うと、「ノー、ノー、この魚は別の品種でカルチベイティド・フィッシュ(養殖魚)だ。この程度までしか成長しない」と両手を40cmほど広げて笑った。仲里は「前に来た時、貴方の会社の職員に連れられて大ナマズを釣ったことがある。その時は野外パイーティでバーベキューにして皆で食べた。悪くなかったぜ」と笑って話した。マヌーも思い出して笑い出した。マヌーは秦の遊び仲間のような大きく砕けた中華系特有の豪快な笑い方をしない。陳先生やドクターのような節度をもった大人の笑い方である。中華系でも育ちが異なるのであろう。昼食の最後はザボンの切り身で口内を爽やかに締めた。
レストランを出ると午後2時である。マヌーは大事な予約が入っているらしくタクシーを呼んで待機させていた。タクシーにバックを積み込んだ。運転手は英語が解らないらしくマヌーが送り先と到着時間を説明していた。既に過分な料金を渡してあるようで、運転手はご機嫌である。マヌーに丁寧にお礼を言って次回はもっとゆっくりと農場を見学させてもらうと話した。マヌー見送られて空港に向かった。運転手はマヌーに午後3時までに空港に送るようにと指示されているらしく、バンコク市内の混雑の中をすごく飛ばした。ザ・ロイヤル・リバーサイドホテル近くの高架橋下を抜けて午後3時丁度に空港に着いた。荷物を降ろして「サンキュウー、グッドタイム」と時計を指差すと、意味を理解したらしく運転手が自慢げに微笑んだ。私はポケットから100バーツをとりだしてもう一度「サンキュウー」と言って渡すと、遠慮がちであったが喜んで受け取り両手を合わせた。なるほど仏教と微笑みの国の住民である。
チャイナエアラインのカウンター近くに秦と陳が待っていた。「今日はどうしていた」と尋ねると、「昼過ぎまでシムの部屋で休んでいた」と言った。シムは帰らないのかいと尋ねると、「今日も泊まってユイとデートだ」と言った。秦の話は何処までが本当か分からない、シムが明日の便で帰ることだけは確かなようだ。シムは時々バンコクに来るようだが彼の本当の目的も良く分からない。只、今朝シムと朝食時に会った時に別れの挨拶をしなかったことが気になった。バックを預けてチケットを受け取り、X線検査に向かう前に100バーツの通行税チケットを買った。バーツの残金がある私が4人分を払った。X線検査、イミグレーションの出国検査を通過するまではだれもが緊張する。ここは馴染みのないタイ国である。シェルカンパニーのドクターの配慮があった入国審査とは別である。ほとんどの国の入国検査はそれ程でもないが出国検査官の目は厳しい。機内に不審な物を持ち込まれては一大事である。これまでも不注意で植物採取用のポケットナイフやハサミを没収されたことが何度かある。他にも何か予期せぬものを嗅ぎ付けて立ち往生しそうな予感に襲われるのだ。しかし旅の常道を外さねば滅多にトラブルに出会うことはない。
僕らはファーストクラス専用のゲストルームで搭乗前の休憩をした。数名の上品そうな先客がいて、ビジネスマンらしき男がパソコンで何かを調べていたり、コーヒーカップをテーブルに置いて英字新聞を広げていたりである。秦は棚から半だけ入ったブランデーを取って来てグラスに注いだ。私はツマミになりそうなザボンの切り身、カシューナッツの小袋を取って来てテーブルに置いた。シムはどうするのかいと仲里が問うと、明日の便でユイをクアラルンプールに連れて行き観光だと答えた。彼の答えはいつも先が読めないことだらけだ。
ブランデーが空になった。
「センパイ、ブランデーの追加はありません。僕らが帰ってからの追加です。行きましょう」そう言って立ち上がった。私もさもありなんと思った。大男4名が長居すればブランデー1本ぐらいたちまち空になるのだから。ラウンジの棚にボトル半分の酒を飾るのは正しい選択だろう。ラウンジを出て搭乗口に向かう途中のショップ入り、昨日誕生日を迎えた末娘の為にタイの伝統的なデザインの革製の小銭入れを買った。その他の土産は台湾の空港で菓子類を買うことにした。
CI-695は午後4時55分に定刻通りバンコク国際空港を飛び立ち、やがて北東に針路を取り台北に向かった。この飛行機は中華航空の最新の飛行機で、尾翼のマークが国の花である梅からコチョウランの花柄に変わっていた。最近になってコチョウラン栽培が世界一となり、コチョウランの国をアピールしているようである。事実、白花コチョウランの代用的な品種Phal.amabilisは台湾の原種である。バンコクに来るときに乗ったCI-693も快適であったが、最新機種だけあってシートのリクライニング、座席テレビの操作パネルなど多くの面で改良されていた。只、時折漂ってくる乗務員の過剰な香水臭だけは更なる改善が必要であった。女に無頓着な秦ですら私にその香りの不満を漏らすのだから改善は必要だろうと思った。食前酒にジントニックを2杯、機内食はチキンのカレー煮と赤ワイン、食後にブランデーを2杯飲んで少し眠りに就いた。秦とは通路を隔てた席であり、機内での酒盛りが休止できたのは幸いであった。
3時間半のフライトで桃園国際空港に着いた。台北時間の午後9時30分である。洋品店の友人が秦のワゴン車で迎えに来ていた。陳を高雄行きの高速バス停で降ろした。これから台南の自宅まで夜行バスで3時間の旅である。午前様の帰宅となるだろう。ホテルに着いたのが午後11時だ。出発前に泊まった雅荘汽車旅館だ。服を脱ぎ荷物を解いて冷蔵庫を覗くも空である。寝酒のビールが欲しかったが服に着替えて、ホテル内の自販機でビールを探すのも難儀である。電気ポットで湯を沸かし、備え付けのウーロン茶を入れた。NHKのニュースはとっくに終わっておりBBCのニュースを少し見て眠りについた。
8月23日(火曜日)
仲里と7時半に朝食をとり、8時半にチェックアウトした。秦が迎えに来ており、彼の娘を小学校に送り届けてからオフィス街の大通りに面した陳先生のオフィスに向かった。秦は警察の取り締まりがうるさいからと車に残った。7階のオフィスに入ると陳先生は出勤前らしく、事務員のシェリーが入れたコーヒーを飲みながら待った。シェリーと英語でタイの旅の話をしていると10分ほどして陳先生がやって来た。仲里は先生に挨拶すると秦を下に待たせてあるのでと退席した。何やら秦と空港近くのラン生産者に会う予定らしい。
陳先生と少しだけコチョウランの導入スケジュールについて話し合い、迎えに来た息子の達寛の運転する車で台北花市場を見に行った。土曜、日曜だと高速道路の高架橋下の建国花市場の賑わいを見ることが出来るが、残念ながら今日は火曜日である。台湾を訪れる場合、土日を最終日に旅行するように計画するのが常である。台北市の人口は260万人で周辺都市部を含めると690万人が暮らしている。台湾の総人口2,300万の約30%が集中しているのだ。花市場には台湾中から集まって来る植木、切花、鉢花、園芸資材などを扱う業者が集中している。競り市の開催時間と関係なく卸売業者、仲買人、個人客で賑わっている。コチョウランの生産大国だけあって様々な色合い、仕立ての鉢花が中売り業者の市場内店舗で売られている。日本で人気の白花のコチョウランよりピンク系の品種が圧倒的に多い。国民性の違いが如実に表れた市場風景である。
市場の入り口でサンディ(呉秀美)を拾って昼食に出た。台北円山大飯店(ザ・グランド・ホテル・タイペイ)だ。台北市内から高速道路で桃園国際空港に向かう途中に見える建築物だ。赤を基調にした外観はまるで近代以前の中国の宮殿のようなホテルである。台北市内から離れているので訪れる観光客は少ない。如何にも外国のVIPやセレブ専用のホテルの外観だ。初めて訪れるホテルである。その後も2度ばかり訪れたことがあるが当然のことで宿泊はない。台北のダウンタウンから離れた超高級ホテルに泊まれるほどのリッチな身分でもなく、さりとて台北市内の昼夜の享楽を味わうことが出来ない哀しい身分でもないのだから。
1754年建設のこのホテルは外観と同様に中国の伝統的なインテリアを取り入れた内装である。中央階段の正面には最近訪れた韓国の男優スターの大型ポスターが飾られていた。伝統的なホテルには似つかわしくなく宣伝である。古いスタイルの経営方式故に現代の旅行客の嗜好とのマッチングに苦戦しているのであろうか。私が興味を持ったのは、ロビー中央のコチョウランのディスプレイである。高さ1mの木彫りの台の上に2尺の唐草模様の陶器の鉢があり、その上にピンクのコチョウランの鉢植えが球形状に差し込まれたディスプレイである。そのボリュームはロビーに入って来る人々に圧倒的なインパクトを与えていた。コチョウランの本場ならではの演出であり、これだけの広いロビーを持つホテル故に出来るディスプレイでもある。
2階のレストンに上がると、達寛がウエイターに声を掛けた。そして僕らは4人、6人掛けのテーブルが並ぶ細長いフロアの奥の席に付いた。あまり多くの客席数ではないがその分だけ多人数が会席出来る個室を幾つも備えているようだ。
「ここは北京料理が美味しいですよ。ビール飲みますか」と陳先生が訊ねたので。
「ハイ」と答えた。何故か知らぬが青島ビールの小缶を2本持って来た。なんだか『この店の料理に缶ビールは合いませんよ』と言われているみたいで気が引けた。最初の料理はエビ入りのスープと鶏肉入りの2種類のスープだ。何故スープが2種類だろうか。その次はシャオロンポウ。餃子の皮に具と汁を入れて蒸してある。包みの中に汁が残っているので、蒸籠から箸でつまんで取り出し、中華スプーンの上で袋を破り、汁のこぼさぬように口に運ぶのだ。鶏肉味とエビ味の2種類が4個づつかわいらしく入っている。その次は焼きそばだ。細かく刻んだ野菜が少量だけ混ざっているが野菜の種類は分からない。脂分の少ないあっさりとした一品である。最後に出たのが餅の炒め物だ。直径3cm程の丸い棒状の餅を薄くスライスして、小エビとネギを加えて中華味で炒めてある。餅の食感が心地よい料理である。陳先生は日本の正月明けの鏡餅を使ってこの様な料理をすると美味しいですよと話した。先生は大戦前に日本教育を受け、日本の文化にも精通する台湾の富裕層の家庭で育った一人である。日本統治下の旧制中学から特待生として台北大学経済学部に進学したエリートである。英語を自由に話せて、日本語にも不自由しない。台湾知識人に共通の書の達人でもあるのだ。私は自分の悪筆が恥ずかしくFaxを使わずに専らメールでコンタクトしている。電子機器の扱いに抵抗が無いのも恐れ入る次第だ。
デザートに出てきたのが蒸し菓子である。蒋介石大統領夫人の将美麗が好んだ菓子で、この店で必ず注文したとの逸品である。この店では北京からやって来た調理人の技を変えることなく今に伝えているという。2切れが運ばれて4人で分けて食べた。現代風の味ではない懐かしい母の作ったカルカンという蒸しカステラに似ていた。小豆、もち米、山芋の澱粉質が主な材料らしく斬新な洋菓子に比べると田舎の菓子という見映えであった。中国共産党の毛沢東一派に追われて大陸から台湾に落ち延びることを余儀なくされた将美麗が、北京での生活を思い出す一品であったやも知れない。それ故、将美麗が好んで訪れたというこのホテルに、彼女が愛したこの蒸し菓子が味を変えずに今に伝えられているのだろう。私は今日の昼食で昨日までの山盛りのタイ料理が何ともワイルドで、タイの庶民の胃袋を満たすことを最優先したものであったかを理解した。慎ましやかな北京料理を食べたことで帰宅後の沖縄料理にすんなりと適合しそうな気分になっていた。
昼食を済ませた我々はサンディを彼女のオフィスの前で降ろして空港に向かった。航空貨物の集積所で輸出証明証(サイテス)受けたコチョウランの苗の入った段ボール4箱を受け取り、空港内の検疫所で検査印を貰ってチケットカウンターに向かった。仲里が急ぎ足でやって来て達寛が押していた台車を受け取った。秦は車が止められないとのことで仲里を降ろしてそのまま引き上げたらしい。彼は友人の見送り、出迎えの行為に特段の儀礼を尽くさねばならぬとの価値観を持っている男ではない。彼の価値観は私の感性と異なる世界のものである。
「今日の見学は何処でした」と陳先生が問うと、
「洋品店のオヤジとコーヒー・タイムで時間つぶしました」と笑った。
「相変わらず気まぐれな男だな」と陳先生と達寛が笑った。
仲里は荷物の超過料金を払いチケット受け取った。僕らは陳先生と達寛に握手して別れを告げて入国審査の列に向かった。イミグレーションを抜けて空港内の土産店で必要な土産を求めた。CI-122が桃園国際空港を飛び立ったのは台北時間の午後4時であった。窓から見える桃園の街並みが次第に消えて雲海の上に出た。昨日までの旅を振り返ると、食って飲んで騒いでの旅が主であり、出張起案書に提示した「タイ国におけるラン生産者の現状調査」が充分に達成出来たとは思えなかった。秦の絡んだ旅に通常の成果を求めるのは無理である。とりあえずカリー、エン、ダムロン、マヌーの農場、台北花市場の様子を紹介すればそれらしく仕上がるだろうと考えているうちに眠りに落ちていた。
エピローグ
旅が終わり。何の変哲もない日常が続いた。ドクターのマネージャーから貰った名刺のホームページを開くと、タイシェル石油は大型タンカー、製油施設を有するタイ有数の企業である。彼らの社会貢献事業は学校の設立などの教育支援に始まり多岐に亘っているようだ。別荘は本格的なリゾート開発が進んでいるようだ。タイのプラヤット国王は死去して息子が国王に就任したが国民の人気はあまり得られていない。時折学生による国王非難のデモがテレビニュースで流れて来る。タイ国蘭協会の次期会長と目されていたカリーは白血病であえなく世を去ってしまった。あのコルセットは白血病の予兆であったのだ。サガリック先生も引退してバンダ類の生産を本業とするスワンがタイ国蘭協会長になった。背の高い中華系の男で国内のラン展示会のパーティで挨拶する程度で親密な交流はない。フェイスブックでバンダの投稿をよく見かける。マヌーはどうしているか不明だ。仲里は電話でのコンタクトが取れなくなったと心配していた。タイにおけるラン生産者の中のキングの位置から滑り落ちたようだ。シムは蘭商売から観光案内業に転換したと2年前の沖縄国際洋蘭博覧会のパーティで話していたが、今はフェイスブックでSINGERミシン販売店の投稿を毎日載せている。私はお付き合いで「いいね!」を毎日クリックしている。陳先生は台湾蘭協会の顧問となり、会長職を東京農大卒で清華蘭園2代目のデニス・カオ(黄)が勤めている。秦は父親が残した台北市内の土地に100室余りのタワーマンションを建設して上部4階部分に親族と共に住んでいる。夜遊びのキングはコロナで海外渡航が出来ないので台湾内の景勝地を回っているようだ。フェイスブックに風景、植物、食べ物の記事を毎朝「good morning」ではじまる投稿をしている。秦の生まれ星は、流れ星にならずに天空に残っているようだ。サンディは母の介護の為に商売をたたみ、母亡きあとは旅行などで自由に暮らしているようだ。ほぼ毎日投稿する彼女のフェイスブックの記事はインテリらしく中国語の長い文章である。英語で投稿してくれると多少は理解できると思うのであるが。投稿写真を見る限り友人たちと気楽に暮らしているようだ。羽目を外せない知識人のままの生活スタイルに安堵している。塩谷勝はどの様な心境の変化であるか知らぬが、高野山真言宗の通信教育を受講し、定期的に高野山の本山を訪れて勉強しているとメールがあった。商売で養った外交上手は何処でも発揮するようだ。ある時メールが入った。高野山の高僧を伴って、ダライ・ラマ14世に拝謁したと写真付きで報告してきた。私だけでなく多くの友人に発信したようで、その話題がポツポツと私の所にも伝わって来た。本人はタイ国に高野山真言宗系列の寺院を建立したいとの夢があると話していた。しかしながら、今ではその後の情報を確かめるだけの付き合いを欠いている。私は31年間で3度の天下りキングに代わった会社の株主で筆頭御側付の役目を退き、父の農協組合員株式を引き継いだ。そしてJA傘下のファーマーズ店舗の生産者会員となり、農家モドキのラン販売と趣味でランの育種を楽しんでいる。1,400名の生産者を有する生産会・会長を拝命するも、特段の権力も配当も無い名ばかりのキングをボランティアのつもりで務めている。世の中にキング呼ばれ、あるいは自称する者がいるも、時の流れは、あのチャオプラヤ川の圧倒的な水量と同じく、その位置に留まるために抗うことすら許さず,過去の物語へと押し流していくのである。しかし、その摂理を受け入れると、人生は無上の楽しみに変化していくのも事実である。幾重にも曲がりくねった海岸線の線路の先に終着駅が見え隠れするのを確認するも、老いに抗いながら今日という日になにがしかの愉快な変化を探している日々である。
「完」
琉心会・備忘録
(1)新しい日常
その頃の私は趣味のゴルフに熱中していた。ゴルフを始めたのは30代で造園業界に転職してからだ。40歳の頃、バブル景気で会社の事業が軌道に乗りだし接待ゴルフに明け暮れていた。ゴルフは基本的に個人競技であり、私の性格「和すれど同ぜず」に合っていたのが熱中する原因であったのだろう。週3回は近くのゴルフ練習場に通い、400球1500円の会員料金でボールを打っていた。右手は空手の拳ダコならぬゴルフダコが出来て風呂上りにカッターナイフで削り取っていた。気がつくと会社に近い本部町内のゴルフクラブの会員権を150万円で買って入会し、オフィシャルハンディキャップが11となっていた。毎月のゴルフコンペは私が幹事を務めるニライ会、海洋博公園コンペ、造園協会主催の金曜みどり会、所属クラブの月例会やクラブ選手権、沖縄本島北部地区造園業者会の植木職人が参加する緑花会コンペの5件が毎月の定例ゴルフコンペである。その他にも飲み屋の女将が主催する不定期のゴルフコンペ、遊び仲間からの誘いのゴルフだ。毎月6回ほどゴルフをしていただろう。何しろ職場から車で10分の距離にパー72、65、57のゴルフ場があるのだから。各ゴルフ場の何処かのホールから職場が見えるのだ。自宅から車で1時間以内なら11か所もある。営業と称して会社の経費で毎月4、5回のゴルフをしていただろう。沖縄にはゴルフ場が20ケ所以上もあり、プレー代も格安である。プロのトッププレイヤーも宮里藍を筆頭に優作、聖志兄弟、美香、新垣、真美子、しのぶ等と多い。シーズンオフにゴルフ場で見かけると気軽に声を掛け合う選手たちである。沖縄では草野球やテニスよりもはるかに身近な遊びのスポーツだ。他府県で言われる金持ちの趣味ではない。仕事仲間と暇つぶしにショートコースのゴルフ場に行くのが日常となっていた。夏場は午後4時から所属クラブのアウトのハーフをキャディーなしのセルフで回ることも多かった。プレー代はカートの使用料のみの2,500円である。ゴルフ場にいる友人から電話でメンバーが足りないから15分で来てくれと呼び出されることも度々であった。ひどいときは台湾を旅行中に携帯電話に呼び出しが入ったこともあったのだ。車にはゴルフバックとシューズ、会社のロッカーにはゴルフウェアが常にぶら下がっていた。私だけでなく職場が近い10名ほどのゴルフ仲間は皆そうであった。僕らの仲間は米軍基地内のゴルフ場を除くほぼ全てのゴルフ場でゴルフをしていた。
ある時事務員が真顔で言った「専務と部長は年間200万円近くのゴルフがらみの交際費を使っています。多いと思いませんか」。私は専務の顔を見て「分かった、ゴルフのプレー代だけにしてその後の飲み代は自分持ちにしよう」答えた。それでも非常勤役員や発注元企業の役員接待ゴルフもあって交際費が倹約できることも無かった。毎年の決算は僅かであるが剰余金を出し続けており、専属契約の税理事務所から指摘されることはなかった。その代り毎月一度はゴルフクラブのレストランで二人の女性事務員を伴って昼食会議を開いてご機嫌を取っていた。
とある夏の日の午後のことだ。造園協会の定例コンペが職場近くの私が所属するベルビーチゴルフクラブで開催されたので必然的に参加した。スコアはアウトが3オーバー、インが7オーバーのトータル82のごくありきたりのスコアであった。ゴルフの話題はもっぱら先月の山口県に遠征したゴルフ旅行のことであり、懇親会でフグ料理を食べすぎて翌朝顎が痛かったとか。フグ料理よりミーバイ(ハタ)、タマンが美味いとかである。夏の本州は暑いので来年は北海道に行こうという意見まであった。最後に幹事が来月は第3金曜日に大京カントリー俱楽部にて開催しますと宣言して散会した。私は右わき腹肋骨付近に軽い痛みがあるのが少し気になっていた。クラブを引き下ろすときに右わきを締めすぎて肋骨を圧迫しているのかも知れない。それでアウトの5番打ち下ろしのパー5とインの16番右ドックレッグで強いフックボールが出てOBを出したのだろう。それが無ければ久しぶりに80を切っていただろうとタラレバの反省をしながら自宅に向かっていた。琉球セメント工場の前を通過する時に携帯電話が鳴った。着信表示を見ると自宅からだ。
「帰宅は遅いの」妻からである。
「いや、山入端集落を過ぎたから10分で帰宅出来るよ」
「お婆さんが北部医師会病院に入院したそうよ。身内は面会した方が良いとの連絡が兄さんからあったの」
「分かった。夕食前に面会に行って様子を見ることにしよう」
帰宅すると長女で中学2年の紗香が既に帰宅しており、3名の娘の面倒と留守番を頼んですぐに妻と家を出た。病院までは5分の距離である。
病室は6階の内科病棟であった。既に母と兄夫婦がいて、二人の叔父がベットの横に立っていた。祖母は寝ており腕にはリンゲルの管が繋がっていた。どうしたのだと叔父に訊ねた。
「呼吸が荒くなって眩暈がするというので救急車を要請して入院となったのだ」と言った。レントゲン検査で肺に結核の兆候があることが分かり中部の結核専門の病院へ転院する手続きをしているところらしい。救急車で運ばれたが命に別状はないとのことだ。
「大騒ぎになって済まない」と94歳の祖母と同居している叔父が謝った。皆口々に「危篤の呼び出しかと思ってびっくりしたよ」と安堵した顔で笑った。
「カズ、忙しいのではないかい」と叔父が言った。
「忙しいのは接待ゴルフのせいさ。ゴルフ場から帰ったばかりです」
「遊びで給料がもらえるなんていい職場ね」と妻が皮肉った。
「どうも右脇腹が痛いので僕もレントゲンを撮ってもらおうかな」と言うと
「ゴルフで肋骨を骨折する人もいるらしいよ」と兄が言った。
「カズの体格では骨折はしないだろ」叔父が笑った。
「肋骨は意外と骨折する場所なのよ」と元看護婦の兄嫁が言った。
「遊び過ぎを反省することね」と妻が言ったので皆が笑った。祖母の緊急入院も大事に至らなかったことが皆を気楽にしていた。私は脇腹の痛みが少し増している気がした。「子供たちの夕飯があるでしょう」と母に促されて僕らは引き上げた。帰りの車でも痛みは少し増した感があった。
帰宅すると6時を回っておりテレビを見ていた子供達がソファーから振り返って一斉に「おなかすいたー」と合唱して声を上げた。妻が夕飯は「コロッケとトンカツデース」と言うと「やったー!」声を上げてはしゃいだ。私は妻に「北部病院の隣の救急診療室で診てもらってくる」と言ってテレビの横のサイドボードから健康保険証を取り出して玄関に向かった。紗香が「お父さんどこか悪いの」心配そうに尋ねた。「少しわき腹が痛いので暗くならないうちに薬を貰って来る」と言って玄関を出た。
6時30分に県立北部病院の敷地内にある救急センター棟の前に車を停めて待合室に入った。一般病棟受付から救急センターへ替わったばかりで2名の老人がいるだけだ。救急車で運ばれる患者は県立北部病院の救急室に搬送されるのだ。症状の軽い患者を診断して入院の必要があれば病棟へ運ぶようだ。カウンターで受付をするとすぐに診察室に案内された。医師の白衣には白百合の刺繍があった。その下に北部医師会と記名されていた。夜間診療は北部地区の内科・外科・小児科等の個人病院の医師が交代制でこの施設を管理しているとの新聞記事を思い出した。受付カウンターには午後5時から10時までの受付(10時以降は北部病院の救急室受付)と表示されていた。紗香が子供の頃この受付に来た記憶はなく、夜中に発熱して北部病院に駆け込んだ時は10時を回っていたのだと思い出した。県立北部病院の医師の当直交換時間の補充なのだろうと思った。
「昼間にゴルフをしたのですが、その後に肋骨の辺りが痛くなりました。もしかして肋骨にヒビでも入ったのでしょうか」と医師に話した。
「ではレントゲン検査で見てみましょう」と言ってレントゲン技師に引き継いだ。
レントゲン写真を撮り待合室に戻って待った。痛みは次第に増していった。ほどなく呼ばれて問診に入った。血圧を測り、レントゲン写真を見ながら説明した。
「肋骨に問題はありません。軽い炎症でしょう。血圧が190-160です。高血圧症の傾向がありますね。何か治療を受けていますか」
「いえ、特にありません」
「土日は市内の病院が休みですから月曜日にでも内科医院で血圧の検査を受けるようにしてください。それ以外は問題ないです。念のためにわき腹を固定するコルセットを着けましょう」といって棚から取り出してビニールを外して私の肋骨を締め付けるように取り付けてくれた。
「どうですか」と問われて「痛みが軽くなった気がします」と答えた。
「明日には痛みも軽くなっているでしょう。お大事に」と言って診断書類に何かを記録していた。
「ありがとうございました」そう言って診察室を出て会計カウンターで治療費を払って帰宅した。
帰宅すると夕食が始まるところであった。子供たちと一緒に食卓に就いた。少し遅めの夕食に子供たちははしゃぎながら箸を動かしていた。私は食欲がなくコロッケを半分だけ食べて残りを4人の子供に分け与えた。
「何だか疲れたから先に寝る」と言って半ズボンに着替えて寝室のベットに横になった。痛みは次第に増していった。痛みの発生源がはっきりとしない。肋骨ではなく体の深い部分の何処か、まるで胸の内側全体が圧迫感を伴って痛むのである。呼吸が浅く早くなっているのを感じた。私はベットから起き出して外出用のスラックスとポロシャツに着替えて寝室を出た。妻に「もう一度病院へ行くからタクシーを呼んでくれ」と言ってソファーに座った。タクシーを呼ぶのが億劫になっていたのだ。横になるより座った方が楽であった。しばらくすると玄関の呼び鈴が鳴った。妻が「兄さんが迎えに来たわ。連れていてくれるそうよ」と言った。
私は兄の車で再び救急センターに入った。ひどく呼吸が荒れていた。待合室の長椅子に腰掛けている間に兄が診察の手続きしてくれた。
「今日の急患は終わりだそうだ。北部病院の救急室に移動だ」と兄は言った。
私の様子を見た看護師が車椅子を持って来た。私は恥も外聞も抵抗もなくそれに座った。そして3時間前の診察記録を携え、兄の押す車椅子で北部病院の救急室に向かった。50mも移動せずに北部病院の救急室に着いた。
救急センターから連絡があったのか直ぐに医師の診察があった。担当医はレントゲン写真を見て写真の肺の下部を指差し「急性の胸膜炎だな。白くなっているでしょう。専門外の医者が見落としたようだな。今日の当直はだれだったかな」と看護婦に尋ねた。
「確か市内の皮膚科医院の平山先生です」と答えた。
「皮膚科の先生では見落としてしまうな、胸膜は肋骨と肺の間にあって肺を保護しているのだ。胸膜が炎症を起こすと呼吸で肺が膨らむたびに痛みを生じるのです。呼吸が浅くなり心拍数と血圧が上昇するのだ。それで高血圧症と診断されているのだな。エコー検査でもっと詳しく確認しよう」と指示を出した。
「仲村さん、最近飲みすぎてひどく嘔吐したことは無いですか」
「いえ、もう若くもないので大量に酒を飲むこともありません」
「何らかの原因で胸膜が傷つくと炎症が発生するのです」
「そうなのですか」
「胸膜炎は原因が解らないことが多いです。現在は炎症を抑える良い治療薬が開発されているので回復困難な病ではないですよ。安心して下さい」
「ありがとうございます」
私は痛みの原因が分かってホッとした半面、高血圧症と判断した皮膚科の当直医に診断されたことを不運に思った。看護師が痛み止めの注射を打ち、リンゲルの針を手の甲に打ち込んだ。エコーによる診断画面を見ながら医者が穏やかな表情で言った。
「仲村さんラッキーでしたね。2時間後なら開腹手術が必要でしたよ。まあ、2週間ばかりの入院でしょう。看護師さんが入院に関する必要事書類を準備しますので、今夜から4階の内科病棟に入院です」私はまな板の鯉よろしく簡易担架の上で天井を見ていた。10分ほどして看護師が入院手続きの書類を持って来て兄に渡した。「家族の方にこれを渡してください。あとはこちらで行いますから付き添いは必要ないですよ。明日は4階のナースセンターを訪ねて下さい」と言った。兄は入院手続き書類封筒を受け取って言った。
「俺は帰って嫁さんにこれを渡すからお前は大人しくしていな」
私が「ありがとう。頼むよ。ついてない一日だった。お婆さんが笑っているかも知れないな」そう言うと、兄は「そうかもな、じゃあな」と言って出て行った。
30分ほど救急室で待機して4階に移動した。そしてナースセンター横の集中治療室の入院患者専用ベットに移った。ナースセンターからガラス越しに見渡せる部屋である。この日は私一人だけであった。痛み止めが効いているのだろうか意識が朦朧として忽ち霧の中に溶け込んでしまった。
何時か知らぬが誰かに呼び起こされた。意識が朦朧としている中でスタンドの明かりに浮かぶ若い看護師がいた。
「リンゲルを取り換えます。針を差し替えますので少し痛みますが我慢して下さい」といった。
「はい」と霧中の思考の中で答えた。私が体を動かした際に針が抜けたらしく差し替えるつもりのようだ。新米の看護師であろうか血管を探して二度、三度と針を差し替えた。その度に「すみません」と謝った。5度目にやっと血管を探し当ててうまく注入した。看護師の作業が何か他人事のように感じており、注射嫌いの私にしては痛みを感じていなかった。
「終わりました」と看護師が安堵した声で言って出て行った。この部屋に移って初めての看護師である。酸素が足りないのだろうか頭の回転が鈍く現在の状態を理解できていないようであった。
当直の医者が別の看護師を伴って回診にやって来た。4階に運ばれて1時間後か2時間後か知らぬがあまり時間が経過していなかったと思う。何か話しかけるが良く分からない。酸欠を起して脳が判断力を失っていたのだろう。看護師が枕もとで何やら捜査して鼻にチューブを固定した。鼻腔から酸素が注入された。頭脳が急速に目覚めるのを感じた。酸素がこんなにも美味いと初めて知った。
「仲村さん、痛み止めの他に胸膜の炎症を抑える薬を投与します。毎日レントゲン写真を撮って回復の様子を見ることにしましょう。2週間程度で回復できるでしょう」と言って看護師に何やら支持して別の部屋の患者の回診に出て行った。私は酸素が肺に行き渡り脳細胞が少しずつ活性化するのが分かった。次第に目が冴えていった。そして先ほどリンゲルの針の交換をした状況を思い出した。人間は脳が何かの原因で酸欠状態になり、意識が肉体から飛び出しそうになると自らの意思の力が低下してしまい、知的な判断力を失ってしまう。大病や事故で生と死の間の穴に落ち込んでしまい、肉体から精神が遊離して死線をさまようとはこれに近い状況なのかもしれない。死の恐怖とは脳細胞が活性化した状態で確かな理性と判断力を備えている場合にのみ起こるものであろうとも思った。私は病棟の廊下から漏れて来る明かりの中で酸素注入チューブから押し出される酸素の流れを感じつつ天井を見つめていた。今の状況について何一つ思いを巡らすことは無かった。未だ現実の中に意識が戻って来ていなかった。
朝になり、看護師が持ってきた病院のガウンに着替えた。そして4人部屋の一般病室に移動した。9時過ぎに訪ねて来た妻に入院時に付けていたズボンやポロシャツを渡した。これでその他一般の入院患者の一員になった。
「お医者様はなんておっしゃったの」と妻が訊ねた。
「胸膜炎だとさ、医者も原因が解らぬらしい。2週間はお泊りだ」
「そう、何か必要な物はない」
「電気髭剃りと書斎に建設白書があるから持って来てくれ。退屈な日が続きそうだ」
「食事はどうなっているの」
「特に食事の制限はないらしいが、今日の昼飯から出るらしい。俺は元気だ、痛みもないし心配するな」
「バカね、元気じゃないから入院しているのでしょう」
「子供たちに大丈夫、元気だと言ってくれ。用事があるなら電話するから毎日は来なくても良いから。お前も月曜日から仕事があるだろう」
「入院手続きを済ませたらしたら帰るわ」
「入院中だと、人に言うなよ。みっともないから、会社へは自分で電話するから」
妻は私の着替えを持参した袋に入れて出て行った。
毎日午前中にレントゲン検査があり、看護師が車椅子で1階の処置室まで運んでくれた。車椅子で移動していると重病人なった気がして気持ちが滅入った。会社に連絡すると、専務はとんだ災難だったな、心配せずに治療に専念してくれ、後で金城君を見舞いによこすからと言った。50名程度の組織にとって私の不在など問題外のようであった。組織で最も必要なのは末端の労働者である。彼らが欠けると忽ち稼働力が低下するが、実労の乏しい幹部が欠けても短期的には影響が出ないのである。
肺の周りに白く映っていた靄は日々薄くなって消えて行った。1週間後には霞が消えたように見えた。私には見分けがつかぬが医者は少し残っていると言って、2週間の入院を短くすることは無かった。退屈な日々が続いた。技術士試験対策として建設白書を読むも文字を眺めるだけで記事は記憶の隅にも残らなかった。只、閉口したのは見舞いの老人達が血色もよく健康そうでガタイの大きな男が、リンゲルをぶら下げたローラー付のスタンドを引いて娯楽フロアに座っているのを奇異な目で見ることであった。一度老女に方言で尋ねられた。
「兄さんは何処が悪いの、大きな丈夫そうな体をしているのに」と
「胸膜炎」だ。
「何ねー、それは」
「昔で言う、肋膜炎だ」
「なんだ、怠け者が罹る病気だね」と言って、心配して損したという表情で不満そうに立ち去った。急性胸膜炎はとても痛いのだぜ、一度婆さんも罹ってみるかいと言いたくなった。テレビの置かれた休憩フロアで退屈を紛らわすのを止めて7階の食堂でコーヒーを飲んで過ごすことが多くなった。クーラーの効いた部屋から名護湾が見渡せた。夏の海は明るい青色に輝いており、遠く残波岬を境に東シナ海の水平線が広がっていた。この様にのんびりとしながら一抹の不安を抱えて名護湾を眺めたのはいつのことだっただろうか。遥か以前、現在の職業に着く前の若い20台の後半にあった気がした。店員の若い女の子と顔見知りになったが病名を訪ねることは無かった。2度目の週末に海洋博公園の花火大会があった。屋上に上って西の方角を見た。音も花火も見えなかったが、時折嘉津宇岳の山際が明るくなった。会社では例年通り課長以下の男子社員は夜中の12時近くまで交通誘導をしているなと思った。公園内は昼間から音楽コンサートが開催されており、県内外からの来園客で賑わうのだ。県内最大の花火イベントである。例年なら私は交通混雑に巻き込まれないように少し離れた場所から子供たちと花火を楽しんでいたのだと少し心が沈んだ。
県立病院の契約満了日はしっかりと2週間後にやって来た。妻が持ってきた衣類に着替えて1階の精算ロビーにあるキャッシュコーナーで5万円を引き出して支払いを済ませた。2週間分の三度の食事、投薬、宿泊代で5万円からお釣りが出ることに驚いた。健康保険の有難さがしみじみと分かった。それ以降健康保険料が高いと愚痴ることはしなくなった。
帰宅して居間の籐のソファーに座ってテレビのスイッチを入れた。目に映るもので変わったものは何もなかった。保育所から早めに帰宅した末娘が大喜びで私の膝の上に座って体を揺すった。体は何処も痛くなかった。しかし私を取り巻く気配が僅かに変わっていた。否、私の感性が変わっていたのだろう。会社に電話して専務に見舞いの礼を述べ明日から出社すると伝えた。夕方なって日が落ちてから自宅近くの国道沿いを体馴らしに歩いてみた。わき腹に痛みはなくなったが、少し早足になると呼吸が乱れ、足がふらついた。僅か2週間の入院生活で人の体は機能の低下に陥ることを思い知らされた。体の機能回復の為、日常の生活スタイルを代えねばと思った。
それから1年間、ウォーキングから始まり、ジョギングに移り、1年後には21世紀公園のラグビー場の周りを毎日1時間もノンストップで走れるようになった。職場の定期人間ドックのレントゲン検査で胸膜炎の跡が完全に消えた頃から筋トレを始めた。手製のバーベルでベンチプレス、スクワット、デッドリフト、ベントオーバーローイングで筋力の強化を図った。次第に筋力がついてベンチプレス75kgを上げられるようになっていた。入院以前よりも確実に体力が向上していた。ゴルフも熱が冷めることも無く、コンスタントに80台の依然と同じスコアで回れるようになっていた。そんな時に通勤途中で目に就いたのが剛柔流・琉心会屋部道場の看板だ。
私が中高校生の頃、隣の家に沖縄拳法を習っている天久佐吉さんが住んでいた。私より10歳程年上の元自衛隊員で絵を描く共通の趣味から始まり、夏の夕方に浜辺で相撲を取り、近くの大石の小島までの遠泳をしたり、空手の手ほどきをしてくれた。4人兄弟の末っ子の彼は、私を実の弟の様に可愛がってくれた。小柄だが良く引き締まった体をしており、WBC,WBA元世界チャンピオンボクサーの藤猛に似た風貌であった。佐吉さんは私が空手に興味があると知り、裏庭に松の丸太を削って巻き藁を立ててくれた。沖縄拳法の名護道場にも何度か伴ってくれた。随分後に知ったのであるが今は亡き沖縄拳法の創始者は私の一族と遠い血族であったらしい。佐吉さんとの付き合いは短い期間であったが多感な少年期の不思議な体験を作ってくれた。彼が自衛隊勤務の頃の後遺症で那覇市内の精神科病院に入院し、私が大学受験にしくじって家を離れて浪人生活をした頃から付き合いが途切れたようだ。それに詳しくは知らないが入院中に別の患者に就寝中のベットの中で刺されて死んだと聞いている。そして彼の一家が住んでいた借地は、地主が借金絡みで誰かに売却してしまい立ち退いてしまった。それ以来彼の一家との付き合いも完全に途絶えてしまった。彼の義姉が実家の近くのソバ屋に務めており、時折見かけたが今は知らない。私は拳勝会道場の看板を見てふと遠い日の思い出が蘇り、空手の修行に取り組むのも悪くないと思った。体力も回復したことだし、遊びと酒に明け暮れるゴルフの趣味から少し離れるべきかもしれない。人生の中間点の40歳を既に過ぎており、体と心を新しい日常に切り換える頃だろうと感じていた。
(2)入門
空手を習いたいと思ってから直ぐに自宅裏に巻き藁を立てることにした。巻き藁を突いてみてやる気が失われなければ空手道場の門を叩くことにしようと考えたのだ。巻き藁は20年前と同じ方法で立てようと考えた。他に方法を知らなかっただけである。知り合いの造園会社のヤードから幹回り30cm、長さ2mの間伐材のフクギを1本貰って来た。山鉈で樹皮を剥ぎ取り、先端が2cm厚で根元が太くなるように120㎝程の長さを削った。70㎝程地中に埋めて固定した。古いゴム草履を挟んで藁縄を2重に巻き付けた。藁縄の隙間をハンマーで叩いて均した。早速巻き藁を突いてみると、拳が痛くなった。それを我慢して突くと薄皮が剥ける。傷が治るまで中断して再び突き始める。2カ月ほどで拳にタコが出来た。巻き藁突きがサマになって来た気がしたので道場を訪ねることにした。

6月の梅雨が明けた頃、帰宅途中に道場を訪ねた。私が入社した頃に住んでいたアパートから300m程離れた場所で、国道から海岸に向かって中通りを一つ隔てた建物であった。国道脇の民家のブロック塀から3mの高さの鉄柱に琉心会空手道場のパネルがポツンと立っていた。私は道場入り口の通りを一つ過ぎた場所にある公民館前に車を停めた。駐車場の横は砂浜に続いており、広い砂浜と穏やかに打ち寄せる波が目に入った。車を降りて50m程歩くと2階建ての白い建物があった。敷地の横は海岸である。ハスノハギリ、オオハマボウの防風林が続いていた。その防風林のトンネル状の隙間から砂浜に降りていく小道があった。コンクリートブロックで仕切られた塀に2か所の門があった。手前が住宅用の格子の門扉となっていて、その隣の車庫との間にアルミ製の扉があった。琉心会空手道場の大きな表札が掛けられていた。私が立ち止まって表札を見ていると左手のトンネルの中から人影が現れた。
「こんにちわ」と挨拶した。
「こんにちは、何か用ですか」とその男が訊ねた。160㎝程の身長で胸板が厚く胴体が太い丸太を思わせる体格である。髪はパンチパーマをかけた短い縮れ毛で黒のトレナーズボンに白いTシャツ姿であった。
「こちらの方ですか。空手を習いたいと思いまして尋ねました」
「そうですか、どうぞ」ニコニコしながらドアを開けて招き入れた。中庭を横切ってもう一つのドアを開けて言った。
「道場は2階です。ご覧になってください」
鉄製の階段を登って道場に案内された。広間に入る前に一礼して上がった。私もそれに倣って一礼して上がった。古い黒光りする板の間であった。
「私は館長の岸本です。そちらのお名前は」
「仲村です」
「お住まいは何処ですか。どうしてこの道場を知ったのですか」
「市内の宮里です。15年ほど前にこの近くの教員住宅に住んでいました」
「学校の先生ですか」
「いえ、家内が先生で、私はサラリーマンです」
「空手の経験はありますか」
「高校生の頃に体育の授業で空手の形を習っただけです。空手に興味が沸いて来たので最近巻き藁を突いています」
「では、ここの巻き藁を突いてみますか」
4本ある巻き藁の1本を指差して言った。
私は少し身構えてぎこちない動きで2度3度と突いた。私の巻き藁よりも細身でバネがあった。そして突く部分は革で出来ていた。
「いいでしょう。来月からの入門にしましょう。其処にある道着を着けてみてごらんなさい」着替え棚の横の壁に掛けられたくたびれた空手着を指差した。
空手着なるものに初めて袖を通してみた。それを見て岸本館長が言った。
「4.5号だな。道場の練習日は毎週月・水・金の午後8時から10時までだ。入門費と月謝はそこの壁に書かれている通りだ。チョット待ってくれ、入門申請書類を取ってくるから」そう言って道場内のドアを開けて中に入った。館長に指差した壁には「全沖縄空手道場連盟・剛柔会公認道場、入会金、月謝」と表記されたプラスチックのパネルが貼られていた。館長はドアの内側で何やらゴソゴソとしていたがすぐに戻って来て書類を渡して言った。
「次来るときに書類を持参してくれ。道着は私が立て替えて買って準備しておくから」館長は振り返って壁に掛けられているカレンダーを指差して言った。「来月の水曜日が入門日だな。師範代のノリさんが待っているから彼の指示に従ってください」
「よろしくお願いします」
「そうだ、連絡先の電話番号を聞いておこう」
私はポケットから名刺入れを取り出して名刺を一枚渡した。
私は土間に降りて館長に一礼した。館長も一礼して返した。私は安堵と不安の混ざった気持ちで階段を下りて行った。
7月の最初の水曜日、私は午後8時10分前に道場の前の小さな駐車場に車を停めて門人の来るのを待った。直ぐに軽トラックが止まり小柄な男が作業着姿で脇に道着を抱えて降りて来た。
「こんばんわ。今日からお世話になる仲村です」
「館長が話していた新人だな。高良です。行きましょう」
その男の後に付いて中庭を横切った。
「ここに道場の鍵があります。ドアを開けてこのスイッチを入れて下さい。2階の道場の電気が点きます」そう言ってカンカンと音を立てて鉄製の階段を登って行った。私も後ろから付いて行った。確かに2階の道場は電気が灯っていた。道場入り口のカギを開け、アルミ製の引き戸を左に寄せて中に入った。高良さんは上がり框に跪いて「お願いします」と一礼して中に入った。私もそれに倣った。
「本部の海洋博公園で働いているそうだね。僕も本部に住んでいる。よろしく。先ずは掃除から始めよう」そう言って入口の外にあるバケツに水をためた。入口は150cmに200cmのスペースがあり、一方に手洗いと水道、一方の壁にトイレがあった。
「水はバケツの半分程度で良いです。そこのモップで道場の床を拭きます。拭き掃除が終わったら残った水で土間を洗います。では始めましょう」
私は高良さんを真似てモップで床を擦って掃除を始めた。途中で一人、また一人と門人がやって来た。皆同じように跪いて「お願いします」とおじきをしてから着替え棚に道着を置いた。そして床の掃除を始めた。道場は矩形になっており、広い場所が空手の練習場所でもう一方の3分の1ほどの広さにウエイトトレーニング機材のベンチプレスベンチ、スクワットラック、シットアップベンチ、プルダウンマシン、レッグカールマシン等が整然と配置されていた。広間の壁には高さ200cmの鏡が大小6枚据え付けられていた。玄関の正面奥が神棚で左側の壁に武道具掛けられており、その上に門人の名札が上下2列で掛かっていた。上段右から館長、顧問、上段者の順で並んでいた。私の名札はまだ無かった。
10分ほどで掃除を終えた。私は先輩たちに入門の挨拶と自己紹介をした。8時20分に師範代がやって来た。この日はノリさん、シゲさん、ノブさん、クニさんと呼ばれる高良さん、そして私より1カ月早く入門したヤスシであった。他に4名ほど門人がいるとのことである。
「さて、準備運動を始めようか。新人は見様見真似で出来る範囲でやってくれ」師範代のノリさんが声を掛けた。
準備運動はストレッチに似た動作に始まり、突き、蹴りと移って行った。道場内に「エイ」の掛け声が大きく響いた。
準備運動が終わってしばらくすると館長が広間の木戸を空けて入って来た。
「こんばんわ」門人が一斉に館長に向かって挨拶をした。
「おお、来たか。準備運動は済んだようだな。これが道着だ。着けてみなさい」そう言ってビニール袋に梱包された道着を渡した。私は真新しい空手着を着けてみた。少し広めだが違和感なく体に合った。
「何号ですか」とノリさんが訊ねた。
「4.5号だ、ノリさんと同じサイズだ」と館長が答えた。
「幾らしました」とノリさん
「入門者用で6,500円だ。黒帯を締める頃に一つ上の上質な道着を買うと良いだろう。4,5回洗うと縮んで落ち着くからその後に名護市場通り入口にある長山洋服店で道場のマークを刺繍させると良いな。1,000円でやってくれるだろう」
「ありがとうございます」と礼を言った。
「ノリさん、サンチン立ちと運足を教えてやってくれ」そう言って館長は他の門弟に声を掛けて指導を始めた。形の練習をする者、突き蹴りをする者、筋トレの部屋に行く者等それぞれの練習に取り掛かった。
「よし、始めよう。手を腰に当てこの足型に立ちます。そして足を上げずに円を描きながら足の裏を滑らせて前の足型の位置に進みます。そこで足の裏で床を掴むようにギュッと締めます」床がギュッと鳴った。
「次に左足を前に進めます。これを繰り返して前進します。」ノリさんはキュッキュッと音を立てながら進んでいった。
「ここまで来たら同じ要領でバックします」そう言って元の位置に戻って来た。
私はノリさんの指示に従い床に描かれた足跡をなぞるように進み、引き返す動作を繰り返した。
「サンチンの練習では誰でも足の親指の皮が一度は剥けるものだ。家に帰っても毎日続けなさい。剛柔流の基本中の基本の動きだ」ノリさんは言った。
この動作は簡単なようで難しい。初心者の私にとって足元を気にすると体幹が安定しないのだ。ノリさんに何度も指摘されながら繰り返した。
「おお、頑張ってるな。ノリさん手をサンチン(三戦)の構えにして練習させなさい。その方が次に進みやすいから」
「そうですね。では、両手をこの構えにして両脇を締めます。肘と体の間に拳一個分の隙間を空けます」ノリさんが構えて見せた。
「三戦は体全体を締めあげるのだが、とりあえず下半身だけを練習しなさい」館長はそう言って私の動きを見つめていた。
「顎を引いて正面を見なさい。足元を見る空手の動作はないよ」館長はそう言って再び別の門弟の指導に向かった。
10時を過ぎた頃、館長が「終わりましょう」と声をかけた。
「新人は一番前だ」ノリさんの指示で全員が2列に並んで神棚に向かって正座した。ヤスシと私が最前列でノリさんとシゲさんの師範代が最後尾である
「黙想」館長が合図した。1分ほど黙想した後
「目を開けて下さい。神殿に礼」
「ありがとうございました」と全員で頭を下げて唱えた。
館長が振り返り「ご苦労様でした」
「ありがとうございました」と館長に向かって頭を下げた。
「お互いに」と館長が言った。
互いに向かい合って「ありがとうございました」と言って頭を下げた。そして立ち上がった。
これで本日の練習が終了である。皆が道場の窓を閉めてブラインドを降ろした。
「みんなに紹介しよう。新しく入門した仲村さんだ。皆で教えてくれ」
「仲村です。名護市内の宮里に住んでいます。よろしくお願いします」と挨拶した。館長の指示でノリさんが仲間を紹介した。皆が着替えをしている間に館長に入会申請書と共に入会金、月謝を払った。そして道着代は次に持ってきますと話した。かくして私の入門初日が終わった。軽い興奮を覚えながら階段を下りて駐車場に向かった。小さな駐車場で車を出す順番を待っていた師範代のノリさんが声を掛けた「新人、金曜日も出て来いよ。頑張れば黒帯が取れるから」そう言って車を出した。浜風が潮の香を運んできた。防風林に空いたトンネルを通して潮騒が近くに聞こえた。大きく息を吐きだして車に乗り込んだ。何とかやれそうな気がした。私は駐車場から最後に車をだした。バックミラーに電灯の明かりが消えた道場が満月の明かりで映っていた。
(3)初心者の手習い
琉球王府の頃は空手のことを「手」(ティー)と呼んでいた。空手家のことを手使う者(ティーチカヤー)呼んでいた。今でも畏敬の念を込めてティチカヤーと方言で呼んでいる。あの人はティチカヤーだと呼ぶときは尊敬よりも恐れの意味が強いようだ。やばい男だから迂闊なことを言たり、不用意な応対してはいけないと警戒しているのが本音だろう。青少年が空手を習ってもスポーツの一部と見るのであるが、40歳を過ぎても手習い(ティーナレー)をしている者は奇異に見られることが少なくない。それ故、昔も今も手習いをしていることを公言する年配者はいない。私も平素は極力に人に知られないように心がけている。館長の指示で演武会に出て武芸を見せる以外は手を使う者(ティチカヤー)の気配を全く見せぬように注意し、常に温厚で論理的に誰とも平等に接するよう心掛けている。論語の中の「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」を肝に銘じて日常を送ることが空手家(ティチカヤー)の現代社会で穏やかに暮らすための手段であると信じている。ともあれ中高年の分別ある年齢になると多くの人は心に潜む武闘派のエネルギーが放出され切ってしまい、手習い(ティーナレー)止めてしまうものである。60歳を過ぎても巻き藁を突いて拳を鍛え、筋トレで体力の衰えに抗う者は武道の魔力に染まり切った者共であり、病で倒れない限りその道から抜け出ることは無いだろう。
無印の道着を着けて2週間ほど道場に通った。道着が少しだけ縮んで落ち着いたので指定された長山洋服を訪ねて拳勝会のマークの刺繍を依頼した。2代目の30代の職人は「岸本先生の道場の刺繍ですね。コンピューターに入力してあるので明日には仕上がりますよ」とニコニコして道着を受け取った。翌日の夕方、会社帰りに立ち寄ると仕上がっていた。刺繍は左胸に拳勝会、左袖の上腕部に丸いロゴマークである。初心者用の道着の上着は洗濯後に皺が寄ってアイロンを当てる始末であった。私は練習が終って帰宅すると家族の洗濯物とは別に自分の道着と下着類だけを洗濯機で洗い、水分を含んだ状態の道着をパンパンと叩いて伸ばして皺が入らぬように干した。
道場のマークが入った道着を着けて練習を始めるとノリさんが言った。
「おお、カズさんやっと俺らの仲間になったな。無印だと何処の輩か分からなかったからな。頑張れよ」その頃から私はカズさんと呼ばれていた。
県内には剛柔流、少林流、上地流、沖縄拳法など幾つかの空手の流派があり、それぞれの流派の形を持っている。剛柔流では三戦(サンチン)、撃砕に始まり12種の形がある。三戦と転掌は単なる形では無く体の鍛錬を基本としている。剛柔流は三戦に始まり三戦に終わると言う空手家もいる。確かに三戦の演武を見るとその道場の門弟の力量が現れる。私も三戦と共に撃砕第一を教わっていた。
三戦は一歩前進して下半身を締めて固定する。次に上体は突きの動作で息を吐きつつ体を締めあげる。突き切る時にハッと強く息を吐きながら体を締める、手を引いて受けの動作の間は体を緩めては息を吸う。そして受けの動作の最後にハッと小さく息を吐いて体を締める。前進して反転、そして前進して反転して元の位置まで前進して戻る。その動作の間に体を締めた状態を確認するために館長、師範代が手の平で僧帽筋の横の肩を叩き、拳で腹筋を突き、足で大腿四頭筋を蹴って体の締まり具合を確かめる。館長が両手で肩を叩くと体が沈み込む感じがする。この鍛錬によって打たれることへの恐怖は消えてしまう。私は元来、殴られることへの恐怖が殆ど無いのであるが、館長が叩くと本当に体が締まって行くのが分かった。本物の武道家に巡り合えたと思った。三戦は体作りの鍛錬であり、単純な動作であるが本当に奥が深い。練習を怠けると体幹が緩んでいくのがはっきりと現れる。今日まで二十数年も道場に通っているが未だに指摘を受けるのである。
さて、最初に覚える形が撃砕第一だ。受けは上段、中段、下段受けがあり、攻撃は中段突き、中段両手突き、手刀、中段前蹴りがある。それを前後、左右に動く動作の組み合わせである。攻撃の気合の発生は4回だ。準備運動で行っている動作が殆どであり戸惑うことは無い。しかし形の中に含まれる意味を理解しての動作は容易ではない。
最初の左上段受けを見てノリさんが言った。
「そのままの形でストップ」武道具棚から竹刀を持って来て軽くポンと叩いた。
「ほら、竹刀がアンタの頭を叩くだろ。もっと腕を上げて上から振り下ろしてくる攻撃に対して頭を守らなければいけない。次にその攻撃の威力を弱めるために受ける腕は斜めにして相手に攻撃を受け流さなければアンタの腕が折れるよ」
私は意識して上段受けをした。前腕を捻り込み突くような動きである。
「今の手の位置を覚えなさい」とノリさんが言った。
次の動作で中段突きをした。ノリさんが笑いながら言った。
「カズさん、空手はボクシングではない。アンタの突きはフック突きだ。確かにパワーはあるが空手の正拳突きは上段、中段、下段とも脇を締めて真っ直ぐに拳を捻りながら突くのだ」近くで腿上げの練習をしていたシゲさんが言った。
「サンチンの突きも脇が開いているよ」館長が近づいてきて言った。
「正拳突きの基本から教えないと初心者は解らないよ。私が君たちに教えたようにカズさんにも教えなさい。しっかりしてよ、師範代の兄さんたちよ」
「わかりました」とシゲさんノリさんが館長に頭を下げた。
中段突きは両手を水月の高さに持っていき、両こぶしの間を拳1個分の開けた位置を突くのである。脇を締めて拳突き出す。肘が胴体を過ぎた頃から拳を捻り込む。拳は胴体の乳首の横の位置から突き始める。力を込めるために拳を後ろに引きすぎると肩が上がってしまい突きのスピードが遅くなるだけでなく波打って進んでしまう。右中段突きで両肩の線が並行の位置でなく、右肩を後ろに引いた状態から突きの動作に入ると拳が移動する距離が長くなるのでパンチ力は増すがフック撃ちなってしまう。突き終わった時に右肩が前に出てもいけない。両肩の線は前後に動いてはいけないのだ。足の裏で床を掴み、三戦立ちで下半身をしっかりと床に固定されていないと上体はぶれてしまうのである。
次の動作は四股立ち下段受けである。私の左下段受けの状態を止めさせてノリさんが言った。
「下段受けは相手の前蹴りを受ける動作だが、金的だけの攻撃ではないぞ、払ったつもりでも左わき腹に足先が届いてしまうだろ、ほら」確かにノリさんの前蹴りの足先がわき腹に届いた。
「蹴りは突きよりも力強いからしっかりと大腿の外側まで払い出す必要があるのだ」
私は左腕を少しだけ腿の外側に沿って動かした。
「うん、その位置だ。あまり外にはみ出すと前ががら空きになるから駄目だ。腕を少しだけ外側に捻りなさい。そうすれば蹴りのパワーを受け止めることが出来るだろう」ノリさんが太い前腕を捻って見せた。
四股立ち右下段受けから左中段受け、右中段受けと続く動作となる。ゆっくりとした動作で左右の前腕を交差させて一方を受け手、他方を引いて突く体制に移る。受け手は半円を描いて相手の突きを払いつつ拳の親指側と前腕とで作る矩形で相手の拳を引き寄せるように肘を引いて締めるのだ。肩と肘が前腕をしっかりと支える動きである。
その次に中段前蹴と続く。前蹴りで距離を出すには尻を送り込むのであるが、形の場合、尻を基本立ちの位置で蹴って足を元の位置に引き戻す。次の動作をスムーズにするためだ。最後の諸手突きは相手の水月と肋骨の下の肝臓に打ち込むのである。
道場通いも2か月が過ぎた頃のことだ。
「カズさん、敬老会まで2カ月あるから撃砕第一と三戦はしっかりと覚えておきなさいよ。拳勝会は全員舞台の上で演武するからな。大勢のお客さんの前で間違うと恥ずかしいぞ。ヤスシも同じだ」ノリさんがそう言って笑った。
「敬老会ですか。名護市の老人ホーム厚生園でやるのですか。それともどこかの老人会の慰問ですか」
「そうかアンタたちは未だ経験していないな。公民館で開催されるのだが、大兼久区や宮里区の豊年祭みたいなものだ」
「踊りや組踊などもあるのですか」
「ああそうだ。演目は20くらいで市長や地元の市会議員さんたちも来るぜ。拳勝会も20分程度の演武時間があるぞ」
「舞台に上がるのですか。若い頃に妹や同級生の結婚披露宴の余興以来だな」
「2か月は短いぞ、心して練習しなさいよ」
「はい、頑張ります」ヤスシと私は返事した。
「皆さん終わりましょうか」館長の声で神棚の前に整列して跪いた。館長の「黙想」「神殿に礼」で本日の練習が終了した。
道場の高窓を閉めてブラインドを降ろしていると門弟表札を観ながら館長がノリさんに言った。
「カズさん、ヤスシからノリさんまで敬老会に参加できるのは10名かな」
いつの間にか私の表札が掛かっていた。表札と黒帯の先輩門人の姓名を較べてみた。その中に上間譲の表札があった。
「ノリさん、私は上間センパイには未だ会っていませんね」
「そうだね、本部町新里の出身の男だが、4年前から浦添市の運送会社に勤めている。妻子ともそこで暮らしているので道場に来ることはなくなっているね」
「ノリさん、譲の兄の新築祝いに招待されてシゲさんが祝いの舞を踊り、ノブが形を一つ見せたことがあったね」館長が言った。
「そうでしたね。新里集落の西の外れでしたね。そのすぐ後に譲は浦添に転勤したんですね。確かノブさんが連れて来た男でしたね」
「俺らのオリオンビール工場の下請け運送会社に勤める男だった」ノブさんが言った。
私もその新築祝いに参加したのであるが琉心会の門人と出会った記憶はなかった。そして私がその新築祝いに参加したことをノリさんに言わずに話を閉じて着替え棚にむかって歩いた。皆それぞれに着替えて道場に礼を言って階段を降りて行った。
私は帰路の車のハンドルを握りながら顔も知らぬ門人上間譲の兄のことを思い出していた。私が空手道場の門を叩いたもう一つの本当の理由を考えていた。
仙蔵は譲のすぐ上の兄で自社の部下社員である。新築して人生が順風満帆に進んでいるかに思えた矢先、娘が酒気運転でひき逃げ事故を起こしたのだ。死んだ男が隣村の初老の男であった。娘は九州の某交通刑務所に収監された。仙蔵の集落近隣での評判はひどく悪くなって酒におぼれるようになった。無断欠勤が頻繁に発生して所属現場の同僚からの苦情が発生した。現場の不具合は必然的に私が納めることになるのである。
ある時、上司の専務から仙蔵を注意するように頼まれた私は、彼の持ち場を訪ねて語気を強くして彼の日頃の行動を嗜めた。下を俯いて選定鋏で屑枝を刻んでいた。見かねた渡した少し言葉を荒げて行った。
「聞いているのかね。仙さん。貴方は社内で一番の年長者で皆の見本となるべき立場ではないかね。無断欠勤が多く現場が困っているようだ。しっかりしてくれ」そう言った。
「何を言うか、アンタ如きに言われる筋合いはない」そう言って血走った眼をして立ち上がり、剪定鋏を握って私を威嚇するように対坐した。
「なんじゃい」私は強く睨み付けて作業着の上着を脱いで左手に持って構えた。彼が剪定鋏で攻撃してくると上着を投げつけて怯ませた隙に蹴り又は拳を叩きこむつもりであった。
近くで作業をしていた3人の職員が口々に言った
「仙さん、やめて下さい。落ち着いてください」
「お前、いつか殺してやるからな」捨て台詞を残して退社して行った。
青ざめた顔の社員が言った。
「部長注意して下さい。仙さんは家庭の事情で精神的に不安定になっています。僕らは彼が何を言ってもハイ、ハイと受け流して彼に不満を起させないように注意しています。会社の現場の大将気取りで日常生活のストレスを解消しているみたいです。」
「部長だけが彼の唯一の自由の効かない存在です」と別の社員が言った。
「そうか、彼の家庭は娘さんのことでゴタゴタがあるみたいだからね。専務の指示で注意しに来たのだが悪い結果となってしまったね」
「天下りの専務になんて現場のことは解りませんよ」別の職員が吐き捨てるように言った。
「うん解った。一度奥さんに会って精神科の治療が必要でないか話し合ってみよう。確か奥さんは海水浴ビーチの売店に勤めていたね」
「部長、一人で仙が入っていて、僕らに見せびらかしていましたから」
「そうか、良くないね。君たちも彼の言動には十分気をつけてくれ。何とか解決手段をさがすことにするから」私はそう言って車に乗り込んで現場を後にした。
私は一連の出来事で彼に対する恐怖心は起こらなかった。しかし、私の中に潜在意識としてに埋もれている狼にも似た理性を失った残虐性、平気で何もかも叩き潰してしまう容赦の無さが表面化しないかを恐れていた。今日はその不穏なエネルギーが噴出しなかったが、そのエネルギーが充満してある瞬間に誰かが安全弁を外さないかと懸念していた。そして入社してすぐに猟銃のレミントンM870を警察に返納していることにも安堵していた。
私はこの日の出来事を仙さんは精神的に不安定であり、近くの精神科病院ノーブルクリニックで治療を受けさせる必要があるみたいだとだけ専務に報告した。その後専務と私、仙さんの奥さんと近くに住む宣さんの長兄を交えてホテルのレストランで話し合った。奥さんと長兄は口々に私が宣さんに狙われている言った。私はそうですかとだけ答えた。何か彼らの意見が他人事のように私の頭からすり抜けて行った。私は自分が狙われているとの恐怖心は起こらなかったが、私の中に悪しきエネルギーが充満する事が気がかりであった。私の空手道場への入門の真の理由は不純なエネルギーを飛散させることであった。国道を右折して自宅の明かりが見えた頃、上間譲という男と奇妙な関りがあることに不思議な縁を感じていた。そして道場での鍛錬は確かに私の不純なエネルギーを燃焼させてくれるようであった。奇妙な成り行きは岐路の選択の必然性が起こらない限りそのままに進行するのが私の基本的な生き方である。
(4)敬老会演武
1970年、名護町、屋部村、羽地村、屋我地村、久志村が合併して名護市となった。大戦前の宇茂佐集落は旧屋部村字屋部集落の一部であった。大戦後の人口の増加と共に屋部区から独立した行政区分になり、宇茂佐公民館設置されたのである。現在では集落の裏手の丘陵が宅地整備されて名護市で最も多くの住民が住んでいる。2010年から地籍も旧集落の宇茂佐と住宅土地改良区の宇茂佐の森に分かれているが、名護市の行政区分は以前からの宇茂佐公民館が統括している。居住地面積、居住者とも宇茂佐の森区が圧倒的に多いが、地域活動の拠点は宇茂佐区である。新興住宅地の住民は旧居住者との交流をあまり好まない。賃貸マンション、アパートの住人は短期居住者であり、地域の交流よりも個人のプライバシーを優先しているのだ。県内、県外からやって来た居住者はそれぞれの故郷を持っており、この地区が自分の故郷になるには何回かの世代交代が必要となるのだろう。屋部川を隔てた王府時代から続く集落の屋部区は集落の共同体意識が今でも強く残っている。150年以前から毎年開催されている豊年祭「八月十五夜祭り」で演じられる組踊は沖縄県の無形文化財に指定されているくらいである。
さて、宇茂佐集落の敬老会は9月の敬老の日に開催されるのではない。屋部区の八月十五夜祭りが終わってから一月後に開催されるのである。名護市の屋部、宮里、大兼久、城、その他の古い集落では旧暦八月十五夜の祭りが今でも行われている。宇茂佐区の敬老会はその祭りが終わって余韻が醒めた頃に開催されるのである。師範代のノリさんが敬老会開催のいきさつを教えてくれた。宇茂佐区は砂浜と100m後方の丘陵地に挟まれた中通り3本の世帯数のとても少ない地域で屋部区とは大きな河口を持つ屋部川で隔てられた屋部区の飛び地であった。大戦後に県立北部農林高等学校が設立されてから住民数が増えていったのである。そして行政区分も宇茂佐区として独立したのだ。大戦前は屋部区の伝統的な八月十五夜祭りにも区民は参加していたのだが行政的に独立区分したことで参加が出来なくなってしまった。そうなると区民の秋の楽しみが消えてしまった。むろん屋部区の十五夜祭りを見物出来るが、ご馳走の弁当が配られる地元区民とは異なるよそ者としての見物である。これは面白くないと宇茂佐区民は不満を募らせるようになった。
大戦後しばらくして景気が良くなりはじめると郷土芸能が復活して商業劇団が活発になった。乙姫劇団、仲田幸子劇団、与座兄弟劇団などが県内各地で公演するようになった。宇茂佐区民はその地方回りをする小さな劇団を呼び寄せて公民館で演劇を楽しむようになったのである。開催時期は周辺地域の十五夜祭りが終わってしばらく経ってからだった。宇茂佐区民の中にはかって屋部の十五夜祭りで演舞していた舞踊好きもいたので、小劇団員に混ざって出演するようになった。
いつしかこの小劇団とのコラボレーションが地区のイベントとして活況を呈して行った。しかし時代が移りテレビが普及するにつれて沖縄芝居は衰退してゆき、付き合いの深かった小劇団も他の劇団に吸収されてしまった。そして小劇団とのコラボレーションも消えることになった。そこで区民自らで演劇会を開催する事になったのである。屋部区の八月十五夜祭りも終わっているので屋部区の踊りの師匠から指導も受けることが出来た。劇は伝統的な組踊でなく、小劇団と共演した創作組踊演目で首里城建立の木材を国頭村から引いて奉納する「クンジャンサバクイ」と現代劇である。踊りに関してはどの地区も同様なものである。古典、現代芸能などだ。次第に区民の中に連帯感が生まれて完全な独立した宇茂佐区民意識を形成していったのである。小劇団の名称を使った演劇会は敬老会と名称を変えた。豊年祭のシーズンはとっくに終わっていることも敬老会と称した所以である。
流心会空手道場と宇茂佐区敬老会との関りは1977年に公民館の近くに道場が開設されたことに始まる。その後に敬老会への出演の依頼があり参加する事になったのだ。門弟の増加と共に演武種目も増えていった。やがて20分の演武時間となった。近隣の村では大兼久が沖縄拳法の演武を取り入れていたが現在は道場の閉鎖で途絶えている。豊年祭で空手の演武を取り入れている村は皆無である。只、沖縄県内には伝統の棒術が保存されている村があるも古武道の武術のレベルではなく儀式的な演武である。年に一度の豊年祭で武術が伝承できるものではない。私も入門以来20回以上は参加している。
9月の黒帯会で敬老会出演の話題が出る。黒帯会は毎月第三水曜日に開催される。出演時間が決まっているので演目数は毎年ほぼ同じだ。合同演武2種目、空手の形4種目、古武道4種目、組手1種目、試し割りで構成される。門人は合同演武を除き一人2種目を演武するのだ。
「各自演武したい種目は何かな」館長が門弟に問う。誰も手を上げない。
「クニさんとカズさんとヤスシは四向鎮、ガンさんとシゲさんとアキは十八、ノブとツヨシとヨシノリはクルンファ、最後にノリさんがスーパーリンペー」
としましょうか。次に古武道と組手だが
「サイはカズ、ノブ、アキ、ガンさん。棒組手はクニさんとシゲさん。ナイフ取りの組手はツヨシとヤスシだ。エーク手はノリさん。ノリさんどうかな」と尋ねた。
「そんなところでしょうかね。今年はセーサン、トゥンファは無しですね」
「うん、それを入れると時間がオーバーする。昨年トゥンファとセーサンをしたので今年は変えよう」
「試し割はどうしますか」ノリさんが訊ねた
「カズとアキは巻き藁をよく突いているようだから瓦割をしてくれ。外の階段の下に赤瓦とセメント瓦があっただろう。赤瓦10枚はカズさん。セメント瓦5枚はアキがやってくれ。枚数が少ないと不満かも知れないが最近は古い赤瓦が探せなくてな」
「赤瓦の木造建築の解体現場は無いですね」とノリさんが言った。
「来年からは武道具専門店の守礼堂から試し割用の瓦を買って来るか」
「幾らするのですか」
「10枚束で3,000円位かな。割れやすく焼かれているようだが赤瓦でなく、黒い大和瓦だ」
「一瞬で叩き割るにはもったいない値段ですね」とノリさんが言った。
「バットはツヨシが足で、私が腕で折ることにしようか。シゲさん板を割ってみるかい」
「どんな感じで割りますか」とシゲさんが言った。
「そうだな。正拳、肘、横蹴りだとお客さんから見えるだろう」
「久しぶりにそこに在る練習板でタイミングを取る練習をしてみましょうか」
「素早く一気に割らないと面白みがないからな。板を持つ係を決めて練習しておかねばいけないな」とノリさんが言った。
「練習方法はノリさんに任せる。板とバットは私が買ってくるから」
「皆、敬老会まで一カ月半だ。二人又は三名の合同演武だからきちんと呼吸を合わせる練習をしてくれ。号令をかける者を決めて練習しましょう」ノリさんが全員にハッパをかけた。
「最初は三戦から始めて最後は試し割だ。演武の順番は私が考えておくから。一度演武の時間計測をしようと思うが来月の黒帯会頃で良いだろう。何しろ20分の持ち時間内に収めないといけないから」
「館長の鎌の演武はどうしますか」
「それだがな、公民館に投書があったらしい」
「何ですか」
「鎌は危険で見ていて怖いから演じないでほしい。子供が真似をしたら大変だとさ」
「何処のバカが言ったのですか」
「誰かは想像がつている。本土からやって来た出しゃばりの口やかましい女だ」
「アイツか。鎌の手は他府県には無い沖縄独自の古武道です。やるべきでしょう。県内でも鎌の手を使える空手家はほとんどいなくなったし、拳勝会の演武以外では見られないのですから」
「そうか、君がそう言うなら練習しておこう。演武するか否かは様子を見て判断しよう」と館長は言った。
「みんな、休まず道場に来て練習に励みましょう。合同演武をする者はだれが号令をかけるか決めて練習してくれ。自分のペースで演舞すると動作がバラバラで見苦しいぞ」と師範代のノリさんが言った。
「残り1カ月と少しだ。皆さん頑張って協力して下さい」
会費の千円を納めて黒帯会を終了した。
合同演武の場合、動作のどの部分で号令を掛け、どの部分は一挙動にするかで団体演武の美しさが決まる。動作の切り替えし点全てで号令を掛けると演武に流れが失われ、一挙動を多くすると全員の動作が合わなくなってしまう。僕らの練習にも次第に熱がこもるようになっていくのである。
宇茂佐区公民館は300名の観客が収容できるフラットなホールと舞台を備えている。健康診断、税務申告、小規模な区民の為のスポーツ、レクリエーションなどが開催できる。むろん舞台を使った祝いのイベントも可能だ。調理室や畳の広間も備えている。かなり細長く中学校の教室を3棟合わせたよりも広いだろう。この村出身の前岸本建夫市長が現職の頃に熟慮して市内で最後に建設した公民館である。海岸に面しており夏の浜風がよく通り、冬は北の後背地が季節風を遮ってくれる一等地だ。
夕方から集落内を練り歩いた旗頭は日が落ちた頃に公民館に帰って来て、祭りが始まる。道場から60m程の距離にある公民館へ旗頭が入っていくのが2階の窓から良く見える。歴史の短い集落は伝来の旗頭を持たない。宇茂佐集落の旗頭は村の有志が考案してあつらえたものである。電飾が施されてさながら広告塔の様である。伝統的な畏敬の雰囲気はなく完全なお祭りのぼり旗である。
「ノリさん。旗頭が返ってきましたよ。そろそろ舞台が始まりますね」
「では、演武に出る手順と団体演武の並ぶ位置を確認してから出かけよう」
僕らはノリさんの呼び出しで舞台の左裾から出る順番を実際に行って確認した。
「OK、皆体をほぐして自分の演武する形を練習したな。自分の使う武道具だけを持って出てくれ。帰る時も公民館に忘れるなよ。瓦は手分けして持ってくれ、割れた瓦を入れるカマスも忘れるな」
6尺棒、エーク、サイ、バットを持って玄関に向かった。
「カズさん演武順を書いたプログラムは2枚あるな。1枚は司会へ渡し、1枚は控えの場所に張るから」
「太字で書いて持っています。読み仮名も付けています」
「上等だ、少し早いが出かけよう」
カランカランと音を立てて階段を降りて公民館に向かった。
午後7時、琉球古典舞踊のカギヤデフウの祝いの踊りで舞台演目が開始され、公民館長が開会を宣言する。僕らの出番は10種目程終わってから市長、議会議長、あるいは警察署長が来賓あいさつをして2種目後が通例だ。

幕の降りた舞台に上半身裸で整列し、館長の合図で幕が上がる。三戦(サンチン)で演舞が始まるのだ。舞台上から演武者の「ハー」という腹から絞り出す長い息吹が広い客席の隅々まで届く、そして館長と師範代のノリさんが演武者の体を叩いて締めていく音が響く。僧帽筋を平手でたたく乾いた音、胸や腹や広背筋を拳で突く鈍い音、回し蹴りで大腿四頭筋を叩く重たい音に観客は固唾をのんで凝視している。観客の恐怖心を湛えた視線が見て取れる。来賓の渡久地市長、大城議会議長や顔見知りの視線がある。大腿四頭筋を内側に締めて立ち、館長が股間に蹴りを入れる動作が観客には金的を蹴られているように見えるらしい。ひきつった表情で舞台を見ている。実際は足先ではなく脛で蹴るので股間の奥の金的まで届かずに蹴りが内股で止まるのだ。三戦は随分と時間を要する。三戦が終わると三戦に参加せずに次の演武に備えて待機していた者が舞台に躍り出て直ぐに演武を始める。そして切れ目なく予定の手順で演目が続いていく。演武者と形の紹介は館長の奥さんがマイクで話すのだ。

最後の演武である館長の「鎌の手」は鎌でキュウリを試し切りすることで本物の刃物であることを実演してから演武が始まる。3尺のロープで柄の根元に繋がった鎌が回転して首に巻き付く、頭上で旋回していた鎌が腕に巻き付き手に戻る。研ぎ澄まされた鎌の刃が舞台の照明を浴びてキラキラと不気味に光る。鎌の鋭い刃先が演武者の体に突き刺さらぬか観客は恐怖の眼で凝視している。やがて演武が終了すると大きな拍手が響き同時に観客の安堵の溜息が聞こえるのだ。門弟も客と同様に安堵の拍手を送る。鎌の演武が終了して試し割となる。私の瓦割から始まる。瓦を2枚のブロックの間に乗せて上から拳を落とすのだ。拳は捻らずに縦拳で瓦に体重を乗せるように圧を掛けるのだ。ノリさんが言った。

「ブロックは床板の梁の角材の上に置け、板の上では拳の圧が逃げてしまうから。足で床を軽くたたけば梁の部分が分かるはずだ」
ヤスシとツヨシがブルーシートを広げその上にブロックを並べて10枚の琉球瓦を置いた。舞台の左端にアキが同じようにセメン瓦5枚を置いた。
所々に白い漆喰の残った古い琉球瓦はアーチが一定でなく、重ねた瓦に隙間が少なく大きな煉瓦の塊である。私は懐から重ね折りしたタオルを瓦の上に置いた。そして両足の立ち位置を拳に全体重が載るように決めた。1、2、の3の呼吸で瓦に拳を打ち込んだ。瓦はゴンと音を立てて1枚目が5、6、片に割れた。テレビの空手ショーの様にガラリと音を立て縦に綺麗に割れることは無かった。只砕けただけである。瓦のかけらを取り除くと8枚が割れて2枚が残っていた。それを掌底打ち抜いた。カランと乾いた音がして数枚に砕けた。
アキはセメント瓦5枚に挑むも割れなかった。彼は怒って足で踏みつけて粉砕した。背丈の低いアキにとって拳と瓦の間隔が狭くて十分に体重を乗せることが出来なかったようである。それに大戦後の沖縄で独自に発達したセメン瓦はとてつもなく強度が高い。人が上に載ったぐらいで割れることは無い。そもそも波状のセメン瓦は、的確に割るためのヒットポイントが何処であるか私も良く分からない。私が子供の頃の実家は木造セメン瓦葺きの家であった。台風で飛んできた小枝を取り除くために何度も屋根に上ったが、瓦が割れるなど考えたことも無かったのだから。試し割で砕けた瓦はブロックを取り除きブルーシートごと舞台から移動する。杉板の試し割はシゲさんが軽快なフットワークで見事に打ち抜いた。私とノブさんで膝の高さに支えたバットをツヨシが回し蹴りで難なく蹴り折った。

ノブさんが胸の高さでグリップを握って立てたバットを館長の右前腕が鈍い音立てて折った。前腕バットを折るのはスピードと骨の強さが必要だ。僕らの道場の試し折り用のバットは少年野球用のバットであり、試し割の直前に観客の前で新品バットの表面を覆うビニールをカッターで取り除き新品であることを証明する所から始まるのだ。武道具店で入手できる細く長い試し割用のバットではない。私もいつか折ってみたいと思うも未だ足の脛で折ることが出来るだけだ。今のところ館長以外に前腕で競技用の木製バットを折ることが出来る門弟はいない。以前に組手の指導を受けた時の館長の前腕は自動車のゴムタイヤで覆われたような感触がした。試し割りが終わると舞台の床を丁寧に観察して瓦やバットの木の屑が残っていないか確認するのだ。次なる舞台演劇者に気を遣う演武でもあるのだ。試し割が終わると全員が舞台に出て館長の号令で撃砕第一を通常よりも早い動き演武して退場する。
(5)市民劇
宇茂佐集落の敬老会が終わった翌週のことだ。館長が練習の終了後に門弟に言った。
「役場からの頼みがあってな。名護市民で古武道の演武が出来る者が欲しいと頼まれたのだ」
「役場からですか」とノリさんが言った。
「名護市市民劇に出演する古武道の使い手を探しているらしい」
「市民劇ですか。一度見たことがあります」とシゲさんが答えた。
「名護市内で古武道を教えている道場はうちだけだ。区長さんを通して私に頼み込んで来たのよ」
「出演日は何日ですか」
「11月の最後の週末だと言っていたな」
「私は製糖期が始まっていて具志川市まで毎日収穫されたサトウキビを運搬するので無理ですね。運行スケジュールは工場任せですから」
「何時からですか」とノブさんが訊ねた。
「日曜日の3時からと6時からの昼夜の2回公演らしい」
「ノブ、シゲ、カズで出演したらどうですか」
「私は会社で主催する恩納村の県民の森で駅伝大会がありますが、1時半には終わる予定です」と私は言った。
「うん、明後日の晩に顔合わせがあるそうだからノブ、シゲ。カズで見てこようか。内容が良くなければ断っても良いだろう」
「琉心会を代表するスター軍団だから頑張れよ」ノリさんが笑いながらけしかけた。
金曜日の晩、午後8時に市民会館の劇場棟の別棟の多目的研修室を館長と共に訪ねた。道着は着用せずスラックスに拳勝会のマークの入った特製の黒いTシャツ姿で武具も持たずにだ。
30畳ほどの室内には既に多くの出演者らしき男女がいて台本を手に何かを話していた。
「こんばんは、琉心会空手道場の岸本です。責任者はどなたですか」
会場内の人々が館長の大きな声に動作を止めて振り返った。中年の女性が立ち上がってやって来た。「演出を担当している座長の安次富です。よくお越しくださいました」
「3名の武道家が必要と聞いたので連れてきました。何をすればよろしいのですか」
「劇中では護衛官の配役で劇の最後に3名それぞれの演武をしてほしいのです」
「では、棒、サイ、トゥンファーという沖縄の代表的な古武道を演武しましょうか」
「どんな形の動きですか」
「ノブ、シゲ、カズ、少しだけ素手で演武してみて見せなさい」
シゲさんが棒、ノブさんがトゥンファー、私がサイ、実際に武具を持っている動きで3分の1ほど演じて見せた。
「よろしいでしょう。出演をお願いします」
「衣装はどうしますか。普段は下が白の道着で上が古武道用の黒い道着です」
「良いですね。劇中の役者の姿に似合いますね」
「実際の手合わせは何日にしますか」
「皆様は武道の専門家ですから11月22日のリハーサルに来て下さればよろしいです」そう言ってリハーサルと本番の日程表を渡してくれた。
僕らは他の劇団員の練習風景を見ることなく会場を後にした。
「何だか大層な女座長だな」と階段を降りながら館長が言った。
「以前は小さな劇団に所属していたが、現在は県内各地の沖縄芝居の演劇指導をしているようです」とシゲさんが言った。
「シゲさん、沖縄演劇に詳しいのですね」と私が言った。
「うん、以前に県立郷土劇場で屋部の8月15夜祭りの組踊を演じたことあって、その時に見かけたのさ」
「そいえば、屋部の組踊は沖縄県の無形文化財に指定されたそうだね」
「うん、そのお披露目で出演したのさ」
「シゲさんも出演したのですか」
「シゲさんは既に村の演劇指導者だから出演しなさ」ノブさんが笑いながら言った。私はふとクニさんの家の新築祝いの席でのことを思い出した。
宴席で祝いの歌「かぎやで風」を三味線で弾く者がいた。シゲさんがすっと立ち上がり、古典舞踊に使う金色の祝い扇子の代わりに配膳の中にあった紙皿を手にして悠然と踊って見せた。私も館長の指示で撃砕の形を演じたが勢い余って床板をミシリ踏みしめた記憶がある。クニさんは中座して近くにいなかったが来客者がギョッとした顔をした。その場に合わせて力を抜いて演じるのは十分な修行を経る必要があるのだ。
「あの女座長は専門家の意見と称して何かと僕らの伝統的な組踊の演劇に口を挟んで来たので、小うるさい女だとの記憶が残っているな」とシゲさんが言った。
「芝居は専門でも武道は素人だ。君たちは拳勝会の武道を見せれば良い」と館長が釘をさした。
本番の1週間前の土曜日の午後3時からリハーサルがあった。僕らの出番は午後4時からであり、それまでに来ればよいとの連絡が館長宛に入っていた。市民会館の東側の関係者入口から劇場に入った。腕に関係者との腕章を付けた男に用件を話して、彼の案内で通路を進んだ。劇場ホールと平行に続く通路の一番奥の舞台近くに楽屋があった。20畳ほどの部屋が2部屋あり男女別となっていた。僕らは持参した古武道用の道着に着替えた。ゆっくりと体を解して動ける準備を終えた。控室にいた出演者達が奇異な視線を送って来るのが解った。武道に親しむ者は普段着から道着に着替えると体に自然とアドレナリンが発生してしまい、視線が鋭くなり顔つきが別人へと変化するのだ。僕らは15年、20年の歳月で互いに慣れてしまって感じないが、他人から見ると殺気に近い気配をまとっているのかもしれない。
台本を手にしたアシスタント・ディレクターらしき男が入って来た。
「進行係をしている名護市役所の市民劇担当の平安山です。市民劇へのご協力ありがとうございます」そう言って名刺を渡した。総務係長である。
「剛柔流琉心会宇茂佐道場の比嘉、岸本、仲村です」と挨拶した。
「早速ですが、出演の説明をしますのでついてきてください」
僕らは平安山の後に付いて通路横の登場口に向かった。舞台には緞帳の左右後方からの出入り口と舞台に向かって客席の左側から伸びた9m程の細い通路がある。客はその通路から舞台へ向かう出演者が見えるのだ。歌舞伎などによくある登場通路だ。
「貴方達は主演のモーイ親方の護衛役として後ろから3m程離れて付いて行きます。では参りましょう」
僕らは平安山の後ろから登場通路を進んで舞台に出た。
「舞台の左横に並んで片肘突いて控えます。モーイ親方の芝居が終わると、薩摩の殿様が琉球の武術を見せてくれと言います。そこで三人が順番に演武して元の位置に戻ります」
僕らは平安山の指示通りに片肘突いて控える動作をした。
「よろしいでしょう。幕が下りると劇の終了です。退場の動作はありません」
舞台の右側に舞台の様子が見える控えの部屋があり座長、音響照明その他の舞台装置係、三味線、太鼓、笛の演奏者が控えている。舞台進行の要である。舞台の裏側はかなり広くこの舞台監視部屋からぐるりと回って楽屋へと続いている。
「ではモーイ親方が終わってこちらに退きます。薩摩の役人は右端に退きます。舞台中央が空きましたので武道を演じて下さい」そう言って監視部屋に向かって指差した。「琉球の武術を見せてみよ」と平安山が台本を読んで薩摩の殿の口上を言った。
始めにノブさんがトゥンファー、次にシゲさんが棒、そして私がサイを演舞した。僕らは舞台の広さを意識しながら前後左右への移動の歩幅を注意深く確認して演武した。そして古武道の演武の最後に極めの気合を「キェーイ」と腹の底から発して演武を終了。一礼して元の控えに何事もなかったように戻った。
「素晴らしい、ありがとうございます。幕が下りたら右側から退場です」平安山が驚きで顔を紅潮させて言った。
僕らは右側の幕尻に歩いて行った。すると監視部屋の中から安次富座長が出てきて言った
「貴方達の今の空手の演武では客席が盛り上がりません。武の踊りとしての演出をしたいと思います。三味線の音楽に合わせて演じてもらえませんか」
座長が三味線引きを指差すとトンチンテンテンと軽やかなリズムでエイサーの曲を弾きだした。
「この曲に合わせて道具を使って見せてくれませんか」そう言った。
三味線奏者たちは座長のご意見が始まったとニヤニヤしながら座長と僕らの応対を眺めていた。
「わしらは空手家であって芝居人ではないです。棒もサイもトゥンファーも三味線の音階なんぞに合わせること出来ません。それを望むならどこからか芝居人を探してください」シゲさんがキッパリと返事した。安次富女座長がムッとした顔でこの場の仕切り役は自分だと言わんばかりに僕らを見つめた。ノブさんと私は座長とその後ろでからかうような不遜な笑みを浮かべている音楽奏者に向かって本気になって殺気を込めた視線を送った。「舐めちゃいけないぜ、芝居人ごときが。俺らは4段、5段、6段合わせて15段の武芸者だ」とのプライドが表情に出たのだろう。知らず知らずのうちに人を刺すようなキツイ眼つきで一人一人に視線を移しながら見据えていた。居合わせた者達に漂っていた市民劇に飛び入り参加した者への不遜な雰囲気が一瞬で凍り付いた。演武の最後に発した極めの「キェーイ」と言う掛け声が耳によみがえり、叩き潰される恐怖が彼らの心に生じたのだろう。私は引きつった者たちの表情を見て口元に僅かな嘲りの笑みを作った。蛇に睨まれた蛙がそこに居た。平安山がその場を察して慌てて座長の前にやって来た
「座長、武の場面は彼らに任せて他の場面をもう一度やりましょう」と言った。
僕らは軽く頭を下げ「では本番で」と一礼してゆっくりとその場から離れて舞台裏に回っ楽屋に向かった。
後ろから安堵のため息と「武芸者は恐ろしくて芝居には使いたくないね」と女座長が方言で言うのが聞こえた。シゲさんは県立郷土劇場での不快感を此処で晴らしたのかも知れない。翌週の練習日にこの件をノブさんが館長に話すと
「シゲの言うとおりだ、芝居人の分際で武道家を舐めるな」と真顔で言った。
沖縄県民の森は恩納村にあり、県農林水産部林務課の管轄である。県民が沖縄の自然に親しめるようにとの目的で整備された公園だ。森林遊歩道、キャンプ場、広い芝生の運動広場、児童向け遊具、林業学習館等が設置されている。公園管理は指定管理者制度を実施している。私が勤務する造園会社は2年契約の指定管理者事業で管理を行っていた。入札のプロポーザルでは県民の健康増進を図るイベントを開催すると提示した。イベントは「絆駅伝」と称する家族4人によるリレーを企画したのだ。1.5km2名、3km2名の構成だ。協賛企業を恩納村内から募って商品を準備した。私は大会委員長として11時にスタートとさせ12時前にすべての参加者の完走を確認して表彰式を行った。雨上がりの公園内道路は滑りやすく気がかりであった。念のために沖縄記念公園に勤務する友人の内間看護師を有給休暇で休ませて待機していたが杞憂に終わって安堵した。35組の参加者は直ぐに引き上げず、木陰で持参した弁当を広げて談笑し、園内の遊具で遊ぶなど家族の団欒を楽しんでいた。
午後1時30分、私は社員に会場の片づけを頼み名護市民会館に向かった。市民劇は午後2時半開演の昼の部と午後6時開演の夜の部の2回公演である。市民劇と銘打っているが、市内のアマチュア・コーラスグループや養護施設職員の演芸、琉球舞踊、日本舞踊、歌三味線、フラダンスまであり市民の舞台芸能活動の披露の機会である。市民劇は名護市にて活動する企業団体の幹部が参加する顔見世ボランティア活動だ。稲嶺進名護市長、県内3銀行の北部地区支店長、新聞社の北部支社長、郵便局長、琉球セメント、オリオンビール、ホテルの役職員など多彩だ。面白いのは市長が劇の主役をするのではなく端役である。尤も市長が主役を演じるための練習時間などあろうはずもないのだ。
ノブ、シゲさんと2時15分の待ち合わせで楽屋に向かった。派手な衣装でフラダンスを演じた年若くない女性の一団が上気した顔で通路を舞台方向から賑やかにやって来た。その中の一人の女性が「あら、常務も出演なさるのですか」と声を掛けて来た。以前に非常勤で1年ほど雇用した北海道からやって来た大柄な女性だ。「うん、市民劇にチョイ役で参加する」
「すごーい、これですか」とボクシングの真似をして拳を構えて見せた。
「ま、そういうところだ」と曖昧に答えた。
「頑張ってください」と言って仲間と女性用の楽屋に入って行った。
楽屋には既にシゲさんとノブさんが来ていた。
「お疲れ様です。県民の森の駅伝大会を終わらせてすっ飛んできたよ」
「僕らの出番はもっと先だよ。着替えて待つことにしようか」シゲさんが言った。
着替えて体をほぐしていると副座長兼進行係の平安山係長がやって来た。
「今日は本番です、宜しくお願いします。衣装とメイクの係を紹介します。名渡山さんです」
中年の女性を紹介した。
「ビール工場の近くで美容院をしています。毎年お手伝いをさせていただいております」そう言った。ノブさんの目じりが笑っている。見知っているようだ。
「昼の公園が終わると夕食の軽い弁当をお持ちしますので、後で召し上がってください」そう言って出て行った。
沖縄の伝統芸能エイサー踊りで青年が頭に着けるサージと呼ばれる紺色の布を巻き付け、白黒縦縞の脚絆だ。メイクの女性が僕らの眉を太く塗った。
「おっ、カズさん強そうに見えるぜ」とノブさんが言った。
「サージを巻くとノブ兄さんの頭も照明で反射しないので良かったね」とシゲさんが笑いながら言った。黒い道着の胸と左肩に縫い付けた道場の紋章が目立ち、いかにも王府の護衛官らしく見えた。
劇の内容は史実である。モーイ親方は琉球王府時代の役人で童話の一休さんの頓智に類する知恵者である。モーイ親方が薩摩役人の押し付けた三つの難題を解く物語だ。一つ目は「琉球一の山を薩摩まで運べ」の問いに、「山を運ぶ大きな船を貸してくれ」と答え。二つ目は「雄鶏の卵を持参せよ」との問いに、「その役目の父が産気づいて那覇港で泊まっています」。薩摩の役人が「バカを申すな」怒ると「雄鶏が卵を埋めますかい」と返答した。最後の灰で編んだ縄を出せには、持参した藁縄をその場で焼いて見せ「どうぞと差し出した」。原型を留めた灰の藁縄が出来上がった。この粗筋を面白おかしく喜劇にまとめたのが廃藩置県後の大衆演劇である。むろん、僕らが出演する琉球古武道の演目は名護市民劇のアレンジである。

僕らにとって舞台演武は特段緊張することも無かった。これまでも沖縄市民会館、豊見城市民会館、宜野湾市民会館、県立武道館など様々な状況で演武してきたのだ。ただ、私は演武の最後に後方に反転してサイを敵の足に打ち込む動作で、打ち込む先に薩摩の殿様が座しており、反転を大きくして殿様の斜め横の方角に打ち込んだ。昼の部が終わって楽屋に戻ると携帯電話が鳴った。着信を見ると館長からである。「シゲはいるかい。代わってくれ」私はシゲさんに携帯を渡した。
何やら館長から怒鳴られている様子である。演武自体はいつもの通りの出来だったと思った。シゲさんが携帯を返して言った。
「舞台に出る順番を俺、ノブさん、カズさんの順に進めとのことだ」
「何のことだ、平安山は特に何も言わなかったぜ」
「背丈の小さい順に登場してくれとさ。登場する時に締まりが無いように見たそうだ」
「げぇ、館長がしっかりと見ていたのだ」
「演武は問題ない。慌てずに極めをしっかりとしろとのことだ」
「館長は細かいところを見るものだね」
「まあ、俺らは琉心会の代表だからな」ノブさんが笑いながら言った。
「館長は夜の部は見ないそうだ」範士10段の武道家にはこだわりがあるのだ。

腹がくちくならないように弁当を少しだけ摘まんで雑談をして夜の部の出番を待っていた。退屈まぎれに舞台を覗きに廊下に出ると「先輩」呼ばれて振り返った。門弟の具志堅君である。高齢者専門の勝山病院で介助の仕事をしている男だ。頭の回転と動作が人並に少し足りなくてノブさんもシゲさんも指導にお手上げの青年だ。「おお、具志堅君どうした。その恰好は市民劇に出演かな」
「名護学院の後輩を引き連れて出演しています」
「何という演目だ」
「種取り祭りの踊りです。私が責任者です」
「そうか、後で見せてもらうよ。頑張ってくれ」
具志堅君は他の仲間と出演の為の舞台裾に歩いて行った。私は引き返してノブさんに言った。「道場の具志堅が出るそうだぜ」
「はあ、形の一つも覚えきれないのに彼の出来る演目があるのかい。どれ見物しようか」ノブさんとシゲさんが畳部屋から出て来た。
具志堅の出演は直ぐに始まった。総勢40名ほどの男女が古い時代の農民姿で稲刈りの収穫の喜びを演じていた。
「具志堅も特殊学級出身の仲間ではリーダーだね。しかし、この程度の動作が限度かも知れないね」シゲさんが言った。
「一年たっても撃砕第一が覚えられないのだから、教える側もお手上げだぜ」
「館長も区長さんから頼まれたので断り切れなかったらしい。向き不向きがあるのだが、本人はそれにも気づかないのだから」ノブさんが言った。
確かに人間は出来ること、出来ないことの分かれ目はある。本人がそれに気づいて出来る能力の分野を向上させる努力をすることが望ましいことには違いないのだが。人は自分のことはよく見えないものだ。
1年後に彼は自分の能力を知ったのか退会することになった。私は館長に頼まれて空手免状の雛形をインターネットからダウンロードして一級の免状を作成した。剛柔流琉心会道場としての認可である。館長の精いっぱいの恩情であっただろう。僕らの道場では初段から免状が貰える。剛柔会本部と全沖縄空手道連盟からの認可だ。
夜の部の公演が終わると出演者全員で市長を中心に各界の幹部が前列に並んで集合写真を撮って終了だ。私の手元に写真が届くことは無かったがくたびれた1日が終了したことに安堵した。楽屋で着替えて会場を出たのが午後9時過ぎであった。喉の渇きを覚えたので缶ビール求めてコンビニに入った。釣銭を貰う時に店員が奇妙な表情をしたのが気になったが帰りを急いだ。
帰宅した私を見た妻がプッと吹き出し「顔を洗っていらっしゃい。夕飯を温めます」と言った。
トイレで用を済ませ洗面台で手を洗い、ふと顔を上げると勇ましい眉の警護の武士の顔があった。コンビニの店員の表情の意味が解った。石鹸で丁寧に顔を洗った。一日の雑多な出来事がゴロゴロと洗面台の排水溝に流れ落ちて行った。
出張演武はその他にもあった。若い門人本人や門人の子息の結婚披露宴の余興、那覇市内のホテルでの旧屋部村出身者郷友会祝賀会での舞台演武、名護市商店街の活性化イベントでの招待演武など様々だ。只、あちらこちらで演武したがそれがきっかけで新しい入門者が来ることは無かった。
(6)空手団体の演武会

沖縄の空手は発祥の過程で分類すると首里手、那覇手、その他の手と大別される。首里手の少林流系列、那覇手の剛柔流、その他の開祖からなる上地流、劉衛流などである。そして現在では開祖の門弟が分派して多くの流派別集団を形成している。僕らは宮城長順先生を開祖と剛柔流の一派で剛柔会という空手家の団体に所属している。剛柔流でもいくつかの派閥に分かれているが首里手、泊手、上地流でも大小さまざまな団体を形成している。武道家は自分が一番と思うのが当然であろうが、大きな組織に迎合しない沖縄の県民性にも起因しているのだろう。この琉球王府を起点とする地域では、寄らば大樹の陰とか、村八分等の言葉は意味を成さないようだ。その代わり「イチャリバ、チョウディ(出会えば兄弟)」と、来る者を拒まずの大らかさがある。亜熱帯の海洋民族の習いだろう。民俗学者柳田国男の海上の道にも示されている。幸運は南の海からやってくるとの土着思想に通ずるものだろう。

全沖縄空手道連盟には少林流、上地流、剛柔会、沖縄拳法の道場が加盟している。2年毎、3年毎、そして今では5年毎に合同演武会を開催している。2月から3月にかけての開催だ。大抵は市民会館で開催している。
各道場の演武が1種目又は2種目で代表館長の演武でプロブラムが構成されている。琉心会はサンチンと試し割をすることが通例であった。沖縄市民会館での演武のことである。
サンチンと角材の試し割をすることになった。サンチンは館長とアキが叩き役でいつもの様に終わった。試し割はノリさん脛、ノブさんが前腕、クニさんとガンさんが腹、ヨシノリと私が大腿筋、アキが背筋であった。角材は館長が安売りをする建材店から50cm角の杉材を買ってきて150cmの長さに切って角材の角をグラインダーで面取りをしてある。会場に入る前にワゴン車につんで持ってきた角材を自ら選んで持っていくのだ。会場内の控え室でも他の道場の人間には絶対に触れさせないようにする。他の道場の人間と会話することも無い。試し割は自分で選んだ角材を担いで舞台の中央に進み出て一礼し、館長に渡すのだ。折った角材は自分で拾って幕尻に退散する流れだ。ノリさん、ノブさん、アキと小気味よく折れて後方に飛んでいく、そしてガンさんの番が来た。ガンさんの角材は持参した中で唯一の正目でいかにも柔らかそうあった。しかし腹を叩くと大きく撓って折れない。太腿に切り換えた。館長はこれまでより強く叩いた。角材はポキリと折れるではなく70㎝程の長さで裂けて折れて床に当り跳ね返ってはるか後方の分厚い緞帳の裾付近に当って止まった。僕らはホッとした。そしてその後はヨシノリまで順調に試し割を終了した。僕らは帰りの車の中で試し割の角材のことを話題にした、ノリさんが館長に話した。
「試し割の角材は節の多いほうが割れやすいですね。今度初めて知りました」
「安い角材だから正目の材はめったに無いのだがね。ガンさんすまなかったね」
「いえ、腹は面積が広いので衝撃を吸収したかのも知れないです」
「うむ、勉強になった」館長が言った。
しかし角材の試し割の件はこれで終わりではなかった。後日沖縄市の関係者からクレームが付いたのだ。角材の試し割で1枚200万円以上もする緞帳を傷つけられてはたまらん。今後沖縄市民会館を利用する時は許可しないと連盟に申し入れがあったそうだ。3本1,000円の安い角材で出来た試し割は中止となった。それに小学校の少年少女も参加する演武会にはそぐわないとの保護者の意見もあったそうだ。それ以来全沖縄空手道連盟の演武会では試し割が演目に出なくなった。僕らの道場では「形・組手・鍛え」を空手の基本としている。形で空手の動きを学び、組手で実践応用を試し、鍛えで空手を使える体を作るのだ。尤も最近の空手道場では上地流と剛柔流の一部の道場が試し割を行うだけである。強靭な武器としての体の鍛錬は人気が無いようである。武術としての空手より格好の良いスポーツとしての空手が人気であるから仕方のない社会風潮である。しかし、私の拳とて何に使うために巻き藁を突いて鍛錬するのかと問われると答えを探し難い。
演武会が終わると北谷漁港隣のステーキハウス金松に立ちよるのがいつものパターンだ。250gのステーキにA1ソースとおろしニンニクをたっぷりと乗せて食べるのだ。
連盟の演武会は沖縄市民会館、豊見城市民会館、宜野湾市民会館、県立武道館と移り、現在は県立空手会館で5年に1度の開催となっている。一般社会人の演武会は少なくなっている。沖縄県の空手人口は多いと報道されるがそれは青少年のスポーツとしての空手愛好者である。武術家としての空手家は年々老い減少の一途である。沖縄本島の本部半島は上地流、沖縄拳法、劉衛流の開祖を輩出した地域であるが、今日ではその系列の道場を見かけない。東京からやって来た剛柔流を学んだ大山倍達先生を開祖とする実践空手を名乗る極真流空手道場の看板を市内で見かけるだけだ。時代が変化していくのを感じる日々である。
一族の由来を訪ねて(北部編)
一族の由来を訪ねて(北部巡り)
10月の最後の土曜日、私は遅い夕食を一人で取っていた。夕食と言っても公民館から支給された弁当と缶ビールが2缶である。家内は実家の母が入院中で父の世話に出かけており不在である。いつもは会社帰りにスーパーマーケットで自分の好きな食材を求めて簡単に調理しているのだが、この日は村の豊年祭があり、出演の返礼の弁当と酒が振る舞われたのだ。公民館の近くに空手道場があり、25年ばかり手習いをしている。門人と共に空手・古武道の演武と赤瓦、木製バットの試し割りを行ったのだ。公民館長の岸本さんは舞踊や寸劇など区民の舞台演目を楽しんでくれと勧めたが、素人の田舎芝居に興味が沸かず、礼を言って引き揚げてきた。道場の館長だけは村の有志に義理立てして会場に残り、門人は引き上げてきたのだ。シャワーを浴びて弁当を開いた。昼食弁当と異なり祝いの酒の褄を意識して作られていて中々気が利いていた。テレビを見るともなく眺めて冷蔵庫から2缶目のビールを取り出して栓を抜いてグラスに注ぎ足したところで携帯電話のベルが鳴った。
村祭りでの空手演武(剛柔流・砕破の形)
「カズか、明日の今帰仁巡りは参加するのかい」兄からである。私は一族の7年巡りの件を思い出した。3週間前に南部巡りが終わって、2週間後の先週の日曜日が今帰仁巡りであったが台風18号の影響で1週間遅れたのである。私は気乗りしなかったのであるが兄からの電話で行くことにした。
「ああ、そのつもりだ」と答えた。
「じゃあ、車を出してくれないか。家内が車を使う予定があるから」
「いいですよ9時前に迎えにいくから」
兄は半年前に定年退職して実家に戻り両親と暮らすようになっていた。
午前8時50分、実家の門前に車を停めた。既に兄は熱帯果樹ピタンガの生垣で仕立てられたヒンプンの前に立っていた。ヒンプンの斜め後ろには母がタイル張りの濡れ縁に立っていた。いつものように鼻から細長いチューブを引いている。肺の機能が低下しており酸素濃度を上げる機械に繋がっているのだ。15m程の細い透明なチューブを引いて家の中を歩き回っている。濡れ縁までが行動範囲である。私は車から降りて右手を上げ「おはよう」と声をかけた。母は目を細めて誰かを確認する仕草で言った。
「カズーか?」
「ああ、今帰仁巡りに行ってくる」そう言って笑顔で答えた。
「行きましょうか」と言って運転席のドアを開けた。兄は「会社の車か」と尋ねて助手席に乗り込んだ。「ああ」とだけ答えてエンジンスイッチを押した。エンジンモニターが点灯し、プリウスは小さく震えてモーターが作動した。アクセルを踏んで車を発進するとモニターがカーナビに変わった。兄は珍しそうにそれを見ていた。「テレビも見ることができるよ。でも朝のこの時間の番組には面白いものは無いね」と言った。兄はモニターから視線を外した。兄には私が小さな造園会社に勤めていると話しているだけで役員車両を持つ会社での役職については一切話していなかった。むろん彼の退職時の会社での役職について尋ねたことも無い。兄は最近まで県内随一の建設資材を製造する企業の試験室に勤めていたらし。私の会社はその企業の100分の1以下の規模である。それでも私は常々牛の尾になるより鶏の鶏冠でありたいと思う主義であり、大企業に属する一員としてのステイタスより自分の個人の力を頼りに生きるのが好きだ。
公民館までは500m程だ。公民館広場のガジュマルの下に車を止めると、すでに多くの親族が集まっていた。宏幸叔父が弁当を片手にゆっくりと歩いてやってきた。自宅は公民館の近くである。私が夕方に21世紀公園をジョギングしていると、時折自転車で散策している姿を見かける叔父である。腕の良い大工であったと父が話していた。父より5歳ほど年下であったはずだ。
「叔父さんこれに乗りなよ」と声をかけた。
「おお、カズか。良い車だな、新車だな、お前のか」
「俺のじゃないよ、会社の車だ。これで行こうぜ」そう言って車の後部ドアをあ開けた。叔父が車に乗り込むと一族の当主である宏春叔父の元に行って今日の道順を尋ねた。
「毎回の通り、初めに運天港の近くの百按司墓を訪ねよう。私の車の後ろを追いかけてきてくれ」そう言った。
私が公民館の自販機でさんぴん茶のペットボトル3本を買って戻ってくると宏春叔父は「皆さん出発しましょう」と言って車に乗り込んだ。20名ほどの参加者である。私は車に乗り込んで叔父と兄にペットボトルを渡した。叔父に「ビールでなくてごめんね」と言うと
「馬鹿たれ、俺はもう酒は飲まないよ」苦笑いした。
宏幸叔父公民館の近くにある建設会社神山組でも一番腕の良い職人であったらしいが酒が過ぎるのが欠点だったなと父が言ったことを思い出して叔父をからかったのだ。今朝、父の姿を見なかったが、既に150坪ほどの菜園に出かけた後のようであった。宏幸叔父には父のような野菜作りの趣味は無く、もっぱら飲むことのようである。
宮里公民館前を出発した一行は、5台の車列で58号線に出てゆっくりとした速度で北上した。程無く伊佐川交差点にさしかかり左折して今帰仁村に向かう国道505号を進んだ。
「この頃は街でも田舎でも軽自動車が多くなったね。税金が安く、取得時の車庫証明が必要ないからかな」と兄に言った。
「それもあるかもな。今度4輪駆動のパジェロを下取りに出して、軽自動車のワゴンタイプを注文したよ」
「新車は結構な値段がするだろう」
「ああ、100万円を超えるから嫌になっちゃうよ」少し自慢げに言った。
兄は父母の病院への送迎に乗り降りが便利なスライドドアの低床のワゴン車に替えたのだと思った。釣り好きの兄は長い間オフロード車のパジェロのショートタイプを愛用していたが、車体が高く80歳を過ぎた老人には乗り降りが難しいのだ。奥さんが普通乗用車を所有しているが、車検が満了するのを機会に1台の自家用車にするつもりのようだ。私は兄が父母との暮らしに次第に慣れてきたように感じて安堵した。30年以上も夫婦だけで暮らした生活から父母との暮らしになれるのには心の切り替えが必要で神経がくたびれるのだろう。私は叔父が退屈していないかと思い、カーナビをテレビ画面に切り替えた。
「叔父さん、近頃の車はテレビ付きだぜ」と信号待ちの交差点で後ろを振り返って話しかけた。叔父が身を乗り出して画面を見つめた。
「おお、大したもんだ。高級車に乗っているな。お前は会社で社長をしているのか」
「よせやい、今時その辺のガキの車にも付いているぜ」と笑った。
車列は羽地内海沿いをしばらく走って湧川の坂道を上った。大きな道路標識に矢印で直進は仲宗根、右折は運天港とあった。僕らは右折して村道を進んだ。ししばらく進むと右折運天港の表示がある集落に入った。港に向かう県道72号を横切って集落の中に入った。旧道である。500mほど進むと運天トンネルが見えた。大正13年に作られて平成9年に改修工事がなされている。中型8トンのダンプトラックが通行できる間口だ。トンネルの向こう側に運天集落の港がある。新港が出来るまでは地元漁民の漁港と古宇利島への艀の港を兼ねていた。琉球王朝の尚巴志が三山を統一するまでは、北山城主の中国王朝との貿易港として利用されていたとの歴史を持っている。源為朝伝来伝説の港でもある。現在は新港が整備されて県道72号線が名護市まで続いている。那覇空港までのシャトルバスの起点であり、午前11時30分那覇空港発のバスに乗れば伊平屋、伊是名へ向かう午後3時発のフェリーの最終便に間に合う。トンネルの手前を左折して細く曲がりくねった坂道を上って頂上近くの広場に車を停めた。
沖縄海岸国定公園・運天港園地の立派な表示板が立っていた。看板には環境庁・沖縄県と附則されていた。拝所の入り口には真新しい表示板があり百按司墓と矢印があった。その下の石柱に運天港散策道・田園空間整備事業と彫り込まれていた。管理者は今帰仁村との表示も見えた。沖縄本島北部地区町村の活性化事業である。私の職場からそう遠くない本部町具志堅集落の農耕放置湿田地帯でもこの事業が行われていて、レンタル農園、農産物販売所、集会研修施設などが整備されているのを思い出した。立派な親水公園として整備されているが人影は少なく活性化事業の効果はどうであろうか。国の箱物行政の典型的な一例であろう。
拝所の途中までコンクリートの石段と歩道が続いており、老齢の親族には有難いものだ。以前に来たときは崖の急斜面に造られた藪の中の小道を足元を気にしながらそろりそろりとあるいた記憶がある。今でも倒木が歩道に横たわった場所もあり、細かい手入れはなされていないようだ。箱物行政は管理予算が不足気味であるのは何処でも同じである。
百按司(ムムジャナ)墓は首里王府から派遣された北山城監守役の武将の遺骨が納められた風葬墓だ。実際に三山統一以前の今帰仁城は内紛によって3度の火災を起こしている。口伝から作られた村の豊年祭に演じられる歌劇には、城主をだまし討ちにした謀反人を城主の子息が仇討の本懐を遂げて城主に返り咲く物語が演じられている。集落に残る口伝は歴史書から漏れた史実の形跡の一部である。それ故、三山を統一した尚巴志は配下の武将を北山城に派遣して地方豪族の反乱に備えていたのである。我が一族の始祖と言われる尚泰久も城を守った時期があり、今帰仁巡りの原点がそこから始まるのだ。王族の身内が北山城の責任者を廃したのは200年後の第二尚氏の7代目からだ。この墓は任期を終えて故郷の首里に戻ることを夢みながら無念のうちに果てた武将の亡骸が眠っているのだ。眼下に運天港が望め、港からは第一尚氏の発生地伊平屋へ運航するフェリーいへや300人乗りの寄港地だ。古宇利島と屋我地島に挟まれて風雨を遮る場所であり、水深が深く1万トン級の貨物船でも入港できるのだ。戦時中は哨戒艇が港のさらに2km奥の現在の湧川マリーナの近くに係留されていたらしい。
拝所の墓は岩山の岩石の突き出た部分の根元に石を積んで作られていた。突き出た岩が雨除けの庇となっており、あちらこちらに豆粒ほどの小さな鍾乳石が下垂していた。この場所は本部半島の嘉津宇岳と本島北部の連山の一つ多野宇岳の間のなだらかな陸地を隔てて名護岳の中腹が望める。北山城址までは直線で5km、古道を歩けば10㎞だろうか。北山城で謀反があれば名護城に狼煙で知らせることが可能である。運天港から船を出して王府へ連絡することもできる。尚巴志が北山王を攻めた時の協力者が名護城の豪族であった。名護岳から読谷村の座喜味城までは海路の見通しが効く連絡体系である。座喜味城から越来城、中城城、首里城と狼煙が伝わるのである。北山城は南に本部半島嘉津宇岳、八重岳がそびえており緊急の連絡は東回りの運天集落経由、あるいは西回りの本部町備瀬崎経由の狼煙である。名護岳から恩納岳へと続く稜線は故郷の首里に思いを馳せる場所であっただろう。この場所は1420年代に始まった琉球王統の行政の下で、遠く首里城から派遣されて故郷に戻ることなく逝った武将たちの思い籠る場所でもあったに違いない。長い年月の間に岩から染み出る石灰質の雫は王府の按司(武将)の涙にも似て小さく垂れ下がって白い鍾乳石に変わっていた。
当主の宏春叔父の音頭でそれぞれに配られた平線香を手にして最初の御願をした。前回の南部巡りの御願の様に私はどこそこの誰であるとは言わなかった。ただ祈るだけであった。
この園地には源為朝が上陸した記念碑が建っている。口伝によると為朝が運を天に任せて上陸したのがこの地であり、故に運天という集落名がついたとのことだ。沖縄県には運天という姓もあり、確かなことは分からない。為朝上陸は確かでないが、この運天港からマツノザイセンチュウが本土から侵入して、沖縄県の琉球松に甚大な被害を与えているのは研究者の報告で証明されている。米軍統治下の沖縄県は本土各県からの原木、土砂の移入が制限されていたが、本土復帰後に整備された運天新港から赤松の原木が移入されており、運天港周辺から琉球松を枯死させるマツノザイセンチュウが上陸したのである。眼下を「フェリーいぜな尚円」が出航していく。1日2往復の1便目の戻り船である。伊平屋島とその隣の伊是名島には平家の落人が来島したとの口伝がある。伊是名島は第二尚氏王統の初代尚円金丸の出身地である。郷土歴史家の亀島靖先生の説によると第一尚氏も第二尚氏の金丸も平家の落ち武者であろうとのことだ。体格に恵まれ新しい知識が豊富で日本語を話すことから琉球の豪族に日本国との貿易上の才覚を認められて出世したのだと。尚巴志の父尚思紹や金丸が村から追い出されたのは、出来すぎる者への嫉妬から来る村八分の意味を指しているのだ。柳田邦夫の学説「黒潮の道」は、日本列島から台湾、フィリピン、シャム、マラッカ海峡へと続く交易文化の基礎となる黒潮の海流が作った歴史のロマンである。
百按司墓の御願を済ますと近くの丘にあるティラガマ(洞窟)に移動した。宏春叔父が歩いて行こうとすると宏幸叔父が「歩くには少し骨が折れるから車で移動しよう。ちょっとした広場があるから」と言って車に乗り込んだ。私は前回来た時のことを思い出して確かだと思った。しかし、宏幸叔父は前回の御願には参加していないはずだが妙に詳しいなと不思議に思った。200mほど車で移動すると宅地造成地の広場があり、そこに車を停めた。
藪の中の小道を進むと洞窟の前に出た。地面にぽっかりと開いた洞窟の前に香炉があった。洞窟は地下に続いており人が下りることが出来そうだ。以前は人の出入りがあった形跡があった。この洞窟はミルクガーと呼ばれていて中には豊かな水源があると秀明さんが得意げに説明した。そのあとでチラリと奥さんの幸子さんのほうを向いた。物知りの幸子さんの受け売りに違いない。若いころから運動は得意であったが知識の方はあまり得手との印象は無い男だ。宏幸叔父が「このガマは4km先の仲宗根集落まで続いているそうだ」とボソリと私に言った。ガマの前の香炉に線香を立てて皆で拝んだ。宏春叔父はこのガマではなくてこの近くに御先祖の武将の屋敷跡がありそこを拝むのが筋であると言って、新品の鎌を手にして藪の中に入って行ったが、何も見つけることは出来ずに引き上げて来た。産婦人科医という彼の職業柄からメスやピンセットの扱いは得意でも農耕具の鎌は不慣れのようであった。一緒に藪の中に入った息子の宏樹とて外科医であり鎌を手にすることは無いだろう。早々に引き上げてきて言った。
「前回来た時には探せたがもう分らなくなってしまった。この辺りに見当をつけて拝むことにしましょう」僕らも叔父の指示に従って手を合わせた。
車を停め広場に戻ってあたりを見回すと別荘が数軒立っていた。ピザハウスの看板を上げた家もある。向かいの古宇利島がすぐ手前に見えた。まるで陸続きのような感である。古宇利島の高台にはかって狼煙を上げた場所が記念碑と共に残されている。琉球列島を結ぶ海上のランドマークとしての島々の頂に同じ場所が残っている。奄美大島、徳之島、与論島、沖縄本島の最北端辺戸岬、伊平屋島、伊是名島を中継する古式通信手段の跡である。琉球王府は北から来る日本武士団への警戒を怠っていなかったのだ。南へは門戸を開き中国王朝、日本の海賊倭寇とは友好関係を保っていたのだ。島の端にはリーフが連なっており白い波が立っていた。その向こうは未だな夏の色を残した透明なブルーの海が広がり、そのはるか向こうに伊平屋島と伊是名島が浮かんでいた。島の上には雨を予感させる厚い雲が低く流れており、秋特有の抜けるような青空ではなかった。右手の森の陰から突然にフェリーが出てきた。船首に書かれたフェリーいへやⅢの船名がはっきりと読み取れる距離である。伊平屋島から出た朝の第1便が帰るのである。1日2往復で午後2時に2便目が入るようだ。古宇利島のリーフを過ぎると煙突から黒い煙を吐いた。エンジンの出力を上げたようだ。本部半島と伊是名島、伊平屋島の間はとても水深が深く北から南へと強く速い海流が流れている。為朝、尚巴志一族、尚円金丸を北の日本から運んだ黒潮の反転海流だ。島へ向かう船はエンジンの出力を上げ、右に舵を切ってやや北向き船艇を保って斜めに滑るように進んでいくのだ。船首を島に向けると横からの強い流れに持っていかれるのだ。その代わり運天港に向かう船は海流に押されて滑るように進むのである。島と本島を結ぶ船の往復の航行時間が異なっている。ただし運賃は同じである。誰も声を出さずに船を見送っていた。船は僕らの視線を振り切るように点になって島影に染まって消え去った。
「次は大井川の昔墓に行きます」宏春叔父の声につられるように皆は車に乗り込んだ。
大井川の河口に昔墓がある。現在は「かりゆしばし」のたもとであるが、20年程前は湿地の中の藪を通って墓参りに行く難儀な場所であったらしい。
川向には今帰仁酒造の工場がある。大きなステンレス製の貯蔵タンクがある。昨年の春先に北部地区安全管理協議会役員として10名ほどで工場点検業務の名目で訪れたことある。ISO9001の認定をうけた企業は点検項目の一つとして協議会の役員を接待代わりに施設案内してくれるのだ。沖縄県の酒造所は先の大戦で多くの零細工場が被災によって消滅したのだが未だかかなりの数がある。県内市町村の7割には酒造所があるだろう。現在本島北部12市町村に10社が存在するのだ。今帰仁酒造の工場長の咲村さんが言ったのを思い出した。「うちの会社には古酒貯蔵用の150トンタンク6基があります。これだけの量の酒を誰が飲むのでしょうかね。それでも毎日製造しているのですよ。沖縄県民はほんとに大酒のみばかりですね。ありがたいことです」と笑っていた。ちなみに泡盛の原料であるコメはインディカ種の輸入タイ米である。これを発酵して造る蒸留酒である。日本酒よりウイスキーに似た製法である。地元の沖縄県産米はジャポニカ種でもっぱら食用である。大戦前の古酒造りの貯蔵壺は東南アジア産の南蛮瓶であった。現在でも個人の古酒貯蔵は瓶である。今帰仁酒造ではウイスキーの製法を真似て樽仕込みの泡盛も製造されている。工場の倉庫に酒樽が整然と寝かせられていた。その横のガラス張りの部屋で若くもない女性たちがボトルにラベルを手作業で張って段ボール箱に詰めていた。私が「琥珀色の泡盛は手作業するほど貴重品なのですね」と話すと、咲村さんが答えた。「樽で寝かせて質のより古酒にするとウイスキーのような濃い色の泡盛になるのです。樽のエキスが出すぎるのですよ。そうなれば日本の酒税法では泡盛の分類から外れてウイスキー並みの課税となります。ウイスキー並みの税金では採算が取れません。だからオートメーション化せずに酒の色をチェックしながらの少量生産の色付き泡盛に留めているのです」
原材料や酒の濃度でもなく酒の色が酒税法に関わるとは強い酒を好まぬ軟弱な国家官僚の考えそうなことだと思って可笑しくなった。土産に今は手に入りが難い平瓶の1合ボトルを貰った。何年か前に台湾とマレーシアの友人たちとタイのラン生産者を訪ねたことがある。夜の飲み会ではタイ米で作られた蒸留酒は見当たらずジョニーウォーカーの黒ラベルを飲んでいたのを思い出した。必ずしも主食の炭水化物で酒を造るとは限らないようだ。私も五升壺を二個と金箔入り2升瓶を2本押し入れに保存しているが10年以上も忘れたままになっている。朝鮮人参を漬けた泡盛もあったはずだが、一度仕舞うと失念するようだ。
墓は川沿いのビーチコーラルで出来た岩場に彫り込まれて作られていた。ここに葬られているのは1416年の北山城滅亡の戦で死んだ者やあまり位の高くない侍とのことらしいが定かではない。入り口が小さな四角の穴墓が幾つもある。宏春叔父はどれを拝むべきか良く分からないらしく、全体が見渡せる場所に線香を並べて御願した。僕らもそれに倣った。マングローブ林の潮だまりで釣り糸を垂れている人が珍しそうにこちらを見ていた。僕らは長居せずに次の拝所に向かった。
大井川の上流に湧水地が拝所である。沖縄では多くの古い湧水地が拝所である。干ばつが起こりやすい島嶼文化圏では湧水地は人の生活の基盤となってきたのだ。現在の様な浄水施設や水道設備の無い時代には枯れることのない湧水地は神々の宿る信仰の対象地であったのだ。沖縄本島で干ばつによる断水騒ぎが亡くなったのは、灌漑ダム整備が充実した僅か10年前である。県内のほとんどの民家は貯水タンクか飲料水として使える井戸を備えていたのだ。私の自宅も現在では使っていないが、ステンレス製の2トンタンクを備えている。この拝所は、王府へ献上するターウムと呼ばれる湿地で育つ里芋の1種が栽培されていたと伝わっている。最近まで養鰻場があったらしくコンクリートの囲いがされていた。現在は廃墟となっている。水面を覆ったホテイアオイが淡い紫の花を咲かせていた。それでも湧水の利用者はいるようで取水ポンプが断続的に作動していた。湧水は取水で変化することなくこんこんと湧き出て養鰻場のコンクリート壁に沿って下流に流れ出ていた。
先ほどの汽水域の湿地と異なり山手の湿地は藪蚊が多い。皆で祈願して早々に車を停めてある県道脇へ向かう坂道を上った。私は宏幸叔父に話しかけた。
「今でもウナギの需要は多いだろうに、ウナギ商売は儲からないのかね。これだけの水量があるのだがね」
「養鰻場跡地の向かいに今帰仁村の中央公民館があっただろう」
「田舎にしては立派な施設だね」
「この場所は大昔からの湿地だろう。建築用パイルをたくさん打つ必要があるのさ」
「そうだろうね。県道79号の下り坂の右側はこの辺りから湿地が広がっていたであろうから」
「それでさ、パイルを打つと振動でウナギがえさを食わなくなるそうだ。町役場の改築に始まって、中央公民館、学習センター、物産センターと10年近く工事が連続したのよ。人間には感じない振動だがウナギには致命的だったそうだ。その当時はだれも知らなかったのだ。ただウナギの食欲が低下したことで成長が遅くなり採算が取れなくなって廃業したそうだ」
「確か、製糖工場の出資会社であったと覚えているが」
「ま、本業の製糖業に専念したわけだ。それで原因を深く追及しなかったのだろう」
「叔父さん物知りだね。見直したよ」
「ああ、大先輩を尊敬しなよ」
「御見それしました」そう言って褒めると叔父さんは頭を搔いて言った。
「実は桃源の里のお楽しみ見学会で今帰仁村の名所を2度ばかり回ったのさ。その中の物知り男の説明で勉強したわけよ」
「なるほどね」私はそう言って相槌を打った。宏幸叔父が老人福祉法人「桃源の里」のディケヤサービスに通っているのは、アルコール依存症の改善のためだと父から聞いた記憶があった。一人息子夫婦が手続したのであろう。酒で悪さをする人ではないが健康管理に不安を感じたのかもしれない。
一行は諸志の植物群落保存区の広場に車を停めた。この場所は古くからの拝所であり、ノロ(女神)等地位の高い人々の風葬墓があった場所だ。このような人々は一般庶民の様にない近くの風雨にさらされた荒れた場所に葬られたのではないようだ。畑地や宅地としての開発から免れて植物群落として残ったのは、神々の祟りを恐れた住民がこの地の植物を採取することなく今日まで至ったのだろう。幹回りが60cmあるクロキが生えている。三味線の竿に使うと1本30万円以上の品が何本取れるだろうかと思うが、祟りもその分だけ子々孫々に伝わるだろう。沖縄で三味線の絶品となる竿の材料が残っているのは、波照間島の風葬墓の周辺に生えるハマシタンの古木など誰もが恐れる場所だけである。三味線は古くから人の思いを奏でる楽器であり、祟りと縁が深いのは確かだろう。琉球古典音楽の三味線は古人の思いが強く表れる音色である。前々回の御願では林の中の拝所まで入って線香をあげたが、小道が分からなくなるほど草木が茂っており、林の入り口で線香を上げた。そして道向かいの小川でも線香を上げた。其処も拝所となっているらしく古いコンクリートの小屋が設えてあった。
僕らは国道を横切って集落の中を歩いて次の拝所に向かった。諸志集落は古い歴史があるようだ。海岸に程近く砂交じりの土地である。屋敷林としてフクギが植えられていた。フクギは防風林としての機能が高く海岸に近い古い集落では今でも見かけるがコンクリート住宅の普及で少なくなりつつある。この集落は北側が海岸になっておりフクギは冬季の季節風から集落を守っているのだろう。目的の家は海岸に近い場所にあった。敷地の右端に2坪ほどの小さな拝所が設えてあった。宏春叔父は家主に挨拶をして拝所の木製の引き戸を開いた。祭壇の右端に模造品と思しき古刀が立て飾られていた。誰かが刀があるねと話すと宏春叔父と同年配の宏政さんが言った「昔僕らが中学生の頃であったが、あの刀を祭壇から降ろして宏春さんと二人で手に取って見ていたらハサマの大祖父にひどく怒られたことがあったな」
「そうだったね、刀を手にして鞘を抜きはらい村の豊年祭で演じられる按司の真似をしたのだったね」
二人が懐かしそうに笑っていると、いつの間にか家主の女性が微笑みながら話しかけてきた。
「尚泰久王様から拝領した本物の刀は小太刀だったのですよ。戦時中に金属の拠出指令で軍に提供してしまったのです。その刀は戦後に仲宗根集落の鍛冶屋に頼んで作ってもらったのですよ」老婆は情けなさそうに話してくれた。
僕らは皆で合掌してその拝所を離れて車に向かって歩き出した。
私は物知りの幸子さんに話しかけた。
「刀が尚泰久王からの贈り物だとすると、あの家は世利久の実家ということですかね」
「あら、貴方はそれも知らずに御願していたの。車を停めた向かいの拝所も世利久がノロとして活動した拝所なのよ。困った人ね」そう言って笑った。
「幸子姐さんは一門の祭り事に詳しいですね」
「私の初孫は未熟児で生まれたの。それで祖先の元を訪ねて孫が健康に成長してくれるように祈ったのよ。7年廻りとは別に秀明と二人でね。中南部の御先祖と少しでも縁のある拝所は全て廻ったわ。伊波城址、読谷村の尚巴志の墓、添石の拝所などもね」
「1日では回れないでしょうね」
「丁寧に御願したので4日は必要だったわ。おかげで孫は元気に成長してくれたわ。いまでは少年サッカーのチームに入って真っ黒に日焼けしているのよ」そそう言って嬉しそうに笑った。
「念ずれば御先祖は我々を守ってくれるのですね」
「そういう事、信心が一番よ」
僕らは車で今泊集落の民家に移動した。この家は北山城に上る役人の逗留場所であったそうだ。北山城の監守に謁見する前に身だしなみを整えて城からの呼び出しを待つ宿舎のような役割の場所である。大学ノートに礼拝者の記録があった。本日は我々で4件目である。丁度12時を回ったところであるから午前中に訪れた人たちだ。那覇市、糸満市等南部からの来訪者だ。前日の土曜日の記録もある。皆御先祖が行ったようにこの家で礼拝して北山城の上るのだ。1416年に北山城主樊安知が尚巴志に滅ぼされてから600年を経て尚、北山城を参拝する琉球王府の士族の末裔がいるのだ。尚泰久もこの北山城に関わり、我がハサマ一族御先祖の誰かも何らかの役割でこの城に関わってきたのかもしれない。郷土史家によると「元は今帰仁城」と言われる口伝があり、北山城をめぐる5度の戦の敗残者が沖縄各地に離散して行った。北山城は千年前の平安時代から存在していたのだ。そして尚巴志が三山を統一するまでは支配地の面積が琉球に群雄割拠する武士団の城主の中で最も大きな領地を支配していたのだ。北山城に関わる末裔が長い歴史の中で全県下に流れて行ったとの説である。
この屋敷は北側が10m程の盛土になっており防風林のフクギが植えられている。庭にはリュウガンの古木が生えていて棒蘭(Luisia teres)と呼ばれる沖縄の野生ランが着生していた。沖縄県では古くからリュウガンの木は由緒ある家に植えている。中国南部から伝わった果樹である。果実は皮を剥くと竜の眼に似た実があり、食することが出来る。漢方薬としての薬効もあるらしい。中国南部の広東省にはリュウガンの果樹園が大きく広がっている。ムクロジ科でレイシの近縁種であるがレイシほど美味しくは無い。木造住宅の一室が礼拝所として使われていた。年配の方数名が線香を立てて座して祈願した。僕らは軒下から祭段に向かって祈願した。この家の主人も愛想がよかった。ただ神棚の近くに販売用の守護神札や祈願飾りが並べられており、南部巡りの拝所のような荘厳な雰囲気は無かった。ご先祖を頼みにする拝所としては違和感が残った。
表に出ると国道が騒がしかった。高校駅伝らしい。白バイに先導されて地元の北山高校を先頭に、中部工業高校、八重山農林高校が競り合って駆け抜けた。県内の公認駅伝コースで男子の6区アンカーだろう。この先3kmに今帰仁村運動公園があるのだ。優勝校が12月に京都で開催される全国高校駅伝に選抜されるのである。団子鼻の宏政さんが言った。「ヨシ坊は走ったかな」
「宏吉は2区と言っていたから、走り終わっているね。ここはアンカーの6区だから」と誰かが言った。「残念だな。せっかく今帰仁まで来たのに」
皆は車に向かって歩き出した。午後1時である。
北山城址公園の駐車場に着くとそれぞれのファミリーでの昼食となった。本家の一族、分家の秀仁ハサマグァーの秀明さんのファミリー、そしてマガイハサマグァ-の僕らだ。それぞれのファミリーが弁当を持参していたが僕らは食堂に向かった。
北山城址は来るたびに整備が進んでいる。とりわけ世界文化遺産に登録されてからは駐車場整備とその周りに、売店、食堂、記念館が建っていた。この部分は歴史上の遺産発掘の範囲に含まれていないのだろう。駐車場の向こう側から文化遺産の敷地のようで発掘作業の表示板が立っていた。私と兄は宏幸叔父を伴ってソバ屋に入った。ソーキそば定食を注文した。ソーキそばにジューシー飯が付いているのである。宏幸叔父の弁当は小さく仕切の付いた器に巻きずし、チキンのから揚げ、サラダ、煮物、スパゲッティ、卵焼き、野菜炒め、酢の物など10種類の品が美しく並んでいた。
「上品で美味しそうな弁当だね」と私が言うと
「嫁が何処からか買ってきたのよ」と嬉しそうにはにかんで答えた。
食事が終わると外に出て隣の待合室に入って休んだ。私は地元の「おっぱ牛乳」が出店しているアイスクリーム店でターウム(里芋)を原料にした紫色のムベを3個買って兄と叔父さんに渡した。
「個々の名産らしいよ、デザートにどうぞ」と言った。
「紫色しているから紅芋が原料かな」と叔父が言った。
「いや、ターウムらしいよ」と言うとしげしげと眺めてから口にした。
「おお、美味しいな。甘いものはあまり食べないが、食後にはいいな」と笑った。
「辛い、酒のつまみだけでなく、たまには女子供が食べるアイスクリームもいいだろう。健康にも良いのだぜ」
「馬鹿野郎」と言って笑った。
休憩所で転寝をしていると宏樹が呼びに来た。城址の御願に出るらしい。外に出ると雲が厚みを増して早く流れ出していた。
2時30分、入場者には御願割引という奇妙な制度がありそれを利用した。300円割引の150円の入場券を宏樹が配って回った。
城址の入り口には大きな松の木があり、その横に改札口があった。城門を潜り石灰岩で出来た石段をゆっくりと歩いて頂上に向かった。いつの頃に植えたのか知らぬが寒緋桜が並木となっていた。すでに落葉しており年明け2月の開花まで静かに北風の襲来に備えているようだ。現在残っている北山城の城郭はあまり広くない。首里城に次ぐ広さと言われているが確かな資料がなく復元が困難なようである。本丸部分が600年の風雨に耐えて残っているようだ。
最初の御願は火の神を祀った祠である。隣に見事なフクギ立っている。巨木というほどの高さは無いが、太い幹はデコボコとしており、飛来物に叩かれて生き延びてきたのだろう。北に面したこの場所は台風、北風をまともに受けるだろう。太くこれ以上伸びないだろうという姿で威風堂々と立っている。フクギの大木は金武町の観音堂、久米島の琉球王府の交易所跡にもあるがいずれも平地の敷地内でまともに風雨に晒されてはいない。私は6年に一度の御願の度にこのフクギを眺めるが全く変わらない。まるで剛柔流空手の武人が三戦立で構えているように見える。鳥肌が立つほど見事だ。太くゆったりとしていて全く隙が無く、断崖の要塞に空を背にして立っている。この城は何度か火災に見舞われている。本当の吹き曝し城塞の頂上で幾百年の歳月を過ごしたのであろうか。岩石を積み上げて造られた要塞の地中にどれだけ深く根を下ろせばこの場所で自然の猛威に耐えることが出来るのだろうか。王者とは、真の武人とはかくあるべきだとこのフクギが語っているようであった。私は火の神に祈る一族の祈願と共にフクギの精霊にも祈りを捧げた。
城址内では5か所で祈願する。次の場所は男子禁制の場所である。僕らは女性たちが祈るのを後ろで見守っていた。その次に伊平屋島に向かってお通しをするために城塞の北側に移動した。ただ雨雲は北の海を覆いつくし島影を消してしまっていた。宏春叔父は線香に火を付けて言った「北はあの方向だね。伊平屋島に向かって皆で祈りましょう」
僕らはそれに倣って合掌した。線香が消えぬ間に大粒の雨が落ちてきた。私は兄と宏幸叔父を誘って城址内の管理棟へ移動して雨が上がるのを待った。雨は15分ほどで止んだ。僕らは残り2か所で線香を上げて礼拝を終了した。そして雨でぬれた石畳を踏んでゆっくりと駐車場に向かった。
坂道を下りながら本家の良子叔母が私に話しかけてきた。宏春叔父の妹で独身である。ハサマ本家は長男が那覇の県立2中で勉学中に肺結核で亡くなり、叔母も結核の影響で嫁ぐのを諦めたと聞いている。次男である宏春叔父が医学の道を志したのは長兄の病死に起因しているのだろう。敗戦後の沖縄から本土の大学で医学を学んだことや、産婦人科の開業費用の捻出によって本家は随分と資産を処分したとの噂である。
「カズ君、貴方たちの曾祖母のウシお婆さんのことで謝らなければいけないことがあるのよ。戦時中に亡くなったから貴方は知らないだろうけど」
「家に遺影がありますよ。戦前にハサマ一族の集合写真が残っていて、それからとトリミングした写真を飾っていますよ」
「ああそれね、戦前の南洋移民がはやったころの写真ね。一族の人間が南洋群島に出稼ぎに行くので集合写真を撮って皆に配ったのよ。一族の人間がバラバラに分かれていくのをお爺さんが心配したのよ」
「すごく気性の強そうな顔立ちの方に見えますが」
「私のお爺さんと同じくらいの歳で、シパマタ屋の7人兄弟の一番上の姐さんだったわ」
「シパマタ屋の恵一兄さんが昨年の衆議院議員選挙前に訪ねてきて、従妹の奈津美が国会議員に立候補するからよろしくと言っていましたね」
「彼女のお父さんはシパマタ屋の3男の息子で現在はコザに住んでいるわ」
「私の父と宏次叔父を残して一家が南洋群島のテニアン島に移民したのでウシお婆さんに中学まで育てられたと親父が言っていましたね。ウシお婆さんはテニアン島には行かずに沖縄で亡くなったらしいですね」
「そうなのよ。戦争が激しくなってウシお婆さんも私たちもシパマタ屋の後ろの森の防空壕に避難していたの。お婆さんはその頃マラリア性のひどい下痢を罹っていてその防空で亡くなったの。亡くなる前にお婆さんから書類らしきものが入った布袋を預かったの。それを家の仏壇の下の引き出しに収めていたのだけどね。米軍の空襲で家が焼けたので消失してしまったのですよ。戦争が激しくなっていたので中身を確認する間もなかったのですよ。今でも心残りなのです」
「お婆さんはとてもキチンとした人であった父は言っていました」
「そうね、お出かけの時は芭蕉布の着物をパリッと糊付けしていたわ。ウシお婆さんが通るとパリッ、パリッと布ずれの音がすると村の噂だったのよ」そう言ってほほ笑んだ。写真を思い出してさもありそうなことだと思った。
「お婆さんは何か本土の宗教の信徒であるらしく手紙のやり取りをしていたみたい。預かった書類に手紙も混ざっているようだったわ。戦争のせいではあるが貴方のお父さんの宏兄さん渡せなかったことがとても心残りなの」
「戦争は色々なことを消してしまうのですね」と返事した。私はふと母が話したことを思い出した。母が嫁いできて1年目の旧盆の頃のことである。
白装束の10名ほどの人々が訪ねてきたらしい。明らかに他府県の宗教団体らしき人々で、たくさんの倶物を備えて1時間ほども供養をして引き上げたといいう。その人たちの師と思しき人がここは仲村ウシさんの家ですか母に訪ねたそうだ。その日は母だけが在宅で何も分らぬまま様子を眺めていたらしい。夕方に畑から戻ってきた義母にそのことを話すと「お婆さんは変わった宗教を習っていたからね」だけ言ってその人々が置いていた倶物をキツイ眼差しで見つめたらしい。義母のウタさんは祖母のウシさんに劣らず気性の激しい人であったらしい。とりわけテニアンで夫を失い、幼子を抱えて戦火を逃げ回った気力は現代人には理解できないであろう。祖母一家の住むテニアン島から出撃したB52爆撃機が父の所属する海軍があった長崎県に原爆を投下したのも不思議な因果である。父のいた大村海軍基地に原爆が投下されずに長崎市内に投下されたので今の私がいるのだ。ただ、沖縄県平和記念公園の平和の礎に戦没者として記名された祖父は、行方が分からぬまま遺骨として帰郷することもなくテニアン島のジャングルで眠ったままだ。私は石畳を踏みしめながら千キロ以上も離れたテニアン島に一人で眠る祖父と6百年前に武士の勤め故に異郷で死んだ百按司の影を重ねていた。
僕らは日差しが天使の梯子となって降り注ぐ中を最後の訪問地本部町伊野波集落の並里家に向かった。僕らは伊野波公民館の前に車を停めて100m程の坂道を登り、満名殿地と呼ばれる家まで歩いた。最後の訪問地である。宏幸叔父さんは私に小声で言った。ハサマの大祖父はこの地はハサマ一門が拝むべき場所ではないと並里家の頭首から言われたそうだ。その場所は定かではないが伊野波集落の別の場所らしい。しかし宏春叔父はそのことを気にせずに本宅と離れの拝所を礼拝した。僕らもそれに倣った。これにて本日の御願は全て終了した。並里家は私の高校、大学の後輩で若くして事故で夭折した並里君の実家である。皆が休憩している間に本宅を訪ねた。線香を上げようと思って玄関の呼び鈴を押すも不在であった。彼とはタイのパタヤで開催された熱帯果樹の国際会議に同行した記憶があり、何度もゴルフを楽しんだ中であった。当時のオフィシャルハンディキャップ11の私が滅多に勝つことが出来なかった好青年であった。豪快な笑いと繊細な気配りを持つリーダー気質の男だった。本部町の町長を務めることが出来る器であり、地域の青年団期からもそれを期待されていた人物であったが、時の流れは彼を忘却の海へと一気に押し流してしまった。それでも彼が情熱を傾けて育成した熱帯果樹の栽培とその果実の加工品は一つの地場産業として一定の成果を上げ、今なお新しい事業展開を見せている。
僕らは満名殿地の展望休憩所で少し休んで今年の南部・北部の7年廻りの終了を宏春叔父から告げられて散会した。そして坂道を下って公民館の駐車場に向かった。南部廻りに比べて見知った場所であり、移動距離も短く前回のような疲労感は無かった。私は帰宅途中で渡具知漁港に近い儀間鮮魚店の前で車を停めた。義父と宏春叔父の旧制第三中学の同窓生の弟の店である。店主は商工会の集まりで親しくなった間柄で馴染みの店でもある。店主頼んで大きめのカツオ1本を刺身にして3分割にしてパックしてもらった。3,500円を払って車に戻った。車に乗り込むと宏幸叔父に「夕飯時の晩酌のつまみだ。今朝釣れたばかりの近海カツオだ。本部まで来てカツオを買わないで帰ることもないだろう」そう言って1パックを渡した。
「おう、ありがとう。カツオ漁の本場の渡具知漁港で水揚げされたカツオはうまいだろうな」と叔父は喜んだ。
「晩酌で飲み過ぎないようにね」と言うと叔父はバカ野郎とは返答せずにはにかんで頭を搔いた。クスクスと笑う兄に1パックを渡して車を発進した。
6年後には宏春叔父は93歳である。その時まで7年巡りの習慣が残っているだろうかとふと思った。今の時代の時の流れが6年後まで同じリズムで続く保証と理屈は何処にもないのだから。
「完」



























































